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2004.02.29

造悪論ノート

 造悪論について書く。吉本隆明が死ぬ前に、「しまった」など悔恨する前に、私は彼が残す課題をやはりこなしておこうと思う。率直に言ってボケ始めた吉本隆明には以前のような怖さはない。それを幸いに、90年代を超えた吉本シンパたちも、否定であれ、また回顧としての肯定であれ、みな吉本を過去に押しやろうとしている。私は吉本主義に従順たれとはまるで思わない。そんなものは吉本の生涯とともに終わるのがいい。だが、吉本が戦後なしえたものを過大評価する者も過小評価するものも、吉本が歴史に刻み、また歴史に残したものの、その客観性を見失い始めていると思う。その最たるものは造悪論だろう。麻原裁判に寄せて朝日新聞に寄稿した芹沢俊介の見解もずっとひ弱なヒューマニズム的な地点に後退してしまった。
 吉本が最後に残したのは造悪論だと言っていいと思う。そして、この造悪論を持って、戦後の吉本シンパを吉本自身がほとんど駆逐してしまった。吉本主義者たちの大半は、思想的に吉本によって殺戮されたに等しい状態になった。まさに、恐ろしい思想家だと思う。そして、その恐ろしさとは、実はボケたように書かれている親鸞のまさに最後の姿と同じだったのかもしれない。親鸞はもっと緩和に述べた。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 しかし、この信仰の極北で親鸞は、彼に従う人々を、ある意味でみな捨てたのではないか。「面々の御はからひなり」の言葉は恐るべき言葉なのではないか。念仏によって救いを得ようとしている者すら、ここで親鸞は捨てたのだ。なぜ、そう言いえるか。念仏とは「面々の御はからひなり」であってはならないからだ。
 こう言うことに私も畏れを覚えなくていけないのだろうが、先の親鸞の言葉は、「念仏を信じるも信じないのも各人の勝手だ」というのではないのだ。それはなんという誤解だろう。親鸞は、露悪的に言うなら、「信じると言うものなども自力の業ではないか、そんな信など私には関係のないことだ」ということだ。
 他力とは、「面々の御はからひなり」を越えたところに現れるのであって、信じるか否かを問うような安穏としたものではない。
 そして、まさに、そのような、自力の信ではない他力の極限の信のありかたが、造悪論と同型なのではないか。
 造悪論については、読者を選ばないブログで不要な誤解を招いてもしかたがないので詳しい解説はしない。また、歴史的に見るなら造悪論は親鸞の思想ではなく法然の思想であると言ってもいい。しかし、その意味を徹底的に明かにしたのは親鸞だ。
 親鸞は、造悪論の骨頂を理解しえない者には、「薬あればとて、毒をこのむべからず」とは説いただろう。そして歎異抄を読む限り唯円も親鸞の意図を理解しえなかったように思われる。

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひし…

 この問題は北魏の仏教史などに史実の反映も見られるようだが、それよりもこの問いかけこそ親鸞の生涯の命題でもあっただろう。これを禅の公案のごときに矮小して見ては間違えると思う(あるいは禅の公案すら矮小化していはならない。南禅は無辜の猫を殺したのである)。ここに造悪論が純化される。
 親鸞は「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」とする。宿善も悪業も真に受ける必要はない。重要なのは、私の考えは間違っているのかも知れないが、造悪は他力の業だ、ということだ。
 信仰を自力に寄せることを親鸞はナンセンスとした。そんなもの各々の勝手でよかろう、と。すると、信も増悪も、意思を越えた他力、つまり、その必然に現れるものとなる。
 吉本は、この他力=必然を、不可避というふうにその思想のなかで深化させた。思想は、それ自体の意志性としての選択性を無化するような不可避の位置にあるときにしか、本当の意味を持たないとした。これは、親鸞の信とまったく同じ構造である。
 そして、この不可避性として出現する増悪を、親鸞も吉本も肯定してみせた。繰り返すが、造悪という言葉のもつ意志性の響きが、親鸞や吉本の理解を間違わせているのではないか。
 不可避として現れる悪を肯定するという関わりのなかでしか、信も思想もない。いや、ここで、信と思想は、自己の選択性としては提示されていない。つまり、そういう思想が、自己から離れて選択的に取捨しうるといったものではない。
 八つ裂きにして百編殺しても憎み足りないような悪人どもを阿弥陀は善人より先に救う。なぜか。親鸞は、救済とはそういうものだとした。吉本もそこに添っていった。
 私は、正直なところ、そのような救済の意義が得心できるわけでもない。だが、造悪論の基本デッサンから伝わる意義については、なお思想の課題としてあると思う。

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コメント

こんばんは。
やはり・・すこし確認というか、質問しておきたいことがあるのでコメントさせていただきます

これは・・もしかすると、浅薄な解釈で、このことを矮小化してとらえることになるのかもしれませんが(だからこそ確認しておきたいのですが・・)

このときの造悪というかそういうものは・・

「限界点を越えた人間のエネルギー」というものへの評価というようなことなのでしょうか?

つまり・・なんというか

ぼく自身、すこし経験があるのですが、「勝つとか負ける」とか「正義とか悪」とか、そういういろいろなしがらみを越えたとき・・限界ギリギリになって、自分を捨てたときにこそ真価というか・・最大限の力を発揮できるような気がして・・。

そのときはなにか、体とか考えのようなものが勝手に動くような気がするのですが・・。

で、
そのときの方向性というものははっきり定まっていないけど、でも、エネルギーの大きさだけは最大限に発揮できる、という(少なくともなにも生み出さないよりはマシという感じの)

・・そういうことなのでしょうか?

投稿: m_um_u | 2004.02.29 21:03

m_um_uさん、ども。あまり詳しく説明できないし、しないほうがいいのだけど、m_um_uさんの推測される面はあるでしょう。エネルギーというより意識の変容でしょう。人を越えるその恐怖に打ち勝つというか。杜子春の話を多くの人は微笑ましい物語と読むのですが、あれは、そこで人を捨てることが仙人への道であることを示した寓話ですね。芥川の意図はちょっと計りかねるのですが。

投稿: finalvent | 2004.02.29 21:53

いくつか指摘を。

>しかし、この信仰の極北で親鸞は、彼に従う人々を、ある意味でみな捨てたのではないか。

捨てるも何も、関東の御同行は親鸞の弟子ではありませんよ。他力の教えというのは阿弥陀如来と人との個人関係でしかありません。信じる信じないはその人次第。

投稿: F.Nakajima | 2004.02.29 22:10

>重要なのは、私の考えは間違っているのかも知れないが、造悪は他力の業だ、ということだ。

>吉本は、この他力=必然を、不可避というふうにその思想のなかで深化させた。思想は、それ自体の意志性としての選択性を無化するような不可避の位置にあるときにしか、本当の意味を持たないとした。

申し訳ありませんが、この論は仏法として成り立ちません。
釈迦の昔から宿業については問題になっていました。この吉本氏の「意思の自発による行動を認めない」論は仏法では宿業とはいわず「宿命」だと考え、「行為否定論」と呼び、外道の扱いとなっています。

親鸞・法然は念仏に帰依する前は比叡山に登られ、一応の仏典の基本教義についての教えは受けられたはずです。この理論は「阿毘達磨倶舎論」すなわち倶舎論にでてくる論理であり、念仏・天台などの教義以前の仏法における基本理念です。
あまり世間にはわかられる方はおられませんが、他力といえども仏法に変わりなく、その基本理念から離れた論は間違いだとされます。私は思うのですが吉本氏は仏法の基本理論を学ばなかったために仏法と浄土門との関係を説明できていません。

投稿: F.Nakajima | 2004.02.29 22:43

極東さんへ

お返事ありがとうございます
たしかに意識の方向・・というか、その心がけのような気がします。・・肝に銘じておきます

ところで、すこしでしゃばるようですが・・
(申し訳ない m(_ _)m)

・・この分野に関する理論うんぬんはよく分かりませんが・・・

けっきょくこういうものはホントに威力があってなんぼだとぼくは考えますがね

失礼ですが、Nakayamaさんはすこしでもそういう体験をされたことがあるのですか?

学説を固めるためにツッコミされてるのですか?

投稿: m_um_u | 2004.03.01 06:26

F.Nakajimaさん、こんにちは。今回のF.Nakajimaさんのコメントは大筋で正しいと受け止めています。つまり、「この論は仏法として成り立ちません。」という点です。私も、吉本の親鸞理解像は仏教ではないと考えています。親鸞自身はどうであったかというと、私は、仏法の内側に最後の一線で踏みとどまったのだと考えています。その意味で、吉本、そして私の親鸞理解は、親鸞像の描写としては間違っていると了解しています。

ただ、少しコメントします。

>捨てるも何も、関東の御同行は親鸞の弟子ではありませんよ。
>他力の教えというのは阿弥陀如来と人との個人関係でしかあり
>ません。信じる信じないはその人次第。

まず、弟子でないのはそのとおりです。弟子一人持たず候ですね。また、阿弥陀との関係が個人か、ですが、そうとも言えるのですが、「倶会一処」の意味も噛みしめてください。F.Nakajimaさんは親鸞の近代解釈にやや傾倒しすぎるかと思われます。「信じる信じないはその人次第」は、ここが親鸞理解の分かれるところです。私は、信という能動のあり方を無化したところに親鸞の骨頂があると考えます。阿弥陀は信じなくてもいいのです。ただ、人生のある契機で自力をすべてはぎ取られるとき、自然と六字がうめきのように口をつくかです。その経験のないものに阿弥陀の意味はないのではないかすら思われます。

投稿: finalvent | 2004.03.01 09:16

まず非礼を顧みず、ぶしつけな物言いをしたことについて、finalventさまおよび皆様にお詫び申し上げます。

さて、恥の上塗りになるかもしれませんが、いくつかさらにお答えしなければならないようです。ご容赦を。

>けっきょくこういうものはホントに威力があってなんぼだとぼくは考えますがね
実はここは非常に鋭いツッコミです。これの答えは非常に長くなるのでこれについては図書館なり書店なりで歎異抄の第2条の解説を読まれることを望みます。

>失礼ですが、nakajimaさんはそういう体験をされたことがあるのですか?
私が信心決定しているかと問われたら「否」と答えざるを得ません。では、私がなぜ信じているかというと、何人もの昔なら「妙好人」と呼ばれたであろう人々と実際に接してきたからです。あの人々の人生を見る限り、私は「あのような生き方をしてみたいものだ」と思います。

>学説を固めるためにツッコミされてるのですか?
いや、実を言うと。。。。私は吉本氏が親鸞についての著書で、その名を広めたことについてあまりよく思っていないのです。「最後の親鸞」は良いとは思うのですが、オウム事件以後に出した「親鸞復興」は非難をかわそうとして却って世の誤解をまねくものだと私は思っています。私はこの本の時点で吉本氏が親鸞を語る資格をなくしたとさえ思っています。


投稿: F.Nakajima | 2004.03.01 21:41

>私は、信という能動のあり方を無化したところに親鸞の骨頂があると考えます。阿弥陀は信じなくてもいいのです。

これはfinalventさんの解釈のほうに一理あるのです。ですがここは敢えて歎異抄第2条全体の(善鸞義絶などの)解釈からこう思うと書いたのです。その後の条文でこの他力信心についての考え方が出てきます。

最後に「倶会一処」ですか。。。。
実は我が家の墓石には「中島家代々之墓」とは刻んでおりません。私の曽祖父が敢えて「倶会一処」と刻んだからです。
いつも彼岸やお盆に墓地で我が家の墓の前を通る墓参の人が物珍しそうにその墓石を見るのを思い出しました。

投稿: F.Nakajima | 2004.03.01 21:55

F.Nakajimaさん、コメントありがとございます。Nakajima さんの示唆で自分の考えが粗雑だったと勝手ですが気づくのは、次の相の違いです。

1 造悪論は比喩であって親鸞の思想にはない。
2 親鸞に造悪論はあるが十分に説かれてない。
3 吉本の親鸞像による造悪論

真宗学的には1ではないかと思います。私も、そう考えていました。しかし、今は2の立場です。しかし、3とは区別していますし、これは明かに仏教の立場ではないでしょう。少なくとも親鸞の文脈からは離れると思います。

3の吉本思想についてですが、実は彼自身十分に展開していません。アウトラインでけ引けば、後年のアフリカ的なるものと三木茂夫の生命論、ライヒ学などから麻原の神秘体験を読み取り、そこに増悪としての生命の乗り越えを見ているのだろうと思います。この思想は、思想というものが本来危険であることを示すかのように、危険性があります。私もそこまで立ち入って公開の場で書くだけのキモは座ってません。

余談ですが、妙好人たるかたとの出会いは幸運なものだったとうらやましく思います。彼らの、そしてNakajimaさんの曾祖父の、「倶会一処」は、小慈小悲もなき(我ら)凡夫にとって、歓喜の期待でもあったことでしょうね。この共同性を生み出す真宗の力、多分に蓮如によるのですが、近代は忘れがちです。

投稿: finalvent | 2004.03.02 09:25

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