麻原裁判に思う
昨日麻原裁判が終わった。予想通りの死刑だった。今朝の新聞各紙は当然これを扱うのだが、社説一本でこれに充てたのは大手では朝日新聞と読売新聞だけであり、他紙は短く扱うにとどめた。判決が予想どおりなので、社説の下書きはすでにできていたと見ていい。が、長短あるにせよ、どれも読むべきほどの内容はなかったと私は思った。しいて言えば、朝日があの時代を総括しなにかを学ぼうという視点を出したのは評価してよいと思う。また、新聞ではないが、日本版ニューズウィークのリチャード・ガードナー上智大学教授「オウム判決で裁かれる日本社会の『罪』」の寄稿も、河野義行と森達也に視点を当てていたが、率直なところ、そういう気取りがいかにも外人臭くてたまらないと思った。
オウム事件に知はどのように取り組むべきなのか。この問題について言えば、判決が出たといってなにかが変わるわけではない。私に残されたこの問題の意味については、極東ブログ「麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想」(参照)に書いた以上はない。吉本隆明が自分に残す遺産のようなものだ。
どの社説も触れていなかったが、この裁判で私がどうしても気になることがあった。すでに外堀から埋めていった(弟子たちをぞろぞろと死刑にした)ことで、麻原を世論的には追いつめていったのだが、法学的にこの麻原裁判は正しいのだろうか?ということだ。
吉本はこの件について、たしか、死刑になんかできるわけないよと言っていたと思う。私もこの裁判(検察)は、法学的に間違っているのではないかと思っていた。やや、やけっぱちな言い方をすると、法学関係者はこの問題にはあえて沈黙するのではないだろうか。嫌なやつらだよな、法学関係っていう感じもする。
しかし、この問題をとりあえず即刻日垣隆は解いてみせた。これは早晩、なにかのメディアに掲載されるのではないか。いずれにせよ、日垣はたいしたものだと思う。私の理解が違うかもしれないが、彼の説明は興味深かった。少し触れたい。
と、その前に、私の視点を明確にしておきたい。私は、この裁判の問題は、かつての下山事件などと同様に、キーになるのは証言の信憑性だと考えている。オウム事件でも弟子の証言がポイントになるということだ。
日垣の説明に簡単に立ち入る。彼の説明によれば、弟子の証言が問題ではないということが、すでに裁判の前提に織り込まれていた。日垣は、この裁判は「共謀共同正犯を認定」する裁判だとまとめている。「刑法60条 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」だ。これに、大審院1936年5月28日判決や最高裁1948年11月30日判決が加わる。このあたりの説明自体は、日垣と限らず、法学者のイロハなのだろう。
裁判上の争点自体は、麻原は共犯かということだ。ここで、当然だよ、とか楽しいツッコミはできない。というのも起訴は「首謀者」としてであって、共犯者ではない。
日垣は「共謀共同正犯」という考えが極めて日本的であると考察している。それはそれでとても興味深い。彼は、日本は、忖度(そんたく)社会だから、ヤクザなので親分の思いを慮って犯行に及ぶ、と説明する。
確かに、目上の人の意思を推量することで子分の意義が決まるから日垣の視点は重要でもあるし、率直に言えば、世間常識でもある。会社で出世したけりゃ、上司を忖度すればいい。それができないのは、上司が怖くないとか、上司は馬鹿だなと思っているからだ。
日垣はこれに次いで、真相解明がだから放棄されたのだとしている。それも正しいだろう。
さてと、しかし、そう言われても私の疑問は取り残される。多分、少なからぬ人にとってそうなのではないか。
生活者の実感として、この事件は過剰な忖度によるというのは納得できる。誰か言及しているか知らないが、その意味で、オウム事件は2.26事件とまるっきり同じなのだ。冗談を言うようだが、この事件を止めることができる可能性を持っていたのは小天皇たる麻原自身だ。それをしなかったことを麻原自身がどう捕らえていたかが、オウム事件を理解する上で重要になる。
まずかなりはっきり言えることだが、麻原は、弟子の暴走を是認していた。しかし、私は、彼は、裁判でいう忖度を是認していたのではなく、麻原は麻原の現実をただ見ていただけなのではないかと思う。彼は、常人には理解しがたいのだが、現実とは彼の意思だと思っていたのだろう。
彼は、こう考えていたのではないか、「国政選挙に敗れた。どうも我々オウム真理教はサリンで虐殺されることになるだろう。そうだ、サリンのような虐殺は我々だけではなく世界に及ぶ。その死滅した世界こそ肯定すべきものだ」と。そして、弟子達は、その麻原の現実世界=幻想世界、を、実際の現実世界に移し替えることを宗教的な課題にしたのだろう。
まず、誤解して欲しくないのだが、麻原に罪がないと私は考えているわけではない。
だが、そう考えると、法的に麻原を首謀者とするのは無理があると思うし、なにより、証言の信憑性は解明を必要としているのではないか。
繰り返す、私の上のような「読み」なら、「指示」は要らない。そして、実際、指示は証言ということでは、無かったのでないか。
私たちは、社会や自然に向き合って、意思を持つ。意思とは、この社会と自然を意思に接近させるためのもであり、であるから、前提として、自然・社会は意思と本質的に対立している。そして、通常我々の思惟というものは、この対立を克服する道具となる。
だが、宗教に顕著なのだが、人間はそうではない思考回路を取りうる。つまり、「私の意思が自然だ」という宗教的な意識だ。これは、どうやら、ある意識の状態で人間のなかに発生するようだ。それが人間の歴史・社会において、個人と自然・社会が向き合う二項のモデルを越えさせる契機となっているように見える。
自然と同一化した意識にとってまず顕著なのは、人を殺せるようになることだ。なぜか。自然は、育むと同時に殺すからだ。汎神論の神学考察で、どうしても口ごもりになるのはこの点だ。自然が神であるなら、なぜ、彼は、育み殺すのか。しかし、汎神論的な枠組みでは、その殺戮は前提的に肯定されている。そして、この関連から見れば、オウム真理教は奇矯な宗教ではない。
少し奇妙な理屈になってきたし。この問題は、たぶん、ブログの読者のわずかにしか関心がないだろうからこの程度で切り上げる。率直なところ、私は無意味に自分が誤解されてもやだなという思いもある。
麻原裁判の問題に戻す。真相は解明されなかった。日本社会は、真相を欲してはいなかったとすら言える。ここで急に話の位相を変える。「と」がかかって聞こえるかもしれない。が、私はオウム事件の真相の大きな一部は村井秀夫暗殺にあるのだろうと考えている。もう少し言う。村井秀夫のトンマな妄想は残酷だがお笑いを誘う。この間抜けな人間に組織化した殺戮のプロジェクトがこなせるとは私は思わない。およそ、ビジネスでプロジェクトを動かした人間ならその背後に、それなりの玉(タマ)が必要なことを知っているものだ。
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コメント
・まあ,何ら「指示」が存在しなくても共謀共同正犯を認めるのが最近の判例ですから(最一判平成15.5.1),証言の信用性を否定しても判決は死刑になりそうですな。
・確かに弟子たちの裁判も含め,ツッコミどころ満載なんですが,この程度のことは麻原事件に限らずよくあることだったりもするわけです。
投稿: (annonymous) | 2004.02.28 10:27
慣例で、(annonymous) としました。確かに「共謀共同正犯を認めるのが最近の判例」というようですね。いいか悪いかという話でもないのでしょう。変な感じはするなとは思います。裁判員とかトーシロが入っていって大丈夫か? いや、案外、そういう感覚で裁判が変わっているのかも。そういえば、新聞って安田弁護士問題を扱わないような気がするな。違うかな。
投稿: finalvent | 2004.02.28 10:55
日本社会が真相を欲しなかったことに、なんというか恐怖します。というか、現実感が伴いません。あのとき開いた地獄の釜は何だったのか。それが「北」だったのだとしたら、気がつかないふりのまま事態は収拾されて行くのか。わかりません。
投稿: a watcher | 2004.03.01 08:37
新聞各紙・テレビ局はオウムという対象にしか目を向けていなかったようだが、私は村井秀夫が”在日朝鮮人”の右翼構成員によって殺されたことや下記リンクのような北朝鮮工作員疑惑について追求しないことにはオウム事件全般の解明にはつながらないのではないだろうかと考えている。http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=1946
ここのブログは他のブログとは一線を画すレベルの切り口を持っているので、そういう方面にも触れてほしかった。
投稿: (anonnymous) | 2004.03.01 08:53
慣例でanonnymousとしました。そうです、ブログの記事ではあえて触れませんでした。前回は神奈川県警についても実名で触れたのですが、今回はヒヨっています。a watcherさんが読み取られているように、しかしその示唆の痕跡はとどめました。このあたり、読み取っていただけたらと思います。
この問題につっこむだけのキモがまだ座ってないというのと、ある程度このブログの人気から誤解の指数が高くなっていることも多少配慮しました。
なにより、資料が足りません。今回英国から出た人体実験のデータと照合できそうですが、そのあたりも、かなり雑音だの礫を覚悟しないと言えそうにないです。しかし、思えば、拉致についても数年前までそうした状況でしたね。
投稿: finelvent | 2004.03.01 09:28
結局利用された。
いろいろ知っている人たちに利用された。
大江戸線の脱線と同じく、なかったことにされた。
さよなら、ホリエモン。
さよなら、しょうこう。
さよなら、finalvent。
法律は使いたいときだけ使うもの。
全部分かるのは小泉の後。
投稿: | 2006.02.11 01:00