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2004.02.21

時代で変わるイエス・キリスト

 今週のニューズウィーク日本語版(2.25)にメル・ギブソン(Mel Gibson)監督映画「パッション(The Passion)」(参照)の評を兼ねた「誰がキリストを殺したのか(Who killed Jesus?)」(参照)という記事が掲載されていた。一読して、記事はそれほど悪くはないのだが、現代とはこういう時代なのかと落胆させるものだった。いくらニューズウィークだからといっても、ここまでユダヤ人ロビーに配慮しなくてはいけない時代なのか、と。昨年あたりから、「メリー・クリスマス(Merry Christmas!)」ではなく「ハッピー・ホリデーズ(Happy Holidays!)」が増えたとも聞く。10年以上も前だが、私はDelphiという米国のパソコン通信システムを使っていたのだが、ある日オープニング・メッセージに"Happy Hanukkah!"と出てきて面食らったことがある。が今では不思議でもなんでもない。なんだかな、という感じだ。フィリップ・ロス(Philip Roth)のように毒づきたい気も少しするが、それができるのはロスだけだろう、"Bring back Monica Lewinsky"。
 ギブソンの映画は日本では受けないだろう。タイトル「パッション」という訳出も笑わせる。そういえば、昔「ミッション」というのもあった。ミッションは宣教、パッションは受難である。マタイ受難曲は"Mathew's passion"である。パッションフルーツのパッションも受難に由来する。この花を見たスペイン宣教師がそこにキリスト受難のシンボルを感じたのだそうだ。そうか?みたいな話だ。余談だが、パッション・フルーツは沖縄で人家でもよく栽培されていたので、あの奇っ怪な形状の花をよく見た。
 この映画はキリスト磔刑までの半日を描いているそうだ。バッハなどの受難曲を意識したものだろうと思うが、そうした示唆はニューズウィークの記事にはない。カトリック的な視点から、聖書に含まれる四福音書を満遍なくつなぎ合わせたらしい。それだけで、史的イエスに関心を持つ人間には、まで見る価値がないことがわかる。だが、記事の筆者ニューズウィーク副編集長ジョン・ミーチャム(Jon Meacham)はなにかと史的イエスと映画の対比を論じてみせる。共観福音書、原マタイ、Q資料といった言及もないのにだ。もっとも、そんな言及をしても空しいかもしれない。すでに新約学的には史的イエスというのは、もう終わった話題でもある。史的イエスというものは、再構成できない。Q.E.D.
 それでも、ミーチャムは、少しは勉強しているのか入れ知恵なのか、ヨセフスなどもひいてみせる。


聖書以外では最も信頼度の高いイエスの記録を残した歴史家のヨセフスとタキトゥスは、イエスはピラトに処刑された断定している。カヤパより地位が上のローマ総督は、宗教儀式の日時を決める権利さえ持っていた。
(The two earliest and most reliable extra-Biblical references to Jesus - those of the historians Josephus and Tacitus - say Jesus was executed by Pilate. The Roman prefect was Caiaphas' political superior and even controlled when the Jewish priests could wear their vestments and thus conduct Jewish rites in the Temple. )

 そうだ。歴史的には、イエスはピラトに処刑された見るべきだし、なにより、磔刑はそれがローマによることを意味している。史的イエスはおそらくローマに対する政治犯であったとみるのが妥当だろう。
 ギブソンは描いてなさそうなのだが、イエスを裏切ったのはユダだけではない。鶏が鳴く前に三度否認するという伝承は、原初イエス教団自体の内部からの解体を意味しているとみていい。だから、ミーチャムの次の言及は苦笑を誘う。

イエスが死刑に処すべき重大な脅威だったのなら、周りに支持者の群れがいないのはおかしい。数人の弟子や母マリア、マグダラのマリアだけなのは変だ。
(it seems unlikely that a movement which threatened the whole capital would so quickly and so completely dwindle to a few disciples, sympathetic onlookers, Mary and Mary Magdalene.)

 イエス自身が裏切られたのだ。イエスはきちんとこの世から見放された。そして磔刑の叫びからは、きちんと神からも見放されていることがわかる。エリエリ・レマサバクタニ。イエスが神から見なされている意義を明確に指摘したのは北森嘉蔵牧師だったな、と懐かしく思い出す。
cover
最後の誘惑
 顧みると、私はイエス関連の映画を好んで見てきたようにも思う。一番よく出来ていたのは「モントリオールのイエス(Jesus of Montreal)」だ。日本で見た人は少ないのではないか。これはメタフィクションなのだが聖書の引用が多数織り込まれている。聖書を読み込んでいないとわかりづらい点が多い。ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」にもそういう部分がある。ニコス・カザンザキス(Nikos Kazantzakis)原作映画「最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)」も冗長だったが、面白いには面白かった。ゾルバ的な世界(「その男ゾルバ」)と対応しているのだろう。この「誘惑」という概念も聖書を読みこなしていないと理解しづらい面があるに違いない。カラマーゾフの兄弟にある大審問官とも関連する。この世を救わんとすることが誘惑なのだ。また、文学的な深みはないが、「ジーザズクライスト・スーパースター」の映画版は映画版ならではの面白さがあった。なにより歌がすてきだ(参照)。と、よだれのように書いてもしかたないな。それでも昔のほうが、イエス物はクオリティが高いと思う。
 「パッション」は、エバンジェリックだのカトリックだのの聴衆を対象としたこの映画の仕立てなので、いろいろ評してみても空しい。とはいえ、ミーチャムの紹介で、一番変な印象をうけたのは、ここだ。

裁判のクライマックスは、カヤパがイエスに「お前は救世主か?」と聞く瞬間だ。イエスが「そうだ」と答え、自分が「人の子」であることをほのめかすと、カヤパはイエスを冒涜者だと宣言する。
(The climax comes when Caiaphas asks Jesus: "Are you the Messiah?" and Jesus says, "I am..." and alludes to himself as "the Son of Man." There is a gasp; the high priest rends his garments and declares Jesus a blasphemer.)

 おやまぁ。イエスが自身を救世主=キリストと宣言したことになってしまったか(もっとも、英文のほうはもう少し含みがある)。これで「メシアの秘密」の問題もおちゃらけだな。シュバイツアー「イエスの生涯 メシアと受難の秘密」などもナンセンスになった。現代とはそんな時代なのだ。
 ミーチャムの記事の結末はブラックユーモアかもしれない。

イエスを救世主と信じる者も、道徳的哲学を残した紀元1世紀の歴史的人物とみる人も、この点については同意するはずだ。ナザレのイエスは、暴力を前にして平和を選んだ。憎しみに愛で、罪には許しで応えた全人類の手本だった。
(Amid the clash over Gibson's film and the debates about the nature of God, whether you believe Jesus to be the savior of mankind or to have been an interesting first-century figure who left behind an inspiring moral philosophy, perhaps we can at least agree on this image of Jesus of Nazareth: confronted by violence, he chose peace; by hate, love; by sin, forgiveness?a powerful example for us all, whoever our gods may be.)

 イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。ちゃんと聖書を読めよと思う。史的イエスは再構成できないが、福音書はイエスをそう描いているのだ。イエスを現代の安っぽい平和主義やヒューマニズムで評価しようとするのは小賢しいことだ。マザー・テレサがなぜカルカッタに路上に死につつある人を助けたか。ヒューマニズムなどこれっぽっちもない。彼女はイエスの奴隷だったからだ。イエスがそうしろと命じたからだ。それだけだ。
 イエスは自身への罪に許しで応えたのではない、「あなたが許しなさい」と伝えて回ったのだ。「そうすれば許されるから、ちょっといい話じゃないかね」と。「おまえさんの罪を許す相当な対価がなくてもいいんだぜ、棒引きだぜ、いい話じゃないか」というのが、福音、Good New!の意味だ。イエスはアラブ商人のようなユーモアにたけた人として聖書に描かれている。イエスの言葉や行いにはたっぷりジョークが詰められている。
 残虐好みの西洋人には、イエスが理解しづらいのだろう。そうそう「パッション」は、予告宣伝を見てもR指定がわかる。子供に見せる映画じゃない。

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コメント

>マザー・テレサがなぜカルカッタに路上に死につつある人を助けたか。ヒューマニズムなどこれっぽっちもない。彼女はイエスの奴隷だったからだ。イエスがそうしろと命じたからだ。それだけだ。

ある人はマザーテレサのことを「神の奴隷」だといい、又ある人はこのことを「神のお導き」だという。
ここであなたが一般人の認識を挑発したいので、このような記述になったのだろうと想像する。但しそれならわかりやすいように詳しい記述を載せないとただの知識バカと誤解されかねない。

投稿: F.Nakajima | 2004.02.22 10:25

F.Nakajimaさん、はじめまして。ご忠告、ありがとうございます。なるほどなと思う面はあります。

反論ではありませんが、マザーテレサは徹頭徹尾、神の奴隷です。彼女にそう尋ねても、そう答えるでしょう。「神のお導きですか」と訊ねれば、「神のお恵み」によると答えるでしょう。

「導き」は指導でしょうか。彼女は、それを「命令」だと答えるでしょう。

反論に受け取らないでください。私は認識を挑発したくそういうのではないのです。それは、端的にキリスト教がそういうものだからです。

投稿: finalvent | 2004.02.22 13:48

反論ではなく、用語の整理を行いたいと思います。

確かエリザベス女王だったかがマザーに対し「私にはたとえ100万ポンドもらったとしてもこのようなことは出来ない」と言ったのに対しマザーも「私にもできません」と答えたことを思い出します。なぜ、彼女はこのような常人になし難いことをなしたのか?
私はこれは彼女の「霊的導き」によるものだと考えたいのです。(詳しくは岩波文庫の「霊操」を読んでいただきたい)
マザーはこれにより「神の意思」を確認し、それに沿うために困難な事業に挑んだのだと思います。

もう一度いいますが、彼女の行為は彼女に対する「神の恵み」ではありません。彼女の行っていることは「神の意思」がマザーテレサに行うことを「導き」によって「依頼」されたミッションだというのが一番表現が近いと思います。
もちろん異教徒にすれば(特に日本の微温的な仏教思想からみれば)あんな行為に信徒を駆りたてるのは「信徒の奴隷化」と写ってもしょうがないとは思いますがね。

P.S.私はキリスト教信徒ではありません。真宗の門徒です。

投稿: F.Nakajima | 2004.02.22 22:03

F.Nakajimaさん、こんにちは。

私は、自分の意見が正しいと主張するほどの確信なり情熱はないのですが、F.Nakajimaさんのご意見はご意見として理解します。それでも、きつくとられるのを懸念しますが、違うと考えています。ただ、少し微妙な問題はあるかと思います。例えば、霊は導くのです。しかし、

>マザーはこれにより「神の意思」を確認し、それに沿うために困難
>な事業に挑んだのだと思います。

については、違うと考えます。また、粗雑な言葉を使うとお怒りになるかた多いかもしれませんが、マザーの存在など神にとっては土器の存在です。それはマザーすら認めるでしょう。マザーがなにかなしえたように世人が見えるなら、それは神がなしたものなのです。マザーの主体などないのです。人間の主体でなしえなものが、神の栄光として現れるのです。人は、土塊・土器にすぎません。神の意志など確認できない存在です。神は人の意志など顧みることはないのです。

神は人に依頼しません。神はただ、命じるのです。それは、人にとっては、つらいことすらあるのです。モーセ、エレミヤ、イザヤ、愛すべきヨナ、苦難を得たヨブ、イエス、パウロ、ペテロみな、神が飲ませる杯を避けえるなら避けたいとすら人の心で願ったものでした。しかし、神は命じるのです。神はそうして人の傲慢な思いを打ち砕き、人を救済する(と恵みを与える)のです。

また、ミッションとは宣教です。宣教とは、ブログ本文ではやや福音に偏ったのですが、基本は、世の終わりを告げて回ることです(そして人を許すことです。教団成立後にはイエスの復活です)。これは福音書があまりにも端的に示すので、様々な誤解と異端的な活動が歴史に現れました。その意味で、このことこそ、ていねいに書く必要があります。この世は終わるのですが、それがいつかを人は知ることができない。「いつ」と問うのは危険です。

私はここで、ちょっとしたPSを書きたい気がします。しかし、ブログの読者の数名はそれを察しておられるでしょう。しかし、書けば誤解されるだけかなと思います。少しはそういう配慮をしているのですよ、この「知識バカ」の私は。うまくいかないことは多々あり、F.Nakajimaさんのようなご叱咤を受けなくてはなりません。皮肉ではありません。感謝しています。

投稿: finalvent | 2004.02.23 07:44

「時代で変わるイエス・キリスト」を読んで

まず、「ギブソンは描いてなさそうなのだが、イエスを裏切ったのはユダだけではない。」次に下記のミーチャムの言及を引用し

It seems unlikely that a movement which threatened the whole capital would so quickly and so completely dwindle to a few disciples, sympathetic onlookers, Mary and Mary Magdalene.

「イエス自身が裏切られたのだ。イエスはきちんとこの世から見なされた。そして磔刑の叫びからは、きちんと神からも見放されていることがわかる。エリエリ・レマサバクタニ。」

と結論づけているがミーチャムはそんなことは言っていないし誘導的に結論づけてもいない。ミーチャムはどうしてギブソンがこのようなシーンを描いているのか疑問視しているだけである。それはミーチャムの下記の記述からもあきらかである。
 
The best historical reconstruction of what really happened is that Jesus had a fairly large or at least vocal following at a time of anxiety in the capital, and the Jewish authorities wanted to get rid of him before overexcited pilgrims rallied around him, drawing down Pilate's wrath. "It is expedient for you," Caiaphas says to his fellow priests in John, "that one man should die for the people" so that "the whole nation should not perish."

よく読めばミーチャムはギブソンがGospel Storyを描いており"the Jews", をRomansよりも悪く描いているのは誤解をまねくといっている。

...So why was the Gospel story—the story Gibson has drawn on—told in a way that makes "the Jews" look worse than the Romans?

...how Gibson chose to portray the Jewish people and the Romans. To take the film's account of the Passion literally will give most audiences a misleading picture of what probably happened in those epochal hours so long ago. The Jewish priests and their followers are the villains, demanding the death of Jesus again and again; Pilate is a malleable governor forced into handing down the death sentence.

福音書のどこに貴方が言うようなイエスが描かれているのか? このような偏見的な意見は避けるべきだと思う。

「イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。ちゃんと聖書を読めよと思う。史的イエスは再構成できないが、福音書はイエスをそう描いているのだ。」

The"Jews", をRomansよりも悪く描いたギブソンの映画ではあってもローマ法王とビリー グラムは感嘆のコメントをしている。

"It is as it was," the aged Pope John Paul II is said to have remarked after seeing the film, and Billy Graham was so moved by a screening that he wept.

投稿: Mits Fukui | 2004.03.13 13:14

Mits Fukuiさん、たぶん、初めまして、でしょうか。

率直なところ、コメントの意図が理解できませんでした。私のブログを誤読されているようにも思われます。

また、

>福音書のどこに貴方が言うようなイエスが描かれている
>のか? このような偏見的な意見は避けるべきだと思う。

は、「イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。」と書いた私に向けてのものでしょうか。

であれば、福音書をよくお読み下さい。福音書に向けて、「偏見的な意見」と言われる、例えば、イスラム教からとか、であれば、それは宗教の問題なので、議論で是非を決することではありません。


投稿: finalvent | 2004.03.13 13:44

貴方はJon Meachamの記事の一部を切り取って、
勝手な解釈をつけています。Jon Meachamが指摘しているポイントを正しく理解しているか疑問です。

「イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。ちゃんと聖書を読めよと思う。史的イエスは再構成できないが、福音書はイエスをそう描いているのだ。」

ここで貴方が言っている福音書はイエスをどう描いているのかお聞きしたい。

投稿: Mits Fukui | 2004.03.23 10:40

Mits Fukuiさん、こんにちは。Mits Fukuiさんのご評価で「Jon Meachamが指摘しているポイントを正しく理解しているか疑問です」ということは了解しました。しかし、私からはMits Fukuiさんにこれ以上、説明すべきことはありません。

Mits Fukuiさんはブログをお持ちですか。でしたら、ここにコメントを書かれるより、自説として、私の意見への批判をそのブログに公開し、ここにトラックバックを下さい。今、各所で無料でもブログを持つことができる時代です。ご検討ください。

投稿: finalvent | 2004.03.23 11:03

論争は別にして

あれだけ超能力を駆使してきた男がその日だけは、殺されにやってきてみせた。
殺された理由はともかく、神があるという立場でパッションを見る人と神がないという立場で見る人では、全く見方が異なりますね。

当時の人は神があるなら、その神は助命に来るはずであると予想したはず。来なかったことで、イエスの信者たちに大きな絶望と衝撃が走り、その感銘が2000年持ってくれたのだと思います。

投稿: 内藤湖南 | 2005.02.28 22:55

 最近『誰も知らない男』を読みましたが、

>イエスはアラブ商人のようなユーモアにたけた人として聖書に描かれている。イエスの言葉や行いにはたっぷりジョークが詰められている。

 記憶していたほどわかりやすくはこうした例が挙げられていませんでした。それでもイエスのユーモアに注目しているというだけで貴重な本だと思います。

>残虐好みの西洋人には、イエスが理解しづらいのだろう。
 とありますが、この視点、たしかに一般にはほとんど知られていませんよね。これは日本人にも理解しづらいのかもしれません。

  「右の頬を打たれたら、左の頬も」とか、これは半ば冗談がこめられていると前から思っています。おそらく聞いた人たちはその場で楽しく笑ったでしょう。

 そして笑いながら、残りの半分、冗談でない部分もしみじみと考えさせられたのだろうと思います。

投稿: 左近 | 2005.05.28 00:44

finalventさん、こんにちは、

たまたま先日、この映画を見る機会がありました。その鞭打ちから始まる場面には少々つらいものを感じました。子どもがまだおきている時間だったのですが、子どもにはとても見せられませんでした。

全体に、私が福音書を読んで感じた物語そのものであったな、と想いました。学生の頃に訪れたエルサレムの印象とも重なる部分が多々ありました。ただ、カヤパとのやりとりに私も違和感がありました。

あの、また、重箱の隅をつつかせていただきます。

>イエスが神から見なされている意義

これは、「神から見放されている」でしょうか?あるいは「神と見なされている」でしょうか?

投稿: ひでき | 2005.11.12 15:58

ひできさん、ご指摘ありがとうございます。「見放された」の誤記でした。修正しました。

投稿: finalvent | 2005.11.12 17:56

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