岡本行夫・佐藤陽子・池田満寿夫
品のない関心なのだが、文藝春秋「イラク派遣『立役者』が落ちた陥穽 首相補佐官 岡本行夫『二つの顔』 総理補佐官と上場企業役員「二足の草鮭」の大矛盾」(歳川隆雄&本誌取材班)に描かれている岡本行夫のプライバシーに関する話が、どうも心に澱のように残るので、少し関連して思うことを書いてみる。
文春のこの記事は、記事としては、岡本の「二つの顔」、つまり、公私のありかたが問題なのだろう。が、私はそのことにはあまり関心がない。岡本がなんらかの事件が隠しているわけでもない。なんとなくだが、これは岡本へのやっかみであり、読者もそんな気持ちを共有しているのでないか。私は、やっかみというより、岡本に羨望のような感情を抱いていた。あの歳(58歳)で仕事もでき、頭も切れる。なにより、かっこいいじゃないか。というわけだ。だが、うまく言えないのだが、やっかみの気持ちより、この男、なにかを隠しているな、それはなんだろう?という感じがずっとしていた。
吉本隆明が文学者を評価するとき、これは実に面白いことなのだが、その文学者自身の美醜をつねにまぜかえしていた。具体的な文脈は忘れたが、池澤夏樹の父福永武彦を表して、あれは美男子だからダメだね、ってなものである。そのダメさ加減は、いくばくかという以上に池澤夏樹にもあてはまるような気がして、不思議な滑稽さを導く。もちろん、そんなことは文学にも人物にも評価に関係ないこと、というのが我々の社会の建前だ。しかし、実際、世の中を生きていけば、そうでもないことがわかる。たぶん、35歳から40歳くらいのところに、美男美女達を収納するリンボのようなものが世の中にはあるのだ。逆に、私は鈴木宗男のことはほとんどしらないが、あのツラは仕事をする人間のツラだなと思う。それなりの男の色気のようなもすらあるのだとも思う。女もそうなのだが、男のほうがわかりやすいのは、そのリンボを越えた人間のツラというものだ。男についていえば、40歳を過ぎた男には女の恨みとでもいうのだろうか、女の汁か、なんだか知らないがなにかがべったりとこびりつく。それは凡庸である以外、避けることができないものだろう。
岡本に私が関心を持ったのは、沖縄の問題だ。1996年、彼は橋本内閣で沖縄担当の首相補佐官となる。約8年前か。もうそんなに経つのか。彼は50歳だったのか、と奇妙な感慨がある。文春の記事によれば、昭和63年(1988)北米一課長時代、そして経世会に接近したという。平成2年(1990)イラクがクウェート侵攻をしたときも小沢と連携して活躍したようだ。そして、翌平成3年に外務省を退職する。
私はそういう表向きのパーソナルヒストリー自体にはあまり関心がない。私はもっと品のないことをあれこれ思う。彼が頭角を現す昭和63年というと43歳。厄を終える歳だ。自分を省みても、そのあたりは、まだ若い頃の気力と経験が充実している。そして、北米一課で連想するのは二課の小和田雅子だ。岡本は彼女の直の上司ではない。彼女が結婚したのが平成5年(1993)である。彼女がけんもほろろにマスコミを蹴散らしていた映像が思い浮かぶが、その頃、一課の課長さんは退職されたのだろう。
文春には早坂茂三の回顧として昭和54年(1979)のことが出てくる。目白御殿に34歳の北米一課首席事務官がやってきたというのだ。そのころ、彼は早坂に離婚のことを語っている。相手は佐藤陽子だ。知らなかった。私はそこを読んで、なにか、胸と胃の中間に、ずしんという感じがした。岡本が離婚していた。あれは離婚した男のツラかということもだが、佐藤陽子という名前に、まるで女房に大学時代の恋愛相手の名前がばれたような感じもした。私は高校時代佐藤陽子が好きだったなと思い出す。岡本と佐藤は熱烈な恋愛結婚だったそうだ。もちろん、そうだろう。女は佐藤陽子なのだ。
![]() カルメン マリア・ユーイング |
佐藤陽子はそのカラスの弟子なのだ。レトリカルに言うのではない。そうでなければその音楽と生き様はわからないだろうという気がする。プロファイルでは、1979年に「池田満寿夫とM&Y事務所(有)を設立」とある。早坂の回顧に出てくる岡本の年でもある。岡本と佐藤との青春の残像はそこで完全に終わった。佐藤陽子、30歳である。岡本と結婚した年代はわからないが、そう長い日々でもなかっただろう。
池田満寿夫はいつ死んだのだったっけ。正確に思い出せない。彼もネットにプロフィールがある(参照)。「その旺盛な制作活動のさなか,1997年3月8日に63歳で逝去。」つい最近のような気もするし、けっこう昔のような気もする。63歳かまだ若いなとも思う。私の父は62歳で死んだ。私もあと20年は生きられないだろうなと思う。しかし、そのくらい生きたらいいかとも思う。
池田の死因は、急性心不全だった。避けられなかったかとも思うが、その前年、体調の不調で脳梗塞と診断されている。栗本慎一郎みたいなものか。そういえば、小渕恵三も似たようなものだ。そのたあたりで、地獄の門が一度ぱかっと開くのだろう。邱永漢が無理をしても50歳までは生きる、と言っていた。そこでまず第二陣が倒れる。第一陣は尾崎豊のような部類だ。池田満寿夫や私の父などは第三陣だ。
池田満寿夫は昭和9年(1934)、満州奉天で生まれる。現代中国語で言うなら、中国東北部瀋陽だ。長野に引き上げている。長野県は満州引き上げが多い。そう長野県、信州である。どこで生まれようが、信州人は信州人だ。二世でも私はわかる。彼が後年書いた高校のころの思い出にある感性は信州人だなと思ったものだ。
高校卒業後、芸大に挑戦しては失敗した。が、昭和32年(1957)、第一回東京国際版画ビエンナーレ展に入選。私が生まれた年だ。以降版画家として名声をなす。1966年にはベネチア・ビエンナーレ版画部門大賞を受賞。私は池田の作風が好きだが、そのエロス性はどこかピカソの版画を払拭しきれないような感じがする。ピカソの性の力は、あのケンタウロスに象徴されるように、どこか西洋人らしい獣性に満ちている。が、池田は果てしない母性のような、あるいは母性の恐怖のようなものが感じられる。
![]() 女のいる情景 |
今にしてみると、後年の池田はマスメディアに擦り切れていったような印象も受けた。本当の才能を些細な分野に分散させすぎたような気もする。が、それでも、古典的な意味で芸術家というイメージの最後の人だったようにも思う。彼のぼさっとした頭髪と、ぬーぼーとした表情、語り口は、いつも、男のイノセンスのようなものを与える。それが魅力でもあるが、それは同時に狂気的ななにかでもあったようにも思う。
池田の喪主は佐藤陽子となった。池田とは18年くらいの日々だったか。幸せであっただろうなと思う。池田と佐藤の歳の差は15年。以前は随分と歳の差があるように思えた。しかし、自分も中年になってみると、そのくらいが男と女の許容範囲かなと思う。ルチアーノ・パバロッティとかポール・マッカトーニーは例外だね。
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コメント
迂闊にも其の記事を飛ばして居たので(ト云ふのも米国のあの、「マフィアの親分」顔したヒトの云ひ草に腹を抱へて居りましたので…)読み直してみた処、あらヽ詰り「二足の草鞋」と「二つの顔」を掛合はせたかつたヾけのことか知らといふ気がして来ました。当人はそんなもの「陥穽」だとも思つてをられんのぢァありますまいか。
処で主宰より更に品の落ちる話で恐縮ですが、御説の「あの」佐藤陽子の名前の出て来る辺りから、森茉莉が『ドッキリチャンネル』の中で池田満寿夫/佐藤陽子の一対に就て評して居る文章を思ひ出してつい頬が弛んで仕舞ひました。
彼女によればあの一対は「腹の減った馬に太つて撓(しな)やかな大猫」、なんださうです。ふヽ。
(「処で」以前と以降といづれをより書きたかつたか丸判りですね。失礼。)
投稿: wachthai | 2004.02.20 01:22
wachthaiさん、ども。森茉莉の評は当時を知るものには笑えますね。森茉莉自身についても少しく書きたい思いもあるのですが、夏彦翁だったか、永遠の娘、と喝破していました。実際には森茉莉を評するのは難しいですね。
投稿: finalvent | 2004.02.20 10:18
こんにちは。
岡本行夫氏と小和田雅子さんの関係について、直感は当たっていると思います。わたくしも品がないのか(?)、以前から直感で二人の関係について意識していた一人です。
ご存知と思いますが、雅子さんが北米一課勤務時代に尊敬していた上司は岡本行夫氏であり、雅子さん自身、公の場でそのことを言明しており、雅子さん関係の書物でも触れられております。
最近では田中康夫・長野県知事と浅田彰・京都大学教授との対談本(「憂国放談」)の中でも、田中氏が岡本行夫氏に言及するときにわざわざ「小和田雅子さんが外交官時代に尊敬していた上司である岡本行夫氏は・・」と語っているように広く知られた事実だと思います。
さらに最近では、外務省を解雇されて告発本を出した天木直人・元レバノン大使の「さらば外務省」においても、「エリートコースを突っ走っていた」岡本行夫氏が突然、外務省を辞職したとき「周囲は非常に驚いた」けれども、そのときの噂として、上司と喧嘩した、友人とコンサルティング会社をつくるのが夢だった、ということの他に、「スキャンダルの発覚を恐れた」という噂があったことがあげられております。
さまざまなものを読むと、岡本行夫氏は非常に優秀な外交官で「将来の次官候補」と認められていたとのこと。外務省を退職しながらも、外務省の全面的なバックアップのもとでコンサルティング会社を起業して経営していること、退職後も外務省の信頼は厚く実質的には外務省幹部と同格のポストを政府・外務省から与えつづけられていること、などを考えても、当時の小和田恒・外務事務次官や外務省とのあいだで、小和田雅子さんとの関係をめぐって何らかの「手打ち」があったことは自然と推測できるような気がいたします。
それこそ発覚すれば大事となる一大スキャンダルを隠すために、岡本行夫氏は責任を取って外務省を退職し秘密を守りつづける代わりに、その見返りとして外務省は将来的にも岡本行夫氏のコンサルティング会社の企業と経営をバックアップし、非常勤としてでも外交関係の政府の要職には推薦する、という何らかの「取り決め」があったのでは。
大蔵省にしても通産省にしても、あるいは外務省にしても、どれだけ優秀であろうと、退職した官僚OBで岡本行夫氏のように古巣の省庁と信頼関係を保ちながら仕事をしている例は考えられません。江田憲司氏(元通産省)にしても、岡崎久彦氏(元外務省)にしても、古巣の省庁とその省益に関わる仕事をしたり任されることなど考えられないと思われます。
いくら上司であったとはいえ、女性が一人の男性のことを「尊敬する」というときほど怪しいことはありませんからね。しかも何度もなわけですから、そりゃわかる人にはわかるという話でしょう。
ゴシップ的な話だけになり申し訳ありませんが、小生が日頃から感じていたことと重なっておりましたので、釈迦に説法と思いつつも蛇足までに。
投稿: ファースト | 2004.03.10 12:34
ファーストさん、こんにちは。ま、こういうのは、お・と・な、の話なので、このくらいにしておきましょうか。おふたりとも、ご公務に期待してます。(ところで、先ほどココログのメンテナンスがあり、一部のコメントの表示が不正になりました。検閲ではなさそうです。)
投稿: finalvent | 2004.03.10 16:54
みなさま、こんにちは。 お話が、随分弾んでおられるようで、結構でございます。
とても難しい世界のお話なので、私には、何も申し上げるような意見はないのですが、ただひとつ。
小和田雅子さんって、経済局のあと、語学研修生として、英国へ留学し、後、北米二課に勤務されたと聞いています。
お隣の一課長の岡本さんと、実際、どのような接点がおありだったかは、ご本人のみが知ることですが、役所内の評価の高い仕事のできる、憧れのよその課の課長さん、というのは、私にはよく理解できますし、最後の最後に憶測されるべき話を、簡単に連想されるのは、仰るように、あまりにも品がありませんし、妄想の種にされる女性が、かわいそうだとおもいます。
ましてや、今や、一国の皇太子妃殿下ですからね…
何事も、そんな風に考えれば、全てそのように見えてくるものです。人は、見たいものしか見ませんから。
でも、森茉莉さんは、私、全集持ってるんですよね。
大、大、大好きな作家だったりしています…
投稿: maria | 2004.04.20 23:33
小和田雅子さんは、岡本氏の北米一課ではなく、北米二課でしたが。
投稿: 李錦記 | 2005.06.20 05:10
何とか金と力はなかりけり というところですか?別にカッコいいとも思わんけど。ヨーコ・サトーのプロフィールには結婚を載せてませんね。
鈴木宗男氏は結構情けがある人らしいです。
投稿: | 2009.06.03 10:11