木村剛「デフレの終わりは始まったか?」に
考えがまとまっているわけではないが、なんとも気になるので、中途半端ながら書いてみたい。木村剛「デフレの終わりは始まったか?」(参照)についてだ。もう少し考えがまとまるなら、トラックバックにでもしたいのだが、率直なところ、それほどの価値はないだろうと思う。
木村剛の今回の話の基調は標題「デフレの終わりは始まったか?」が示唆するように、デフレは終わりつつという認識を示している。
まず、それはそうなのか? 批判はそれほど難しくない。木村の説明はただのレトリックに終始しているからだ。
昨年年間の東京都区部の消費者物価指数(除く生鮮食品)は前年比0.4%の下落にとどまった。これは5年連続の下落なのだが、品目別に見ると、ティッシュペーパー、輸入品ハンドバッグ、婦人上着などが軒並み10%以上、値上がりしている。また、企業物価指数を見ても、中国の旺盛な需要などを反映して鉄、非鉄、紙パルプなどの素材の上昇が目につく。
皮肉に言えば「素材の上昇が目につく」は笑いを誘うところだろう。それはさておき、当の問題は、日本のデフレは終わりの局面にあるのか?であり、これは議論ではなく、事実が決することだ。とりあえず、3月を越えれば見えてくるものがあるはずだ。
そして以下、「デフレの終わり」という仮定の上で議論ができるか、というと難しい。が、現状の経済状態を見ると、小出しのリフレで、曖昧に緩和にデフレが終わるような雰囲気はある。このあたりは、リフレ派の野口旭の「ケイザイを斬る」「第7回 政策批判の過去と現在」(参照)の指摘とも呼応するように思う。
この連載の読者にとっては意外かもしれないが、筆者自身は、昭和恐慌時のようなある意味ですっきりとした決着はおそらくないだろうと考えている。すなわち、政策転換は劇的にではなくなし崩し的に行われるであろうし、その結果として、経済的破局も何となく回避され、それと気付かないうちに終息していく可能性が高いのではないかと予想している。
その意味で、デフレは「それと気付かないうちに終息していく可能性」があるし、それは現実的な視点でもあるだろう。皮肉なことに、それこそ木村剛が折り込み済みとしている、と見てもいいだろう。と、して先を進める。
この先の木村の主張はこうだ。
経済がデフレから脱却した時に、マーケットは今の日本の金利水準が異常なまでに低いことに気づきはしまいか。日本の財政が危機的状況にあることを改めて認識しまいか。歴史的にも世界的にも、今の日本のように10年国債利回りが1%前後の水準で推移してきたケースはない。裏を返せば、デフレが終焉したとき、金利が今の水準にとどまることはありえないということだ。
ここで奇妙な感じがする。デフレが終われば、金利が上がるのはあたりまえのことだ。というか、その指摘はほぼ無意味だ。その話と、財政危機による金利上昇の話が、奇妙にだぶって語られているように私は感じる。
私の初歩的な無理解かもしれないのだが、ここでは財政危機は国債乱発を意味しているからこそ、金利上昇の懸念となるのだろう。つまり、かねてよりの財務省側の言い分だ。
木村はここで何が言いたいのだろうか? 財務省寄りに財政再建をほのめかしているのだろうか。もちろん、橋本内閣の愚を繰り返すわけにはいかないから、おおっぴらには言えない。
木村のブログの文をさらっと読む限りは、金利上昇はしかたがない、とだけとも取れる。そして、その状況で、円安になるのはとりあえず当たり前のことと言ってもいい。もはやみんな忘れたことにしている堺屋太一「平成三十年」への階梯だ。
仮定に仮定を重ねて考えることは徒労感が漂うが、修正局面としての円安はあるだろうが、円安に突き進むことがありうるのだろうか?
そう私が思うのは、この木村の話に、国債とともに隠されているのは米国債だ。日本がこれだけ米国債を買っている現状、米国との関連で円安になるとは思えない。
総じて言えば、木村剛のブログは、私にはその意図が掴みづらい。なぜなのだろうか。私の読みが間違っているというなら、それはそれで、諸賢の苦笑を誘うだけでいいだろう。
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