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2004.02.16

仏教入門おわり(補遺)

 今月の文藝春秋の仏教特集を読みながら、自分と仏教との関わりをちょっと書いてみたくなり、書いてみると、思ったより長くなりそうなので、4回に分けた。書き残しはいろいろある。が、あとは余計なことだ。とはいえ、その余計なことを少し書いて、終わりにしたい。
 法華門については触れなかった。日本の仏教は天台宗を基軸としているし、私は比叡山から坂本の地が好きだ。酒井阿闍梨も素晴らしいと思う。法華経は教養として誰も読み下し文なり、口語訳なりは読んでおくべきだとは思う。日蓮の主要著作も歴史的には興味深い。特に、その弟子たちの活動が歴史的には面白いと思う。日蓮については、私は千葉の誕生寺とその界隈の伝説が好きだ。私の気質はむしろ日蓮に近いかもしれない。が、それ以上の関心はない。ご覧通り、私は、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊である。
 仏典については、法華経以外に、ドラマティックな維摩経や勝鬘経など教養人は口語で読んでおくべきだろう。それは読みものとしても面白い。柄谷行人が中論などに関心をもったように、ナーガルジュナの中論などはウィットゲンシュタインのような知的な関心を誘う。困ったことに、この分野の知性は、そこに究極の答えがあると幻想する。仏陀の正覚がそれを解消するのだという思い込みがある。困ったことだと思う。そんなものはない。予見する脳は見いだすことができないからだ。
 仏教をいくら書籍で学んでも、日本の歴史に刻まれた仏教文化はわからない。なぜ阿弥陀、薬師、観音がセットになっているかを知るには、まったく違ったアプローチが必要になる。また、民俗にとけ込んだ仏教的な要素もなかなかわかりづらい。四十九日の由来などは、バルドトゥドゥル(チベット死者の書)など読んで勝手に理解したつもりでもいいかもしれないが、民俗仏教については、道教も含めて、もっとわかりやすいガイドブックがあってもよいように思う。が、一冊の例外を除いて知らない。その一冊は絶版だろうから、記さない。
 私は良寛についてなにか書きたい気もした。彼は、若い日に道元を深く理解していながら、なぜあの人生を歩んだのか。こういう考えは文学に過ぎるのかもしれないが、道元には不思議な優しさがある。ある程度、道元を読み込むうちに、その気品ある優しさに気が付く。そしてそれに虜になってしまう。懐奘が道元に従ったのは、それだろうと思う。この優しさのなにかに、なしかしら苦悩と悲しみも感じられる。それは、良寛にも感じるなにかだ。私の勝手な妄想かもしれない。が、道元の教えのなかに、良寛のような生き様が含まれているように思える。漱石は晩年、良寛の書を心の慰みとしたと聞く。良寛には、道元と通底する、悲しみのような優しさがある。
 私は仏教を含め、宗教には救済を求めない。それが矛盾でもあるのはわかる。そうでなければ、こんな泥を這うような愚かしい知の営みはなかっただろう。うまく言えないのだが、宗教的に語られる救済には、なんの意味もない。信じること、知ること、そうした営みとして形成される追加物としての救済に、意味はない。恥ずかしい表現だが、魂の孤独に至り、その無間の闇のなかにあるとき、歴史を越えた仏徒たちをほのかに感じるだけだ。神秘的な感覚ではない。あたりまえの感覚として。
 と、そういえば、文藝春秋の宮崎哲弥は手塚治虫の「ブッダ」をお薦めから落としていたが、あれは面白い物語だ。ダイバダッタ(提婆達多)の話がいい。仏徒は人間の憎悪というものを知らなくてはいけない。この漫画は、登場人物が手塚らしくエロティックに描かれているのもいい。ついでにいえば、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」も面白い。ここでは、仏陀はゴータマとして、主人公のシッダールタ(これは仏陀の名前でもあるのだが)とは別の人間に描き、そのシッダールタの悟りを最後に語らせている。ここからヘッセの哲学だのユンク心理学などを読み取るのは愚かだ。この物語から読むべきは、愛欲と子を持つ人間の苦しみだけである。それだけで十分だ。

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

蒙昧な身ながらも読ませていただいています。恥ずかしいことに、紹介されるほとんどが知らない書籍ばかりです。とりあえず『大乗起信論』を入手し、読み始めたところです。

…ここにきてようやく、読んだことがある手塚治虫『ブッダ』やヘッセ『シッダールタ』が出てきてホッとしたのでコメントしたくなりました。

ご紹介いただいた本を全て読むのは難しいですが、一つずつ、ゆっくり、読むつもりです。

投稿: Dain | 2004.02.17 00:06

Dainさん、こんにちは。大乗起信論は難しいかもしれません。
気になるもの、面白いものから読まれてもとも思います。楽しい読書を!

投稿: finalvent | 2004.02.17 09:32

こんにちは、
Dainさんのように、一連の文章を読んで自分も読みたいと思う人が多くでてきそうな、惹きつけられる「仏教入門」でした。
読者はまず快楽主義者であるべき、読書は愉しむものと思っている私としては、維摩経を候補リストの上位に持ってくるのを薦めたいですね。

投稿: 龍蛇蟄 | 2004.02.17 21:02

龍蛇蟄さん、どうも。「維摩経」は笑えますよね。笑ってはいけないのかもしれないけど。あれを外典とかで排除しないのは仏教の雅量でしょうね。

投稿: finalvent | 2004.02.18 09:22

法華経というのは、基本的には凡夫の救済を主眼にした経典ですから、あまり字義的な意味はわからなくてもよいのではないかと思います。天台智者大師の教学は、高度専門家たちのためのもので、一般信者には理解が要求されていないはずです。白隠禅師が一般信者にまで体系的な公案禅の習得を要求していないのと同じことと思います。

鳩摩羅什大師は当然、内明(経典の研究)、因明(論理学の研究)、声明(音声韻律の研究)を極められたはずですから、漢訳法華経は、ただ、素直に読誦さえしていれば、意味はよくわからなくても経典の功徳で諸仏諸菩薩のご加護にあずかれるようにうまくできているのでは?と私は勝手にそう思っています。

それでも、漢文の方便品や如来寿量品を真読(音読)していると、法華経で救われることになっているいわゆる凡夫というのはずいぶん程度が高いものだなあ、と思ってしまいます。そうなると、どうしても、日蓮大菩薩が創出されたように曼荼羅本尊とセットでお題目が必要になるのかなとも思います。そうしないと、どうにも凡夫には法華経に縁を結べなくなってしまうから。

無為自然といっても、それを説明するためには、これ以上の人為はないというほどの優れた修辞が必要になるわけで(荘子はほぼ全編そういう構成です。)、凡夫とはいっても、本当に法華経二十八品全部しっかり理解できるひとなら、上座部の阿羅漢にもなれるのでは?とも思います。

唯識の薫習ですか、あまり理屈がわからなくても、お経を唱えてさえいればその種子(しゅうじ)の功徳が体と心に作用して八識を変容させていくという話、そんなところを信頼しています。それから、漢訳者の鳩摩羅什大師のことを信頼しています。サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカと漢訳妙法蓮華経をしっかり比較したことはないのですけれど、どうも、妙法蓮華経のほうがサンスクリット原典より霊験あらたかにできているような気がします。私が読誦している限りでは、主観的にそう思われます。チベット語訳法華経の音声テキストも手に入ればうれしく思っています。きっと、チベット語訳法華経もとても優れているだろうと思っています。

投稿: 法華経の功徳 | 2008.12.09 09:03

毎月、病院に通院しているのですが、医師から、以後2ヶ月に一度でよいことにしてもらい、喜んでいます。本日は旧暦の二の午の日ですので、赤坂の豊川稲荷さんで、奉礼謝のお灯明を献灯させていただいてきました。

ここまで回復できたのも、毎日、法華経を読誦している功徳かな?と思っています。

えらそうなことをいえば、法華経の奥義は法華経そのものにほかならないと思っています。理屈をこねるより、日々静坐してお経を読誦することが肝心なのではないかと。

天台大師も、法華経がどういう思想を伝達しているかということよりも、仏典に限らず手に入る限りの経典を静坐して読誦されて、その上で、ご自身の心身に(神智学的には霊魂体に)もっとも優れた作用をする経典を重視して、教相判釈されたのではないかと考えております。近代ヨーロッパの哲学者たちと違って、インドや中国の宗教家たちは、散文がどういう思想を提供しているかより、韻文が自分の全人格にどう作用するかを重視していたのではないかと考えるのです。これは間違っているかもしれません。

自分が不運あるいは不幸であると苦しんでいる方には、だまされたと思って、法華経のどれか一部分でも毎日数分静坐して読誦していただきたいと思っています。すぐには効果はありませんが、半年、1年、2年と継続していくうちに、自分の期待していた効能とは別かもしれないけれど、予想外の成果が出ると思います。

最初の欲求は、FXで大当たりしたいでも、行きつけのメイド喫茶なりキャバクラなりのかわいい女の子をものにしたいでもよいのです。どういう魂胆ではじめて、どういう見返りが欲しくて継続しても、法華経を読誦する人には、なんらか、お経がよい報いを与えてくれるはずなのです。

投稿: enneagram | 2009.03.14 13:14

仏典は、本来は意味よりも音声が大切。インドの宗教書とは基本的にそういうもの。漢訳されても、漢訳者がインド人やインド系の口述者なら基本的な考え方はそういうもの。結局、長行やゲジュ(gatha)も、漢訳されてはいても、音写されただけの真言陀羅尼と基本思想は大差はない。

こう言い切ってしまうと、たくさんの反論が出てくるのだろうけれど、すくなくとも、過去最高の仏典の漢訳者と言っても過言でない鳩摩羅什三蔵はこんな考えの持ち主だったのではないかと推測しています。

だから、厳密な話をしてしまうと、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経、金剛般若経、阿弥陀経などは、鳩摩羅什が生きていた時代の長安地方の漢字の発音で読経すべきであるということになってしまいます。あくまでも厳密な話をすれば。

鳩摩羅什の生きていた時代の長安地方の漢字の正確な発音の復元が可能なのかどうかわからないけれど、鳩摩羅什三蔵が漢訳して下さった、妙法蓮華経、金剛般若経、阿弥陀経などが、現代日本で、呉音、漢音、唐宋音で読経するとどういう発音になるか、朝鮮半島の各宗派はどう発音して読経しているか、ベトナムはどうか、北方南方内陸の中国ではどういう発音で読経しているか、チベット文字では鳩摩羅什漢訳の諸経典はどう音写されるのか、それがモンゴル語や満州語ではどういうふうになまって発音されるのか、みたいなことを比較研究できれば、鳩摩羅什漢訳の仏典群の研究に新たな地平を開けると思われます。

ソシュールも言語研究で音素を重視したそうですから、意味伝達より音声構成を重視する要素が大きいといわれるインドの思想については、漢訳仏典の読経の発音のさまざまな地方での相違を比較することは、まったく無意味とは思われません。

私自身、正直に申しまして、機会が得られれば、日本の呉音と韓国の漢字音と北京語とベトナム語の漢字音による観音経や金剛般若経の読経の音声の比較と、それを通してうかがえる鳩摩羅什三蔵の仏典漢訳の意図のある側面の調査はしたいものであると考えています。

投稿: 洛書 | 2009.03.21 10:15

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