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2004.02.15

仏教入門その3

 浄土教については、自分の宗教的な関心から歴史的な関心がおろそかになりがちになる。だが浄土教に宗教的な救済を求めることは無意味だとも思う。が、それは確実に私の一部となっている。
 15年くらい前になる。一人熊野詣で山を越えて歩き回ったことがある。山の中腹でふと振り返ると、眼下に昔の大社跡が、それがなるほどというくらい、浄土のように美しく見えた。浄土教というのは、あの美しさや輝きを持つものだと思った。また、のたれ死にも悪くないと思えるほどの孤独に感覚が麻痺していたころ、当麻寺の練供養会式の後の春の夕暮れが浄土を連想させるほど美しかった。飛鳥のレンゲ田にたたずみながら、多数の天人たちが今、大空から駆け下りてきても不思議でなく思えた。あの陶酔感や、沖縄のエイサーのもつ躍動感のなかに、浄土教の歴史的な扉があるのだと思う。その美に惹かれる。それでいて私は宗教的にはいつも浄土教にはなにかに戸惑っている。

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人生論ノート
三木清
 浄土教は、日本の宗教史としては、法然を経由し親鸞、そして蓮如、清沢満之というように影響を与えてきた。特に、歎異抄が明治に発見されてから、親鸞は門徒から離れて独自の宗教的かつ知的な対象となった。なかでも三木清が痛ましい。獄中で彼は親鸞を選び取っていた。そうさせる思想の力が親鸞にはある。昭和20年9月26日。彼は独房寝台から転げ落ち死んでいた。それこそ摂取不捨の利益というものなのだ。皮肉を言っているのではない。思想家はそのように死にうるものなのだ。
 親鸞について書かれたもので私が一番深く影響を受けたのは亀井勝一郎の「親鸞」である。旺文社文庫のものだ。現在では全集でしか読めないのではないだろうか。この本の評価は難しい。だが、とにかくそれが私の一部であったことがある。亀井勝一郎については全集も読んだが、今となっては親鸞以外残るところはあまりない。保田與重郎も忘れた。
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最後の親鸞
 吉本隆明「最後の親鸞」については、私はわからないではない。が、それはほぼ吉本の思想と一体化していて、親鸞という文脈では面白くはない。吉本の親鸞論で重要なのは、オウム真理教事件を介した造悪論だけだ。が、彼はそれを明確には展開していない。展開することなく、このまま彼は死んでしまうのだろう。
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歎異抄
 歎異抄は、すこし粘りけがありすぎるが梅原猛による現代訳と解説のものが面白い。また、その考察面でも悪くない。「教行信証」は金子大栄注のものが岩波文庫にある。読みづらいといえば読みづらいし、退屈といえば退屈だ。晩年の親鸞がなぜこれを成したか、またそれは浄土教史にどのような意味を持つか、私は十分な論説を読んだことはない。
 教行信証関連で、自分にとって気になるのは、親鸞が阿弥陀という存在を「自然(じねん)を知らしむる料なり」としている点だ。この問題は私にとってキリスト教的な神学的な問題でもある。妙好人において、阿弥陀は「あなた」という二人称的な存在であったが、親鸞の内部ではそうした人格性の存在(マルチン・ブーバーの言う我-汝の存在)が解体されていたのではないか。それは、人の究極の救済において可能なのか、という点だ。わからない。
 親鸞は和讃も面白い。「親鸞和讃集」も岩波文庫にある。親鸞の言葉の感覚の繊細さを文学として論じたものは、先の亀井以外に見たことがない。
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法然の哀しみ
 法然については昨今話題だ。面白いには面白い。特に面白ければいいというなら、「法然の哀しみ」が面白い。私はしかし、浄土教の点でそれほど重要な考察だとも思えない。蓮如については丹羽文雄「蓮如」が優れている。長いのが難点だが、読みやすい記述になっている。蓮如以前の歴史記述が特に優れている。晩年の親鸞を想起しやすい。また、覚如などについてもわかりやすい。丹羽の「親鸞」はつまらない。
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蓮如
 蓮如については、彼自身の思想というより、おふみ(御文章)を読むことは日本人の役目になりつつある点が重要だろう。岩波文庫の「蓮如文集」が手頃だ。私は父の死に際して、おふみを聞くことになった。現実にいうそう場で、声の厚みのある僧の声で聞くことは、不思議な印象を与える。日本語という言葉の持つ魔力のようだ。信はそのなかにあるような錯覚がする。
 浄土教については、まるで藤原道長のごとくだが、自分の死の瞬間という問題ともときおり関係している。私は確実に死ぬ。私が死を迎えるとき、その意識性はどのような自然性を持つのだろうか。雑駁に考えれば、死の恐怖は、死の瞬間にピークを迎えるようでもあるし、諸生物を見ても、差し迫る死から逃れるように出来ている。が、生物には、死を歓喜として促すなんらかの仕組みが埋め込まれているようにも見える。それが、死の瞬間に作動するのではないか。それが浄土教の意味ではないか。そのまばゆいばかりの美のなかで人は死ねるのではないか。それは、たぶん、妄想である。恐らく、死は眠りと変わりないだろう。

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

私自身は、天台大師のありがたい教えを学ぼうともせず、称名念仏以外何もしないなどというのはけしからん、という考えの持ち主です。

善導大師や法然上人の時代ならいざ知らず、こんなありがたい時代に、南無阿弥陀仏で全部済まそうなどというのは、富士山の五合目までタクシーで登っておきながら、バスの乗車運賃しか払わないようなものです。現代の浄土仏教は、信者に、観仏も阿弥陀経の写経読誦も行わせるべきだと思います。曇鸞和尚が浄土仏教を志した動機が唯識論なのだから、浄土仏教の信仰者たちも唯識論を学ぶ機会を持つべきです。

こういう話はしますけれど、私自身は法然上人は大好きなんです。新橋に行く用事があるときは、できる限り芝増上寺に参拝して、称名念仏を十唱してます。

郷に入れば郷に従えです。柴又帝釈天の題経寺におまいりするときは、南無妙法蓮華経を三回唱えてます。

私自身は禅宗ですから、南無釈迦牟尼仏です。般若心経は、本来は密教の経典だそうだけれど、基本的には顕教の経典で通用しているのです。

漢訳仏典と、サンスクリット原典と、チベット語訳仏典がどれも容易に入手できる世の中になってほしいと思っています。それが今の世の阿弥陀如来の救いだと思います。

投稿: 阿弥陀如来の救い | 2009.01.08 08:49

妙智会の宮本ミツ会主様は、カルト教団に巣くっている動物霊やいろいろな人たちの守護霊を霊視できる霊能者であったという話を聞いたことがあります。

でも、その宮本会主様でさえ、本来の花まつりは旧暦の4月8日であることをご存知でなかったんです。会主様は明治の生まれで、以前は、政府が新暦しか使わせませんでしたから、釈尊のご誕生が旧暦の4月8日であることをご存知でなかったんだと思いますが、どんなに優れた人でも、霊能者であっても、知らないことは知らないんで、これはどうにもならないようなんです。

芝増上寺は、新盆も月遅れ盆も年中行事みたいです。その、芝増上寺に2007年4月2日の旧ねはん会の日に参拝したとき、確認したら、増上寺の若いお坊さんたちはこの日が旧ねはん会であることを知りませんでした、当然。

花まつりをはじめたのは、浄土宗のはずです。明治と違って、現在は、新暦を使わないと処罰される時代ではありません。

日本の仏教の各宗派には、正月と盆なんかは新暦でお祝いしてもいいから、釈尊の誕生、成道、入寂の記念の儀式は、新暦ではなく、明治以前のように旧暦で執り行っていただきたいものだと思います。

投稿: enneagram | 2009.04.05 08:33

finalvent先生は、いいかげん、私の人間観のいびつさに辟易してきているところなのだろうと思うけれど、わたしは、そいつ自身のいい加減さやくだらなさや凡庸さや世間の狭さを自慢の種にしているような連中には冷笑を浴びせるだけです。それで、そういうやつらに刺し殺されたり、目玉金玉つぶされて惨殺されても仕方ないとおもっています。そうされる原因を作っているの自分なんだから。そういう報復をしないと溜飲が下がらないやつらなんだから。

愚禿親鸞の見方も同じ。小乗戒どころか沙弥の戒律もまるっきり守れないやつは、「非僧非俗」なんて中途半端に威張ったことをいわないで、俗人居士藤井某で生涯を通すの。歌でも詠みながら。「自分は同行だ」というのなら、親鸞なんて、世親菩薩と曇鸞和尚のような立派な人の名前にちなんだ法名なんて勝手に自分につけて南都仏教の唯識論で自分を権威付けないの。善信でさえ彼にはもったいないの。善導大師とも恵心僧都とも似ても似つかない人間性しか持ち合わせていないんだから。

それに、南無阿弥陀仏が浄土宗系仏教の専売特許みたいに誤解される宣伝をしているというのはとんでもない話なの。天台宗ではちゃんと仏説阿弥陀経も読誦するし、阿弥陀如来の十念も行っているの。法然上人は、天台宗で行われる修行の中で誰でもできる称名念仏だけを善導大師の教えに従って選択(せんぢゃく)しただけなの。それだけなら一般民衆でもできるから。それも、来世ではきちっとした仏道のできる境遇(聖道門)に生まれるために現世では仕方なく易行道の浄土門でとりあえず満足するしかないという見解が法然上人の出発点なの。

浄土真宗は、浄土三部経にこだわって般若心経を読誦するのを拒絶する付き合いにくい、かたくなで厄介な宗門なの。信者の方たちを責めません。宗門の原理主義的な協調性のなさを悪く言っているの。浄土真宗が山間部ではどれほどでたらめな宗門だったかを象徴的に表現しているのが島崎藤村の「破戒」です。

愚禿親鸞なんかをエライなんて言っているやつらは、なにかわるだくみがあるか、論理のすり替えをしようとしているか、無理を通して道理を引っ込ませようとしているやつらだろうと思ってまず間違いないであろうと思います。

まともな仏教を知りたいと思ったら、「歎異抄」なんて読まないで、「摩訶止観」か「成唯識論」でも読めといいたい。西田幾多郎も「臨済録」と「歎異抄」をごっちゃにしていたようだけれど、彼も、夏目漱石や森鴎外みたいな、乃木希典大将が夫人と殉死しないと自身の卑小さに気がつくことができない西洋かぶれの哀れな明治人だとおもっています。

投稿: enneagram | 2009.07.17 10:31

親鸞聖人についての正しいイメージを児童たちに付与するために、お遊戯体操のための歌を作詞してみました。

「毎日幸せ! シンラン聖人」

1 シンラン聖人が未亡人を愛してる
  シンラン聖人はエシンニさまを愛してる
  シンラン聖人はぼたん鍋が好き
  シンラン聖人は吟醸酒が好き

  毎日 幸せ! シンラン聖人

2 シンラン聖人がピンクのパンツをはいている
  どこかの尼さんと野球拳してる
  シンラン聖人は絶対自慰をしない
  シンラン聖人は避妊をしない

  いつでも 幸せ! シンラン聖人

3 シンラン聖人はバクチを打つのが好き
  自分の弟子たちをいたぶるのも好き
  シンラン聖人はエッチな話が好き
  シンラン聖人は戒律が嫌い

  まったり 生きてる! シンラン聖人
 

おそらく、実在の親鸞聖人も蓮如上人もこんなものだったと思いますよ。釈尊の戒律を破りまくって、それをかえって偉いことみたいに自己宣伝している集団の主催者がそんなに立派な人間とはとても思えませんね。早く日本人は、明治時代の浄土仏教と浄土仏教まがいのマインドコントロールから脱却すべきですよ。そして、できれば、天台大師の正法を頭に大汗かきながら学ぶ努力をすべきです。原点たる伝教大師最澄上人に回帰せよ、とでも言うところでしょうか。そうすれば、だれもオウム真理教みたいなカルトにだまされずにすみます。

なお、ぼたん鍋とは、いのしし鍋のことです。

投稿: ホウネンショウニン いやもしかしたら ニチレンショウニン? | 2009.08.09 15:05

3番の歌詞は、
「まったり 生きてる!」より
「まったり 幸せ!」の方がよいと思いますよ。

投稿: シンラン聖人 | 2009.09.29 14:21

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