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2004.02.13

漢字という虚構

 さらに漢字について書く。ご関心のないかたも多いことだと思うので、おつきあいを願うものではない。そして、おつきあい頂いたかたの反論や反感も多いのではないかと思う。ある程度、しかたがないと思う。というのは、これまでの漢字についての私の話は虚構といえば虚構なのだ。「白川静は『と』だと思う」(参照)で、なぜソーシュールなんかをひっぱり出したかというと、虚構を打ち立てるためだ。
 虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない。
 が、もう少し述べる個人的な必要性を感じている。私のこの分野の思想を少し展開してみたい気がするのだ。
 関連して余談めくが、この間、暗黒日記から批判のようなものがあった。ご関心のあるかたは、先の記事の長いコメントを読んでいただいて、ご自身の考えを深めていただきたい。私の考えが正しいと強弁するものではない。また、茶化していると受け止めてほしくないのだが、その後の暗黒日記の平成十六年二月十二日のコメントが、愉快だった。おそらく、私のコメントを読んでの感想であろう。私は暗黒日記の批判に対して、端的に言えば、ソーシュール言語学の根幹であるラングとパロールを理解していないよと指摘したのである。喧嘩を売る気でないことが了解されて幸いではある。


平成十六年二月十二日
服部四郎氏が時枝誠記氏を非難した時にも「ソシュールの言語学を誤解している」「ラングとランガージュを混同している」式の言ひ方をしてゐるのだけれども、「ラングの學問」に反對する人間に「ラングの學問」の信奉者のする非難のやり方はパターン化してゐる。「お前はラングを知らない」――そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。

 愉快と思ったのは、そこがソーシュール学理解の天王山なのだろうなと思うからだ。そして、その天王山は、普通の日本人の常識からすれば、「そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。」と言い捨てるべきものだろう、ということだ。それでいいのだと思う。ソーシュールの言語学など理解する必要などはない。時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。けっこう脳天気な服部四郎にしてみれば時枝の議論など雑音のように聞こえたたのではないか。そんなものだ。ふと思い起こすが、吉本の言語論を川本茂雄は晩年できるだけ好意的に理解しようとしたが、川本さんは善人だなという印象を与えるだけに終わった。
 ラングの素晴らしさ、それはソーシュール学の学徒の至福でもある。それがなければ、近代言語学という虚構が成立しない。と冗談を込めていうのだが、それなくしてはブルームフィールド(Leonard Bloomfield:彼は実は巧妙にソーシュールを避けている)もなければ、構造主義言語学を大成するかに見えたハケット(Charles Francis Hockett)やハリス(Zellig Harris)もなく、ハリスからチョムスキーが出てくるわけもない。チョムスキーのLinguistic competenceとはソーシュール学のラングと中世以来の述語論理を合体させ、認知心理学だの生物学だのの装いを変えてみたもの、と冗談を込めて言えるだろう。
 ラングがなぜすばらしいかは、ソーシュール学をソーシュール自身の学の大成の過程を追って学んだものにしかわからない面がある。と同時になぜソーシュールが偉大な言語学者なのかわかりづらいだろう。と、れいの阿呆なWikipediaの「フェルディナン・ド・ソシュール」(参照)を見ると、不思議に悪くない。英語の解説よりはるかにましだ。誰が執筆したのだろうか。いずれにせよ、この記述が重要だ。

1878年暮れ、「インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き」を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。

 この方法論も恐るべきものだが、重要なのは、この問題が19世紀の言語学の最大の課題であったという点だ。つまり、言語学とはソーシュールの一般言語学講義以前は、イコール比較言語学だったのだ。比較言語学(Comparative linguistics)は、比較文化論のような比較でではない。言語学ではその「比較」はcontrastiveと言う。comparativeとは、印欧語の祖語を探す学問なのである。
 なぜこんな学問が当時言語学の主流だったか現代からはわかりづらいし、米人の言語学者など端から関心がない。というか、Edward SapirやBenjamin Whorfなどはインディアン言語の関心に向かっている。もともと米国言語学とは人類学の下位なのである。
 話を戻して、印欧語祖語の研究とは、端的に言えば、インド植民化でインドの知的財産特にサンスクリット文献が欧州に知られ、そしてその祖語がギリシア語と同源であることに気づいた驚愕感が起点でもあっただろう。これに、18世紀以降の言語起源論がベースになる。西欧のこの時代の原形なのだが、ギリシア哲学的なアルケーの考えが、ネイチャーに変化する。そして、諸学の基礎をこの「自然状態」から説明しようとした。ホッブズの社会思想は端的にそうだし、マルクスの自然概念もこれに由来している。言語学では自然から言語の起源が課題になっていた。ルソーの「言語起源論」もこの流れにある。
 こうした経時的な組織の課題のなかから、ソーシュールは言語の共時性を発見した。この発見はその学徒にすれば革命的なものだ。同時に、文法=ラテン文法から、諸言語を開放したとも言える。ラングが概念構築されて、始めて、言語の研究が可能になったのだ。素晴らしいとしか良いようがないのだが、他分野から、また、歴史を離れた人間からは阿呆に見えるだろう。
 ラングは虚構なのである。そんなものは存在しないと言えば存在しない。実際の言語現象のなかから、ラングを帰納することは、たぶんできない。ラングはある意味、超越的な理想原理なのである。
 長い前振りになったが、漢字の起源に戻そう。漢字の起源において、意味をその音価とし、その音価を古代中国語のラングに私は措定した。それが言語学の方法論として近似的に正しいはずだからだ。
 だが、それは虚構なのである。しかも、それは近代言語より危うい虚構だ。漢字起源時の音の体系が存在すれば、漢字の起源学はこう議論しなければいけないというシミュレーションである。チョムスキーの生成文法のようなねじれがある。
 が、虚構は虚構として成り立つ。
 が、虚構は虚構である。漢字起源のどこに最大の問題があるか、といえば、その音の組織性が実は、ラングとしての古代中国語によるものではなく、「切韻」のように、ただの規範の反映かもしれないのだ。簡単にいえば、「漢字」を読むために、こういう音を与えようという便覧である。そもそも、漢字一文字に単音しか与えられていないのは、不自然極まる。これは、漢字を読み下すための便宜であると見るのが妥当だろう。
 とすれば、その音価は、ある程度しか、古代中国語の音価を反映していないことになる。たぶん、それが言語学ではなく、歴史学的に考察したときの妥当な結論だろう。
 するとどうなるのか? そもそも漢字の意味はどうなるのか。常識的に考えて、漢字一文字に単音を与えたところで、そのバリエーションはたかが知れている。日本語など「声」がないので、「ショジ」といわれても「諸事」「諸寺」「所持」「庶事」となんの意味ももたない。すでに、この日本語の熟語ですら二語(二字)の組み合わせになっているように、中国語でも、よほど基本的な語彙を除けば、二語がないと言葉にならないのである。つまり、一語の音価だけでは意味が十分に担えないのだ。そして、そのことは古代においてすらそうだったことだろう。仮借が多いのも、単一漢字の意味がない(弱い)ためだとも言える。
 すると、そういう側面で極論すれば、漢字単体の意味などないとまで言えるのか。言えるのかもしれない。じゃ、意味をなす熟語はどのように発生するのか、といえば、だから文脈が必要になるし、文脈をプールして文脈全体をコード化するしかない。
 それが、四書五経の一つの正体でもある。
 ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
 こうした中国の世界、つまり、四書五経がなければ漢字が利用できないという変な世界が変革するには、別の文脈のプールが必要になる。
 それを提供したのは、明治の日本だ。大量に西洋語を翻訳して言葉=熟語を生み出した。革命なども本来は「易姓革命」である。ちなみに易姓革命というのは日本人は理解しづらいだろう。ところが、日本近代の革命はrevolutionの訳語だ。同様にこうした言葉は西洋の言葉の翻案として膨大に作成され、それが、清朝末の中国人知識人に湯水のように流れ込んだ。資本論が中国語で読めるのは、近代日本人が翻案の熟語を作ったからだ、とまで言えば、批判もあるかもしれないが、そう言っても妥当だろう。同じことは朝鮮にもいえる。朝鮮が漢字を捨てて嘆かわしいと思うが、漢字を表に出せば、近代文が日本語であることが明白になってしまうのだ。
 さらに日本の明治時代の言文一致運動は中国にも影響して、口語をなんとか漢字のようなもので記述しようと試みられた。近代日本語を日本の文学者が形成したように、その影響をうけて現代中国語もできた、といえば、中国は怒るだろう。なにも、そんなことは理解してもらう必要などない。日本人が知っておけばいいのだ。
cover
阿Q正伝
  ふと、この努力を行った魯迅を思い出す。現代の若い人たちは「阿Q正伝」を読んでいるだろうか。この一冊を読めば、中国の98%がわかるのではないかと思う。という私が中国を理解してなければお笑いだが、少なくとも、「阿Q」の響きの意味は知っている。気になって、アマゾンの阿Q正伝の評を見たが、嘆かわしい感じがした。お薦めしたいが、すでに読みづらい古典なのかもしれない。

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コメント

うーん。どうなんでしょう.僕はあなたの言ってることがよくわからないのですが,そもそもラングってのはどっかでお書きになっていたように文法や語彙の規則なんかではなく,言語表現を規定するシステムのことではないですか.よく言うのは言語(ラング)には実体的な指示対象などない,あるのは差異の体系だけだ,と(「あ」は「「いうえお」でない」という消極的な説明でしか語れない).音価が意味を決定する,音声こそ文字(漢字)の根源である,というお話こそ,ソシュールが批判した当のものだと思います.これは構造主義の基本中の基本の概念なので,ソシュールを引用されつつ「漢字はもともと表音文字」だったと言い切ってしまわれる感覚がよく理解できません.そもそも,漢字が表音的にも用いられるなんてことはちょっと考えれば誰にもわかることで取り立てて言うほどのことでもない.けれど,だからといって「漢字はもと表音文字であり,それが表意文字に転化した」というご説明は成立しない.それこそソシュールを読めばわかることではないでしょうか.音声が文字に先立って根源的である,という考えこそソシュールは批判したはずです.現に彼は「書き言葉と文字は,話し言葉へ反作用しないではいない」(「言語学序説」)と言っています.ラングが共同体の規範(文法)なんだったら,何の画期性もないんではないですか.ラングということによって彼はむしろ音価の恣意性を言ったのではないでしょうか.

まぁこの程度の話ならソシュールを読まずとも手ごろな解説書を見れば書いてあることだと思われるのでどうでもいいのですが,べつにソシュールに頼らずとも,漢字の根源を音声に見るのはおかしい.そもそも漢字はどう読もうとかまわないからこそ普遍性を持ったわけでしょう.今も昔も,漢字の発音は地域ごとにきわめてばらつきがある.これは当然,日本や朝鮮を含めて,です(東アジアの漢語共同体ネットワーク).日本の知的エリートは必ずしも中国語の発音を知りませんでしたが,にもかかわらず彼らは文言の文章を読めたし書けたわけです(このあたりはラテン語とのアナロジーで考えてもいい.ラテン語の読まれ方なんて地域ごとでばらばらです.基本的には何と読んでもかまわないからこそ普遍性を持ったわけです).

「切韻」は漢語の規範を表したものというよりも,もともとは文章や作詩の際の韻を決定するためのものです.「切韻」中の音体系は「中古音」と呼ばれており,現在の普通話とは区別されます.もちろん発音面で継承されてる場合もありますが,現在の中国語とは別物です.ここは端的に事実誤認があると思います.他にもいろいろ単純な間違いがあったような気がしますが,もう忘れましたし,僕はべつにひとの揚げ足とって喜ぶ人間でもないので.

以上の話は実はどうでもよくて,僕は単に読みながら冷笑的に傍観していただけですが,ちょっと今回の話はひっかかる.漢字が表音文字だと強弁されるのはまぁいいとして,だからといって四書五経が無内容だというのはあまりにひどい妄想(笑).そりゃあなたのように音声によって担保されてなければ意味がない,とまでおっしゃるのならば,四書五経が無内容ということになりますが,意味はべつに音声だけで決定されるもんじゃない(まぁソシュールのラングをむちゃくちゃに解釈されてるんだから仕方ないけど.もちろん「正しい」解釈に訓詁学的にこだわるのもくだらないわけですが).東アジアの文言ネットワークが普遍性を持ったのは,まさに音声から切り離されていたからでしょう.そもそも「意味」は「読む」という行為から生起するもんではないのか.もちろん,それは文字だけに限らないけど.それこそ手話でも何でも同じだと思います.

それに朱子学が道教だというのはいったいどっから来てるのですか.超越性の内在という点で禅と似てるというのならまだしも(もちろん朱子は道教も仏教も批判しますけど,一面では相当継承している箇所があるわけです).それこそ(やな言い方ですが)「と」じゃないですか(笑)極言なんていうけど,単に不用意だと思います.

最後に.近代中国語が日本語の影響を受けてどうの,ということですが,確かに語彙のレベルで見ればそのとおりですが,だからといって白話(俗語)文体の創設(言文一致)が日本からの影響で遂行されたということにはならない.実際,中国で文学革命を主張したひとはイタリアのダンテ,イギリスのチョーサー,ドイツのルターの俗語革命を言文一致のモデルとしていました.近代国家を「想像」(アンダーソン)するにあたって言文一致を経由した「国語」を作り出すことは必須なわけで,べつに日本だけの専売特許じゃない.あと,魯迅は彼自身は白話で書いたものの,文学革命そのものに対しては冷淡なんですね.実際,彼の文体は当時の誰とも似ていない.決して規範的な文体にはならなかったわけです.

ということで,あんまり安易に98%も理解したと言われては困ってしまうので(笑)気は進まないものの投稿してしまいます.僕の趣味ではないのですが.目障りならば消してください.

投稿: ryo | 2004.02.14 23:09

ryoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。率直な私の感想を言います。いくつかのご指摘の点は、ryoさんが正しいと思います。そして、こうした形でのご指摘はまったく不快ではありません。ですから、このコメントはこのブログを読んでいたいているかたにとって益だと思います。スパムのコメントは事務的に消去しますが、いただいたコメントは消去しません。私は真理によって私が倒れることを喜びとするニーチェの徒でもあります。

テクニカルな点については、ソーシュールの扱いにて、私もテクニカルに対応できます。おそらくryoさんも早書きされていると思われている、と思います。現代のソーシュール学の視点からすると、エクリチュールの扱いについてはryoさんのほうが正確です。しかし、この点については、私のブログはふざけた文章ではあるのですが、方法論的な装置の仕立てとして成立すると考えています。

  漢字の根源を音声に見るのはおかしい.そもそも漢字はどう読もうとかまわ
  ないからこそ普遍性を持ったわけでしょう.

この点については、ある意味でご指摘の通りです。なので、「漢字という虚構」を書きました。私の考えをまとめますと、漢字の原義は音価による。そしてその音価とは、古代中国語のラングの音価というのを想定しないと行けない。漢字の形象から原義を考えてはいけない。しかし、その後、および多言語間にあっては、どう読まれても構わないため、普遍性に近い支配・被支配性をもった…。おそらくryoさんとの考えの差異はあまりないでしょう。

「四書五経が無内容」というのは、修辞です。アイロニーです。私が旧仮名遣いのannonymousさんから、愛ではなく仁について問われたときのコメントや千字文についての言及をご参照していただければと思います。私は儒学を尊ぶものです。厳密にいうと、私も日本人で古学の系統に近いので礼記から朱子のように大学・中庸を分けるほどの必要性は感じません。

朱子学が道教であるは、「と」かなという思いはあります。自分ではかなり常識化していました。この点については、ryoさんと意見が明確に対立しています。私は朱子学は道教であると考えています。いずれ、補足しなければいけません。端的に「どこから来ているのか」についていえば、師である岡田英弘です。

近代中国語については、私の見解とそれほど差異はないように受け取りました。ryoさんもご存じであると推測しますが、このことに最初に着手したのは、日本というより宣教師たちです。日本のキリスト教用語もその影響を受けています。

対立点をまとめます。ソーシュールのラングの解釈は私は間違っていないと現状考えていますし、ryoさんのご指摘は、私の解釈に含まれる可能性としての間違いをまだ十分に指摘されていないと思われます。私の考えが間違いであることが明白になるとすればそれはそれで良いことです。また、漢字が原義として音が担うとした私の議論も、十分に否定されていないと理解しています。

あと余談ですが、私の発言は多分に放談ですよ。阿Q正伝を読んで中国の98%がわかるわけなんかありません。ユーモアと介してください。ほか、ああ、あれは冗談なんだけどなという部分をあまりに真摯に受け止められていると思いました。こういう言い方は失礼なのですが、私は今はもう学問の立場にいません。

投稿: finalvent | 2004.02.15 07:38

ryoさんのコメント部分で、言語学のテクニカルな部分だけ、少し補足しておきます。

「そもそもラングってのはどっかでお書きになっていたように文法や語彙の規則なんかではなく,言語表現を規定するシステムのことではないですか.」
→ラングは「言語表現」とは関係ありません。また、「なにかを規定する」システムでもありません。

「よく言うのは言語(ラング)には実体的な指示対象などない,あるのは差異の体系だけだ」
→ラングが差異の体系というのは正しいのですが、ラングは指示対象は持ちません。記号とラングを誤解されています。

「音価が意味を決定する,音声こそ文字(漢字)の根源である,というお話こそ,ソシュールが批判した当のものだと思います」
→誤解があります。「音価が意味を決定する」ことはありません。私が述べたのは音価が意味を担っているということ。また、「音価が文字(漢字)の根源」であるわけがありません。私は、古代中国語の音価が漢字の一部に写像されていると述べただけです。また、こうした点についてソーシュールは関わっていません。

「音声が文字に先立って根源的である,という考えこそソシュールは批判したはずです.現に彼は『書き言葉と文字は,話し言葉へ反作用しないではいない』(「言語学序説」)」
→これも暗黒日記さんと同様に、ラングとパロールの混乱があります。話言葉とは端的にパロールです。もっとも、パロールの領域におけるソーシュールの問題意識は死後の再評価で重視されている点は知っています。

「ラングが共同体の規範(文法)なんだったら,何の画期性もないんではないですか.ラングということによって彼はむしろ音価の恣意性を言ったのではないでしょうか.」
→現代においてソーシュールの発見は画期的なものでないのは当然です。また、後半は、またもラングと記号の混同があります。ラングはただ言語システムであって、音価の恣意性はラング内の記号の問題です。

以上。

投稿: finalvent | 2004.02.15 13:27

    \ウンコー!/
   |   人         ( ( | |\
   | ) (__)  .( (   .  ) ) | | .|
   |_(__)__)___(__| .\|
  /―( ・∀・ )―(――――-\≒
/   /  つ彡          \
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
|______________|

投稿: (anonymous) | 2004.10.14 15:53

▼私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない

混乱の具体的内容が書かれているのを見つけることが
できず 残念です。
 具体的にお教えください。

投稿: 二宮 博 | 2004.10.24 01:46

素人ゆえ理解できず読み直しましたがもちろん理解なしです。

▲「漢字という虚構」を書きました。私の考えをまとめますと、漢字の原義は音価による。そしてその音価とは、古代中国語のラングの音価というのを想定しないと行けない。漢字の形象から原義を考えてはいけない。しかし、その後、および多言語間にあっては、どう読まれても構わないため、普遍性に近い支配・被支配性をもった…。
▲古代中国語のラングの音価はなにによって
想定いたしますか?

投稿: (anonymous) | 2004.10.24 02:03

二宮博さん、こんにちは。この話は関連のエントリが3つほどあります。ご参照ください。

漢字は表意文字という話(2003.2.12)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_30.html

白川静は「と」だと思う(2003.2.10)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_23.html

漢字という虚構(2003.2.13)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_32.html

投稿: finalvent | 2004.10.24 07:23

>>ソーシュール言語学の根幹であるラングとパロールを理解していないよと指摘したのである

ソシエールが正しいといっているのでしょうか?
いっていないようにも感じられますが?
ソシエールの 基本的アイデアは何でしょう?
それが正しい」のですか

投稿: 二宮 | 2004.10.27 22:18

>「よく言うのは言語(ラング)には実体的な指示対象などない,あるのは差異の体系だけだ」
>→ラングが差異の体系というのは正しいのですが、ラングは指示対象は持ちません。記号とラングを誤解されています。

ryo:ラングには指示対象などない
final:ラングは指示対象を持ちません

同じ事を言ってるようだが・・・・

投稿: itf | 2007.05.30 07:29

朱子学が道教だとのこと。道教の定義は何ですか。
朱子学は道学とも呼ばれ、タオを基本とする学問ですが、
一般的に言う道教とは、タオの不可思議性から民衆的迷信に
転じたものです。
迷信に対しては朱熹は当然批判するでしょう。ただそれだけのこと。
なので朱子学は道教であるとか道教でないとかの議論に意義があるとも思えません。
その他漢字についての議論もかな~り的外れだと思います。

投稿: | 2008.08.21 03:20

言語を考えるときに、案外抜け落ちている視点が、文語と口語という視点ではないかと思うのです。

漢字は、元来は、文語を記述するための文字です。漢字成立の出発点からそのはずです。口語と文語の区別が貧弱になってから、近代以降に科学として生まれた西欧現代言語学の考え方がどれだけ漢字になじむのか?こう考えると、白川漢字学も、「漢字の系譜に即して考えている」とするなら、妥当性がないわけではないと思います。

フランス語は、口語の文字による表音化の側面が強いけれど、古代でも、中世でも、文章のラテン語は、明らかな文語のはずで、法律の判決文みたいなラテン語で、ローマ帝国の国民が会話をしていたとはとても思えません。

サンスクリットもパーリも文語です。チベット語も、仏典の文語と日常会話の口語はきわめて異質であるそうです。

ルター訳聖書が出現する前は、世界中、文字文化のあるところは、ほぼ例外なく、文語を操れる少数のエリートが、口語の世界でも支配者だったと考えて間違いないでしょう。イスラムの聖典のアラビア語も、格調高い韻文だそうですから、まず間違いなく文語だろうと思います。

孔子が文語を自由に操れるエリートの養成に力を入れ、仏陀が自身では仏教の教学をサンスクリットで記録することを禁じたことが言語的、政治的に何を意味するのかはよくわかりませんが、文語の使用者の口語の世界の支配の評価としては対照的なのだろうと思います。

言語を考えるとき、音声中心で考えるか、文字中心で考えるかということなのですが、言語の本質を考えるのならば、音声中心にすべきなのでしょう。でも、言語そのものを問題にするのではなく、コミュニケーション論やメディア論を考えたいのであれば、おそらく、文字の発明、紙の発明、印刷技術の発明の世界史に対する圧倒的影響を振り返れば、文字の記録を中心に考えたほうが誤りの少ない結論を得られると思います。

そして、白川漢字学は、言語学の側面よりも、コミュニケーション論やメディア論の視点のほうが豊穣なのも確かなのです。

投稿: enneagram | 2009.03.29 08:46

本日、加賀野井秀一先生の「20世紀言語学入門」(講談社現代新書1248:1995年4月20日第1刷発行)という良書を読み終えて、次のようなことが了解できました。

「人間のこころのありかたと、ことばのありかたと、よのなかのありかたは、密接に結びついている。」

上記の本は、基本的には、ソシュールの学問と、そこから派生した学問の概説書です。

この本を読んで思ったのですが、私も、いままでfinalvent先生の意見と同じく、日本は、道教文化圏であり、中国との異質性が明確に顕著になってきたのは、日本の都市に大衆文化が誕生した17世紀(江戸時代中期)を過ぎてからであり、日本文明圏はシナ文明圏とは別の一文明圏ではないという考えを持っておりましたが、はたして、日本と中国は、生活している国民(住民)の

「こころのありかた」、「ことばのありかた」、「よのなかのありかた」

について、同一文化圏にくくれるであろうか?と疑問を持つようになりました。

ついでに言えば、「人間のこころのありかたと、ことばのありかたと、よのなかのありかたは、密接に結びついている。」という考え方は、本居宣長の基本コンセプトです。本居宣長もある種の言語哲学者だったのだろうと思います。

日本では、道教は、(もちろん仏教も)、導入のはじめから換骨奪胎されていたのかもしれません。きっと、本家中国とは異質な取り扱いをされただろうと推測します。少なくとも、体系的な道教は、日本には移入されていなかったのだろうと思います。そして、移入された「体系的な道教」が朱子学だけだったから、神道が成立しえたのだと思います。

漢字について言えば、漢字が日本に入るようになったころには、楷書体も行書体も草書体も確立していました。日本においては、漢字は、甲骨文字以来の歴史と伝統をまったく背負っていなかったというわけです。日本人にとっての英語が、ラテン語の伝統をほとんど背負っておらず、日本人にとっての自然科学や社会科学がスコラ学の伝統をほとんど背負っていないのと同様です。

私たちにとって、漢字は虚構ではありませんが、甲骨文字や金文は虚構です。そんなわけで、白川漢字学が「虚構学」に過ぎないのは致し方ないのです。

投稿: enneagram | 2009.07.25 08:20

~ 読みやすくなるよう、今までの投稿を「加筆・整理縮小」しました。いままでのものと重複するので、掲載してもらえるなら、こちらを載せてください ~

①道教についても触れられているので、その遡源である「荘子(内篇)」について少し書かせていただきます。世界を構造的に捉えようとした点において、「ユークリッド幾何学」の元となったプラトンの「イデア論」と「荘子(内篇)」は、とてもよく似ています。「イデア」と「真(宰)」には、通じるところがあります。しかし「荘子(内篇)」は「幾何学」に昇華していません。漢字による論理構築をほぼ完成した段階で「荘子(内篇)」は終わってしまうのです。なぜ「荘子(内篇)」から「幾何学」が生まれなかったのか ~ わかりません。

むしろ、なぜ「イデア論」からだけ「ユークリッド幾何学」が完成したのかを問うべきなのでしょう。なぜ「エジプト」だけにおいて「幾何学」が発達したのか、ピラミッドが完成したのか、ということなのでしょうが ~ わかりません。河川の氾濫などは、どの文明、文化圏でもおきていただろうし。


②>>楷書体も行書体も草書体も確立していました。日本においては、漢字は、甲骨文字以来の歴史と伝統をまったく背負っていなかったというわけです。

これは間違っています。"まったく背負っていなかった"のではなく、"誤まった字源を正しいものとして受け入れていた"のです。国語辞典は問題ないのですが、漢和辞典の「字源」については、問題があると思います。enneagramさんは、漢和辞典に「字源」がのってなくてもよいと思いますか? ~ 約2000年ぶりの修正となります。


③>>孔子が文語を自由に操れるエリートの養成に力を入れ、

これも間違っています。簡単にいうと、孔子は老年になり地元(魯)に帰るまでは、世に受け入れられることのない危険な思想家であり、貧乏な漂泊者(達)です。古代社会(西周)の再生を夢み、人徳(仁徳)とそれを実践するための儀礼的な手続きである礼を説いただけです。論語は孔子が書いたわけではありません。孔子の言っていたことをポツポツと拾い上げた、シンプルな散文集です。誰が書いたのかはわかりません。ソクラテスについて弟子であるプラトンが書き残したのと同じです。エリートの養成に力を入れたのは、孔子の名声が確立した後に登場する孟子からでしょう。ですから、

>>儒家が文語を自由に操れるエリートの養成に力を入れ、

ならOKです。なお、「孔子⇒顔回⇒荘子(内篇)⇒老子」というのが、思想的には順当な系譜になると思います。~ 今はそう捉えている人のほうが多いと思います。細かいですが、確認まで、指摘しておきます。


④ではなぜ、「孔子⇒顔回⇒荘子(内篇)⇒老子」という思想的な系譜が出現したかというと、これは「四書五経」がすべて正しいという、「儒学」の規範から、我々が脱皮することができたからでしょう。「典故」を含めて丸暗記するのではなく、近代人文科学の視点(古くは清代考証学あたり)から、「四書五経」を読み直しはじめたからです。その意味で「四書五経が無内容」という、いまさら「四書五経」の暗誦なんて...といった感じの、finalventさんの指摘は的を得ているのです。

具体的に言うと、「論語」については、東北大学の武内義雄(『論語の研究』岩波書店 1939年)が、近代実証研究の端となっていますし、白川静も「孔子伝」で新しい「孔子像」を論じております ~ 孔子伝は白川静の書籍の中で最も実証的でない本だと思いますが、最も情熱的に書かれた本であると思います(私は、白川静の初期作品を愛読しています ~ 後期作品もそこそこ読んでいます)。何より白川静が、M.グラネの研究(中国古代の祭礼と歌謡)に触発され、新しい「詩経」像を発見したのは大きい。一角が完全に崩れた結果、細々とですが、全体の見直しが行われるようになったのです。

~~~
他方、「四書五経」を丸暗記していたほうが、漢籍の書き下しの素養が高まるのも否定できません。近代以前の我々日本人は、そういう勉強をしてきたのです。江戸時代の寺子屋とか、enneagramさんのいう「四書五経」を諳んじた、文語を自由に操れるエリート層(儒家)とか。

加えて「仏典の翻訳」によって漢籍の書き下しの素養を養っていた場合もある、というか多大な影響を与えていたのではないか、と。

わかりやすくたとえると、吉田松陰などは、「四書五経」を暗誦した上で、陽明学の本を素読し、その血肉としていたはずです(明治維新は"「功利の毒」を徹底的に排した"、鉄人、吉田松陰の「陽明学」によってその端を切りました)。

⑤漢字の「虚構」についてですが、あえてここで「虚構」という哲学用語を使う必要があるのかどうか、疑問に思います。不要でしょう。インパクトはありますが。「脱構築」や「再構築」という哲学用語(方法論)を使うならわかりますが。

では、やはり、反論・修正・拡張されるのを、楽しみに待っております(zzz)。

投稿: moppy | 2017.06.29 06:32

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