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2004.02.11

仏教入門その1

 私は仏教を理解しているとはとうて思えない。私の仏教入門など、お笑いぐさだろうと思う。が、メモがてらに書いてみたい。自分の人生のちょっとした追想のようなものであるからだ。
 仏教を知るのに最適な書籍はなにか。私の結論は「大乗起信論」である。現代語訳付きで安価な岩波文庫のものが近年出ているのだが、アマゾンを見たらすでに在庫がない。ある意味、よいことだと思う。大学の教科書などで利用されているのだろうと推測する。皮肉を言えば、よって、古書でより安価にありそうなものだが、アマゾンの古書にもない。
 現代思想かぶれには、井筒俊彦の「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 中公文庫BIBLIO」が受けるだろうが、井筒俊彦はあまりお薦めしたくない。デリダとかお薦めしたくないのと同じ理由だ。私は井筒のファンとも言ってもいいのだが、こうした本は若い人には害があるように思う。
 現状、大乗起信論は安価なものはなさそうだ。「訳注 大乗起信論」はデータベースを見る限りよさそうだが、私は読んだことがないので、お薦めはできない。リンクはあくまでご参考まで。
 大乗起信論を薦めておきながら、大乗起信論をおまえは理解しているのかと言われると、胸をはってそうだとは言い難い。迂回した経緯がある。私は大乗起信論を英語で読んだ(正確には大乗起信論解説書)。"Outlines of Mahayana Buddhism"である。おそらく仏教を研究する人間でこの書物を読まない者はモグリである。マックス・ヴェーバーですらこれを基礎文献とした。この翻訳は全集などに存在していないのかと思って、戯れに検索してぶったまげた。あるのだ。しかも、しかも新刊ではないか! 岩波書店から「大乗仏教概論」。残念なことに値段が6300円なので、おいそれとお薦めできない。しかし、この書籍を読まずに現代で仏教を語ることは、やはりモグリと言っていいだろう。
 著者は鈴木大拙である。私は、大拙の著作の大半は読んだ。大衆向けの啓蒙書も多いので読みやすい。が、現在私は大拙の仏教理解には批判的だ。それはなにも彼が戦時国粋主義だったとかいう浅薄な問題ではない。禅について、私はまったく異なる立場に立つようになったからだ。恥ずかしい言い方だが、私は道元の徒である。臨済禅や禅文化など認めない。禅文化が日本文化に寄与した美については恥ずかしいが耽溺しているのも事実だが。
 Outlines of Mahayana Buddhismは大拙の30代の若いころの作品で、英米圏の読者をターゲットにしているせいか、逆に英米圏の文学的な参照やレトリックが多いので、現代人には辟易する部分もあるかと思うが、それでも仏教の抹香臭い概念を英語でずばりと置き換えていく大拙の明治人の胆力には驚嘆する。おそらく、英文とつきあわせてよめば、仏教とはこういうものだったのかと愕然とする人もあるかと思う。私がそうだったからだ。
 大拙の著作もまた薦めない。彼の弟子気取りの秋月龍岷の啓蒙書など読む意味はない(ひろさちやなど噴飯)。が、「一日一禅」は手頃な便覧として便利である。彼の解説はご無用。大拙については、例外として、岩波文庫の「日本的霊性」は薦める。教養人の必読だろう。だが、この書物も実際にはあまり読み込まれていない。重要なのは、この「第4篇 妙好人(赤尾の道宗)浅原才市」の信仰なのだ。つまり、親鸞・蓮如を経由して出現する妙好人という存在をどう考えるかは大きな課題であり、大拙の実は難しいところだが、彼は禅よりも親鸞に傾倒している。余談だが、大拙は今から40年くらい前か、現代人は漢文が読めないで困るとぼやいていた。
 大拙は、仏教理解に大乗起信論、そして禅の理解に楞伽経を薦めている。楞伽経については、中村元の「『華厳経』『楞伽経』現代語訳大乗仏典」がある。初期禅の持つ存在論的な経緯を知るにはよいのだが、難しいすぎると思う。それでも、昨今の日本の浅薄な禅ブームから離れるために、目を通されるとよいのではないかとも思う。
 中村元の著作についても薦めない。文藝春秋の仏教入門で宮崎哲弥は彼の訳書「ブッダのことば―スッタニパータ」を薦めていた。私はこの本をよく読んだ。絶えず携帯し紛失しては再購入した。でも、これも私は薦めない。この本は、あたかも仏教の原点を早呑み込みして宮崎哲弥のような浅薄な者を生み出すだけだからだ。読むならこの本に描かれている「ブッダ」の伝承が、実は、どれほど呪術にまみれているのかをよく読み取らなくてはいけない。また、オウム真理教の小利口な者たちもこうしたパーリー語文献の世界に墜ちていったが、パーリー語文献から原点となる真の仏教なるものが発見できるわけではない。諸宗教に言えるのだが、原点の集団はあくまで社会学的な再構成モデルに過ぎない。教義もまさに社会学的モデルとしてその歴史社会の相関としてみなくてはいけないものだ。それをいきなりエクストラポーズして現代に持ち込んではならない。
 私は、仏教理解には、大乗起信論がよいとしたが、これには大きな問題がある。人をこの迷路に誘うのではないかと懸念もある。この問題を端的に表しているのが、「本覚思想批判」だ。現代の仏教書でこれほど面白い本はないとも言えるが、6500円は学生の小遣いで買う本でもないだろう。内容は、まさに大乗起信論を批判する点にある。類書といってはなんだが、「縁起と空―如来蔵思想批判」も面白い。
 と書いていて、中論や唯識まで触れる気力が失せてきた。唯識からチベット仏教にまで触れなくてはいけないし(欧米の仏教学はチベット仏教が主流だ)、途中、密教の問題にも触れるべきだろう。迷路のようだ。また、日本民俗のなかの仏教には、こうした教典系の知識は役にたたない。なぜ日本の仏像は阿弥陀、薬師、観音なのか、端的に考察した書物を知らない。
 なにも知識をひけらかしたいわけではない。
 大乗起信論で本当の仏教が理解できるのかと言えば、私は「本覚思想批判」の袴谷に近い。しかし、歴史的に仏教がなんであったかという問題にすれば、やはり大乗起信論を理解しなければいけない、とは言えるだろう。つまり、歴史学の視点だ。騙すようだが、宗教学なり私自身の宗教的な見解ではない。
 ついでだが、「道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元」について、私はよく理解できない。私は近代に出来た「修証義」は総体としては間違いだと考える。私は曹洞宗にはまるで関心がない。修証義を講ずる僧をまるで信じない。そして、道元については、―十二巻本「正法眼蔵」は不要なのではないかと考えている。
 袴谷が「法然と明恵―日本仏教思想史序説」で明恵を廃するのは理解できる。だが、日本史の理解にとって、明恵は北条泰時という傑物の文脈で見なくていけない。また、法然はその実践である親鸞に下るしかないだろう。そうした、袴谷と私の考え方のズレは、―十二巻本「正法眼蔵」の理解にも影響している。端的なところ、私は道元の晩年というものがよく理解できない。

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コメント

はじめまして。
「楞伽経」で検索していたら、こちらにたどり着きました。
ところで、「その1」ということは、続きを予定されているのでしょうか。ブログというものが、いまひとつよくわかっていないのですが、こちらのアドレスを「お気に入り」に入れておけば、続きを拝見できるものでしょうか。
続きを楽しみにしておりますので、よろしくお願い致します。

投稿: 闡提 | 2005.03.10 00:52

闡提さん、こんにちは。右欄の専用Google検索で再度検索してみてください。網羅的ではありませんが、やや仕組みがご理解いただけるかと思います。

投稿: finalvent | 2005.03.10 06:58

Yahoo Blogで、最近「大乗起信論」をやっています。興味がおありであれば、寄って見てください。URL~面倒で省略します。あしからず。合掌

投稿: kyomutekisonzairon | 2005.08.22 00:02

仏教入門に最適なのは「大乗起信論」ですか。
読んでみようと思います。

実は、天台本覚思想のことを調べていて、
こちらのHPにたどり着きました。

以前はてなでお目にかかったような気がします。
よろしくお願いします。

投稿: ShinRai | 2007.01.20 20:01

明治維新後、日本が、西欧の列強のルールを習得できた後は、日本は、飛躍的な発展ができました。自身、大国となり、列強に加わりました。

戦後、日本は、アメリカがそのつど取り決めるルールをうまく飲み込んで、西側のもっとも優れたプレーヤーであったがゆえに、大発展できました。

わが国は、すでに構築されている世界基準を受け入れて、すぐれたプレーヤーになるのは得意のようです。

仏教の受容も、歴史的にはそんなところかもしれません。

唯識や華厳というのは、その当時の世界標準の決定者であった中国の唐朝が、圧倒的政治力で域内や周囲に押し付けていた、当時の世界標準であったのかもしれません。奈良時代の日本は、世界標準の習得に必死に励んでいたのかもしれません。

鎌倉時代に、栄西禅師が禅仏教を持ち込んだら、鎌倉幕府が宋元の禅の高僧を日本に招いて、上級武士階級への禅宗の普及に力を入れたのも、禅仏教というのは、当時は、北宋南宋が、強力な経済力を使って東アジア世界に押し付けていた、その時代なりの世界標準だったのだろうと思います。

徳川家康も、朱子学の影響で建武の新政が起こったことも、朱子学を身に着けた五山の高僧が政治に口出ししたがために以前の時代に悶着が多かったことも知っていたと思います。それでも、幕府の統治のための学問として朱子学を採用したのは、幕府の統治に都合のよいイデオロギーであったからというより、当時の東アジア世界の支配的イデオロギーが朱子学であったゆえに、世界標準に従ったという側面もあっただろうと推測しています。徳川家光の鎖国というのも、その当時の東アジアでは、海禁政策を採るのが普通だから、それに従っただけだと思います。

そんなわけで、行儀のよい日本人は、あまり主体性なくなのか、ひどく主体性を発揮してなのか、その時代の世界標準(グローバルスタンダード)には、素直に従ってきました。

現在とこれからの時代は、既存の基準に従うのではなく、自分たちも積極的に基準、規約つくりに参加し、重要な役割を果たさないといけなくなります。

そうなると、自分たちのものの考え方や、物事の処理の仕方のどうしても自然にそうしてしまう「くせ」とでもいうべきものを自覚するのは、他者に自分たちを説明する上で有益だと思います。

まあ、そういうわけで、仏教の知識というのも、それがありがたいとか真理であるとか、価値観を強く押し立てないで、自分たちの先祖たちがずっと昔努力して習得してきた世界標準の知識の蓄積のなごりだとでも思えば、今の若い人たちも偏見なく仏教の知識に触れられるのではないかと思うのです。

投稿: enneagram | 2009.03.27 09:48

「他人を助ければ、あなたも助けられる。あるいは明日、あるいは百年の後に、ともかく助けられる。自然は負債を全部支払わなければならない。それは数学的法則である。すべての生命は数学である。」

- G.I.グルジェフの1924年8月12日のプリオーレでの講話の一節


仏教の骨子というのは、基本的には、善因善果悪因悪果に尽きるのだろうと思います。

七仏通戒げ
「もろもろの悪をなすなかれ もろもろの善きを行え
 己が心清かれ これ諸仏のみ教えなり」

結局、誰でも、その人の徳分以上の果報はないし、悪業を積み重ねれば、必ず相応の災厄が起こるという道理が仏教の基本とでも言いましょうか。だから、果報を求めるよりも徳分を積む努力をするべきであるし、災厄を恐れるなら悪い行為をしないように心がけるべきであるという、こういってしまうと身もふたもないのが仏教の基本骨格なのだろうと思います。

この考えを担保するために、仏典から少し引用をしたいと思います。おそらく、以下は、歴史上の仏陀の直接の説法であっただろうと思います。

ダンマパダ(法句経)71より
「悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。」

ダンマパダ119より
「まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。」

ダンマパダ120より
「まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。」

投稿: enneagram | 2009.03.27 16:36

前のコメントで、「直接の説法」としましたが、「直説の説法」の誤りです。

また、七仏通戒げの漢文の原文は、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
です。どうも、これも出典は、法句経(ダンマパダ)らしい。

中国の唐朝か宋朝か元朝がイスラム化していれば、日本も、歴史の早い段階で(きっと特異な)イスラム国家になっていたのだろうと思います。中国が常にイスラムに寛容であったのに、全土がイスラム化しなかったのは不思議な気もしますが、インドのイスラム化も、ムガル帝国による軍事支配によるものなので、既存の文明大国というのは、軍事支配されない限り、簡単にイスラム化はしないのかもしれません。

ともかく、中国では、中国化したインド仏教から仏教の体裁をとった中国の土着宗教を経て、仏教の影響を極度に受容した儒教が文化の主流、官許の学問だったわけで、日本も、それに合わせて、一応、儒教倫理のいきわたった仏教国ということなのでしょう。きっとそういうことにしておいたほうが、外国人には説明が容易であろうと思います。韓国は、ウラル・アルタイ語族特有のコリアンシャーマニズムを国情の基盤にした国だ、としたほうが実情にあっているとしても、韓国の基本的な思想風土は、圧倒的に朱子学が主流で、最近ではキリスト教徒が多い、と説明するほうが、外国人には話がわかりやすいのと同じようなものです。

投稿: enneagram | 2009.03.28 09:09

今日(2009年5月2日)は、旧暦の花祭り(釈尊誕生会)。芝増上寺におまいりに行ってまいりました。増上寺境内の熊野神社と、芝大神宮にもおまいりしました。

釈尊のさとりとか、おしえとか、その善因善果、悪因悪果の因果応報の教えは、ありがたいといえばたしかにひどくありがたいし、つまらないといえばこれほどつまらないこともない、真理とはそういうもののようです。釈尊は楽していい思いのできる方法などまるっきり説いてくださらなかったわけです。むしろ、努め、励め、というお説教ばかりされました。

妙法蓮華経も、あれは、内容を吟味してしまうと、阿含宗の桐山管長先生の言うとおりで、まるっきり無内容で、功徳の宣伝と、たとえ話ばかりなんです。

でも、サンスクリット原典のサッダルマ・プンダリーカなり、漢訳妙法蓮華経なりを口に出してお唱え申し上げると、きわめて韻律の美しい宗教文学で、読経すること自体が善行であり、心身を浄化する作用を持っていて、天と魂に功徳を積めるというわけです。提供している意味が大切なのではなく、どこまでも、面倒くさがらずに口に出して唱えることが大切なんです。

それで、天台大師によれば、妙法蓮華経の功徳は、万人を救済することができる、ということになっているんです。いっぽう、唯識論や、唯識論に基づきまた唯識論を用いている華厳思想(実は、華厳経そのものが唯識の経典でもあります)だと、この世には、仏説によって救済できない種類の衆生がある、という結論が出されています。

唯識の結論で、仏説でも救済できない連中というのは、ナチスとかスターリン主義者とか、そういう連中だろうと思っています。わたしは。また、妙法蓮華経を読経しても、題目を唱えても、ユダヤ人やスラブ人をこの世から根絶やしにする大虐殺に着手するようなやつは、きっと地獄に行くだろうと思います。

唯識論によれば救われない、とかいうのは、きっとそういう極端な話のはずです。そういう極端な例を取り上げれば、妙法蓮華経だろうが、阿弥陀如来の本願だろうが、きっと、どうにもしてあげられないだろうと思います。

それでもね、そういうことをやったやつらでも、地獄でめちゃくちゃ苦しんで、それから改心して、何度もの生まれ変わりの生涯を、生まれ変えるたびにひどい目にあいながらも、天台大師の教えに従って、妙法蓮華経を日々読誦する生涯を何度も繰り返すと、もしかしたら、何度目かの生涯には、仏説の功徳に預かれる可能性があるのかもしれません。

ただ、無神論者になって人殺しをするような輩たちは、何べんこの世とあの世を往復しても、妙法蓮華経の漢訳者の鳩摩羅什三蔵法師とも、天台大師ともご縁を結べるような生涯にはありつけないのかもしれないし、ご縁にありつけたところで、せいぜい、篤信家の家に住まうゴキブリかハエのたぐいになってからご縁にありつければまだめっけもの、というようなことなのかもしれません。この世に生まれて、何も悪いことをしないで死んでいける人など誰もいないのだけれど、取り返しのつかない悪いことはするべきではない、ということです。絶対自分に結果が跳ね返ってくる訳だから。


諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教
(もろもろの悪をなすなかれ もろもろの善きを行え
己がこころ浄かれ これ諸仏のみ教えなり)

投稿: enneagram | 2009.05.02 10:10

日蓮大菩薩の「開目抄」を読むと、

「また倶舎・成実・律の三宗は、小乗阿含経によっている。」

「世尊はさきに鹿野苑においては阿含経を讃歎し、二百五十戒を師とせよ、などといんぎんに・・・」

とあって、日蓮さまも阿含経はよくご存知で、また、中国にも日本にも阿含経に立脚した宗派(学派)があって、それは「小乗密教」の宗派が昭和時代に生まれるずっと以前からあったわけです。

また、横山紘一先生の「唯識思想入門」(第三文明社)の「はじめに」を読むと、

「よく「唯識三年・倶舎八年」といわれ、唯識学をマスターするには三年かかると考えられている。しかし、正確に言えば、倶舎学をマスターしたうえで初めて唯識学を理解することができるのであるから、唯識学を完全に修得するには十一年も―それも毎日それを学んでのことである―かかるということになる。」

と説かれていて、なんのことはない、唯識の学匠は、故橋本凝胤先生も、横山先生も、倶舎論を学ぶ課程で、阿含経典を徹底的に学んでいたんです。はっきりいって、橋本先生や横山先生の方が、阿含宗の桐山管長先生より、阿含経について、ずっと精確精密緻密な知識を持っておられるであろうと思います。桐山先生は、倶舎論など習得してらっしゃらないだろうから。

結局、だれでもそうだけれど、半可通は、恥知らずにでたらめな知識を撒き散らすんです。

同じような半可通の話。また、銀座まるかんの斉藤一人社長登場。

「お金というのは、神の霊感なんだ。神さまのアイディアがお金になったんです。」
「もし、お金がなかったら、物々交換という形になるんですよ。」
「本当にそれでいいんですか?」
(以上、「斉藤一人 変な人が書いた驚くほどツイてる話」 三笠書房 知的生きかた文庫より)

近日、また、アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー夫妻の「富の未来」を読み直したんだけれど、通貨制度というのは、維持するためにコストもかかるし、リスクも大きいのだそうです。それで、情報通信技術が発達したために、売り手と買い手が互いに見つけやすくなって、現在は、貿易での決済がバーター、すなわち物々交換になる比率がどんどん大きくなっているんだそうです。物々交換にしたほうが、通貨決済のコストとリスクを大幅に軽減できるんだそうです。

身近な現実の背後で、大きな仕組みが地殻変動を起こしていることがまったくわからない。自分と等身大の現実以外を知ろうとしないし関心も持てない。こういう人が巷では経営者の「鑑」みたいだけれど。

私も、あんまり他人の悪口ばかり言っていると、悪口と妄語の罪科で、先行き、見苦しい生き方と見苦しい死に方が待っているのかもしれません。でも、私の見苦しい生き方と死に方は、釈尊の因果応報の教えの正しさを立証し、その教えの正しさに従う見苦しい生き方と死に方だと思っています。

桐山管長や斉藤社長は、これからも見栄えよく世間を渡っていけるのかもしれません。それはそれで、孫悟空でもできなかった、仏陀の手のひらを飛び越えることに成功するのだから大したものだと思います。でも、仏陀の手のひらの向こう側は、きっと、引っかかりもつかみどころもない、つまらないところだろうとも思います。

それで、また、仏陀の手のひらの内側に戻ってきて、他人からほめられたり、他人に威張ったりしようとすると、きっと、仏陀の指の根元に昔自分が垂れた小便のしみとにおいが、仏陀の手のひらの中でいつまでも付きまとってはなれない。たぶん、そんなところではないかと思うんです。

投稿: enneagram | 2009.05.11 06:31

正直言って、自分も、民事で提訴されて、謝罪広告を出せの、何千万円、何億円損害賠償しろのといわれれば、最終審まで裁判で争います。

でも、名誉毀損で刑事告訴されたときには、起訴されたら、最長3年くらい刑務所に行くのも仕方ないか、と思ってやってます。

執拗に攻撃するんだから、そのくらい覚悟しています。

でも、阿含宗にしても、斉藤一人社長にしても、船井幸雄先生にしても、公開されている情報だけを問題にします。繰り返しますが、非公開の業務の話は持ち出しません。

こちらは、名誉毀損で民事なり、刑事なり、裁判の被告になることも覚悟して攻撃しています。

投稿: enneagram | 2009.05.11 16:18

諸宗教に言えるのだが、原点の集団はあくまで社会学的な再構成モデルに過ぎない。教義もまさに社会学的モデルとしてその歴史社会の相関としてみなくてはいけないものだ。それをいきなりエクストラポーズして現代に持ち込んではならない。

↑ここ、分かりやすく書き直してください。重要なところだと思うのでサラッと伝わりにくい書き方で済まさないで下さい。

投稿: | 2014.04.14 10:17

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