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2004.02.10

この外に仏法の求むべき無きなり

 雑談である。しかも愚痴である。文藝春秋三月号を買ったら「仏教入門」が載っていた。愚劣な内容だった。文藝春秋もここまでくだらなくなったか。まったく大学を出て文藝春秋なんか読んでいるようじゃだめってことだな、と思う。
 玄侑宗久、こいつに一喝する者はいないのだろうか。臨済宗か、それで禅か。勝手にしろだな。ひどい世の中になったものだ。お次が本願寺派の門主。「一日五分、語感を研ぎ澄ませよ」か。親鸞ならなんと言うだろう。これも勝手にしろの部類だな。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 親鸞には弟子はいない。僧ですらない。面々の御はからひなり、勝手にしろってことだ。
 山折哲推については、今は言及しない。成仏(餓死)するか俺は見ているぜ。石原慎太郎はどうでもよい。
 四国遍路、そんなもの仏教に関係ない。森永卓郎、なぜ? 養老孟司、お笑い?
 宮崎哲弥。なんなんだろう、この兄さん。

 私は仏教者である。だが仏教徒ではない。
 「徒」という語は、「徒党」などいう熟語を構成することからもわかるように「なかま」「ともがら」を意味していて、どうも仏教を信奉する者を表わすのに相応しくない。

 のっけからくるよな。仏教は出家集団の宗教である。出家しないものは、ただの衆生である。それだけだ。仏教徒とは出家者を意味するのだ。おめーには関係ない。もっとも、維摩経など持ち出せば理屈はどうにでもつくか。とこで、その「仏教書案内」を見るに、維摩経はあるか? ない。
 と、宮崎哲弥をくさしても意味はない。このてのやつら根は深いからだ。明治時代になって、東大の印度哲学あたりが、単なる理論的な構築でしかない原始仏教なるものを、ファンダメンタルな仏教と考えていく傾向があった。どこかに宗教の原初があり、そこに真理があるとう発想は極めて近代的なものだ。
 と、書いて、これでおしまい。日本の仏教の堕落は日本仏教とまったく同じだ。戒もなき仏教などあるわけもない。日本の僧侶は他国の仏教徒からは僧侶扱いされない。肉食妻帯がなぜ僧侶なんだ?
 日本の仏教の堕落は道元の時代でも同じだった。道元は千年先まで届く正法を日本に残した。あとはどこかに正師がいるかだ。日本のどっかに一人くらいいるんじゃないか。一人いたらいいのでないか。道元もそう考えていた。
 本当の仏法を継いでいく僧が日本にたった一人でもいるだけで、衆生の希望となるのだから。

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コメント

いやあ、コレ胸に刻みましょう、時には言いましょう。
なんで宗教をナンかイイもんだと思っちゃうんでしょう。
宗教なんかなくて済んでんだったら、なくていいじゃん。

少なくとも正宗でなきゃ信心なんか意味ないし、それなしで毎日暮らしてこれてるんだったら、そのほうが幸せなんだといっそ割り切っちまえばいいと思うんですけどな。

仏教的な物言いはしっくり来たり好きだったりするけれども、日々の現実の場面での判断の助けにはならないことが多いと思いますね単純に。それは単に仏教が古い昔の思想だからだと思うんですけど。
仏教にこだわらず、毎日を生きる元気をくれる思想を(若者は)探したほうがいいと思います。

ちなみに私の若いときには、それはいっとき「ヒップホップ」だったです。
今は仏よりヒンドゥーの神々が好きです、狂ってて。

投稿: gonzo | 2004.02.10 23:59

すいません「正宗」って「日蓮正宗」じゃないですよ。
正統とか本格みたいなこと言いたかったんですけど、言葉を間違ってたらごめんなさい。スレ汚し申し訳ない。

投稿: gonzo | 2004.02.11 01:12

gonzoさん、こんにちは。「ヒンドゥーの神々が好きです」はすごいですね。私もカルカッタではカーリーが興味深かったです。媽祖もカーリーと関係あるみたいですね。

投稿: finalvent | 2004.02.11 09:55

>日本の僧侶は他国の仏教徒からは僧侶扱いされない。

仏教自体、名の知れた、歴史の長い宗教の中(他はキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教など。こういう時、ユダヤ教は入るんでしょうか?)では今最も勢力が弱いそうです(例えば発祥の地インドにはほとんど信者がいない)。
「日本の仏教(大乗仏教)と他国の仏教(ほとんどが小乗仏教)は違うから」というのは日本の仏教家(?)の言い訳なんでしょうか?

ちなみにヒンドゥー教の中では「ブッダは道を修めた立派な聖人だが、道を踏み外した(仏教を創始したことを指す)」という位置づけのようです。
ヒンドゥー教と言えば、カーストのおかげで現代社会の中ではちょっと肩身の狭い(まあ一神教の人にとっては「多神教だからだめ」ということもあるんですが)宗教ですが、カーストの社会的機能は何も身分の高い人の権益のためばかりではなく、身分の低い人にとっても「完全に住み分けることで余計な精神的ストレスを防ぐ」→「摩擦・トラブルの防止」という面もあると思います。不特定多数の人と平等に暮らしていくのは意外に大変なのかもしれません。
かといって自分がもしヒンドゥー教徒に生まれるんだったらやっぱり身分は低いよりは高い方がいいですが。
(ちなみにヒンドゥー教国ネパールで異教徒の外国人は上から3番目の階級を振り当てられますが、これは例外措置の特別扱いです。国際援助を受け入れている国、あるいは観光大国としての苦慮かと思われます。)

投稿: 西方の人 | 2004.11.11 22:16

連続ですみません。

>これは例外措置の特別扱いです。

というのは他の国と比べて、ということではなく、教義にないという意味です。
あいまいなので訂正させてください・

投稿: 西方の人 | 2004.11.11 22:22

これも面白いなぁ(w
感謝(-人-)
(否定的ニュアンスのレスつけててもレス付ける時点で評価しておりますです)

西方の人さん。
私のこれも雑学として学んだものですが。

大乗仏教と上座仏教(小乗仏教の別名です、大衆・大乗/上座・小乗)の分離は。
初期仏教(元記事での原始仏教と意味同じ)からたった100年。
現在日本以外で大乗仏教が残ってないというのは、ただ単に、力で押し負けたというだけの理由になっちゃうんですけどね。

大乗仏教の主な部分は、あまり宗教だと認知されないまま、そして名前は残さないままに中国の習慣として取り込まれています。
そして日本への流れも当然そこから。
日本に来て、現地宗教と混ざり合い、また独自の道を歩きました、日本の仏教もあくまで大乗仏教の一派としかいえない。

小乗仏教はインド現地では、学問のような発展をしています、哲学に近い。
乱暴に言えば学問の辿る悪い道筋の一つで、誰にも理解されなくなって滅びてしまった。
今残る小乗仏教は、初期に伝播して、学問への発展を免れた素朴なものだったりするんですが。

日本に残る遍歴を伸べまくったものと、お互いに認められなくても、別に構わないぢゃん、ていうか無理だよもうとしか思えないのですが(w
あと、大乗の流れで密教とかもあるんですよね。
あと仏像とか仏教美術もまたややこしいし。

投稿: 紅玉石 | 2004.11.12 10:08

あぢゃぢゃ。
せっかく小乗を上座と言い換えたのに、続く説明を入れ替え忘れました(蔑称なんですよコレ)orz

投稿: 紅玉石 | 2004.11.12 10:55

>紅玉石さん
ありがとうございます。
書いた後で「うひゃー、小乗って大乗から見た場合の蔑称だわ(ひやひや)。でも何ていうんだったけ?」と思っていたところでした。

イスラム教やらキリスト教のことやらは本や聖書を読んだり人に話を聞いたりして、豆知識みたいなもの知ってはいるものの仏教については、実はほとんど知らないのです。

実はイスラム教国にいる間に「んー、やっぱり宗教って大事なのね」という実感があったので「そうなると私にとっては仏教なのか」「でも何か違うような...」という思いがありました(生活・活動していく上での便宜上、現地の人には「仏教徒」で通していましたが。無宗教だと「人間として欠けている」と思われることが多いからです。)
今、福音書派の台頭が取り沙汰されるキリスト教国(に近い地域)にいて「やっぱり無宗教でいたいなあ」と思います。
(イスラム教国で知り合ったアメリカ人が「僕は無宗教だ」と言っていましたが、その人の存在がいかに貴重なものだったか、今さらながらに感じる今日この頃。)
「神様を信じるかどうか」も本当は棚上げしたいのですが、無難に暮らしていく上で、今のところアメリカ人と宗教の話をする時は「いる」ことにしています。
福音書派に対しては何となくアレルギーがあるんですが、よくよく考えてみたらいろんな点でイスラム教に近いのでした。(その多くは双方の「原典に忠実に」という姿勢から発生しているような...。彼の国では「これはコーランに書いてある」ということが人によってばらばらだったけど。)
やっぱりイスラム教に思い入れが強いのか。でも彼の国では特に「押し付けがましさ」を感じなかったというのも大きな違いかも。(圧倒的多数派がイスラム教である故の余裕せいかと。)

ちょっと話がずれましたね。

投稿: liyehuku | 2004.11.13 00:08

すみません。
うっかりHNを間違えました。

せっかく変えた(liyehuku→西方の人)のに意味ないじゃん
>自分!!

ひやひや。
何度もすみませんんです。

投稿: 西方の人 | 2004.11.13 00:15

今頃ですが、面白く読ませていただきました。
皆さんのコメントもですが。

一仏教者です。

投稿: はく | 2010.08.02 23:14

「仏教徒」の概念に、事実誤認があるようなので、指摘します。

出家した比丘と比丘尼だけでなく、在家でも、五戒をまもれば、優婆塞(ウパーサカ)、優婆夷(ウパーシカ)といって、出家の供養者の資格で、仏陀のサンガの成員です。在家でも、居士、信士として、仏教徒でありうるのです。五戒も、当初は在家には厳しくなくて、みだりな殺生を禁じ、世の中を損ない人を傷つけるうそを禁じ、他人の所有物を強奪することを禁じ、配偶者以外の同性異性との性交渉を禁じ、原則飲酒を禁止する、という、ある程度は現実に目をつぶり、融通を利かせるものだったようです。仏陀は、絶対に肉食するな、穀倉のねずみも殺すな、馬鹿正直に自分の私事を何もかも白状しろなどという、ばかばかしい戒律を、設けたりなどしていないのです。在家の戒律まで極端で教条主義的になったのは、後の上座部成立からのはずです。

明治になって、宗門が血縁縁故の世襲集団に成り代わって、宗門として事実上機能しなくなってから、田中智学という日蓮宗から還俗した人が、在家で法華経を訓読する、在家仏教運動を開始しました。多くの信者を集めました。創価学会も、霊友会なども、田中智学の運動の末流です。

自分も、日本の仏教の未来は、在家の自発性の中にあると思っています。それで、仲間もほしいけれど、一人で勝手に、法華経を真読しています。わたしは、日蓮ではなく、法華経以外の経典も排除しない、由緒正しい天台大師の信者です。

道元禅師(承陽大師)の正法とおっしゃいますが、曹洞宗は、第四祖常済大師以来、密教兼修の加持祈祷宗派で、純粋な禅宗などではありません。道元禅師の表した真理は、後継者たちによって、利生に入れ替えられてしまったのです。

駒澤大学の現状を見れば、現代の曹洞宗になど、何も期待できるものはありません。final先生も、道元禅師にこだわればこだわるほど、死ぬまで孤独に道元教徒を一人で実践するほかないと思います。

投稿: enneagram | 2012.06.25 10:42

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