白川静は「と」だと思う
白川静の漢字についての話は、膨大な「と」(「とんでもない」法螺話)だと思っている。こんなものをありがたがるの知識人がいるのも、なさけないことだなと思っている。が、そういう意見を見かけたことがない。ま、いいか。自分ではそれで決着が付いている。だが、どうも最近、天声人語など白川説を使ったエッセイのようなものをみかける機会が多く、不快というか、阿呆臭くてしかたない。誰かきちんと専門家が批判せーよと思うのだが、批判というのがあまり見あたらない。と、そんなことを思っていたら、面白い話をブログで見つけた。羊堂本舗(2004-02-06)「ここはひどいインターネットですね」(参照)である。そこから関連の話を読んだ。
知らなかったのだが、2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。対極で出てくる藤堂明保といえば、昔教育テレビで中国語を教えていたなとか思い出す。
「みんなの味方大漢和辞典!!」という掲示板を読むとなかなか面白い(参照)。
名無しさん :2001/08/16(木) 23:13
>>45に関してですが、白川静は氏の文字学体系中において
具体的にいうと、たとえば「師」や「埠」に共通するつくりを
「賑肉」と見なしたり、「告」の「口」を人間の口ではなくて
「祝詞を入れる器」と分析したりしましたが、それはたしかに
「想像でしょ」といえばそれまでです。しかし、白川氏の
分析法が精確な甲骨文や金文に基づいていること、「説文」や
「単語家族」の呪縛から解き放たれたこと、この二点はひじょうに
重要でしょう。批判するならするで、かなりの論証が必要になる
ことも確かだし、また文字学のみを論って白川批判、というのでは
それこそ噴飯ものでしょう。文字学は地味~な学問ですし、非常に
むつかしい。体系だった学問を独りで打ち立てた白川氏はまあともかく
「すごい」わけです。そういう意味でも「偉大」なのでしょう。
ただ学閥至上主義によって、長い間白川氏は冷や飯を食わされていたこと、
これは事実です。
ほぉ~という感じだ。「説文」の呪縛なんか、白川に限らず、ないんじゃないかと思うが、白川静の批判は「かなりの論証が必要になる」ものなのだろうか。
52 :名無しさん :2001/08/17(金) 11:35
>>50
いえいえ、深謝なさる必要はござんせん。
なぜ白川氏は「告」の口を「祝詞を入れる器」と見なしたか。
そこに白川氏の努力があるわけですね。
氏は甲骨文、金文を研究すること(トレースしながら)によって、
その微妙な筆画の相違に着目して、「人間の口」の場合と
「祝詞を入れる器」の場合とを峻別していったわけです。
つまり、「口」を描いた象形文字と、「祝詞を入れる器」
(あくまで白川氏の説ですが)を描いた象形文字とは微妙に
その形が異なっておるわけです。だからそれなりに説得力
もあり、藝術家や歴史学者、民俗学者、学閥主義から逃れた
中国文学者に受け容れられるようになったわけです。
しかも例えば「告」の場合、口を除いた部分を「牛」と解釈
せずに、木の枝(祝詞を括り付けるための)と見なしたわけです。
それもやはり根拠があって、牛の象形とは異なっておるんですね。
…とまあそんな感じなのですが、あなたの仰るとおり、
「何もかも呪術で解釈していいんだろうか」という問題はあります。
いくら古代中国の習俗より生まれたものが漢字だったとはいえ、
それが民俗学的呪術的な見地から全てを解釈すればそれでよい、
という蓋然性は恐らく「ある」とは言いきれないのではないかと。しかし白川氏の強みはそれだけではないので、すなわち「音系」の
問題にも立ち入っていることなのですね。音系と文字体系、これを
分析しながら文字同士の音の相関関係も明らかにしました。
ですから、白川氏を批判するならそれでよいわけです。
しかし批判するならするで、恐ろしく巨大な文字体系を打ち立てない
限り、むつかしいのではないかなと、まあそう思うわけです。
これも、ほぉ~である。
私はなぜ白川静を「と」だと思ったか。ちょっと振り返ってみたい。そんなに難しい話ではない。まず、漢字であれ、それが言語なら言語を扱う原則に従わなくてはいけない。それは、言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ。
しかし、漢字の語源を研究するときやっかいなのは、それが、言語の表記システムではなく、中国にありがちなのだが、呪術の符号になりがちだ。しかも、漢字の起源自体にそれが関わっていると見なすことはそれほど不思議ではない。その意味で、白川静がトラップしてしまったのは、しかたがない面がある。
では、白川静はどこで間違ったか? 漢字を「言語の表記システム」と見ていない点だ。言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。正確な写像ではないし、そのパロールに相当するエクリチュールは、音声言語の持つパロールとは違う。しかし、そうした問題には今は立ち入らない。とりあえず、ラングだの、パロールだのエクリチュールといったそそる用語はどうでもいいと言えばどうでもいい。
問題は、「言語の表記システム」であるということは、コミュニケーションのモデル、つまり、それが共通に理解できるコードである、ということだ。
このあたりなにを言っているのか理解しにくいだろうと思う。補足しよう。
漢字が呪術的な符号であるとき、それは、言語の表記システムではない、ということが重要だ。呪術符号なら、それは、謎の神秘的な概念を表すのであり、特定の呪術集団のなかでその理解のレベルが階層化される。例えば、その教団の師匠のみが「器」なる呪術の意味を体得しているが、平信徒にはその意味が卑近にしかわからない、といった感じだ。つまり、ここにはコミュニケーションのモデルがない。共通に理解できるコードにはなっていないのだ。
漢字の起源にそのようなものが関係しているとしても、我々東洋人が継承している漢字について言えば、そんな呪術は無意味なのである。
始皇帝は焚書坑儒をしたとして、非難されることが多いが、とんでもない。始皇帝は、この馬鹿馬鹿しい呪術なる「漢字」を廃棄させたのだ。同様のことは、音については「切韻」についていえる。あれは、古代の音価を反映していない。ただのコードだ。しかし、このコードから逆に中国語が形成される。同様に、漢字が形成される。
少しまとめる。つまり、呪術的なレベルでの漢字の研究は、漢字が言語の表記システムであるという点から見れば、まったく無意味な作業なのだ。あるいは、その作業を行うなら、その呪術集団を特徴づけるしかなく、しかも、その呪術集団の単一性は保証すらされていないのだ。それが単一なら、始皇帝はその集団を規格化すればよかったことになる。
漢字の研究は、それが、表記システムとして共通のコード化された状態をいわばラングのように、共時システムとして取り出し、そのモデルのなかで、まず音と意味のネットワークが考察されなくてはならない。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与えなくてはいけない。
さらに、漢字は表記システムとしては、つねに、リプレースしていく性質を持つ。つまり、より単純な代替文字や、より頻繁な文字に置き換わる性質がある。これは、おかしなことに現代日本でも行われているが、ある意味で、漢字という表記システムの持つ自然的な傾向なのだ。
そうした点で、私が、妥当な漢字のリファレンスとしているのは、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)だ。この本の、その分野での妥当性を評価するほど私は漢字学に詳しくないが、以上のような言語学の原則がきちんと守られている。
漢字字源辞典 |
「漢字字源辞典」については、私は、この前の版「漢字の語源」(昭和51年初版)から使っていた。優れた著作だったのか、改訂されて、しかもまだ絶版になってなくて、よかったと思う。
白川静「常用字解」を買いたいと思う人がいるなら、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)と比べてみて欲しい。私が始皇帝なら、白川静の辞書を焚書とするだろう。
【関連】
⇒極東ブログ: 漢字は表意文字という話
⇒極東ブログ: 漢字という虚構
追記その1(2004.2.11)
闇黒日記平成十六年二月十一日(参照)に批判が掲載されていた。総じて批判点は当たってないように思う。というか、批判意識が先行して、私の論点は理解されていないように思う。が、読み比べて各人判断されるといいだろう。
少しだけ例を(表記ママ)。
そもそも、同じ「階層」の人の間でも、言語の理解は異る、と言ふか、個人個人で理解のしか他派事なるものです。
というコメントは、ソーシュールのラングを本当に理解しているのかな、とちょっと疑問に思う。それはパロールの問題だろう。総じて、ラングとパロールの違いを理解されていない印象を受ける。
次の指摘はタメっぽい。
西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問の原則を、そつくりそのまま表意文字である漢字の研究に適用せよと言ふのが無理なのですが。
私が述べたのは、漢字の研究を言語の研究にするということ。また、「西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問」というのはユーモアと理解したい(アルファベットではなく音素記号。音素をたまたまアルファベットのような記号で表記するだけで、諸言語に適応できる)。
追記その2(2004.2.11)
暗黒日記からのリファラが多く、もしかすると、言語学の基本的な概念を理解されていないかたもいるやもしれないと思い、長めの文を起こした。
当初、ブログ本文中に記したが、無益な論争になるのを恐れる。暗黒日記の筆者も軽い気持ちで書かれた批判のようでもある。白川静が音を考慮していないわけでもないということなど、当方、知ってはいるが捨象している部分でもある。そうした指摘は尊重したい。また、極東ブログのこの見解は、欧米の言語学の基本原理のままだが、中国語学なり漢字の学では異端であるだろうとも思う。
ま、ご関心あるかたは、参考にしてほしい。
暗黒日記の批判?を受けて(参照)
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コメント
はじめまして。いつも興味深く読ませていただいています。今回の漢字の話のなかで、分からない箇所がありました。
「同様のことは、音については『切韻』についていえる。あれは、古代の音価を反映していない。ただのコードだ。しかし、このコードから逆に中国語が形成される。」
『切韻』は単一の言語体系を写し取っていないという意味でフィクションである、とは読んだことがありますが、「古代の音価を反映しない。ただのコードだ」というのは概ねそのような解釈でいいでしょうか。で、そのあとの「このコードから逆に中国語が形成される」というのがもっと興味のあるところで、もすこし具体的にご説明くださるとありがたいです。
漢字との対比がうまく飲み込めなくて、すみません。どうぞよろしくお願いします。
投稿: niji | 2004.02.10 22:37
nijiさん、こんにちは。「このコードから逆に中国語が形成される」、現在の普通語(プートンホア)は四声ですが、これは北方系ということもあるのでしょうが、切韻から規格されたある種の人工的な歴史形成だと思われます。近代史でも国民党内部で北京方言にするかけっこうもめていたようです。というだけでは十分な回答でないのはわかるのですが。
漢字との対比ですが、ようは、言葉というのは双方が共通に理解できるコードだということです。ある意味、規格化されるわけです。
投稿: finalvent | 2004.02.11 09:53
【 暗黒日記の批判?を受けて 】
「白川静は『と』だと思う」
(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2004/02/post_23.html)
について、闇黒日記平成十六年二月十一日
(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html)
に批判が掲載されていた。率直なところ、あまり有益な指摘だとは思えなかったので、判断は各人の理解に任せればいいかと思った。
が、どうも、基本的な誤解が二点あるようにも思えるので、それを記しておいたほうがいいかもしれないと思い直した。いや、それは極東ブログのほうが誤解だよ、ということであれば、それはそれで受け止めたいと思う。
新しくブログの本文として起こそうと思ったのは、二点ある。
一点目は、漢字を考えるとき、それをラングから見るということだ。
この含みはパロールを排除するということである。闇黒日記の批判点の大半はパロールの領域なので、問題点を失当している印象を受けた。
ソーシュールの言語学では、言語活動であるランガージュを、ラングとパロールと分ける。ラングとは端的に言えば語彙と文法であり、パロールは原語のフランス語を反映しているように、発話となる。が、パロールは単に声に出して音声発話という意味ではなく、ラングの運用を指す。
たとえば、「この部屋は寒いですね」という言語活動において「あなたにその窓を閉めてもらいたいのですよ」といった意図を反映するといった事象などは、パロールの領域の問題である。同様に、言葉がどのように理解されるかという問題はパロールの領域の問題であり、伝統的な言語学ではこれを扱わない。
この点については、ソーシュールの一般言語学講義として後世まとめられた講義録と、ソーシュール自身の講義から起こした新資料のノートの差異から、ソーシュールはパロールを重視していたという見解もある。特に、後年ソーシュールが詩学のアナグラムの領域に取り組んでいるのは、そうした傾向を反映しているという見方もある。しかし、それであっても、ソーシュールの言語学の原則が変わるわけではない。つまり、言語学の対象はラングである。
その意味で、言語学が扱う言語とは前提としてラングである。ので、暗黒日記の以下の指摘は、意味が取りづらい。
>「言語はラングである」と云ふのは所謂「ソシュール言語學」の誤解釋です。
あるいは、言語、つまり、ランガージュがラングであると私が主張していると思われたのだろうか。それでは端から意味をなさない。併せて細かい点だが、以下の指摘は、了解できない、というか意味をなしてないように思われた。
>また、音聲言語があつて記述言語も存在するのですが、記述言語は成立して
>しまつた瞬間から音聲言語と相對的に獨立した存在となります。
音声言語とはspeechであろうか。記述言語とはdescriptive languageということだろうか。単にdescriptitionだろうか。そしてそれらが相対的に独立するということは何を意味しているのだろうか。
通常、言語学におけるspeechは、すでにそれが音素として記述されている状態を起点とする。そして、その音素による記述と書記体系(writing system)とは対立することもあるし、書記体系による言語の表出は音声の表出と異なる性質を持つこともある。しかし、それはすべてパロールの領域の問題である。言語学では課題としない。
言語学の対象がラングになるという意味で、暗黒日記の以下の指摘は、すべてパロールの領域の問題にすぎない。このため、応答のしようがないのである。端的に「異る語彙を使用して話をしてゐても」という点で、すでにそれがパロールの問題であることが明記されている。
>そもそも、同じ「階層」の人の間でも、言語の理解は異る、と言ふか、
>個人個人で理解のしか他派事なるものです。
>また、異る「階層」の間で理解の仕方が異るとしても、だからと言つて、
>その「コード」によるコミュニケーションは成立しない、とは言へません。
>文系の人間と理系の人間とが、それぞれ異る發想の下、別の場所で、
>異る語彙を使用して話をしてゐても、日本語は日本語です。
もう一点は、漢字研究においてより重要な問題かもしれない。漢字の表意性についてだ。
私は漢字を、古代中国語の音と意味の組織であるラングとして(その写像として)捕らえるべきだと前回主張した。暗黒日記の指摘は確かにそれに真っ向から対立する。
>漢字を體系的に採入れた時點で、日本人は漢字の體系も受容れてゐます。
>そして、漢字の體系は、漢字の原義に基く體系です。
「漢字の體系」の認識が全く異なるのだろうと思う。というのは、私は漢字の体系を音の体系の写像としているので、日本人がそれを受容することはありえないと考える。日本語には四声すらない(ただ、韓国語にも四声はないが音の写像体系が存在する)。日本人が受容したのは、その表意性の記号である。だが、これは漢字の特徴ではない。例えば、"I love you."という表記で、Iを「われ」、loveを「このむ」、youを「そなた」と日本語で訓じれば、同じことなのである。この点において、漢字である特異性はない。
この問題は誤解の組織性を持っているのだろうと推測できる。すでに前回の記事の追記で指摘したが、以下は端的な誤りであろう。
>しかし、そもそも、西歐のアルファベットをベースとしたソシュールの
>ラングの學問の原則を、そつくりそのまま表意文字である漢字の研究に
>適用せよと言ふのが無理なのですが。
ソーシュールの言語学は西洋のアルファベットなどベースとしてはいない。音素表記の記号がアルファベットに似ているというだけだ。
だが、恐らく、大きな問題意識の違いは、そして、それは白川静についても当てはまるのだが、漢字の研究を「表意文字である漢字の研究」とする点だ(それは、その創始時点の呪術集団の研究としては可能ではある)。
暗黒日記におけるパロールについての認識の間違いより、こちらの点が、根深い問題である。
わかりやすさのために、あえて滑稽に言うが、漢字というのは表意文字ではない、というのが、前回の指摘の基本にある。それだけ言えば、阿呆かの部類であろう。だが、その点こそが理解しづらい問題なのだろう。
この点は、再度補足しておきたい。
漢字が意味を表しているというのは当たり前だろう。だが、同時にそれは不十分な対応ではあるが音を表している。そして、ここが重要なのだが、漢字の意味とは、その音が担っているのである。くどいようだが、漢字の意味とは、漢字の字面が担っているのではなく、それをどう読むか、つまり音価を与えるか、によって、初めて、コードとして成立するのだ。
この点は、漢字に音を持たず(端的に四声すらない)、表意文字として、日本語の訳語である訓という別の音価を与えている日本人には理解しづらいところだろう。
むしろ、漢字の表意性とは、つまりその形状の機能は、音を区別することと、音の意味の補足することにある。
あまりいい例ではないが、例えば、日本語で「その人の話を聞く」と「その人に訊く」では後者は文科省的ではないが、漢字表記を便法にして意味を分けて表記できる。だが、日本語というラングのレベルでは同じく「きく」であって、それが多義的な意味を持つだけだ。
同じように、音だけで判別しづらい言葉を補う便法として、音表現以外の漢字の表意性がある。
本来なら、漢字が流通(生成ではない)している時点の言語=ラングの音声を採集して音素表記にするのが言語研究の基本である。が、それはむずかしいし、その音は、漢字のもつ音の表示部分に不十分ながらも反映しているのである。そうでなければ、言語=ラングとして利用できないからだ。くどいが、音価のない漢字はコードとして存在しえないのである。
だから、漢字の語源というとき、一義的に問題となるのは、その漢字の音の持つ意味であり、その音がどのように漢字の形態に組み合わされたり、表意性において補足されているかということが研究の課題になる。
タメの論争がしたいわけではない。また、当方の考えが正しいわけでもないだろう。パロールについての理解は単純な問題なので再考を促したいが、「漢字の体系」なり「漢字表意性」について、もう少し当方の考え方を理解していだけないものだろうか。
投稿: finalvent | 2004.02.11 17:25
見当違いのような疑問なんですが、完全聾唖者の意識に現れる意味なり論理なりは、どのように構成されるのでしょうか。というか、これは手話への疑問でもあるかもしれません。
それはやはり一種の音なのでしょうか。
投稿: a watcher | 2004.02.12 18:39
a watcherさん、ども。すごい問いです。私の人生はそれを解くためのものだったかもしれません。簡単に、私の直感だけ書かせてください。結論から言えば音ではないと思われます。しかし、まったく音と独立しているとは思えません。これについては、まず手話について簡単な説明が必要になるでしょうが、今日マスメディアを通して知られている手話はまったく手話ではありません。あるいは、本来の手話はああいうものではありません。伝統的手話として分けることもあります。この伝統的手話なのですが、それは、ある種、感動をもたらすような美しいものです。余談ですが、ルドルフシュタイナーが確かブレンターノの講演を聴きながらその手振りを見てオイリュトミーを創始したように、エーテルとでも呼ぶしかないようななにかが、手話にはあります。それはtonalとでもいうようななめらかさを持つとともに、リズミックです。つまり、tonalでリズミカルという点で音の意識が関与しないわけはないと私には思われます。これを短絡的に思考するなら、手振りと声振りというように、口腔や舌などの運動器官に比較することが可能です。確か、Speech Perceptionの理論ではモーターセオリーが未だに廃れていないのではないはずです。とすると、音の知覚・認知に運動形の意識(あるいは神経系)のフィードバックが健常者にも効いているのではないか。それと同じように、モーターレベルで、つまり手のモーター側をフィードバックすることで、なんらかの認知の処理を行っているだろうとは思えます(そこにはセグメンテーションつまりarticulationもあるのでは)。しかし、このモデルだけでは手話はうまく説明できないでしょう。それでも、音との関わりの線はとりあえずこの部分に限定すれば、恐らくブローカ領域でも以上のようにモーターの類似性から健常者もネイティブな聾唖者も同じ働きを示すのではないか。他方ウェルニケ領域では意味の関連がありますが、その意味了解のレベルでは健常者でも聾唖者でも異なることはないでしょう。とすると、脳の単純なモデルでは、健常者と聾唖者では、言語という部分ではかなりの類似が成立するのではないかと予想します。すでにその研究があるかもしれません。
それでも、私はそうしたレベルの類似は本質からそれると考えます。その本質は先の戯れに言うエーテルのようななにかです。それが実在するわけではありません。手振りの運動の残滓の形態と仮に言えると思います。その運動を含む形態、フォルムが、健常者の音の代替としていると思われます。手の運動フォルムとしての記号が音に対応しているだろう、と。めんどくさい言い方のわりにはつまらない話であるかもしれません。が、難しいのは、それ、つまりその手の運動フォルムはセグメントされる記号なのか? そこがよくわからないのです。かなりの部分は記号であると言えるとは思います。「私のお母さん」といった手の動きは、まとまった手の動きです。
例えば、「私の母が私にこれを食べてはいけないと言った」は、「[私はこれ要らない]、というのはが[これ食べるのはダメ]と[私のおかさん]が[私に言った]」というような、セグメントが可能でしょう。しかも、あるシーケンスの普遍性が存在するとは思います。たぶん、手話はある種の演劇のような意味性が統辞を制御しているのだろうと思います。と、回答にはほどとおいと思われますが。
投稿: finalvent | 2004.02.12 20:11
仮想メタ波動=エーテルという作法で、身体は世界と関係し、その関係性から意味、論理が創出される、またその関係性は音声へと写像され、言語となるという理解は拙いでしょうか。
これだけ書くと「と」でしょうが。
投稿: a watcher | 2004.02.13 08:27
a watcherさん、ども。ええ、それだけ書いてしまうと「と」にならざるをえないのだと思うのです。しかし、アウトラインとしてはそれでいい、というか、そういうアウトラインをひくことで、ルドルフ・シュタイナーという変人が実は、とてつもない思想家であることが見えてくると思うのです。シュタイナーについては、条件抜きで信奉する一群の人々がいて、それはそれでしかたないのですが、現在世界の知からは「と」でしょう。彼らは、現代社会のほうがそちらに吸収されると考えさえいるでしょう。私は、そこに大きな理論構築が必要だと思います。
シュタイナーについては、日本でかなり紹介されているのですが、見渡したところ、シュプラッハ(speech)についてはあまり言及を見かけません。一部でシュプラッハの日本語化の試みが10年くらい前からあり、それが、現代、珍妙に斎藤孝に引き継がれています、が、彼はシュタイナーなど理解できないでしょう(たぶん)。で、単純な問いなのです、オイリュトミーとシュプラッハがなぜあるのか。言葉が体を持つからです。言葉の体はオイリュトミーのように踊るのです。エーテルが舞うのです。
と、もちろん、それは、比喩なのです。それが比喩であるということは、いったいどういう意味なのか、うまく現代の認知学から問い出せないのだと。
マイクル・ポランニが、人間の理解とは、indwellという面白い言葉で表現しています。この言葉は「棲み込み」とでも訳されているのでしょうか。英語の辞書をあたってみると面白いですが、不思議な含みを持っています。が、それこそ人間の認知の基本原理ど彼はいうのです。これは、霊が体に棲む、ということで、霊体に棲み交わすことが交わり、コミュニケーションです。
英語のコミュニケーションも実は、霊の交わりという意味です。キリスト教者なら集会の散会の賛美で知っている、はずなのですが。
と、薄気味悪い話ですよね。言葉、言霊というのは、現代人の阿呆が単純に信仰すればいいようなものではないのですが、およそこれを考えることほど難しいものはありません。小林秀雄の本居宣長もそれがベルグソン論の続編であることを(別の意味でドスエフキー論の続編)、ほとんどの批評家は気が付きません。読めてないわけです。しかし、小林はあの本をおそらく200年の孤独に晒すつもりだったように思われます。
投稿: finalvent | 2004.02.13 08:53
口の字の代表は右です。これは神の殻田で未図の夢のことです。これを契約の棺といいます。左はこれに未図の実魂を入れる、工作する人間の努力を表しています。右と左でノレ(法と礼)で、几凡九丸と進んで真珠の魂が玉手箱の中で育てば、卆業であり人は神都に取上げられる(意咲く=イサク)のです。神は人の腹におり、これを間といい、天照大神の岩戸隠れで例えられています。つまり、人の体内には日と月の陽光と陰光が同居しており、これを火水、カミさんといいます。火水を噛み合わせを考える首の働きが人を育てて天田間に甦らせるのです。このヒミツの三つ、右結ぶ左、胎首頭にI愛、天意を立てる王が主の地に迎えられるのです。知は己を空しくして、扁の変を作り直す図です。人は神の法、ノの置き手を支える天使であり、肉体の神さんを切り裁いて選択する精神で、これを男(神田を支える力)といいます。聖と性の不二、夫婦となって子、魂を生み育てる計算÷×=+(母父子)が漢字で正体は神示なのです。ですから、神が守護されており、漢字に不都合はまったくなくく、現在の漢字が神示の頂点であります。聖書や事件の名前、数字は漢字と言霊の日本語でこの奥の神のメッセージを知る世界を救う天下の宝刀なのです。これを拙い人知で、錆びさせたり、欠けさせたりしてはならないのです。今日までの漢字解釈の見直しをするべきであります。
投稿: (anonymous) | 2004.02.29 01:45
慣例で匿名をanonymousとしています。「口」に関しては白川博士の御説も合わせて、日本人の思考の原点を知る上で興味深いとも思います。
投稿: finalvent | 2004.02.29 07:21
白川静氏が「と」ならば、折口信夫もまた「と」の大先輩と言うことになりますかね。わたしにゃあ大それた論理を繰り出す脳みそがありませんが。
投稿: (anonymous) | 2004.03.27 21:50
慣例でanonymousとしました。で、単純な話ですが、
>白川静氏が「と」ならば、折口信夫もまた「と」の大先輩
>と言うことになりますかね。
が私には理解できませんでした。
投稿: finalvent | 2004.03.27 22:01
う ん こ
投稿: (anonymous) | 2004.10.14 15:50
他人の本を「と」だと断定するなら、少しはその著作を読んでから言った方がいい。みっともない。
投稿: dag | 2004.11.02 23:40
藤堂明保も「と」だと思う
投稿: (anonymous) | 2004.11.11 13:36
わー、こんなの書かれてたんですか。
大筋では合意するんですよ。
古代の記録見てると同じ字が、複数の音として扱われているような気がしてならないという個人的な理由ですが。
ただ、その反論をまるっと全部同意した上で。
その程度を「と」というのは史学全部を否定しているようにしか見えません……。
あとの学者の否定のためにしか引用されない人物であっても、それを「と」呼ばわりするのはいかがでしょう?
ジャーナリズム等の伝達と同基準で考えるべきではないですよ。
史学の否定なら否定でまあ、構わないのですが。
投稿: 紅玉石 | 2004.11.11 16:10
紅玉石さん、こんにちは。他、コメントを失していますが、今だったら、同じことを言うのに別の書きようはあったかなと思います。基礎的な漢字が象形文字として成立した時点では白川静のような説明は可能で、つまり、形象が意味を担っていた古層の時代は存在するでしょう。しかし、切韻成立時代にはすでに、漢字の大半の要素は音価のシンボルに変容され、その音価に形象的なヒントのシンボルを加味するだけとなりました。さらに、その音価を基軸に漢字の意味は変遷していきます。白川の考察は過剰に形象として漢字を捕らえていて、しかも、そこには音価が意味を担う契機への考察がありません。そのため、大半の語源・語義は彼の個人的な見解になっていて、音価が担う意味からのシステムが考察されていません。この点については、すでに絶版のようですが、「漢字字源辞典」と比べるとはっとされると思います。
投稿: finalvent | 2004.11.11 17:14
あ、ご返信ありがとうございます。
単語の意味はわからないのですが(w
私が、ちょっと時代の捉え方が違うなと感じたことがあるというのと似ているのかな。
白川氏が言っていることがありえないというわけではないが、それが彼の説明している時代とは違うように思える、少なくともちゃんとした中途考察がない。
なのに、それを前提に話を進めてしまっている。
具体的には「言霊」への言及で違和感を感じました。
でもそれ、ホント別段「と」じゃないんですよ。
私のゼミの先生もジャーナリストの側の人で、白川氏を指して「白川学」と揶揄っていた時に、皮肉の割合いが多くてびっくりしたんですが。
学者が白川氏を否定するのは、それと全く意味合いが違います。
彼に反論しようとするからには、準備が必要だと上の方も言っておられるんですが、「ない」ことを証明するには「ある」ことを証明するより難しい。
白川氏の言っていることは、ちゃんと説明されていないだけで「ありえない」と証明することが今のところ不可能なんです。
ただ、ちょっと本屋で考えていたのですが。
素人の目に晒されてしまったことは、問題だと言えるのかもしれません、せいぜいマニア(私もこれです。)止まりで済ませておくような本まで世に出てしまっているような。
基礎知識がない人が見ていいのかな、とは思いますよ。
ただまあ、マニアさんとしては、白川氏の論に対し違和感を述べることが出来る別系統の本も出てくれるとよいなというふうに期待したいんです。
間違っているからと否定するには、歴史系の本は全般的にあまりに薄いので(w
投稿: 紅玉石 | 2004.11.11 18:48
はじめまして。「ウェブログ図書館」の「言語」の階から飛んで来たのですが、
「と」という概念が面白いと感じました。
僕はこれを最初、文字通り「and」の意味で捉えていた、
(AとBとCとDと....)
するとそれでも読めてしまうんですよね。
>仮想メタ波動=エーテルという作法で、身体は世界と関係し、
>その関係性から意味、論理が創出される、またその関係性は音声へと写像され、言語となるという理解は拙いでしょうか。
>これだけ書くと「と」でしょうが。
つまりある論証が「と」にまで辿り着くには、結論を述べなければならない。
そこで線が引かれるけれど、自己完結したそれは「と」という助詞によって
並置されていくし、そうならざるを得ない。(そうなるべきだ。)
「と」にまで辿り着かない論証とは、結論を述べないものなのか、
他者の到来を待ちわび、開かれたままのものか・・・。
という(たぶんデリダの)話法が、実際に現前し、可能なのかどうかは
保留にすべきでしょうが。
また、結論を導くような論証とは、おそらく二つ(もしくはそれ以上の)
仮説を結合することによってしか成立しえない。というような考えも浮かびます。
そういう意味でも「and」かも。
投稿: Shuji | 2005.05.06 01:28
はじめまして。
「名無しさん」ことTKTです(正真正銘の本人です)。私の四年まえくらいの文章が引用されていて、吃驚しています。
拙さの目立つ、お恥ずかしい文章ですが、お読みになって理解されるとおり、私はべつに信奉者というわけではありません。取巻きには、むしろ腹が立ちます(コメントを拝読しましたが、リアクションが色々で凄いですね)。
ただし、金文・甲骨文段階での筆画の差(これはたしかに説得的です。例えばそれまで、「口」は「くち」以外の何物でもなかったから)に注目されたというような事は、称賛に値するのではないかしらと思うわけですね。
それから、「説文」の呪縛というのは、むしろ中国において、という意味で書いたのでした。「字書三部作」は中国にも沢山寄贈されていますが、ほとんどが無視するか、「珍説」として面白がっている人ばかりだと、人づてに聞いたことがあります。
中国文学系のある先生は、よく「あの文字学は『と』でしょう」という様なことを仰っていたものですが、ともかくも厖大な研究成果(漢字以外の毛詩、楚辞研究とか、神話研究とか)には敬意を払っておられました。これも批判が表立っておこなわれない理由のひとつであろうと思われます。
たとえば、高名な学者が「日本語の起源は○○語である」と云っているのを、なかなか批判できないのと同じ様な状況ではないかと。
まあ、なんだかんだ言っても、語源説や字源説は人口に膾炙しやすい。だから、「正しさ」に拘泥しなければ、それなりに面白い、とは思うのです。私は、それを面白がっているクチです。それぞれの字源説(藤堂博士によれば語源説)の「良さ」みたようなもの(「と」もある意味「良さ」かもしれません)を認めながら、ですね。
附けたり。ちょっと話がそれますが、ついでに。いわゆる切韻音系は、それ自体フィクショナルな体系であるという説と、南方の一方言を反映しているという説があるそうです。
長々と失礼致しました。
投稿: TKT | 2005.05.09 11:15
TKTさん、こんにちは。引用のご本人からレスと了解しました。先日のコメントでも触れましたが、このエントリは少し大人げなかったなとは思います。漢字を含め、古代中国音韻の研究などもより多様に進展していけばいずれ全体の光景が変わるようにも思います。紆余曲折はあるのでしょうが。
投稿: finalvent | 2005.05.09 13:32
白川静がやってるのは「語源」ではなく「字源」なのですよ。そこんとこに注意すべき。
投稿: あ | 2006.02.07 20:09
「白川静は音韻について考慮していないから『と』だ」という批判がアリなら、「finalvent氏は形について考慮していないから『と』だ」もアリですね。
これって典型的な規範批評じゃないですか?
投稿: tukinoha | 2006.11.02 02:48
先日、白川氏の本を読んだという程度だが、この私でも、あなたの言うことには全く同意できないです。
あなたの書いてる内容を見ると、「幼稚な憎悪」とも言うべき、ある種の子供じみた考え方(「自分の支持する思想に沿わないなら、その価値は認めない。なぜなら、自分の思想が世界の真理だから。」みたいな感じ)を、難しい言葉で装飾したうえで露出させて自己愛に浸っているという印象を強く受けます。まぁ、そういう精神性の人は、あなたをふくめて沢山いますがね。
普通に文章読んだら、あなたの頭のほうがよっぽど『と』ですよw
論理矛盾を起こしているような文章でもって、漢字の『字源』の研究を完全否定し、「焚書する」とまで言い切るというのは、普通の人の言うことですか?
『漢字は表音機能を一義的な目的としない』(漢字百話P12)ものだからねw その表意文字である漢字の『字源』を探っていく研究を、「表音」の体系から無意味視して存在価値を否定して「と」と結論付ける。。。。
まぁ、あんたみたいな奴は、見ていて退屈しないかわりにとても不愉快だね。こんなヒョーロンを公開してるあなたの精神を、ある意味で尊敬するよ。
投稿: keenich | 2006.11.15 01:28
最近のコメントについての反論を待っています。
大変面白い議論なので。
投稿: もさく | 2007.02.27 11:54
もさくさん、こんにちは。私のコメントでしょうか? 2005.05.09 13:32のコメント以上のことはありません。
投稿: finalvent | 2007.02.27 14:01
どうも、なんか、白川静を検索してみたらあったんで、
なんか書かせていただきます。
それでも、私は白川氏のほうに説得力を感じるなあ。
東洋に何ぞ共通した、支那にあるオシラ様伝承を日本でも受け入れるとか、支那と日本で左を尊んでしまふとかが、なんかあるわけですから。
で、一応完全に白川氏の説がトンデモだとしても、
a焚書はだめ。当たり屋的発想の元。
b白川文字学は、東アジア共同体の言訳になるわけだから、
有用ではあるぜ。
現在ずんずんそれから離れていっとるが、一応、ううっ
駄文拙文すいません
投稿: | 2008.04.08 12:39
ソシュールが対象とした言語は表音文字(abc)だった。表意文字(漢字)ではなかった。だから表意文字の研究をしなかった。それだけではないかと。
ソシュールがしていない(対象が表音文字なのでできない)ことをしたのが白川静。
"ソシュールが研究しなかったから不要"というのは、さすがに乱暴ではないかと。
日本語の場合は両方しないとダメなのでは?
~~~
確かに呪術に由来する象形文字の原義自体は、後代、その関係性の大半を失ったと思う。
ただし、大篆や小篆の字体をみれば、いまだ文字が呪術に由来することがわかる(暇があればみてみてください)。白川静の研究成果があっての判断でもあるが。
一方、呪術との関係性がはっきり失われはじめた(記号化が進んだ)のは、隷書からかと。
単なる表意文字ということであれば、当て字を使った、万葉集。ひらがな。かたかな。
で、後代において、雑多な「新しい漢字」が創造される場合、あきらかに古い漢字の部首を参考にして生まれている。
そう考えるとやはり漢字は表意文字。
「新しい漢字」は、呪術性を秘めた原義からは生まれていない。なぜなら白川静の諸研究により、「説門」の原義が間違っていることが判明し、すでに「説門」の時代にかなりの原義が失われていたことが証明されているので。
「新しい漢字」が隷書が使用された時代に生まれていたら、原義はあまり関係ないと思われる。
白川静は、漢字の呪術的な原義を掘り起こしたのと同時に、説文が著された時代に漢字の呪術的な原義が失われていたことをも証明したということ。結構深い。
民俗学同様、漢字の原義自体を調べることは、十分に価値のあることだと思う。しかも白川静の原義は正確だとも思う。賢人といえども人間なので少しは間違えるかもしれないが。
また、ご存知のとおり、誰にでもできることではない。あと、批判したらダメとも思わない。
投稿: moppy | 2008.06.08 16:35
>言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。正確な写像ではないし、そのパロールに相当するエクリチュールは、音声言語の持つパロールとは違う。
これがそもそも「と」です。ソシュールをソーシュールと読む人も始めてみました(笑。白川氏に限らず、自分が良く知らないものについて知ったかぶりしなうほうがいい。このブログは随分まともなものだと思っていますが、残念ですね。
投稿: 一言 | 2008.07.29 20:49
白川静先生については、その語源学、字源学について、いろいろ非難があるのを知っています。
でも、白川先生の努力で、甲骨文字と金文の研究が広く市民権を得たこと、詩経の研究成果も広く紹介されたことは、白川先生の業績だと考えます。白川先生の誤りは、これから実証的に正していけばよいのです。そう思います。
白川先生の甲骨文字の著書で、甲骨文字の時代から、十干十二支が存在していることを知ったときには驚愕しました。殷代から日時の記録に十干十二支を使っていることを知ってから、東洋の運命学に対する関心が強くなったのです。
なお、ルドルフ・シュタイナーのオイリュトミーより、野口体操の方が議論が高度であると思われます。しかし、野口体操をより洗練させ、体系性を緻密にするには、野口先生の日本語の語源学と漢字の字源の研究に加えて、万葉仮名や字音仮名遣いの研究、悉曇学の研究、中国語の諸方言の研究、ウラル・アルタイ語族言語の比較言語学的の研究などの言語学の成果を体操の研究に取り入れる必要があると思います。シュタイナーや野口三千三先生のような天才の成果をさらに優れたものにしようとすれば、貢献者たちにも超人的な努力が要求されるのだろうと思われます。
投稿: コメント加えてすみません | 2008.10.30 11:29
「白川先生の甲骨文字の著書で、甲骨文字の時代から十干十二支が存在していたことを知ったときは驚愕しました」とお書きの方がありましたが、甲骨文字の図版の載っている啓蒙書(漢字学、書道史)をひもとけば、すぐに実例にお目にかかれるはずです。その程度の基礎知識のない方が、「白川先生はスゴイ」とおっしゃっても……。
投稿: | 2009.03.11 20:05
漢字は象形文字なのだから、音よりも形に注目して当然。したがって音に注目していないから間違いだという論はその時点でおかしい。
投稿: tk | 2010.03.24 10:54
検索でたまたま来ましたが、これはひどいですね。いまさら私が言うまでもないですが、白川氏は還暦を迎えるまで甲骨文や金文を、地道にコツコツと研究してきた人に過ぎなかったわけで・・・。
気になるのは「実証的ではないかもしれないが面白い」という妙な弁護が多いこと。白川氏に説得力があるのは、考えられる可能な限りの実証的な手続きと膨大な時間と労力をかけた上での結論であること、つまり愚直に実証主義的に論じきった上で、想像力を働かせているからです。頭のいいふりをしたがる人ほど、どこかで聞いた上澄みだけで理解した気になって、「トンデモ」扱いしたがるわけです。白川氏以外の字源学者は、甲骨文や金文や周辺文献を丹念に読み込んで「実証的」に研究している人を私は知りません。
まあ、いま考えが変わっていることを期待していますが・・・。
投稿: | 2010.11.09 19:31
ストレス解消に書かせてもらいますけどねwwww
貴方がおっしゃっている
言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ。
っていうことから先ず白川静先生は批判しているわけでして(『漢字百話』1)、その小学生並な前提がそうして正しいのかをキチンと言わなきゃダメなんじゃないですかwアナタ馬鹿ですねえwぶっちゃけ
ずいぶんと本をお読みなようですが肝心なものはお読みにならないようで。というかオツムはどうもヨロシクナイと見えます。6年たったって?人間はそんな変わらんでしょうw
文章をお書きになるのは構いませんから、どうぞお幸せに生きてくださいね
投稿: こんな馬鹿がいるとはwwwwww | 2011.02.05 02:16
白川氏が書かれた字通をご覧になられたか。漢字の解釈に自説がほとんど存在しない。△△になにと書いてある。□□にはこう書いてあるという状況。これで、漢字を解いたとは言えない。
例えば、白。骸骨と書いてある。これは白いから、まだ良い。百は一と白から作られているとしか書いて無い。樂は手鈴と書いてあるが、これは繭や実が作られる木なのだ。だから解説は、駄目。
白は木の実。百は木の実である白が一摑み。
何が本質か、考えて字書を用いよう。 以上
投稿: 清田 敏雄 | 2011.02.26 15:04
字通を読んでいるなら、字通読みの字通知らず、ですね
投稿: 清田 敏雄は | 2011.10.06 08:26
NHKの特番を観て。古代遺跡発掘ラッシュの中国で、白川静がどう評価されているのか気になった ~ 名前さえ出てこなかった。しかも漢字がテーマの特番で。なぜだろう?
殷で王の占いのために生まれた文字が、周では地位の保証と義務、論功行賞の記述等に使われるようになったとのはなし。それにより、漢字は普及し、漢字を用いた文章が高度化したそうだ。一応知っている。甲骨→金文。
強調されていたのは、表意文字だから普及したという点。表意文字だから、中国各地の方言が普及の障害にならなかったそうだ。読み方が違っても見れば意味が通じるから。
で、詩経が生まれ、春秋が生まれ、論語が生まれた。詩経は素朴な詩集、春秋は簡素な出来事集、論語は散文集といったところ。
小説や論文のような、本とよべるものはそのあとに生まれる。荘子、老子、荀子、諸子百家の時代あたり。
で、秦の隷書。
~~~
以下、誤字修正
隷書の登場によって、呪術に由来する象形文字の原義自体は、後代、その関係性の大半を失ったと思う。
ただし、大篆や小篆の字体をみれば、いまだ文字が呪術に由来することがわかる(暇があればみてみてください)。白川静の研究成果があっての判断でもあるが。
単なる表音文字ということであれば、当て字を使った、万葉集。ひらがな。かたかな。
で、後代において、雑多な「新しい漢字」が創造される場合、あきらかに古い漢字の部首を参考にして生まれている。
それを考えるとやはり、漢字は表意文字。
「新しい漢字」は、呪術性を秘めた原義からは生まれていない。なぜなら白川静の諸研究により、「説文」の原義が間違っていることが判明し、すでに「説文」の書かれた漢代にかなりの原義が失われていたことが証明されているので。
白川静は、漢字の呪術的な原義を掘り起こしたのと同時に、「説文」が著された漢代に漢字の呪術的な原義が失われていたことをも証明したということ。結構深い。
民俗学同様、漢字の原義自体を調べることは、十分に価値のあることだと思う。しかも白川静の原義は正確だとも思う。賢人といえども人間なので少しは間違えるかもしれないが。
また、ご存知のとおり、誰にでもできることではない。あと、批判したらダメとも思わない。
投稿: moppy | 2012.11.20 02:58
たまたま白川静を検索したらこちらのブログにたどり着きました。漢字については、それを理解する私たち独特の環境があり、我が国では失語症の場合、漢字の記憶は残りやすいことがあります。なぜなのか今だ解明はされていませんが、表意、表音の違いである、といえば、このブログではさまざまな解釈がされると思います。しかし、それだけ病態的にも異なる解釈が脳の中で行われているということです。言語研究の第一人者のソシュールの研究は、あくまで表音的な言語の研究であり、白川翁のそれは、表意的な言語の研究という、まったく異なる分野であると思います。したがってソシュールと異なる解釈があって当たり前ですし、それと比較して反論してもあまり意味のないことなのではないかと感じました。
投稿: おじゃん | 2013.04.25 22:57
絵ではなくて、文字である以上、何らかの音に結び付いてる。音に結び付いてこそ文字なのだというと、循環論法に陥るけれど。
漢字は、甲骨文の時代から、文字として書かれていたと思われる(仮借の存在や、その後の時代に文字として扱われている事実から)。1字1字が決まった音に対応してるわけではないが、それでも音と結び付いてる。「子」という字には、固有の音があったはずであって、「シ」と発音しようと「コ」と発音しようと、あるいは「オヤ」と発音しようと、なんでも構わないというわけではなかっただろう。
その意味で、いかに呪術的な意味合いがあろうと、ただのフェイスペインティングとは違う。
エジプトのヒエログリフも、完全な絵ではなく、音符としての機能を多分に有していることは、参照に値する。
白川氏の著作を読んだことはあまりないが、同氏は、甲骨文を通じて、当時の社会とか社会を支配していた意識というものにアプローチしようとしているように思う。それは意欲的な試みだし、他方で限界ももちろんある。
ただ、特に甲骨文というものは、ほぼ占いにのみ用いたもので、当時の世界観もその辺りに集約されていて、さらに、使用集団もはっきりと限定されていた。
また、甲骨文は、現在のところ遡りうる最も古い漢字であり、分かりやすい象形も多く、かつ生成発展を激しく行う前夜の段階のものである。
これらからすると、甲骨文は、字源をよく伝えるものである可能性は十分にある。そして、字源へのアプローチが、すなわち当時の社会や、社会を支配していた意識というものへの有用なアプローチになることはありうる。
ただ、白川氏の字源解釈が、どれほど直感的で、どれほど裏付けがあるのかはよく知らないが、いずれにせよ、当否の判断はまだまだこれからだと思う。
最も興味があるのは、月並みながら「口」であり、言葉に関係するようだが、単純な口ではない、というのは、面白い。告げるの文字に関して、旧来の解釈をはねつけた点は、功績かもしれない。
もっとも、個人的には、白川氏のいうような特別な器があったなら、考古学的に証明されるようにも思う。しかし、どうもそれはなさそう。
口に木を飾り付けることはないようにも思うが、目には飾りをつけた字があり、簡単にはいえない。榊をくわえたかもしれないし、ひょっとすると、犠牲の口に榊を据えたかもしれない。
他方、神の言葉を伝えるものとしては、正に甲骨があったわけで、亀の甲羅のことを表現してるのではないかというのが私見。「曰」などは、甲羅にヒビが現れて、神の言葉を伝えるという意味ではないか。底が丸くなっているのも符合するように思う。
ただ、「占い見る」(卜人が貞うた後に、王が占いの内容を読み取る文字)とか「卜」の字が存在しており、特に前者は正に卜兆を見る様子の象形文字であり、これらと別に、しかも別の形で「口」の字を使うかという問題がある。ただし、「占い見る」の字の中には、「口」があり、その上に「卜」が書かれている点だけを見れば、整合しないでもない。
また、色々な字に、多数の「口」が描きこまれており(木に、4個の「口」が飾られているものなど)、甲羅をこんな風に使った根拠はない(人間の口と理解することもまた難しい)。
世界に拡散したという青銅器に碑文がないかを改めて確認し(ちなみに、青銅器の存在は早くから知られており、金石文の研究はずっと昔から続いていたらしい。他の投稿者の方へ。)、また甲骨文も刻印した人ごとにデータベース化するなどして、可能な限りの知を集約し、成果に結びつけてほしい。
また、殷以前の遺跡から新たな文字が発見されることを切に願う。
投稿: 興味のある人 | 2014.09.24 10:17