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2004.02.29

aとtheの話

 英語の冠詞(article)、aとtheについて書く。といっても、あまり正当な説明ではない。雑談だ。その程度の話として受け取ってほしい。
 で、のっけから余談。私は一応高校英語の教師の資格を持っている。が、専門学校で初等数学の講師はしたことはあっても、バイトの家庭教師を除けば、英語なんか教えたことはない。英語はからっきし苦手。だがイェスペルセン(Otto Jespersen)の文法はよく勉強したほうだろう。高校で学んだ英文法がどうも嘘なんじゃないかと思っていたからだ。イェスペルセンの文法はその点、なかなか独創的なしろもので、いろいろ腑に落ちた。初期生成文法のネタもイェスペルセン文法の焼き直しのようだった。
 テーマのaとtheの使い分けだが、これは、OOP(Object Oriented Programming)で言うと、aがクラス(class)でtheがインスタンス(instance)だ。Flashだと、aがシンボル(symbol)。説明になってない? ちょっと違う面もある。が、とりあえず冠詞なしのdogがクラスに近い。
 このdogクラスからできたa dogや複数形のdogsがインスタンスともいえるのだが、インスタンスはID(identification)管理するから、できるのはa dogとかじゃなくて、「ハチ公」とか「ポチ」とかだ。名前が付いている。こいつらがthe dogである。theが付くのがインスタンスだ。
 HTMLだと、クラスからの継承(inheritance)という関係ではないのだが、aはclass指定、theはid指定に近い感じ。また、余談だが、HTML要素の属性であるclassやidはCSS(Cascading Style Sheet)のためにあるのではなく、あくまでHTMLの論理構造指定の補足のため。よく「論理構造はHTMLで指定し、見栄えはCSSで指定せよ」と言われる。が、CSSのためにclass指定やid指定するのは本来なら邪道じゃないか? でも、そういう指摘はあまり見かけない。もっとも論理構造とか言うならHTMLではなく最初からXMLとCSSを使えばいい。が、歴史的な背景からHTMLやHTMLからできたXHTMLを使っている。理想なんかより、歴史的な理由があるのというのが現実というものだ。
 話を戻す。aとtheの違いは、aはクラス的なものを示すのに対して、theはIDに対応している。っていうことは、「theが付く名詞には固有名が付くのだけど、それがわかんないから、仮にtheを付けておくよ~ん」という含みがある。

cover
Essentials of
English Grammar
 I met the man.というとき、the manには「ゴルゴ13」とかいう名前があるのだが、私はその名前を聞いてなかったということだ。the dogには「ハチ公」とか「ポチ」とかいう名前がある。スターウォーズで、the forceというものも「理力」というよりか、なにか古代には名前がある力だったのだろう。オリハルコンとか。いや、これは金属名だから、the metalだな。Alexandar the Greatは、「偉大なるものその名はアレキザンダー」という含みなのだろう。Winny the Poohはよくわからないが。
 以上でaとtheの説明終わり。で、いいのかぁ? 雑談だからね。でも、前振りのイェスペルセンはなんと言っているか(Essentials)。

The chief use of the article is to indicate the person or thing that at the moment is uppermost in the mind of the speaker and presumably in that of the hearer too. Thus it recalls what has just been mentioned.

 と、既知情報の有無という点で、フィルモア(Charles Fillmore)みたいなことを先に言っていたわけだ。が、イェスペルセンの場合は、もっとコミュニケーション・モデルだ。つまり、二者間で共有される情報としてリファーされる対象がtheというわけだ。文章語だと、「読者もご存じ(as you know)」という感じか。もっと単純にこうも言っている。

The may be considered a weakened that.

 このあたりは、イェスペルセンお得意の歴史考察があるかな。単純というより、ちょっと曖昧な言い方でもある。ソーシュール以前の言語学の雰囲気がある。つまり、説明に経時の概念が混在してしまっているのだ。ソーシュール言語学の偉大さはこんなところにもある。
 イェスペルセンという人はけっこう面白い人で、母語はデンマーク語だ。エスペラントみたいな人造言語も作っている。デンマーク語はおそらく英語の祖語に近いせいもあり、その分、いろいろなインサイト(直感)も働くのだろう。この感じは沖縄語と大和古語の関係に近いかもしれない。そんな感じを伺わせる記述もある。

The article is used more sparingly in English than in may other languages; it is used chiefly when the word without it would not be easily understood as sufficiently specialized. There is therefore a strong tendency to do without. Example are father, mother, baby uncle, nurse, cook and other names of persons in familiar intercourse; further, names of meals:

  Breakfast is at eight.
  He came immediately after lunch.
  I am afraid we shall be late for dinner.

 But the article is necessary in speaking of the quality of a specified meal;

  The dinner last Sunday was very frugal one.


 改めて読み返して、ほぉとか思ってしまった。他の西洋の言語に比べて定冠詞が省略されやすいのかぁ、である。ネイティブと話していて、aとtheの使い分けに、どうも変なイレギュラーな感じがするのもそのあたりの、省略の感じなのかもしれない。研究社の辞書などには単純なものだ。

U[修飾語を伴い種類をいう時にはC]

 とあるのだが、イェスペルセンの説明のほうが面白い。そういえば、「クラウン英和」を作った河村重治郎先生は、CountableだのUncountableというのを嫌っていたなと思い出す。立派な先生でした。ああいう人は現代にはいないだろうな。
 ってな話をしていると不用意にだらだらするのだが、たらっとイェスペルセンの説明を読み直していて、も一つ、ほぉだったのは、New Yorkにtheは付かないが、Dover Roadにはthe Dover Roadとtheが付くのは、固有名というよりDover行きの道という意味合いが強いのだろうとの説明だ。なるほどねである。Dover Roadはクラスでthe Dover Roadはインスタンスなのだろうな。英語ってのは、冠詞の面で、ちょっと変な言語でもあるな。

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造悪論ノート

 造悪論について書く。吉本隆明が死ぬ前に、「しまった」など悔恨する前に、私は彼が残す課題をやはりこなしておこうと思う。率直に言ってボケ始めた吉本隆明には以前のような怖さはない。それを幸いに、90年代を超えた吉本シンパたちも、否定であれ、また回顧としての肯定であれ、みな吉本を過去に押しやろうとしている。私は吉本主義に従順たれとはまるで思わない。そんなものは吉本の生涯とともに終わるのがいい。だが、吉本が戦後なしえたものを過大評価する者も過小評価するものも、吉本が歴史に刻み、また歴史に残したものの、その客観性を見失い始めていると思う。その最たるものは造悪論だろう。麻原裁判に寄せて朝日新聞に寄稿した芹沢俊介の見解もずっとひ弱なヒューマニズム的な地点に後退してしまった。
 吉本が最後に残したのは造悪論だと言っていいと思う。そして、この造悪論を持って、戦後の吉本シンパを吉本自身がほとんど駆逐してしまった。吉本主義者たちの大半は、思想的に吉本によって殺戮されたに等しい状態になった。まさに、恐ろしい思想家だと思う。そして、その恐ろしさとは、実はボケたように書かれている親鸞のまさに最後の姿と同じだったのかもしれない。親鸞はもっと緩和に述べた。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 しかし、この信仰の極北で親鸞は、彼に従う人々を、ある意味でみな捨てたのではないか。「面々の御はからひなり」の言葉は恐るべき言葉なのではないか。念仏によって救いを得ようとしている者すら、ここで親鸞は捨てたのだ。なぜ、そう言いえるか。念仏とは「面々の御はからひなり」であってはならないからだ。
 こう言うことに私も畏れを覚えなくていけないのだろうが、先の親鸞の言葉は、「念仏を信じるも信じないのも各人の勝手だ」というのではないのだ。それはなんという誤解だろう。親鸞は、露悪的に言うなら、「信じると言うものなども自力の業ではないか、そんな信など私には関係のないことだ」ということだ。
 他力とは、「面々の御はからひなり」を越えたところに現れるのであって、信じるか否かを問うような安穏としたものではない。
 そして、まさに、そのような、自力の信ではない他力の極限の信のありかたが、造悪論と同型なのではないか。
 造悪論については、読者を選ばないブログで不要な誤解を招いてもしかたがないので詳しい解説はしない。また、歴史的に見るなら造悪論は親鸞の思想ではなく法然の思想であると言ってもいい。しかし、その意味を徹底的に明かにしたのは親鸞だ。
 親鸞は、造悪論の骨頂を理解しえない者には、「薬あればとて、毒をこのむべからず」とは説いただろう。そして歎異抄を読む限り唯円も親鸞の意図を理解しえなかったように思われる。

 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひし…

 この問題は北魏の仏教史などに史実の反映も見られるようだが、それよりもこの問いかけこそ親鸞の生涯の命題でもあっただろう。これを禅の公案のごときに矮小して見ては間違えると思う(あるいは禅の公案すら矮小化していはならない。南禅は無辜の猫を殺したのである)。ここに造悪論が純化される。
 親鸞は「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」とする。宿善も悪業も真に受ける必要はない。重要なのは、私の考えは間違っているのかも知れないが、造悪は他力の業だ、ということだ。
 信仰を自力に寄せることを親鸞はナンセンスとした。そんなもの各々の勝手でよかろう、と。すると、信も増悪も、意思を越えた他力、つまり、その必然に現れるものとなる。
 吉本は、この他力=必然を、不可避というふうにその思想のなかで深化させた。思想は、それ自体の意志性としての選択性を無化するような不可避の位置にあるときにしか、本当の意味を持たないとした。これは、親鸞の信とまったく同じ構造である。
 そして、この不可避性として出現する増悪を、親鸞も吉本も肯定してみせた。繰り返すが、造悪という言葉のもつ意志性の響きが、親鸞や吉本の理解を間違わせているのではないか。
 不可避として現れる悪を肯定するという関わりのなかでしか、信も思想もない。いや、ここで、信と思想は、自己の選択性としては提示されていない。つまり、そういう思想が、自己から離れて選択的に取捨しうるといったものではない。
 八つ裂きにして百編殺しても憎み足りないような悪人どもを阿弥陀は善人より先に救う。なぜか。親鸞は、救済とはそういうものだとした。吉本もそこに添っていった。
 私は、正直なところ、そのような救済の意義が得心できるわけでもない。だが、造悪論の基本デッサンから伝わる意義については、なお思想の課題としてあると思う。

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育児休業法もだがサービス産業主体の行政が必要

 日経新聞社説「実効ある育児休業法を」が興味深かった。ある意味難しいのだが、よく書けていたと思う。テーマは標題どおり育児休業法の改正案についてだ。例題の取り上げたかたがうまい。


 現行法は子供が1歳に達するまでしか育児休業を認めていない。だが保育所の多くは年度替わりの4月入所となっており、早生まれの子供などは親の休業期間が終わった後の翌春まで入所を見送られがちだ。改正案が、こうした特別な事情がある場合に限り最長1歳半までの休業延長を認めたのは、妥当といえる。

 保育所の現状を知る人間は社会的には少ないのかもしれないが、日経が指摘するこの保育所問題は、経営努力を進める企業の視点から見ると、けっこう呆れた印象を与えるものだ。現在、文科省管轄の幼稚園は少子化の影響と、それの派生であるシックスポケット(一人の子供のパトロンが六人もいる状態)効果から、保育所とは異なる奇妙な洗練に向かっている。がそれでも、幼稚園には変化はある。厚労省管轄の保育所については、ただひどいな、という印象を持つだけだ。
 日経は現行の保育所のシステムを前提としたうえで、育児休業法側の問題で見ているが、社会と育児の関係でいえば、まず、保育所のシステムを改革し、それに補う形での育児休業法が必要になるだろう。もちろん、正論を言うは易く、実際は難しいというのもわからないではない。
 今回の育児休業法の改定で重要なのは、パート労働者の問題だろう。日経はこう切り出している。

 画期的なのは、期間を限って働くパートタイマーや契約社員への適用拡大だが、これについては疑問も残る。過去1年以上雇用されていて、子供が1歳になっても雇用継続が見込まれること、ただし2歳時点で雇用関係の終了が明らかな場合は除外という厳しい条件がつくからだ。

 当然ながら、この条件自体、生活人の実感すると、ほぼナンセンスだ。日経もこの先の文脈で指摘しているが、事業主は雇用の期間を短縮するだけだろう。ではどうしたらいいかというと、私もまるで解決策が見つからない。この問題の背景は、またしても年金問題、つまり第三号被保険者の問題である。企業側で第三号被保険者の対応ができなくなり、増える女性のパート労働者に国としても対応したいということだ。
 日経の批判というわけではないが、次の結語には違和感が残る。

 すでに女性雇用者に占める非正社員の割合は過半数に達し、有期契約者も500万人程度と目される。企業にとって代替要員確保などの人件費増は頭痛の種だが、公正な処遇が労働意欲の向上や良質の人材確保につながれば、長期的には企業にも有益なはずだ。現在、女性の育児休業取得率(64.0%)に比べて男性のそれ(0.33%)は極端に低く、政府の目標値10%にも遠く及ばない。法案は触れていないが、男性の取得促進策も今後の課題だろう。

 違和感というのは、男女という言葉からはあたかも対等のようだし、また頭数という点でもそれほど男女差の問題は大きくはないのだろうが、女性雇用者の多くがパート労働者であることから考えても、日本の産業全体に占める彼女ら貢献の比率は、おそらくかなり低い。日経のこの結語では、そうした点で、女性の労働力をある意味捨象している印象を受ける。そこを見逃して、理想のようなものを述べてみても、違うのではないか。
 日本の産業は今後さらにサービス産業に向かわざるを得ない。だから、女性の活躍の場は広がるようにしなくてはならない。また、基本的にそうした女性の雇用の場は、形態としてはパート労働者に近いものであっても、現状のスーパーのレジといったパート労働者のイメージを変えていかなくてはならないだろう。
 端的に言えば、女性が常勤でなくても十分にサービス産業から所得が得られるような社会に変革していけば、常勤でないメリットが育児を含めた個人の生活に活かせるようになる。もっとも、育児を女性に任せろという暴論ではないが、育児される子供の側は「母親」をどうしても必要とする機会は多いというのが育児なのだ。男性の休業が取りやすいというのも解決の一端だろうが、よく見かける育児パパといった面白い話題ではシステム的な対応にはならない。
 とすれば、問題の基底には、いわゆる男社会とされている産業の構造を、製造業(輸出産業)主体からサービス産業主体に変えていく必要性があるはずだ。が、それを志向せできないことこそ、日本の行政のシステム欠陥なのだ。

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2004.02.28

麻原裁判に思う

 昨日麻原裁判が終わった。予想通りの死刑だった。今朝の新聞各紙は当然これを扱うのだが、社説一本でこれに充てたのは大手では朝日新聞と読売新聞だけであり、他紙は短く扱うにとどめた。判決が予想どおりなので、社説の下書きはすでにできていたと見ていい。が、長短あるにせよ、どれも読むべきほどの内容はなかったと私は思った。しいて言えば、朝日があの時代を総括しなにかを学ぼうという視点を出したのは評価してよいと思う。また、新聞ではないが、日本版ニューズウィークのリチャード・ガードナー上智大学教授「オウム判決で裁かれる日本社会の『罪』」の寄稿も、河野義行と森達也に視点を当てていたが、率直なところ、そういう気取りがいかにも外人臭くてたまらないと思った。
 オウム事件に知はどのように取り組むべきなのか。この問題について言えば、判決が出たといってなにかが変わるわけではない。私に残されたこの問題の意味については、極東ブログ「麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想」(参照)に書いた以上はない。吉本隆明が自分に残す遺産のようなものだ。
 どの社説も触れていなかったが、この裁判で私がどうしても気になることがあった。すでに外堀から埋めていった(弟子たちをぞろぞろと死刑にした)ことで、麻原を世論的には追いつめていったのだが、法学的にこの麻原裁判は正しいのだろうか?ということだ。
 吉本はこの件について、たしか、死刑になんかできるわけないよと言っていたと思う。私もこの裁判(検察)は、法学的に間違っているのではないかと思っていた。やや、やけっぱちな言い方をすると、法学関係者はこの問題にはあえて沈黙するのではないだろうか。嫌なやつらだよな、法学関係っていう感じもする。
 しかし、この問題をとりあえず即刻日垣隆は解いてみせた。これは早晩、なにかのメディアに掲載されるのではないか。いずれにせよ、日垣はたいしたものだと思う。私の理解が違うかもしれないが、彼の説明は興味深かった。少し触れたい。
 と、その前に、私の視点を明確にしておきたい。私は、この裁判の問題は、かつての下山事件などと同様に、キーになるのは証言の信憑性だと考えている。オウム事件でも弟子の証言がポイントになるということだ。
 日垣の説明に簡単に立ち入る。彼の説明によれば、弟子の証言が問題ではないということが、すでに裁判の前提に織り込まれていた。日垣は、この裁判は「共謀共同正犯を認定」する裁判だとまとめている。「刑法60条 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」だ。これに、大審院1936年5月28日判決や最高裁1948年11月30日判決が加わる。このあたりの説明自体は、日垣と限らず、法学者のイロハなのだろう。
 裁判上の争点自体は、麻原は共犯かということだ。ここで、当然だよ、とか楽しいツッコミはできない。というのも起訴は「首謀者」としてであって、共犯者ではない。
 日垣は「共謀共同正犯」という考えが極めて日本的であると考察している。それはそれでとても興味深い。彼は、日本は、忖度(そんたく)社会だから、ヤクザなので親分の思いを慮って犯行に及ぶ、と説明する。
 確かに、目上の人の意思を推量することで子分の意義が決まるから日垣の視点は重要でもあるし、率直に言えば、世間常識でもある。会社で出世したけりゃ、上司を忖度すればいい。それができないのは、上司が怖くないとか、上司は馬鹿だなと思っているからだ。
 日垣はこれに次いで、真相解明がだから放棄されたのだとしている。それも正しいだろう。
 さてと、しかし、そう言われても私の疑問は取り残される。多分、少なからぬ人にとってそうなのではないか。
 生活者の実感として、この事件は過剰な忖度によるというのは納得できる。誰か言及しているか知らないが、その意味で、オウム事件は2.26事件とまるっきり同じなのだ。冗談を言うようだが、この事件を止めることができる可能性を持っていたのは小天皇たる麻原自身だ。それをしなかったことを麻原自身がどう捕らえていたかが、オウム事件を理解する上で重要になる。
 まずかなりはっきり言えることだが、麻原は、弟子の暴走を是認していた。しかし、私は、彼は、裁判でいう忖度を是認していたのではなく、麻原は麻原の現実をただ見ていただけなのではないかと思う。彼は、常人には理解しがたいのだが、現実とは彼の意思だと思っていたのだろう。
 彼は、こう考えていたのではないか、「国政選挙に敗れた。どうも我々オウム真理教はサリンで虐殺されることになるだろう。そうだ、サリンのような虐殺は我々だけではなく世界に及ぶ。その死滅した世界こそ肯定すべきものだ」と。そして、弟子達は、その麻原の現実世界=幻想世界、を、実際の現実世界に移し替えることを宗教的な課題にしたのだろう。
 まず、誤解して欲しくないのだが、麻原に罪がないと私は考えているわけではない。
 だが、そう考えると、法的に麻原を首謀者とするのは無理があると思うし、なにより、証言の信憑性は解明を必要としているのではないか。
 繰り返す、私の上のような「読み」なら、「指示」は要らない。そして、実際、指示は証言ということでは、無かったのでないか。
 私たちは、社会や自然に向き合って、意思を持つ。意思とは、この社会と自然を意思に接近させるためのもであり、であるから、前提として、自然・社会は意思と本質的に対立している。そして、通常我々の思惟というものは、この対立を克服する道具となる。
 だが、宗教に顕著なのだが、人間はそうではない思考回路を取りうる。つまり、「私の意思が自然だ」という宗教的な意識だ。これは、どうやら、ある意識の状態で人間のなかに発生するようだ。それが人間の歴史・社会において、個人と自然・社会が向き合う二項のモデルを越えさせる契機となっているように見える。
 自然と同一化した意識にとってまず顕著なのは、人を殺せるようになることだ。なぜか。自然は、育むと同時に殺すからだ。汎神論の神学考察で、どうしても口ごもりになるのはこの点だ。自然が神であるなら、なぜ、彼は、育み殺すのか。しかし、汎神論的な枠組みでは、その殺戮は前提的に肯定されている。そして、この関連から見れば、オウム真理教は奇矯な宗教ではない。
 少し奇妙な理屈になってきたし。この問題は、たぶん、ブログの読者のわずかにしか関心がないだろうからこの程度で切り上げる。率直なところ、私は無意味に自分が誤解されてもやだなという思いもある。
 麻原裁判の問題に戻す。真相は解明されなかった。日本社会は、真相を欲してはいなかったとすら言える。ここで急に話の位相を変える。「と」がかかって聞こえるかもしれない。が、私はオウム事件の真相の大きな一部は村井秀夫暗殺にあるのだろうと考えている。もう少し言う。村井秀夫のトンマな妄想は残酷だがお笑いを誘う。この間抜けな人間に組織化した殺戮のプロジェクトがこなせるとは私は思わない。およそ、ビジネスでプロジェクトを動かした人間ならその背後に、それなりの玉(タマ)が必要なことを知っているものだ。

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2004.02.27

網野善彦の死

 肺癌、享年76歳(参照)。もうそんなお歳だったかと思う。訃報を聞いたとき、心のなかでなにやら、「しまった、しくじった」という思いが湧いた。なにを俺はしくじったのか、と心に問うてみてもよくわからない。奇妙な喪失感がある。
 私は網野史観から影響を、当然、受けた。が、畏れ多いが、ライバル視っていう感じか。父親に対する思いのようなものか。

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異形の王権(新書)
 網野史観が1986年「異形の王権」で論壇に可視になったとき、俺はその歴史の光景は知っているぜ。俺だって山野を歩いて自力でその世界をこじ開けてきたぜと思った。幼い嫉妬心のようなものでもあるが、この世界をこじ開けることが、どのように精神に負担をかけるかはそれなりにわかっていた。世人は網野の結果を受け取ったが、私は網野の見えない努力を信じることができた。なお、できれば「異形の王権」は新書版でないほうを薦めたい。絵に意味があるからだ。
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異形の王権(お薦め)

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日本とは何か
日本の歴史
 「しまった」というこの一つに、網野の最終的な著作がなんだかよくわからないというのがある。論壇的には「異形の王権」ということになるのだろうか。あるいは、概論的にはシリーズの巻頭たる「日本とは何か 日本の歴史」なのか、とも思うが、この本は存外に軽い。軽いという点では三巻にする必要もない岩波新書「日本社会の歴史」も同じだ。網野のこうした概論的な本は金太郎飴的でもある。
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日本の歴史を
よみなおす
 存外に読みやすく面白いのは正続「日本の歴史をよみなおす」だろう。女性論など、今から読めばどってことはないのだろうが、90年代前半には物議を起こしかねた。むしろ、その後の歴史学の女性論や性の問題は、現代思想に引きずられるせいか、糞面白くもない。更級日記すら文献として読むような、感性の枯渇した研究者が小賢しいことをほざいて新書にしてどうするんだ、という感じか。その点、網野は良かった。網野は糞な現代思想などに一度も媚びなかった。網野は古色蒼然たるマルクキストでもあった。遺体は故人の遺志で献体された。
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日本王権論
 死なれてみて、網野著作から一冊だけ選べというなら、対談集というのもなんなのかもしれないが、宮田登と上野千鶴子を交えた「日本王権論」がいいと思う。こんなものがイチオシか言われると網野ファンとしては恥ずかしいのかもしれないが、この対談で網野はいまでもブルーフラッグを振るんだと言っていたのが、泣けるじゃないか。泣けよと思う。この爺にそう言われて泣かないやつに歴史がわかるかよと思う。
 ひどい言い方だがテーマたる天皇制など、どうでもいいと思う。今じゃ魔法使いのお婆さんみたいに干上がった上野千鶴子だが、父親同伴だと、かわいげがあるじゃねーか、ってなこともどうでもいい。網野は宮田登との対談が楽しくて、つい心情を解いたのだ。そういえば、宮田登は早々に死んでしまった。享年63歳。2000年2月のことだ。
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もののけ姫
 二人の対談には「神と資本と女性」「歴史の中で語られてこなかったこと」がある。後者は宮崎駿「もののけ姫」の参考にもなるだろうが、とちとタルイ感はある。余談だが、「もののけ姫」は南方熊楠と熊野の世界がある。
 網野は甲州人である。中沢新一と家系のつながりがあったかと記憶しているのだが、ぐぐってみてもわからない。ま、そんなものぐぐるなってことか。同じく甲州人、林真理子とも関係があったはずだ。甲州人というのは深沢七郎的世界でもある。信州人に近い面も多い。
 かく追悼の思いを書きながら、近年は私は網野自身より、彼が晩年プロデュースした宮本常一のほうに思いが流れて行った。網野がなぜ宮本常一を強調したのかは、私にはわかる。これも恥ずかしい言い方だが、私は網野が見てきたものを見てきたから網野に会えたように、網野が見ようとしたものを見続けたいと思った。
 ふと気になって宮本常一の享年を調べると、73歳(1981)、胃癌。網野より若く死んでいたのかと思う。宮本常一は網野より格段の巨人だった。そう言っても網野は怒るまいと思う。本物のマルキストだけが持つ、強くやさしい笑みを返すのではないか。

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多分、年金問題は問題じゃない(無責任)

 年金の雑談をさらに続ける。また、たるい話かよ、である。すまんな。問題は、年金という看板じゃなくて、その裏にある、若い人たちの国家イメージなんだろなと、昨日なんとなく痛感したという、団塊下のオヤジのボヤキのようなものを書く。
 今朝の新聞社社説としては毎日が「年金改革 先送りすれば信頼を失う」として扱っていた、が内容はない。先送りにしてはいけないというなら、どうしろという話も書くべきだが、そこがスコーンと抜けていた。午後のお茶にもならん。
 昨日の極東ブログ「多分、年金からは逃げられない(無根拠)」(参照)で、正直にいうと、わざとたるい話を書いた。問題の背景には、若い世代と対話しなくてはな、で、俺はどういうスタンスなんだ?という配慮の感覚は、もちろん、ある。46歳だしな。オヤジだしな。
 だが、同時に、そういう自分の側を折るようなスタンスが、この問題にとって重要なのではないかとも思えた。で、なにが重要なのか? という点で、年金より、ああ、国家というもののイメージなんだろうなと思えてきたのだ。
 話の順がよくないのだが、若い世代にしてみると私のような46歳と、それよっか10年くらい上の団塊・全共闘世代と何が違うんだよ、と思うだろう。あれ?宮台なんかも45歳くらいか。ま、彼なんか意図的には、逃げか若作りしたエリート・インテリか、ま、げなげなスタンスも取っているよーだが、いずれにせよ自身の世代的責任(つまり歴史を負う)という意味では、私なんかとはかなり違うのかもしれん。
 で、何が言いたいかというと、私は私で、団塊・全共闘世代が大嫌いなのだ。これは感性的にも徹底してしまっているので、ビートルズとか聞くと吐き気がする。Love&Peaceみたいなメッセージを見ると、STD感染で氏ね、とか思う。が、なにより嫌なのは、国家への従属的な立場と大衆への見捨てかただ。あの時代、ゲバ学生っていうのはエリートだった。で、大半はさっさと国家に組み込まれていった。企業は国家じゃない? 同じだね。しかもエリートらしく同世代の高卒の大衆を見捨てていった。団塊・全共闘世代といわれてもわからんなぁ、芋焼酎くれぇ!みたいなおっさんたちは、そういう世界に慣れていった。私は、こういう社会が反吐が出るなと思った。
 さらに言う。彼らは、国家とは暴力装置だとか、よくぬかすのだ。今なら馬鹿、で終わりだが、彼らのいいところは酒の力で本気になれるところだ。「暴力なんだよぉ」とかといって実際に暴力をふるってくださるところ、すてき。いや、ホントに。しかし、国家の本質は暴力ではない。
 国家は民族幻想(この幻想性はいわゆる幻想じゃない。非常に強固なものだ)による互助組織だし、市民を社会から守る装置だ。この市民を社会から守る装置というのが、どうにも理解されないような気がする。日本は、小社会を積み上げできるた大社会としての国家、というのではない、のだ。日本の社会はかなり陰湿なものだし、いまだにそうだ。フランスのような国家の原理の一つであるフラタニティ(fraternity)が無い。無いからこそ、日本近代は国家愛と国家宗教が必要になったのだろう。いずれにせよ、社会は市民をあっさりと圧殺する、これを、イカンぞ、殺してはいけないと命じるのが国家なのだ。が、日本はそういう国家ではない。社会向けに統制された国家の暴力であるはずの警察は機能しない。オウム真理教事件で批判されるべきは警察なのだが、そうもならない。日本には、市民を守る国家には未来永劫ならないのかもしれない。
 だが、名目上はそれでも国家は市民を守る。近代国家とはそういうものだから。と、このあたりで話を年金に戻そう。
 金銭のない日本人の老人がいたら、日本国家はこの老人を守らなくてならない。若者=社会が、俺は知らねーよ、と言っても、国家はこの社会(を排除して若者を蹴散らして)権力を介して、老人を守らなくてはならない。それが年金という形であらわれた国家の意思だ。
 つまり、私は、年金っていうのは、経済範疇の問題じゃねーよと言いたいのだ。そんなの回りくどく言うなよだが、私は若い世代を説得したいわけでもない。説得なり啓蒙なりは無理ではないか。そりゃ無理だな、と現状を認識するのが思想というもの立場ではないか。
 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。
 こうしてみると、「若者ってのは馬鹿なものよのう」である。自分がかつて同じような馬鹿であったことを私は忘れてしまったので、そう言う(洒落だよ洒落)。
 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

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観光立国日本をグローバル化しないとね

 麻原裁判を控え、今日のような隙間の日の社説が意外によい視点を提供することがあるようだ。各紙それなりに面白い話題だった。なかでも気になったのは毎日新聞社説「観光立国1年 外国人客を阻む閉鎖体質」だった。日本が昨年観光立国の看板を再び掲げたものの効果が上がっていない、という話がまずテーマとされている。毎日は問題点の半分はビザだという。


 なぜ日本に海外からの観光客が少ないのか。特に中国など近場の国から来ないのか。その答えの半分は分かっている。彼らが日本に入国するためのビザ(査証)を取るのが至難の業だからだ。
 ビザさえ取れれば日本への観光の5割は終わったようなものだと言っても過言ではあるまい。

 そう言われてみると、ビザが問題というのは、自分の過去の知人の話などを思い返しても、それほど頓珍漢な答えでもないような気がする。
 具体的にビザが問題になるのとして毎日が列挙しているのは、意外に少数の国であるのも面白い。

 中国ほどではないが観光希望者が多いにもかかわらずビザなどの障壁を設けているのは韓国、台湾、香港などからの入国だ。このうち香港はようやく4月からノービザになるが、これだけの措置で日本への観光客がざっと3割増と予測されているほど効果は大きい。

 この数年私も引きこもりぎみなので知らなかったのだが、韓国・台湾がまだビザだったのか。と書いてみて、どちらも、単に緩和という問題でもないなとも思い出した。韓国のほうについては事情に詳しくない私などがコメントしても失当するが、台湾のほうがけっこう政治絡みがあることはある程度知っている。
 私は以前沖縄に長く暮らしていたので、沖縄を訪れる台湾人客もよく見かけた。沖縄自体、あまり知られていないが台湾人ソサエティがある。余談にそれるが、秘密にしているわけでもないが、あのソサエティはあまりおもてには出ない。だが、面白い生息をしている。私が高級な中国茶を茶商から買うときに知ったのだが、高級茶には店頭にない別ルートがあるようだ。ほぉと驚いたものだ。ヤクの売買ルートとは違うが、高級中国茶など店頭に置いても売れないので、理解できるソサエティにだけ流通している。しかもそれが、どうやら華人ネットワークとつながっているようなのだ。私の見当違いかもしれないのだが。ついでに言えば、沖縄への中国密航者は台湾観光客を装っておおっぴらに国際通りなどを闊歩していることがある。通報するかしないかは、華人ソサイティに依存しているのではないか。
 沖縄も一応日本なので台湾客はビザが必要になる。が、客船だと不要になるらしく、沖縄でそうした客も見かけたものだ。また、私自身台湾に行って現地の人に話をきくと、彼らは本島より石垣とかにするっと行きたいらしい。が、そのルートは政治的に閉ざされている。の、わりに物流には変な抜け道がある。これには2.28事件などの歴史も関係しているようだ。
 話がそれたが、毎日がビザが問題と強調しているわりには、その視点はようするに韓国と台湾ということだとすると、話の筋が違うようにも思う。
 一般的なビザの問題でいうと、発行手順を簡略化すればいいのでないかと思う。これは私の経験なのだが、カイロ空港で乗り継ぎを失して困ったときのことだが、空港の人に相談したら、ビザを取れという。ビザが簡単に取れた。観光やホテルの手配も簡単にできた。ほぉと思った。もっともこの方法はエジプト人の気質を知っている人にしかお勧めはできない。いずれにせよ、ビザなんてものはすぐに発行してもいいのだ。とすると、日本でも相手国からその人の認証情報のようなものをもう少ししっかりして、ビザをその場で出すようにすればいいのではないか。
 話を一般的な観光に戻す。最近では少なくなったが、よく外人に日本滞在について相談をもちこまれた。が困るのだ。困るのは日本のステイの料金が国際的にお話にならない高さだからだ。ビジネスなら会社持ちでいいのだろうが、個人で若者がやってくるときなら、せいぜい一泊30ドルがグローバルな相場だろうと思う。それが日本にはない。バリに言ったときチャンディダサに数日ステイしたのが、コテージが一泊20ドルくらい。ああいうものが沖縄にあるといいと、機会あるごとに関係者に話したのだが、通じない。まぁ、そんなビンボ人の外人を日本に寄せてどうかと思うかもしれないが、各国の若い人間に日本を見てもらうことはいいことだと思う。これも自分の体験だが、アテネの路上で飯くっているラテン系の若者がいたのでどっから来たと聞いたら、チリと言っていた。少し話をした。ああいう気安さが東京にあればなと思った。
 経験からもう少し提言。実際にはビンボ外人たちは東京のステイのノウハウをよく知っている。ネットワークもある。私自身は現在そのネットワークにもうつながってないのだが、ああいうネットワークにNPOがうまく結合できればいいのではないかと思う。沖縄にいたとき、ドイツの少女だったが、日本に来たいという話があり、現地のNPO的な団体に打診したら、ホームステイが可能になった。そういう国の開き方は、もっとできないものかと思う。日本人もよい経験になるのだし。

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2004.02.26

多分、年金からは逃げられない(無根拠)

 さらに年金。さらにたるい雑談。らしたさんから疑問を投げかけられ、それがなにか自分の心のぼんやりとした部分につきあたる。疑問はこうだ。


すごい単純な疑問なんですが、日本の年金制度がいろいろな側面から見て破綻しているというのは明らかだとおもうのですが、なぜ政府はその「制度」を維持しようと必死なのでしょうか?

 なるほどなと思う。そりゃそうだと思う。以下、すまん、たるい話になる。
 なるほど、年金制度が破綻しているというのはそのとおり、としていい。が、名目は破綻できない。国家というのはとりあえずそういうものだ。互助組織でもある。すると、このままだと弥縫策に次ぐ弥縫策ということになり、結局年金受給は今の40代だと70歳くらいになる。私は70歳まで生きられないだろうなとも思うので、そう思うと年金なんてものは空しい。今の30代、20代にしてみれば、70歳と言われても、関係ねーよ、だろう。
 統計的かつ科学的に見るなら、ちょっと変な絵を描くことはできる。男性の平均寿命は80歳、女性は85歳くらい。すると、その破綻したような年金の受給から死ぬまで男で10年、女で15年、ある。その間、この老人をどうやって喰わせるか。想像しようにもまるでピンとこない。自分の80歳という像が見えない。想像力不足なのだと思う。
 現在日本では少子化と晩婚化・未婚化がものすごい勢いで進んでいるので、例えば、現在30歳の人間が50年後どういう80歳になるのか。まるで想像がつかない。モデルもない(そういえば、モデル世帯について極東ブログで考察しようとして宿題のままだったが、この宿題もまた延期)。半数は生涯独身ではないだろうか。身寄りのない爺婆が日本に溢れるようになるが、日本はかなり縮退している。現状から推測するとその年代で、身体的に自立している日本人は少ない。膨大な介護が必要になる。
 それ以前に60歳から70歳の支給まで、働くことができるか。現状の日本から類推するにその大半の人間に仕事はない。年金もなし。とはいえ文明は進歩しているから、実際には喰うに困らず、医療も現在の途上国よりはいいに違いない。そうばたばた死ぬわけでもない。
 私はおふざけを書いているのか? そんなつもりは毛頭ない。どうしたらいいのか?というとそれは基本的には連帯の再構築しかない。まずは、家族の可能な形での再構築であり、友情だろう。しかし、その話は今は触れない。
 話を戻して、なぜ国は年金を維持しようとしているのか。私はこの疑問に自動的に「それが国というものだから」と答えるのだが、なぜそう答えるのか、自分に再度問うてもよくわからない。そして気が付くのだが、いつからか、私は、日本という国から逃げなくなっているようだ。あれ?なぜだ?と自分に問いかけてしまった。
 私事めくが、私は20代に比較的外人の多い環境に置かれた機会も多かったせいもあり、米国人になるとも思わないが、いつか日本人をやめてもいいなと思っていた。そういえば、周りに国籍選択で悩む者も少なからずいた。いつから、日本を逃げちゃえ、と思わなくなったのだろう?
 いや、最近でも、晩年はオーストラリアに移民しようかなとか考えることがある。どうも自分が矛盾していることに気が付く。話も混乱してきた。
 むしろ、若い世代、特に国民年金未払いの人に聞いてみたい。「年金から逃げられると思ってる?」である。そう思っているのではないか。
 私自身、若い時、年金は面倒臭いし、家にもいつかないので、親に代わりさせていたような時期がある。が、逃げられると思っていたかというと、よくわからない。そう思うと、今の若い世代も、私の若いときと同じようなものだろう。私は国民年金不払いの若者を批判できる立場にまるでないと思う。
 だが、国民年金は建前上は、国民年金法、督促及び滞納処分についての第96条を読むかぎり、義務としか理解できない。
 つまらない結論でもあるのだが、若い世代で国民年金未払いというのは、「こんな制度すでに破綻しているじゃん、俺(私)の未払いなんていつか逃げられる」と考えているということだろう。
 恥ずかしい話だが、その問題に、どうも私はうまく答えられない。らしたさんの疑問にもまるで答えになっていない。が、それでも、制度がいくら破綻して見えても国家があるかぎり名目的には年金は破綻しないし、逃げることはできないはずだ、と思う(全然説得力ないが)。
 たぶん、「年金なんか払わなくていいXデー」とか、「結婚するXデー」とか、そういう「未来」を、若い世代は30代にまで持ち込んできている。それが、40代にまで持ち込めるものだろうか。あと5年もすれば、なにか世相が変わるだろう。ちなみに同質のXデーはまず皇室に象徴的に現れるだろうから、象徴的に社会問題になるに違いない。たぶん、世継ぎのオノコは生まれない。サーヤは現代版斎宮かな。非難しているわけではない。茶化しているわけでもない。日本が変わるのだ。
 私はそういう若い人を含んだ日本の世相の変化を見物していようと思う。単純に興味がある。どうも、倫理的・道徳的にはなにも言えそうにないのだから。「いつまで子供でいられるかやりたきゃ、やっていてごらん」という感じもする(ちなみに私はそういう意味の子供をやめてしまった)。
 余談だが、「作家」の日垣隆はたしか国民年金不払いを宣言していたと記憶しているが、逃げおおせるのだろうか。年金ではないが税関連で西原理恵子も笑いを取っている。経理が終われば脱税ではない。でもなぁ笑っていい問題かなとも思う。

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国内製薬会社再編成がようやく始まる

 今朝の新聞各紙社説はどれもヤフーBBの個人情報漏問題を扱っていたが、面白い視点はなかった。この話の関連は昨日「個人情報漏洩雑談」(参照)で書いたので繰り返さない。少し極東ブログの視点を強調すれば、固定IP化とCookieのトレーサビリティ、さらにアクセスログ集積がより実質的にかつ深刻な個人情報漏洩になりつつある。だが、社説執筆者たちにこの問題は理解させることはむずかしい。
 今朝の話題としては、日経新聞社説「大型医薬再編を加速させよ」が面白かった。結論としての、標題どおりのメッセージは違うのではないかと思うが(そうしても外資に太刀打ちできないから)、社説としてはよく書けていた。冒頭をひく。


 国内製薬会社3位の山之内製薬と同5位の藤沢薬品工業が来年4月に合併する。両社はすでに大衆薬事業の統合を昨年10月に発表していたが、国際競争の激化の中で本体の完全な合併に踏み切った。合併して誕生する新会社は連結売上高で9000億円に迫り国内業界トップの武田薬品工業に次ぐ2位になる。
 しかし、これでも世界の業界地図を見るとベストテンにも入らず、トップの米ファイザーと比べると7分の1の規模でしかない。しかも世界の医薬業界は、新薬の研究開発費が巨額になるのに対応して、このところ90年代前半に続く第2のM&A期に突入した。昨年ファイザーが米ファルマシアを買収してさらに巨大化し、今年に入っても世界13位の仏サノフィ・サンテラボが4位の独仏系アベンティスに6兆円を超える金額での買収攻勢をかけている。この買収の帰すうはともかく、再編の連鎖反応が世界的に進みそうだ。

 嘘はないのだが、背景を知らないとM&Aの嵐は一昨年前に起こったかのような印象を受ける。が、この動向は1999年あたりから進行している。むしろ、この間、国内製薬メーカーの安閑としているように見えるのが不思議なくらいだった。国内でのM&Aの動向は、ある意味、日本が経済停滞を脱出した兆候なのだろう。
 社説でも強調されているが、国内トップの武田ですら世界ランキングは低い。余談だが、武田は90年代アスコルビン酸市場の寡占化などでしょーもない利益を上げていたのはむしろ苦々しい感じする。
 M&A激化の理由は日経がいうように、開発費の問題でもあるのだが、市場のグローバル化も背景にある。なにより、国内市場は八兆円なので、とても「おいしい」。外資が目をつけないわけはない。また余談だが、ファーマシューティカルズの概念がなく粗雑にサプリメントと呼ばれている日本市場もおそらく将来的には一兆円から二兆円規模はあるだろう。粗雑に概算するのはこの市場が特定されないからだ。この問題も大きく、国内に専門家が存在しない。外資はすでに厚労省に攻撃をかけている。
 日経社説を全部引用するわけにもいかないのだが、この社説では明確にはTOB(株式公開買付け)について触れていなかった。片手落ちという言葉は禁忌のようだが、なぜお茶を濁しているのだろうか。製薬会社のTOBといえば、エスエス製薬が思い浮かぶ。ヤフーのファナンスをひくと、「【特色】大衆薬2位。ドリンク剤に強い。医療用にも展開。TOBで独ベーリンガーの傘下に」(参照)とある。歴史好きの人は参照として「日本ベーリンガーインゲルハイム」(参照)も見ておくといいだろう。
cover
メルクマニュアル
 こうした状況はかならずしも日本の市民に不利益でもない。なにより、国内だけしか流通しないしょーもない医薬品が減り、医薬品がグローバルスタンダードになることはよいことだ。MR(Medical Representative)のありかたもグローバルになる。ついでに些細な例だが、万有はメルクの完全子会社化される前からメルクマニュアルはネットで公開されていた(参照)。外資のほうが情報公開に積極的なので、市民にとって基調な情報源が増える。例えば、故小渕総理の処置が間違っていたことなどメルクをひくだけでわかる。
 と書いてみるとこの問題は錯綜していきそうだし、また私のクセとしてジェネリック薬の話でも書きたくなるので、結語もなく適当に切り上げたい。が、余談めくが、結語の代わりに、薬剤系の外資はとても慎重だという印象を受けるということを書き添えたい。
 ファイザーのバイアグラなども解禁され、一時期市場を広めようとしたが最近はそうでもないようすを受ける。低容量ピルなども売る気がなさげに見える。こうしたある種の日本社会の文化との、結果的な調整は、日本の医療体制が自動的に行っているのか、日本市民に医療知識がないためなのか。その双方でもあるのだろうが、劇的な変化が生じない。健康エコナのトランス脂肪酸含有量などもさして議論されない(それほどひどくはないのが幸い)。今後もそう劇的には変わらないのではないか。こうした日本社会の保守性はそう悪いものでもないだろう(が、個々人の選択は少ない)。

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2004.02.25

個人情報漏洩雑談

 ヤフーBBの契約者情報流出の問題が、なんとなくピンとこない(参照)。無防備に率直な印象を言うと「孫さんのところだからなぁ」である。そういう言い方は誹謗に聞こえるかもしれないが、そんな意図はない。自分としては、そんなものだよなというだけの感じである。その感じをもう一歩踏み込んで考えてみようと思うのだが、なんだかぼんやりした感じがする。そして、「ああ、この問題っていうのは世間ではセキュリティだの右翼だのという物語で理解されているのかな」と思う。そういう話も、実はちょっとついていけない。
 この件で、切込隊長BLOG(参照)が面白いといえば面白かった。90万件もの解約者がいるのだろうとしてこう言う。


 この数字は驚くべきだ。つーか、解約率高すぎ。インフラビジネスの基本から言って、携帯電話も含めたキャリアクロスはせいぜい年率でいって4%とかその辺のはずだ。累積で20%近い解約者を出しているというのはなんぼがなんぼでも酷すぎる。

 私にはビジネスセンスがないので、通常の解約率の感覚が働かない。だが、街中で見かけるヤフーBBの人々を見ながら、このビジネスが成り立つのは、解約しづらいっていう日本人的な心性を逆手にしているからだなという印象は持っていた。むしろ、みなさんちゃんと解約してよかったねという感じもしないではない。という言い方にすでにくぐもっているのだが、こういうビジネス攻勢のしかたはある意味に日本的ではないとも言えるし、日本をよく知っているとも言えるという点で、またしても、孫さんが思い浮かぶ。
 私は、そういいつつ、孫さんが嫌いではない。ADSLのアネックス関連の英文の仕様をちと仕事がらみで読んだことがあるが、これは孫さんふうに押してもいいのかもしれないとも思ったものだ。いや、率直言えば、電話網というコモンキャリアさえしっかりすれば、他の通信路など乱戦でいいじゃないかというやけっぱちな感じでもある。
 話を戻す。今回の事件でもう一点、ぼんやりとした感じがするのは、その個人情報ってなんだ?ということだ。自分もこうしてネットにつながっているということは、末端のプロバイダなり企業なりにぶら下がっているのだが、それにあたってはなんらかの契約がある。ヤフーBBでもそうした契約内容が漏れた、と類推する。で、困るのはなんだろう?
 クレジット番号? 私はすでにクレジット番号をハッキングされたことがある。やられたのは私の落ち度ではなく、恐らく通販などで使っていた米国の企業だ。ハックしたやつらはロシア人だった。被害がほぼなくて済んだのはクレジット会社の人的な機転だった。不思議といえば不思議だったのが、私はどうすればよかったのか? 対処はない。せいぜい、通販にクレジットカードを使うな、くらいだろう。しかし、通販経路でハックされたわけでもなく、このハッキングは、詳細は忘れたが、米国ではかなりの事件だった。やや例外かもしれない。いずれにせよ、クレジットカード情報は、やる気になら飲み屋でも漏れる。
 と言って、個人情報漏洩なんてたいしたことはないと言いたいわけではない。むしろ、たいしたことない情報の漏洩がネットや電子媒体で累積していくうちに、その検索性の良さという点から、なにかができつつあるなという気がする。
 昨日、このブログにスパムを打ち込んだ厨房がいた。JavaScriptは切っていたので、確信犯なのだろうが、あまり手は込んでいなかった。ふと、この手の厨房についてのTypePadのヘルプでも書こうかなとちょっと思った。まだそんなニーズはないだろう。今後は増えるだろうか。トラックバックなども実はMT仕様さえ守ればどっからでも打てるのでスパムになる。すでに極東ブログのトラバの一部はそれ臭い。一般的にIPの検知自体はJavaScriptなんかなくてもWebビーコンとか作れば簡単にできる。が、当方Webビーコン風のものはまだ設置していない。する気も当面ない。ログを見るのも面倒くせえという感じだ。とはいえ、私はこのサイトではリファラは取っている。どっかのサイトで晒しとか加熱した話題になるのは嫌だなとか、人は何に関心があるのだろうとか、思うからだ。
 でIPについてだが、そんなの串で偽装できるともいえるし、偽装するなら多段串にするかもしれない。が、そこまでするのかなと思う。そこまでやられたらめんどくさい(手間暇かけて追いつめるしかない)。IPさえ割れれば、逆探知的な情報収集はかなり楽になってきた。これにCookieに仕込まれたGUID的なキーがわかれば、ほとんど特定人物のプロファイリングは終わりだ。
 情報化とは変な世界だなと思う。私についてもすでに大量の情報がすでに漏れている。と、ここで思うのだが、なにより大量な情報はこの極東ブログであるはずなのに、おそらく、それは他者に意味のある情報ではない。私にとって意味を持たせたい情報は、情報として意味がなく、私を社会のなかでピン留めする情報が、私のメタ情報としての意味がある。個人情報というのはそういう機能(社会に固定し自由を奪う)をもった情報なのだ。

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年金雑話

 また、年金の話というのも芸がないのだが、産経新聞社説「年金改革 参院選挙の道具にするな」を読みながら、なんだかわざと話を難しくしているなと思った。もやっとした感じがするので、関連して少しメモ書きしておきたい。きっかけとなった産経社説の主張は標題どおりである。なお、さすがに今回は世代間の不公平や、年金族の無駄遣いなどの話は除く。


 年金改革法案が与野党の駆け引きに使われている。参院選を控え、国民に痛みを求める法案に及び腰の自民党と、徹底的に反対して強行採決させ、票を稼ぎたい野党の思惑が絡み合っているからだ。

 なんでも政局絡みにする思考法なのだ。
 ところで、この野党は民主党のことだろう。私は民主党の年金改革案は大筋で正しいと思うので、政治的に争ってなにが悪いのかと思う。しかも国会の盲腸、参院だ。
 産経の主張は結局、与党案をなし崩し的に是認させようとするだけだ。産経はそんなに創価学会寄りだったのか少し奇妙に思える。
 年金改革は、すごく単純に言えば、すべて税負担による税方式か、最低保障は決めておくものの所得に応じて払う所得比例方式の2つしかない。あるいは、現在検討されているように曖昧な折衷案になる。率直に言って、あまり議論の余地はない。
 しかも、仮に税方式ですべて年金は国の保障によるとしても、実際には民間の年金がそれに上乗せになるのだから、社会的には所得比例方式に近くなる。
 さらにそうなる結果を見越せば、税負担は軽減されなくてはならないのだから、国の保障は最小限になるだろう。税方式を選択しても所得比例方式に近くなる。
 そう考えるなら、実質的な意味で年金らしい年金というなら、すでにスウェーデンで実施された改革のように所得比例方式にするのがいいのだろう。
 それがすんなりと日本でいかないのは、これも端的に言えば、国民の所得の把握が難しいからということなのだろう。
 しかし、これも考えてみればむちゃくちゃな話だ。米国などサラリーマンもきちんと税申告をしている。日本は行政のIT化とか言っているが、実際面で個人の税申告をサポートしないのでほとんど無意味だ。
 つまらない結論なのだが、日本という国は、産業部門の発展に力を入れる代わりにその富みを配分するサラリーマンから自動的にお金を吸い上げるシステムを作った。これは日本の行政にとっても都合がいい。行政自体がいわばサラリーマンみたいなものだ。反面、自営業者はそのシステムのあぶれものだから、実質的なお目こぼしがあったといことだろう。国民年金が事実上補填されるのもそうした原理によるのだろう。
 この根幹を改革すれば(米国のように各人の申告に変えれば)、当然、日本国民に納税者意識が高まる。行政としては、それが一番嫌なのだろうなと思う。
 と、つまんない話になってしまったが、現実性はない。野口悠紀夫が提言するようにサラリーマンが個人企業になれば面白いのだが、そういう社会にはならない。「13歳のハローワーク」より「17歳の確定申告」という本が売れなくては話にならない。
 余談だが、フリーター諸君は確定申告しているのだろうか。しているなら、できるだけ、きちんとやるようにしたほうがいいことだけは確かだ。

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国連アナン事務総長参院演説

 今朝の各紙社説は国連アナン事務総長による参院本会議場演説を取り上げていた。が、この話は、対米追従という国内外の批判をかわすための政府の目論見という程度でどういうことではない。極東ブログの文脈で言うなら、米国主導の有志連合として派遣されたはずの自衛隊が国連認可となることで、表向き有志連合の思惑から逸脱するので好ましい。
 もっともこの動向の変化自体は米国主導だったので、日本がなにかするべき選択でもなかった。また、日本の世論は国連賛美の傾向が強いが、極東ブログ「イラク混乱中の国連事務所爆破テロ」(参照)で扱ったように、昨年八月デメロ国連特別代表らが殺された国連事務所爆弾テロ事件では、国連側に米軍軽視があったと見ていいのではないかと思う。あるいは、この非は事実上国連を見殺しにした仏独にもあるという印象も持つ。
 余談めくが国連については、これも極東ブログ「日本はいまだ国連の『敵』である」(参照)で触れたように、日本は国連の敵国となっているままであり、今回のアナン来日では、この条項が修正される気配がないことがほぼ確認された。この件については、極東ブログでは小沢一郎構想のように常備国連軍に参加すればいいのだと主張した。奇矯な主張のように受け取られる向きもあるが、ドイツが自国軍とNATO軍を持つことのように普通に受け止めることができるように思う。
 アナンが今回、日本政府をここまで支援したのは、日本人が勘違いしているように思うのだが、自衛隊への期待ではない。この点については極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」(参照)で触れたように、日本の派兵は規模が小さすぎる。当初は米国追従のシンボルでしかなかった。国連が側の期待は端的にお金だ。それと、国連の対米戦略に日本を引きつける意味もあるだろう。
 イラクに対するアナンの動向だが、直接選挙を延期させるという点でシーア派シスタニと妥協点を探るなど、よくやっていると評価していいだろう。この点、イラク選挙が遅れることを問題視する意見も見られるが見当違いだ。もっとも、妥協のそぶりを見せるシスタニとしても米国の影響力の弱体化を狙っているにすぎないとも言える。このあたりは、当面綱渡りの状況が続くだろう。
 隠された問題の極は当然米国だ。そして、いよいよ大統領選挙が問題に強く絡み出した。反ブッシュというだけの単純な反応で米国でのケリー旋風に浮かれる向きが日本にも多いのだが、ケリーはまったくといってほどイラク政策を語っていない。私の印象を言えば、こいつは木偶の坊か?である。現状を見る限り、一度懲りたブッシュのほうが米国の統治はまだマシかもしれない。

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2004.02.24

陀羅尼助(だらにすけ)・百草丸・リローラ

 胃腸の調子が悪いものが身近にいたので、陀羅尼助(だらにすけ)でも飲むかと言ったところ、陀羅尼助ってなんだということになった。そうかと思った。それほど有名でもないのかもしれない。確かに、今時、陀羅尼助を飲むやつなんかいないか。
 辞書をひいてみると、広辞苑と大辞林には載っていた。広辞苑にはこうある。


もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬。ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊。苦味が強く腹痛薬に用いる。吉野・大峰・高野山などで製造。だらすけ。

 ちょっとわかりづらい。大辞林はこうだ。

〔僧が「陀羅尼」を唱える時、眠気を防ぐために口に含んだことによるという〕キハダの皮やセンブリの根を煮つめてあめのように固めた、黒くてにがい薬。腹痛などに効く。奈良県の吉野大峯の洞川(ドロカワ)製を良薬とする。

 「吉野大峯の洞川製を良薬とする」というのがおかしい。なんでだろう。余談だが、以前仕事の同僚が大辞林編集に人生をかけた人の知人だったらしく、いろいろ裏話を聞いたものだが、なにか思い入れがあるのだろうか。いや、単に「洞川製を良薬とする」ということは古典常識だよと諭したかったのだろうか。
 ネットをひいてみると、洞川製といっても奈良県吉野郡天川村洞川にはいくつか老舗があるようだ。ネットからは「銭谷小角堂」というのが、ドメイン名からして目立つ(参照)。名前からして小角の伝説が語られているのだが、小角については今回は立ち入るのはやめておこう。
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死者の書・身毒丸
 私は陀羅尼助というと、奈良の当麻寺に詣でるたびになんとなく買っている。面白い時代になったもので、ネットでも購入できるようだ(参照)。当麻寺にホームページがあること自体面白い。当麻曼陀羅もネットで拝見できるが、こういうものは現物を見に行くほうがいい(なお、拝観できるのはレプリカで、現物自体は拝観できない)。当麻寺では曼陀羅の画像も販売している。私は折口信夫に傾倒した時期があり、池田弥三郎注を越える注を付け「死者の書」を現代語訳したいと思ってすらいた。死者の書は当麻寺の中将姫の物語でもある。
 当麻寺の陀羅尼助についての解説は、先の当麻寺のサイトでも見ることができる(参照)。まぁ、どれを見ても成分などは同じで、基本はキハダ、つまり、黄檗になる。
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フジイ陀羅尼助丸
 黄檗(黄柏)は、漢方材の一つ。アルカロイドであるベルベリンを含む。中国の禅宗黄檗宗の由来にもなるくらいなので中国にも多い生薬なのだが、古典的な漢方である傷寒論の主要な処方では見あたらない。有名なのは、黄連解毒湯だが、半夏白朮天麻湯、荊芥連翹湯にも含まれている。が、いずれも、中成医薬に近い。むしろ黄檗は和薬と見ていいだろう。日本人は千五百年は利用し続けていた。何に効くかといえば、とりあえずはベルベリンの抗菌作用(グラム陽性・陰性菌・淋菌へ)だが、収斂剤として、健胃・整腸にも利用されてきた。単純に言えば、万能薬と言っていいだろう。
 この黄檗が日本近代では、クレオソートと配合され、「正露丸」ができる。余談だが、「正露丸」は歴史的には「征露丸」である(参照)。日露戦争に勝ったことを記念して命名されたものだ。「正露丸」に変わったのは第二次世界大戦後であろうか。テレビのCMなどで「ラッパのマークの」とあるのは、そうでないマークの正露丸もあるためだ。ちなみに、大幸製薬の成分はこうである。

正露丸 9粒、成人の1日最大服用量、中
日局クレオソート…400mg
日局オウバク末…300mg
日局アセンヤク末…200mg
日局カンゾウ末…150mg
陳皮末…300mg

 余談だが、なぜ「ラッパのマーク」かということも解説が必要な時代になってしまった。ネットを引くと誤解も多い。ラッパといえば、死ぬまでラッパを話さなかった木口小平(キグチコヘイ)である。彼が亡くなったのは日露戦争ではなく日清戦争とされているが、おそらく伝説であろう。
 関西の薬屋でよく見かけるのは、藤井利三郎薬房のもので、本店の蛙も見たことがあるが面白い(参照)。この成分は次のようになっている。

一日量(60粒中)
オウバク軟稠エキス…1000mg
日局 ゲンノショウコ末…1000mg
延命草末…570mg
日局 ゲンチアナ末…500mg
日局 センブリ末…30mg

 成分中、ゲンチアナは、フランス料理好きならご存じかもしれないが、苦みのアペリティブSuzeの苦み成分である。Suzeについては触れないが、これはなかなかうまいので、お試しあれ。
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御岳百草丸
 私はこの陀羅尼助を愛用していたかというと、そこはそれ、ディアスポラの信州人である。百草丸を好んでいた。気分が悪いときなど、仁丹のように舐めていると、その苦みに癒される。百草丸もまた黄檗主体の和薬である。百草丸にもいくつかブランドがあるが、私が好んだのは長野県製薬御岳百草丸である(参照)。長野県製薬にもホームページがあり、百草丸の歴史が書かれていて面白い(参照)。いや、まったく面白い時代になったものだ。

修験者の間で脈々と受け継がれたオウバクエキス薬は大和国では「だらにすけ」として、そして後に高野山では空海の教え「大師だらに錠」として、また御嶽には覚明、普寛両行者の教え「百草」として伝わる事となる。当然の事ながらその製法は漢方にない日本独自のものである。

 成分は黄檗主体だが、やや違う。

60粒、成人の1日服用量、中
オウバクエキス…800mg
コウボク末…700mg
ゲンノショウコ末…500mg
ビャクジュツ末…500mg
センブリ末…35mg

 こうして改めて成分を見るといろいろ考えさせられる。ふと思い出したのだが、天武天皇が晩年病気になるとき、確か日本書紀では白朮(ビャクジュツ)が献上されていたはずだ。天武天皇は信州文化と奇妙に関係が深い。
 そして、あれっと思ったのだが、厚朴がこんなに多いのかということだ。これでは、黄檗と厚朴の製剤といっていいほどだ、というあたりで、奇妙なことを思い出した。これって、Reloraではないか。
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リローラ
 Reloraは一昨年前あたりから、アメリカで多少ブームになっているダイエット薬である。甘味欲求を減らしストレスを軽減させることで痩せるというのだ。もっとも、それは効能ではなく噂のようでもあるが、販売元では小規模な臨床実験をしていて(参照)、それなりの効果があったという。日本でも輸入品で販売されているようだ。サプリンクスというショップからひく(参照)。

ストレスからの過食予防ハーブ!
リローラは、ミカン科キハダとモクレン科ホウノキから抽出された成分を合わせて配合した商品です。ストレスから来る、過食に対して非常に効果があるという事で、アメリカ国内でも注目をされている新成分です。ストレスホルモンのコルチゾールを減らすことも分かっており、リラックス効果とストレスによる過食を抑え、まさにストレスの多い現代人向けのサプリメントです。

 成分はどうやら、黄檗と厚朴の配合らしい。配合比が特許らしいのだが、基本的にこの配合でなんらかの効果があるというなら、百草丸でも効きそうな気がする。
 とま、健康情報にガセ話を流布してもなんなのでこのくらいにするが、こんなものが特許サプリメントというのは、日本の百草丸を考慮すると、イカンのではないかとも思う。ところで、百草丸で痩せた、ストレスが軽減したという人がいたら、教えてほしい。私も使っているが、特にどってことはない。肥満でもないからか。

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近況・広告・スパム

 今朝の新聞各紙社説には自分としては取り上げるべき話題はなかった。しいていうと産経新聞社説「女児連れ去り 警察への信頼崩す犯罪だ」だが、これはそんなに騒ぐ事件なのかという点で気にはなる。が、警察官とはいえ、勤務時の行為ではなかったので、普通の市民と同様に扱われればいいだろう。世間的に言えば、「この人ロリ?ペド?」といったところかもしれないが、例えそうであっても警察官に相応しくないというわけでもないだろう。
 というわけで、まったくの雑談、極東ブログの近況を書く。二点ある。
 一点目は、ご覧とおり広告を入れたこと。GoogleのAdSenseだ。てらいでいうのではないが、広告を効果を期待しているわけではなく、実験的な意味でもあるし、私は、世間に流されるを良しとしているので、やってみるかという感じだ。もちろん、一番ちっこいのにした。
 今朝付けたのだが、配信される広告がけっこう面白い。自分でクリックしてみたいのだが、オーナーがやるのは問題があるらしい。クリック回数によってキックバックがあるからだら。
 AdSense内容はWebページの内容をGoogleが解析して選ぶらしい。きちんと選んだ広告というのはある種、トラックバックような意味も出てくるだろう。つまり、これは案外有益なものになる可能性があるのかもしれない、と思った。
 広告がうるさい方はJavaScriptをオフにすると消えるのでそうして欲しい。IEだと面倒だがタブブラウザーとかだと簡単だ。Google AdSenseの貼り込みは技術的にはIFRAMEだった。ほぉIFRAMEかよと思う。ココログはXHTMLなのでIFRAMEはどうだったっけと調べるとOKだ。ふーんという感じだ。
 広告については、書籍関連で、すでにアマゾンのアソシエイトを入れてある。買う人はいねーべと思っていたが、先日みたら、30冊くらい売れたようだ。これは、ありがとうございますと謝辞を述べたい。恐らく極東ブログの支援の意図なのだろう。ご贔屓さんがいると理解した。それは単純に嬉しい。
 書籍通販に関してアマゾンがいいのかよくわからない。自分では最初にこの手のビジネスを始めた紀伊国屋をよく使うというか、新宿の本店は私の青春のようなものだ。が、アソシエイトを始めたからではないが、アマゾンもよく使う。もともと、米国アマゾンとバーズンズ&ノーブルは使っていた。が、そういう利用面より、古本を買うためだ。私は、世間に流されるのを良しとするのだが、さすがにベストセラーなどに追いつくのはつらい。芥川賞モー娘も文春に付いているのだが、どうにも読めない。歳かなというのと、こんなの今の二十歳の娘じゃねーよ、安堵するんじゃねーよとかも思う。話がそれたが、アマゾンは古本が便利だ。
 広告全体についてだが、こういうのはある意味スポンサーになるので、発言がしづらくなるかというと、それは、心理的には「なる」と感じる。朝日新聞のように、社会正義をこいて水溶性アガリクス茸広告とまがうばかりの書籍広告を掲載できるほど、鉄面皮にやっていくほど当方タフではない。このあたりの、自分の心はよく見ていこうと思う。
 もう一点は、スパムだ。昨晩「死ね糞気違い」さんが、スパムを50本くらい打ち込んでくれた。おかげで他のかたはコメントが書けなかったのではないかと思う。こうした事態へごめんなさいをいうのは私だ。申し訳ない。が、ちょっと力及ばずなので勘弁してほしい。
 スパム投稿の時刻は零時台だったので、「死ね糞気違い」さんは、夜もんもんと打ってくれたのだろうか。「死ね糞気違い」という言葉遣いが古くさいが、文面はコピペと能がないので厨房っぽい。なにが気にくわなかったのか。ま、いろいろ気にくわないに違いない。私がウヨ、またはサヨに見えたか。ま、どっちにも見える。が、端的に言えば、私への嫉妬が大きいだろうな。ちょっと脱力する。俺なんかそんなタマじゃねーって、と思う。しかし、なんとなくだが、通じないような気がする。ここは当方大人らしく責任追及でもしてみるかとも思うが、ちょっと思案しかねている。
 他にもスパムが増えてきている。人をむっとさせることを書くからなのだろう。「書き方が悪いんだよ」というのもあるだろう。それはあるなと思う。先ほどの嫉妬ではないが、こういうとこっぱずかしいのだが、私にはある程度知識があるので人によってはそれだけで許せん、みたいなこともあるのだろう。知識を持つ人は知識の量で争いたいものではないか。
 で、どうするかなのだが、よくわからないというのが心情だ。
 それより、我ながら、極東ブログがよく続いていると思う。ちょっと人気を落としたほうがいいというか、注目度を下げるほうがいいかなとも思う。というとうぬぼれだみたいだが。私という人間についていえば、ここで静かに交流を深めたごく数名のかたの存在が恩恵のようなものだし、それをもって満足として終わってもいいかなと思う。ココログのキャパでいうと、秋口には熱死するだろう。技術的には代替サイトへのMTインストールもできているし、ついでなんでtDiaryもインストしてある。しかし、そこまでしてするかなと迷う。
 気弱でいうのではないが、数年前あることがきっかけで、私は他者に語るを止めようとした。が、なかなかそうもいかないものがあって、くすぶるものがあり、よたよたブログを始めてしまった。こうしたブログが、スパムであれ、なんであれ、運営ができなければ、それはある意味、そういう時代なのだ。ここでも私は、世間に流されようと思うので、ダメならダメだなと思う。
 恐らくは、少しトーンダウンするかな。極東ブログの持つ、「死ね糞気違い度」を落とすことができないわけではないか、どうかな。私をさらっと知る人間は私の内面にこうした思いがあることを知らない。私を知る五人くらいの人は別にこんなブログを書かなくてもわかってくれる。ま、そういうことかな、と思う。
 ちと長すぎる雑談になった。内容もなく申し訳ないと思う。

追記 2.25
広告は最小のもより、少し大きくしてタイトル脇の空き地に置いた。ちょっとうるさい感じになった。

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2004.02.23

正しい日章旗の色について

 昨日は天気も良いので所沢の航空公園まで散歩した。自衛隊機などをぼんやり見ながら、機体の日章旗の色に心惹かれた。いい色合いだなと思った。そう思う背景には、日本の国旗として掲揚される日の丸の色が、どうも間違っているとしか思えないのだ。日の丸掲揚を叫ぶ人たちは、このことをどう考えているのか気になる。もちろん、問えば、つまらない答えが得られるのだろう。そんなことは本質的ではないとか云々。つまり、日章旗を愛でているのではなく、イデオロギーに心酔しているだけなのだ。
 詳細を書くのはめんどくさいので省略するが、日章旗は法律で国旗として規定されるようになった。小渕の残した遺産のようなものだ。私は技術屋の末席くらいにはいたので、なんであれスペック(仕様)が気になる。日章旗は国旗及び国歌に関する法律の別記で次のように決められている。


日章旗の制式
(図省略)
一 寸法の割合及び日章の位置
 縦 横の三分の二
    日章
    直径  縦の五分の三
    中心  旗の中心
二 彩色
    地   白色
    日章  紅色

 歴史好きのものからしてみると、日章がやや大きいかなという印象はある。それでも明治3年1月27日太政官布告第59号では十分の七だった。が、それはそれでいいだろうとは思う(日章が本質だから)。白地もさして問題はない。問題は日章の彩色である。「紅色」とある。これは太政官布告第59号を踏襲している。つまり、戦前戦後で日章の色に違いはないはずだ。
 当然ながら、「紅色」というのは曖昧な色ではない。工業的な色彩はJISで決められている。"JIS Z 8102(2001)"「物体色の色名」である。色はマンセル体系で規定されていて、"3R4/14"である。パソコンで再現するにはこれをRGB値に変換しなくてはいけないのだが、この変換式が各人各様といった状況のようだ。モニターの基準によるのだろう。マンセル規格の大元の団体でもRGB値の変換プログラムを配布しているのだが、日本で普及しているモニターだとやや色合いが違う。日本ではシェアウエア「色出し名人」(参照)が普及しているようだが、これだと"BE003F"である。

 まぁだいたい自衛隊機の日の丸の色に近い。というか、これが日章旗の色のはずなのだが、まずもって、日常見かける日章旗でこの色を見たことがない。まったく日本人の色彩感覚はどうしちまったのだろうと思う。
 今朝の産経新聞社説「国旗・国歌 正面に掲げ堂々と歌おう」である。またかよであるが、こう言う。


 まもなく卒業式のシーズンである。どの学校でも、国旗を正しく掲揚し、心をこめて国歌を斉唱する。そんなすがすがしい厳粛な卒業式が行われることを願いたい。

 「国旗を正しく掲揚」する前に、「正しい国旗」を掲揚してほしいものだなと思う。
 なにか些細なことを論じていると思われる人も多いかもしれないが、英霊を乗せた軍機の日の丸の色は、現在の自衛隊機の色と同じである。軍機の展示を見て、その日章の色がくすんでいるように思うような日本人がいては情けないではないか。

追記
広辞苑の電子版を持っているのを思い出し、そこで紅色をひいてみた。マンセル系は同じだが、RGB値が違う。次のようになっていた。こちらのほうが実際に近い。


法制化にあたり、しょーもない議論の記録があった。こんなのを理由に曖昧な色合いとされてはたまらんなと思う。


第145回国会 内閣委員会 第11号(平成11年7月1日(木曜日))

竹島政府委員 紅色というふうに書いてありまして、赤とは書いていないということについてお答え申し上げます。
 一つは、赤とした場合には、白に近い赤から黒に近い赤まで、赤という色の意味する範囲が広い。それに対しまして、日章旗の日の丸の色というのは御案内のとおり鮮やかな赤。その鮮やかな赤ということを意味するために、赤色ではなくて紅色ということで特定性をより正確にしよう、こういうことで紅色という表現にさせていただいております。

145回-参-本会議-43号 1999/08/09

山崎力
 むしろ、法案の中に日の丸の色を赤色ではなく紅色とあるのを見て、違和感すら覚えました。確かに、一般的に流布されている日章旗の色自体は紅かもしれません。しかし、紅色は広く赤色の系統に含まれるものですが、逆に、紅色は赤色系全体を示すことはできません。何より広く国民に浸透している赤のイメージを覆すものであり、同僚議員が異例にも特別委員会で独唱した「白地に赤く」との歌詞は、正確には間違いということになってしまいます。

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イラン選挙の落胆

 今朝の大きな話題といえば、イラン選挙なのだが、これは前もってわかっていたように保守派の勝利に終わった。圧勝という感じだ。やりきれない思いがするが、なによりこれが現実だ。間違った連想かもしれないが、天安門事件の中国の民主化要求も歴史のかなたに消えた。イランの民主化も同じように消えていくのかもしれないと思う。それは悲観なのか。あるいは、それはそういうものなのか。つまり、民主化が正しいように思うことが幻影なのか。
 朝日新聞社説「イラン選挙――民主化の熱気はどこへ」が皮肉な意味でがっかりさせる内容だった。がっかりというのは、反米を書き立てることをちょっと期待した。というのもイランを保守主義に追いつめたのは米国ではないか、と思うのだ。しかし、そうした記述はなく、イランの内政に終始していた。逆になぜだろうと考えるのだがよくわからない。ちょっと狐につままれたような感じがする。
 朝日は実は今回の結果を良しとしているのだろうか。指導者ハメネイは、今回の選挙で敗者は米国だと言ってる(参照)。朝日新聞系のニュースをひく。


 イランの総選挙(定数290)は22日も開票が続き、すでに圧勝が確実となっている保守派は首都テヘラン(定数30)でも議席を独占する見通しとなり、改革派の惨敗が一層明確となった。最高指導者ハメネイ師は21日夜、国民向けに声明を出し「選挙の敗者は米国とシオニストだ」と述べた。

 そういう単純な反米路線に朝日が乗るとまでは受け取れないのだが。なお、毎日新聞社説もとくに言及するべき内容はない。
 イランという国をどう考えたらよいのか、難しいと思う。話を難しくしているのは、もちろん核問題であり、それに必然的に関係する米国の問題だ。先日の地震の際にも思ったのだが、イランを国際的に孤立させてイランの民衆を苦しませるだけの意味があるのか私にはよくわからない。もっと援助を広げるべきなのではないかとも思う。
 今回の選挙では投票率は50%を越えたものの、イランという国の国民の信頼を勝ち得たものではない。まして、選挙自体がこれは不当と言っていいのではないか。
 現実的には、これでさらにイスラム保守回帰するかというえば、私はそうなりえるはずがないと思う。冒頭で天安門事件の連想を書いたが、中国人も利口な者は世界に出ている。イランでも同じだ。残りの若者が国内に残る。中国はそれでも若者にチャンスのような幻影を見せているが、イランにはない。文化的な背景はあるにせよ麻薬なども広がるだろう。
 どうもしまりがないが、個々のイラン人は、実際にはこうした国家の動向とは別だし、特に対外的に見えるイラン人は違うだろう。そのあたり、民間の有効を深めるくらいしか日本にはできないのではないか。と言いつつ、ニューズウィーク日本版に言われるまでもなく、まさにそこがなぁという状況でもある。

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2004.02.22

日本は米国に貢いでいるのか?

 私は、日本は「米国に貢いでいる」と考えてきた。しかし、そうなのか? 前回「日本の景気は回復しているのだが」(参照)を書いてから、いろいろ考え込んだ。わからない、というのが当面の率直な結論であると当時に、「米国に貢いでいる」というのは結果の一つの評価にすぎないだろうと思うようになった。結果というのは、それが選択肢を持つ政策として理解するのは難しいという意味だ。
 具体的な、政策の側面でいうなら、とりあえず、円介入をすべきだったか?という問いになるだろう。現実は、日本はがんがん円介入を行なった。しかし、円介入をしない、という政策は有効だったのか? つまり、通貨レートは市場に任せるべきなのか。
 実際にその局面での私の考えは、がんがん円介入せよだった。米国の双子の赤字はあるにせよ、急激な円高の局面は危険な投機を誘発するものであり、漫画風に言うなら、「日本国をもてあそばれてたまるかよ」である。なお、昨年の介入額だが、貿易黒字2倍に相当する20兆円である。今年は1月だけで6兆円を超えた。これが米国債に化ける。米国財政赤字の1/5くらいの補填になる。
 だが、中・長期的な局面でいうなら、そうした介入の意義について私はわからない。数年の内に、日本政府の為替介入額は150兆円を超えるかもしれない。そこまでしての円防衛が、結果的に日本の市民社会に有益なのか、私にはわからない。
 が、とりあえず、従来の産業部門重視という日本の「使命」にはかなっていることは、わかる。消費者からも一部の産業界からも「円高、ええんちゃいますか、それもまた好機や」と言う声は聞こえない(あるいはそういう声はあるのか)。
 この状況を日本版ニューズウィーク「日米が突き進む『金融心中』への道」(2.11)でピーター・タスカは問題視し、こう言う。


 誰もが言うように国の財政が本当に破綻寸前なら、何十兆円もの金がどこから出るのか。日銀が刷っているのだ。その一方で日銀は、市中から金を吸い上げることで、影響を相殺している。これは日銀と財務省の間の取引だから、増税や国債の新規発行の必要はない。
 ここで浮かんできた疑問に、誰か答えてくれないだろうか。日銀はアメリカの減税を間接的に支えているのに、なぜ日本の減税を直接支えないのか。日本政府はイラクの経済復興を支援しているのに、なぜ破綻寸前の日本の地域経済を立て直そうとしないのか。
 日本のエリートは、年金や医療保険制度の崩壊を競うように警告している。だが、どちらも経済が回復すれば、それほど深刻な問題ではなくなるはずだ。そんな暇があるなら、なぜ庶民の生活の質を高めるために力を尽くさないのか。
 そして最後に――日本の庶民は、なぜ「一億総貧乏」意識にとらわれ、世界最大の債権国の市民として、ものを考えないのか。

 タスカの指摘は単純だ。円介入に使う金を日本の市場に直接回せ。
 ここでよくわからないのは、このタスカの提言は、基本的にリフレ派の意見と同じではないだろうか。で、そうだとしたとき、リフレ派は、日本の円介入にどう見ているのだろうか。そこは、率直に意見を聞きたいと思うところだ。単純極まる問題にするなら、財布の中身の札を、米国に投資するのか、国内に投資するのか。それとも、どっちにしても、それは同じなのだろうか(そうかもしれない)?
 話を少し戻す。よくある疑問だ。この状況を「米国に貢いでいる」というなら、この膨大な円介入を行うのは財務省の陰謀なのか?
 この問いに答えるのは簡単だ。陰謀のような主体は存在しない。ではなぜ、陰謀にも見えるようなことが実際に起きるのか?
 私は財務省というものが、そういう目的に出来ているからだと思う。そういう目的とは、10年も前にウォルフレンが「民を愚かに保て」で指摘したとおりだ、と思っている。

 ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国と比べてみると、日本という国は、消費者より大規模製造業を優遇する社会になっている。「バブル経済」の消長にともなってさまざまの目をみはらせる現象が出現したが、これとても日本の市民が身銭を切って大企業を支援してきたという長い歴史に沿っていたというべきである(もうひとつ、よくわかる例をあげるならば、60年代と70年代を通して集められた家計貯蓄は、預金先の銀行を経て産業部門に直接融資された。預金利率は低く、一方で消費者向け貸し出しは未発達だった)。家計部門から産業部門へと組織的に日本の富を移動させることで、日本の大企業は世界市場において並はずれた優位性を手にすることができた。

 この認識にウォルフレンの間違いがあるだろうか。それとも、これは財務(大蔵)省の陰謀なのだろうか。いや、そういうふうに(産業部門を重視するように)日本の政府が出来ているからそうしただけのことだと私思う。つまり、オートマチックな現象にすぎない。
 そして同じメカニズムが、オートマチックに今でも、円介入においても、同じように作動してるだけなのではないか。この思いを私は払拭できない。繰り返すが、陰謀があるわけではない。もともと、そういうシステムなのだ。
 話がめんどくさくなるのは、ウォルフレンの例でも子細に見れば、それが日本国民の利益を奪っていたのかよくわからないということだ。同様に、昨今の円介入を例としても、日本国民の富を「米国に貢いでいる」がゆえに日本の富が減少した、とはいえないことだ。
 話はむしろ逆で、日本の富を増やしている。単純な話、米国のほうが金利がいいのだから、当たり前といえば当たり前だ。しかも、この利益は日本の市場に還元されるし(CSFB「為替介入に隠されたもうひとつの意義」(参照PDF))、結果的に「非付胎化介入」(参照)による円は市場に流れる。つまり、リフレなのだ。こんなのアリ? だから、むしろ、結果的なリフレ効果をうむための効果的な施策だとも言えないことはない。でも、そう言う?
 ここでもう一度、顔を洗って「日本は米国に貢いでいるのか?」と問うとき、昨今の日米間の摩擦の無さというか、米国の弱腰にすら見える状況は、むしろ、「貢ぐ」という言葉のニュアンスと逆の様相を持っているように私には思われる。日本は韓国に対して右寄りであれ左寄りであれゆがんだ視点を持ちがちだが、この間の米韓関係の軋轢を見ていると、日本からは想像しがたいものがあった。これが日本に及ばないのは、日本への配慮だろう、としか思えない。
 円介入の状況については、日本国内ではしだいに風当たりも強くなってきている。例えば、朝日新聞ニュース「日本の米国債買い越し、15兆円 03年度、前年の5倍」(参照)では、状況から「日米双方にゆがみをもたらしつつある」と言う。

日本の03年の米国債の買い越し額が前年の5倍近い1489億ドル(約15兆9000億円)に達し、財政赤字が膨らむ米国を買い支える日本という構図が鮮明になった。その「立役者」は昨年、日本が行った20兆円超(約1860億ドル)の円売りドル買い介入。介入で得たドルの大半で日本の財務省が米国債を買った。その突出した規模は、日米双方にゆがみをもたらしつつある。

 しかし、記事からは、なにが「ゆがみ」なのかわかりづらい。ほとんど反米のくさしのようにも受け取れる。

米国債の買い支えは、米国の長期金利の安定と株高を促し、それが日本の株高にもつながる「微妙なバランス」を維持している。三菱証券の水野和夫チーフエコノミストは「バランスが崩れるのを恐れ、介入を麻薬のようにやめられず、外国為替資金特別会計は米支援会計のようになった。米国債の大量購入は、米国の財政規律を緩めるおそれもある」と指摘する。

 鉄面皮に「米国の長期金利の安定と株高を促し、それが日本の株高になるなら、日米双方にけっこうなこと」と言ってみたい気もする。
 だが、こうした朝日のくさしとは別に、私は、そうしないと世界経済はやってらんないのだろうなと思う。
 私の視点はこのあたりから「と」かもしれないが、こうした必死の日米のマッチポンプのような背景にはもう一つ中国があるのだろうと思う。
 ふーんと思ったのだが、邱永漢の「保険株・銀行株が続々香港で上場へ」(参照)の指摘だ。中国の銀行は大量の不良債権を持っているが、現状の湯水のような外資の流れ込みでなんとななるというのだ。中国政府についてこう彼はこういう。

政府は不良債権や不良資産を消す資金に
困らなくなりました。
いま現にやっていることは
代表的な金融機関の不良債権を
政府資金で帳消しにして
きれいな身体にして嫁に出すことです。

 うぁ~という感じがする。米国と日本と中国で、なにか必死に演劇をしてるような印象を受ける。
 で、どうする? 踊るしかないのではないか。カーニバルの季節だし。

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医師の偏在はまずは金で解決せよ

 社説ということでは今朝は目立ったテーマはない。しいていうとイラク統治勧告とアナン来日に併せた国連問題だろうが、これは理想論(きれいごと)を書いても意味はないだろう。ということで話題として気になった朝日新聞社説「医師の偏在――金で釣るより知恵を」を取り上げる。幸い、サヨクがどうのいう話ではない。
 問題提起は標題のとおり、医師の偏在の問題だ。医師の絶対数が少ないわけでもないし、あまり議論されないが、これから縮退していく日本では医師は余るのだ。
 医師偏在の問題が最近一段と悪化したのは、新人医師の新しい研修制度だと、朝日は言う。


 新制度は、日常的な病気を幅広く診ることができる医師の育成をめざして、一人の研修医にいくつもの診療科で手ほどきを受けるよう義務づける。研修医の受け入れ病院も増える。
 これまでは新人の大半が大学病院の一つの診療科に所属して、下働きの役割を担ってきた。ところが新制度の下では研修医があちこちに散らばるし、研修医を受け入れる病院は研修の内容を充実させなければならない。このままでは人手が足りなくなると考えたのだろう。大学病院が地域の病院に送り込んでいた医師を呼び戻す動きが広がっているのだ。

 話が読みづらい。研修医(新人)を受け入れるために、従来田舎にいた熟練医師を都市部の病院に集合させている、ということか。とすると、その規模の実態が気になるが、朝日新聞社説にはフォローはなく、名義貸し問題に文脈を移っている。
 名義貸し問題に朝日は怒ってみせるのだが、これは無意味だと思う。この話は旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)で触れた以上のことはない。
 しかし、話をごく単純にすれば、事態は金(かね)の問題ではないのか。「金で釣るより知恵を」ではなく、「小賢しい知恵より金で釣ろう」でいいのではないか。医療というのは金のかかるものなのだから。
 もっとも、それで根幹の問題(医師の偏在)が解決するわけもない。朝日はいろいろと理想論を掲げてみせる。

  1. 病院の適正な配置(県立病院と市立病院を隣接させない)
  2. 地域の中核病院や大学病院と密接なつながりを持たせる
  3. 医学部入試で地元出身者を優遇する
  4. へき地医療の報酬を増す

 悪い意見ではないし、実現可能なようだが、実際は4以外はダメなのではないかと思う。
 私は日本の医療を規制緩和したらどうかと思う。変な意見に聞こえると思う。どういうことかというと、医療相談の窓口を医師以外に広めるネットワークを作ってはどうかということだ。例えば、夜中に高熱で引きつけをおこした子供が病院たらい回しで死ぬといった事件を見るに、医療の前段となる基本介護があると思える。子供が40度近い熱を突発で出したら、まず、子供の年齢に合わせて少量アセトアミノフェンを使うといった指導は欧米の育児書には記されている。OTCで対応できる部分もある。アトピーの問題でも、それが皮膚科なのか内科なのかということは、大衆にはわかりづらい。総じて、ごく初歩的な健康問題でも、専門が違うことで対処がとんちんかんになることもある。
 と、この私の意見も、実際に運営するには組織化が必要だし、それは日本の現状を考えると無理だろう。せめて、実践的な大衆向けのガイドブックがあるといいのだが、私は知らない。インターネットにも類似の情報があるが、現実としてはこれがGoogleなどサーチエンジン系に頼るか、特定の視点のリンク集に頼るしかない。しかも、その大半の情報は「あるある大辞典」レベルの嘘情報か、正しいけれど役に立たない情報ばかりなのだ。

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2004.02.21

時代で変わるイエス・キリスト

 今週のニューズウィーク日本語版(2.25)にメル・ギブソン(Mel Gibson)監督映画「パッション(The Passion)」(参照)の評を兼ねた「誰がキリストを殺したのか(Who killed Jesus?)」(参照)という記事が掲載されていた。一読して、記事はそれほど悪くはないのだが、現代とはこういう時代なのかと落胆させるものだった。いくらニューズウィークだからといっても、ここまでユダヤ人ロビーに配慮しなくてはいけない時代なのか、と。昨年あたりから、「メリー・クリスマス(Merry Christmas!)」ではなく「ハッピー・ホリデーズ(Happy Holidays!)」が増えたとも聞く。10年以上も前だが、私はDelphiという米国のパソコン通信システムを使っていたのだが、ある日オープニング・メッセージに"Happy Hanukkah!"と出てきて面食らったことがある。が今では不思議でもなんでもない。なんだかな、という感じだ。フィリップ・ロス(Philip Roth)のように毒づきたい気も少しするが、それができるのはロスだけだろう、"Bring back Monica Lewinsky"。
 ギブソンの映画は日本では受けないだろう。タイトル「パッション」という訳出も笑わせる。そういえば、昔「ミッション」というのもあった。ミッションは宣教、パッションは受難である。マタイ受難曲は"Mathew's passion"である。パッションフルーツのパッションも受難に由来する。この花を見たスペイン宣教師がそこにキリスト受難のシンボルを感じたのだそうだ。そうか?みたいな話だ。余談だが、パッション・フルーツは沖縄で人家でもよく栽培されていたので、あの奇っ怪な形状の花をよく見た。
 この映画はキリスト磔刑までの半日を描いているそうだ。バッハなどの受難曲を意識したものだろうと思うが、そうした示唆はニューズウィークの記事にはない。カトリック的な視点から、聖書に含まれる四福音書を満遍なくつなぎ合わせたらしい。それだけで、史的イエスに関心を持つ人間には、まで見る価値がないことがわかる。だが、記事の筆者ニューズウィーク副編集長ジョン・ミーチャム(Jon Meacham)はなにかと史的イエスと映画の対比を論じてみせる。共観福音書、原マタイ、Q資料といった言及もないのにだ。もっとも、そんな言及をしても空しいかもしれない。すでに新約学的には史的イエスというのは、もう終わった話題でもある。史的イエスというものは、再構成できない。Q.E.D.
 それでも、ミーチャムは、少しは勉強しているのか入れ知恵なのか、ヨセフスなどもひいてみせる。


聖書以外では最も信頼度の高いイエスの記録を残した歴史家のヨセフスとタキトゥスは、イエスはピラトに処刑された断定している。カヤパより地位が上のローマ総督は、宗教儀式の日時を決める権利さえ持っていた。
(The two earliest and most reliable extra-Biblical references to Jesus - those of the historians Josephus and Tacitus - say Jesus was executed by Pilate. The Roman prefect was Caiaphas' political superior and even controlled when the Jewish priests could wear their vestments and thus conduct Jewish rites in the Temple. )

 そうだ。歴史的には、イエスはピラトに処刑された見るべきだし、なにより、磔刑はそれがローマによることを意味している。史的イエスはおそらくローマに対する政治犯であったとみるのが妥当だろう。
 ギブソンは描いてなさそうなのだが、イエスを裏切ったのはユダだけではない。鶏が鳴く前に三度否認するという伝承は、原初イエス教団自体の内部からの解体を意味しているとみていい。だから、ミーチャムの次の言及は苦笑を誘う。

イエスが死刑に処すべき重大な脅威だったのなら、周りに支持者の群れがいないのはおかしい。数人の弟子や母マリア、マグダラのマリアだけなのは変だ。
(it seems unlikely that a movement which threatened the whole capital would so quickly and so completely dwindle to a few disciples, sympathetic onlookers, Mary and Mary Magdalene.)

 イエス自身が裏切られたのだ。イエスはきちんとこの世から見放された。そして磔刑の叫びからは、きちんと神からも見放されていることがわかる。エリエリ・レマサバクタニ。イエスが神から見なされている意義を明確に指摘したのは北森嘉蔵牧師だったな、と懐かしく思い出す。
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最後の誘惑
 顧みると、私はイエス関連の映画を好んで見てきたようにも思う。一番よく出来ていたのは「モントリオールのイエス(Jesus of Montreal)」だ。日本で見た人は少ないのではないか。これはメタフィクションなのだが聖書の引用が多数織り込まれている。聖書を読み込んでいないとわかりづらい点が多い。ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」にもそういう部分がある。ニコス・カザンザキス(Nikos Kazantzakis)原作映画「最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)」も冗長だったが、面白いには面白かった。ゾルバ的な世界(「その男ゾルバ」)と対応しているのだろう。この「誘惑」という概念も聖書を読みこなしていないと理解しづらい面があるに違いない。カラマーゾフの兄弟にある大審問官とも関連する。この世を救わんとすることが誘惑なのだ。また、文学的な深みはないが、「ジーザズクライスト・スーパースター」の映画版は映画版ならではの面白さがあった。なにより歌がすてきだ(参照)。と、よだれのように書いてもしかたないな。それでも昔のほうが、イエス物はクオリティが高いと思う。
 「パッション」は、エバンジェリックだのカトリックだのの聴衆を対象としたこの映画の仕立てなので、いろいろ評してみても空しい。とはいえ、ミーチャムの紹介で、一番変な印象をうけたのは、ここだ。

裁判のクライマックスは、カヤパがイエスに「お前は救世主か?」と聞く瞬間だ。イエスが「そうだ」と答え、自分が「人の子」であることをほのめかすと、カヤパはイエスを冒涜者だと宣言する。
(The climax comes when Caiaphas asks Jesus: "Are you the Messiah?" and Jesus says, "I am..." and alludes to himself as "the Son of Man." There is a gasp; the high priest rends his garments and declares Jesus a blasphemer.)

 おやまぁ。イエスが自身を救世主=キリストと宣言したことになってしまったか(もっとも、英文のほうはもう少し含みがある)。これで「メシアの秘密」の問題もおちゃらけだな。シュバイツアー「イエスの生涯 メシアと受難の秘密」などもナンセンスになった。現代とはそんな時代なのだ。
 ミーチャムの記事の結末はブラックユーモアかもしれない。

イエスを救世主と信じる者も、道徳的哲学を残した紀元1世紀の歴史的人物とみる人も、この点については同意するはずだ。ナザレのイエスは、暴力を前にして平和を選んだ。憎しみに愛で、罪には許しで応えた全人類の手本だった。
(Amid the clash over Gibson's film and the debates about the nature of God, whether you believe Jesus to be the savior of mankind or to have been an interesting first-century figure who left behind an inspiring moral philosophy, perhaps we can at least agree on this image of Jesus of Nazareth: confronted by violence, he chose peace; by hate, love; by sin, forgiveness?a powerful example for us all, whoever our gods may be.)

 イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。ちゃんと聖書を読めよと思う。史的イエスは再構成できないが、福音書はイエスをそう描いているのだ。イエスを現代の安っぽい平和主義やヒューマニズムで評価しようとするのは小賢しいことだ。マザー・テレサがなぜカルカッタに路上に死につつある人を助けたか。ヒューマニズムなどこれっぽっちもない。彼女はイエスの奴隷だったからだ。イエスがそうしろと命じたからだ。それだけだ。
 イエスは自身への罪に許しで応えたのではない、「あなたが許しなさい」と伝えて回ったのだ。「そうすれば許されるから、ちょっといい話じゃないかね」と。「おまえさんの罪を許す相当な対価がなくてもいいんだぜ、棒引きだぜ、いい話じゃないか」というのが、福音、Good New!の意味だ。イエスはアラブ商人のようなユーモアにたけた人として聖書に描かれている。イエスの言葉や行いにはたっぷりジョークが詰められている。
 残虐好みの西洋人には、イエスが理解しづらいのだろう。そうそう「パッション」は、予告宣伝を見てもR指定がわかる。子供に見せる映画じゃない。

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山中貞則の死・イランのアザデガン油田開発

 最初に、山中貞則の死に哀悼を捧げたい。極東ブログで憎み通した爺ぃだった。死なれてみると宿敵を失ったような喪失感を覚える。爺ぃ、骨のあるやつだったな。くそぉ俺が倒すまで死ぬなみたいな感じもする。敵ながらあっぱれというか、こういう敵がなくなることで、敵対する議論も腑抜ける。これで税制の動向が変わるかといえば、私は変わると思う。
 さて、今朝の新聞各紙の話題で目立ったものは、イランのアザデガン油田開発だろう。朝日、毎日、日経が扱っていた。率直のところ、私はこの問題にピンとこない。理由は、開発の意義がまるでわからない。中東の油田開発に日本が参加してなんの意味があるのだろう。ナショナリズムが高揚すれば、国有化されるのがオチではないかとも思う。というわけで、この話はごく簡単に触れるだけにする。
 まず、概要を日経新聞社説「問われるアザデガン油田開発の意義」から引く。


 石油公団傘下の国際石油開発がイランのアザデガン油田開発に参加することでイラン側と合意し、契約に調印した。同油田は巨大な埋蔵量があるといわれ、日本企業が主導する油田開発ではアラビア石油以来の大型プロジェクトとなる。

 しかし、私はその必要性がわからない。石油についての必要性がわからないという感じだ。このあたりは、毎日新聞社説「アザデガン油田 国際政治的な意味がある」に同意する。

 他方で、日本のエネルギーの石油依存度は73年の石油危機当時の約8割から5割程度に下がっている。ここ20年ほどは石油への依存度は下げ止まっているが、今後は天然ガスなどエネルギーの多様化が再び進む見通しで、石油への依存度も低下するとみられる。
 また、世界的な石油市場も供給過剰気味で、必要な量をスポットで調達できる状態になっている。その意味で石油は、かつての国家的戦略物資から通常の市況商品に変わっている。

 よく石油の中東への依存度は88%と高いといわれるが、エネルギー全体としてみれば依存度が高いわけでもない。なにより、調達はマーケットを通せばいいだけのことだ。むしろ気になるのは、天然ガス、原子力発電、それと中国リスク(この人々の頭は古い)だろう。いずれにせよ、今回のアザデガン油田開発と結びつかない。ついでに言うのだが、日本は今後、そんなにエネルギーは必要としない。国は縮退するし、省エネ技術はさらに進む。
 話を端折る。アザデガン油田開発については、すでに米国が警告を出しているが、日本は無視の構えだ。日本側としては過去の経緯もあるのだが、イランにどう関わっていく気なのか国レベルの指針が見えない。率直な印象でいうのだが、日本はあまりイランに関わらないほうがいいだろう。
 さらに、率直に思うのだが、牛肉関連の動向といい、今回のアザデガン油田開発といい、どうもこれは単に「反米」なのではないか?
 稚拙な愚論と笑い飛ばしていただいていいのだが、反米関連の例として米国牛肉に関していえば、これは端的に農水省の陰謀だろう。まさに陰謀と言っていいと思う。私も心情としては反米だし、牛肉問題については米国のダブルスタンダードにむかつくので農水省を追及する気にもならない。しかし、根に反米を感じるのは確かだ。アザデガン油田開発もそうした臭いのようなのを感じる。
 イラク派兵問題など見ていると、米国追従にやりきれないような思いを感じるのだが、そうした思いが別のところで出口を求めているとしたら、それもなんだかなという感じがする。

追記(2.26)
 アザデガン油田については、「アザデガン油田の話」(参照)が必読。
 なお、国策としては、イランというより、サウジが重要なのかもしれない。それと、いわずと知れた中国である。なお、ロシアルートは日本側にまわりそうな気配だ。

追記(2.27)
 2.27読売新聞社説「イラン油田 メジャーの離脱で不安が募る」がよく書けていた。ディテールな情報はないが、この問題に関心のある人は読んでおいていいと思う。

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2004.02.20

栄養教諭の恐怖

 朝日新聞社説「栄養教諭――肩書だけ増えては困る」は良い問題提起だった。論の展開に異論はあるものの、そういう考えもあるだろうとは思う。話題は、中央教育審議会が文部科学相に、義務教育の範囲で、栄養指導の「栄養教諭」を設けることを答申したことだ。法制化される見込みは高いように思う。
 栄養指導は良いことではないかと社会通念では思われるだろうが、各人の食生活や栄養指導を受けた体験を持つ人なら、通念の裏にある、欺瞞や押し付けに眉をひそめるだろう。やめてくれよな、と呟きたくなるが、その声は、うまく論としては組上がらない。
 朝日は次のように懸念を表明する。


 学校に栄養教諭がいることで、目配りがこまやかになり、子どもの食生活が良くなるのならば、歓迎すべきことだ。それぞれの子どもにふさわしい食事をつくるのは本来は家庭の責任だが、そう言っているだけでは何も解決しないのが現状だからだ。
 気がかりなのは、「先生を置きさえすれば、万事がうまくいく」かのように計画が進んでいることである。

 確かにそこまでは朝日の指摘は正しい。朝日の論点が変なのはその先だ。

 たとえば、家庭との連絡帳を活用して、日頃から子どもの食生活や家庭の悩みを聞く。子どもと保護者に集まってもらい、栄養教室を開く。そうしたきめ細かい手立てを考えておくべきだろう。
 食べ物について教えている技術家庭や保健体育の教諭との役割分担も考える必要がある。学級担任との連携が欠かせないのはもちろんだ。学校の外へ出て、地域の人たちと一緒に活動してもいい。

 きれい事を並べているが、それが実現した世界を想像してほしい。私は背筋が寒くなる。私は、夏の陽射しに子供を集めて、青一号だの赤一号だので色づけ、サッカリンで甘くしたかき氷でも作ってやりたいなと思う。いや、本当にそういう行動を起こすべきかもしれないと考え込んでしまう。
 なぜ栄養指導が問題なのかとあらためて問えば、せせら笑われるようだが、栄養指導自体が問題なのではなく、学校から家庭まで栄養を指導するという権力の浸透がたまらなく不快なのだ。ここは礫を投げられる覚悟でいうが、指導者は、どうせみんな女だ。それも不快だ。
 そもそも栄養学など、歴史の流れでみるなら、兵站の課題だった。三大栄養素を喰わせておけば兵士は大丈夫かというとそうでもないな、じゃなんだ? ほう微量栄養素かという流れだ。ビタミン・ミネラルだの話題になるのは、それで兵士を維持するためだ。近代国家とは皆兵によってできるのだ。そして、皆兵とは身体を締め上げることでできる。体操させ行進させ、栄養指導をする。
cover
五訂食品成分表 (2004)
 栄養学など半世紀前から進歩などしていない。あえていえばそれでよかったのかもしれない。栄養士のバイブルというか必携に五訂というのがある。正確には「五訂食品成分表」というものだ。女子栄養大学出版部学長・医学博士香川芳子監修である。香川綾の娘だ。若造、「女子」だの「綾」だのキーワードにモエないように。
 夫の香川昇三ともに偉い女だぜとは言える。敬虔なクリスチャンでもある。自宅に家庭栄養研究所をほっ立てできたのが後の女子栄養大学だ。同大学には、当然、「香川昇三・綾 記念展示室」がありホームページまである(参照)。

昭和8年~20年
香川昇三・綾は昭和の初期、東京大学島薗内科で各種のビタミンを研究。特に胚芽米はビタミンB1が多く含まれることを証明し、胚芽米の普及につとめ脚気予防に大きく貢献しました。以来、二人は栄養学に一生を捧げました。

 おかげで日本兵の脚気が減ったとはいえるかもしれない。そして、戦後米国の豚の餌の流用が終わり、高度成長期の、日本の給食の原理を確立する。

綾は、昭和3年「主食は胚芽米、おかずは 魚1・豆1・野菜4」を提唱。その後、いろいろ研究を重ね昭和45年「4群点数法」を完成させました。

 っていうか、給食だけじゃねー、主婦雑誌に添付され、企業戦士に喰わせるようにしたのだ。そして、日本の栄養学は昭和45年に熱死を遂げて今に至る。
 と言いつつ、香川綾を責めるわかにもいかないだろう。それがどうして女の権力と化し、日本人の食を拘束するイデオロギーになっていったのか。フーコーが日本に生まれていたら分析するだろうか。
 五訂の前には四訂がある。私は現在の栄養士の現場を知らないのだが、まだ実質四訂が使われているように思う。四訂と五訂には大きな差がある。単純に言えば、ビタミンB6とB12が四訂では無視されているのだ。ビタミンB6とB12を無視しておいて、栄養士が計算するから栄養は万全だなんていうのは、ちゃんちゃらおかしい。その上、脂肪酸の代謝などは試験には組み込んでおいて、実践には適応されていない。米国で壮大に議論して、トランス脂肪酸に縛りができたのに、日本ではほったらかしだ。これが日本の栄養指導の現状であり、進展もありゃしない。
 とまで書いたからには、礫を受ける覚悟は少ししよう。
 いや、もう少し書こう。四訂の世界でビタミンB6とB12が無視されていたのは、腸内菌がこれをサポートしていたからだ。そういう腸内菌を飼って置ける状況ならそれでよかったのだ。それをサポートしていたのは端的に言えば、漬け物だ。ヨーグルトじゃない(余談だが、メチニコフ学説が生き残ったのは北欧と日本など辺境である)。お笑いを言うのかと思われるかも知れないが、一汁一菜でも生存できるのは、人間は腸内菌と共生しているからだ。日本人は、と言いたいくらいだ。あるいは、朝鮮人は…と加えてもいい。
 少し危うい領域に足をつっこむが、日本人のそうした腸内菌との共生は終わったのだろうと思う。最大の問題は抗生物質だろうとは思う。食の構成にも関係はあるだろうが、腸内菌自体は免疫制御下にあるらしいので、そういう外的要因は少ないかもしれない。
 ビタミンB6とB12の代謝不全がなにをもたらすかは今日は書かない。書けば面白いだろうとは思う。これに葉酸も加えるべきだろうとも思う。
 それでも、そうした栄養を栄養素の視点から見てもダメだと思う。食とは栄養が一義ではない。文化なのだ。味覚というのは文化がもたらす先人の恩恵である。まず、味覚がなくては話にならない。しかし、それを栄養教師に求めるべきでもないだろうし、家庭でもどうにもならない。グルメは論外だ。
 かくして、どこにも日本の悲惨な食の突破口はないのかもしれない。いや、なにが悲惨だと反論すらあるだろう。これだけ長寿の国家は存在しないのだから。

追記(2007.11.28
 その後、香川綾についてさらに知るにつれ、そしてその後の日本の食の状況を見直すにつれ、大筋で香川綾が正しいのだと考えるようになった。このエントリと今の自分の考えは違ってきているので、その点だけ、追記しておきたい。

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EU・台湾情勢などメモ

 今朝の各紙社説にはいくつか気になるテーマがある。散漫だが、メモふうに触れておきたい。
 一番大きなテーマは新生銀行上場についてだろう。朝日と日経が扱っていた。どちらも基本的なトーンは同じだ。私もそれと違った考えを持つものでもない。やりきれないなという感じがするが、それ以上に踏み込んだ考えはない。どうすれば良かったがまるでわからないからだ。
 日経新聞社説「波紋広げる欧州のトロイカ」は、英独仏体制のEUというテーマだ。これは今年いっぱいのスパンで見ても潜在的な問題が多い。端的に言えば、フランスが米国との対立で音を上げてきた兆候だろう。犬猿の仲のように見えながら、フランスという国はドイツを必要とする。そして宿敵のような腐れ縁のようなイギリスがいる。この動向は、品のない言い方だが、イラク情勢が鏡になる。夏頃NATOが動きだすかどうかだ。NATOが動けば、他のEU諸国は黙るという構図になるのだろうか。国際情勢というのは嫌なものだなと思う。
 産経は今日台湾の総統選挙が公示されたことを告げている。メディアが申し合わせてシカトこいているなかで、この社説の存在自体に意義があるのだが、すでに陳水扁はトーンダウンしているので大きな事態にはならないというのが大方の予想だろう。私は10%くらいはとんでもない事態になる危険性があるかなとは思っている。もうちょっとオッズを高めていいかもしえない。李登輝を含め、老兵といってはなんだが、人生の乾坤一擲をかけた人々の思いが感じられるからだ。今はどうしても日本は動けないのだが、動くだけの準備はできないものかとも思う。
 読売新聞社説「性差意識 男性優位も性の否定も間違いだ」は標題のとおりだ。しかし、すでに高校生くらいの世界は、そういう大人たちの議論はまったく違った世界になりつつある。という意味で、この問題の議論はオヤジ慰撫にしかならないだろう。
 以上、散漫だが、現状、トリビアの種、みたいな感じがする。

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2004.02.19

岡本行夫・佐藤陽子・池田満寿夫

 品のない関心なのだが、文藝春秋「イラク派遣『立役者』が落ちた陥穽 首相補佐官 岡本行夫『二つの顔』 総理補佐官と上場企業役員「二足の草鮭」の大矛盾」(歳川隆雄&本誌取材班)に描かれている岡本行夫のプライバシーに関する話が、どうも心に澱のように残るので、少し関連して思うことを書いてみる。
 文春のこの記事は、記事としては、岡本の「二つの顔」、つまり、公私のありかたが問題なのだろう。が、私はそのことにはあまり関心がない。岡本がなんらかの事件が隠しているわけでもない。なんとなくだが、これは岡本へのやっかみであり、読者もそんな気持ちを共有しているのでないか。私は、やっかみというより、岡本に羨望のような感情を抱いていた。あの歳(58歳)で仕事もでき、頭も切れる。なにより、かっこいいじゃないか。というわけだ。だが、うまく言えないのだが、やっかみの気持ちより、この男、なにかを隠しているな、それはなんだろう?という感じがずっとしていた。
 吉本隆明が文学者を評価するとき、これは実に面白いことなのだが、その文学者自身の美醜をつねにまぜかえしていた。具体的な文脈は忘れたが、池澤夏樹の父福永武彦を表して、あれは美男子だからダメだね、ってなものである。そのダメさ加減は、いくばくかという以上に池澤夏樹にもあてはまるような気がして、不思議な滑稽さを導く。もちろん、そんなことは文学にも人物にも評価に関係ないこと、というのが我々の社会の建前だ。しかし、実際、世の中を生きていけば、そうでもないことがわかる。たぶん、35歳から40歳くらいのところに、美男美女達を収納するリンボのようなものが世の中にはあるのだ。逆に、私は鈴木宗男のことはほとんどしらないが、あのツラは仕事をする人間のツラだなと思う。それなりの男の色気のようなもすらあるのだとも思う。女もそうなのだが、男のほうがわかりやすいのは、そのリンボを越えた人間のツラというものだ。男についていえば、40歳を過ぎた男には女の恨みとでもいうのだろうか、女の汁か、なんだか知らないがなにかがべったりとこびりつく。それは凡庸である以外、避けることができないものだろう。
 岡本に私が関心を持ったのは、沖縄の問題だ。1996年、彼は橋本内閣で沖縄担当の首相補佐官となる。約8年前か。もうそんなに経つのか。彼は50歳だったのか、と奇妙な感慨がある。文春の記事によれば、昭和63年(1988)北米一課長時代、そして経世会に接近したという。平成2年(1990)イラクがクウェート侵攻をしたときも小沢と連携して活躍したようだ。そして、翌平成3年に外務省を退職する。
 私はそういう表向きのパーソナルヒストリー自体にはあまり関心がない。私はもっと品のないことをあれこれ思う。彼が頭角を現す昭和63年というと43歳。厄を終える歳だ。自分を省みても、そのあたりは、まだ若い頃の気力と経験が充実している。そして、北米一課で連想するのは二課の小和田雅子だ。岡本は彼女の直の上司ではない。彼女が結婚したのが平成5年(1993)である。彼女がけんもほろろにマスコミを蹴散らしていた映像が思い浮かぶが、その頃、一課の課長さんは退職されたのだろう。
 文春には早坂茂三の回顧として昭和54年(1979)のことが出てくる。目白御殿に34歳の北米一課首席事務官がやってきたというのだ。そのころ、彼は早坂に離婚のことを語っている。相手は佐藤陽子だ。知らなかった。私はそこを読んで、なにか、胸と胃の中間に、ずしんという感じがした。岡本が離婚していた。あれは離婚した男のツラかということもだが、佐藤陽子という名前に、まるで女房に大学時代の恋愛相手の名前がばれたような感じもした。私は高校時代佐藤陽子が好きだったなと思い出す。岡本と佐藤は熱烈な恋愛結婚だったそうだ。もちろん、そうだろう。女は佐藤陽子なのだ。

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カルメン
マリア・ユーイング
 インターネットにまみれているような自分だが、それでも不思議な時代になったものだと思うのは、すぐにモニター(そうモニター!)に佐藤陽子のホームページとやらが出てくることだ。プロファイルも掲載されている(参照)。1949年、福島生まれ。1975年には「1月、6月とカラス女史唯一の弟子として薫陶を受け、10月、ルーマニアのブカレスト国立歌劇場から『蝶々夫人』でデビュー、絶賛を浴びる。」とある。私は見ていないのだが、カラスは近年「マスター・カラス」で、そして「永遠のマリア・カラス」で伝説的に回顧される。私はどちらも見ていない。私の眼には障害があるので映画は通常どおりに見ることはできない。が、それほど見る気もない。マリア・カラスのシュミラクルなど要らないからだ。映画では、劇中劇「カルメン」が再現され、そこで全盛期の歌が使われているらしい。マリア・カラスのカルメンを見た人間は幸せというものだろう。録音からすら、その激しい劇の心情が伝わってくる。もっとも、カルメンについては、ファニーな顔つきのマリア・ユーイングも悪くない。これはこれで、哀れに揺れる女が出ている。と、話が逸れたようだが、マリア・カラスというのは、まさに女のなかの女だろうし、歌姫として絶世の存在だろう。おそらく、「マスター・カラス」の資料になったと思われる彼女の指導録(「マリア・カラス オペラの歌い方―ジュリアード音楽院マスタークラス講義」)を読んだことがあるが、歌というものへの恐ろしいほどのインサイトに満ちていた。
 佐藤陽子はそのカラスの弟子なのだ。レトリカルに言うのではない。そうでなければその音楽と生き様はわからないだろうという気がする。プロファイルでは、1979年に「池田満寿夫とM&Y事務所(有)を設立」とある。早坂の回顧に出てくる岡本の年でもある。岡本と佐藤との青春の残像はそこで完全に終わった。佐藤陽子、30歳である。岡本と結婚した年代はわからないが、そう長い日々でもなかっただろう。
 池田満寿夫はいつ死んだのだったっけ。正確に思い出せない。彼もネットにプロフィールがある(参照)。「その旺盛な制作活動のさなか,1997年3月8日に63歳で逝去。」つい最近のような気もするし、けっこう昔のような気もする。63歳かまだ若いなとも思う。私の父は62歳で死んだ。私もあと20年は生きられないだろうなと思う。しかし、そのくらい生きたらいいかとも思う。
 池田の死因は、急性心不全だった。避けられなかったかとも思うが、その前年、体調の不調で脳梗塞と診断されている。栗本慎一郎みたいなものか。そういえば、小渕恵三も似たようなものだ。そのたあたりで、地獄の門が一度ぱかっと開くのだろう。邱永漢が無理をしても50歳までは生きる、と言っていた。そこでまず第二陣が倒れる。第一陣は尾崎豊のような部類だ。池田満寿夫や私の父などは第三陣だ。
 池田満寿夫は昭和9年(1934)、満州奉天で生まれる。現代中国語で言うなら、中国東北部瀋陽だ。長野に引き上げている。長野県は満州引き上げが多い。そう長野県、信州である。どこで生まれようが、信州人は信州人だ。二世でも私はわかる。彼が後年書いた高校のころの思い出にある感性は信州人だなと思ったものだ。
 高校卒業後、芸大に挑戦しては失敗した。が、昭和32年(1957)、第一回東京国際版画ビエンナーレ展に入選。私が生まれた年だ。以降版画家として名声をなす。1966年にはベネチア・ビエンナーレ版画部門大賞を受賞。私は池田の作風が好きだが、そのエロス性はどこかピカソの版画を払拭しきれないような感じがする。ピカソの性の力は、あのケンタウロスに象徴されるように、どこか西洋人らしい獣性に満ちている。が、池田は果てしない母性のような、あるいは母性の恐怖のようなものが感じられる。
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女のいる情景
  1977年に「エーゲ海に捧ぐ」で第七十七回芥川賞を受賞。自ら監督として映画化。私の青春が始まらんという時代なのでよく覚えている。1980年に佐藤陽子と披露宴を開き、以降、池田と夫婦のようになるのだが、入籍はしていない。入籍はできない。池田の前妻が厳格なカトリシャンで離婚に応じなかったとされている。先妻と佐藤の間の、池田の女遍歴は、「女のいる情景」から伺い知ることができる。面白いといえば面白い。
 今にしてみると、後年の池田はマスメディアに擦り切れていったような印象も受けた。本当の才能を些細な分野に分散させすぎたような気もする。が、それでも、古典的な意味で芸術家というイメージの最後の人だったようにも思う。彼のぼさっとした頭髪と、ぬーぼーとした表情、語り口は、いつも、男のイノセンスのようなものを与える。それが魅力でもあるが、それは同時に狂気的ななにかでもあったようにも思う。
 池田の喪主は佐藤陽子となった。池田とは18年くらいの日々だったか。幸せであっただろうなと思う。池田と佐藤の歳の差は15年。以前は随分と歳の差があるように思えた。しかし、自分も中年になってみると、そのくらいが男と女の許容範囲かなと思う。ルチアーノ・パバロッティとかポール・マッカトーニーは例外だね。

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日本の景気は回復しているのだが

本文を読まれる前に

 本稿について、noriさん、svnseedsさんより、重要なコメントをいただいた。本文に併せて読んでいただきたい。
 noriさんからは、外需主導への疑問が提示された。この点について、私はまだ十分に理解できていない。今後の考察を深めたいと思う。
 svnseedさんからの指摘はクリティカルなものだった。まず、為替介入の基本事項として日銀は実動であり決定は財務省ということ。確かに、この点は誤解されやすいし、私も失念しがちだったと反省する。
 もう一点、日本の米国債買いは、「米国貢ぐ」といった陰謀なのかについてだが、端的に、私は陰謀論は採らない。が、結果として「貢ぐ」ではないかという思いは十分に解消されない。この問題については、別途、稿を起こしたい。

 今朝の新聞各紙のテーマは、昨日発表された内閣府による国内総生産速報だ。昨日の極東ブログ記事「木村剛『デフレの終わりは始まったか?』に」もこれを見て書いたものなので、基調の考えは同じだ。
 概要は読売新聞社説「GDP統計 『高成長』の実感はまだ乏しい」がわかりやすい。なお、よりわかりやすいのは読売マネー「GDP年率7.0%増 13年ぶり高水準 設備投資に力」(参照)である。


 昨年十―十二月期の国内総生産(GDP)は、七―九月期に比べて実質で1・7%増、年率換算で7・0%増と、事前の予想を大きく上回る高成長を記録した。年率で7%を超えたのは、バブル期の一九九〇年四―六月期以来、実に十三年半ぶりだ。

 まず、これを事実として受け止めたい。つまり、統計はそうだが実際は違う式の論法はとらない。
 この景気回復について、新聞各紙社説の受け止め方には弱いながらも賛否の差異があり、政策への提言が違う。この差異のスペクトラムのなかに真相があるとも思えないのだが、差異自体が面白いと言えば面白い。軽く巡ってみる。
 朝日新聞社説「GDP――民の底力が引っ張る」では依然デフレ(「物価下落に歯止めはかかっておらず」)としてこうまとめている。なお、依然デフレという認識は正しい。GDPデフレーターは前年比2・6%下落。

必死で努力する会社が業績を伸ばす一方で、市場の変化に対応できず改革ができない企業は沈んでいく。二極化が進むなかで、全体として経済が拡大しているというのが、今回の構図である。

 そうだろうか。朝日はまたぞろ「新三種の神器」を持ち出すが、それは話の筋が違う、なにより結論からはちぐはぐな印象を受ける。

それには金融の機能を回復させることが欠かせない。政府は不良債権問題の解決に全力を挙げ、民間企業が自力で立ち直る条件を整える。それが、日本経済がデフレから脱し、復活することにつながる。

 金融機能回復という看板はいいのだが、それが不良債権問題に連結しているのは論理飛躍がある。サヨク一流の精算主義と笑って済むことなのか、ダイエー・UFJ問題を織り込んでいるのか多少気になる。
 日経新聞の社説「景気拡大の持続力を高めるには」は朝日ほどのズレ感はないものの、結論的には朝日と同じなので省略する。
 読売新聞社説「GDP統計 『高成長』の実感はまだ乏しい」は、概ねプレーンな解説なのだが、主張としては、なお金融政策などでデフレ解消を勤めよということだ。産経新聞も同様の論状であるのでこちらは省略する。
 読売新聞の社説では次の点に注目したい。

 日銀は一月、追加的な金融緩和に踏み切った。これに対し「景気が回復しているのに、緩和を続けるのはおかしい」との批判が出ている。
 だが、本格回復の障害となっているデフレが続く限り、日銀がその脱却を目指し、金融政策で粘り強く対応するのは、正しい姿勢である。 

 これは毎日新聞社説「7%成長 介入と緩和見直す時が来た」のような議論と対立している。
 毎日新聞は標題とは裏腹にやや韜晦に書いている。本音は標題どおり、リフレ反対である。結語はこうだ。

 日銀が心理効果狙いで量的緩和を続ける時期は終わった。政府が円高阻止のため円売り・ドル買い介入しても、景気の持続に資するとは考えられない。そうであるとすれば、政府は財政再建に踏み出し、日銀は本来の金融政策に復帰する道を探るべきである。企業も本当のリストラ(事業の再構築)に取り組まなければならない。

 結語だけ取り出しても、わかりづらいかとは思う。この結語をどのように議論がサポートしているか気になるところだ。が、私は、この結語は議論によって支えられていないと読んだ。最初にこの結論ありきと受けた。
 各紙社説のスペクトラムは、概ね、以下の軸でまとまる。

  • 金融緩和をなお推進せよ(読売・産経)
  • 構造改革を推進せよ(朝日・日経)
  • 金融緩和を止めよ(毎日)

 しかし、この議論の軸自体有効なのだろうか? むしろ、そうした軸からこぼれ落ちる部分が重要であるように思える。いくつか拾ってみたい。
朝日

日本政府が為替介入で得たドルで米国債を買って、米国の貿易赤字と財政赤字を支える。そのおかげで米国の景気が保たれ、まわりまわって日本企業が潤う。こうした図式はいつまで続くのだろうか。

読売

 成長率を押し上げたのは、日本経済を牽引(けんいん)するエンジン役の輸出がかなり力強くなってきたためだ。
 米国や中国の高成長を受けて、輸出は前期比4・2%増と伸びた。特に、中国向け輸出は昨年一年間で、前年よりも33%も急増している。輸出拡大を受けて企業が工場拡張を始めた結果、設備投資も5・1%増と拡大した。

毎日

 しかし、その先は、わからない。巡航速度の成長かもしれない。建設や情報技術(IT)などでバブル的状況が生まれるかもしれない。中国のバブル崩壊などの要因で、急激に減速するかもしれない。設備投資では建設業の寄与が大きくなっているが、その主力は工場、オフィスビル建設である。東京を中心とした都市再開発ブームは必ずしも、実需に根差しているとは言いにくい。

 二点思うことがある。まず、現在の好景気は米国輸出主導と見ていいだろう。そして、それが可能なのは、日銀が膨大な規模でドル安阻止を行っているからだ。また、その膨大な資金の一部は結果として国内の量的緩和にも循環している。これが緩和なリフレ策を押している。
 私の見解は稚拙かもしれないが、現状の緩和なリフレ策は結果としてはリフレ効果を生むのだが、ドル買いなどは、およそ政策と呼べるものだろうか。日米間のとんでもない詐術ではないのか、それが疑問だ。
 もう一点は、毎日の指摘にある程度同調してしまうのだが、中国バブルの懸念は高いと思う。また、日本の都市化による内需は日本の田舎を疲弊させてしまう。これは構造変化として見過ごしていいことなのだろうか。うまく言い得てないので、極論すると、日本は日本内部に新日本を作りだし、ローカルな部分をコロニアルなものに変化させているのではないだろうか。ただし、搾取被搾取といった古典的な図ではない。むしろ、都市からのローカルへの贈与だ。ちょうど先進国が途上国に贈与を行うことでその関係を固定化しているように。
 極東ブログらしく、笑いを取るような表現で締めてみたい気もするが、ピーター・タスカの日本版ニューズウィーク「日米が突き進む『金融心中』への道」(2.11)を借りたい。

 財界人、官僚、改革派の政治家など、エリートは財政危機が迫っていると口々に言い立てる。メディアは年金制度が破綻するというホラーストーリーを書き立て、ベストセラー小説が国債の暴落を予言する。政府は税率を上げて歳出を削減し、庶民は長年にわたって痛みに耐える覚悟をすべきだと、誰もが口をそろえる。
 エリートは国民にそう伝え、国民はそれを信じる。だが、現実はまったく違う。日本政府は国内で歳出を抑えているのに、海外では何十兆円もの金を平気で投じている。日本の大手輸出企業の利益を守り、アメリカ中流階級の過剰消費を支えるためだ。日本は構造改革を進めるどころか、途上国的な輸出至上の思考パターンに後戻りしている。

 私はそれに同意する。プロジェクトXなら泣いても笑ってもいい。泣くも笑うも語り口の問題だから。しかし、「途上国的な輸出至上の思考パターン」は笑えない。それが、日本の悪しき(市民を抑圧する)権力の機能だから、だと、私は考えるからだ。

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2004.02.18

木村剛「デフレの終わりは始まったか?」に

 考えがまとまっているわけではないが、なんとも気になるので、中途半端ながら書いてみたい。木村剛「デフレの終わりは始まったか?」(参照)についてだ。もう少し考えがまとまるなら、トラックバックにでもしたいのだが、率直なところ、それほどの価値はないだろうと思う。
 木村剛の今回の話の基調は標題「デフレの終わりは始まったか?」が示唆するように、デフレは終わりつつという認識を示している。
 まず、それはそうなのか? 批判はそれほど難しくない。木村の説明はただのレトリックに終始しているからだ。


昨年年間の東京都区部の消費者物価指数(除く生鮮食品)は前年比0.4%の下落にとどまった。これは5年連続の下落なのだが、品目別に見ると、ティッシュペーパー、輸入品ハンドバッグ、婦人上着などが軒並み10%以上、値上がりしている。また、企業物価指数を見ても、中国の旺盛な需要などを反映して鉄、非鉄、紙パルプなどの素材の上昇が目につく。

 皮肉に言えば「素材の上昇が目につく」は笑いを誘うところだろう。それはさておき、当の問題は、日本のデフレは終わりの局面にあるのか?であり、これは議論ではなく、事実が決することだ。とりあえず、3月を越えれば見えてくるものがあるはずだ。
 そして以下、「デフレの終わり」という仮定の上で議論ができるか、というと難しい。が、現状の経済状態を見ると、小出しのリフレで、曖昧に緩和にデフレが終わるような雰囲気はある。このあたりは、リフレ派の野口旭の「ケイザイを斬る」「第7回 政策批判の過去と現在」(参照)の指摘とも呼応するように思う。

 この連載の読者にとっては意外かもしれないが、筆者自身は、昭和恐慌時のようなある意味ですっきりとした決着はおそらくないだろうと考えている。すなわち、政策転換は劇的にではなくなし崩し的に行われるであろうし、その結果として、経済的破局も何となく回避され、それと気付かないうちに終息していく可能性が高いのではないかと予想している。

 その意味で、デフレは「それと気付かないうちに終息していく可能性」があるし、それは現実的な視点でもあるだろう。皮肉なことに、それこそ木村剛が折り込み済みとしている、と見てもいいだろう。と、して先を進める。
 この先の木村の主張はこうだ。

経済がデフレから脱却した時に、マーケットは今の日本の金利水準が異常なまでに低いことに気づきはしまいか。日本の財政が危機的状況にあることを改めて認識しまいか。歴史的にも世界的にも、今の日本のように10年国債利回りが1%前後の水準で推移してきたケースはない。裏を返せば、デフレが終焉したとき、金利が今の水準にとどまることはありえないということだ。

 ここで奇妙な感じがする。デフレが終われば、金利が上がるのはあたりまえのことだ。というか、その指摘はほぼ無意味だ。その話と、財政危機による金利上昇の話が、奇妙にだぶって語られているように私は感じる。
 私の初歩的な無理解かもしれないのだが、ここでは財政危機は国債乱発を意味しているからこそ、金利上昇の懸念となるのだろう。つまり、かねてよりの財務省側の言い分だ。
 木村はここで何が言いたいのだろうか? 財務省寄りに財政再建をほのめかしているのだろうか。もちろん、橋本内閣の愚を繰り返すわけにはいかないから、おおっぴらには言えない。
 木村のブログの文をさらっと読む限りは、金利上昇はしかたがない、とだけとも取れる。そして、その状況で、円安になるのはとりあえず当たり前のことと言ってもいい。もはやみんな忘れたことにしている堺屋太一「平成三十年」への階梯だ。
 仮定に仮定を重ねて考えることは徒労感が漂うが、修正局面としての円安はあるだろうが、円安に突き進むことがありうるのだろうか?
 そう私が思うのは、この木村の話に、国債とともに隠されているのは米国債だ。日本がこれだけ米国債を買っている現状、米国との関連で円安になるとは思えない。
 総じて言えば、木村剛のブログは、私にはその意図が掴みづらい。なぜなのだろうか。私の読みが間違っているというなら、それはそれで、諸賢の苦笑を誘うだけでいいだろう。

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数学とは何か

 迷宮旅行社「数学とは何か(というほどのこと)」(参照)を読みながら、よく書けたエッセイなのだが、ちょこちょこと部分部分には苦笑した。今の若い者は困ったもんだみたいな感じである。が、それ自体はたいしたことではない。むしろ、大学で学ぶべきことを逸したら、大学出てから学んでもいい。先日、池澤夏樹のなんかのエッセイを読んでいたら、彼がごく最近グロタンディエクを知ったという話があり、ずっこけた。それでも、知らないよりはいいことなのだ。
 迷宮旅行社エッセイでは、数学とはなにかということを次の二点にまとめていた。


  • 1つは「数学は現実世界の法則を表わしたものではない」ということ。
  • もう1つ。現代数学が開花するなかで、無限の扱い方も飛躍的に進展したというが、そこにも想像を超えた話があった。

 二点目は無限の濃度(cardinality)のことだ。大学で教わっていないのかと思ったが、ふと、吉本隆明も大学出てフリーターしているころ、遠山啓のもとでこの集合論の基礎を知って驚いたってなことを書いていた。かくいう自分もブルバギ流の数学史の関連でカントールを学んだとき、おもろいやっちゃとか思ったものだ。対角線論法など、中学生でもわかるのだからもっと初等教育で学んでおいてもいいかもしれない。
 だが、そうした細かいテクニカルな問題は実はどうでもいいのだ。ちょっと自分のブログで書いてみたいなと思ったのは、迷宮旅行社エッセイのような数学というのもののイメージについてだ。なお、迷宮旅行社エッセイの批判ではまるでない。誤解されないように。
 日本では、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」だの柄谷行人あたりがゲーデルだのと言い出すあたりから、ニューアカの雰囲気のなかで、数学がなんだか、文系的な世界で小洒落たアイテムみたいになってきた。が、どうも私は馴染めないのだ。ゲーデルの不完全性定理とか哲学めかした文脈で持ち出す輩は、元になる自然数論がわかってない。ゲーデルを持ち上げるわりに、その後彼がライプニッツに傾倒する心情もわかっていない。ま、でも、そんなこともどうでもいい。
 重要なのは、数学というのは、我々の社会にとって、まず工学の補助だということだ。私にとっても、数学はまず工学の補助だった。工学を学ぶために数学があった。自慢話のようになるのを恐れるが、私は初等数学を父親から学んだ。父はエンジニアだった。三角関数から微積分の基礎くらいまで小学生の時に理解した。早熟だったわけではない、アマチュア無線の免許が欲しかったからだ。まだ筆記試験の時代だ。共振回路やアンテナの特性など計算しなくてはいけないのである。工学的なニーズがあるから、数学を学んだのだ。
 数学とは、そういう技術屋の道具なのである。そのあたりが、哲学めかした輩も、教育を論じる輩も、とんちんかんなことをよく言うぜ、と思うことが多い。「分数の割り算もできない」とか言うなよと思う。分数に割り算は不要。数学的にもそんな演算は無意味だし、なにより技術屋の数学は合理的でないといけない。
 そこで自分にとって、なにより便利な数学の本の紹介でも書こうかと思って、書架を見ると数学書が少ないのに呆れた。直に学んだこともある野崎昭弘先生の本も、今じゃ一般向けのエッセイがあるくらいだ。と、書架を見ていくと、これだよ、大切な本がちゃんとあるじゃないか。
 矢野健太郎訳補「現代数学百科」である。数学といったら一も二もなくこの本だろ。と思って、ふと、よもや絶版?か。アマゾンをひくと絶版。ああ。
 さすがに古すぎるのか。昭和43年だものな。しかし、こんなに便利な本はねーぞと思う。付録に公式集に加えて数表も載っている。電卓がなくても三角関数や対数がわかる便利なものなのに!というのは今では洒落にしかならない。父親に数学を教わったときの電気磁気の本にもこの数表はあった。こういうのはもう今の時代にはたしかに不要かなとは思う。そういえば、計算尺は現代ではどうなっているのだろう。技術屋が手放すわけもないと思うが。
 現状で絶版であれ、この本の価値は、変わらず矢野健太郎の序のとおりだと思う。

教師は自分自身のみならず学生たちのために、この本の出たことを喜ぶだろう。父兄もまた同様。学窓で学んだ数学への興味がまだまだ残っている人にもうれしい本であろう。私が若かったらとびついて欲しがるだろうし、今でも、書だなに入れておきたい本にはちがいない。

 そのとおりだ。2004年でもそうだ。と言っても、回顧と洒落になってきたが、それにしてもこの本の価値が薄れるわけもない。原典の状況が気になるので見ると、"The Universal Encyclopedia of Mathematics"は、まだちゃんとある。古典だ。
 しかし、「現代数学百科」はできれば訳本のほうがいい。数学の訳語がよくわかるからだ。数学など工学は、できれば、英語で学び直したほうがなにかと便利なものだ。余談だが、技術翻訳の監修で糊口をしのいただときも、辞書用語の関連を知るのに、単純な技術用語辞典より、「現代数学百科」は便利だった。なお、同じく矢野健太郎で共立から「数学小辞典」も出ているが、概要を見るに類書のようだが、こちらの本は私は知らない。
 そういえば、「ヘロンの公式」は載っていたはずだと、「現代数学百科」を見ると、ちゃんとある。私が高校生の時だったが、父は線路設計・監督をしていた。ある日、雑談のおり父が、「直線で囲まれた不定形な土地の面積計算に簡便な方法はないか」というので、私が「ヘロンの公式」を使えばいいと話したことがあった。簡素な式を見せると、これで面積が出るのか、と怪訝そうだったので、私は余弦定理から証明をさらさらと書いた(今の自分はできるだろうか)。それを見て、父は納得した。後日、父は、あれは便利な公式だなと言った。
 そうだ。数学とは、なにより、便利なものでなくてはいけない。

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味噌の話

 味噌の話。沖縄で暮らしているころは、現地の風土のせいか、麦味噌が美味しかった。魚の汁にも合う。本土の大量生産の味噌も販売されているのだが、現地のものも流通している。沖縄の食には奇妙ながんこさがあって、今でも松山容子のボンカレーが売られている。本土外装のも販売されているのだが、松山容子を払拭はしない(参照)。夢路師匠ズバリ買いまショーのオリエンタルカレーもマース付きで販売されている。これは、けっこうありがたかった。日本のカレールーは実は脂肪の塊なのだが、オリエンタルカレーの脂は少ない。本土でも健康志向で売ればいいのにと思う。話を味噌に戻す。

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ボンカレー
 本土に戻ってから、高級食材などで大仰な味噌が販売されているので、高ければ味噌の味がするだろうと思ったのだが、ダメだ。ぜんぜんダメという感じだ。通販で製造元から買っても、ダメ。私は自分で味噌を造ったことがあるので、そんな難しいものではないと思うのだが、まともな味のする味噌がない。
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オリエンタルマースカレー
 
 これには、嗜好もあるなとは思う。私はどうやら、ある種の味噌の味を求めているようなのだ。と、種を明かせば単純な話、私は信州の味噌の味噌汁が飲みたいのである。というわけで、ある程度、絞り込んで探しまくり、とりあえず見つけた。かなり癖のある味噌なので、人にはお勧めしない。
 ポイントは、味噌玉だった。味噌について、樽がどうの、豆がどうのという蘊蓄などうるさい。味噌玉で味噌を造ってほしいのだ。母の実家では私の子供の頃でも味噌玉で味噌を造っていた。建築史家藤森照信の「みそ玉」の話が面白い(参照)。

 当時は秋になると、どこの家でもみそを作った。水田のあぜに植えた大豆を取り入れ、風呂おけのような鍋で煮て、ミンチ状にする。これに塩とこうじを加え、直径10センチほどの「みそ玉」にした。この玉に一つ一つ指で穴を開け、わらを通して物干しざおに下げ、風通しのいい軒下にかけた。「指で穴を開ける作業が子ども心に楽しかった」
 壊れて地面に落ちるみそ玉もあるが、しばらくすると発酵が進み、表面にカビがふいてきて、牛のフンのようにひび割れる。これをつぶして貯蔵した。

 味噌玉は信州のものだけかと思って調べると、全国にあるようだ(参照)。古くからの製造法なのだろうか。
 詳しくは知らないのだが、最近の味噌が、味噌っぽくないのは、梅干しと同じで、塩のせいかもしれない。自然塩だのどうでもいい。塩が甘すぎるのだ。もちろん、麦味噌のように甘い風味の味噌もあるのだが、それにしても、昨今の味噌は塩が少なすぎると思う。梅干しの連想で適当なことを言うのだが、塩がきつくないと、味噌の風味はでないのではないか。というか、三年以上寝かせることは難しいように思う。
 味噌関連で困ったことだが、手頃な味噌漉しもないことだった。100円ショップのせいか、安物ばかりなのだ。これも考えてみるに、味噌漉しの不要な味噌が多いからかもしれない。ダシ入り味噌なんて論外なものすらある。日本人の味覚はどうなってしまったのだろうと思う。もちろん、味噌玉で作った癖のある味噌では、調味の味噌には使いづらいので、それは別にしておくほうがいい。
 さらに味噌漉しから連想である。最近、「みそっかす」という言葉を聞かない。気になって辞書をひいたら、「おみそ」という言葉が載っていない。確かに少子化というか「おみそ」のいない時代になったのだと感慨深い。こういう言葉自体、共通一次試験以降の世代には通じないのかもしれない。困ったなと思う。が、「みそっかす」で字引を引くと、広辞苑には「(遊びの中で)一人前に扱われない子供。みそっこ。みそっちょ。」とあるので、まるで死語でないのだろう。それにしても、「おみそ」と書けよと思う。
 男のグルメだか知らないが、しょうもない美食に蘊蓄をたれる輩が多くなったような気がする。そういう自分もその口なのかもしれない。しかし、日本人の食っていうのは、一汁一菜だろうと思う。この味噌の体たらくをみると、「一汁」がなってない。それで、日本食の蘊蓄も糞ないだろうと思う。
 とま、味噌糞の話でオチとしたい。

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カネボウFor beatiful human life

 大手新聞各紙が雁首並べてカネボウ問題をテーマにしていた。呆れた。読んでみた。阿呆臭かった。なんでこんなのがテーマになるのだろうと思うものの、お付き合いで駄文を書く。まさかと思うが問題を知らない人がいるかもしれないので、手短にまとめた日経新聞社説「疑問多いカネボウ再建策」の冒頭を引く。


 カネボウは産業再生機構を利用する新たな経営再建策を発表した。花王に化粧品事業を売却する当初の案から乗り換える形になる。同社によると、経営者の交代や金融機関の債権放棄を伴わずに、花王より有利な条件で再生機構から出資を仰げる見込みという。
 これに対し再生機構は「できる限り迅速かつ前向きに検討する」とのコメントを発表した。具体的な中身は再生委員会の判断次第だが、カネボウが発表した内容には疑問が多い。産業再生機構の支援は、もし失敗すれば国民に付けが回る仕組みだけに、安易な利用は許されない。

 伊藤淳二の老害を自浄できないカネボウはふざけた態度だが、問題はむしろ産業再生機構が期待されたほどの機能をしていないことだが、各社説ともその問題には立ち入ってはいない。この問題はエコノミストたちもあまりきちんと議論していない気がするのは、つまらない領域だからだろうか。関連の話題は、ヤフーに「産業再生機構」(参照)にまとまっているともいえるのだが要領を得ない。社会問題はむしろ、ダイエーとUFJ関連だろうと思う。が、これはある日突然降って湧いたように、おやまぁ問題発生、となるのだろうか。
 カネボウといえば、私が大学生のころ同級生の米人が、"For beatiful human life"って面白いなと言っていた。そういう表現は英語にないんだよ、と。どんな感じがするのか聞くと、地球生命体だと受精卵だとみたいな感じのようだ。Lifeという言葉は私も未だによくわからない。トルストイに「人生論」というのがあり、よく読まれているようなのだが、読んでみるとこれがけっこう変な本。というか、My lifeという語感はこういう変なものなのだろうかと思う。察するに、Lifeというのは、泥でできた人形に神の生気(プネウマ、ニューマ)を吹き込むような、そんな生気に形を与えたようなもののようだ。そして、そこから出来た諸生命体という感じだろうか。それの存続がLivingなのだろう。「人生」とは違い、「命」というのはやや違うようだ。
 The Human Life Reviewという雑誌があるが、これは中絶問題を扱っている。と、ふとひかっかってぐぐってみると、そうだった、カネボウにOTCで見かけるエキス漢方などを作っている薬品部門があるのだが、こんな歴史を持っている(参照)。

1966 山城製薬(株)の経営権を譲り受け、薬品事業へ進出
1972 カネボウ薬品(株)設立
1976 漢方研究所設立
1978 漢方エキス錠シリーズ発売(八味地黄丸料エキス錠発売)
1999 医薬品新薬事業を日本オルガノン社に営業譲渡

 で、このオルガノン社と言えば、1999年に日本でも承認された合成黄体ホルモン(デソゲストレル)を使った低容量ピル「マーベロン(marvelon)」。すでに販売されているが、普及していない。"For beatiful human life"という洒落は慎みたいし、マーベロンについてはこの文脈で論じるものでもないだろう(フェミニストの見解が聞きたいものだが)。
 話がどんどん逸れそうなので、おしまい。もともと、こんな話題、社説にすんなよ、新聞屋。

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2004.02.17

韓国の大相撲興行にふれて

 今朝は社説ネタで気になる話題はほとんどなかった。朝日新聞社説が「大相撲訪韓――じかに触れ合う面白さ」と韓国で興行中の大相撲について触れているが、せせら笑いを誘うようなものだ。


日本の衛星放送が韓国でも映るようになった90年ごろには、相撲中継がやり玉にあげられ、文化侵略論が高まった。「シルム(韓国相撲)があるのに、子供たちが日本の相撲のまねをするようになった。親日的な人間になってしまう」といわれた。

 韓国中央日報記事「<取材日記>わだかまり残る『シルムと相撲』」(参照)も戦後世代の記者なのだろうなと思う。

 まず、文化交流の韓国側当事者である民俗シルム関係者が、誰一人招待されなかった。 「行事の参加の是非を問うファックスが1枚届いただけ」と、シルム連盟関係幹部は不快さを隠せずにいる。 相撲の本流であるシルムへの待遇がなってないという思いがある。 植民期に相撲から受けた弾圧も、忘れていないようだった。
 一方、ある日本の新聞が最近のコラムで、シルムを「スポーツ刈りにパンツ姿」と書いた。伝統と体系が弱いという彼らの理由からシルムを相撲と同格に扱うことを敬遠する日本人の本音が見え隠れする。
 そうしたわだかまりと視点の違いを残したままかけられた、文化交流の最初のボタン。 なにぶんにも、重く冷たい印象だった。

 んなこと言われてもよー、みたいな話だ。むしろこの手の制度的な発想を今回の興行は破ったとも言えるのだろう。が、今さら相撲かねとも思う。
 関連で面白いなと思ったのは、朝鮮日報記事「【記者手帳】隠された歴史“韓国人横綱”」(参照)だった。

 1971年、日本で力士1人が若くして亡くなった。シルム(韓国相撲)の天下壮士にあたる「横綱」玉の海が、急性肝炎で27歳の生涯に幕を閉じた。彼が相撲界を制して1年8カ月目のことだった。
 彼の故郷、愛知県には記念館と銅像が建立されたが、彼が「ユン・イギ」という名前を持つ韓国人だったという事実を知っている日本人はほとんどいない。
 1979年、57代横綱に昇進した三重の海も、李五郎(イ・オラン)という韓国人だ。相撲界入門直後に帰化した彼は、日本人、石山五郎になった。日本のメディアはこのような事実を一切取り上げなかった。日本の国技の頂点に韓国人が上り詰めたことを認めたくなかったのかもしれない。

 というわけで、高信太郎は日本人ではないということになった。「おもろい韓国人―愛があるから、ここまで言える」を韓国人に読ませたいなと思う。キョッポは都合のいいとき名誉ある韓国人なのだ。また、日本に帰化したら日本人だよ。それ以上にメディアが私生活に立ち入るべきなのか。
 話は変わる。沖縄には伝統的な「沖縄角力」というものがある。「沖縄角力」のホームページ(参照)に写真と簡単な説明がある。ついでにもう一つ池澤夏樹がさらっと書いた「沖縄角力(おきなわすもう)」(参照)の話もある。現地では現在子供も祭りではシマ(沖縄角力)をやる。戦前からやっていたようだ。よく見かけた。
 モンゴル相撲との関連では「ブフ(相撲)文化から見るモンゴル世界」が示唆深い(参照)。読めば、あれこれ思うことがあるのではないか。
 なんか脱力してまとまったことを書く気にならないが、日本人も韓国人ももっと沖縄の文化のことをきちんと考えるべきではないか。沖縄=琉球をパラメーターに入れることで、日韓の各種の問題が違った様相になる。

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2004.02.16

仏教入門おわり(補遺)

 今月の文藝春秋の仏教特集を読みながら、自分と仏教との関わりをちょっと書いてみたくなり、書いてみると、思ったより長くなりそうなので、4回に分けた。書き残しはいろいろある。が、あとは余計なことだ。とはいえ、その余計なことを少し書いて、終わりにしたい。
 法華門については触れなかった。日本の仏教は天台宗を基軸としているし、私は比叡山から坂本の地が好きだ。酒井阿闍梨も素晴らしいと思う。法華経は教養として誰も読み下し文なり、口語訳なりは読んでおくべきだとは思う。日蓮の主要著作も歴史的には興味深い。特に、その弟子たちの活動が歴史的には面白いと思う。日蓮については、私は千葉の誕生寺とその界隈の伝説が好きだ。私の気質はむしろ日蓮に近いかもしれない。が、それ以上の関心はない。ご覧通り、私は、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊である。
 仏典については、法華経以外に、ドラマティックな維摩経や勝鬘経など教養人は口語で読んでおくべきだろう。それは読みものとしても面白い。柄谷行人が中論などに関心をもったように、ナーガルジュナの中論などはウィットゲンシュタインのような知的な関心を誘う。困ったことに、この分野の知性は、そこに究極の答えがあると幻想する。仏陀の正覚がそれを解消するのだという思い込みがある。困ったことだと思う。そんなものはない。予見する脳は見いだすことができないからだ。
 仏教をいくら書籍で学んでも、日本の歴史に刻まれた仏教文化はわからない。なぜ阿弥陀、薬師、観音がセットになっているかを知るには、まったく違ったアプローチが必要になる。また、民俗にとけ込んだ仏教的な要素もなかなかわかりづらい。四十九日の由来などは、バルドトゥドゥル(チベット死者の書)など読んで勝手に理解したつもりでもいいかもしれないが、民俗仏教については、道教も含めて、もっとわかりやすいガイドブックがあってもよいように思う。が、一冊の例外を除いて知らない。その一冊は絶版だろうから、記さない。
 私は良寛についてなにか書きたい気もした。彼は、若い日に道元を深く理解していながら、なぜあの人生を歩んだのか。こういう考えは文学に過ぎるのかもしれないが、道元には不思議な優しさがある。ある程度、道元を読み込むうちに、その気品ある優しさに気が付く。そしてそれに虜になってしまう。懐奘が道元に従ったのは、それだろうと思う。この優しさのなにかに、なしかしら苦悩と悲しみも感じられる。それは、良寛にも感じるなにかだ。私の勝手な妄想かもしれない。が、道元の教えのなかに、良寛のような生き様が含まれているように思える。漱石は晩年、良寛の書を心の慰みとしたと聞く。良寛には、道元と通底する、悲しみのような優しさがある。
 私は仏教を含め、宗教には救済を求めない。それが矛盾でもあるのはわかる。そうでなければ、こんな泥を這うような愚かしい知の営みはなかっただろう。うまく言えないのだが、宗教的に語られる救済には、なんの意味もない。信じること、知ること、そうした営みとして形成される追加物としての救済に、意味はない。恥ずかしい表現だが、魂の孤独に至り、その無間の闇のなかにあるとき、歴史を越えた仏徒たちをほのかに感じるだけだ。神秘的な感覚ではない。あたりまえの感覚として。
 と、そういえば、文藝春秋の宮崎哲弥は手塚治虫の「ブッダ」をお薦めから落としていたが、あれは面白い物語だ。ダイバダッタ(提婆達多)の話がいい。仏徒は人間の憎悪というものを知らなくてはいけない。この漫画は、登場人物が手塚らしくエロティックに描かれているのもいい。ついでにいえば、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」も面白い。ここでは、仏陀はゴータマとして、主人公のシッダールタ(これは仏陀の名前でもあるのだが)とは別の人間に描き、そのシッダールタの悟りを最後に語らせている。ここからヘッセの哲学だのユンク心理学などを読み取るのは愚かだ。この物語から読むべきは、愛欲と子を持つ人間の苦しみだけである。それだけで十分だ。

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仏教入門その4

 禅について書いても、無意味なのではないかという気もする。世人は玄侑宗久「禅的生活」で満足しているようだ。日本の禅は臨済禅か。私には関係ない。が、今禅について思うことを少し書いてみたい。

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臨済録
 禅について書かれた本は面白いが。それは罠だ。禅の障害である。そうわかっていても、面白いものは面白い。この一冊というなら、臨済録だろう。最後にオチもある。臨済の禅は臨済の死をもって終わる。本当に終わったのだ。
 臨済に関連して中国禅の話は柳田聖山「禅思想」が面白いには面白い。柳田聖山のものはよく読んだが、もういい。我が邦の禅師では一休宗純。その狂雲集はどうか。隠元、白隠、鈴木正三の語録はどうか。もういいなと思う。
 碧巌録はどうか。無門関はどうか。趙州無字。犬に仏性はあるか。くだらない。この公案の答えは、くだらない、だ。
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正法眼蔵
 なぜか。それは「一切衆生悉有仏性」をなんと読み下すかにかかっている。そこに禅は極まると思う。これは、「一切は衆生であり、悉有は仏性である」と読み下す。これを「一切衆生は悉く仏性有り」と読み下す者は、外道である。
 この話は道元の「正法眼蔵」の「仏性」に説かれている。と言いつつ「正法眼蔵」は難解で読み切れない。仏教用語については、水野弥穂子がこれ以上ないというほど懇切に注をつけているし、さらに、彼女は原文対照現代語訳・道元禅師全集で正確な現代語訳も付けている。でも、わかりやすくはない。正法眼蔵をわかりやすくすることはできない。石井恭二の現代語訳は無意味だ。
 恥ずかしい言い方だが、恐らく、道元の世界はフラクタルに出来ている。彼の禅の全ては「悉有は仏性である」で極まる。それは現成公案と同型だろうし、現成公案は正法眼蔵と同型だろう。幸い現成公案は、正法眼蔵とは異なり、道元が世俗の弟子にあたえた詩文なので、読みやすい。私は、現成公案の解釈、どれ一つとして納得したことはない。
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正法眼蔵随聞記
 懐奘のノートである正法眼蔵随聞記は、正法眼蔵にくらべ難しいところはない。水野弥穂子校訂のちくま学芸文庫「正法眼蔵随聞記」は長円寺本を元にしていて正確であり必携でもあるのだが、読みづらい。和辻哲郎によるワイド版岩波文庫「正法眼蔵随聞記」は読みやすい。改定は中村元だ。長円寺本との差異を知りつつ、これはこれとして読まれてきたのだと弁解を加えている。難はある。が、江戸時代の面山本は現代人でもそのまま読める。訳語なくそのまま読めるのは嬉しい。
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『正法眼蔵随聞記』
の世界
 随聞記にこだわるようだが、水野弥穂子「『正法眼蔵随聞記』の世界」はお薦めしたい。丹念に道元や懐奘らのドラマを描き出している。立松和平が話を加える必要などない。
 禅については、それだけである。正法眼蔵随聞記を読み、正法眼蔵の頭に置かれた現成公案を暗記するまで読み、正法眼蔵をひもとくことができれば、そこまでである。

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西行忌

 あちゃー。と、呟いてしまった。書けば非難に聞こえるかもしれん。とも思うが、しかし、この話は言及しておいたほうがよさそうだ。最初におことわりしておくが、以下の話、非難の意図はまるでない。ご了解願いたい。
 ネタ元は、余丁町散人先生の今日の話題だ(参照)。


2/16 Today 西行忌 (1190)
西行が死にました。73歳でした。生前望んでいたとおりの時期でした。

   願はくは
   花のしたにて
   春死なん
   そのきさらぎの
   望月の頃 

以来、これにあこがれる人が続出。だから、梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体がいっぱい」と喝破したのだと思う。


 今日が西行忌とされることは、間違いとは言えないご時世なので、それはそれでいいのかなと思うが、それに併せて、この歌がくると、ちょっと、困る。冒頭、あちゃーと呟いたのはそれだ。
 エレメンタリーな話を書く。「望月の頃」というのは、「満月の頃」という意味だ。そして、「きさらぎの望月」といえば、これは、如月が二月、そして、満月は十五夜ともいうように、十五日のことだ。だから、「そのきさらぎの望月の頃」と言えば、二月十五日を中心に、せいぜい二月の十三日から十七日くらいのことを指す(ところで現代では十三夜は死語であろうか)。
 新暦になってしまった現代人にはわかりづらいのかもしれないが、旧暦で生きる人間(私がそうだ)にしてみると、旧暦でその月の十五日はかならず満月なのである。旧暦とは月の満ち欠けでできているムーンカレンダーであり、日本人と限らず、アジア人はこの月を見ながら歴史を刻んで生きてきた。
 その意味で、「そのきさらぎの望月の頃」が、新暦の今日であるわけはないのだ。今日は、旧暦の一月二十六日、これから新月に向かうのである。余談だが、新月は朔日、つまり旧暦の一日で、太陽と月と地球の位置関係を想起していただきたいのだが、この日には、日食が起こる可能性がある。そういうわけで、朔日には古代の人は太陽の満ち欠けを気にする。なぜか、太陽は皇帝の運命に関わるからだ。
 話を戻す。新暦の今日の日では、西行の死の情感は薄いのである。また、旧暦を考えれば、「花のしたにて」もわかりやすい今年を例にすれば、旧暦の閏二月十五日は、新暦の四月四日。その日、日本は桜が満開になっているだろう。なお、散人先生に計算していただいたところ、西行が死んだ1190年の旧暦二月十六日は新暦では三月二十三日になる。桜が咲くのである。
 この歌にはもうひとつ背景がある。なぜこの日に死にたかったのかというと、この日が釈迦入滅の涅槃会だからだ。余談だが、涅槃とはニルヴァーナのことだ。知らない人が多くて泣ける。西行は釈迦の涅槃になぞらえて死にたいと思ったのだ。
 実際に西行が死んだのは、旧暦の二月十六日(1190)。というわけで、一日違いはあるものの予言どおりの死に近代人は驚嘆し、西行忌も十五日とするのだが、あの時代に、彼のような僧の人生を考えれば、これは、自殺だろう。といって、服毒などではなく、餓死であったと思われる。
 餓死説は山折哲雄も言っていたが、彼の場合は最近の彼の趣味のようなものだが、私は、西行ゆかりの歌枕である「壺の碑(つぼのいしぶみ)」を想起してそう思う。歌枕がなんであるかは、さすがに面倒臭いの解説しない(高校で教えるのではないか)。
 私は大伴家持の人生に関心を持ち、多賀城へ旅したことがある。そこに、歌枕「壺の碑」があるのだが、これは、近世以降の誤解。壺の碑は、坂上田村麻呂が蝦夷征討を記念して建たと言われ、伝承では青森県上北郡天間林村らしい。これが後世、芭蕉の奥の細道を読めばわかるが、江戸時代には宮城県の多賀城の碑と混同された。
 話の順をとちったが、健脚西行は青森まで旅をしているのである。当然、その風土を見ただろう。風土とは、藤原三代を想起してもいいが、ミイラの文化だ。私は西行はここで、ミイラとしての即身成仏を見ていたのだと思う。

追記(2004.3.3)
 今年は2月が閏月になること、及び散人先生のご提言を合わせて、本文を修正しました。

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セレブレクス制癌作用メモ

 関連「アスピリンとCOX-2阻害薬」(参照)。

 うかつに書くべき話題でもないのだが、ネットのどっかにインフォはあったほうがいい話題でもあるだろう。誰か書いているだろうかとぐぐってみると、ないわけではないのだが、胡麻臭い感じがする。ので、私は私なりに書いておく。リファラを見ると、この問題に関心をもっている人はそう少ないわけでもないようだ。話は、セレブレクス(Celebrex)つまり、セレコキシブ(celecoxib)の制癌作用である。以前にもぼかしてふれたが、少しぼかしを取ってもいい段階かなと思える。
 ネタの出所はBMJ系のGutである。
 Chemoprevention of gastric cancer by celecoxib in rats (Gut 2004;53:195-200)(参照)。
 ごらんとおり、まだラットの段階であるが、日本人に多い胃癌に関連する話題だ。日本では癌の代替医療が伝統的に茸系のアジュバントを使うことが多いのだが、私の知る限り、この療法は胃癌にはあまり有効ではない。もっとも、アジュバントなどせせら笑う向きも多いのであろうが。
 Gutの概要は手短なものなので関心のあるかたはリンクを辿って読んで頂きたい。一般的には、ロイター系のニュースのほうがわかりやすい。各所に配信されているが、一例を挙げておく。
 In Rats Celebrex Suppresses Stomach Cancer (参照)。


NEW YORK FEB 13, 2004 (Reuters Health) - Treatment with celecoxib -- also known as Celebrex -- suppresses chemically induced gastric tumors in rats, scientists report. "This finding lends further support to the use of COX-2 inhibitors in the (prevention) of gastric cancer," they write.

 意訳しておく。

セレブレックス(セレコシキブ)の処方によって、胃の腫瘍を化学的に抑制することができた。この発見は、胃癌予防にセレブレックスのようなCOX-2抑制薬の利用の支援になるだろう。

 当然ながら、以下のような限定は付く。

Whether this result can be translated into clinical benefit in humans deserves investigating, he added.(意訳:この結果を人間の臨床に応用できるかについては研究が必要になる)

 確かに、この「予防」がどのような意味を持つのか、解釈は難しいところだ。サプリメントのように飲んでいいものではないだろう。
 同記事には、もう少し詳しい説明があるので、関心のあるかたは読んで頂きたい。ここでこれ以上言及するのは危険性が高い。
 繰り返すが、この示唆は日本でももう少し研究されてもいいのではないか。なお、申し訳ないが、この話題はコメントではフォローしない。

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いよいよ人民元、切り上げか

 今朝の問題は人民元切り上げなのだが、扱っているのは、毎日新聞と産経新聞の社説であった。明日あたり、他社でも出てくるのか、すでに織り込み済みということでうやむやになるのか、わからない。ある意味で、現状ではそれほどの事件性があるわけでもないし、この問題に私がある視点を持っているわけでもない。ので、簡単な話で終わりにしたい。
 まず、事態はこうだ。産経新聞社説「人民元切り上げ 適正幅で速やかに実行を」から2カ所を引く。


 中国人民銀行の周小川総裁が為替相場の形成メカニズムを年内に改善すると表明したことで、人民元の切り上げがやっと具体化する見通しとなった。ただ、問題はその中身である。改めて競争力に見合った水準に速やかに切り上げるよう求めておきたい。

 中身はこうだ。

 こうしたことから、見直しは小幅にとどまるとの見方が支配的だ。事実上の米ドル連動である現行制度から、円やユーロなどの主要通貨も加重平均する「通貨バスケット」方式に移行し、その上で5%程度の変動幅を設けるとみられている。

 産経としては、その程度でお茶を濁すなというのだが、この対応は妥当なところだろう。
 毎日新聞社説「人民元改革 完全変動制へ一歩踏み出せ」も基本トーンは産経と同じだ。

中国は早期に為替制度改革の日程を立案すべきだ。まず、上下10%程度の幅を持った変動制に移行することが、現実的であろう。次に変動幅を拡大するとともに、資本取引でも投機的な短期取引を除き、自由化する必要がある。

 しかし、これまでの中国のかたくなな態度を考えれば、変動制への移行はないだろう。
 で、それで何が問題なのか? つまり、日本はどうなるの?である。読売の特集「『人民元』見直し 変動幅拡大など検討か」の細川美穂子みずほ総合研究所調査本部中国室研究員の談話がわかりやすいといえばわかりやすい。

人民元が切り上げられれば、輸出がけん引している中国の経済成長を減速させる可能性が高い。日本経済にとっても中国向け輸出が減少し、景気回復に向けた足取りに悪影響が出かねない。さらに市場介入で円高を食い止めている円に対しても上昇圧力が強まる懸念もある。(談)

 そうなのか? 否定しているわけではない。中国の輸出は多少水をかけられることになるのは間違いない。中国が多少是正されることで風除けが減って円高傾向になるのか、そのあたりはわからない。なお、同記事内の中国銀行の問題も面白いといってはなんだが面白い。中国国有銀行の不良債権問題の表面化の可能性はお笑いではすまされない。といって日本人に笑う資格などないが。
 私はこの問題についてインサイトを持たないのだが、なんとなく思うのは、そうでなくても、現状中国投資はやばいかもなぁという状態なので、これで外貨流入が減ると、奇妙な複雑系を介して、中国、とくに、政治指導部、さらに特に言えば、共産党の爺ぃたちの金づるががたぴし言うのではないか。SARSでは胡錦涛はうまく爺ぃたちを黙らせたが、鳥インフルエンザはまた隠蔽しているようだ。うまく立ち回れるのだろうか。
 なお、日経新聞の人民元切り上げ問題(参照)は推移を知るのに便利だ。

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2004.02.15

仏教入門その3

 浄土教については、自分の宗教的な関心から歴史的な関心がおろそかになりがちになる。だが浄土教に宗教的な救済を求めることは無意味だとも思う。が、それは確実に私の一部となっている。
 15年くらい前になる。一人熊野詣で山を越えて歩き回ったことがある。山の中腹でふと振り返ると、眼下に昔の大社跡が、それがなるほどというくらい、浄土のように美しく見えた。浄土教というのは、あの美しさや輝きを持つものだと思った。また、のたれ死にも悪くないと思えるほどの孤独に感覚が麻痺していたころ、当麻寺の練供養会式の後の春の夕暮れが浄土を連想させるほど美しかった。飛鳥のレンゲ田にたたずみながら、多数の天人たちが今、大空から駆け下りてきても不思議でなく思えた。あの陶酔感や、沖縄のエイサーのもつ躍動感のなかに、浄土教の歴史的な扉があるのだと思う。その美に惹かれる。それでいて私は宗教的にはいつも浄土教にはなにかに戸惑っている。

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人生論ノート
三木清
 浄土教は、日本の宗教史としては、法然を経由し親鸞、そして蓮如、清沢満之というように影響を与えてきた。特に、歎異抄が明治に発見されてから、親鸞は門徒から離れて独自の宗教的かつ知的な対象となった。なかでも三木清が痛ましい。獄中で彼は親鸞を選び取っていた。そうさせる思想の力が親鸞にはある。昭和20年9月26日。彼は独房寝台から転げ落ち死んでいた。それこそ摂取不捨の利益というものなのだ。皮肉を言っているのではない。思想家はそのように死にうるものなのだ。
 親鸞について書かれたもので私が一番深く影響を受けたのは亀井勝一郎の「親鸞」である。旺文社文庫のものだ。現在では全集でしか読めないのではないだろうか。この本の評価は難しい。だが、とにかくそれが私の一部であったことがある。亀井勝一郎については全集も読んだが、今となっては親鸞以外残るところはあまりない。保田與重郎も忘れた。
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最後の親鸞
 吉本隆明「最後の親鸞」については、私はわからないではない。が、それはほぼ吉本の思想と一体化していて、親鸞という文脈では面白くはない。吉本の親鸞論で重要なのは、オウム真理教事件を介した造悪論だけだ。が、彼はそれを明確には展開していない。展開することなく、このまま彼は死んでしまうのだろう。
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歎異抄
 歎異抄は、すこし粘りけがありすぎるが梅原猛による現代訳と解説のものが面白い。また、その考察面でも悪くない。「教行信証」は金子大栄注のものが岩波文庫にある。読みづらいといえば読みづらいし、退屈といえば退屈だ。晩年の親鸞がなぜこれを成したか、またそれは浄土教史にどのような意味を持つか、私は十分な論説を読んだことはない。
 教行信証関連で、自分にとって気になるのは、親鸞が阿弥陀という存在を「自然(じねん)を知らしむる料なり」としている点だ。この問題は私にとってキリスト教的な神学的な問題でもある。妙好人において、阿弥陀は「あなた」という二人称的な存在であったが、親鸞の内部ではそうした人格性の存在(マルチン・ブーバーの言う我-汝の存在)が解体されていたのではないか。それは、人の究極の救済において可能なのか、という点だ。わからない。
 親鸞は和讃も面白い。「親鸞和讃集」も岩波文庫にある。親鸞の言葉の感覚の繊細さを文学として論じたものは、先の亀井以外に見たことがない。
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法然の哀しみ
 法然については昨今話題だ。面白いには面白い。特に面白ければいいというなら、「法然の哀しみ」が面白い。私はしかし、浄土教の点でそれほど重要な考察だとも思えない。蓮如については丹羽文雄「蓮如」が優れている。長いのが難点だが、読みやすい記述になっている。蓮如以前の歴史記述が特に優れている。晩年の親鸞を想起しやすい。また、覚如などについてもわかりやすい。丹羽の「親鸞」はつまらない。
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蓮如
 蓮如については、彼自身の思想というより、おふみ(御文章)を読むことは日本人の役目になりつつある点が重要だろう。岩波文庫の「蓮如文集」が手頃だ。私は父の死に際して、おふみを聞くことになった。現実にいうそう場で、声の厚みのある僧の声で聞くことは、不思議な印象を与える。日本語という言葉の持つ魔力のようだ。信はそのなかにあるような錯覚がする。
 浄土教については、まるで藤原道長のごとくだが、自分の死の瞬間という問題ともときおり関係している。私は確実に死ぬ。私が死を迎えるとき、その意識性はどのような自然性を持つのだろうか。雑駁に考えれば、死の恐怖は、死の瞬間にピークを迎えるようでもあるし、諸生物を見ても、差し迫る死から逃れるように出来ている。が、生物には、死を歓喜として促すなんらかの仕組みが埋め込まれているようにも見える。それが、死の瞬間に作動するのではないか。それが浄土教の意味ではないか。そのまばゆいばかりの美のなかで人は死ねるのではないか。それは、たぶん、妄想である。恐らく、死は眠りと変わりないだろう。

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朱子学は道教

 朱子学なんていうものは、道教できまりと思っていたが、ネットをちょっとぐぐってみたら、まだ定説にもなっていないのかと、ちょっと唖然とした。そしてちょっと反省した。こりゃちょっくら世間様にすり寄るべきだったか、なと。
 そう思ったのは、ryoさんの次のコメントだった。


それに朱子学が道教だというのはいったいどっから来てるのですか.超越性の内在という点で禅と似てるというのならまだしも(もちろん朱子は道教も仏教も批判しますけど,一面では相当継承している箇所があるわけです).それこそ(やな言い方ですが)「と」じゃないですか(笑)極言なんていうけど,単に不用意だと思います.

 とご指摘いただいて、あれ、と思ったのだ。
 ただ、ryoさんは、極東ブログのレトリックをお楽しみにならないようなので、ちょっと残念。というのは、次の指摘は、ちょっと、トホホ。

以上の話は実はどうでもよくて,僕は単に読みながら冷笑的に傍観していただけですが,ちょっと今回の話はひっかかる.漢字が表音文字だと強弁されるのはまぁいいとして,だからといって四書五経が無内容だというのはあまりにひどい妄想(笑).そりゃあなたのように音声によって担保されてなければ意味がない,とまでおっしゃるのならば,四書五経が無内容ということになりますが,意味はべつに音声だけで決定されるもんじゃない(まぁソシュールのラングをむちゃくちゃに解釈されてるんだから仕方ないけど.もちろん「正しい」解釈に訓詁学的にこだわるのもくだらないわけですが).

 ありゃま。私は四書五経の評価については、すでに述べていた。以下のように考えているのである。

「極東ブログ: 教養について」参照
 こうした自由七学芸に相当するのは東洋では四書五経である。四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経とは「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」。大学生になったら、いちおうイントロダクトリーな部分くらいは読んでおけよなとも思うが。そういうと、日本の文脈では「論語」「孟子」がメインになる。だが、重要なのは、「易経」「詩経」なのだ。と言っても空しいが、が、それより重要なのは、「三字経」や「千字文」なのである。

 というわけで、四書五経なんて無内容でもいいのだよというのはレトリックで、日本の大学生はこのくらい教養として読んでおけよと思う。
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大学・中庸
 で、その四書五経なのだが、四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」だが、こういうセットはもろに朱子学のイデオロギーによるものだ。大学と中庸は、もとは「礼記」にあったものだが、朱子、つまり、朱熹が独立的に抜き出して四書として並べた。並べただけならいいのだが、これに念入りの注を加えた。というか、その注が四書五経の四書の正体なので、この古典を現代注で読んだのでは、四書五経の理解にはならない。というか、四書の理解っていったいなんなのだということになる。この問題は、朝鮮史の理解に波及する。
 この話は、実際に岩波文庫になっている特に「大学・中庸」を読むと面白い。またしても、金谷治先生なのがいいのか軟弱なのかわからないが、先生の訳・解は読みやすい。何より、先生の解釈はよいのである。大学と中庸について。

この両書を朱子学の「四書」の枠の中に置いて読むのは、近世以降の正統的な読み方である。

 そうなのだね。が、この先がふるっている。

 ただ、朱子の解釈に従って忠実に読むというのは、十二世紀の朱子の哲学を学ぶことに他ならない。もちろん、それもそれとして意味のあることではあるが、それでは原典との間で大きな隔たりができる。厳密にいって『大学』と『中庸』とをそれとして正しく読んだことにはならない。

 ということなのだ。この先、金谷治先生は仁斎にふれる。が、それはさておき、「朱子が定めた四書の大学、中庸を朱子の注で読むと、読んだことにならない」と喝破される点が需要だ。そのくらいまでは言っても「と」でもあるまい。
 で、朱子学だ。一般的にはこう言われている。広辞苑を引く。

宋の朱熹によって大成された儒学説。禅学の影響に対抗しつつ、周敦頤に始まり程コウ・程頤などのあとをうけて旧来の儒教経典に大胆な形而上学的新解釈を加えて成立。理気説による宇宙論・存在論、格物致知を基とした実践論を説く。日本には鎌倉時代に伝えられ、江戸時代に普及して、官学として封建社会の中心思想となった。朱学。宋学。道学。

 というのを真に受けると、ryoさんのように「超越性の内在という点で禅と似てるというのならまだしも(もちろん朱子は道教も仏教も批判しますけど,一面では相当継承している箇所があるわけです)」という評価になるし、ふーむ、世間ではそういうことか、となる。茶化しているわけではない。悪意はない。ああ、世間はそうなんだなと当方ちと反省しているのである。
 で、朱子学は道教だという主張を反省するかといえば、しない。するわけない。道教だもの。
 朱熹の「大学章句」が先の岩波文庫に訳文だけ掲載されているのだが、その注がよい。読んでミソっていうくらい。気と質について金谷先生はこう解説する。

朱子の哲学では、あらゆる存在は理と気によって成り立っている。人間はみな理による本性をわりつけられていて(『中庸』の「天命の性」)、それは倫理的には絶対善としての「本然の性」でだれもが共有しているとさるが、他面では気というガス状の流動するものによって人間としての物質性が与えられ、その気と気の凝縮した質とによってもたらされる「気質の性」というものができる。(後略)

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世界史の誕生
 冗談?と思うだろう。冗談ではない。金谷先生も真面目だし、むしろ、きちんとまとめてくださって大いに助かる。って、なにに助かるか? つまり、それって、道教じゃん、である。
 朱子学って道教じゃないか。「ガス状の流動するもの」なんて禅にもないし、相当継承しているってなものでもなく、ずばり、道教そのものではないか。
 岡田英弘「世界史の誕生」ではこの状況を史学者として端的に説明している。

道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の教典の熟語で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学である。宋学を大成したのが南宋時代に生きた朱熹(1130-1200)であった。

 朱子学は道教というわけだ。この珍妙なものがなぜ国家に採用されたかというと、それはその国家が元、つまりモンゴル王朝だったからだ。漢人の宗教に寛容だったからであり、明朝や李朝朝鮮もだらっと引き継いだ。ご存じのとおり、日本人は、そんなものは受け付けなかったのである。

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風力発電に意味があるのか?

 暴論とまではいかないが、よくわかんない問題をそのまま、よくわかんないなということで書く。お題は、朝日新聞社説「風力発電――促進どころか抑制法か」だ。毎度ごとく単にくさすということではないのでご安心を。
 朝日新聞の提起はこうだ。風力発電は「適地は多く、費用も比較的安く、環境の負担も小さいという、期待されるエネルギーである。なのに、普及しないのは、政府の義務づけが問題なのだ」と、ね。


 昨年、北海道、東北、北陸、九州の各電力会社が新たな風力発電の事業者を募った。全体で200万キロワットをこえる応募があったが、肝心の募集枠がわずか計34万キロワットだったことから、大半が事業化をあきらめざるを得なかった。風力発電の適地は北海道と東北に多い。それなのに北海道電力は「新たな募集は当面しない」、東北電力も「今後は未定」という。
 こんな調子では、2010年度に風力を昨年度の6倍以上にまで普及させようという政府自身の目標達成はおぼつかない。
 なぜこうなったのか。大きな理由は、RPS法で電力会社に購入を義務づけた新エネルギーの量自体が小さすぎることだ。
 この法律によれば、発電量全体に占めるその割合は年々上がってはいくが、最終年の6年後でも1・35%に過ぎない。北海道電力のように現在でも風力発電の規模が比較的大きく、義務づけ分を当面こなせる会社は、新たなコストを払ってまでいま以上に買う量を増やす必要がない。

 だから、法で規制して買い取るようにせよというのだ。欧米は普及しているぞとも言う、曰わく、ドイツは日本の約30倍、スペインは約12倍だと。
 私の印象を言う。欧米なみにアップしても、どってことないんじゃないか。そもそも、風力発電なんかまだまだ現実に電力供給源とはみなせないのではないか。そんなことに、エコがらみで拘泥しているより、全国の電力分配システムを見直せよ、また、家庭の電源200Vを普及させろよ、無駄ばかりじゃんか、と思う。
 つまり、そんなことは問題なのか、というのは私の印象だ。
 というものの、風力発電があれば、なんかナウシカみたいでいいじゃんと思う人もいるかもしれない。私は、沖縄で暮らしていて、近所にあれがあったのだけど、率直に言って目障りでうるさかった。日本の都市部の電線・電話線の貧乏臭さはある意味風情があるが、風力発電施設はよほど僻地じゃないと、違和感のあるものだった。もっとも、そんな違和感はどうでもいいかというレベルのことでもある。
 よくわからないのは、というか、私の勉強不足だろう。この手の代替エネルギーの総合的なビジョンが見えない。効果があるのか。京都議定書みたいなアホーなフィクションがドン詰まってトチ狂った意見噴出の兆候、ってことはないんだろうか。
cover
すばらしい新世界
 風力発電については、池澤夏樹「すばらしい新世界」が新聞小説ということもあり漫画のように面白かった。この話でよかったなと思うのは、風力発電の規模が小さいことだ。実際、読みながら、こう小型設備があるといいんじゃないかと思った。現実の日本では無用のようだが、すてきな奥様たちが、情報家電機器のコンセントをこまめに抜き差ししているホラーな世界もあるのだから、日本でも安価でもとが取れるなら売れるのではないかと思う。といいつつ、これはエネルギー問題ではないな。
 だらっとした話になってしまったが、北朝鮮問題だの核拡散防止だの、今日はもういいやという感じだったので。

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2004.02.14

仏教入門その2

 密教には随分と心惹かれた。が、今はほぼその興味を失ってしまった。そんなことを書くのもどうかと思うが、なにしかしら書いてみたい気だけはする。
 日本人として密教といえば、空海ということになる。空海は非常に難しい。原典もなんどか挑戦したが歯が立たないという感じがする。この恐ろしい知識人は本当に古代人なのか。人間離れしている。道元も恐ろしいほどの知識人だが、それでもまだ人間という感じがするが、空海に至ってはほぼ人間とは思えない。空海、つまり弘法大師はそれ自身が伝説のようでもあり、その伝説からもアプローチしたが、よくわからなかった。
 日本人はなぜこうも御大師様に惹かれるのだろうか。10年以上も前だが高野山密厳院に泊まった小雨の深夜、人っ子一人いない奥の院を詣でたことがある。四方墓ばかりの暗く湿った参道を歩きながら、そうして行けば、生きていらっしゃる大師に会いできそうな気がした。神秘的な体験はなかったが、不思議な体験だったような気もする。

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空海の風景
 空海についてアマゾンをひくと、そんなものかという本が出てくる。司馬遼太郎の「空海の風景」これはほとんど小説というよりエッセイだ。つまらないと言えばつまらないが、漫画のように読める本だ。司馬遼太郎の育った風土だと御大師様には一度向き合うしかないのだろう。
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曼陀羅の人
 陳舜臣の「曼陀羅の人―空海求法伝」も漫画仕立てだが、入唐の中国の風土の描き方が美しい。日本ではなぜか司馬遼太郎をありがたがる読者が多いのだが、司馬の作品はどれも明日のジョーと力石徹かよという感じで辟易することが多い。歴史物は陳舜臣のほうがうまいように思う。余談だが、陳舜臣は「耶律楚材」が面白いといえば面白いが、薄いといえば薄い。
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空海の思想について
 アマゾンの売れ筋は、梅原猛の「空海の思想について」も上位に出てきた。ペラっとした本だが、著作面から宗教家・思想家空海を知る入門書としてはこれがいいのだろうと思う。梅原猛の本は私などがいうとお笑いだが、どうも濃すぎて、中年以降に読むにはつらいものがある。
 空海についてお薦めできる本は他に知らない。新書できちんと整理したものがあってもよさそうなものだが、あるのだろうか。松岡正剛関連は「極める」をやっただけあって物を見ている感じは伺えるが、私は嫌いだ。
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般若心経
 私の勘違いでなければ、般若心経の原典は空海が日本にもたらしたサンスクリットのものがもっとも権威があるはずだ。空海の思想・宗教はある意味、般若心経に極まると言ってもいいのかもしれないが、そう言うにためらう。よくわからないが、なぜ多くの人は般若心経なんぞに心惹かれるのだろう。短くて暗誦しやすいからだろうか。私もたまたま高校生のとき暗記して、それなりに重宝した。密教のサマリーになっているともいえるし、寺参りに唱えれば信心者を装うことができる。般若心経の解説は最近の研究は反映されていないが、金岡秀友のものが一番よいと思う。あるいは、「般若心経 講談社学術文庫」だが、とくに薦めない。しかし、こう言うのもなんだが、金岡秀友の研究は妥当なのだが、根幹を見落としていると思う。この点については、佐保田鶴治「般若心経の真実」が面白い。面白すぎる面がもあるが、確かに般若心経の密教的な側面がわかる。幸い絶版のようだが、紀伊国屋の各地店舗在庫を見ると、数冊は残っているようだ。本として面白いかといえば文句なく面白い。奇書とも言える。
 空海は自身をその師匠恵果の師匠不空三蔵の生まれ変わりだと思っていたようだ。いずれにせよ、恵果は中国において義明、また扶桑(日本)にあっては空海を密教の正嫡と決めていた。義明の法統は廃れているので、密教の本流はこの日本となると言ってもいいのかもしれない。日本はそれほどの伝統を負った国なのだろうか。しかし、空海以後の歴史を追っていく皮肉な出来事も知るようになる。特に覚鑁について少し学ぼうとしたが、彼も空海ほどではないが歯が立たないほどの知識人だった。現代の真言宗は空海をシンボリックに扱うがもし覚鑁がなければ新義と限らず古義も存在しえただろうか。余談だが、小林よしのりの父は密教系の僧であるらしく密教文化に入れ込んでいるふうもあるが、そうした面ではひどく浅薄な印象も受ける。
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悪魔祓い
 不空三蔵(不空金剛:Amoghavajra)とはなに者だろうか、私は随分と不空三蔵のことを考え続けたことがある。北インドの出身だという。720年、長安で金剛智三蔵に師事。余談だが、金剛とはダイヤモンドのことである。不空三蔵は金剛智の死後、「金剛頂経」など密教典を求めてセイロンに渡り、龍智からさらに密教を学んでいる。そして、教典を持って746年長安に戻る。セイロンといえば、今も仏教国なので、その8世紀以前からの伝統だと誤解しやすい。しかし、それは間違いで、現代セイロンの仏教は西洋神智学から近代に発生したものだ。この歴史を端的に記した書籍はあるだろうか。記憶を辿るのだが、上田紀行「悪魔祓い」でも多少ふれていたはずだ。同書は、スリランカの民俗を知るのに面白い。その呪術のほうに竜智時代の密教の残存があるのかもしれない。この本は、難しいこと抜きに読書家にとっても面白い本である。上田紀行のその他の著作はお薦めしない。
 密教の正嫡は逆に辿るとこうなる、空海→恵果→不空→金剛智→龍智→龍猛→金剛薩タ→大日如来。これが付法八祖と呼ばれる。が、金剛薩タと大日如来は明かに実在の人間ではない。また、龍猛は大乗仏教の祖龍樹と解されているが、時代が合わない。それでも、龍智の師匠は存在したのだからそれを龍樹と別に龍猛を想定してもいいようには思う。が、こう言ってはなんだが、不空のセイロン求道の旅の話自体は間違いないだろうが、その伝承は虚構ではないかとも私は思う。もちろん、そこにある種の密教は存在しただろう。
 高野山に行けばでかでかと、付法八祖ではなく、伝持八祖の絵を見ることもできる。伝持八祖は、金剛薩タと大日如来を抜いて、善無畏三蔵と一行禅師が不空の次に追加されている。こうなっている理由は密教の初歩でもあるのだが、金剛界と胎蔵界の二系の融合(金胎不二)のためで、この二者は胎蔵界の系譜の必要性からだ。
 話が少しそれるが、日本人のイメージだと通称シルクロード経由とされる北伝仏教と異なる南伝は上座部仏教(旧称小乗)というイメージが強い。タイなどではそうだからだ。だが、アンコールワットやボロブドゥールは密教であろう。私はバリ島のウブドに二週間ほどぶらぶらしていたことがあるが、近在のゴアガジャなどもヒンズー教というより密教遺跡のようであった。6世紀から8世紀にかけてのセイロンからバリ島に至るまでの密教文明とはなんだったのか今でも気になるのだが、それを俯瞰する書物を知らない。
 私の密教関心は、不空三蔵を契機にインド系の唯識瑜伽行との関わりからチベット仏教に移ったった。偶然か知らず私が影響を受けたのか、80年代中沢新一だの暴走前のオウム真理教だのと近い関心域にあった。が、ヤッベーなこいつらと思い、できるだけ避けた。欧米でもこの時期、チベットを追われた僧たちの活動が盛んになってきた。
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タントラ叡智の曙光
 ダライラマについては私はよくわからない。彼自身の説法として書籍になっているものは俗人向けなので、物足りない感じがする。書籍では、初心者向けなのだろうが、チュギャム・トゥルンパとハーバート・ギュンターの講義録「タントラ叡智の曙光」から深く啓発を受けた。ある意味、これほど仏教についてわかりやすく解説した講義はないと思う。とくに、ギュンターの解説が優れている。
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チベットに生まれて
 トゥルンパはトゥルンパ・リンポチェ(活仏)とも言われる。私は彼に関心をもち、邦訳はすべて読んだ。本としては「チベットに生まれて」が面白い。彼は西洋世界に教えを広めたのだが、僧を捨て結婚し、そして酒に溺れて死んだ。48歳だった。その事実を知れば、彼の仏教は彼を救えなかったのかとも思うが、難しい。アリョーシャ・カラマゾフも恐らく暗殺者となったことだろう。世界には簡単に解けない問題があると私は思う。
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チベット旅行記
 チベット密教関連や立川武蔵の著作なども面白いには面白いが、お薦めしたくない。チベットと言えば、河口慧海の「チベット旅行記」が読書家には面白いだろう。私は国立博物館が所蔵している、彼が持ってきた仏像を見たことがある。美術品に耽溺する悪弊のある私は素晴らしいものに思えた。河口慧海については、その晩年の思想について、もう少し考えてみたいと思うのだが、いい書籍がない。

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食料自給率を上げる意味があるのか?

 食料自給の問題をいきあたりばったりで書く。私は、日本の食料自給なんて気にすることはないんじゃないかと思っている。日本は先進諸国の中では食料自給率40%と最低であると言う。それがどうしたと思う。なにが問題なのだと思う。そういう意見はどのくらいあるのだろうと思って、ぐぐってみる。唖然とした。見つからん。それどころか、日本の食料自給率の低さが問題だというのである。ほぉと思う。読んでみた。まるでわからん。
 朝日新聞社説「食料自給――『保護』では高まらない」を読んでもまるでピンとこない。


 牛海綿状脳症(BSE)に感染した牛が見つかった米国からの牛肉輸入が止まり、外食チェーン店から牛丼が消えた。鳥インフルエンザで、タイ、中国産鶏肉の輸入も止まった。国内消費量のうち、牛肉の3割、鶏肉の2割が手に入らなくなるという異常事態が続いている。
 一連の出来事は、食料の多くを海外に頼っているこの国の危うさを、改めて浮き彫りにした。私たちは、米国が日本に輸出する牛肉にも日本国内と同等の検査を実施する必要があると思うが、その問題とは別に、騒ぎが長引けば、「自給率を高めるべきだ」という主張が頭をもたげるだろう。

 まずわかんないのは、牛肉と鶏肉の話でどうして「この国の危うさ」なのか理解できない。米国に日本と同様の全頭検査を要求する嘘については、すでに書いたので繰り返さない。せめて米国が日本の牛肉を解禁するくらい歩み寄るなら、私は輸入再開論者になってもいい。まぁ、そんなことはどうでもいい。
 輸入の牛肉と鶏肉の減少で連鎖で他の食品の価格が上がることが問題かというと、上がればいいじゃんと思う。それこそインタゲである。ふざけているみたいだが、それはそんな悪いことでもないだろう。むしろ、それでもそれほど、その市場に影響ないかもぉの状況に見える。食料が本当に問題なのか?
 朝日の主張に戻る。それほど農本サヨク臭があるわけでもない。そーゆー意見もあるかなくらいだ。

 日本の食料自給率はカロリー換算で40%と、先進国の中でも飛び抜けて低い。無理なく引き上げられるならそれに越したことはないが、何が何でも、手段を選ばず、というわけにはいかない。
 戦後の食糧難が遠い思い出になった豊かな日本で、「食料の安全保障」はもっぱら米作りを中心とした農業保護の口実に使われてきた。自給率を高めるために保護を強めるのでは、ただでさえ弱い農の足腰をますます弱めることになる。
 味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく地道な努力こそが、自給率向上に結びつく。それが基本だろう。

 まず、農業保護はよくないというのは、最初に抑えておいていいだろう。どうも食料自給問題は利権が絡んでいる臭くてたまらん。次に自給率というのだが、カロリー換算なのだ。これがまたわからん。朝日は結語で次のようなトンマな教訓を述べている。

 もうひとつ、忘れてはならないのは、世界一の食料輸入国であるこの国で、食べられないまま捨てられる食品が日々、大量に出ていることだ。コンビニやデパ地下から「賞味期限切れ」で廃棄される弁当だけでも大変な量だろう。食生活がいまのままでいいか、考え直すときでもある。

 勝手にしろ阿呆臭という説教だが、先の文脈に戻り、そういう状況があるのに、カロリー換算で40%っていうのはなんの意味があるのだ? すでにWHOは肥満を疫病に認定している。カロリーは問題の指標かよと思う。
 さらに先の文脈なのだが、「味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく」というのは、自給率の話じゃねーだろと思う。SKIP野菜のように、国産のほうがうまいから買うという、いわばブランド志向だ。ちなみに、SKIP野菜・果物は国産でもなく有機農法でもない。永田農法なら全世界ユニバーサルで、この発想はものすごいものがある。私個人は、できるだけ有機農法のものを好むのだが、それにこだわらない。
 食料自給の話は、現状では、安全と絡められている。しかし、それだって、別に輸入で問題となるわけでもない。米国小麦にはポストハーベスト農薬がかかっているがそれだってオンオフの話のわけがない。他に、他国から食料を止められたらという話もたまにあるが、阿呆臭い妄想につきあってられんと思う。将来中国が食料を輸出しなくなるだの、米国が遺伝子組み換え穀物を独占するだの、それで何が問題だというのか。輸出するかしないかは経済活動で決まる。遺伝子組み換え品がどうのというのは、それを除きたいなら、それを価値としてマーケットに問えばいいだけだ。
 少し古いが朝日新聞のニュース「自給率4割、9割超の国民が食料供給に不安 農水省調査」(参照)でこうあった。

 将来の食料供給については、農業従事者の58%、消費者の44%が「非常に不安を感じる」と回答。「ある程度不安を感じる」を加えると、農業従事者の94%、消費者の90%にのぼり、国民の9割以上が不安を抱いていることがわかった。「あまり不安を感じない」という農業従事者は5%、消費者は9%で、「全く不安を感じない」は、いずれも0.4%だった。

 そんなに不安なのか?
 私が気になるのは、食料自給っていときの食料ってなんだと思う。特にそれが現状カロリー換算なんだから、どうせ、それは穀物の問題じゃないのか。穀物だよ、つまりは。だけど、それはコメであるわけがない。余っているんだし。すると、小麦とコーンか。
 つまり、小麦とコーンを外国に依存しているのはよくなっていうことか? でも、そんなもの国内でまかなえるわけないじゃないか。と考えてみるに、食料受給の問題というのは、なんか「飢え」や「食の安全」とか「国産品ブランド」みたいなぼよーんとしたイメージを醸すだけの詐術ではないのか。
 ついでにいえば、そんなに小麦だのコーンだの食っている日本人の食生活っていうのが問題じゃないのか。というのは、栄養学のおばさまたちは偉そうなことこくけど、この少子化・パラサイト、かたやど田舎の日本の食の実態として、野菜たっぷり健康手作りの食事とか言っても無意味ではないか。コンビニ食、外食、中食が現状だろう。つまり、そういう流通の問題なら、やはり、食料自給とか言う以前にマーケットの問題に還元されるはずだ。
 と、以上、暴論。こりゃ、ほんとに暴論だなと自覚しているので、違うよ、食料自給率は大切だよと私を説得してほしいものだ。

追記
農水省「日本人の食卓の現実」(参照)というPDFファイルを発見して読む。面白いと言えば面白い。ブログの見解を大幅に変更する必要性はやはり感じない。ほほとおもったのは、「国民一人一日当たり供給熱量の構成の推移」だ。畜産物の比率はコメに次ぐ。その次が油脂類で小麦はされにそれに次ぐ。ざっと見た印象では、昭和50年時点から類推して、畜産によってサポートされるべきたんぱく質がなくても日本人はそれほど困らないと思えた。ポーランドの経済改革で推進側が気にしていたのは卵だというが、卵の生産・流通が可能なら大筋でたんぱく質の問題もないだろうと思う。

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普天間基地返還可能性の裏にあるもの

 毎日新聞社説「普天間返還 膠着打開のきっかけつかめ」は評価の難しい社説だった。普天間基地(飛行場)返還問題を本土国民がすでに忘却しつつある状況で、この問題を提起することそれ自体にまず意義がある。問題はその論点なのだが、端的に言えば、毎日新聞は依然沖縄を日本から分離して議論しているに過ぎない。しかし、この話はそう言えばいいだけではすまされない。
 まず、毎日新聞がこの問題をこの時期に扱った背景を理解する必要がある。毎日の切り出しはわかりやすい。


 沖縄の在日米軍普天間飛行場の移設問題が動き出しそうな気配を見せている。
 昨年11月にラムズフェルド米国防長官が普天間飛行場を視察し、飛行場返還に伴う代替施設建設の条件を見直すよう国防総省に指示したという。
 普天間飛行場が代替なしで返還されるとしたら、政府にとっても沖縄県民にとっても歓迎すべきことに違いない。ぜひとも事態を進展させなければならない。
 普天間飛行場の返還は、96年12月の日米特別行動委員会(SACO)の最終報告に盛り込まれた。最終報告は同時に米側の意向に沿い「十分な代替施設」の建設を求めた。要は条件付きの返還だ。

 1996年12月2日SACO(Special Action Committee on Okinawa)最終報告では普天間基地返還には代替基地建設が条件になっていた。それはとりあえずその通りなのだが、毎日新聞社説は重要点を見落としている。
 この返還合意では、日米両政府は5年ないし7年以内の全面返還を合意し、全面返還に向けて取り組むことになっていた。1996+7=2003である。すでにそのリミットが来ているのだ。このリミットに対して、日本政府の沖縄県民への対処は不誠実以外の形容はない。そしてその矛先は米国にも向けられる。当面米国としては、沖縄問題を日本国内問題に都合のいいように蓋をする(それがいかに無責任なことか、沖縄は米統治下にあったのだから責務がある)のだが、それでも欧米の契約の考えからすれば、放置していい問題ではない。日本のマスメディアはラムズフェルドを鬼畜米兵の頭のごとく扱うが、彼は古いタイプの誠実なアメリカ人でもある。
 もう一点、毎日が見落としているのか、わざと隠蔽している問題がある。これは、左の朝日新聞でも右の産経・読売新聞でも同じなのだが、すでに沖縄の海兵隊は事実上削減されていると言っていい状態なのだ。
 この話をする前に、本土日本人は、「海兵隊」を理解しているか気になる。日本人は、かつても日本に存在した陸軍・空軍はわかるだろうが、海兵隊はわかるだろうか。団塊世代、つまりベトナム反戦世代ならわかるだろうか。そして、海兵隊という組織が米国においてどのような政治的な意味を持つか。これは非常に大きな意味だ。日本人からすると、低脳マッチョを集めているのではないかという印象を持つが、海兵隊とは米国の誇りの最前線にあるものであり、1995年の沖縄処女レイプ事件(この事件の実態は日本では事実上報道されなかったが、袋につめて拉致しレイプしたのである)が米国に与えたのは、その誇りを傷つける恥辱感でもあった(だから事件当初その主犯者が黒人であるかどうかが実は彼らの関心事でもあったのだが日本では報道されていない)。そんなこと日本人は知るかであろうが。
 海兵隊(Marine Corps:通称マリーン)と海軍(Navy)は同一ではない。海軍は海戦のための組織であり、海兵隊は陸上部隊である。白兵戦を戦う「勇士」でもあり、先鋭部隊だ。陸軍の前に機動する。通常、戦時では陸軍上陸開始前に海兵隊が上陸し、橋頭堡を築く。州兵といい海兵隊といい、日本の義務教育で教えておいてもいい事項だ。少し余談だが、イラク・クエート侵攻のあたりから、米国の戦闘は、米国戦闘員の被害を出さないようにということで空軍始動になっている。また、在沖の海兵隊はこのような性格から揚陸艦の機動能力に依存するのだが、その基軸は私の記憶では佐世保のままだ。ということは、在沖海兵隊の機動力は日本本土側に依存する。むしろ、沖縄米軍基地の意義はインテリジェンスと継続的なロジスティックスであり、あの地域の戦闘には直接寄与しない。このことは、1996年3月中共人民解放軍の老害軍人どもがとち狂って与那国沖(台湾より与那国に近い)にミサイルをぶちこんだときも、太平洋側から空母インディペンデンスを移動させていることでもわかる。沖縄に有事に備えて米軍基地があると考える産経新聞系のウヨは軍事のイロハもわかってない馬鹿者どもなのだ。まぁ、米ケツ舐めポチだからなと思う。日本国を愛するなら沖縄を正常化するように考えるべきなのだ。
 さらにもう一点、毎日社説の見落としとまでは言えないが、重要な背景問題がある。嘉手納基地の問題だ。この基地は残念ながら、現在世界の状況からして、サヨクに乗せられて沖縄撤退と叫ぶことは危険なほど重要性があるのは、空軍ということからでも理解できるだろう。この広大な基地に、あの街中の小さな普天間飛行場が統合できないわけがないのだ。SACOでも当初議論されていた。なにより、戦後普天間基地は早々に整理されるはずだったのだ。普天間飛行場は基地の見える丘とかいう公園から眺望できる。この眺望は日本国民の義務にしたらいいと思う。これを見るだけで、この基地の異常さがわかる。住民の居住区の真ん中にある。皇居が都心の真ん中にあるというのとはわけが違う。この基地の持つ潜在的な住民への被害はまともな理性のある人間なら、その維持に見合うものではないことがわかる。米軍は馬鹿ではないので、わかっているのだ。さっさと撤退したいというのが米軍の本音なのだが、思いやり予算で浅ましくなった物もらい根性と嘉手納空軍と海兵隊の仲の悪さで、膠着してしまった。そこへ、日本の土建屋や沖縄の土建屋の利権がからんで、辺野古沖の代替基地案が出てくる。あの位置なら金武町のキャンプハンセンと連携できるとも言えるのだが、ロジスティックスの面からも、また、その運営面からも最低なので、米国の本音としては、環境問題とやらであそこはやだよとごねていたいのだ。というわけで、愛すべきうちなーデブ下地幹郎が野中を裏切って統合案を出したが、自民党に潰されてしまった。週刊新潮など下地の選挙をコケにしていたけど、目先で判断するなよなと思う。
 この膠着した沖縄の状況を変化させたのが、イラク戦争と同時期に始まった米国の対外軍事戦略の変更だ。話がまどろこっしくなってきたので話を切り上げるため、多少飛躍もあるだろうが、先を進める。
 日本はイラク戦争について米軍の横暴だとか日本のイラク派兵は憲法に違反するだの、呑気なことを言っているが、そんなことは些細な問題なのだ。大きな問題は、米軍はすでに従来の冷戦下の米軍ではないことと国連をぶっつぶしてもいいと踏んだこと、この2点だ。冷戦構造変化でわかりやすいのがまさに最前線である朝鮮半島の38度線である。ここから米軍は撤退し、さらにソウルからも撤退した。日本人がこの問題に関心を寄せないのが私には理解できない。同様のシフトは世界規模で進んでいる。反面、ロシア内への駐留などの新展開もある。もう一点の、国連潰しだが、この実態は有志連合だ。この実態とは、従来なら米軍の軍人補給として州兵まで投入する事態(なおイラクには州兵が多数投入されている)に、米国民の代わりに、韓国人や日本人、
オーストラリア人を代替で投入させるということだ。これらの国が完全に米国の属国となりその国民の血が国民の意志でなく流される時代になる。この問題は、米国がイラクで国連に地歩をゆずるかに見えるので国連の目アリと読む呑気な輩も多いのだろうが、楽観できない。というのは、この夏あたりに、NATO軍がイラクに投入されると見ていいからだ。それが有志連合とどう距離を置くかが、世界の軍事構造の根幹を決めるだろう。日本はなんとしても国連を盛り立てなくてはいけない時期なのだ。
 これらの要因から、米軍の組織が変わり、すでに沖縄の海兵隊は事実上削減された。正確に言えばそこまで言うのはフライングの可能性もある。本土側ではニュースになっていないように思えるので、2月5日沖縄タイムスの記事を引く(参照)。

在沖海兵隊削減/外相「将来は補充」
参院予算委/島袋氏質問に答弁
 米国防総省がイラク派遣の在沖海兵隊約三千人を沖縄に戻さず、事実上の削減を検討していることに関し、川口順子外相は四日午後の参院予算委員会で、将来的には海兵隊が補充されるとの認識を示した。
 島袋宗康氏(無所属の会)の質問に対して明らかにしたもので、「今回の派遣後には、本来沖縄に駐留するはずの規模の部隊が沖縄に展開することになっていると(米側から)聞いている」と答えた。
 外相は同時に、「最も円滑、効果的な米軍の運用を確保するためには、派遣される部隊も本来、沖縄に駐留する必要があると説明を受けている」と述べた上で、派遣期間の今年三月から九月までの七カ月間は米軍の運用上の必要な手当てによって、抑止力の低下は生じないと説明した。

 島袋の質問と川口の回答を比べて、川口の回答を取る馬鹿はないだろう。つまり、これが今朝の毎日新聞社説「普天間返還 膠着打開のきっかけつかめ」の浮かれの裏にあるものだ。つまり、毎日新聞は問題の真相を、サヨク的な視点で矮小化しているに過ぎない。結語を引く。

 米軍の戦力再編の機会をとらえて普天間飛行場の返還問題を一歩でも前に進めてほしい。政府はそのための戦略を練るべきだ。
 政府は米国に積極的に働きかけ、膠着(こうちゃく)状態が続く普天間問題を動かすきっかけを早急につかまねばならない。

 この結語は白々しいし、問題の背景に日本全体が絡み取られていることに目をつぶっている。中国人が「福」という字を逆さにして壁にはり、幸運が降ってくるといいと縁起を担ぐ。毎日新聞および本土日本国民は同じような運頼みになってしまった。沖縄が日本であることに目を向けず、また、日本が国際世界でどう存立していいか、見失っているである。

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2004.02.13

漢字という虚構

 さらに漢字について書く。ご関心のないかたも多いことだと思うので、おつきあいを願うものではない。そして、おつきあい頂いたかたの反論や反感も多いのではないかと思う。ある程度、しかたがないと思う。というのは、これまでの漢字についての私の話は虚構といえば虚構なのだ。「白川静は『と』だと思う」(参照)で、なぜソーシュールなんかをひっぱり出したかというと、虚構を打ち立てるためだ。
 虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない。
 が、もう少し述べる個人的な必要性を感じている。私のこの分野の思想を少し展開してみたい気がするのだ。
 関連して余談めくが、この間、暗黒日記から批判のようなものがあった。ご関心のあるかたは、先の記事の長いコメントを読んでいただいて、ご自身の考えを深めていただきたい。私の考えが正しいと強弁するものではない。また、茶化していると受け止めてほしくないのだが、その後の暗黒日記の平成十六年二月十二日のコメントが、愉快だった。おそらく、私のコメントを読んでの感想であろう。私は暗黒日記の批判に対して、端的に言えば、ソーシュール言語学の根幹であるラングとパロールを理解していないよと指摘したのである。喧嘩を売る気でないことが了解されて幸いではある。


平成十六年二月十二日
服部四郎氏が時枝誠記氏を非難した時にも「ソシュールの言語学を誤解している」「ラングとランガージュを混同している」式の言ひ方をしてゐるのだけれども、「ラングの學問」に反對する人間に「ラングの學問」の信奉者のする非難のやり方はパターン化してゐる。「お前はラングを知らない」――そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。

 愉快と思ったのは、そこがソーシュール学理解の天王山なのだろうなと思うからだ。そして、その天王山は、普通の日本人の常識からすれば、「そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。」と言い捨てるべきものだろう、ということだ。それでいいのだと思う。ソーシュールの言語学など理解する必要などはない。時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。けっこう脳天気な服部四郎にしてみれば時枝の議論など雑音のように聞こえたたのではないか。そんなものだ。ふと思い起こすが、吉本の言語論を川本茂雄は晩年できるだけ好意的に理解しようとしたが、川本さんは善人だなという印象を与えるだけに終わった。
 ラングの素晴らしさ、それはソーシュール学の学徒の至福でもある。それがなければ、近代言語学という虚構が成立しない。と冗談を込めていうのだが、それなくしてはブルームフィールド(Leonard Bloomfield:彼は実は巧妙にソーシュールを避けている)もなければ、構造主義言語学を大成するかに見えたハケット(Charles Francis Hockett)やハリス(Zellig Harris)もなく、ハリスからチョムスキーが出てくるわけもない。チョムスキーのLinguistic competenceとはソーシュール学のラングと中世以来の述語論理を合体させ、認知心理学だの生物学だのの装いを変えてみたもの、と冗談を込めて言えるだろう。
 ラングがなぜすばらしいかは、ソーシュール学をソーシュール自身の学の大成の過程を追って学んだものにしかわからない面がある。と同時になぜソーシュールが偉大な言語学者なのかわかりづらいだろう。と、れいの阿呆なWikipediaの「フェルディナン・ド・ソシュール」(参照)を見ると、不思議に悪くない。英語の解説よりはるかにましだ。誰が執筆したのだろうか。いずれにせよ、この記述が重要だ。

1878年暮れ、「インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き」を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。

 この方法論も恐るべきものだが、重要なのは、この問題が19世紀の言語学の最大の課題であったという点だ。つまり、言語学とはソーシュールの一般言語学講義以前は、イコール比較言語学だったのだ。比較言語学(Comparative linguistics)は、比較文化論のような比較でではない。言語学ではその「比較」はcontrastiveと言う。comparativeとは、印欧語の祖語を探す学問なのである。
 なぜこんな学問が当時言語学の主流だったか現代からはわかりづらいし、米人の言語学者など端から関心がない。というか、Edward SapirやBenjamin Whorfなどはインディアン言語の関心に向かっている。もともと米国言語学とは人類学の下位なのである。
 話を戻して、印欧語祖語の研究とは、端的に言えば、インド植民化でインドの知的財産特にサンスクリット文献が欧州に知られ、そしてその祖語がギリシア語と同源であることに気づいた驚愕感が起点でもあっただろう。これに、18世紀以降の言語起源論がベースになる。西欧のこの時代の原形なのだが、ギリシア哲学的なアルケーの考えが、ネイチャーに変化する。そして、諸学の基礎をこの「自然状態」から説明しようとした。ホッブズの社会思想は端的にそうだし、マルクスの自然概念もこれに由来している。言語学では自然から言語の起源が課題になっていた。ルソーの「言語起源論」もこの流れにある。
 こうした経時的な組織の課題のなかから、ソーシュールは言語の共時性を発見した。この発見はその学徒にすれば革命的なものだ。同時に、文法=ラテン文法から、諸言語を開放したとも言える。ラングが概念構築されて、始めて、言語の研究が可能になったのだ。素晴らしいとしか良いようがないのだが、他分野から、また、歴史を離れた人間からは阿呆に見えるだろう。
 ラングは虚構なのである。そんなものは存在しないと言えば存在しない。実際の言語現象のなかから、ラングを帰納することは、たぶんできない。ラングはある意味、超越的な理想原理なのである。
 長い前振りになったが、漢字の起源に戻そう。漢字の起源において、意味をその音価とし、その音価を古代中国語のラングに私は措定した。それが言語学の方法論として近似的に正しいはずだからだ。
 だが、それは虚構なのである。しかも、それは近代言語より危うい虚構だ。漢字起源時の音の体系が存在すれば、漢字の起源学はこう議論しなければいけないというシミュレーションである。チョムスキーの生成文法のようなねじれがある。
 が、虚構は虚構として成り立つ。
 が、虚構は虚構である。漢字起源のどこに最大の問題があるか、といえば、その音の組織性が実は、ラングとしての古代中国語によるものではなく、「切韻」のように、ただの規範の反映かもしれないのだ。簡単にいえば、「漢字」を読むために、こういう音を与えようという便覧である。そもそも、漢字一文字に単音しか与えられていないのは、不自然極まる。これは、漢字を読み下すための便宜であると見るのが妥当だろう。
 とすれば、その音価は、ある程度しか、古代中国語の音価を反映していないことになる。たぶん、それが言語学ではなく、歴史学的に考察したときの妥当な結論だろう。
 するとどうなるのか? そもそも漢字の意味はどうなるのか。常識的に考えて、漢字一文字に単音を与えたところで、そのバリエーションはたかが知れている。日本語など「声」がないので、「ショジ」といわれても「諸事」「諸寺」「所持」「庶事」となんの意味ももたない。すでに、この日本語の熟語ですら二語(二字)の組み合わせになっているように、中国語でも、よほど基本的な語彙を除けば、二語がないと言葉にならないのである。つまり、一語の音価だけでは意味が十分に担えないのだ。そして、そのことは古代においてすらそうだったことだろう。仮借が多いのも、単一漢字の意味がない(弱い)ためだとも言える。
 すると、そういう側面で極論すれば、漢字単体の意味などないとまで言えるのか。言えるのかもしれない。じゃ、意味をなす熟語はどのように発生するのか、といえば、だから文脈が必要になるし、文脈をプールして文脈全体をコード化するしかない。
 それが、四書五経の一つの正体でもある。
 ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
 こうした中国の世界、つまり、四書五経がなければ漢字が利用できないという変な世界が変革するには、別の文脈のプールが必要になる。
 それを提供したのは、明治の日本だ。大量に西洋語を翻訳して言葉=熟語を生み出した。革命なども本来は「易姓革命」である。ちなみに易姓革命というのは日本人は理解しづらいだろう。ところが、日本近代の革命はrevolutionの訳語だ。同様にこうした言葉は西洋の言葉の翻案として膨大に作成され、それが、清朝末の中国人知識人に湯水のように流れ込んだ。資本論が中国語で読めるのは、近代日本人が翻案の熟語を作ったからだ、とまで言えば、批判もあるかもしれないが、そう言っても妥当だろう。同じことは朝鮮にもいえる。朝鮮が漢字を捨てて嘆かわしいと思うが、漢字を表に出せば、近代文が日本語であることが明白になってしまうのだ。
 さらに日本の明治時代の言文一致運動は中国にも影響して、口語をなんとか漢字のようなもので記述しようと試みられた。近代日本語を日本の文学者が形成したように、その影響をうけて現代中国語もできた、といえば、中国は怒るだろう。なにも、そんなことは理解してもらう必要などない。日本人が知っておけばいいのだ。
cover
阿Q正伝
  ふと、この努力を行った魯迅を思い出す。現代の若い人たちは「阿Q正伝」を読んでいるだろうか。この一冊を読めば、中国の98%がわかるのではないかと思う。という私が中国を理解してなければお笑いだが、少なくとも、「阿Q」の響きの意味は知っている。気になって、アマゾンの阿Q正伝の評を見たが、嘆かわしい感じがした。お薦めしたいが、すでに読みづらい古典なのかもしれない。

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ちょっと辻元に同情する

 新聞各紙の今日のテーマは辻元判決と北朝鮮問題でまたぞろ田中外務審議官のスタンドプレーというところ。どうしてこうも社説っていうのは乗り気のしない話題なのだろうと思うが、そんなものだ。辻元判決については、執行猶予もついたのだし、これもそんなものだろう。が、朝日新聞社説「辻元判決――ひと騒ぎのあとで」がむごい。


 断罪された「秘書の名義貸し」は、企業に秘書給与を払わせていた与党議員の多さとともに、あのかいわいでは半ば公然と語られていた。彼女の共犯が土井たか子氏のベテラン秘書だったことが、ぬかるみの濁りと深さを映し出していた。その後、暴力団関係者に秘書給与を払わせていた与党議員も明らかになった。
 そんな世界だからこそ、辻元氏はもっと脇を固めるべきだった。自分が責め立てた相手のしたたかさを考えれば、あまりにも甘かった。

 違うよ。そんなふうに辻元を責めるなよ、と思う。悪いのは、社民党だよ。彼女は社民党の生け贄になったのだ。むしろかわいそうだと声をかけてやれよと思う。が、そういう人情が通じないのがサヨクのいいところ。

 ともあれ、この裁判が幕を閉じたあと注目すべきは、秘書給与をめぐる一連の事件がどう生かされるか、である。

 これも違うな。社会党・社民党がどれほど腐った存在なのかをあばけと言いたいところだが、実はこんなもの叩いても意味はない。すでに、そこに巣くっていたサヨクは奇妙な、ぬるい分散を始めている。
 この状態をなんといっていいのかわからない。「中道左寄り」かぁといういうようなぬるい話でもない。若い知性たちは、現実の問題に向き合いもしない、というか、奇妙な現実なる虚構で知性を消費し始めているが、それは自分らのエリート性の社会表出でしかないように見える。てめーらみんな下放してやると息巻きたいところだが、それも意味ない。なんだろね、この、ぬるい状況は。
 田中外務審議官のスタンドプレーもなんだかなと思う。総じて言えば、そう非難されるほどでもなかろう、というか、意外に外交官の本領ということろかもしれない。
 また朝日新聞社説になるが「日朝協議――ここは勝負どころだ」には、開いた口がふさがらない。

 しかし「子供たちが日本に行きたいと言えば帰してもいい」という条件付きでは、日本側が望む全員帰国の保証にはならない。確かに子どもたちにも北朝鮮での生活があるだろうが、もし自由意思を尊重するというのなら、いったん全員を日本に帰し、しばらく親たちとともに生活したうえで最終的な意思を確認する道もある。

 罵倒もしないよ。勝手にしろよ。でも、そんな意見は日本人に通じないよ。
 他の話題として、毎日新聞が取り上げていた「大阪市三セク 調停で2次破たん防げますか」は興味深い論点だが、どう考えていいのか私にはわからない。三セクの問題は考えたくないと逃げ腰になる。もう一つの「刑法改正 安易な一律厳罰化は避けて」は作文としてはいいがピンとこない。冗談でいうのだが、日本もシンガポールみたいにむち打ち刑でもやったらいいのではないか。しかも公開で。でも、実際にやったら変態さんの犯罪が増えるか。
 なんか冗談でお茶を濁す問題でもないのだが、萎えるなぁ。社会の問題が、水戸黄門シリーズを見ているマンネリ感があるからだろう。印籠は出てこないけど、新しいストーリーはないのだ。

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2004.02.12

漢字は表意文字という話

 たまたま先週週刊現代を読んでいて、京大教授阿辻哲次「漢字道楽」というエッセイが面白かった。話は、数年前まで「阿辻哲次」の「辻」という字を中国人によく問われたというのだ。


数年前まで、初対面の中国人と名刺を交換する時には必ず、貴殿の苗字には奇妙な文字があるが、この「辻」とはいったいどういう意味か、まともな漢字なのか、それとも日本で作られた記号のごときものか、漢字であるとすれば、中国語ではどう発音すればいいのか、などとあれこれとたずねられたものだった。

 この話でまず五分は盛り上がったのだそうだ。ま、中国人としても承知の上の洒落である。「辻」は国字といって日本でできた漢字なので中国にはない。それ自体は別にどうっていう話でもないのだが、中国人が気になるのは、「どう発音すればいいのか」である。
 そうはいっても、国字に中国音などありようがない。が、実際には困らない。どう見ても、これは、「十」で音をとるしかない。このエッセイにもあるように、中国の最近の辞書「現代漢語詞典」には"shi"と記載され、意味も日本の国字であり云々の意味が記されている。
 いずれにせよ、漢字であるかぎり、中国では音価が与えられているし、音価は1つに決まっている。これは朝鮮でも同じなので、中国人や韓国人からすると日本の漢字の状況が理解しづらい。
 中国では、音価が同じなら別の漢字を当てることもある、というか、それが慣例化すると、漢字は入れ替わりが固定する。この現象は仮借という。歴史的に見ると、漢字のかなりの部分が仮借から成り立っているので、漢字の語源を考える場合は、仮借をまず考慮する必要がある。仮借については、山田勝美を引くだけだが、清朝朱駿声「説文通訓定声」がほぼ原典となる。
 私の言い方にすれば、漢字というのはまず音価ありき、である。音価が同じなら、どのような面を使おうがそれほど問題にはならない、というのも、音価が意味を担っているからだ。
 山田勝美は「漢字の語源」でこう説明している。

 たとえば「馬」という文字を問題にするばあい、この字の出現しない以前から、あの動物を「バ」という音で呼んでいたのである。であるから、「馬」の字は「象形字」で、ある動物の形をかたどったにすぎないが、字がまだ作られておらず、あるいはすでに作られていても、「バ」という音でこれを呼んでいた時には、なぜこの動物を「バ」と呼んだのか、その理由を考えてみることが必要となってくる。

 「馬」の意味は、「馬」という字面が担っているのではなく、「バ」なりという音価が担っているのである。さらに引く。

さらにもう一例あげると、「鼻」という字を考えるばあい、この字は字形としては「自」(鼻の象形)と「(鼻の下の部分で、音価はビ)」(音符)からなる「形声字」であるといえば、これで一応の字形は説明されたことになる。しかし、この字の作られる以前から「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で「鼻」のことを呼んでいた。すなわち、「音」は文字の作られる以前から存在していたのである。すると、「鼻」を「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で呼んだのはなぜか。その「音」はいかなる意味であったのか。鼻のいかなる特徴を捉えて、この「音」で呼んだものであろうか。

 仮借と音義で考えると、例えば、「商」という漢字は、女性の生殖器の形象だが、その形象の意味はなくなっている。「商売」の商は仮借で、本字は「唱」。呼び売りの意味だ。あれを買え、これを買えと呼ぶ。「商量」の商も仮借で、本字は「称」。つまり、「称量」。
 このように、漢字は基本的に、表音的な性格を持ち、表意ではない。では、なぜ、それが表意文字とされるのか?
 このブログの記事を書こうと思ったのはその点の補足だ。漢字は、表音文字ではない、という強調だ。2つ理由がある。
 一つは、漢字はそれぞれ古代の音価によって意味を担っているが、その古代の言語の音声を写し取ることができない。恐らく、日本語で言う「てにをは」に相当する格は含まれていない。つまり、漢字という音価をもつ記号をどうならべても、文章は構成できない。これは、かなり現代に至るまでの中国語の特徴で、たとえば、論語など、中国人はすらすらと音価を与えて読み出せるが、まるで、意味をもたない。その音価の羅列が中国語にならないからだ。彼らも漢籍は現代注釈書を使って読んでいる。
 もう一つは、漢字の本質的な利用法は、異言語・異民族への通知の機能を担わされてきた。漢字は音価を持つが、その音価は、意味が均質に伝達できる集団から逸れれば、音価と漢字の意味を分離して、別の音価を与えることができる。一番顕著な例はまさに日本の漢字だ。
 「日月盈昃」とあっても、「ひ・つきは、みち・かく」と読み下してしまう。そして、同様に、「ほしのやどりはつならなりはる」とつぶやいて「辰宿列張」と書くことができる。他の民族でも同じことができる。なにより、中国大陸の多数の言語間でこの便宜によって意思疎通ができる。
 もともと、漢字が中国に必要になったのは、むしろ、こうした便宜、つまり、多民族を支配するためだ(同時にいつでもいかなる民族でも王朝を打ち立てることができる)。
 その意味で、漢字は、表意文字として利用される。多民族でない中国世界すら想起しづらい。
 私の考えをまとめておこう。「漢字は表音文字的に発生したが、表意文字として利用される」ということだ。漢字の起源や原義を考察するには、音価が一義になる。しかし、漢字が多言語間で利用されるときは、表意文字となる。
 別の言い方をすれば、中国語に、会話や思いを表現するための表音文字は存在しない、ともなる。
 そんな馬鹿な。現に現代中国語は漢字で書けるではないか、と。あれは、歴史的に見ると近代日本語の影響なのだ。

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[書評]神の微笑(芹沢光治良)

 週刊新潮をめくっていて、思わず、うぁっとうめき声を上げてしまった。記事ではない。広告だ。芹沢光治良の「神の微笑」が文庫化されるのだ。

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神の微笑
 私は単行本はどしどし文庫になるべきだし、良書は文庫として若い人に提供すべきだと思う。この本だけは文庫にしちゃいけないなんって本は存在しないと…思っていた。が、ある。これだ。「神の微笑」だ。この本は、このまま歴史の彼方に奇書として消えていって欲しかった。でも、文庫で出ちゃたんだ。新潮社、本気か。いわく「芹沢文学の集大成、九十歳から年ごとに書下ろした生命の物語“神”シリーズ、待望の文庫版」。
 世の中に危険な本と呼ばれる本は多いが、本当に危険な本というのは少ない。が、これは、危険物だぞ。知らねぇぞ、俺は、とかいいつつ、こうなっちまったらしかたないだろうと思う。爺ぃファンタジーという独自分野(そんなのあるか)でこのくらい面白い本はない。私はシリーズ全巻読んで、その毒にのたうちまわった。そういう体験も読書のうちだと思う。というわけで、薦める、ことにする(いいのか?) 佐藤愛子みたいなのがちまたに溢れるのかぁ。うー、胃が痛くなる。
 このシリーズは、当時まだ続くのかよ、とはらはらしたものだ。そして、神のお恵みあれ、このシリーズは歴史の彼方に消えていくことになる…と信じた。でも、復刻かぁ。角川書店が文庫にする、大川隆法のしょーもないSFファンタジー+しょぼい人生訓や、阿含教って何よみたいなのはわけが違うのだが、むしろ、そのノリで、この社会から拒絶されることを、祈りたい気分だ。
 ちなみに、芹沢光治良をアマゾンで検索したら、絶版が多い。「人間の運命」すら切れている。と思うに、「人間の運命」の刷り増しが後回しなのかとまた絶句する。ちょっと「はてな」を検索したら、まだキーワードにはなっていないようだ。ほっとする。と同時に、芹沢光治良について説明が必要な時代になったのだなと感慨深い。ありがちな説明を端折るとこんな感じだ。
 明治29年、静岡生れ。第一高等学校から東京帝国大学経済学部を卒業。農商務省辞してフランスのソルボンヌ大学に留学。当地で結核。昭和5年帰国して書いた「ブルジョア」が「改造」に当選。「人間の運命」で、日本芸術院賞、芸術選奨を受賞。フランス政府からコマンドール(文化勲章)を受章。日本ペンクラブ会長、ノーベル文学賞推薦委員。93年死去。
 しかし、これでは、彼と天理教の関係が見えない。彼は天理教の家庭に育った。そして、彼の人生の大半はその信仰から離れていたように見えた。が、がだ。

無信仰な僕が、一生の間に経験した宗教的現象を次々に想い起すと、これらが単なる偶然な経験ではなくて偉大な神のはからいによって経験させられたのであろうかと、自然に考えるようになった―人生九十年、心に求めて得られなかった神が、不思議な声となって、いま私に語りかける…。

 そう、語りかけるのだ。樹木ですらね。これがあの芹沢光治良か。しかし、このシリーズは、本人自身「小説」と言っているように、フィクションでもある。そのあたり、ピンチョンでも読んでいるような幻惑感が漂う。
 芹沢光治良がこのシリーズで描く「中山ミキ」をどう捕らえたらいいのか。それ以前に、現在はすましこんだ天理教の歴史をきちんと近代史のなかで再評価しなくてはいけないだろうとは思う。その異端の運動も含めてだ。この小説は、押さえ込んだ天理教のパワーが新しいかたちで噴出した「異端」でもあろう。が、もはや異端ではすまされはしない。「おふでさき」「みかぐらうた」「おさしづ」これらをきちんと歴史の文脈に戻して、天理教義から独立したかたちで評価しなくてはならないだろう。村上重良の死は早すぎたなと思う。余談だが、東洋文庫の「みかぐらうた・おふでさき」にはCDがあるのか。聞きたいなと思う。私の祖母は半生リュウマチだった。天理教は信じていないが、教師は親切な人で連れられて、お地場に「帰った」ことがある。生涯一度の長旅だったらしい。お手振りもできた。思い出すと泣ける。彼女の人生を天理教が救えたわけでもないし、そんな期待を持つべきでもない。だが、天理教の末端はあの時代に生きていたことは確かだ。そこには、神聖な力があったのだとしか思えない。
 芹沢光治良とこの最後の神シリーズは、「芹沢光治良文学館 第6期」(参照)に詳しい。知らなかったのだが、「天の調べ」の後にまだ遺稿があったのか。しかし、なぁ。読みたいか。
 キューブラー・ロスもそうだが、どうしてこれだけの知性が、最晩年、こういうことになるのか。人間の知性というのはそういうふうに型取るようにできているのか。俺すらも神を賛美して死ぬのだろうか。正宗白鳥みたいに。存在の根幹がふるえるような恐怖だな。

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不正アクセスはまずシステム管理者の問題

 私が書いても面白い話にはならないだろう。日経新聞社説「不正アクセス対策、再点検を」がおざなりすぎてこんなもんかいなと思った。話はれいのoffice事件だ。


 著作権保護団体のホームページから不正に個人情報を引き出したとして、京都大学の研究員が不正アクセス禁止法違反で逮捕された。電子政府構想が本格化する中、国家公務員法の適用を受ける国立大学の職員による行為だけに許し難い話だ。

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少年動物誌
 この研究員のハンドルがoffice。最初は、offenceの間違いかなと思ったが、洒落心はないようだ。
 ユンク心理学者河合隼雄の甥、という情報も見かけた。それって河合雅雄の甥ではないのかと思ったが、そういう洒落心もないのだろう。河合兄弟、知らない? 最近は「少年動物誌」とか読まれてないか。絶版ではないようだ。買って読み直したい気になる。
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無意識の構造
 ついでに河合隼雄の肩書きが「文部科学省顧問 前国際日本文化研究センター所長」とあるのを見て、ふーんという気がした。気になって「無意識の構造」が絶版か調べてみる。大丈夫、まだある。初版は1977年。これは市民大学講座のテキストをまとめたもので、私はこの講座を全部見ていた。中公新書で出たはけっこう後だった記憶があるから、放送は1975年ころか。私は高校生だっただろうか。初回の講義は河合隼雄がぬぼっとでてきてありがちなものだったが、二回目から女子学生をスタジオに連れてきて彼女らに話すように解説したと記憶している。面白い講義だった。30年くらい前になるのか。あのときの河合隼雄は今の自分くらいの歳かと思うと、最近のヨーダ化している河合隼雄を見るに、人生は長くないなと思う。あのころ、河合隼雄はユンク心理学を日本に定着させるべく模索しながら、さすがにその後の俗流ユンク心理学者とは異なり元形論の危うさと深さに苦悩していたと思う。人生後半の危機と影とアニマに思い入れがあったようだ。45歳くらいだと、彼自身の課題でもあったのだろうと思う。
 話が逸れまくった。officeは河合の血筋なんだろうなと思うがそれでなにか言いたいわけではない。日経が社説にまで書いて問題にしているわりに、彼がやったことは、技術的にはたわいないことのようだ。その解説は「圏外からのひとこと」の「30秒でofficeになる方法」(参照)が面白く関連の話も面白い。プログラマならこのあたりは普通の感覚ではないだろうか。ついでに、「元祖しゃちょう日記」の「情報を伝えるメディアと情報を誘導するメディア」(参照)も笑えた。日経にしても朝日にしても、技術的なレビューをする者がないということなのだろう。それも問題だなとは思う。
 頭がこっちサイドになると以下のような話は、不思議な世界の出来事のような印象もある。

問題はなぜこうした事件が起きたかである。研究員は首相官邸や都市銀行など多くのホームページの問題を専門誌などで指摘するマニアだったが、いずれも「CGI」と呼ばれるプログラムの欠陥を問題にしている。ホームページに必要事項を記入すると欲しい情報を返してくれる一般的なシステムだが、古いプログラムでは意図的に操作を加えると蓄積された情報を見ることができた。

 コメントしようもない。結語は「侵入者は当然罰せられるが、情報を扱う側にも守る責任がある。」というつまらないしろものだ。
 うまく言えないのだが、プログラマはシステム管理者たちは、この問題をどう考えているか、というと、ぬるい困惑というところだろう。その辺の「ぬるさ」というのは、社会とどう関わっているのかよくわからない。日経社説はピンボケだがピンボケとして笑って済むことでもない。
 関連して住基ネットだが、これもヤッシーが言うほど問題でもないし、ヤッシーが誰かに乗せられているのだろうが、その方向からつっついても、技術的にはどってことない。RFIDについても似たようなもので、技術的には、それほど問題でもない。office事件のような話も、技術的には、間抜けでお笑い、なのだ。
 社会の危機の問題で言えば、今朝の毎日新聞社説「住基カード 露呈した本人確認の危うさ」がいいところを突いている。問題は、そうした技術と関係したところで起きる。事件はこうだ。

 事件は、有印私文書偽造・行使などの容疑で逮捕された男が知人になりすまし、申請書に自分の顔写真を添付して知人名義の住基カードの交付を受けた、というものだ。たまたま男がカードを紛失したため犯行が発覚したが、名義人も同市役所関係者も虚偽申請の事実に気づいていなかった。

 そういう社会になるのだ。というか、日本とはそういう社会だった。今だって健康保険証は本人確認に十分なわけないし、フリーター君たちがやっているように、「風邪ひいたぁ、保険証、かしちくれぇ」という互助の社会は暗黙の了解である。今週のSPAのくらたまの漫画にあるように、婚姻届や離婚届なんか、偽装は簡単なものである、というか、むこうさんも手慣れたもので、痴話に適当に距離を置くというくらいだ。のわりに、国籍が絡むと陰湿だがな。ちょっとここに書けないネタも私は知っているのだが…ちょっとだけいうと、戸籍の係のとこに康煕字典が置いてあるんだよね。ついでに相続についても、けっこう杜撰だ。私の父は叔父に全財産を盗まれている。
 いい加減なまとめだが、日本のそういう間抜けというのは、それなりに意味があり、機能しているのだとしか思えない。それにIT化というのは別のルールを持ち込むということだ。そして、そのルールはつい、阿呆な視点か技術の視点で語られる。そして技術の視点がつい勝ちになる。そりゃ、ね。
 だが、私は社会に技術が関連しているとき、その説明責任は技術に依存してはいけないと思う。昔アメリカの人生論だったか、「あなたの問題をコンピューターのせいにする言い訳をけして認めてはいけません」というのがあった。これは、断固として認めてはいけないのだ。そのカラクリを理解しようとしてもいけない、というのがポイントだ。
 私は昔流しのプログラマをしていたし、8ビットCPUくらいの論理回路を組むこともできた(今はつらいか)。だから、情報技術のトラブルの説明で技術情報をされてもたいていは、嘘こくんでねーとか思う。しかし、そんな背景は、結局必要ない。
 問題は市民社会の問題なのだから、その文脈で筋を通せばいい。そうした観点で言えば、今回の事件の不利益を起こしたのは誰か? officeか、システムの管理者かということになる。私は、金庫に入れない金は盗まれてしかたがないと思う市民なので、システム管理者が一義的には問題だなと思う。

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2004.02.11

[書評]男の人って、どうしてこうなの?(スティーヴ・ビダルフ)

 

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男の人って、
どうしてこうなの?
 「男の人って、どうしてこうなの?」(草思社:スティーヴ・ビダルフ)について、「これってどう、あなたにあてはまるの?」と訊かれた。女にである。「よく当てはまるし、男についてこれほどきちんと書かれた本はないと思う」と答えた。「ちょっと、オーストラリアっぽい感じはするけど」と付け加えた。女はけげんそうな顔をして、またその本をぱらぱらとめくっていた。読んでもわからないと思うよ、とは口に出せなかった。
 自分でもいつ読んだものか、まだ書架にあったのかすら忘れていたのだが、翻訳は2003年3月とあるのでそんな昔でもないのか。原作"Manhood"は1994年が初版。オーストリアの本だ。米国でも売れたと聞くが、どの程度だったのだろう。原作と翻訳との差がきつそうなので、原書も読んでみたいと思いつつ忘れた。訳本は日本で売れただろうか。自分では面白い本だなと思ったが、書評などをみかけたことはない。
 もともと、この本は、「男の子って、どうしてこうなの?―まっとうに育つ九つのポイント」(参照)の、二匹目のドジョウといった感じだ。こちらの本は、男の子を持つお母さんがたに売れただろうと思う。
 「男の人って、どうしてこうなの?」はこんな構成だ。これを見ると、男の人は読まないのではないか。うざい感じがするからな。

    【男が大人になるための7つのステップ】
  1. 父親との関係を修復する
  2. セックスに神聖さを見出す
  3. パートナーと対等に向きあう
  4. 子どもと積極的にかかわる
  5. 同性の親友をもつ
  6. 自分の仕事に愛情をもつ
  7. 野性のスピリッツを解放する

 しかし、これはどれもけっこう重要な問題だ。が、なるほどと実感できるのは40歳過ぎてからだろう。この構成からはわからないが、男の40歳のというのは、この本の大きなキーワードになっている。それは後でふれよう。
 私がこの本を読んで、記憶に残ったのは3点ある。1つは、この本が別の本から引用している部分でもあるのだが…これだ。

(前略)多くの男性にとって、射精はいっさいのクライマックスの感覚がなくて起こることが多い。
 このことを理解しないかぎり、女性は男性の性の肝心な部分がわからないだろう。多くの男性もそうだ。(後略)

 言葉の定義にもよるのだろうが、射精は生理的な反応でもあるので、当然、その反応の感覚はあり、その強度の感覚は通常男性にとって快感であるとされている。が、本当か、というと男ならちょっとためらうものがあるだろう。性欲が刺激され勃起し、射精するというプロセスは、どうも、それほどには精神的なプロセスでもない。起点の、性欲が刺激され勃起しというのは、ある程度、そういう部分に自我を追い込まなくはならないか、あるいは追い込むようなオカズが必要だったりする。これは意外にうざいというか、そういう存在に追い込まれているのは自我にけっこう負担がある。20代ではまだそうでもないか。
 また、その性欲の対象は、通常は女の身体に連結されるのだが、女の身体といってもそこには、男の側から見た「心」の幻想を必要とするので、こういう言い方は偏見かもしれないが、20代前半の女性にはなかなか、そういう幻想を満たしてくれる部分が少ないだろう。もっともその年代の女性にしてみれば、そんなこと言われてもなぁであろうし、そのあたりの男の幻想の制御ができて、不細工でもなければ、それだけで金も儲けられる。
 と、うだうだ書いたが、射精にまつわるやっかいな問題は依然やっかな問題であり、率直なところこの本の解決案は、なんか方向違うようにも思える。それでも、問題の指摘としてはよくできていると思う。
 2つめは、ローンだ。え? 話の次元が違うのではないかと思えるかもしれないが、これもうまく書いている。ちょっと長いが痛烈なので引用する。

 わたしたちは大人の生活をはじめるときに家をもち、一生かかってその負債を支払ってもいいという抵当システムをもっている。(中略)銀行に借り入れの相談に(言うまでもなくネクタイを着用して)行ったあなたは、十万ドルを手にして戻ってくるのだ。それは軌跡としか言いようがない!
 だが、彼らがあなたに告げない何かが起こる。あなたが睾丸を置いてくるということだ! 銀行の経営者は、それをほかの人のものと一緒に、つぼに入れて金庫に保管する! もしあなたが人生で何か冒険をしたい、エキサイティングなことやリスクのあること、あるいは一風変わったことをしたいという思いにかられても、そのチャンスはない。なぜなら、そうするための金玉をもっていないからだ!
 ともかく、自由な人間であるためには、この罠から逃れなくてはならない。(中略)子供たちを私立の学校に通わせるかわりに、自分の時間をもっとさいて子どもたちに教えることもできる。(後略)

 ま、そういうことだ。金玉の比喩は宦官のイメージだろう。たいしたことではないようだが、30過ぎて金玉を抜かれると男はかなりきつい。日本ではパラサイトが問題だが、このあたりのことも関係しているように思う。むしろ、貧乏な男やフリーターのほうが、ローンなんか組めないから、30半ばくらいまで金玉をぶらさげていられる。その先は? わからない。まだ日本はその先まで展開していない。40歳負け犬女と同様に、その30歳かろうじて金玉フリーター男がどうなるのか、まるでわからない。
 3点目は、男の灰の時代についてだ。大人の男になるためには、一度、灰になる必要があるのだと著者はいう。ユング心理学あたりの援用でもあるのだが、それはある意味、真理でもあると思う。40歳くらいでそれが訪れる。
 本書にはその解決はない。灰になるのだ。しいていえば、灰になり大人になった男同士の助け合いが必要だというのは、確かだろう(灰についての表現はヨブ記かもしれない)。
 男が灰になるということを、女はどう捕らえるのだろうかと思うことがある。わからない。だが、その時、実は初めて男は女を愛するようになる、だろうとは思う。

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仏教入門その1

 私は仏教を理解しているとはとうて思えない。私の仏教入門など、お笑いぐさだろうと思う。が、メモがてらに書いてみたい。自分の人生のちょっとした追想のようなものであるからだ。
 仏教を知るのに最適な書籍はなにか。私の結論は「大乗起信論」である。現代語訳付きで安価な岩波文庫のものが近年出ているのだが、アマゾンを見たらすでに在庫がない。ある意味、よいことだと思う。大学の教科書などで利用されているのだろうと推測する。皮肉を言えば、よって、古書でより安価にありそうなものだが、アマゾンの古書にもない。
 現代思想かぶれには、井筒俊彦の「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 中公文庫BIBLIO」が受けるだろうが、井筒俊彦はあまりお薦めしたくない。デリダとかお薦めしたくないのと同じ理由だ。私は井筒のファンとも言ってもいいのだが、こうした本は若い人には害があるように思う。
 現状、大乗起信論は安価なものはなさそうだ。「訳注 大乗起信論」はデータベースを見る限りよさそうだが、私は読んだことがないので、お薦めはできない。リンクはあくまでご参考まで。
 大乗起信論を薦めておきながら、大乗起信論をおまえは理解しているのかと言われると、胸をはってそうだとは言い難い。迂回した経緯がある。私は大乗起信論を英語で読んだ(正確には大乗起信論解説書)。"Outlines of Mahayana Buddhism"である。おそらく仏教を研究する人間でこの書物を読まない者はモグリである。マックス・ヴェーバーですらこれを基礎文献とした。この翻訳は全集などに存在していないのかと思って、戯れに検索してぶったまげた。あるのだ。しかも、しかも新刊ではないか! 岩波書店から「大乗仏教概論」。残念なことに値段が6300円なので、おいそれとお薦めできない。しかし、この書籍を読まずに現代で仏教を語ることは、やはりモグリと言っていいだろう。
 著者は鈴木大拙である。私は、大拙の著作の大半は読んだ。大衆向けの啓蒙書も多いので読みやすい。が、現在私は大拙の仏教理解には批判的だ。それはなにも彼が戦時国粋主義だったとかいう浅薄な問題ではない。禅について、私はまったく異なる立場に立つようになったからだ。恥ずかしい言い方だが、私は道元の徒である。臨済禅や禅文化など認めない。禅文化が日本文化に寄与した美については恥ずかしいが耽溺しているのも事実だが。
 Outlines of Mahayana Buddhismは大拙の30代の若いころの作品で、英米圏の読者をターゲットにしているせいか、逆に英米圏の文学的な参照やレトリックが多いので、現代人には辟易する部分もあるかと思うが、それでも仏教の抹香臭い概念を英語でずばりと置き換えていく大拙の明治人の胆力には驚嘆する。おそらく、英文とつきあわせてよめば、仏教とはこういうものだったのかと愕然とする人もあるかと思う。私がそうだったからだ。
 大拙の著作もまた薦めない。彼の弟子気取りの秋月龍岷の啓蒙書など読む意味はない(ひろさちやなど噴飯)。が、「一日一禅」は手頃な便覧として便利である。彼の解説はご無用。大拙については、例外として、岩波文庫の「日本的霊性」は薦める。教養人の必読だろう。だが、この書物も実際にはあまり読み込まれていない。重要なのは、この「第4篇 妙好人(赤尾の道宗)浅原才市」の信仰なのだ。つまり、親鸞・蓮如を経由して出現する妙好人という存在をどう考えるかは大きな課題であり、大拙の実は難しいところだが、彼は禅よりも親鸞に傾倒している。余談だが、大拙は今から40年くらい前か、現代人は漢文が読めないで困るとぼやいていた。
 大拙は、仏教理解に大乗起信論、そして禅の理解に楞伽経を薦めている。楞伽経については、中村元の「『華厳経』『楞伽経』現代語訳大乗仏典」がある。初期禅の持つ存在論的な経緯を知るにはよいのだが、難しいすぎると思う。それでも、昨今の日本の浅薄な禅ブームから離れるために、目を通されるとよいのではないかとも思う。
 中村元の著作についても薦めない。文藝春秋の仏教入門で宮崎哲弥は彼の訳書「ブッダのことば―スッタニパータ」を薦めていた。私はこの本をよく読んだ。絶えず携帯し紛失しては再購入した。でも、これも私は薦めない。この本は、あたかも仏教の原点を早呑み込みして宮崎哲弥のような浅薄な者を生み出すだけだからだ。読むならこの本に描かれている「ブッダ」の伝承が、実は、どれほど呪術にまみれているのかをよく読み取らなくてはいけない。また、オウム真理教の小利口な者たちもこうしたパーリー語文献の世界に墜ちていったが、パーリー語文献から原点となる真の仏教なるものが発見できるわけではない。諸宗教に言えるのだが、原点の集団はあくまで社会学的な再構成モデルに過ぎない。教義もまさに社会学的モデルとしてその歴史社会の相関としてみなくてはいけないものだ。それをいきなりエクストラポーズして現代に持ち込んではならない。
 私は、仏教理解には、大乗起信論がよいとしたが、これには大きな問題がある。人をこの迷路に誘うのではないかと懸念もある。この問題を端的に表しているのが、「本覚思想批判」だ。現代の仏教書でこれほど面白い本はないとも言えるが、6500円は学生の小遣いで買う本でもないだろう。内容は、まさに大乗起信論を批判する点にある。類書といってはなんだが、「縁起と空―如来蔵思想批判」も面白い。
 と書いていて、中論や唯識まで触れる気力が失せてきた。唯識からチベット仏教にまで触れなくてはいけないし(欧米の仏教学はチベット仏教が主流だ)、途中、密教の問題にも触れるべきだろう。迷路のようだ。また、日本民俗のなかの仏教には、こうした教典系の知識は役にたたない。なぜ日本の仏像は阿弥陀、薬師、観音なのか、端的に考察した書物を知らない。
 なにも知識をひけらかしたいわけではない。
 大乗起信論で本当の仏教が理解できるのかと言えば、私は「本覚思想批判」の袴谷に近い。しかし、歴史的に仏教がなんであったかという問題にすれば、やはり大乗起信論を理解しなければいけない、とは言えるだろう。つまり、歴史学の視点だ。騙すようだが、宗教学なり私自身の宗教的な見解ではない。
 ついでだが、「道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元」について、私はよく理解できない。私は近代に出来た「修証義」は総体としては間違いだと考える。私は曹洞宗にはまるで関心がない。修証義を講ずる僧をまるで信じない。そして、道元については、―十二巻本「正法眼蔵」は不要なのではないかと考えている。
 袴谷が「法然と明恵―日本仏教思想史序説」で明恵を廃するのは理解できる。だが、日本史の理解にとって、明恵は北条泰時という傑物の文脈で見なくていけない。また、法然はその実践である親鸞に下るしかないだろう。そうした、袴谷と私の考え方のズレは、―十二巻本「正法眼蔵」の理解にも影響している。端的なところ、私は道元の晩年というものがよく理解できない。

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年金法案提出と新生銀行

 今朝の新聞各紙社説を見渡して、ぼんやりとした感じがする。テーマとしては二つある。一つは年金改革の関連法案であり、もう一つは新生銀行公開価格(525円)が決まったことだ。しかし、この二点に言及すべきことが思い当たらない。ぼんやりとした感じというのは、このたるい既視感のようなものだ。
 年金改革については、このブログでもなんどか扱ってきた。私の考えは、それはテクニカルにはそんなに難しい問題じゃないだろ、が基本である。だが、社会問題はテクニカルな点にあるわけではない。問題は二つある。一つは世代間の闘争的な含みだ。毎日新社説「年金法案提出 安心のメッセージが伝わらぬ」がうまく表現している。


 年金改革にパーフェクトな案はない。給付と負担のバランスの取り方で、負担する若い世代か、年金を受給している高齢者のどちらかに不満や不公平感が出る。これまでは、右肩上がりの経済成長がその矛盾を隠してきた。しかし、現状ではそれを期待できない。

 つまり、そういうことだ。この問題についての私の意見は、若い世代を優遇せよである。関連して、新聞各紙は議論を避けているようだが、年金問題は、おそらく、日本が積極的にリフレ政策をとれば自然に解決する可能性がある。しかし、政府はじりじりと小出しにリフレ政策を応用しているものの、日本社会の解決を志向しているわけではない。端的な話、現在の日本の構造にうまみのある人間が日本の政治を握っているのだ。雑駁に言えば、公務員と地方だろう。この問題は放置しておくと危険だとは思う。
 年金についてのもう一つの問題は、このブログのコメントからも示唆されるのだが、年金族への怨嗟の問題だ。私は率直なところ、年金族をつるし上げる必要はなかろうと考える。だが、実際の歴史というのはそう進むものではない。今朝の新聞各紙の社説はこの問題についてあえて触れていない。率直に言って、新聞社と年金族とのつるみがあるように見える。広義にいえば、公務員的になりつつある新聞(宅配料は一戸建て都市民の税金ではないか)にはもはや年金を扱う資格などないのだ。
 新生銀行については、日経新聞社説「新生銀行の再上場が示す金融の課題」が大きくとりあげていたが、ちょっと薄気味悪い内容だった。しかし、こうした見解もアリかもとは思う。テクニカルな問題面では私も理解できないこともあるし、あまり言及したい気にはならない。というか、そういうリングを前提にされるとなという感じだ。
 毎日新聞社説「新生銀行再生 見事さと後味の悪さと」はよく書けていると思う。といってその論に賛成するわけでもない。評価するのは、次のようなジャーナリズム的な記述だ。

 後味の悪さの第一は、この公的資金は何に使われたかだ。債務超過の解消と不良債権の買い取りは、元本保証ではなかった金融債の元本保証と、大手ゼネコンや大手流通グループの救済などに使われた。外資系投資家の懐に入ったわけではない。この不透明さは今も解明されていない。

 公的資金=税金、その支途が見えない。そんなことがあっていいのかと思う。毎日が指摘する二点目は「瑕疵担保条項」だ。日経のほうはハゲタカファンド論否定を打ち上げているが、私は腑に落ちない。三点目の「日本の民間企業は何をしていたのか」はタメなので無視。
 毎日の結語はよくわからない。

 新生銀行の再生を嫉妬(しっと)するのはお門違いだ。むしろ不透明だった金融行政を反省し、新生銀行の再生に学ぶべきだ。

 全然方向が違うと思う。しかし、それに私が関心を持つものでもない。UFJやみずほの危機はこのままだらーっと見過ごされていくのだろうか。卑近な話だが、私は大学の育英資金のために富士銀行の口座を開いた。四半世紀にわたる顧客だが、一遍もこの銀行のメリットを感じたことはない。不快感はいくつも上げられる。身近なATMも封鎖されるようだ。セブンイレブンのIY銀行のほうがましだ。庶民感覚からして、銀行はふざけたやつらだなと思う。こんなものが温存されているかというのはあまり納得できるものでもない。
 が、だからといって目先で批判しても大局を失うだろう。大局とはと大上段に言うまでもなく、デフレ対策だろう。デフレじゃないという薄気味悪い声が聞こえるからなおそう思う。
 余談だが、今日は建国記念日だ。くだらない。産経新聞社説もさすがに内心くだらないと思っているようすが読めて、それは笑えた。あまり歴史議論には立ち入らないが、建国の神武神話というのは、天智王朝のパロディだ。百済が滅亡したので建国の神話を作り出したのだ。日本の建国は7世紀ことであり、それは昭和天皇もそう発言されていた。

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2004.02.10

この外に仏法の求むべき無きなり

 雑談である。しかも愚痴である。文藝春秋三月号を買ったら「仏教入門」が載っていた。愚劣な内容だった。文藝春秋もここまでくだらなくなったか。まったく大学を出て文藝春秋なんか読んでいるようじゃだめってことだな、と思う。
 玄侑宗久、こいつに一喝する者はいないのだろうか。臨済宗か、それで禅か。勝手にしろだな。ひどい世の中になったものだ。お次が本願寺派の門主。「一日五分、語感を研ぎ澄ませよ」か。親鸞ならなんと言うだろう。これも勝手にしろの部類だな。


詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 親鸞には弟子はいない。僧ですらない。面々の御はからひなり、勝手にしろってことだ。
 山折哲推については、今は言及しない。成仏(餓死)するか俺は見ているぜ。石原慎太郎はどうでもよい。
 四国遍路、そんなもの仏教に関係ない。森永卓郎、なぜ? 養老孟司、お笑い?
 宮崎哲弥。なんなんだろう、この兄さん。

 私は仏教者である。だが仏教徒ではない。
 「徒」という語は、「徒党」などいう熟語を構成することからもわかるように「なかま」「ともがら」を意味していて、どうも仏教を信奉する者を表わすのに相応しくない。

 のっけからくるよな。仏教は出家集団の宗教である。出家しないものは、ただの衆生である。それだけだ。仏教徒とは出家者を意味するのだ。おめーには関係ない。もっとも、維摩経など持ち出せば理屈はどうにでもつくか。とこで、その「仏教書案内」を見るに、維摩経はあるか? ない。
 と、宮崎哲弥をくさしても意味はない。このてのやつら根は深いからだ。明治時代になって、東大の印度哲学あたりが、単なる理論的な構築でしかない原始仏教なるものを、ファンダメンタルな仏教と考えていく傾向があった。どこかに宗教の原初があり、そこに真理があるとう発想は極めて近代的なものだ。
 と、書いて、これでおしまい。日本の仏教の堕落は日本仏教とまったく同じだ。戒もなき仏教などあるわけもない。日本の僧侶は他国の仏教徒からは僧侶扱いされない。肉食妻帯がなぜ僧侶なんだ?
 日本の仏教の堕落は道元の時代でも同じだった。道元は千年先まで届く正法を日本に残した。あとはどこかに正師がいるかだ。日本のどっかに一人くらいいるんじゃないか。一人いたらいいのでないか。道元もそう考えていた。
 本当の仏法を継いでいく僧が日本にたった一人でもいるだけで、衆生の希望となるのだから。

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白川静は「と」だと思う

 白川静の漢字についての話は、膨大な「と」(「とんでもない」法螺話)だと思っている。こんなものをありがたがるの知識人がいるのも、なさけないことだなと思っている。が、そういう意見を見かけたことがない。ま、いいか。自分ではそれで決着が付いている。だが、どうも最近、天声人語など白川説を使ったエッセイのようなものをみかける機会が多く、不快というか、阿呆臭くてしかたない。誰かきちんと専門家が批判せーよと思うのだが、批判というのがあまり見あたらない。と、そんなことを思っていたら、面白い話をブログで見つけた。羊堂本舗(2004-02-06)「ここはひどいインターネットですね」(参照)である。そこから関連の話を読んだ。
 知らなかったのだが、2ちゃんねるで白川静が「と」じゃねーのということで話題になっていた。ふーんという感じだ。やっぱ、白川静は「と」だと思う人は少くないようだ。やっぱなと思う。対極で出てくる藤堂明保といえば、昔教育テレビで中国語を教えていたなとか思い出す。
 「みんなの味方大漢和辞典!!」という掲示板を読むとなかなか面白い(参照)。


名無しさん :2001/08/16(木) 23:13
>>45に関してですが、白川静は氏の文字学体系中において
具体的にいうと、たとえば「師」や「埠」に共通するつくりを
「賑肉」と見なしたり、「告」の「口」を人間の口ではなくて
「祝詞を入れる器」と分析したりしましたが、それはたしかに
「想像でしょ」といえばそれまでです。しかし、白川氏の
分析法が精確な甲骨文や金文に基づいていること、「説文」や
「単語家族」の呪縛から解き放たれたこと、この二点はひじょうに
重要でしょう。批判するならするで、かなりの論証が必要になる
ことも確かだし、また文字学のみを論って白川批判、というのでは
それこそ噴飯ものでしょう。文字学は地味~な学問ですし、非常に
むつかしい。体系だった学問を独りで打ち立てた白川氏はまあともかく
「すごい」わけです。そういう意味でも「偉大」なのでしょう。
ただ学閥至上主義によって、長い間白川氏は冷や飯を食わされていたこと、
これは事実です。

 ほぉ~という感じだ。「説文」の呪縛なんか、白川に限らず、ないんじゃないかと思うが、白川静の批判は「かなりの論証が必要になる」ものなのだろうか。

52 :名無しさん :2001/08/17(金) 11:35
>>50
いえいえ、深謝なさる必要はござんせん。
なぜ白川氏は「告」の口を「祝詞を入れる器」と見なしたか。
そこに白川氏の努力があるわけですね。
氏は甲骨文、金文を研究すること(トレースしながら)によって、
その微妙な筆画の相違に着目して、「人間の口」の場合と
「祝詞を入れる器」の場合とを峻別していったわけです。
つまり、「口」を描いた象形文字と、「祝詞を入れる器」
(あくまで白川氏の説ですが)を描いた象形文字とは微妙に
その形が異なっておるわけです。だからそれなりに説得力
もあり、藝術家や歴史学者、民俗学者、学閥主義から逃れた
中国文学者に受け容れられるようになったわけです。
しかも例えば「告」の場合、口を除いた部分を「牛」と解釈
せずに、木の枝(祝詞を括り付けるための)と見なしたわけです。
それもやはり根拠があって、牛の象形とは異なっておるんですね。
…とまあそんな感じなのですが、あなたの仰るとおり、
「何もかも呪術で解釈していいんだろうか」という問題はあります。
いくら古代中国の習俗より生まれたものが漢字だったとはいえ、
それが民俗学的呪術的な見地から全てを解釈すればそれでよい、
という蓋然性は恐らく「ある」とは言いきれないのではないかと。

しかし白川氏の強みはそれだけではないので、すなわち「音系」の
問題にも立ち入っていることなのですね。音系と文字体系、これを
分析しながら文字同士の音の相関関係も明らかにしました。
ですから、白川氏を批判するならそれでよいわけです。
しかし批判するならするで、恐ろしく巨大な文字体系を打ち立てない
限り、むつかしいのではないかなと、まあそう思うわけです。


 これも、ほぉ~である。
 私はなぜ白川静を「と」だと思ったか。ちょっと振り返ってみたい。そんなに難しい話ではない。まず、漢字であれ、それが言語なら言語を扱う原則に従わなくてはいけない。それは、言語とは「音」であって、漢字などは「表記(Writing System)」だということだ。だから、漢字の意味というのは、「音」に付属するのものである。そして、表記は音を写し取る性質を持つ
 しかし、漢字の語源を研究するときやっかいなのは、それが、言語の表記システムではなく、中国にありがちなのだが、呪術の符号になりがちだ。しかも、漢字の起源自体にそれが関わっていると見なすことはそれほど不思議ではない。その意味で、白川静がトラップしてしまったのは、しかたがない面がある。
 では、白川静はどこで間違ったか? 漢字を「言語の表記システム」と見ていない点だ。言語というのはソーシュールの言うラングである。ラングは音の体系だが、以上のように、表記の体系は音から写像されるものだ。正確な写像ではないし、そのパロールに相当するエクリチュールは、音声言語の持つパロールとは違う。しかし、そうした問題には今は立ち入らない。とりあえず、ラングだの、パロールだのエクリチュールといったそそる用語はどうでもいいと言えばどうでもいい。
 問題は、「言語の表記システム」であるということは、コミュニケーションのモデル、つまり、それが共通に理解できるコードである、ということだ。
 このあたりなにを言っているのか理解しにくいだろうと思う。補足しよう。
 漢字が呪術的な符号であるとき、それは、言語の表記システムではない、ということが重要だ。呪術符号なら、それは、謎の神秘的な概念を表すのであり、特定の呪術集団のなかでその理解のレベルが階層化される。例えば、その教団の師匠のみが「器」なる呪術の意味を体得しているが、平信徒にはその意味が卑近にしかわからない、といった感じだ。つまり、ここにはコミュニケーションのモデルがない。共通に理解できるコードにはなっていないのだ。
 漢字の起源にそのようなものが関係しているとしても、我々東洋人が継承している漢字について言えば、そんな呪術は無意味なのである。
 始皇帝は焚書坑儒をしたとして、非難されることが多いが、とんでもない。始皇帝は、この馬鹿馬鹿しい呪術なる「漢字」を廃棄させたのだ。同様のことは、音については「切韻」についていえる。あれは、古代の音価を反映していない。ただのコードだ。しかし、このコードから逆に中国語が形成される。同様に、漢字が形成される。
 少しまとめる。つまり、呪術的なレベルでの漢字の研究は、漢字が言語の表記システムであるという点から見れば、まったく無意味な作業なのだ。あるいは、その作業を行うなら、その呪術集団を特徴づけるしかなく、しかも、その呪術集団の単一性は保証すらされていないのだ。それが単一なら、始皇帝はその集団を規格化すればよかったことになる。
 漢字の研究は、それが、表記システムとして共通のコード化された状態をいわばラングのように、共時システムとして取り出し、そのモデルのなかで、まず音と意味のネットワークが考察されなくてはならない。端的に言えば、漢字の語源は、音に意味を与えなくてはいけない。
 さらに、漢字は表記システムとしては、つねに、リプレースしていく性質を持つ。つまり、より単純な代替文字や、より頻繁な文字に置き換わる性質がある。これは、おかしなことに現代日本でも行われているが、ある意味で、漢字という表記システムの持つ自然的な傾向なのだ。
 そうした点で、私が、妥当な漢字のリファレンスとしているのは、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)だ。この本の、その分野での妥当性を評価するほど私は漢字学に詳しくないが、以上のような言語学の原則がきちんと守られている。
cover
漢字字源辞典
 それと、山田勝美の師匠にあたると思われる加藤常賢「漢字の起源」(角川)もあるが、私が読み比べた範囲では、山田勝美のほうに個々の漢字の説明に妥当性を感じる。山田勝美のほうが方法論的に貫徹しているようにも思える。
 「漢字字源辞典」については、私は、この前の版「漢字の語源」(昭和51年初版)から使っていた。優れた著作だったのか、改訂されて、しかもまだ絶版になってなくて、よかったと思う。
 白川静「常用字解」を買いたいと思う人がいるなら、「漢字字源辞典」(山田勝美・進藤英幸)と比べてみて欲しい。私が始皇帝なら、白川静の辞書を焚書とするだろう。

【関連】
 ⇒極東ブログ: 漢字は表意文字という話
 ⇒極東ブログ: 漢字という虚構

追記その1(2004.2.11)

 闇黒日記平成十六年二月十一日(参照)に批判が掲載されていた。総じて批判点は当たってないように思う。というか、批判意識が先行して、私の論点は理解されていないように思う。が、読み比べて各人判断されるといいだろう。
 少しだけ例を(表記ママ)。


そもそも、同じ「階層」の人の間でも、言語の理解は異る、と言ふか、個人個人で理解のしか他派事なるものです。

というコメントは、ソーシュールのラングを本当に理解しているのかな、とちょっと疑問に思う。それはパロールの問題だろう。総じて、ラングとパロールの違いを理解されていない印象を受ける。
 次の指摘はタメっぽい。

西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問の原則を、そつくりそのまま表意文字である漢字の研究に適用せよと言ふのが無理なのですが。

 私が述べたのは、漢字の研究を言語の研究にするということ。また、「西歐のアルファベットをベースとしたソシュールのラングの學問」というのはユーモアと理解したい(アルファベットではなく音素記号。音素をたまたまアルファベットのような記号で表記するだけで、諸言語に適応できる)。

追記その2(2004.2.11)

 暗黒日記からのリファラが多く、もしかすると、言語学の基本的な概念を理解されていないかたもいるやもしれないと思い、長めの文を起こした。
 当初、ブログ本文中に記したが、無益な論争になるのを恐れる。暗黒日記の筆者も軽い気持ちで書かれた批判のようでもある。白川静が音を考慮していないわけでもないということなど、当方、知ってはいるが捨象している部分でもある。そうした指摘は尊重したい。また、極東ブログのこの見解は、欧米の言語学の基本原理のままだが、中国語学なり漢字の学では異端であるだろうとも思う。
 ま、ご関心あるかたは、参考にしてほしい。

暗黒日記の批判?を受けて参照

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G7、お楽しみはこれからかも

 G7が終わった。というわけで、社説はこれを書かねばならない。で、何を書くんだ? まぁ、原稿埋めるかというつぶやきが聞こえるような各紙の社説である。
 ところで、G7の成果はなにか? 日経新聞社説「G7は言葉より成果を出せ」と言うが、成果は市場が出す。お楽しみはこれから、かもね、である。ま、前回のようなことはなさそうだ。
 で、G7の声明はどうかというと、日経が言うように、どんな色が好き♪玉虫色が好き♪というお笑いである。


日本の関心が強かった当面の為替相場については、玉虫色の内容にとどまった。緩やかなドル安ならOKと考える米国。ドル一段安は市場介入で止めたい日本。ユーロの対ドルの上昇率が円に比べて高いことに不満を抱く欧州。声明はそれぞれに都合よく解釈できる内容になった。すれ違いは何ら解消されていない。

 というわけで、でもないが、声明に言及するのは無意味。朝日新聞社説「G7――もたれ合いは続くのか」はナンセンス。

 その意味で注目したいのは、G7声明の中に「健全な財政政策が国際的な経常収支不均衡への取り組みにおけるカギだ」との指摘が盛り込まれたことだ。米国の双子の赤字を意識したものである。

 無意味である。むしろ、次の指摘に意味がある。

 だが、ドル安の影響を一手に引き受けている欧州の不満は依然大きい。日本の大規模な介入にも限界がある。日本などアジア各国の政府が米国債を購入して米国の財政赤字を支えるのは、不健全なもたれあいともいえる。こうした危うい構図がいつまで続けられるかは心もとない。

 すでに極東ブログで触れてきたように、EUを潰せのチキンレースじゃないんだろうか。EUから金を引き上げたいというのが米国の思惑でもあるだろうし。
 といっている内に米国が崩壊したりして。なんかいまいち笑えないことが、現実というのは起きうる。

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今日の日本人の誇りは日露戦争にある

 標題を「馬鹿野郎、毎日新聞」としようかと思った。やめた。ブログもあんまり粗野に物が言える雰囲気でもない。それに、そこまで直情的になるのもどうかとも思う。しかし、その思いはあるな。毎日新聞社説「日露関係 『開戦100年』から『下田150年』へ」についてだ。
 詳しく書かないといけないし、私が書いても、特に新しい指摘などない。私は右翼じゃないが、日本国民の常識として、こんな社説は許せないという思う。そのあたりを、簡単に書く。
 毎日の出だしを引く。


 日露戦争から100年になる。(1904年2月8日開戦、10日宣戦布告)。最初の戦闘で攻撃を受けた巡洋艦「ワリャーグ」は仁川港内で自沈し、砲艦「コレーツ」も自爆した。100年後、ロシア太平洋艦隊に所属する同名の「ワリャーグ」「コレーツ」を含む3隻の艦船が10日、韓国親善訪問として仁川に入港する予定だ。日露戦争に対するロシアのこだわりが伝わってくる。

 そりゃこだわるだろう。ロシアが負けたからだ。それだけのことだ。負け面して、さらに原潜解体の費用に賄賂を乗せてせびるのが現代のロシアだ。ふざけんな。
 次の文で私は切れたね。

 日露戦争は世界史的意義を持った。10年後の第一次世界大戦に先立つ総力戦の様相を帯びたほか、列強の植民地となっていた国々の民族独立志向を刺激した。帝政ロシアでは第1次革命の引き金となり、社会主義革命につながった。日本においては、軍事大国ロシアに勝利したという慢心がその後の韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ。

 「民族独立志向を刺激した」じゃねーよ。そのおかげで、トルコで日本人は韓国人や中国人とは違うとして扱われる。そういう言い方もねーな、とは思うが、それは我々の祖先の誇りの利息を貰っているのだ。日露戦争に勝ったことは日本のためだけじゃない。
 たしかに「軍事大国ロシアに勝利したという慢心」はあったと思う。そして、それが日本の命運を迷わせたとも言えると思う。だが、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ」と言われると違うぜ、と言いたい。そんな短絡的なものじゃない。日本が単独で慢心とやらをいましめれば、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争」はなかったか。歴史のIFは無意味だが、なかったかもしれない、が、別の気持ちの悪いものがあっただろう。そして、日本たるかけらもない陰惨な姿だ。現代の日本に少し似ているという皮肉は言いたくはないが。

日露関係を概観した場合、日露戦争だけでなく、その前も後も不信と警戒の時代が長く続いた。シベリア出兵、シベリア抑留も両国関係における負の歴史だ。

 これも酷いこと言うよな。シベリア抑留を「両国関係における負の歴史」にするのか。執筆者の親族にはシベリアで殺された者はいないのか。
 あまり引用を多くするのはなんだが、「日露戦争から100年後の日露関係は、領土問題を除いてはおおむね良好である。」というのは、そりゃ、日本が舐められてねーからだよ。日露戦争に勝ったからだ。
 ロシア=ソ連は、8月9日のぎりぎりまで日本を恐れていた。条約を守っていたわけではない。父祖の誇りが抑えていたのだ。
 と、書きながら、これじゃ、ウヨか小林よしのり、じゃねーか、と苦笑する。でもなぁ、と思う。これじゃ、なぁと思う。
 ああ、むかつく。朝日新聞社説よりむごいもの見ると思わなかったぜ。

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2004.02.09

ニューカッスル病

 今日は新聞休刊日である。社説はない。ので、気になる話題を書く。鳥インフルエンザ関連だ。といっても、この問題は私はよくわからない。WHOが大騒ぎしすぎかとも思ったが、その対応は妥当なところだろう。極東ブログが扱うのは、「米国がアジアからの鳥の輸入を禁止した」というニュースである。
 逆ではない。このニュースが国内で報道されていたか気になったので少し調べたがなかったようだが、私の勘違いか(勘違いでした。追記を参照。国内では、日本が米国の鶏肉輸入を禁止したというニュースばかりだった。こちらは共同によればこうだ。


 米国デラウェア州で鳥インフルエンザが鶏に感染したことが確認されたとの報道を受け、農水省は7日夜、「念のための措置」(消費・安全局)として、米国からの鶏肉など家禽(かきん)肉すべての輸入を一時停止した。

 背景ついて同記事では、米国は、「タイ、中国、ブラジルに次ぐ輸入量第4位の鶏肉の輸入元」と補い、国内では、「総輸入量の10%に当たる年間約5万トン(2002年度)」と述べている。米国に注目すればそれほど大きな問題ではない。また、現状、タイ、中国を加算しても、20%ほどでもある。
 まして、米国がアジアからの鶏肉輸入を禁止したとしても日本にはなんの関係もないから、ニュースにもならんということではないか。おっと、ちょっと書き方におふざけがかった。申し訳ない。禁止したのは鶏肉だけはなく生きた鳥も含まれる。
 ソースはU.S. Bans Asian Birds to Prevent Flu Spread(参照)である。

05 February 2004

U.S. Bans Asian Birds to Prevent Flu Spread
Eight Asian nations affected by import prohibition

The United States is banning importation of birds from eight Asian nations in order to prevent the introduction of avian influenza into U.S. poultry flocks or the human population. The U.S. Department of Health and Human Services and the Department of Agriculture jointly announced the ban in a February 4 press release.


 英語は公的なアナウンスだけあって高校生レベルなので、訳は省略する。ようは、鳥インフルエンザを恐れて、アジアから米国へ生きた鳥と卵の輸入を禁止するというだけの、つまらんアナウンスである。しかも、この禁止は米国社会にほとんど影響しない。規模が小さすぎるからである。こうした背景はロイターがわかりやすい(参照)。

RIVERDALE, Md. (Reuters) - The U.S. Agriculture Department said on Wednesday it would temporarily ban imports of live birds, poultry products and hatching eggs from Asian countries affected with a deadly bird flu.

The temporary ban is largely a symbolic gesture and will have "little impact" on shipments because the United States already prohibits most poultry from Asia due to another ailment known as exotic Newcastle disease, said Jim Rogers, a spokesman for the USDA's Animal and Plant Health Inspection Service.


 後段のジム・ロジャーの発言部分だけ意訳しておこう。

 今回の一次措置はみせかけのポーズといったくらいなもので輸入への影響はわずかだ。というのも、米国はすでにアジアからの鶏肉輸入の大半をニューカッスル病を理由に禁止しているからだ。

 まどろこしい書き方をして申し訳ないが、問題はむしろ「ニューカッスル病(Newcastle disease)」である。そんな病気が懸念されるなら、日本はなぜ米国に似た措置をとっていないのか、ということも気になるはずだ。
 ニューカッスル病の問題はすでに韓国で話題になっている。昨年12月25日中央日報社説「忠北陰城で今度は『ニューキャッスル病』」が参考になる。

忠北陰城で今度は「ニューキャッスル病」
 鳥類インフルエンザにに続き、鶏や鴨に感染すると致死率が9割というニューキャッスル病が広がっている。
 忠清北道(チュンチョンブクド)が25日発表したところによると、今月23日から24日にかけ、陰城郡(ウムソングン)甘谷面丹坪里(カンゴックミョン・タンピョンリ)にある金(キム、56)某さんの養鶏場で、鶏3000羽が死んでおり、国立獣医科学検疫院に検査を依頼したところ、ニューキャッスル病の疑いがあるという1次報告を受けた。

 日本でも問題になるのでは……いえいえ、話題どころか、すでに日本でも発生している(参照)。むしろ、発生していないのは国際的に見て米国くらいのようだ(参照)。
 日本人庶民の感覚からすれば、じゃ、その病気は人間に感染するのか、であろう。これについては、ご心配なく、人間には感染しない。しかも、鳥にはワクチンが効く。
 じゃ、問題ない? そのあたりが、びみょーっていうやつではないだろうか。鳥インフルエンザ絡みの風評被害もおきやすいだろうから。
 ニューカッスル病についての正確な情報は、動物衛生研究所の「ニューカッスル病(Newcastle disease) 」(参照)を参照されたい。

追記
 国内でも報道されていた。
 鳥インフルエンザ、米国がアジアからの家きん類輸入を停止 (ロイター) - goo ニュース(参照

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2004.02.08

朝日新聞、ロシア大本営代理となる

 なんだか毎度朝日新聞をくさすのも芸のない話だなと思う。今朝の朝日新聞社説「日露戦争――『坂の上の雲』の先に」を読みながら、この馬鹿たれ、どうしたものか、と思ったものの、さすがに言葉につまった。阿呆臭くて話にもならない。ちょっと書いたけど破棄…、ま、いいか、というわけで以下。
 朝日新聞の社説は、今日が日露戦争開戦の日にあたることをきっかけに、昨今日露戦争を肯定的に評価しようとしているがそれはイカン、とブルのである。


 だが、歴史を未来に生かすには、そのできごとの全体を正確にとらえる必要がある。日露戦争は多面的で複雑な性格を持っていた。そうした見方が、最近の研究の成果をみても深まっている。
 たとえば、日露戦争が朝鮮や満州(現中国東北部)の支配をめぐる帝国主義戦争の性格を持つことは、定着した評価となっている。戦争で朝鮮の支配権を得た日本は、併合による植民地化へと進み、中国侵略へと行き着いた。こうした対外進出路線の火種となったロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。
 逆に、中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が、十分に確認されないまま日本の軍部から政府にあげられ、開戦論の有力な根拠となったことを示す研究が現れている。イラク戦争での大量破壊兵器の脅威を思わせるような話である。

 歴史の評価が多面的なのは当たり前のこと。こうした修辞は無意味。歴史の評価というのは、全体のバランスを取ることが大切だ。朝日はまるで基本がわかっていない。
 日露戦争は日本の帝国主義戦争の正確を持つという評価が定着している、というのは、基本的には正しい。が、それってあの時代を背景に入れれば、ほぼ無意味な評価でしかない。朝日はそれがイカンといいたいのだろうが、ちょっとあの時代の世界全体を見渡してみたらいい。
 異論があるのは知っているが、言っておくべきことだと思う。あの時代をテーマに「中国侵略」って無定義に「中国」っていうのを持ち出すなよな、ということ。「中国」とやらは、歴史の文脈において、清朝なのか、中華民国なのか? まさか、共産党じゃないだろ。清朝だとしたら、「中国」と呼称する場合の関係はどうなのか? 同じものだというなら、てめーらこそ未だに帝国主義者だぜ。台湾の国民党と同じ。大陸の共産党と同じ。モンゴルを分断し、チベットを支配し、ベトナムにもちょっかいだす。「中国」が中華民国だというなら、歴史の流れを見ても、満州は所属していない。孫文すらそう考えていた。
 「ロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。 」にいたっては、朝日新聞の大本営はロシアかよ、と思う。ロシアっていう国はいまだに帝国侵略で日本国土を侵略しつづけている国ということ忘れているなら、とほほだな。「黒竜江上の悲劇」は無視か。1900(明治33)年、ロシアは満州に侵入し、五千人もの清国人を虐殺した。ま、そのくらいなら脅威じゃないと朝日新聞がいうなら、それはそれで上等!
 そして、朝日新聞のネタである「中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が未確認」というのは、1903(明治36)年、ロシアが鴨緑江河口を占領して、要塞工事を始めたことを指すのか? それって「中朝国境」と言うかぁ? と、それ以前になぜそこにロシアがいるのか説明しろよ。
 最後に朝日新聞タレて曰わく。

 作家の徳冨蘆花は、日露戦争の勝利に浮かれ軍拡に走る日本を批判し、「戦勝はすなわち亡国の始(はじめ)とならん」と警告した。
 戦争の大義、実像、影響などを繰り返し問い、本質に迫る努力を続けて後世を誤らないようにする。それは、いまだに戦火が絶えない21世紀に生きる我々にとっても重要なことである。

 そうこく前に、おめーらの先輩たちが日露戦争後なにやっていたか調べてみるのが先決だぜ。「バイカル湖以東を割譲せよ」って新聞はがなり立てていた。国民をまどわし続け、冷静な外交の足をひっぱり、国民暴動を誘導するようなことをやっていたのが、まさに新聞なのだ。
 とはいえ、徳冨蘆花かよ。気骨をもって幸徳秋水を出せよ。そこまできちんとサヨクの筋を通してみい。

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一次産品高騰、で?

 今朝は日経新聞社説「世界経済の構造変化映す一次産品高騰」が気になった。率直に言ってよくわからないのである。だからなんなの?という感じだ。事態は標題どおりだ。


 原油、石炭、鉄鉱石、金、大豆、綿花など世界の一次産品の市況が昨年から高騰している。代表的な指標であるCRB先物指数は年初に266まで上昇、現在も260前後で高止まりしている。2年足らずで40%近く上昇した計算だ。
 原油価格は昨年春のイラク戦争後下落するとみられていたが、米WTI原油が1バレル=30ドル台半ばで高止まりしている。石炭は発電用の一般炭のスポット価格が1トンあたり40ドル前後と昨春に比べ、70%近く値上がりした。

 で? みたいな感じがする。日経によれば、その原因は中国なのだそうだ。

 一次産品の全面的な値上がりの背景には第一に経済成長に伴う中国の需要爆発がある。中国の昨年の原油輸入量は前年比31.2%増の9110万トンと過去最大となった。中国はすでに2002年に石油消費量で日本を抜いて米に次ぐ世界第2位となったが、原油輸入量も急速に日本に追いつきつつある。一般家庭の電力需要の増加、「世界の工場」としての産業用エネルギー需要の伸びもあって、エネルギーの輸入急増が起きている。

 これも、ふーんという感じだけだ。数字に間違いはないだろう。読んでいてなんか、腑に落ちないなと思うと、途中でこうある。ちんたらした引用で申し訳ないが、問題は、この「とらえどころのなさ」なのである。

 ただ、過去の石油危機などと違って、今回の一次産品市況の高騰局面では世界的に目立った形でインフレ傾向が出ていないことに特徴がある。原料コストが上昇しても製品価格が上昇しにくい構造が世界経済に生まれているからだ。

 でしょ。で、終わり、じゃないのか。何が問題なのだ?
 引用がもううざったいので、簡略にするが、とりあえず問題は、一次産品に依存する産業分野がもたないから、価格に反映すべきではないか、ということか。反映すりゃいいじゃん。
 それと、その問題についての中国の影響はどんなものだろうか、よくわからなかった。
 まどろっこしい話になったのは、私はこの日経の話は基本的に法螺ではないかと思うからだ。だが、うまく説明できない。私は素人、日経の執筆者は玄人のはずである。少なくとも何が問題なのか、それをえぐり出すように玄人は書くべきではないのか、とは思う。
 それとも、この世界の変化はたんに変化というだけのことではないか。いずれにせよ、現状、債券相場は落ち着いている。というか、一次産品の問題は、投機の思い込みには影響しても、単純な影響はないということだろう。
 一次産品に依存する産業の製品の価格が上げられないのは、マーケットの力のほうが強いとからだろう。そのマーケットとはなにか? 単にデフレということか。もっと簡単な話、この問題は、中国がクローズアップされるが、世界的には、先進国と途上国の労働格差のなかで、実質的な解消に向かっている、というだけのことではないだろうか。
 もちろん、今後の中国の一次産品輸入は増える一方だろう。むしろ、中国にマーケットが機能しないかもしれない、あるいは、中国が世界市場に統合できないかもしれない、ということが危機の可能性ではないか。

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2004.02.07

人の狂牛病、血液感染の可能性

 ランセット(The Lancet February 7, 2004)の最新ニュースだが、通称、人の狂牛病(the human form of mad cow disease)こと新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)が血液感染する可能性が高くなったとみていいようだ(参照)。


vCJD transmission Two studies published this week highlight the public-health implications of blood transfusion as a possible route for infection by the prion protein responsible for variant Creutzfeldt-Jakob disease (vCJD).

 難しい英文でもないので、訳は不要だろう。研究は次の二点だ。いちおう参考までに同サイトの研究者名だけ記しておくが、未登録ではオンラインでは読めない。

  1. C A Llewelyn and colleagues
  2. C Herzog and colleagues

 血液感染の可能性は以前から指摘されていた。少し古いが、"British Medical Journal: Scientists show that vCJD can be transmitted through blood."がある(参照)。
 最近では、同じくBMJが次の警告を出している。"Action needed to prevent spread of vCJD"(参照)。
 説明の順序がよくないのは承知の上だが、あまり危機感を煽ってもいけないのでどの程度書くべき、訳すべきか、戸惑う。
 少しぐぐってみると、最近のNew York Timesの邦訳があった。「血液経由で狂牛病に感染の疑い 1.27.2004:New York Times/ニューヨークタイムズ」(参照)、読みやすいといえば読みやすい。
 日本では、米国産の牛=狂牛病の危険、というだけの、阿呆な風潮になってきたが、とうの問題の重要な防御ラインは、そこではない、ように思える。この件については、Recipients of blood or blood products "at vCJD risk"(bmj.com Bird 328 (7432): 118)を参照のこと。
 と言ったものの、あまり露骨に書けない。この問題を論じたサイトは国内にあるのだろうか?

追記1
国内でもニュースになったようだ。男性の輸血感染の高いケースを報告。ついでに、e-血液.comというWebページを見つけた。このページについてはあえてコメントしない。

追記2
龍蛇蟄さんからのインフォ。以下のサイトはこの問題にとても重要だと思う。
http://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/bsecjd.html
と、リンクをはることの危険性もあるが、以下のことはもっと知られていいだろう。


全頭検査の成果は純然たる学問的趣味:全頭検査により,肉骨粉使用禁止以後に生まれた生後2年未満の牛に非定型的BSEが発見されたことは,純粋に学問的な意味しかない.それは,BSEの起源に関わる問題である.肉骨粉を食べていない非常に若い牛にBSEが見つかったということは,肉骨粉とは関係なく,ごくまれながら,牛固有にプリオン病が自然発症することを示している.

 極東ブログの狂牛病関連の記事を経時的にまとめたいが、めんどくさい。

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北朝鮮核技術流出の問題

 よく書けているとは思わないが、このテーマを社説に選んだ毎日新聞を高く評価したい。社説「核兵器技術流出 これで全容解明と言えるか」は、れいの北朝鮮核技術流出の問題だ。


 パキスタンの核技術漏えい事件でムシャラフ大統領は5日、「核開発の父」とされるアブドル・カディル・カーン博士らの「個人の犯行」と断定した上で、博士を赦免する方針を発表した。
 カーン博士は4日、国営テレビで全責任を認めて謝罪した。博士以外に技術者ら11人が拘束され、十数年にわたりイラン、リビア、北朝鮮にウラン濃縮や核兵器の製法・技術を流していたという。

 これで朝日新聞のほっかむりも息をつくのだが、この毎日新社説の標題にあるように、こんなのは全容解明にはほど遠い。

 北朝鮮への密輸には専用機が使用されたとの情報もある。ムシャラフ大統領や歴代政権・軍部は本当に一切知らなかったのか。漏えい先が3カ国だけで、他には流れていないのか。闇の密売組織もまだ全容が解明されていない。パキスタンの今後の対応を世界が注視しているのは当然のことだ。

 北朝鮮が国家的に深く関与していたと見ていいだろう。問題を進める。では、全容解明すべきか? 馬鹿なことを訊くんじゃないみたいだが、問うてみたいのは、すでにそれって米国が解明を終えているのではないか、と思うからだ。
 パキスタンの情勢も気になる。

 ムシャラフ氏自身が昨年末、二度もテロで命を狙われた。カーン博士らをどう処罰するかによっては、国内の民族主義感情に危険な火を注ぐ恐れもある。米政府はムシャラフ政権の取り組みを評価しつつ、核の安全管理に最大の配慮を示さざるを得なかった。

 この書き方はわかりづらい。背景に先日のテロはマッチポンプだろうという共通の理解があるからだ。もちろん、ムシャラフには敵は多いだろう。匿っている例の御大だっているはずだ。そうした背景で、米国がムシャラフをバックアップしているということは、今回のカーンの措置は、むしろ米政府の意向だろう。
 北朝鮮ゲームの強いカードが米国に回ったし、それも中国に通じている。日本の上をテポドンのように情報が通過していくだけだ。
 しかし、日本になにができる? 今回の事態解明は結局米政府を敵に回すことなりかねない。が、本来ならやるべきだ。それでも、毎日新聞のような大衆受けの正義の文脈で全容解明といっても、あまり意味はないのかもしれない。

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朝日新聞の台湾観、もろ脱力

 朝日新聞社説「台湾総統選――『両岸関係』を凝視する」は、またしてもやってるなという感じだが、脱力したな。書いている本人も多少はわかっているのだろうなとは思う。絶妙なところで端的な歴史認識の誤りを避けている。執筆者は専門家の朱注を反映したのか。それにしても、以下のような文章には溜息が出てしまう。


 国民党の独裁が続いた台湾で、野党が公認されたのはわずか15年前のことだ。

 そりゃ間違いはないよ。ただ、歴史を知る人間はこう言うか。「台湾」が時事上自明になったからこう言えるのだということが、この執筆者にわかっているのだろうか。だが、正確に言えば、未だに表向きは「台湾」というものは存在しない。
 次のような朝日新聞の言いかたは、脱力しつつ、ふざけんなよ、と思う。

 台湾には、内戦に敗れた国民党とともに大陸から来て大陸とのきずなを尊ぶ外省人と、それ以前から住んでいた本省人がいる。両者の対立はなお残るが、いまや台湾生まれが人口の大半を占め、「台湾人」という意識が強まっている。

 なにこいているやら。さて、この文章から高校生は「両者の対立」をどう読み取る? 正解は何も読み取っていけないこと。事実が隠されているからだ。
 事実とは、1947年に起きた台湾の二・二八事件だ。余談だが、戦後史で隠蔽していはいけない事件にはもう一つ、韓国の済州島四・三事件がある。
 二・二八事件について、ちとぐぐったが、意外にプレーンな解説がない。この手の話題は「はてな」のキーワードにもないだろう。と調べるとない。映画関連もないようだ。晒しの意図はないが、ある台湾旅行記らしい記事「7月28日(土) ... これが台湾だったのか…」(参照)が面白かった。

二二八?
 予備校街を抜けてしばらく南下をつづけると、二二八公園に行き着く。二二八というのは台湾の何か歴史的な日付けなんだろうが、今回の旅行は全くの準備不足であっため詳細はわからず。ギリシア風の建物(国立博物館)や中国風の建物が建っている緑の多い美しい公園だ。整備も行き届いている。ただ、この日は雲一つない晴天で、暑かった。木はあるのだけれど、涼し気な木陰は見当たらなかったな。

 ま、それもいいのかもしれない。ただ、その上に今日の朝日新聞社説がのっかる日本っていうのは困ったものだと思う。ついでにこんなのも見つけた。ネットの世界とは不思議なものだ。「台北旅行2日目」(参照)である。

省立博物館と二二八和平公園
省立博物館はギリシャ風で、かつての植民地政府すなわち日本が建てたものである。一方、二二八和平公園の「二二八」とは、戦争が終わりせっかく帝国主義日本から開放されたと思った台湾人(本省人)が、今度は蒋介石の政府(外省人)の手により大弾圧を受けた有名な事件を指している。なぜこの名前が市の中枢部の公園の名前になったのだろう。とにかく、これだけでも台湾の複雑な事情が伺える。

 批判ではない。批判されても困るだろう。が、こういう教育を受けてしまう日本人はちと困るなとは思う。「帝国主義日本から開放されたと思った台湾人」はあの日、惨事の前にどんな唄を歌って凱旋していたか、もはや語られないのだろう。♪天に代わりて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は…右翼・戦争賛美の歌ということなのだろうから。
cover
わが青春の台湾
わが青春の香港
 ついでに中華民国公式サイトに「二二八事件五十四周年記念式典開催」(参照)があった。当然と言えば当然だが。ついでだが「なぜ今、『台湾青年』をやめるのか?」(参照)には泣けるものがあるな。こう言ってはなんだが、みんな歳をとったのだ。
 この時代が日本にどう関わっているか、邱永漢の最高作「わが青春の台湾 わが青春の香港」を薦めたいが、絶版らしい。今となっては中央公論で出したのが不運だっか。しかし、他の選択もなかっただろう(参照)。こういう本を刷らないでなにが出版社だと思う。

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2004.02.06

死者たちよ、正月である

 干刈あがたがまだ作家として世に出ていないころに自費出版した「島唄」に、こういう唄がある。


後生じ札渡ち
戻らんでとしやしが
後生のあんだ王が
戻しならむ

cover
樹下の家族/島唄
  島唄といっても、沖縄ではない。奄美だ。彼女が現地で採集した唄だ。
 はてなのキーワードに干刈あがた(参照)が掲載されているのはいいが、奄美についての言及がない。ちょっと情けないなと思う。自分で追記しておくべきか。どう追記しようか、少し悩む。干刈あがたについては、干刈あがた資料館(参照)が詳しい。彼女の文学がこうして生き続けていることが不思議なような、それでいてあたりまえのような気がする。彼女に芥川賞が授与されなかっのは、芥川賞がくだらないからに他ならない。
 干刈あがた資料館の年譜を見る。1943年(昭和18年)0歳にこうある。

1月25日、父柳納富(明37生・青梅警察署勤務・警部補)、母アイ(明45生)の長女として東京府西多摩郡青梅町勝沼(現青梅市東青梅1丁目)に生まれた。本名和枝。長兄茂樹(昭14生)・次兄哲夫(昭15生、幼児の頃病死)・妹伸枝(昭22生)。
両親は鹿児島県沖永良部島和泊町の出身。

 両親が奄美の人だ。この青梅時代のようすは「真ん中迷子」に詳しい。私と彼女では歳が15年近く違うが、そこに描かれている立川の雰囲気は思い出せる。
 「島唄」には、昭和28年、彼女が10歳の12月25日に、奄美が本土復帰したときの光景も描かれている。大森海岸近くの会場で沖永良部島出身の人たちが集まりあでやかに復帰の祝いをした。「いったいあの貧しげな人々が、どこからあんなに美しい衣装や楽器を次々に持ち出してくるのかが、不思議でたまらなかった」と彼女は書く。ある意味、そこで奄美に強く出会ったのだと言っていいだろう。
 年表によれば、1975年(昭和50年)彼女が32歳とき、「島尾敏雄の呼び掛けでつくられた『奄美郷土研究会』の会員になった。奄美・沖永良部の島唄に惹かれ、島唄を採集し始めた」とある。彼女にとって、島の言葉はどう響いていただろう。初めて奄美に行ったのは20歳。その後、34歳で再訪するとき、言葉の消失を感じている。
 彼女にどのくらい島の言葉は息づいていただろうか。私は東京で生まれ東京育ちだが、生まれてから毎年盆暮れ、親の帰省で長野県に行った。その言葉の深い響きは私の存在の芯にある。沖縄で8年暮らしたが、芯には届かなかった。

後生じ札渡ち
戻らんでとしやしが
後生のあんだ王が
戻しならむ

 干刈あがたはこうルビを振っている。

ぐしょじさつわたち
むどらんでとしやしが
ぐしょのあんだおうが
むどしならむ

 彼女の訳はこうだ。

冥土で金渡し
帰ろうとしたが
冥土のあんだ王(えんま大王)が
帰してくれぬ

 意味は間違っていない。しかし、こう訳すことで大きなものが抜け落ちてしまう。そこを干刈あがたはどう考えていたことだろう。
 「札渡ち」の札は、紙銭である。中華世界に馴染み深いものだ。沖縄の「かびじん」である。かびじんはスーパーマーケットでも売っている。どんなものか見たければ、スーパーの店員に「かびじんはありますか」と聞けばいい。300円もしない。死者のために燃やす。死者はこれを受け取って、「札渡ち」となるのである。
 「後生」は沖縄でいう「ぐそー」である。表記は沖縄でも「後生」とされることが多い。音から考えると「後生」かもしれないし、本土の「後生」が伝搬したのかもしれないが、意味的には「世」が近いと思われる。「世」、つまり「ゆ」は、英語のregimeに近い意味がある。そこは、あんだ王の統治なのである。
 今日は、旧暦の1月16日。グソーの正月である(参照)。沖縄では「16日祭」「ジュールクニチー」とも言う。奄美では先祖正月とも言う。あの世の死者たちのための正月である。 今日、沖縄の各地では、酒と重箱を携え親族(門中)が墓を訪れ、後生正月(グソーショーガチ)を祝う。
 後生正月は中華圏では旧暦15日のランタンフェスティバル(花燈會)になる。籠燈(花燈)、つまり提灯を飾り、それ熱気球のように空に舞い上がらせる。このランタンフェスティバルを春節と勘違いする馬鹿者も多いが、さっさと今生に別れを告げたいのだろうか。
 干刈あがたが収集した先の唄は、グソーショーガチの唄だと私は思う。札を渡すこともだし、これが会合で歌われたものだろうということもだが、もう一つ符丁がある。あんだ王だ。
 「あんだ王」は干刈が解しているように閻魔大王だろう。「あんだ」は「えんま」の音変化だろうとは思うが、「あんだ」とだけ聞くと、ウチナーグチでは「てぃーあんだ」「あんだぐち」を連想させる。多分、違うのだろうが。
 本土の人間でも知らない人が多くなったし、しかたがないとはいえ、恥ずかしい勘違いも多くなったのだが、旧暦の1月16日は初閻魔(はつえんま)である。薮入りと言った方が通りがいいかもしれない。本土では旧暦が、戦後のGHQと社会党政権下のなごりか、撤廃されたため、新暦の1月16日に初閻魔(藪入り)ということになっている。「恥ずかしい勘違い」とはそういうことだ。
 本土でも正月と七月の16日閻魔堂に参る。閻魔参り、閻魔詣とも言う。大辞林を引くと、「俗にこの日は閻魔の斎日といわれ、地獄の釜のふたがあいて、亡者も責め苦を免れるという」とある(広辞苑もほぼ同じ)が、死者たちの正月だからであろうか、正月と解したのはウチナーンチュであろうか。藪入りについても、平凡社のマイペディアを見ると、使用は「元禄のころからで、もとは単なる休み日というだけでなく、大切な先祖祭の日で、他郷に出た者、嫁にいった娘などが実家に帰る日であったと思われる。」と呑気なことを書いている。日本の歴史を知るのには、沖縄や中華圏のことも知らなくてはいけないのに。
 さて、かく考えるに、この島唄は今日の日のものだろう。死者たちも、現世に帰りたいのだが、帰ることができないというのだ。
 干刈はこの後にもう一点、後生の唄を収録している。

後生の里主や ( ぐしょのさとぬしや )
如何る里主や ( いきゃるさとぬしや )
我が愛し子 ( あがかなしぐわ )
戻しならむ ( むどしならむ )

 彼女の訳はこうだ。

冥土の里主よ
どんな里主よ
私のいとし子
返してくれぬ

 干刈が先の唄と同じコーダ部分の「戻しならむ」を訳し分けている点に注意したい。後生(グソー)については先と同じだ。今度は、幼い子を失った母側の思いで切ない。「愛し」を「かなし」と読ませるのは、万葉集に馴染んだ人には不思議でもないだろう。

多摩川にさらす手づくり
さらさらに
何ぞこの子のここだ愛しき


父母を見れば貴し
妻子見ればめぐし愛し
世間はかくぞことわり…

 沖縄ではウチナーグチでは今でも使っている言葉だ。というか、民謡に多い。「かなさんどー(愛さんどー)」である。「みーあもーれ」である。
 愛がなぜ本土で切ないの意味になるかは古典の先生たちはきちんと教えているのだろうか。まあ、いい。「愛し」は室町時代ころまで本土では生きている。
 愛し(愛しゃる)と奄美と言えば、先頃結婚した元ちとせのラブソング「サンゴ十五夜」が連想される。この唄では「拝むいぶしゃた」が耳に残る。干刈の島唄にもこのフレーズは出てくる。現代の沖縄では聞かない言い回しだが。

アメリカ世暮らち ( あめりかゆくらち )
御頑丈見せる ( うがんじゅみせる )
御年寄ぬ姿 ( うとしゅいぬしがた )
拝みぶしや ( うがみぶしや )

 彼女の訳はこうだ。

アメリカ統治時代を経て
なお身心の毅然とした
お年寄りの姿
尊いことです

 沖縄なら、「うちなんかおじぃ、しにガンジューやっさ」である(ここで笑)。「拝みぶしや」は「尊い」でもあるだろうが、元ちとせの唄のように、「お目にかかりたい」という含みがあるのだろうなと思う。そして、私は亡き干刈にそう思う。

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北朝鮮への核技術流出がバックレで済むかよ

 些細なことと言えば些細なことだが、あれ?と思ったことがあるので、書く。極東ブログは主に主要新聞紙社説をネタにしている、と。ま、そういうことでいいかぁであるが、社説評論をしているわけでもないで、網羅的ではない。というか、それじゃつまらな過ぎ。だが、それでも、私は全部ブリーフしている。えばっているわけじゃない。社説なんてものは、さらっと読めるものだ。日本の場合、クオリティ・ペイパーズがないのだから、所詮、大衆が理解できるものでなくてはいけない。読みづらいものであってはいけない。
 前置きはそこまでで、あれ?というのは、朝日新聞社説って、パキスタンから北朝鮮への核技術流出についてなにか触れていたっけ。明日、触れるのか? エリック・カール「だんまりコオロギ(The Very Quiet Cricket)」みたいな話か。と、いうのは、今朝の日経新聞社説「背筋が凍る核技術の流出」でふと思ったのだ。こちらをまず引く。ちと長いが、重要な問題提起ではある。


 パキスタンの「核開発の父」と呼ばれるアブドルカディル・カーン博士が北朝鮮やイラン、リビアにウラン濃縮など核技術を供与していたことを認め、全面的に謝罪した。以前から国際社会はパキスタンに核技術流出の疑いを持っていたが、今回のカーン博士の告白によって事実だったことが判明した。
 背筋が凍る出来事と言わざるを得ない。パキスタンは事実をさらに詳しく調査し、どの程度の技術が、どこに、どういう形で流れたのかを公表すべきだ。カーン博士はムシャラフ同国大統領に事実を伝え、寛大な措置を求めたとされる。あくまで個人的な行為としているわけだが、本当に情報機関などパキスタン政府の関与がなかったのか、我々は疑いを消すことができない。第三者で構成する国際的な委員会などで本格的に調査すべきではないか。

 常識的に言って、個人行為のわけはない。そして、日経はこう書きながら、いまいち「北朝鮮」というキーワードを避けている。しかし、問題は、つまり、北朝鮮だろ。
 で、あれ、ここまでわかってきて、朝日新聞はどうばっくれていたっけと思ったのだ。と、読み返してみるに、4日の社説「6者協議――さあ核放棄の道筋を」で触れていた。

 北朝鮮は寧辺でのプルトニウム型核開発を自ら認めているが、米国から指摘されたウラン濃縮問題については否定している。核技術流出の疑惑に包まれていたパキスタンの核専門家が北朝鮮への濃縮技術提供を語ったと伝えられる。この問題もいずれ6者協議で究明する必要があるだろう。

 これだけ。しかも、毎度の啓蒙韜晦文にくるんでいる。端から、この核技術流出問題は専門家という個人にして、しかも、「と伝えられる」だとよ。
 つまり、これって、北朝鮮ひでーじゃん、というのを、さっと、六カ国協議に持って行けというわけだ。
 違うんじゃないか。核兵器廃絶運動だか、単に反核だか、しらないけど、パキスタン大使館前で広義でもやれよ、それから、北朝鮮の代理人組織の前でも、と思う。反核って、そうことじゃないのか。
 あー、サヨクって嫌だ。

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米国経済が強いのワケがあるのではいか

 現代はどうか知らないが、一昔前は高校の文化祭には前夜祭というのがあった。なんか、祭りだぞという雰囲気を味わうのである。今朝の各紙朝刊を見ると、G7を前にしてそんな浮かれ気分だけが漂ってくる。日経新聞社説「ドル不安を避けるG7の協調を」より。

 7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議が今週末に米フロリダ州で開かれる。世界経済は着実に回復しつつあり、失速の懸念は薄まった。ただ、その一方で対外収支の不均衡が拡大しており、為替市場などでは不安ムードもただよう。参加各国が市場の不安から目をそらさず、それにどれだけ真剣に応えた会議にできるかが試される。

 なにが「真剣に応えた会議」なのやらである。G7の見ものは、米国さん、天に代わってお仕置きよ、である。米国内政で「双子の赤字」を減らすようにし、ドル安を食い止めよである。
 そんなの米国は聞く耳持たないっていうか、問題は、むしろ、EUのスラップスティックと、国際犯罪的な日本の円介入による米国債買いまくりをなんとかせい、なのではないか。だが、日欧としても、そう言われてもなぁである。ちょっと照れるよね、という程度だ。結局、ふざけたお祭りになるのだろうなと、思う。
 三者睨みあってのチキンレースだ。誰が転けるか。意外に日本は打たれ強いし、米国は単純に強いから、EUあたりからヘタるんじゃないかと思う。
 毎回経済面で面白いネタを投げてくる毎日新聞だが、期待に応えてくれる。「フロリダG7 米の財政赤字に取り組め」より。

 米国は「強いドル政策の堅持」という建前を繰り返しつつも、「柔軟な為替相場の維持」を強調している。日本や中国のドル買い介入へのけん制である。
 為替相場の人為的な操作の疑いすら持たれかねない日本の巨額の市場介入に問題があることは、言うまでもない。日本は1月だけで単月としては過去最高の7兆円を超える円売り・ドル買いの介入を行った。それにもかかわらず、円相場は上昇基調にある。日本の通貨当局が円高阻止の決意を強くすればするほど、投機筋は円買い安心感を強めている。
 この限りでは、米国の主張は正しい。日本はG7で円売り・ドル買い介入を「経済のファンダメンタルズ(基礎的諸条件)からかけ離れた相場の行き過ぎ是正のため」として、理解を求めるが、方法論として間違えている。

 このところの毎日の動向を見ていると、そう来ると思っていたぜである。が、私としても、基本的にこの構図は現状認識としてはは間違っていないのではないかと思う。ただ、この先の毎日の筆法はようするに、米国にお仕置き!ってなつっぱしりなんで、勝手にやっていろよである。産経新聞社説「G7 ドル安是正で協調作りを」のオチは地味なトーンを出していて心が和む。

 企業の側もG7に過度の期待をすることなく、為替変動に負けない体質、体力づくりに一層励むべきである。

 G7には期待はできないよである。そうだよね。ところで、「為替変動に負けない体質、体力づくり」って何だ。わからん。ここでお茶を一服という感じだ。
 少し話の向きを変える。経済学者、エコノミスト、こぞって、米国は危機をはらんでいるぞという雰囲気なのだが、そうなのか。私はピンとこない。日本が金を貢いでいるからもってるんじゃんか、というのも、いかにもなのだが、それでも米国の芯の強さがあるんじゃないかと考えるべきではないのか。と、やると、お笑いの、懐かしのニューエコノミー論みたいなるが、ちと、気になることがある。米国の住宅バブルだ。
 世界最大規模のノンバンク、ファニー・メイ(連邦住宅抵当金庫:Funny May じゃないFannie Mae Fact Sheet)のCEOフランクリン・D・レインズのプレス記事がちと古いが朝日のサイトにある。「ファニー・メイ、CEO訪日を機にプレス・ブリーフィング」(2003.11.21)(参照)。ここでこう言っている。ちと長いが重要だと思うので引く。

 住宅バブルを生み出すことは困難です。米国の住宅市場は、証券市場や商品市場において見られた価格の<ブーム崩壊>循環を示したことはこれまで一度もありません。実際、大恐慌以来、住宅価格が全米ベースで下落したことはなく、そして当然ながら崩壊したこともありません。住宅価格は一部の地域において時折激しく変動することはあるものの、その場合は価格投機ではなく主としてその地域の経済の変動が激しいことに起因しています。全米レベルでは、FRBのアラン・グリーンスパン会長は、住宅業界においてバブルを生み出すことは困難である、と指摘しています。彼は「株式市場のバブルからの類推は明らかに不適切」と述べ、取引の費用と過程がバブルにつながるような類の投機的な住宅需要を阻止している、と指摘しています。

 そ、そうなのか? グリーンスパンの威光はもはやお笑いレベルだが、米国の場合、日本のように銀行経営が不動産担保だけで、おまえさんたち本当に銀行業務しているの?みたいな歴史はない。この応答は基本的に正しいのではないか。
 何が住宅バブル、もとい、住宅好景気をもたらしているのか? また、それは米国経済好調の派生なのか、根幹要因の一つなのか。おーい、エコにミスト、なんとか言えというか、どこかで言っているのか。
 私が思うのは、単純なことだ。家というのは、人が住むものである。人が住むというのは、ちょっと嘘くさい比喩だが、人の流動性、が、高いということだ。一義的には、移民の問題があるだろうと思う。もう一つは、現状、日本人の良心あるエリートさんたちは貧困階層をどうすべ、と、悩むのだが、実は、米国の貧困層というのは、移民を米国に吸収するための装置なのではないか。森永卓郎のお笑いではないが、低所得で生きていたってなんにも悪いことはない。むしろ、米国の低所得というのは国際的には相対的な貧困でしかない(というには、ちと酷すぎるものがあるのは知っているが)。
 ま、つまり、そういうことなんじゃないか。そういうこと、っていうのは、米国は、まだまだ、若い国家、ということ。それに比べて…である。

追記 米国住宅景気の件
svnseedsさんからコメントは、恐らく以上の私の愚考に勝っていると思われるので、強調の意味で追記しておきたい。私自身は、このブログについて述べた考えが間違いだとは思っていないが、svnseedsさんの見解のほうが有力であるとは思う。


米国では住宅の需要はモーゲージ金利ときれいに反比例の形になってます。で、今は歴史的な低金利なのでモーゲージ金利も歴史的な低さとなっています。なので住宅需要が強い。それだけの話です。
また家計は、モーゲージ金利が下がるとrefinanceして、余ったお金でどうするかというと前倒し返済でも貯蓄でもなく、消費します。これが個人消費が堅調だった理由です。
ということで米国経済の強さのひとつに、家計行動(住宅投資にせよ消費にせよ)が金利に非常に敏感だ、ということが挙げられると思います。

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2004.02.05

幹細胞技術とか、産経新聞の恥とか

 社説関連で散漫な余談を書く。
 まず、人間の倫理に関連して。毎日新社説「着床前診断 このルール違反は許されない」に変な感じがした。問題は着床前診断についてだ。着床前診断とはこうだ。


 女性の体から卵子を取り出し、体外で受精させる。受精卵が4~8細胞に分割したところで、1細胞を取り出し分析する。異常がないとわかった場合に、残りの細胞を子宮に戻し、妊娠・出産する。

 で、それは生まれてくる人間を選別しかねない重要な問題だ。で、結論を先に言うと、その重要な問題を私たちの社会はどう考えるかは、ちょっとわかんねーである。毎日新聞はここをかっとばして、業界団体が正しいとする。いわく。

 だからこそ、国内では日本産科婦人科学会がルールを定め、一定の歯止めをかけてきた。
 にもかかわらず、神戸市の産婦人科の医師がルールを無視し、3組の夫婦を対象に独断で実施していたことがわかった。

 それが問題だというのである。するっと読むとなんて許せない悪徳医師みたいだが、この手の問題は、ちょっと辟易としてしまう。というのは、諏訪マタニティークリニック」根津八紘院長の提起で内実をよく知るようになったからだ。ただ、与那原恵などライターがこれまでこうした問題にちょっと首を突っ込むのだが、いま一つ真実感がない。根津八紘にくらいつくジャーナリスト魂がないのだろう。ちなみに、「八紘」は「やひろ」と読む。ちょっと解説したい気がするが、しない。
 関連して幹細胞技術(参照)なのだが、これもなんだかわからない。もちろん、個々のニュースはある。というか、うんざりある(参照)。だが、米国のような議論は見かけない。というか、議論があるのはわかるが、どうもピンと来ない。文化的に生命への畏敬感が違うのだろうか。たしか、韓国では幹細胞技術でハゲの治療をといったニュースを最近見かけた。そこまでして毛生やしたいか。
 話は変わって、これも雑談だが、産経新聞社説「交ぜ書き 廃止求める提案に賛成だ」はなんか吹いてしまった。

 例えば、小学四年の国語教科書は「階段」を「階だん」、「骨折」を「こっ折」と表記している。「段」や「骨」は六年生で学ぶことになっているからだ。また、六年の教科書では、「援助」が「えん助」、「図鑑」が「図かん」となっている。「援」や「鑑」が教育漢字にないためだ。
 あまりにも杓子(しゃくし)定規で、愚かしい表記法である。これでは、古典や擬古文だけでなく、夏目漱石や森鴎外など明治を代表する作家の作品すら読めなくなってしまう。書くことが難しい漢字であっても、まず、それにルビをふって読ませる指導が必要であろう。

 なんかなぁ、である。この手の議論を書いていて、「森鴎外」である。まずいよなとは思わないのだろうか。

 漢字を正しく覚えるためには、子供のころから読書の習慣をつけ、小学校の早い段階で古典に触れさせることが大切である。

 先ず隗より始めよ。

追記1
「オチがわかんない人がいるかもよ」と言われた。そうか? ところでこれ見える? 
追記2
産経新聞ネタだが、「問題は『森鴎外』だけじゃないだろ」との声を聞く(どっから?)。えっとですね、それは極東ブログとしては、固有名詞と普通名詞の問題、だから。「池沢夏樹」か「池澤夏樹」か、と。ついでにいうと、日常の文章を全部旧字体旧かなにしろとも思ってない。こう言うとこっぱずかしいのだが、「旧字旧かなは日本人の教養」で、「森鴎外」はちょっと教養ないよね、という話。余談だが、漱石もそうだが、これは「号」である。ペンネームじゃないんだよ、っていうのがわからん人が増えてきた。こういうのも困ったものだと思う(号はペンネームであるとか言われたら、ポコペンだけどね)。

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アメリカという国

 朝日新聞社説「大統領選――『二つの米国』でいいか」は朝日新聞らしいつまらない社説だった。緩和に書かれているが毎度のサヨク・反米というだけのことだ。ちょっと引用しておく。


 指名争いの決着はまだ先だ。しかし、分裂よりも統合を大事にする民主党候補の政策に支持が広がれば、それを取り込む形でブッシュ陣営の政策にも変化が起きるかも知れない。誰が大統領に選ばれようと、そうした方向への展開なら大歓迎である。

 なぜ、ケリーを望むと言わないのか、そのあたりの朝日の毎度の啓蒙韜晦に辟易とする。ケリーを望むと言えば、責任が生じるからだろう。俺はこういう朝日みたいに曖昧なやつは嫌いだな、というのは日常の感覚だが、それもさておく。ようは、朝日のいう「統合」とやらが何か、だが前段はこうだ。

1980年代の「レーガン保守革命」が終わった後、無党派層や、共和、民主両党の穏健派を引きつけるための中道路線が政権獲得の鍵とされた時代が続いた。90年代のクリントン大統領がその典型だ。ところが、いまの米国は右と左、富む人と貧しい人の距離が離れすぎてしまった。選挙の構図もかつてのようになりにくい。ケリー氏もブッシュ政権に対して、大企業寄りの姿勢や利益誘導をあげて激しく批判する。

「右と左」が何を言っているのか曖昧だが、保守(右)とリベラル(左)くらいの意味だろう。もうひとつの分断は貧富の差だ。そして、それを招いたのがレーガノミックスだと言いたいわけだ。ソ連を倒したレーガン憎しというお笑いか。
 保守かリベラルかというのはアメリカ政治のダイナミズムであり、あの国の二大政党の基盤だ。それを統合というのはプロ独裁くらいしかありえないのだから、これも朝日の馬鹿話にすぎない。
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クルーグマン教授の
経済入門
 問題は貧富の差だ。これは問題ではある。だが、ちょっと待て、米国の現在の問題は貧富の差に還元されるのか。あれ、それってサヨク丸出しじゃないの、とも思う。もちろん、米国の貧富の差は大きな問題だし、意外にこれは近年の問題でもある。文庫になって最新の山形浩生の注が加筆された「クルーグマン教授の経済入門」の指摘は参考になる。クルーグマンが結果的にブッシュ攻撃をしている背景にはこの米国社会の経済学的な病理への懸念もあるのだろう。いずれにせよ、朝日のいうような古いサヨクの歌で心情をときめかす問題ではない。
 今回の民主党の動向を見ていて、民主党の提灯持ちであるニューズウィークの動向でもそうなのだが、私は本命はディーンかなと思っていた。しかし、あれを見て、ブッシュより馬鹿じゃん、とアメリカ人もさすがに思ったのだろう。極東ブログではアホ・デブ・マッチョが米人のという枕詞だが(日本はイジケ・ヒンソー・インシツか?)、アメリカというのは強い健全性というか、正直なところ脱帽するほどの正義と謙遜(modesty)の国だと思う。まぁ、多面ではあるが。
 ちょっとおおざっぱすぎるが、言語や倫理というのは、一般的に伝搬の僻地にいくほど古層を残存する。現代沖縄が大正時代を保持しているような感じだ(そうなのだ)。同じく、米国の田舎は古層のイギリスに近い気がする。機関車トーマスとか読んでいると、実に面白い。映像になってしまったし、続編あたりからおかしくなってしまったが、あれはけっこうお子様ものではない。共産主義は危険だという思想まで含まれている。いずれにせよ、トーマスのテーマは傲慢にならないこと、である。あれが米国の田舎の、ある古層の倫理なのだと思う。現地を見た人は、まさかという批判もあるだろうが。
 私はディーンはわらかないでもない。ケリーはわからない。しかし、ケリーを支持する民主党の層はわからなくもない。ある意味、共和党より古層の雰囲気を感じる。
 もうちょっと言おう。私はアメリカの古層の倫理と家族主義がとても好きだ。なぜだろうと思うに、子供時代に米国のファミリードラマをしこたま見たせいかもしれない。題名は覚えてないが、子連れ再婚のドラマだったが、その子連れが双方に3人ずつ。男3、女3というのがあった。もちろん、そうすることで脚本にダイナミズムが出る。ディテールは忘れたが、ああいう家族主義は米国の古層のイメージに近いものだと思う。ニューヨークパパというドラマはけっこう人生観に深く残った。ちょっとかっこいい、しかも金持ちの一人暮らし、しかも召使いがいる。そこに両親をなくした幼い兄弟をひきとってパパになるという話だ。けっこう人情ものだったのだが、特に、パバロッティにちと似た召使いことフレンチさんがよかった。
 この手の話はネットにあるはずと、ぐぐるとある(参照)。1966年? そんなに古いか。原題はThe Family Affairというらしい。ちょっと洒落ている。ちなみに「奥様は魔女」の原題はBewitched(参照)。高校生ならこの原題の洒落、調べておけよ、と塾の講師のようなことを言っておく。The Family Affairも洒落だが、こちらは今の高校生ではわからないだろう。
 ニューヨークパパの幼い子供役は私より少し年下くらいか。だいたい私と同世代の米国中流階級はああいう環境で育ったのだろうなと思う。ヒップの世代より下で、保守への揺り戻しがあったのかもしれない。
 話がまた回顧モードに入ってしまったが、私より上の世代の日本の親米政治家には、これに類した米国への親和感があると思う。あるいは、私より上でも団塊あたりのエリート層はなんであれベトナム戦争の傷があるだろうからその上の世代になるか。アフガン・イラクで陣頭に出てきた池澤夏樹は私は一回り上だが、そのあたりまでの層から上だろうか。ちなみに、池澤も古層にはこの親米性があるのは芥川賞受賞前の仕事を見ているとわかるだろう。
 日本を理解するうで、戦後のこの米国メディアが残したある種の親米基盤みたいなのは、うまく論じられていないような気がする。私からすれば、福田和也がなんかシュールな菊池寛のシミュラクルに見えたり、坪内祐三がなんか疑似レトロに見えるのはそんな感じだろう。しかし、実際の戦後は例の団鬼六が英語教師でカーボーイものに心酔していたように、昭和後期の右傾化や日本的なるものは、ある種のキッチュなのだ。さらにこのキッチュがねじれて白洲次郎などが今頃メディアに出てくるが、あれはただの帰国子女というか中身はただの外人だ。
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私は英雄じゃない
ジェシカ・リンチのイラク戦争
 話が散漫になったが、団塊世代より下の日本人にとって、アメリカという国はどういうイメージなっているのだろうかと思う。確かに留学生や長期滞在者は増えた。しかし、アメリカという国がその歴史の厚みを持って見えているのだろうか。まさか古賀潤一郎みたいな馬鹿ばかり、そんなことはないと思うのだが、あまりアメリカを舐めていいわけはない。日本人のなかから、ジェシカ・リンチが現れるか?と問うてみるがいい。任意の米人からあの正義とオネスティ(honesty)が出現するのだ。アメリカの本当の強さはそこにあるのだ。

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2004.02.04

ガストン・ジュリア

 昨日はガストン・ジュリア(Gaston Maurice Julia)の誕生日ということで、Googleのトップのロゴは、ジュリア集合のフラクタル画像を模したものだった(参照)。いかにもGoogle的というべきか、私などには、ある種の時代性を感じた。
 ジュリア自身は1893年2月3日生まれ(1978年3月23日死去)。元号でいうなら明治26年生まれ。古い人だなである(参照)。日本人数学者岡潔(参照)がジュリアのもとで学んでいる。
 「時代性」というのは、ちょうどMacintosh IIが出たころ、という意味だ。確か、1988年だったか。カラーデプスは8bitなので今にしてみると、ちょっとなぁであるが、あの画面を見たときはその美しさに驚いたものだ。CPUも68020で扱いやすい、というか、コンパイラ向き、というか、いかにもMacintoshらしいPascal向きなものだった。
 私は自宅ではSE/30を使っていたので、それにカラーボードを入れて、アメリカからユーザーグループのソフトなどを取り寄せたりしたものだが、この時代、よくジュリア・セットのフラクタル画像を見かけた。
 記憶が曖昧になるが、マンデルブロが話題になったきっかけはなんだっただろうか。ぐぐってみると、エール大のフェローとなったのが1987年とある。その時代かなと思う。ところで、ネットをうろついてめっけた「マンデルブロ集合計算・描画プログラム 」は面白い(参照)。ジュリアではなくマンデルブロなのだが、ただの画像描画ではなく、部分を拡大・再描画できるので、微細部分のフラクタルな様子がよくわかる。こういうのが、中学生くらいで見られるっていうのは、ちょっとうらやましいぞ。
 広中平祐がフィールズ賞を取ったのはぐるってみると1970年。そんなだっただろうか。もうちょっと後だったような気もする。私が高校生のころは、広中の啓蒙書のようなものを読んだものだった。コッホ曲線とかの解説もあった。マイコンが世界に登場するちょっと前だったと思う。
 フラクタルという概念自体はBASICでもモデルにできないことはないので、いろいろ記事が出ていたかな、と思い起こすが、さすがに美と思えたのはMacintosh IIでプログラムしたジュリアだった。
 あの時代、Google技術のコアの人々がおそらく高校生から大学生のころだろう。とするに、私より10歳くらい年下の人たちなのだろうか。日本ではどうだろう。ジュリア・セットとか見て、現在35歳くらいの層は、あの時代だなと、思いあたるのだろうか。
 コッホ曲線で思い出したが、そういえば、あの頃、LOGOやシモア・パパートが話題になったことがあった。LOGOについては、最近とんと話題を聞かない。APLがJになったように(参照)、どっかでこそっと生きているのだろうかと気になってぐぐると、なんというか昔のままのようでもある。安価で高性能なフリーソフトがあるかと探すと、あるにはあるが、どうも時代遅れだなという印象だ。代わりに、学習ソフトとしてけっこうな金額で販売されているのを知って、ちょっととほほな感じがした。
 LOGOやパパートについて解説もしないで、それが学習に向いているか、と話を進めるのもなんだが、いつのまにかまるで状況は変わってしまったなと思う。パパートの連想でケイ(アラン)を連想するのだが、こちらは現在もう少しましなSQUEAKを出している、が、これってむしろオブジェクト志向の思考のためか。Small-talk80などはどうなったのか、調べるのもうっとおしい。余談だが、思考ツールに向いた気の利いたコンピュータ・システムはないだろうか。テキスト処理も以前のDOS時代よりもやりづらくなっている。AWKとLISPをまぜたようなシステムがあれば便利だと思うのだが、どうだろう。
 昔の話が好きな歳になっていけないなと思うが、そういえば、SMC-777にはLOGOが付属しいたと思うが、あれが思い出になって大成した技術者はいるのだろうか。ヘンテコなシンボリック・アセンブラもあったっけな。
 と、ぐぐると、懐かしいものがある(参照)。SMC-777のアイドルだったが聖子だが、すでに娘の歳のほうが上だろうか。1983年。懐かしいなと思う。20年前か。

追記
 日本のWebページにはジュリアについての基礎情報がないようなので、お子様たちのために以下を追記しておく。

ガストン・モーリス・ジュリア(1893-1978) (参照)

 フランスの数学者ガストン・ジュリアは、1980年代以降、カラーグラフィックがパソコンで実現できるようになると、彼が考えたジュリア集合という数学的なアイディアもコンピューター画像として見ることができるようになった。
 ちなみに、ジュリア集合は、

zn+1 = zn2 + c

において、定数c=a+bi に対して|zn|が∞へ発散しないような初期値z0の集合。
 ジュリア集合の画像は、ちょっと見ただけでも植物のような動物のような不思議な印象を与える。全体の姿が細部の姿と同じという特徴をもっているフラクタル画像とよばれるものだ。似たものにマンデルブロー集合というのがある。それとジュリア集合はほとんど同じと言っていい。フラクタル画像が生命体の構造に似てしまうのは、もともと生命というのが、フラクタルに近い構造を持っているからだ。人間は一つの細胞から生まれたものだし、その内部に全ての情報を持っているという点でもフラクタルに近い。
 ジュリア集合は有名だが、ジュリアいう数学者については、Googleをひいてみてもあまり情報はでてこないようだ。もちろん、専門以外ではあまり関心をひかないのかもしれない。
 ジュリアは1983年(明治26年)、フランスの植民地だったアルジェリアの、北西部地中海近い都市シディベルアベスで生まれる。第一次大戦に従軍して負傷。鼻を失う。22歳くらいのことか。後年のジュリアの写真に、鼻を黒く覆った小さな皮のマスクがあるのは、この時の負傷によるものだ。
 25歳ですでに有理関数の研究で著名な数学者となる。この時期の研究ですでにジュリア集合の考えを発表している。もっとも、その後の研究には目立ったものはないとされているが、どうだろう。日本人数学者岡潔はジュリアに学ぶためにフランスに留学した。
 ジュリアは1978年、85歳でパリで死んだ。

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市町村合併は法的に行え

 産経新聞社説「自治体合併 将来見据えた決断のぞむ」は概ね良かった。今朝の社説である必要があるのかわからないが、誰かきちんと言っておくべきだ。東京の住民なんか問題をまるでわかっていないというか関心すらないのだから。話題は「平成の大合併」についてだ。問題点は表面的には合併が進まないことだが、ここに来て、話がねじくれてきている。


問題は、第二十七次地方制度調査会が「合併を促す人口規模についてはおおむね一万人未満を目安とする」と最終答申したにもかかわらず、これが法案に盛り込まれていないことだ。総務省は、全国町村会などが反対していることに配慮し、法案成立後に策定するガイドラインで示す方針という。

 溜息が出る。日本人は法をなんだと思っているのだろう、と、当方、法をよく理解しているわけでもないのだが、要するに、本来法で行うべきことが、ガイドラインになってしまう。ところで、この手のカタカナ語止めろって思うぜ。「法に根拠を持たない官僚のご指導」っていうやつだよ。この無法な権力を日本から減らせと思う。裁量だとかぬかして官僚が膨れ過ぎている。
 いずれにせよ、裁量になるわけだから、狙いを定めて金の真綿で首を絞める(爺臭い表現)ってわけだ。陰惨なことになるなと思う。むしろ、明文化したほうがなんぼかましだ。
 産経の結語はこれでいいだろうか。

 地方の借金は十六年度末には二百四兆円に達するとされる。この巨額負債の解消を目指すための“最後の一球”は地方に投げられたといえる。

 地方に投げられたっていうのは逃げじゃないか。

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読売新聞に日本文化なんか言われたくない

 日本文化なんて構えて議論するっていうのは漢心(からごころ)だよなと思う。無粋なやつが産経新聞とか読売新聞に多い。読売新聞社説「国語教育答申 精神文化の『核』を確立しよう」が文科省(っていう省略は気持ち悪い)の文化審議会国語教育答申をネタにほざくほざく。


 答申の特徴は、国語教育で、美的感性や懐かしさの感情、日本の文化、伝統、自然を愛する祖国愛、名誉や恥といった社会的、文化的な価値にかかわる情緒面の育成を重視していることだ。

 むしろそうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな、である。実際はかなり阿呆臭い。

 答申は、小学校で国語の時間を増やし、教科書の漢字に振り仮名を付け、古典や名作を数多く読めるようにすることを提案した。音読や暗唱を重視することも求めた。その上で、中学校で論理的思考力の育成を図ることが必要とした。
 正しい方向性である。国際化、情報化が進む今、長い歴史の中で蓄積されたものとつながってこそ、人は本来の自分になれる。

 斎藤孝の弊害もここまできたかという感じだ。国境(こっきょう)の長いトンネルをぬけたり、「こいすちょう」をやるのか。馬鹿乱造だな。まぁ、小学生なら振り仮名でもいいかと思うが、中学生くらいになったら、全部がとはいわないが、GHQが作らせたインチキ略字じゃなくて、正字で伝統仮名遣いのものをそのまま読ませたらどうか、というとちとアナクロか。しかし、驚くのだが、今の子、漢字の旧字が読めないのだね。台湾とか行っても看板読めてないようだ。
 ま、この手の話題はこの手のおちゃらけになってしまう。それに、思うのだが、国語の教科書、あれはひどいシロモノだよ。もっと実務的にすべきだと思う。すべての人が恋愛に向くわけじゃないように、文学なんてものはむしろ向く人はわずかだ。たいていの大衆は大衆文学でいいのだし、大衆文学なんてものは、軽蔑するわけじゃないが、市井に生きているならわかるものだ。
 ついでなんで、もう一つ引用。これが、読売新聞馬鹿丸出しだよ。

 リストカットを繰り返した女子大生が「核になるものが心の中にない」と、語ったことがある。今の若者たちにある寄る辺のない感覚は、自分の中に「核」を見いだせないことにもよるのだろう。
 国語教育がすべてではないにしろ、母語としての国語に愛着を持ち、日本人としての自覚や意識を確立することで、失われつつある精神文化の「核」を再生することが必要だ。
 ただ「個」の尊重だけでは、子どもたちは荒野に投げ出されるのと同じだ。

 これ書いたのは何歳だ。30代だったら、そして俺が本気なら殴るぜ。人間の核というものは、愛だ。今の時代の子たちが愛を見いだせないのだ。そして、その不在は、慟哭すらもたらさないのだ。愛がなければ心は生まれない。心がなければ心が声振りを求めることもない。声振りの身のなかで、身体が現れるのだ。斎藤孝の身体論などふざけた冗談でしかない。
 もちろん、そう言うことは空しい。愛は言葉ではないからだ。
 そう、愛は言葉ではない。言葉は愛のあとから来る。日本語を美しくする以前に、日本の文化のなかで培った愛が問われているのだ。

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北朝鮮6者協議の見所

 極東ブログが紹介されるとき、新聞社説をネタにするブログだよん、という感じなる。ま、プロフィールにもそう書いているし、そういう意識もあるのだが、例えば、今朝みたいな日、各紙社説が北朝鮮の核問題をめぐる6か国協議を扱っているとなると、触れないわけにもいかないかぁ、という気にはなる。しかし、これがどれ読んでもつまらない。が、まぁ、さらっと触れておこうか。
 朝日新聞社説「6者協議――さあ核放棄の道筋を」は、とほほである。端的に言って、朝日の言いたいことは、北朝鮮問題は現状北朝鮮が提示した拉致家族の帰還を持って終わりにして将軍さまに貢ごう、ということだ。罵倒する気もなえる。あの韜晦な啓蒙文の引用もめんどくさい。拉致問題はまだまだ序の口なんだぜと思う。生きている可能性の高い8人ですら、もう死んだことにするのだろうか。
 問題の核心については、毎日新聞社説「6カ国協議再開 北は核放棄で誠意を示せ」がわかりやすい。つまり、こうだ。


 核問題は北東アジアにとどまらず、世界の安全と不拡散体制の根幹につながる重大な課題だ。核やミサイル技術が世界に拡散する事態を半ば実力で阻止するために、米政府が提唱した大量破壊兵器拡散防止構想(PSI)の参加国も着実に増えつつある。
 これ以上話し合いを拒めば問題は国連安保理に付託され、厳しい制裁を科される可能性が強まる。北朝鮮が協議開催を受け入れたのはそうした空気を感じ取ったからかもしれない。

 このあたりがサヨク君たちが懸念していることかもしれない。イラクの大量破壊兵器問題を騒ぐのも、あれらも無く言ってしまえば、北のお友達を守るためなのだ。毎日新聞のこの話の展開はこれでいいともいえるのだが、ただ、実は主役は中国なので国連安保理になるわけはない。もう少し現実的なツッコミが欲しいところだ。
 日経新聞社説「核廃棄と拉致解決を急げ」は悪くない出来だが、あえて読むほどの意味はない。読売は今朝は触れていない。産経新聞社説「6カ国協議 追い込まれてきた北朝鮮」は一点重要なことがある。

 年明け早々から、北は米国のプリチャード前朝鮮半島和平担当大使らの寧辺の核施設視察を受け入れた。日本に対しても拉致事件で、拉致議連の幹部に接触して新たな拉致家族返還の変則的な提案をして、より柔軟な姿勢を演じてみせた。
 しかし、ここにも北朝鮮の姑息(こそく)な仕掛けがあったとみるべきだろう。米訪朝団への施設公開は、「核活動の凍結」で早く妥協しないと手遅れになるとのメッセージを米国に送る手管に使っていた。拉致議連への提案は、拉致家族を揺さぶり六カ国協議の議題にしようとする日本への牽制(けんせい)である。

 そう、姑息な仕掛けなのだ。産経のこの読みはこれでいいと思うが、なぜか韓国に言及していない。なぜかわからないが、この間の韓国と日本の動向を見ていると、やけに反米だ。もちろん、極東ブログだってそうだというのはあるが、北に有利な反米言動がメディアに目立つ。反米による協議弱体の狙いもあるのだろう。
 その仕掛けの黒幕が北朝鮮なのか。金正日が指揮できているのか、これら全ては中国の差し金なのか。つまるところ、北朝鮮の脅威というのは解消されてはならないというのが6か国の本音なので、そのあたりと、中国の国際面子のバーターがどういうふうに出てくるかだ。それが協議の見所でもある。とはいえ、まだまだメインのプレーヤーは米国であり、米国はこの件で日本を重荷に見ているようでもある。

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2004.02.03

Gravity in eight minutes

 ちとわけあってわかりづらく書く。わかんねーよの御懸念御無用之事、っつうか、ある意味たいした話じゃないので、なんだコレという方、気にせず、次行ってみよう!である。
 で、G八分(参照)の話題だ。この話題は極東ブログ向きではないとも思うので、軽く扱うのだが、例の悪摩尼(参照)関連はすごいことになっている。そのすごさには、スラッシュドット ジャパンの記事のほうがわかりやすいか(参照参照)、というわけで、当方は、ちと曖昧に書く。が、日本もそういう時代かぁと思うべきか、米国ではそうでもないので、これって日本ならではのことか、どっちかな。訴訟自体は覚悟さえすればそれほどのことではない。いしかわじゅんの名著「鉄槌」を参照すべし、である。

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鉄槌
 ちなみに、現状、八分の元になるこの手のフィルタの状態なのだが、アクセスのIPにかけていた。ので、海外の風呂串をかますと、けろっと抜ける。あれま、である。DB側は変わっていない。日本サイドの技術の動向がちと気になるところだが、もともと、商売の売りはDBよりフィルタ技術なのかもしれない。が、ふーんである。
 問題のもう半面、つまり、とばっちり、と言うのとも違うが、「はてな」の動向というか、その受け止め方も気になる。自分もまだ「はてな」に片足突っ込んでいる状態なので、あのコミュニティさのある種の健全さというか正義感は、この件についてどう影響するのだろうか。
 こうした問題の全体については、当初問題提起された「圏外からのひとこと」の一連の見解が妥当だとは思うし(参照)、あまり私が付け加えることはない、どころか、かくぼかしているわけだ。
 問題の視野をもう少し広げると、クローラーは「はてな」やココログをかなり高く評価しているが、2ちゃんねるブログはどうかな、という問題もある。他にもポータル(infoseekやexciteなど)がこぞってブログサービスでもある。
 「はてな」やココログの層というのはかなりマーケット的に美味しい、はずだ。この層の人間群は今後のネットの世界の先行モデルにもなる。が、この先行性をどう活かすかは、そう簡単でもない。ブログ側の課題としてみれば、この層の自己表出は、どう商業主義と折り合うのか、ということになる。単純に商業主義反対!とは言えないというか言えるほど、もはや平坦な世界ではない。
 てなこともあり、当方もちとアフィリエイトをプロービングに使っている。面白いといえば面白い。自己表出が結局、商品化され(まるでマルクスのいう労働の自己疎外のようでもある)、その商品のブログ表出がコミュニケーションになるのだ。簡単にいうと、おれっちこんな面白い本を読んだぜ、DVD見たぜ、というのが自己表出のフォルム(形式)にならざるを得ないのだ。とはいえ、当方、現状では、腰が据わってないので、儲ける気がねーという動機の不在のため、いまいちわからん。極東ブログである、そのあたりの商業主義との兼ね合いが難しい。
 この層のポジションニングもすでに思いがけないほど上位だ。あえて曖昧に言うのだが、この極東ブログなど、ありがちなSEOは使っていないが、Googleアルゴリズムの背後にある米人の発想がなんとなくわかるので、そういうチューンを多少しているせいか、特定のトピックについては、予想外のポジションをゲットしている。ので、これが、ちと怖い。このままだとマスメディアに衝突するかも(しないか?)。それほど、ふんどしを締めているわけでもないので、そのあたりの間合いが難しい事態になるだろうか。
 話が散漫だが、個別の悪摩尼や、今後のG八分だが、ふと思ったのだが、こうした傾向が進むほど、実際のところ、日本の言論を守るのは、2ちゃんねる、になる。という揺り戻しになるのではないか。悪摩尼が検索できない世界を想起せよ、である。
 逆に、悪摩尼など、特定のサイトはすでにポジションをゲットしているのだから、内部にナマズでも飼うといった装備をすれば問題は解決する。それだけの話かもしれない。つまり、Googleな世界よGoodbye、である。

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日米同盟のジレンマって何よ?

 日経新聞社説「日米同盟のジレンマを避けるには」を読んでいて、なんか、こう胃のむかつきに似たような変な感じがした。なにか認識が間違っている、と言えばいえないことはないが、なんなのだろう、この作文はという、変な感じである。出だしも変といえば変だ。記者クラブ?、なんでよ。みたいなツッコミもしたくなる。


 日米戦略対話のために訪日したアーミテージ国務副長官が日本記者クラブで会見し、イラク、北朝鮮問題に触れ「成功のカギを握るのは強固な日米同盟だ」と強調した。同盟関係にはジレンマがつきまとう。関係が緊密ならば、一方は他方の戦争に「巻き込まれる」と心配し、関係が疎遠になると、一方が危機に見舞われた場合に他方に「見捨てられる」と心配する。

 よくわからないのだが、同盟関係にジレンマがつきまとう、とアーミテージが言ったのか、と高校生みたいに誤読しかねない。よくわかんないなと思うのは、ジレンマの極とされているのが、矛盾しているのか。

  1. 日米関係が親密だと、戦争に「巻き込まれる」と心配
  2. 日米関係が疎遠になると、危機(主に北朝鮮暴発)に「見捨てられる」と心配

 そうか? わかんねーなと思うのは、「戦争に巻き込まれる」ってなんの意味なのだろう。北朝鮮の暴発を意味するなら、別に米国関係が起因なわけはないし、米軍なくして対応はない。ジレンマなんかねーじゃんと思う。
 もっとも、そういうツッコミも青いのだろうなと思う。ずばり言えばいいのではないか。つまり、米国関係が親密というのは、日本が有志連合に組み入れられて、米国州兵の海外派兵の肩代わりをさせられるということだ。日本が軍事的に属国化するという問題だろう。
 日米関係が疎遠になる心配というのは、経済問題ではないのか。
 だが、日米関係の経済面の依存はもはや相互的である。日本がばかばか日本の国富をもって米国債を買い続けなくては米国経済は頓挫する。一蓮托生の深い仲となのだから、むしろ、アーミテージとしても、そういう仲じゃないかと、記者クラブで旦那のために芸者踊りをしてくれたと理解すべきじゃないのか。
 それにしても、日経はこの社説を誰に向かって書き、なにを主張したいのだろう。わかんないなと思う。

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クルド人自治区自爆テロ、朝日新聞泡を吹くの巻

 クルド人自治区自爆テロは陰惨な事件だが、不思議でも異常な事態でもない。朝日新聞社説「クルド襲撃――イラク再建の難しさ」が状況認識のとち狂いでおたおたと泡を吹いている様が滑稽である。


イラクのフセイン独裁政権崩壊から9カ月以上たった。フセイン元大統領は昨年末に米軍に拘束された。だが、治安は改善されず、旧政権の残党やイスラム過激派によるゲリラ攻撃やテロが続いている。占領軍に協力するイラクの警察官らも「裏切り者」として攻撃されるようになった。
 しかし、今回の標的はクルド人政党だ。占領軍への反発とは種類の違う政治的な背景があったと見ることができる。

 フセイン残党が反米で混乱を起こしている前提で書かれているが、左翼な朝日新聞がベトコンの再現の幻想を持っていたということにすぎない。こういうときは罵倒するのが正しい態度だと思う。朝日新聞って馬鹿だなぁである。
 クルド襲撃については、朝日新聞のように別の文脈を取る必要はまるでない。極東ブログは当初からこの問題を基本構図として内乱としてきたが、それがより顕在化しただけにすぎない。
 クルド人問題については、すでに極東ブログ「幻想のクルディスタン、クルド人」(参照)で触れておいた。ちょっとイヤミな言い方だが、ネットに溢れるクルド・シンパの議論に惑わされないようにしたい。朝日新聞社説もよく読めば、慎重にクルド・シンパとの距離を置いているあたり、実は朝日内部に普通の感覚と知識をもつ人間もいるのだろう。
 社説としてみれば、結語は爆笑ものである。

 多宗派・多民族のイラク社会で、どのような形で「民意」をまとめ、イラク国内の対立激化を防ぎながら、どうやって国造りを進めていくのか。そのためにも、国連をはじめ国際社会が一致してイラクの再建を支える態勢づくりが急がれる。

 前半と後半の文章が論理的につながっていない。国連主義が解決だと思いこんでいる、その思い込みが現実認識に病巣を作っているか、あるいは、反米イデオロギーなのか。いずれにせよ、無前提な議論にすぎない。なにより、「国際社会が一致して」という日本的な発想はもうやめるべきではないか。国際問題に前提となる一致はない、結果としての一致があるだけだ。そのために国連を機能させなくてはいけない。朝日の考えはまるで逆だ。
 社説として問われているのは、まさに「どうやって国造りを進めていくのか」と日本がどう関わるかを現実的に描くことだ。それを放棄してここで事態に泡吹いているようでは、朝日新聞の社説はブログの落書き以下の内容でしかない。

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2004.02.02

台湾総統選挙、日経の正体は何?

 日経新聞社説「勢力伯仲の台湾総統選挙」がなんだかよくわからなかった。もちろん、テーマも内容もわかる。なにがわからないのかをうまく説明できるだろうか。元になる話はこうだ。


 3月20日の台湾総統選挙に向け、1月31日から6日までの立候補の受け付けが始まった。すでに与党、民進党は陳水扁総統と呂秀蓮副総統、対する野党連合は国民党の連戦、親民党の宋楚瑜の両党主席をそれぞれ総統、副総統候補に擁立して勢力伯仲の選挙戦を展開しており、事実上の一騎打ちとなる。

 確かに、そう言ってどこも間違いない。でもなぁ、台湾を少しでも知る人間はこう書くかぁ?である。なんかこれって、日本の自民党と民主党みたいなノリにしか読めない。実態はぜんぜん違うぞである。国民党ってようやく政党になったのだが、これって、大陸の共産党に敵対していた、もう一つの独裁政党なのだが、そういう歴史感覚がごそっと無いような印象は受ける。というか、そのあたりの感覚をベースに書かないと、次の話は意味をなさないと思う。

 陳総統は「中国と台湾はそれぞれ別の国」であり、「住民投票によって2006年に新憲法を制定する」と宣言。まず今回の総統選当日に「台湾を標的とした中国のミサイル撤去を求める住民投票を実施する」と表明した。
 これに中国が猛反発して中台関係が緊張、日米が陳総統の言動に自制を求める事態にまでなった。陳総統は先月、住民投票の内容を「ミサイル防衛能力の強化」や、「中台交流の仕組み構築」の是非を問う穏やかなものに修正したが、投票は実施の構えだ。野党からは今回の住民投票は違法との非難も出ている。

 くどいが、中国には清王朝の版図を継承しようとする共産党と国民党があって、国民党が負け。で、国民党の亡命政権が台湾を軍事的に制覇した。共産党も国民党もどちらも、中国の行政そのものだと主張している。戦前から台湾にいた住民にとってしたら、そんな話はどっか他でやってくれと思うだろうが、国民党は台湾を乗っ取ってさらに大陸への巻き返しという建前を言い続けている。鄭成功の時代じゃねーんだよと思うが、このあたりの中国人の感覚というのはわからない。水戸黄門のチューターだった朱舜水も同じだ。ま、いい。この手の話は小林よりのりの啓蒙本で多く人が知るようになった、のではないか。
 それでも、「野党からは今回の住民投票は違法との非難も出ている」って書く日経の神経がわからない。野党っていうのは、国民党だよ。日経新聞社説執筆者、あんた誰? 正体は何?っていう感じだ。
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「俺は日本兵」
台湾人の人生
絶版か文庫か?
 今回の選挙は、ブッシュがすでにばっくれ。シラクもばっくれ。日本は黙ってばっくれ。日本精神はどうした!と思う。
 ただ、私の感想では、台湾人はこの手の問題になると、きれいにバランスを取る。だから今回も最適な解決を出すのではないかと思う。ただ、それには李登輝のような柱たる人が必要なのではないか。陳水扁はあやういなという感じはする。
 中台問題で怖いのは、理性的な読みがきれいにはずれることがあることだ。中国人というのはわからねーよである。

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大阪のこと

 大阪のことはまるでわからない。そんなヤツがなにか書くというのは間違っていると思う。でも書く。今朝の新聞各紙社説の主要なネタは「大阪知事選」である。結果は予想どおり。どってことはない。でも、江本孟紀だったらおもろいやろなとか思っていた。しかし、大阪人、おもろい、に懲りてしまったのだ。
 投票率は過去最低だったという、やる気あんのかわれ、ということはない。どないせーちゅうねん、といったところだろうと思う。大阪の各種統計指標を雑見して思うことは、やるべきことは有能な官吏でよい、というか、行政の最適解が機械的に決まるような気がする。つまり、選択肢なんかないのではないか。
 日本の地方行政をなんとかせいと口酸っぱく言う極東ブログとしては、ともすれば大阪を大都市と見なしてしまいがちだ。間違いというわけでもないが、今の日本の実態は、東京とその他愉快な仲間たちなのだ。読売新聞社説「大阪府知事選 改革の実行力が問われる二期目」の次の指摘はあたっていると思う。


 大阪府の台所を見れば、借金は増え続け、現在四兆七千億円にも上る。財政硬直度を示す経常収支比率は十一年連続で全国最悪だ。東京一極集中が進んで、関西の空洞化に歯止めがかからない。

 そういうことだ。この手の話題はことかかない。朝日新聞社説「大阪知事選――苦い薬が欠かせない」ではこうある。

 失業率は沖縄に次ぐ厳しさだ。景気・雇用対策は待ったなしである。12万人の雇用計画や、金融機関と協力し中小企業に年1兆円を供給するといった選挙の公約は、ぜひ実現させてほしい。ひったくりの発生件数日本一など治安対策も欠かせない。

 こういうときに本土の人は「じょーとー」と言う。うちななーんちゅの「じょーとー」はインドネシア語の「バグース」と同じだと、ねじれた洒落を言ってもしかたない。沖縄の失業率はひどいが現地で暮らした実感でいえば、なにかとちと違う。ちょこっというと、というか誰も言及しないのが不思議だが、沖縄はアンダグランドマネーの経済だとしか思えない。そんなことは馬鹿でも概算できそうだが、誰も、それは、言わないお・や・く・そ・く、ってやつなのか。たぶん、大阪もそうなんじゃないか。馬鹿にしているのではなく、文化が違うのだと思う。
 大阪は異文化だと思う。私は大阪の石切神社が大好きだ。日本で三番目石切大仏が大好きだ。一番は奈良の大仏であることは間違いないが、二番は問うな大人ならである。あの参道(参照とか参照)を歩いていると、なんか、こう、どうでもええやん、という至福の境地になる。なんか、千と千尋の神隠しみたいだなと思う。いいなぁ、どこかにシンガポールへの秘密の通路があるんじゃないかと思う。
 通天閣や四天王寺の界隈も好きだ。四天王寺の万灯供養法要は最高だ。夜食は串カツだ。至福だ。MDMAなんかでトリップしているやつは阿呆だ。
 もちろん、あの神秘の世界をもって大阪を興隆させることはできない。話がおふざけ過ぎていると思われるかもしれない。でも、ああいう大阪が大好きだ。京都なんか大嫌いだ。
 大阪が日本直轄になるのはタイムスケジュールかもしれない。でも、大阪はあのまま大阪なんじゃないだろうか。昔天王寺駅を降りたら、ホームレスなのか柳田国男言うところの山人なのか寄って来て、にいちゃんこれこーて、といって、生皮をぬっと出された。なんか怖かったのだが、買えばよかったかなと思う。なんの生き物の皮なんだろう。ヤフオクじゃ買えないものな。

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2004.02.01

年金と老人介護の問題

 年金と老人介護の問題について、いきなり書いてみる。いきなり、というのは、書くにあたって資料にもあたっていないし、あまり考えもまとめていない、という意味だ。物書きなら失格という状態だ(失格の物書きは多いのだが)。日頃、私自身も生活人として気になっているので、そのあたりのもやっというのを書いてみる。
 話の発端は、別記事に書いた私自身のコメントだ。


若い世代の立場で年金問題ついて端的に言えば、2点あるかと思います。1つは、受給は多分70歳になるでしょう。男性だと平均寿命は80くらい。その10年という問題ですが、その10年が年金で暮らせるわけもない、ということで、それ以前に若い人だと70歳は無意味でしょう。つまり、年金は無意味と結論するのは、ある意味しかたがないことです。2つめは、これをリスクの投資とみることです。この場合、相手は国家なのでケツ割れはありません。悪くない投資だと。もうちょっというと、この先、若年の不払いが解決するわけもないので、いずれ皆保険ではなくなるでしょう。すると、払っているやつのほうが利回りがいいはずです。

 これをもうちょっと介護問題の側に軸足を移してみたい。で、私事を書きたいわけもないし、むしろ書きたくもないのだが、私をモデルとして書いてみよう。
 私は昭和32(1957)年生まれ。父は大正15(1926)年生まれですでにこの世にない。母は昭和8(1933)年生まれ。父母の歳が7年違う。モデルとしては、母を基準に補正すると父は昭和4(1929)年くらいが妥当か(ちょっと自分としてはイメージがわかないが)。私は母が24歳の時の子供だが、このあたりはモデルとして妥当だろう。母は今年71歳になる。そろそろ年金(彼女の生活費)と老人介護の問題の渦中に入りつつある。
 すでにこの問題に突入しているのは団塊の世代である。命名した堺屋太一によれば団塊の世代は昭和22~26年生まれだが、人口統計的なコアは昭和22~24年になる。ので、都合で昭和22年生まれをモデルとする。都合というのは、私より10歳上なので私が感覚的に捕らえやすい。
 団塊世代のモデルはかくして私のモデルを10年シフトするといい。団塊君は昭和22(1947)年生まれ56歳。父は大正8(1919)年85歳、母は大正12(1923)年生まれ81歳、となる。ちなみに、森重久弥の相棒役とも言える加藤道子(私はファンでした)が昨日84歳で死んだ。膵臓癌。だいたいこのモデルの範囲に入る。
 自分の世代意識からすると、私が小学校から中学校くらいの時期に、上の世代が暴れていたので、私にとって上の世代、というと5歳くらい上かなという感触はある。
 戦後文化のコアの部分は団塊世代を中央として私の世代で消えて、私の世代から現在のオタク的サブカルの文化が始まる。私の世代は遅れてきた世代であり、先駆的な世代でもある。ま、それは当面の話題ではない。
 団塊世代のモデルでみると、すでに、介護の問題は現実になっている。また、その親たちの年金問題(生活費)もだ。だが、見渡してみて、そういう風景が見えるか? 見えないことはない。だが、私の感じからすると、意図的ではなく社会システムの機能で隠蔽されているように思える。
 その社会システムの機能は、(1)伝統システムが働く、(2)社会システムが働く(年金や国家の補助)、(3)家族システムが働く(端的に言えば子供が兄弟を形成している、「渡る世間に鬼ばかり」を参照せよ)、(4)労働社会システムが働く(会社に温情がある)である、と考える。
 これが団塊世代に下るにつれウィークになっていき、私の世代でほぼついえる。その意味で、年金と老人介護が問題化するのは、私の世代からで、おそらく5年以内のスケールで社会に激震が走るのではないか。
 それでも、現状の団塊の世代の問題、端的にいって、その生活苦が見えづらいのは、社会システムによる作用もだが、マスメディア的に話題とされないということもあるのだろう。さらにいえば、マスメディアの側の人間はエリートなので個人対応として金銭的に解決できる余裕があるのだろう。
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親と離れて暮らす長男
長女のための本©角川書店
 具体的に可視な部分で私が思い浮かぶのは、久田恵(参照)と舛添要一(参照)の二人だ。ちょうど先のモデルに当てはまるので、光景としてイメージが湧きやすい。久田が昭和22(1947)年生まれ。桝添がその翌年だ。
 この二人の著作や発言を折に触れて私は読む。いろいろ共感することが多い。特にディテールが重要になる。マスメディアもある程度彼らの視点をとりあげているが、二人ともベストセラーというようなインパクトは社会に与えていない。というか、ベストセラーがそういう社会機能を持たなくなっているのかもしれない。また、ドラマもそういう意味での家族の光景を映し出さなくなってきている。
 話がちんたらとしてつまらなくなってきているので切り上げようと思うが。私より10歳下の世代、つまり35歳くらいの世代はこうしたイメージを課題としていないような気がする。私自身10年前には考えてもいなかったのだから、当然だろう。だが、この世代には特徴がある。都市部に住み未婚率が多いことだ。つまり、都市民化している。都市民になるとき、一番の援助となるのは、私の常識からすれば国家システムなのだが、この世代はそうした国家のイメージをまるで持っていないように見える。
 現在35歳の世代には、私の視点からすれば、(1)伝統システムが働かない、(2)社会システムもこのままでは働かない(年金はない)、(3)家族システムは働かない(兄弟の互助はない)(4)労働社会システムはすでに破綻した、ということになる。しかし、それが問題となるには、前段として私の世代が崩壊するから、それを待てばいいことになるだろう。
 モデルとして見ると、私の場合、その世代の結婚年齢から計算すれば18歳と15歳の子があることになる(おぇっ?と思うが)。公務員でなければ年収は800万はないだろうから、実際にはすでに階級分裂が進んでいる。年収300万円時代を楽に生きるという冗談はさておき、社会的には私の世代は400~500万円の枠内で、5年後のスパンで子供を大学にやり、親の負担を見ることが可能かということになる。親たちはまだ70~75歳のラインで現状は意外にピンとしているが、5年後には介護の領域に入る。
 そして、クラッシュ!、だろう。その時点で、夫婦関係のしわ寄せも大きいのではないか。団塊の世代から私の世代にかけてクラッシュが勃発する。
 と、暗澹たる未来を描いて微笑む趣味はないが、あと5年で私の世代つまり現在45歳の世代がクラッシュするから、それを見ながら、それから5年くらいでおたおたしつつ、共通一次試験以降の世代は国家を再構築していけばいい。
 それが可能だろうか。おい、若者、国家を互助組織として考えたことがあるのか?ってうオチにはしない。
 私は理性的に考えるのだが、35歳を中心とした日本人はこの問題を解決できないだろう。というか、階級に逃げ込もうとする兆候が今見える。ネットの言説もすでにエリート化しているじゃないか。ナースはフィリピン人にすればいいというのが解決になるだろう(近未来に実現する)。
 つまり、5年後以降は、実質の、年金や介護の問題は下層階級の互助の問題にならざるをえない。と考えてみるに、創価学会や共産党そのものか、それに類したものが社会に強く台頭せるを得ないのだろうと思う。

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女性をパート労働者にせよと朝日新聞は言う?

 新聞各紙のテーマは散漫。時事的な問題は特にないと思われているのだろう。産経新聞社説「ケイ氏証言 短絡的議論につなげるな」はイラク大量破壊兵器問題で米国を支持しているが単にまたポチ保守かというのもだが、私も大量とはいえないにせよ化学兵器は今後見つかるのではないかと思っている。スンニ派の勢力が解体されてないように見えるからだ。他、朝日新聞社説「核技術拡散――パキスタンの深い闇」がパキスタンの核関連技術の拡散問題を扱っているが、この全体シフトを促したのは米国戦略なのにその評価はない。変な話だ。
 今朝の社説で気になったのは朝日新聞社説「女性と年金――不安と不信がつのる」だ。なにを言っているのかわからないのである。なんどか読み返したが、わからない。言いたいことは、年金改革で女性が不平等だということらしいのだが、どこが?なのだろうか。
 まず、課題を3点とりあげている。


(1)サラリーマン世帯の専業主婦は保険料を負担しなくても基礎年金を受け取れるという制度を見直す(2)中高年になって離婚する専業主婦の老後にも配慮し、夫の厚生年金を夫婦で分ける(3)厚生年金に加入できるパート労働者の範囲を現在の週30時間程度から週20時間程度に拡大する、などだ。

 と、項番を打っているのだが、このあとの文脈に受けがない。いちおうこう言っている。

 与党の協議で、離婚が決まった夫婦には年金分割が認められることになった。夫婦で話し合い、半分を限度に妻が夫の厚生年金を受け取れるようにする。話し合いがつかなければ裁判所の手を借りる。
 だが、それ以外は現状のまま、手つかずに終わりそうだ。制度のひずみを直すよりも、参院選を控えて個人や企業の負担増を避けたいとの思惑からだろう。

 とすると、(2)の「離婚で年金を分ける」はサティスファイ(解消)したと朝日は見ていて、残り(1)と(3)は問題だというのだろう。え? それがどうして女性の問題なのだ?、と思う。タメで批判しているのではない。なんか、頭の悪いオヤジにつかまったなぁという感じはあるのだが、それを言うなら手前も目くそ鼻くそを笑うである。
 まず、端的に(3)のパート労働は女性に限定されていない。現状、女性がパート労働者である実態はあるが、これは年金の問題として解消する課題ではない。また、むしろ増えていく若年の労働者のほうが課題であるはずだ。つまり、この点については朝日はただの阿呆だ。
 (1)はどうか。つまり、専業主婦の保護制度、例の3号ってやつだな、この補助を早々に止めるべきなのにしないのはイカンぞと朝日将軍(ってな爺ぃ臭い洒落だな)は言うわけだ。
 つまり、朝日新聞が提起しているのは、それだけ、ということか。
 そうすると、結局、朝日の主張っていうのは、専業主婦よ働け、しかし、働けといってもパートしかないだろうか、これからパートに年金付けろ、と。

 少子高齢社会は女性と高齢者の役割が大きくなる社会でもある。女性が力いっぱい働き、納得して保険料を払える制度に改めれば、社会の活力は維持できる。

 なんか俺は60年代にいるのかと錯覚しそうだ。朝日は足りない税について、「税金で国民全員に一定額の基礎年金を保障するという別の提案もある」とも言っている。うへぇ。
 さて、話をもどして、よくわかんないなと思うのは、この社説って誰が読むように書いているのだろうか。この意見を支持している日本国民がいるのか。
 馬鹿なこと言っているなぁですまされる問題ではなく、なんとも奇っ怪な感じがする。

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