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2004.01.30

ざりがにの死

 私事である。年末から家に預かっていたざりがにが突然死んだ。え?と最初思った。理由が思い当たらない。もちろん、ざりがにと暮らしたことのない人間にとって、ざりがにの死の理由というのは、恐らく、他人の死と同じほどに、意味のないことかもしれない。しかし、私には、ちょっとした驚愕だった。正月あたりから、やばいな、情が移っているな、と自覚していた。こいつが死んだらどうしようと思うと眠れなくなった。すると、彼女はごそごそと騒ぐのである。そう彼女。メスだった。なぜメスかとわかるかというと、私はざりがにの雌雄を見分ける技術に長けているから、というわではない、気が付くとたくさんの子を産んでいたからだ。腹から尻尾というのか、その裏に無数といっていいほど、ある日、貼り付いていた。ふーん、と思った。やけに小さいものだなと思った。私は眼が悪いのだが、眼をこらすと、その小さい生き物はかみじんこのような形状ではなく、ざりがにの形状をしていた。あたりまえである。ざりがにの子なのだから。こんなにたくさんの子うち、どれほどが生き延びるのだろうかと、かわいいものだなとと思いつつ、暗澹たる気持ちにもなった。神秘家ゲオルゲイ・イワノビッチ・グルジェフはある秋の日、少年を連れだった時、少年にその樹を揺すってごらんと言った。少年が樹を揺するとたくさんの木の実が落ちた。そして彼は言った。この一つも樹にはならないかもしれない、と。自然は多くを与える。可能性を与える。しかし、多くは樹にならない。が、朽ちていく木の実は無意味な存在ではない。樹となるもののこやしとなる、と。もちろん、その諭しには人間の比喩がある。私など樹にはならずに、他のこやしにすらならないかもしれない。存在とはそんなものだ。たくさんのざりがに子たちもどれだけ生き延びるのだろうかわからないが、一、二匹も成長すればいいのだろう。しかたのないことだ。そして、自然の掟に従うかのように、不思議に数は減った。水の取りかえで流れてしまったのかもしれないし、共食いもあるのかもしれない。昨年の夏、かぶとえびを飼ったのだが、共食いしてしまった。そういうものなのかもしれない。生き残ったざりがにの子たちは、見ていると、面白い行動をする。親から離れている時もあり、親に腹にぶらさがるように戻る時もある。彼女は、まさに母親であり、子たちを守っているとしか見えない。こんな生き物でも子は親を守るのかと思う。本能と言えばそうなのだが、そうした下等なレベルでしっかりと本能とされてきたからこそ、人間も存在しえたのかと思うと、やはり生命への畏敬というものは感じる。その母たるざりがにが死んだ。むごたらしい形で死んでいるのだが、どうやら脱皮に失敗したらしい。脱皮で死ぬことがあるのかと思って調べると、そういうことはままあるようだ。脱皮で疲れてうずくまっているのかと数時間その死が信じられなかった。これは、人間でも同じだ。死体として横たわり、冷蔵されていても、そこにその人がいる限り、死体であるかぎり、その人はその人なのだ。死んで意識がなくなれば人間は終わりだというのは、唯我論的な誤りであって、人の存在というのはその人を愛した人たちの視野のなかにある身体のことである。キリスト教が魂の復活ではなく、身体の復活を希望しているのは、その強い愛を信じているからにほかならない。私は信じるか? わからない。それでも、ざりがにの母親の死に、ある種呆然として、それでも子が育てばいいのではないかと祈るように思った。どの生物も(おそらく中国人の一部を除けば)、親というのは子が生き延びるために死んでもかまわない存在だろう。ざりがにであったって同じことだ。死の苦しみはあっただろうが、産みの苦しみに次ぐことは、生きている存在の恩寵である。どうも、表現が仰々しくていけないが、私は東洋人だし、歳を取るに次第に仏教的になっていくので、そう思う。歩道を通行する自転車に乗った者たちを例外とすれば、衆生全体に憐れみのような感じを覚える。この感覚の延長にきれいに死の意識があるなら、人生というのも悪くない。だが、人生とは、ざりがにの脱皮の失敗のように終わるのも真実だ。中年になって、ふと死に直面して、世界の相貌を変えるを見て、苦しい思いをしたが、世界とは私にとって褪せしまったものなのだ。そう見えてしまったら、物は私を世界につなぎ止めないと知った。もともと私はあまり物を集めない。集めた物たちが私の身体になろうともくろむのを許すことができない(物は人の身体を模倣するものだ)。私は物を大切にしない。ふと、酒をやめたのも、それに近い。酒は私を麻痺させることで、仮の救いを与えてくれる。酔わなくてもいいのかもしれないが、それは私をさらに世俗的に上機嫌にさせてくれる。でも、私はそうした私の死に刃向かってくる隠蔽的な存在の、そのどれも許すことはないだろう。私は、正直なところ、このざりがにほどにもまっとうに生きてない。それは心の奥の、まるで孟子が心の官と呼んだなにか、あるいは本居宣長が直毘霊としたものに近いなにかが私を責める。書きながら、ざりがにの死を悼む心からそれて自分のことばかりに気が向いてしまったとも悔いる。眠れない夜に、がそごそと自然の音をかなでる彼女はいない。子たちを自然に帰せるくらいに育てなくてはいけないなと思う。

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