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2004.01.05

新聞社説という不快

 今日は新聞各紙社説の話題を散漫に取り上げるので、テーマは薄いのだが、共通したモチーフはある。不快ということだ。新聞社説が実に不快だ。私的なことかもしれない。そのあたりの感覚がぶれているのか書いてみたい。
 毎日新聞社説「『夢見る力』を取り戻そう 世代超える価値を求めて」はいきなり終戦時の河井酔茗の詩で始まる。あえて散文ふうに冒頭を引用する。「子供たちよ、お前たちは何も欲しがらないでも凡てのものがお前たちに譲られるのです」終戦の気の迷いをさっ引かなくてはいけないが、それでもこの詩は愚劣だ。この詩を枕にして、毎日は「いったいその私たちは子供らに何を引き継ぐことができるのだろうか」と問う。そんなスタイリッシュな悩みを見せつけられれば、「ふざけんな全共闘世代氏ね」と言いたくなる若い世代の気持ちもわかる。かく言う私も同じムジナで同じ唄を歌っていたのだろうか。次のような毎日の言い分は私には傲慢に聞こえる。


民主主義とは、今生きている人の投票による子孫への独裁である。子孫の将来は、現在の有権者の想像力のなかにある。それはなにも経済の成長力の見通しや、国民負担率の推計といった数字で表される指標のことだけをいっているのではない。今現在のわたしたちの暮らしが、どのような未来への夢や理想によって支えられているか。それが子供らの運命を決めていくことをいいたいのだ。

 「逝ってよし」としか言えないな。この毎日のボケかげんはなんだろう。むしろそこのあるのは絶望なのだが、と思い起こす。柴田翔の「おまえ文学やめていいよ」を決定づけた迷作「ノンちゃんの冒険」に哲学さんとかいう登場人物がいて、次世代に絶望するとはなんとは傲慢なことか、と諭す。それだけは正しい。毎日新聞社説のように剥きだしの傲慢さより絶望のほうがましなようだが、絶望というものは私や私の世代が自らの鏡として抱きしめてこの世界から消えていけばいよい。毎日新社説の了見とは違い、私たちの夢が子供たちの運命を決めることなどできない。だが、新しく生まれてきたものの新しい希望を否定することもできない。もっともそんな一般論など要らない。古い世代がかろうじて出来たことが絶望に至ったにせよ、それが歴史のなかにどのような勇気を刻んだかが重要だろう。「プロジェクトX」のような美しい「物語」が慰撫でしかないのは、悲劇に向かうという真の勇気を暗示しないからだ。なにも悲劇に向かえというのではないのだが。
 読売新聞社説「決断の年 テロ撲滅なしに平和はない 正念場のイラク再建」は標題を見るだけで、儀礼的無視より、疲労を最小限減らすために無視すべきかもしれない。テロなど撲滅できないよ、それが新しい世界の基礎なのだから。しかし、私は責務のようにこの社説を読んだ。不快ではあるが、ふーんという感じもした。ナベツグラッパは執筆者の上で雑音に鳴っているのかもしれない。というのは、「テロ撲滅なしに平和はない」とはこの社説は言ってないのだ。小見出しをまたいで変な引用になるが、文章がもともと変なのだ。

 日本は、米英への支持を表明し、軍隊を派遣した他の約四十か国とともに、フセイン政権の崩壊後、イラクの復興支援の一翼を積極的に担っている。
 【急務は民生の安定化】
 この有志国家連合にとって、イラクの再建は、共通の最優先課題である。テロの温床化を防ぐことが、テロ撲滅にもつながる。

 引用が変になったのは、高校現代国語的に「この有志国家連合」の「この」が何を指すかがよくわからないからだ。現代国語的には、小見出し前の一文が答えなのだろうが、もちろん、答えになっていない。この奇っ怪な文章は、ようするに、「有志連合がイラクを再建することでテロを撲滅する」とは言えないので、いくらラッパが鳴ってもねじれたわけだ。記者の最後の良心か。それでも不快で愚劣なしろものなのだが、問題はむしろ、「有志連合」だ。イラク派兵問題は喧しく議論されるのに、有志連合についてきちんと議論されているのを私は見たことがない。私の見識が低いだけかもしれないが、Foreign Affairsの解説でも十分ではないと思う(参照)。この問題も極東ブログで十分に扱ってはこなかったなと思う。
 余談めくが読売の次の見解はどうかしているんじゃないか。

北朝鮮が、核兵器の量産と小型化に成功すれば、日本は、核搭載の弾道ミサイルの脅威にさらされることになる。

 これも私の見識が低いのかもしれないが、その脅威こそもっとも現実性のないものだと思う。あるいはそういう読みがすでにこの一文に含まれているのかもしれない。つまり、現状のテポドンは弾道ミサイルの脅威ではない、ということだ。そして、あの国力と中国依存の状況で「核兵器の量産と小型化に成功」するわけはないと私は考える。
 不快な朝日新聞社説も笑って終わりにすべきかもしれないが、よく読むと「京都議定書――発効を待たず前に進もう」は見過ごすにはあまりに変だ。

 「まず先進国が削減の義務を負い、将来、途上国が続く」という形は、長い交渉の結果たどりついた基本的な合意だ。先進国が約束を守らないまま、途上国に義務を強いることは現実的でない。議論を振り出しに戻すのではなく、まず議定書の枠組みを始動させる。途上国の参加をめぐる本格的な議論はそれからだ。
 途上国が削減を達成するための手助けを待っていることも、忘れてはなるまい。
 途上国の温室効果ガスの排出は2010年代に先進国を抜くともいわれる。とりわけ中国では過去20年間に二酸化炭素排出量が2倍になり、いまでは世界の14%近くを占める。2020年には車の数が現在の8倍に増えるという予測もある。先進国は中国をはじめ途上国と燃料電池など最新技術の協力を早く進めるべきだ。

 不快という点を除いて、この文章はなんなのだろう。中国寄りの朝日新聞という修辞なのはわかる。だが、背景に京都議定書はダメかもというトーンがあるのではないか。つまり、本音ではダメだけど、それをなんとか政治的に使えと。実は私はそういう発想は悪くないと思う。私もあの議定書はもうしばらくアメリカをこづき回す道具にだけ使えばいいと思う、が、あれでマジで中国による地球環境の悪化を防ごうと考えるなら、それは全然違うのじゃないか。このあたり、外交上の政治のツラと、本当に地球環境をプラクティカルに分ける冷静さが必要だ。朝日に食い込んでいる山形浩生は力を持ちつつあるだろうか。ただ、ちょっと気になるのは、山形に世界というものの認識があるだろうかということだ。浅田彰のように世界認識があっても向きが違うというのも困るのだが。
 朝日の社説のもう一点「ちょっと元気に――変わらなきゃ老人クラブ」にも触れておく。問題は、高度成長時代にマイホームの夢として施策された当時の大型新興住宅(兎小屋)の高齢化問題だ。この社説は、統計も示さず、「変わらなくていけない」と放り出している。不人情極まるし、もともと朝日にそんな見識もない。そんなものだろうが、気になるのは、この手の問題が社会的に取り上げられるとき、その解決とされるような例がすべて頓珍漢に見えることだ。私は正攻法を見たことがない。
 繰り返すが、昭和30年代から40年代にできた大型新興住宅の高齢化問題について、社会学的な施策として取り組んだ論説はないのだろうか。というか、社会学を応用してみせてほしいと思うのだ。
 私の個人的な勘で言うのだが、この問題はその住宅の一部や近隣に大型マンションを造ることではないか。そうすれば二世代の小型の内部化された村ができる。この点は、もう少しくだいて説明すべきかもしれないが、今日はここまでにしたい。

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コメント

沖縄方言で城を意味するぐしく=ぐすくは、
御宿ではなく、御主居でしょ。

御主は、その土地を治める領主。
領主が住む所だから御主居。

投稿: オヌシ@沖縄人 | 2005.11.19 16:31

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