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2004.01.24

理系・文系

 お茶を濁す程度の呑気な話だが、朝日新聞社説「学力テスト――理数教育の底上げを」で、ほぉと思った。毎度の朝日新聞罵倒はしない。


 全国の高校3年生を対象にした学力テストの結果が文部科学省から公表された。
 おおむね予想通りの水準だった国語や英語に比べ、数学と理科の正答率は文科省が期待した成績をかなり下回った。しかも、基本的な知識や原理、法則が十分理解されていなかった。
 さらに数学では、できる生徒とできない生徒に分かれ、二極化がうかがえる。理科では平均点より低い生徒たちの層が最もふくらんでいた。かねて専門家が指摘してきたように、理数系の教育が深刻な状態なのは間違いない。

 ふーんという感じがする。高校三年生なのに「理科」なのかというのも変な感じだが、些細なことはどうでもよかろう。で、この問題は深刻なのか? 朝日はごにょごにょと作文を書いているが、端的な話、二極化というのは、受験の時の文系・理系を反映しているだけではないのか。
 私は共通一次試験前の最後の世代だが、高校のときは明確に文系・理系が分かれていた。私は小中学校と科学小僧だったのだが、高校のときなにを思ったか民族学を学びたいと思って、結果文系にした。一浪して数学ばかり一生懸命勉強したが、その後、ひょんなことになった。二十代半ばでやさぐれて流しのプログラマーをちとやっていた。8ビットCPUくらいの設計はできるぞと思うが、さすがに今は無理か。ま、自分のことなどどうでもいい。
 いつごろだったか、15年くらい前だったかな、知り合いの子の中学生の勉強をちと見ているうちに、あれ?と思った。一円玉は何グラムか知っているかと訊くと知らないという。磁石で吸い付くコインはどれか知っているかというと、そんなこと考えたこともないらしい(たぶん、今の若い子も知らないのではないか)。おいと思って、そこいら本だの花瓶だの持たせて、何グラムぐらいかと訊いたらまるでわからない。一リットルの牛乳パックは何グラムかと訊いたがまるでわからないと言う。おまえ、それで学校の勉強できているのか、というと、それほどひどくはないらしい。なんだ、この世界は!、と思った。この時ある種ショックを受けたので、その後の世代の子供たちの理解には役だった。最近、小学生に、一円玉は水に浮くかと訊いたら、関心なさそうだった。やってごらんと水のはいったコップに一円玉を入れさせる。沈む。終わり、といった顔をしている。おい、そーじゃねーんだよ。ほれと浮かせ見せる。関心ない。なんだ、おめーである。
 環境問題の裏にサヨがいて、恐怖のデマをまき散らすという世相も一段落したが、あの時も変な世界になったものだと思った。「買ってはいけない」がお笑い本で面白いと思ったが、けっこう世の中マジで受け取っていたのを知って驚いた。結局、日垣隆が笑いのめしたが、どうやら、理系のオヤジたちは、言っても無駄だしと思っていたようだ。ま、そうなんだけどね。
 朝日新聞はこう言うのだけど、違うだろう。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。
 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 学校でする勉強なんてどうでもいいんだよ、と思う。学校に行くのは友だちがいるからであり、50人教師がいたら一人くらい優秀なやつがいるかもしれないという博打だ。それより気になるのは、女の子に多いのだが、世の中すれっからしているというか、世の中割り切ってしまいすぎ。たしかに、大人の世の中なんてたいてい、金で割切れる。それに相貌だの知力だの普通の人間には欠落するからそれを金で補おうとするゲームが始まる。このゲームはアイテムさえ獲得できれば参加できるし、勝つかもしれない。それだけのことだ。
 なぜ、世界を感じようとしないのだろうと思う。世界を知ることは、他の誰かでもできる。世界を感じ取ることができるのは生きている間の「私」だけのことだ。自分が世界から感じ取ることが理科や社会、文学の基礎になる、と思う。
 学力なんか問題ではない。感覚が麻痺していることが問題なんじゃないかと思うが、そう言ったところでつまらない結論か、である。

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「社会」カテゴリの記事

コメント

この問題に対しては予想の範囲を出ないんですが・・

(そして下手なことを言うと「偏見」としてとらわれそうですが)

ちょっと、近頃感じていることを述べさせてもらいます。

なんか・・・「小さい幸せ」でいいみたいです

「どうせわたしたちに世界を変えることなんかできないのだから、必要以上の知識や考えは必要ない。だったら、自分たちの生活が豊かになる程度の知識にとどめておくのが一番幸せだ」

っていう雰囲気を感じます

ぼくも・・それはそれで否定しないんですが・・・

世界の輝きっていうか・・・いろんなことに対して「色」のようなものを見つけら得る喜びってのは、それとは違うっていうか・・・・

なにも「世界を変える」とかいう問題とは違うと思うんですが・・・・

やはり執拗にやると例の「・・うざい」などの決め台詞が出てくるみたいです・・。


んで、これに絡んでもう一つ思うのはやっぱ・・「Love & Peace」の言説です。


「Love & Peace」っていうのはそれ自体悪いことじゃないと思うんですが、なんか・・・・これが曲がって・・
「愛こそ全て」になってる感じ・・・

んで、
「“恋”と“愛”だけが全て」になるみたい・・・


そういう傾向は・・けっこう感じます

(もちろん考えようとしている人たちもいるんですが・・)

投稿: m_um_u | 2004.01.24 14:14

お初にコメントさせていただきます。

>世の中すれっからしているというか、世の中割り切ってしまいすぎ

たしかに、こういう子は多いように思います。それはやはりそういう大人が多いからではないでしょうか。

世界を自分の目で直接みるのではなく、ある種のフィルターを通してしか世界をみれない、という感じがします。

そうやって見える世界は、それだけで完結していて、そこから広がる要素はひとつもない。そういうような安全装置のなかに自分の身をおいているのかもしれません。

一人の人間として生きていくうえで「希望」という言葉は重要なキーワードになると思います。自分と世界をつなぐ線にある種の変化が起こりうる、というのが希望という感覚に結びついていくのだと思います。

過度に情報化、管理化された世界において、そういう感覚を得るのは難しくなってきているのかもしれません。

投稿: らした | 2004.01.24 14:29

m_um_uさん、ども。これはけっこう深い問題だなと思います。いろいろ思うことがあります。m_um_uさんの自覚とは違うのかもしれませんが、先日の山谷の疑問とか、苦しみのどん底みたいな意識とも関わる部分があるのだろうなとも思います。私の場合、歳については公開しているように、ちょうどビートル世代の下です。だからというわけではないけど、全共闘世代を含めてですが、ビートルズ的なLove&Peaceには深い嫌悪感を持っています。
 ただ、そういうふうな切り出しの問題でもありませんね。かといって、正当であるけど、ヘーゲルなど持ち出しても重苦しくなるばかりです。ただ、あえて世代論的な循環というつまらないお話にしてしまうと、最近の若い子がチェ・ゲバラのTシャツとか着たり、ビートルズがいいなと聞いたりしているのを私が見ると、なにかもう完全に違うのではないか、あるいは、違いはしないけど、そこに到達する言葉はない、といった感じはします。悪口に聞こえてはいけないけど、m_um_uさんはある意味、私のような世代から「学ぼう」としていますよね。そのフィルタというかそこからは言葉は通じやすい、というのはあります。しかし、率直なところ、私が感じるもどかしさみたいなのはうまく通じないだろうし、通じるというのとも違う。通じるという発想自体自分の衰えような気がします。そう言いながら、むしろ、自分より上の世代が私に向けていた、もどかしさみたいななにかを思うのです。
 むずかしいですね。「小さくまとまる」、というのはわかります。また、私のような歳になると(意外ですが、本音では歳だとは思ってもいません)、今の若い人間は経験が足りないとか特定の経験の欠落とか言い出しかねません。しかし、そんなことはまったくないのであり、感性も経験も、その本質において、今の若い世代が変わるわけはありません。これは根拠なしのただの信念です。
 私の上の世代ですが、昭和24年生まれの高野悦子(岩波のかたではありません)の「二十歳の原点」という本を私は自分が二十歳ごろぼろぼろになるまで読みました。シアンクレールを探しに行ったりしたくらいです。そこに描かれている二十歳の女性の心という本質は今もなにも変わらないでしょう。彼女の時代には、ちいさくまとまることができない、あるいはそうでないことがある倫理的な課題で突出した時代でした。それはある意味滑稽なくらいの突出です。でも、今はただ逆のブレのような気がします。先日、倉木麻衣のライブを見ながら、立命館か、同じ歳かと思いました。彼女と高野悦子には、そうした外在性以外なんの共通性もありません、が、奇妙なある共通性のようなものも感じました。単に二十歳の女性というだけの共通性かもしれません。後年高野の同級生の、すでにおばさん。という人に合い、どういう人だったかと訊いたら、「こがらなひとだったよ」と答え。笑ちゃうみたいですが、そうかと小柄かと思いました。二十歳の小柄な女を抱くという感触がふっと脳裡によぎりましたね。性的な感覚ではなく、そのころ思った、人間って、女ってどうしてこんなにちっぽけなんだろう、そして俺はなんてちっぽけだろう、と。その小ささと身体をもって存在しているせつなさみたいなのは、今も心の苦しみに近いです。そのせつなさの原点のようなもの、そこからとりあえずの逃げ口として、かつては革命意識があり、今はこぢんまりがある。でも、逃げられない人は、ただ逃げられないでしょう。せいぜい、死んじゃいけないなと思うだけですね。

投稿: finalvent | 2004.01.24 19:55

らしたさん、はじめまして。「一人の人間として生きていくうえで「希望」という言葉は重要なキーワードになると思います。自分と世界をつなぐ線にある種の変化が起こりうる、というのが希望という感覚に結びついていくのだと思います。」とのこと。そう思います。
 ただこのあたり、私の感覚の問題かもしれないけど、希望って、なんか、そこになんとなくあるっていう感じがするんですよ。棚からぼた餅、の、餅、っていうか。なんかすごく消極的なんですが。幸運を待っているというのじゃなくて、ああ、なんか今日も生きているな、なんでだろ、みたいな。あ、希望だ、みたいな。
 理屈っぽくいうと、自分と世界をつなぐ線の、その変化のアウトプット側ではないか、と。では、インプットは?というと、すごく恥ずかしいのですが、愛ということです。宗教めくけど、イエスに許しを請う女に、イエスは、この女がすでに救われていることはその示した愛でわかる、と言うのです。愛を条件にしないのですね。愛があって許しなり希望がある、というインプットモデルじゃなくて、許しなり希望なりがあるとき、それは遡行して愛があったことを暗示すると。逆にいうと、愛とはと考えず、希望がぼた餅に見えているとき、愛があった、ことの喜びだと思うのです。どうも、臭い話ですが。

投稿: finalvent | 2004.01.24 20:04

最後に一つだけ確認しておきたいことがあります
(もし、現時点でお答えが難しいようでしたら聞き流していただいて構いません)

たとえば、現在でも
「二十歳の原点」を読むような人たち・・
戦後の体験を洗いなおしていってそこから何かを学び取ろうとする人たち・・
(なんらかのせつなさの中で)自分の内面を追求していって、その限界の中から何らかの自我を見出そうとしている人たち・・


こういう人たちが若い世代にもいるとした場合、(というか、ぼくはそういう人たちを何人か知っているのですが)、その人たちは「限界の中から自分なりの何かを見出そうとしている」ということになるんでしょうか?

もしそうだとしたら・・


そういう人たちに安易に知識や認識を渡そうとするのは・・間違っていることなのでしょうか?

(なぜならその人たちは「限界の中からしかホンモノは得られないかもしれない」ということを直観的に感じているのだろうから)

その人たちから、自分で苦しみ・自分なりのなにかを見つけるという時間を奪うということは、彼や彼女たちの誇りを傷つけることになるんでしょうか?


・・難しい問題ですが・・。

投稿: m_um_u | 2004.01.24 20:58

m_um_uさん、ども。問題の意図はわかると思います。なにかを学ぼうとする人が学び取れるのか、内発的になにかが生まれるのか。そういう人にどう向き合うべきか。この問題について、間接的な意見になるのですが、いつも思うのは、森有正(ご存知ですか)が、「内的な促し」と呼んでいたなにかです。私はフランス語には疎いので、英語であえて言えば、internal urgeでしょうか。英語の語用にあるかと調べると、ありますね。問題は、このurgeという感覚です。日本語にはうまい訳語はないのですが、意味は、ある種の青年ならわかる、あーじっとしてらんない、って駄洒落みたいなものです。英語の語感だと、種が皮を食い破って芽を出す、っていうか。余談が長くなりましたが、学ぶ-教わる、伝わる-伝えるという二項の関係でなく、ただ、その超越的なurgeが決めるのだと私は思います。そして、そのurgeは人生の後半になると、人生の経験のなかに比喩としてその意味を顕現するのだと思います。urgeに真摯であった人間には、吉本隆明が不可避というように、選択なんかなんにもないのです。敗残であろうがただ、この一本道を行くだけなのです。私が付け加えるなら、urgeが迷いに見えているとき、人はurgeに食い尽くされつつあるのだと思います。たぶん、ここには死の契機があります。「それでは死ねない」、「そう思って死にたい」っていう奇っ怪な情念です。ちょっと難しい言い方ですが、ま、ざっくり言うと、迷っている、という人間は迷い続けていればいいのです。「それでは死にきれないじゃん」っていう道が見えるのは、いいことか悪いことかわかんないですから。

投稿: finalvent | 2004.01.24 21:32

一円玉のお話、興味深く思いました。やっぱり「肉体感覚」が無くなっているのだろうなって感想です。そんなこと知らなくても生きていける、っていう感覚なんでしょうね。一円玉の直径が5万分の1の地図で何メートルになるか聞いてみたらどうなるでしょうね(笑)たぶん興味ないんでしょう。カブトムシの電池が切れた(死んでるんですけど)って言った子供の話とか思い出します。

電気店に「チャンネルください」ってリモコン買いに来る大人がいるので「ものの名前」とかにすら興味が失われていくような気がして怖いと思っています。

投稿: たりぽん | 2004.01.24 21:39

urgeですか・・
初耳ですが、なんとなく判るような気がします・・
(森有正も初耳です)

ぼくの場合それはidentityへの焦りみたいなものでした。
20歳前後のときには常にそれが付きまとっていたので・・

そして、
「それでは死ねない-死に切れない」っていうのも分かる気がします・・
あのとき・・ぼくもそう思ったので。

そして、その反動で一気にいろんなことが見えるようになったように思います(だから、ぼくはこの過程を「ウラ返り」って呼んでますが・・)

ただ・・

それをほかの人たちにも求めるのは・・・ぼくは辛いので(あの辛さは知っているので)、ためらってしまうのですが・・。

「みんながみんな強くなれるわけじゃない」って思うのです。
(たぶん、この辺りは極東さんも同じ考えだと思います)


そこで、ぼくが得たものだけ渡そうと思うのですが・・
(そして・・たぶん日本も世界もけっこう危機的状況に来ているように感じられるので、焦りを感じるのですが)


・・難しいですね


でも、ぼちぼち考えていこうと思います


でも、いろいろ参考になりました
ありがとうございました  m(_ _)m

投稿: m_um_u | 2004.01.24 21:52

朝日のは私も読んだ。他にも関連記事がちらほらとちりばめられていて、学力低下は深刻だと思う。学校五日制・新学習指導要領など、現在のゆとりというまやかしの教育事情に小学生のわが子の身を委ねる親の身の上なので、おきらくではいられない。
「新幹線授業学校を走る」(←たぶん)という昔の記事が参加した講演会の資料にありました。「昔と比べて、今の授業は習熟するための時間が短く、そんな中で子供たちは授業についていけず・・・」と、涙なくしては聞いていられませんでしたね。(のめりこみ度100%,そわそわと誰かに見られてないかひやひやしました。)
このままいくと、今の小学生が高3の頃には、もっと悲惨な結果かもと、思ってしまうノダ。(悲観論者)

学力はどうでもよいという人に限ってけっこう知識人だったりするのは気のせいだろうか?テレビでの討論番組もいくつか見ましたが、個性を伸ばす教育が望ましいとか、いろいろでたなかで、一人だけ、「もちろんある程度の学力は必要ですよ。」と発言していたのがいまだに記憶に残っている。たぶん、学力は問題ではないというのは、ある程度の学力が備わっているということを前提としているに違いない。そこのところを取り違えるととんでもない痛いメにあいそうである。ズバリ、夫は取り違えている。ということもあって、私はますますゆとり教育反対、学力低下阻止・・・と日夜苦労が絶えない。

二極化というのは、理系・文系ではなく、何もかも分からん⇔それぞれ分かるなのでは?(最近はその傾向があるらしい)

投稿: やまざる | 2004.01.25 01:27

やまざるさん、ども。「学力はどうでもよいという人に限ってけっこう知識人だったりするのは気のせいだろうか?」いえいえ、気のせいじゃないです。これは、私なんか、けっこう悪人です。ごめんなさい。とおふざけじゃないなと思います。ただ、残酷な言い方だけど、日本はこれから階級化し、知識層と消費層が分裂し、後者に学力はあまり求められなくなるというか、米国風、見渡すばかりアホばかり、なのにエリートがいます、ってなると思います。うーむ、ちょっと私はマジこいて反省です。

投稿: finalvent | 2004.01.25 08:16

m_um_uさん、トラックバックども(最近はトラバ、っていうのかな)。で、読みました。ちょっと先輩風ふかさせてください。私のような人間が言うのは滑稽ですが、松岡正剛っていうのはキケンです。サヨとかイデオロギーとかいう意味ではないです。この人の経歴とマスメディアの対応の20年くらいの歴史を知っていますか。ただ、それほどキケンではないのは、この人は本質的なところでスカです。次に、ハイデガーなんですが、前期と後期で議論が違います。根底に通じるものがあります。前期の「本来性」の哲学はかなりヤバイです。ちょっとわかりづらいかもしれません、こうした先輩風はご不快かもと思います。だから、あまり、マジに受け止めなくていいです。ハイデガーについては非常に錯綜しています。日本はどうしたことか現代フランス哲学が好きなのですが、当のフランス哲学っていうのは、ドイツ哲学の劣等コンプレックスから出来ているし、誤読のかたまりです。じゃ、純正ドイツはというと、敗戦国ということもあって、サヨまくってぼろぼろです。このあたり、竹田青嗣がいい仕事しているのですが、今の若い世代は竹田なんかダサイと思っているのでしょうね。竹田がむしろ、こうしたオチョーシこかないだけ、彼は緻密な哲学者です、とま、ご関心があれば、薦めたいのですが、なんせ退屈です。

投稿: finalvent | 2004.01.26 10:11

え・・松岡さんってスカなんですか!?
うわ・・ヤバイなぁ(笑)
けっこう人に勧めてるけどなぁ・・・。

で、
ハイデガーですか・・。
これはぼくもきちんと読んでないで、あのまとめだけ読んで一気に妄想が先走ってしまったのでアレだったんですけど・・

そうか・・ちゃんと読んだほうがいい、と。
(いや深刻にはとってないので、ご心配は無用です)


うーー・・ん

まぁ、専門でもないので、自分が考えやすいとこだけやってきます。(でも、「人に伝えるときには注意しろよ」、と)


あと、付記ですが
竹田青嗣さんは好きです

じゃ、やっぱあの辺りから見ていこうかなぁ・・

(いろいろありがとうございます)

投稿: m_um_u | 2004.01.26 15:07

m_um_uさん、ども。松岡正剛についてボロクソ言ってしまって、ちょっと反省しています。ネットをぐぐるとけっこう人気ありそうですね。というわけで、私の評価など気にしないでください。ちなみに、松岡正剛って、読むたびに脱力するんですよ。例えば、こんな感じ。

honya BOOK NAVI underground
http://archive.honya.co.jp/contents/magazine/booknavi/underground/index.html

ま、こんなのは些細なことだけど、例えば、

松岡正剛の千夜千冊『中国の赤い星』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0188.html

<quote>
 手の中に入る文庫本で『中国の赤い星』を読むのは変な感覚である。2冊に分かれているのも、年表や略伝が上下に分かれているのも、なんだか客観的な気分になってしまう。読書というものがそうしたアフォーダンスをもっていることは、これまでもむろんしばしば体験してきたことだが、それがスノーのようなある意味ではピュアなジャーナリストの本にさえおこることは、いまのぼくには新鮮だ。しかし、「そうだ、ひょっとしたら」とおもってページを繰っていたのだが、残念ながらここには新たな毛沢東像は見えてはこなかった。
 そのかわり、かつて世界が毛沢東を見ていた目がどういうものであったか、ようするにウォーホルが毛沢東をシルクスクリーンにした理由は、やはりこの本から出発したものだということがはっきりと伝わってきた。そういう意味で、本書はノンフィクションの正真正銘の古典なのである。
</quote>

 こういう文章を読むと、阿呆かとか思うのです。なにが「スノーのようなある意味ではピュアなジャーナリスト」なんだかという感じです。
 ただ、そのあたりの私の暴言は、私という人間の胡麻臭さでもあるので、私の見解に注意したほうがいいのかもしれませんよ。

投稿: finalvent | 2004.01.26 17:48

(笑)大丈夫です

失礼ですが、ぼくはどのような人も完全に信じることはないようにしているので。
ただ、いままでの松岡さんに対する信頼が8割だとすると、それが5~6割に落ちたって感じです

それから、
たしかにここで引用されている文章はひどいですね(笑)

そして、あの人の書く「情報」関連の文献は確かに・・ちょっと・・NTT出版な匂いがしますからね(いろいろな意味で(笑)

でも、「知の編集術」シリーズは面白かったです (^-^)

(こういう言い方は失礼かもしれないけど、それにしても極東さんは正直ですね(笑)

投稿: m_um_u | 2004.01.26 18:08

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