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2004.01.19

教養について

 「教養」について、自分はあまり関心がない。いや、「教養」についての話題に自分がいつも頓珍漢な思いがする。ある意味、私にとって教養は非常に明確である。ちょっとメモがてらに書いてみたい。
 まず、ヘンテコな結論から先に書く。これは誰か言っているのかどうか知らないが、どんな教養であれ、その基礎がなければなんの意味ないということ。教養の基礎とはなにか。人格か? 正義か? 美的センスか? 私はまるで違うと思う。私は単に独断なのか、私の教養の実は成果なのか、こう思う。教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」というのは、すべての層の人を含む。
 私は教育について、奇妙な理想を持っている。学力なんかどうでもいい。まず大道芸を一つ身につけろと。まったく異文化の町に一人放りださせたとき、誰かの気を引かせ、その人と快活な関係が持てるようにせよ。難しく言えば、「おまえはユニバーサルな人間であれ」ということだ。大道芸で金が得られるならなお良し。ちょっとしたことでもいい。私と楽しみをわかちあってくださいと、無言で伝えることができるか、である。
 話はいきなり余談だが、先日NHKのドラマで「麻婆豆腐の妻」を見ていた。ドラマとしては多々難点もあるのだが、その背景にある陳建民というユニバーサルな人間の不思議さを思った。彼は天才である、で終わりにしてもいいのだが、このユニバーサルな人間はどこから教養を得たのか。四書五経を読んだとは思えない。まして、彼を取り巻く中国人民に教養の素地があったとも思えない。だが、はっきりとわかることは、彼こそが教養人である。そして、そう考えるなら、教養というのはどうも奇妙なものであるとしか言えないことになる。息子健一は建民がトイレに「吾日三省」「低賞感微」に貼り紙をしたというエピソードを語る。すまんが私には「教養」があるので、三省堂の語源である「吾日三省」と聞けば、こう暗誦できる。


曾子曰わく、われ日にわが身を三省す。人のためにはかりて忠ならざるか、朋友とまじわりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。
(曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。 與朋友交而不信乎。傳不習乎)

 私には本当の教養はないから、曾子先生は丘先生に比べて堅物やのぉと思い、歩道自転車に怒鳴り散らし、友人を避け、ブログに知らざるを散らす。臨済録普化のごとくである。低賞感微と聞いても中国人には必要だよね、と思う程度。余談はさておき、そうした訓戒を百万遍唱えても建民はできない。ではやはり天才なのかというと、よくわからない。が、書を読めば教養が付くものでもないなと思う。
 話は飛ぶ。たまたま知ったニュースだが、衆院福岡2区・古賀潤一郎議員の学歴詐称が問題になっているらしい。それだけなら別にどうってことないのだが、このおっさん、米国の大学卒業と言っていたわけか。カリフォルニア州、米ペパーダイン大卒業としていたらしい。気になって、少しニュースを調べたのだが、よくわからない。古賀潤一郎議員の場合、B.A.かどうかが問われているのだろうか。
 マスコミは彼のディプロマを問題にしているのか、B.A.を問題にしているのか。というあたり、あれ、日本でいう大学卒業ってなんだと思い返すと、「学士」なのか。わからない。いかんなぁと思う。学士とB.A.というのはどういう関係になっているのか、長年考えて、よくわからないでいた。このあたり、個人的な事を書くのもなんだか、私はB.A.と学士両方持っている。だが、普通、日本の学卒は国際的にB.A.扱いされているのだろうか(だとすると、それはおかしい。B.A.は後に述べるように自由七学芸の基礎習熟を意味する)。このあたりも、よくわからないのだ。B.A.程度、さして問題でもないということなだろうとは思うが。
 で、なんでこれが「教養」の話題と関係するかというと、B.A.とは、Bachelor of Arts.だ。BachelorはArtsの世界の前に立つ入門の候補者ということだ(だが、中世では神学の前提)。で、Artsとはなにか? で、なんでなのか、日本ではfine artsがアートと呼ばれている。このあたりの日本語の感覚もよくわからないところだ。
 B.A.と対になるのがB.S.つまり、Bachelor of Scienceであるように、ArtsはScienceとの対になる言葉だ。Scienceは「科学」と訳されているのだが、これも日本では「自然科学」ということになる。なんとも変なのだが、いずれ、Artsが教養なのである。知識=Scienceでなく、人間の技芸=Artsとして習得されているものだ。
 Artsが教養であるということはどういうことかというと、Artsはthe seven liberal artsの省略形である。つまり、教養とは「自由七学芸」である。七学芸を簡単に言うと有名なラテン語の詩がある。

Gram. loquitur, Dia. vera docet, Rhet. verba colorat.
Mus. cadit, Ar. numerat, Geo. ponderat, Ast. colit astra
(文法は語り、弁証は真理を教え、修辞は言葉を飾る 音楽は歌い、算術は数え、幾何は測り、天文は星を学ぶ)

 ただ、これも米国などでも誤解されているみたいだが、字義通り、ということでもない。文法というのはラテン語のことでヴァルガーな言葉(フランス語とか)を使わない、弁証については弁証法というより論理学だ。修辞は今日の作文技術と言っていいだろう。
 余談だが、日本の英文法といいうのは米国の文法と修辞がプラクティカルに混在したものを直輸入したのでごちゃごちゃになっている。現在の初等教育でどう教えているかわからないが、too~to~をso~that~cannot~に書き換えるとかまだ文法で教えているのだろうか。疑問も持たずに学ぶやつも馬鹿だが、教えるほうは無教養だ。これは文法ではない。修辞なのである。キャロルキングが、It's too lateと歌うのは、「もう私たちの愛の関係はダメなのね」という修辞だからである。さらに余談だが竹中平蔵はこう言った。

Big banks have their merits, but we do not hold the idea that they are too big to fail.

 これは修辞であるから、「銀行が大きすぎるからといってつぶせない、とは考えない」ということになる。が、そのあとの竹中の弁解のお笑いぐさは、修辞の無教養丸出しなので、やはり初等教育で学んでおくといいのだろう。
 話を戻す。算術の含みはよくわからないが、数えるというあたりでカントールを連想する。Geoが幾何学であることはプラトン以来の伝統つまり「原論」である。天文は占星術なのだが、これについては触れない。私はB.A.なので当然、七学芸は門前小僧程度の知識はある。グランセイザを見なくても占星術の基礎も知っている。そして、7芸の上の神学も少し学んだ。
 問題はもう一点ある「自由七学芸」の「自由」ということだ。つまり、リベラルとはなにか。これも日本では珍妙な議論が多いのは、明治時代に出来たこの言葉の字面に別の伝統を読むためだろう。武芸書などにも「自由」ということが基本になるのだが、これはリベラルとは違う。じゃ、リベラルとはなにかというと、これは、奴隷など専門労働から解放された自由人の知性である。学校schoolのギリシャ語スコレーが「閑暇」を意味するにように、時間を従事させられない者のものであり、逆転して、時間を従事する(だからOccupationが「仕事」なのだよ)強制力に対立する知性としての自由を意味するのである。
 このあたり労働が神聖とされるエートスを持つ日本人にはわかりづらいのだが、このギリシアの労働観は、キリスト教世界では、労働=罰、と結びついていく。日本人と限らず米人なども、アダムとイブの話を、神との約束を破って悪いやっちゃと読むが、あれは、罰としての労働の起源の物語でもある。
 とま、「日本人は知らねーだろう」のいやったらしいオンパレードになるのだが、こういう世界が西欧の「教養」の下に潜んでいるのであり、それをまじこいてハリポッターみたいな世界で青春期に受けると、ひどい目にあう。というか、これって、そういう世界観に生きるためのものであり、ひいては神を自然の秩序として受け入れるための素地でもあったのだろう。西洋の文脈では、かくして神を知ることで自由となる、ということなのだろう。ま、日本人にとって知ったことかである。
 こうした自由七学芸に相当するのは東洋では四書五経である。四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経とは「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」。大学生になったら、いちおうイントロダクトリーな部分くらいは読んでおけよなとも思うが。そういうと、日本の文脈では「論語」「孟子」がメインになる。だが、重要なのは、「易経」「詩経」なのだ。と言っても空しいが、が、それより重要なのは、「三字経」や「千字文」なのである。
 世間では、声に出して読む日本語とか寺子屋教育の復権のようなことが言うが、「千字文」を無視しているあたり、東洋の教養も廃れているのである。

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「雑記」カテゴリの記事

コメント

教養の話・・
ためになりました m(_ _)m

でも・・
四書五経とかってめんど臭そうですね・・(^^;)
(こういうこと言ったら怒られそうですけどね)


あと、
これは勝手に思ったんですが・・・

これだけの「教養」をお持ちの極東さん
これ使って、「ちょっとお金を・・」、とは思わないんですか?

たとえば、投げ銭とか・・

(※ご存知でしょうが、いちおギロンの参照のために↓)
http://www.juno.dti.ne.jp/~logicp/zaregoto/nagesen/nagesen0.html


っていうか、前に投げ銭について調べたときに、どうも幅が計れなかったから、伺いたいっていう私的動機が主で聞いているのかもしれないですけどね(笑)

で、
どんなもんなんでしょう・・?(^^;)?

投稿: m_um_u | 2004.01.19 18:18

m_um_uさん、どうも。「四書五経とかってめんど臭そうですね」はいいですね。ええ、そういうもんだと思います。私は諸子百家の類もほとんど読みましたし、コーラン(クルアーン)なんかも。もちろん、聖書は全巻。って、なにも誇っているわけではありません。大半は翻訳ですし。ただ、若いからできたと思います。その恩恵は歳とってからあるにはありますが、それを人に勧めるというと、少し曖昧な気持ちです。むしろ、四書五経ではなく菜根譚なんかを読んだほうがいいかもとも思います。

話代わって、投げ銭、これってPayPalですか。論文を買うために登録はしてあるのですが、ぴんときません。アメリカなんかだと50ページくらいのレポートが10万円くらいで売っているわけですが、日本だとライターは少ないですね。ただ、ライターと米国リサーチ社が抱えるインテリジェンスではちとかなわない。あと、こないだも書いたけど、銭っていうと、日垣隆のMLあたりがいいラインかなと思います。私は日々ざらざら書いているけど、これを少し絞れば日垣のレベルか?というとまだまだでしょう(田中宇ほどの芸もありませんし←これは毒舌)。日垣が苦笑しそうですね。ただ、私はブログというのの可能性をもうちょっと考えてみたいです。ま、しょっぱならからビジネスモデルを否定はしません。Google Watchとかだとけっこういけるでしょうね。文章も利益という点では、切込隊長のいうようにフローがないと。極東ブログはフローの志向がまだできてません。分野的にやればできるかなとは思うけど、ちと物騒ですし。

投稿: finalvent | 2004.01.19 20:43

あ・極東さん、ご存知なかったんですね。

投げ銭というのは・・

(ちょっといま、昔収集した資料がどこかにいってしまって、あいまいなんで、印象から言ってしまうのですが)

書評パンチの方が関わっていたプロジェクトだと思うんですが・・

確か、

それほどのリスクを負わずに、このシステムに登録しておけば、誰かがサイトを閲覧しに来て気に入ったときに、ページ下に設定されている「投げ銭ボタン」を押せば、1円とか5円とかの小額のお金が振り込まれる(あるいはシステムの中のその人の口座にたまっていく)

というような感じのものだったと思います


※投げ銭システム
http://www.shohyo.co.jp/nagesen/

「大道芸人に対して、感嘆した見物人がお金を支払えるようにするシステム」っていうふうに、書評パンチの方はいってらした(・・と思います)

問題は、どこからそのお金が出るかですが・・

この部分はちょっと・・いま忘れてしまいまして・・

申し訳ない m(_ _)m


ところで、「菜根譚」・・とても面白そうですね 
いい本教えてもらいました (*^-^*)
(さっそくwishlistに登録しちゃいました)

投稿: m_um_u | 2004.01.19 21:02

興味深く読ませていただきました。finalvent氏が仰るような教養の基礎が

>「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」と
>いうのは、すべての層の人を含む。

に基づいているならば、教養にはやはり趣味を超えた社会性が必要とされるのかもしれませんね。

岩井克人が『ヴェニスの商人の資本論』の中の「十冊の本」という文章で

>「知識」などという冗長な言葉はもうすっかり死語に
>なっている。(中略)
>仏教において絶対で不滅な人生の根源のことを意味している
>「識」という言葉の重みを取り払われた「知」は、軽妙で、
>微細で、多元的で、非中心的で、ズレに満ち、そしてなによ
>りも胡散臭いものとして規定されるようになったのである。

と述べているのですが、私から見てfinalvent氏は「識」の重さを持った教養人であるなぁと思います。

「識」のないアヤシイ「知」に導かれやすい人間として、今後ともアドバイスいただければ嬉しいです。

投稿: おおくら | 2004.01.20 00:03

おおくらさん、どうもです。率直にいうと、自由七学芸や四書五経から朱子学あたりのもうちょっとディープな話をしてもいいかなと思ったのですが、あえて避けています。端的に言えば、日本人には通じないだろうな、と。そのあたりの欧米や中国との断絶感が日本の教養人に危機とされていないのかという思いはあります。反面、そういうテクニカルな内容を別にして、私の考えはというと、おおくらさんが読み取っていただいたとおりです。

細かい点でいうと、非難ではないのですが、岩井から引かれている

>「識」という言葉の重みを取り払われた「知」

という用語は仏教的には間違っています。このあたり、唯識について少し学ばれるといいかとは思います。が、端的に言えば、「識」は現代用語の「認知」に近い概念です。あと、私のポカミスかもしれませんが、仏教に「知」という概念はないはずです。「智」のはずです。

あと、『ヴェニスの商人の資本論』は胡麻臭いなと感じるのですが、このあたりはおおくさんがご専門ですね。


投稿: finalvent | 2004.01.20 10:30

あ・ちょっと気になったので、やっぱ少しお話を伺ってみます m(_ _)m

極東さんは上のほうで、
liberal artsの発生過程を「奴隷的労働からの解放」とされていますよね?

ぼくもけっこうそういうのはうなづけるところがあって・・

文脈とか背景は違うんですが、
なんか・・・・
ある限界的な状況(虐げられた状況、マイノリティな状況、追いつめられた状況)の中からしか、ホンモノの技芸・・っていうか生きる術って生まれないような気がするんです・・。

それはなにも、「苦役に身を落とせ」、ってことをすすめるわけじゃなくて・・・
現代社会でも、心的危機に陥って、そこから自分の力で這い上がった人ってのは、なにも悩まないで生きてきた人よりも強いような気がして・・。
で、
そういう人たちも生きるための術、っていうか・・
「考え」のようなものを作り上げているような気がするんです。

・・そういうのまでARTSに含めると範囲がでかくなりすぎてしまうんですが・・・・。

とりあえず、暴走してみます m(_ _)m

で、
そういう限界状況の一例として、
あいりん地区とか山谷とかあると思うんですが・・・・

あのあたりからはそういう特有のARTSは生まれているんでしょうか?

(なにかご存知ですか?
もしくは、あの辺りの話は興味があるので、いずれblogにでもしていただけると・・)


あと、余談ですが、
辺見庸が吉本隆明の顔を見て、「・・山谷の典型的顔だ」、っていっていたみたいですね

投稿: m_um_u | 2004.01.20 18:40

m_um_uさん、ども。なんか一次代前の教授の真似みたいですが、「それはいい質問だ」という感じがします。冗談はさておき、そういう問いは貴重だと思いますよ。私もその問題、つまり「ある限界的な状況からしか真理は生まれないか」と考えたことあります。最初に言うと、答えはないように思います。開かれた問いだと思います。

私はこう考えます。人はそういう限界的な状況に耐えられはしない、と。そしてその辛さの閾値を越えてしまうと、人はある種生物的に自己を守るように、知性や能力を劣化させるように思います。感受性が弱ければ精神的な苦痛は減ります。身体的な苦痛の閾値を越えるということは次第に死ぬことを意味するだろうと思います。ドミニク・ラピエールの「歓喜の街カルカッタ」を思い出しますね。実際の現代のコルカタは違う面がありましたが。

ちょっと神学的な言い方になりますが、人間がそういう苦悩や絶望に陥ったとき、人間の内発的な能力で救済は可能なのか? 私の考えでは、それはだめだ、です。外在的なり超越(神の介在)の必要があると思います。

「あいりん地区とか山谷とか…あのあたりからはそういう特有のARTSは生まれているんでしょうか?」これも難しい問題で、答えは開かれていると思います。

私の考えでは、基本的にそこには絶望が満ちていると思いますし、そこからは、超越の契機なくしては、なにかが生まれるとは思えません。

辺見庸についてですが、このおっさん、けっこう井高になるのですが、吉本やチョムスキーに本質的な問題が突きつけられるたび、ひるんでいるのが滑稽です。このひるみと井高には相関があるように見えます。計算高く、嘘のある人間だなと思います。

変な比喩ですが、自分が数名と捕らわれの身になり、逃げよう!とき、私はこのおっさんと逃げる気はない。アホのブッシュのほうがまだましだと思います。ブッシュには人間の善性というものがあります。吉本には善性はないけど、この爺ぃはいつも本気です。一緒に逃げます。

苦労・苦難というのは、人間の内面に堅い礫(つぶて)のような誇りを作ります。人間は誇りなくしては生きられないからです。だから人はその冷たい礫を愛しすらします。しかし、絶望的な状況を越えて生きることができたなら、その礫は捨てるべきでしょう。自分の意志から生きるという堅さではなく、たまたま活かされている幸福を素直に受け入れるべきだと思います。私という存在は無から生まれ、無に帰っていく。それだけです。無でなき時は、生きていることを祝福すべきです。(連想ですが、非情ですが、江藤淳の死は私には不快です)。

私はブログで「誇り」ってなことをぬけぬけと書いてしまいますが、そんな書ける程度の誇りは本当は恥ずかしいことだなと思います…が、自分はまだまだ至らないです。

投稿: finalvent | 2004.01.20 20:08

どうも、
なんか・・けっこう面倒な質問だったのにお答えいただいてうれしいです。

>人はそういう限界的な状況に耐えられはしない、と。

この部分については・・
ぼくはYesでもありNoでもあるような感じがします

たぶん、
現代の問題では「ひきこもり」なんかがその典型例でしょうが・・これも・・いずれは社会に還っていかなければならない。

(そして、実際にそのように努力されている方を、ぼくは知っています)

なので、いちがいにはいえないのではないか、と。


それに対しては、
「努力する暇もないほどに仕事の日程が詰まっているんだ」という意見もあるかと思いますが・・・

これはもっともだとぼくも思います
(実際、ぼくも体験しましたので・・忙しくて脳みそが働かなくなっちゃうんですよね・・)

しかし、
やはりなんらかの努力をしないことには現状は変えられないはずなので・・そしてそのことを後から知ることになると思うし・・のちに知ったときのほうが辛いだろうし・・・

だったら、やっぱりいまのうちにやれることをやっておいたほうが(・・・ってのは正論過ぎますね (^^;))


うーーー・・・ん

まぁ、ちょこちょこ気になること減らしていっておいたほうが楽だって話なんですがね(笑)

そのためにはやっぱ自己統制(自己の意思の強さ)が必要で・・・

で、そのためには・・・・外在的要因ですか・・・。


うーーー・・・ん
似たようなことは経験的にあったので・・・納得しちゃいますね・・。


でも、
外在的な要因ってのは<神>じゃなくても、<人>でもいいわけですよね?

たとえば、経験や知識を持った人間がちょっと後押ししてやるとか・・・

経験のない人間にとっては大変なことでも、経験をもった人間にとってはたいした労力ではないので・・。

(だいたい減るもんでもないですしね)


でも、こういうのって極東さんがやってくれてることなのかもしれませんね


そして、あいりん地区とかについてですが・・。

やはり・・自分で見てみないと分からないでしょうね・・。

まぁ、おもしろそうだし・・ああいう場にはちょっとは慣れてるので・・。将来的には一回行ってみたいと思います。

そして、その際に見きわめるARTSとはなにも造形物などではなく・・生きるための術とか認識の鋭さなんだと思います。
これは・・じかに話してみないと分からないだろうけど・・。
そういうののためにはやっぱ・・一緒に仕事しないとなぁ・・・・大変だろうなぁ・・・・っつーか、そういうことやると、あの人たちの食い扶持減らしちゃうから憎まれるのか・・・。

まぁ、そのときになって考えます。

あと、辺見庸とかについては・・なんとなく分かった気がします(吉本の本気についても(笑)


そして礫についても・・

これはぼくも精進していこうかと思います


じゃ、また寄らせてもらいます
ありがとうございました m(_ _)m


投稿: m_um_u | 2004.01.20 21:25

無知をさらすようですが…
「千字文」という言葉は受験で覚えただけなので、
気になって取り寄せてみました。

  愛育黎首
  臣伏戎羌

って、「お習字」ではありませんか…
…懐かしい。

これは「読む」ものではなくって、
百人一首や九九のように「習う/覚える」ものだった
んですね…

finalventさんとの歳の差を考慮するべきなのか、
あるいは私の勉強不足を反省するべきなのか…

ハッキリしていることは、
「千字文」は受験用語となっていることですね。

投稿: (anonymous) | 2004.01.27 23:27

「千字文」、ええ、そうです。お習字です。できたときからお習字用でした。この話は補足したいと思っています。えっと、業務連絡、お名前がドロップしていたので仮にanonymousとしました。

投稿: finalvent | 2004.01.28 08:33

ごめんなさい。名無しさんは私です。
ぼつぼつ、『千字文』、読んでいます。
ちょっと嬉しかったのが、『蒼天』の別の意味を知ったことです。

曹操が主人公のマンガ『蒼天航路』は、私のお気に入りの一本です。
でも、どうして『蒼天』が付いてるのか気になっていました。

  蒼天已死
  黄天當立
  歳在甲子
  天下大吉

から採っているのは知っていましたが、『青空』や『天子』(漢王朝のこと)以外に、
千字文から『春』という意味を、教えてもらえました。
春は万物が蒼蒼然と萌え出るからだそうです。

『蒼天航路』は、167年の春、曹操と許猪との出会いから始まっています
ひょっとすると、220年の春、許猪の回想ラストとなるような気がします…
(現在連載中なのであくまで予想なのですが)

作者が知って知らずかは、分かりませんが、
この長い長いお話が春という季節から始まっていることを思い出して、
なんだか嬉しくなりましたな。

…話が滅茶苦茶脱線しましたが、千字文は私にとってかなり『へー』な一冊と
なりそうです…

結論。finalventさんの一文…

> 教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。

ずっと、この一文が気になっていました。
私は『教養』の何たるかはよく分かりませんが、

『私の知っていることと、私の知らないことがリンクされて、ちょっと嬉しい』

これが私の、書を読む理由です。

投稿: Dain | 2004.01.29 22:24

Dainさん、どうも。千字文については、Dainさんがご指摘された話以外にも、これが中国的な世界の基本的な教養の基礎コードになっているというのが、とても、ある意味、怖いと思うのですよ。もちろん、現代の中国・朝鮮も千字文の文化からそれてはいるのですが、日本書紀や古事記なども千字文の世界から切り離したらいけないということはあります。千字文についてはまとまったことを書きたいと思います。それにしても、岩波文庫のがよくできてますよね。

投稿: finalvent | 2004.01.30 10:38

千字文(岩波文庫青)を読み終えました。良い本を紹介していただき、ありがとうございます。

finalventさんのコメント

> 端的に言えば、日本人には通じないだろうな、と。
> そのあたり の欧米や中国との断絶感が日本の教養人に
> 危機とされていないのかという思いはあります

>これが中国的な世界の基本的な教養の基礎コードになって
> いるというのが、とても、ある意味、怖いと思うのですよ。

…この意味がようやく理解できました。
で、これを『受験用語』などと言い放った自分が情けないです。これは「お習字」であり「教科書」であり「詩」ですが、彼の国の人々にとって、相互理解の基盤となっていることも納得しました(china school では必読書ですよね)。

読んだ上で言うのですが、「声に出して読みたい…」ではプチ・ナショナリズム[な気分にさせてくれる]テクストを採用しているように見えます…最近流行ってますからね(w
千字文こそ「声に出して読むべき日本語」だと思いますが、齋藤某は真っ先に無視するでしょう。

最後に。こんな宝のような一冊がその辺の本屋で800円で売られているこの国って、ちょっと誇ってもいいかも…と思いました。

投稿: Dain | 2004.02.07 20:10

Dainさん、ども。コメント、嬉しいです。ちょっと弱音のようなこと言いますが、ブログの書き方がよくないなとも思うのですが、自分の思いはそれほどうまく通じはしないだろう、っていうのがあって、それがちょっと照れのような気持ちになります。
 話は千字文ですが、この世界がかつてあった、そしてその世界から文献や人物が出てきたということを知らないと、歴史はただ知識のDBになってしまいます。怖いなと思います。

投稿: finalvent | 2004.02.08 08:39

やべえ
わらいとまんねえw
ありがとう神様
ありがとうイエス様

投稿: marco11 | 2006.12.11 08:20

・・・昨年末(2009年末頃)から、Yahoo!知恵袋の「哲学・倫理」の欄から、「教養」が消え去ったのが、不思議でなりません。質問者は、その時心に浮かんだ疑問をそのまま書き連ねているだけだし、回答者は、これまたその時、考え付いた答えを書いているだけ(つまり、「確信犯」がいなくなった)のが、何とも不気味です。
日本の戦後教育(厭味ったらしい言い方ですが)って、何だったんだろうと思う。「大道芸」を身につけるのには、「基礎体力」が必要な筈なのに、「自由に考えさせる」とか言うおかしな発想のせいで、全員が筋力不全に陥っているみたいです。
かくいう私も、異国で大道芸を見せる程の自信はないけど、Yahoo!知恵袋では踊れる方のつもりだったんだけどなぁ。頓珍漢な拍手とか、野次ばっかりだと、その気も失います。・・・私より踊れた皆さん(旧質問者&回答者達)も、呆れてどっかへ行っちゃったみたい。(2010年現在の話です)

投稿: ジュリア | 2010.01.19 18:00

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