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2004.01.17

山形浩生の書評から雑感

 どう切り出していい話なのか自分でもよくわからないし、自分に定見があるわけでもない。書けば誤解されるような気もしてためらうのだが、まぁ、ブログだから書いてみようかなと思う。
 ことの出だしは11日の朝日新聞の書評欄だ。なんとなく見ていたら、チョムスキーの「生成文法の企て」(岩波書店・福井直樹・辻子美保子訳)が載っていて、あれ?という気がした。この話は後で触れる。どんな書評かと気になったので読もうと思ったのだが、その前に書評者名がでかでかと山形浩生とあった。ふーん、山形浩生ですか、と思った。
 で、山形のことだ軽快な口調で書き進めている、かのようだが、数行読み進めるうちに、私にはさっぱりわからないという事態になった。ちょっと困惑してしまった。なんだコレ。
 そういえば、朝日新聞の書評はネットにも掲載されていたようにも思ったので調べるとあった(参照)。出だしを引用する。


 子供は「パパでちゅよー」等のろくでもない単純な文章を聞いているだけで、すぐにややこしい文章を理解し、自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する。その入力の分析だけでそれが可能だとは考えにくい。

 切り出しは悪くないというか、生成文法の説明の定番どおりなので、またこれかである。「自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する」というのも、取って付けたような定番のクリシェだ。山形という人は自分で生成文法を理解しようとしているのかなと疑問になる。でもそれはいい。この先から暗雲立ちこめる。

人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。

 「人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは?」と言われると、自分の記憶が曖昧になる。チョムスキーは言語器官と呼ぶことがあったか? linguistic organ? 私の記憶ではmental organ(心的器官)だ。試しにぐぐってみると、Emmon Bachが"human linguistic organ (UG?) "と言う用例があった。Emmon Bachは胡麻臭いなとも思うが、通じないほど変な言い回しでもない。いいか。
 で、この先。頭痛が走るのだ。「その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。」と山形。
 まるで意味がわからない。「その器官の能力」というのは、competence of linguistic organでいいとして、それに「変形処理が加わる」というのはなんのこっちゃ? transformation process?  純粋に意味がとれない。transformationはこの時代(80年代)のチョムスキーのことだから、D構造からS構造を導く過程のはずだ。
 そして、その結果が「普通の言語能力」というのもわからない。common linguistic performance? しかし、linguisitc competenceからliguisitic perfomanceに至る過程はない。というか、liguisitic perfomanceについては、端からチョムスキーは文法から捨象している。
 さらに、まるで、わからない。「器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになる」と山形。
 用語の問題はなんだかわからないので、全体としてなにが言いたいのかと考えてみるのだが、話が逆だとしか思えない。チョムスキーは「世界の中の言語を見通しよく説明する」なんてことはまるで視野に入れていない。The Generative Enterpriseというのは、UG(Universal Grammar)を解明する目論見である。世界の言語の記述とその運用はUGの資料であり、その資料からUGの条件を導くためものだ。というか、そういう科学的方法が成立するのかね?というのが、1970年代は科学哲学的に疑問符ばっかだったので、チョムスキーはデカルト主義のようなことを言い出したのだった。
 それと、話が前後するが、今は無き「変形」であるが当時はUGの一部ではなかったか。
 と、なんだか、山形浩生をあげつらっているようなことになってしまったのだが、率直なところ、単に、書評の役として間違っているように思う。つまり、山形浩生にこの本、振るなよと思うが、山形浩生もなんでこんな書評を受けてしまったのだろうか。というと、非難のだようだが、気持ちとしてはなにも非難しているわけではない。
 細かい話はこのくらいにして、書評の基本である書物としての紹介も、なんとも変なのだ。例えば、これ。

訳者解説も詳しいし、注も丁寧だけれど、特に生成文法理論自体(とその進展)に関する議論はかなり専門的で、業界の内輪話的な部分も多い(逆に専門家にとっては大きな魅力だろう)。

 そりゃ、福井直樹が訳者なのだから当然なのだが、「生成文法理論自体(とその進展)」と言われると、どうにもわからない。The Generative Enterprise (Foris Publications)は1982の本である。20年以上も昔だ。この分野と関連分野の人ならあの時代に必ず読んでいる(読まされている)。なのに、なぜ、それが専門家にとって魅力なのだろう。訳本に併せて行われた最新インタビュー部分を指す、というふうにも思えない。
 推測しても詮無きかもしれないが、福井直樹の帰国と関連して学部生に読ませる教科書にしようとしたのだろうか。それに岩波としては昨今の、日本のチョムスキーブームも当て込んだのだろうか。それにしても、極小プログラムの時代にこの本を読む意味があるのだろうか。ま、その筋ではあるのだろうけど。
 話がだらっと福井にシフトしてしまうのだが、山形のヘンテコな書評を読みながら、「生物として持つ言語器官」というあたりで、大修館書店から福井が出した「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」(2001)を思い出す。この本でも、脳内の独立した言語機能の実在を取り上げているのだが、その福井の取り上げかたが、ちと恐れ多いのだが、チョムスキーの理解と違っているように思える。福井は澤口俊之「脳と心の進化論」あたりを援用してしまっているあたり、え?澤口俊之かよ、というのはさておき、どうも脇が甘い、のか、チョムスキーのmental organの理解と違っているようにも思える。が、生成文法的には、脳の構造ではなく、機能モデルを構造的に扱うだけなので、さして問題もない、のだろう。いや、チョムスキー自身すら昔はエリック・レネバーグあたりにすり寄ってもいるのだから、この手の学際のフライングというのは昔と同じなのか。
 それでも、「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」で福井は、極小プログラムとの関連で、言語の特性のエレガンスに驚いているのだが、そうなのだろうか。どうも居心地悪い気持ちになる。福井自身、生命学の他分野では複雑性が前提になっていると言及しているのだから、言語の脳機能の実態モデルも、複雑性が基幹にあり、チョムスキーの言うエレガンスはある種数学的に捨象されたモデルに過ぎないのではないか、と思うのだが。
 うまく言い得ていないので、別の例を引くと、免疫システムというとき、医学ではこれを「免疫システム」として個々の免疫の器官の総体を呼ぶが、チョムスキー的にはこれは免疫器官になるだろう。そのあたりは、ただの言葉の遊びのような気がするのだが、で、免疫システムの内実となるサイカインの動きは、広義にシステムのセマンティックのなかで評価される。しかし、サイトカイン自体を見れば非常に複雑で多義的な行動をする。つまり、言語と言語認識の下部の機構と、意味論的に了解される言語の行動と対応しているのではないか。
 というと、チョムスキーの学に意味論はない、言語構造だけというのだろうが、すでに極小プログラムでは言語は、いわば論理演算対象としての項目のように扱われているのだから、意味論でいいのはないか。モンタギュー文法が意味論であるのと、そうたいした違いがあるとは思えない。
 私の言っていることは、門外漢の的はずれなのだろうか。そうなのだろうなとも思うし、なにも新しい理論を打ち立てたいといった気はさらなさない。だが、チョムスキーの学は、人間の生得能力の解明として、人間の自然学として構想されているわりに、他の生命学分野の成果とまるで違った方向に見えるのは確かだ。
 話は逆にして、生命諸学のような複雑性に謙虚に向き合いながら、それと数学的な論理性との対応を模索できないものだろうか。
 免疫システムとの比喩が過ぎるかもしれないが、免疫システムには誤動作やカタスロフとも言える状態がある。言語を支える認知の機能にも同等のなにかがあり、そうした崩壊や病理の実態がむしろ、言語能力の複雑性を炙り出すのではないだろうか、と思うのだが…。

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コメント

山形書評の書評だ。うーん。本が本だけに私には意味のあるコメントができないのが悲しい(私の知能では)。山形浩生のオフィシャルページに朝日書評に関する本人の姿勢が掲載されている。基本的に気にいった本しか書評はやらないみたい。
限られた字数におさえるのは大変なのかも・・・。
過去の書評『心の仕組み』(S・ピンカー著)について、翻訳はあまりよくないと言ってWEBにまずいところを理由つきでとりあげてもいる。
 ところで、私、最初はfinalventさん=山形浩生さんかと思ってたんです。ごめんなさい。
共通点は文章が読みやすい。(理解できるできないは別にして、)どんな難しい話題でも、最後まで読み終えることができる。とまあこんな感じで、文体から受ける感覚が同じ。(使っている一人称の違いはありましたが、違う雰囲気をつくろうとしてのことかと思ってました。)

投稿: (やまざる) | 2004.01.18 00:07

しまった。戻しで書いたら名前欄が消えていました。
上記無名分はやまざるからです。

投稿: やまざる | 2004.01.18 00:09

やまざるさん、どうも。名前補っておきました。「finalventさん=山形浩生」は違うようですね。でも、精神の時代類型から見れば、80年代以降の、アカデミズム解体、ニューアカ、浅田彰、みたいな項のマトリクスの内発的な反動として、山形浩生はきれいなモデルだと思います(私は浅田から山形の変遷の途中の進化形でしょう。浅田的に古いわけです)。山形は頭はいいし、かっこいい。おおっ、こういのが出てきたかと感心します。話を戻して、今回のブログはあまり反山形の意図はないのです(このあたりブログの世界では誤解されるかもですが)。本人はむっとするなり罵倒されるなら、それはしかたないかな。というのは、表層面はどうでもいいのだけど、山形のこの問題への対処はちと気になります。本質的なところで手を抜いているのか早呑み込みしているように見えるのです。実は、やまざるさんもうすうす見抜いているように、ピンカーの問題があります。『心の仕組み』の翻訳については山形の教養が活かせたらよかったのにと思うのですが、問題はピンカーのその後の言説です。端的にいえば、チョムスキーが老いて、その空き地に雑草(意味論のやつらなど)が生えるのもなんだかなですが、あれっと思うようなピンカーのような奇妙なポップが出てきた。日本で言うと、澤口や茂木(れいのクオリア論)など、本来なら福井的な正統のアカデミズムがカタをつけるなり距離を取らなくていけない。そういうポップ性の思想の奇妙に危険な限界がうっすら見えるような気がします。(つまり、山形は次の世代への変種の可能性を作っているのだ、と。)

投稿: finalvent | 2004.01.18 08:52

免疫システムは、存在レベルとして細胞に出現し、分子レベルを参照するとすると、言語システムは、人(知的多細胞生命体)に出現し、音声を参照するとでもなるのでしょうか。

レイヤとしては数層(組織、臓器、多細胞生命、人かな)は違うように思います。

というか、この議論自体が言語の意味論に絡めとられているかもしれません。手も足も出ないなんてのは拙い考えでしょうか。

投稿: a watcher | 2004.01.18 09:17

どもです。免疫システムの比喩はかえって危険かなとも思うのですが、システム自体はセマンティックに動くのに、実体のレベルは多義的です。難しいです。言語システム(チョムスキーの言う心的器官)は音声と意味を両端で参照する独立の実体ですが、どうドライブされているかというと、意味からではないのですね。そのあたりのチョムスキーの直感は正しいのだろと思います。意識と言語の関係は当然難しいのですが、言語は意味から導出されているわけでもない。と、いうときの「意味」の意味が曖昧ですが。言語の算術的なエンジンは、認識や思考からは独立しているのでしょう。そのエンジンがどういう機構で動いているか表出のメカニズムという点ではチョムスキー派の歴史は無意味ではないのでしょうが、結局はそれって特殊な数学です。もっとも、それでいいのだとチョムスキーは考えている、と考えれば、あとは哲学的な世界認識の問題になります。つまり、その数学がUGなのだよ、と言われたら終わりです。でも、極小プログラムからUGが見えてこないのはラッキー!かもです(悪い冗談です)。

投稿: finalvent | 2004.01.18 09:31

ところで、
議論のコシを折ってしまうようで悪いのですが、
チョムって言語の仕事だとちゃんとやってる感じなのに、
なんでこう・・・

政治的・ジャーナリズム的発言だと・・・ああなんですかね・・(^^;)

(なにかご存知ですか?)

投稿: m_um_u | 2004.01.18 09:51

ども。この話はけっこう知ってますよ。というか、「お国のために」(河出書房新社1975)の二巻、「ペンタゴンのお小姓たち」「国家理由か絶対自由か」はけっこう図書館とかにあるのでは。面白いですよ。そういえば、いいだももさん、胃癌手術後もお元気そうです。ブログで触れた福井の本にもチョムスキーの総括的な話があるので、その部分だけ立ち読みされるといいですよ。むしろ「言語のしごとだとちゃんとやっている」というあたりは、人によっては苦笑なんでですが(と、悪意はありません)。

投稿: finalvent | 2004.01.18 10:17

へぇ・・

じゃ、ちょっと見てみます

どうも m(_ _)m

投稿: m_um_u | 2004.01.18 14:35

あ・「チョムの言語の仕事も苦笑かも」ってやつ

なんとなく分かったような・・

でも、
キケンそうだから断片で書いときます m(_ _)m

・要素還元主義のため、システムを一面的にしかとらえられていない

・そのため、システムの変化が説明できない

・他の層からの多様性の導入を表すことができない


・・こんな感じ?

(で、ここから外挿すると・・やっぱそういう単眼的視点だから、政治・マスメディアに対しても一面でしかとらえられない・・と。)

投稿: m_um_u | 2004.01.18 20:49

m_um_uさん、ども。チョムスキーの「危険」さの最大は、ですね、ここだけの話ですが、あの理論を学ぶと、他の学説や他の学問やっているやつが、みーんな馬鹿、に見えてしまうことです。もちろん、チョムスキー学をやっている人はさらに数段上にいるので、「みーんな馬鹿」なんて言いません。そんなぁ、ですね、関心すらもたないほど、超越しちゃうんですよ。傍から見ていると、頭の良すぎる人々の知性の自滅システムにみたいに見えるのですが…。その点、スティーブン・ピンカーとかだと、「まぬけかもぉ」が漂うのがいいですよね。ってなんとなく山形をおちょくっているみたいですが、いえいえ、そんなぁ。

投稿: finalvent | 2004.01.18 21:11

山形氏の広報部掲示板に本人の意見が載ってました。
>やっぱ詳しい人が見ると粗が出ますねー。でも他にやる人がいなくて、力不足でもぼくが無理するしかない本っつーのはあるのです。『ネオコンの論理』しかり、『ソーシャルパワー』しかり。今回のは、この2冊ほどは必須ではないけど。(引用終わり)
間違いは間違い(あいまいな表現も含めて)、指摘や訂正をせずにはいられないというのは、http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/index.htmlJOG(247)南方熊楠、大英帝国に挑むで、大学総長に意見した南方に通じるところもあって、ある意味、「finalventさん=山形浩生」もあたらずしも遠からずですね。

投稿: やまざる | 2004.01.19 00:53

やまざるさん、どうも。率直なところ、ちょっと、ほっとしました。ブログの文体がきついのでタメの批判に取られると困るなとも思ったのです。山形浩生はすごい優秀ですが、今の日本の知の状況だと、どうしても「切り込み」役にならざるを得ないのでしょう。むしろ、そういう姿勢を私も評価するし、評価されていると思う。優秀なんてのはザラにいるのですし。ま、この件は、なんというか、「切り込み」のエールというトーンをもっと強くしてもいいのかなと思いました。ちと反省もあるのですが、ピンカーとか考えるとやはりためらうものはあります。分野が違うのですが、クルーグマンを前面に出す(で、いいかな)山形は、佐和隆光なんかと距離は多少取っているにもせよつるむ浅田、という陰鬱な光景のなかで、爽やかですよ。

投稿: finalvent | 2004.01.19 09:02

山形さんがチョムスキーを誤解している事ははっきりしました。言語器官という間違いはあるにせよ、まあいいや、という感じです。池田信夫や田中克彦のようなはなから相手にするだけの情熱も湧かない誤解よりはましです。でも、あの山形さんが誤解するあたり、チョムスキーの理論装置は理解されにくい事は分かりました。でもなあ、ちゃんとチョムスキーの書くものを読んでおけば簡単な話なんだけどなあ。どうしてこんな簡単な事で誤解が生じるのか不思議です。

投稿: 犬吉 | 2011.08.20 08:01

まず誤解から。変形規則とは、DからSを作るだけで亡く、SからPやLを導くこともします。また、
>この議論自体が言語の意味論に絡めとられている
と言うこともなく、古典的言語決定論はもう半世紀前に破綻しています。ですから、意味論が世界を把握するのではなくて、世界の言語化できる部分を、そしてそれのみを文がマップして意味論と繋げているという方が誤解が無いでしょう。
なんにせよ、おもしろい議論でした。ありがとうございました。

投稿: ひなの侍 | 2014.03.21 17:44

まず誤解から。

>transformationはこの時代(80年代)のチョムスキーのことだから、D構造からS構造を導く過程のはずだ。

transformationはSを作るだけでなく、PやLも作ります。また、

>この議論自体が言語の意味論に絡めとられているかもしれません。手も足も出ないなんてのは拙い考えでしょうか。

には言語決定論の臭いがしますが、そういう認識でおられるのですか?是非お伺いしたいです。反例としては「思いつきもしなかったこと」や、「かいだことのない臭い」のシニフィエはどうなっているのかをお考えください。けっこう簡単な話ですよ。ともあれ、大変おもしろく読ませていただきました。ありがとうございました。

投稿: ひなの侍 | 2014.03.21 18:02

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