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2004.01.14

額田王

 「余丁町散人の隠居小屋」(参照)の「きょうは何の日 (Today)」の14日に、額田王の話があった。


1/14 Today 額田王「熟田津に......」と詠む(661)(参照

 その結語にこうある。

額田王といえば次の歌も有名:

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この説明をすると長くなる。要は不倫ぽい歌だ。壬申の乱の原因がここに潜んでいるとする説もある。額田王は中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の両方を夫とした女性なのだ。この歌の野守とは天智天皇(中大兄皇子)、君とは天武天皇(大海人皇子)。まことに大胆な女性であった。
彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。


 私はこの歌とその背景についてまったく違った考えを持っている。中西進だったか歌姫を「オコ」として捕らえていたが、私もそうした芸能の視点に立つ。つまり、これらの歌は、茅野弟上娘子の歌なども含め、劇なり余興のような芸能であっただろうと考えている。そして、壬申内乱についても明治浪漫主義的な解釈は取らない。気になるのは、先日の朝日新聞の文化欄かにあったが「袖振る」の意味だ。これもあまり呪術には取らない。しかし、こうした問題には今日は立ち入らない。問題は、散人先生の疑問「彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。」である。
 まず、先生の勘違いか誤記であろうと思うので軽く流すが、「天智と天武の戦いである壬申の乱」ではない。天智はすでにこの世にはない。
 さて、額田王がどうなってしまったか、だが、それはその後を考えれば推測が付くだろう。そして、額田王の歌を好む者なら、万葉集二巻111の「吉野の宮にいでます時、弓削皇子の額田王に贈る歌」を思い起こす。

 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく

 白痴のごときイノセンスな解釈や屁理屈のような解釈を取らなくても、弓削皇子にいにしえと言えば壬申内乱に纏わる死者への思いがあると見ていいだろう。が、この歌についてもここではあまり立ち入らない。
 問題はこの吉野行幸の時期である。確定はされない。が、皇子は693(持統7)年浄広弐に叙せられ、699(文武7)年に死去している。弓削皇子と限らず天武自身の生年すら、おそらくワケありで書紀にも記されていないのだが、官位などからも推定して、20代、そして693年あたりのことだろう。そこから逆算するに、額田王は60歳過ぎまで生存していることになる。いずにせよ、額田王は50歳を越えて天武の皇子たちとも交流があったことは間違いない。
 このことから当然わかることではあるのだが、彼女の娘十市皇女が死んでなお、その時代を生きていたことになる。十市皇女の死は書記にあるように奇っ怪極まる。678(天武7)年、斎宮に選ばれ、伊勢に向かうときに急死している。いずれ自殺か他殺だろう。謎は多い。そもそも既婚であり葛野王までなしていながら、なぜ斎宮になったのか。また、この時期の斎宮である大伯皇女との関連もわからない。これについて、若干推測できることがあるのだが、それも今日は触れない。
 いずれにせよ、額田王は娘の非業の死を見ていたのであり、その孫を抱えてもいただろう。そして先の弓削皇子との歌のやり取りからも人生の陰影は感じ取れる。
 それにしても額田王は生没年未詳とはいうものの、60歳近くまで生存していたと見ていい。後半生は歴史のなかで語ることを禁じられたに等しい不思議な人物である。
 この話にはなお続きがある。奈良国立博物館の国宝、粟原寺の伏鉢に、「比売朝臣額田」が715(和銅8)に粟原寺を建立したとある。普通の歴史家ならあまり妄想を逞しくはしないものだが、高松塚に弓削皇子を鎮魂した梅原猛のことである「塔」(集英社)で、この「比売朝臣額田」を額田王と比定した。梅原には手の込んだ冗談を言う才はない。かくして額田王は80歳近くまで生きていたことになった。慶賀の至りである。
 粟原寺は中臣大嶋(藤原鎌足の従兄弟)の発願によるとされている。書記を見るかぎり、神道を天武時代にでっちあげたのは、この大嶋くさい感じが漂うのだがそれもさておく。「比売朝臣額田」が額田王なら、彼女は大嶋と再婚したということになる。梅原はそう考えている、というわけだ。

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

「極東ブログ」さんは古代史にお詳しい!

ありがとうございました。これで積年の疑問が解消。

ちゃんと60〜80歳まで生きていたのですね。とにかくよかった。でも天武とよりを戻すにも(後の)持統天皇という怖い奥さんがいたから無理だったのでしょうね。

「あかねさす……」を詠んだのは40歳前後ということなので、余興の上のことだったのかも知れないです。犬養孝もそう解釈していますが、女性の40はまだ若いし、小生は真面目な歴史の読み手じゃないから、面白いお話しとしてあの辺りの時代を楽しんでいます。(「袖振る」というのは求愛の仕草と犬養孝はいってますが、間違っているのですか?)

「天智と天武の戦い」といったのは「天武系と天智系の戦い」という意味で書いたのですが、天智の子、弘文天皇の件は、エントリーに追記しておきました。

これからもいろいろ教えてくださいね。面白かったです。

投稿: 余丁町散人 | 2004.01.15 15:25

散人先生、ありがとうございます。「袖振る」については霊振り(霊魂を呼ぶ)という解釈もあるようです。iBlogのTipsいつも参考にさせていただいています。

投稿: finalvent | 2004.01.15 15:55

万葉の歌聖『額田王』 

「皇国史観」に洗脳され、古代史を朦朧と眺めていたとき、大きなインパクトを与える人たちにであった。コペルニクスの「地動説」を支持したガリレオは、宗教裁判にかけられて投獄され、墓碑を建てることも禁止された。法王庁が裁判の誤りを認め、ガリレオの破門がとかれたのはなんと1992年のことである。額田王は朝鮮人であるーこれはまさにコペルヌクス的転回と言えるだろうか?

紀元前後、朝鮮の上層階級には、漢字を自在につかう者がいくらでもいた。このことは、高句麗建国の映画などからも明らかにうかがえる。日本より300年以上も前から稲作に精通していた朝鮮人は、BC300年ごろ(弥生時代の始まり)から、稲作めざしてこの島(国意識はなかった)へ渡来しはじめた。従って、日本の稲作は最初から完成した形ではじまっているという。渡来人の増加のために、弥生末期のこの島の原住民の子孫と渡来人の人口比は、埴原和郎・小山修三などの説によれば、「1対9.6」になったと言われている。このような移住民の増加は、縄文人の言葉(方言)が渡来人の言葉(方言)によって席捲されたことを示唆する。当時、この列島の住民の90%は渡来人であっただろうと金達寿などは述べている。
しかし、渡来人のほとんどは農民であって漢字を知らず、漢字を駆使できるのは一部の上層階級の人たちにかぎられていた。『記紀』『万葉』が生まれる以前、文字化された文学作品のようなものがなく、7~8世紀頃それらを書いた人たちが上層階級のエリートであったことから、漢字の世界はごくかぎられた当時の知識層のものであったことがわかる。
これらの知識層は大和朝廷を中心に活躍していた人たちで、彼らの生活の本拠地は飛鳥地方であった。「日本交通公社」の『大和めぐり』に、飛鳥地方の住民の八~九割が渡来人であったと書かれているそうだが、『続日本記』『姓氏録』などによって、飛鳥地方の当時の人口がほぼわかるという。飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は、蘇我氏(朝鮮人 当時の実質天皇)の一族で、その妻は蘇我氏の人である。日本最古の寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺である。小山修三が、「大和に最初の統一政府をつくったのは渡来人である」と述べ、柳宗悦(濱田庄司や河井寛次郎らとの交友をはかりながら日本民芸館を創設)が「飛鳥~奈良時代につくられた国宝、寺院、仏像、書画などは韓国の国宝とも言える」と述べていることから推測すれば、日本文化の大いなる始まりは、「飛鳥~奈良時代ごろに集中的に渡来した朝鮮半島の人々による」とするのが自然である。

西暦663年、『白村江の戦』で新羅にやぶれた百済から五万人が渡来したという説がある。『日本書紀』によれば、天智天皇は、当時の亡命者を、近江(滋賀)の蒲生郡あたりに3000人近くを住ませ、無償で農地を与え、官食を三年間も与えたという。百済の高官66名が政務次官なみに登用され、「法務大臣(法官大輔)」「文部科学大臣(学頭職)」になった人もいる。百済から来たばかりの高官「鬼室集斯」が朝廷の学頭職になったということは 「言葉の問題がなかったことを意味している」と佐々克明は述べています。西暦667年、天智天皇は都を近江に移している。額田王の父 鏡王は、近江の蒲生郡に住んでいたと言われている。
『白村江の戦』で天智が三万に近い兵を送ったという記録は、「百済と大和は血縁関係にあったことを示している」と金達寿、佐々克明、洪思俊(扶余博物館館長)らは述べている。大和朝廷では、ますます百済系の勢力が大きくなり、「百済、国ごとの引っ越し」などと司馬遼太郎をもって言わせ、「百済が大和に移った」という文人・研究者もいる。「日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、『白村江の戦』の敗北で渡来した百済人で、『日本』という国号をつくったのも百済人である。『大化の改新(645~701)』は、藤原鎌足、安倍内麻呂、金春秋、高向玄理などの渡来人によって行われた。」と文定昌は述べている。また、『大宝律令(701年)』制定の中心メンバー藤原不比等は鎌足(百済人)の子である。不比等は本妻の娘を文武天皇、後妻の娘を聖武天皇の妃とさせ、藤原氏の基盤を築いた大人物とされている。「出雲古代博物館」の名誉館長 上田正昭らの対談集によれば、『日本書紀』は「百済人を主軸に書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。

 額田王の義母 天智の母(斉明天皇)は、吉備の豪族(朝鮮人)から朝廷に入った人である。吉備王朝は、「鬼の城(朝鮮式山城)」を根城に日本最強の勢力(大和王朝以前)をもっていたという。天智のひ孫「桓武天皇」の母は百済の名王「武寧王」の後裔である。
 額田王の父、鏡王は、近江の蒲生郡鏡山村に住んでいたという。権叉根は「鏡山村はわが国最初の須恵器(朝鮮土器)の生産地で、新羅の王子 天日槍の伝承がある地なので、朝鮮人集落であったことは瞭然である」と『古代朝鮮語と朝鮮渡来人』で述べている。蒲生郡にある「鬼室神社」の祭神は、『白村江の戦』の敗北で渡来した百済人「鬼室集斯」で、朝廷の「文部科学大臣(学頭職)」になった人です。長きにわたり学問の神様として参拝に訪れる人が多かったという。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

 この歌は、額田王が近江の蒲生野(標野=禁野)での狩に同行したときのものとされている。当時、標野などへ女性が同行することはなかったなかで、額田王が同伴したのは、生地が蒲生野の近くにあったからだという。新羅、百済などの王朝は、薬草のプロを養成して、「標野」での管理・栽培をさせ、王族・朝廷の人々の医薬品として役立てていた。「蒲生野」はその日本版であったと言えるでしょう。額田王の歌の万葉仮名をみる。
  
茜草指 武良前野行 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

 この万葉仮名をみて驚くことがある。「朝鮮語は日本語にとても似ている」とほとんどの学習書や、朝鮮語に関する本の序文などに書かれている。理由の一つは「語順・一文の語数がほとんど同じ」だからである。朝鮮語を学習しながら「語順」が同じなので喜んでいると、「否定語」が「動詞の前」にくるので「おやっ」と思ってしまう。そんな調子で万葉仮名の歌をみていると、「否定語」が「動詞の前」にきているので、また「おやっ」と思ってしまう。

例えば『万葉集』の歌

~花耳開而 不成有者 誰恋迩有目 ~丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登
~春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 ~風乎時自見 寝夜不落 家在妹乎

などは否定語が動詞の前にある。上記の額田王の歌は、「野守者不見哉」の部分だけが逆になっている。これらの文をみると、万葉集は朝鮮語で書かれていると述べる研究者たちの説を肯定したくなる。

 さらに言えることは、「哉(や)」が「古池や~」「名月や~」の「や」にそっくりで、ハングルの「야」と同じではないかということです。「야」は多感な感情を表すので、俳句などによく使われる詠嘆の「~や」に似ている。例えば、「헌못이야 古池や」「명월이야 名月や」などの「야」と「や」は同源の言葉であると思わせる。俳句にかぎらず、「춥다야 寒いや」「덥다야 暑いや」の「야」「~や」も同じ言葉でしょう。大阪弁では、文末語尾に「~や」をつける傾向があるが、朝鮮語の影響によるものでしょう。奈良時代頃から、大阪近辺は、韓半島からの渡来人が多かったと言われているのは、このような言葉からも推測できる。

「万葉仮名」は日本で発明されたものではなく、古代中国でも「漢字の音を利用する表記」があったと言われている。このことは、サンスクリットで書かれた経典を、漢字の音を使って表記している経典を見ればわかる。また、百済の「吏読表記」が「万葉仮名」になったと色々な研究者が述べているのも当然のことでしょう。「吏読表記」が発展した『郷札(郷=自国) (札=書礼=文)』は「万葉仮名」に酷似していると言われている。

 紀元前、アルタイ山系付近にいた騎馬民族は高度な言葉をもち、世界最古の経典『リグ・ヴェーダー』をたずさえてインドに侵攻して印欧語の礎を展開させている。アルタイは「金」という意味で、アルタイ山系付近は金に恵まれていたという。朝鮮半島の古墳から、「金冠」「金の装飾品」が発掘されるのは、アルタイ民族の侵攻による影響によるという説がある。このことは、朝鮮民族はアルタイ系の人種であるという説を裏づける。
「高松塚古墳」は高句麗のミニチュア版の一つであると平山郁夫は述べている。古代における日本文化は朝鮮文化の連続線上にあることは間違いないだろう。朝鮮語がアルタイ語族に属すると言われているように、日本語もアルタイ語族の系統にあるとする研究者たちの説は正鵠を得ていると思われる。

 「冠位十二階の制定(603年)」「十七条憲法(604年)」以前、まとまった文献らしきものがなく、『万葉集(7~8世紀)』『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』以前、これに匹敵する文学作品は皆目ない。従って、日本列島においては、縄文時代の子孫である原住民の自然な言語重層から発展したと思われる高度な芸術的文献現出の言語史がみえてこない。『万葉集(7~8世紀)』『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』の芸術度はあまりにも高次元の世界にある。
 百済人主軸の朝廷は『日本』という国号をつくり、『日本書紀』を「独立宣言?」として祖国朝鮮と乖離したのではないかと思われる。以後、日本神話を誇張し、日本民族の開祖はスサノオであるかのような民族史を拡大しながら朝鮮隠しを始めたという説は、北方民族の「天孫降臨神話」を模してフィクション化された『記紀』『出雲国風土記』の神話に裏づけられている。

 天智(663年)~桓武(784年)を中心とする百年余りの周辺に、とつぜん集中的に現れた「言葉に堪能な超特大の能力者たち」が、血肉となっている言語文化の川の先端で、言葉を構想・構築しながら作品の制作に情熱を傾注していたのではないかと推測される。「貧窮問答歌」で知られる「山上憶良」は、『白村江の戦』で敗北したとき百済の宮廷侍医をしていた「山上憶仁」に連れられて渡来した歌人である。「額田王」「山上憶良」の素生からも推測できるように、アルタイ語系の豊潤にして巧緻な言葉を駆使でき、渡来人のなかでもとりわけ漢字に精通していた人たちの子孫によって『万葉集』はつくられたものであることは間違いないでしょう。 

投稿: 額田葉子 | 2012.01.14 14:17

日韓語は同系語である

山 上 憶 良 と 藤 原 氏
 
 多くの日本人は、倭国のエリートが渡来人に漢字を学び、悠久の昔から堆積されて来た和語を漢字で表記したものが『記紀』『万葉』であると思うようである。この考え方は、朝鮮半島からの渡来人が増える前から、結構な数の倭人が存在しており、わからないことがあれば渡来人に教えてもらって、日本文化を形成したという考えにつながる。

白銀母 黄金母玉母 奈爾世爾 麻佐礼留多可良  古爾斯迦米夜母
白銀も 黄金も玉も 何せむに まされるたから 子にしかめやも

 この山上憶良の歌を見て、多くの人は「これらの言葉が古代朝鮮語であるはずがない、どれ一つとして現在の朝鮮語と同じ言葉がないではないか。朝鮮半島には、七~八世紀以前に書かれた文献がないので、『記紀』『万葉』の言葉が朝鮮から伝播したとは思えない。」と言う。しかし、日本にも七~八世紀以前のまとまった文献はない。
 
全栄来 (全北日報論説委員 全北道立博物館館長 韓西古代学研究所所長 文学博士) は著書『百済滅亡と古代日本』で、「新羅による半島統一・百済の滅亡」後、「民族の移動と文化交流が引き起こされ、多くの百済人が倭国に亡命・移住し、日本列島に、新しい文化の移植・開花をもたらした」と述べている。

「当時の宮廷で働く人々の出自を調べると百済人だらけである」と述べている佐々克明の言葉は、「奈良時代の文化を形成し『日本』とい国号を作ったのは百済人である」という文定昌の説と符合する。『続日本記』によれば、宮廷の人々が生活していた本拠地「飛鳥」の住民の八十~九十%が渡来人であったというから、宮廷でどのような言葉が使われていたかが推測できる。

「山上憶良が朝鮮人であることがなぜわかるのか」という疑問について、中西進 (古典文学研究者、奈良県立万葉文化館館長、国際日本文化研究センター名誉教授) の著作『山上憶良』によると、憶良の出自について、憶良を取り巻く人間関係・歴史的環境事情から生涯を絞り込むことができる方向で論考されている。山上憶仁 (百済の宮廷侍医 憶良の父) が「白村江の戦」に敗北したとき、憶良を連れて倭国へ亡命したという古代史研究家の著書によく出会う。憶仁は、近江に居住し天智天皇期の宮廷侍医になっている。天智は亡命者の多くを近江に住ませ、六六七年、都を近江に移している。 
「日本書紀」によれば、「白村江の戦」で、天智天皇が百済救済のために三万に近い兵を送ったということは、大和王朝と百済王朝は血縁関係にあったことを意味していると佐々克明らは述べている。「白村江の戦」の敗北後の亡命者をさして、司馬遼太郎は「百済、国ごとの引っ越し」と語り、「百済王朝が大和へ移った」という研究者もいる。「出雲古代歴史博物館」の名誉館長 上田正昭らの対談集によれば「日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・朝廷のプロモーター藤原氏の都合がいいように整理されている」という。

この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることの無しと思へば

この歌を詠んだ藤原道長(962~1027)は藤原氏の全盛時代を現出した。当時、大納言以上の地位における藤原氏の占有率は百%であった。

このような段階に至る基礎を築いたのは、「大化の改新(645年)」を中心になって推し進めた百済人 藤原鎌足で、天智天皇の筆頭ブレインであった。鎌足は、それまでの実質天皇であった蘇我入鹿(渡来人)を天智と謀略して暗殺し、藤原一族を政界のトップに安座させたのである。中臣鎌足の功労を称賛して、天智は最高の姓「藤原」を賜ったと言われているが、天智の母 斉明天皇は、吉備の豪族(朝鮮人)から朝廷に入った人である。吉備王朝は、大和王朝以前、鬼の城(朝鮮式山城)を根城に日本最高の勢力をもち、吉備には仁徳御陵以前としては日本最大の古墳があるという。天智のひ孫「桓武天皇」の母は百済の武寧王の後裔である。
藤原鎌足の子 藤原不比等は「大宝律令(701年)」の編纂の中心メンバーとなり、わが娘を文武天皇の夫人とし、さらに、文武の子が聖武天皇になるにおよんで宮廷内での勢力を不動のものとした。後妻との間に生まれた娘を聖武天皇の皇后にさせるに至って、藤原氏繁栄の基盤を築いた大人物とされている。

梅原猛は「奈良の都の政治は不比等の独壇場であった。不比等の下に集められたのは、知謀ゆたかな、法律、歴史にくわしい朝鮮人であっただろう。日本書紀は不比等を編集責任者とし、太安万侶など歴史にくわしい朝鮮人によって書かれたにちがいない。」と述べている。藤原氏は、千三百年にわたり、日本の政治・宗教・文化の頂点に君臨し、「古事記」「日本書紀」「続日本記」「日本後記」・・その他の史料のほとんどは藤原氏の手によって編纂されている。

徳川幕府崩壊直後の明治元年(1868年)の内閣最高幹部「左大臣 藤原道隆、右大臣 藤原家信、同従一位 藤原実美、内大臣 藤原実徳、内大臣正二位 藤原忠順・藤原宗弘・藤原資宗・藤原雅典・藤原光愛・藤原胤保・・」などからも藤原氏の勢力がいかに強力なものであったかがわかる。天皇家・藤原氏の冷泉家では、「母」を「おも(어머)」と言うそうである。
 
百済人 藤原不比等の全盛時代 (聖武天皇の御代)、山上憶良は官職を与えられ、彼と同時に官職を与えられた人たちはすべて渡来人であったという。「作品の分析によるだけでなく、このことから憶良が渡来人であったことがわかる」と中西進は述べている。朝鮮の王朝で行われていた遣唐使が大和王朝でも続行され、遣唐使に選ばれた知識層は渡来人であったという。憶良、最澄が遣唐使に選ばれたことはよく知られている。

結論。「藤原氏」が日本民族の政治・宗教・文化の頂点に君臨しているのであれば、「万葉歌」は日本語の源点を示唆していることになる。

付 記
「万葉仮名」は朝鮮の「吏読表記」に順ずるものであり、「吏読表記」に類することが、すでに中国で行われていた。中国では、サンスクリット語で書かれた仏典を漢字の音を利用して表記していた。それを応用した表記法が「吏読表記」である。「万葉仮名」は日本人の素晴らしい発明であると述べている著書に出会うが、「万葉仮名」を自在に駆使できた人は、「吏読表記」に浴して朝鮮文化を形成していた人々の傘下にある渡来人だったのである。

投稿: | 2012.01.15 18:13

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