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2004.01.31

戦争の大義について

 このところ、イラク戦争について、あの戦争は大義なき戦争ではないか、というテーマをよく見かけるようになった。端的に言えば、卑怯者の負け惜しみではある。イラク開戦は突然ではなかった。その間、日本がなにが出来たかといえば、実質何もできなかった。何かできたというなら、それはあの時の日本を支えていた大衆を愚弄する「知識人」とやらの法螺に過ぎない。
 確かに、この機に、米国を叩いておき、そして、イラク戦争のような開戦が再びないような経験を国際社会を積むことはいいことかもしれないし、なにしろ、それこそ、米国人の課題だ。若い民主党支持者がその旗を振るのは理解できるが、その旗の棒の端っこを日本人が掴むのは、私は、ちょっとなぁと思う。
 そして、結局のところ、いくら自己満足的に大義なき戦争はいかんといっても、英米のやつらはやるときはやるのだ。その「やるときにはやる」というのは現実的なパワーの問題なので、このパワーをどう制御するかが問題だ。
 具体的に言えば、有志連合をどうするかだ。有志連合について言及しないで、「あの戦争は大義なき戦争」だ批判しているヤツラは、馬鹿だと思う。わからないのだろうか。思春期のガキじゃないんだ。いくら正論こいても、そこに暴走族みたいな有志連合がいていつでも動けるのだ。こいつらをどう制御するのか。制御しないかぎり、また暴走するのだ。むしろ、この暴走を止めるための実際的な努力を、批判の満足で自己慰撫していてもしかたない。現状は、米国に批判的な見える仏独だが、こいつらのEUのなかでの強権の問題も知らんぷりして、仏独の言論に尻馬に乗っているやつらは、嗚呼、ポーランドからどう見えるだろうか。そして、実質、有志連合には仏独も事実、拒絶もしてない。
 率直のところ、あの古くさいサヨクの歌がまた流れている状況に辟易としてしまう。
 個別に大義云々にしても、ようは、実は、開戦の是非ではなく、戦後統治のミスの問題を隠蔽しているだけだ。
 米国が、もっとドライにフセイン勢力を温存しておけば、スンニ派の抵抗はなかった。適当にあいつらをおだてておきながら、実質統治の面で分割統治のようにクルド人やシーア派をバックアップして、あとはスンニ派の政権下で米軍基地を置いておけばよかったのだろう。そうしなかったし、亡命勢力を根付かせようとすらしたした米国の統治はミスだ。このミスがなければ、「あの戦争の大義は?」といった問いの出てくる隙間はなかった。
 その意味で、イラク戦争の大義を問うということは、イラク戦後統治のミスを問うことと、バランスしているはずだ。だが、後者の意見を私は見かけない。
 戦争に大義はいらないとは思わない。大義とはそれを了承する人々のパワーの問題にすぎない。大義などいくらでもできる。ようは、それを、我々の大義とするか、だ。小泉は米国のケツを舐めることを大義としたのだから、それも大義なのだ。
 今さら大義を問うても、有志連合が問われないなら無意味なように、戦後統治のミスを問うことはさらに無意味だろう。だが、現実の問題は、イラクをどう統治するかということであるはずだ。特に、日本人にとっては。
 暴論ついでにいうが、日本人はサマワ=イラクだと思っているのだろうか。偽悪的に言うが、あんなもの米国に従順でしたというシンボリックな意味以上はなにもない。イラクの復興を願うなら、そこは起点ですらない。
 も一つ暴論を加えておこう。日本人はイラク友好である心情を持てば、イラクからも親密な応答が得られると思っているのではないか。イラク人といっても単一ではないが、総じて言えば、彼らは日本人を猿か中国人か韓国人くらいにしか見ていない。トルコ人ですら、知識人で歴史を知らなければ、日本人なんか見えないのだ。日本人が日本人に見えるためには、日本を知らしめなくてはいけない。亡くなられた奥克彦参事官が、イラクの無秩序の社会にあって、なぜ「おしん」を放映しようと思ったか、そのセンスを誰も理解してねーんじゃないか、と思う。
 日本人が猿なみに差別されることを、中国人や韓国人くらいには理解しておいたほうがいいと思う。特に、若者!

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企業内特許の対価は企業経営の一部

 今朝は日亜化学工業と、その特許の対価を巡る元社員中村修二(現米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)の訴訟を避けるわけにはいかない。結果は中村の勝訴で二百億円の請求が認められた。金額面がいわゆる庶民感覚から飛び抜けているという点で意外感はあるが、ことの成り行きやこの発明の評価という点では、ある程度予想された判決で、逆にいえば、適当な減額でとほほ感を狙ってもしかたのないことだ。下手すりゃ、中村にノーベル賞がやってきて日本がコケにされるのがオチになる。
 新聞社説の受け取り方には、意外に陰影がある。理由はおそらく、端的に言って、執筆者たちがジャーナリストというよりは大企業のサラリーマンであり、彼らもそうした巨額の報酬を得てみたいなと思っているからだろう。朝日新聞社説「200億円判決――優れた発明に手厚く」の出だしが笑える。


 サラリーマン研究者でも、能力次第でベンチャー企業の創業者やスポーツのスター選手のような巨額の報酬を得られる時代が始まったのかもしれない。

 朝日の作文は書き飛ばしで出来ているので、この先読む価値もないが、概ね、肯定的に捕らえられている。というか、そうしないと頭脳流出(死語か)になるというくらいなものだ。
 読売新聞社説「発明の対価 『報酬』巨額化の時代に備えよう」は中村という異能な発明者への理解があるものの、むしろ企業よりの発言である。が、結論は朝日新聞と同じだ。
 毎日新聞社説「200億円判決 発明補償は経営リスクだ」は鮮明に企業に立っている。ある意味で小気味よいほどだ。

 米国の高額発明補償のシステムは、契約にたずさわる濃密な法務サービスに支えられている。日本にはそうした法務サービスが発達していない。だから米国流の高額発明補償の社会に移行するのは難しいと考えられてきた。
 ところが、特許制度の変更なしに、米国にも例がないような超高額補償の判決が出た。日本の企業社会は、司法からの爆弾をどう受け止めるか迫られている。

 「司法からの爆弾」という表現が面白い。それにしても、他紙がいまだにサヨクという線で論を対峙している間に、毎日新聞はなんか奇妙な次元に突入している。読者層が他紙と違うのだろうか。論の傾向としては、産経新聞社説「特許の対価 日本社会になじまぬ判決」も似たようなものだが、こちらはいわゆるポチ保守トーンで覆われていて面白くはない。
 社説としては日経がまともと言えるかもしれない。今回の訴訟について、経営に携わったことのある人間なら日経新聞社説「社員への巨額発明報酬判決の衝撃」のこのくだりに共感を覚えるだろう。

 青色LEDは世界的発明にもかかわらず、会社側が合計2万円の報奨金しか払わないなど対応のまずさもあった。企業内の研究者の独創力をきわめて高く評価するプロパテント(知財重視)の判決で、研究者の士気は上がるだろうが、企業の研究開発強化、技術立国にプラスになるかどうかは意見が分かれる。

 率直なところ、私の意見はこの日経に近い。
 私は、今回の訴訟は、研究者対企業という一般論の構図で捕らえるのは勘違いではないかと思う。というのは、もともとも独創的な研究に支えられる企業というのはそれによって特徴づけられる企業であり、そのような企業の健全な経営のありかたに、今回の事態への対応も必然的に含まれると考えるからだ。これも率直に言うのだが、私のこの感覚のほうが一般的なものだと思うがどうだろう。新聞執筆者たちの骨の髄からサラリーマンな態度のほうがおかしいと感じる。
 話は少しそれる。気になることがあるのだ。ちょっと物騒な話題かもしれないのだが、メバロチンなどスタチンの発見をした東京農工大学の遠藤章名誉教授(現バイオファーム研究所長)についてだ。秋田県のサイトにある「カビから夢の特効薬を発見」(参照)が参考になる。

大学を卒業して会社に就職し、食品製造に用いるカビとキノコの酵素の研究を8年間続け、その後、32歳のときにアメリカに留学しました。そこで、血中コレステロール値を下げる良い薬があれば、心臓病で苦しむ1億人以上の人々の命を救うことができることを学び、カビとキノコからコレステロールを下げる薬を探す研究をしようと心に決めました。
 帰国後の1971年からカビ、キノコなどを6,000株集めて、一株ずつ調べ、2年後に青カビの一株から強力なコレステロール低下剤(スタチン)を、世界で初めて発見しました。この発見から更に10数年の歳月と100億円以上の費用をかけて、スタチンの薬効と安全性が徹底的に研究されました。この間幾度も困難に遭遇しましたがすべて克服し、ついに夢の特効薬が実現しました。スタチンは1987年の欧米を皮切りに、100ヶ国以上の国で商品化され、現在約2千万人の患者に投与されています。

 スタチン剤が生み出した富を巡り、遠藤章と当時所属の三共発酵研究所の関係については、当人と会社間に問題もないのだろう。その後の経緯にも相応の配慮がされていると思われる。だから、今回の問題とは違うのかもしれないが、こうしたケーススタディが知りたいと思う。あと、「この間幾度も困難に遭遇」についてで、そこでコレステロール低下剤の特許が国際的にどう扱われているのかが気になる。一時期調べてみたのだが、よくわからなかった。ちょっと裏がありそうな印象は持った。

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2004.01.30

ざりがにの死

 私事である。年末から家に預かっていたざりがにが突然死んだ。え?と最初思った。理由が思い当たらない。もちろん、ざりがにと暮らしたことのない人間にとって、ざりがにの死の理由というのは、恐らく、他人の死と同じほどに、意味のないことかもしれない。しかし、私には、ちょっとした驚愕だった。正月あたりから、やばいな、情が移っているな、と自覚していた。こいつが死んだらどうしようと思うと眠れなくなった。すると、彼女はごそごそと騒ぐのである。そう彼女。メスだった。なぜメスかとわかるかというと、私はざりがにの雌雄を見分ける技術に長けているから、というわではない、気が付くとたくさんの子を産んでいたからだ。腹から尻尾というのか、その裏に無数といっていいほど、ある日、貼り付いていた。ふーん、と思った。やけに小さいものだなと思った。私は眼が悪いのだが、眼をこらすと、その小さい生き物はかみじんこのような形状ではなく、ざりがにの形状をしていた。あたりまえである。ざりがにの子なのだから。こんなにたくさんの子うち、どれほどが生き延びるのだろうかと、かわいいものだなとと思いつつ、暗澹たる気持ちにもなった。神秘家ゲオルゲイ・イワノビッチ・グルジェフはある秋の日、少年を連れだった時、少年にその樹を揺すってごらんと言った。少年が樹を揺するとたくさんの木の実が落ちた。そして彼は言った。この一つも樹にはならないかもしれない、と。自然は多くを与える。可能性を与える。しかし、多くは樹にならない。が、朽ちていく木の実は無意味な存在ではない。樹となるもののこやしとなる、と。もちろん、その諭しには人間の比喩がある。私など樹にはならずに、他のこやしにすらならないかもしれない。存在とはそんなものだ。たくさんのざりがに子たちもどれだけ生き延びるのだろうかわからないが、一、二匹も成長すればいいのだろう。しかたのないことだ。そして、自然の掟に従うかのように、不思議に数は減った。水の取りかえで流れてしまったのかもしれないし、共食いもあるのかもしれない。昨年の夏、かぶとえびを飼ったのだが、共食いしてしまった。そういうものなのかもしれない。生き残ったざりがにの子たちは、見ていると、面白い行動をする。親から離れている時もあり、親に腹にぶらさがるように戻る時もある。彼女は、まさに母親であり、子たちを守っているとしか見えない。こんな生き物でも子は親を守るのかと思う。本能と言えばそうなのだが、そうした下等なレベルでしっかりと本能とされてきたからこそ、人間も存在しえたのかと思うと、やはり生命への畏敬というものは感じる。その母たるざりがにが死んだ。むごたらしい形で死んでいるのだが、どうやら脱皮に失敗したらしい。脱皮で死ぬことがあるのかと思って調べると、そういうことはままあるようだ。脱皮で疲れてうずくまっているのかと数時間その死が信じられなかった。これは、人間でも同じだ。死体として横たわり、冷蔵されていても、そこにその人がいる限り、死体であるかぎり、その人はその人なのだ。死んで意識がなくなれば人間は終わりだというのは、唯我論的な誤りであって、人の存在というのはその人を愛した人たちの視野のなかにある身体のことである。キリスト教が魂の復活ではなく、身体の復活を希望しているのは、その強い愛を信じているからにほかならない。私は信じるか? わからない。それでも、ざりがにの母親の死に、ある種呆然として、それでも子が育てばいいのではないかと祈るように思った。どの生物も(おそらく中国人の一部を除けば)、親というのは子が生き延びるために死んでもかまわない存在だろう。ざりがにであったって同じことだ。死の苦しみはあっただろうが、産みの苦しみに次ぐことは、生きている存在の恩寵である。どうも、表現が仰々しくていけないが、私は東洋人だし、歳を取るに次第に仏教的になっていくので、そう思う。歩道を通行する自転車に乗った者たちを例外とすれば、衆生全体に憐れみのような感じを覚える。この感覚の延長にきれいに死の意識があるなら、人生というのも悪くない。だが、人生とは、ざりがにの脱皮の失敗のように終わるのも真実だ。中年になって、ふと死に直面して、世界の相貌を変えるを見て、苦しい思いをしたが、世界とは私にとって褪せしまったものなのだ。そう見えてしまったら、物は私を世界につなぎ止めないと知った。もともと私はあまり物を集めない。集めた物たちが私の身体になろうともくろむのを許すことができない(物は人の身体を模倣するものだ)。私は物を大切にしない。ふと、酒をやめたのも、それに近い。酒は私を麻痺させることで、仮の救いを与えてくれる。酔わなくてもいいのかもしれないが、それは私をさらに世俗的に上機嫌にさせてくれる。でも、私はそうした私の死に刃向かってくる隠蔽的な存在の、そのどれも許すことはないだろう。私は、正直なところ、このざりがにほどにもまっとうに生きてない。それは心の奥の、まるで孟子が心の官と呼んだなにか、あるいは本居宣長が直毘霊としたものに近いなにかが私を責める。書きながら、ざりがにの死を悼む心からそれて自分のことばかりに気が向いてしまったとも悔いる。眠れない夜に、がそごそと自然の音をかなでる彼女はいない。子たちを自然に帰せるくらいに育てなくてはいけないなと思う。

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テコンドー

 韓国ネタである。このてのネタは物騒だからやめとこうかと思ったのだが、ま、いいや、軽く書いてみよう。話は、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」(参照)からである。標題からはわかりづらいが、国際オリンピック委員会(IOC)副委員長の金雲龍(キム・ヨンウン)が先日、横領・収賄などの容疑で逮捕されたことに関連する。
 このニュース日本での扱いはなぜかしょぼんとした印象を受ける。ニュース自体の概要は、28日共同の「金雲龍IOC副会長を逮捕 韓国スポーツ外交の転機に」のほうがわかりやすい。


韓国の検察当局は28日未明、金雲龍・国際オリンピック委員会(IOC)副会長を、特定経済犯罪加重処罰法の横領・背任収財や外為取引法違反の容疑で逮捕した。

 そーゆーことなのだが、実態はけっこうえぐい。そりゃあ韓国ニュースに強いのは当たり前のYahoo!ニュースをお抹茶の名前のような「金雲龍」で検索してみると、そのえぐさがわかる(参照)。が、そうしたことはとりあえず、どうでもいい。
 先の共同のニュースの終わりにこうある。ここがポイントだ。

 IOCは23日に金副会長のすべての資格、職務を当面停止すると発表している。検察当局の逮捕で、金副会長に対してさらに重い処分を行うのは確実。金副会長が大きな役割を果たしてきたテコンドー競技の今後の国内外の役員人事や競技のあり方にも影響を与えるとみられる。

 そう、問題は金雲龍がオリンピックにおいてテコンドーをごりごりと押さなくなったので、やっぱ、やめようかという雰囲気になっていることである。ここで、ようやく、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」に話が入る。

 こんな中、海外メディアは「韓国文化の看板種目であるテコンドーの地位も危うい」と警告している。2008年の北京五輪の開催を控え、中国の伝統武術「ウシュー(WUSHU)」と日本の空手が、テコンドーの代わりに正式種目として採択されるため積極的なロビーを展開している。
 IOCも来年、五輪種目の採択を全面的に見直す予定であるだけに、テコンドーを五輪の正式種目として守り抜くことは国を挙げての緊急課題となっている。

 ふーん、そうなのかである。日本が空手を推しているのが韓国にとって困るのである。なんだか、まいどおなじみのぉ…という話になってきた。そしてその先の結論が、こうだ。

 IOC委員の中には、韓国寄りの人物がまだ20人以上いる。彼らとの関係を維持できる人物とシステムをただちに探し出し、テコンドーが引き続き五輪種目に採択されるよう必要な環境を作ることが急がれる。

 なんか、すごい発想だなと思う。私の印象からいうともうついて行けない。のわりに、さらに物騒なテコンドーの話に突き進む。
 すでに日本では常識だと思うが、テコンドーは戦後日本の松涛館空手を元にできた…一種の空手である…はずなのだが、それを韓国では言っちゃだめということになっている。最近日本でもそういうふうになってきているようだ。というわけで、韓国5000年の歴史からテコンドーができたような話になってきている。なんだかなと思うが、私は、たいして気にしない。そんな話、むちゃくちゃやん、ほっときなはれである。それよりか、日本の空手、とくに沖縄の空手をどないすんねんと思う。関西弁で言うこっちゃないが。
 沖縄の空手の伝統と本土の空手がどう関連しているのか、いまいちよくわからないし、極真空手は空手なのか?とすら思う。テコンドーに対して、あれは日本の空手の亜流と言うにせよ、本流の日本の空手ってなんだ? 余談だが、「空手」は「唐手」と表記されるべきものではないか。沖縄の那覇手、首里手、泊手は唐手(とうて)と呼ばれる。
 話を戻して、テコンドーの実質的な歴史だが、「HISTORY OF TAEKWON-DO」(参照)、「また書かざるを得ないテコンドーの歴史」(参照)、「テコンドーがカラテの影響を受けたのは事実」(参照)、「テコンドーの歴史」(参照)などが参考になる。ま、偏った資料だとも言えるが。
 偏った資料を基にまとめるのだが、テコンドーは1960年年代に故崔泓熙(チェ・ホンヒ)が松涛館空手を元に「[足台]拳道」を創始したもののようだ。この際、韓国の伝統芸テッキョンを融合したとのことで、その伝統性を主調している。この点については、どこが融合されているのか具体的な研究が必要だろう。
 崔泓熙は1966年に国際テコンドー連盟(ITF)を創立し総裁となる。1973年朴正煕再選に反対し、戒厳令下の韓国からカナダに亡命。同年は金大中の拉致事件のあった年で、私などには生々しい。「朴正煕」には「ぼくせいき」という以外の読みができない。
 その後、韓国では世界テコンドー連盟(WFT)を創立。これで、ITFと分離した状態になる。どこにもある香ばしい話というには、歴史が悲惨すぎる。
 WFTとITFの違いは、「テコンドー ~WTFとITF~」(参照)が参考になる。掲載されている写真が面白い。率直にいって、ITFは空手にしか見えない。
 オリンピック2000年シドニーで五輪正式種目となったテコンドーは当然、WTFである。で、この「正式種目」の背景に金雲龍が活動していたようだが、あまり邪推するのはやめにしょう。
 以上、誤解されないように強調するのだが、テコンドーを貶めるものではない。歴史は歴史、また、五輪正式種目となったWTFの背景追及はきちんと行ってもらいたいと思う。空手については、沖縄の伝統がもっと研究されていいのではないか、と思う。それだけ。

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私はBBCを評価する

 今朝の新聞社説をザップしながら、読んでいる自分の側のやる気のなさのようなものに気が付く。あの、新聞の社説ってかったるいなぁ、という感じだ。理性的に考えれば、今朝の新聞各紙の社説の質はこんなものだろう。古賀潤一郎問題など社説に何度もとりあげる話題じゃない。また、2月に入ってのG7が大きな問題になるだろうから、今しばらくは中だるみ感もあるのだろう。
 簡単に触れるだけにするが、朝日新聞社説「制裁法案――対話につなげる圧力に」は醜い。ようは北朝鮮に金を回せということだ。制裁を今まで課さなかったほうが不思議なくらいなのに。どの社説も触れていないが、今週のニューズウィーク「市場経済が北に花開く 米訪朝団も驚く経済改革で金体制は生き永らえるのか」にあるように、北朝鮮の大衆のマーケットは動き出した。たぶん、中国側の圧力だろう。
 今朝の話題としては、毎日と産経が触れていたが、英国政府による、イラク大量破壊兵器の情報操作疑惑についての英独立司法調査委員会の決定が興味深い。結果は、ブレア首相の責任を否定し、疑惑を伝えたBBCの報道を無根拠とした。まず、ブレアの勝ちである。またしてもジョンブル魂である。イギリス人はブレアの評価相半ばといったところだろうが、私はこいつはすごいやつだと思う。英国っていうのはものすごい底力を持つのだと呆れる。
 毎日も産経は、それでもブレアを非難するトーンがあり、加えてこの件をBBCの汚点とした。産経の文章は稚拙すぎるので、毎日新聞社説「英調査委結論 大量破壊兵器の問題は残る」を引く。少し長いが雰囲気を感じて欲しい。


 調査委員会の結論が出た日の英下院本会議で野党保守党のハワード党首は「調査委員会がどうであれ、大量破壊兵器は見つからない」とブレア首相に詰め寄った。米国でも日本でも同じ問題が今も提起されている。米国によるイラク大量破壊兵器捜索を指揮したデビッド・ケイ氏の「大量破壊兵器の大量備蓄はなかった」という発言も大きな波紋を呼んでいる。戦争の大義の問題は過去のものにはなっていない。
 調査委員会の結論ではまた、世界的な名声を誇っていたBBCが編集システムの欠陥を指摘され、報道の信頼性に大きな傷を残した。ギャビン・デービス会長の引責辞任にとどまらず、報道体制の早急な点検を迫られるはずだ。メディアの報道責任も問われた事件だった。

 気取っているが、前段はタメである。政治的な正義を装ったナンセンスだ。後段は、馬鹿だ。なぜか。
 私は今回の一連の件、BBCを以前より高く評価するようになった。この問題でBBCを問いつめて断罪したのはBBC自身だと私は思うからだ。もちろん、ブレアからの防戦意識も強かっただろうとは思う。それでも、こいつらのジャーナリスト魂はブレアのジョンブル魂に匹敵する気迫だ。伊達に朝から高カロリー取っているわけじゃないなというのは軽口だが、実に感心した。
 そう思う背景の最大の理由は顧みてNHKの病巣だ。同じ公共放送でありながら、NHKは死に体である。自浄機能のかけらもない。NHKスペシャル「奇跡の詩人」のほっかむり、武蔵のパクリのあとのバックれ。醜悪だと思う。
 NHKがクオリティの高い番組を作っていることは理解できるが、なんでこうもNHKというのは醜悪な側面を持っているのだろう。子会社を組織して金儲けをしているのも変だ。
 と言うものの、報道面ではそうでもないなとは思うことも多い。「あすを読む」なども注意して聞けば、かなり辛辣な真実がずばっと提起されることがある。内部にはきちんとしたインテリジェンスがあるし、それを育成するシステムもある。NHKのアナウンサーたちのクオリティこそ今一番日本語を守っている。だが、それでも、NHKという存在の公的な立場に対する自浄作用のなさはどうにもならないのだろうか。
 日本の新聞は報道機関としてテレビと付き過ぎている。朝日新聞は朝日放送、読売新聞は日テレ、毎日新聞はTBS、産経新聞はフジテレビ。そうした、村的な意識が結果的にNHKへのジャーナリズムとしての批判を弱くさせるのだろうか。
 今回の事件の、可視な発端は端的にBBCの過ちであって、これを強弁して援護することはできない。だが、背景には、英国政府側がBBCのイラク戦争報道に不満があったことはよく考慮しておきたい。
 BBCは、30年前とはいえ、モンティパイソンを放映したラディカルな放送局なのだ。今は時代が違う。でも、BBCというのは日本人から見れば、驚嘆すべき組織だと思う。毎日と産経の評価は、浅薄過ぎる。

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2004.01.29

週刊文春お薦めソフトというお笑い

 週刊文春2004年2月5日号「達人たちが薦める『無料で使える』ラクラクソフトを全紹介」がお笑いだった。というか、コケにしようと思う。リストは以下。URIは、んなものぐぐれである。


●必須ソフト
OppenOffice1.1.0
GIMP
+Lhaca
●あれば便利
壁カレ
デスクトップカレンダー


NSアウトライナー
CLCL
まめFile2
Adobe Reader 6.0
Googleツールバー
窓の手
●趣味のソフト
ViX
Exif Reader
ラベル屋さん21
iTunes
●上級者向け
MySQL
FFFTP
RemapKey
●ブラウザ
ネットスケープ7.1
マイクロソフトインターネットエクスプローラー6
モジラ1.6

 まず、なんでこれが必須なのかあきれる。OppenOffice1.1.0、GIMP、+Lhaca。誰が薦めているのかと思ったら東大教授國井利康名誉教授。あれま。なんでこんな爺に取材しているのか。OppenOfficeですか。貧乏人のOffice。使いたい人はどうぞだな。でも、何に使うのか。ワープロユース?なわけないよね。エクセル代わり、かな。これはしかたないか。でもだったらエクセル使ったほうがいいと思うが。
 GIMP、論外。文春のあるデザイナー曰わく「九万円以上する『フォトショップ』と機能は変わらないほどで、プロでも十分に使えます」。確かにバージョン2からはCMYK分解できるんだけど、使うか、プロが? プロっていうのは、ソフトに習熟していて、ジョブの連携ができるやつのことをいう。つまり、仕事って一人で完結しないぜ。そのフローのなかでGIMP使うかね? んしても、文春の記事でGIMPにやらせている色調整ならGIMP使うまでもないんだけどな。なにより、GIMPが必須かね?
 +Lhacaがなんで出てくる? 何を解凍したいのか? LZHか。今時誰が使っているのだLZH。ちなみに、私のお薦めは、eo。LZHを使うならLhaz。でも、必須か?
 あれば便利が不可解。壁カレとデスクトップカレンダーを並べる必要はあるのか。ま、どっちかは人によっては便利か。フツーの卓上カレンダーがあればいいんじゃないか。ちなみに、私のお薦めは"Phase of the Moon"、旧暦で暮らしているのでね。
cover
Wzエディター
 「紙」はたしかに便利。でも、名称は「紙copi」ではないか。こっちはフリーじゃないからか。ちなみに、作者の洛西さんは、シュタイナー学校卒業。その体験記をCD-R出版で1000円で販売している。「風」はどうかな、これはわかんない。クジラ飛行机さんもメーラーを新種の作っていたがどうなのだろう。NSアウトライナーは、あれです、Actaですね。世界で一番優れた民族…じゃないか。薦めているのは吉岡忍ですかぁ、アウトラインプロセッサーだったら…と思うのだが、フリーにこだわるのか。なんでもそうだけど、この手のソフトは独自形式やハンドリングの悪い形式使わないほうがいい。ちなみに、私は、昔からWzです。あ、昔はVzだっか。
 CLCLやまめFile2は、率直に言って、なぜ便利なのか皆目わからん。便利だと思う人はいると思うが、なぜこのリストに掲載されているのか、が、わからん。
 Adobe Reader 6.0とGoogleツールバーなんて掲載するなよ、恥ずかしいなぁ。GoogleツールバーはPageRankのプロトコルがハックしづらいので使うしかないんだけど、これってスパイソフト。
 「窓の手」、これは確かにあれば便利だと思う。
 趣味のソフトという分類がわからない。が、ViXは優れもの。有料にして使う人を減らして欲しいほどだ。Exif Readerはスタパ斎藤が薦めているのだが、フツー要らないよ。なんか推薦が間違っている。Exif情報をキーに検索・管理するなら、AbleCVがいいと思う。フリーではないが。
 ラベル屋さん21については特に言及なし。ご勝手に。iTunesは、ま、便利か。m4uで使わないことですかね。
 上級者向けがわからない。MySQLなんて薦めてどうする? コマンドラインベースだぜ。なにかフロントを加えないと使えないよ。FFFTPもスタパ斎藤のお薦めなのだが、わかんねーなと思う。フツー要らないはずだけど。RemapKeyについては、この手のソフトはマシンを不安定にするから余程必要でなければ、やめとけ、と思う。AltIMEで十分ではないのか。
 ブラウザのお薦めは馬鹿丸出し。ネスケとモジラを並べるなよ。IE6はリストにする意味なし。Operaがないだけましか。でも、Mozillaはいい。CSSの設計には不可欠。バグもあるようだが、IEでCSSチェックしちゃだめ。ちなみに、世の中、centerタグはいかんとかいう馬鹿が多いよなと思う。DIVのalign属性のエイリアスだと考えればいいのに。文書タイプ宣言で4.01Trにしとけば別になんら問題ない。

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ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)

 今朝も社説ネタはない。各紙ザップするに主要なテーマ、国連安保理問題と裁判員制度。どちらも朝日新聞社説が扱っているが、「国連と同盟――小泉流の一国平和主義」は支離滅裂。駆け出しライターが必ず言われることだが「あのさ、どこが悪いか言える文章ならまだいいんだよ」である。裁判員制度は、現状、善戦しているとしていいのではないか。
 他に気になるネタはと、ザップするに、ちょっとなんだかなと思われるかもしれないが、今週のNEJM(The New England Journal of Medicine)のトップ記事がちと気になった。Human Metapneumovirus and Lower Respiratory Tract Disease in Otherwise Healthy Infants and Children(参照)である。
 英文を引用しても専門過ぎてなんなので、簡単に言うと、定訳語を知らないのだが、ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)が、幼児の気道感染の12%を占める、というものだ。
 で? なんて言われそうだが、確かに、SARSや今話題のトリ由来のインフルエンザほど、社会的なネタではない。ヒト・メタニューモウイルスについてはSARSに関連した話題もあった。気になる方はこちらを参照のこと。SARSの原因かと疑われてもいたわけだ。この問題を決着したのも、ヒト・メタニューモウイルスの発見者アルバート・オスターハウス(Albert Osterhaus)である。
 NEJMが大きく取り上げているのは、背景にヒト・メタニューモウイルスってそんなに人間に関わっていたのかということがあるのだろう。というか、私は、その点に、へぇ~98点、という感じだった。ここでいきなり妄想をたくましくしてはいけないのだが、こいつはレトロウイルスで、しかも人間と事実上深く共生しているのは、なんか意味がありそうだ。似たようなウイルスもまだいっぱいいるのだろう。
 日本でもこの感染の状況はほぼ同じだろうと思う。すでにヒト・メタニューモウイルスは検出されているからである。
 社会問題としてみれば、日本の小児科が手薄すぎることが気になるが、実際の治療面では、この発見によって診断が変わってくるだろう。臨床面で対処に大きな変化はないのではないか。このあたり専門家のコメントが聞きたいと思うが、難しいか。
 ヒト・メタニューモウイルスが話のネタとして面白いのは、これが発見されたのは、2001年とごく最近のことという点だ。私は医学というのは20世紀で終わったと考えるのだが、逆にいえば、こうしたウイルスの発見は、新世紀の医学に大きな意味をもつだろう。人類とこれだけ深い関わりがありながら、わかっていないことが多いのだなと思う。SARSについても、社会ニュース的にはなんだかわからないが、免疫になんらかの影響をしているのではないだろうか。あまりこの手のことをうかつに言ってはいけないのだが。
 不埒な極東ブログなのでちょっと放談として先の妄想を書いておく。人間は幼児期に自然状態ではヒト・メタニューモウイルスの免疫を獲得するのだが、むしろ、この獲得過程は進化的に選択されたものではないのだろうか。こんなことを思うのも、SARS感染についてニュースを通して知る限り、子供の犠牲者が少なかった。子供を守るシステムが存在するのではないかと思う。ここで野口晴哉を出して「と」全開にする気はないが、子供の風邪の対処は自然な経過が重要なのかもしれない。

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2004.01.28

ラジオ、深沢道子、70年代

 ラジオが好きだ。聞くのも作るのも。よく作った。最初はいつだっただろう。小学一年生以前かもしれない。エナメル線の手巻きに多数の半円形の板が回るバリコン、ゲルマニウム検波器っていうやつだ。今でも覚えている。三球、四球、五球(スーパーヘテロダイン)、一石、一石レフ、六石…ああ、こういうノスタルジーに浸るのはやだなと思うが、甘美な思いはする。完成品の高性能なラジオも好きだ。SONYのはいいぞぉと思う。聞くの好きだ。北朝鮮や北ベトナムの放送も聞いた。別に左翼っていうわけじゃない。日本じゃない変な国の日本語がよかった。
 今はAMのNHKとFENくらいしか聞かない。TBSも文化放送も聞かない。秋川リサとかすてきなお姉さんという感じだった。深町純に詩を送ったら曲を付けてくれた、ってその放送の日だけ風邪で寝ていて、あとで女の子から、あなたの詩?ときかれて、照れた。みのさんもいい人だった。小島イッケイ(どう書くのだ)。久米宏もラジオだった。なっちゃんちゃこちゃん。土曜日の夜の終わりはいつも…ヤングタウン・トーキョー。ああ、ださ。

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戦争をやめよう
 いっぱい持ってたヤングセンスも捨てるんじゃなかったなと悔やむ。こうしたご時世だからどっかで高い値段で売っているのだろうな。ピンクピクルスとか、今、どんなだろう。かぐや姫も初期のが面白かった。グランドファンクレイルロードの後楽園も風邪で行けなかった。今週のSPAの福田和也と坪内祐三の対談だとあれは口パクだったらしい。ピンク・フロイドも箱根に見に行きたかったけど、まだお子ちゃまだったからな。ああ、ラジオ。
 FM放送も昔は美しかったなと思う。ジェットストームは別にいいけど、深沢道子「男の心、女の心」はもう一度聞きたいなと思う。なんかあの声と、ああ、大人の世界だぁ、という感じがたまらなかったなぁ。1975年ころか。高校生だったか。あのとき、深沢道子は何歳くらいだったのだろう。ぐぐってみてもあまり情報はない。書店で検索しても、近年の著作は少ないみたいだ。知らなかったのだが、彼女、交流分析やゲシュタルトセラピーとか専門だったのか。
 私は交流分析は関心なかったが、大学生のころは、ゲシュタルトセラピーのフリッツ・パールズにけっこう入れ込んでいたことがあった。ふーん、という感じだ。
 あれから25年、いや30年近いのか。深沢道子、あのころ、30歳代だったのかな。いやもう少し上だろうか。って、もう少し上でも、今の俺より若いのか。でも、大人っていう感じだった。この永遠に到達しない大人の女っていう感じは、なんなのだろう。
 そういえば、マリーネ・デートリッヒの公演を見たことがある。いつのことだろう。白黒テレビか。終わって立ち上がる観衆が爺ぃばっかし。
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バエズ武道館公演
 ジョーンバエズが武道館で、アカペラで、ニクソン馬鹿野郎を歌ったとき、あれは天使のように見えた。その後、彼女は声を失ったというが、また戻ってきたという公演をテレビで見た。おばさんという感じだった。きれいだった。アメイジンググレースはなんか聖なる感じだった。
 1970年代かぁ、万博も見た。あのときの小学六年生の付録のガイドブックは実家にあるんじゃないか。
 未来が、世界が、遠いかなたにあった。学校をふけた友だちに、湖畔で、どうしたんだよとか問いつめる青春もあった。彼は今も未婚。友だちが窓越しに、オリビアニュートンジョンのLPを借りに来た。彼は離婚して子供をひきとった。感傷するにはまだまだけっこうしょっぱいなと思う。それに、いまひとつうまく思い出せない。思い出したくないっていう感じもする。
 でも、深沢道子DJの復刻CDとかあったら、欲しいなと思う。

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岸和田、雑感

 この話もためらうのだが、書いてみよう。れいの岸和田市で起きた中学三年生への虐待事件に関連したことだ。この事件は、私はまるでわからないし、世間の受け止め方や新聞社説の取り上げ方も理解できない。コメントとして述べることもできないし、批判もできない。そうした点に変わりははない。
 が、気になるブログ(はてなダイアリー)を読んだ。岸和田市出身のかたの話だ(参照)。ちょっと引用をためらうのだけど、岸和田という土地からすればああいう事件は不思議でもないというのだ。私には岸和田はよくわからないのが、地元を知るがゆえに落胆する思いというのはわからないではない。昨年沖縄北谷で中学二年生が残虐に撲殺される事件があった(参照)。私は、不思議でもなんでもなかった。現地を知っているからである。そしてしょせん本土人である私はなにも言及できない。何を言っても無駄だなと思った。こういう感じってなんなのだろうか。
 岸和田の話では、そして追記もあった(参照)。だんじり関係の話だ。これは引用してもいいかなと思う。


だんじりは、町単位で一台づつ持っています。で、各町に「年番」と呼ばれる責任者がいます。年単位で持ち回りなんですが、それは2、3人の間での持ち回りです。そして、「年番」は時に行政以上の実力者になります。はっきり言うと町のボスになるわけです。今は無いと思いますが(そう信じたい)かつては、年番が土地の境も水路の流れも決められたそうです。

 「年番」は他の山車を持つ文化でも見られる。私には語感と歴史的な由来がわからない。だが、山車がなくても、こういう組織は各地にあり、そしてそのまま行政以上の実力者になっているものだ。極東ブログ「市町村議員を減らすだけでは危険なことになる」(参照)でも書いた。

 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。

 この文脈で考えるなら、岸和田の事件は、「年番」さんの機能の問題だとも言えるかもしれない。ま、言っても詮無きであるが(年番の関心は山車だけだろう)。
 もう一点、歴史に興味を持つ人間としては、先のブログにある「水路の流れ」というくだりが気になった。
 少し地域は違うが、奈良の吉野山には、吉野分水神社がある。この地域は、奈良から大阪南部は水の配分が重要な意義を持っていた地域なのだろうと思う。
 「分水」の意味は字義通りだが、「みくまり」と読む。語源は「水配り」であろう。分水神社はなにも吉野ばかりではない。枕冊子では音転から「みこもりの神」ともある。これは、「御子守神」になっているのだろう。
 古事記など平安初期にできた偽書に過ぎないのだが、書かれている伝承にまるで価値がないわけでもない。その上巻には、速秋津日子と速秋津比売の子として、天之水分神と国之水分神が書かれている。かくしてこの二神(柱)は分水神社に祀られる。
 分水と権力の関係は、日本の歴史を考える上でもとても気になるところだが、この問題についてはまだ自分でもよくわからない。
 余談だが、岸和田ではないが、大阪南部、古市には知人の奥さんの旧家があり、大きいのをいいことに、夏その家族が帰省されているときに、訪問してなんどか泊めてもらった。20代後半から30代前半のことだ。私は、休みができればぶらっと新幹線に乗り、奈良を放浪した。京都もときおり行くが、きたねー学生の町だとばかり思うせいか、好きではない。京都人は嫌いだと言ったら、大阪の人が同意していた。
 奈良から明日香をぶらつきながら古代史を思ったのだが、自然に、奈良から二上山を越えて、河内飛鳥に関心を移した。日本の古代史にとって重要なのは、こちらの地域ではないのかと思うようになったからだ。そして、古市は非常に面白い地域だった。あのあたりは、河内のまんなかのようなイメージを持っていたが、住民の対人的な関係のありかがた、西洋人のような個人の感覚をベースにしているように思えた。不思議なエレガンスがあると思った。城壁都市の文化なのだろう。
 岸和田まで南下するとわからない。文化的には楠公の伝説がまだ生きているようでもあるし、「悪党」の文化なのかもしれない。
 観光なんかどうでもよく、ぶらぶらとすべて忘れて、あの地域を数日かけて散歩してみたいなとは思う。

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給食費払いたくないというネタ

 言い訳じゃないが、あまり面白いネタは書かないことにしている。が、これは面白ろすぎるので書く。河北新報社「給食費『払いたくない』 身勝手な親、滞納が急増 仙台」(参照)だ。


 仙台市の小中学校で給食費の滞納が急増している。2002年度は滞納が過去最高の1568世帯、約3501万円に上った。生活困窮も少なくないが、半数以上は「払いたくない」などの身勝手な理由。滞納のしわ寄せで給食の質を落とさざるを得ない学校もあり、親の間で不公平感が強まりそうだ。

 なんかすごい話だなと思うが、実際のところは、未納者は10%に満たない。河北新報社では、義務教育だから払う必要はないと抗弁する親の例を挙げているが、ま、ネタっていうあたりだろう。端的に言えば、これこそ親の義務の放棄なのだが。

 太白区のある小学校では近年、11月ごろから給食のデザートが1品少なくなったり安い食材が使われたりと、献立に変化が生じている。独自に給食を作っている「自校方式」の小中学校で見られる光景になった。

 常識的に考えれば、給食費払わないなら、食わせなければいいじゃん。昔といっても私の世代にはないが、私の上の世代にまじでそういうことがあった。
 しかし、現場では、給食を差別化したり、給食を廃止するなんてことはできないことになっているのだろうと察する。
 それにしても日本の給食制度っていうのはすごいものだ。こんなもの辞めろよと思うが、しかし、冷静に世界を見渡すと、この制度は優れていると判断してよさそうだ。アメリカなんか、学校のなかにファーストフード店があるようなものだし、ジャンクフード会社からの補助金とかも学校の運営費用なのだ。
 話を河北新報のニュースに戻して、この事態だが、生活困窮という理由は42%ということなので、嘘もあるだろうが、実態調査して、そこまで給食したいなら、補助金にすればいいじゃないかと思う。

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イギリスの大学学費値上げ

 今朝の国内各紙社説は特に触れることもないだろう。端的にネタにならん。というわけで別の話。iLifeのGarageBandってAcid?、おっと、そんな話は極東ブログでやらんでもよろし、で、イギリスの高等教育法案についてだ。ブレアやったね、こいつなんだかんだ言ってもすごいよ、ジョンブルっていう感じだ。
 話は、イギリスで大学の学費値上げを決めるにあたって、世論の一部が猛反発。これはドイツも韓国も似たようなもの。ブレアの場合、与党労働党の議員まで公然と造反しているので、下院審議で敗北かと注目されていた、って日本で注目していたか? 共同ではベタなニュースを流していた(参照)。


 法案は、一律で年間1125ポンド(約22万円)の現在の学費を2006年から同3000ポンドを上限に、各大学が裁量で決められるようにする内容。導入されれば全国の大学の4分の3が3000ポンドまで引き上げるとみられている。

 1ポンド200円くらいとして、大学の学費が年間60万円。え?って日本人は思うだろう。公選法違反者古賀潤一郎だってうらやましいと思うのではないか。なんでそんなんでもめるのだ。と日本人は思うし、実際、この法案は日本を参考にしてできたと聞いたことがある(裏なし)。
 学費値上げの背景には、当然、財政の問題があるが、ブレアの意識は単に財政の問題というのではない。先進各国の大学進学率が半数を越えるようになったので、イギリスもそうした時代背景に遅れないようにしようということだ。それには、その体制が可能な制度に変えようと。見方によれば極めて労働党的ともいえる。もともとイギリスは階級制度がひどくて低階級だと大学なんか行かない。それ以前に学校自体に行かない家庭も多い。親も子供を学校に行かせるっていう認識がないことが多いので、厳罰の制度も作っている(親を刑務所に入れるまでする)。神奈川県が夜間徘徊の子供の親を罰するか、なんてネタで議論しちゃうような甘い世界じゃない。だいたい居住区つまり郵便配達区分を見るだけで、差別されるようなものだ。あいつら、だらか、日本に来ているとホットするっていう感じだった、というのは昔のことなので、私の認識が古いかもしれない。
 共同のニュースからはわかりづらいが、これまで1215ポンドも安過ぎるように、実は以前は無料だった。私学もである、というか私学が少ないせいもあるが。そういう意味で、日本の旧文部省はうまくやっていたといえるかもしれない。もっとも、そのせいで日本社会は構造的なゆがみをおっている。余談だが、日本の大学のいいところは、フリーターを隠蔽することだ。すでに日本の大学は無試験同様になっており、知性のレベルなんて問題にすんじゃないよ、の、状態だが、社会の消費と労働力のバッファとしてはかなり有効な装置なのだ。
 話を戻して、27日夜の下院では、賛成316票、反対311票の僅差。CNNニュースでは「大学授業料値上げ法案を僅差で可決 英下院」(参照)にある。ニュースはちょっと面白い。

ブレア首相は同日、同法案に反発していたニック・ブラウン元農漁業食糧相ら労働党主要議員の説得工作を行い、土壇場で賛成票へ転じさせた。野党保守党は、同法案が影響しないスコットランド選出議員が賛成票を投じたと批判している。

 「同法案が影響しないスコットランド」というのは、そう、スコットランドは関係ない、というか、ウェールズとスコットランドはすでにほとんど独立している。外交・軍事ではイングランドと共同だが、教育・司法制度は独自のものだ。サッカーだけではないのだ。
 とま、たいした話ではないが、ヨーロッパってやつはなと思う。頭固いよね。反面、世界動向で見ると、大陸中国人教育熱心だから、これから所得が上がれば、いろいろ世界は変貌してくるだろうと思う。すでにハイテク系は中国人ばっかだと思うのだが。

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2004.01.27

[書評]秋日子かく語りき(大島弓子)

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(C)角川書店
 個人的な話から始める。先日実家に行って死んだ父に線香をあげ、母の愚痴を聞きいた後、10年前に出奔したままの自分の部屋にこっそりと入り、書架を見ると、一番手前に「秋日子かく語りき」があった。他に大島弓子は1冊のみ。人に貸して返ってきていない。誰に貸したかも覚えていない。大島弓子が、あすかコミックに移り、それからサバの話ばかりになるまで、よく買っては読んだ。  あの時代、と言って何年前だろう。1987年、15年前か。つい昔のような気がする。井の頭公園にはまだビーバーがいたころだ。ハナ子さんは今でも元気でほっとする。私は30歳になった。少女漫画なんか読んでいたのか? 多少はね。そういう時代だった。なにより、大島弓子の作品は、ものすごいクオリティが続いていた。こんな作品を人間が書き続けることが可能なだろうかとも思った。不安な感じがした。  日焼けた「秋日子かく語りき」をぱらぱらとめくって読みかえしてみた。きっかけは、NHKの「ちょっと待って、神様」(参照)である。つまり、これの原作である。ふとしたきっかけで放映されると知り、HDレコーダーに予約セットして見ることにした。見た。面白い。映像も音楽いい。よく出来たドラマだなと思った。原作と違う点も多いなとも思った。フランクリンのエピソードはよく活かしているなと思う。  1週目が終わり、どんどん原作から離れていく。あれ?という感じがした。ただ、どうもドラマが心にひっかかる。原作を読み直してみようと思った。まさか、自分の昔の書架の度真ん前に待っているかのようにあるとは思ってもいなかった。  10年ぶりに読む原作は、意外なほど強烈だった。昔の漫画だなとも思うのだが、最後シーンで、自分の心のなかのなにかが氷になるように静止した。ネタバレで申し訳ないが、恐ろしいとも思える言葉が記されていた。10年前の私には、読みながら読み落としていたのだ。その言葉は、秋日子の友人、薬子のものだ。キャラクターは高校生である。
夜空に
”美しく青木ドナウ”が
流れて
秋日子の言葉が
みんなの心を
一瞬ホッとさせ
そして
それぞれが
未来の転生のことを
夢見ていた

しかし
わたしは

花や蝶になりたいと
いうのでなければ
我々はとってもちかい
今生(みらい)のうちに
それぞれの夢を
かなえることが
できるのだと
固くそう思っていた


 薬子は絶望を抱いているキャラクターではない。シニックではあるが、冷静である。だが、その冷静さのなかに、ひっそりとした、ある種の絶望があるのだと思う。それは、未来に自分の夢など叶うことがないと諦めている高校生だ。人生には、夢などないと思って生きている少女である。
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(C)角川書店
 が、その少女の前に現れた、少女秋日子---その内実はおよそ人生に夢などなかったかのような竜子54歳---がどたばたを起こした。そして、7日の後、薬子は、生きることが可能なのだと確信するようになる。
 この奇妙な確信は、ドラマ「ちょっと待って、神様」の宮崎あおい演じる秋日子に与えられている。ドラマの秋日子は、生きることをほとんど断念した少女であったからだ。その意味で、このドラマは、単に原作をアレンジした別ものではなく、原作のもっともコアな部分をストレートに展開しているとも言える。他の主人公たちも、みな、生きることの緩慢な絶望に浸されている。脚本家浅野妙子はある意味、徹底的に大島弓子を読み抜いているし、ディテールには大島弓子的な配慮も多い(キースジャレット趣味は違うだろうが)。
 しかし、原作を読み返し、この言葉に立ち止まりながら、その生きる確信が、過去形で語られていること、「それぞれの夢をかなえることができるのだと固くそう思っていた」ということ、これは、当然ながら、陰影がある。ふと大島弓子が何歳の時の作品だったかと思って、愕然とした。大島弓子は私よりちょうど10歳年上である。私が30歳のとき、彼女は40歳である。私は今46歳だし、彼女は56歳なのだ。
 「秋日子かく語りき」を書いた40歳の大島弓子という存在を、私は考えていなかった。30歳から見れば、40歳とははるか彼方の存在であり、まして女性である。30歳の男の私は、それほど若い女に関心があるわけではないが、まだ青春の失恋に5年後も打ちのめされていた分、年若い女性しか見ていなかった。
 このところ、岸本葉子の癌のこと、酒井順子の「負け犬」だの読みながら、自分の世代から自分より一回りくらい歳が違う女性の、生き様を決するあたりの言葉を読みながら、そのすべてにおいて(マンションを買う、癌になる…)など、結果的に先行していた大島弓子の40歳ということを考えた(浅野妙子も40少し過ぎである)。40歳の大島弓子にとって、秋日子による薬子の啓示、「それぞれの夢をかなえることができるのだと固くそう思っていた」ということはどういう意味を持っていたのだろう。
 かつてはそう信じていたが今は信じられないといった単調なものではない。しかし、かなえるべき夢の時間は、40歳という歳ではすでにある程度の総括をしてもいい時期だ。
 作中の竜子54歳は、それでも少女の秋日子として、「そう遠くない」青年期の生の可能性を語るのだが、それを越えた大島弓子と竜子の人生の時間の距離は、どのような生の可能性の意味をもっていたのだろうか。それとも「セイシュンっていうやつ」が、完成したあとで、そのような、後年の生の可能性を問うことは、あまり意味がないのだろうか。いや、この作品自体がそういう「セイシュンっていうやつ」が花となったものだろうな。
 そうか、「セイシュンっていうやつ」だなと、46歳の男である私は思う。思えば、10年前、すべてをかなぐりすてて出奔した自分はかろうじてセイシュンっていうやつだったかのかもしれない。言いながら、照れて苦笑するが、嘘の気持ちでもない。
 ヘッセの「ガラス玉演技」の主人公ヨーゼフ・クネヒトは、ものの最初に籠もる不思議な力を詩にうたっていたが、「セイシュンっていうやつ」は人生に意味を与えるのだろうと思う。それは、失われてみえるかのようでいながら、ある青年期一時期の問題でもないのだろう。「秋日子かく語りき」の洒落のもとであるツァラトゥストラは、至高の午後をもって、永劫回帰という生のナンセンスを受諾しているのである。
 ドラマ「ちょっと待って、神様」まだ終わっていない。原作のように、深夜のフォークダンスで終わるのだろうか、気になる。すでに決まった脚本だろうが、そう期待したいなとも思う。

追記 2.7
ドラマ「ちょっと待って、神様」は最終回をむかえた。それに合わせてブログのリンクを修正した。このブログで期待していた、原作に近い最終回の映像とは少し違った。ドラマでは一種のキャンプファイアーシーン。なので原作のエンディングが考慮されていたとも言えるだろうが、むしろ、ドラマの海の朝焼けのシーンが良かった。あれは脚本家の意図だろうか。それでも制作側の強い意志がないとできないので、あのロケはよくやるなと思った。これだけドラマで見ると宮崎あおいのファンになってしまうのはしかたがないか。泉ピン子もよくやっていた。父役津嘉山正種はかっこよすぎ。勝地涼君は好演。裕木奈江演じる、ドラマだけのキャラ原田ゆかりは不思議な印象を残した。ある意味、美しく描いてはいない。脚本家のある種の自省が反映しているのだろうか。結果的に若い人たちに見て欲しいドラマだったなと思う。

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幻想のクルディスタン、クルド人

 クルド人問題に触れる。非常に難しい問題だし、極東ブログの姿勢などに政治的な一貫性を期待しているむきもたぶんないだろうが、イラク・シーア統治を述べたところで、ポロっと「シーア派を使ってクルド人を抑制するほうがいい」という趣旨の本音を言ってしまった手前、補足しておきたい。「本音」というが、心情としては本音でもない。クルド人の歴史を見ると胸が熱くなる。クルド人が望むように支持してあげたい、そのほうがいいではないかという思いも強い。だが、なのに先のポロが出る背景を書いておきたい。
 クルド人問題について、ネットではどんな情報が飛び交っているのか見ると、「クルド人問題研究」(参照)という良質なサイトがあった。内容を見るまえに参考文献とあるので、それを見たほうが見識がわかると思って見ると、国内文献が多くしかも新しいので、研究者ではないのかと多少落胆した。非難しているわけではない。専門家のサイトを期待しすぎた。

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トルコのもう一つの顔
 プロフィールを見ると運営者は1972年生まれとのこと。そのことを非難するわけではないが、そういえばと思って、参考文献を見ると、トルコ関連の資料がないことに気が付く。ノー天気な大島直政などに言及する必要などないが、このトルコ関連の手薄さは少し気になる。また、奇書「トルコのもう一つの顔」(小島剛一著、中央公論社 1991年)が参考文献に含まれているが、この本の影響はどのくらいなのだろうか。
 同サイトに「クルド人問題とは」という総括があり、概ね正しいのだが、が、と躊躇するのは、すでにここに私の認識とは大きな乖離があるのだ。

 クルド人は、中東のトルコ、イラン、イラクにまたがる一体の地域(「クルディスタン」:クルド人の土地)に居住するインド・ヨーロッパ系の民族である。人口は推定2000万~3000万人で、アラブ、ペルシャ、トルコに次ぐ中東で4番目に多い人口を持つ大規模な民族である。しかし、現在の世界地図上に「クルド」もしくは「クルディスタン」という名の国は存在しない。クルディスタンは現在、トルコ、イラン、イラク、シリア等の国家に分断されている。数千万の人口規模があり、一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族は他に存在しない。

 間違っているとは言わない。そういう見解のほうが主流かもしれない。だが、私は本質的にこの認識は間違っていると思う。理由は、クルディスタンは排他的な領域ではないのだ。クルディスタンとされる地域にザザ人を筆頭として、多民族が存在している。また、「現状の世界地図」の現状の時刻は、現代ではなく、セーブル条約の時代だろうとみなす。
 セーブル条約は、第1次世界大戦後を終えた1920年フランス、セーブルで連合国側とトルコとの間に結ばれた講和条約である。講和とはいうが、ようするに、オスマントルコを列強が分割することだ。この条約が実現すれば、現在のトルコ南東部にクルド自治区ができることになっていた。これは狭義の国家としてのクルディスタンの原形と言えないでもないが、この時代の広義のクルド人居住域としてのクルディスタンの南部であるモスール州は、イギリスの手前勝手でイラクに編入ということになった。すでに国家としてのクルディスタンの原形の段階で分裂させられていたのである。しかも、イギリスの勝手。恣意である。ご都合である。こうした歴史を持つイギリスは熱心にイラク戦に参戦する素地がある。
 しかし、ご存じのようにと言っていいのか、日本をモデルにしてできた近代国家トルコ共和国は、列強とローザンヌ条約を1923年に締結し、トルコ領土を確立。ということで、モスール州を除くクルディスタンはトルコに編入させられた。かくして、クルディスタンという国家樹立の夢は消えた。
 この歴史に消えたクルド自治区とモスール州を加えると、幻想のクルディタンができる。「クルド人問題研究」でなんの限定もなく、クルディタンとされているのがこれである。極東ブログはこれを幻想のクルディスタンとするのである。もっとも、「クルド人問題研究」の「クルディスタンとは」(参照)では、アルメニア虐殺問題を含め、かなりきちんと状況認識が書かれているが、結論は読みづらいだろう、と思う。
 問題は、この幻想のクルディスタンに、一つの民族としてクルド人が住んでいるのだろうかということだ。もちろん、クルド人は住んでいる。だから、つい「一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族」と言ってしまいたくなる。
 おまけに、トルコはひどい。建前としては、トルコ共和国に住んでいるのがトルコ人=トルコ民族、よって、トルコにはクルド民族はいない。ということになる。だが、これを笑う資格は日本人にはない。まったくない。ゼロだ。クルド問題に関わる日本人ならまず日本の状況から関わってもらいたいとすら思う。目を遠くに向けるのは偽善だ。
 しかし、こうしたトルコの言い分は、時代とともに緩和されてくる。世界に散ったクルド人やその支援を受けて、トルコも建前だけでは通らない時代になってきた。そこで、現状のトルコ共和国では、それを構成する多民族の一つとしてクルド人を認めるものの、クルド人もトルコ共和国という国民国家の構成員としてトルコ人なのだから独立の必要はない、ということになってきているようだ。
 こうしたトルコについて、なお、クルド人は非難するし、独立を求めている、というふうに、欧米ジャーナリズムは時折あおり立てる。日本でも同じだ。私も、その口に乗せられていた、10年前、イスタンブルを見るまでは。
 イスタンブルの郊外をドライブしていると、やけにスラムが多い。先日イランで地震のあったバルではないが、泥煉瓦でできたような速成のスラム街である。しかも、そのスラムの形状が、なんというか、無秩序に増殖しているとしか見えない。なにが起きているのかとトルコ人に訊くと、クルド人だという。「東部から一族でやってくる」と言う。「やつらはすごい、子供を10人産む」と言う。どこまでが本当なのかわからない。それから、その人口の流れについて、簡単に説明してくれたが、その数値を忘れた。公式統計などないだろう。
 その後、トルコはますます下層民からイスラム原理主義が強くなっていったが、トルコのイスラム原理主義というのは民衆の互助組織である。つまり、国家の福祉が及ばないのだ。なぜこんな事態になるかというと、中国の盲流と同じ現象が起きていると考えるのが妥当であり、クルド人ばかりとはいえないせよ、クルド人などが都市スラムにかなりの量流れ込んでいるのは間違いない。
 そして、イスタンブルの町を見ながら、クルド人について考えた。まるでわからなくなった。夕暮れにホテルにつくと、人なつっこくよってくる靴磨きの少年がいて、同行のトルコ人は追い払おうとしたが、ま、ホテルに着いたことだしと別れ、少年に靴を磨いてもらった。翌日、トルコ人は、あれがクルド人だよ言った。
 以上、大局的な話と個人的な話を奇妙にくっつけたので「と」のような珍妙な話に聞こえたことだろう。私もこの体験と観察を公的に言う確信はない。だが、事態の総合的な意味での認識に間違いはないと思うようになった。クルド人の少なからぬ人口がすでにトルコの都市スラムに流動し、その住民になっているのだ。幻想のクルディスタンに残されたのがクルド人の全てではないし、そこにクルディスタンという国ができても、もはや、クルド人が帰れるわけもないのだ。
 小島剛一によれば、クルド人同士もすでに言葉が通じるわけでもないようだ。まして、イラク北部のクルド人たちと、トルコのクルド人と言語が通じるのだろうか。この点もはっきりとはわからないが、通じないのではないか。少なくとも、トルコで都市民化したクルド人は、クルド語を捨てているのではないか。
 こうした状況下で、イラクにクルド人の自治区ができるとすれば、それはどんな意味を持つだろうか? クルド人がクルディスタンの幻想を持つのはしかたないし、そこが幻想の拠点になるだろう。そして、トルコは猛反発を始め、トルコで都市民化したクルド人は取り残されていく。
 EUの勝手な思惑でトルコはEUに編入されるかもしれない。いずれにせよ、トルコ側にクルド人の自治区ができる可能性は少ない。結局、イラク北部だけが残されるだろう。クエートのように石油に依存した小さな国家を作ることはできるが、そのようにしてできた国家は拡大と統合の幻想を放棄することはないだろうから、つねに火種を持ち続けるだろう。
 なんという悲劇だとは思う。だが、現状では、クルドが新しい火種になることを避けて、歴史の時間の進み方を遅くするしかないのではないか。

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昔の大人の思い出

 どうも世事に疎くていけない。実家に立ち寄ると母親が中学三年生の男子虐待事件の話をしていたが、他の話のごとく馬耳東風でいた。今朝新聞社説を見ると社説の話題になっている。これが、まるでわからない。いや、わからないものでもないのだが、まず思うことは、この事件は極めて特定の事件なのだから、社会がそれほど目を向けるべきなのかということだ。産経新聞社説「子供虐待 連係プレーで早期対応を」のこの言及の疑問と同じだ。


 今回のケースは最初、長男と二男(一四)が虐待を受け、兄弟は何度か祖父母の家に逃げたが、連れ戻された。二男はさらに実母(三五)を頼って逃げたが、長男は逃げなかったという。恐怖心のためと思われるが、中学生なら、体が衰弱する前に、弟と一緒に自力で逃げられなかったのかなど疑問も残る。

 錯綜した内実があるのだろうし、そういう問題にまで、社会の構成員としての他者として存在しえない私がどう考えていいのかわからない。あるいは、極めて文学的な課題だとも思う。
 こうした世相に子供の虐待というくくりで社会問題にしたがる傾向があるが、子供の虐待という点では、このブログでも紹介した「芸者」など、その最たるもので、昔からあんなものだ。そうあってはいけないが、人間の境遇というのはそういうものだ。
 もう一点。こうしたオヴァートな虐待を社会の言説は取り繕うのだが、私の思春期の感性を思うと、大人たちの子供への常在する心理的虐待のほうが大きな問題だと思う。みな、子供から大人になったはずなのに、あの頃の思いを忘れるのだろうか。私ですら、些細なことではあるが、ああ、僕は死んじゃうのかと伏せって息も絶え絶えに苦しんでいるとき、家族はテレビの馬鹿番組で笑い転げていたことを覚えている。家族を恨んでいるとは思わない。そういうものだとは思うし、あの時の自分を思うと、誰からひと言さりげない声をかけてくれてもいいのでないかとも思う。
 思い出に浸りたくはないが、学校もひどくなった。小学校のころは、まだ復員兵の味のある先生や戦争未亡人の先生がいた。「でもしか先生」というのもいた。死線をさまよう経験や女や酒にやすした経験をもったが子供に適当に向き合う大人がいた。子供はそうした大人の大人らしさや不思議な優しさを感じ取った。だが、中学・高校とそういう先生はいなくなった。自分でも感じるのだが、そこに戦前と戦後の線があったようにも思う。戦前がいいわけではないが、そこにはそれを緩和する人間の経験があった。それは「芸者」を読んでもわかる。
 そうした、感性と言いたくはないのだが、なにかを社会は失っている。し、それを復権することはできないのだが、こうしたトンマなサラリーマンの高校教師の作文みたいな社説を読むと、人間の薄っぺらさを感じる。
 余談で締めたい。先日ラジオ深夜便をきいていて、ほぉと思ったのだが、フランスなどでは、子供を一人家に置いて大人が外出することすら法に触れる虐待になるそうだ。ホントかなと思うが、自分が外人家庭を覗いた経験からすれば、そうした精神が根幹にあるのはわかる。大人は大人、子供は子供といった社会だからこそ、大人たちは子供の最低ラインはきっちり守るのである。ああいう大人たちと日本人のへなちょこが戦ったら勝てるわけもないか、いや、戦前は日本にも大人がいたか。などと思う。今は、日本には、大人語をしゃべるシミュラクルばかりだ。

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自衛隊イラク派遣は話題か

 日々主要紙社説を読みながら未だに社説というがわからないと思うことがある。今朝などそうだ。各紙こぞって石破防衛庁長官の派遣命令を話題にしているが、この話のどこに話題性があるのだろう。まるで理解できない。朝日新聞社説は「陸自本隊に派遣命令――『ここまで来たら』を排す」は標題から連想されるものを越える内容はない。もともと、自衛隊を合憲としたのは、自民党政権ではなく、おまえさんたちのお友達村山富市だったのをお忘れ無く。そして、なんか極東ブログもサヨかよと思われるかもしれないが、言っておいたほうがいいのかもしれない。今回の派兵は、日本国憲法をあの成文法と見るなら違憲だ。そもそも派遣ですらなく「派兵」だ。


自衛隊を派遣する以上、憲法や法律に沿わない事態になれば、首相は活動の停止や撤収もためらうべきではない。国会や国民に対して活動内容や現地の治安状況などを十分に知らせる務めもある。

 日本憲法を成文法と見るなら、すでに違憲だ。だが、実質日本の憲法は解釈改憲を経ているのであり、とすれば、日本国憲法など歴史文書でしかない。原典すらきちんと確認されていないという考証を読んだことがある。古典文書なら伊勢物語から偽書である古事記に至るまで各種異本というのがあり、校訂作業が必要になる。日本国憲法の原本は存在するのか端的に疑問だ。もちろん、国立公文書館所蔵のは知っているが、あれがそうなのか。いずれにせよ、憲法というは概念であって成文法である必要ない。この議論が余談に逸れすぎた。
 朝日をくさす意図はないが、現地状況を十分に知らせる勤めと朝日新聞が言っている意図がわからない。例の報道規制だろうか。文脈をなしていないよ、この文、と思う。

 忘れてならないのは、理を後回しに、既成事実の積み重ねで国の針路を決めてはならないことだ。問われているのは、この国の民主主義と法治なのである。

 私はまったく違うと思う。戦後日本の歩みそのものがは成文法の憲法の「理」を踏みにじってきた。それが私たち日本国民の歴史であり経験なのだ。そしてそれがどれほど「理」からそれようが、それが私たちの姿である以上、そこからしか進むことができない。全てのファンダメンタリズムは歴史性を無視なり偽装した「理」(アルケー)から始まる。そしてそれが何をもたらすかを歴史は教えてくれる。歴史は人が愚か者であってはいけないことを映し出す鏡だ。
 他紙について、毎日は朝日と同じ。読売と産経も読むまでもない内容。馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいが、防弾チョッキすら兵器と見なす日本に見合った馬鹿馬鹿しい光景なのかもしれない。

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2004.01.26

極東ブログ近況

 極東ブログ近況、といっても、finalvent近況じゃありません。なんでこんな駄文ばかすか書いているのかね、てふ御疑問無用事。ついでながら、仮面ライダーBlade、まだ見てません。
 年明け、ココログのトップで極東ブログが紹介されて、いや参った。こんな黒いブログを紹介しちまっていいのか。というわけで、紹介の文言は毎度ながら新聞社説批評だよーん、みたいなもの、はい。ま、それでいいのだが、で、リファラ件数を見るに、アクセス件数が上がったみたい。で、ちと、どうすべとか思った。数日後落ち着いた。有名どころのリンクがあると、アクセスが血圧みたいに上がります。
 あ、極東ブログではアクセス解析はやってません。関心ないっす。でも、「はてな」でリファラを眺めていた癖がぬけねーんで、リファラは取っている。リファラ件数からアクセスが多いんだべな、という感じを持つわけ。もっともリファラといってもJavaScriptだし、けっこうみなさん、セキュリティソフトが普及しているみたいで、リファラ、そんなに出てない。というか、けっこういいかげんなリファラ検出なので、「はてな」みたいにはいかない。が、「はてな」みたいにリファラが取れても、うざったい。ところで、リファラって何ですか?なんて訊かないでね。
 リファラを見ていて、おやまぁと思うのは、Googleのランキングがもろに反映していること。ちと、こりゃまいったなという感じ。当方、極東ブログ、話題によっては、デープなこと書いているので、そういうデープネタに関心ある人がぐぐったときに情報提供できればいいじゃーん、とか思っていたが、実際のところ、世人の行動パターンつうか、GoogleのSERPの10位くらいしか、Googleって使われてないのがよくわかる。こりゃ、SEOが血道をあげるわけだ。
 いやまぁ、よく来るリファラが「雑煮の作り方」、え、なんでそんなものが極東ブログに来るのか? って自分で記事書いているのすっかり忘れてましたよ。Googleで検索したら、SERPの1位でやんの。おい、どっかの食品メーカー、雑煮のアフィリエトをくれぇ、リンク貼ったるでぇ、と、これは嘘。もともと、雑煮の作り方なんぞ、関心ないし。でも、世の中、なんでまた雑煮の作り方なんかに関心持つんだ? 他に多いのが、キャット・スティーブンス。うーん、俺っち昔のファンだからもっとデープな話でも書いたるかぁ?(やめとけ)
 ちょっとはっとしたのが、「荻生徂徠」と「弁明」、おい、それって誤字だ。って、極東ブログがこんな恥ずかしい誤字してたか、ってよく誤字するので、ありかな、とGoogleで調べたら、別の文脈で偶然マッチしただけでした。ホ。が、ついでに世の中、「荻生徂徠」「弁明」のWebページがあるのを見て呆れた。ソクラテスじゃあないんだよ、って教養カマしてどうする。
 それにしても奇妙なキーワードでSERPを勝っているのは、なーぜなのか、そんなに極東ブログのPageRank高いか? な、わけねーべ。
 実測。極東ブログのPageRankを計ったら4でした。「はてな」のときが4、ココログに引っ越したとき3。「はてな」のほうが、構造的にリンクファームなんで、1ランク上みたいですね(って悪口だったりして)。ニフティの社長のが6。例の「詞織」が5。えっと、詞織にコメントないのかって? あるわけないじゃん。H2の空タグ打っておけばいいのになんて言わない言わない。
 それにしても、最近、GoogleのSERPで「はてな」と「ココログ」がのさばってんじゃないのか、っていう感じがする。他のブログってあまりヒットしない。2ちゃんねるとかブログサービスやっていたのじゃないか。なぜ、出てこない。Google八分か。
 って、笑っているけど、最近、極東ブログもこのまま悪態を続けていると、Google八分かなとふと思う。け、勝手にしろ、とも思うが、それでいいのだろうか。というのもだ、ココログルで毎回文字数の多いブログで極東ブログが掲載されるのがこっ恥ずかしいんで、あ、そうか、じゃ、ココログの新着を止めればいいのかと思って、止めた。ホッとしたが、あれま、副作用。Googleのクローラーが怠け出したぜ。
 実は、先日、Googleのクローラーがいよいよ極東ブログをフレッシュクロールやりだしたようで、うひゃ~とか思っていたのだが、すぐに態度変えてしまった。今だと5日インタバールくらいかな。極東ブログにアンテナ貼ってくださる方のアンテナのほうが先にクローリングされているので、うーん、それもなんだかなと、新着にまた顔を出すことにした。結局、なんであれトラヒック(NTT用語)量の下支えがないとクローラーは動かない、ようだ。
 話をリファラに戻すと、圧倒的にというほどのことはないけど、「はてな」のアンテナが多い。ふーんていう感じ。が、リファラ無しも多い。カットされているのもあるだろうけど、多分にリンク集なんでしょう。ネット上のリンク集ではない、っていうか、極東ブログはあんましリンクされてない。なんか、黒いですし、ここ。2ちゃんねるとかにも出てないみたいでほっとします(見たくもないっす)。
 最近はリファラ数が安定していて、ま、こんな感じかな。悪たれつくから、でも早晩、Google八分かな、と。しかし、恐らくそうなってアクセスが半減というあたり。ふーむ、ですね。そのくらいいいのかも。
 アクセス数自体は私本人にはあまり意味がない。NIFTYのフォーラム時代、そのまた前のアスキー時代でもそうだったけど、ま、結局、読まれて20人っていう線があればいいかな。違うかな。そのあたりが、ブログの新しい感覚。私のように鼻っ柱の強い青二才が、気が付けばもう46歳。爺ぃだよ。ブログの世界にいる歳じゃねーよっていう感じ。わかんないですね。
 これで話は終わり。えっと、ついでなんで、新聞社説執筆者のみなさん、いつも悪口書いてごめんなさい、と頭を下げる。ついでに、一言ずつ、えー。朝日さん、サヨ反米はもうやめましょう、つまらない。読売さん、ナベツネって怖いですか。毎日さん、また反リフレの作文読みたいです。産経さん、ポチ保守って辛い? 日経さん、うーむ、日経さんがわからない。韓国紙さん、翻訳のかたけっこう年配ですね。言葉遣いでわかります。ごくろうさまです。日韓の友好にもがんばってください。

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牛肉の話

 狂牛病問題については、極東ブログは、それなりにつっこんだネタを出してきたと思うし、これ以上言うこともないのだが、ちと、気になる余談めいた話を書いてみたい。ちなみに、私はBSEとは言わない。先日のクローズアップ現代でもハーバード大の担当がどうどうと、mad cow diseaseと言っていた。字幕でBSEって訳すなよと思った。
 まず、気になるのは、私が目にする意見が偏っているのか、米国牛肉の輸入再開なんで許せない、国が米国に屈しても消費者は許さない、みたいな意見をよく見かけること。なんだ、それ?という感じがする。確かに、米国は日本の狂牛病のときは、日本からの輸入を全面的に禁止したのだから、米国お得意のダブルスタンダードかよ、と思う。だが、このとき日本も統計的に有効とかぬかして適当な検査態勢をとれば米国は折れたのではないか。つまり、このとき日本は全頭検査だぁ!とかやったわけだけど、これって、どうせ米国で狂牛病の牛が出るのはわかっていたことだから、振り返ってみるに、しかけたのはどっちなんだ? しかも、若年検査までやって新種の狂牛病を発見した。このタイミングが絶妙だったという話もすでに書いた。
 お笑い本「買ってはいけない」が出たとき爆笑したのだが、あの感覚からすると、だ、今の日本の状況は、またお笑いやってんじゃないかと思う。なんかこの雰囲気で言うのはスッパマン勇気の指みたいだが(ってギャグ通じる?)、米国が全頭検査をしないでも大丈夫というのは、ちゃんと科学的なことじゃないのか。もっとも、検査の現場が、あの怠慢な米人のことだから大丈夫かなとは思うが、理論的な部分では検査態勢はこれでいいのではないか。それと、日本の国民もそんな馬鹿でもないから、米国牛肉が入ってきたら、ほいほい食うと思う。でも、と、ちょっと口ごもるけど、私は食べません。米肉、小売りのはまずいんだもの。
 米国人はいまでもがつがつ牛肉食っている。怖くねーのと思うが、そうでもないらしい。なぜなのだろう。馬鹿?というのもあるかもしれないし、米国って民衆レベルでは情報の流通がすげー悪いのもあるだろう。っていうのは、一部健康志向な人はオーガニックな牛肉にちゃんとシフトしたというのを私は確認しました。やるぜ、である。それと、もう一点、米国って知的階層がまだあるので啓蒙が意味を持つ面がある。政府が安全っていうのだもの、である。で、この米政府が日本なんかと比べものにならないほど、てんこ盛りに科学的なのだ。まいど、FDA文書を読むたびに、うんざりするほどである。ちと気になるのは、狂牛病が人間に感染するには人間側の遺伝子の条件があるとの噂があるのだが、まだ確認していない。調べるの、面倒臭ぇとか思ってしまった。
 日米の牛肉問題の落としどころは、結局、あのちんたら検査の現場の問題になるから、そこで日本の商社あたりがなんか三者団体でも作って日本チャネルを作るっていうことになるのだろうか。どうも吉野屋問題とかで騒いでいるが、米国牛肉の日本の消費総量は1/4くらいだ。それほど問題になるわけでもないし、吉野屋の悪口言うわけじゃないけど、あの肉は米国人にとってはくず肉なんだから、ちと問題の観点が違うよと思う。
 ところで、この話をぐだぐだ書くにあたっては、実は、オーストラリアからのセーフガード撤廃陳情のその後が気になったからだ。オーストリアからの陳情というかは先週くらいはニュースになったのが、その後はどうなったのか? 日本政府はどう対応しているのか。情報がねーぞ!
 そもそも、あのセーフガードっていうのはなんなんだよと思う。お忘れの方は、「『自動発動』批判続々 牛肉関税引き上げ 」(参照)。同記事にあるこの下りが気になる。


「世界貿易機関(WTO)で認められた措置を実行しなければ、現在交渉中の新ラウンド(新多角的貿易交渉)でも譲歩を迫られかねない」(農水省の貿易担当者)との思惑もあるようだ。

 なんか、おいおいじゃないのか。世界の安全問題は国連主義でいいかもしれないけど、WTOを傘にして日本は誰と戦うつもりなのか。間違ってねーか。関連して「豪経済外交、米・中に照準 熱冷める日豪のFTA協議」(参照)もなんだかなと思う。日本の国策が間違っているなと思う。
 さらに余談。セーフガードでちとぐぐったら愉快な記事があった。「2004/07/30 牛肉セーフガード発令について」(参照)である。どういう文脈の話なのか、親ディレクトリが不明なのだが、ようはこう言いたいらしい。

皆さんは輸入牛肉を心から「おいしい♪」と思って食べていらっしゃるでしょうか。もしそうだとするならば私は心からその方を哀れみます。なぜならば食べ物の味を理解する舌を持たない可哀想な人だからです。私自身決して富豪の家に生まれたわけでは無いですし牛肉に関する専門知識があるわけでも無いですが、幸いにして国産牛肉と輸入牛肉の味の違いは理解する事が出来ます。正直に言わせてもらいますがおそらくスーパーで売っている一番高い輸入牛肉よりも一番安い国産牛肉の方がおいしいと思います。輸入牛肉は私の舌には合いません。っていうかマズイです。とってもとってもマズイ。というか味が無いっていう言い方の方が正解かも知れませんね。

 ふーんである。別に批判はしない。正直だなとは思う。
 で、ご存じのとおり、日本の牛肉の嗜好と欧米は違う。だから嗜好の違いを云々言ってもあまり意味はない、というのはある。だが、どうも米人の動向を見ていると、彼らも実は霜降り肉がうまいと思っているみたいだなというのもありそうだ。
 も一つなのだが、牛肉って冷凍すると不味くなる。これは沖縄在のとき、元米領事館のピザハウス本店で冷凍してないプライムリブ食ったのだが、うまい。ほぉと思った。牛肉をうまく食わせるには技術がいる。
 また、韓国料理屋でもそこそこの値段でめっぽううまい店もある(荻窪とか)。牛肉を食わせる技術の問題はある。
 ちなみに、私はホテルとかフレンチの店で牛肉がうまいと思ったことはない。鉄板焼きとかサイテーだと思う。
 で、この話もおしまい。沖縄に行ったら、浦添の元米領事館のピザハウス本店でプライムリブがあるか訊いてみるといい。あ、米国輸入だからもうないのか、残念。ちなみに、米軍内は冷凍肉ばっかだった。でも、きっと、あの肉、フェンスの向こうにあると思う。フェンスの向こうは米人のつてがあれば、簡単に入れますよ。ただ、うろうろしていると銃口向けられますが、撃たれたことはありません。

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電子政府なんて、要らない

 自分の考えがまとまらないので、書くだけ間抜けな次第となるだろう。でも、率直な思いをメモ書きにしておきたい。日経新聞社説「便利な電子社会へ万全の安全対策を」が提起する問題だ。社説自体は、なんともぼよ~んとしたトーンで書いてある。それが悪いわけでもない。ヤッシーみたいに騒いでも、もうオマエは門外漢だよレベルの事態を別のレベルで騒いでも、意味なんてない。というのは、住基ネットの問題。その安全性についてのバトルだ。厳密に言えば、ヤッシーが正しいが、実用面でヤッシーの危機感はほぼ無意味だ。むしろ、危機のポイントはヤッシーや櫻井よし子が騒いでいる点ではないと思う。ちょっと悪口を言うのだが、このレベルの人が騒ぐだけ問題がおちゃらけになるし、本当はもっと発言して欲しい人が産業と国家に巻き込まれ過ぎている。じゃ、オメーがなんか言え、なのだが、難しいには難しい。RFIDについても、技術系の知識がある人ですら、トンチキな話になりがちだ。
 日経からネタとして引用する。


「e―Japan戦略」に基づく電子政府構想が本格始動する。19日から電子納付システムがスタートし、29日には公的個人認証サービスが始まる。これで2月から国税の電子申告・納税、3月からはパスポートの電子申請が可能になる。行政手続きの電子化は国際的な流れだが、成功させるには万全な安全対策を急ぐ必要がある。

 まず、気になることだし、識者と思われる人が言及していないのは変だなと思うこと、から書く。日本が公的個人認証サービスができるって、すげーなである。私の感覚からすれば、そんなこと米国が許すわけねーだろ、である。どうですか、みなさん?
 で、私は古い人間だし、頭も固くなっていて、おまけにひねくれた性格なので、やっぱ、米国は許すわけないよ、と思う。陰謀論めきたいわけじゃないが、私の常識からすればだね、この話には、裏があるよ、きっと。どっかにホワイトハウスへのバックドアがあるんだろうなと思う。
 次に思うことは、ひたすら呑気なことだ。端的にいう、「そんな、システム、要らん」 便利になってなにが悪いと言われそうだが、そうなのか。あのさ、思うのだが、みなさん、郵便番号が7桁になって便利になりましたか? あれってなんのためにやったのだろう? 秋田県孫様、だったっけかな、で、届く郵便配達システムが未だに成立しているから郵便事業が成立しているのであって、システム的な問題は従属的だし、もっとコストパフォーマンス優先の解法があるではないか。と言いつつ、郵便事業まで民営化してしまうのか。なんだかなと思う。お役所の不便さには、いちいち立腹する私ではあるが、世の中多少不便であってもいいと思うし、その不全さは、ポストマンパットとぶち猫の世界を守っていると思う。
 住基ネットで気になるし、いろいろ発言してみるが、空虚だなと思うのは、これって、今後日本の移民問題の予備なのではないかと思うことだ。端的に言えば、日本国家に外人を入れないよ、外人は電子的に区別してやっからね、ということではないかと思う。あれまぁ、である。ちと、余談だが、極東ブログがどんなふうに検索されているかというと、端的にはGoogle様の気まぐれ評価どおりのキーワード検索なのだが、それでも、例のフランスのスカーフ問題、つまり、ライシテ関連で覗きに来られるかたが多いようだ。あの記事で、フランスのライシテをむしろ擁護したのだが、でも、ドイツじゃ問題ないんじゃんと思われているとしたら、とんでもない。どっちがより開かれた国家と考えてみるといい、ドイツも日本と同じ血統主義だ。いつまでたってもトルコ人は外人なのだ。むしろ、国家を理念から開くフランスのほうが近代国家だし、ライシテというのはその不可欠な条件なのだ、っていうのが、呑気な日本人はわかりづらいし、この呑気さはこれから、電子システム的に保護されることになる。で、いいのか?
 日経の先の社説だが、結末がけっこう微笑ましい。個人情報は自分で守れというのだ。

 だが最も大事なことはまず国民一人ひとりがセキュリティー意識を持ち、自分の情報は自分で守る姿勢を持つことである。電子社会の進展は利便性が高まる代わりに個人情報が社会に流れることを意味する。自分の情報が正しく扱われているか常に政府や企業へ情報開示を求め、確認していく姿勢が求められている。

 なにが言いたいのでしょうね。個人情報は個人で守れ、って、無意味。それが無意味だとわからない人に解説するのがうざったいくらい。利便性とプライバシーのバランスはこういうフレームワークでは当然のこと。日経もうっすらわかっているらしく、だから、公的機関を市民が監視しなくてはいけない、と正論を吐く。確かに正論なんだけど、そのためには、国家に取り込まれない識者と団体が必要なのだ。日本にあるか。サヨだったら、やめちくれよ。
 最後に余談で締める。極東ブログ、誰が読んでいるのか、もうどうでもいいやではあるが、読んでいるかたに問いかけたい。「あなた、表札に名前書いていますか?」 書いているならなぜですか? 表札になんて書いていますか? と問いかけられて、あれれ、って変な気になりませんか。ちなみに、他の国のご事情知ってますか?

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確かに大量破壊兵器は見つからない

 今朝の朝日新聞社説「イラク戦争――脅威が幻だったのなら」を読みながら、重苦しい感じがした。ようは、朝日は、イラク戦争の大義はないだろう、脅威は幻だったのではないか、というのだ。もちろん、この当の問題については極東ブログとしては少し距離を置いていた。この戦争の是非については、このブログを開始する以前にごく小グループのなかでしか発言していない。しかし、それでも、どちらかと言えばそこで私はイラク開戦を支持していた。朝日新聞が言うように、今となれば、大量破壊兵器の認識において私は欧米に乗せられ、間違っていた、とも思う。
 が、2点、フセインがイスラエルを突く可能性と、それと、独仏露がイラクに対して兵器輸出や裏の石油取引していた状態は放置しておくべきではないと考えていた。結局のところどうかと言えば、その2点の理由で、今でもあの戦争を肯定している。
 だが、それゆえに、朝日新聞がことさらに「脅威は幻だったのではないか」として米国の非を責めることを、排除できるものでもない。
 むしろ、問題はイラク戦後統治の問題だったという点で、実は、今日の朝日新聞社説の見解は、新しい幻想を語っているに過ぎないと考えている。もし、フセイン体制を支えていた勢力、主にスンニ派を支持していたら、今日のイラクの混乱はなかっただろう。朝日がこんな時期にサヨの気炎を上げる目はなかっただろう。
 不味かったなと思うのは、米国は、あの時点で、亡命勢力を国家中心に据えようとぶれたのではないか、という点だ。もともと、この戦争の条件は、フセインの亡命だったように、戦争の大義はフセイン本人に絞られていた。詭弁のように聞こえるかもしれないが、開戦の条件という点では、大量破壊兵器(これをWMDと略す朝日新聞のセンスを疑う)は副次的な問題だった。もちろん、それは米国流のレトリックに過ぎないとも言えるだろうし、現状のリビアの折れ方を見ればあながちレトリックでもないとも言える。いずれにせよ、あの時点で、戦後体制は、暗黙の内に、現状を維持しスンニ派を温存することが想定されていた。そして、戦後の混乱は、マスメディアではフセイン派と想定したが、すでにシーア派の権力闘争の構図があった。米国の統治には大きなミスがあった。
 もう一点、朝日の論調で気になることがある。


 しかし、国際秩序の土台である国連憲章は、明らかに自衛の場合か、安保理が承認した場合にしか戦争を認めていない。大義を後付けして、あの戦争が正しかったか否かをあいまいにすることは、国際社会のためにも米国のためにもならない。

 率直に言って、こんなことをしゃーしゃー言うやつは偽善者であると思う。「国際秩序の土台である国連憲章」と言われて、鼻の穴がむずかゆくならない神経はどうかしている。問題は国連が機能できなかったことであり、国連憲章が国際秩序の土台たり得ていないことが問題なのだ。朝日のこの前提は、一見正しいように見えて、果てしない倒錯でしかない。
 だが、私も国連を機能させるべきだと思う。極東ブログはその視点からそれたことはない。国連をどうやったら機能させることができるのか。有志連合構想を破綻させ、日本を国連に組み入れる、という点で、小沢の常接軍構想を支持した。いずれせよ、国連をどう機能させるというのか。現実的な課題が残るだけだ。
 繰り返すが、朝日新聞の、大量破壊兵器をダシにした米国非難は、大きく的が外れているともに、極めて非現実的な幻想を日本国民に撒いている。日本は長いこと国連史上主義の平和の歌を歌っているだけでよかった。今でもその歌が歌えると思っているのなら、馬鹿では済まない。危険だ。

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2004.01.25

マーミナー・チャンプルーの作り方

 極東ブログでチャンプルーに言及することが数回あった。どうも、皆さん違うなぁと思うからだ。じゃ、どうなの?ということもあって、マーミナー・チャンプルーの作り方でも書いておこう。
 こんなもの作り方もなんもないような料理だが、本土の食材ではできない。まず、島豆腐がない。沖縄のスーパーとかで売っている島豆腐も鍋の香りがきつすぎてうまいものがないのだが、それでもチャンプルーの素材にはなる。
 マーミナーの語源は「豆菜」である。といっても、エンドウ豆の若葉ではなく、ようするに、もやし、だ。が、このもやしがくせ者なのである。本土のもやしはブラックマッペから作る。しかたないのだが、沖縄のものは緑豆から作る。緑豆についてはいろいろ言及したいことがあるが、省略する。本土で作るなら、ブラックマッペでいいから、必ず根を切る。これにちょいと手間がかかる。この手間を省くと、マーミナー・チャンプルーはできない。中華料理の銀絲と同じ。
 チャンプルーの語源はインドネシア語のチャンプールに由来するが、現在の沖縄料理とナシ・チャンプールなどのチャンプールとは違う。うちなーんちゅでも、チャンプルーといえば、いろいろ混ぜて炒めると理解されているが、豆腐を入れるのがチャンプルーとしたい。
 以下の作り方は多分に私のオリジナル。でも、うまいと思う。
 用意するものは、木綿豆腐一丁(国産大豆だのうるさいこと言う必要なし)、もやし一袋、塩(自然塩がベター)、豚バラ肉100g(できれば肉は上等なのがいい)、ニラ1/4束、そして、泡盛大さじ1か2(できれば43度以上がいい)。珍しいのは泡盛くらいだろうか。ニラがなければネギでもいいにはいいし、なくてもいい。
 もやしは丁寧に根を切る。手間を惜しむな。
 豆腐は電子レンジ500Wか600Wで2分加熱し、一口大よりちと大きめくらい切って、3分くらい置く。すると、水がだいぶ出るので、この水をよく切っておく。島豆腐ならこんな手間はいらないのだが。
 ニラは1~2センチに切る。ひとつまみくらいの量でいい。沖縄料理は香り付けにニラを多用する。根に近いほうは細かく刻むほうがいい。
 豚バラ肉は3センチくらいに切る。薄いほうがいい。
 さて、作り方。中華鍋を中火で熱する。フッ素フライパンでもいいにはいい。熱したら、さっと油を引く。弱火にする。肉を入れる。焦げないように炒める。このとき、脂、つまりラードを出す。チャンプルーの味はこのラードで決まる。フィリピン料理も同じ。豚はかりかりに炒めるする必要はないが、適度な堅さをもつくらいまで丁寧に炒める。ちと手間がかかる。5分はかからない。
 ラードが出たら塩を小さじ2くらい入れて、脂と塩をよく馴染ませる。ここが味の決め手になる。
 少し火力を上げ中火程度でもやしを入れ、さっくり炒める。もやしに少し熱がまわったかなというあたりで、水を切った豆腐(まだ少し温かいもの)とニラを入れ、木べらで丁寧にかき混ぜる。
 味が全体に回り、もやしが少し透き通るくらいで、泡盛を回しがけし、少し強火にして泡盛のアルコールを飛ばしたら、終わり。
 これで終わり。これだけで終わりだ。
 もやしや豆腐から水をあまり出さないようにするのがコツ。塩加減と豚の品質の目利きもコツのうちだが、練習して勘を掴むしかない、と思う。
 なお、島豆腐があれば、もやしの前に豆腐を入れ、少し焼き目を付けるようにする。また、バラ肉ではなく、スーチカー(塩漬け肉)を使うほうがいい。超本格なら、島豆腐ではなく六十(るくじゅう)を使う、が、そんな料理、沖縄でもお目にかかることは、たぶん、ない。

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朝日新聞社説のいやったらしい文章について

 ブログに書くほどの話でもないし、のわりに雑談でもないよーな話なので、書くのをためらうのだが、気になるといえば気になるので書いておこう。ことは朝日新聞社説「学歴疑惑――ほんとは深刻な笑い話」だ。この社説は、つまーんない、ただのスカの作文なのだが、以下の下りだけがひっかかる。どうってことないと言えば、どってこないのだ。


 「高卒」の肩書では選挙に不利と考えた候補者が過去にいた。92年に当選した参院議員だ。「大学入学」のうそがばれて、公選法違反に問われ失職した。
 あれから世の中は変わったのだろうか。

 この参議院議員は新間正次である。ご存じと言ってもいいだろう。余談だが、新間正次についてぐぐったら面白い話もあった(参照)。
 で、単純な話、朝日新聞の社説はなんでこういう書き方をしているのだろうか。新間正次に同情的だから、武士の情け、名前は秘す、ということじゃないだろう。新間正次なんて言及するのもけがらわしい、に近いような気がする。コケにしているとは思う。だけどなぁ、私は朝日新聞のこの執筆者より新間正次のほうがなんぼか偉いように思うのだけどな。
 ま、話はそんだけ。ついでなので、もうちょっと言及。

 だが、問題の根は深い。学歴信仰がまだまだ社会にはびこっていることをうかがわせる「深刻な笑い話」に見えるのだ。
 人間としての中身よりも学歴に価値を見いだすかのような風潮を批判するのは簡単だ。採用の条件から「大卒」をはずす企業も増えている。それでも大学の名前が教育内容より話題になりやすく、大学ランキングもなくならないのが実情だ。

 表面的にわからない文章でもないけど、なにが言いたい文章なのか皆目わからんという感じがする。「学歴信仰」っていうタームも、なんか、今にしてみるとよくわからん。いまさら大卒が意味を持つわけでもない。意味を持つのは、すでに大学間の序列だけ。もっと言えば、センター試験の得点だけ。で、そんなの馬鹿みたいに阿呆臭いのだが、低い得点だった人間にしてみると、阿呆臭とは言いづらいのだろうなと思う。私は、共通一次も受けなかったし、傲慢にも当時から、友人・知人を見るに、東大生なんてたいしたことないなとか思っていたので、この感覚はわからないが、共通一次試験やセンター試験を受けていたら、たいした得点は取れなかっただろうなと思う。それをなんらかの劣等感のように思うだろうな、とも思う。
 で、その朝日さんの言う「実情」なのだが、現実的に、入試難易度の高い大学の卒業生は、統計的に見れば、企業としても、頭いいのはたしかだし、露骨にいうのだが、すでに階級社会化している日本だと、階層のスクリーニングにもなる。それはそれで企業なんかはメリットがある。第一、朝日新聞っていうのが、その最たる大企業で、現場の宅配の事情には目をつぶるだけの良心を持ち合わせてないとできない、っていうか、良心かぁ?である。
 極東ブログでも、これ以上書くとイヤミだけど、も一つ、気になるといえば気になる。

 外国の大学を持ち出した点も、いかにも日本的だ。海外ブランド品というだけでありがたがるのと根は同じなのかもしれない。だからこそ、政治家は経歴に留学経験を書き連ねるのだろうか。

 あのさ、この執筆者、米国の大学の学生の様子、全然知らないのだろう。外国イコール米国でもないし、米国の大学すべてレベルが高いわけでもない、っていか、かなり低いところが多いのだが、UCLAレベルと単位交換ができる大学だと、学生はすげー勉強してまっせ。ま、政治家の経歴だとブランドっていうことかもしれないけど、日本の大学とは雲泥くらいに、アメリカの大学は勉強させられるものなんだけど、なっと。なんせ、教官がマジだぜ。
 ま、いいか。学歴なんか。朝日新聞のサラリーマン記者って、大学出てから14年とか歌ってみてはどうかな。知らない? 地球温暖化音頭も知らないの?

追記
新聞正次について追記。週刊文春新年号「学歴詐称 新聞正次元参院議員が最高裁まで争った理由」で彼はこう言っている。


最高裁まで裁判をやったのは、前に言ったように辞めどきを逸したこと、政党の身勝手な言い分への反発もあった。また、私の騒動の頃、自民党の金丸さんの事務所から金塊が出た事件があったでしょう。そんな巨悪は放置して、私の些細な学歴詐称を大げさに取り上げ、”政治の世界は不正は許されないんだ”と世間に印象づけようとする永田町やマスコミの姑息さに納得いかない思いもあった。

 ああ、マスコミは今でも姑息なのである。

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韓国フリーペーパーの話など

 先日ラジオ深夜便で韓国在住日本人による大衆文化の話があって、面白かった。まず、れいの日本文化解禁のようすなのだが、ごくフツーに受け止められているらしい。反発もなく熱狂もない。視聴率の面でも韓国ドラマとどっこいどっこいといった程度らしい。解禁はケーブルテレビに限定されているせいもあるのかもしれない。放映されているのは、ちと古い作品のようだ。実際に見た韓国の若い女性の話では、登場人物が少ないとのこと。そうした話を聞いて、あ、そうかもねと思う。そういえば、NHKの大河ドラマを見なくなって久しいが、昔は、けっこう登場人物がいた。歴史ドラマのせいもあるのだが。
 現状、韓国では日本のドラマは熱狂的に受けているわけではないが、ある種新鮮な感じはあるらしい。どのあたりかというと、家族が出てこない、ということらしい。それもわかるなと思う。私は韓国には疎いが、沖縄には長く暮らしていたのでああいう家族はわかる。ある意味、「渡る世間に鬼は鬼ばかり」も、そうした時代の名残りであるかもしれない。ついでだが、韓国ドラマは、大企業の御曹司と貧乏な娘の恋愛というのがパターンらしい。すごく、つまんなさそうである。
 私はあんまりドラマを見ない。最近のものでは、って最近でもないか、沖縄にいたので「ちゅらさん」は見た。もちろん、いろいろ思うことはある。その続編は、しょっぱな挫折した。今度パート3ができるらしい。どーでもいいよと思う。あんな番組本土で受けているのだろうか。昨年だが、テレビガイドを見ていて「幸福の王子」というドラマのシノプシスにちと関心があって、最終回だけ、ザップしつつ見た。最終回だけ見たというせいかもしれないけど、ひどいシロモノだった。みなさん、青春の残骸をどう始末して生きているのか気になるが、あんなお笑いなのか。
 このところ、ちょいとした偶然で「ちょっと待って、神様」を見ている。といって、HDに自然に溜まるのを見るだけだが、原作大島弓子「秋日子かく語りき」じゃ、見るっきゃないじゃないか。マンションを買った金策もあってなのか、角川ベースになってから数年の大島弓子の作品は、ものすごいクオリティだった。あれはいったいなんなのだろう。その後、なんだかサバの話ばっかで、大島弓子の作品は追っていないが、井の頭公園でぼーっとしていると、大島さん何を考えているのだろうと思う。
 話を戻す。韓国での日本ドラマは字幕らしい。吹き替えじゃない。大衆ものは吹き替えがいいのだがなと思うが。台湾で見た日本のトレンディ・ドラマみたいな感じなのだろう。今韓国でどのくらいの人が日本語の口語を聞いてわかるのだろうか。60歳より上なら、聞いてわかるだろうが、衛星放送で入ってくる日本の放送を定期的に見ていた層はどのくらいなのだろう。そう少なくもないはずだ。私の歳、40歳半ばくらいになると韓国人は漢字がどのくらい読めるのだろう、と、同級生の朝鮮人留学生を思い起こすが、ま、たいしたことないな。漢字がわかれば、日本語の印刷物はたいていわかる。わからなくなるのは、カタカナ語が増えるあたりだろうが、それにしても英語の基礎があれば、発音してみればカタカナ語もわかるだろう。印刷メディアの間では、ハングルでべた書きしなければ、日韓にあまり隔たりはない。
 現状、韓国では日本ドラマを見る世代にとって日本語は外国語だろう。たぶん、でいうのだが、日本に遊びに来ている層も多くなっているのではないだろうか。ネットで阿呆なこと書いている韓国人はダサイやつらなんだろう。
 話が少しずれるのだが、韓国ではフリーペーパーが盛んらしい。部数から言えば、主要紙を抜くようだ。ほほぉである。極東ブログもネットから韓国主要紙をちらちら覗くのだが、注意しないといけないのは、主要紙といっても日本の新聞事情とは異なることだ。韓国でも基本は地方紙。地方から発言される、か、というと、やはり都市集中はさけられない。が、その都市部がフリーペーパー志向らしい。
 韓国のフリーペーパーは地下鉄ベースで配布されていて、内容はというと、けこうベタなニュースと広告だけらしい。エディトリアル、つまり、社説みたいのはないようだ。広告取りの関係から、主張などはうざったいのだろう。
 日本ではなぜフリーペーパーがいまいちなのだろうか。逆にチープな雑誌が盛んだ。チープといってもその英語の語感とは逆に雑誌の作りとしてはクオリティが高い。基本的に日本の雑誌なんか、フリーで配布してもよさそうなものだが、そうもなっていない。年明け早々、またまた各種雑誌が統廃合される気配だが、なんとも経営面で踏ん切れないのだろうか、という感じはする。
 日刊ゲンダイや夕刊フジなど、フリーペーパーにしてしまえばいいと思うのだが、経営的に無理なのだろうか。そんなわけないと思う。一番構造改革が遅れているのが出版界だしな。
 関連して気になるのだが、特に日刊ゲンダイなのだが、なぜああもサヨくずれなのだろう。あれ読んでいるとサラリーマンの知性が摩滅していくような気がする、が、ま、そういうものでもないのか。ニュース性はなんもない。ジャーナリスト魂などフォーカスの100分の1もないように思うが。
 日本になぜフリーペーパーがないかというと、ようは、出版界でいうところの棚の問題だろう。キオスクに置けるかということだ。韓国だと無人の台に置いてあるだけだが、日本ではそれができない。昔、レディコングというタブロイドの試みがあったが、早々にずっこけた。後続は無理だろう。
 じゃ、コンビニで撒けばと思うし、実際ある程度撒かれているが、どれもサブカルというかポップカルチャー系ばかりだ。TVブロスあたりが価格といいビミョーな線だが、サイゾーといい、日本のサブカルっていうのは、なぜ、ぐだぐだ物が言いたいのだろう、って、なんて言えば、極東ブログがせせら笑われるようではあるが。
 そういえば、昔、六本木レオパードキャットがつぶれたころだったか、Tokyo Journalが面白かった。港区でナイトライフに飢えた流しの米人とかがけっこう情報交換に使っていた。私も暇になるというか、適当にまざったりした。FENも地域コミュニティ情報が多い。あの時代、そうした話からつるんでいると、六本木で金がなくても遊べた、といって、「六本木で遊ぶ」という現代の表現ではない。
 話にオチはない。私にはサブカルの関心もない。おわり。

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地銀の問題は国の補助金問題ではないのか

 新聞各紙社説のテーマはそれぞれまばらという日だ。そしてどの社説もそれなりに読ませるものがあるが、なにか、こう奥歯にものがはさまったと昔の人が言うような、あるいは隔靴掻痒といった感がある。一巡ザップしてみて、印パ問題や狂牛病問題よりも、身近な生活に関わる経済面が気になる。余談だが、国内では狂牛病の呼称はBSEで統一されているが、先日NHKクローズアップ現代を見ていて、米人の英語の発言を聞いていると大半は狂牛病と言っているのに翻訳でBSEにしていた。やりすぎじゃないか。
 朝日新聞社説「企業の再生――この好機を逃さずに」にもう少し明確な主張が欲しかった。問題の取り上げはいいし、展開も政治思想が絡んでいるわけでもない。よって、冒頭からある程度読みやすい。


 足利銀行の一時国有化をきっかけに、地方の金融機関が抱える不良債権が注目を集めている。
 不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である。小泉首相は施政方針演説で、産業再生機構や各県に設けられた中小企業再生支援協議会の役割を強調した。03年度の経済財政白書が「早期に事業再生等が図られるべき」上場企業が132社に達すると、あえて具体的な数字を挙げたのも、企業再生の加速を促すためだ。
 企業の業績は持ち直してきており、株価も一時の低迷を脱し上昇している。今こそ、長年の懸案を片づける好機だ。

 そう主張したい気持ちはわかる。そしてこの先、どんな解決案があるのかと読み進めても、たいした展開はない。
 自分が気になる点だけ、書いてみようと思う。まず、些細なことだが、足利銀行の国有化と北朝鮮送金の問題については、大手新聞は皆解明を避けていたように見えたのはなぜだろう。私はてっきりこの手の話題はガセかと思ったが、そうでもないようだ。きちんとした記事を読んでみたいと思う。いずれにせよ、足利銀行のケースは特例だったのだろうか。もちろん、週刊誌などで危ない地銀の一位にあったことは知っている。
 次に、地銀の不良債権なのだが、これは朝日が言うように「不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である」ということなのか。もちろん、そうした側面があることはわかる。
 率直な疑問を出したい。地銀の不良債権というのは、国の地方ばらまき金でふくれあがった、地方権力と結びついた企業の国頼みの経営の破綻がしわ寄せしたものではないのか。ある地方と秘す意味もないが、地域経済の実態を見ていると、いわゆる民間企業の問題ではないように思える。
 もちろん、産業再生機構に預けられた企業名を見ると、そうした傾向は少ないのかもしれない、が、現状の地銀の問題はそこなのだろうか。
 「企業再生の加速を促すためだ」と朝日は言うが、舌の根の乾かぬうちに「再生機構には焦りの色が見えるが、むやみに件数をこなせばいいという話でもなかろう」と断ずる呑気さ加減はなんなのだろう。これは国の方策が間違っているのだから、ジェネラルな部分で方針の転換が必要なはずだ。
 曖昧な話を引き延ばしてもなんなので、私のこの問題へのコメントはここまでにしたい。だが、結局、これは企業と一括されているものの、補助金産業と地域産業と別であり、前者については、つまるところ不動産価の問題ではないか。地域産業については、酷いことを言うようだが、救い道なんかないのではないか。

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2004.01.24

理系・文系

 お茶を濁す程度の呑気な話だが、朝日新聞社説「学力テスト――理数教育の底上げを」で、ほぉと思った。毎度の朝日新聞罵倒はしない。


 全国の高校3年生を対象にした学力テストの結果が文部科学省から公表された。
 おおむね予想通りの水準だった国語や英語に比べ、数学と理科の正答率は文科省が期待した成績をかなり下回った。しかも、基本的な知識や原理、法則が十分理解されていなかった。
 さらに数学では、できる生徒とできない生徒に分かれ、二極化がうかがえる。理科では平均点より低い生徒たちの層が最もふくらんでいた。かねて専門家が指摘してきたように、理数系の教育が深刻な状態なのは間違いない。

 ふーんという感じがする。高校三年生なのに「理科」なのかというのも変な感じだが、些細なことはどうでもよかろう。で、この問題は深刻なのか? 朝日はごにょごにょと作文を書いているが、端的な話、二極化というのは、受験の時の文系・理系を反映しているだけではないのか。
 私は共通一次試験前の最後の世代だが、高校のときは明確に文系・理系が分かれていた。私は小中学校と科学小僧だったのだが、高校のときなにを思ったか民族学を学びたいと思って、結果文系にした。一浪して数学ばかり一生懸命勉強したが、その後、ひょんなことになった。二十代半ばでやさぐれて流しのプログラマーをちとやっていた。8ビットCPUくらいの設計はできるぞと思うが、さすがに今は無理か。ま、自分のことなどどうでもいい。
 いつごろだったか、15年くらい前だったかな、知り合いの子の中学生の勉強をちと見ているうちに、あれ?と思った。一円玉は何グラムか知っているかと訊くと知らないという。磁石で吸い付くコインはどれか知っているかというと、そんなこと考えたこともないらしい(たぶん、今の若い子も知らないのではないか)。おいと思って、そこいら本だの花瓶だの持たせて、何グラムぐらいかと訊いたらまるでわからない。一リットルの牛乳パックは何グラムかと訊いたがまるでわからないと言う。おまえ、それで学校の勉強できているのか、というと、それほどひどくはないらしい。なんだ、この世界は!、と思った。この時ある種ショックを受けたので、その後の世代の子供たちの理解には役だった。最近、小学生に、一円玉は水に浮くかと訊いたら、関心なさそうだった。やってごらんと水のはいったコップに一円玉を入れさせる。沈む。終わり、といった顔をしている。おい、そーじゃねーんだよ。ほれと浮かせ見せる。関心ない。なんだ、おめーである。
 環境問題の裏にサヨがいて、恐怖のデマをまき散らすという世相も一段落したが、あの時も変な世界になったものだと思った。「買ってはいけない」がお笑い本で面白いと思ったが、けっこう世の中マジで受け取っていたのを知って驚いた。結局、日垣隆が笑いのめしたが、どうやら、理系のオヤジたちは、言っても無駄だしと思っていたようだ。ま、そうなんだけどね。
 朝日新聞はこう言うのだけど、違うだろう。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。
 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 学校でする勉強なんてどうでもいいんだよ、と思う。学校に行くのは友だちがいるからであり、50人教師がいたら一人くらい優秀なやつがいるかもしれないという博打だ。それより気になるのは、女の子に多いのだが、世の中すれっからしているというか、世の中割り切ってしまいすぎ。たしかに、大人の世の中なんてたいてい、金で割切れる。それに相貌だの知力だの普通の人間には欠落するからそれを金で補おうとするゲームが始まる。このゲームはアイテムさえ獲得できれば参加できるし、勝つかもしれない。それだけのことだ。
 なぜ、世界を感じようとしないのだろうと思う。世界を知ることは、他の誰かでもできる。世界を感じ取ることができるのは生きている間の「私」だけのことだ。自分が世界から感じ取ることが理科や社会、文学の基礎になる、と思う。
 学力なんか問題ではない。感覚が麻痺していることが問題なんじゃないかと思うが、そう言ったところでつまらない結論か、である。

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医師名義貸し、ま、そりゃね

 今朝の新聞各紙の主要な話題は医師名義貸しだったが、毎日と産経の社説を読んでいるうちにうんざりした。意外にも読売新聞社説「医師名義貸し 地方の医師不足の解消が基本だ」がまともだった。この問題については旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)に加えることはあまりない。問題は深刻だが、うわっつらの正義を振りまいてもどうしようもない。
 余談でお茶を濁す。
 最近ちと別件で日本の健康という漠たるお題で調べて驚いたのだが、前から知ってはいたことではあるがが、米国人の100歳以上の人口比は日本の3倍くらいになりそうだ。
 また、詳しい統計がわからなかったが、90歳以上の自立者の数も米国は群を抜いているようだ。
 ほぉと思った。昔親しんだガルブレイス、ドラッカー、トフラー、みんなまだ知の世界に生きているのである。70歳まで生きることができたらいいやと思っている私などからすると、すごい世界だ。
 米国の健康統計はあのごちゃごちゃした社会を伸してしまうので、めちゃくちゃな結論が出がちだ。が、ある程度の層にフィルタをかけると、なにかとえ?みたいな世界が出てくる。ぼんやりと米国を見ていると、デブ、アホ、マッチョしか見えないのだが、利口なヤツは馬鹿みたいに利口だし、文学も深い。
 とはいえ、飯もろくに食わない米国人が長生き・自立というのはどういうことなのだろう。生存競争の勝ち組というだけだろうか。医療の根幹で日本が学ぶ点は多いような気がする。
 100歳以上で思い出したが、長寿沖縄というは嘘、で男性の平均寿命は国内平均以下。女性は長寿であるが、このイメージは100歳以上の人口比に依存したものだ。香港なども統計上は長寿なので、近代化と温暖な気候は長寿に良いのではないか。
 米国ではカロリー制限で長寿みたいなブームも若干あるが、人間などもともと飢餓に適用する生物なのであまり食わなくてもいいのかもしれない。

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なぜ極東ブログはイラク分割案を取らないか

 現在のイラクを同認識するか、どうあるべきかという問題について、極東ブログ「イラクはシーア派主導の民主国家にはなりえないか」(参照)は、Doc-show-logの「イラク主権移譲メモ」(参照)へのトラックバックとして書いた。これに対して、再度Doc-show-logより「イラクの民主主義に関して」(参照)のトラックバックをいただいた。Doc-show-logのこの展開は非常に明晰であり、逆に失礼な言い方になってしまうのだが、ありがちなタメの議論にならなかったことを第一に感謝したい。
 Doc-show-log「イラクの民主主義に関して」の見解について、概ね異論はない。細部の認識の違いはあり、それは後段である程度言及したいが、その認識の違いが、大元の問題をどれだけ支持しえているのかということが、Doc-show-logと極東ブログの双方の課題であろし、これらのブログを関心を持って読まれている方の思索の資となればよいだろう。
 大元の問題は、イラクの今後のモデルであると思う。これに現状のイラクおよびそれを取り巻く世界情勢と歴史の問題が関連しているからだ。この問題について、やや粗雑だが、次のような命題になるだろう。


極東ブログ
国民投票を実施し、シーア派メインの体制を作れ
Doc-show-log
連邦制で各地域にイラクを分割し、バグダードは独立行政区にする

 極東ブログ説の補足の前に、両説の基本に米国への距離がある点に注意を促したい。加えて、おそらく、現実的には米国はDoc-show-logの案を取るのではないかと思われるという当方の認識も表明しておきたい。
 分割案の説得性はスンニ派とシーア派の対立の緩和や石油の問題というより、現状すでにクルド人たちは、事実上の独立を進めておりこの現状を含み込まざるをえないという点が重要だろう。
 その意味で、極東ブログの案のほうが遙かに暴論であると理解している。この点はDoc-show-logの認識が正しい。


共同の記事でもCIAが米軍撤退後の混乱を予測しているという報道がなされているが、国軍も官僚制も機能していない現段階のイラクで民主選挙を行なっても全くの形骸でしかない。

 では、極東ブログ説はここで引くのかというと、そうではない。悪い冗談を書くのかと苦笑されるだろうが、少し補足したい。
 危険な意見だが、シーア派を立てると極東ブログが言う背景にはクルドを内戦的に押さえ込め、そして、イラクとアメリカを疲弊させよ、という考えがある。
 この案を採れば、現状ではすまされないほど被害が出ることは間違いないが、国民国家を志向させるための苦しみであり、民族意識を低レベルの状態から国家維持に向けるためのプロセスとして歴史を見れば不思議ではない。問題は被害のレベルだ。それをある程度の悲惨さの地点で国連をダシにし、独仏を巻き込むかたちで国際圧力をかけるようにすればよいだろう。
 メリットは、まず、米国の有志連合構想をくじくのに都合がよいことだ。日本はおたおたしていても、事態はある程度進む。イラクはどうするかといえば、その後はイラク軍部の台頭を許せばいい。第二のサダムを作るのである。さすがにそう言うのは憚るものがあるが、問題はサダムの作り方だったのではないか。発端のブログでトルコモデルに言及したのは空論ではない。パキスタンの軟化を見ても、こうした国家を自立させるためには国家内に圧力をかけるための軍事的な統一が不可欠になる。
 田中宇ばりの空論というか悪いジョークに聞こえるかもしれないし、非難はあるだろう。
 以下、Doc-show-logからの指摘の個別の問題に簡単に触れておきたい。基本的に、これらの問題にはそれほど重要性はないと思われる。
 シスタニの非政教分離的発言について。大筋でDoc-show-logがシスタニを政教分離を支持しないと見るのは正しい。私も彼の本音は政教分離ではないと思う。しかし、国際政治のレベルでシスタニを押さえ込めばよいということと、現状のイランの軟化と同じように仕向けていくことは可能だろう。シスタニが国政に宗教を関与させないとのそぶりを見せているのはただのフェイクというより、イラクという国家に生きてきた人間の生活者の認識であると、肯定的に評価したい。
 イスラムの他宗教に対する姿勢。この問題の近代国家との関連について、Doc-show-logには極東ブログの「なぜフランスはスカーフを禁止するのか」(参照)を参照していただけたらと思う。次に、私はイスラムはその人口分布から多分にアジアの宗教であると考えている。マハティールを想起していただきたい。アジアの多数のイスラムは近代世界との大きな軋轢を好まない。むしろ、イスラム問題をアラブに偏らせているのはサウジなのである。Doc-show-logが「イスラミストの中では戦闘姿勢になっている」と見る認識は間違っているとは思わないが、この問題はイスラムのサウジ問題の派生だと極東ブログは考えている。サウジの問題とはアメリカの問題でもある。
 イラクのシーア派について。Doc-show-logの認識は正しい。極東ブログとしては、現状、また、しばらくの間、イラク・シーア派が吹きまくるイラクの民族主義がどうスンニ派やクルドを巻き込んでいくかのほうに関心を持つ。つまり、問題の前面はイラク・シーア派ではなく、幻想にすぎないのだがイラク国民という意識の展開であり、イラク・シーア派はその背後の問題になると考える。
 民主国家イラクの可能性について、以上の議論中に含まれているので、繰り返しの言及は避けたい。

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2004.01.23

氷砂糖など

 雑談である。健康だけが理由というわけでもない。うまくないな、という理由もある。たばこを止め、酒を止め、コーヒーまで止めた。たばこはもともと体にあっているわけでもないし、吸っていたのも二十代の終わりの二、三年程度。しかもパイプタバコかシガリロ。酒は止めて三年近くなる。酒を止めたときに2ケース残った年代ものワインも、ワインのわかりそうな人に譲って残りわずかになった。1980年代ものはもうない。シングルモルトも幾本があったが、これも味のわかりそうな人に譲った。どうせいつか死ぬのである。死ぬっていうのは、酒を飲まなくなることだ。
 コーヒーも昨年後半からほとんど止めた。飲むと僅かだが脈が変わるのだなと気が付いた。
 二十代の頃から中国茶はよく飲む。三十代になってからは、高い中国茶に金に糸目をつけず飲んでみた。高いといったって、それほどたいした額でもない。飲んで飽きた。六十年以前の茶も中国人茶商に譲ってもらって飲んだ。
 数年前から台湾烏龍茶や岩茶が日本でもブームだが香りがきつくて好きではない。中国茶で今飲むのは龍井くらい。作法だのは気にしない。ガラスコップに熱湯を注ぐという中国人式であるが、今の中国人はそんなことするだろうか。
 紅茶も飲む。以前はキャッスルトンだの昔から名の通った農園のものを飲んでいたが、最近はプッタボンやマカイバリのオーガニックのほうがうまいと思う。気取った国内の紅茶販売店が嫌いなのでネットで海外から取り寄せる。最近のダージリンは香りがいい。烏龍茶の香りは苦手だが、このダージーリンの香りはまだ飽きない。紅茶の作法など気にしないが、茶碗はけっこうなものを使う。
 朝は英国風のミルクティを飲む。アッサムのブレンドだ。日本人はなぜミルクティを飲まないのだろう。美味しいのに。セイロンティはあまり飲まないが、しいて言えばヌワラエリアが好きだ。トルコ紅茶も好きだが、あの茶器はめんどくさい。捨てた。
 お抹茶も飲む。利休の極意どおり、点てて飲むばかりだ。お薄だ。茶碗は朝鮮茶碗。楽は嫌い。当然、干菓子・和菓子を好む。幸い、近所に腕のいい職人の和菓子の店がある。この正月に別の店のはなびら餅ももらったので食ったが、不味かった。はなびら餅はゴボウの香りと味噌餡をうまく調和させなくてはいけない、と思う。
 普段のお茶は煎茶とほうじ茶だ。我ながら、ほうじ茶にもうるさい。外食の日本料理でいつもがっかりするのがほうじ茶だ。まともな日本食の店は高額すぎるのだろうか。余談だが、うるさい鮨屋がでーっ嫌ぇだ。ネタの目利きができて、仕込みがきちんとできる鮨屋が近所にある。ピカ一ではないが、これも幸いである。鰺のつらを見て食べ頃かきめるうるさいオヤジだが、客にうるさいやつじゃない。
 歳で味覚が変わる。特に甘みにうるさくなった。以前、仕事の関係から飯田橋の紀の善によく行ったものだ。今でも紀の善が好きだが、それでも甘味屋の甘みは苦手になった。きつすぎる。いわゆるコンビニのデザートはもう食えない。基本的に香料の入ったものが食えない。洋菓子なんか食わんでもよろし、と思っていたら、近所にかなり腕のいい洋菓子屋があった。フルーツを多用するので軽くてうまい。紅茶にも合う。
 とか言って、キャラメルコーンとかある種の駄菓子も好きだ。追憶的な心理をかき立てるからだろう。煎餅も好きだ。煎餅職人が一枚焼いたのがいい。
 飴が好きで佐久間式を選ぶ。が、これもちょっと苦手になってきた。口さみしさに、昨年あたりから氷砂糖を舐めるようになった。まるで爺だなと自分を思うが、甘さにトゲがないので助かる。自前で八宝茶を作るので、それに入れるように買っておいたものだった。
 甘みにうるさくなってから、どうも気になることがある。缶入りの飲み物はほとんど飲まないし、ジュースもホテルウェルチが好きという我ながら憂鬱になるのだが、たまに缶入りの飲料を飲むと、甘みが変だと思う。異性化糖のせいだろうか。
 日本の消費者運動は砂糖を目の敵にしてきたが、なぜだろうか。異性化糖を叩くべきではないのか。と言って異性化糖には害はない。が、本当にそうかなと思う。長期にこんな甘味ばかり摂取していいわけがないだろうと思う。
 日本人の甘味の感覚はどうなるのかと思っていたら、最近はとんでもねぇ甘味料が増えてきた。あえて書かない。健康がどうこういう問題ではない。不味い。
 あ、キシリトールは好きだな。というわけで、一貫性はない。雑談終わり。

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国立劇場おきなわ、で、トホホ

 朝日新聞社説「南の劇場――チャンプルーの新風を」をよんでトホホとかつぶやいてしまった。知らない人もいるかもしれないで冒頭を引用する。


 沖縄県浦添市に政府の沖縄振興策としてつくられた「国立劇場おきなわ」で、きょうから開場記念公演が始まる。
 国立の劇場はこれまで東京と大阪にしかなかった。琉球王国以来の芸能を伝える劇場を。そんな地元の誘致が実現した。

 そりゃよかったと言いたい。トホホなんて言いたくない。というわけで、あまり詳細に触れる気はない。でっかい箱ができて終わりにしないでくれとも思うが、沖縄県民に関係ないこの箱を沖縄県民が利用できるような宴会場にしたほうがいいと思う。
 朝日新聞社は沖縄の地元新聞社沖縄タイムスと記者交換をやっている。交換された記者たちはそれぞれよく相手を理解しているから、朝日新聞は沖縄の現状をよく知っている。沖縄タイムスのほうも本土のサヨっていうかよく知るようになる。筑紫哲也も復帰時のそういう青年であった。娘の名、ゆうな、も洒落ではない。沖縄は記者によっては深い経験を残す。
 この社説も裏もよく理解して書いてある。トホホなんて言うべきじゃないなと思うが、トホホと口をつく。

 こけら落としを前に「国立劇場にふさわしい出し物にできるのか」といった不安の声も聞かれた。組踊の役者たちは長く生計を立てることに追われ、発声や演技を十分磨いてきたとは言い難いからだ。

 そーゆーことなのだが、が、沖縄のものすごい結婚式に参加した経験者なら、吉例余興で沖縄人の尻もジークル(自黒)とも限らないなと知るともに、演芸が消えることもないことを知っている。二十代半ばの女性だって、「あんたももうおばんさんなんだらカジャデフー(かぎやで風)練習しなさい」である。組踊りとは違うが、組踊りに派生するものもが消えることはないだろう。そして、戦後の状況を見れば、沖縄の芸能を民衆が支えていたのである。国立劇場もいいのかもしれないが、玉城村にある「うどい」を支援したほうがいい。ご関心があれば琉球新報ニュース 公演5000回達成/玉城村の琉球舞踊館「うどい」を参照して欲しい。近くにチャーリーという戦後沖縄料理の代表のレストランもある。
 些細なことだが、朝日新聞もわかっていて言うのだろうがこれは、ちといただけない

 沖縄にはチャンプルーという名物料理がある。外来のものを地元の食材と混ぜて調理し、独特の風味を生み出す。新しい劇場もそんな精神で沖縄の外にも目を向け、知恵や活力を取り込んで幅を広げたい。

 うちなーんちゅうもそう考えている人が多いが、ちゃんぷるーは、島豆腐を必ず使うのである。アジクーター味と泡盛も欠かせない。残念ながら沖縄で普通の島豆腐を探すことは簡単ではない。アジクーター味はMSGとポークになっている。これもトホホである。
 トホホついでの余談だが、古賀潤一郎は高卒で確定した。週刊文春に調査の原コピーがあるが学位がないと記載されていた。B.A.が問題だったようだ。それにしても、他の米大学も学歴が嘘らしい。胡麻臭いやっちゃなと思うが、この男、私より1つ歳下。ある意味似たような境遇で似たような時代を生きてきたのだろうなと思う。私はきちんとB.A.はあるが、人生の面では敗残者である。我ながら胡麻臭い人生でもある。日々之トホホである。が、古賀潤一郎みたいに生きてこなくて良かったなとは思う。人生のなかに嘘を組み込んで生きるほど自分は強くない。アメリカの大学の卒業式は、映画などで見るように、あのヘンテコなガウンと大隈重信のような帽子をかぶる。あの帽子に変なちっこいハタキみたいなぶら下がっているが、あれは実は伊達でも洒落でもない。それを知った経験は忘れられないものだ。学資を出してくれた親の恩でもあるし、教師への恩でもあるし、自分の青春でもある。忘れることはない。
 古賀潤一郎さん、今からでも欠落した単位を取れ。Undergraduateなら再入学は難しくはないよ。

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それってリフレと違うのか

 日経新聞社説「『先手打つ日銀』演出した金融緩和」が奇妙だった。日銀の金融緩和の説明として間違っているわけでもない。ただ、それって、リフレとどう違うのかというのと、日経さん、おまえさんはどういうスタンスなのかね、ということだ。非難しているのではなく、日経ってなんなのだろうと単純に疑問に思うのである。
 話題はこういうことだ。


 日銀が予想外の金融緩和に踏みきった。金融調整の操作目標である日銀当座預金残高をこれまでの「27兆―32兆円」から「30兆―35兆円」に引き上げる内容だ。また、買いオペの効果を高めるなどの狙いから、資産担保証券の買い入れ基準を緩和することも決めた。
 景気回復が鮮明になる中での金融緩和は異例なことだ。日銀は、企業の過剰債務などの構造問題を背景に景気回復テンポが緩やかにとどまる公算が大きいことや、円高傾向が続く為替相場などを勘案すれば、もう一段の後押しが必要と判断したようだ。先手を打つ措置により、日銀がデフレ脱却に本気であることを印象づけようとしたものともいえる。

 予想外なのか? G7前でスケジュール通りとしか思えないのだが。それと、「景気回復が鮮明になる中での金融緩和は異例ことだ」はジョーク?
 自分がこういう問題に疎いこともあるのだが、これってリフレ? 部分的にはそうだろうとは思う。ただ、リフレとは言えないのだろうという裏がよくわからない。
 さらに、よくわかんないなと思うのは、日銀が先手を打つと日経は言っておきながら、本音の評価は以下だろう。

 今回の日銀の緩和措置がもたらす直接的な効果は限定的だろう。企業が引き続き借金返済を優先する姿勢を続ける中で、銀行貸し出しの伸びが回復するメドは立っていないからだ。

 効果は薄いよということだ。当然、銀行貸し出しが鈍って結局フローにならない、のだろう。
 率直なところ、今回の日経さんを驚かした金融緩和はそれほど問題ではないのだが、なぜこんな記事が出るのだろう。そして、どうも日銀を巡る動きがわかりづらい。
 話が別件かもしれないが、今週の日本語版ニューズウィーク「ドル安容認は恐慌の序曲」にこの数ヶ月間、日銀は米国債の購入を控えて通常ドル預金を増やしているという話がある。米国債暴落のリスクをかけているのだろうと見ればわかりやすいが、え?という感じは拭えない。
 よくわかんなでこんな話書くなよと言われそうだが、日経の話でわかった、ってことになるのか。まして、他紙はなんでこの問題に触れないのだろう。
 いや、触れている。毎日新聞社説「追加金融緩和 中央銀行の愚直さ取り戻せ」だ。こっちは、わかりやすい。というか、この数ヶ月間毎日新聞の経済関連の社説には明確なトーンがあることがわかったからだ(ようやくね)。つまり、反リフレである。

 もはや、量的緩和の拡大は市場にとってほとんど意味がないということだ。「着実に回復している」以上、景気下振れへの突っかい棒である金融緩和からの出口を探るべきである。
 ゼロ金利政策や、必要な資金はいくらでも供給するという量的緩和政策は、あくまでも緊急避難措置であった。実体経済をみると、成長率は実質で2%程度、名目でもプラスに転じている。これは経済の正常化以外の何物でもない。それにもかかわらず、追加緩和の道を歩むとすれば、国債の円滑な消化のため、低金利政策に手を貸しているなど、あらぬうわさを呼びかねない。

 「経済の正常化以外の何物でもない」ということろで、ぶふっと噴飯しまうのだが、失礼、ようは量的緩和策を是が非でも否定したいのだ。ただ、毎日のこのヒール役もそう悪くない。先のニューズウィークの指摘とも関連する。

日銀はすでに、外国為替資金特別会計が保有する米国債を売り戻し条件付きで買い取っている。介入資金を提供しているのだ。当座預金残高の目標引き上げも、介入資金調達のため発行する外国為替証券消化を円滑に進める助けになる。しかも、それを早手回しに行う。中央銀行の独立性はどこに行ったのだろうか。

 これは率直にふーんと思う。ただ、ここはリフレ派の正念場なんだろうなと思う。と、いうわけで、極東ブログはこの問題にぶれる。どうしても、これって経済の問題ではなく、政治の問題のような気がするからだ。

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イラクはシーア派主導の民主国家にはなりえないか

 極東ブログ「イラクがシーア派になるのはしかたないこと」(参照)に対して、ブログDoc-show-logより「イラク主権移譲メモ」(参照)のトラックバックをいただいた。意見に関心を持って頂いた点に感謝したい。トラックバックの趣旨は、私が、イラクはシーア派主導の民主国家を志向すべきだろうという意見に反対の意見を述べられていることだ。
 Doc-show-logの認識のセンスはよく、非難は感じない。議論の是非は各人が考えればいいだろう。ただ、今回は本格的なトラックバックによる意見交換が可能なので、私も応答したい。
 結論から言うのだが、極東ブログの意見に強みがあるわけでもなく、Doc-show-logに解決を志向した見解が提示されているわけではない、と見る。Doc-show-logの思索の戦略について言えば、極東ブログもそうだが歴史志向ではあるものの、あまりに迂回過ぎるだろう。
 まず重要なことだがDoc-show-logからは意見評価に関わるファクツの提示があった。それは、BBCのニュースからシーア派指導者シスタニの発言を引いて、彼は本音では政教分離主義者ではないというのである。


"There is no guarantee that such a convention will draft a constitution upholding the Iraqi people's interests and expressing their national identity, founded on Islam and lofty social values."
発言の主はアヤトラ・アリー・シスターニー。世界で5人しかいない十二イマーム派最高位のアーヤトッラー・オズマーである。
普段、アヤトラ・シスターニーは政教分離主義者といわれているが、本音が上の発言で暴露されている。

 非難するわけではないし、極東ブログも粗雑な議論を展開することが多いことは承知だが、当の問題の評価を与えるファクツの提示としては、これでは粗雑過ぎる。
理由はこうだ。

  1. このBBC発言は政教分離の否定を述べたものではない。いわば、イスラム指導者のクリシェに過ぎない。
  2. このBBC発言はオフィシャルな発言ではない。
  3. 極東ブログはシスタニが政教分離主義者であるとは述べているわけではない。

 諸点について補足するまでもないことだが、3については若干補足が必要かもしれない。というのは、Doc-show-logの指摘は極東ブログの以下の言及中の「悪玉視されているシーア派シスタニ」に折り込み済みでだからである。

幸い、悪玉視されているシーア派シスタニは、イラン革命のホメイニとは違い、政治に聖職者が関わるべきではないと認識している。

 米国的な民主化の点からは「悪玉視されているシーア派シスタニ」をうまく使いこなせということがポイントだ。また、基本的には歴史主義的な視点に立つ極東ブログから言えば、Doc-show-logが「30万人以上いるキリスト教徒や、世俗主義者をものの見事に抹殺している」とイスラムを見るのは歴史認識からも正確ではない。イスラム政治は本質的に宗教に寛容な性質を持っている。というのは、歴史的にイスラムとは経済支配の機能が優先されるからだ。広義の交易システムかもしれないと思う(実は中国の皇帝性も同じ)。諸宗教が経済秩序をおびやさかさない限り、イスラムでは異教徒は税の問題に還元される。このことは広義に現代のサウジですらあてはまる。
 迂回はこのくらにしよう。ではどう考えたらいいのかという結論を再考したい。結論は、極東ブログの先の認識に変更が必要なのか?という点だ。現状ではノーである。
 最大の理由は、日本のような自由主義国家はイラクにプラクティカルな民主政治を期待するしかないという前提から、現状のイランの軟化のようにシーア派国家を国際世界に組み入れていくべきだからだ。ただ、トルコを志向すればいいかということについては、Doc-show-logの認識のほう冷酷で、その分、正しいだろう(ただしクルド認識は甘いかなとは思う)。
 さて、私からのDoc-show-logへの関心は、破邪ではなく正見である。どうすればいいのか。
 私が読む限り、Doc-show-logは、アメリカが提案していた連邦制を是としているように見える。あるいは、油田の権益を確保しつつ国家を分断させろということなのか。
 後者であれば、イラクのシーアを国際ルールに引きずり込むという点で、大筋で極東ブログの認識に立つのだと思われる。
 前者、つまり、アメリカの旧シナリオを是とするのだろうか。だとすると、ニューズウィーク編集長ザカリア(日本版1.28「視点 超大国アメリカが頭を下げるとき」)より滑稽な現状認識ではないだろうか。
 タメの批判がしたいわけではない。当方もこの問題の筋が見づらいと感じるのは率直なところだ。国連委譲を計るべきか、国家分断か、あるいはシーア派を立てるかというチョイスから、極東ブログは3点目を選んだのであるが、これが優れたソリューションではないことは明白なので、その欠点だけ展開されてもなという思いはある。

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2004.01.22

良い正月である

 正月である。中国では春節の祝い。韓国も旧暦で正月を祝う。ふと気が付いたのだが、正月に韓国ではトックという餅に似たものを雑煮のように食べるのだが、これってまさに雑煮なのではないか。まさか日本の風習?とも思うが出だしからこの話題ではつらいのでパス。
 沖縄も地域によっては旧正月を祝う。ヰーショーガチデービル! 沖縄テレビは今日午後二時から正月吉例東西民謡歌合戦の再放送を流す。古い町並みを歩けば民謡がやけに聞こえる日である。
 「沖縄も地域によっては」といったものの、その地域は主に漁撈民(海人)の地域だ。今日を正月休日とするせいか糸満が例によく挙げられるし、港の大漁旗は確かに絵になる、が、糸満市自体は西崎を中心に新興住宅地になっているので、糸満とひと言でくくれるわけでもない。むしろ、玉城村の奥武島のほうが面白い。短い橋一本の先に実は沖縄から独立した島があるのだ(半分冗談)。
 沖縄の正月行事はいろいろ言われているが、総領家(嫡子の家、とーとーめーのある家)でないとあまり見られない。が、今、そんな家はどのくらいあるのだろうか。100軒に1軒くらいじゃないか、と、うちなーんちゅ訊いてみると、いや10軒に1軒はある、と答える。話にならん(ちなみにこの話はジョークである)。
 若水の風習は表だって見られない。が、この話は民俗学的に収録されているので、ネットなどにも散見する。困ったことだな、ともちと思う。沖縄のこうした風習は、つい、日本民俗学のバイアスがかかるのだ。そして、文章化されたものが伝聞ゲームで広まる。オリジナルな情報は少ない。と、愚痴るのだが、うちなーんちゅですら、その伝言ゲーム的情報を沖縄の伝統だと思いこむ例は少なくない。ま、いいか。なんくるないさ
 総領家に限らない正月の風習としては、キッチンに潜んでいる火ヌ神(ひぬかん)へのお供えがある。あれは、香港などで見られる「火土君」である。「ひぬかん」の語源は「火土君」かなとも思うが、香港あたりのお札の表記では火土が一文字なので違うだろう。いずれにせよ、起源は同じでも沖縄のは香港のほど派手ではない。かまど神ということでは本土にもあるが、この話には今日は立ち入らない。
 沖縄の線香と礼拝も香港とほぼ同じだが、「恭禧發財」とは言わない。那覇あたりでは、「ウワカク ナミソーチ」と言うらしい。が、那覇近在で正月を何度も過ごしたが、聞いたことはない。南部のうちなーんちゅに聞いてみる。「ウワカク ナミソーチ」って言うのか? 答え「知らん」。話にならん。意味は「若くなりましたね」と言うのである。年取りなのだから、「老」を祝っているのだろうが不思議だ。この風習は鹿児島あたりでもあるらしい。いみくじわからん
 沖縄の旧正月が表面上撲滅したのは、新正運動の成果である。と、書いてものの、「新正運動」でよかったのか。ネットを検索したら極東ブログしかヒットしない。やべぇ。もちろん、正確に言えば、「新正月一本化運動」である。これを略して「新正運動」だと記憶しているが、どうだろう。
 それにしても、旧正月を撲滅すべく「新正月一本化運動」ってなことが沖縄で行われていたのである。呆れたものだが、こうした問題を歴史学なり社会学で扱った例を知らない。あるのだろうか。小熊英二は知らないんじゃないか。
 「新正月一本化運動」を推進したのは、新生活運動推進協議会である。これは、広義に「新生活運動」と呼ばれている。1947年片山哲の内閣が推進したものだ。新生活運動として「新日本建設国民運動要領」とやらを作り、県単位に新生活運動推進協議会を作った。もしかすると歴史に疎い世代も増えてきたようなので老婆心ながら補足すると、片山内閣は社会党の内閣である。おタカさんだの福島瑞穂だののご先輩である。戦後社会党政権が日本の伝統である旧正月の撲滅に邁進したのである。社会主義政策だね。
 1951年から52年にかけて、主婦連、総評、全国地婦連(「ちふれ」である)も参加。新生活推進主婦大会なども活発に開かれた。おいおいである。こいつら戦後も千人針みてーなことをやっていたのである。で、本土の場合は、旧正月撲滅というより、お盆の撲滅にかかった。みなさん、変だとは思わないか、日本のお盆。休日が工場労働シフトになっているのはこのウラがあるのだ。歴史とはこういうことを知るために学べである。
 ちなみに、この覆面社会主義運動のその後はどうなったのか、実はまだ二階に暮らしているのである、みたいなオチになる。1974年第1次石油危機が一息つくや、(財)新生活運動協会は生息地を省エネに定めて、「資源を大切にする運動関係団体推進会議」から「資源とエネルギーを大切にする国民運動中央連絡会議」へと進化! 地方組織は「省資源・省エネルギー国民運動地方推進会議」とした。そして、1982年、(財)新生活運動協会は「(財)あしたの日本を創る協会」に名称を変更し、何をするかというと、環境問題に取り組むようになったのである。ポケモン進化!のようではあるが、サヨ丸出しである。が、よくわかんないが、地方によっては、いまだに新生活運動協会が存在しているようだ。なんだそれ?である。
 話を沖縄の旧正に戻す。沖縄でも、本土に遅れること5年、1956年、米軍下の琉球政府に新生活運動推進協議会ができて、新正月一本化運動のエンジンになった。に、してもだ、1956年、私が生まれる前年、沖縄はまだ日本に復帰していなかった。ちなみに、奄美は1953年12月25日米軍の本土へのクリスマスプレゼントとしてか日本に復帰を果たしていた。この時の話は干刈あがたのエッセイが興味深い。1956年といえば沖縄には焦りもあったのだろうし、新正運動もそうした文脈にあったのだろう、と言って間違いでもないのだが、実際のうちなーんちゅうの女性にしてみれば、ショーガチが二度ある、はぁ、デージナンギやっさである。ギョージはすべてオードブル5000円で終わりにしたいものである、と書いても本土人には通じないかもしれないが、解説は省略する。
 旧正月の話はこれでおしまいとしたいのが、も一つ余談。こうしてみると、沖縄は旧正月を大切にしてアジアっぽくていいじゃんと思う馬鹿者もいるかもしれない。違うぞ。2001年、中国と沖縄で旧暦が一日ずれたことがある。同じ旧暦といっても、暦の基準となる地点が違うので旧暦でも時差が起きるのだ。え?その基準ってどこ?と思って調べてみたことがある。たしか、中国は西安だった。つまり、長安である。燕の都にして北方の駐屯地北京ではなかった。ほほぉである。旧暦の季節感覚は確かに長安であるなと思う。で、日本は?というと標準時を流用しているので源氏物語ゆかりというわけではないのだが、明石なのである。ほいじゃ、バンクーバーの春節はどうなるべぇと思って調べたら、長安基準の暦を使っていた。というわけで、実は、沖縄の旧正月も極めて近代日本的なのである。

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もちろんブッシュの一般教書演説はつまらない

 今朝は久しぶりに新聞各紙社説横並び。こぞってブッシュの一般教書演説を扱っていた。不思議でもないが、あんなスカ話をネタに何を書くのか。スカにはスカ。さあ、踊ろうぜ。
 各紙をザップするに、各紙ともにスカ。マジこいて言うと、社説執筆者の皆さん、テロとの戦いという意味がわかってないんじゃないか。なんかねぇ、国連、つまり仏独だね、それにロシアと中国を入れたら、万全の体制だぁ、と思ってないか。その体制があればテロと戦えると思っていないか。そりゃ、阿呆だよ。テロとの戦いというのは、本当に戦いなのだ。バトルなのだ。ピカチュー10万ボルトだ!、じゃない、のだ。
 戦うためには兵力が必要だし、兵力の構成が問題なのだ。昔話で記憶違いかもしれないが、カトリックの教皇についてスターリンが意見を求められたとき、彼は「そいつは何個師団に相当するのか?」と答えたという。これがセンスっていうものだ(ジョークでもあるが)。
 回りくどい言い方をしたが、米国は本気でテロとの戦いを始め、それ向きに軍を組織している。その認識とあり方がいいのかは議論の対象になるが、まず、現実として、米国はどのようにテロと戦っているかということを認識してから、教書も考えなくてはいけない。ブッシュの一般教書演説なんてつまらないと言えばつまらないが、彼はこの軍の最高指令者なのである。
 テロとの戦いというと日本ではアフガンやイラクといった面にばかり目を向けるが、それはある意味現象というか、変遷しつつある機能の顕現の部分であって、根にある軍の状態のほうが問題なのだ。今日は有志連合には触れない。
 テロとの戦いという目的の軍について、一つには州兵の投入といった問題がある(州兵を投入すべきではない)。が、その州兵と同じレベルで、米国の都合で韓国人が投入されることに注目しなくてはいけない。3000人の派兵要請で妥協したが、米軍の本音は1万人以上の韓国人をイラクに投入することだった。その意味を日本人も自覚せーよである。
 もう一つは、すでに韓国軍が米軍化のツールになってしまったことからわかるように、韓国自体が米軍のハブにされてしまった。今回のソウル基地の撤退により、38度線はすべて韓国軍になるが、それだけ見れば、自国のことは自国で、でもあるし、北朝鮮の暴発は限定的になるとも見ていい。だが、問題は、前線ではない。米軍の関心はすでに前線に向いていないのに駐留しているという点が問題なのだ。この機に韓国が巨大な沖縄化したということだ。もちろん、本家沖縄もだ。沖縄の場合、台湾問題関連で前方展開のニュアンスもあるが、テロとの戦いは本質的に前方展開のフォーメーションを必要としない。ハブとロジスティックスの問題だ。くどいが韓国という国と、沖縄という日本の人身御供が、テロとの戦いのためのフォーメーションに組み入れられた。
 もちろん、一般教書演説ではこうしたことは触れない。だが、こうした現実の様相に絡めて議論しなくてはいけない。新聞各紙の社説がスカだなと思うのは、そういうことだ。
 とはいえ、読み物としては、日経の「再び勝利宣言した米大統領」が面白かった。


「イラク解放戦争を支持しなかった議員もいる」と述べた時、CNNの映像は民主党のケネディ上院議員がわずかに首を横に振るのをとらえた。「サダム・フセイン体制のない世界は安全になった」と続け、ヒラリー・クリントン上院議員が立ち上がって拍手する映像が流れた。
 イラク支援に兵力を派遣している諸国のうち17カ国の国名に具体的に言及し、日本の名は英国、豪州に次いで3番目にあげた。自衛隊のイラク派遣に対するブッシュ政権の謝辞だったのだろう。

 皮肉が効いている。日本への謝辞は派兵というフラッグのシンボリックな意味もだが、日経なのだから、謝辞の対象は経常赤字を日本が吸い取ることなのだろう、くらいの皮肉を効かせて欲しい。財務省の代弁してんじゃねーよである。

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2004.01.21

イラクがシーア派になるのはしかたないこと

 自慢するわけでもないし、自慢にもならないのだが、極東ブログのイラク問題を扱う際の基本は、当初から一貫してスンニ派とシーア派の軋轢である。これにクルド人の勢力が加わるが、日本のメディアが言うようなトルコを含めたクルド人という風呂敷は広げない。多くの人は長い亡命史を持つことになったクルド人の情報に傾きすぎて実態を勘違いしていると思う。
 もともとイラクという多民族他宗教国家を維持するというのは無理があった。辛うじて近代的な強権で抑えられていたのだから、それが無くなれば崩壊するのが自然だ。日本のメディアは「イラクの国民」とかいうけど、そういう抽象は不可能ではない(例えば亡命者の視点)が、実体はない。むしろイイ戦争をしていたらから、シーア派がくっつかない、というか、くっつけなくなったというかいずれ分離しているのが、幸い?といえば幸いだ。
 そういう極東ブログにしてみれば、今朝の朝日新聞「イラク再建――米国は譲歩をいとうな」は苦笑というか、ホント、苦い感じがする。罵倒してお笑いで終わりにもいかない。前提がとち狂い過ぎているのだ。冒頭がこう。


イラクの復興支援を掲げた陸上自衛隊の派遣が始まった。そのイラクを再建し、復興を本格化させるための根幹は、イラク人自身による安定した統治体制をいかに早く作り上げることができるかである。

 その「イラク人自身」がフィクションなのだ。むしろ、所詮政治と割り切ったほうがいい。政治なんだから。だ、から、これを反米サヨクの歌で朝日がこうつなげるのは、全然違う。

 ところが、現地の政情はいま大揺れだ。ブッシュ米大統領は6月に暫定政府を樹立し、主権をイラク側に移譲する日程を描いている。そうして占領を終わらせ、秋の大統領選挙を有利に運ぼうという狙いだ。

 全然違う文脈で朝日は反米の歌を歌っている。社説ではいろいろ米国をくさすのだが、実は、社説執筆者、なーんにも考えていない。

 主権移譲に向けた米国の軸足の揺れを見て、北部のクルド人勢力が分離独立に傾き、かつてフセイン政権を支えたスンニ派勢力は、他の勢力の台頭を阻もうと無差別テロに走る。そんな悪夢が現実となっては、復興どころではない。

 そういうからには、米軍を強化せよなのかというと、そういうまともな発想ができない。

米国が描いた主権移譲の手法や日程に拘泥していても、安定的なイラクの再建は難しい。各宗派や民族にとって、国の統一を維持することの利益もあるはずだ。コソボやアフガニスタンのように、国づくりの主体をイラク人と国連に移し、新たな統治を立ち上げる。それを米国が助ける。ブッシュ政権にそうした転換を望みたい。

 間抜けここに極まる。主体となるイラク人がだね、それが分裂してそれぞれおれっちが主体、と争っているのだよ。これに国連を加えるということは、国連がイラク人に向けてマシンガンを構えて秩序付けるということになるのだよ。で、マシンガンを向けられたら、イラク人だってマシンガンを向け返す。そして、結局それを助けるっていうことは、ガンの引き金を握らせのは米国っていうこと、ではないか。阿呆臭。ついでに言うとこの文章だと、朝日新聞、コソボのことも全然わかってない。
 イラクを国民国家に志向させるなら、シーア派が前面に出るのはしかたがないことだ。当然、スンニ派はしょっぱい目にあう。しかたがないから、それを内乱に向けないような懐柔策の具体策を取るべきだ。幸い、悪玉視されているシーア派シスタニは、イラン革命のホメイニとは違い、政治に聖職者が関わるべきではないと認識している。イランの近代化と併せて、この部分から合理的な民主化を促進させ、トルコをモデルとしたような体制を作っていくしかないだろうと思う。でなければ、国家分断しかないのだから。

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市町村議員を減らすだけでは危険なことになる

 産経新聞の尻馬に乗るみたいで痔が痛むのだが(嘘)、社説「地方議会 合併特例の肥大化許すな」はよかった。これは誰かきちんと言わなくていけないと思う。問題は、こうだ。


「平成の大合併」が進む中で、合併する市町村の全議員が合併後もそのまま議員として残ることのできる合併特例法の特典で、各地にマンモス議会が誕生している。報酬も高いところに合わせるケースが多く、合併の焼け太りともいえる肥大議会が、財政圧迫の新たな要因となっている。議員の定数や報酬は、各自治体ごとに条例で定めるのが決まりで、特例法への安易な「右へならえ」は許されることではない。

 都市民には関心ないけど、これって、もう喜劇じゃなくて悲劇。なんて言ってないでなんとかしなくてはいけいない。だが、産経がこの後続けるように、議員に任せず住民がなんとかせい、ではダメなのだ。全然地域のことがわかっていない。
 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。
 もっともだからといって、こんな阿呆な状況を温存させておくわけにもいかない。なんとか代替的なNPOでもぶったてて名誉職を組織化したほうがいい。そして、はっきりいうけど、金はある程度ばらまく必要がある。餅を買うのだ、餅を。
 これに関連して、非常にやっかないなのが、地域社会に介在してくる市民団体だ。端的に言えば覆面サヨクか創価学会なのである。特にサヨクは、貧乏に耐えるから組織経験ありすぎ。
 関連して毎日新聞社説「公共事業改革 住民参加で意識転換図れ」で標題どおり、住民参加、よーし!とかヌカしているが、これもそう単純な話ではない。まず、地方行政の規模が問題になる。ある程度規模があれば、中産階級の沈黙の市民が圧力となってそう阿呆な事態にはなりづらいが、規模が小さければ、馬鹿丸出し暴走するは必死。
 結論は先に述べたとおり、代替の権威のシステムということだが、ついでに言うと、都市民のこの、地方への鈍感さはなんだろうと思う。もちろん、メディアの問題も大きい。大手新聞なんて基本的に都市部のものだし、日本の地域には宅配もされないのだ! もっとも宅配されればいいっていうものでもないが、すくなくとも市民社会構成のための情報伝達としてのメディアは事実上存在していない(NHKがあるか)。あるのは、大衆文化だけであり、大衆文化は、なんだかんだ言ってもこれも都市集中なのである。

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朝日新聞だって「改革と展望」を論じたーい

 今朝の朝日新聞社説「改革と展望――気を引き締めるときだ」を見て、あれ?っという感じがした。「構造改革と経済財政の中期展望」について、おまえさんも、今さらなんか言いたいわけ? ほぉ、である。じゃ、読んでやろうじゃないか、と読んで、野狐禅師玄侑宗久のごとく魔境とも知らず無の境地に入る。はっ! 朝日新聞、無内容でかつ馬鹿丸出しではないか。


 もちろん、金融に不安を抱えたまま金利を引き上げることはできない。構造改革や財政再建に前向きの推進力を生むためにも、一刻も早いデフレ脱却が必要だ。
 そのためには、金融緩和を続けながら、金融不安の火種を消すことが大事だ。来年4月にはペイオフの全面解禁が予定されている。不良債権処理のペースを早め、問題視されている地域金融機関の経営の健全化を急がなければならない。
 それだけではない。規制緩和を進めたり、「官」の分野を思い切って「民」に開放したりして民間の需要を盛り上げる。年金制度を持続可能なものにする抜本改革を行い、将来が見通せない今の状態を改善することもデフレ対策になるだろう。

 これって、朝日新聞的社説(自動生成) (参照)を使ったのでしょうね。手抜きはダメですよ、である。それにしてもどのくらい低脳にならないと「金融緩和を続けながら、金融不安の火種を消すことが大事だ」なんて言えるのか。
 かく罵倒しまくるのであるが、極東ブログのこの問題の見識も、目くそ鼻くそである。我ながら、恥ずかしいのだが、少しずつ要諦がわかってきた、ぞ、っと。
 と、この「わかってきたがくせもの」というか田中宇への一段階臭いのだが、現状、迂回的に米債購入するために円高にがんがん介入して、米国貢ぐ君の日本なのだ。が、ここまでくると属国というよりパートナーだなと誇りも感じられる(冗談です)。そして迂回期間の間に、円がじゃぶつくという副作用のメリットもあるだろう。その間、只管打坐して輸出あるべしである。それって、全然、産業の構造改革になってないじゃん、と言うなかれである。結局、これって、リフレ?
 なんだかお笑いを書いているようだが、かくして極東ブログもエコノミストの仲間入りである。いや、冗談。それにしても、新聞各紙社説のこのレベルの低さは、内部の縦割りによるのだろうか。もう、2月のG7のお笑いが待ち遠しいくらいだ。
 話がずこっけるがルモンドの「景気回復の期待と雇用」(参照)に欧州的な根性曲がりのエスプリがあった。

 株式市場の投資家は仏大企業に巡ってきた幸運を先取りした。三年連続して下降する一方だったCAC40(パリ証券取引所四十銘柄)指数は、二〇〇三年を通じ16%回復している。
 もっとも大企業グループの結果だけでフランスの全体を判断しようとするなら、この株式市場は相対化されなければならない。
 決して忘れてならないのは、これらの巨大企業が今は世界企業であり、欧州、まして仏国内のその基盤がとりわけ切り詰められていることだ。そのため、経営者たちに投資、雇用の方針を聞いてみると、回答は慎重である。

 なるほど、当たり前のことだが、EUの内部で雇用を作るのは地場の中小産業でしかない。つい日本のように閉鎖された輸出だけよ~んの国家経済に慣れると、こうした状況がわかりづらくなる。EUといっても実際の国家経済に反映するのは大企業であり、それって、別にEUである必要などない。っていうか、ユーロである必要すらない。米国が2つ世界に並ぼうとするなら、本家ニューヨークのギャング達が黙っているわけもないか…うーん、金融っていうのは愛国主義でもないから、このあたり米国策の内部で保護されている背徳的要素は無視できないほど大きいのだろう。資本主義ってすごいなと思う。マルクスが生きていたら、マルベラス!とか言うんじゃないだろうか。

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2004.01.20

日本軍装甲車、イラクを行く

 変な気分だ。朝鮮日報社説「イラク砂漠の中の日本軍装甲車を見て」の読後感だ。話はまず、こう切り出す。


19日、装甲車や無反動砲、機関銃で武装した日本の自衛隊がイラク入りした。自衛隊が終戦の消極的な平和維持軍活動からさらに一歩前進したのだ。

 これは、ふーんである。この先がなんとも変な気分になる。

 日本の布石はこれにとどまらない。経済力を基にした軍事力の建設に続き、それに相応しい国際政治的役割を追求するはずだ。その中期的目標が国連安保理の常任理事国として進出することだ。その時、われわれはこれまでの日本という国に対するイメージをかなぐり捨て、われわれの運命に介入する実力を携えた新たな日本を目の当たりにすることになるだろう。
 この新たな日本は21世紀の潜在的な超強大国の中国と、東シナ海や南シナ海全域で競争することだろう。先日繰り広げられた釣魚島の領有権をめぐる中日の海上摩擦は、われわれにその未来の絵まで想像させている。

 おまえさん、考えすぎだよ、とは言えない。そう見えるのだろうなと理解できないでもない。よくわかんないなと思うのは、「国連安保理の常任理事国として進出」がなんで問題なのか。日本が出れば、アジア諸国の希望になるぜ、と日本人として言いたいが、それは韓国からは危険というより、嫉妬なのではないか。むしろ、こけそうな国連を維持するために日本が地歩を固めたほうがいいと思うが、韓国には通じないだろう。それを、「運命に介入する実力」というが、だって、実力ってそういうものじゃないか、と言えば、むかっ腹を立てるのだろう。ゼロゼロセブン、変な気分である。
 日中の海上摩擦というが、あれは、中国がおかしいよ、とは見えないのだろうか、いや、この文章を見ていると本音ではそう思っているのだろうなと思う。そして本音では中国怖いなと思っているのだろう。そして、日本も怖いのだろう。なにも韓国を貶めて言うのではない。そういうイメージをどうしたら日本は払拭できるのだろうか。
 朝鮮日報の結語はこうだ。

 もどかしいのは、「自主」という眼帯で視野を塞いでいる韓国の首脳部だ。彼らの目には、新たに展開されるこの地政学的パノラマが、他人事のようにしか映っていないのだ。

 これが端的に間違っているのは、米軍を抜いているからで、そういうなんというか、意図的な知的な空白で言説が成り立つ韓国の、民衆から浮いたジャーナリズムが伺える。皮肉みたいだが、皮肉の意図はない。まず、米軍を考えなさいよ、と思う。
 話を戻す。韓国は本音では日本が侵略するという意味での軍事的脅威は感じていないだろう。中国との軋轢で迷惑被りたくないというのは、クリシェだ。じゃ、日本はこれでいいのか。
 日本人の一人として、途方に暮れる。じゃ、どうしたらいい? 韓国を本音のところで支援するしかないだろうなと思う。この半世紀の間、もっと日本は、日本を支援する韓国人を援護すべきだったとも思う。ここは、やっぱし人情だよ、日本はと思う。通じなくても、さ、である。

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日経さん、財政再建でなにが言いたいのか、その2

 今朝の新聞各紙社説を読みながら、昨日の極東ブログ「日経さん、財政再建でなにが言いたいのか」の続きを思った。不思議といえば失礼だが、「構造改革と経済財政の中期展望―2003年度改定」について、今朝の産経新聞の社説「中期展望 デフレの脱却へ一押しを」がなんぼかマシである。日経はどうしたんだ? 産経のほうがマシだぞ。なんでそういうことになるのかよくわからないし、産経のこの社説にも創見といったものもないのだが、自分の常識の確認にはなる。


 先に政府が開いた「経済政策コンファレンス」でも、内外の有識者からは一連の構造改革にスピード感が乏しいとの指摘に加え、金融政策で一段の工夫を促す意見が多かった。
 お金の流れが滞っている。市中に出回る資金量を示す昨年のマネーサプライ(通貨供給量)は、十年ぶりの低い伸びにとどまった。企業の資金需要の低迷や不良債権処理を迫られる銀行の慎重な貸し出し姿勢を映しているものの、デフレ克服には日銀の金融緩和策の質的改善が欠かせない。
 資産担保証券の買い入れ基準を緩和し企業の資金繰りを支援するほか、外債の購入やインフレ参照値の導入など新たな手立てを急ぐことだ。

 そういうことなんじゃないか。というか、この話をもう一歩掘り下げてもらいたい。
 よくわからないのは、なぜ日本はこの政策が取れないのか? 馬鹿でもわかるじゃないか、とまでは言わない。私も今ひとつわからない面があるからだ。しかし、難しく考えるほどのことではない(金の滞り)という線がなぜねじくれているのだろう。率直に思うのは、旧来の官僚・天下り主導の構造維持なのだろうか。もっと端的に、このデフレのシステムを支持しているのは誰だ? ……いや、そういう発想は違うかもしれない。
 よくわからないもう一つは昨日の日経の社説だ。なぜ日経からあんなスカが出るのだろう。ただの馬鹿というわけもないだろう。
 天王山は日銀ということなのか。とこの言い回し古過ぎてほとんどギャグ。
 読売新聞社説「月例経済報告 回復宣言に安心せず手を緩めず」は漠としている。日経ほど酷くはないが、日銀には触れていないので、読む意味はない。が、若干気になることはある。いや、どうっていう話でもないのだが。

 今回の回復が外需主導であることは明白だ。米国の本格回復や中国の高成長を受けて、輸出が増大し、それによって企業の設備投資も拡大してきた。

 馬鹿でもわかるが、景気回復というのは見せかけで、日本の米国依存が深まっている。これは、円介入から米国債買い入れというサイクルで見れば、米国の日本依存が深まっているともいえる。いずれせよ、マクロ的に見れば、日米のおふざけ劇である。
 2月のテーマになるのだが、この構造はどこへ行くのか。つまりドル安問題である。

 急激な円高・ドル安の進行は、外需主導の回復を狂わせる恐れもある。ドル安は日本ばかりでなく世界経済にとっても、悪影響を及ぼす。
 円高阻止は、日本の単独介入では限界がある。二月初めに開かれる先進七か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で、政府はドル安阻止に向けた協調体制を、米欧の通貨当局と確立すべきだ。

 なぜEUを名指ししていないのだろう。それと、G7はどうなるのだろうか。読売のような、こんな甘っちょろいストーリーになるのだろうか。
 ならないのではないか。端的に言って、ドル安は米国策だし日本も円介入で実は賛同している。加えて、現状の構図は、EU対ドルの戦争なのではないか。
 どうにも見渡しが悪い。すぱっと切れる視座はないのだろうか。いつも道化回しにして申し訳ないのだが、田中宇から陰謀ロジックを除いて、少しマシな視点は出てこないものだろうか。

追記
関連リンク
「日銀、資産担保証券買い入れ」(参照
「日銀、資産担保証券の買い入れ基準を緩和へ(2003年12月17日)」(参照
「資産担保証券の仕組みQ&A」(参照
「外債かETFか(2003年02月06日)」(参照)より。


日銀による外債購入の可能性が上昇しているとみられる背景には2つある。1つは、当局が1月中に行った、不可解な為替市場への覆面介入である。同介入は、通常の平衡操作というよりも、為替介入を利用したベースマネー供給の色彩を帯びている。2つめは、米国財政赤字の拡大が見込まれることである。03年度、04年度と3000億ドルを超える財政赤字の発生が予想される中で、米国当局は長期金利の上昇を抑制するという観点から、従来に比べて、日銀による外債購入に前向きになる可能性がある。

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2004.01.19

教養について

 「教養」について、自分はあまり関心がない。いや、「教養」についての話題に自分がいつも頓珍漢な思いがする。ある意味、私にとって教養は非常に明確である。ちょっとメモがてらに書いてみたい。
 まず、ヘンテコな結論から先に書く。これは誰か言っているのかどうか知らないが、どんな教養であれ、その基礎がなければなんの意味ないということ。教養の基礎とはなにか。人格か? 正義か? 美的センスか? 私はまるで違うと思う。私は単に独断なのか、私の教養の実は成果なのか、こう思う。教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」というのは、すべての層の人を含む。
 私は教育について、奇妙な理想を持っている。学力なんかどうでもいい。まず大道芸を一つ身につけろと。まったく異文化の町に一人放りださせたとき、誰かの気を引かせ、その人と快活な関係が持てるようにせよ。難しく言えば、「おまえはユニバーサルな人間であれ」ということだ。大道芸で金が得られるならなお良し。ちょっとしたことでもいい。私と楽しみをわかちあってくださいと、無言で伝えることができるか、である。
 話はいきなり余談だが、先日NHKのドラマで「麻婆豆腐の妻」を見ていた。ドラマとしては多々難点もあるのだが、その背景にある陳建民というユニバーサルな人間の不思議さを思った。彼は天才である、で終わりにしてもいいのだが、このユニバーサルな人間はどこから教養を得たのか。四書五経を読んだとは思えない。まして、彼を取り巻く中国人民に教養の素地があったとも思えない。だが、はっきりとわかることは、彼こそが教養人である。そして、そう考えるなら、教養というのはどうも奇妙なものであるとしか言えないことになる。息子健一は建民がトイレに「吾日三省」「低賞感微」に貼り紙をしたというエピソードを語る。すまんが私には「教養」があるので、三省堂の語源である「吾日三省」と聞けば、こう暗誦できる。


曾子曰わく、われ日にわが身を三省す。人のためにはかりて忠ならざるか、朋友とまじわりて信ならざるか、習わざるを伝えしか。
(曾子曰、吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。 與朋友交而不信乎。傳不習乎)

 私には本当の教養はないから、曾子先生は丘先生に比べて堅物やのぉと思い、歩道自転車に怒鳴り散らし、友人を避け、ブログに知らざるを散らす。臨済録普化のごとくである。低賞感微と聞いても中国人には必要だよね、と思う程度。余談はさておき、そうした訓戒を百万遍唱えても建民はできない。ではやはり天才なのかというと、よくわからない。が、書を読めば教養が付くものでもないなと思う。
 話は飛ぶ。たまたま知ったニュースだが、衆院福岡2区・古賀潤一郎議員の学歴詐称が問題になっているらしい。それだけなら別にどうってことないのだが、このおっさん、米国の大学卒業と言っていたわけか。カリフォルニア州、米ペパーダイン大卒業としていたらしい。気になって、少しニュースを調べたのだが、よくわからない。古賀潤一郎議員の場合、B.A.かどうかが問われているのだろうか。
 マスコミは彼のディプロマを問題にしているのか、B.A.を問題にしているのか。というあたり、あれ、日本でいう大学卒業ってなんだと思い返すと、「学士」なのか。わからない。いかんなぁと思う。学士とB.A.というのはどういう関係になっているのか、長年考えて、よくわからないでいた。このあたり、個人的な事を書くのもなんだか、私はB.A.と学士両方持っている。だが、普通、日本の学卒は国際的にB.A.扱いされているのだろうか(だとすると、それはおかしい。B.A.は後に述べるように自由七学芸の基礎習熟を意味する)。このあたりも、よくわからないのだ。B.A.程度、さして問題でもないということなだろうとは思うが。
 で、なんでこれが「教養」の話題と関係するかというと、B.A.とは、Bachelor of Arts.だ。BachelorはArtsの世界の前に立つ入門の候補者ということだ(だが、中世では神学の前提)。で、Artsとはなにか? で、なんでなのか、日本ではfine artsがアートと呼ばれている。このあたりの日本語の感覚もよくわからないところだ。
 B.A.と対になるのがB.S.つまり、Bachelor of Scienceであるように、ArtsはScienceとの対になる言葉だ。Scienceは「科学」と訳されているのだが、これも日本では「自然科学」ということになる。なんとも変なのだが、いずれ、Artsが教養なのである。知識=Scienceでなく、人間の技芸=Artsとして習得されているものだ。
 Artsが教養であるということはどういうことかというと、Artsはthe seven liberal artsの省略形である。つまり、教養とは「自由七学芸」である。七学芸を簡単に言うと有名なラテン語の詩がある。

Gram. loquitur, Dia. vera docet, Rhet. verba colorat.
Mus. cadit, Ar. numerat, Geo. ponderat, Ast. colit astra
(文法は語り、弁証は真理を教え、修辞は言葉を飾る 音楽は歌い、算術は数え、幾何は測り、天文は星を学ぶ)

 ただ、これも米国などでも誤解されているみたいだが、字義通り、ということでもない。文法というのはラテン語のことでヴァルガーな言葉(フランス語とか)を使わない、弁証については弁証法というより論理学だ。修辞は今日の作文技術と言っていいだろう。
 余談だが、日本の英文法といいうのは米国の文法と修辞がプラクティカルに混在したものを直輸入したのでごちゃごちゃになっている。現在の初等教育でどう教えているかわからないが、too~to~をso~that~cannot~に書き換えるとかまだ文法で教えているのだろうか。疑問も持たずに学ぶやつも馬鹿だが、教えるほうは無教養だ。これは文法ではない。修辞なのである。キャロルキングが、It's too lateと歌うのは、「もう私たちの愛の関係はダメなのね」という修辞だからである。さらに余談だが竹中平蔵はこう言った。

Big banks have their merits, but we do not hold the idea that they are too big to fail.

 これは修辞であるから、「銀行が大きすぎるからといってつぶせない、とは考えない」ということになる。が、そのあとの竹中の弁解のお笑いぐさは、修辞の無教養丸出しなので、やはり初等教育で学んでおくといいのだろう。
 話を戻す。算術の含みはよくわからないが、数えるというあたりでカントールを連想する。Geoが幾何学であることはプラトン以来の伝統つまり「原論」である。天文は占星術なのだが、これについては触れない。私はB.A.なので当然、七学芸は門前小僧程度の知識はある。グランセイザを見なくても占星術の基礎も知っている。そして、7芸の上の神学も少し学んだ。
 問題はもう一点ある「自由七学芸」の「自由」ということだ。つまり、リベラルとはなにか。これも日本では珍妙な議論が多いのは、明治時代に出来たこの言葉の字面に別の伝統を読むためだろう。武芸書などにも「自由」ということが基本になるのだが、これはリベラルとは違う。じゃ、リベラルとはなにかというと、これは、奴隷など専門労働から解放された自由人の知性である。学校schoolのギリシャ語スコレーが「閑暇」を意味するにように、時間を従事させられない者のものであり、逆転して、時間を従事する(だからOccupationが「仕事」なのだよ)強制力に対立する知性としての自由を意味するのである。
 このあたり労働が神聖とされるエートスを持つ日本人にはわかりづらいのだが、このギリシアの労働観は、キリスト教世界では、労働=罰、と結びついていく。日本人と限らず米人なども、アダムとイブの話を、神との約束を破って悪いやっちゃと読むが、あれは、罰としての労働の起源の物語でもある。
 とま、「日本人は知らねーだろう」のいやったらしいオンパレードになるのだが、こういう世界が西欧の「教養」の下に潜んでいるのであり、それをまじこいてハリポッターみたいな世界で青春期に受けると、ひどい目にあう。というか、これって、そういう世界観に生きるためのものであり、ひいては神を自然の秩序として受け入れるための素地でもあったのだろう。西洋の文脈では、かくして神を知ることで自由となる、ということなのだろう。ま、日本人にとって知ったことかである。
 こうした自由七学芸に相当するのは東洋では四書五経である。四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経とは「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」。大学生になったら、いちおうイントロダクトリーな部分くらいは読んでおけよなとも思うが。そういうと、日本の文脈では「論語」「孟子」がメインになる。だが、重要なのは、「易経」「詩経」なのだ。と言っても空しいが、が、それより重要なのは、「三字経」や「千字文」なのである。
 世間では、声に出して読む日本語とか寺子屋教育の復権のようなことが言うが、「千字文」を無視しているあたり、東洋の教養も廃れているのである。

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日経さん、財政再建でなにが言いたいのか

 日経新聞社説「財政再建、何ともはるかな道」がわかりづらい。単に、ぼやきかよ、で済む内容なのかもしれないのだが、ちと考えてみたい。まず、冒頭はこうだ。


 財政再建を金科玉条とするのは誤りだ。だが今のように極端な財政赤字を続けると金利上昇を招き経済が大きな打撃を受ける。だから赤字圧縮は必要だが、それがいかに大変かを物語る試算を内閣府がまとめた。

 財政赤字から金利上昇というのは、ごくごく経済学の「いろは」というのはわかる。が、率直に自分の無知をさらけだすのが、いずれリフレ政策を進めるとすれば、まず金利上昇の現象は起きるのでないか。と、その事態になって、「財政赤字が問題だぁ」と橋本内閣のような馬鹿な議論をどっかが起こすのではないか。どうもこのあたりの前提が腑に落ちない。もうちょっというと、「赤字圧縮」の議論はどうも財務省の世論コントロール臭い。総じて、この社説も財務省ノート?という感じがする。
 同じ話の変奏なのだが、私にはよくわからない。

財政改革では、基礎年金国庫負担比率の引き上げに伴う3兆円の増税以外は増税を考えない。国内総生産(GDP)に対する政府部門の比率を現状維持するよう歳出を削る。その内容は一部を除き厳しいものだ。例えば投資的経費は年々3%ずつ減らし続けるという前提だ。
 どの程度、増税するかにもよるが基礎的収支均衡は2013年度より後になる公算が大きい。だが貯蓄率低下も考えると、金利上昇を防ぐため赤字圧縮を進める必要がある。

 増税せい、と言っているのか? 政府を縮小せい、なのか。基本の筋としては増税は避けられないし、政府というおは小さいほうがいい。だが、状況はそういうことなのか。どうも文脈が取れないし、背景となる考えが理解しづらい。
 ただ、日経の社説がそれほどまじめに書かれていないことは以下のおちゃらけでわかる。

そのためには、まず経済を本気で活性化させることだ。規制改革や自由貿易協定(FTA)、科学技術開発などの政策は過去の発想にとらわれず思い切って進めるべきだ。

 この発言は誰が読んでも馬鹿まるだしである。
 話を戻して、「構造改革と経済財政の中期展望―2003年度改定」について、すっきりとした解説というのはないのだろうか。それは端っから無理ということかもしれないが、日経の社説がこの体たらくではどうしようもない。
 いや、この日経の社説は反動だぜ、と切ってくれるだけもいい。私にはそれをすぱっと切るだけの力はない。

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ソウルが軍事的空白になる

 日本国内で話題になっていないのは当然のことなのだろうか、極東ブログではしつこく扱ってきたが、ソウルの龍山(ヨンサン)に駐留する在韓米軍の漢江以南移転が決定した。移転には、米韓連合軍司令部と国連軍司令部も含まれる。韓国国民の大半はこれを歓迎している、とまで言えるのかわからないのだが、韓国主要紙は曖昧なトーンを含みながら、懸念を表している。問題は端的に、それで韓国の安全は大丈夫なのか、ということだ。併せて、日本を含め東アジア全体の米軍のシフトも問題になる。日本がこの話題に鈍感に見えるのもよくわからないといえばわからないが、基本的に日本は沖縄を犠牲にしてこの問題に蓋をしているからだろう。
 東亜日報の社説を読むと、米軍の南下はしかたがないが韓米連合司令部と国連司令部はソウルに残せという主張がある。虫のいいことだと米軍からはせせら笑うことだろう。日本では北朝鮮の長射ミサイルの射程に入ったかという呑気な議論だが、ソウルはそんな議論でお茶を濁すわけにもいかない。米軍の撤退は米人の保護の意味あるというのはブラックジョークではない。いずれ首都の信頼度は低下するので、海外投資にも問題がでるだろう。傍から見ていると盧武鉉をめぐるどたばたは韓国国内の問題のようだが、いずれ対外要因でカタストロフになる潜在性が強い。
 話が余談になるが、こうした差し迫った課題になると、韓国が実は日本をなんら危惧していないという本音が出ていて面白い。韓国は本音のところでは日本が軍事的な脅威になるとは微塵も思っていないのである。日本を舐めているというほど呑気な問題でもない。そういう韓国の本音を日本は汲まなくてはいけない。もちろん、根にあるのは日本が米国の属国だからではあるのだが。
 この先は日本の問題でもあるのだが、まず当面の視野としては在沖米軍も縮小に向かうだろう。普天間飛行場問題は頓挫したままだが、あの市民都市の真ん中に置かれた異常な軍事基地は潜在的に米軍の戦略の変更を迫るほどの危険性をはらんでいることは米国も熟知している。野中は引退してもこの問題だけは気になっている。もっとも野中には嘉手納統合案はない。現在の小泉政権はただの政治ゲームの馬鹿たれなのでこうした問題の重要性がわかっていない。残念なことに福田に頼むしかないというのはなんたることだ。
 以上の話にそれほど新味もないし、詳細を除けばなにも新しいことを追加するほどのこともないのだが、今回のイラク派兵での米国と韓国の状況を見ていると、韓国軍は完全に米軍の先端にこづき回されている状況がある。端的に言えば、米軍の撤退分は韓国人で贖えというわけだ。もちろん、国防というのはその国の問題ではあるのだが、米軍のためにイラクに派兵することが韓国のためになるとは韓国人も思えないだろう。その不快感は日本人の呑気な議論からは見えない。こうした状況にあると、日本も表向きはイラク派兵反対!とヌカしているほうが対米な間合いを取るには都合がいいのかもしれないのだが、そんなことができるのも日本の経済力があってこそだ。

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2004.01.18

[書評]負け犬の遠吠え(酒井順子)

cover 国立の増田書店に寄ったら三刷りがようやく出ていたので買って読んだ。酒井順子の本は私はけっこう読んでいる。理由は、この人、やなヤツじゃないですか。いやぁ、こいつってやなヤツだねぇっていうヤツの本は、けっこういいことがある。
 ただし、そういうやなヤツには条件があって、馬鹿は論外、ということ。例えば、「10年後の『結婚しないかもしれない症候群』」の谷村志穂とか、小犬を拾って結婚してVeryの勝ち犬になったつもりって、すげえです。同じすげえなら、高木美保のほうが勘違い跳びまくりでよろしい。ああ、美人の人生って怖いのかもぉってよくわかる。で、谷村志穂のこの面白くもなんともない、金返せ、買うやつが阿呆だ、という本、本、という以前に、これってほとんど詐欺じゃないか。というのは、この本では実際には「10年後の『結婚しないかもしれない症候群』」は扱ってないのだ。昔のお友達に電話して、連絡の取れた数名のだべりに尾ひれがついるだけ。あのなぁ、この標題を付けるからには、10年前の彼女たちを真剣に捜せよ。そしてその人生を見てこいよ。それを見れば、ちったぁ利口になるぜと思う。っつうかおい、この編集者、標題だけで売ろうって根性は腐っているぞ。
 あ、話がそれまくり。で、酒井の本。うーん、面白かったのだけど、「少子」のときのような悪汁がいまいち。なんだか、男の俺が読んでいても、その、35歳以降の老齢化のあたりがちくちく痛いじゃないですか。なんだこの本。文章はうまい。酒井、ますます文章はうまいと言ってもいい。冗長だけど、もとから読ませてなんぼの漫談だからそれもかまわない。表紙の絵はきれいだけど、カラーリングが「ミス・マナーズのほんとうのマナー」みたいだが、ふと思うのけど、ミス・マナーズってミス、つまり、負け犬だったのだろうか。あ、この本、いい本です。上品なユーモアが学べます。学んだ結果が私です。効果は人によるわけです。
 あ、話がそれまくり。で、酒井の今度の本、なんとも奇妙な読後感だった。読んだ既婚女性に感想を聞いてみた。答えない。なんなんでしょ。ま、いいか。で、数日後、ふとぱらっと読み返してみて、ようやくそうかと思った。
 この本って、30過ぎ未婚女性が「負け」というあたりで、なんとかせーよと世間の気を引くわけだけど、この現実というのは、かなり多分、どうにもならない。どころか、30代40代の未婚女性が増えるということがすでに日本文化なのだ。中で酒井がイヤ汁とうまいこと言っているけど、こうした女性が日本文化に熱を入れるという話があるけど、お茶だの芸能だの京文化だの、彼女たちのおかげで維持されている。それに、その彼女たちのテイストはけして悪くない。私も、朝鮮茶碗でお抹茶など飲み、正月には花びら餅など和菓子を食べるしばわんこ組なんだが、この和の世界は美しい。美味しい。この世界を彼女たちが大半は維持しているのだ、と思う。典奴、森下典子の「日日是好日―『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」もなかなか良い本だったが、彼女も確か未婚ですね。いいじゃないですか。
 酒井も負け犬の存在理由ってな変なこと言うけど、いやいや、変でもない。10年前、いや20年前、私がラム(平野文)ファンだった時代に、これが将来国際的に日本を支える文化になるぞ思ったものだが、今度は「負け犬の和」の番だろう。それでいいんじゃないか。
 と、書いていてふと思ったのだが、現代の育児など実は、子供の手が離れるというなら、8年間くらいで終わり。その先、お子ちゃまのおかあさまとかVeryとかやらなければ、結婚・出産というのは8年間の転勤のようなもの。26歳くらいに結婚を済ませておけば、35歳には、どっぷり自分の世界がある。別に既婚・未婚の差もない。え? 旦那? 子供は一人じゃない? ま、そういうケースもあるのでしょうけどね。

追記(2004.2.29)
 この記事に直接関係しないが、関連した「東アジア諸国の未婚率」のコメントが多くなったことと、特にいなばらさんによるリンク情報が重要であるので、別サイトにコメントを移した。
 「東アジア諸国の未婚率」に関心のあるかたは、参照し、活用していただきたい。

極東ブログ: 東アジア諸国の未婚率

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仮面ライダー555、面白かったです

 平成仮面ライダーとも言われるのだが、平成ウルトラマンの誤用ではないか。ミレニアム仮面ライダー、ま、どうでもいいけど。クウガはなんとかストーリー的に持ちこたえたが、アギトと龍騎のストーリーは破綻したので今回も怖々見ていた。が、最終回までとりあえず破綻はしなかった。表面的に見ている限り、あまり瑕疵のない作品だったかなと思う。めでたしめでたし。と、変な前振りだが、ま、面白かった。アギトと龍騎では怪人がひたすら負けキャラだったが、今回はそれなりに怪人にキャも立っていたし、クウガ以降の作り手側のオブセッションである「仮面ライダーは正義か?」も、もうこのくらいでいいだろう。
 若い役者さんたちも魅力的だった。園田真理役の娘さんが途中小太りするんじゃないかと気がかりだったが、若いですねぇ。長田結花役の娘さんはハワイ二世なのだろうか。ま、みなさんよくやってました。というと学芸会ノリだが。
cover 音楽的にはやはりクウガからアギトのほうがよかった。佐橋俊彦、やるぜ。私もロバート・フリップのファンだったのでね。ただ、初期キングクリムゾンを現代の音響でやると逆につまんない面があるのだなとは思った。初期キングクリムゾンのほうがむしろジャズ的に生の良さがあった。ファイズの音楽については、私には、率直に言って素通り。
 文学的に見ると、園田真理と草加雅人にはディープなストーリーが設定されていたのだろうなとは思う。ノベライズしたら面白いのかもしれない。SF的に見ると、というか、やっぱ触れないわけにはいかないか、オルフェノク、つまり、オルフェウス+エノクという神秘思想の裏は気になった。アギトの時もけっこう凝った裏を作っていたようで、オープニング画像に奇妙な曼陀羅を描いておきながら、作品では未消化に終わった。死者の蘇りとしてのオルフェウスの裏はそれほどでもないが、エノクのほうは、すまん、ここではちと触れたくもない。不快なものを思い出させやがってと個人的に思う。幸い作品にエノクの問題はあまり反映していない。エノクの問題はしかし、いつか自分の課題にしなくてはいけないのだろうか。鬱。
 神学的にというか、ま、何的でもいいのだが、人間の進化としてのオルフェノクという設定だけではそれほど面白くない。が、悲しみや人間への憎しみから進化してくるというのは、良い。これは考えるとけっこうやばい問題で、現在の人間種自体もどうもそうやって進化してきた臭い。最近の人類学の成果だと、どうも人間につながるとされてきた原人たちはみんな滅んだようだ。一部は人間種による絶滅もあるのかもしれない。人間種というのはそもそも一体なんなのかますます不可解ではある。
 ファイズの世界では、オルフェノクの進化に身体が耐えられないとしているのだが、このあたり人間種はやや奇っ怪で、身体が耐えられそうにもないのに異常なほど長寿になっている。抗酸化システムの勝利かもしれない。身体でアスコルビン酸が生成できないという病気が恐らくモグラレベルの時代に起きたのだろう。が、それを人間種は逆にメリットにしている。あと、人間種の進化については白人や黄色人種の出現になにか意味があるのだろうと思うのだが、この手の話もちとやばい。意外と白人と黄色人種には人類のサバイバルをかけた問題がありそうだ。黒人とされているアフリカ人の多様なバリエーションに人間種を解く鍵があるかもしれないが、この問題もやばすぎ。
 ファイズではオルフェノクを人間に対置していたが、それほど洒落として楽しめない面もある。すでに人間種も行き詰まりに来ているだろうし、生物的に見れば、新種の発芽のような現象はあるのだろう。それらは人間種と敵対する本質を持つのだろう。ふと、昔だったが、吉本隆明が人間とって本質的な問題、特に身体性は身体が進化的に変わることで解決するとぞっとするようなことを言ってたが、そういう面もある。
 造形的には「王」がけっこうよかった。あれに文学的なキャラを持たせたいところだし、そもそもなぜベルトが作られたかというストーリーもあってもよかったか…よくないな。アギトのように作品が破綻するだろう。
 フィリップ・K・ディックあたりだと、けっこううるさいことを言う輩は多いのだが、ヴァリスなんかより「ティモシーアーチャーの転生」あたりはあまり言及されていない。ヴァリス神学あたりで沈没してしまうのかもしれない。転生といえば、サリンジャーの「ハプワース16日」もすでに文学の破綻かもしれない。だが、こういう奇っ怪な形式を思考に強いるなにかは存在するのであり、どうもそのあたりを切り込む思索者を最近見かけない。ニーチェも実はマジで研究はされていない。この領域はオカルトに堕してしまうのだろうなと思うし、グルジェフあたりで充足してしまうのかもしれない。ちょと「と」がけて言うのだが、この界隈のSFや神秘思想の慰撫で充足してしまう程度の悲劇意識は甘ちょっろいんじゃないかとも思う。もっと痛切に、人間種の限界と超越を問うことはできなものだろうか、というか、そういう作品や作家を私が知らないだけか。
 と、いう意味で、ファイズのハッピーなエピローグは愚劣なシロモノだったが、あれを持って作品の欠点とするわけにもいないだろう。王の覚醒の時点で、ストーリーは終わっていたと見るべきだ。そして、王の覚醒が意味するものは、文学や神学的に人間種自体がうまく解決していないオープンな問題なのだろう。

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北朝鮮の変化は対中国策か

 北朝鮮関連の朝日新聞社説「北朝鮮――対応は慎重かつ機敏に」がいつもと違う。いつもなら、北朝鮮には困ったものだがと引っ張って同情を買うようにして結局は北朝鮮に有利に誘導する形式になる。今回も同じと言えば同じなのだが、トーンが違う。なんというか、北朝鮮の泣きが朋友朝日を通して聞こえる感じがするのだ。もちろん、そういう受け取りかたはごく主観的なものであるのだろうが。
 まず、朝日を引用する。


 核をもてあそびながら、ことを有利に運ぼうとするやり方は許されない。
 たとえば、核開発を中断するとか、拉致被害者の家族を親元に送りかえすなど、具体的な行動で示し、国際社会を納得させる必要がある。そうでなければ圧力を強めるしかなくなる。

 「核をもてあそびながら」と朝日は表面的に非難するがそれはむしろかつてのことで、今回の核関連施設公開はむしろ逆の事態だ。朝日の認識はおかしい。また、北朝鮮の問題を「核開発を中断するとか、拉致被害者の家族を親元に送りかえすなど、具体的な行動で示し」というのも、「とか」の言い回しに顕著なのだが、文章が変だ。問題を「とか」って言うなよなのだが、その程度で抑えて欲しいという北朝鮮側の代弁でしかない。
 あるいは、中国側から朝日がせっつかれたか。そう見たほうがいいかもしれない。

 北朝鮮を問題解決への道筋に乗せるためにも、6者協議の早期再開は大事だ。核をあきらめてこそ経済の再建が展望できることを、わからせなければならない。

 このあたりは、大筋で中国の困惑の代弁だとも言える。中国としても、まんまと北朝鮮というコマを米日に渡すわけにもいかない。
 冒頭、「北朝鮮の動きがこのところ活発だ。これが何を意味するのか、目をこらして見ていきたい。 」というのだが、やはり、週刊文春ネタのように、金正日は重病なのだろうか。面白いことに、この話は文春経由で中央日報のニュースになっている。ガセなのか、ある種の箝口令なのか。総じて見ると、金正日重病説というのはそう外れた線でもないように思える。
 この問題については、毎日新聞社説「6カ国協議 北は誤った選択に固執するな」は標題の脱力感に反して内容は意外に優れている。といっても米国レベルの論調をなぞっているだけともいえるのだが、妥当であるだろう。

 6カ国協議の調整が難航している理由は、日米韓が「検証可能で不可逆的な核計画の全面廃棄」を求めるのに対して、北朝鮮が実験炉などの「凍結」でかわそうとしていることだ。「大胆な譲歩」なる案も、実態はそこから一歩も踏み出していない。

 滑稽なのは、そんな姑息な手は日本人には通じても、米国には通じない。日本のサヨクマスコミは北朝鮮をかばうが、北朝鮮は嘘つき前科者である。
 むしろ気になるのは、毎日も言及してるが、対中国の関係だ。

そうした公式の場で正々堂々と提起せずに、小出しの策をろうするのは誠意ある態度とは到底言えない。日米韓や中国、ロシアの協調体制を分断する狙いと勘繰る見方すらある。

 問題はすでに中国と北朝鮮の問題に移行しているのだろう。日米にしてみれば、国内を押さえ込むためにヒール(悪役)が必要だが、これがつぶれても困る。韓国に至っては本音は統合を恐れている。
 中国ワッチがむしろ重要になるのだが、そのあたりは、見づらいなと思う。

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2004.01.17

山形浩生の書評から雑感

 どう切り出していい話なのか自分でもよくわからないし、自分に定見があるわけでもない。書けば誤解されるような気もしてためらうのだが、まぁ、ブログだから書いてみようかなと思う。
 ことの出だしは11日の朝日新聞の書評欄だ。なんとなく見ていたら、チョムスキーの「生成文法の企て」(岩波書店・福井直樹・辻子美保子訳)が載っていて、あれ?という気がした。この話は後で触れる。どんな書評かと気になったので読もうと思ったのだが、その前に書評者名がでかでかと山形浩生とあった。ふーん、山形浩生ですか、と思った。
 で、山形のことだ軽快な口調で書き進めている、かのようだが、数行読み進めるうちに、私にはさっぱりわからないという事態になった。ちょっと困惑してしまった。なんだコレ。
 そういえば、朝日新聞の書評はネットにも掲載されていたようにも思ったので調べるとあった(参照)。出だしを引用する。


 子供は「パパでちゅよー」等のろくでもない単純な文章を聞いているだけで、すぐにややこしい文章を理解し、自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する。その入力の分析だけでそれが可能だとは考えにくい。

 切り出しは悪くないというか、生成文法の説明の定番どおりなので、またこれかである。「自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する」というのも、取って付けたような定番のクリシェだ。山形という人は自分で生成文法を理解しようとしているのかなと疑問になる。でもそれはいい。この先から暗雲立ちこめる。

人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。

 「人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは?」と言われると、自分の記憶が曖昧になる。チョムスキーは言語器官と呼ぶことがあったか? linguistic organ? 私の記憶ではmental organ(心的器官)だ。試しにぐぐってみると、Emmon Bachが"human linguistic organ (UG?) "と言う用例があった。Emmon Bachは胡麻臭いなとも思うが、通じないほど変な言い回しでもない。いいか。
 で、この先。頭痛が走るのだ。「その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。」と山形。
 まるで意味がわからない。「その器官の能力」というのは、competence of linguistic organでいいとして、それに「変形処理が加わる」というのはなんのこっちゃ? transformation process?  純粋に意味がとれない。transformationはこの時代(80年代)のチョムスキーのことだから、D構造からS構造を導く過程のはずだ。
 そして、その結果が「普通の言語能力」というのもわからない。common linguistic performance? しかし、linguisitc competenceからliguisitic perfomanceに至る過程はない。というか、liguisitic perfomanceについては、端からチョムスキーは文法から捨象している。
 さらに、まるで、わからない。「器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになる」と山形。
 用語の問題はなんだかわからないので、全体としてなにが言いたいのかと考えてみるのだが、話が逆だとしか思えない。チョムスキーは「世界の中の言語を見通しよく説明する」なんてことはまるで視野に入れていない。The Generative Enterpriseというのは、UG(Universal Grammar)を解明する目論見である。世界の言語の記述とその運用はUGの資料であり、その資料からUGの条件を導くためものだ。というか、そういう科学的方法が成立するのかね?というのが、1970年代は科学哲学的に疑問符ばっかだったので、チョムスキーはデカルト主義のようなことを言い出したのだった。
 それと、話が前後するが、今は無き「変形」であるが当時はUGの一部ではなかったか。
 と、なんだか、山形浩生をあげつらっているようなことになってしまったのだが、率直なところ、単に、書評の役として間違っているように思う。つまり、山形浩生にこの本、振るなよと思うが、山形浩生もなんでこんな書評を受けてしまったのだろうか。というと、非難のだようだが、気持ちとしてはなにも非難しているわけではない。
 細かい話はこのくらいにして、書評の基本である書物としての紹介も、なんとも変なのだ。例えば、これ。

訳者解説も詳しいし、注も丁寧だけれど、特に生成文法理論自体(とその進展)に関する議論はかなり専門的で、業界の内輪話的な部分も多い(逆に専門家にとっては大きな魅力だろう)。

 そりゃ、福井直樹が訳者なのだから当然なのだが、「生成文法理論自体(とその進展)」と言われると、どうにもわからない。The Generative Enterprise (Foris Publications)は1982の本である。20年以上も昔だ。この分野と関連分野の人ならあの時代に必ず読んでいる(読まされている)。なのに、なぜ、それが専門家にとって魅力なのだろう。訳本に併せて行われた最新インタビュー部分を指す、というふうにも思えない。
 推測しても詮無きかもしれないが、福井直樹の帰国と関連して学部生に読ませる教科書にしようとしたのだろうか。それに岩波としては昨今の、日本のチョムスキーブームも当て込んだのだろうか。それにしても、極小プログラムの時代にこの本を読む意味があるのだろうか。ま、その筋ではあるのだろうけど。
 話がだらっと福井にシフトしてしまうのだが、山形のヘンテコな書評を読みながら、「生物として持つ言語器官」というあたりで、大修館書店から福井が出した「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」(2001)を思い出す。この本でも、脳内の独立した言語機能の実在を取り上げているのだが、その福井の取り上げかたが、ちと恐れ多いのだが、チョムスキーの理解と違っているように思える。福井は澤口俊之「脳と心の進化論」あたりを援用してしまっているあたり、え?澤口俊之かよ、というのはさておき、どうも脇が甘い、のか、チョムスキーのmental organの理解と違っているようにも思える。が、生成文法的には、脳の構造ではなく、機能モデルを構造的に扱うだけなので、さして問題もない、のだろう。いや、チョムスキー自身すら昔はエリック・レネバーグあたりにすり寄ってもいるのだから、この手の学際のフライングというのは昔と同じなのか。
 それでも、「自然科学としての言語学―生成文法とは何か」で福井は、極小プログラムとの関連で、言語の特性のエレガンスに驚いているのだが、そうなのだろうか。どうも居心地悪い気持ちになる。福井自身、生命学の他分野では複雑性が前提になっていると言及しているのだから、言語の脳機能の実態モデルも、複雑性が基幹にあり、チョムスキーの言うエレガンスはある種数学的に捨象されたモデルに過ぎないのではないか、と思うのだが。
 うまく言い得ていないので、別の例を引くと、免疫システムというとき、医学ではこれを「免疫システム」として個々の免疫の器官の総体を呼ぶが、チョムスキー的にはこれは免疫器官になるだろう。そのあたりは、ただの言葉の遊びのような気がするのだが、で、免疫システムの内実となるサイカインの動きは、広義にシステムのセマンティックのなかで評価される。しかし、サイトカイン自体を見れば非常に複雑で多義的な行動をする。つまり、言語と言語認識の下部の機構と、意味論的に了解される言語の行動と対応しているのではないか。
 というと、チョムスキーの学に意味論はない、言語構造だけというのだろうが、すでに極小プログラムでは言語は、いわば論理演算対象としての項目のように扱われているのだから、意味論でいいのはないか。モンタギュー文法が意味論であるのと、そうたいした違いがあるとは思えない。
 私の言っていることは、門外漢の的はずれなのだろうか。そうなのだろうなとも思うし、なにも新しい理論を打ち立てたいといった気はさらなさない。だが、チョムスキーの学は、人間の生得能力の解明として、人間の自然学として構想されているわりに、他の生命学分野の成果とまるで違った方向に見えるのは確かだ。
 話は逆にして、生命諸学のような複雑性に謙虚に向き合いながら、それと数学的な論理性との対応を模索できないものだろうか。
 免疫システムとの比喩が過ぎるかもしれないが、免疫システムには誤動作やカタスロフとも言える状態がある。言語を支える認知の機能にも同等のなにかがあり、そうした崩壊や病理の実態がむしろ、言語能力の複雑性を炙り出すのではないだろうか、と思うのだが…。

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阪神大震災から9年

 1月17日である。今夜の月は曇るのである、という話もさすがに聞かれなくなった。私たちの世代のアイドル山口百恵の誕生日である。先日国立の増田書店に入ったら、入り口にミニコミ誌の広告なのか旦那の写真が貼ってあった。現代は17日といえば阪神大震災だ。新聞各紙もこの話題を取り上げている。予定原稿だったわりに、読ませるのは日経の「切迫する地震へ備え急げ」だけだ。文章を練りすぎたのかちと趣味が悪いのが残念だが、ネタは、昨年3月、ドイツのミュンヘン再保険が発表した大都市の災害危険度指数だ。それによると、地震の切迫という点では東京がダントツで、防災関係者や企業経営者に大きな衝撃を与えたというのだが、どうだろうか。


 東京・横浜地区は、710と2位のサンフランシスコ(167)を大きく引き離し1位となった。首都直撃の地震が切迫していると指摘されているのに、何もせずに活火山の火口で暮らしているような無防備ぶりに警告を発したものといえよう。

 そう書いて間違いでもない。この問題は極東ブログでもいろいろ考え続けた。特に昨年9月の串田予言はいい機会だった。ご関心があれば、「地震が来るのか?」(9.12と「地震予告とその後のこと」(9.25を読んでいたたきたい。阪神大震災については、「どこに日本の州兵はいるのか!」(11.17)で書いた以上の思いはない。
 私の結論から言えば、前回の関東大震災レベルは来ない。要点はこうだ。

M8レベルの、関東南部の周期は200年。ということは、プレート移動の隣接で起きるタイプの関東大震災はまず私の目の黒い内には来ない。ただ、M7レベルの直下型は断層で発生する可能性はある。阪神大震災がこれだ。この直下型地震の周期は活動期に入ったと見ることもできる。

 阪神大震災レベルの地震は東京でも起きうる。日経の社説は恐怖を駆り立てるタイプのレトリックに堕している部分があるが、都の被害推定である、死者7100人、建物全壊は4万3000棟、とするは、まさに阪神大震災レベルを意味している。被害規模の推定が少ないようにも思えるが、妥当な線ではないか。そして、この妥当な線には、阪神大震災の時の政府の無策が含まれているとすれば、都行政の尽力でその半分くらいまでに被害が縮小できるのではないかと思う。
 その意味で日経の社説ではなく毎日新聞社説だが、「巨大地震対策 住民、地域の防災力高めよう」の結語は良いことを言っているようでいて、実は大間違いである。

こういった対策が十分に機能するには、住民や地域が「安全」と「安心」のために、みずから知恵を出し、汗を流す心構えが、なにより肝要である。

 くどいが、そういうふうに考えていくことは無駄だ。合理的な行政の課題なのだ。
 関連した話題を追っておく。朝日新聞社説「震災対策――住宅支援制度に賛成だ」は標題のように震災時の支援制度を扱っている。朝日にしては冷静に、そうした制度が運営できるのか懸念しているが、その点は私も朝日に同意見だ。また、朝日は結語近くで補強費用についてちらと肯定的に言及したものの、論述は逃げているが、私は耐震補強の有効性に疑いを持っている。産経はもう少し耐震補強を肯定しているが、裏が書いてないので、くだらない。
 「耐震補強」というのは意味があるのだろうか? ブログなので言うのが、正確な情報のトラックバックが欲しいなと思う。

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2004.01.16

若葉して御目の雫ぬぐはばや

 今日は鑑真和上が来朝した日だそうである。1日違うような気もするがあまり細かいことはどうでもいいだろう。また、ネタ元を書くとご負担をかけそうなので、あえて書かない。
 私は鑑真和上が好きで、これまで何度も唐招提寺に行った。天平の甍にはあまり関心はない。エンタシスとされる柱にもあまり関心はない。私が好むのは、廟の静けさと凛とした孝謙天皇宸筆だ。私はこの二人に問いかけて時を過ごす。そういえば、夏になれば、前の売店でよく冷やし飴を飲んだ。
 鑑真について、いつも気になることがある。和上は失明するほどの辛苦をしてまで、なぜ日本に来たのか。もちろん、仏教にかける宗教的な情熱であることは間違いない。日本の衆生を救おうとしたことも間違いない。だが、あの時代も、そして今も、日本人は和上の思いをまるで理解していないじゃないかと、私は思う。
 和上は戒を授けに来たのだ。戒なくして仏教はない。日本の歴史家は仏教を根本的に理解していないのではないかとすら思うのだが、仏教の根幹は、戒である。あの時代、戒なき東方の島国日本では仏教のような呪術宗教が広まっていただけだ。和上は、それを仏教だと思ってはいなかった。
 仏教は出家者の宗教である。仏陀につながる師匠から戒を受け(受戒)、僧となるものの宗教である。戒とは具足戒ことである。諸説があるが、常識的に広辞苑の解説を取るに、比丘(男)に250戒、比丘尼(女)に348戒ある。受戒には、戒を授ける戒師、作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師の三師と、受戒を証明する七人の尊証師の十師が必要になる。三師七証だ。和上はその中心の戒師たるべく日本に来たのだ。来訪年については、広辞苑にある天平勝宝5年つまり753年を取る。旧暦で12月26日。この日に太宰府に到着。ちなみに今日は旧暦の25日。
 和上は日本に来て、受戒のために戒壇を作った。日本国の根幹となる戒壇であるから、国分寺の元締めである東大寺に作った。そして、聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇にまず菩薩戒(三聚浄戒)を受けた。が、菩薩戒とは、不殺、不盗、不淫、不妄語、不酒といった道徳に過ぎない(余談だがヨガの第一段階も同じ)。戒といえば戒であるが、僧たる戒ではまったくない。
 当時の日本人は和上を心待ちにしていたわけではない。和上がいらっしゃるのに、現在の自民党のような醜悪な闘争を繰り広げていた。旧来のインチキ僧速成法である自誓作法や三師七証不要論など、僧の名を借りる仏敵が続出した。和上は嘆かれたはずだ。
 その後も酷い。758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が即位にあたり、前天皇である孝謙天皇は、鑑真に大和上の称号を与えるも、実際の権限を伴う大僧都の任を解いた。つまり、左遷である。ポイ捨てである。その蟄居先とも言えるのが唐律招提寺であり、後の唐招提寺である。
 和上は763年(天平宝字7年)、76歳で死んだ。非業の死であると思う。日本人の酷い仕打ちもだが、もっと惨いのは、その後の日本仏教史だ。
 和上死後数年の後、767年、後の最澄が生まれる。最澄は戒を徹底的に破壊した。具足戒を菩薩戒で良しとした(十重戒と四十八軽戒になった)。三師七証を廃した。つまり、鑑真以前の自誓受戒に戻した。
 話を現代に戻して終わりたい。8年前、世間はオウム真理教を偽仏教のごとくあざ笑ったが、日本の仏教自体、戒もないのだ。戒を捨てた仏教は仏教とすら呼べない。日本仏教史こそ、ちゃんちゃらお笑いなのである。
 そして、現在、世間は仏教ブームだそうである。肉食女犯の輩が恥もなく墨衣を着て仏の教えをたれているのである。
 地獄は一定住処なりというならまだいい。多くの人が誤解しているが親鸞は僧ではない。自身そう宣言している。弟子も教えもないのである。そこまで徹するならいい。だが、そこまで徹するなら仏教はいらない。

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朝鮮日報さん、ご同情します

 韓国ネタはちとなんだなと思うのだが、朝鮮日報社説「米国が韓国の主敵だとは」(参照)はすさまじかった。日本人の私ですら、情けなくて涙が出そうだ。事態はこうだ。


 韓国の安保における最大の脅威国を聞くアンケート調査の結果、北朝鮮(33%)と答えた人より米国(39%)と答えた人が多いことが分かった。
 特に20代の場合、回答者の58%が米国と答えた反面、北朝鮮と答えた人は20%にとどまった。この調査の結果だと、大韓民国の主敵をもう北朝鮮でなく、米国に変えなければならないだろう。

 え?である。そう、読み間違いではないのである。悲憤するしかないではないか。

 それだけでない。学校の授業でも、北朝鮮に対しては主に和解と協力の対象として強調される反面、米国は好戦的な国として取り上げられている。多くの国民が納得できないとみている今回の世論調査の結果は、有職者のこのような一方的な発言と行動の必然的な結果と言える。
 若い世代の誤った認識の背景には、過去の権威主義政権下で弾圧を受けた人々の反発的な歴史観が働いた面もあるはずだ。さらに、このような認識をもつ代表的な人物のほとんどが、現政権の友軍か元老として待遇されており、このような世論の混迷は簡単にまとまりそうもない。

 ここで韓国の現代両班を茶化すのはあまりに非礼なので、しない。しかし、問題の根源は歴史教育にあると思う。私のような日本人が韓国の歴史教育に言及するのは韓国人には不快だろうと思うが、古代や中世史、さらにいえば日本と関わりが深い近世史はあえてどうでもいい。第二次世界大戦後からベトナム戦争、それから民主化のごたごたをきちんと韓国の青年は知る機会がないのでないかと思うだけだ。それはまだ生きた歴史なのだから、60代以上の大人が懇々と若者を諭せばいいではないか。若者をトルコに連れていき、朝鮮戦争に加わったトルコの人の声を聞くというのもいい体験になるだろう。私の言及はここまでにしよう。言い過ぎたかもしれない。
 この問題は他山の石でもある。小林よりのりが西部にかこつけて言う「礼儀としての反米」の、礼儀を失すれば日本も同じことになるのだ。
 私は日本人だから、もっと内向けにはお下品なこと言うが、日本人の女性の多くは非アジア人羨望の行動をいまだにしている。それが悪いと言ってもしかたないし、道徳がどうのいう問題でもない。問題は実態であり、社会科学的な理解だけだ。いずれにせよ、日本人は反米と叫んでも、ちまたにはパンパンの娘や孫がまだまだ絶えることはない。それは、あえて親米と言ってもいいとすら思う。繰り返す、現実だ。属国日本が反米に気炎をあげることは恥の上塗りでもあるのだ。
 と、いいつつ、私こそここで恥の上塗りをしているのかもしれないとは思う。が、いてもたってもいられねーなという思いは強いから、書く。日本も、小熊英二のように歴史経験のない世代に戦後史の文献的な総括をまかせていないで、飢えも貧困も関係ない福田和也みたいなぽっちゃり坊やに満州なんか語らせていないで、団塊の世代より上の世代こそ、きちんと若者にわかる生きた歴史を語らなくてはいけないのではないか。だが、無理なのだろうか。戦争経験の世代と団塊の世代の間の言論が、なにかぽっかり抜け落ちているように思うのだが。

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自衛隊報道規制、むしろ好機

 今朝の新聞各紙社説を見て、あれ、昨日の新聞を見ているのかなと錯覚に陥った。参院格差の問題と武器輸出三原則については、改めて触れる必要もないだろう。読売の「武器禁輸原則 見直し発言は検討に値する」は純粋に愚劣。毎日新聞社説「議員定数判決 “違憲”の参院なら要らない」が標題通り「参院不要」にちと触れていたが、ほぉ、新聞でも言うかねと思った。他、朝日新聞社説「師団長訓示――これはいただけない」が読んでいて恥ずかしかった。自衛官は国の責務より先に雪まつりにせいをだせ、だとよ。
 余談ついでだが、産経新聞社説「機内迷惑防止法」はどってことない。機内で不埒な客は安全上の問題もある。だ、が、ちょこっと言うのだが、最近の国内線のスチュワーデスって劣化してないか。常識が欠けている馬鹿が多い。特に困るのが白人客とくっちゃべって業務をおろそかにしている様子をなんども見かける。「美人で英語ができるワタシってすてき」とか思っているんだろうか。さっさと仕事しろよ。橋爪大三郎だったか途上国の飛行機には美人が多いというが、これじゃ日本もまだまだ途上国だなと思う。スチュワーデスは看護士と同じく誇りある仕事なんだから誇りをもてよと思う。
 今朝の社説ネタで気になるのは自衛隊の取材規制だ。毎日新聞と日経新聞が扱っていた。事態は日経新聞社説「窓を閉ざす防衛庁は困る」がわかりやすい。


 これとは別に防衛庁は9日、事務次官名で報道各社に対し、イラク派遣部隊や隊員の安全にかかわる情報の報道を控えるよう要請し「報道により安全確保を含めた防衛庁の円滑な業務遂行を阻害すると認められる場合は事後の取材を断る」と通告した。防衛記者会加盟社の政治・社会部長会は「情勢と安全に常に細心の注意をし、報道が自衛隊員などの支援活動阻害や危険につながらぬよう配慮するのはメディアにとって当然」と回答し、現地取材に関する実務的な協議を申し入れた。

 毎日と日経はこうした状態を危惧し、毎日に至っては社説「自衛隊と報道 政府の取材規制は論外だ」の結語でこう言う。

 「戦時報道」のような規制は論外である。国民が「大本営発表」など信じる時代ではない。

 あのですね、そういう発想が出てきてしまうというのはセンスが悪いという以前に、ちと執筆の態度を考え直したほうがいいと思う。「大本営発表」といったこの手のクリシェは恥ずかしい。
 さて、この事態だが、私はあまり危機感を感じない。率直に言えば、「それって、サラリーマン記者さんたちの問題でしょ」である。むしろ、世論操作の情報を流す政府側の情報が止まれば、今こそ、ジャーナリストの真価が問われる絶好のチャンスではないか。どうせ、週刊現代とか週刊ポストなど、ライターを日銭で使うアホメディアがゴミを撒き散らすのだから、今こそちゃんとしたジャーナリストが光るぜと、というか期待したい。ちょっとまじこいて極東ブログも挑戦してみたい気がするが、まずは、代替ソースと背景的な知識だろう。うーむである。
 記者クラブ問題も曖昧にしてすごそうとしている新聞だからこの内向きのボヤキを外に向けて吐いてしまったのだろう。新聞さん、棺桶に両足つっこでいるよ。

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2004.01.15

名前に「申」はないのか

 週刊文春を買って、私が楽しみに読むのは、土屋賢二のエッセイでもなく、まして椎名誠のエッセイでもない。高島俊男の「お言葉ですが」である。私もまた言葉にうるさい爺ぃのような人間なのである。で、先週の、つまり新年号の「サルと猿とはどう違う」がどうも心に引っかかった。高島先生にあるまじく、間違っているんじゃないかな、とちらと思った。先生のミスをめっけたらもう鬼の首を取ったも同じである、が、ま、間違いというわけでもない。先日紹介した増田小夜「芸者」の別バージョンの古書をめっけて読んでいるうちに、あれ?と気が付いたことがあったので、この手の話が好きな人もいるだろうと思うので、ブログに記しておく。と、でもねぇ、ま、あまり関心ある人は少ないでしょう。ネタもとの高島先生の話はこうだ。


 十二支の字のうちでも、丑や寅などはむかしから人の名によく使われるからどなたもなじみである。『破壊』の丑松とか、フーテンの寅さんこと車寅次郎とか。
 しかし、申松とかフーテンの申こと申次郎とかいう人はいないようですね。いはこれも小生調査の手をつくしたわけじゃないから断言ははばかるが、そうめったにいらっしゃらぬであろうと思います。
 ウシやトラよりサルのほうがかしこいし、陽気で愛嬌もいいのに、何ゆえに日本の親は子の名前にサルとつけないのであるか。小生サルの名誉のために、抗議するものである。

 と書き写してみると、あまり先生の文章もうまくはないかな…おっと失言。で、この洒脱な文章を読みながら、私はあれれとなにかひっかかっていた。まずは豊臣秀吉だ。秀吉はサルと呼ばれていたが、これは信長が付けた蔑称であり、ひいては大衆受けする秀吉の愛称のように思われているが、そうだろうか。以前、近江の国を旅しながら、秀吉の古伝説を思いながら、実はサルは比延の神から来ているのではないか。つまり、縁起をかついでのことではないかと考えたことがある。その先まで考えたことはないが、どうもサルというのは縁起がよく、人名にもありそうだ。
 話は前段に戻るのだが、増田小夜「芸者」に出てくる弟の名前が「甲」で「まさる」と訓じていた。なぜ「甲」が「まさる」かといえば、恐らく、甲乙丙丁、つまり、Aアベレージで「優」というわけだ。優良可である。
 だが、ふと「甲」という名は、「申」に由来し、だからして「さる」ではないかと思えてきた。「さる」をいみて「まさる」という線があるのではないか、と。と、思い起こすに、今年は申年であるが、干支の甲申ではないか。「きのえさる」である。そうだそうだ。猿の縁起物にして、甲申のサルは「魔去る(まさる)」ではないか。厄除け・魔除けのサルである。そして、前回の甲申(きのえさる)は1944年かぁ。と、ふと、増田小夜「芸者」に出てくる弟の「甲」は甲申年ではないかと暗算してみるが、数が合わない。残念。
 ちなみに、その前の甲申は1884年(明治17年)。この年、福沢諭吉とも懇意だった朝鮮独立党の金玉均(キムオッキュン)は事大党の政権を倒すべく王宮を占領。だが、三日後事大党を推す清軍に敗れ、クーデタは失敗した。甲申の変である。日本の援護という彼の期待は失望に終わった…という話は今日は書かない。あまりに、難しい余談であるから。

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日経さん、中東問題、なんか変

 日経新聞社説「イランの変化を中東安定に」を読みながら、軽い船酔いのような気分になる。なんだろうと思う。話は端的にイランが軟化して、中東が安定化しているよ、ということらしい。それもそうかなとは思う。日経は朝日のような駄文は少ないので冒頭によくまとまっている。


 中東諸国の中でも反米の強硬姿勢を続けてきたイランが軌道修正を図り始めている。昨年末の大地震で米国からの救援を受け入れ、対米関係の改善姿勢を明確化したのに続き、親米路線のエジプトとの国交正常化に踏み出した。フセイン元大統領の拘束でイラク国内の治安回復への期待が高まる中での隣国イランの変化を中東地域全体の安定化につなげたい。

 ふーんというか、あんた高校生?どこの高校?って訊きたい感じがする。確かに大筋でそうだとは言えるが、子供じゃないんだからね。もっとも日本のマスコミは米国嫌いだから、その世界戦略をミクロにしか見ないし、もっともマクロに見るとナンセンスだが、その中間くらいで見ると、印パ問題やリビア問題にも型を付け、イランもという状況にある。客観的に見たら、すごいんじゃないのという感じだ。そのあたりを評価してみたらと思うが。
 で、船酔いのような変な感じというのは、サウジの扱いだ。

 中東に覆いかぶさるイラク、パレスチナの不安を同時に軽減することでサウジアラビア、クウェートなど湾岸産油国を含めた中東の安定感は高まる。

 うーん、あんた高校生?どこの高校?って訊きたい感じがする。あ、それはさっき書いたか。この言い方はないよなと思う。諸悪の根元はサウジだ。そしてサウジとの関係に置かれたアメリカだ。そして、この構図はつい石油問題ということになるが、マクロにはそうだが、ミクロにはアメリカがサウジの石油に依存していないことからも単純ではない。
 だが、単純なことは言える。サウジがイスラムの近代化を押さえ込んでいるのであり、アルカイダを育てているのは結果としてサウジだ。イラク復興が成立すれば、サウジは頓死だろうと思うが、そのあたり、サウジだって馬鹿じゃない。
 っていう話にならないのかと思う。テメーが書けよだよね。うんうん、じゃ、僕、ダージリンって、話をそらすなよ、である。でも、チャオ!

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参院の存在自体無意味

 朝日新聞社説「1票の格差――参院はすぐ是正せよ」は朝のお笑いのひとときを提供してくれる。もちろん、正論は正論だ。だが、この期に及んでなにもできないのを承知で言っているからお笑いなのである。どうせ、お笑いなら、参議院をなくしてしまえと言え。
 参院選がないと娯楽が減るという意見もあるだろうが、そうか。参加者も少ないぞ。機構的に見ても、参議院自体存在している意味など、日本国になんにもない。むしろ、無くしたほうが、正常に議会(衆議院)を運営させる梃子になる。
 と言ったものの、朝日新聞社説としてして読むからつまらないのであって、これがブログなら、なかなかいいぞぉである。どうも社説っていうのはブログ化してきてねーか。


 さすがに、このままでは国民に見放されると、憲法の番人たちも危機感を感じたのだろう。とりわけ、反対意見を書いた6人の裁判官の指摘は厳しい。
 例えば、外交官出身の福田博裁判官は欧州型の「憲法裁判所」を創設すべきだという改憲論議に触れて、「違憲判断を回避し続ければ、今の司法制度から違憲審査を奪う結果につながる」と述べた。
 弁護士出身の深沢武久裁判官は「国会での格差解消に期待するのは、百年河清を待つに等しい」と指摘し、前回の選挙を無効にせよ、と言い切った。

 ブログとして読むなら、けこうふむふむものである。私も日本に欧州型の「憲法裁判所」があればいいなと思っているからだ。
 しかし、小室直樹が言うように、日本の憲法は死んでいる。あるいは私が言うように日本の憲法は成文法ではない。成文法に見えるアレは、歴史文書に過ぎない。
 参院選挙など基本的にどうでもいい。だが、国民の意思表示にはいいのかもしれないとは思う。気になっているのだが、前回の衆院選はひどいものだったなと思うが、今考え直してみると、都市民はすでに民主党に移っているのだ。自民党というのは、非都市部の日本の呪いなのだ。
 ちょっと悪玉面して言うのだが、日本は戦争の無惨さを経験したとかいうが、日本の非都市部はそれほどのことはない。先日増田小夜の「芸者」についてこのブログで触れたが、彼女など今日的な意味で戦争の意識すらない(恋人の出兵という経験はある)。国土が焦土となる経験など、日本にはないのだ。そうして、日本は千年近くすごしてきて、今、ようやく解体されようとしている。馬鹿なことを言うようだが、日本とはなんだろうと思う。

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石破茂を狙っても無意味

 朝日新聞社説が甲高い声を上げているときは、中国政府と同じで、書かれている内容とは別の政治的な意図がある。なんだろうと気になった。表面的な話は、標題「武器輸出――困った防衛庁長官だ」からでもわかるだろう。朝日臭い冒頭ではあるが、啓蒙臭が弱い分、文章はわかりやすい。


 石破防衛庁長官から何とも物騒な見解が飛び出した。ミサイル防衛の共同研究を進めている米国とだけではなく、欧州やロシアとも兵器の開発や生産をしたい。古い自衛艦を東南アジアに輸出したい。そのために武器輸出三原則を見直すという。

 え? そういう話なのか。というのは、私の理解では武器輸出三原則の見直しというのは、防衛庁の方針であり、怖いぞ福笑い石破茂個人の見解ではないはず。というわけで、ちと過去をぐぐる。と、だよねぇ、である。11月24日の共同のニュースの一部を引いておく。

 自民党の久間章生幹事長代理は21日午前、都内で講演し「現在は、日米間ですら技術供与はできても部品の供与はできない。武器輸出三原則は一部見直していい。ぜひ議論していきたい」と述べ、政府の武器輸出三原則を見直すべきだとの考えを示した。

 同じく共同で同日に以下。

 日米両国の防衛技術協力の進展に伴い、武器輸出三原則の見直し論が、与党や防衛庁内で出ている。

 というわけで、やはり、何を見てるんだ石破茂個人の見解というわけではない。とすると、朝日新聞は何を考えているのか?
 単純な読みでいうと、サヨクさんたち北の友人の力を温存するためにも、なんとしても、武器輸出三原則を日本に厳守させたい、だからぁ、サヨクにありがちな個人攻撃を開始!ということか。またぞろ言論テロなのか、福笑いの目の位置を変えようとしたのか。あるいは、中国政府がよくやるように真の敵が別にいる…ま、福田かな。そのわりには同記事にはこうある。

 石破氏の表明に、福田官房長官は「武器輸出を野放図にするわけにはいかない」と批判的な反応を示した。

 なんだか中国共産党が情報戦で国民党を締め上げていった歴史みたいだなと思う。しかし、こういうサヨクのやり口はもう無効じゃないのか。
 当の問題である武器輸出三原則を見直しについて、私の見解はというと、私も薄皮サヨクなので、とんでもねぇである。日本は武器輸出なんかしちゃいけねーよ、である。が、今回の事態は、まずMDことミサイル防衛の米国の戦略にのってしまったから後から口実というやつだ。それと、基本的に武器といっても防衛に限定されている。朝日がわめく実態とはやや違う。
 ではそれでいいのか。というと、まずミサイル防衛は止めろである。理由は「ミサイル防衛システム自体は無駄」(参照)で触れたとおり。先制攻撃ができないというなら、明日のジョー方式で肉を切らせて骨を断つ、である。死ぬ気で切り込んで来る人間に無血で済ませるわけにもいかない。武士の礼儀だ。
 防衛用の武器ならいかというと、このあたりは、ビミョーだ、っていう流行言葉が嫌いなのだが、私の認識では防衛用の武器など存在しない。およそ、IT全体が軍事と結びついている。このあたりは、呑気にパソコンを買える世代の人はわからんだろうなと爺ぃをふかしたい。
 ではどうなの? ことはフランスやドイツみたいに明白な武器輸出は止めろよ、と、国際的に言えればいいというだけだ。ある程度の国力が付けば、武器はできる。日本には大陸弾道弾もなければ核兵器もないとおおっぴらに言うが、H2技術もプルサーマルも、馬鹿でなければ、日本の潜在力の固持として存在している。そういうことだ。毎度言うが、東京という首都を米軍が包囲しているのを見るから、アジア諸国は安心していられる。そういうものなのだ。
 でも、どうしても白黒つけろというなら、しかたない、朝日新聞に同調するが、石破茂を降ろしてなんのメリットもない。福田なんか大嫌いだが、今の日本の国政を支えているのは福田である。現状では、武器輸出三原則は維持されるべきだし、ミサイル防衛システムは罵倒しつづけるべきだ。

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2004.01.14

額田王

 「余丁町散人の隠居小屋」(参照)の「きょうは何の日 (Today)」の14日に、額田王の話があった。


1/14 Today 額田王「熟田津に......」と詠む(661)(参照

 その結語にこうある。

額田王といえば次の歌も有名:

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この説明をすると長くなる。要は不倫ぽい歌だ。壬申の乱の原因がここに潜んでいるとする説もある。額田王は中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の両方を夫とした女性なのだ。この歌の野守とは天智天皇(中大兄皇子)、君とは天武天皇(大海人皇子)。まことに大胆な女性であった。
彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。


 私はこの歌とその背景についてまったく違った考えを持っている。中西進だったか歌姫を「オコ」として捕らえていたが、私もそうした芸能の視点に立つ。つまり、これらの歌は、茅野弟上娘子の歌なども含め、劇なり余興のような芸能であっただろうと考えている。そして、壬申内乱についても明治浪漫主義的な解釈は取らない。気になるのは、先日の朝日新聞の文化欄かにあったが「袖振る」の意味だ。これもあまり呪術には取らない。しかし、こうした問題には今日は立ち入らない。問題は、散人先生の疑問「彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。」である。
 まず、先生の勘違いか誤記であろうと思うので軽く流すが、「天智と天武の戦いである壬申の乱」ではない。天智はすでにこの世にはない。
 さて、額田王がどうなってしまったか、だが、それはその後を考えれば推測が付くだろう。そして、額田王の歌を好む者なら、万葉集二巻111の「吉野の宮にいでます時、弓削皇子の額田王に贈る歌」を思い起こす。

 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく

 白痴のごときイノセンスな解釈や屁理屈のような解釈を取らなくても、弓削皇子にいにしえと言えば壬申内乱に纏わる死者への思いがあると見ていいだろう。が、この歌についてもここではあまり立ち入らない。
 問題はこの吉野行幸の時期である。確定はされない。が、皇子は693(持統7)年浄広弐に叙せられ、699(文武7)年に死去している。弓削皇子と限らず天武自身の生年すら、おそらくワケありで書紀にも記されていないのだが、官位などからも推定して、20代、そして693年あたりのことだろう。そこから逆算するに、額田王は60歳過ぎまで生存していることになる。いずにせよ、額田王は50歳を越えて天武の皇子たちとも交流があったことは間違いない。
 このことから当然わかることではあるのだが、彼女の娘十市皇女が死んでなお、その時代を生きていたことになる。十市皇女の死は書記にあるように奇っ怪極まる。678(天武7)年、斎宮に選ばれ、伊勢に向かうときに急死している。いずれ自殺か他殺だろう。謎は多い。そもそも既婚であり葛野王までなしていながら、なぜ斎宮になったのか。また、この時期の斎宮である大伯皇女との関連もわからない。これについて、若干推測できることがあるのだが、それも今日は触れない。
 いずれにせよ、額田王は娘の非業の死を見ていたのであり、その孫を抱えてもいただろう。そして先の弓削皇子との歌のやり取りからも人生の陰影は感じ取れる。
 それにしても額田王は生没年未詳とはいうものの、60歳近くまで生存していたと見ていい。後半生は歴史のなかで語ることを禁じられたに等しい不思議な人物である。
 この話にはなお続きがある。奈良国立博物館の国宝、粟原寺の伏鉢に、「比売朝臣額田」が715(和銅8)に粟原寺を建立したとある。普通の歴史家ならあまり妄想を逞しくはしないものだが、高松塚に弓削皇子を鎮魂した梅原猛のことである「塔」(集英社)で、この「比売朝臣額田」を額田王と比定した。梅原には手の込んだ冗談を言う才はない。かくして額田王は80歳近くまで生きていたことになった。慶賀の至りである。
 粟原寺は中臣大嶋(藤原鎌足の従兄弟)の発願によるとされている。書記を見るかぎり、神道を天武時代にでっちあげたのは、この大嶋くさい感じが漂うのだがそれもさておく。「比売朝臣額田」が額田王なら、彼女は大嶋と再婚したということになる。梅原はそう考えている、というわけだ。

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鳥インフルエンザの何が問題なのか

 朝日新聞社説を除いて、各紙、鳥インフルエンザのネタを取り上げていたのだが、これがよくわからない。結局何がいいたいのだろうか。自分でもこの問題になにか見解があるわけでもないが、どうも落ち着かない。
 読売新聞社説「鶏の感染症 封じ込め徹底で被害拡大止めよ」は標題どおり。


 この感染症は、人間にうつるものの、感染力は弱く、養鶏業者や獣医師ら鶏と密接な関係のある人にほぼ限られる。一般人が感染する可能性は極めて低い。もちろん、関係者の感染予防に力を入れるのは当然だ。
 一方、鶏卵や鳥肉を食べて感染した例は、これまでないという。
 農水省や厚生労働省は連携して、こうした情報を素早く的確に提供する必要がある。消費者も、いたずらにおびえる必要のないことを冷静に認識すべきだ。

 で? とここで言葉につまる。毎日新聞社説「鳥インフルエンザ 過剰反応も油断もせずに」ではこう。

 人間への感染を過剰に恐れる必要はないが、注意をしておいた方がいいこともある。
 ニワトリを処分する際には、体液や排せつ物に触れたり、吸い込んだりしないよう、防御しなくてはならない。養鶏場や付近でインフルエンザ様の症状が出た人がいたら、ウイルスの検査をしたり、抗インフルエンザ薬を早めに投与することも必要だろう。ほかの養鶏場での感染にも目を光らせ、早期発見することが大事だ。

 読売より少しマシ? 抗インフルエンザ薬が開発されているのだから、そのあたりの在庫をきちんとせーよという話にはならないのだろうか。ちと、言い過ぎだが、抗インフルエンザ薬は近年になってITの成果としてできたもので、昔のお医者さんは使い方がわかっていないようなのだが、そのあたりが社会問題になったことはない。以前、ちとこの問題で役人と話したが、まるで通じなかった。
 産経新聞社説「鳥インフルエンザ 今回も農水省は甘すぎる」は標題のとおり、八つ当たり。

 人に感染した鳥インフルエンザは、死亡率三割程度でかなり高いが、これまでに感染したのは養鶏関係者がほとんどで人から人へ感染した例はない。卵や肉を通じて感染した例もなく、むしろ消費者が過剰に反応する風評被害が懸念される。

 じゃ、騒ぐなよとも思うのだが、根路銘国昭の本など読むと、一度ブレークすると目も当てられないことになりそうではある。
 日経社説はもういいや。
 というわけで、正直なところ、極東ブログも腰砕けである。じゃ、こんなの書くなよということになるのでおしまい…と、余談ではあるが、このところ、風邪っぽいかなという体調のとき、チキンラーメンを食うとリカバーすることが多い。百福さんの自伝を読んでいると、どうもキチンラーメンって健康いいのかもしれないと思い、それまでインスタントラーメンなど食わなくなっていたのだが、数ヶ月前から食うようになった。
 いろいろ工夫してみると、どうも効くのにはコツがありそうだ。ま、民間療法の類なので、適当なネタとして欲しいのだが、コツを伝授する。卵と粉末の高麗人参茶が必要。粉末の高麗人参茶はそこいらの薬屋とかで売っている。100円ショップにもある。できれば、韓国政府お墨付きの3gがいい。
 湯を沸騰させる。どんぶりを温める。高麗人参茶粉末を入れる。チキンらメーンを入れる。へこみ(うりゃ、へこみがあるだろ!)に生卵を落とす。上から黄身めがけて熱湯をちょろちょろとかける。黄身に熱を入れ、白身にあまり熱が行かないようにする。湯が満ちたら待つこと1分。半熟の黄身ともうちょい半熟の白身を溶かしつつほぐす。このあたりの解け具合は卵酒と同じである。高麗人参茶も当然解けているはずだ。これでけっこうビタミンB群、リゾチウム、カルノシンが摂れているのではないだろうか。

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民主党の国連待機部隊案は正しい

 民主党の国連待機部隊案に各紙社説の反応が面白い。初っ端からこう言うのも下品だが、私の率直な印象では、てめーら新聞より小沢のほうが256倍優れているぜ、である。つまり、私は、この件については、民主党支持である。ただ、その構想の実現性はどうかというと、これも率直な印象だが、望み薄だろうとは思う。
 読売社説があっぱれ外道である。


 なぜ自衛隊を派遣してはいけないのか。
 民主党の菅代表は党大会で、国連による平和協力活動に参加するため、自衛隊とは別組織の「国連待機部隊」を創設することを提唱した。
 この構想は、全く話にならない。

 この極東ブログを続けながら、それがどのように社会に影響を与えるのかよくわからない。影響などというのが幻想ではないかとも思うし、書くことには必然的な自己慰撫もあり、しかも商用の文章ではないことのバーター部分がある。余談にそれがちだが、ヒット数が高まることで実は読んでもらってもしかたない人も増えそうな気配も出てくる。そのあたりがやはりの言葉でいうビミョーなところだ。で、この読売社説に向けて、私がなにを言いたいかというと、極東ブログを続け、それなりに思索を継続してきたおかげで、それが明白に愚論であることがわかるようになった。
 自衛隊とは国民の認識、および国の現状から考えて、国防より州兵である。この話は極東ブログ「どこに日本の州兵はいるのか!」(参照)で触れた。
 次に、国防だが、憲法前文を正確に読めば、国防は国家間の信義を第一としなくてはならない。そして、この含みは国家の上位の存在を想定している。国連にはいろいろ問題はあるし、国連(つまり連合国)からその上位の機関が可能かという本質的な問題はある。しかし、日本国憲法はそういう超国家の可能性の上に成立しているし、国民の半世紀の歴史もそこを志向している。サヨクの雑音を除けば、小沢の国連主義以外に明白な政治的な見解はありえない。
 そしてこの構想が非現実ではないのは、マスコミはどうかしていると思うのだが、今回の日本のイラク派兵の規模を例にしても、たかだか1000人である。そして、英米軍を除けば、みな規模の小さい寄り合い所帯だ。この話は極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」(参照)で触れた。そのとき気づいたことはこれだ。

小沢のいうような国連常接軍の設置というのは、このおみそクラブをかき集めることになるので、そう考えると非現実的かも……いやいや、かき集めればせいぜい5万人くらいにはなりそうだ。それだけ束ねれば、米国からも10万は引き出せるから、国連常接軍というのは夢ではないかもしれない。

 米軍から10万が引き出せるかは今時点の私の考えでは無理かもしれないと思う。だが、独仏露中を説得すれば、総勢10万にはなるし、近代戦は兵士の質が問題だ。傭兵は数ではなくプロフェッショナルだからニーズが高い。あえて酷い話をする。日本が五千人単位で強力な傭兵軍に匹敵する質の軍備を調達できれば、それは強い勢力になりうる。
 問題は、有志連合の存在だ。この問題は「新聞社説という不快」(参照)で少し触れたが、米軍は今、国連軍やNATO的な連合から離れ、完全に米国を頂点とするピラミッドの国際的な軍事組織を作ろうとしている。これに対して、独仏は表向き反対しつつ、ずる賢いヤツラのことだ反対しているわけでもない。むしろ、米国が懐柔しようとしているポーランドなどの牽制もあるのだろう。EUもやっかいなシロモノだ。
 しかし、この有志連合が現実のパワーになってしまえば、国連はお陀仏なのだ。それでいいのか日本? 外務省はすでに独仏のケツに遅れまいとして、名目的に有志連合に自衛隊を融合させている。読売は「なぜ自衛隊を派遣してはいけないのか。」と修辞的に派兵しろと言う。だが、その派兵とは有志連合なのだ。それでいいのか。ちょっと冗談を込めていうのだが、英霊に恥じないか。国土を守り、世界に平和をもたらそういうのが真の英霊の鎮魂ではないか。それが現在の米軍の犬になることなのか。ま、感情論はこのくらい。
 非常に難しいのだが、読売の考えは間違いだと私は主張する。

 「国連待機部隊」という国連の要請がなければ動けない部隊では、アフガンやイラクの現実に対応できない。

 自分の意見の一貫性に矛盾を含むかもしれないし、現実性に乏しいかもしれないのだが、ここはあえて踏み込んで言うべきだ。日本は国連の要請がなければ動いてはいけないのだ。
 関連してこの問題について他紙もザップしておく。
 朝日新聞社説「民主党――外交でも選択肢を磨け」はまるで文章の体をなしていない。単純にボツ原稿である。サヨクならサヨクで筋を通してみろよと思う。滑稽なことに、産経新聞社説「民主党大会 改憲への姿勢は買いたい」が朝日新聞とまったく同じなのだ。こいつもまるで文章の体をなしていない。ウヨならウヨ、ポチならポチで筋を通してみせい、と思うだが、なんたる体たらくだろう。朝日も産経も政党内のテクニカルな問題に持ち込みたいようだが、君たちは言ったい誰に言葉を発しているのか?仲間内じゃないのか。
 日経社説「民主党の国連待機部隊構想への疑問」は標題からわかるように、国連待機部隊構想に疑問を投げかけている。私が乱暴にまとめるとこうだ。

  1. 別部隊には金がかかりすぎ
  2. 別部隊を外務省下に置くことになるがそれでは軍に指揮が落ちる
  3. 日本の自主的な判断の放棄になる

 愚問である。そもそも日本に州兵がないのが問題だし、普通の国ならそれに加えて国防費はかかるものだ。また、外務省下というのはただ組織の問題に過ぎない。むしろ、文民統制でよい。また、国際的な軍など日本の自主的な判断で動くほうがよっぽど危険だ。
 かくして、日経の結語も卑怯なものだ。

小沢一郎氏は、安保理決議に基づく派遣であれば日本の実力組織が外国の領域で武力行使をしても憲法違反にならないと考える。憲法9条が放棄した「国権の発動たる戦争」に当たらないとの議論であり、一理あるが、国民的合意を得るには至っていない。集団的自衛権の解釈を改めたうえで自衛隊による後方支援を可能にする恒久法の制定こそ、日本が憲法の平和主義と国際社会での責任を両立させるための王道だろう。

 「一理あるが」じゃないだろ。米軍下に組み入れられる日本軍に理なんか全然ない。読売もそうだが、「国際社会」に「あめりかしはい」とルビを振らなければ意味が通じない文章を書くなよ、と思う。

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2004.01.13

キムチ、たくあん、野沢菜漬け、違うぞ!

 読んで悲鳴を上げる文章というのは多くはない。私は感情が不安定な人間なので、少なくもないのだが、今朝絶叫した。中央日報の「日、キムチがたくあんを抜いて『代表的なおかず』へ」(参照)である。最初に断っておくが、なにも中央日報の記事が悪いわけではない。


日本で、キムチがたくわんを抜いて「代表的なおかず」になった。
日経新聞が10日、全国の1476人を対象に、漬物の人気順位を調べたところ、韓国のキムチが日本固有のおかず、たくあんを抜いて、第1位になった。

 日経の記事は見落としていて韓国紙で知るのもなんだかなであるが、その事実、そーなのか。と、絶叫した。理由は、「日本に韓国のキムチは、ほぼ、ない」からだ。日本人ご同胞、あれはキムチじゃねーよ、あんなもの食うなよ!、で、二位のたくあんもだ。あんなのたくあんじゃねーよ、である。そして、「おまえはもう死んでいる」の一撃はこれだ。

長野県野沢の温泉で生産される野菜を塩漬けした「野沢菜塩漬け」が第3位だった。

 ぎゃ~がぁ~ぎゃ~がぁ~、バカヤロバカヤロ日本人である。信州人ディアスポラの一員としてオルフェノクになって日本人ををを……である。あんなの「野沢菜塩漬け」じゃあなーい!
 と書いてみて、しばし沈静化してみて、あああ、立ち上がれません。俺がうまいものを知っているとかうんちく話に誤解されるのだろうなと思うので、あああ、立ち上がれません。
 こうなれば韓国にやつあたりである(つまんねー断り書きだが、冗談ですよ)。あんな偽物のキムチを輸出するなよ。わかってんだろ、こんなの日本人が食うのかと嘲笑してんだろぉ。日本人はあの浅漬け(いかん、名前を忘れた)もキムチだと思っているのだよ。
 唯一たくあんはまだ救いがある。その気になれば、ほんまものが手に入る。キムチもなんとかなる。野沢菜はダメだな。信州ですらもう作ってないんじゃないかぁ!!!!
 正月を越える。春が来る。野沢菜だが高菜だかわからない酸味が出る。まずいと思っていたよ、子供のときはね。今じゃ、あれが本物だよな、と思う。泣ける。

追記
ネットにも元情報があった。「何でもランキング 通が好きな漬物」(参照)。これを見て、私は、また吠えた。なにが柴漬けだよぉ~(きゅうりもねーのに)。

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RFIDはマトリックスの社会を作るか

 このところ、文化系ブログっていう感じの極東ブログだが、で、それで別にいいのだが、ちと、RFIDの話を書いて、墓穴でも掘ってみよう。RFIDなど、ネットではすでに話題でもなんでもなくなっているのではないか。
 RFIDとはなにかついて簡単な説明をするのがめんどくさい。定訳語すらないのはなぜなのだろうかとも思う。RFID技術が世間に出回るときは、ICカード、ICタグ、IDタグ、などいろいろなものになる。が、ようは、非接触型の認識装置だ。海外旅行の際、現状では、バッグに紙のタグを付けるが、これにICタグにすれば、いちいち紙を取って読み取る必要はなくなる。手荷物検査のトンネル通過中に、誰の持ち物でどこ行きなのか自動的に識別ができる。他に、本に埋め込んでおけば、万引きされそうになっとき、出入り口で未購入品の所持者がわかる。本の流通でいえば、誰がグロスで中古市場に流しているかといった物流の闇が可視になるといったさまざまの「メリット」がある。
 反面、そんなのプライバシー侵害だという問題提起がある。この手の問題提起にありがちなのだが、とても「危険視」される。そうした類型として話題になった例には「固定IDは"デジタル化された顔"――プライバシー問題の勘所」(参照)がある。まあ、読んでミソっていう感じだ。それにつられて湧いてきた話題の一連リンクもすでにある。「RFID反応リンク集」(参考)だ。けっこうある。おなかいっぱいです。ご苦労様です。どの意見が重要かとグレーディングしていないところがいいのかもしれない。
 ざっと各意見をザップすると、「RFID技術が危険だとかいうのは技術がわかってないんじゃないのぉ」というのが目立つ、ような気がする。この手の問題すべてに言えることだが、そう言われると素人は黙る。あるいは、いや技術的にこう問題だという展開になって、どっちも、見上げてごらん夜の星をといったことになる。すでにそうなっているみたいだ。
 極東ブログがこれに加えることはあるのか。巻き込まれたいのか。うーむ、といった感じだ。白黒つけろっていうなら、私は、RFIDは潜在的に危険だ、である。で、どうしたらいいかだが、どうしようもない、である。問題になってから騒ぐしかないんじゃないか。技術っていうのはそういうものだ。やってミソ、である。
 と、のんきなトーンが漂うのは、RFIDタグ(と仮に呼ぶ)は、検知器が電波を出して、それに反射した電波の情報を読み取るというしかけなので、いずれ電波に晒さられる。しかも、1m以内の至近でだ。最初に言っておくが、電波が危険だとかいう「と」はここでは論外にする。それだけ至近で、周波数が限定された電波など、ちょっとした、アクセサリで検出できる。できなきゃRFIDなんか実用にならない。というわけで、社会でRFIDが少し問題が健在化されたら、「プライバシー守護神」といったダサイ名前の携帯電話のストラップとか根付けとかが出回るようになる。面白いぞぉ。あっちこっちでぴぴぴとなる。おや、こんなところでなんの情報を検出しているのでしょう、ちびっ子のみんな、探してみよう、っていうことになる。プライバシー問題以前に笑うっきゃない世界になるだろう。
 と笑いつつ、先のリンク集を舐めながら、もう一点、気になったことがある。RFIDとか非接触とか言いつつ、私の読みがザップすぎるのか、書き込み系と読み出し専用のRFIDを分けて考えていないのでは?ということだ。RFIDとしてみれば、書き込みもできるが、プライバシー問題で典型的に「見えないところで情報が漏れる!」と話題になるμチップのようなヤツは読み出しだけだ。読み出しても128ビットくらいしか情報が書かれていないというか、基本的にバーコードのタグとたいして変わらない。産業レベルでみるなら、バーコードのほうがまだまだ重要だ。そう、バーコードのほうが重要です。そのあたりの産業の現場の感覚がRFID議論に抜けているなぁ、みなさん、雲上人やなである。
 でだ、SUICAやEDYのようなソニーFelica系の書き込み可能なICカードってどうよ、なのだが、当然、じゃ、ハックしよう、と思うじゃないですかぁ。パソリとか使うと、ばっちし中が読めるのだから、書き込みしてみたいな、と。電子マネーにも使えるなら、自分で金銭書き込めば、日銀がなくても大衆ベースでリフレ政策ができるという万々歳なシロモノです、か。
 だけど、どうも誰もトライしていないというかうまくいっていない。理由は簡単で、末端のカードの情報はただ参照しているだけのもので、実際の情報はセンター側で蓄積管理されているからだ。ICカードは無くしても安心とか言われているのはそのせいだが、なーにが安心だよと思う。というあたりで、それなら、別にカードに記録できなくても情報はセンター側で一元管理すればいいじゃないかと思うのだが、なぜなのだろう。
 というあたりで、RFIDのプライバシー問題というのは、非接触型で、知らないうちに情報が盗まれるというのなら、まぁ、お好きなかたはがんがん議論してくださいなのだが、極東ブログとしては、問題はそういう情報管理化社会のあり方だろう。そういう一般論に逃げ込むのはひどいよと言われそうだが、問題の本質はそっちだ。
 国民背番号制についてもあれこれ議論され、私にも、「どう思いますか」と訊かれたことがあるのだが、問題はあれがリレーションのキーになることですよ、と答えても通じない。誰も通じねーのかと思ったら、宮台真司が同じようなことを言っていた。誰が仕込んだのだろう。私の意見が回っていたった?まさか。そんなの誰でもわかると思う。
 情報がかくして完全にリレーション化されるとどうなるか。まさにマトリックス的な世界の恐怖とか、そう話を展開したいかたはどうぞ。
 私はといえば、もちろん、恐怖もある。いずれ「生活習慣病」として、「病気なのはおまえの生活習慣だから国は知ったことか」という政策が行き詰まり、やっぱ遺伝でしょ、デブは、ハゲは、チビは、ブスは、高血圧は、糖尿病は、ということになる。もちろん、遺伝的傾向なのだが、その傾向は数値化される。ぞっとするしかないのだが、その問題はさておく。
 私は、当面、先のリレーションからできあがる世界は、やはりお笑いだと思う。すでにその兆候が見えている。アマゾンのお薦め本だ。どうしてこんなくだらない本ばかり薦めるのだろうかと思って、少し私の好みの情報を入れてトレーニングしてみたら、らだ、ますます阿呆になった。技術的には、お薦めプログラムのアルゴリズムが阿呆だな、あるいは書籍の属性が足りないな、というお笑いなのだが、いや、そうじゃねーぞと思うに至った。
 あのですね。私たち社会に生きている人間っていうのは他人と向き合っているわけで、で、それほど向き合っても他人というものはわからない。わかるかのようにやっていけるのは、同じ世間に暮らすのだから、そのくら妥協するとか幻想持っているからだ。
 私はなにが言いたいのか。アマゾンのお薦めアルゴリズムさんは、私を理解できないのだ。それは誰だって私を理解しないというのと本質的に同じ。それだけのことなのだ。
 話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめる。RFIDなどでどれだけ情報が収集されても、そのシステムの他者である私をシステムは理解しないだろう。いや、理解するということ自体が妥協と幻想のアルゴリズムを含まざるを得ないのに、そのレベルが低すぎるということでもある。
 もちろん、人間個人というのは類型化できる。情報からある類型が描けるし、それらをマーケット動向に活かすことはできるだ。問題は、その度合いなのだとも言える。これを他者理解の妥当性の度合いとしよう。
 だが、私が言いたいのは、それを認めるとしても、システムが理解した他者としての私の象に私が不満なのだ。欲情しないのだと言っていい。私は、本当は、システムに理解されたいのだ。アマゾンさん、私の読みたい本を出して!なのだ。だが、システムは理解してくれない。という、幻想の度合いなのだ。
 技術的にはその幻想の度合いもアルゴリズム化できるようにも思う。だが、私は本質的にできないと思う。というのは、私たち社会の構成員が他者を本当は理解していないし、理解はつねに必要に迫られての近似でしかない。どんなシステムでもその近似性を真似るしかない。なのに「私」が求めているのは私の欲情の鏡象なのだ。私が理解されたい欲望はシステムからするっと抜けるか、本質的に抜けていくしかないものなのだ。
 って、書くから文系ブログなんでしょうかね。

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1月13日のザッピング

 社説のレベルでは目立った話題がないのだろう。昨日と似たように各紙散漫な内容だった。気になる点だけ、またザップしておこう。
 朝日新聞社説「経団連献金――10年で元の木阿弥ですか」は標題からもわかるように、反動的なイヤミに終始していた。引用して嘲笑する意味すらないくだらない話だ。サヨクもここまでお笑いか、というシロモノ。
 朝日のもう一点「ちょっと元気に――重病でも口をきれいに」は、老人の口内衛生の問題だが、朝日のお話はつまらぬ美談。この問題自体は重要なのだが、どう切り出していいのか私も今わからない。
 なぜなのか機序はわからないが、口内の健康状態は心臓病やその他の感染症に関連が深いことが最近米国でわかってきている。とすれば、くだらない健康番組よりこの問題をなんとかせいと思うのだが。と、卑近な連想で気になるのは、練り歯磨き。これは虫歯予防という点では効果がない。じゃあなんだというような話である。このあたりの情報も整理して書いたほうがいいのだが、めんどくさい。恐らく口内のpH管理だと思う。口内のpH管理と健康について、どなたかブログで書いてトラックバックください、とか言ってみたりして。
 毎日新聞社説「グルジア CIS民主化の弾みに」は独立国家共同体(CIS)の基本的な問題を取り上げたという点でよく書けているともいえるのだが、結局のところ、なんだ?というのがよくわからない。形式上の結語はこうだ。


「テロとの戦い」支持によって米国から支持されている政権であっても民主化を怠れば国民の不満は蓄積され、いずれ国内矛盾が深まることを指導者たちは自覚すべきである。

 そう言われれてもふーん、でしかない。もしろ、国内矛盾、文化背景の全体象を描き出すべきではなかったか、といって自分が描けるわけでもないが、鍵になるのはイスラム教だろうと思う。
 産経新聞社説「議員年金 改革の突破口として削れ」は標題どおりの内容。なにかと数字を上げて説得しているあたりが、くだらない。それより議員を減らせばいいのだ。参議院をなくしてしまうのもいい。
 産経のもう一つ社説「日本の技術 的をしぼった国家戦略を」は液晶パネルのような産業を育成して頑張れというのだが、情けなくて泣けてくる。日経もときおり新三種の神器だ、といったことを言う。確かに日本はハイテク部門に力を入れたほうがいいし、デジカメといった日本の強みの分野は評価すべきだろうが、こうした産物は日本の底力の表出であって、いずれ国外に移る。重要なのは根のほうだ。表面的には未だ米国輸出依存だったり、ナニワの経営だったりする。全体の日本の技術とそれを支える構造を整理して考えたほうがいい。
 と、ザップして、気になるのはCISとイスラム教の動向だろうか。あまり情報が見えてこないのも気になる。

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2004.01.12

世の中の仕事ということ

 朝日新聞社説「20歳の君に――世界に一つだけの花」を読みながら、だるい感じがした。ああ、だるいなぁという感じだ。いつもなら次のような朝日の言い分にむかっ腹を立てるのだが、だるい。


 アフリカの西の端にある、シエラレオネという国を知っているだろうか。平均寿命34歳。世界で最も短命な国だ。
 「国境なき医師団」の一員として遠いこの国で活動した医師、山本敏晴さんが昨夏、出版した「シエラレオネ 5歳まで生きられない子どもたち」(アートン)のページを改めて開いた。

 よく言うよ。こんな時に手前勝手に「国境なき医師団」の活動を持ち出すなよ、恥ずかしいな、と思う。国際情勢といえば、アフガンだイラクだと騒いでいたころから、「国境なき医師団」のレターではシエラレオネが取り上げられていた。でも、ま、いい。というのは、先日マリのコレラの話を極東ブログに書いたが、この問題はもはや人道の問題を越えているように思うからだ。
 話を戻す。朝日新聞は成人の日だからということで仕事の話題に振ったあたりが、呑気な学生さんあがりの爺ぃの感覚だなと思うが、枕はこうだ。

 作家の村上龍さんが出した「13歳のハローワーク」(幻冬舎)という本が、発売から1カ月あまりで15万部も売れた。
 自分自身の生きる道を探し当てたい。
 そんな若い人の真剣な気持ちの表れなのだろう。
 514もの職業をやさしく解説したこの本は、収入の多さや社会的な地位の高さなどには重きを置かない。あくまで「なにが好きか」がものさしだ。

cover
シアーズ博士夫妻の
ベビーブック
 そうなのか。あれがよくわからないのだ。本屋に行けば山積みになっているから、私もこの本を手にしたが、率直言う、なんだコレは、である。もっと率直に言う、仕事を馬鹿にすんじゃねーよ、である。そういう私の感覚はおかしいのだろうか。幻冬舎もこんな本を作るのか。売れたから結果的に当たりというわけか。同じくらい分厚い本だったら、「シアーズ博士夫妻のベビーブック」を買えと思う。翻訳がところどころご都合で端折られているのだが、子供のない家庭にだって一冊あっていいと思う。
 くさしだけも良くないか。朝日新聞がいうように、仕事というのは「なにが好きか」が重要なものだ。だが、この本を読んでいないので、的はずれなことを言うのだが、なにが好きかは、27歳になるまでわからないものだ。確かに、人間の基本的な性癖や才能は三歳くらいで決まっているようには思う。だが、そのエンジンは、社会的な人格との統合を必要とするのであって、それには本格的な性の熟成が不可欠だ、と思う。話を端折り過ぎて「と」になってきているが、労働というのもは性の成熟と深い関係を持っている。端的な話、最古の職業は売春(歴史的にそうという意味では当然ない)と言われるように、売春は労働に対価されるのはどの社会の基本構造だ。なぜか考えてみるといい。そこを逃げてはいけない、とすら思う。
 27歳というスペシフィックな年齢を取り上げたのは、邱永漢がそう言う話をしていたことに、自分なりの経験を加え、そうだろうなと思うからだ。それだけだが、27歳というのは、普通、人間が挫折する時期であるように思う。それまでの人生の構成が立ち行かなくなり、自力で構成を変えていく。そのなかで、性のふんぎりも付き、仕事も見つかっていくものだ。もうちょっとお節介に、27歳になったら、いっぺん自殺してみぃ、と言ってみたい気もするが、もちろん、死ぬのはいけないし、私のように死を人一倍恐れる人間が言うのも噴飯なものだ。それでも、それまでの自分というのはもう死んでもしかたねぇな、と空を仰いでゼロから生き始めるといいと思う。赤手空拳で社会にたてついて、ぼこぼこにされながら、生きるという「礼」を知る、というか、そこではじめて「礼」が意味を持つと知るものだ。礼を知れば、五体満足ならいつの時代でも仕事はあるものだ(五体満足でなくても仕事はあるべきだが限定される)。所詮人間の社会などもたれ合って成り立っているのだ。
 残念ながら、日本の社会はまだまだそういう27歳を受け止めるように変化していない。邱永漢が親だったらいいのだがそうもいかない(のわりに彼は今でも親代わりをしている、この大人に頭が下がる)。多分に人生の敗残者になるだろう。
 もちろん、そう書きながら、人生の失敗者である自分を慰撫しているのだろうとは思う。が、そうでない人生の成功者たちが、40代で、50代で、ぼろぼろっと醜悪に崩れていく様を横目で見る。いずれ人生は苛酷なものだ。
 が、しかし、そうはいっても、安穏に27歳の腹のくくりもなく後年崩れることもない人間はいるな。傍からそう見えるだけかもしれないが、そういう人生もあるようだ。ま、いいじゃないか。関係ねぇよと思う。

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凡庸な日の新聞社説

 今朝は大きなニュースもなく休日だからなのだろうか、新聞各紙社説のネタがつまらない。それぞれの話題に少しずつ思うことはあるのだが、まとまらない。いくつか気になる話だけ、ザップする。
 朝日新聞社説「米国産牛肉――全頭検査は当然の要求」では、食の安全を大義に掲げていて裏の掘り下げがない。せめて「緊急輸入制限(セーフガード)」にもう少し踏み込めばよかったのだが、このあたりの動向については私もまだよくわからない。いずれ書くかもしれない。
 読売新聞社説「京都議定書 早期発効への突破口を」についてはすでに極東ブログで言及してきた以上のことはない。大国を攪乱させる戦法以外に議定書は使い道がないのだから、国内向けには黙っていてもいいと思う。どうせ、失敗するのだ。
 産経新聞社説「イスラエル情勢 和平交渉の機会を逃すな」は「イスラエル、アラブ双方とも、この機会を逃すべきではない。」と書くあたり、朝日新聞みたいだ。つまらない。イスラエルの問題は錯綜しているが、とにかく即刻あの壁を壊せと思う。私はかなり心情的にユダヤ人に同情的だが、今回の壁には激怒した。自分でゲットーを作ってどうするのだ。
 日経新聞社説「5年半ぶり原子力白書の空白」はまさに「空白の5年半についての分析も空白なのだ。」というわけで、日経の社説まで空白。現実の問題として原子力発電は日本ではもう無理かもしれないと私は思う。であれば、どうするのか、と問えば、天然ガスだろうと思う。そういう問題にプラクティカルに取り組むべきだ。ついで言えば、無駄になった原発の補償金を国庫に戻せよと思う。
 さて、社説というのは大衆に通じる話を書かなくていけないから、あまりテクニカル踏み込むべきものではない。しかし、今日のようにまばらな帆待ちの社説を並べて読むのも変なものだ。もう少しリスクをおかして書いていいのではないか。朝日の牛肉問題は国内保護、読売の議定書問題は無理、産経のパレスチナ問題はイスラエルを非難せよ(米国が怖くて言えないのだ)、日経の原子力問題は天然ガス…といったちょっと危うい主張に出ていいのではないか。
 「どうしたらいいかみんなで考えよう」と言う時代は終わったのであり、もう少しコントラバーシャル(論争的)な言論にすべきだろう。

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2004.01.11

語源の話:「ぐすく」と「あすか」

 ためらうのだが、日本語の語源の話を書こう。ためらう最大の理由は日本語の語源は日本語学および日本史学で事実上タブーだからだ。あるいは「と」の巣窟なのである。そんなところに首をつっこまないほうがいいには決まっている。それになにもブログのネタがないというわけでもない。
 が、日本語の語源については、時たま気になって、考え考えしている。このままだと私の人生の黄昏とも消えていくだろう。それでもいいのだが、書くとすれば、このブログしかない。では書いてみようかと思う気になった。なんとなくシリーズになるかもしれない。わからない。
 もう一つためらうのは、この手の話は、人によっては魂を魅了してしまうものなのだ。そういう輩をブログに集めたいとさらさら思わないのだが、結果そうなるのかもしれない。と、鬱っぽい書き出しで申し訳ない。
 話がいきなり飛ぶ。私は沖縄で数年暮らしていた。やまとうちなーぐちは身に付いたので、ちょっとしたうちなーんちゅにとぼけることはできるが、うちなーんちゅが言うところの方言、つまり琉球語は身につかなかった。それでも、琉球語は私の語感では室町時代の言葉に思える、裏付けもないのだが。
 琉球語は言語学的には日本語の姉妹語とされ、その分化は千年単位で見られているようだが、私は違うと考えている。伝搬は平安末から室町時代以降の和冦ではないだろうか。沖縄の民俗信仰も、日本の民俗学者たちは起源の古いものだと考えたがるが、私の印象では南紀に残る熊野の信仰や一遍上人など、あの時代の信仰に近いものがベースになっているように思われる。
 沖縄の言葉で起源がわからないとされるわりに、しばしば問題なるのが「ぐすく」という言葉だ。琉球語に近づけるなら「ぐしく」である。「城」という字を宛てる。「豊見城」は高校名では「とみしろ」だが、地名では「とみぐすく」である。私は「ぐすく」の語源は「御宿」だろうと考える。最大の理由は、琉球語で「皆さん」を意味する「ぐすー」が「御衆」だろうからだ。「御衆」にすでに南紀風な宗教の気配があるが、いずれ「ぐすく」の「ぐ」は「御」だろう。もっとも、これには反論も多く、「ぐす・く」と切って発音するから、違うというのだ。私はそう思わない。
 「御宿」は沖縄で見てもわかるが、朝鮮式山城のように見える。門中制度といい、祭りの綱引きといい、中華的に見える沖縄の文化の表層を除くと、そこには朝鮮文化があると私は思う。「宿」つまり「すく」は朝鮮起源かもしれないと思うのだ。
 連想するのは、飛鳥、「あすか」である。これにはこじつけでなく「安宿」の表記があり、朝鮮語の「アンスク」に一致する。諸説あるが、表記の残存から考えて、単純に「安宿」でいいのではないか。もっとも、このあたりの語源説はすでに「と」臭が漂う。どさくさで言うのだが、「奈良」の語源が朝鮮語の「国」を意味する「なら」のようにも思う。関連して、「百済」の「くだら」については、「大国」を意味する朝鮮語「くんなら」でいいのではないか。
 百済は滅亡して後、日本は百済遺民を多く受け入れている。彼らにとって親国はまさに「くんなら」だろう。もちろん、異論があることは知っているし、強弁する気などさらさらない。ただ、こうした語源の問題は、どうすれば解答になるかという条件も存在しえないのである。
 関連の話をもう一つつけて終わりたい。「飛鳥・明日香」の枕言葉は「飛ぶ鳥の」である。これが「飛鳥」という表記の語源になっているのは「と」ではない。なぜ、「とぶとり」がアスカなのか、これも定説はない。私は「安宿」(あんすく)と考えたいのだが、「とぶとりのあんすく」とはなんだろうか?
 枕言葉それ自体、定説がないが、一応文学の範疇されているせいか、修辞または詩法として考えられがちだ。だが、私はもっと素朴に、社会言語学的な弁別性だろうと考えたい。つまり、「とぶとりのあんすく」ではない「あんすく」との区別だ。あるいは、「TOKYO、T」といったふうに、弁別性の発音の便宜かもしれない。
 飛鳥時代は、皇室や寺院回りには百済・新羅・高句麗民がかなりいたのだから、ある種のマルチリンガルな状況だったことは間違いない。そういう上層民はそれでもいいが、下層民は単一言語だろうから、そのインタフェース的な言語の便宜が必要になる。枕言葉はそうした残存だろうと思う。
 「とぶとりの」の語源は皆目わからないのだが、田井信之著「日本語の語源」という、奇書としか言えないのだが、この本によると、「富み足る」の音変化だという。こじつけのようだが、古事記には「とだる」という語があり(「天つ神の御子の天つ日継知らしめすとだる天の御巣みすなして」と広辞苑にもある)、富むの意味を持つ。この語の場合は、古形に「とみたる」があっても不思議ではない。
 推測に推測を重ねるのが「と」の本領だが、「富み足る安宿」としてみると、「安宿」という地名なりその居住地に対する国褒め歌の一部のようにも聞こえる。その背景には、貧しく逃れる人々の思いのようなものが感じられる。

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初等教育が変だ

 日経新聞社説「気がかりな止めどない労働組合の衰退」で指摘されている労組衰退の事実が面白かった。論旨は別にどってことはない。日経としては労組頑張れとしたいのだろうが、無意味だろう。私としては、労組の衰退に心からどす黒い喝采の声を上げたい。おまえらこそ、派遣労働者や非日本籍の労働者の敵だ、つまり、本当の労働者の敵だと呪いたいのである。そう呪わせる経験が私はある。でも、それはあまりに複雑な私怨かもしれないので、話は膨らまさない。
 読売新聞社説「決断の年 教育のグランドデザイン描け 基本法改正の時だ」のネタをなんとなく取り上げる。読売の社説はつまらないし倒錯している。が、読売新聞に批判を投げても無意味だろう。教育について、こうした読売的な考えの人たちに私は違和感を持つ、というくらいだ。彼らは教育を良くするにはこうしろという。


 そのためには、基本法を改正し、家族や国など、自分を超え、自分を支える共同体の価値について、子供たちに学ばせる必要がある。

 罵倒したい気もするが、どうも萎える。自分も爺臭くなったなと思うのは、気力のある人間には馬鹿野郎と言いたいが、この読売社説のような意見の持ち主には気力なんかないのだ。共同体の価値を知る者やものを学ぶということはどういうことかわかっている人間なら、けしてこんな戯けたことは言わない。共同体の価値を子供に学ばせたいなら、電車のなかで中年の男が老人や妊婦、障害者に席を譲ることから始めるべきだ。くどい徳目のリストを書くまでもない、大人が共同体の価値を信じているなら、子供に伝わる。この手の教育議論が無意味なのは、大人が問われているからだ。
 話はずっこける。NHKクローズアップ現代で学力低下のテーマをやっていた。なんでも、小学校の学力調査をしたら、子供の学習が思ったように達成していなかったというのだ。番組自体の作りは悪くない。小学校教諭の情熱と、「なんでこんなの覚えてないのか」という悔し涙の映像も悪くなかった。しかし、率直に思ったのだが、こういう情熱的な先生がいる学校なんか嫌なものだ。無気力なロボットのような先生よりはましかもしれないのだが。
 番組中、こんなふうな問題が出てきた。

    46×7+54×7

 これの解き方は、(46+54)×7としてから数値を出せということらしい。ぼんやり見ていて、はっと目が覚めてしまった。おい、冗談はよせ。そんなもの教育でもなんでもないぞ。
 実はその前に、いやな予感はあった。たとえば、この手の問題だ。

    40-16÷4

 この手の問題で割り算を先にすることができないという生徒が多いと、教員は嘆いていたのだ。ちょっとまいった。今の算数教育の馬鹿さかげんだな、とちらと思っていたのだ。確かに割り算という演算規則ではそうなる。
 だが、割り算という演算は掛け算の逆算だし、引き算という演算もマイナス値の加算なのだから、さっさと合理的な演算体系を習得させたほうがいい。関連して思うのだが、分数の小数だの数の集合の違うものをごちゃごちゃにするのをやめたほうがいい。
 それにしても、数学者はこの惨状になにも言及しないのだろうか。この話は以前も書いたな。
 言っても無駄なのだろうか。同じようなことは他の学科にも多い。国語の漢字はただの丸暗記だ。康煕字典など知らなくていいのだろうか。英語にはいまだにフォーニックス(Phonics)が導入されていない。理科教育もひどい。社会科も意味が抜けている。
 と、言葉につまる。

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朝鮮日報、それは考え過ぎ

 朝鮮日報社説「日本という国の偏狭さ」を読んで笑った。と書くと誤解されるかもしれない。嘲笑でも苦笑でもない。おもろいこと書くなと思ったという単純なことである。もっとも、ことが笑い事では済まれないのだろうとは思う。ちと長いが雰囲気を伝えるために引用する。


 韓国政府が独(トク)島の自然をテーマにした切手を当初の計画通り、今月中旬に発行するとの方針を示したことに対し、日本の麻生太郎総務庁長官が「日本側も対抗措置として独島をテーマとした切手の発行を検討しよう」と提案したという。
 今年1月1日に小泉純一郎首相が日本の伝統服飾姿で、第2次世界大戦のA級戦犯らが祭られている靖国神社を突然参拝、韓国および中国国民を激怒させたのに続き、今度は日本政府の高位関係者らの常識外れの言動が相次いでいる。
 このような日本の妄言は今日に始まったことではないが、最近の動きをみていると、日本内の空気が尋常でない方向に流れているのではないか、という懸念を抱かざるを得ない。

 「あのぉ、そんなことはないんです」と、おじゃる丸の貧乏神様の声で言う。日本人の大半は竹島のことなんか念頭にない(それも問題)。小泉総理の靖国神社参拝もきな臭いなと思っている。それが日本の大衆の意識だ。ちと、こう言いたい「朝鮮日報様、日本にいらっしゃって、養老の滝とかで飲みつつ、日本人と対話されてはどうでしょうか。料理がうまくないのは申し訳ないと思いますが、いや、沖縄料理屋がいいかも、豚料理はうまいですよ(うまい店なら)。沖縄人も改名させられましたよ、日本は単純ではありません」と。
 引用が多いがもう一つ。

 予定通り独島切手を発行するとした郵政事業本部の決定は、いかにも当然のことだ。日本のこのような動きに、「高句麗史は中国史の一部」と主張する中国の露骨な意図を重ね合わせると、北東アジア情勢に重大な地殻変動が迫っているような印象を受ける。
 結局、このような一連の問題の根本的に解決するためには、国力を強化するほか道はないようだ。「放心しているうちに、一世紀前のあの事態を繰り返すことになるのでは」と考えると、今の国内情勢にため息が出るばかりだ。

 韓国が切手を出すのはけっこうなことだし、あの島を領土だと思うのもかまわないと思う。だが、日本もあの島が領土だと思っていることを配慮して、妥協してはどうだろうか。あんな島自体はなんの価値もない(とあえて言う)のであって、ようは海域の利権の問題。つまり、金の問題じゃないか。金でかたがつくことは金でかたを付けるのがいい。他の方法をとってもこじれるだけ。と、書いても、たぶん通じもしないだろう。それが隣国問題というものだ。どの国も隣国とは仲が悪いものなのだ。せめて、熱くならないようにすることだ、日本もね。
 こんな冷やかしの話を書いたものの、中国にまでタメをはろうとするなら国力を強化するより、日本と連携したらいい。そんなことわからないわけもないと思う。東亜日報によれば、李滄東(イ・チャンドン)文化観光部長官は、新年記者懇談会で「中国の高句麗史歪曲問題について、政府レベルで対応するのは問題解決に何の役に立たない」と述べたらしい。そりゃ、そうだよ。
 しかし、小中学生を1万に近く米留させてしまう韓国社会には、やはり通じないのかと思うと、このあたり、日本の大衆としては、大きく構えるだけの余裕を持てということになりそうだ。日本はどう隣国にメッセージを送るべきなのか、困惑する。
 ふと思ったのだが、韓国が日本の文化を解禁したといってもまだまだアニメは先のことになる。残念だなと思う、ぜひ例外でいいから、「おじゃる丸」を放映してもらいたいと思う。日本の大衆というはああいうものなのだから。

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2004.01.10

乙支文徳

 中国が高句麗史を中国史に位置づけようとしていることに対する韓国の反発が激しい。日本人にしてみると、当面は関係のない騒ぎではある。韓国の民族主義は怖いものだなというのが私などの率直な感想だ。そうした中、韓国で象徴的に取り上げられるのが乙支文徳(ウルチ・ムンドク)である。
 中央日報「高句麗歴史歪曲糾弾集会」のニュース(参照)では民族史観高校の生徒と中国歴史歪曲対策民族連帯会員らが、ソウル孝子洞の中国大使観前で、乙支文徳に扮して、中国の高句麗歴史歪曲を糾弾する集会を開いている。
 現代日本人にはちょっとなぁではあるが、確かに、乙支文徳を英雄と評価したい気持ちはわからないでもない。それにしても、なぁという思いが私のような歴史家(毎度ながら嘘です)にはあるので、ちと書いてみたい。あまり偉そうなことを言うつもりはないが、日本人は乙支文徳のことを知らないのではないか。テコンドーの型名として知っている人もいるだろうか。少しGoogleを引いてみたが、韓国政府発表の垂れ流し情報ばっかりで、がっくりしたので、少し書いておきたいのだ。
 背景となる話は隋と高句麗の対立がある。一応日本人なら、遣隋使ということで隋については知っていることだろう。だが、日本人の中国史の知識は正史に阻まれて中国のバイアスが入りがちだ。煬帝を「ようだい」と訓じるのも呆れたものだ。
 隋を起こした文帝は同時に、その前の時代の南北朝対立に終止符をうち中国を統一した、というのは史実なのだが、ちと裏がある。文帝こと楊堅はその名が中国名なのだが、この楊氏初代は燕に仕えていた。燕は鮮卑慕容部族が打ち立てた国で、中原からの亡命民なども受容していたったので楊氏もそうした部類かもかもしれないのだが、彼が太平太守(軍事司令官)となっていたことを考えに入れると、軍才に長けた鮮卑であったと考えるほうが妥当だろう。岡田英弘の「世界史の誕生」を参照すると、楊堅の父楊忠は普六茹という鮮卑名があるとのことだ。隋は北魏同様、鮮卑の王朝と見ていい。ちなみに、唐も鮮卑である。
 この文帝は、中国統一の勢いをかって、598年に第一次の高句麗侵攻を開始した。もののだ、準備も整わず天候や疾病なのでほぼ戦わずして敗退。当時の高句麗平原王も、侵攻が現実となるや、びびって表向き謝罪でことを収めた。隋の侵攻の理由はもともと拡大の意図もあったのだが、高句麗側も防戦準備から隋を刺激し続けたこともある。
 ここで重要なのだが、現在の韓国の歴史は、しゃーしゃーと韓国対中国の図を描いているのだが、この時代の朝鮮半島は全然統一されていない。どころか、百済は元から北魏重視政策から高句麗を攻勢することが国是でもあり、この第一次侵攻でも高句麗攻めの先頭を隋に申し出ている。これが高句麗の怒りを買うことにもなるという香ばしい関係が半島内にあった。日本の古代史もこの香ばしさに包まれているのだが、その話は避けよう。
 煬帝の時代になると、親父の意図を継いで、高句麗侵攻の夢がもたげてくる。それに併せて、半島内でも高句麗に対立する百済や新羅が隋にすり寄りといった事態にもなる。詳細な話は省くが、隋は、前回の反省からロジステックスとしての運河ができるのを待って、612年に第二次高句麗侵攻を開始した。200万という大軍なのだが、高句麗に近づくやロジステックスに不備。隋内部でも山東半島などで反乱勃発。
 かくして、第二次の高句麗侵攻の軍も疫病で大軍が自滅していくことになる。もっとも、韓国の歴史ではこの大軍を小勢で打ち破ったのが乙支文徳であるということになっているのだ。そういう見方が成立しないでもない。
 乙支文徳に着目すると、戦時当初は、さっさと隋軍に降伏しているのである。が、隋軍の惨状を見るや降伏を自主撤回。逃げる逃げる。高句麗軍に戻り、「がんばれるかもぉ!」ということになった。不屈と評価するか、私のように下品な評価を我慢するかは意見が分かれる。そして、隋軍が平壌近くまで侵攻してくると、乙支文徳はまた停戦を申し出て、平原王とともに隋に謝罪しようと提案。ごめんねで済むなら謝っちまえ主義である。
 が、これもまた嘘。乙支文徳、あっぱれにも、引き上げる隋軍を後ろから打つ打つ。よって隋軍壊滅。いやぁ、これこそ武術ってやつです。乙支文徳、さすが。こうした歴史は韓国で知られているのだろうか。
 煬帝は怒る。613年第三次高句麗侵略開始。でも、隋だってもうぼろぼろ。内乱が起きて、途中で引き返す。くそぉである。が、煬帝不屈の精神である。プロジェクトX(ばつ)こと、翌年第四次侵略開始。
 しかし、隋軍の兵士だって逃げる逃げる。それでも平壌近くに攻め込むや、またしても高句麗はやってくれるぜ。当時の嬰陽王は降伏を願い出る。以後、きちんと朝貢しますと泣き落とし。なんぼ頭を下げても減るもんじゃない! この時、乙支文徳が何をしていたのかわからない。
 かくして、煬帝も怒りを静めて兵を引いたものの、高句麗嬰陽王は隋軍が帰還すれば、ばっくれ。朝貢なんて知らんぷり。煬帝、怒る。が、理性を失ううちに、突厥が反乱。さらに反乱はつづき、618年煬帝は家臣に暗殺。かくして隋一巻の終わりとなる。
 歴史は鏡である。乙支文徳に模して中国に楯突く現代の韓国が、もし本当に中国の怒りを買えばどうなるか。私はだいたい予想が付くのである。

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[書評]「結婚の条件」小倉千加子

cover 酒井順子の「負け犬の遠吠え」を買うつもりで買いそびれた。どこにも在庫がない。すごい事態だと思う。「バカの壁」がいくら売れてもあんなの本じゃないんでどうでもいいことだが、こっちの在庫切れには呆れる。余談だが、岸本葉子のがんの本も売れている。出版は不況だ、いい本が売れないというのは本当なのかと思う。いずれにせよ、代わりに小倉千加子の「結婚の条件」(朝日新聞社)を読んだ。AERA臭そうで期待していなかったのだが、面白かった。痛快でもある。
 けして難しい本ではないのだが、この本がつまるところ何を言いたいのかは、わかりづらい、と思った。表層的なメッセージは帯にもあるように「青年よ、大志を捨てて、結婚しよう」だが、ようは「30過ぎのお嬢さんたち、自分のカオを値踏みして、相応の稼ぎの男と結婚しなさい」ということだ。まぁ、そう帯には書けない。表紙もしょーもないデザインになっている。だが、本書のメッセージは私には多層的で難しいといえば難しいものだった。著者のスタンス自体にある種の錯乱があるのかもしれない。
 小倉千加子という人は、私は知らなかったのだが、痛快なおばはんである。数年引きこもっていたとあるが、そうなのだろうと思う。もちろん明晰な人だが、それ以上によく人を愛する人なのだろうと思う。まさにおばはんである。彼女自身、未婚の人生のようだが、それを補うだけ慕われて生きてきた人ではないか。奇妙な話をするようだが、本書の深層からにじむ、小倉千加子ってええ人やな、のじんわり力が本書の本質かもしれない。
 日本のフェミニズムというのは、あえていうが意図的に戦略的に迷路になっている。そこに知性が舞い込めないようにして、フェミニスト商売屋が安定するようなシカケだ。誰も読めもしねーようなデリダ論を書いて、青二才に本を売っているといった日本らしい光景にも似ているが、デリダ論など日本社会に無意味である(もちろん無意味であってよい)のに対して、本来ならフェミニズムは社会が要請するものだ。私は端的な例で言えば、中絶問題にきちんと社会性のある議論を提示せよと思うだが、フェミニストからはなにも出てこない。日本のフェミニストは、緩和な内ゲバなのか、結果的なセクトなのか、社会へは声が出てこない。低容量ピルやOTC化されるモーニングアフターなど、どういうふうに社会的に考えるべきなのか、何か言えよと思う。と言いつつ、それもこの本のテーマでもない。
 「結婚の条件」の内容には、取り立てて衝撃なことはない。ほぉ、素面でそこまで言えるかというか、おばはんだから言えるかぁといった程度の内容ではある。ただ、一点だけ、気になるのは、少子化は日独伊の問題とするあたりはジョークにしてはすまされないような気もする。が、米国などでも白人の統計だけ見れば、日本と同様なので、ようは敗戦国の男の問題ではなく、国家を多民族多文化に開くのに日独伊がびびってしまったということだけだろう。これと限らず、社会学的な問題分析の視点は小倉には弱いのだが、それはこの本の欠点でもない。
 毎度極東ブログの書評は役にもたたないのだが、なぜ、女たちが結婚しないか、は、冗談のようだが、マクロ経済学の応用でかなり解けるのではないか。女自身の自分のカオの評価点、男による女のカオの評価点、男の収入、親の収入といったせいぜい4パラメータの式でまとまるような気がする。そして結婚とはその式のカタストロフとして表現できそうな気がするのだが、あるいは、カタストロフはそのパラメーター外の要因なのだろうか。いずれにせよ、そういう学が成立しそうな気はする。それほど、なんというか、結婚とはレギュラーな問題に思えるのだが。くどいが、世の中の人は少子化は複雑な問題だと言っているが、実は、単純に経済学的な問題ではないのか。
 小倉と限らず、他の社会学者からも指摘されつつあるが、日本はすでに階級社会になりつつある。小倉は、結婚といっても階級ごとに意味が違うぞ、というのだが、それ自体はそれほど特記するほどのことでもない。そして、その階級は、学歴に比例しているとも言うのだが、それもたいしたことではない。私は、むしろ、高卒、短大、四大といったわかりやすい学歴はすでに崩壊して、四大間の差異になっていることが問題だと思う。
 極東ブログのまたぞろの話になるのだが、共通一次試験以降の世代では、学歴が数値で一元化されている。もともと日本の大学など入試の難易度しか事実上差異はないからしかたがないのだが、そうすることで、ようはどこの大学を出たかというだけの擬似的な階級ができつつある。ただ、それでも実社会というのは小利口じゃつとまらないから、そうした共通一次試験的な序列は的確に収入及び収入見込みに反映しない。というあたりのズレで、若い男の死ぬほど勘違い内面タカビーも無視できない程度には存在している。と言ったものの、そうしたズレは誤差だろうか。書きながら逡巡してもしかたがないが、誤差とも言えないだろう。優秀な官僚ほど辞めていくという傾向はあるし、会社社会は大学のように序列化できていない。どうも、話がずれたが、ようは男の側でも勘違いが結婚を遠ざけているだろうということだ。
 話は散漫だが、本書で喝采を送りたいのは、男が育児参加などできるのは、公務員や教師など非生産部門に限定される、それは事実だ、としたあたりだ。そうだと思う。公務員つまり官僚や教師つまり大学のセンセーみたいのが、こうした件に口を挟むのは、雑音だからやめてくれと思う。おめーさんたち、うぜーんだよである。
 じゃ、どうしたらいいのか。身近な女性にこの話をしてみた。私は「別に今の女性たちは結婚なんかしなくてもいいんじゃないのか?」と訊く。答えは「でも彼女たちは結婚したいよ」である。そうか。でも、なぜ結婚したいかというと、女の勝ち組になりたいからというだけじゃないのか、と思う。そう訊くことは、男の私にはできないので沈黙する。
 VeryだのStoryだの、貧乏くさい雑誌である。知性というのはフラワーアレンジングでも紅茶コーディネータでもない。消費の欲望とは知性の恥だ。もちろん、そんなこと言っても通じない。知性のないものに知性は通じない。むこうもそんなものである。バカの壁である。ああ、バカな女が多いな、あんなもの勝ち組でもなんでもないよ、と言うことが可能なら、こうした問題は瓦解する。そうさせる社会要因が発生することもありうる。
 だが、そうはならない。そういうものなのだ。それは社会の安定性に従属するのだ。他人の生き方なんか私には関係ない、関係ありえようもないという境遇は悲惨でもあるが、それが自分の生き様かと腹をくくることは、万人に迫れるものではない。結婚とは選択ではなくて、人生そのものなのだがと呟きたいが、やめる。爺臭いし、各人ご勝手にである。
 追記である。ふと考え直したが、ようは大衆とは弱者である。結婚とは弱者の互助でもある。結婚せーよ、というのは、だから小倉は100%正しいのではないか。いいおばはんであると、あらためて思う。

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イラク派兵と日本の勘違い

 今朝の新聞各紙社説は陸上自衛隊の先遣隊及び航空自衛隊の本隊の派遣を扱っていたが、どれもなにを言いたいのか私は理解しづらかった。特に意味がありそうで意味不明な代表は朝日の社説だ。


独裁政権の打倒は民衆が歓迎したし、戦後の復興の重要性も論を待たないが、戦争の法的正当性の問題を忘れて復興を語れないのも当然のことだ。

 それとこれとは別の話だ。それを混ぜ返してもタメの議論にしかならない。総じて、日本人はイラクを一つのものと見過ぎていると思う。フセインがいたからイラクが国のように見えたのであって、それがなくなれば、あの国は本質的に解体してしまってなんの不思議もない。内発的に統合されたのではないあの国家は民衆のために存在したのでもないから、民衆は新しい国家の模索を伴うのはしかたがないだろう。
 朝日をさらに引くが、朝日と限らず自衛隊の意義を社説執筆者たちは勘違いしていると私は思う。

陸自は給水や医療活動にあたる。確かに感謝されるに違いない。だが、それが復興という大仕事のなかでどれほどの意味を持つ活動かも考えないわけにいかない。

 復興というのは、イラクがどういう形態であれ、政治経済的に自立を始めてからのことだ。それには、幸か不幸か、石油が鍵となる。そこまでの道筋に自衛隊は微々たる支援をするだけだ。本当の復興支援はその後のことだ。
 日本のマスコミはどうかしているが、日本の派兵はたかだか1000人である。韓国は日本の国家規模の1/3なのにその4倍の負担を強いられている。そういう隣国のことを忘れることを呑気というのだ。
 最近、読売新聞社説を読むのが苦痛だが、それでも「自衛隊派遣 イラク支援を政争の具にするな」という標題の主張は正しい。この問題がそれが参院選をにらんでの日本の国内事情になってしまっているのは醜悪なことだ。
 私は参院選に向けて、なお、民主党を支持する。自民党政権をリセットするために少しでも力を尽くしたいからだ。なのに、民主党も派遣団断固反対といった、トホホな主張ばかりするのはやめてほしいものだ。政権を取ってからの仕切直しのビジョンを掲げるべきだ。そうでなければ、万年野党にぬくぬくしていた社会党になってしまう。なにより、政治の争点はそんなところじゃないだろ。

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2004.01.09

ドル安のゆくえ

 気になるので素直にそのまま書いてみようと思う。現状のドル安問題だ。極東ブログの定形とすれば、日経新聞社説「ドル安、米国に赤字放置の転換を促せ」を枕のボヤキ。だが、それほどでもない。ちと関心の向きは違う。
 とはいえ、その社説だが、主張自体は、先日の毎日新聞社説と基本的は同じ。つまり、G7経由で米国に赤字拡大放置をを止めさせよ、だ。なので、空しい。ただ、日経は一応こう加えている。


 政策協調では当然、日本や欧州諸国も規制緩和で内需を喚起するとか、市場開放を進め外国製品をもっと受け入れる必要がある。

 これはただのクリシェ。気になるのは、神クルーグマンを引いているあたり(当然、「神」なんて冗談)。

 国際通貨基金(IMF)は7日発表した報告で、双子の赤字が膨らみ続けるとドル相場が急落するリスクが高まると警告した。またプリンストン大のP・クルーグマン教授は最近、米紙に寄稿し「我々は(放漫財政などで経済が行き詰まった)アルゼンチンと同じ道をたどっているかもしれない」と警鐘を鳴らした。

 原文を読んでいないので曲解かどうかよくわからない。ただ、現状のドル安は警笛に値するのかといえば、私は先日の極東ブログのままの意見で、確信犯だろうと考える。
 ちょっと「と」がかるが、米国は基本的にEUと日本なんか適当につぶれてしまえばいいと考えているので、そのあたりの戦略としてそれほど間違っているわけでもない。
 話は散漫だが気になることを連ねる。読んでみてはと薦められたFirst Boston日本経済ウィークリーの「『円高の足枷』は克服可能か?」(参照PDFファイル)は面白かった。キモは、日本経済の非独立性だ。

円ドルレートは両国の金融政策のスタンスの格差で決まるという一般的な認識よりも、米国の金融政策と米国が許容できる円ドルレート水準を前提として日本の金融政策スタンスが決定されると考えた方が為替レートの動きを理解しやすい側面がある。

 政治的な背景で見るなら、ある意味、どってことないし、そのメカニズムとはまさに政治の機能なのだが、当面の問題はその非独立性の許容だ。続けるが、こうだ。

購買力平価の天井から大きく乖離するように円ドルレートが推移するような状況が来れば、日本経済は「円高の足枷」から解放され、デフレ解消に向かうための必要条件をクリアーしたといえる

 現状のドル安がその乖離の状態なのか?とまず問いを出してみたい。少しフライング気味だが、このレポート(安達誠司メイン)のように、円高自体はリフレ政策でどうにでもなるという意味で、意外に単純な問題っぽい。気になるのは、そういう経済要因が許容を越えさせるのか?ということだ。
 端的な印象を書いておきたいのだが、私は現状、米国は日本に依存しているのだ、というふうに認識している。逆ではない。独立した2つの国家間の経済といった視点は無効だと思う。事実上、属国日本貢ぐ君は、どこまで女王様のケツ叩きに耐えるか、ということだ。
 薄っぺらな陰謀論臭い話がしたいわけではないし、当方それほど近年の国際金融に詳しいわけでもない。だが、こう展開するのはタメ議論のつもりはない。為券は円買い戻しにならず、米国債に化けるということを思うからだ。円高介入はやればやるだけ、日本の米国債が増える。結局、アメリカを買いつづけているわけだ。米国債の利回りはいいが、どすんとドル安にすればそんな利は消える。つまり、日本の国富は消える。
 ちなみに、円売り資金の調達枠97兆円は、残り1兆円近くまで減った(参考)。とはいえ、そのこと自体もさして問題ではない。つまり、お金がないわけでもない。まだまだ貢ぐことはできる。
 国際的な視野でドル安が問題だというなら、ユーロが動かないのはおかしい。まだまだ米国に見栄を張っているか、あるいは内部問題のこじれを抑える見栄か、あるいは単に、米国が弱いと見ているか。
 だが、日本の介入は動揺のように見えて、国内産業(特に輸出産業)向けの円高阻止というより、米国の世界戦略(最終的なドル優位)に向けて日本が参戦しているという図ではないのか。
 「通貨戦争」と言った言葉を使う気はないが、これが戦争なら、日米対ユーロ戦であり、波及的に対中国戦なのだろう。こうした構図なら、しかし、日本の目などない。負け犬に決定! とすれば、現状より先の敗戦を見越したほうがいいのかもしれない。
 と、書いたものの、「と」ですかねぇ? 誰かに喧嘩売っている気はまるでない。日本人の労働がこういうカラクリで米国に吸われているような気がするだけだ。

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印パ対話で解決なのか?

 朝日新聞社説「印パ対話――和解の果実を語り合え」は、7日の印パ公式協議再開合意をネタに昨今のインド・パキスタン問題の雪解けのように見える状況を、サヨクさんたちが内心「これで複雑な核問題触れなくてすむぞ」とに喜び舞い上がり、まいどのお笑いを演じたということ。あまりに滑稽なので引用しておこう。


 両国の間には領土紛争だけではなく、根深い宗教対立がある。それを解きほぐすには、双方が建前にとらわれず、雪解けがもたらす果実を語り合うことだ。

 馬鹿みたい。
 そんなことはさておき、私はというと、この印パ問題の動向がよくわからない。率直な印象をいうと、インドが国力をつけてきたのに対して、パキスタンは米国の締めで音を上げてきたかな、というくらいである(ちなみに、先日のムシャラフ大統領暗殺事件はどうもタイミング良すぎ)。
 少し、フライングすると、インドは民族主義が可能だが、イスラム圏の国家の民族主義は本質的な困難があり、それはこの世界の趨勢だと極めて不安定になるしかない。よく言われるカシミール問題だが、これは私の認識はかなり間違っているかもしれないが、ま、思うところを書くと、テロリストの温床と言われているがそんなのはスリランカと似たようなもので南アジア全域の潜在的な問題であり、顕在的な問題の構造的な背景は、あの地域の地主をどう懐柔するかというだけ、ではないのか。だからあまり騒がず、観光の利をうまく配分する知恵があれば、問題は事実上解決する、のでは。
 併せて、現状では、大国ヅラを始めたインドと同じく大国ヅラの中国との問題も緩和しているように見える。近代化とは金持ち喧嘩せずではある。
 総じて見れば、日本では米国は狂っているとかいうけど、数年前世界最大の問題とされていた印パ問題を安定させたのは米国の世界戦略ではないのか。このあたりの米国の国際戦略の全貌が目先の問題に振り回されてよくわからない。もともと米国には一貫した国際戦略などないし、ロビーが強すぎて一部の利権で国政が振り回されるのが常態なのに、国民の大半は貧乏、かっぺ、デブときているから、そいつらが国政にときたまときたま、ずどーんと出現する。「ま、子ブッシュはないだろ、子ブッシュは」と思いつつ、おとっつあんからみやらロビーの思惑も妥協して今の米国になる。なんとも茫洋としているからいろんな妄想を投げて「日本の国際ジャーナリスト」も仕事になる。
 印パ問題に関連してもう一点気になるのは、南アジアの民族問題の象徴としてのスリランカだ。スリランカは今どうなっているのだろう。テロが盛んな時期でも観光客に被害など出そうにないという話は現地の経験者から聞いたことがある。曖昧な印象でいうのだが、スリランカとインドとは違うとはいえ、類似の民族抗争の潜在性は高い。つまり、インドの民族問題は潜在的に非常に危険ではないかと思う。
 とはいえ、あれだけ懸念されていたインド人民党(BJP)だが、なんとか国民会議派の政権から移行しても、さして問題はないように見える。政治の状況からすれば、二大政党だし、スリランカのような問題を秘めているわけでもない…だが、あの国は大き過ぎる。構成上はヒンズー教徒が多数を占めるとはいっても、地域の差は大きい。なにしろ言葉が通じない。
 ついでに不用意に触れると当方の無知丸出しになるが、いいか。気になるのだ。インド洋における米軍のプレザンスを支援しているのは当然インドなのだが、そのあたりの国益やインド政権内での決定はどうなっているのだろうか、ということ。
 問題の一つの極はディエゴ・ガルシア島だ。歴史的な背景については英語でちと読みづらいががーディアンの"US blocks return home for exiled islanders "(参照)は基礎知識。物騒な言い方だが、対米戦略の火遊びを日本がするなら、このあたりの問題でインドと裏を通じておくこともかもしれない。ただ、火遊びが過ぎると危険きわまりないので、この話も終わり。
 締まりのない話になったが、世界を底流で変えているものは、私の認識では、マクロな人口動態である。中国とインドに注目しなければいけない。中国については喧しいわりに、インドが手薄になるとひどいことになるよ、と。

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2004.01.08

朝日新聞の「外国人」意識

 どうでもいい話ではあるが、朝日新聞「ちょっと元気に――町の小さな『大使館』」に苦笑した。日本人と結婚し気仙沼で暮らしている42歳のクェート人が、地元の「外国人」をサポートしているという、ありがちな美談だ。私など、そのクェート人の出目自体に下品な関心を持つのだが、そういうインフォはないし、それはとりあえずどうでもいい。苦笑したのは、結語だ。


 外国人抜きには産業や生活が成り立たない時代が来つつある。日本の将来を先取りする知恵と工夫を広げよう。

 私には、これは、未来永劫「外国人」として差別しようというかけ声にしか聞こえない。朝日新聞は、所詮「外国人」など日本を出稼ぎ先と見て安心しているのかもしれない(朝日新聞なんか購読できる金銭的な余裕もないしね)。
 私の感覚からすれば、そういう外国人に日本籍を与えて日本人にするか、居住の保護を強めて実質上の国籍の保護をすべきだと思う。そういう発想は朝日新聞にはないのだ。サヨクってのは、反米だからじゃないけど、結局民族主義者なのだ。民族仲良くとか表向きほざいているけど、日本国家を開こうとはしない。
 やけっぱちのようだが、それはサヨクの戦争反省の意識にも現れている。つねに、アジア対日本という構図で、アジアに謝罪するのだ。なにも謝罪ばかりがのうでもあるまいというのは私にはどうでもいい。私が気になるのは、そういうアジアに向き合う実体としての日本だ。そんな日本を固持することで、沖縄がますます理解できなくなる。端的に言う、沖縄は日本か? そうだということになる。だから、沖縄人もアジア人に謝罪せよというのだ。おい、おまえさん、沖縄戦知っているか? なに吉田司が、沖縄人だって戦争に荷担したと言っている? あのな、誰が誰に殺されたのかと考えて欲しいよ。それが戦争っていうものだよ。アジア人っていつ国家に閉じこめられたのか。靖国神社には台湾人も韓国人も祀られているが、彼らはどっち? 日本に荷担した悪いやつだから、日本人の側に入って、アジアに謝罪せよか。もう、そういうゲーム自体、やめろよと私は思う。国家としての国策のけじめが必要だし、そのラベルが「謝罪」であってもいい。でも、問題はそういう日本の国策の問題というゲームに閉じるべきだ。日本文化は大切にすべきだし、日本という国が確固としてあってもいいと思うが、それは日本国民の政治表明であって、無前提な民族主義は右翼も左翼もやめてもらいたいものだと思う。
 朝日新聞は正義面してこうも言う。

 日本にはいま超過滞在者を含めて200万を超す外国人がいる。少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに、政府の態勢は省庁の枠を超えて総合的に考える機関すらできていない。

 絶句する。アメリカは少子化ではない。理由はなぜか。ヒスパニック系が子供を産むから。国というものはそういうものなのだ。「少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに」というふうな発想は、米国の文脈でいえば、白人主義と同じだ。朝日新聞って、実は、そういうことを言っているのだ。
 この話はこのくらいで止めよう。日本人の庶民がなんだかんだと「外国人」と摩擦を起こしつつ、それを終局的に日本に包括するという方向で考えるほうがいいと思う。ちょっとうんこ投げられるかもしれないけど、在日が減って、朝鮮系日本人が増えるほうが、日本社会にはいいことだ。ああ、抑えられない。キョポ(僑胞)と呼ばれるより日本人になれよ、と。そうすることで、日本を開いて欲しい。

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円高、防戦あるのみ

 毎日新聞社説「ドル安円高 介入は愚策 米に注文付けよ」を取り上げる。問題の背景はドル安円高だ。問題は、この原因をどう認識し、どう対処するかだ。単純であることが悪いわけではない。毎日新聞社説の結論は単純だ。つまり、原因はドルの威信が低下していることであり、対処としては日銀の介入は誤りだから日本国政府は米国の財政に文句を付けるべきだ、というのだ。
 私は毎日新聞の認識は間違っていると思う。私の認識がそれほど正しいという感じもしないのだが、最初にそれを書いておく。まず、原因はドル安は米国の財政戦略そのものである。そして対処なのだが、原則論ではなく、臨戦体制を維持せよ、つまり介入せよである。円高、防戦あるのみ。
 奇妙な言い方になり、失笑を買うかもしれないのだが、マクロな経済問題というのは原因が的確に認識されれば対処が的確になるものではなく、皮肉にも原因の推量が違っていても対処が的確になることがありうる。本質的な複合性を持っているからだろう。と、逃げのようだが、そうとしか思えない。余談ついでに少し暴言を吐くと、マクロ経済というのは学問の方法論上本質的な倒錯なのではないか。というのは、最大のパラメーターである人間の欲望を常に疑似化する(方法論上当然でもあるが)。
 以下、さらに失笑を買いそうなことをあえて書いていきたい。まず、毎日の次の筆法が私には理解できない。


 しかし、このドル安は手放しで喜べるものではない。景気回復の裏側で財政収支、貿易収支が5000億ドルもの大赤字となっているからだ。

 私は単純に思うのだが、米国はその赤字解消に政策的にドル安としている、でいいのではないか。毎日新聞にはなにが不満なのか、よくわからない。日本経済への杞憂のつもりなのか。
 関連して、誰もが気になるのだが、ドルの威信が揺らぎ暴落するのだろうか。私は、そのストーリーはなさそうな気がする。こうした私ようなぼんやした安心感自体がドルの魔力かもしれないのだが、私はドルの存在自体が、対アジアと対EUの経済兵器になっていると思う。というのは米国の国民の実体経済はNTFTAで保護されているし、あの国はもともと貧富の差といような国民の統合意識に乏しい。逆に言えば、その愛国心から国民の平等な統合意識に、この大統領選に関連してぶれるかどうかという点が、米国の大きな揺らぎをもたらすという意味で、潜在的な地雷なのではないか。またカーターが出ては目もあてられない。もともとゴアじゃなくてブッシュというあたりに米国のとんでもない田舎っぺ性がある。
 対処側として、毎日新聞のいうように、米国財政に口出しせよといっても、そもそも無意味じゃないのか。小林よしのりがいきまくようなお笑い漫画を繰り広げてもまさにその場しのぎの慰撫にしかならない。米国に注文を付けるならそれなりの脅しを使わないといけないのだが、日本は腹をすえているわけでもない。ちょっと気持ちの悪い言い方だが、田中角栄くらいの玉がいたら、中国を操ってできるかもしれない。が、それは夢想だ。
 私が是とする介入の臨戦態勢維持だが、正直言うとこれは、けっこう日本にきつい選択になるのか、よくわからない。無知をさらけ出すことになるかもしれないが、あえて言うのだが、日銀の大規模介入というのはマクロ的にインタゲと同様のエフェクトをもたらすのではないのか? 単純に言えば、無駄なペーパーマネーをじゃぶじゃぶと垂れ流せ、と。ただ、このあたり、デフレの根幹自体が円高かも、というのと多いに矛盾して大笑いかもしれない。
 冗談はさておき、現状、円高でびびる日本を狙って、投機筋から大規模な戦闘が起きるのから、それにはまいどまいど本気で水をかけたほうがいい、と思う。先日の「毎日新聞曰わく、溝口財務官は狂気の沙汰」(参照)では、私もそーかなとも思った。年末だったか年始だったか、塩爺も出てきて2003年の為替を議論する番組を見ながら若干考えを変えた。
 番組を見ながら気になっていたのは、溝口財務官の大規模介入の評価だ。番組は、どうも私のような素人では、エコノミストのヒドンコードによるメッセージが読み取れないのだが、概ね、「しかたないか、しかし、効かなかったな」ということのようだ。つまり、「効かせるようんするしかねーだろ」だ。という背景に塩爺がうまく説得を持たせる風でもあったが、あれっと思ったのだが、塩爺たちは円安ドスンの状態を誰が起こしたか犯人捜しをけっこうやっていたようだ。なにも私もその線で話に載るわけではないのだが、ようは、日銀自体も覆面介入なのだが、為替に意図をもって介入するタマは誰かが決定的な要因になりそうであり、そういうタマのアタマがなければ、小タマは国家的な介入でけちらすべし、でしかなさそうだ。
 この点はちょうど毎日新聞の視点と逆になる。毎日は日銀介入を批判する理由の筆頭を次のように言う。

第一に、介入で相場の転換を図ることは、プラザ合意などの例外を除けば不可能だからだ。大規模であるとはいえ一国で達成できると考えているのか。この先も巨額の介入を続けることは、むしろ、投機筋にドル売り安心感を与え、ドル安を加速しかねない。その結果として、同特会の含み損が増えることになる。

 違うだろうと思う。当面の問題は安定的な相場ではないからだ。ただ、問題は投機筋の規模にどこまで日銀が対抗できるかということだし、この日銀のボロボロな姿がどこまで各国にどのようにアピールされるかということでもある。そして、必然的な円安はそもそも阻止できないのだし、それに乗じた投機というのは、正当なものだ。
 気になるのは、そうした投機筋の規模なのだが、それらが小国を越えるのは当然だが、どのレベルになるのだろう。さらに変なことを言うのだが、その規模が日本を越えて、日本が撃沈されるということになるとすれば、それはそれで正しい帝国主義の進展なのではないか。それは、私は、100%ブラックジョークではないなと考えている。EUというのもそういう意味では通貨戦争の保護だし、オーストラリアやニュージーランドなどいずれ雌雄を付けなくてはならないし、なによりアジア諸国だ。と思うと、中国に下るわけにもいかないのだから、ニッポンは期待の星であるべきなのだろうな。

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2004.01.07

冬の沖縄 その2

 なるほど「東京ウォーカー」に綴じ込みの沖縄観光の広告が載っていた。紙質がいいので豪華な作りのようだが、いただけないな。広告主は内閣府。総費用は3600万円。それだけお金をかけるなら、沖縄の若い編集スタッフをごっそり東京に呼べよ、すげー面白いのができるから、と思う。
 「東京ウォーカー」には東京の沖縄料理屋の情報もある。めくりつつ、銀座にこんなに出来ていたのかと、少し驚く。料理はどれもたいしたことなさそうだなと思うが、ZENは、けなせない、すりの王様だしね。他、高円寺の抱瓶は写真で見ると、昔と変わってないみたいだ。あまりうちなーんちゅは集まっていないのではないか。総じて、「東京ウォーカー」に出ている店には、うちなーんちゅは客に来てなさそうな気がする。吉祥寺近鉄裏の「琉球」はどうだろうか。
 今、東京に出ているうちなーんちゅはどんな層になっているのだろうか。明治の一世から数えれば、四世、五世か。そうなればもう沖縄の文化から、とぎれているだろう。といって、島のほうでも復帰っ子の世代は、それ以前と文化的にとぎれている。それで沖縄の文化が失われてきているかというと、そうでもない。
 本土には沖縄好きが多い。沖縄通も多い。少し皮肉に聞こえるかもしれないが、現在、観光的なイメージで見せられている沖縄というのは、80年代以降、観光のイメージと共鳴しつつできたものなのだ。端的な話、それ以前のうちなーんちゅは泡盛すら飲んでいなかった。いや、泡盛は飲まれていたが今みたいな上品なものじゃなかった、と言えば、批判されるだろうが、戦後から復帰まではあめりかーの文化であり、戦前の沖縄はまた違ったものだった。
 「東京ウォーカー」のような「沖縄」は本土側のイメージなのだ。そういえば、本土では反戦ソングとして定着している「さとうきび畑」という歌があるが、あんな歌を知っている50代以上のうちなーんちゅはいないと思う。歌の意味も通じないだろう。あの歌に描かれた光景は、沖縄戦からはほど遠い。逃げまどう民衆は「夏の日差しのなかで」はガマに潜んでいた。そのガマで爆殺されたり、病で死んでいった。「鉄の雨にうたれ」というフレーズは沖縄タイムス社が1950年に出した沖縄戦記「鉄の暴風」の連想だろう。「さとうきび畑」という歌はメディアのイメージが出来ている。戦前にもさとうきび畑はあったものの、それが島の「基幹産業」となり、沖縄の風景になるのは米軍の施策の結果なのである。と、くさしたいわけではない。沖縄戦の実態とかけ離れた詩に酔うことは私は不愉快なだけだ。
 復帰っ子たちはある意味、不思議な新しい沖縄を作り出していく。その象徴は、「ちゅらさん」でお墨付きを得た、あの「やまとうちなぐち」だろう。あれならとりあえず、日本の方言にも聞こえるし、現地でも使われている。飲み屋のオヤジ役でも出ていた藤木勇人の指導によるものだが、あれだけでも日本文化史の偉業だ。そういえば、藤木勇人は映画「パイナップルツアー」で爆弾掘っていた彼である。
 話がそれた。「東京ウォーカー」の写真をぱらぱらめくる。「ごーやーちゃんぷるー」は正統。ちゃんとポークが入っている。チューリップ吉。SPAMじょーとー。スクガラスの豆腐は島かな? 「みぬだる」はちと違う。「なーべーらちゃんぷるー」とあるが「んぶしー」だろ、と思うが、豆腐が入っているのが「ちゃんぷるー」の定義であったか。ちなみに「そーめんちゃんぷるー」は「そーみんたしやー」だが、うちなーんちゅにも通じない。いか墨汁(さぎぐすい)はニラ入りかぁ。折り込みのほうのぐるくん唐揚げはじょーとー。この形でじっくり揚げてないと骨は食えない。「ニンジンしりしり」も今やメジャー料理かと思う。これは本土でも定番になっていい、と思うが、本土には、うちなーんちゅの家庭ならどこにでもあるしりしり器がない。
 うんちく臭いのでこの話はやめようと思うが、一つだけ泡盛のお薦めはしておきたい。いろいろ好みがあるだろうが、私のお薦めは八重泉の黒真珠である。泡盛は43度はないと味は出ない。迷うならコレを買え。飲むときは、うちなーんちゅのように水で割らないこと。「からから」を使ってちびちびと飲む。肴はなんでもいいが、「豆腐よう」吉。似ているからといって腐乳はだめ。「六十(るくじゅう)」なお吉、といって、うちなーんちゅでも知る人は少ない。
 冬の沖縄と言えば…雨期である。「東京ウォーカー」などを見て、行こう!と思った人は、天気予報にご注意。これから3月までは1か月以上、陽の目を見ないこともある。そして、意外に寒いこともある。12月22日は、正月。中華圏の春節に同じだが、沖縄では旧正月を祝う地域と、新正運動が行き届いた地域が分かれている。糸満も港のあたりは、しょーがちらしくてよい。この季節美しいものは、きび(さとうきび)の穂だ。これが夕日に映える光景は極楽のようである。ほかに冬の沖縄でなにか忘れたかと、うちなーんちゅうに訊いてみる。
 「あのさ、ふん、これからおきなわに行って、でーじ面白いもの、何?」「桜」……。そうだ、緋寒桜があった。が…あ、すみません。これって本土の人が見ても、美しいものじゃありません。それでも、うちなんちゅーに連れられて北部に行くときは、路脇でタンカンを買うといい。個人的にはクガニ(黄金)のほうを薦めたいが、種が多い。

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お馬鹿な日本版ニューズウィーク編集長コラム

 たぶん、ジョークじゃないんだよなと思うので、標題を「お馬鹿な日本版ニューズウィーク編集長コラム」とした。こんな人を貶めるような標題付けるなよであるが、意図的にそうする。日本版ニューズウィーク編集長がこれじゃ困るからだ。米版のザカリアも最近はすっとぼけてきたが、お馬鹿ではない。いや、極東ブログさん、おめーさんのほうがお馬鹿だよ、というのがわかれば、撤回したいのだ。むしろ、早々に撤回したいくらいだ。それが理解でないで、自分の馬鹿を晒しているなら私の知性の限界はここまでである。
 で、なにか。日本版ニューズウィーク編集長藤田正美のコラム「おかしな日本の安全保障感覚」の次のくだりをまず読んでもらいたい(参照)。


 自衛隊が派遣されるのは、簡単に言ってしまうと「石油」のためである。日本にとっては最も重要な二国間関係である日米関係のためでもあるが、それでも日本がこれほど中東の油に依存していなければ、わざわざ国内の反対論を押し切って自衛隊を派遣したかどうかは疑問だ。

 おい、そーなのかよ、である。そして、これを読んで私は、おめーさん、馬鹿?と思ったのだ。
 少し回り道で引用する。

 かつて湾岸戦争のとき、日本の中東原油依存度は約70%だった。それだけにアメリカから「日本のために戦ってやっている」などと言われて、当時1兆7000億円もの資金を拠出した、というより事実上拠出させられたのである(それでも「カネは出すが血は流さない」と陰口をたたかれもした)。

 なんだそれ。つまり、藤田の頭のなかは、「日本のエネルギーを支えるのは石油。そして、中東原油依存度は約70%と大きい、だから中東の石油のためには、米軍の尻にのって中東の石油を抑えておかなくてはならない」ということだ。もしかすると、藤田ってインリンの着ぐるみか?
 思考が間違っているのではないか。日本の中東原油依存度というのは、日本が購入している石油の内訳を見たら、「あれま、中東が70%なんですね」というだけの話で、直に中東から買っているのではなく、単なる石油マーケットから買っているだけ。もっとも、石油マーケットの大半は中東でしょやっぱ、となるかもしれないが、それにしたって、マーケットが維持されればマーケットはマーケット原理で動くのだから、石油は日本に調達される。つまり、石油のために米国が戦っているのでもなければ、日本の自衛隊も石油のために中東に行くではなく、石油のマーケットの維持でしょう。そして、石油のマーケットというのは、他の商品と同様の世界マーケットの副産物であり、むしろ優等生的な商品の一つに過ぎないではないか。なにより、この国際マーケットが維持されることが世界平和っていうことじゃないんですかい。
cover
世界を動かす石油戦略
 なんだか、「世界を動かす石油戦略」(ちくま新書)を読めよ、というだけの話になりそうだが、ふとアマゾンの評にこの本のくさしが載っているかと思ったら、なんにもなかった。誰かとんちきなくさしがいたほうが、少しはメンタルトレーニングにいいくらいなのに。
 ついでなんで、もうちょっと極東ブログらしい、悪態をついておこう。イラクの石油が正常な国際マーケットに載れば、サウジは頓死だよ。難しい話は抜きにして、さっさと近代化が前進する(俺ってネオコン?)。

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社会の男女差別は問題だが…

 朝日新聞社説「男女差別――和解は大きな前進だ」を読んで複雑な気持ちになった。極東ブログ毎度のくさしをするつもりはない。この手の問題は無視するほうがいいのかもしれないとも思う。ただ、自分の心のなかのもやっとした気持ちに向き合ってみたい。またしても私的な話かよと、言われるかもしれない。そうなのだ。ごめんな。
 社会問題としては表面的にはそれほど難しくはない。朝日社説のきっかけも単純といえば単純だ。


 「女性であることを理由に、昇進や昇給で不当な差別を受けた」。住友電気工業の女性社員2人がこう訴えて、同社と国を相手に損害賠償を求めていた8年越しの裁判が、大阪高裁で和解した。
 会社は50代の原告2人をそれぞれ課長級と係長級に昇格させ、500万円ずつの解決金を支払う。国は実質的な性別による雇用管理をなくす施策を進める。そんな内容だ。一審判決を覆す事実上の勝訴である。働く女性たちは、大いに励まされるだろう。画期的な裁判所の判断を評価したい。

 裁判としては当然の結末ではないかと思う。朝日は後続段で昇級に踏み込んだ点を評価しているが、今回の裁判のポイントはそこだろう。国への施策にも踏み込んでいるように、会社内での女性差別の問題は金銭の問題ではなく組織の問題とせよということだ。当たり前のことだ。
 この判決の影響で住友電気工業は他に4人の女性を昇級させたという。それも当たり前といえば当たり前のことだ。だが、と口ごもるのだが、庶民の感覚としては、朝日のように威勢のいい正義のラッパを吹いて済むことでもない、と苦笑話になるのではないか。些細なことだが長年の差別に500万円の解決金が見合うのかわからないし、そうして昇級した人がやっていける人事を持てる大会社っていいな、呑気だな、と大衆の標準は思うのではないか。私のようなスネ者でも、娑婆ってそうじゃないよということくらい知っている。
 娑婆の会社は女性にさらに厳しいかというと、そうとばかりも言えない。というのは会社の競争生存の原理がキツイから、有能な女性をタメておくことなどできない。大会社を呑気だと思うのはそんなところだ。社会学的に補強できるかわからないが、私の世間知からすれば、能力のある女性はその能力に腹をくくれば30半ばで社会にきっちり生きる。日本にはそういう能力主義がある。馬鹿なと非難するやつがいたら、少しばかり中年男のドスを効かせて「そういうもんだよ」と言ってみたい。
 もちろん、そんなことが本質的な解決になるわけでもない。なにより、女性の一生でそんな腹のくくらせを迫るというのはどういう意味なのか、実はよくわらかない。男はといえば、ある意味もっと苛酷な状況に10代くらいから腹をくくっているものだ(ああ、俺の人生なんてこんなものだなぁ、いい天気だな今日も、という感じである)が、問題は、そういう内側の腹のくくりではなく、イヴァン・イリーチのいうシャドーワーク的なもの、なんて気取ることもあるまい。端的に、中年に至る時期の家事育児の問題だ。
 中年までフェアに男が生きてみれば、社会の仕事のきつさというのは家事育児のきつさと同じくらいものだ。若いころの「恋愛」のなかで密かに誓った思いというのは、端的に家事育児のきつさにも耐えようという決意であるものだ。昨今、恋愛難民だの恋愛なんかいらないと吹聴するヤカラがいるが、ふざけんなよ、男の純情なくして家事育児の修羅場は耐えねーよ、と思う。
 だが、それに耐えようとしても、男は無力なものだし、また、その無力を覆うように日本の会社社会ができていた。と、甘えんじゃねーと言われるかもしれないが、率直言うのだが、男はたいていそんなに強かぁねーよ。
 日本は絶対的には貧しい社会ではなかったが、相対的に貧しい社会だったので、家庭の収入が家庭の運営の一義的なモチベーションになっていた。だが、それはあくまで相対的な貧困であって、絶対的な貧困ではない。その分、家庭はフィクションにならざるを得ない。稼ぐ旦那と主婦というフィクションで、それにがんばる子供を加えてもいいかもしれないし、少しエコや市民運動的なフレーバーを付けてもいいかもしれない。消費を増すことで相対的貧困のスレショルドを高めてもいいかもしれない。いずれ、フィクションだから意味がないのではなく、フィクションだからフィクシャスにその姿は変わるというだけだ。現代の離婚などもそういう普通のフィクションの変奏でしかない。今その相対的な貧困をパラメーターとするフィクションは、多様ではあっても、すでに男を守らない形態になっている、と思う。
 話が曖昧になってきたが、現在大手の呑気な会社や公務員はさておき、女性の社会評価を根本で狂わしている、男のその無力感の回避メカニズムはもう機能しなくなった。以前も十分に機能していたわけではないが、隠蔽するだけの相対的な貧困があった。今は男の無力はうまくサポートされない。もっとも、それでも、女のように腹をくくるかという切羽詰まったものもないから、甘チャンであるとは言える。
 と書きながら、そんな濃い世界自体、若い人間なら、男も女もパスしてしまいたくなるだろうなと思う。私としては、パスするなよと言いたいが言えるほどでもない。ついでにに、今朝の朝日新聞社説「ちょっと元気に――京の町家に住む新鮮さ」では若い世代が古い町に生きるみたいなことを美談仕立てにしているが、30代前半の子供のない夫婦二人だけの生き様など、あえて言うが、どうでもいいことだ。
 話が重くなったので、先の朝日の社説の結語でも笑い飛ばして締めよう。

 どの企業も労組も今回の和解の意味をかみしめてほしい。日本では、まもなく労働力が不足する。年齢や男女を問わず、一人ひとりの意欲と力を生かす。そういう職場にしなければ、会社は生き残れない。

 けっ、朝日の労組さんたち、ご勝手に。

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2004.01.06

景観が問題ならまず標語の立て看をはずせ

 本題前にちと横道。朝日新聞社説「ちょっと元気に――跳んでみよう団塊世代」がすごい話だった。高齢化を向かえる団塊の世代に頑張れというのだ。もちろん、それ自体はどうっていうことではない。


 「ぬれ落ち葉」なんて言葉がはやったのは、バブル景気のさなかだった。定年後の亭主は、ほうきで掃き出そうにも、女房にへばりついて離れない、と。
 バブルがしぼんで、気がつけばサラリーマン受難の時代。定年後どころか、まずは会社にへばりつくことが先決、といった気分が世の中を覆う。

 え? 団塊の世代って男を指すのかとまずツッコんでおこう。そして、「挑んでみよう」として新たに事業を起こしたい人たちはどうすればいいかについて、杉本さんというかたのアドバイスを4点挙げているのだがこれがすごい脱力もの。

  1. 1、2年分の生活費を準備
  2. 生活費と事業資金を分ける
  3. 家族の理解を得る
  4. 何事も楽天的に考える

 杉本さんというかたはそれでいい。がこれを社説の記事として書いた執筆者を早期定年させて娑婆の空気を吸わせろよと思う。この話題はこれで終わり。
 今日社説であれ?っと思ったのは、日経新聞社説「にっぽん再起動(最終回)子孫に誇れる美しい国土をつくろう」だった。といっても、この社説の内容自体は標題から連想される以上のことはなにもない。私が変な感じを受けたのは例えば次のようなくだりだ。

議事堂の景観問題は日本の都市計画の貧困を象徴している。日本人は欧米の街の美しさに驚く。古城や教会などはもとより普通の商店街や住宅までが美しいのは、都市計画に基づいて質の高い景観を維持しようと地元が努力を続けてきたからだ。

 私は欧米の街に深く馴染んだことがないので、嘲笑されてもかまわないのだが、端的に問う、「日本人は欧米の街の美しさに驚く」か? 普通の商店街や住宅までが美しいか? なにか勘違いしていないか。もちろん、感性の問題かもしれないのだが。
 関連してこれも私は変だと思う。

日本もかつては美しい風景を誇る国だった。家々の落ち着いたたたずまい。緑あふれる街並み。日本の情緒を映す風景は戦後、次々と姿を消した。街はコンクリートで固められ野山を公共事業が蹂躙(じゅうりん)した。無計画な東京一極集中と、地方の過疎化に拍車がかかった。

 本当か? この文章を読むと戦前の風景は美しいというのだから、執筆者は何歳だ。戦時の国土を美しいというわけもないとすれば、昭和15年以前か。すること執筆者は70歳。老いのたわごと? もし、経験者でないなら、その風景とやらはどこから来たか? メディア? すでに現実と幻影の区別が付かないのか。
 と、皮肉るわけでもない。こうした日本の景観論はおかしいのではないか。つまり、欧米は美しい、日本の戦前は美しい…。
 私としては、率直に言うと、そんなこともどうでもいい。新潮「考える人」連載中島義道を真似るわけではないが(参照)、日本の景観が美しくないのは、まず、街に溢れる標語の立て看などはないのか。ドイツ人の若いお姉さんだったが、「目の侮辱」と書いていた。
 美観というのは、多様なものだ。比較的最近のニューズウィークの日本語版だったが(と探す手間を省くが)、日本の都市の夜景の美しさを賛美している外人がいた。他になんだったか、日本の文字に埋め尽くされた繁華街に奇妙な美観を感じている外人もいた。なるほどと思うかよけいなお世話と思うか。
 個人的な思いを少し書いて、今日は終わりにしたい。中央線で荻窪あたりから新宿までの高架で街を見ていると、私は東京というのはスラムに見える。だが、あの赤さびのような家々とその路地には、舞い降りて見れば、奇妙な秩序が存在していて不思議な宇宙を形成している。次の震災で一掃されるのだろうが、火災と流言飛語がなければ、このスラムのほうがはるかに安全なのかもしれないとも思う。美しい光景とは思わないが醜いとも思わない。ある生物のある最適な生息の形態かなと思うし、それには関心を持っている。いつもあそこを電車で通るときは、昔の子供のように、私は電車のガラスに額を押し付けて飽きもせず見ている。

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2004.01.05

[書評]芸者(増田小夜・平凡社ライブラリー)

cover 私はよい書評家ではない。駄文を書く。よい読書家でもない。私は若い頃は自分を読書家だと思っていた(渡辺一夫全集とか読んでいたし)が、歳を取るにつれ、そう思わなくなった。実際、たいして本は読んでいない。恥じる。それでも、本を読むことは生きる上でなんとも、のっぴきならぬことにはなった。このあたりの思いは、人それぞれ多様だろうが、それでも本に取り憑かれた人生というものがあり、私もその一人のはしくれではあるのだろう。
 くだらない話だが、本に憑かれた人間は人口の1%くらいだろうか。日本人1億2千万人だから、1%でも100万人を越える。そんなにいるわけはない。まともな本の出版部数は3千程度である。資本主義の天国と地獄のアマルガムで出版人の魂を塩梅よく苦悶させる数値だ。山本夏彦が言うように本というものには困ったことにいくばくか魂が籠もる。魂が強く籠もれば読まれて千人。その千人が数分野生息して、日本の読書人の多層的なコアになっている。このコアは強い。李登輝が日本には読書人がいることに羨望していたが、わかる。このコアの層の支持に図書館と大学の買い上げが底上げして、なんとか日本の出版界のまともな部分が支えられている。底上げには副作用がある。岩波と朝日新聞だ。緩和な副作用が三省堂や紀伊国屋か。ここで苦笑するあなたも、本に人生が狂った人かもしれない。
 そうした魂を持つ本なかでも、さらに磨きがかった本がマレにある。古典と言うには偽善臭いのだが読み継がれる本だ。本書「芸者」はそうした珍しい一冊だ。
 本の説明としては芸がないが、アマゾンの説明を引くとこうだ。もっともこれを引くにはわけがある。この評はつまらないのである。本書の面白さはそこにはない。


「芸者」増田小夜
幼くして芸者に売られ、戦中戦後の混乱期を生きた女性の数奇な半生。一見華やかな芸者という職業の陰に隠された近代民衆の苛酷な生と、そこに息づく力強い魂の姿を描く。1957年刊の増補改訂。

 これで間違いはないし、そう読まれてもきた。「数奇な」という表現に逃げがあるが、従来は悲惨な女性の自伝として読まれていたようだ。
 初版は1957年、平凡社。その後の詳しい出版の歴史はわからないが、2版は1973年らしい。その後、1980年にほるぷ自伝選集/女性の自画像18で出ている。1995年に現在の平凡社ライブラリー版がでる。
 この事実自体が私の人生に符丁するところが多い。作者増田小夜は1926年、つまり大正14年生まれだ。私の死んだ父は大正15年生まれなので、増田の人生の時代風景は、私にしてれみば、父を回想するに等しい。そして私は本書が出た1957年に生まれた。本書の自体、私の人生の想起に等しい面がある。
 1957年、つまり昭和32年に本書が出ると、ベストセラーと言えるのかわからないが、強く社会に受容されたようで、昭和34年には増田の半生の自伝である本書をネタに映画「からたち日記」ができる。この映画の詳細情報はgooでわかる(参考)。あらすじもgooに掲載されているのだが、話は物語風に脚色されている。漫画の「ブラックジャックによろしく」とテレビ版ほどの違いではない、と言えないのかもしれないが、芸者は悲惨、恋いに生きるは良し、でも女は自立する、というわかりやすい仕立てになっているようだ。私はこの映画は見ていない。他にもテレビドラマ化されているようだ。
 私がこの本「芸者」を知ったのは、中学生時代だったか、たまたまテレビの高校通信講座現代国語でこれを扱っているのを見たためだ(私は教養番組を片っ端から見ていた)。テレビでは、直接「芸者」を取り上げていたのではなく、臼井吉見が薦める三冊の本というようなエッセイだった。後の二冊は忘れたが、「芸者」だけはなぜか心に残った。
 テレビで紹介されていたのは、「芸者」の子守の部分だ。主人公の増田は物心ついたとき、長野県塩尻に近い村の地主の家で子守をしていたのだが、その陰惨な描写だった。子守をしながら素足が凍えるので片足ずつ交代している様子から彼女は「つる」と呼ばれるという話だ。描写力もすごいものがあった。
 臼井吉見の話では増田が文盲であったことが強調されていた。言葉が書き下せなくても、強い心を持てば真実の文章が書ける、といったような内容である。中学生の私のことである。それを鵜呑みにした。
 高校生時代の私は「芸者」という本が読んでみたかった。もともと臼井が高校生に薦めた本でもある。探したが無かった。臼井としては1973年の2版の出版状況を見てエッセイにしたという面もあったのだろうが、私が知ったのはちと遅かった。確か、浪人のときだったと思うが、私は国会図書館に行き、自分と同じだけの年数を重ねたその初版本を手にして、読んだ。といっても読んだのは始めの部分だけだったので、なるほどこれは悲惨な、しかし感動的な物語だと思った。また、いつか国会図書館で読もうと思ったものの、時を経て私は30代も過ぎた。
 少し脱線する。私は「おしん」は「芸者」のパクリではないかと思う。もちろん、昨今はやりの剽窃といったものではまるでない。「芸者」の大衆受けの部分をその時代にアレンジしたのだという意味だ。おしんの放映は1983年である。ほるぷ自伝選集の「芸者」1980年と妙に合う。話のうち、貧家に生まれ、親から離され、金持ちの家の守りとなり、盗みの疑いを着せされる、という点はまったく同じだ。もちろん、パクリでもないのかもしれない。それはそれでたいしたことではないのだが、おしんと「芸者」では決定的な違いがある。おしんでは親がおしんを愛しつつも奉公に出すのだが、「芸者」ではただ売られただけでその親には親心のかけらもないのだ。虐待も「芸者」では極めて性的もので、これでPTSDにならないとすれば、現代のPTSD問題の解決のヒントはこの本にあるかもしれないという悪い冗談を言いたくなるほどだ。
 おしんの話は、生長の家の信者にしてヤオハンの和田一夫の母カツ(ちなみに生長の家の信者はこの母ゆずり、つまりおしんは生長の家信仰なのである)がモデルなので、時代的には増田より一世代上になる。私の考えからすれば、親子の情なんてものがその時代にあったのか疑わしく、「芸者」のほうにに歴史を感じる。さらに余談だが、海外で「おしん」が受けるのは少女編だけ放送しているからだ。あの物語が受けるアジアと開発途上の状況には一定の条件があるのだろう。
 話を戻す。私は1995年版で始めて「芸者」を読み通した。すばらしい人間の書であると思った。そして、この正月読み直した。まったく感想が変わるというわけではないが、印象はだいぶ変わった。むちゃくちゃ面白く、痛快だった。
 この本の愛読者に石を投げられるかもしれないが、私はこの本は、ピカレスクであり、エロッティックな書物だ思う。なにも本のタイトルが芸者だからエロティックというのではない。内容が、とても、よいのだ。カウパー腺液にじみ系ではないし、もともとその手の直裁なエロ話は私は好みではないのだが、よいのである。これに比べれば、団鬼六なんかふざけたレトリックである、というくらい、ぐっとくる。もっとも、そっち系の人だとねっちり感が足りないだろうが、私はそんなのいらんわい。
 こう言っては人非人だが、とにかく痛快なのだ。この面白さはなんだろうと思う。主人公は、身請けの老人に向かい、自身を「底意地の悪い人間」だと認識するのだが、そうなのだ。この人はいい意味で本当に底意地が悪い。そして、46歳の男として思うのだが、そういう19歳の女とはなんと魅力的なことだろう。
 本書の増田の大活劇は、ハイティーンから20代の話なのだ。若い女とはこういう存在だったのかと驚く。かつて自分が若く、同年代と思っていた女たちにも、この本性がひそんでいたのかと思うと、打ちのめされて立ち上がれない。
 極め付きのシーンは、木登りの上からの放尿だ。おっと、これは増田ではないのだが、そのあたりは読むかたの楽しみに。それにしても、こんな爽快な映像はないんじゃないか。なぜ、この本から爽快なピカレスクな映画ができないのか、と思う。崔洋一なら出来るか。ちっと重たいか。
 「芸者」では、歴史の微細な話も、めっぽう面白い。彼女と戦争の関わりの薄さということ自体も面白い。同時代書だけが告げる面白さでもある。そして戦後の朝鮮人コミュニティの生き生きした様もいい。初の女性参政権の選挙の「やまむらしんじろう」も胸につまる。男、山村新治郎、は、1992年に娘に刺殺されてしまったな。
 「芸者」を読みながら、最後に追加のようについている彼女の童話が、彼女の半生と日本の女の歴史の無意識を奇妙につないでいる。なんとも不思議なものだ。
 芸者世界についても、本書だけでもいろいろ重要なことがわかる。これを丹念に読めば、小谷野敦のような恥はかかずにすむだろうなどいう軽口はいけない。彼もこの本は読んでいるのだし。
 本書の舞台諏訪は、芸者の世界では本流ではないのだろうが、もともと芸者の歴史は江戸吉原が中心というわけではない。むしろ、續近世畸人傳に描かれている三國の哥川のような像のほうが重要ではないかとも思うが、本書「芸者」の世界も芸者についての一つ重要な歴史モデルにはなる。それにしても、「玉(ぎょく)」「お茶を引挽く」「左褄」といった言葉がこの本「芸者」ではなんの注もなく書かれているが、現代では多少注を付けたほうがいいのかもしれないと思う。
 正月にこれを読みながら、以前にも増して、増田が信州人であることがわかった。私には、会話のなかの信州方言がまるでナマのトーンで耳に迫る。なんてこったと思う。が、ふと、ああそうか、臼井がこの本に惚れた理由もわかった。臼井もまた信州人であったのだった。

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いやそれなら、信濃国

 共同のニュースを引用する。「『信州』への改称検討 田中康夫長野知事」というニュースだ(参照)。


長野県の田中康夫知事は5日の仕事始め式で、長野県から「信州」への改称を検討していることを明らかにした。理由として「『信州』は既に認知され、評価されている」などと語った。

 ひぇ~である。やるなぁである。そんなの他府県人にはまるで関心なかろうが、それこそ信州人の悲願でもある。信州ナショナリズムの泣かせ所を突いている。それをやったら、私ですら、ヤッシー贔屓になってしまうかもしれない、と、理性が飛ぶ。いやそれなら、信濃国のほうが…とか。ああ、海こそなけれ物さわに、よろず足らわぬことぞなき、である。かくいう私はディアスポラの信州人でもある。この関連は「トラジ、トラジ」(11.20)や「仁科五郎盛信を巡る雑談」(11.02)など。
 長野県人は他府県人には「長野県人」というが、内心では「信州人」だと思っている。沖縄県人と「うちなーんちゅ」みたいなものだ。もっとも、若い世代はそうもいかないのだが、それを言えば、キムチを食わない韓国人だっている…てな話になる。
 しかし、そういう信州というのは、実は近代の産物でもある。信州は、もともとは、中世イタリアみたいに、小国家的な14藩が盆地を中心に寄り添っていただけだ。信濃の国はじっしゅう(10州)にぃ、である。
 大政奉還、明治になってもまだ当初は長野県と筑摩県に分かれていた。このほうがまだ自然だ。だが、明治政府は長野を県庁所在としたことで、勝手に長野県にまとめてしまった。信州人が合点したわけでもない。ヤッシーの今回の方針は象山佐久間先生の信州人の遺恨でもあるのだ。
 「長野」県がなんとか持ちこたえていたのは、県庁所在地にある善光寺がけっこうキーになっている。あれは、信州をイタリアに例えればローマのようなものだ。あれを県庁に抑えられているのでしかたがない、というのは冗談だが、善光寺は信州の象徴でもある。ディアスポラの信州人でも一生に一度は善光寺参りをしなくてはならないし、一日五回の聖地礼拝は欠かせない。冗談です。
 長野県が信州になるなら、ついでに、あの「野沢菜」という醜い名称も止めて貰いたい(製法も昔のように塩漬けだけにせよ)。「野沢菜漬け」など論外である。「な」でいい。「お菜」というほうが信州人らしい。「お葉漬け」もいいだろう。正しい食べ方は、お茶を飲みながら食べるのである。お茶といっても、普通の茶ではない。茶にも信州人の作法があるのだ。伝授しよう。急須に一度番茶を入れる。この先が難しい。そのまま十煎を越えようが茶葉を変えてはいけない。これが極意だ。それではお湯ではないか!と批判してはいけない。そして、相手の茶碗に湯、もとい、茶がなくなったら、さっと継ぎ足す。これが信州人の礼儀でもある。
 信州人は政治的な民族でもある。こたつに足をつっこみながら、そして若者は政談を交わし、老人は「たくらねごと」と呟く。いいぞ、そうではなくては信州人とは言えない。
 長野県が信州に改名したら、今度は「ずくなし追放運動」を推進してもらいたい(ディープなジョークですみません)。

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新聞社説という不快

 今日は新聞各紙社説の話題を散漫に取り上げるので、テーマは薄いのだが、共通したモチーフはある。不快ということだ。新聞社説が実に不快だ。私的なことかもしれない。そのあたりの感覚がぶれているのか書いてみたい。
 毎日新聞社説「『夢見る力』を取り戻そう 世代超える価値を求めて」はいきなり終戦時の河井酔茗の詩で始まる。あえて散文ふうに冒頭を引用する。「子供たちよ、お前たちは何も欲しがらないでも凡てのものがお前たちに譲られるのです」終戦の気の迷いをさっ引かなくてはいけないが、それでもこの詩は愚劣だ。この詩を枕にして、毎日は「いったいその私たちは子供らに何を引き継ぐことができるのだろうか」と問う。そんなスタイリッシュな悩みを見せつけられれば、「ふざけんな全共闘世代氏ね」と言いたくなる若い世代の気持ちもわかる。かく言う私も同じムジナで同じ唄を歌っていたのだろうか。次のような毎日の言い分は私には傲慢に聞こえる。


民主主義とは、今生きている人の投票による子孫への独裁である。子孫の将来は、現在の有権者の想像力のなかにある。それはなにも経済の成長力の見通しや、国民負担率の推計といった数字で表される指標のことだけをいっているのではない。今現在のわたしたちの暮らしが、どのような未来への夢や理想によって支えられているか。それが子供らの運命を決めていくことをいいたいのだ。

 「逝ってよし」としか言えないな。この毎日のボケかげんはなんだろう。むしろそこのあるのは絶望なのだが、と思い起こす。柴田翔の「おまえ文学やめていいよ」を決定づけた迷作「ノンちゃんの冒険」に哲学さんとかいう登場人物がいて、次世代に絶望するとはなんとは傲慢なことか、と諭す。それだけは正しい。毎日新聞社説のように剥きだしの傲慢さより絶望のほうがましなようだが、絶望というものは私や私の世代が自らの鏡として抱きしめてこの世界から消えていけばいよい。毎日新社説の了見とは違い、私たちの夢が子供たちの運命を決めることなどできない。だが、新しく生まれてきたものの新しい希望を否定することもできない。もっともそんな一般論など要らない。古い世代がかろうじて出来たことが絶望に至ったにせよ、それが歴史のなかにどのような勇気を刻んだかが重要だろう。「プロジェクトX」のような美しい「物語」が慰撫でしかないのは、悲劇に向かうという真の勇気を暗示しないからだ。なにも悲劇に向かえというのではないのだが。
 読売新聞社説「決断の年 テロ撲滅なしに平和はない 正念場のイラク再建」は標題を見るだけで、儀礼的無視より、疲労を最小限減らすために無視すべきかもしれない。テロなど撲滅できないよ、それが新しい世界の基礎なのだから。しかし、私は責務のようにこの社説を読んだ。不快ではあるが、ふーんという感じもした。ナベツグラッパは執筆者の上で雑音に鳴っているのかもしれない。というのは、「テロ撲滅なしに平和はない」とはこの社説は言ってないのだ。小見出しをまたいで変な引用になるが、文章がもともと変なのだ。

 日本は、米英への支持を表明し、軍隊を派遣した他の約四十か国とともに、フセイン政権の崩壊後、イラクの復興支援の一翼を積極的に担っている。
 【急務は民生の安定化】
 この有志国家連合にとって、イラクの再建は、共通の最優先課題である。テロの温床化を防ぐことが、テロ撲滅にもつながる。

 引用が変になったのは、高校現代国語的に「この有志国家連合」の「この」が何を指すかがよくわからないからだ。現代国語的には、小見出し前の一文が答えなのだろうが、もちろん、答えになっていない。この奇っ怪な文章は、ようするに、「有志連合がイラクを再建することでテロを撲滅する」とは言えないので、いくらラッパが鳴ってもねじれたわけだ。記者の最後の良心か。それでも不快で愚劣なしろものなのだが、問題はむしろ、「有志連合」だ。イラク派兵問題は喧しく議論されるのに、有志連合についてきちんと議論されているのを私は見たことがない。私の見識が低いだけかもしれないが、Foreign Affairsの解説でも十分ではないと思う(参照)。この問題も極東ブログで十分に扱ってはこなかったなと思う。
 余談めくが読売の次の見解はどうかしているんじゃないか。

北朝鮮が、核兵器の量産と小型化に成功すれば、日本は、核搭載の弾道ミサイルの脅威にさらされることになる。

 これも私の見識が低いのかもしれないが、その脅威こそもっとも現実性のないものだと思う。あるいはそういう読みがすでにこの一文に含まれているのかもしれない。つまり、現状のテポドンは弾道ミサイルの脅威ではない、ということだ。そして、あの国力と中国依存の状況で「核兵器の量産と小型化に成功」するわけはないと私は考える。
 不快な朝日新聞社説も笑って終わりにすべきかもしれないが、よく読むと「京都議定書――発効を待たず前に進もう」は見過ごすにはあまりに変だ。

 「まず先進国が削減の義務を負い、将来、途上国が続く」という形は、長い交渉の結果たどりついた基本的な合意だ。先進国が約束を守らないまま、途上国に義務を強いることは現実的でない。議論を振り出しに戻すのではなく、まず議定書の枠組みを始動させる。途上国の参加をめぐる本格的な議論はそれからだ。
 途上国が削減を達成するための手助けを待っていることも、忘れてはなるまい。
 途上国の温室効果ガスの排出は2010年代に先進国を抜くともいわれる。とりわけ中国では過去20年間に二酸化炭素排出量が2倍になり、いまでは世界の14%近くを占める。2020年には車の数が現在の8倍に増えるという予測もある。先進国は中国をはじめ途上国と燃料電池など最新技術の協力を早く進めるべきだ。

 不快という点を除いて、この文章はなんなのだろう。中国寄りの朝日新聞という修辞なのはわかる。だが、背景に京都議定書はダメかもというトーンがあるのではないか。つまり、本音ではダメだけど、それをなんとか政治的に使えと。実は私はそういう発想は悪くないと思う。私もあの議定書はもうしばらくアメリカをこづき回す道具にだけ使えばいいと思う、が、あれでマジで中国による地球環境の悪化を防ごうと考えるなら、それは全然違うのじゃないか。このあたり、外交上の政治のツラと、本当に地球環境をプラクティカルに分ける冷静さが必要だ。朝日に食い込んでいる山形浩生は力を持ちつつあるだろうか。ただ、ちょっと気になるのは、山形に世界というものの認識があるだろうかということだ。浅田彰のように世界認識があっても向きが違うというのも困るのだが。
 朝日の社説のもう一点「ちょっと元気に――変わらなきゃ老人クラブ」にも触れておく。問題は、高度成長時代にマイホームの夢として施策された当時の大型新興住宅(兎小屋)の高齢化問題だ。この社説は、統計も示さず、「変わらなくていけない」と放り出している。不人情極まるし、もともと朝日にそんな見識もない。そんなものだろうが、気になるのは、この手の問題が社会的に取り上げられるとき、その解決とされるような例がすべて頓珍漢に見えることだ。私は正攻法を見たことがない。
 繰り返すが、昭和30年代から40年代にできた大型新興住宅の高齢化問題について、社会学的な施策として取り組んだ論説はないのだろうか。というか、社会学を応用してみせてほしいと思うのだ。
 私の個人的な勘で言うのだが、この問題はその住宅の一部や近隣に大型マンションを造ることではないか。そうすれば二世代の小型の内部化された村ができる。この点は、もう少しくだいて説明すべきかもしれないが、今日はここまでにしたい。

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2004.01.04

なぜフランスはスカーフを禁止するのか

 昨年、フランスのライシテ(非宗教性)について書き忘れていた。フランスでは日本同様信教は自由であるが、同時に憲法で「非宗教性」が明記されている。端的に言えば、フランス国家はまったく諸宗教から独立していなくてはならない、ということであり、そのことから公共病院や公教育において、宗教性が厳格に排除される。そこで、昨今の問題となっているのが、イスラム教徒の女子学生のヘッドスカーフだ。単純な話では、学校ではスカーフをしてはいけないということで、それに反対する生徒が退学処分にされたりした。この問題はイスラム教徒から猛反発を受け、社会問題になったのだが、年末シラク大統領は法制化を決断した。
 ニュースは、仏国家功労章を受章した山口昌子を抱える産経のニュース「公立校のスカーフを禁止 宗教色排除で仏大統領」が、国家寄りではあるものの、適切だろう(参照)。


 フランスのシラク大統領は17日、大統領府で国民向けに演説し、公立校でイスラム教徒の女子生徒がスカーフを着用することを法律で禁止するよう求めると発表した。
 11日の諮問委員会の答申などに沿った決定で、宗教色を排除し「共和国の価値」を再び強調して国民に結束を訴えるのが狙い。17日付のフランス紙パリジャンが掲載した世論調査結果では、スカーフ禁止の法制化に国民の69%が賛成、反対の29%を大きく上回った。イスラム団体をはじめ、宗教団体や与野党の反応もおおむね肯定的だ。

 記事からはイスラム団体が肯定的だとしているが、それは一面事実なのだが、別の側面では国際的な反発も強い。そのあたりは、ロイターの「フランス、スカーフ着用禁止に数千人が抗議デモ」(参照)などのニュースから伺えるが、この件でイラクなどもフランスに激怒していたと聞く。
 この問題について、日本のおフランスな哲学者はどう考えているのか意見を聞いてみたいものだが、実はこの問題はすでに湾岸戦争の時にある程度色分けはできている。ちなみに今回はジュリア・クリステヴァは断固非宗教性支持に回った。また、おフランスではないが、エドワード・サイードを担いでいた日本の知識人はなんというだろうか。サイードの世俗性とフランス国家の非宗教性を混乱するという珍妙な絵が期待できたら愉快だ。それでも、なんとなくだが、日本の知識人は宗教の自由の観点からイスラム女性学生のスカーフを認可しろとでも言うのではないだろうか。フェミニストはスカーフは性差別だとか言うのだろうか。イラクに行って言ってきな、であるのだが。冗談はこのくらい。
 シラク大統領の発言のニュースでは、ロイターなども含めて、目立たない程度の宗教的な象徴の着用はよしという点が強調された。先の産経のニュースでもそうだ。

 大統領は「イスラム教のスカーフやユダヤ教の帽子ヤムルカ、キリスト教の大きな十字架は公立校では受け入れられない」としたが「目立たない小さな十字架やバッジ、(ユダヤ民族の象徴)ダビデの星などは認められる」と述べた。

 じゃ、イスラム教徒女子学生だってミニコーラン(というものがある)をアクセサリーに付ければいいじゃないか、という頓珍漢な議論が出てきそうだ。似たような誤解は、現地で暮らしている日本人にもあるようだ。なにも非難しているわけではなく、よくまとまった記事で情報を提供してくれているのは評価するのだが、メールマガジン「フランスの片隅から」2003.8の「イスラムのスカーフ」(参照)を例にしよう。やや引用は長くする。

 フランスに来たばかりの頃(1997年)、私の頭にあったのは政教分離=公の場ではいかなる宗教的シンボルも着用してはいけない、でした。だから、大学図書館の窓口業務をしていたお姉さんが、タートルネックのセーターからわざわざ十字架を出して身に付けているのを見たときは、本当に驚いたものです。
 語学クラスで一度この話題になった時、ライシテ(非宗教性)がすべての宗教を否定するのでなく、すべての宗教を尊重する考え方なのだとしたら、宗教的シンボルを隠してしまうフランスのやり方は変じゃないか、という意見が多数を占めていました。私もそう思いました。それに、キリスト教の十字架がOKで、イスラムのスカーフがNGなのは変だとも思いました。
 でも、その後、学校に皆がそれぞれの宗教性を身につけて登校した場合の不都合を考えてみて、特に自分の意見がまだ定まっていない小学生などの場合、親が「あの子は**教だから一緒に遊んではいけない」などと介入したら、相手の宗教の尊重どころではなくなるだろうというところあたりまで話が進んできて、感情では割り切れない部分が残る問題だからこそ、理屈で線を引いておいた方がいいのだな、と思うようになりました。

 日本人はそう発想するのだなということと、別にこうした発想は日本人にも限らないのだとも取れる。だが、問題の本質はまるで違うのである。それはなぜイスラムがここまで女子学生のスカーフにこだわり、フランスの非宗教性に反発するかを考えてみるとある程度理解しやすいかもしれない。と、もったいを付けた書き方をしたが、ヘッドスカーフ着用はイスラムの法なのである。日本やキリスト教圏では、信仰とは個人の内面の問題に還元されているが、イスラムにおいて信仰とは法の遵守であり、スカーフの着用は法で決められているのだ。そしてこの法は、本質的に国家を凌駕する。イスラム教であるということは、イスラムの法が国家を支配することになる。これはフランスと限らず、近代国家には許し難いことになる。だから、スカーフが問題なのだ。
 と、書いたものの、反論はあるだろう。トルコはどうか。ドイツはどうか。マレーシアはどうか。この問題について、それぞれの国の状況は説明できるが、今日は省略する。だが、それでも端的に言えるのは、そうした折衷的な解決法が真の解決になるのかということ自体問われなくてはならないし、フランスの非宗教性がこの問題の本質を描いていることは間違いないということだ。
 フランスの非宗教性の直接的な典拠は、1958年フランス第5共和制憲法第2条「フランスは不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である」なのだが、フランスと非宗教性の関わりはさらに1946年第四共和国憲法以前に遡る。重要なのは、「教会と国家の分離に関する法律 (1905)」だ。こうした問題の詳細は、フランス大使館の社会の項目の非宗教(参照)に詳しい。この文書は非常に面白い。読んでいてはっとさせらたのは、特に次の点だ。

以上のように非宗教性とは、単なる法的システムではなく、文化であり、エトス(倫理的規範)であり、また、論議を拒否する既成の言説によって精神を支配するような「聖職者至上主義」からの開放の動きなのである。クロード・ニコレ教授は、非宗教性のこの本質的な(そして体系化できない)側面を次のような言葉でみごとに明らかにしてみせた。聖職者至上主義による支配の試みに対して非宗教性が歴史的に成し遂げた勝利を、今度は、人間一人一人、市民一人一人が『自らの心において、絶えず実践していかなければならないのだ。人は誰しも、他人や自分自身に対して強制的態度を取りたがる小さな「帝王」や小さな「聖職者」、小さな「重要人物」、小さな「専門家」に、いつでもなりうるのだ。それは強制されてかもしれないし、誤った理論からかもしれないし、単に怠惰や愚かさによってかもしれないが』。しかるに、非宗教性は『そのことから身を防ごうとする、困難ではあるが日常的な努力なのである。(中略)非宗教性とは、知性と倫理の厳密さを最大限に高めることで最大限の自由をめざすことであり(中略)、非宗教性には、自由な思想が必要である。

 つまり、非宗教性の本質は法によって体系化できるものではなく、自由を求める市民の義務とせよするエートスなのだ。フランス革命は続くよ、どこまでもである。
 なお、この正月、靖国問題をうざったく語ったついでの文脈で言えば、そうはいっても、フランスはパンテオンや凱旋門を舞台に国家儀礼を行うし、戦死者を国家の儀礼で弔う(この点は日本でも先日の外交官の死で目にした儀礼に似ている)。その意味で、国民国家であることは不可分に宗教的な共同性を発生させてしまうのだが、そこがまさに理性の限界でもある。ただ、ではそこから靖国の理論が生まれるかというと、私は違うと思う。その背景にはフラタニティ(現代フランスでいうならソリダリテ)が問われるからだ。フラタニティはソサエティでもあり、資本論的なアソシエーションでもあるのだが、この問題を系統的に議論したものを私は読んだことがない。

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そして、中国リスク

 三が日が開けたのだが、読売新聞社説などはまだ屠蘇酔いが残っていて醜い。産経も似たようもの。案外、日経も同じようなものかもしれない。金融再生について、日経新聞社説「にっぽん再起動(3) 金融再生、気を緩めるのは早い」はこうだ。


 第二に、地方経済の再建という視点が大事だ。農業や公共事業などに頼っていてはじり貧になる。株式会社による病院や学校、農業経営の解禁や自由度拡大などの規制改革や、構造改革特区を活用した外資を含む企業誘致などを進めるのが、地域金融再生の観点からも肝心である。

 それは正論である。が、現場を知らないなと思う。昨年と同じ唄を歌うのもつまらないが、なんとくこの文章からは共通一次試験世代の臭いのようなものも感じる。地方と概略せず、具体的に島根県、沖縄県、青森県といった個別のケースとして議論してみせてほしいものだ。それと、「地方」とは東京を含む。地方を強くするということは、東アジアに1千万人の新国家が誕生するに等しい。ちなみに、ニュージーランドの人口は400万人である。オーストラリアは2千万人だ。しかも移民で膨れている面も多い。なのに東京が事実上新国家化すれば、その周辺県を巻き込むからオーストラリアより巨大になる。この問題は、今年からの課題になると思うが、今日はあまり触れない。
 私は酒も飲まないがもう少し日経に絡む。

 また予防的な資本注入が、弱った金融機関の安易な救済につながらないよう、資産を厳格に査定するほか、経営の規律づけが大切だ。利害関係のない民間有識者による経営改善計画の審査なども欠かせない。足利銀のように過去二回も公的資金を投入しながら一時国有化に至った行政の失敗を繰り返してはならない。

 これは初笑なのでないか。わっはっはと笑い飛ばすための話に見える。弱った金融機関とは「みずほ」じゃないのか。また、足利銀の問題は足利銀で終わったのか。しかし、この問題もあまり今日は触れない。ただ、日経も今年も日経らしくピントがずれていくような予感にワクワクする。
 朝日新聞の社説は無視したいところだが、縁起物なので触れておこう。標題「靖国参拝――独りよがりに国益なし」が痛快だ。結語はこうだ。

 「日本の平和や繁栄」を祈ったと、参拝後の首相は語った。だが、靖国にまつられている人々の多くが亡くなったのは、アジアで日本が始めた戦争ゆえだった。日本だけでなく「アジアの平和や繁栄」を大事に、というのも戦没者の思いではないのか。そういう視点が首相にも欲しい。

 なるほどである。「靖国にまつられている人々」には韓国人や台湾人も含まれているのだ。彼らも巻き込んで日本は戦争をした。ところで相手は誰? アジアって韓国や台湾を含まないのか。コロニアルな状況に置かれた沖縄とはアジアではなく日本なのか。のわりに、沖縄を構造的に未だに差別している日本とはなにか。そもそもあの戦争は、日本対アジアの戦争だったのか。また、戦没者の思いというのは、確かに、日本だけでなく「アジアの平和や繁栄」を大事に、ということであった。これを大東亜共栄圏と呼ぶ。とま、もちろんそこまで言えば悪い冗談である。歴史の事実は朝日新聞のように短絡化できない。またその鏡像のような短絡化も許さない。
 前フリが長くなったが、今朝気になった社説は毎日新聞の「貿易構造が変わった 中国を日本の再生に生かせ」だけだ。どうも毎日新聞社説はクセ玉が多いなと思う。ブログに近いいい加減さもある。それが端的に悪いわけではないが、朝日や読売のように読まないでもわかるほど明快ではない込み入ったジョークもある。
 で、そのテーマなのだが、とりあえず標題どおりに、「中国を日本の再生に生かせ」かというとそうでもない。ようは、中国リスクだ。そう先日のアメリカリスクという発想と同じ。結語はこうだ。

 とはいえ、政治的にも感情的にも、日本と中国は複雑な関係を抱えている。簡単ではない。
 また、中国はリスクに富んでいる。貧富の格差、沿海と内陸の発展の不均衡、国有企業がらみの不良債権、不動産バブル崩壊の可能性、電力などインフラの未整備、地方政府の赤字、農業部門の潜在失業者、行政腐敗、法治社会への移行。中国を日本の通商戦略の基礎に位置付けることは、そうした中国リスクに備えることでもある。

 この結語には特に意味はない。中国リスクという言い方は訴求力があるものの、この結語はナンセンスなクリシェに過ぎない。またしても言うが、この発想にも共通一次試験世代の臭いはする。
 だが、気になるのはそういうことではない。明瞭なファクツがあるからだ。それはこの冒頭にうまく描かれている。後段は予想を含む。

 日中貿易の拡大が続いている。米国がカナダ、メキシコと北米自由貿易協定を結んだ後、日本は米国にとって第3位の貿易相手国に落ちた。他方で日中貿易は、日本にとって中国は米国に次ぐ第2の貿易相手国に、中国にとって日本は最大の貿易相手国になった。
 02年に日中貿易は往復で1015億ドルに達し、日米貿易の1761億ドルに迫った。中国は01年12月に世界貿易機関(WTO)に加盟し、国際基準を踏まえたルール作りを急いでいる。08年の北京オリンピックに向けてインフラの整備も続く。中国研究者の間には、日中貿易は05年に1300億ドル、10年には現在の米国並みの1800億ドルに達するという予測もある。

 直接関係ないが、NTFTAは日本を牽制している。米国はいざとなれば、貿易面で日本を必要としない。そのあたりをメキシコですら読んでいるのでFTAに強気で出る。ただ、金融面では日本と米国は一心同体なので、そこは米国の癪の種であり日本に無益な浪費策のようなものを講じている(MDとかね)。
 このファクツが示す問題は、いずれにせよ、中国にとって日本が第二貿易相手国となっているということだ。日本は当面は市場なのだ。が、ここには少し奇妙な構造がある。毎日も触れているが、当然のごとく、日本側は210億ドル赤字になる。だが、対香港貿易を含めると日本は21億ドルの黒字になる。これを指して毎日はトントンというのだが、そういう話じゃないだろとツッコミたくもなる。この構造は変だし、この変が巨大化するような気もする。
 それでも、メガトレンドとしては12億人が紙で尻を拭く時代になることは間違いない。それを阻止するにはイスラム教を広めるしかないというねじれたジョークはさておき(イスラム教では肛門を水洗いする)、長期的には中国の黒字が基調になるようにも思えるのだ…と、少しトーンが下がるのは、理屈ではそうだが、歴史の流れを見ているとそうなのか合点がいかない。
 毎日の社説はごちゃごちゃとしている。途中で「今はだいぶ沈静化したが、中国脅威論というのがある。逆に中国崩壊論もある」というくだりもある。この悲観論に対して、「そんなことはない」という文脈で語られているし、日本でも概ねそうなのだろう。が、私は、どちらかといえば、中国崩壊論に組している。エコノミスト的にそれを説明できないが、私の歴史感覚がそうさせていると言ったものの、勘と独断でしかない。
 毎日に引きずられて話がねじくれてしまった。なにも中国崩壊論をメインに言いたいわけではないのだが、毎日さんも結局「中国リスク」という言葉の裏で中国崩壊論の予感を持っているのではないか。日本は長期に崩壊するが、中国はどこかで短期に瓦解するのではないか。ただ、ソ連型ではないだろうし、すでに中国は社会主義国ではなくなりつつある。
 もちろん、そんな極東ブログの懸念を初笑としてくださって、多いにけっこうである。むしろ、そうされるほうが日本の健全さを示すかもしれないとすら思う。

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2004.01.03

恥ずかしき無駄知識 トリビアの泉

 たいしたネタではないが、正月の「トリビアの泉」を録画してあったので、CMを飛ばしつつ見た。総じて面白かったが、毎度ながら食えないネタも多い。浦島太郎は老人となった後、鶴となった、については、一応万葉集にも言及していたものの、室町の物語の原形とするのはいかがなものかなどとは思う。その他、この番組を見ていると、なにかと日本人も無教養になったものだなと脱力することが多い。が、今回はちと脱力を通り越した。局に苦情はなかったのだろうか。ことは、「神を数える単位は柱」というネタだ。
 そんなことも知らないのか、今の人はと思う。文春が出した愚劣な現代語訳の古事記もけっこう売れたのだから、そんなもの「へぇ」でもあるまいにとも思う。だが、しかたないなとも思う。番組では神主だったか専門家に「柱」を確認したが、その後がいけない。おふざけなのはわかるが、七福神を、いちはしら、にはしら、さんはしらと数え始めた。馬鹿かおまえら、そんなもの神かと思う。ジーコだの長島だのも「神」にして「柱」で数えるというあたりが、「使えるネタ」のつもりなのだろう。私は、しかし、馬鹿かおまえらという思いより、やがて不快になった。
 話が靖国づいてしまうのだが、端的に言う、戦死者もまた「柱」と数えるのである。国のために命を捧げた者を柱と数える。その柱という言葉の響きに日本人は畏敬と悲憤を持っていたのではないのか。
 もちろん、そう言えば、「おまえは、戦死者が神になる」と信じているのかと問われるかもしれない。「なんだかんだ言って、おまえは靖国神社推進派か」と。そう問われても仕方ないし、そう問う人に返す言葉もない。自分の家の者であれば、馬鹿者と一括を喰らわせるところだが、私にはそこまでの愛国心はない。戦死者が神になるわけはない。そんなことはあたりまえだ。だが、戦死者への畏敬と悲憤がそれを「柱」と呼ばせるのである。その思いのない人間を日本人の同胞だと思うことは、私には難しい。
 私はこの極東ブログでサマワは比較的安全だと書いた。それを撤回する気もない。だが、イラク派兵で自衛隊に死者が出ないとも思わない。理屈を言うようだが、死者も出ない安全な地域なら民間人が行けばいいのだ。しかも、すでに週刊文春の対談で野中が諭しているように、すでに民間人は行っているのだ。なんのことはない、イラクが危険だから行くな、なのではない。自衛隊が行くなというのは、どうやらイデオロギーの問題であり、その問題をまたここで蒸し返すだけの気力もない。
 自衛官に死者のないことを祈るが、死者が出れば、私は動揺するだろう。そしてマスコミは「柱」とは言わないだろうと思う。
 戦後半世紀近くなって、いまだ故国に戻ることもできない幾柱もが外地に残されている。沖縄戦の遺骨収集も終わっていない、と、この話もやめよう。自分もなんだか爺ぃ臭くなったなと思う。

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靖国参拝問題がわからない

 新年の新聞各紙社説はあまりピンとこなかった。自分の受け取り側の問題もあるのかもしれないと思う。ピンとこないと言えば、私は靖国参拝がよく理解できない。私は歴史に関心をもつ人間だし、よく寺社仏閣巡りなどもしたほうだとは思う。僧坊に泊まっていたとき、どっかの婆ぁさんに「お若いのよい信心なさいますな」と若い頃は褒められたくらいだが、かく書くように実は私には信心はない。宗教に関心を持つほうだと思うが、なにも信じていない。宗教的な苦しみはもちろん持つのだが、既存宗教にその解決を求めたことはない。ようするに音痴みたいなものだ。
 昨日雑煮にかこつけて、父のことや家系のことを書いた。それからインパールで戦死した叔父のことを思った。父なき今、叔父を追悼するのは棟梁たる私のつとめかとふと思った。彼は靖国に祀られている。参拝にいかなくてはなと思うが、そこにさして英霊がいるとも思っていないし、それほど靖国に思い入れはない。叔父は私の生前に無くなったが、どうも、亡き父や祖母に聞いたことを思い起こすに、私のような人間であったようだ。私は彼らの目からは叔父の生まれ変わりのようにも見えたのではないかと思う。叔父といっても、22、23で亡くなった青年であったのだ。
 小泉の靖国参拝もさして私の気にとまらない。彼は知覧で号泣したというから英霊への思いも強いのだろう。イラク派兵の死者を見越しているのかもしれない。
 私は英霊という問題については何年も考え続けた。彼らは犬死になのか?騙されていたのか? 私は叔父は国家に殺されたと思う。それにあらがうことなどできなかったのだと思う。私もその状況にあれば、国家に殺されるのだと思う(そして実際に殺されるときに「ああ、俺はお国のために死ぬのか」と思うだろう)。私は国への愛はあるが、あの悲惨なインパール戦は評価しづらい。だが、私の英霊問題の解決は年とともに自然に解決した。不気味なことを言うようだが、英霊の思いは私のなかに生きているのである。端的に彼らの思いは私に蘇って生きている。それだけのことだ。それはとても自然なことだ。だが、それをうまく語ることはできない。神秘的な話をしているつもりはない。そうした自分のありかたに対して、靖国の持つ地歩は、しかしあまりない。繰り返すが、こうした問題に私は音痴だからなのだろう。
 小泉が靖国を参拝した問題について、朝鮮日報はこう言う。


日本がアジアの被害国家に最低限の礼儀でもわきまえる思いがあったなら、第2次大戦の戦犯を除いた新たな追悼施設の建立論議を、あれ程簡単に放り出しはしなかったはずだ。

 私は端的に、そうだなと思う。追悼施設を作ればいいだけのことではないかと思う。対するに産経新聞社説はこうだ。

 日本における戦没者慰霊の中心施設は靖国神社である。首相の靖国参拝が中国からの抗議で中断される前、歴代首相はほぼ毎年、春秋の例大祭や終戦記念日などに靖国参拝していた。小泉首相が「年一回」と言わず、何度でも靖国参拝を続けることにより、それが慣例として再び定着することを国民とともに願いたい。

 「日本における戦没者慰霊の中心施設は靖国神社である」そう言われても、そう思う人がいるんだなというくらいにしか理解できない。大平首相や速見日銀総裁はクリスチャンだったから、日曜には礼拝に行っていただろうと思う。個人がどんな信仰を持つのもさして問題になるわけでもないし、大平首相や速見日銀総裁のような大人が国のために死んだ兵士を追悼する心がないわけもない。靖国などめんどくさいこと言うなよ、なのではないか。
 書くだけくだらないことになる。私は、英霊が犬死にだとも思わない。強い思いを私に残したのだから。あの戦死者は我々が弔っていかなくてはならない。だが、それが靖国である必要が私には理解できない。

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2004.01.02

雑煮の作り方

 正月なので雑煮の作り方を書く。最初に断っておく。正確な作り方ではない。我流だ。必要なものは、カツオのダシパック、薄口醤油、みりん、餅、小松菜、鶏もも肉、蒲鉾。ニンジンはあってもいい。準備は、ニンジンを薄切り半月で小松菜と一緒に最初に湯通ししておくことくらい。鶏もも肉は食いやすいように切る。炙っておけるならそうするといい。餅はかならず焼き目を入れる。

雑煮
 ダシ汁を作る。2人分なら400CCくらいか。パックを入れて2分も煮立てればいい。ダシについてはうるさく言う人が多いがそんなことを気にしていては料理が煩瑣になるだけだ。気にしない。鶏肉を入れ、火を通す。ダシ汁に薄口醤油と味醂を大さじでそれぞれ半分ほど入れる。あとの具を全ていれて、熱くなれば終わり。料理とも言えないようなしろものだ。雑煮とはそんなものだ。手間をかける食いものじゃない。追記 このレシピだと甘いので味醂の量は好みで減らすこと。味醂はなくてもよい。
 醤油は薄口がいい。たいていの日本料理は薄口でいい。なのに、なぜか醤油は濃い口のしかも戦時醸造が日本の主流になった。みりんはできれば3年ものがいい。いんちきな発酵調味料とやらに比べると安くはないが酒に比べれば安いものだ。みりんで日本食の味が決まる。餅はちゃんとした餅がいい。ちゃんとした餅がわからなければ、この時期、和菓子屋で売っているのし餅がいいだろうが、量が多すぎるかもしれない。蒲鉾には選択の余地はない。できれば、物にもよるが昔ながらに作っている沖縄のものがうまい。
cover
京料理の福袋
 当たり前のことだが、雑煮は具を単純にすればお吸い物になる。お吸い物にしても味噌汁にしても、きわめて簡単にできるものだ。もともと、家庭の日本食は手間をかけるものじゃない。20分でできないような料理は失格だ。
 雑煮と言えば、村田吉弘「京料理の福袋」にある「雑煮の難儀」というエッセイが面白い。この料亭の三代目は芋頭入りの雑煮を毎年食わされたという。嫡男なので「かしら」を食わされるのだ。でかいらしく、それを3日かけて食うという。食べきれなければ残りが連続して出てくるのだ。

もし、あなたが長男なら、お気の毒なことですわ。あの、誇らしくもみじめな雑煮。

 村田は雑煮について、楽しい記憶はないという。芋を食うたなぁという記憶だけらしい。立派なものだと思う。嫡男というのはそうやって育てなくてはいけないと思う。嫡男というのは、父親の葬式を出し、老母と弟・妹の面倒をみることのできる人間ではなくてはならない。つらいものだが、運命だ。
 私は嫡男である。祖父が嫡男ではないので、一族郎党の主ではない。父は、戦後で順送りで長男となったので、戦後は長男の役を果たしたが、故郷は捨てた。親を捨てたと言ってもいいかもしれない。そのスキを見て叔父は父が生きている内に家の財産をくすねた。盗人である。が、父はそれを知って耐えた。耐えることで長男たることをことを示した。父は墓を分けた。静かな怒りである。父の死後、叔父が私に勝手を言うので、私は激怒して縁を切った。私が正嫡なのである。私は村田のように嫡男の教育を受けたわけではないが、父が嫡男であればその嫡男は嫡男になるものだ。いくら武家の血を引くからといって、まさか自分自身がそういう古めかしい倫理を持つとは思わなかったが、気が付けばそうなった。私は単純に正義を愛する人間だが判官贔屓ではない。頼朝の立場に立つ。天武天皇を認めない。嘘歴史だと知りながら弘文天皇を是とする。あきれたものだと自分を思う。
 元旦、実家に挨拶し、手持ちぶたさなので、昔の書棚から氷川清話を取り出してぱらぱらと読んだ。氷川清話は講談社文庫のものがよいが今絶版だろうと思ってネットにあたると、学術文庫から出ている。日本も捨てたものではない。読みながら、小吉は鱗太郎を嫡男して育てているなと思う。小吉自身は妾腹三男だったが、夢酔独言にはその父が小吉を人としてまっというに生きさせるためにこっぴどく叱る話がある。書棚には夢酔独言があるはずだが探すのが面倒になった。南州遺訓も書棚の奥のようだ。まあいい。それよりもと思い、父の墓参りに行く。
 雑煮の話からそれまくった。お年取りの飯の話なども書こうかと思って書き出したのだが、やめにしたい。

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日米地位協定運営マニュアルの暴露

 新聞は休刊である。よって社会的なニュースはない、はずもないが、大きな社会問題のトピックはない。
 些細なことでネタにもならない話題だが、米国でこの間エフェドラ販売が禁止になった。国内のニュースでもある程度話題になっている。もとはと言えば、「メタボライフ365」というふざけたサプリメントが発端なのだが、その話はここでは書かない。気になったのは、国内ニュースを見るかぎり、どうも誤解されているのではないかとということ。例えば、共同ではこうある。


 エフェドラは漢方薬の麻黄(まおう)の成分で、せき止め薬などに使われるエフェドリンの関連成分。減量や運動能力を高める効果が期待され人気が高かった。

 間違っているわけでもないが、これだとふーん漢方薬は危険かくらいに誤解されるかもしれない。だが、FDAは今回の措置で漢方薬の規制はしていない。問題はドイツ・コミッションEのハーブ薬の扱いだが、この話は少し専門的になりすぎる。それと、日本のOTCの風邪薬にはたいてい塩酸エフェドリンが含まれているので血圧の高い人は、風邪気味だからといってのむのはあまり好ましくはない。
 もう一点、些細な点とも言えるのだが、その後の米国狂牛病の波及はやや予想外な気配がある。まず、オージーに切り替えるというのがそううまくはいかないかもしれない。これは単に昨年のオーストラリアの畜産の状況の問題だ。それと米国だが、パニックというより、オーガニックの牛肉を求めるというシフトが強い。それと関連して、牛肉のだぶつきがおきている。日本は拒否し続けるだろうが、韓国は無理のようだ。というあたりで、国力の弱い諸外国にお肉が流されることになりそうだ。みんなヒンズー教にでもなるかという不謹慎な洒落で済むことではない。
 さて、今朝の話題は…となんとなく考えていたのは、地域協定の問題だ。
 沖縄の伝統ある地方紙琉球新報が大晦日に新年特集の前フリとして発表したのだが、同社が日米地位協定に関する政府の基本解釈となる機密文書「地位協定の考え方」を入手し、一部を暴露している。詳細は次の2記事を読んでいただきたい。

  <日米地位協定>機密文書入手、条文超える米軍優先(参照
  <解説>日米地位協定の外務省機密文書(参照

 新報側ですでに根回し良く解析されているように、衝撃の事実というものはない。私の率直な印象とすれば、すでに外務省がここまで苦悩していのかという同情のような思いも若干ある。外務省などふざけた機関だとは思うが、馬鹿だけの集まりでもなければ臆病者だけの集まりでもない。くさしてもしかたがない。
 この文書がどのような経緯で入手されたのかはわからない。それほど異様なことでもないだろうとは思う。意図的にリークされたかどうかだが、その可能性もあるかもしれない。というのも、この極東ブログで地位協定が大きな問題だよと騒いでも、下手な文章ということもあるのだろうが、他の記事同様指して本土人にはなんのことやらというふうに話題にもならない。この問題は本土人には感覚の面からして理解されないものなのだ。数年前、沖縄本島内の演習の一部が本土移転になったが、その時の反対スローガンが「日本を沖縄にするな」である。お笑いじゃないんだよ。
 新報側の特集としてはまいどながらのスタンスでいいだろうし、そしてそれは本土には通じない。この問題は韓国ではもっと深刻なのだが、意外にサヨクたちは動かない。その意味で、どうせ本土側の問題にはならないという安全の読みからリークされているかもしれない。とすれば、リークの意図はなにか。政府側の癪の種という点で推測するなら、いまだにサヨクの牙城である沖縄にヒビを入れるってな田中宇ばりの読みか。ま、それはないだろう。あるとすれば、なんらかの米国への牽制だ。沖縄のサヨク運動自体、すでにマクロ的には本土政府側でコントロールされている臭い。ついでに言うが、90年代以降は沖縄問題の表出の構造だけ見れば、沖縄県民の経済状況が在沖米軍依存メリットを凌駕するポイントで発生する傾向があるので、日本政府はつねに沖縄を本土より適度な状態の劣位においている。
 産経などポチ保守系は沖縄の地の利から米軍の必然性を説くが、軍事的にテクニカルにみると、あの在沖米軍基地は、訓練+保養+ロジスティックスであって、実際のパワーではない。沖縄にいる必然性はないうえ、戦闘リソースのIT化の変化からも、米軍ではすでに韓国の基地を含め、縮小を狙っている。もともと、沖縄の基地の最大の狙いは日本本土を抑圧することだというのは国際的な常識でもあり、すでに軍事的な意味での日本の属国化が進行しているために、それほど直接的な日本への脅しも必要はなくなっている。
 話が散漫になったが、政治・外交の裏腹がなんであっても、さっさと地域協定の問題を前進させなくてはいけない。これは本土大衆には理解されないので、端的に代議員全体の課題である。

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2004.01.01

なるほどアメリカリスクか

 恭賀新年

 私事だが昨日は早々に寝た。テレビも見ない。代わりにはつひを見た。赤いはつひをほんのりと受ける富士山も美しかった。不思議なことに人生のいろいろな年に見たはつひはなんとなく忘れない。10年前は地中海のただ中にいた。10年後は東京にいる。
 元日の新聞各紙社説は期待するだけ間抜けだろう。朝日は反米、産経はポチ保守。読売は老害ラッパ。日経は…おやおや、ラッパだ。が、意外に毎日新聞社説「アメリカリスク対応が鍵だ 心配はイラクより国政 」に共感した。


 世界が今抱えるリスクの中で自然災害を除き一番大きいのは圧倒的に米国そのものである。米国がとる政策や事情変更は直ちに世界中に影響する。影響は戦争であったり、飢餓や貧困、環境破壊、株安や銀行システムの崩壊あるいはテロ勢力の反作用的な拡大であり、それらすべての逆であったりする。大きすぎる米国の悲劇でもある。

 半年前なら、そこまで言うかと思ったことだろう。私はネオコンに近い思想もある。が、年頭にあたり「アメリカリスク」という以外はないかという気持ちにはなる。半年近い極東ブログでも、なんとか粘り技でアメリカと対峙できないものかと考え続けてきたように思う。
 個人的なことだが、アメリカには複雑な気持ちを持つ。好きでも嫌いとも言えない。私のアメリカの原形的なイメージは、ウィリアム・サローヤンであるが、その話をしてもしかたない。
 いろいろ偶然もあって、たぶん一般的な日本人よりなにかとアメリカの文化に巻き込まれてしまった。振り返ってみると日常生活のなかで英語をしゃべらないわけにもいかないという状況から外れたのは昨年1年だけだった。英語は得意ではないが、このご時世あるていど勉強し続けないといけないなとは思う。副作用はある。思春期のころただの洋楽にしか聞こえなかったビートルズの歌が、今ではかなり普通の言語に聞き取れて不快だ。字幕の映画もきらいだ。そこの訳語のコノテーションは違うなどといちいち考えさせらるのが嫌だ。口語は聞き取れない。始めて、"You, piss me off"とか言われたときは、わからなかった。
 話を毎日の社説に戻そう。共感したのは、例えば、イラク派兵についての次のようなくだりだ。

 自衛隊派遣の選択は基本的に同意する。対米追従以外に戦略を持たない現状では、行かない選択がもたらすリスクが大きすぎる。しかしそれは主体的な選択ではない。

 そういうことだ。そして私は沈黙してしまう。むなしいなと思う。朝日新聞の反米や産経新聞のポチ保守の背景にも同じ感性が潜んでいるのだろう。
 もっともそれは政治では払拭しきれないものではないだろうか。

 自衛隊派遣を国民が支持し切れない最大の理由がその体たらくにある。自衛隊の派遣で国民が抱く不安の根源はイラクにではなく政治の現状、政治家への不信にある。

 毎日がそう言っても、それも空しい。昨年の衆院選をみれば、この国をこう選択しているのは日本国民である。日本国民が間違っているぞと息巻いても空しい。啓蒙ではなく、大衆の側の知を覚醒させるような知の言葉の可能性をためらいながら、模索するしかない。と、いうものの悲観的になるのだが、極東ブログは気まぐれでいつまで続けられるのかと思う。

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