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2003.12.27

「学力重視」の退屈さなど

 年末である。今日から日本の都市部に出稼ぎに来ていた日本人が本来の日本に帰るのである。もちろん、多少の悪意ある皮肉だ。私は東京で生まれ育ち、どこにも帰る日本はないはずだが、それでも父母の故郷長野県に帰りたいような奇妙な錯覚を僅かに持つ。
 今朝の新聞各紙社説はそれほど面白くはない。毎日は「藤井総裁の反乱 道路ではなく権力のために」で、藤井総裁の動向をネタに多少ヒネリを効かせたエッセイを書いて見せたつもりなのだろうが、話が腰折れしていた。読みながら、これはたぶん社説に書く話ではなく、ブログのネタなのだろうと思った。毎日新聞の社説のブレはある種、脱新聞の兆候を示しているのだろう。
 社説ネタとしては、朝日の足利銀行、読売の石原銀行(皮肉である)など、極東ブログで触れたほうがいいのかもしれないとも思うが、さして新規視点はない。先日の為替問題でもそうだが、私自身、新しい世界の経済動向を勉強しなおしたほうがよさそうだなと思う。これには二つの含みがある。一つはそのまま単純に「勉強しよう」ということ。もう一つはリフレ論の背後に共通一次試験世代の影がちらつくことの意味を正確に理解できるようになろう、ということ。端的に言って、ある種の知的なサブカルの風景のなかで山形浩生がこんなに巨人だったのかと最近ようやくわかって呆れた。もちろん、彼がかつての浅田彰などのようにアイドル的な中心というわけでもない。この問題は語ると長くなりそうだが、団塊世代の知が瓦解していく前に、その下の空白の世代の一人として少し知識を補強をしておこうと思うのだ。
 社説ネタで多少気になったのは、「学習指導要領の一部を改訂」の問題だ。読売、日経、産経が扱っていた。どれも話はつまらない。読売に至っては、お笑いである。


 今、脳科学の立場から、小学校では基礎、基本を中心にする授業が望ましいとの指摘がされている。文化審議会国語分科会が、小学校の国語の授業時間を大幅に増やすことを提言もしている。

 おまえ、馬鹿だろ、といきなり言いたくなるようなこと書くなよと思う。産経もお笑いを外さない。

 日本人は本来、学問が好きな国民である。江戸時代には藩校や寺子屋が普及し、武士から庶民まで読み書き算盤(そろばん)を習った。明治五(一八七二)年に学制が公布され、義務教育(当時は小学校)が急速に普及したのは、江戸時代からの寺子屋教育が基礎になったからだといわれる。これが日本の近代化の原動力にもなった。

 なんだかなである。学問というものの意味がわかってないよ。それを言うなら近江聖人の話でもしろよと思う。産経のようなポチ保守が日本の文化を理解していないだ。
 こんな馬鹿な爺ぃが教育をテーマにしている醜態な日本の現在なのだ。と、言うものの、そういう自分はどうかと顧みて、この話題にあまり首を突っ込むのも下品だなと恥じる。
 テーマの扱いとしては、日経は多少ましだ。

その一方で、教科ごとに教える内容の上限を定めた「歯止め規定」については、中央教育審議会から見直しの提言を受けながら、従来のままとされた。教科書ではすでに制限を超えた教科内容がコラムなどの形で採用されており、指導要領の「基準性」の解釈を巡る行政と学校現場のギャップは放置された格好だ。

 ふーんという感じがする。教育の行政などどうでもいいじゃないかと言いたくなる。米国に文部省はない。要らないからだ。なにも米国にならえというわけじゃないが、文部省は自由主義国家に不要だ。あ、現在は文部科学省か。科学かぁ。
 科学はつねに最先端が面白い。ダークエナジーなど小学生高学年に話してやれるだけの器量のある啓蒙家はいるのだろうか。知は一面楽しむためにある。人生は知がなければ退屈なものだ。センター試験以降の世代にとって知とは己の値札になっているようにも見える。蓮実重彦が言うような、知の放蕩という感覚は知の基本になるのだろう、と思う。

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2003.12.26

The Big Read、BBCの読書人気投票

 今朝の新聞各紙社説を見てちと唖然とした狂牛病の騒ぎ一色である。で、しかもつまらないときている。昨日のブログを書きながら気になったのは、日本の狂牛病研究はかなり進んでいるのではないかということだが、社説ではないが産経の記事「8頭目BSE「希有な例」の可能性 自然発症型か遺伝性」(参照)が参考になった。
 社説ネタで今日の話題はない。ブログのネタがないわけでもないが、分野によっては気が重い。RFIDについても阿呆な意見が散見されるようになったので技術的な面から、てめーら馬鹿だよと書いてみたい気もするが、この手の話はリキ入れないと自分のほうが阿呆だし、リキ入れると難しいには難しい。薬学系のネタもある。セレブレックスはどうも関節炎の緩和だけではなく治療効果があるらしいなど不用意に書いてもいかんし(苦しまれているかたが多いのだから解禁しろよ厚労省)。読売新聞系の「抗うつ剤で副作用か、3女性がやけどの症状」(参照)にもあきれた。そう来たか。「スティーブンス・ジョンソン症候群」がやけどの症状かぁ。絶句。ただ、この話題も今日は書かない。
 で、書評だ。といって、具体的な本の話でもない。タイトルどおりThe Big Readだ。なんて訳そうか迷ったが、単語は簡単なのでそのままにした。それにしても、こういう言い方は英国っぽいなと思うし、由来がありそうなのだがわからない(誰か教えてくれというと教えてくれるかな)。話は、BBCの企画The Big Readだ(参照)。年内廃刊の噂に持ちこたえた「ダカーポ」のような野暮な特集でもあるのだが、往々にして欧米というのは現代日本人から見ると野暮なものだ。大衆文化は日本が上位であり、そこに我々は無意識に浸っている。
 リストはすでに出ているので、それを掲載しようというのが今日の極東ブログのネタである。どっかで似たようなことやったよね。
 以下、21位までだ。なんで20位じゃないかについては、英国のエレベーターシステムを考えるとよい(冗談)。それぞれ標題を訳してもいいのだが、記憶を辿って記すと国内での訳本の名称と合わないといった批判がでそうなので、ふける。どっかで、「はてな」とかの読書マニアのかたに日本対応のきちっとしたリストをお願いしたい、っつかそのリストは日本人の読書家に役立つだろう。あるいは、すでにこのネタをきれいに解説したブログはあるのか。
 私は適当なコメントを気まぐれに付けることにする。

  1. The Lord of the Rings, JRR Tolkien
  2. Pride and Prejudice, Jane Austen
  3. His Dark Materials, Philip Pullman
  4. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy, Douglas Adams
  5. Harry Potter and the Goblet of Fire, JK Rowling
  6. To Kill a Mockingbird, Harper Lee
  7. Winnie the Pooh, AA Milne
  8. Nineteen Eighty-Four, George Orwell
  9. The Lion, the Witch and the Wardrobe, CS Lewis
  10. Jane Eyre, Charlotte Bronte
  11. Catch-22, Joseph Heller
  12. Wuthering Heights, Emily Bronte
  13. Birdsong, Sebastian Faulks
  14. Rebecca, Daphne du Maurier
  15. The Catcher in the Rye, JD Salinger
  16. The Wind in the Willows, Kenneth Grahame
  17. Great Expectations, Charles Dickens
  18. Little Women, Louisa May Alcott
  19. Captain Corelli's Mandolin, Louis de Bernieres
  20. War and Peace, Leo Tolstoy
  21. Gone with the Wind, Margaret Mitchell

 1位の「指輪物語」はしかたがない。それにしてもこのブームかよと思う。私のいた大学にはこのファンが多くて閉口した。昔ディズニーで変なアニメになったっけな。最近は岩波のお子様向け「ホビットの冒険」はどうなっているのだろう(こちらは25位に入っている)。ちなみに、トールキンは日本民俗学に造詣が深く「ホビット」という名称の由来は「コビト」からできている(大嘘)。
 2位のオースチンのは、ま、そうだ。1位もそうだが、文学っつうより映像だろアホとか言いくさりたくなる。テスがリストが21位までにないのだからね(26位)。でも、テスもナスターシャ・キンスキーで映画だな。とほほ。
 3位の暗黒物質だが、これは日本人にはちと意外? 「黄金の羅針盤」のシリーズ名だ。BBCラジオで人気だった。映画化されるという。新潮から訳本が文庫になっている。日本でもブームになるのか。
 4位ダグラス・アダムスはGoogleにも影響を与えている。旧極東ブログ「Googleに問え。なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか?」(11.13)。
 5位、パス。
 6位、「アラバマ物語」、これについては私は無知。なんでこんな古いものが…。
 7位、プーである。おカマのロビンである。っていきなりディープな話をしてどうする。私はこれが好きなのであえてこれ以上語らない。イッシュー、いけねぇ、くしゃみをしてしまった。
 8位、「1984」!!、これを私に語らせても止まらない。ので、省略。とはいえ、みんな誤読しているぞ、この本はラブ・ストリーなのである!
 9位、「ライオンと魔女」。私は「ナルニア国ものがたり」を確か全部読んだ。忘れた。別人だが、C.D.ルイスもよく読んだ。忘れた。
 10位、「Jane Eyre」、新訳はあるのだろうか。
 11位、「Catch-22」については、大学でうんざり、しかも英語で読まされた。しかたがない。時代なのだ。アイビー出の講師たちはなんらかでベトナム戦争を背負っていたのだ。これがThe Big Readに入っているのは昨今の世相もあるのだろう。
 12位、「嵐が丘」、面白い小説です。宝塚版はないのか。
 13位、「よみがえる鳥の歌」 恥ずかしながら未読。扶桑社って文庫あったっけ。
 14位、レベッカ。「コレリ大尉のマンドリン」と同じ路線か。ちなみに、聖書では「リベカ」だ。
 15位、おなじみのThe Catcher in the Ryeだ。私はこいつを米国版と英国版で読んだ(読まされた)。英米で編集が違っていた。現在はどうなんだろう。
 16位、ボート好きのミズネズミさんがかつての親友モグラくんと東京の地下で大格闘する物語である。もちろん、そうではない。日本では読まれているのだろうか。
 17位、これも映画の影響でしょうね。ふと、「風と共に去りぬ」で心配の夜にディケンズを朗読するというシーンを思い出すが、ディケンズというのは朗読向けのエンタテイメントという意味で現代のメディア志向なのだろう。日本で言ったら、橋田壽賀子か(外しすぎ?)。
 18位、「小さな女性」、そうマニア向け、違う! 「若草物語」である。クリスマス向けだな。
 19位、「コレリ大尉のマンドリン」、日本で言ったら「君の名は」でせふか。なんでこんなの入るのでしょうかね。
 20位、「戦争と平和」です。自慢ですが、私はこれを全部読みました。若気の至りつうか、若いってすごいことです。いまでも、冷えたゆでじゃが芋を食うたびにピエールを思い出します。
 21位、「風と共に去りぬ」。ちなみに、この標題は誤訳。淀川さんが原因らしい。Gone with the Windのwithは「共に」ではないので、センター試験前の諸君勉強せーよ。って、ふと思ったのだが、昔は18、19歳でこの原書を読む学生がごろごろいたものだが。

 ああ、なんか、読書って、こっぱずかしかしいですね。リストを舐めながら、森瑤子のことを思ってちと胸が痛くなる。彼女が生きていたらなんと言うだろう。生きていたら、すてきな婆さんになっていただろう。泣ける。それと、100位までのリストをざっと見ると、古典という意味でイギリスの作家は、大衆向けのディケンズを除けば、ハーディなんだなと思う。予備校時代なぜかハーディの研究家の授業を好んで取っていた。ハーディの文章は難解だが美しかった。先生の名前は講師としてのペンネームではなかったか。「君たち歳をとったらハーディを読みなさい」と言っていた。変な予備校だった。ヘンリー・ジェームスの研究家もいた。そういえば、The Big Readとか言っても、ヘンリー・ジェームスがないのは、英国だからなのか。のわりには、スタインベックなんかも入っているから、こうした大衆的なリストにすると本格的な読書家は消えてしまうのだろう。ちなみに、ジョイスは78位にユリシーズだけ。抹殺されるよりまし。モームは自分で予言したとおり消えた。ヴァージニア・ウルフは昨今入りそうなものだが無かった。ロレンスは一作だけ残る。
 この手のリストを見ていると、自分の脳も回想モードに入ってしまう。私は20歳ころ英文学に関心があったが、英文学なんか勉強する気は毛頭なかった。トリニティ出のクイーンズ・イングリッシュなM先生が「君は英文学に進むのではないのか」と真剣に問いかけたとき、20歳の私ははぐらかした。先生は忘れているだろう。私もそれが後悔になっているわけではない。ただ、これも少し胸に残る痛みである。

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2003.12.25

米国狂牛病の騒ぎの裏

 メリー・クリスマス。でも、クリスマスの話題は書かない。読者よ、私にキリスト教の蘊蓄話を許してはいけない。新聞社説は今日も各紙つまらない。奥菜恵の旦那の事業もブログかよ、しかも「はてな」てなネット系の話題も避けよう。元教師俵万智(40)が私生児を産んだ話題は、ちょっと気を引かれるが、それこそ儀礼的無関心でいるべきだろう。子供に祝福あれ。
 かくしてしょーもない雑談レベルの話を垂れ流す。本来なら、米国で狂牛病がようやく発生した話題をきちんと極東ブログ流に切ってみたいのだが、どうも米国の情報の流れが変だ。ロイターヘルスからは専門向けの詳細な情報も未だに出ない。グーグルニュースはこうした事件では面白い効果を出すものだとも思ったが、一般ニュースでは今一つ実態が掴めない。私には田中宇のような空想を操る能力がないのでどうにも話がつながらない。ま、いいか。
 それにしても、今回の米国狂牛病の事態を眺めながら、この夏カナダの狂牛病騒ぎとそれに続く日本での騒ぎの、あのうさん臭さはこれだったのかと思う。いいタイミングだとはいえ、なぜこのタイミングだったのだろうか。意外にさらっと日本人は忘れているのかもしれないが、この夏日本で出た狂牛病のケースは、ある意味、スクリーニングのアヤでもあった。生後23か月という早い時期の検査によるという検査のタメという側面もあったわけだ。もっとも科学的にはこの日本の態度は正しいは思うのだが。で、この結果をすぐに日本は米国に突きつけている。おい、それって非関税障壁の脅しじゃないかというストリーで書いたのが旧極東ブログ「狂牛病再発の裏を少し考える」(参照)だ。このストーリーはそれほどはずしているとも思わないのだが、今にしてみると、予想される米国からの牛肉輸入禁止のための予備ステップでもあったのだろう。日本って礼儀の国だよなと思う。日米の関係者の裏では、日本側から「おい、アメリカさん、もうゲロしろよ、いるんだろ、スカ脳牛」ということもあったのではないか。この先の裏も想像が付くがぶっそうで書けない(カナダ関連)。
 今回の事態で日本のニュースでは外食産業に打撃とか言っているが、情報操作臭い。このリーディングタイムを見ると、すでに日本国側の対応のメドはたっているはずだ。おそらく庶民レベルではオージービーフでなんとかなり、外食産業に圧力をかけるのだろうが、それって、産業のある種の淘汰を目的とした行政なのではないだろうか。だんだん読みがうさん臭くなるが、国内農家保護もあるだろう。
 どうも田中宇ばりにうさん臭い話がしたくなる。日本はこれまで狂牛病を出している国からの輸入拒否はやってこ大きな問題にならなかった。端的に言えば、今回の米国の事態に比べれば規模が違いすぎる、ということで、問題は規模だとしていいのだが、今回の米国の感染牛が乳牛であることで、どうもひっかかることがある。成長ホルモンの問題(BST,rBST,rGBH)だ。
 この問題をどこまで詳細に書いていいかわからないが、読みやすい情報はレイチェル・ウイークリー「乳ガン、牛成長ホルモン、そして牛乳」(参照)にある。なお、レイチェル・ウイークリーはポリ塩化ビニールの話などを見ても「と」臭がきついので注意して読むこと。ついでに情報は古いが「BSTの安全性に関する報告を発表(FAO/WHO)」(参照)も目を通しておくといい。なお、rBGHはrBSTと同じ。BSTの一種だ。
 EUはこの米国のrBGHの対応に怒り、rBGHを使った牛の乳製品や食肉の輸入を禁止している。今回の米国狂牛病の騒ぎはEUにとっては恰好の材料だし、日本もしゃーしゃーとEU側のようなそぶりを見せていくことだろう。なお、日本では天然ホルモンの使用は認可されているし、すでにrBGH適用の米国品も国内に出回っている。
 こうした筋で見ていくと、安全問題より、対米摩擦や国内農家の保護の問題であるように思われる。外交というのは汚い手を出しまくるのが正攻法だが、この問題はもうちょっと高い視点(食の危険とか騒ぐのではなくという意味)で日本国民の食の流通と質の選択という視点で見るべきではないだろうか。なお、余談程度の話だが、「BSE問題は外交問題でも経済問題でもない。純粋に食品安全の問題だ。」という毎日新聞社説はただの阿呆なのか裏があるのか。

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2003.12.24

たばこという社会福祉(もちろん皮肉)

 各紙社説からはとくに取り上げるべき話題はない。ふと思ったのだが社説というのはなにかを取り上げないための饒舌なのかもしれない。社説ネタではないが気になっていた、たばこ税のことで雑文を書いてみたい。
 ニュースにならなかったわけではないのだが、どうもマスメディアの問題の扱いが軽いように思えるのはJTがCMに影響力を持ちすぎているからなのだろうか。喫煙反対の市民運動も多いはずなのだが、たばこの税の問題には沈黙しているように思える。私の感性がずれているのかもしれない。、
 話は15日のことだ。国と地方の税財政改革、通称三位一体改革で、首相諮問機関である政府税制調査会は「2004年度の税制改正に関する答申」をまとめ、この15日に小泉首相に提出した。答申では、個人住民税が応益性や自主性の要請に最も合致しているとしたものの、委譲は2006年度とし、その間の暫定措置としては、次年度のたばこ税の移譲が現実的だとした。そんなところだろう。ところが、翌日16日に、政府税制調査会の答申したたばこ税は、所得譲与税に切り替えられた。なんだそれ。これが民主政治なのか。自民党税調なんてものは、国の機関じゃない。自民党の党組織上の、政務調査会の一つの調査会に過ぎないはずだ。
 その晩にミステリーがあったわけではない。読売系の「『たばこ税』一夜で葬られ『所得譲与税』」(参照)では次の軽くまとめている。


関係者によると、政府税調が小泉首相に「たばこ税」を答申した15日夕、すでに自民党税調はたばこ税の不採用を決め、16日昼に幹部が「不採用談話」を発表する段取りまで整えていた。政府税調がこれを知ったのは答申直後で、答申はすでに小泉首相の手に渡っていた。

 本当か? もちろん、このストーリーに嘘があると言いたいわけではない。この文章からでは、ちょっとスケジュールミスっていうトーンになっているのだが、それは本当かと疑いたいのだ。なにしろこの読売系の話には山中貞則の「や」も出てこない。現代版枢密院自民党税調とナベツネの結託は恐ろしいものがある。産経は、「理念より参院選意識 首相の指導力不足指摘も」(参照)もう少し掘り下げている。

 この日の党税調で所得税への移譲を提案したのは片山虎之助前総務相だったが、税源移譲問題は最後まで迷走した。
 「かつてたばこ税導入を苦労してまとめ上げたのは山中(貞則・自民党税制調査会最高顧問)さんだぞ。そのたばこ税を『つなぎ財源として地方に譲ります』と誰が山中さんに言うのか」
 十二月初旬、財務省幹部とひそかに会談した麻生太郎総務相は、自民党税調の“ドン”と呼ばれ、財務省にも強い影響力を持った山中氏の名前を出して、基幹税の地方への移譲を迫った。

 誰が猫の首に鈴を付けるのか、大の大人が爆チュー問題やってんじゃないよと笑いたいところだが、その醜態に泣けてくる。なんなんだよ、山中貞則って爺ぃは。
 山中の思惑もわからないではない、おそらく内心、「馬鹿ども」と思ったことだろう。たばこ税がねらい打ちされたのは、税収の偏在が少ないうえ納税者全体への影響が少なく、しかも手続きが楽だからだ。要するに弱い者いじめである。酒税だとめんどくさいし、納税者に負担が大きい。産経の記事にあるように、もともと地方からの反発も強い。そしてなにより、「馬鹿ども」の思惑は、税を小手先でいじる政府税制調査会の態度だったことだろう。そう思うと、山中貞則は国の税の根幹と地方を守っている守護神ようなものか。
 今回のスラップスティックはいただけないが、たばこ税だけの問題に絞れば、私は原則は山中が正しいように思う。だが、たばこ税自体は上げてもいいのではないかとも思っていた(過去形)。理由は簡単でニューヨーク右にならえである。ニューヨークのたばこは高い。1箱7.5ドルだよ。800円くらいだ。20年くらい前、発展途上国に行くときは、ボールペン、100円ライターなどにならんでたばこをお土産にするといいと言われたものだが、今やカートン必須はニューヨークである。そして、今やたばこ増税は健康面でも良い効果を出している。ファイザーの調査では、7月1日のタバコの増税をきっかけにした禁煙は効果が高いとしている(参照)。調査項目を見るとこうだ。

禁煙を始めた理由として、「健康のため」が50.0%と、「小遣い節約のため」(33.6%)という増税による金銭的負担を上回りました。タバコの増税による金銭的負担がきっかけでも禁煙挑戦者の健康に対する意識の高さが伺えます。また禁煙して良かったことは、「小遣いが節約できたこと」(28.8%)が最も多く、「体調が良くなった」(21.4%)、「家族に喜ばれた」(17.7%)、「食事がおいしくなった」(14.9%)と続きました。

 これも泣けてくる。小遣い節約か。マイルドセブン一箱270円。一日一箱吸うか。二日に一箱くらいか。月額で4000円くらい。たしかに、小遣い節約という線だ。それにしても、この小遣い額で「家族に喜ばれた」のだから、きっと純正オヤジからSPA世代の若オヤジども、みんな便器に座って小便をしていることだろう。という話を書いていると、むかつくので路上でほかほかと湯気たてて立ち小便でもしたくなるな、というのは冗談、としておこう。
 以前は、宮内庁では皇居を清掃する勤労奉仕団(あれはなんの宗教だろう)への恩賜たばこ支給していた。止めて久しいから、ヤフオクで高値が付くが、出品できない。今では菊の紋章を焼き付けたお菓子になったらしい。時代だ。それでも、感謝の意はたばこだったのである。たばこというのは、日本の社会制度的にみれば、一種の福祉なのだろう。これ以上、増税して庶民を苦しめるものではないなとも考えをあたらためる。が、かく言う私は、街中の喫煙者をどなりちらすオヤジでもあるのだが。

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2003.12.23

毎日新聞曰わく、溝口財務官は狂気の沙汰

 日々之社説というわけで社説を読むだけのマシンと化した極東ブログが、ふっと我に返る瞬間は少ないのだが、今朝の毎日新聞社説「溝口財務官の介入 究極の円高政策だった?」は久々のクリーンヒットで目が覚めた。素直に言うのだが、私がいかに経済に無知であるかということの告白にもなる。ちなみに基礎知識はこちら
 問題は、覆面介入こと溝口善兵衛財務官が円高阻止のため自国通貨売りを続けてきた問題だ。毎日新聞社説の言葉を借りるとまさに「狂気の沙汰」だ。先日もふっと1兆円である(参照)。しかし、そんなことに驚いていたわけではない。やられたなと思ったのは、結語だ。


 米国の「双子の赤字」に不安が高まっている状況下では、ドル買い・円売り介入を続けても、ドル安傾向に変化はない。いくらでも介入するとの決意は、ドル売りに安心感を与える。介入が膨らめば外為特会のドル資産も増える。その資産は円高では目減りする。
 何のことはない、溝口財務官の選択は究極の円高政策、海外資産目減り政策だったのではないか。

 なかなか秀逸なブラックジョークだなと微笑んだものの、顔が引きつってしまった。それってジョークじゃないのかもしれないという思いが脳裡をよぎったからだ。そんなことアリなのだろうか。なんちゅう国策なんだろう。と思うものの、それもアリかもと悪魔のささやきがこだまする。
 昔の人の言葉で来年のことを言えば鬼が笑うというのがあるが、次年度の市場介入調達枠は60兆拡大(参照)。そこまでするのか。健康のためなら死んでもいい健康マニアみたいだなとも思うが、率直に言って、国家と経済のなにか根幹が私はわからなくなってきている。

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道路公団民営化法案の明暗

 今朝のこの話題はどうしても避けるわけにはいかないだろう。道路関係四公団の民営化について政府与党協議会が決定した法案化の枠組みについてだ。昨日ニュースをザップしたときの私の印象から書いておきたい。率直なところ、「これはそれほど悪くはないんじゃないか」、という印象だった。そして、次に思ったことは、「仕上げは自民党を潰すことだ」、と。自民党さえ潰せばこの枠組みでもなんとかなると希望を持った。
 ニュース映像では笑みをこらえられないやくざのような古賀誠が出てきた。猪瀬直樹も出てきて、優良可不可で言えば可か良かというところだと運命を知らぬ豚のように言っていた。この猪瀬をどう評価したらいいのだろうか、とも考えあぐねた。そのあたりにも今回の問題の複雑さがある。猪瀬は政治家になってしまい、石原伸晃と組むことにした。少しでも実を取るというのなら、あの状況下ではそれしかないと判断したのだろう。だが、それで猪瀬を肯定できるかどうか、私にはわからない。正直なところ、今回の問題には膨大にテクニカルな議論が必要になりその迷路のそここにゲリラのように多数の猪瀬アバターが潜むだろう。戦いというのもは不思議なもので、いつか己を敵と同型にしてしまう。猪瀬は官僚との戦いでその身を官僚と同型にしたように見える。もちろん、国家とはそのような官僚がなくては機能しない。
 だが、と逡巡するのを避け、端的に言う。前回の衆院選で口数は少なかったものの猪瀬は自民党側に回っていたのを忘れてはいけない。彼は結果的にこの衆院選で自民に誘導した。この衆院選はいつか歴史を振り返れば日本歴史の汚点になるだろう。
 このブログではおちゃらけでイラク派兵なんかどうでもいいと言ったものの、できれば、自民政権を打ち倒して、派兵問題に筋を通すべきだった。日本のジャーナリズムは事実上無視しているが、韓国の派兵はこの間、四千人近くなる。その端的な意味を自民党政権は国民に伝えてない。
 話がずれてしまったようだが、国民の政治とは大枠をきちんと簡素に提示しなくてはいけないものだ。なのに、そこを結果的に猪瀬は避けたのだ。そうとしか思えない。大著に縷説したと彼は言うかもしれない。そしてその結論は不可避だったと正当化するかもしれない。だが、そうではないのだ、今回の法案化は自民党を前提にしているのだ。だからこそ、日本国民はこの政権を廃棄できるという希望を持つべきだ。そのとき、その光景からきちんと官僚を動かすビジョンを提示すべきだった。その意味で今回の法案化は愉快なジョークでもある。
 気になる新聞各紙社説をザップしていこう。朝日がまいどの口調であるが、こうした問題には小気味よかった。


この政府案は、民営化のあり方を審議してきた民営化推進委員会の主張とは、おおきな隔たりがある。
 その最たるものは、通行料金を借金返済に回すか、新規建設に役立てるか、の相違だった。推進委員会の多数意見はあっさり退けられてしまった。

 多数意見云々の下りはさして意味はない。今回の法制化の問題は、朝日が言うように「借金返済」に筋が通らない点だ。いくらテクニカルに、そして微細な点で論理的であろうと、歴史の大きな変動を知るものなら、小賢しい知恵は歴史に耐えないという前提を知るべきだ。私たちの世代は後の世代の日本国民に向けて、強いメッセージを投げることができなかった。この点で朝日の見解は正しい。多少余談めくが、朝日の口調は激しているかのようだが社説のスペースは西村真悟問題に割いている。日経を除いて、他紙も同じだ。つまり、実は、新聞社説は今回の問題を重視していないのだという点を覚えておきたい。
 産経の次の社説は本音が出ていて面白い。

 建設予定額を削減したといっても、新会社には建設費が割り当てられている。新会社に拒否権があるといっても、国土交通省の意向に逆らうことができるか。また、A社が拒否したらB社に頼むという方式をとっている。

 つまり、制度的な抜け穴があり、日本の政治風土では運用上無意味になると予想している。それは庶民の実感に近い。この点、読売は表向きの制度の建前を述べているだけで社説のレベルが低すぎる。
 社説中一番バランスが取れていて私の考えに近いのは、意外にも毎日新聞社説「道路公団民営化 不合格だが0点でもない」だった。きれいに書かれているので、長めだが引用しよう。

 小泉純一郎首相の、推進委の意見書を「基本的に尊重」という意味が明らかになった。民営化、地域分割、機構と新会社の上下分離という枠組みは実現する。しかし、族議員の要望を入れていくつもの抜け道を用意するという意味だった。構造改革の柱の一つとして、合格点はとても与えられない。推進委の一部委員が辞意を表明したことも理解できる。
 しかし、道路公団の分割民営化などありえないという出発点から考えれば、不十分ながらも民営化の枠組みまではたどりついた。9342キロの整備計画には国と地方の負担による新直轄方式が組み込まれ、変質した。新会社の道路建設費も6.5兆円削減された。0点でもない。不合格だが0点でもない、今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない。

 これなら猪瀬もにんまりするだろうと皮肉を投げてみたいが、ようはこういうことだと思う。繰り返す、「今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない」は正しい。これに自民党政権転覆を付け足せば申し分ない。
 日経の社説は、この問題を前面で扱っていて、内容的にも良い意味で日経らしさが出ていた。道路族への歯止め案についての日経のコメントは産経の論調に近いがより的確になっている。

 そうした実情を知りながら、コスト削減策こそが改革の主題だとして「歯止め」の効果を力説するのは、企業経営と市場経済についてよほど無知なのか、あるいは意図的に国民をだます狙いとしか考えられない。もともと、このような人為的な歯止めの方策は、政治的な決定である。それが45年もの間、保証になるという主張自体に無理がある。

 確かにそうなのだ。意図的に国民を騙す狙いがある…それは今回のブログの頭で触れたように猪瀬の、国民から乖離したスタンスそのものである。だが、そこから日経はこう結論づける。

 改革の実現には国民の信頼が何より重要だ。首相は国民に対し率直に道路公団改革の失敗を認めたうえで、改めて出直す政治的決意を示してほしい。それが首相の責任である。

 一見正しいように見えるがこの結語は錯乱である。国民は衆院選の結果を見ても、道路族に利する行動を取った。仮想の国民を政治議論で立てはいけない。また、問題は首相の責任でもない。日本には大統領はいない。首相は調停役でしかなく、今回の小泉のありかたはずる賢くはあるが、首相つまり、prime ministerの語源となるラテン語の語感「召使い」らしさを出しているだけだ。
 さて、話も散漫になったのでこのブログもオチとしたいところだが、今回の法案化で私の脳裡に浮かんだ、ある地方の新しい道路がある。
 具体的には書かないが、その道路の距離は短いにも関わらず無茶な土地取得に手間取ったり地域の労働者吸収を兼ねたりもして完成までに何年もかけていた。私は何年もそれを見ていた。その道路は、自然破壊の最たるものだというくらい崖をくりぬいて、その先に高架を作った。できあがって、車で通ると高架から数分ほど絶景が見える。だがそのために道路を造ったわけでもない。それによって住民の都市部へのアクセスがよくなったわけではない。現状から考えれば、無駄な道路だ。なのになぜこんなものを作ったのか。
 道路族の思惑を除けば、理由は私の推測では2つあった。一つは、その道路によって地方に配属されている官僚の住まいの交通の便が良くなること。官僚の多くは実際には地方巡業の苦難の日々を送っているのだ。もう一つは、もしその地域に災害があったときにバイパスに成りうることだ。地方の既存の道路というのは歴史を負っているため、近代化に適していない。国家に意思があれば、この道路はその体現でもあるのだろうと思った。
 無駄に見える道路も子細にみると、それほど無駄でもないし、まだ道路を造るべきところは地方に多いのは確かだ。このブログでは日本の地方を重視してきたが、もう道路を造らなくてもいいという発想はすでに大都市民の発想でもある。
 私が朝日や日経のように端的に今回の決定に否定的でないのは、あの道路の光景かもしれない。

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2003.12.22

サンタクロース雑談

 今朝の新聞各紙社説はあらためて見るべきことはなにもなかった。本当にこれが今朝の社説なのかとも思うが、新聞社も年末進行で社説に手間をかけていられないか、新聞社のサラリーマン諸君は年末で押せ押せになっているのだろう。
 社説系のネタはない。時事・社会問題はなんとなく気が重い。奥菜恵の結婚話も関心ないし、ネット系のネタに振ると極東ブログらしくなくなる(冗談)。ので、歴史の雑談を書く。さしてまとまった話でもない。サンタクロース雑談である。
 サンタクロースことセント・ニコラスは、ご存じのとおり、と念を押すが、トルコの生まれだ。出生地主義でいうなら、サンタクロースはトルコ人なのである。といっても古代の話なのでトルコ人というのもなんだかなというのが常識だろうが、朝鮮史に檀君建国や日本史に卑弥呼が登場するようでは、お笑いとも言えない。ようするに、古代史というのは近代国家が作り出したものにすぎない。
 サンタクロースの話の起源や近代都市神話の話は、インターネットに五万とある。本当に5万かもしれない。そうでなくても、ネットの情報はコピペでダブリばかりなので、極東ブログで書くことはないだろう。と言って以下の話もさして新味があるわけでもない。サンタクロースについてのおおざっぱな情報は英語版のWikiPediaを読むといいだろう(参照)。なお、日本語版はゴミなので読む意味はない。
 ニコラスの生没年は諸説があるが、概ね4世紀の人と見てよい。出生と活躍した地域は現在のトルコのミラ(Myra)である。と言ったが、間違ったかもしれない。ミラは古代の都市名で現代のトルコではデムレだろうか。地図を見るとMyraは掲載されているので、その辺りだろうとは思う。ちなみに、イズミル近くの古代遺跡エペソまたは聖書でいうエペソスは、現代ではエフェスである。現地のようすは高橋のぶ子「エフェソス白恋」に詳しい、というか、つまらん小説ではあるが、当地の光景が子細に描かれていて懐かしい思いにかられる。トルコの地名は難しい。もともと日本人の知識人は西欧化された世界史観でしかトルコに関心がないので、とりあえずアナトリアと呼び直す(「小アジア」は下の下)が、そうすることで現代のトルコとのつながりを見失って架空の世界に漂うことになる。
 ミラは地中海沿いだが、エジプトに向き合った側にある。近辺のダルヤナーズ(アンドリアス)もリゾート地ではあるが、日本人のお上りさんとしては都市アンタルヤのリゾート地がいいだろう。のんびりと滞在して、ついでタルソまで足を伸ばしてみたいとも思うが、また旅に出られる日はいつになるだろうか。
 ミラは古代にはリュキア文明が栄えたところだ。ちなみに、リュキアは英語ではLyciaと綴る。リュキアの研究は多分に漏れずイギリス人考古学者であったことから、リュキアについての基礎文献はこの英語のキーワードで英文献を辿ることになる。遺跡の現状だが、たしか世界遺産になっていると思うのだが、誰か確認してくれ。なお、リュキアについての話は「リュキア建築紀行」(参照)が面白い。
 リュキア文明は古代文明ということでヒッタイトに通じる紀元前というイメージがある。だが、リュキア王国が栄えたのは紀元前4世紀あたりであり、いわば古典ギリシアの世界と通底する。その後、ヘレニズム時代を迎えるのだが、多様性を残すヘレニズムはリュキアの土俗的な文化も残していたようだ。その文化はニコラスの時代を覆い、6世紀くらいにまで及んでいたらしい。
 西欧化された日本の知識人はキリスト教を西欧の文脈で捕らえがちだが、イスラム圏が拡大し、カトリック教皇が西欧に力を及ぼす以前は、キリスト教というのは極めてアジア的な宗教である。というか、ヘレニズムそのものであり、つまり、ペルシャ的な宗教なのであるが、と雑駁に書くとスキだらけだが、いずれにせよ、ニコラス時代、リュキア文明と当時キリスト教とは多少の反目あっても、ある種の調和を見せていただろうと考えてよい。
 その調和のイメージに私は感心を持つのだが、奇妙なことにふと気が付く。そういえばと思ってギリシア神話をぐぐってみて思い出す。アポロはレトの息子(レトイデス:Letoides)ということから母名を継いでいる。福音書のイエスや当時のユダヤ人(あるいはスラブ人)のように父名を継いでいるわけではない。母系である。リュキア人も母系だったようでもあるし、アポロン信仰はリュキアで興隆していた(参考)。
 私は何を言いたいのか。そう、ニコラスの伝説は多分にリュキア人のアポロ信仰の焼き直しではないかと思うのだ。ただ、アポロ信仰自体は、地中海を通じて西欧世界へ伝搬されるのだが、カトリック地域ではローマとナポリの中間に5世紀モンテ・カッシーノにアポロ神殿があった。これを聖ベネディクトは異教として打ち壊すのだが、文化現象としては事態は逆で、ベネディクトにアポロ信仰が継承されたのだろう。もっとも、そんな説はこの聖者の名前を引く団体からは嫌がられるだろうが。
 聖ベネディクトに比べれば、ニコラスの伝承は遅れた。骨マニアのカトリックのことだ、その遺骨は1087年にイタリアのバーリに移した。ここが西欧でのニコラス信仰の伝搬拠点となる。聖人の日としては12月6日である。これがおそらく海洋の守護神としてオランダに伝承され、そこからアメリカへ移り、現代の伝説ができあがるのだろうが、6日から冬至の祭りであるクリスマスへの習合はルター派によってなされたようだ。福を授ける者をイエスに集約したいのだろう。だが、そのわりに、現代ドイツでも依然、ニコラスの日として子供にプレゼントを与える日は6日のままであり(現代ドイツではクリスマスにも与えるようだ)、その意味でもドイツというのは土俗信仰の強いところだということがわかる。
 ところで、クリスマスを冬至の祭りと書いたが、その起源はミトラ教のようだ。いずれにせよ異教である。西欧のキリスト教というのはとてもローカルな宗教なのである。

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2003.12.21

同性愛が理由の難民について

 こんな話題に鼻をつっこむのもどうかなとは思うし、特に自分になにか決まった考えがあるわけでもないのだが、無意識にひっかかる感じがするので書いてみよう。話題は、同性愛が処罰となる国から逃れることは難民かということだ。もちろん、難民だという判決がこの9日オーストラリアの連邦高等裁判所で出た。認定されたのは、バングラデシュ出身のゲイのカップルだ。バングラデシュでは同性愛は犯罪とされるらしい。毎日新聞によると、「9年前から交際している2人は警察ややじ馬に殴られ、仕事をクビになるなどして、99年に豪州に移住した。」(参照)とのこと。
 些細なことだが今から9年前ということなのだろうか。この4年はするとオージーたちとハッピーに暮らしていてそこで権利意識というか、政治意識を高めたのだろうか、とも思うがわからない。記事を書いたシドニーの山本紀子記者は「シドニーでは同性愛者の全世界的な祭典『マルディグラ』が毎年開かれ、豪州は同性愛に寛容な地とみられている。」というが、祭典はいいとして、この推定もそれでいいのか、どうも判断に苦しむ。
 裁判では、国連の難民条約にある難民の定義「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員で、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがある者」にこのような同性愛者が該当するのだと判断したわけだが、判決は4対3と僅差だったようだ。毎日新聞の記事には書かれていないが、確か、この裁判の判事自身がゲイであることをカミングアウトしている人だったはずだ。もちろん、それが判決に直接影響するわけではないが、多少驚きの感はある。関連して気になるのは、オーストラリアはコモンウェルスなので、確か法体系もそれに従っているはずなのだが、そのあたりの波及的な影響はどうなっているのだろうか。
 この問題は、現在社会の文脈では、イスラム圏諸国の同性愛者を難民と認定すべきかとなるだろう。ふーんと言ってはいけない。日本でもイラン人のゲイであるシェイダさんを難民と認定すべきかが目下争われ、近く結審する。この話題については「チームS・シェイダさん救援グループ」(参照)に詳しい。特に、「彼をイランへの強制送還から救うには、日本の多くのレズビアン・ゲイの力が必要です。シェイダさんに暖かいサポートをお願いします。」ということだそうだ。
 私はこの問題をどう考えるか? 実はよくわからない。なにか無意識に錯綜している感じがしてもどかしい。一般論的に言うなら、そういう特殊ケースより日本はもっと広義の難民をなんとかしろよとも思うし、このようなケースを突破口に全体の改革を求めるべきだというのもわからないでもない。
 話の文脈がずっこける。私は若い頃、ゲイに襲われかけたことがある。こりゃやばいぜという窮地に陥ったこともある。飲んでいて、相手にカミングアウトされたころもある。と書くと苦笑するなぁとごまかしたくなるが、一面ではけっこう真剣な問題でもあるはずだ。というのは、それぞれの局面で結果としてその愛に応えない私は彼らの内面を傷つけたようでもあるし、彼らはそういう傷に慣れながら活きているのだろうなというつらさはわからないでもない。そのつらさを切なく描いたマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」は美しい小説だった。映画のほうはちと趣向が違うが美しい映像だった。
 話を少し戻す。もちろん、同性愛者の難民問題はそういう私的な経験の問題じゃないだろというのは理屈ではわかるし、すっかりオヤジの自分に迫るゲイは、たぶん、もう、いないだろうからのんきでもいられる。また、一般的なマイノリティの問題でいうなら、ここには書かないがもっと深刻な問題のほうが自分に近い。
 マイノリティであるというのは、その内側に運命付けられてみると、どうも世界はしっくりとこないのだが、「さあ、各種のマイノリティ同士が連携し、多様な世界を求めましょうとされても」、それもなんだか違うような気がする。というのは、社会とはそういう差異をある程度捨象して成り立っているように思うからだ……「私」の本質的なことは「あなた」はわからない。あなたの社会で「私」は苦しみ傷つけられているのだが、「私」はそれを隠して活きている……その隠蔽力のありかたが社会の水準だろうとは思う。
 別の言い方をすれば、そうした他者の苦悩への「察し」が社会にこもるなら、基本的には制度だけの問題になるだろうし、そうなれば、イラン人同性愛者も基本的に同性愛者であるがゆえの問題ではなく、その特定の人の政治状況によって制度的に解決されるものではないかと思う。

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財務省原案から思う日本の問題

 今朝の新聞各紙はこぞって、次度政府予算の財務省原案をテーマにしていた。わからないではない。深刻な問題だからだ。だが、どの社説もぱっとしなかった。改革を進めよだの、小泉しっかりしろだの、官僚は無駄遣いを止めろだの、どれも正論だが、問題に噛み合っていないか、あるいは的を射ていないように思われる。では、毒舌極東ブログはどうかというと、実はなにも提言はない。だったら、そんなブログを書くなよであるが、書いてみる。
 まず、問題はこうだ。いつになく朝日がわかりやすい。


 来年度予算の財務省原案が内示された。一般会計の総額は約82兆円で、税収は約42兆円。歳出の半分しか税収でまかなえていない。36兆円を超す国債発行で問題を先送りしているが、こんな状態が長続きするはずはない。

 経済学者はよく国家経済を家庭の経済になぞらえるが、こりゃ、400万円の支出を必要とする家庭が破産してパラサイトのOLさんの給料200万円でやっているようなものだと、時代ボケした比喩でも使いたくなる。だが、学者が常套で使うこうした比喩が問題を本当にわかりやすくしているのかは疑問がある。
 問題の別の局面は、ようするに増税だ。この話も朝日がわかりやすい。

 来年度末には国と地方を合わせた借金が720兆円、国内総生産(GDP)の144%に達する。先進国でこれほど財政が悪化している国はない。この比率をいま以上に上昇させないためだけでも、大幅な歳出削減や大規模な増税が必要になる。

 一読すれば大変だと思う。だが、そうなのだろうか。もちろん、大変は大変だが、一見わかりやすいこの説明に詐術はないだろうか。もちろん、間違っているというのではない。また、エコノミストたちの詭弁を真似てみたいわけではない。率直にいうと、日本という先進国ならこのくらいは大丈夫なのではないか。もちろん、根拠はないがそういう感覚が自分にもあり、それがおそらく他の日本人にもなんとなく無意識的にあるのではないか。
 近い将来増税は必要になるし、増税のことを日本人は頭では理解していても、まだ実感が伴わない。だが、その日は確実にくるし、歴史は常に教師になる。
 現代の日本人の多くは戦前は日本の軍国主義が台頭してひどいことになったと思っているが、歴史を子細に見ればあのときの問題は政治側の混乱だった。国民が政治に絶望しているときに軍事が台頭した。こうした流れは後のアジアの近代化の流れから見れば、別に不思議でもないことではある。だが政府に意志がないという混乱が悲劇をもたらしたことは確かだ。日本人の多くはサヨクのご尽力で政府が強力になることが軍事の台頭をもたらすと刷り込みされているが、事態は逆で政府なら民衆がコントロールできるのだ。イラク派兵がいけないなら、国民はこれを止めることができる。だが、衆院選挙の結果でも国民はそう考えていない。もう一歩進めて、今の日本に大切なのは、小泉のリーダシップよりその前提となる意思統一のできる政府だ。筆がすべるついで言えば、公明党を政権から排除することが先決なのだ。
 増税が決まれば国民にじわじわと動揺が走るだろうし、世相も変えていくだろう。こうしたときこそ、政府が強くなくてはいけない。国民が政府に力を託さなくてはいけない。つまらない結論かもしれないのだが、つまらない面白いということもでない、というのがそもそもつまらないのだが。
 増税はしかたがないが、国民はまだ感覚として捕らえていない。これがまず問題の一端にあるが、もう一端は朝日も引用箇所以外で触れているのだが、景気の向上だ。景気が向上すれば財政は潤う。ではどうすれば景気が向上するか。と問われてたいした答えがあるわけでもない。日本の経済は内需向上の兆しが見えるといえ、依然米国主導だ。そして、日経までも新三種の神器といった間抜けなことを言い出して自動車産業との比率を隠蔽するようでは脱力するしかない。事実を見れば日本経済は米国様のなりゆきまかせであることがわかる。
 そしてその米国には現在明るい兆しがある。陰謀論好きのバカはさておくとして、米国の好景気への道筋は今週のニューズウィークの最新号のサミュエルソンがいうように、単なるオールド・エコノミーの成果だ。正当な資本主義なら景気は循環するのだ。米国がまっとうであれば日本社会は皮一枚を残して首がつながるということになる。もちろん、皮肉だ。
 私たち日本人の社会の経済動向は米国から脱却できないのか? 簡単な答えではない。たぶん答えはアジアにある。そこを戦略的に問わないかぎり、国家経済の問題はつねに米国のケツを舐めろとの匕首しかならない。

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