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2003.12.20

ミサイル防衛システム自体は無駄

 今朝の社説では、朝日、読売、産経が、日本のミサイル防衛システムを取り上げていた。結論は各紙のラベルどおりで読む気も失せるような内容なのだが、特に読売がひどい。結語が自衛隊法改正になっているあたり、ナベツネ本人がボケ頭で書いているのかといぶかしく思える。朝日は、昨今の世相に押されてサヨクづらをぐっと潜め、ミサイル防衛システムはコストに見合わないよ、と大阪商人のようなことを言う。産経も、ミサイル防衛システム肯定的な立場でありながら、コスト面について疑念のトーンを出している。
 この問題について私といえば、みなさんおかど違いだ、と思う。自分の感性が間違っているのではないかとも思うので少し書いてみたい。
 まず、ミサイル防衛システムだが、読売の基本解説がわかりやすい。引用中、MDはミサイル防衛システムの略語である。こんな略語を使う意味が私にはまるで理解できない。まして社説に使うべきではないとも思う。


 MDは、米国が開発し、一部配備中のシステムだ。まず海上のイージス艦に搭載されたスタンダード・ミサイル3(SM3)が大気圏外で迎え撃つ。的を外したら、地上に配備されたパトリオット3(PAC3)が撃墜する仕組みだ。

 私は技術志向の人間なせいか、その仕組み自体は無理ではないだろうと思う。問題は、コストより時間の問題だ。その技術はいつまでに完成するのか。そのスケジュールと国策の摺り合わせが必要になるのではないか。しかし、そうした問題は基本的にテクニカルな問題に過ぎない。
 私が新聞各紙社説に違和感を持ったのは、どれもすでに露骨に北朝鮮を明記しているのだから、その状況をもっと踏まえ、先制攻撃について触れるべきだという点だ。「先制攻撃」とは、専守防衛主義の日本に合わないという政治的な見解は多いと思う。それはわからないではない。私もそれを知らないわけではない。
 私が言いたいのは、敵国の弾道ミサイルが固定式の場合は、先制攻撃を第一義に考えるべきではないかということだ。不思議だと思うのは、そんなことは軍事的な常識からすれば、当たり前のことではないのか? そのほうがコストは安いし、防衛率も高い。まして、相手は上空から裸同然の北朝鮮なのである。
 2点批判点があるだろう。先制攻撃などもってほかというわけだ。これについては、日本は堂々と「以下の政治状況下にあっては、日本は自国防衛のために、貴国の××固定ミサイルを破壊する」と通知しておけばいいのではないか。もちろん、それでも「専守防衛」への神学論争は続くだろうというのはわからないではない。だが、軍事的な問題で軍事的な常識を欠落させてどうするというのだ。平和志向が軍事の常識の欠落であってはならない。しかし、現実の日本人にはそう言うのも空しい。とすれば、こっそりとしか言えないのだが、日本国はピンポイント攻撃兵器を開発すべきだろう。最初の一撃は食らっても、その瞬間に、北朝鮮の固定基地を破壊できるようにするのが、実はもっとも平和的な解決になる。
 もう一点の批判点は、ミサイルが移動式になる可能性だろう。このあたりは、正直なところ私もよくわからない。弾道ミサイルレベルで移動式にさせる技術は中国ですらもってないのではないかと思う。GPSを含めた総合的な技術が必要になるからだ(だから中国の宇宙開発は怖いのだが)。ただ、こうした事は私の話は失笑レベルなのかもしれない。いずれにせよ、その事態であれば、まるで様相は変わる。
 ミサイル防衛システムの軍事的な問題を除いても、あと二点、別の観点から各紙社説に違和感をもった。一つ目は、各紙とも韓国との連携が触れられていないことだ。北朝鮮はソウルを攻撃せずに日本だけ攻撃するとでも思っているのだろうか。もう一点はミサイル防衛システムは純粋に米国経済との関連の経済問題なのではないか。極東ブログとしては、むしろこの点を掘り下げるべきなんだろが、今回は見送りたい。

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2003.12.19

マリ共和国のコレラ死亡者106名(12月17日時点)

 台湾のSARS状況を知るためにWHOの疫病発生情報(Disease Outbreak News)を見ていてマリ共和国でのコレラの発生情報に目を奪われた。WHOの情報をトレースすると、11月25日の報告で55人死亡(8月11日から10月9日)。そして、12月4日の報告で78人死亡。17日には106人になった。流行が食い止められている地域もあるが、まだ制御できない地域もあるとのこと。
 外務省の情報は遅れていて、「厚生労働省検疫所」(参照)では11日の情報として死者78人をWHOから転載している。確かに、日本の渡航者への情報ニーズは高くないから、のんびりしていてもいいのだろう。
 私はマリのことはほとんど何も知らない。今回のコレラの流行は異常な事態なのかもよくわからない。少しぐぐってみると、こういうことはマリではよくあることのようでもある。今回のコレラの流行もある程度すると収まるだろうなと思う。SARSとは違い、人類に未知な病気ではない。
 そこで、私は「ふーん」と言っていいものだろうか。悲惨な話ではある。だが、あまり強く関心に上ってこない。イラクで死んだ2人の外交官の死には「ふーん」ではなかった。もちろん、そういうヒューマニズムを装った問いかけがされても、それはいつも何かしらトラップなので、こりごりした思いがある。
 外務省のコレラの情報を見ていると、南アフリカで2000年8月から始まったコレラの流行では2001年4月までに181名の死亡したとある。それも知らなかったか、あるいは知っていても記憶から失せている。菌については、こう記載されている(参照)。


 現在のコレラはエルトールコレラと呼ばれるもので、1961年頃からアジア地域で発生し、感染力が強いためにクラシカルコレラに替わって瞬く間に世界中に広がりました。幸いなことにクラシカルコレラに比べ病原性が弱く、死亡率も2%程度といわれています。栄養状態の良い日本人の場合は胃腸の弱い人、老人、乳幼児を除けば死亡することはほとんどありませんが、感染力は強いため油断はできません。

 また、うかつにも「ふーん」と言いそうになる。WHOの情報に戻ると、菌は「Vibrio cholerae El Tor」とある。なるほど、エルトールコレラか。エルトールコレラは1961年にインドネシアのセレベス島(現スラウェシ島)に発生したものだ。これがアフリカで多くの人を殺している。
 エルトールコレラといえば、以前日本人バリ島旅行者がコレラにかかる事件があった。1995年のことだ。患者278人+保菌者18人という規模だったが、なぜ日本人旅行客にだけかかるのか不思議な思いがしたものだった。が、その「なぜ」という思いも忘れてしまった。
 その数年前私も知人の外人たちとバリに行っていたのだが、彼らは、「暑くても氷に気をつけろ」と私を諭した。市場の裏をうろつきながら、なるほどねと思ったものだ。
 話にオチはない。たぶん、日本のジャーナリズムではマリ共和国のコレラの話には触れないだろうなとは思うけど。

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学校の生徒を守るのはまず先生だ

 朝日新聞社説「宇治小事件――教訓は生かされたか」を読んでにぶい倦怠感のようなものを感じた。極東ブログお得意、朝日新聞社説おちょくりではない。これがこうした問題についての日本人の感覚の代表なのだろうと思う。そのことに倦怠感を覚えたのだ。
 事件は、昨日正午過ぎ、京都府宇治市の宇治小学校に包丁を持った男が侵入し小学一年生を斬りつけたことだ。幸い、担任が児童を避難させ、別の先生が男を取り押さえたので、それ以上の事なきを得た。男は精神科に入退院を繰り返していたので、ことなきを得た結果、こいつはまた、日垣隆の言うように、いずれ野に放たれことになる。
 この事件について朝日は「今回、付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか」と批判的に問いかける。この問いかけの思考のあり方に私は強く違和感を持つのだが、それはひとまず置くとして、朝日の論調は奇妙にねじくれている。


  1. 付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか。
  2. 宇治小は地域の結びつきを重んじ「開いて守る」を基本方針にしていた。
  3. 門扉は施錠されていないが、センサーや監視カメラがあった。
  4. 不審者を阻止できる態勢が必要だ。
  5. とはいえ、学校という性格から、不審者をすべて閉め出すのは難しい。
  6. しかたない、効果のありそうな対策をできるだけ採用していくことが大切だ。
  7. 気持ちを引き締めて対策を尽くせ。

 私の言葉でまとめたがいずれにせよ朝日の論旨はこうだ。なにが言いたいのだ、この文章? と批判しながら、私は朝日の思いがわからないではない。最初の問いかけがフェイクなんだと割り切ればわかりやすい。ずばり言えば、構造的に学校を取り締まるのではなく、関係者の努力を期待したいということなのだ。
 私は、その朝日の主張は正しいと思う。この事件で、ニュースの流れは、不審者が校門を通過したことを知らせる警報音のスイッチが当日切られていたことをもって、管理体制がずさんだったとして、小松美恵子校長を責めていく。
 ひどい話だ。ひどい話なのは、そういうふうに校長をつるし上げてよしとする世相だ。私は少ない情報しかないが、小松美恵子校長はよい校長なのではないかと思う。よい校長をつるし上げていけば、刑務所のような小学校ができあがる。責任の方向を取り違えた校長がのさばることになる。
 今回の事件と池田小事件の違いはなにか。端的に、児童の死者が出なかったことだ。そしてそれが出なかった最大の理由は、対応がよかったことだ。先生がちゃんと身をはって、包丁を持つ男を取り押さえたからだ。それが可能だったのは、校長の功績なのだ。
 話を少し戻す。こうした事件のとき、「付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか」というクリシェな問いかけが出るのはしかたがない。だが、この悲惨な事件についての、私たち日本社会の教訓はなんだっただろうか。
 この問題の一端については、極東ブログ「池田小事件をどう考えるか」(8.29)で扱った。私は「宅間守被告の声は我々の内面にくすぶる悪魔的な心の声の代弁だろう。」と書いた。その悪魔の声は社会の無意識を通して精神疾患者に現れる。社会が受けるべき教訓があるとすれば、その問題ではないか。我々日本社会は宅間守を理解しようとせず殺すことに決めた。だが、悪魔の声を殺すことはできない。
 我々はこの悪魔の声に向き合うべきなのではないか。少なくとも知識人はそれを理解しようと努力すべきだろう。
 そして、端的に言うのだが、私たちの社会は、精神疾患者と犯罪という構造的な問題に取り組むべきだろう。

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2003.12.18

年金問題をさらに取り上げる

 昨日朝日新聞社説の年金問題を取り上げ批判した。年金問題とは団塊の世代の問題ではないか。なのに、それを結果的に温存するさせるような仕組みの社説に違和感を覚えた。それにしてもなぜこれを論じたのが朝日一社だけだったのか、不審な感じがした。が今朝になって、大手他紙が横並びに年金問題を扱っていたのを見て落胆と安堵を覚えた。安堵というのは、どれも朝日よりはまともな話になっていたことだ。団塊の世代をという隠れたキーワードは出さないものの、世代間の問題に意識が向くようにも書かれていたからである。
 各社説のうち、毎日と読売は文章がぼやけていた。読売のぼやけは小泉のロビー気取りでいるからしかたがないが、消費税アップについては明確に書いているので、苦笑する。毎日の論旨がぼやけているのは朝日寄りというか、プチサヨクの正体見たり団塊さん、ということだ。話のオチを小泉のリーダシップ欠落にもってくるようでは床屋談義だ。
 残る日経と産経は手短に逃げているものの悪くない。これを台にしてもう少し掘り下げてみよう。日経の出だしはよい意味で社説のお手本のようだ。


 自民、公明両党がお互いのメンツを大事にしながら、一方でぎりぎりの妥協も重ねた結果の数字。来年度の年金改革に関する与党の案は、そんな印象を強く与える内容となった。日本の社会の中で年金制度をどのように位置づけるのかという強いメッセージは伝わってこない。これでは年金離れが進んでいるとされる若い世代が、ますます遠ざかっていくのではないか。

 当面の問題として、明確に公明連立と若年層年金離れとしている点はよいだろう。ただ、話の内容は結局、公明連立の問題に終始し、年金問題についてはごく結語で触れているだけになった。

 つまり将来の年金の姿を考えるときには、少子化や雇用対策など他の政策をどのようにするかも同時に論じその道筋も合わせて示さなければならない。また医療や介護といった他の社会保障の仕組みによっても、年金水準のあり方は異なってくる。そうした全体像を見ようとしないで、年金だけの世界で数字のつじつま合わせをしているようでは、国民に訴える力は生まれてこない。

 概論としては確かにその通りで、一つの社説でそこまで掘り下げることはできない。私も、問題の複雑さに溜息が出そうだ。年金問題とは、個別にテクニカルな意味での年金問題の裏に、日本の社会構造の問題の2つが隠れているのだからしかたがない。
 新聞各紙はその社会構造を人口構成的に見ているが、極東ブログとしては、2点、(1)これは団塊の世代の問題である、(1)共通一次試験以降の世代の消費行動の問題である、として今後も考えてみたい。
 産経の次の視点は、すでになんども言われていることではあるが、わかりやすい。

 しかし、負担が五割も重くなる経済界や若い世代の反発が強いため、政府・与党案は上限を二十九年度の18・35%に圧縮した。その結果、給付水準(現在59・4%)は現役世代収入の50・1%程度まで低下する。若手の負担を緩和しつつ、中高年にも配慮した結果だが、まだ世代間格差は大きい。
 たとえば、昭和三十年生まれ(現在四十八歳)は、上限20%なら保険料(自己負担分)の三・五倍支給されるが、18%なら三・二倍に低下する。昭和五十年生まれ(二十八歳)は、20%なら二・五倍、18%で二・四倍だ。

 ようするに今回の改革は団塊の世代対応だと読める。また世代を下るにつれ、ふざけんな的になるのも数字で見える。当然、この数字はさらに低くなる。
 産経はオヤジ極まるのでその面で良いことも言う。

 若い世代もいずれは受給者になるので給付水準低下の影響を受ける。それでも全世代で給付総額が使用者負担を含む保険料より多いのだから、年金が「払い損」になることはない。

 ここを強調したい気になるのは私もオヤジだなと思うが、国というのはそういう存在なのだ。思わず、若年層に向けて「若者たち、君たちはマジで日本が破綻すると思うか? そうなることを見越して社会参加するのか? そうでなければ、年金は払うほうが得だよ」と言いたくなる。そしてそれはおそらく正論なのだが、若年層が説得されるわけでもなく、単純に若年層バカだというわけでもない。若年層の未払い問題は彼らの消費活動の自然な帰結であるとともに、その総体として、団塊世代より上の国家運営に「否」を投げかけているのだ。
 オヤジに説得されて年金を払うやつのほうがずる賢いのであって(団塊の世代のようにローンを背負って銀行の金利に目をまちくりさせた経験がないとわからないだろう)、年金なんかまじめに払えば現体制を温存させるだけじゃないか、もっと現在の生活の強度(快楽)を優先するということで、彼らは結果的にこの体制の変容を求めているのだ。繰り返すが、超資本主義にあっては消費の世代的パターンは明確な政治力なのだ。
 そう書き進めてみて、私は、若年層の消費行動にもっと目を向けるべきではないかと思う。モデル家族(世帯)についても論じたいが、別の機会にしよう。

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2003.12.17

薬販売の規制緩和はさして問題でもない

 日経新聞社説「これだけなのか薬販売の規制緩和」は悪くないのだが、少し言及しておきたいと思う。まず、最初に言うが、日本人と薬剤の問題の根幹はジェネリック薬だ。この問題は極東ブログで扱ったのでその論点は触れない(2003.8.23)。
 まず、日経社説で違和感を覚えたのは、結語だ。


 専門家の検討結果を軽々に扱ってはならないが、これでは消費者の深夜の苦痛が解消しないのも事実だ。

 それは「大義」にならないと私は思う。ちょっと私の意見はピントがずれているかもしれないが、鎮痛剤でなんとかなる問題なら、深夜でもお隣さんを起こしてわけてもらえよ。なにも昭和レトロで言うのじゃない。お隣さんというのはそういうためにあるのだ。3件も回れば、市販薬の鎮痛剤くらいあるよ。子供のひきつけでもそうだが、同じ年代の子供をもつご近所さんと面識くらいもっていろよと思う。お隣さんよりコンビニというのは社会の流れかもしれないが、そのくらい大衆の常識として覚えておけよ、日経さんと思う。
 それと簡素に述べるが、日経の次の文章はタメで書いているだけだ。

 厚生労働省の依頼を受け、薬剤師のいない一般小売店で売れる薬の範囲を検討してきた作業グループは16日、下剤や消化薬、体に塗り風邪の症状を和らげる薬など15製品群、350品目が「安全上、特に問題ない」とする報告をまとめた。厚労省はそれらの医薬品を「医薬部外品」に変更し一般小売店で売るのを認める方針だ。しかし、この程度なのかと思う向きも多いだろう。

 それ以上に増やしてもOTC(市販薬)なんて効かない。だったら、ちゃんとした医療の対象にしたほうがいい。コンビニに置く程度の薬は家庭の薬箱に入れておけよとも思う。
 あとは余談だ。市販の風邪薬はほぼ無意味だという話はさておき、ちょっと気になることがある。

 どうもすっきりしない。離島や辺地には薬剤師を置かずに幅広く薬を売れる「特例販売業」が約4700店ある。また厚労省の昨年度の調査では一般薬店の2割強が調査時に薬剤師が不在で、この割合は高まる傾向にある。そうした店が大きな問題を起こした話はあまり聞かない。

 こんなことを書いてはいけないのかもしれないが以前それなりに調査してわからなかったので、もしかするとブログに書くことでたれ込みであるといいなと思う反面、書いていいのか悩むのだが、書く。詳しく書くと問題があるのだが、離島や辺地の薬剤店には、都会とは違った「家庭計画」薬がおかれているとしか思えないのだ。この歴史的な背景はなにか、どうなっているのだ?

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年金問題の基礎に隠されている問題

 今朝の朝日新聞社説「年金改革――やはり大手術しかない」は、まず標題からしてげっそりしてしまうのだが、半ば義務のように目を通す。面白くもなんともない。年金問題など、あたりまえの理性とスェーデン改革でも参考すれば、最善とはいわなくても次善の解決案は出る。なにをぐだぐだやっているのだと思う。毎度ながら朝日新聞的社説の愚劣さは「朝日新聞的社説(自動生成)」(参照)を使っているのではないだろうかと疑うほどだ。ちなみに、このソフトは「朝日新聞社説」という固定観念でできているが、実際の朝日新聞社説はもっと表層的にはやわらかく主婦を見下すような語り口になっている。これにオントロジー上位のサヨク・反米文脈ルーチンを追加すれば、本物の朝日新聞社説になるという冗談を書いている場合ではない。ざっと読みながら、「次」とつぶやくその瞬間に脳のなかのクオリアが凍り付く(いかん、どうも冗談モードから抜けられん)。しばし瞑目して思い当たることがあった。ミダス王の指のような文章がこの社説のケツにあったのだ。


 「団塊の世代」が年金の受給者に回るのはあと数年である。改革のために残された時間はわずかだ。

 あっ、と次の瞬間うかつに声が出てしまい候(←冗談よせ)。そうなのだ、これまでもわかってはいたのだが、年金改革とは団塊の世代の問題なのだ。あいつら、70年代に懲りたかと思ったら、こんなところで、でっかいうんちをしているのだ。思わず「あいつら」とか呟いてしまったぜ。
 「国の年金問題」じゃない、「団塊の世代の年金問題」が年金問題なのだ。そしてそのことはすでに私より下の世代共通一次世代やセンター試験以降の世代の大衆意識にすでに折り込み済みなのだ。彼らは「自分たちの年金であるわけがない」という前提で行動している。もちろん、それはアイディオロジカルな命題ではない。もっと社会の消費構造的に年金が選択されないような社会を作り上げていることの社会学的なモデルだ。
 あえていうとすれば、現在の若者の消費社会を作っているのは、電通の東大出のグループがビデオリサーチを一社に限定するっていうような陰謀じゃなくて、「キミたちの欲望の正当な反映」なのだ。もちろん、責めているわけではない。大衆の無意識を責めても意味はない。端的な話、月額1万3千円が払えない若者は、ほぼインポだ不感症だと70年代用語を書いてもしかたがないが、それだけの余剰を常識で考えれば働き出せないわけはないのに、社会構造的にできないのだ。誰だったが、松下幸之助だったか経営者の爺がたんまり税金を払うことに「お国のためですから」と言っていたが、月額1万3千円の労働が「お国のためですから」にならない消費社会の構造ができあがっているのだ。
 この「あいつら」の感じはどっかで最近読んだよなと思って、記憶を探るに、「はてな」のhazuma(名前はあえて書かない)の日記にあった(参照)。子供の夜間徘徊(←ちなみにこれ沖縄用語)の規制についての文脈だが。

しかし、この条例改正の動きが具体的に何を背景にしているのか知らないけど、一般的にこの国の世論は、年少世代を叩きすぎだと思う。普通に考えて、この国がいまメチャクチャなのはバブル期にいい気になっていた年長世代(世代名を出すのは控えよう)が原因なのであって、10代や20代のせいじゃない。僕だってもう30代だし、あまり若者の味方をする気もないけど、そういう過去の愚行を棚に上げて、プロジェクトXとか60年代小説とかに涙しながら、未来の話といえば年金をいかに確保するかばかり、あとは生活の漠たる不安から目を逸らすために少年少女と外国人をスケープゴートにして満足している連中が一掃されないかぎり、日本に未来はないと思うよ、マジで。扇情的なマスコミの責任も重い。

 後段についても思うことがあるというか、それは違うよと思うのだが、さておき、この世代的な敵視の感覚が重要だと思って記憶にひっかかっていた。
 もちろん、いつの時代もどの世代も上の世代を敵視するものだが、日本についてはそんなクリシェでまとまるわけではない。端的に言うのだが、日本の社会では世代間が人間として正常な軋轢を産む場は私企業内でしかない。それも、なくなっている。世代間の正常な軋轢を団塊さんも共通一次さんも避けているというか、避けることが可能な社会構造を、結果的に平和に作り出してしまったのだ。
 なにも私のことを強調したいわけではないが、私のような昭和32年生まれなど、団塊さんと共通一次さんの狭間に落っこちて、概ねそのスペクトラムのなでグラデがかかるような位置づけにされている世代だ(私自身がオタクの走りでもあるし)、というか、サブカル以外に共通の世代間などないのだが、その空白におかれた私にしてみると、なんとも奇妙な図だ。
 話が散漫になったが、冒頭、あれっと思ったのは、この世代間の問題だけではない。結果的にそれにつながるのだが、もう少しマジな部分がある。「モデル家族(モデル世帯)」だ。
 単純に言えば、日本の年金制度は、「妻は専業主婦、稼ぎ頭は夫」という理想(マックス・ヴェーバーのいう「理想」)モデルからできている。この「モデル家族」は日本のふにゃけた知の風土ではしばしばフェミニズムから議論されがちだが、批判覚悟で言えばそんな問題はそれほど重要ではない、問題なのは、このモデル家族が実際上、団塊の世代より上の世代から団塊世代までのモデルになっているということで、実は、団塊世代をプロテクトするような機能がイデオロギー的に埋め込まれている点だ。ちょっと飛躍するが、このモデルは公務員が楽園になるモデルでもある。現実の公務員を見れば、庶民なら誰でも知っているが夫婦とも公務員で楽々な暮らしをしているケースが目につくのだが(これには言葉では批判はあるだろうが事実だということを譲る気はない)。
 話が混濁してきたが、ようは、年金問題の基底にある「モデル家族」の方法論に、団塊の世代を守るためのシカケがしてあり、朝日新聞もすでにそれが当たり前の方向だとして啓蒙しくさっているのが問題なのだ。そこを言語で議論可能な、かつ単純な問題にしないかぎり、共通一次世代以下が「あいつら」意識で社会の消費構造を攪乱することは止まらない。
 だからといって、その攪乱的なハイパーシミュレーションの上澄みとしての消費税で問題を解決するのは本質的な倒錯だ。と、やや論理が飛躍しているが、私はこれまで、「消費税はがんがんあげろぉ」と思っていた。しかし、考えを変える。消費税はやもうえないのかもしれないが、消費税を国庫とする思考法は、この国の根幹のゆがみ(団塊の世代をきちんと新しい国のビジョンに位置づける)の妨げになるのだ。
 だから、朝日新聞社説は根幹で間違っているのだ。

 世代によって払う保険料ともらう年金が違う「世代間の不公平」、自営業者らが加入する国民年金の保険料を払わない人が急増している「年金の空洞化」……。現行の仕組みをそのままに、表面を手直ししただけの今回の案では、年金が抱える病気を根本的に治療できず、制度は安定しない。

 違う。その不公平は是正できない。また、「自営業者ら」としてそこをスケープゴートにすれば、実際には現在の若い世代が将来的に潜在的な自営業者になることを閉ざしてしまう。むしろ逆なのだ。その不公平は治らない、自営業をさらに優遇するという方向で考えなくてはいけいないのだ。

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2003.12.16

ボイン・ボイン

 「ボイン」が「はてな」で話題である。ん? そうか。そう、「ボイン」だ。「母音」でも「拇印」でもない。「ボイン」だ。あと数日の、期限付きの話題だ。ところで「はてな」ってなんだ? ぁぁそれを言っちゃ話にならないなっと。で「はてな」の日記では分野を特定すれば、勝手に書いた日記からキーワードが自動的にリンクになる。「バカ女(ばかじょ)」とかいう言葉を日記を書いていて、「これを私はキーワードにしたい」と思ったら登録すればいい。登録は簡単。「はてな」の会員なら誰でもできる。ちなみに「はてな」で「胡錦涛」をキーワードに登録したのは私だ。こうしておけば、他の人の日記に胡錦涛が登場したとき、それがリンクなるから、「ほほぉ、極東ブログ以外に胡錦涛に関心をもっている人がいるのか」とわかる。みんな今の胡錦涛をどう思う? どうどう? ちなみに、1万人を越えると言われる「はてな」の日記で胡錦涛と書いたのは、私ともう一人だけ。しかも、もう一人のかたはニュースのコピペだった。なーんだ胡錦涛って「はてな」に情報はないのかぁ。もしかして「はてな」って、もしかして、そこに集まっている人って、もしかして……なーんて考えてはいけない。考えるべきは「ボイン」だ。そうだ。ボイン。ボインは有意義なキーワードなのか。もちろん、工学的に考えれば、GoogleのPageRankが参考になる。そう考えると「ボイン」は有意義なキーワードに違いない。「胡錦涛」よりましだ。で、なんで「ボイン」なんだ。そりゃ、当然当然、ボインといえば月亭可朝師匠(65)でしょ。そりゃ、当然(参照)。月亭可朝師匠と言えば、自由連合でしょうな。ハレンチ学園の身体検査の巻(映画)の高松しげおのヒゲとボイン、じゃないヒゲゴジラはこの際、お呼びじゃないでしょう。やっぱ、お父さんがインド人のマリアンでしょうね。フランスのニース生まれでDOSユーザーとして有名だったクロード・チアリ(参照)の娘さんでなぜか英語を教えているクリステル・チアリさんみたいなものですな。ああ、話がそれてしまひました。問題は……ボインだ。ボインといえばナインという言葉もありました。ナインももしかしてこっそり「はてな」のキーワードになっているかと見ると、ちゃいました。あるのは「ナインストーリーズ」です。ちなみに、そのキーワード解説のページを見ると、「作者:J.D.サリンジャー」はいいとして「作者:野崎孝(訳)」ですかぁ。時代ですなぁ。野崎孝は訳者として悪くはないし、今回の春樹のキャッチャー騒ぎでは野崎孝訳のほうがええとか抜かす団塊さんとかいて醜いのだけど、あの訳はあんまりよくないです。文庫では、他に集英社の中川敏訳と講談社の沼澤洽治(聖心女子大学教授)訳のほうがだんぜんいいです。っていうか、原文読むのでなければ、野崎孝訳のナインストリーズなんか読んでも文学的な意味なんかないですってそこまで言うか。ましかし、もうそんな訳本は入手不能。時代だからな、世の中変わるのだ。変わらないのはボインだ。違うか。ナインか。そうナインだ。ナインといえば、小鹿ミキだ。ちょっとだけよぉだ。荒野の干し葡萄だ。そうスタインベックだ。違う。小鹿ミキといえば大阪の女(アクセントはお「ん」な)。ああ、知らないですか。現代でいったら池脇千鶴ですかね。おせいさんの最高傑作短編「ジョゼと虎と魚」の映画化でナインを堪能したかたも多いはず。やっぱツウはナインです。舶来ならシャーロット・ランプリング、ま、違うという意見もありましょうが。

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Google爆弾が可能なのはGoogleがアホだから

 昨日は新聞休刊日だった。一昨日フセインが捕獲された。当然、今朝の社説はそればっかのハズである。当たり。そして壊滅的につまらなかった。どれも単につまらないのである。天声人語はまたシェークスピアだった。もうそれやめとけ。
 今朝のネタは、どうしようかなと思ったのだが、Google bomb(グーグル・ボム)の話。英語版のGoogleで"miserable failure(目も当てられない失敗)」を検索すると「Biography of President George W. Bush(ブッシュ大統領の履歴)」(参照)が検索される。まぁ、ちょっとした洒落というか悪意だというふうに解釈されてブログのネタになる。ああ、極東ブログもそのネタかよって、そんなつまらない話はしない。というか、こんな話だけではボツネタだ。
 日本でのこのネタの出所を探ってみる。どうやら極東ブログがよく参照する韓国紙中央日報の日本語版の記事「グーグル『惨めな失敗』でホワイトハウスホームページにリンク」だ(参照)。そう疑わせるのは「惨めな失敗」という訳語。これをキーワードにして日本語版手抜きGoogleを検索するとブログで使い回している今回のネタが出てくるが、「悲惨な失敗」など他の訳語では出てこない。つまり中央日報の孫引きでBBCからのネタではない(BBCの話はこちらを参照)。Newsdayはそれより早く6日(参照)だが、BBC同様、Googleのトリックの解説に終始して浅薄な記事で終わっている。ABCでは米国時間で8日このネタを「Bush Whacked Online Search Engine Trick Lists President as‘Miserable Failure」で扱っている(参照)が、さすがにこちらの記事を読むとこのイタズラの背景がわかる。日本のブログの扱いは? なんつうか、浅薄だなぁという感じがする。
 ちなみにこのイタズラはしょーもないSEOテクニックなのだが、SEOを関しているサイトには薄い話しか掲載されていない。ちなみに、SEOがなんだかわからない人はこれを参照するといい。この記事中「それとも、何らかの見えない『力』がブッシュ大統領への怒りを表す為に Google を利用しているのだろうか。。。」というのはちょっと脱力。意図的なものです。その勢力もはっきりしています。
 それにしても今回の話はネタ的には古過ぎた。"weapons of mass destruction"でもうお腹いっぱいです(参照)。なのに出てきたのは亜流だからだ。
 今回の背景は、どっちかというとABCは火消し側に回っているが、端的な話、これは大統領選のための民主党ゲッパート陣営の選挙工作(参照)と見るべきだ。


"This is not a political statement from Google, but rather a reflection of a recent Web phenomenon," says a spokesman for Google in Mountain View, Calif. "In this case, a select group of Web masters used the words [miserable failure] to describe and link to George Bush's Web site."

 もちろん、Google側の政治的な声明であるわけはないが、単なるWebの現象というわけにもいかないのは、それを画策した集団がいたからだ。
 ちなみに同じようなことは日本でもこそっと「ゲーム脳」というキーワードでも行われている。「ゲーム脳」をキーワードに日本版Googleを引くと、ゲーム脳を批判している「斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖」ページが出てくる。これは意図的になされたものだ。この上位ランクのページはサイトがwww.tv-game.comでわかるようにゲームっていいじゃぁんのサイトだ。確かに、『ゲーム脳の恐怖』(森昭雄/NHK出版)はと学会レベルで批判できるような内容なのだが、これは結果として1兆円産業となったゲーム業界の政治な運動だと見ていいだろう。というのも、なにも「と」に目くじら立てて正論はこうだ!なんてやるのは「と」の楽しみに反するじゃないか。
 さて、この話の締めだが…この手のネタは「お腹いっぱい」のころになって大衆的に広がるから、今後も話題になるのだろう。なんかそれってムゴスギとか思うがしかたない。大衆文化とはそういうものだ。問題はGoogleにもあるんじゃないか? という議論はネット擁護派にバカにされるだろうか。だとすると、バカ返しだな。私はGoogleの技術がはやりまだレベルが低いのだろうと考えるからだ。前回、W3Cのオントロジーの取り組みをくさしたが「オントロジーのW3C規格化は無駄」(2003.11.2)、確かにW3Cが規格化というシマを作る必要もないものの、ネットの社会にはいずれそのレベルの技術が必要になるだろうと考える。「あ、おバカな人たちがおバカことやっているな」と意味を理解するお利口なGoogleが必要になるのだ。

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2003.12.15

フセイン捕獲は吉兆だろう

 サダム(サダーム)・フセインが捕まった。私は、昨日、10時少し前、HDDレコーディングが終わっているだろうNHKのスペシャル番組「文明の道」がこのニュースで飛ばされていてむっとした。そのくらい、フセインの逮捕には最初関心がなかった。私にはモンゴルの歴史の話のほうが重要なのだ。
 時間ズレした「文明の道」を録画しなおして、それから深夜NHKのニュースを呆然と見ていた。特に、関心がわき起こるわけでもなかった。ブッシュが画面にどんと出てくると、センター試験以降の世代は知らないだろうお囃子「よっ、大統領」と思い出した。思い起こせば、この戦争はフセインをとっ捕まえる戦争だったのだ。「そんなの意味のない大義さ」という人も多いだろうが、開戦時、フセインが亡命すれば戦争は回避できた。そのことを私はふと忘れていたことに気がつく。
 それからざっとブログだのネットを見回した。面白い見解はなかった。いや、面白い見解しかなかった。ブログとはそういうものなのだ。それでも、日本から「独裁者」というものの感触が消えているのではないかと訝しく思った。そんなもの戦中から存在しなかったともいえるかもしれない。現在の日本のあちこちにプチ独裁者はいるが、それはあくまで比喩に過ぎない。戦時の日本は、象徴的な独裁者(天皇)のもと、独裁政治があった。そういえば、英語に「dictatorship」という言葉がある。「独裁政治」と訳されるが、ニュアンスはやや違うようにも感じる。そのニュアンスを日本人は失っているのだ。「よっ、大統領」やそのもとにあるアメリカ人がFree!というときの感覚も実はdictatorshipの感性がなければそもそも通じないものかもしれない。
 フセインの捕獲に銃撃戦もなかったという。映像にはハリーポッターにでも出てきそうなぬぼっとした顔面髭の濃い男が出てきた。まったりとしている。映像を見ながら、そんなものかと思ったものの、違和感はある。これもまたセンター試験以降の世代は知らないだろうが、横井庄一さんや小野田寛郎さんが発見されたときのイメージを、私はつい持ってしまう。だが、彼らは兵卒だったからなのかもしれない。
 フセイン捕獲の状況についてはメディアからはある程度わかりある程度わからない。情報は限られている。イラクでは祝砲が鳴り渡るようでもある。それも事実は事実だ。その少ない事実から即座に様々な解釈の言葉が溢れ出す。面白い世界だ。
 日本では、概ね「これで終わりではない」というのがウケがよさそうだ。たしかに、フセインがほぼ無防備で穴に潜んでいたというのでは、これまでのテロが彼の直接指示だったとは考えにくい。すでにフセインなきテロは続いていたともいえる。
 だが、私はイラク治安の混乱は概ね、局在化していると見ている(でなければ農産物ができるわけがない)。フセイン体制が温存されなかったことへの反感が旧体制側の人民にあり、それをベースにアルカイダなどの外国勢力が乗っているのだろう、と私はシンプルに見る。だとすれば、その反抗勢力にはアノミーが起こるだろう。
 イラク国民の大半にしてみれば、早くまともな国の体制になって欲しいというのが本音だろう。反米の意識もあるだろうが(それは間違いない)、大衆は反米などというイデオロギーが行動の一義にはならない。ここでふと、8日極東ブログに書いた太宰治の「十二月八日」を思い出す。開戦に酔うファナティックな主婦の意識の裏には普通の生活が滑稽でもあり淡々でもあり描かれていた。イラクも同じだろう。大衆は生活が優先されるし、私は市場のようすから察するのだが、各地域的にはその地域社会には決定的なアノミーが起きているわけでもない(だからこそ分割が必要かもしれないのだが)。
 日本を含め、アジア(ちなみにアジアとは古典的にはトルコを指す)には反米の思いが強い。だが、その思いをイラクの混乱に仮託することは知性のある人間のすることではないと思う……と、休刊日のうちに明日の朝日新聞社説に投げかけておこうかな。

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2003.12.14

祝ご懐妊、広末涼子

 広末涼子のできちゃった婚は世間の読み通りで、できちゃったあたりが話題か。私も、なにかアレっと心にひっかかったことがある。なんなのかよくわからない。些細なことには違いないし、どうも下品なひっかかりっぽいので、書かないほうがいいだろうとも思う。でも、だったら逆に書いてみるか。そんなのアリかよと思うが、無意識の吐露みたいなものだ。やっちゃえ。
 ちなみに、私は広末涼子というのをスチル以外で見たことがない。Yahoo BBとかの広告で認識できる程度。演技力がどんなものかまるでわからない。また、あの面だが、私は好きではない。美人じゃないよねとは思う(室町時代的美人か)。じゃあ、まったく無関心かというと、2つの点で関心を持っている。1つめはたぶん、大衆レベルなのだが、なんかあの清楚っぽい感じがいやらしさを誘うじゃないですか。今回も「ご懐妊」でせう。つうことはその前に23歳ぴちぴちでおセックスをばこばこやっていたわけじゃないですか(とか言うけど、自分の過去を思うと23歳はいいかげんすれた大人だな)。旦那さんも面も身体もいいじゃないですか。ちょっと、そのおセックスって、きれいっぽいじゃないですか…あとはチンコの硬度だけが問題でしょう…という感じだ。私はわけあってロリでもペドでもないのだが、そういうシーンがあったらちょっと見たいなとは思う。少なくとも奥菜恵のバコバコ動画があったとしても、広末のほうが見たいかも。うーん、先日のananの表紙の裸のねーさん27歳(おっと、ふでになめー忘れているよ、おれ)みたいな感じじゃない。広末ってプロポーションが田舎っぽい感じがするし、大腿しまってなさそうだし、でも、あの顔でおセックスのくぅ~っていうのあったら、(;´Д`)ハァハァ ですよね。ああ、えげつない。といっても、その手の清純っていうのは昔もあったのでそれほど実はどってことない。すげー古いところでは吉永小百合あたりか、でも、吉永小百合は美人だったなぁ。今でも美人だけど。広末涼子の面はたぶん歳ともにただのおばさん面になると思う。
 もう一つは、茶目。私は、茶目の人間にいよーに関心を持つのだ。理由は簡単で、私が茶目だから。なんでわてらは茶目なんでしょう、ってたんに遺伝的な問題なんだが、この遺伝子は多様な日本民族にどうばらまかれているのでそう。その遺伝子には、なにか連動する性格的な因子はないのでせふかと思うが、ま、フツーの人には伝わらないくだらない関心ですね。でも、もし、このお下劣文を読まれているかたのパートナーが茶目だったら、たぶん、あんたも茶目に惹かれてるわけですよ。茶目は怖いんですよ。蛇のにらみみたいな怖さじゃないけど、茶目は幻惑的なんですよ。ま、わてみたいな歳になるとあかんのですわって方言みたいに言うなよ、おれ。
 できちゃった婚については、ふーんという感じ。元国土交通相大臣元保守党元アイドルの扇千景(本名林寛子でもクロパンの元かみさんではない)もできちゃった婚なんだし、別にどってことない。できちゃった婚でもプチ右翼になって大臣にだってなれるのだから、どっていう問題でもない。

cover
百年の恋
 で、このあたり、アレっていう感じで心に引っかかったのは、子供って生まれるんですよ、すると赤ちゃんなんですよ。あかちゃんというのは、あばあばあばれんじゃぁですよ。本気で取り組まないと人生破綻する。テキトーにこなすと、14年後にあばあばあばれんじゃ~になる。ジャンジャック・ルソーの理想じゃないけど(駄洒落不発)、子供なんて社会化されない革命の原動力たる人間なんだから怖いものなのだ。で、女が仕事もっていたら「百年の恋」(篠田節子)になる、必至。アムロが離婚はしたけど、育児がなんとかできそうなのは元旦那が一応オヤジだったし実家に金があったからなんだけど、広末涼子はアイテムがなさすぎ。たぶん、なにかとダメになるに、5万点、自動落札5万4千点ですね。
 少子化で悩むご世間様も、広末涼子祝ご懐妊には、なんとなくシラーっとしているのは、そのあたりを読んでいるからだ。大衆を馬鹿にしちゃいけませんな。育児もまとにできないゲーノー人より、世間知はあるんですから、あ、そりゃだめだわ、と思う。どだい40歳くらいまで生きてみると、見渡すとダメばっかだものね。育児っていうのは人生の主要な課題だ。戦場だ。
 とはいえ、世の中、人生いろいろなんで、うまくいけたらいいとは思う。生まれてくる子供に祝福あれ! 
 とかヌカして、ふと思うのは、両親美形でもなんだかなの子供が生まれるんですよね。そのぉ、両親美形といってもクセのある美形はだめみたいですね。かわりに両親ともに美形とはいえないけど面に独自クセあがあると、とんでもない美人の子供ができることがあります。

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地球温暖化防止会議は政治に使うっきゃないでしょ

 ひどい話をのっけから書く。地球温暖化防止会議に本来の機能推進の意味はもうない。だったら、これって政治的に使うっきゃないでしょ、と。さあ、貧乏諸国のみなさん、日本の音頭で、アメリカ、ロシア、中国にいっせいにうんこをなげませう!という道具にするのだ。
 私は、環境問題を愚弄しているのか。だが、日経新聞社説「後戻りできない温暖化対策」はすでにあっちの側に飛んでいる。


 世界中の科学者が集まった気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の3次にわたる報告で、科学的な根拠に疑問の余地はもはやない。競争力についても、排出削減の努力をした企業が、むしろ市場での競争力を増すとされる。1990年比で6%という日本の削減義務は、森林の吸収分を差し引けば実質2.1%。欧州に比べ過大とは言い難い。

 日経がそんなことを言っているようじゃ、日本経済の未来はねーなとも思う。が、「排出削減の努力をした企業」のくだりは、そういうストーリーでみなければ、別の意味で真実も含まれている。ニューズウィークでも扱っていたが、それができる企業は優良だし、また、全体コストからみれば、おそらくペイするような状況に変化してきている、と思われるからだ。
 その意味で、私は、テメーのどす黒い裏腹を隠せば、地球温暖化防止推進!、排出削減の努力をした企業頑張れである。まったく人の裏腹なんてものはこんなものだ。
 その意味で、日経のような旗を振るのも、うふふって微笑む。

 気になるのは、発効への足踏み状態を見て、京都議定書そのものを反故(ほご)にしてしまおうという日本国内での動きである。論旨は6年前の京都会議で、さんざん聞かされたのと全く変わっていない。地球温暖化の科学的根拠への疑問、排出削減義務による国際競争力の低下、そして国家間での不平等性などだ。

 だからさぁ、山形浩生はインテリやくざにしとかなちゃっなである、と書いてセンター試験以降の世代にはこうしたビミョーな皮肉が通じないかもしれないな。

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児童養護施設をどうしたらいいのだろう

 率直な話、児童養護施設をどうしたらいいのだろうか、私にはわからない。頭の痛い問題だ。朝日新聞社説「養護施設――地域とつながる好機に」は、その視点を投げかける点で評価したい。最近の社会問題としての背景はこうだ。


 社会保障審議会の「社会的養護のあり方に関する専門委員会」の報告を受けて、厚生労働省が大規模な施設から、子ども6人程度のグループホームや里親など家庭的な養育に転換する方針を打ち出した。
 欧米先進国ではすでに大規模施設ではなく、里親やグループホームが主流になっている。これらの国々から20年以上も遅れたとはいえ、子どもの人権という視点に立って、戦後半世紀ぶりに施設が生まれ変わることを歓迎したい。

 朝日の言い分を聞いていると、ほほぉ、いいじゃないかと思えてくる。もちろん、些細なことを別にすれば悪いわけでもない。
 ただ、朝日も記しているが、この問題はそういう視点から見えないのだ。というのは、問題化されているスコープがわざとらに小さいのだ。現在日本では、約3万人の子供たちが550の児童養護施設で暮らしている。1施設60人になる。
 60人はなんだかなと思うが、問題は3万人のほうだ。これが上限なら、朝日のような美談調の説教もいいだろう。だが、社会を見渡せばわかるように、本当は家庭から引きはしたほうがいい子供の潜在的な数はこの何倍もあるだろう。「引き離したほうがいい」などと軽く書いたが、単純にはそうもいかないし、現実的には現体制ではは無理だ。
 と、書いて、ここで始めて気が付いた。私はうかつだった。社会保障審議会の真意はそこにあるのか。つまり、今後家庭から放逐される子供の組織的な受け皿を作る試みなのか。
 私はひそかに高齢化社会も悪くないなと思っている。その一つは、現在のマスメディアのイメージだと、老後の暮らしが心配だわという貧困のイメージで捕らえているが、金持ちの老人がこれからわさわさ増える。それほど長く生きられもしないのに、そんな金握ってどうするかといえば、子供を金でふん縛るとか、子供をアッパーな階級に送る算段でもする。愚かだ。だが、歳を取った人間はそれなりに愚かでない者もちゃんといる。私はその存在をある社会的パワーとして信じている。彼らが、家を開放するのではないかと期待している。子供や青年や外人を受け入れる家がその内増えてくるのではないだろうか。いつも、絶望で締める極東ブログだが、金子勝のような芸風ではない。希望も書いておくのだ。

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農業の所得の直接補償はばらまきでいいじゃないか

 朝日新聞社説「FTA――農業で身を切る覚悟を」はやや意外だった。かなり意外だったというほどでもないのは、標題が明確なのに内容はぼよ~んとしているからだ。朝日お得意のサヨク・反米の文法で読み取るのが難儀な文章だが、深読みはこの際どうでもいいだろう。
 意外なのは、朝日が農業を切るだけの腹をくくったかということだ。そうではないことは、文章のぼよよんでわかる。しかし、本音はそうだ。


総選挙ではどの政党も、高関税や補助金で農家を守ってきたこれまでの保護政策から、所得の直接補償に切り替えていくと公約した。世界貿易機関(WTO)が認めるやり方に変えていこうというのだ。
 問題は、それが自民党の農水族議員らの横車で従来型のばらまきと変わらないものに終わる懸念が強いことだ。

 率直に言って問題の根が深すぎて、簡単にコメントできそうにない。後段、農水族議員云々の話はどうでもいい。所得の直接補償がばらまきを意味するのは現実を知る人間ならわかる。私が何を逡巡しているかというと、日本の地方をどう守るかだ。FTAは日本の存続の要になる。だが、日本の地方をこのまま崩壊させれば、日本がなくなる。妥当なところとしては、地方には税を優遇し、ある程度金をばらまいてもいいのではないかとすら思う。
 朝日の次の言い分はおためごかしだ。

 意欲と能力に満ち、みずからリスクをとる農家に耕作地を集中させる。企業の農業参入も促進する。農産品の流通の大部分をおさえ、補助金の受け皿にもなっている農協の改革を早急に行う。

 これがオヤジの言うことかね。こんなことを言う青年を殴ってやるのがオヤジの役目ではないか。嫌われ覚悟で端的に言う、農家はリスクが取れないのだ。そのインテリジェンスがない。馬鹿な理想をこているんじゃない。足下を見ろ。朝日新聞の社員を下放したほうがいい。
 嗚呼。嘆息するなぁ。サヨクっていうのは、どうしてここまで農民の実態がわからないのか。もちろん、現在の日本に農家など実際にはいない。だが、農民はいる。農民というのは階級なのだ。この階級という言葉が、長いことマルクス主義者に完璧に誤解されてきた。
 階級というのは、クラスだ。そしてそのクラスというのは、Javaのクラスと同じなのだ。けっして貧困層でもなければ、労働者でもない。そう、労働者ではない。労働者とは生産のリソースを持たないクラスを指すのだ。Javaを囓った人間ならクラスの意味がわかるだろう。クラスが定義されてインスタンスができる。個々の農民というのは、インスタンスなのだ。
 マルクスの資本論は本当に左翼に読まれてきたのか? レーニンのようなお銚子者の実務家というのは歴史には必要だが、彼はけして理論家ではない。エンゲルスは解説者であってマルクスの思想を知っているわけでもない。マルクスは生産のリソースを持たない労働者というクラスを社会主義革命の起点とした。だから、敵は資本家だけではなく、生産リソースを持つ農家も含まれるのだ。農奴なんておためごかしの概念を出すんじゃない。その点、スターリンは農民が敵だという単純な骨太は理解している。だから、農民を虐殺したのだ。そんなことが社会主義の理想とどうつながるかなどわかってもいなかったが、レーニンのクーデターが社会主義革命だと思いこめば、その理想に実態を合わせようとしただだけだ。ま、そんな背景話もどうでもいい。
 農民というのはクラスだ。だが、日本という超資本主義の世界ではそれらはもはや階級闘争的な問題ではない。もちろん、それではナショナルな問題はどうするのかという問いはあるだろうが、ああ、ややこしいが、農民を滅ぼせば日本を失う。

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