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2003.12.13

死ぬことは怖いなあという話

 46歳のオヤジが言うことじゃないが、世界も宇宙も私という人間の知覚の幻なのではないかと思うことがある。私が死ねば、その意識とともにそれらはすべて崩壊するのではないかと。「我が死後に洪水あれ」と思えるほど、私はこの世界も宇宙も信頼していない。私の死後には世界も宇宙もなくなるのではないだろうか。もちろん、そんなことは常識的にはないのだが、この問題を少年期から今に至るまで問いつめて、そして哲学を学んだ。それでも常識を裏付けることはできなかった。哲学者大森荘蔵のように、世界は宇宙はただひとつだけ存在し私も私という意識も存在しないのだと言ってみたいし、実感してみたい。と、書いてみて、私がそもそも存在せず私の意識とはそのままにして世界であるなら、私の死というものは結局世界の崩壊と同義になる。それでいいのでないか。大森はそう考えていたのだろうか。彼は流れゆく時間もないと言った。つねに意識の今があるばかりと。道元と同じだ。薪は灰にはならない。私は死ぬことがない。それをもって仏教の不老不死と言われても、私は得心しない。悟ってはいない。私はただ迷うだけだ。幸い、私のような馬鹿者が私一人でないことは中島義道を見ればわかる。彼も死が怖いということを一生考え続けている。その気持ち、その行動は理解できる。彼が哲学をするしかないと大森に問い、死について語ったとき、大森は「あのドーンという感じですね」と答えたという。そうだ、死についての思考がもたらすあのドーンという感じだ。あれはうまく人には伝わらない。もっとも、中島は著作では死の恐怖とか言っていても、すでにそれを乗り越えているのだろう。死は眠りとなにも違いはない。
 私はそこまで乗り越えたか。そうもいかないようだ。あれはなんなのだろう。胸が胃がドーンと打たれたようになる。酷いときは真夜中に絶叫する。恥ずかしい話だが、本当に絶叫するのだ。今でも年に二、三度絶叫する。ぅおおお~という感じだ。そのままオルフェノクに変身しそうだ。
 あのドーンというとき、世界は真夜中で薄暗いにもかかわらず、あちこちがギラッギラッと輝く。あれはなんなのだろう。私は頭痛持ちではないが、頭痛持ちの頭痛前兆の脳の生理と似ているのかもしれないとも思う。ああいう感じもまた、人には伝えられない。私は死に直面しているのがつらいから、ネットをザップしている。くだらない情報が欲しいのだ。頽落していたい。ネットにはくだないものがいっぱいあって、私の死を覆う。例えば、ZD Net News「統合失調症の幻覚を疑似体験 ヤンセンファーマが日本版装置を開発」(参照)がくだらない。統合失調症の幻覚を疑似体験できる装置を装着すると、CGとステレオ音声で幻覚を疑似体験できるというのだ。これって、誰が、「OK、これでばっちぐぅ~よぉ」と承認したのだろう。哲学を学んだものなら知っていることだが、幻覚と知覚に差はない。「世界にはこんなことがあるわけがない」という確固たる信念が知覚をフィルタしているだけなのだ。
 私は幻覚と知覚に差がないということを徹底的に理解しようと思った。雨夜を歩いているとむこうに幽霊が立っている。そういう光景をよく見かける。世人も見ているはずなのに知覚をごまかしているのだ。幽霊?そんなものいるわけないじゃないか?そして、不審な思いがつのれば近づいてみて、「なーなんだビニールの切れ端か」と言う。冗談じゃない。大きな間違いだ。時刻t1の認識は時刻t2の認識によって訂正されるわけがない。t1時点の認識ときに、即、あなたの人生は終わるとする。t2によって訂正することはできない。実は、我々の知覚はすべてそういう構造をしているのだ。もちろん、そうしたt2の先のt∞とは、死なのだが。
 そうして世界を眺めると、世界とはなんと豊かなものだろうと思う。天使が舞い、2ちゃんねるには小悪魔が踊る。世界とは、おそらく、死の光でその実相を明らかにする。と、言ってみたものの、あまりいいジョークではない。フィリピンで終戦を迎えた評論家山本七平は、戦時に、ああ、もうオレは死ぬのだなという時、世界がクリアに見えたという。その話を彼が同僚にしたとき、ああ、あんたもそうかね、と答えた。たぶん、人間の知覚には、「ああオレは死ぬのだ」というリアリティが押し迫るとき、世界はクリアにカピーンと見えてくるのだ。意識があれば、そうして死ぬだろう。銃弾に打たれ、その刹那うっ痛ってててくぅーという瞬間はどうだろうか。それだけの知覚の間は取れるだろうか。
 幻聴という経験は私にはほとんどない。恐らくそのあたりの指標で私は精神分裂じゃあないんだろう。統合失調症?どうでもいいけど。ただ、一度、奈良の寺でそれに似た経験をした。一種の神秘体験のようなものだが、歴史のある人物が自分の感情となった。ほほぉ、生まれ変わりの確信というのはこういうものかと思った。彼が私なのか。くだらない話に聞こえるだろうが、誰も自分の意識の起源を知ることはできない。現代の認知心理学の一派ではないが、心それ自体はソサエティのようになっているとすれば、意識の出現にはある情念を伴った知識の集積が必要になると思われるが、そうした知識の断片が多数刷り込まれるとその調停として自我意識が出てくるはずだ、と主張して、それほど科学的に違和感はない。が、なーに、言っていることは、情念知識=霊とすれば、なんのとこはない、それこそ、生まれ変わり説でもあるのだ。人の意識は情報を媒介にして生まれ変わると現代心理学でも言っているようなものなのだ。
 私の言っていることは多分に狂気だろう。そのことくらいわかる。私は自身が狂人かもしれないと若い頃思ったことがある(20年くらい前まで、たいてい青春っていうのはそういうものだったのだが)。狂人(どうでもいいがATOKは「きょうじん」を変換しないので登録した)かもしれないと疑った人もいた。私の行動はいたってまともだから、私を理解しようとさえ思わなければ、私を誰も狂人だとは思うことはない。私はぐっと抑制して生きている。だが、そうもいかなくなり、様々に人生も破綻し、精神医学者木村敏の本に出てくる症例のように離人症的な感覚になり、苦痛のない苦悶感から、大学のカウンセリングに通った。カウンセリングというのは一様ではない。結論から言えば、理論など糞でいい。カウンセラーがすべてだ。W先生はただ静かに私の込み入った思考を聞いてくれた。ただ、一度、専門医に診てもいましょうということで診療ではないが、カウンセリングの一貫で診て貰ったことがある。精神分析医なのだろうか。タイプ煙草を吹かしながら、質問をしつつ奇異な目で私を見ていた。診断は…もちろん、異常ではなかった。いい時代だった。薬がまだなかったのだ。今思うと、あの医者のほうが変だった。カウンセリングはなんとなく終わった。離人症的な症状は消えた。あれから人の失恋談を聞くと、かなりの数の女性が激しい失恋時に離人症的な状況になっていることを知った。女の心っていうものはなんなのだろうと思う。好きでもない人としかたなくセックスをすることもあるようだが、好きと決めた男は変わらないようでもある。そうした心の基礎構造と失恋の離人症的な状況には存在論的な意味がありそうだが、そこまで透徹した女性の哲学者を知らない。そもそも女性の哲学者というのがシモーヌ・ヴェイユ以外あまり思い浮かばない。ローザ? あれは哲学じゃないしね。
 カウンセリングの際の自分の心を思い出すに、この人は私を理解できるだろうかというな猜疑の意識がある。それは、実際にはある種の悪意に近い。人の善性を引きづり降ろそうとするような意識でもある。小林秀雄が短いエッセイで、多くの狂人と向き合って生きてきた経験からすると狂人にはある種の悪意のようなものがあると書いていた。そうだろうと思う。これは精神医学的には言ってはいけないのだが、狂気にはなにかしら悪意のようなものがある。もちろん、健常な人間から悪意に見えるだけだという反論はうざったい。
 私が死ねば、宇宙も世界も日本も崩壊すると考えて、私には不都合はない。が、そうもいかない。死は、病気や戦争などがなくても、自然に授与されるものだ。「戦艦大和の最期」を著さずにいられなかった吉田満は、「戦中派の死生観」などで、戦後日本の問題を座視していてはいけないとぬかしていたが、死ぬ前に言っても、遅せーよ。司馬遼太郎もそうだ。遅すぎる。梶山静六もあっけなく死んでしまった。東海村の事件がプルトニウムであることがバレなくてよかっただけ悶死でもあるまいというのは冗談だ。60歳越えて憂国の念に駆られても遅すぎるよ、と思う。
 という文脈で、私の死は私の国への思いとつながっていることがわかる。私というのは、国への思いのなかで死の恐怖を解消しているのだ。ヘーゲルみたいだな。照れちゃうじゃないか。せめて、コジェーヴにしとかないと、おっしゃれじゃないよね。

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世界のデジタル・バイドなど

 新聞各紙社説をざっと見渡して、さして取り上げるべき話題もないと思う。が、考え直すと、少しずつ言及したほうがいいようにも思う。そんなわけで、特にまとまったテーマはないが、ザッピング的にいくつかまとめよう。

道路改革
 朝日新聞社説「道路改革―おねだりが民主主義か」は自民党のいわゆる道路族議員らが高速道路建設続行を主張する案を批判したもの。確かにこれは朝日の言うのが正論なのだが、そういう正論を言っても実質の改善にはならない。猪瀬直樹があれだけジャーナリズム的に追いつめておきながら、事態は完全にふいという目が出そうだ。そのことを猪瀬も懸念しているのだ。私はこの問題では猪瀬を支持するのだが、前回の衆院で彼は民主党批判に回ったのは政治センスの欠落だったと思う。彼の気持ちもわからないではないが、些細なこだわりで大局を失った。もっとも彼の影響とまでいうわけではないが、衆院選は未だに自民党にぶれてしまった。道路改革の頓挫はこの選択をした国民にあると私は思う。
 だが、実際に日本国民というとき、すでに極東ブログでも何度も書いてきたが、都市市民と田舎民に分化されている。だから、次のように朝日が主張しても空しい。


 地方の首長も考え直してもらいたい。国がただで造ってくれる高速道路をあてにするよりは、限られた財源で地域の道路整備をどう進めるか。その知恵を絞るのが、自立した地方の姿だろう。

 そこが進まないところに、根幹の問題があるのだ。

イラク情勢
 私は現在のイラク情勢についてはっきりとした視点を持っているわけではない。メディアと若干違う視点を固持するとすれば、シーアとスンニの対立を中心に見ている点くらいだろう。と、言ったものの、まだそれがはっきりとはしてこない。
 それとは別に今朝の朝日新聞社説「イラク復興―利権争いの場にするな」はまたまた愚劣な反米ラッパだった。むかつくなというより、これってお笑いでやっているのか。


 フセイン政権が倒れたのはいいが、戦争の災禍に苦しみ、占領で誇りを傷つけられたままのイラクの人々から見れば、この事態は米国が仕掛けた復興の利権争いにしか映らないだろう。民衆の生活の安定と自立への支援という原点を忘れては、占領への反発はさらに深まりかねない。

 端的に言って事実認識はそれでいいのか? トリックは「イラクの人々」にある。フセインが倒れたということは、そのイラクの人々がバラバラになることを意味しているのではないか。というのも、私はイラクは分割統治するしかないのではないかという考えに傾いてきている。
 余談だが、朝日のこの文章だが、フセインを大日本帝国とし、イラクを日本、復興を冷戦に置き換えて読むのが正しいようにも思える。

少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ
 読売新聞社説「少年事件 公開捜査が必要な場合もある」はつまらなかった。この問題が、つまらないでいいのだろうかとも思う。読売のネタは、凶悪事件でも少年についても公開捜査するという通達を警察が出したという話だ。国民の普通の感覚からすれば、なにを今さらだ。
 少年事件と呼ばれる少年の問題は、この10年間さまざまに議論された。私は全然その議論は的を得ていないと思う。そう思うのは、酒鬼薔薇事件が十分に問われていないと思うからだ。私は彼の書いた神曲を引用する脅迫宣言は天才の筆になると読んだ。その文学的な闇がなぜ問われないのかと思う。大人は左右陣営とも、はなから彼を子供として見ているが、君たちより優れた文学者がそこにいたのだ。文学とはそこまで狂気と暴力を内包していることを社会は忘れていると、というか、現代に悪霊が書けるほど強い文学者がいないのだ。

東南アジア友好協力条約(TAC)
 東南アジア友好協力条約の問題はかなり大きいのかもしれない。昨日、Googleニューズをザップしていたら、これにけっこう各国がぴりぴりしている様子がうかがえた。問題の根幹にあるのは、中国だ。中国は今や夜郎自大にふんぞり返っているいるのかと思ったが、そうでもないような印象すら受けた。もっとも、今回締結したのは中国のお目こぼしかもしれない。

FTAに前進はあるのか
 日経新聞「FTA成功へ国内調整急げ」は、あっけらかんとして良かった。ある意味、私はこの問題を考えるのが嫌になっていた。しかし、事は分解してテクニカルに見ていくなら、さして問題があるわけではない。もっとも、そうできないのが致命的な問題なのだが。


 看護師の受け入れでは、日本語の資格試験をパスしても4年間しか働けないという制約があり、まずはこの大幅な延長が必要だ。また英語の資格試験合格者でも、在日外国人患者の看護などニーズは多いはず。介護士やマッサージ師の受け入れも柔軟に考えてよいのではないか。

 ふーんという感じだ。実際、日本社会がそれを受け入れるのかよくわかんないなと思う。そこら辺の30近いフリターのお兄さんがフリピーナの看護婦のドライバーでもする光景を見るのも悪くない。

世界情報社会サミットはジョーク
 産経新聞社説が世界情報社会サミットを扱っていたが、この分野までポチ保守かよという腰砕けで笑えた。このサミットで問題になったのは、インターネットの米国支配の問題だ。もっとも産経は米国という禁忌を避けているものの、世界情報社会サミットは阿呆臭いという主張は出ていている。他紙はこの問題にまともに取り組んでいるとも思えないのはなぜだろう。
 この問題について読み応えがあるのはAP通信だ「『米国によるネット支配』を論じる世界情報社会サミット」(参照)。


 大きな論点になっているのは、誰がインターネットを統治するかということだ。中国、南アフリカ、インド、ブラジルなど一部の発展途上国は、米国が選んだ私的機関の手からインターネットを取り戻し、国連の管轄下に設置した国際機関にゆだねたいと考えている。

 インターネット技術の実態と歴史を知っている人間なら、そりゃ、ジョークだと思う。爆笑してしまうのだが、さて説明となると面倒臭い。AP通信も結局、礼儀として途上国側に配慮した記事になっている。この問題ではそのうち誰も本音が言えないPCの領域になるのだろう。
 それにしても、これはないだろうというのが以下だ。

 また発展途上国は、早くからインターネットに接続した西側諸国が、コンピューターの接続に必要な有効なアドレスのほとんどを使ってしまい、発展途上国が利用できるアドレスが限られてしまうことも心配している。

 おい、その途上国から留学生を日本に送れよと思う。SFCももっと途上国から留学生を受け入れたほうがいい。
 記事中にはブラックジョークもある。

 アルファベット以外の文字のドメインネームをもっと迅速に承認してほしいという要望も出ている。現に中国は数年前、国内のインターネットを2つに分割し、中国語による独自のドメインネーム・システムを構築することをほのめかした。

 Googleにフィルタとかかける国だぜ、中国。勝手にしろよと思うが、中国っていうのは文革みたいなことを世界規模でやるかもしれない。余談だが、みなさん、JWORDこと中国語キーワード、もとい、日本語キーワード、インストールしちゃいましたか。あの、アドレス欄で日本語検索ができて便利というヤツです。もし、そうなら、あなたはデジタル・バイドの下層階級です。はい。

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2003.12.12

なんとなく思う脳機能のこと

 日付上は昨日になるが、11(木)ラジオ深夜便午前1時「人権週間インタビューシリーズ『本当の自分を生きたい』」で埋橋里衣さんが話された「"覚えられない私"を知って!」が興味深かった。外観からは普通に見えるのだが、高次脳機能障害を負って生きる話がたんたんとしているものの痛切に感じられた。
 私は高次脳機能障害の定義がよくわからない。手元のメルクマニュアルを引いても載っていなかった。メルクはあまりこういうシーンで役に立たないことが多い。ぐぐると、毎日新聞のサイトの「ことば」にあった(参照)。


高次脳機能障害
病気や事故などの外傷で脳が複雑なダメージを受けた結果、脳の高次機能である言語・記憶・感情等の機能に生ずる障害のこと。脳神経のつながりが絶たれるなどして、記憶力や注意力が低下したり、感情がコントロールできなくなったりする。従来救命が難しかった症例でも医学の進歩で意識回復できるようになったために、生まれた「新しい障害」とされる。

 最後の文章が間違っているようにも思う。だが、今回はそれは問題としない。気になるのは、言語の障害が筆頭になっていることだ。これには、「日本失語症学会」が「日本高次脳機能障害学会」と改名したことの影響があるのだろう。国内におけるST(言語聴覚士)との対応も気になるが、今一つよくわからない。ただ、率直な印象だと、現在の日本社会における高次脳機能障害の問題は、言語治療とは一線を画すだろう。現状のままでよいのだろうか。
 社会的には高齢者の脳卒中の後遺症のように思われているふしがあるが、交通事故などが原因で若い人にもある。支援団体「高次脳機能障害若者の会『ハイリハ東京』の主張」(参照)は参考になる。

中でも、自分の人生をこれから築くという時期にある、「若い世代の高次脳機能障害者」は、多くの障害に取り囲まれています。

 こうした問題をどう社会的に考えていけばよいのかよくわからない。
 話がかなり脱線する。こういう脱線はよくないのかもしれないが、自分も30代から40代後半に差し掛かり、若い時とは脳の働きが違うなと思うことがある。よく言われる記憶力の低下や集中力の低下もある。それは日常に支障を来すわけでもないし、健全な老化の一端と言えないこともない。むしろ、私などは、若いときはこういうのは恥ずかしいことなのだが、強い感受性で苦しんだので、老化による鈍化でちょうどいい。気になるのは、そうした一般的な話ではなく、なんというか、物の考え方や関心の脳処理が、もどかしくうまく言えないのだが、歳とともに変わってくる感じなのだだ。多分に脳の劣化なのだが、たんに劣化なのかもよくわからない。
 先日三島由紀夫が自分の歳に自殺したことに気が付き、ああ、この歳だったのかとも思うのだが、歳とともに、自分の、魂とでもいうのかなにかが変成してくる。魂というより、端的に脳機能だろう。日常の些細なこと、記憶の遠近感が狂う。10年昔と20年昔がきちんと遠近法的に記憶されていない。なぜ生きているのかといったなんとも根元的な悩みが、常時きつく脳に負荷をかけているようだ。もっと端的な話、なぜこんなブログを書き始めたのかも、脳の問題が関係しているような気がする。
 4か月ほどブログを続けて思うのは、一面ではある苦しみから解放されたことだ。脳がすっきりというのではないが、それなりに世界に向き合ってその不正の怒りを言葉にして確認しないでいることが実存的な苦痛だったと気が付いた。
 もう一点は、自分の多面性を表現せずにいられない。そんな多面的な人間でもないと思うだが、自分の内部の人格とまでもいかないまでも、知的な志向を、ある意味、野放図に開いてみたいとも思っていたようだ。ブログとの関連はそのくらいだろう。
 しかたがないなというレベルの脳機能の微細な変化もだが、もっと危険な変化を内包しているような恐怖も感じている。うまく言えないのだが、人生の過程でおそらく誰でも、ある程度、人間というのは孤独なものだと胸にひりつくように得心するものだが、それがそれで終わらない。精神的に苦しい。もちろん、社会関係や各種の直接的な愛情のつながりのようなものが私にもある、というかそれをよすがに生きているのだが、どうも、その孤独は脳のなかで現実の知覚や処理に悪い影響を与えているような気がするのだ。
 高次脳機能障害の話の文脈にまぜるような述懐でもないのだが、高次脳機能障害者の問題の話を聞いていると、それとは違うがそれに似たなにかが自分に、いつも、思い当たる。

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記者クラブがお笑いを一席

 今朝の新聞各紙の社説に見るべき内容はない。FTAについても日墨問題を看過してうまくいくわけもないだろうと思うし、あるいはそうではない秘策でもあるなら、きちんと論じてもらいたいが、そういう話でもない。くだらない。補助金削減についても、いまさら言ってもしかたないし、地方の問題を掘り下げるわけではない。危機感を装うその日その日のパフォーマンスが社説であっては困るなと思う。
 そんななか、世にも愚劣なニュース入ってきて心が浮き立つ。EUがかねてより、日本の記者クラブ制度の廃止を提言してきたこと(参考)に対して、10日、日本新聞協会は「歴史的背景から生まれた記者クラブ制度は、現在も『知る権利』の代行機関として十分に機能しており、廃止する必要は全くない」との見解を公表した(参照)。あーあ。サイテーです。
 いや、サイテーでもないか。爆笑できるからな。いわく。


 EUの優先提案は
A 外国報道機関特派員に発行されている外務省記者証を、日本の公的機関が主催する報道行事への参加認可証として認め、国内記者と平等の立場でのアクセスを可能にすること。
B 記者クラブ制度を廃止することにより、情報の自由貿易にかかわる制限を取り除くこと。
 の2点です。
 Aは日本政府に対する要望であり、日本新聞協会は異論を差し挟む立場にありません。しかし、Bの「記者クラブ制度の廃止」は日本の報道機関の役割に密接にかかわることであり、無視できない問題です。

 Bについてはサイテーです、で終わり。Aについては、笑った、そう来たか。馬鹿だなぁの笑いが取れる。Bが実現すればAが実現するじゃん、という話はさておかないと笑い話にならない。でだ、ほほぉ、それって日本政府の問題なのかぁ。そりゃそりゃって感じだ。民主党が政権を取ったらヤッシーを要職に据えようっていうジョークでタメ張りたいものだ。ま、冗談はさておき、「外務省記者証」ですかぁという感じだね。ちなみに、EUの文書はIn their annual wish list of regulatory reforms(参照PDFファイル)だ。
 ちなみに、穏和に書かれているがこの手の問題の参考として、Japan Media Reviewの記事EU Pressures Japan to End Closed-Door Press Practices(参照)にはこうある。

 Japanese government officials replied that they actually don't control the kisha clubs -- they come under the authority of The Japanese Newspaper Publishers & Editors Association -- known also as Nihon Shinbun Kyokai, or NSK.
 The NSK writes the recommendations for kisha club behavior, but says it doesn't actually control the system -- the individual kisha clubs are responsible for membership selection.

 つまり、政府側としては事実上、記者クラブを統制していないというのだ。ま、アンオフィシャルにだろうけど。で、ちと頭を冷やして考えてみると、確かに個々の記者クラブを日本新聞協会が統制しているわけでもないか。しかし、このあたりもヤッシーおお暴れの結果、裏のカラクリは炙り出ている。こうしてみると、ヤッシーもたいしたものなのか。いずれにせよ、日本の新聞がまさに日本的な権力として言論を弾圧している、つまり、不可視で狡猾な手法を使っているわけだ。
 恐らく現実的にはこの問題は日本の内部から崩すことは難しいだろう。日本の新聞自体が日本のジャーナリズムの主要な問題なのだというのは、わかりづらい。日本がある程度国際世界から注目される存在を維持するなら、そう遠くなくこの問題は国際問題になるだろう。
 ふと思ったのだが、日本の難民の扱いすら大きな問題になっていないのはなぜなのだろう。なぜ、こんなにも日本は甘やかされているのだろう。米国の保護なのか。

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2003.12.11

シュレディンガーの猫を巡る愚考

 れいの儀礼的無関心という話題の派生なのだろうが、「圏外からのひとこと」の「波動関数的な欲望」(参考)にシュレディンガーの猫の話が出てきて、些細なことなのだけど、あれ?とか思って、ドツボってしまった。こういう話だ。


「見せたい」と「見せたくない」という矛盾する二つの状態が同時に両立する、という問題も現代物理学に似たような問題があって、シュレーディンガーの猫と言います。これは、空想の話ではなくて、まさにこの世界の話、この物質の話です。この猫は、生きてると同時に死んでいる、両方の可能性がこの世に同時に存在しています。
(中略)
 シュレーディンガーがそういうことを言っても信じない人がいて、サイクロトロンという直径何キロメートルもあるでかいメガネを使って見てきたそうですが、物質というものは矛盾する複数の状態が重ねあわされて存在していて、「観測」するとそのうちのひとつに心を決めるわけです。リンクされないサイトも「見せたい」と「見せたくない」が両方重なった波動関数的な欲望の元に存在していて、ヲチスレからのリンク等の「観測」という事象によって、その欲望の形が決定されるわけです。その結果、一定の確率でサイトが閉鎖されます。

 シュレディンガーの猫はあくまで話の例えとして出てくるので、「波動関数的な欲望」という話題の論旨とは関係ない。なんというか、山形浩生が浅田彰のクラインの壺にツッコミ入れるような話なのだが、私の場合はさらに、批判的な意図などまるでないです。
 シュレディンガーの猫がなにかと説明するのは面倒くさいので割愛なのだが、この話、つまり、量子力学の観測問題っていうのは、観測というイベントで波動関数が収束するっていう話だったっけかな、あれれ? つまり、観測者が収束の原因になるのか? もちろん、その手の理解はあるけど、それって、けっこう初歩的な誤解じゃなかったか。つまりつまり、観測によって波動関数が収束が起こったという話は典型的な誤解だったように思うのだが。つうか、波動関数がいつ収束するかではなく、観測は常に収束の状態ということではなかったか。つまりつまりつまり、「波動関数がいつかの時点で収束する」っていうことのパラドックスだったのでは?
 と、あれれの心持ちでぐぐっみると、なんだか観測原因説みたいのもぞろぞろ出てきて、ちょっと泡吹いちゃいました。ぶくぶくぶくぅ。書架を一別するとそんなときに限って町田茂の「量子力学の反乱」があって、めくったけど、確か町田茂は並木美喜雄の一派で、なんだかなぁの人たちだったのだっけか。
 ぐぐったついでに、けっこう多世界解釈がネットで幅をきかせる時代になっているのを発見して、驚き(参考)。多世界解釈というと、ほとんどバシャールの世界で、なんか冗談とユーモアの心の広さが必要になるような気がするが、ま、いいや。
 で、結局最初のあれ?はどうなったかというとどうにもならない。じゃ、話にもなんにもならないので、「圏外からのひとこと」の「波動関数的な欲望」について考えてみたが、これも、わからん。
 私の欲望は確率的に存在しているのか。たとえば、お茶碗が欲しいな(私はお茶が趣味なのである)と思ってヤフオクを見ている。おお、いろいろ茶碗がある。どれでも所定金額以内なら選べるぞぉ=波動関数的な欲望。で、粉引茶碗1000円を落とす、というところで、私の波動関数的な欲望は収束したのか? つうか、結果からみれば、それが欲しかったことになるから、よって、それを決める前には欲望があったということか。うーむ。なんだか違うような気がするなぁ。って、反論ではないが。欲望とその指向性はそういうのじゃないような気がする。
 と気がするばかりで、まるでわからん。例えば、私はある種の粉引茶碗が欲しい。だから、ヤフオクのチョイスをその欲望の系列で見ていく。その系列に散在する個々の欲望はどれでも、むしろ、欲望を確率にした存在だ。この茶碗2000円なら40%の満足っていう感じだ。そういう多数の系が、波動関数的に存在する、ということはありうる。で、実際になにかを買う、というのは、収束なのか? 単なる最適化じゃないのかな。物理学的なモデルではなく、経済学的なモデルのほうが、欲望には合いそうだな。

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韓国世論にはついていけないなぁ

 韓国の新聞から見る世論にはついていけないなと思うことが多い。日本人にはマジかよと思うがそういう思いも通じないだろう。中央日報社説「鬱陵島は日本領土、韓国は中国領土、海外サイトの韓国情報デタラメ」はまさに標題の通りだ。鬱陵島とは日本名の竹島だ。


 世界地図のサイト「djuga.net」は、独島(ドクト、日本名・竹島)はもちろん鬱陵島を日本の領土に含ませていたが、広報処の要求で、最近是正した。とくに、韓国歴史についての無知から始まった誤入力が多かった。英国の世界歴史情報サイト「spartacus.schoolnet.co.uk」は「韓国は1637年、中国の一部に併合され、1895年まで独立できなかった」とし、韓国を中国の属国に表現した。

 竹島については、あれが韓国領土だと海域の問題が面倒になるので、話し合ってどちらの国でもないということにすればよさそうなものだが、ダメなのだろう。日本側でもダメだと言い張る人がでくるだろうし。
 「日本海」に至ってはそこまで問題にするかと思う。これについては率直に言ってまるで議論の余地もないのだろう(参考)。

とりわけ、今回見つかった誤った情報のうち70%にあたる約1300件は、東海(トンへ、日本名・日本海)を日本海(Sea of Japan)に表記したけースだった。はなはだしきは、国連傘下の技術協力機関のサイトである「intracen.org」も、東海を日本海に表記、政府レベルの広報が急がれていることが分かった。

 「日本海」の呼称については、それほど韓国がこだわるなら、日韓で妥当な名前を考案すればいいだろうと思う。その場合でも、東海(トンへ)はいただけない。理由は簡単で、中国も「日本海(Ribenhai)」と呼んでいるうえに、「東海(Donghai)」は「東シナ海(East China Sea)」を意味している。そんなまどろっこしい名称にすべきではない。仮にあれが「トン海」というように漢字を意識しないというなら、アジアの漢字文化の否定になる。それはあまりに愚劣だ。くどいが、韓国が問題視する理由もわからないではないのだから、そうした背景を含めて新提案すればいいではないかと思うが、現実にはダメなのだろう。
 なんだかなぁという話の連想だが、朝鮮日報社説「ついには情報化でも追い抜かれたか」も変な後味が残る。いわく、日本に情報化で負けるなというのである。

 しかし日本が「自宅まで光通信を」といった“野心に満ちた”計画を実行に移し、インターネット普及率が激増している。総加入者数ではすでに韓国を抜いた。韓国はまだ手始めの段階にある。

 なんと言っていいか言葉につまる。日本は日本の都合でやっているだけで、韓国との問題ではない。韓国も別に日本の情報化など気にすることはないのではないか、と思うが、そうもいかないのかもしれない。
 以上、なんとなく、日本人として優越感のような響きがしたら、いかんなとは自戒するし、そういう気は毛頭ない。ただ、日本人としては、こういう文脈では絶句してしまうなという感じがするのだが、その点はどうしても伝わないのだろう。歴史的に交流の深い隣国ですらそうなのだ。

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台湾独立、そりゃ当然の話だが

cover
魔法のラーメン発明物語
 先日、チキンラーメンを作った安藤百福の本(日経「私の履歴書」の書籍化)「魔法のラーメン 発明物語」を読んだ。面白いと言えば面白かった。知らなかったのだが、安藤百福をモデルにした人物がNHKの朝ドラに出ていたのだな。この百福さんが育ったのは、台南である。そっかぁ、邱と子供時代の故郷が同じなのか。あの風景を見て育ったのか、そういう思いでつながっているところがあるのか、と思った。その他、連載じゃなくて、本で通し読みしてみるといろいろ思うことがあったが、それはまた。  私は邱永漢と同世代の台南生まれのかたと一緒に台南に行ったことがある。それは思いがけない体験になった。詳しく書くと差し障りがあるかもしれないが、2.28の生き証人と本省人の内側を見る機会になった。まさに、リップンチェンシンである。今の日本人は日本精神が欠けているとなんどか言われた。そうだと思う。その後、小林よしのりの「台湾論」が出た。読んでみた。意外に悪くない。ただ、彼が台湾で得たインパクトはあれで伝わっているのだろうか。台湾について語ると長くなる。  だが、正直、本当の意味で私は台湾通ではないと思う。というのは、昨今の台湾の動向が今ひとつ理解できない。この話題は、まいどのことながら、日本のメディアではあまり取り上げられないのだが、今朝の日経の社説「台湾独立に反対した米国」が扱っていた。ことは日経を引用するほうがわかりやすいだろう。こうだ。
 ブッシュ米大統領が9日、中国の温家宝首相との会談で、「中国と台湾のいずれであれ、現状を変える一方的な決定に反対する」と述べ、中台双方の自制を求めた。同大統領は特に陳水扁台湾総統の一連の言動を批判し、台湾独立への反対姿勢を初めて明確にした。
 もちろん、米国はおもてに立って台湾独立支持はしない。もうけっこう昔のことになるのか、私がコンピュサーブを使っているとき、台湾関連で、Province of Chainaという表記を見たとき、なんとも胃が苦くなるような思いがした。中共側を考慮しているともいえるし、国民党の大法螺というジョークにもなるのかもしれない。いずれにせよ、ひどい話だ。  話がちんたらするが、その後、1996年、中共側人民解放軍がトチ狂って、与那国沖にミサイルをぶち込むことがあった。そう、あれは台湾というより、日本の国境に近かったのだが日本のメディアは馬鹿の極みだった。あのときの米軍の動きを見ると、いざというときは米軍は動くと思った。そうしたことを考えに入れると、米国が台湾を見捨てることは金輪際ないと思われるのだが、そういう原則でだけでは今回の事態はよくわからない点がある。  日経の次の指摘は、昨今の状況を手際よくまとめていて、悪くはない。
 台湾経済の低迷などで支持率を落とした陳水扁民進党政権は、一時は野党の連戦・国民党主席、宋楚瑜・親民党主席の総統、副総統候補に20%近くもリードされる苦境に陥った。そこで陳総統は、争点を中国との統一か独立かを巡る問題に集中し、人口の8割以上を占める、中国との統一を望まない本省人(台湾出身者)の台湾ナショナリズムに訴える作戦に出た。
 そのように理解してもいいのだろうとは思う。というか、その当たりで、どうも陳水扁に盧武鉉のような知恵不足というか歴史経験の甘さを感じる。とはいっても、李登輝も死力を尽くしてこれに荷担しているようでもあるので、本気かという感じもする。李登輝が動けば、まさにリップンチェンシンである。そう思うと日経の結語は、合理的ではあるのだが、なんとも苦い思いがする。
 強大化する中国にのみ込まれることを懸念する台湾住民の気持ちは十分に理解できるが、台湾独立を阻止しようとの中国の決意も固い。ブッシュ発言を機に双方が冷静さを取り戻すべきだし、日本もそのための働きかけを始めるべきである。
 リップンチェンシンとなれば、これはもう、「わかりました、大和を出しましょう」の世界になってしまうのだが、現実的にはそうも行かない。朝日新聞みたいに中共に足蹴にされて快感を覚えるほど変態にはなれない、となると、なんとか外交を動かすしかないのだが、外交かぁ。あの馬鹿どもかぁ。
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1984年
 中共側の中国人という言い方も変だが、台湾人は中国人ではない。で、中国人というのは、本音というのはない人間なのだ。常に状況と権力に最適化されているだけなのだ。ジョージ・オーウェルが「1984」で提出した秀逸なブラックジョーク、ダブルシンクのまま生きていける人々だ。とはいえ、日本人の本音のように実は利で動くという単純なモデルはない。いずれにせよ、中共側の面子を潰さないのは前提だろう。だが、面子にこだわっていると地歩は失われるばかりだ。ここは一発、中共の面子を保たせながらも、台湾と日本と米国のロビーが組んで、嫌な思いを一発かましてやるべきだと思う。どっかにそういう弱点はないか…、わからん。難しいなぁ。

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2003.12.10

ごく個人的な述懐

 以下、つまらぬオヤジ(私)の述懐である。説教ではないがつまらなさの点で説教に匹敵するのが述懐というものである。と、冒頭に謝辞を書く。さぁ、センター試験以降の世代のみなさん、ここでバックせよ。
 述懐の内容はというと、岩月謙司の「女は男のどこを見ているか」(筑摩書房)だったかに、「男は歳を取るにつれ魂が清められていく」というのがあったが、そういう話だ。もちろん、魂が清められるとか言われたら爆笑してもいいだろうと思うし、岩月謙司とか中谷彰宏とか読むなんて知性が疑われるぜというのも当たりだろう。ま、しかし、この手の読書も一種の愚行権の行使のようなものだ。
 ただ、たぶん、それでも、42歳の厄年を過ぎた男なら、「男は歳を取るにつれ魂が清められていくものだ」と言われて、心のどこかで、そうかぁと思う部分があるだろう。もちろん、単純に肯定するわけじゃない。肯定なんかできっこねーよというくらい世事に汚れて生きていたなと思うものだ。が、そういう汚れたなという思いの後ろのほうに、どっかしら「魂」みたいなものが生きている。「男なんてものはしょーもない、いつまでたっても子供だなと同じ」くらいに女は思うのだろうが、そう思われたって、どうしようもない。
 週刊朝日のくらたまのエッセイに、30過ぎの女の目として、子供と遊んでいる父親の男っていうのも悪くないなぁみたいな話があった。彼女に言わせると、10代、20代にはわかんなかったよなということらしい。日本の世の中はこぞってお子ちゃま志向だから、女も男も若いのがいいのかもしれない。特に男なんか老けた女なんか嫌だと思う人も表向き多い。実際は人間の魅力というのは複雑なものだ。誰だったか女のエッセイで、よーするにチンコが合わないとどうしもようないというのがあったが、そういう人間観だってある。
 で、なんの話だっけ、そう中年男の魂ってやつだ。普通は仕事で磨かれるとか思うかもしれないが、多分に、子供や女との関わりで磨かれてくるものじゃないかと思う。そうかよと突っ込まれるとそれほど説得力もないのだが、で、それがうまくいかないというのは、生きてみて思うのは、端的に言って、酒と権力だなと思う。
 権力のほうは、金と地位に分けてもいい。酒と権力のなかに溺れて、男は魂を失っていくのだ。なんて甘っちょろいことを言っているのだ、俺はとも思うが、しかし、酒を止めて2年以上経つ。そして、回りにぼろぼろと酒という戦場で崩れていく男たちを見ると、そう思う。男が酒で死ぬっていうのは、とてもまっとうな死に様なんだろうなとも思う。
 権力は複雑だ。もともと男は権力がなくては生きられないのだ。というか、そう思い切ることが青春との別れのような気がする。すでにそれを吹っ切った人間はいくら実際の歳が若くても、オヤジの相貌になってしまう。権力の怖さはそれに麻痺していくことだ。もちろん、自分が行使する権力もだが、実際の社会の権力は自分に根ざしていないから権力の網になる。つまり、自分も権力下に置かれるということだ。そこにある種の快感を持つあたりで、男は壊れていく。
 俺はそういう権力から逃げた。そして、逃げたことにすごい罪責感がある。その罪責感は権力の毒と同じだ。でなければ、こんな述懐は書かない。

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暗室
 ところで、女というものは難しい。女は常に両義的んだ。女につぶされていく男もいる。女の怖さというのは、そら恐ろしいものだと書いてみて全然表現にならない。吉行淳之介のように、古今東西女は怖い、東西南北女は怖い、春夏秋冬女は怖いと念仏をしても、まさに吉行のように撃沈されるのだ。この歳になってみると、若いころは、なーんてエロと思った小説、「暗室」「砂の上の植物群」「夕暮まで」なども、エロではなく、女に滅んでいく男の姿なのだ。噂の真相に池澤夏樹に愛人というのがあったが、ガセでもそう書かれて、そーかもぉと思えるあたり作家というのはすごい。なに、渡辺淳一先生はもっとすごいか。
 栗本慎一郎が昔、「女は個別のトランザクションである」と言っていた。なんとも謎めいていて意味不明に近いが、男のトランザクションはルールであったり原則だったりするのだが、女のトランザクションはその場その場なのだ。で、トランザクションってなんだ?なのだが、この文脈では男女の交渉といってもいいだろう。不思議なことに、変わった男というのはどこから見ても変わった男なのだが、変わった女というのは必ずしもそうではない。女に個性なんかあるのかよと男は思いがちだが、誰も理解できないような孤立した男を女は個別にこっそりと理解する。男も女も性をタイプで見てしまいがちだ。「こういうタイプがいい」とかいうわけだ。だが、女はこっそり抜け駆けをする。原則がない。男は原則に拘束されてしまう。ロリコンというのもどういう心情なのか私にはよくわからないが、そこに男の性を拘束するようなものとして存在しているのだろうなという直感は働く。萌え萌えによって、実は、自己を拘束しているのだ。もっとも、女も似たようなものでもある。酒井順子がいまさら結婚するなら、ロイヤルストレートな男でなくちゃいやだとか言う。ま、彼女の商売らしい物の見方だと思う。だが、実際にはそういう理想は現実には存在しない。理想はただ自分を拘束するだけだ。
 で、話はどうなるのか。もう終わりだ。オチもない。魂の浄化はどうなったか。ま、いいじゃないか。どうでもいいが、鴨ちゃんの「南の島で」に泣けるなぁ。

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フツー、「火力」って言うかぁ?

 NHKのニュースを見ていたらイラク派兵の際の兵器の性能について「火力」という言葉で言及していた。おい、よせよと思った。「火力」っていうのは、日本人が日常使う言葉じゃねーぞと思う。もちろん、NHKのことだから、内部で用語の調整はしているはずだ。いちいち「大地震」を「おおじしん」と統一して読ませているくらいだから。とすれば、「火力」はOKなのか。もっとも、この傾向はNHKに限らない。他のメディアも「火力」という言葉を垂れ流している。「火力」という言葉はいちおう国語事典レベルでは軍事用語とはされていないが、元来は"firepower"の訳語だろう。そこで原語を三省堂の辞書を引いてみればわかるように、ちゃんと軍事用語となっている(参考)。
 みんなどうかしてんじゃないか。軍事用語だからいけないとはいわない。そんな軍事用語が必要なのかと私は言いたいのだ。
 なんとなく、このブログもプチウヨにも思われているきらいがあるが、私はなによりこうした軍事用語が嫌いだ。軍事というのは、基本的に政治で制御しなければならないものだ。そのためには、政治で制御するために社会に開かれた言葉を使わなくてはいけない。物事を性格に表現するために専門用語があるのは了解するが、「火力」なんていう言葉が必要なのか。必要ないだろう。
 「火力」がもし事態を専門的に説明するために必要な言葉だというなら、その工学的な定義が存在するはずだが、ざっと見た限りない。もちろん、常識人として「火力」という言葉は知っているべきだとは思う。だが、私は、「火力」という言葉は昨今の事態のレベルでは必要ないと思う。そういう言葉を垂れ流すメディアは、てめーらおかしいよ、馬鹿だよと言いたい。兵器の「威力」で十分ではないか。
 こういう言葉が流布されているときは、なにかが隠蔽されている。なにが隠蔽されているのか。「威力」がいけないのか。そのあたりがわからない。
 余談になるが、「拉致」のときも変だと思った。NHKの週間子供ニュースですら「拉致」のままだった。「誘拐」でなぜいけないのか。もちろん、金大中拉致事件以来、この手の文脈で「拉致」や「ら致」が使われてしまったという経緯を知らないわけではない。だが、最近では普通の誘拐事件でも「拉致」と使っている。
 些細なことのようだが、こういう違和感については、きちんと変だよと言っておきたい。

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「コレステロール」にご注意

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私は薬に殺される
 駅前の本屋にぶらっと寄ったら「私は薬に殺される」(幻冬舎・福田実)が平積みだった。話は、医師に処方された中性脂肪・コレステロール降下剤の副作用で横紋筋融解症(参考)となり、骨格筋細胞の融解・壊死が進行した人の話だ。もちろん、話の仕立ては生活の苦しさや裁判などが盛り込まれている。売れているのだろうか。幻冬舎なのである程度の市場の読みがあるだろうが。ちなみにアマゾンには読者の評として「安直なFUD(fear, uncertainty, doubt)的企画本」というのがあって批判的だった。
医療に対する不安感をFUD的手法をもってあおるのは簡単だろうが、~~現実に苦しんでいる患者の役に立つとはとても思えない本である。一般読者には本書より、むしろNHK出版「今日の健康」を購読するなどして積極的な情報を収集するほうが良いのではないだろうか?~
 世の中いろんな見方をする人がいるなと思う。それと、「今日の健康」というのはそれほど有益なものだろうか。  話を被害者に戻す。問題を起こした処方(ジェネリック)を見ると、当初「ペザフィブラート」で、それに「プラバスタチンナトリウム」を追加したようだ。それを見て私は、あれ?という感じがした。  最初の処方時の状況を見直すと、コレステロール値は257とたいしたことないが、中性脂肪は651と高い。ペザフィブラートの処方はそこに着目したためだろう。ただ、フィブラート系で長年利用されてきたし海外評価も高いクロフィブラート(1965年認可)ではなくベザフィブラート(1991年認可)が選ばれているのはなぜだろうか疑問がある。それと、中性脂肪は一日の内でも変化しやすいので、再検査する気はなかったのだろうか。だが、それらの疑問はあれ?というほどでもない。  あれ?の最大の理由は、フィブラート系とスタチン系の併用についてだ。この併用は薬剤師なら誰でも知っている禁忌なのに、なぜそんな処方がされていたのだろうか。そんな馬鹿なという感じすらする。  この禁忌の情報は比較的最近に出たものだったっけかなと、ちょっと調べなおすとそうでもない。ちなみに、この副作用を扱った「医薬品副作用情報 No.112」(参考)の発表年は1992年。ベザフィブラート認可の翌年だ。被害に遭われた福田さんが処方されたのは7年前というからすでに、禁忌情報は行き渡っていていいはずだ。初歩的なミスだと言っていいだろう。  スタチン系の薬が追加されている点にも時代的なものを感じる。「プラバスタチンナトリウム」つまりメバロチンは1989年に発売、1993年には国内医療用医薬品として初めて年間売上1000億円を越えた。もともと日本が開発した薬ということもあって当時の厚生省も随分がんばった。動脈硬化学会もメバロチンの発売に合わせてそれまでコレステロールの正常値250を220まで下げたので、日本国中高脂血症患者ができた。  薬学的に気にかかるのは、横紋筋融解症の副作用は当面の問題としては、フィブラート系とスタチン系の併用なのだが、どちらにより問題があるかといえば、すでに一昨年のセリバスタチン(バイエル)の回収からもわかるように、スタチン系にその薬理が潜んでいそうだ。スタチン系薬剤による横紋筋融解症の発現頻度は0.5%以下と言われているが、潜在的な危険性は高いののではないだろうか。薬理学会に北海道薬大・薬理・市原和夫氏による「スタチンと心疾患予防 」(参考)と題する興味深い話題が掲載されていた。
 生体細胞内でメバロン酸経路は,その細胞の生命維持や機能発現に重要な係わりを持つ多くの物質を産生する.コレステロールでさえ,生体に必須な物質である.スタチンは,メバロン酸経路の律速酵素であるHMG-CoA 還元酵素を強力に阻害する.したがって,薬理学をかじった者であればその当初からスタチンの多面的作用に気付く.筆者は,水溶性スタチンと脂溶性スタチンの相違について1993年に第1報を報告した(J Cardiovasc Pharmacol 22, 852-856).  同年,スタチンによる動脈硬化改善を観察した最初の臨床試験が報告された(Ann Intern Med 119, 969-976; Circulation 89, 959-968).肝臓細胞膜に存在する有機アニオン輸送担体にその細胞内移行を頼らざるを得ない水溶性スタチンと異なり,細胞膜透過性に勝る脂溶性スタチンはあらゆる臓器・組織の細胞内へ移行し得る.
 現在スタチン系の薬剤はアスピリンとならんで各種の効果の研究が進んでいるがそれだけ、身体全体に関わる効能を持っていると見ていいだろう。当面の問題としては確かにセリバスタチンのような脂溶性のスタチンの危険性は高そうだ(メバロチンは水溶性)。  いずれにせよ、スタチン系薬剤の副作用が現在考えられているより高いかもしれないとすれば、できるだけその潜在的な被害を減らすべきだし、端的に言って、コレステロールの基準値はもとの250に戻すべきだろう。  たまたま今週の「週刊朝日」を買ったら、「医学界の「タブー」徹底検証 脂質栄養学の専門家が問題提起 コレステロール『高い方がいい』の衝撃」があって読んだ。なにが徹底検証だよというお粗末な内容。徹底検証ならもっと検証しろよと思う。いずれにせよ、特に高齢者の場合、220を基準にコレステロールを下げることは危険だし、リノール酸も問題。記者は賛否両論併記のつもりだろうが、そうすることで、脂質栄養学会の成果に実質無視しているに等しい。なんでこんなつなんない記事になるのか呆れるが、リノール酸やトランス脂肪酸の問題など、おまえさんたちメディアがタブーを作っているのだと思う。呆れたことに、ついでだが「買ってはいけない」系の人々はまるで脂肪酸についての理解がない。「安全な食品」を標榜してマーガリンを入れるのかよっていう感じだ。

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イラク派兵を扱う社説にオヤジ入り過ぎ

 今朝の新聞各紙社説を読んで呆れた。イラク派兵問題である。どいつもこいつもオヤジ剥きだしっていう感じだなと思った。ついてけないよなぁと思った。そう思う自分がどうかしているのか、「はてな」村滞在が長くなっていて、結局なんだかんだセンター試験以降の世代の影響受けすぎたのか、それともポプラ社のブンブンを読み過ぎて完全に幼稚化したか。どうでもいいや。社説の筆者さんたち、君たちみんな変だよ。と思う。もちろん、そういう言う刀で私が罵倒される覚悟はしておこうとは思う。それにしても、昨日ためらいながらも「イラク派兵、どっちでもええやん」(参考)を書いておいてよかったなと思う。自画自賛である。わっはっはというのは冗談だ。でも、冗談と思い詰めないことが今必要だと思う。マジ入ったおちゃらけじゃなくて、どっちでもええやんと誰かが言っておかなくちゃいけないと思う。たとえ、読む人の少ないブログであってもだ。
 昨日、「クローズアップ現代」の録画をHDDレコーダーで見ようとしたらこのニュースで飛ばされていた。なんだかな。ほいで、適当に他のニュースもザップした。ある自衛官の覆面インタビューだったが、不安はありますかと訊かれて、派遣への不安はあまりないが、国民のみなさんの支持が30%とだという不安はありますと答えていた。そりゃ、そうだよな。サマワは合理的に考えれば安全じゃんとか私も思うが、生死を賭ける危険性がないわけではない。その危険性は国内の、州兵代わりの任務ですら発生する。国民の信頼に応えて生死を賭けている自衛官の任務が支持されないというのはつらいだろう。もっとも、派兵反対は自衛官の命を守るためですと言う人もいるのだろう。ひどいもんだよな。オランダ兵の命なんかどうでもいいのだ。
 朝日新聞「日本の道を誤らせるな」は歴史に残る惨い社説だった。日本の道を誤らせるなというなら、村山内閣が戦後始めて自衛隊を憲法に位置づけたときのことをお忘れなくだ。どうでもいいが、どうしてイラク問題でいちいち「石油」が出てくるのだろう。


 いわく、このままではイラクがテロ国家になってしまう。日本は復興支援に力を入れ、治安対策に追われる米英軍を助けなければいけない。石油に恵まれたイラクの安定は日本の国益にもかなう。憶病に振るまえば、米国や世界からの信頼を失ってしまう――。

 として朝日は反論の形式を取るのだが、その先がボロボロ。なにより石油を出しておきながら、「いや石油というのは流動性の高い商品から、重要なのは世界の市場の安定性であり…」と続くわけでもないのだ。だいたい、この戦争で石油とか言い出すヤツラはインリンなみの低脳だな。
 毎日の社説はよくわからない。本音はどっちでもええやんなのだろうか。標題の「自衛隊派遣 あくまで復興支援のために」を見るに、反対というわけでもないだろう。社説中、次の指摘は重要だ。

 テロ組織が日本を標的にすることは十分警戒しなければならない。アルカイダの犯行による米同時多発テロで米国人だけでなく日本人24人が犠牲になったことを忘れてはならない。

 日本人がテロの対象になったらどうすると言う人がいる。24人は米人カウントなのだろう。
 日経もぼよ~んとしているが毎日より派兵に傾いている。読売と産経は朝日の裏返しだ。言っていることだ見れば、読売がまともだ。産経はなんだか文章が濁っていて脱力する。いずれにせよ、なんだか新聞の社説が変だなというか、ほんと、読むの嫌になる話ばっかだった。そのほうがなんぼか日本が変になっている証左だと思う。

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2003.12.09

外交官遺体写真掲載問題について

 ちょうどmuse-A-museさんからもご質問があったが、外交官遺体写真の掲載問題について触れておきたい。最初に結論を言うと非難を浴びるかもしれないのでぼやかしたい気持ちもあるが、それでも私の考えを先に言うと「掲載するなとは言えない」となる。なぜか。
 それは、ロイターやAPが、世界の報道レベルで流しているものは、それに著作権の問題があるとはいえ、事実上、すでにニュースバリューとして意味があるからだ。すでにニュースとされているものを、「アレはなかったことにしてね」と言っても始まらないと考えるからだ。
 では、そうしたロイターやAPの態度をどう考えるか。これもズバリ言っておこう。日本人への人種差別が潜んでいるし、そうでなくても人種差別を助長するメッセージになることへの配慮がない。なぜそう考えるか。理由は簡単で、あの写真は、日本の勇気ある外交官を、フセインの息子のウダイやクサイと同じレベルに貶めるものだからだ。
 だだ、ここが難しいところだが、もし米国の高官が同じように殺されたらどうなるだろうか。もし、そこにジャーナリスト(フォトジャーナリスト)がいたなら、是非は問わず撮るだろう。それが事実だからだ。そして撮ることはより大きな含みを持つ。今回の例でも、週刊現代や掲示板転載の馬鹿者たちの意図を越えて、その写真はディテールにおいて複雑な意味を将来に持つ可能性がある(死因の真相を語るかもしれない)。繰り返すが、なぜならそれが事実だからだ。同じように、それがもし、米国の高官であっても、写真にされ、ロイターやAPが垂れ流すかもしれない。
 すでに外務省から抗議を受けた週刊現代の態度だが、もともとこの雑誌はポストにためはってちょっとサヨが入っている。サヨたちは恐怖をもって大衆を恫喝するものなのだ。私としては、週刊現代のプチサヨがやっているなという感じがする。ただ、気になるのは、この写真は正式にAPなどから銭を払って転載しているかだ。
 以上の流れからわかるように、週刊現代の意図は見え透いているが、それに抗議をする外務省は問題の目をむしろ、ロイターやAPに向けるべきだろう。と、いう点で外務省は、なるほど、抗議はしているようだ。朝日新聞のニュースではこうだ(参考)。


 外務省によると、同省に数多くの抗議が寄せられ、遺族感情も考慮して在外公館を通じて配信した各社に異例の抗議をした。「今後は配信をしない」と答えた社もあったという。また、同省は写真を掲載した夕刊紙や週刊誌にも抗議した。

 率直に言えば、この手ぬるさはなんだろう。もっと怒りをあらわにすべきだ。そうできない裏がなにかあるのだろうと思う。恐らく、報道社の力学やネットワークの問題だろう。
 この手の掲載者の小物としては、ネットの掲示板などに転載されているケースだが、なんというか、ただの愉快犯のようなものだろうと思う。そうすることで自分の誇り(decency)を失うのだという感覚が無くなっているのだ。哀れよのぉ。
 最後にmuse-A-museさんの質問の文脈になる。つまり、遺体写真をことさらに転載する人間について、「こういうのやる人間の精神構造」だ。muse-A-museさんはこう項目分けする。

(1)弱さを克服できないのを自己肯定するために、そういった連中が傷の舐めあいっていうか・・くっついていってる
(2)匿名性をかさに来て、親族への遠隔攻撃を狙っている(匿名性だけを理由とするギロンってのは好きじゃないんですが・・)
(3)いろいろな理由で暗いところを好むようになった人間が、そういう情報を欲したり、発することを好むようになっている

 率直な意見を言うと、私は、そういうふうに見てもしかたがないんじゃないかと思う。もうちょっと言うと、muse-A-museさんの立場はわかるし、自分もそれに近い。だが、そういう立場で彼らに向き合ってもただの、ありがちな枠にはまるだけだし、さらに言えば、その枠のなかでは、彼らのほうが強い、ある意味、正義なのだ。なんでそんなのが正義かよと思う人もいるかもしれないが、実際にその枠のなかで熱くならずに議論していけば、彼らのある正義が見えるだろう(例えば、我々に潜む偽善が露呈するかもしれない)。
 ちょっとうがった言い方だが、それが2ちゃんねるというものの強みだし、すでにそれを日本のネット社会と限らず、社会が必要としてしまっている現状がある。
 それを打開するなら、きちんと自分の意見として拠点をもって提示できるMTベースのブログの連携が必要になる。それができれば、その枠を越えていくことだろう。2チャンネルを以前、単純にくさしたが、総合としてみれば巨大な知でもあることは確かだ。
 単純な話、ネットをザップする人がその掲示板より、私のブログに目を留めるようなるか、ということが、具体的な側面では問われている、と私は考えている。といって、自分を尊大にしたいわけではない。その価値をオープンにネット社会に開こうと思うだけだ。その結果、オヤジ説教たれまくるじゃんかとなれば、それだけのことだ。

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さらにPSX、で売れないと思う

 前回PSXの話を書いた(参考)。ぼよ~んとした話になった。今回も似たような話なので、最初にごめんなさいである。
 あれから、PSXの仕様や評判などを読みつつ、うかつだったなと思ったことがある。暗黙のキマリがあるのだ。つまり、「現状のアナログテレビレベルの低解像度映像をさらに圧縮で劣化した映像品質なら別にDVDに焼いてもいいよ~ん」ということだ。裏返しに言えば、それ以上の画質はだめよ~んというわけなのだな。ちょうど、CDからMDにATRACで劣化させるならOKざんす、というソニー的な解決なわけだ。というわりにPSXはATRACとは関係なさそうだし、MP3もできない。音楽関係はナーバスということか。
 DVD+RW非対応については、特に政治的(企業戦略的)な問題でもなさそうだ。今後の対応になるらしい。もちろん、DVD-RAMに対応しないのは当たり前といえば当たり前だが、このあたりのDVDの再書き込みメディアの規格はどういうふうに統合されるのだろうか。いずれWindows XPの世界と整合を取らなくてならないはずなのだが。
 うかつだったぜ話のついでだが、私はClip-onユーザーなので、後継のCocoonには関心をもっていたが「スゴ録」にはあまり関心がなかった。どうやら「スゴ録」ならテレビ番組からHDDプール、そしてDVDメディア出力がそれなりにうまく行くようだ。とすれば社会的なニーズとしてはこれで終わりだと思うのだが、いまいち売れてなげだったのは、価格設定の問題だろうか。安いが一番でっせの東芝だの松下(パナソニック)だのが売れていたようだし。しかし、これらの機種は、どっちかというとVHSからDVDへのツナギっていう位置づけの機種だろうがと思う。こんな機械じゃ、EPG→HDDのテレビ視聴ノンリアルタイムでCMかっ飛ばしという世界の変貌は見えてこない。
 てな、流れでPSXを見ると、PSXっていうのは、つまり、

     PSX=(PS2+スゴ録)×0.6

という感じなのだろう。
 だとすると、すでにPS2を持っているユーザーには不要。これからPS2を買う人にも値段のハードルが高い。それと「スゴ録」の売れが頭打ちを破るほどの価格かというとちと、なんとかクリアかもしれないが、東芝や松下製品と比べて性格付けが曖昧、っていうことは市場はどこだ。ない。ということになるんじゃないか。つまり、売れないんじゃないのぉ。
 ついでに知ったのだが、Cocoonにしてもスゴ録にしても、EPGに広告が付くのだな。それはちょっと惨いなという感じがする。低機能だがClip-onにはEPGに広告は付かない。それなりに編集機能すらある。Clip-onをリニューする気にはなれないな。
 以上、またもぼよんとした話だが、どうして、Clip-onの廉価版が出せないのだろう。というか、それが出れば、リモコンによるザッピング革命に継ぐ、CMカットのノンリアルタイム視聴という革命になるのに。そうなれば、視聴率が無意味になるのだ。面白い世界になるぜ、わはは、とか思うのだが、もちろん、多分に冗談だ。
 そういう世界をソニーを含め、デジタル家電の業界は恐れているのだろうというのが現状なのだろう。
 長期のパースペクティブで見るなら、現状のCMベースのテレビ放送というのはこのまま低迷し、迷走し、ディグレードしまっくて、お下劣の均衡状態になるのだろう。というか、なっているか。で、そんなもの見る意味ないから、結局、ペイに意味のあるクオリティメディアが必要になる、と言いたいのだが、そうなるにはNHK規模でないとダメだし、WOW WOWも綱渡りというか、映画などの再放送に特化しているだけで、展望はない。結局、意外に現状はだらだらと続くのだろうが、知性を満足させるようなものを見たいというなら、映画になるか、NHKになるか、DVDを買うかという選択だけになるのだろう。DVDを買うという目が一番伸びてほしいとは思う。

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イラク派兵、どっちでもええやん

 左右から、うんこ投げられそうな話を書く。とはいえなにも人の関心を得たいがために奇矯な意見を書きたいわけではない。いろいろ考えてみるに、「イラク派兵、どっちでもええやん」と思うのだ。
 あれ? 旧極東ブログは派兵反対ではなかったのか?と言われると、そう。じゃ、意見を変えたのかと言われれば、そうでもない。前回の結論は、各国の派兵を比較して、恐らく日本の派兵は1000人規模だろう。そんなものが10万を超える米英兵に混じっても、実際的な意味はないという話だった。


 いずれにせよ、こうして見ると日本が派兵しても、実際のところ、米英に比べれば、言っちゃ悪いけど、おみそである。実践的な意味あいなどない。こりゃ、ここは派兵をどたきゃんして後で金を積んだらゴメンネーで済む話のようだ。
 ……なんだかそれでもいいように思えてきたぞ。

 つまり、派兵したところで、イラクという国全体の治安やイラクという国の復興に寄与するところは、かなり少ない。それでも派兵するというのは、米国に尻尾を振るという意味しかない。
 ところが、どうも外交官殺害以降、昨今の雰囲気が気にくわない。「ほらみたことかイラクは危ないじゃん。イラク全土が戦闘地域…」といった論調だ。そりゃ全然話が違うよと思う。派兵が予定されているサマワは現在推定される限り安全だ(参考)。そりゃ、日本の兵士が投入されればそれによって危険がもたらされるかもしれないということはある。でも、私はそれはまともな判断じゃないと思うのだ。つまり、危険というのは有るか無いかという問題じゃなくて、どの程度危険なのかという度合いの問題だ。そしてその度合いは現状、低いと判断することは合理的だ。なにより、以前のダイオキシンの馬鹿騒ぎじゃないが、危険ということに浮き立つサヨだの進歩派だの非合理性が私は大嫌いだ。恐怖で大衆を操作しようとする心根も卑しいと思う。
 というわけで、サマワに1000人というのは、別に現地での危険性がそれほど高いわけでもないんだから、悪くないじゃんと思う。そんなことして東京がテロにあったら…というのは、話が別だ。
 以上をもって、私の意見は「イラク派兵、どっちでもええやん」である。

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小規模市町村の税率は低いままで良い

 読売新聞社説「住民税均等割 『地域の会費』の見直しを急げ」がおかしな内容だった。基本的に税制の問題は改革しなければいけいないのだが、均等割に目をつけて小規模市町村の税率を上げろというのは、違うんなじゃいか。まず、山中貞則を引退させろ、だが、とりあえずそれに触れないとしてだ、読売の議論は間違っていると思う。
 まず、読売に沿って簡単におさらいをしておけば、住民税というのは、所得に応じて課税される所得割と、一定額を課税の均等割で構成される。


 都道府県税の均等割(標準税率)は年間千円で全国一律だ。しかし、市町村税は人口の規模によって異なり、五十万人以上の市が三千円、五万―五十万人未満の市が二千五百円、町村と五万人未満の市が二千円と格差が設けられている。

 読売はこの格差は無意味だというのだ。その議論はこうだ。

 かつて小規模市町村の行政サービスは大都市に劣った。しかし、例えば中学校の木造校舎の面積比率は大規模市の0・2%に対し3%、ごみ処理実施率も100%に対し97%と、ほとんど遜色(そんしょく)がない水準に追い付いている。
 小規模市町村の税率を低くすることの根拠はもう失われた。人口規模別の格差は撤廃すべきである。

 読売をここで罵倒しまくりたいところだが、単純な例で反論したい。デジタルバイドはどうなんだよ。端的に言って、ブロードバンド状況はどうか。もう一点加えたい、公共無料貸本業こと図書館の整備はどうか。おまけにもう一点加えるなら、行政機関(例えば裁判所)アクセスのための都市部への交通サービス(時間と金額)はどうか。地方で暮らした人間なら知っている。改善なんてほど遠い。とんでもない格差があるのだ。
 所得の伸びが止っている現状、地方が国から税源移譲されれば、さらに地方は苦しい状況になる。地方の独自の税制が必要になるが、それにはインテリジェンスも必要になる。だが、それが地方にはない。そうした足下を見るように、読売の誘導は狡猾だ。

 高知県は「水源税」として、均等割を五百円割り増し徴収している。各自治体がそれぞれの状況に応じて税率を決めるのが理想だが、単独での引き上げは政治的に難しい。次善の策として、国が標準税率を引き上げる手もある。

 ようするに国主導にしろということか。読売新聞ことナベツネは小泉内閣のロビーになろうとしているのだろうか。
 税制の強化のために地方の合併は必要だが、どのように合併してもある種の僻地はできる。その人々を厚く保護する税制は日本を維持する上に不可欠なのだ。

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2003.12.08

外交官殺害関連の誤報について思う

 今朝の日経新聞のコラム「春秋」が在イラク米軍の誤報に触れていた。最初に断っておくが、私がこの件でわかることはなにもない。有益な情報はゼロだ。


 どうもふに落ちない。現地の米軍は、なんであんな間違いを公表したのだろうか。奥大使と井ノ上書記官は、飲み物や食べ物を買うため、車を降りて売店に向かう途中で銃撃されたと――。日本への通報だけでなく、海外のメディアにも、公式に伝えていた。

 そう、確かに腑に落ちない。腑に落ちないといえば、事件当初テロか物取りかという議論を延々とする人々がいたことも腑に落ちない。まあ、そうやっていけばキリがない。当面の腑に落ちないは米軍の誤報についてだ。
 日経としては、「不用心な行動でもの盗りに襲われた、などという誤った印象を世界に与えかねない」と米軍を叱るのだが、日経と限らず日本のジャーナリズムにその資格はないだろう。また、発表の訂正が遅かったとしても、そこに意図があると分析できているわけでもない。6日の日経新聞によると、こうだ。

奥克彦大使と井ノ上正盛一等書記官が襲撃された状況をめぐって、米軍は事件発生後、2人が食料などを購入するために車両を降りた際に銃撃されたと発表、同省にも伝達していた。
 しかし、目撃情報や車体の左側に弾痕が集中している状況などを踏まえ米軍が再調査した結果(1)車は道路脇のくぼみで発見され、近くに売店はなかった(2)2人が売店で襲撃されたとの報告は、地元住民による誤った情報に基づくものだった――ことが判明したという。

 当たり前のことだが、ことは日本の問題なのだから日本の責任ではっきりさせなくてはいけないので、日経のように米軍に八つ当たりするのはフェアではない。で、問題は、どうやら素直に取る限り、米軍は地元市民から話を聞いて垂れ流した、そしてそれ以上の責任なんかないよというわけだ。
 田中宇のように深読みする問題でもないのだろうし、こうした米軍情報のあり方自体を非難してもしかたないだろう。日経コラムではこの話に「大量破壊兵器」の情報もいいかげんだったじゃないか、とつなぐのだが、坊主憎けりゃといったたぐいだ。
 ニュースの考古学的な考察としては、1日の読売ニュースが参考になる(参考)。
 さて、ちょっと話の向きが変わる。気になる話がある。事実だというわけでもない。30日の産経新聞だ。

 警察官は「奥参事官は頭部と顔面に被弾しており、左の脇腹にも弾痕があったが、現場に着いたときにはまだ生きていた。井ノ上書記官と運転手は既に絶命し、手の施しようがなかった」と言って天を仰いだ後、「現場に薬きょうが落ちていなかったのは腑に落ちない」と首をかしげた。

 もしそれが事実ならなにを暗示しているのだろう。両氏は解剖され、5日の毎日新聞にはこうある。

 警視庁が5日、イラクで殺害された奥克彦大使と井ノ上正盛1等書記官の遺体を大学病院2カ所で司法解剖した結果、奥大使は左側射創による頭がい内損傷、井ノ上書記官は左胸を撃たれ、動脈を損傷したことによる失血死だったことが分かった。警視庁は弾が体内に残っていたかどうかについて「コメントできない」としている。

 弾丸の有無はどういう意味を持つのだろうか。恐らく、兵器の特定ができ、背後組織がわかるはずなのだがそこを避ける理由があるのだろうか。5日のTBSニュースでは銃弾は体内に残っていたとしている(参考)。

銃弾が体内にそのままとどまっていたことから、警視庁は、車の防弾ガラスで銃弾の速度が落ち、2人の体を貫通しなかったと見ています。

 冒頭に引いた日経のコラムでは「現実には、犯人たちは車で、高速走行中の車に並びかけ、強力な自動小銃を撃ちまくった」と書くのだが、確定されているのだろうか。同じく、TBSニュースにはこうあった(参考)。

車を追い抜きざま、瞬時に自動小銃およそ30発を正確に命中させるという手口。これが、ムハバラートの教本の内容と一致しているとも指摘されています。

 読みづらい文章になって申し訳ないが、そのあたりが現状わかる限界なのだろうか。と、書いてみて、ようするに私はある種の物語をそこに読み取ろうとしているし、その割に物語を裏付ける事実はそれほど確かではないことに気が付く。
 物語が無意味だとは思わない。むしろ、この問題は天災でもなく、「イラクは危険よのぉ」で終わる話ではないのだ。犯人は絶対にいるのであり、その犯人を捕まえてふん縛って日本の裁判にかけたるわいというのが物語のオチでなくてはならない。
 だが、なんとなくだが、すでにそういうオチは回避されている気がする。なぜそんな雰囲気が漂うのだろうか。その雰囲気とメディアと事実と報道の関連がありそうだと思うのだが、何かがわからない。その何かがとても気になる。
 情報操作といえば話は単純だし、外務省がなにか隠蔽しているのだと考えても単純だ。だが、そういうことなのだろうか。少なくとも、物語は完結していないぞという視点だけは誇示して各種の情報の流れを見ていたいと思う。

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ネットピープルたぁ俺のことか

 ネットの人々を分類した「ネットピープル分類学 その傾向と対策」(参考)が面白い。私はどの分類か。全部あてはまるような気がする。 自分がそういうネットピープルの典型、というか、ずばりそのもんかぁ。「とにかく貴様らシュッ・シュッのヤバさをもっと知るべきだと思います」ですね。


蘊蓄系
たしかに私は蘊蓄系の話が多く居丈高、偏屈、嫌み、尊大。みなさん、おいしい知識だけザップしてくださいませ。
昔話系
「当然edでしょう」そりゃedに決まってまんがな。私はMASMでedコンパチのラインエディタ全部組んだことあるものね。みなさん、歴史の話は読まないように。
軽薄系
「あの高林さん」「今話題の全文検索システムNamazu」とかね。この手のカルチャーにはまらないように。
謎めき系
自分を謎めかして書く(だってバレると自由がないんだもの)。ほのめかして書く(ずばりかくと四方八方からうんこが飛んでくるんだもの)。深読みしないでね。
粘着系、説教系、電波系、複合系など
「癲癇系」はないの? ないのかぁ。クレチマーの話と違う?

 というわけで、オヤジに合ったら、さっさとこのように分類して自分の回りにバリアを張ってしまいましょう…ってマジに取るなよ、こんな糞ジョーク(←説教系)

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iTunesとキャット・スティーブンス

 ネットを見回していて、iTunesの話題が多いな、やはりWindows対応のせいか、タダモノは強いなと思っていた。私はiMacも持っていて、アドベントになればiTunesでクリスマスソングを流すのだが、XPのほうにインストールする気はなかった。どうせQTのエンジンとの関連をこっそりドライバレベルで入れるだろうし、RealOneなどともタメ張ってるだろうから、スパイウェアみたいなものもこっそり入れられるのだろう。たまったもんじゃない。Windows版のQTにもなにかとひどい目にもあっている(のわりにちゃんとレジストしているがね)。というのが実感なのだが、世の趨勢である。山本夏彦も言っていたように流行には乗るものだ。
 で、入れてみた。糞と思うことは二、三あったが、それほどはひどくはない。ライブラリのフォルダも謙虚にWindowsの指針に従ってマイフォルダの下にある。標準のエンコーディング形式がm4aというのも、いろいろ裏も知っているので理解できないことはない。が、早々にmp3に設定を変える。
 mp3のエンコーダーはなんだろと手元の簡単な解析ツールEncSpotで覗くと、FhG。ホントかよ。このツールはけっこう阿呆なのでもっとマジこいて調べなくちゃなと思うが、うっとおしい。しかし、ディフォルトでビットレート160kbpsなんだからこれに耐えられるのはFhGしかないだろう。それにしても、160kbpsかよ、と思う。ハードディスク食うなぁと思う。iMacのほうはもう家電用に使っているからいいけど、XPのほうで音楽のプールはしたくない。
 それにしてもXP公開時のときは、未公開版にFraunhofer IISのタダモノを付けておきながら、公開時には56kbpsという「使えねー」にしてくれたが、あの時はライセンスがたがたでどうしようもなかった。Appleは解決しているのだろうか。とま、この間、日本では「午後」を正義のネットワーカーさんたちがバトルを繰り広げてくださったけっか、結果はなんだかなになってしまったが、欧米ではLame標準だし、ま、それほど悪くはないということになった。ふと思うのだが、日本人ていうのは自分たちの乱れで制限を作るのが好きですなぁ。
 iTunes自体はすでに使っていたので、どってことない。ラジオはLive365歩のマーチだ。PeerCastとか使いやすいWinAmp2.91のほうが「良い」のだが、まぁ、これもどうでもいいだろう。総じてどってことないなと思ったのだが、うかつでした。私っていうのは、うかつだ。人にそう指摘されたくはないけど(←ユーモアです)。
 ミュージックストアがスゴイのだ。って、日本人は購入できないのにスゴイっていうのはなんだが、試聴できるだけで、こりゃ極楽ですね。私みたいに60年代から90年代までのポップソングが脳のなかで腐りまくっている人間にとっては最高のデータベースだ。チャイニーズ系のポップスに対応していないのはしかたないとして、この試聴は嬉しい。試聴すると、つい買いたくなるじゃないですかぁ。っていうところにジョッブス様のありがたさが身にしみますな。日本の糞な音楽業界はどうなるのだろう。これが解禁になれば、お陀仏だろうなと思う。が、うーむ。若者は現実には貧乏だし、iPodは買えないというか、iPodを使うには母艦が必要なのにそれを持つことが日本の若者の大半は無理無理無理。って若者に奮起を促したいが、現実は変わらないだろう。ケータイにさらっと落として使うというマーケットがあればいいのだが、日本はダメだろうなぁ。
 ジョブスはそう、スティーブン・ジョブズ。スティーブンといえば、キャット・スティーブンス(Cat Stevens)という阿呆な引っ張りでiTunesのストアを検索するとありますね。ユスフ・イスラム(Yusuf Islam)のアルバムではなく、キャット・スティーブンスこそ欧米の音楽界では、もはや、彼が昔好きだったブッダにちなんで、お陀仏と相成っているのだが、懐メロの星として、ミュージックストアを見ると燦然と輝いているっていうほどではないが、きちんと殿堂入り。で、今一番売れているキャット・スティーブンスの曲は…おい、まじかよ…「Father and son」、うううぅぅ泣けるじゃないですか、この詩がさ。口ずさんじゃいますよ。
 …息子よ、今はまだ変革の時じゃないんだ、まぁ、座れ、慌てるんじゃない、おまえさんはまだ若い、若いっていうことが欠点になるんだよ、もっと経験しなきゃいけないことがいっぱいある、そうだな好きな女の子でも探して、家を持つんだ、結婚も悪くない、わたしを見なさい、老いたがこうして幸せでいられる…
 泣ける。なにが泣けるか。かつてそうした息子であった自分がオヤジの側になってこの心情のほうに揺れてしまう。ってゆーか、こんな曲がキャット・スティーブンスのベストになっているのだ、おい、老けたな、ベイビーブーマーズ。
 ちとトリビア的な話で終わりたい。キャット・スティーブンスの本名はStephen Demetre Georgiou。ロンドン生まれ。名前でギリシア人とわかるが父親はキプロス人(母はスェーデン人)。亡命だろうか。1971年あのMorning Has Broken…が世界的なヒット。トルコ人を恨むこと宿命として育ったことで、逆の思想を辿る。1968年過労から結核。長期入院生活語、翌年トルコ女性と結婚し、イスラム教に改宗。名前をユスフ・イスラムとする。ちと変な名前だなという感じもするが、イスラムの布教を生涯の仕事にしたのだ。音楽活動で得た金でロンドンのイスラム教徒の学校を援助している。以前は「悪魔の詩」の作者ラシディに死んじまえとか言い出して物議をかますが、9.11以降はイスラム原理主義とは違いった視点のイスラム信仰の代表者として平和主義の立場に立つ。だもんで、坂本龍一とかのカモになって「非戦」なんかにも出てくる。
 今でもイスフは公式サイトを見るとわかるように政治的な活動している(参照)。岡林信彦とは違って、請われれば昔の唄も歌っているようだ。井筒俊彦とか読み過ぎると、日本人もイスラム改宗者が出そうなものですが、若い世代はおフランスのデリダ様から動物と言われてわいわいするのが好きでも井筒とかは読まねーんでしょうね。うー、なんて荒っぽい世界(Wild World)なんだろう。

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スプーンの話

 新聞各紙の話題は私にしてみると蒸し返しばかりだ。ニュースでは予想していたがメキシコのFTAが年内締結が困難という話題に落胆した。今日がどんな日かという話題も昨日書いた。というわけで、スプーンの話を書く。そう、食器のスプーンである。
 邱永漢「もしもしQさんQさんよ」の「食器にお金をかけています」という話が面白かった(参考)。と、のっけから余談になるが、そろそろネットでも「邱(きゅう)」という漢字を使うことにする。古いパソコン機種では第二水準までに含まれていないが、こうした制限に固執する時代でもないだろう。
 話は題名のとおり、家の新築の話の流れで食器にも金をかけているということだ。簡単に言ってしまえば、金持ちの話なので庶民にはピンとこないのだが、邱さんの金持ちレベルになるとそこいらの金持ちではないので、ここまで抜け切ると話は面白い。


 私の家で紙コップを使ったりすることは先ずありません。ナイフやフォークや箸や器が立派なものでないと、折角、心をこめてつくった料理の味が冴えなくなってしまうからです。
 私の家ではナイフやフォークは、ジョージ・ジャンセンとクリフトフルともう1つ、イタリア製の純銀の物を使っています。

 私は金持ちではない。多分、人生の落伍者でもあり金には縁がないだろう。だから、食器に金をかけることはできないし、一点豪華主義も趣味ではないのだが、量は食わないが味にうるさい食いしん坊なので、その延長で食器に気を遣うことはある。特にナイフとフォーク、そしてスプーン、つまりカトラリーだ。これが日本ではとても困る。銀製のものはレストランや金持ちのニーズもあるせいか、ある程度金を出せば買えるのだが、私は別に銀製のものがいいとは思わない。むしろ持ち手のところが金属というのが好きではない。困るのは、いい重量感ときちんとした面取りの仕事がされているカトラリーが少ないことだ。見てくれはどうでもいい。機能性を重視するのだ。
 いろいろ意見もあるだろうが、カトラリーにはある程度重量感がないと所作に落ち着きがでないし、その落ち着きがないと食事自体がうまくないのだ。なにも重ければいいというのではない、もった時や動作している時の重心の位置も問題になる。ある意味、靴と同じで重くてかつ重心のバランスを取りやすいほうがいい。
 重さの次に気になるのが、スプーンで口にあたる部分の面取りの作業がきちんとされているかということだ。これがしっかりできてないとスープがうまくない。実感としてはスプーンの違いでスープの味が変わる。
 とま、こう書いていて実に自分が細かいことが気になる嫌ヤツだと思うのだが、毎食イライラしているより、いいカトラリーを見つけたほうがいい。同じような悩みを持っている人もいるかもしれないので、私の場合の解決を簡単に書いておくと、結局アメリカ製品を購入した。やはり使い込まれた文化のものがいいようだ。
 食事用のある程度まともなスプーンもだが、ティースプーンもけっこう大変だ。100円ショップのせいか、コスト減が進むのでこの手の小物が手作りではなくなってきている。高価な品物はくだらない装飾が多い。困ったことだなと思う。ティースプーンと限らないが、気のせいか東急ハンズでもなかなか気の利いた小物が手に入らないと思うことが多い。となるとネットということになる。こうした傾向はしかたがないのだが、これもなかなか面倒なものだ。
 食器については一点一点はどうということはないが収納の問題があってまともに揃えることはできない。さすがに紅茶カップと抹茶茶碗はある程度まともなものにしないと茶を飲んだ気にならない…と、その手の話はうざったいので切り上げよう。この手の問題になると多分に趣味の問題になる。
 ついでに調理器具の話…というのもまたの機会としたいが、ついでなので人に勧めたいのは分厚いフライパンだ。中華鍋とは別に底板の厚いフラットなフライパンがあると、目玉焼きが格段にうまくなる。大げさに言うと朝食が愕然と変わる。その他、簡単なソテーでもかなり味が変わる。この手のフライパンは2万円くらいとお高いのだが、それだけの価値がある。一つ買えば一生物なのになと、他人の台所や料理を見ながらいつも思う(もちろん、黙っているけどね)。

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2003.12.07

明日は12月8日

 明日は12月8日。釈迦が悟りを開いたとされる臘八会だ、っていう話はボケ。対米英開戦の記念日、と書いてそれでいいのか。あの馬鹿なWikipediaはなんと呼んでいるのかなと見ると、太平洋戦争勃発とある。ふーん、というしかないな。いわく「日本軍、ハワイの真珠湾を奇襲(真珠湾攻撃)」、これも、ふーん、というしかない。英語の翻訳かと思い英語版を見ると、こうある(参考)。


1941 - The United States Congress passes a declaration of war on Japan, bringing the United States of America officially into World War II. Hitler's Germany declares war on the United States. Congresswoman Jeannette Rankin casts the only "no" vote. First use of Gas Vans on the Jewish by Hitler's Germany occured at the Chelmno camp, near Lodz.

 ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin http://www.rankinfoundation.org/)に言及するあたりに、ちとエスプリがある。よく読むと、真珠湾奇襲みたいなことを素で書いてないなというあたりにも歴史家のセンスがある。
 1941年というのは、自分が生まれる随分前のことなのだが、思い起こすと小学生のころの教員には復員兵もいて、この日に限らず戦争の話をいろいろ聞いた。こういうといけないのかもしれないし、教員の個性にもよるのだが、復員兵の教員がする戦争の話は面白かった。そういうとドンパチのどこが面白いのかと詰問されそうだが、ようするに春風亭柳昇と同じようなものだ。春風亭柳昇も今年亡くなった。
 予備校時代、私はそこで講義を持っている数学のW先生に傾倒した。べたべたと先生の回りにまとわりついたわけではないが、彼の講義は欠かさず聴いた。ひどいずんずう弁だったが、講義は面白かった。数学の教え方もとびきりうまかった。教師という点であれほど優れた人はいないだろうと思う。彼は、私の記憶違いかもしれないが、中国で諜報員の活動もしていた。中国語が出来たためだろうとも思うし、単なる諜報だけではなかったのかもしれない。ある講義の途中で、「僕はあの戦争を一生懸命やった」と語った。単純な戦争肯定ということではなかった。面白い話だったが、ようは、中国人捕虜を見殺しにして撤退しろという命令に背いて、捕虜の延命・解放をしたということらしい。そのことを人道的に誇っているというわけでもなかった。如何に上司が理不尽であったかに激怒して死ぬ気だったようだ。先生はそういうことをなんどもやっていたらしく、死地に放り出されたこともあったようだ。そうそうに中国人のような身なりで逃げ出したなど…。まさに物語だった。
 あの戦争を実体験のレベルで感受できるのは私が最後の世代になるのかもしれない。そのあたりはよくわからない。自分より上の団塊の世代のほうが遙かに戦後民主主義的だった。むしろ、私の世代は戦後民主主義に最初にねじれた世代だったのかもしれない。高橋留美子のマンガもそういう世代背景があるだろう。
 「十二月八日」というとこの日付を題にしてあの日に書かれた太宰治の小説がある。当然、恰好の批評のテーマにされるのだが、これがなんとも奇っ怪な作品なのである。新潮文庫の「ろまん燈籠」にも入っているが、現在ではネットでも読める(参考)。

 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

 話はその主婦の目で開戦に喝采しつつ、それとはまったく同じ次元で、赤ん坊を銭湯に連れて行く。まるで開戦とは関係のない日常をその主婦の行動から浮き立たせる。太宰一流の皮肉としてしまうこともできないだろう。

ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。

 引用だけにすればこんな奇妙な話もある。

台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。

 私はこれにユーモアを感じる。女と限定せず、日本人などそういう状況下に置かれれば依然そんなものではないかという点で可笑しさを感じる。それを戦後は理屈で押し込めていった。だが、必要なのは、平和だのの理屈ではなく、ユーモアではないだろうか。小林よしのりのまじめくさった戦争論にも似たようなユーモアを感じる。笑いのめすというような面倒くさいことではない。
 そういうユーモアが大切だと言いたいわけではない。むしろ、言えることは理念を先行にしても感性は変わらないということだ。
 ところで、衆知のことをあらためて書くことになるのだが、先に銭湯におんぶしてつれて行かれた園子は実名で津島園子だ。旦那は衆議院議員津島雄。オフィシャルサイトがある(参考)。津島姓なのは養子だからだ。
 特に話がまとまらない。12月8日についてまとまる話など書きたくもないのだが。

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アスピリンとCOX-2阻害薬

 新装開店極東ブログになってからお約束の薬学系の話がないので、ちと追加する。
 先日なにげなくNHKの「今日の健康」というような番組を見た。健康番組はあまり見ないのだが、テーマがアスピリンの新しい効能といったようなものだったので、ちょっと気になった。話は3点だった。1つ目は従来からの鎮痛作用。2つ目は血小板凝集の抑制で血栓の再発を予防する話。3つ目はCOX-2を阻害することによる大腸癌予防だった。この分野をワッチし続けている私としては特にどってことない話だし、それ以上のことをNHKに期待するわけでもない。ただ、細部で変な印象を受けた。
 まず血小板凝集の抑制による血栓再発予防だが、これに少量アスピリンが処方されるようになったのは一部の有能で良心のある医者以外はごく最近のことだ。なにしろ、この用途には薬価が決められていない。つまり表向き処方できないのだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるなと思ったものだ。さすがにこの事態は改善された。余談だが、小渕総理が卒中でなくなったおりtPAではなくウロキナーゼなど使っているのを見て、ぎょっとしたというか、悪い意味で日本の医療は公平なものだと理解した。私は自分自身を冷静に見ると卒中で死ぬ確率も高いので人ごとではない。そういえば栗本慎一郎もその点ではうかつだった。彼の40代くらいの著作に自分の血は濃いのだみたいなことを自慢げに語っていたが、やばいよと私は思っていた。その通りになってしまった。彼も当時は少量アスピリンについては知らなかったようだった。
 欧米ではこの用途にバイエルの腸溶81mgを利用する。ジェネリックも多数で出ているし、歴史的経緯からアスピリンはOTCの代名詞のようでもあるので入手しやすい。日本ではどうなのだろうか。ざっとOTCを見渡してもよくわからない。詳しく調べてないので、ブログならではの放言になってしまうかもしれないが、OTCには存在していないのではないか。なお、ご存じだと思うが、小児用バッファリンはアセトアミノフェンであって、期待される効果はない。余談ついでだが、先週のSPAによくきくOTCの特集のようなものがり、薬剤師の監修が入っていたが、ちょっとこれはないなと思った。日本のOTCの状況はSJS(スティーブンス・ジョンソン症候群)問題がより健在化するのではないだろうか。といって、ようやく解禁になるドンキホーテでのTV電話による夜間OTC販売やコンビニでのOTC販売を止めろという意図ではない。
 NHKの話でも腸溶の少量アスピリンは処方薬扱いのようでもあり、人によっては安易に利用しないようにとも言うところを見るとOTCのようでもあり、判然としなかった。変な印象の一つはこれだ。
 もう一点は大腸癌予防だ。欧米ではすでに常識であり、その用途に一部サプリメント化している実態もある。NHKはそれを想定しての話なのかよくわからなかった。ただ、「そういう機能が見つかりました。その背景はCOX-2阻害です」というさらったした感じだった。そんなことだけのためにNHKで放送する意味があるのだろうか?
 話が前後するが欧米では腸溶の少量アスピリンがサプリメント化しつつあるが、卒中の再発予防よりも最初の発作の予防という用途も見られる。まして、大腸癌予防効果もある。さらにごく最近の研究成果だが胃癌予防の効果も期待できそうだ(Journal of the National Cancer Institute, December 3, 2003.)。薬学的な課題としては、これらの主要な機能はCOX-2阻害だけに由来するのかはまだはっきりとはわかっていない。
 とはいえ、ある程度COX-2阻害をうまく誘導できれば、これらのベネフィットが得られる可能性も高い。幸いにしてというか最低にしてというか、国内に存在するCOX-2阻害剤の効き目はあまりシャープではないようだ。だが、セレブレックスがOTCで解禁されれば、こうした用途に目をつける人は出てくるだろう。
 すでに厚労省側ではそうした読みもあるのかもしれない。当面は、セレブレックスは鎮痛剤だし、これを先の用途で少量利用するノウハウは確立されていない。
 と、ここで戸惑う。こんな考えようによってはヤバイ話をブログに書いていいのか? と書いているじゃないかとツコッミされるかもしれないし、あえて荒く書いたのでなんのことやらかもしれない。ただ書いているのは、これらはうまく統制すれば、国民の健康にベネフィットになることはかなり確かだと思うからだ。
 現在の、がんの健康食品の大半はアジュバントを使っているが、これと緩和なCOX-2制御を加えてはどうなのだろうか。「免疫力」(安保徹)がベストセラー快進撃だが、その結論がストレスを減らすでは「脳内革命」の二の舞だし、刺絡療法だけに絞られるのもなんだかなという感じがする。現状の医学は抗がん剤治療を志向していてアジュバントはお笑いのようでもあるのだが、まったく希望がゼロというわけでもない。
 たいした展望はないのかもしれないのが、希望がゼロというわけでもないのだ。

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日本人の姓というもの

 新聞社説関連ではとくに目新しい主張はないようだ。テレビで外交官追悼は見ない。痛ましい事件だが、この美談をもってして外務省の評価を変える気はない。そう思いながら、なにか重要な問題を見落としているなと思う。イラク派兵問題や道路公団問題など構図が単純すぎる。こうしたことでなにかが隠蔽されているという直感があるが、よくわからない。足利銀行の破綻についても、当初、「ふーん」という感じだったが、根は深そうだ。週刊誌は北朝鮮絡みにひっかけるがそういうことでもあるまい。「あすを読む」ではこの問題について、突然なぜ?という疑問を投げかけていたが、修辞に過ぎない。ただ、この問題はテクニカルな要素が強すぎて簡単には書けそうにはない。そうそうイラクについてだが、これまで書き落としてきたが、派遣予定地サマワはかなり安全だと見てよさそうだ。もちろん、これにも異論があるだろうが、逆に1000人気規模の友好団を送るのは悪くなさそうだし、オランダ軍とも連携できそうだ。自衛官がマリファナでも楽しんでくるかもしれないという不謹慎な冗談はさておき、派兵を選んでも、実は大きな差がないとも言えそうだ。
 いきおい雑談になる。日本人の「姓」についてだ。「性」の誤記ではない。以前、たまたまmsnジャーナルだったかで見たと思うのだが、日本から中国に留学している学生が教室で中国の少数民族の子に「ねぇねぇあなたどこの民族?」と問われたという話だ。そうだろうなと思う。中国人の場合、姓はたいてい一文字だ。二文字のこともあるが、それはたいてい少数民族か本来なら中国に内包されるべきではない異文化の地域の民族だ。日本人が好きな諸葛孔明こと諸葛亮の姓は二文字だ。異民族の含みがある。さらに異民族性が高まるのだが「愛新覚羅」のように二文字以上のこともある。
 日本人の姓の大半は二文字以上でもあるし、地理的にもは中国からは中原につながらない。だから異民族鬼子として「東洋鬼」になる。日本人はあまり知らないようだが、「東洋」という言葉は中国では日本を指す。ちと広辞苑を引いてみたら、ちゃんとその意味が載っていたので、教養人なら常識だよと言っていいだろう。いずれにせよ、日本人の名前はその名前からして、中国ではない異民族に見える。その点、朝鮮は早々に中華化してしまった。彼らは日本の奈良朝くらいまでは別の姓を持っていたようだし、金春秋の例のようにすでに中国的な姓を持っていた人もいる。
 実は日本人の姓というのは「姓」ではない。このことが痛切にわかる例は沖縄(琉球)だ。沖縄の場合、久米姓などはちゃんと姓をもっているが、その姓が現在につながるのは尚家くらいのもので、たいていは家系図には姓を記載しても、「氏」を姓名としている。もっとも、琉球の場合島津の政策の影響なのか、擬似的な氏銘に変更されている。我如古は金子ではないだろうか。また、明治にかなり氏名を日本化した。私の知人に嘉納さんという人がいるが、嘉納治五郎のような嘉納ではなく、「嘉手納」の「手」を抜いたのだ。池宮さんは池宮城だったりする。読みだけの変化もあるエッセイストの与那原恵(よなはらけい)の氏名は沖縄では「よなばる」である。歴史をもっと深くみていくと、こうした明治期の姓名の変成は日本本土にも見られる。だが、私の知る限り、この問題はあまり日本史で扱われていないようだ。代わりに韓国の改姓が話題になり、日本の侵略といったイデオロギーの問題に変換される。挙げ句は日本という実体が韓国や沖縄という実体と向き合うような近代史像を造り出し、文献を整理して歴史書のようなものを分厚く書き上げる。
 先に金春秋の例を挙げたが、こうしたことは日本でも奈良朝から平安時代に見られる。日本の教育では教えていないだろうが、紀貫之など「きのつらゆき」と読ませるから日本風なのだが、はっきりとした読みはわからないが、東アジアの文脈では姓が「紀」の「キカンシ」のように読んでいいはずだ。いずれにせよ、中国文化の姓名なのである。
 このことを愕然と思い知らされたのは光明子のことを調べていたおり、正倉院宝物にある彼女の自筆署名に「藤三娘」としてあるのを見たときだ。これは「とうさんじょう」と読む。「三娘」は名前ではなく、「藤」家の三娘だろう。インドネシアのワヤンさんのようなものだ。いずれにせよ、彼女は姓を明確に意識しており、それが「藤原」ではなく「藤」であった。しかも、皇后位についてもこの姓を維持していたことは、婚姻の制度が中華的であったことを示している。こんなことあたりまえ過ぎる話なので書くも恥ずかしいことかもしれない。
 啓蒙は嫌いだが、もともと藤原と佐藤、伊藤、加藤などはすべて同じだ。元になる「藤原」はおそらく「藤」の「原」という氏名(うじめい)だろう。姓は「藤」である。そして、西行の名である佐藤義清の佐藤は、異説も多いが、平安中期藤原北家秀郷流の公清が左衛門尉を名乗ったことによる役職名に由来するのだろう。いずれにせよ、姓として「藤」であることは間違いない。荻生徂徠など、自らを物徂徠と称するほどだ。さすがにこれは日本人として恥ずかしいなとは思う。
 いずれにせよ。日本人でも姓はある程度意識されているのに、日本では同姓の結婚が許されている、どころか日本人はまるでその禁忌の意識はない。「本貫」はないのだ。この話を知らない人もいると思うので、すこし解説したほうがいいのかもしれないが、割愛する。いずれにせよ、現実の日本社会の実態上は姓の意識はない。中華世界から見れば乱交の異族に見えてもしかがたない。
 些細な、つまらない話のようだが、こうした事は陰画的に中国には恋愛から婚姻という経路が原理的に存在しないことを示すし、日本には血統意識がないことも示している。文化人類学的に見るなら、ファミリーシステムが中国とはまったく異なるので、日本人は中国人とはまったく異なると文化(または文明)と結論してもいいだろう。日本を中国とは分離した文明としてみるハンチントンがまるで見当違いをしているわけではない。
 特に話のオチはない。知識をひけらかしたいわけではない。それどころか、こうした記述のディテールに間違いも多いだろう。ただ、私としてはこうしたことは日本人の常識でなくてはならないとは思う。

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