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2003.12.06

PSXがわからない

 いよいよ12月13日にソニーのPSXが発売ということになる。CMも明日あたりからがんがん打つらしく、一部はソニーのサイトでストリーミングで見ることができる。で、私の話は、PSXがわからないということだ。もちろん、私は仕様が読めるので仕様レベルはわかる(発売直前の仕様変更でけっこうお馬鹿になっている)。わらかないのはそんなことじゃない。
 なにがわからないのか? 私の関心事から言うと、テレビのハードディスク(HDD)レコーディングの機能が現行のCocoonと比べてどうなのかということだ。もちろん、すでにスペック比較の情報も見ているから、PSXには自動録画ないというのは知っている。疑問は、違いってそれだけなのか? だとすれば、PSXというマシンは、この値段なのだから、いよいよ本格的に格安の家庭用HDDレコーダーになる。そういう話なのか、ということだ。
 私の疑問はわかりづらいかもしれない。前提があるのだ。私は2年前からソニーのHDDレコーダーの先行機種であるClip-onを使っている。その他、I-Oデータ型の小物をWindows XPに接続できるので、やる気になればテレビ番組をDVDに落とすこともできる。だがあまりやらない。やらないのは手間が食うしめんどくさいからだ。ずばり言って、2度見る番組は少ない。あるいは、2度みたらもう「お腹いっぱい」なのである。だから、Clip-onでまるで問題ない。
 Clip-on以前もVHSなどに録画していた。私という人間の癖のようなものかもしれないが、私は衣服以外の物を身につけたくないし、時間に拘束されたくない。午後9時にテレビの前に座れと言われるがとても嫌だ。食事の時はメディアをオフにしたい。テレビは私にとってむかつくような存在でもある。が、番組自体を見るのが嫌でもない。仮面ライダーのファンでもあるくらいだ(とほほ)。
 Clip-onを使いだしてから、テレビ嫌いに拍車がかかり、あっという間にリアルタイムでテレビを見ることはなくなった。ほぼ皆無だ。見たいときに見る。そして、自分の行動パタンに決定的な変化があったのは、率直に言うと、CMを見ないことだ。端からNHKしか見ない人間なのだが、それでも「トリビアの泉」のような番組は嫌いではない。世の中の話題でもあるし、唐沢商店も儲けているなとも思うし、ま、見るのだが、CMは飛ばす。率直に言うとタモリを見るのがむかつくので出てくると飛ばす。HDDレコーダーはCMを飛ばすが実に楽だし、慣れてくると、操作は非常に簡単なのだ。おまけに民放はCMの前後にご親切にかぶりを作っているから飛ばしミス5秒くらいはなんとかなる。そう、私はCMをまるで見ない。
 CMを見ない生き方をしていると、さらにCMを見なくなる。なんか自分が時代を先取りしているかのような傲慢をかましたいわけではない。自分の変化に自分自身が驚いているのだ。CM自体が不快なのだ。さらに言おう、テレビのCMが嫌いになると同時にWebの広告も嫌いになった。詳細に書かないが、私はIEに小細工をしてCMをカットしている。もっともCMという存在自体すべてが不快というわけではない。これだけ叩かれても宅配の朝日新聞を読んでいるのは新聞の広告を見るためだ。もっとも、新聞とは実は広告媒体なのだが、その話も割愛する。
 なにが言いたいか。私は、私に起こったような変化がみなさんにも起こる、と言いたいのだ。PSXでなくてもかまわない。EPGとテレビHDDレコーディングに家電並みのインタフェースが装備されれば、世界が変わる。大げさなことを言うようだが、テレビのリモコンによってザッピングが可能なることで視聴率の意味が大きく変わったように、HDDレコーダーの普及で視聴率自体が無意味になる。テレビの視聴率がじり貧に下がっているがなんとか打つべき手があるとか考えている人間が無意味になるのだ。
 もちろん、私は困らない。私は快適だ。だが、それは陥穽だ。私はCMだの視聴率だのを含めたメディアの世界を先行してザップすることで満足しているのだが、その世界の側が変われば反射するように私は変わらざるをえないだろうと思う。どう変わるのかわからないが。
 PSXがわからないのは、それだけの起爆剤となるだけのインタフェースを持っているかに尽きる。技術だのスペック的な機能などどうでもいい。「あたしンち」のおかあさんレベルが理解し使えるか、それだけが問題なのだ。
 もう一点、PSXについてわからないのは、結局コンテンツの入り口であるテレビとそのアウトプットであるHDDとDVDの関係だ。単純に考えれば、テレビ番組をHDDにプールして、簡単にCMカットのエディットを施し、DVDに焼き込むとなるだろう。だが、そうじゃないはずだ。まず、エディットはできないだろう。映像については、現行のアナログは見逃しとなるだろうが、それ以上のクオリティにはごちゃごちゃした規制が加わるはずだ。すでに音楽はDVD焼きはできないはずだ。
 でだ、そんなものが意味あるのか? HDDからDVDに出てこないということを大衆が納得するだろうか? 恐らく作り手の側は、作り手の都合を大衆に理解させようとするだろう。私は思う、甘いんじゃないか。大衆はもっと素直に欲望を剥くと思う。そして、剥かれた欲望を止めることができないというのが、DVDの暗号化の歴史じゃないか。
 ようするにPSXが大衆に納得されるマシンなのかということだ。納得されるというのは、単純なテレビHDDレコーダーであり、かつ、DVD出力が可能かということだ。ゲーム機なんかどうでもよろしい。
 私の疑問はあと数ヶ月で当面の結論は出るだろうと思う。この手の話題に敏感な「はてな」でPSXのキーワードを繰ってみたが、ぼよよ~んとしていた。みなさん、テレビのHDDレコーディングすらまだ日常化していないようなのだ。この人々にメディアの革命が起きるのだろうか。見ものだ。

追記
PSXの仕様変更情報 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031205-00000205-reu-bus_all


  1. HDDからDVDへのダビング速度が最大約24倍から12倍速に変わった
  2. DVD+RWの再生ができない
  3. CD─Rの再生ができない
  4. 音楽機能でMP3が再生できない
  5. ソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」から動画の取り込みができない
  6. 静止画で取り込める種類が減った
  7. 一部のネットワークサービス機能が利用できない

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冬の沖縄

 沖縄に数年暮らしていた。沖縄は多くの本土人のイメージだと熱帯なのだろう。正確には亜熱帯。同じく亜熱帯とされる台北のほうが冬は寒く、夏は暑い。熱帯の雰囲気が知りたいなら、台北から台南まで自強号で降り、鄭成功の館でぼんやりと檳榔でも噛むといい。あの熱帯に比べれば、沖縄本島は小さい島なので、気温も32度を超えることはない。嘘でしょと思う人もいるかもしれないが、気象観測の状況ではそうなる。気温が40度近くまで上がる沖縄の都市部が変なのだ。コンクリ作りの家々にアスファルト道路、そしてエアコンの外気を吹き出すからなのだ。それは沖縄の自然とはかけはなれたものだ。
 沖縄には四季がないと思う本土人も多い。四季は温帯だけだと思っているのか、亜熱帯の気候への感受性がないのか。沖縄にも四季がある。秋の紅葉はないがトックリキワタの花が咲けば秋が深まったことがわかる。沖縄の四季の情感が見えてこなければ、沖縄が生み出す美というものもただのエキゾチシズムにしかならないだろうとも思う。
 沖縄の冬の風景に欠かせないのはばポインセチアだ。庭木に植えている人が多く、けっこう巨木になる。本土ではクリスマスのイメージでしか見ないから北の地方の植物くらいに思われているのだろうが原産はメキシコ。沖縄に近い風土なのだ。鉢植えは本土にも出荷される。仏壇用の黄菊なども本土向けだ。沖縄の人は普通仏壇に黄菊は飾らない。
 もう一つ沖縄の冬の風物詩といえば夜のライトアップだろう。東京の街のように計画された美しさも彩りもないのだが、普通の民家にまるでやけくそのように無数の電球が輝く。不思議な華やかさだし、それにつられて夜遊びをする沖縄の人の光景も面白い。そうそう、沖縄の夜は寒いのだ。沖縄本島には気象データ上は雪が降ったことがないというが、嘘。小雨の来そうな一番寒い晩に久茂地にぱらぱらと雪が降ることもある。
 風物詩ではないがちょうど今なら沖縄でちょっと変な光景を見ることができる。道路脇にやたらと数字が並ぶのだ。82、79、76。ガソリンの安売り看板だ。本土人ならそれがガソリンの価格だと信じられないかもしれない。リッター72円なんてね。年に一度か二度、ふとしたきっかけで、こうしたガソリンの安売り合戦がまるで疫病のように広がる。利用者としては嬉しいので、ちょっとしたお祭り騒ぎになったり、「今どこが安いか」というのが話題になる。この祭りは1つガススタンドがつぶれると終わる。
 ところでなぜ、沖縄のガソリンが安いかって? 米軍と関係ある? その話にはちょっとした歴史を知らなくてはいけないし、まず、屋良朝苗を知っていなくては話にならない。センター試験には屋良朝苗が出題されたことがあっただろうか。

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パトカー追跡事故の真相はどうなんだ

 毎日新聞社説「パトカー追跡事故 逃げ得許さぬ態勢作りが先決」が面白いというか腹立たしいというか不快な話ではあったが、重要な問題提起でもあった。問題は、パトカーや白バイが不審車や交通違反車を追跡中に起こす事故の続発だ。毎日の言い分は、警察の威信を高め、さらに追跡の体制を万全にせよというのだ。
 そうなのか。違うんじゃないか。そう思うのは、庶民感覚として思うことだが、最近と限らないが、警察官が変だ。警察官に意外なほど年配が多く無気力なオーラをかましているし、若い警察官はなんだかオズの魔法使いのブリキのロボットのような感じがする反面、なんか感情制御ができてない。もちろん、こういう話をブログのようなうんこ投げまくりのメディアで言うのは危険なのだが、それでも自分の庶民感覚が起点になる。ついでにいうと、毎日新聞の社説が他紙にくらべていつも暴走するのはなぜなのだろうか。
 ブログとはいえ話の筋立てとしては、この問題を警察官にもセンター試験以降の世代が多いからねといって笑いをとってもしかたがない。警察官側に大きな問題があることは、他の不祥事でも明らかだし、神奈川県警を見ても組織的な問題だろうとも思う。
 気になるのはそれではない。毎日の指摘を引こう。


事故が目立つようになったのは一昨年からだ。パトカー側が起こす事故もないわけではないが、ほとんどは追われた車が対向車などと衝突したり、自損するケースだ。追跡を振り切ろうとスピードを出して無謀運転するからだ。

 なぜ一昨年からなのか。こうした問題には3つの視点が成り立つと思う。1つはこの年に社会の構造変化をもたらすなにかが発生した(もちろん、数年のディレイもあるだろう)。2つめはすでに変化の圧力はあり、一昨年前に顕在化した。3つめは事故を浮き出す警察側になにか構造変化あった。
 そのどれなのだろうか。毎日も思慮しないように、通常はこの手の問題は潜在的な問題が顕在化すると考えていい。だが、私の直感にすぎないが、違うだろう。個々の事例の背後からなにか構造が引き出せると思うのだが、わからない。
 この手の問題こそ、社会派のブログとしては、ツッコミレベルではないトラックバックが欲しいところですね。

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補助金というシャブ

 朝日新聞社説「公共事業――撤退できる仕組みを」(12.6)がよかっと言っていいだろう。あまり斬新な視点でもないのだが、この問題は口酸っぱく説いたほうがい。他紙は時事ということもあり、米国の鉄鋼セーフガード(緊急輸入制限)の即時撤廃をテーマにしていたが、呆れるほど読むべき内容がない。こんな内容なら社説に書く必要はない。こんな話には慌てるから日本の対抗措置撤回もまともに議論されていない。問題はWTOじゃないだろ。FTAだよ。
 さて、朝日が取り上げていた公共事業撤退についての問題だが、これはヤッシーこと田中康夫のおかげで周知となったことなのだが、ようは国庫から補助を受けた公共事業を途中で撤退すると、それまでに受けた補助金を返さなけれならないから止められないという問題だ。
 朝日の提言はプラクティカルだ。


補助金適正化法や政府が昨年12月に定めた方針によると、自治体が公共事業の再評価の手続きをきちんと踏んだうえで中止した場合、補助金の返還は求めないことになっている。つまり、正当な理由があれば補助金は返さなくてもいいのだ。

 朝日はだが問題はこの方針の基準がないため、実施されにくいと言う。反面、朝日の啓蒙節なのだが、自治体に向けてはきちんと公共事業の再評価をしろも言う。いずれも正論だ。
 そんな正論は空しいと切り捨てたら未来はなくなる。かといって、実際上、これを実施できるタマはまたもヤッシーくらいしかいないだろう。ヤッシーについては私は評価相半ばという感じなのだが、とにかくこの問題の切り込み隊になってもらうしかない。一度できれば、あとは右にならえでなんとかなる。
 もちろん、問題は複雑だ。この点については朝日はさらりと身をかわす。黙ってないだけましだ。

 事業の中止には、ほかにも多くの問題が伴う。いったん決めた都市計画決定をどうやって取り消すのか。請負業者への違約金の支払いをどうするか。こんなことにも、しっかりとした備えが要る。
 公共事業の恩恵と負担を住民が自分のこととして考える。そうした社会に近づけるためにも、補助金をなくし、地方への税源移譲を急ぐ改革が欠かせない。

 もちろん、そううまくいかない。この文脈を高校生的に読めば、請負業者への違約金は税源移譲でなんとかせいとなる。あれ、これってジョークだったのという結語なのだ。はっきり言う。円満な解決策なんかない。あるのは一種の惨事だ。まず、極東ブログとしては、嫌われるのを覚悟で言う。地方は統合を進めるしかない。知恵者を都市部に逃がさないようにしなければならない。

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2003.12.05

米国のブロガー調査を小説風に

 「ところでファイブ」彼は僕のことをそう呼ぶ、「君は、どうしてアメリカ人の僕がブログを書いているか知りたいって、パーティのときに訊いてたよね。」
 「そうだったっけ。忘れたな。でも、それは確かに知りたいね。」
 「模範解答みたいに答えてみよう。まず、ブログなんて日記さと思っている人が多い。毎日1度書いて終わり。でも4人に1人は1日に何度も書いている。仕事場でも書いているからね。それと、アメリカ人のブロガーっていうのはブログを複数もっている人が少なくない。君が日本語を試していたブロガー・コムだって、ブログが複数できる。MTだってTypePadだってそういう仕様だしね。」
 「そこをもう少し訊きたいんだけど、アメリカのブロガーってMTなのか?」
 「MTは少数派だよ。TypePadはさらに少ない。半数近くがブロガー・コムのユーザーさ。でなけりゃGoogleが買収しないよ。」
 「アメリカ人ってAOLとか使っているものな」、僕が苦笑する。
 「AOLもブログだ」、彼も苦笑する。
 「ブログのネタはやっぱりニュースにコメントっていう形式なのか?」
 「そうだとも言えるし、そうでもないとも言える。ネタのソースは一つとは限らないが、半数近くのブロガーは既存のメディアからネタを取ってくる。でも、半数はブロガーは他のブログからネタを取ってきているんだ。」
 「それって循環にならないのか?」
 「ファイブ、そうだよ。循環だ。ブログの話は信頼性なんて関係ない。」
 「友達とのだべりみたいものか?」
 「そうかもしれない。チャットの延長。ブログ仲間っていう感じがいいのかな。ブログなんて趣味というわけさ。でも、ニュース系が濃いヤツラは一種の正義感みたいなのを世界に向けて言いたいものなんだよ」、君がそうなんだろと言いたかったが、それは彼を傷つけるかもしれない。
 「サカイ・タナカみたいなんだな。」
 「サカイ、誰?」彼は少し驚いた。
 「日本にいる国際的ジャーナリスト。」
 「国際ジャーナリストってなんだ? ジョーク?」
 「もちろん。彼のジョークは面白い。イラクでアメリカが苦戦している理由はなんだと思う。」
 「興味ないね。もうブログの質問は終わりか?」
 「失礼。ちょっと仕事がらみの質問もしていいかな?」
 「かまわないよ。」
 「ブログが話題になっているのは、ようするにビジネスになるかていうことだよね。企業がどう先行的な人間を囲い込むかって話だ。となるとアマゾンで始まったアソシエイトとブログの関係っていうことになるのか?」
 「アソシエイトはアマゾン用語。アフィリエイト。ま、同じだけど。一般のブログではそれほど普及していない。というか、そんなの嫌だというブロガーのほうが多いのさ。」
 「ブログはマーケティングにも使えるとかほざくやつがいるけど、どうよ?」
 「企業側にそういう色気はあるみたいだが、まだ実態はそれほどでもない。ただ、こういう製品ができたんだけどと訊かれたら答えるというブロガーは多い。自分のテイストを主張したいのだろうね。」

Blogging Survey Results(参考
1 更新頻度
  Once a Day 28.9%
  More than once in a day 23.9%
  2-4 Times a Week 33.6%
  Once a Week 8%
  Less than Weekly 5.6%
2 ブログを書いている場所
  At work 4.8%
  At home or at leisure 47%
  At both home and work 48.2%
3 もってるブログ数
  One blog 56.2%
  Two blogs 22.8%
  Three blogs 11.3%
  Four blogs 5.1%
  Five or more 4.6%
4 ブログにアフィリエイト広告を付けているか。
  Yes 13.4%
  No 86.6%
5 ブログに広告を付けてないのはなぜ?
  I want to, but I do not know how 15.7%
  My free blog host does not allow it 10.1%
  Do not want to 43.5%
  Blogs and advertising do not mix 15%
  Other reason 15.7%
6 商品リサーチのコメントを求められたことがあるか?
  Yes 9.3%
  No 90.7%
7 商品リサーチをメールで求められたらブログに書く?
  Yes I would 5.2%
  Yes, if the product or organization was
   relevant to my blog content 26.9%
  I would review their organization or product and
   blog my thoughts on them, good or bad 41.8%
  No, I do not blog about companies that email
   or contact me 26.1%
8 使っているシステムは?
  Movable Type Hosted on own domain 15.4%
  WordPress hosted on own domain 4.1%
  PMachine hosted on own domain 2.5%
  Blogger hosted on own domain 12.8%
  Blogger Blogspot hosted blog 39.5%
  Blog-City hosted blog 4.4%
  TBlog hosted blog 3.9%
  Typepad/Blogs.com 4.9%
  Other 29.3%
9 ネタはどっから?
  Sites that I check regularly 68.5%
  Other blogs 58.9%
  Friends 54.3%
  News Sites and Online News Papers 47.7%
  Google News 33.8%
  Online Forums 25.6%
  Email News Alerts 22.8%
  Weird News Sites 20.8%
  Yahoo News 19%
  RSS News Aggregators 17.5%
  Moreover News 5.1%
  MSN Newsbot 0.7%
  Other 20.8%
10 ブログする理由は?
  For fun 73.6%
  To write 66.6%
  To reach out to the world 55.9%
  To cope 23.4%
  For work 12.6%
  For money 7%
  Other 20.8%

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武富士事件の山岡俊介って山ちゃんじゃないか

 武富士事件のジャーナリスト山岡俊介の写真を見たら、あれ、これって山ちゃんじゃないか、そうだったのか。ちとうかつでした。とま、なれなれしく「山ちゃん」とか、こいていますが、面識があるわけではないのですが、山岡俊介の本はほとんど読んでいたし、私生活の話「ぼくの嫁さんは異星人―日本♂×中国♀との世にもおかしな国際結婚」(参考)は傑作でした。この話、ちょっと他人事じゃなあないぞぉ、みたいな思いで読みました(意味不明)。
 と、この本って今品切れなんですね。山ちゃん記念に増刷すればいいのに。話は、奥さんは水商売の中国人っていう話です。客観的に見ると騙されてんじゃんというのが絶妙です。とはいえ、あっぱれな態度。中村うさぎといい、日本人の鏡だ。
ま、そんだけ。以下は、ちょと山ちゃんリスト。


山岡俊介著作
http://www5e.biglobe.ne.jp/~apple-co/lineup2.htm
「東京アウトローズ」山岡俊介編集長を誣告罪で刑事告訴
http://www.takefuji.co.jp/corp/news/030530.shtml
メルマガ「東京アウトローズ」 - 「東京アウトローズ」NO38
http://www.melma.com/mag/17/m00057117/a00000039.html
焼糞日記2003年5月
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ko-tu-ihan/DIARY/2003/2003-05.htm

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ようこそ、Googleクローラーさん

 新・極東ブログにGoogleのクローラー(スパイダー)さんが来るのは、以前の旧極東ブログ感じだと、だいたい5日から10日後くらい。だから今回もそのくらいでリンク辿って来るだろと思った。来週かなぁ、と。でも、ココログのトップは早々に来ていらっしゃるだろうと、そのキャッシュ状況を見た(もちろん来ている)。そのついてで、このサイトのキャッシュ状況を見たら、げっすでにこちらもキャッシュされているぜ。昨日来たようだ。やるなぁ、Google。早いなぁ。日本語用になんかチューンしているのだろうか。
 「はてな」は、ま、率直にいうと事実上リンクファームなんであっという間にPageRankがそこそこに上がる(といっても3から4)。クローラーも早く来る。有名どころはすでにフレッシュクロールだものなと思うのだが、の、わりに、はてなの情報が薄い(読ませという点ではね)。もちろん、はてなだって書き手によりけりなんだが、総じてうすーいとは言えるだろう。もっとも、旧極東ブログみたいに1ページあたりのキーワード情報が多いと、けっこうむちゃくちゃで当たる。検索している人にしてみると、いずれにせよそれも薄いの部類だ(ごめんな)。そのあたり、Googleがなんらかの補正を始めるかなとも思うのだが、よくわからない。やりそうだなという感じはする。
 それにしてもGoogleっていうのはクローリングにどういうアルゴリズムを使っているのか。クローリングに選択・戦略がかかっているような気がするのだ。SEOなんかでもPageRankを重視するのは確かにもう古いっていう感じはあるな。
 極東ブログについていえば、できるだけ日々の更新と行きたいのだが、米国流の薄いザッパ用のブログにする気はないし、SEO狙う気もないので、あまりGoogleにへいこらしたくはないなと思うが、うーむ、ちょっと言葉につまる。こういう技術が面白いとは思うし、ちとちょっかい出していたい気はする。SEOの基礎はわかるので、やってみたい気もする。が、SEOってやるだけ阿呆なんだよな、やっぱし文字コンテンツだよな。
 ココログのほうも、クイック投稿はできるし、またMTならではトラックバックもできるのだが、なんつうか、あまりザップな情報をトラックバックしてもなぁ、私ぁ、こういうザップな世界はつらいんですよね。
 といいつつ、こんな雑文ってザップ用だよな。2行で十分。嗚呼。

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儀礼的無関心という話題

 ブログって面白いなと思うケースでもあるのだが、一部で儀礼的無関心というのが話題になっている(参考)。話は、ま、どってことないというか、面白いページがあってもリンクなんかしないでおきませう、っていうようなことだ。
 でだ、私は、この話題自体、まるで面白くもなんともない。リンクを繰っていろいろ読んでみるのが、なぜそれが話題になっているのかまるで理解できない。と、言っておきながら、冒頭で「面白い」と言ったじゃないか。そうそう。
 面白いのは、こういう、つまんねぇ話題が祭りになる、と書いて、「つまんねぇ」は余計だなというのはわかる。ま、いいじゃないですか。ようは、ブログを持っていたら、つい言いたい話題ですね。
 リンクについては、我らが山形浩生が(「我らが」というのは冗談ですよ)「リンクするなら黙ってやれ!」(参考)が面白い。だが、面白けど、なんか、あれ?こういう考えも古いなと思う。
 やっぱし、儀礼的無関心っていうのでわいわいするのがブログなんでしょうね。少なくとも古いっていう感じはしねーし。
 ついでに、「ブログ用語集(政治的)」(参考)も面白かった。とはいえ、こういうタクソノミックなギークな傾倒っていうのはアメリカ臭くてたまりませんな。
 話がずっこけるが、「生産性は計測不能」(参考)という話題も実は、話としてはよくわかるのだが、こういう話題っていうのがブログ的なんじゃないだろうか。もっとも、儀礼的無関心のような祭りにはならいだろう。
 なんとなくだが、たしかに2ちゃんねるは終わったなという感じがする。山崎渉は寝ているのがいいのだろう、って書いてても、はてなじゃないから、キーワードの自動リンクはないか。「はてな」だとつい、書くときキーワードに色気が出ますね。ま、ポスト2ちゃんねるは「はてな」。そして、わいわいブログっていう構図ですかぁ。
 ついでに、平成サブカルチャー年表をめっけ。これは、おおおおぉぉっ!ものですね。平成サブカルチャー年表(参考)。なんか、これを話題にしたらとまらないでせふ。
 と思ったけど、やめ。それにしてもサブカルチャーっていつからTVや出版になってしまったのだろう。それ以外は風俗? インターネット以前のネット系や技術系もサプカルだったし、ニューアカもサブカルだったが、ま、どうなんでしょうね。
 

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仏独を押さえ込む外交が必要だ

 「極東ブログ」の移転に伴う試運転や外務官殺害など目をひく話題に気を取られて、世界の動きを追うのが少しおろそかになっていたが、この間、日本の大手新聞各紙も社説レベルでは似たようなものだった。日本の新聞は発行部数が異常に大きく、読者層は大衆になる。そのため、大衆に迎合するか啓蒙するかというスタンスになりがちで、従来は読売は迎合路線だったのに、昨今では朝日とともに啓蒙路線が露骨になって嫌な気分になる。新聞の話は長くなるのでさておき、今朝の各紙社説では日経の「財政規律問題で揺れる欧州」(参考)が重要だった。日経は一応経済新聞なので、こういう切り出しになるのはしかたがない。


ユーロ参加国の財政赤字問題をめぐって欧州が揺れている。財政赤字を国内総生産(GDP)の3%以内に抑えるという約束を守れなかった独仏への制裁手続きが停止されたことが原因だ。ほかの参加国や欧州中央銀行(ECB)がこの決定に強く反発しており、ユーロの信認だけでなく、欧州統合の行方にも影響を及ぼしかねない状況になっている。

 むしろ当面の問題は後者、つまり欧州統合の行方にある。問題の根幹にあるのは端的にいってドイツとフランスの強権を他のヨーロッパ諸国が恐れていることにある。日本人の感覚からすると、歴史を顧みてもドイツの強権というのは怖いという印象があるが、フランスの強権への脅威の感性は鈍いように思われる。背景にあるのは日本の初等教育における歴史教育が近代化を進めた明治以来本質的な変更がないためで、近代化の各国史、もっと露骨にいえば、帝国主義列強史になっていてそこから世界を眺めてしまうためだ。だが、現実にはフランスという国は歴史的に見てその内部の地域の独立性がかなり強い(もともと別の国の集まりとも言える)。なのに、これを強権で抑えているのであり、その最悪たるのが言語政策だ。日本の知識人は「おフランス」な趣味が強いわりに、こうした実態にそしらぬふりをしているように見える。
 日本ではイラク問題が、悪の米国に対して理性の仏独といったフレームで捕らえられることが多い。浅薄だ。ポーランドやスペインがどれだけこれに抵抗しているがゆえに、米国との関係に苦慮しているかがあまり顧みられていない。もともとイラク戦争の問題の背景にあったのは、フランスやロシアなどがイラクと石油市場の流動性を愚弄するような態度を取ったり、兵器輸出をしていることにもあり、その意味では、世界問題の極はフランスにあるとも言える。ル・モンドの主張などに尻馬にのって喝采をしている日本の知識人は…ま、なんというかねである。
 今後の動向としては、独仏への圧力が強まれば、トルコを独仏側に引き込むという荒手の技も出てくるかもしれない。トルコ一国でヨーロッパの数カ国分の票が潰せるし、米国にも強いにらみを効かせることができる。ああ、政治なんてものは汚いかぎりだ。
 日経社説に話を戻すと、独仏の赤字問題に着目している。EUはユーロの安定のために参加各国の財政赤字をGDP3%以内に抑えることが義務となっている。だが、独仏の財政赤字は2004年まで3年連続でこの水準を超える。そこで「俺たちがルールだぁ」と言い出したのだ。冗談じゃない。もっとも、独仏にしても他に策などはない。グローバルな景気の低迷やその対応として歳出抑制をしなければならない。と、書いてもみて、ふと変な感じがする。もともと歳出抑制の発想は国家経済の発想だが、EUはこれを全体で調和する方向にもっていくのが筋ではないか。とすれば、フランスは自国からEU大統領を出して、ゴリっとやるつもりなのではないか。背筋が凍るな。
 こうした中、コウモリのようなイギリスやIT分野に強い北欧がどう動くのか、もちろん、背景には米国があるし、日本も侮れないカードなのだ。むしろ日本はそこに突破口を見つけるために、ポーランドやスペインに友好を示すべきなのではないか。

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問題は診療報酬ではない薬価だ

 昨日の毎日新聞社説だが、「診療報酬改定 引き上げ理由が見当たらぬ」に奇異な感じがした。医師に支払う診療報酬を引き上げる改定はよろしくない、というのだ。あれ?という感じたのは、そういう言い分は大衆迎合として心地よいものだ。


 医療法人などの病院長の給与は2年前の報酬引き下げで下がったとはいえ、平均給与は235万円(今年6月、同省調査)だ。医療側には、医療保険制度の現状を冷静にみてもらいたい。「診療報酬の引き下げにより、医療の安全性を損ないかねない事態が懸念される」などという主張は、医道の尊厳を自ら否定するものだ。患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか。

 こういう文章を私もつい書いてしまいがちなのだが、これは悪いレトリックだと思う。まず、「患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか」という煽りは実は無意味だ。医師の使命があれば報酬はなしでいいというわけにはいかない。病院長の給与がいくら高かろうが、その病院の経営の問題にすぎない。
 「患者の健康」といったうすら寒い大義を除けば、ようは、支払い側の健康保険組合が「これ以上金は出したくないのぉ」ということだ。それは理解できる。健康保険組合がつぶれたら元も子もないということになる。
 私は端的に現行の医療費とは結局薬価ではないかと思う。8月23日の旧極東ブログ「薬剤師の社会的な重要性は市販薬についてではない(2003.8.23)に書いたように、ジェネリック薬に切り替えていけば、問題は大きく改善するはずだ。代替調剤制度(参考)を大きく進めるべきだ。
 と書きながら、毎日新聞社説でもこの問題が隠蔽されているように、実は代替調剤制度は日本の薬剤メーカーに大きな問題となる。なぜ日本の薬剤メーカーが社会問題にならないのか。問題というのは端的に資本力と開発力だ。銀行統合より先に、日本の薬剤メーカーを統合しなくてはいけなかったはずだ。識者はなぜ黙っているのか。

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自転車に課税しろ

 読売新聞社説「放置自転車税 鉄道に負担を課すのは筋違い」が、面白いといえば面白かった。放置自転車の対策費を得るために、豊島区が鉄道会社に課税する法定外目的税創設の条例案をいかんというのだ。確かに、駅前放置自転車の責任を鉄道会社に帰すというのは、変な話だなとは思う。読売も大衆迎合のいいところに目を付けた。
 とはいえ、問題の放置自転車の対策はどうなるのか。読売はこう怒鳴る。


問題の責任は、放置者にある。撤去作業の回数を増やすなど、放置しにくくすることが、最も効果的ではないか。

 なんだかなである。放置者ってみなさんのことですよ。みんなそろってアモラル(不道徳)なことやっているのだ。現代日本人のプチアモラルの代表ともいえるのが自転車だ。歩行者に警告音を出して歩道を走る(これは違法です)、二人乗り、携帯電話しながら走行、喫煙走行、こういうのを見ながら、私は中島義道のように、「おめーらみんな叩き切ってやる」とどなりまくってきたが、疲れた。
 だいたい、なんで自転車なんか乗るのだ? 自転車の必要性っていうのはなんだ? 馬鹿なことを問うんじゃないと言われそうだが、駅やスーパーまで歩いて20分だったら、歩けよ。もっとも、そんなこと言っても通じないのだ。
 どうしてこんなことになったのか。日本の歴史を見ると大衆はけっこうプチ・アモラルなので、実際にはそれほど責めても意味がないし、そういう大衆の性質というのは自然なものでもある。とはいえ、事態はひどすぎる。
 端的に言う。自転車が安すぎるのがいけないと思う。映画自転車泥棒ではないが、自転車が盗まれることは生活の資が断たれるような時代があったのだ。自転車を放置するっていうのは、自転車を愛していない証拠ではないか。だから、課税しろ、と思う。
 自転車にがんがん課税しろ! それに尽きる。

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2003.12.04

お気の毒に、雅子さま

 「雅子さま帯状疱疹」というニュースがなんか心にひっかかる。どってことない話じゃんかとも思うだが、これまで身の回りの帯状疱疹の人を見ていると、どれもみんなすごいストレス下にあったものだから、雅子皇太子妃もそうだったんじゃないかと思う。共同によれば、こうだ。


「雅子さまは11月23日、のどの痛みやせき、微熱を訴え、風邪と診断されていた。愛子さま2歳の誕生日だった今月1日は、ご一家で皇居・御所に天皇、皇后両陛下を訪問。側近は「この時は元気な様子だった」としている。

 私は経験ないが回りを見ていても、すごく痛そうだった。子供との接触も避けるようだ。かわいそうだなと思う。彼女が結婚したころだったが、身近な女性に、どう思うと聞いたら、好きでもない人と結婚するのっていやと答えた。そうかぁと思った。人間なんて大半は好きでもない人と結婚しているものじゃんかとも思った。彼女はそれでもナルタンが熱愛だったのだから、ましではないか。結局その知性とキャリアをそのままの形で活かすことはできなくなったのだが。
 彼女はこの9日が誕生日で40歳になるとのこと。すでに一子は産んでいるけど、第二子は難しい年頃になるのだろうなと思う。天皇もすでに高齢なのでそろそろ皇室典範を変える時期なのだろう。
 天皇家については、それだけでなにかといろいろごちゃごちゃした話がつきまとうが、当の天皇家はよくやっていると思う。特に美智子皇后はいろいろな面で尽力されているのだろう。そうした陰に神谷美恵子の影響も思う。
 神谷美恵子の著作や翻訳はいろいろ読んだ。フーコーとバージニアウルフ、マルクスアウレリウス…こんな本が訳せる人間はただものではない。著作は感動的ではあるのだが、それでも、なにかわからないなという思いがいつもあった。著作集の最終の月報のようなものに夫の神谷宣郎がたしか、美恵子には著作からはわからないところがあるというなんとも謎めいたものが書かれていて気になった。スキャンダラスなことをほのめかしたいわけではないが、シモーヌ・ヴェイユのような人だったのではないかとも思う。
 話が散漫になったのだが、美智子皇后には歴史家の興味をそそるなにか謎があるような気がする。たぶん、アレだなと思うが、あまり直裁に書くと問題なので書かないでおく。

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「センター試験以降の世代」という壁と知識化人

 草莽堂さんのココログ@ニフティから興味深い指摘を受けて、実はこのことを考えていたこともあって、ちょっと書いてみたい。ただ、話はかなり難しくなってしまうだろうと思う。まず、草莽堂さんの日記からの引用。


外から「センター試験以降世代」と規定されちゃうと、規定されちゃった人はどうしようもない(規定された側はどうしたらそうした規定の外に出られるのか分からない。出たつもりでいても、判定者が「出てない」と言えば、そうなのかと頷かざるを得ない)という側面があって、その点少し引っかかるのだが、極東ブログさんが「人間」に寄せる思いは少し分かる気がする。

 それはわかる気がする。バカの壁ではないが、センター試験以降の世代の壁みたいなものを自分が作り出しているなという反省は、多々ある。というのは、自分もかつて若い世代だったし、団塊の世代のちょうど下にいたので、かつて私も団塊さんとかに理屈をこくと単純に「本音を言えよぉ」とか殴られそうになったものだ。うわぁ通じないよぉとも思った。「戦争を知らない子供たちぃさぁ~」と手をつないだ歌えって言われても、お姉さんたちブスいじゃないないですかぁ、っていう感じだ(たぶん私はかつて美少年だった、照笑)。それがついに自分にも回ってきたなと。
 これっていうのは自分の思惟が若い世代から突き上げられているというか、自分より若い思想をはっきりと認めるようになったという点はある。例えば、「北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を」(参考)。

ニューアカに惹かれつつ、でも終わってるんだよなとか思いながら、受容していたような感じがします。柄谷行人が好きな人もそこそこいましたし。そこには、独特の世代的な共有体験はあるのかもしれない。多分、ニューアカをバサっと斬り捨てられない、なんか影響受けちゃったんだよなっていう感覚というか。

 ふーんという感じだ。そこに北田のように思索する新しい世代があるのだと思う。私などは柄谷行人と聞くと、「あ、三馬鹿トリオのブントさんだね、奥さん大変でしたね」とか思うし、柄谷ってアカデミックなレベルだと文献の読みがずさんすぎて投げ出したくなる。ま、しかし、それはどうっていうことじゃない。
 北田暁大インタビューの引用を続ける。とても示唆に満ちている。

でも、四年ほど前に大学で教えるようになってから、そういう背伸びの感覚が学生からまったく感じられない。だから、昔のニューアカ的な語り――フランス現代思想の言葉をおりまぜて世の中を分析する語り――というのが、もはや通じません。東さんのいう動物を生きている人たちに届ける言葉というのは、別の回路が必要なんじゃないかと。

 私からすると、ここでトゥーフォールド(二折り)なってしまう。すごく単純化すると、共通一次世代とセンター試験世代がいる。私は随分老いてしまったと思う。引用が多くて申し訳ないのだが、北田暁大が秀逸なのは次のような指摘だ。

「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。「歴史意識」の回復を説くだけでは、もう言葉が届かない時代になっている。ぼくは全然実践できてませんが(笑)。

 私などうまく批評射程で射止められたなと思うのは、歴史意識の回復を説くだけではもう言葉が届かないという点だ。もうちょっと言うと、そういう世界になってしまったからこそ、(なんだか昨今批判ばかりしているように見えるのだろうが)小熊英二が作り出すような既存文献集約的な歴史像が歴史代替の言葉として出てきてしまう。そこには、ひどい言い方だが、言葉しかないのだ。フーコーがかつて歴史を言説の考古学として見せたことに世界の知性は驚きを感じたが、それはまだどこかで社会学的な方法論であった。しかし、現在は生きられた空間が生きられた歴史性を失い、すべてフラットな言葉(文献)に埋められてしまっている。私がこだわっているのは歴史になるのだが、私の歴史語りは言葉であって、つまるところ、トリビアの泉だ。
 私の内面では今にして思うと小林秀雄に没頭したことが恵みであったようにも思われるのだが、小林は歴史を死んだ子の歳を数えるようなものと言っていた。小林らしい気のきいた表現として看過されてしまうが、そこにある、人の思いが理想に届かない痛切さや悲劇性を彼が歴史の本質としていることがよくわかる。
 こういう言い方自体なんか年寄りの説教のようだが、歴史は絶対に戻らない。だがそういう思いは通じない。最近でも痛切に思う例がある。名前を出すのは失礼かもと思いひかえるが「はてな」で(たぶん)若い人から質問を受けた。そのなかに私の考えの一部がドグマだというのだ。そこでドグマとはと問い返すと、反証可能ではないと答える。反証可能性とはポパーの科学論であって社会学的な命題には適さない、ポパーを学んだ人間ならこの文脈で反証可能性など言い出すわけもない。ポパーなら批判的合理性が問題とされるのだ。だが、「社会学的な命題に反証可能性はないですよ」と再回答しても彼は受け入れない。私は溜息をつく。私が彼の教官なら、ポパーとウェーバーの訳本でも貸して2000字くらいのレポートを書いてきないさい、と言うところだ。だが、たとえそうしても、問題の本質は伝わらないだろう。社会にも歴史にも反証可能性などないのだ。そもそも生きられた人間社会に再現可能な実験を施しうる者は誰か?それがいるなら、私は思想の矢を放たなくてはならない。矢はドグマか?そんな問題ではない。私が友愛だけを信じて戦いをいどむだけなのだ。もちろん、私は隠者だ。そういう思想の矢を表で投げることはない。だが、その友愛のメッセージがあれば、私のできることはわずかでもそのわずかなことをする。
 話がそれてしまったが、こういう話がそもそも通じないのだ。いや、もう少し言うと、私の文章からは以上のようなパセティックな心情だけが通じるだろうと思う。そしてそれが危険なのだという批判は正鵠でもあるだろう。
 話を方向を変える。最近西尾幹二の最近のエッセイを読んで、彼は私より遙かに爺なのに、私は彼にセンター試験以降の世代と同じものを感じた。羅列した知識の断片はどれも正解なのに全体像が間違っているのだ。この現象はなんだろう。簡単に言えば、私はつい、センター試験以降の世代というふうに世代論めかしてしまったが、そうではなく、ある種の人間の思考タイプの問題なのかもしれない。
 吉本隆明は社会思想の原点に「大衆の原像」という概念を置いた。あえて概念として私はとらえる。それは吉本は嫌うだろうが、モデル化が可能ではないかと思うが、「大衆の原像」は団塊の世代より上では解釈というか吉本教の教義化してしまった。いずれにせよ、普遍的な「大衆の原像」があれば、センター試験以降の世代もそのなかにモデル化できるはずだ。だが、そうではない。
 まったくテンポラルな思考実験なのだが、すでに世界は(日本の知の状況は)、知識人+大衆+知識化人の三局化したのではないか。言葉の遊びのようだが、知識化人とは、DB化される知識をもって大衆と区別される存在だ。その欲望が、大衆のような肉体的なものにならないのは、上位の「知識」というものにエロス的なカラクリが存在するのではないかとも思う(ロリは現象ではなく本質だろう。知識化人とエロスの問題は別の機会に考えたい)。
 いずれにせよ、私や団塊の世代より上は、知識人+大衆という二局のスキームのなかにいた。率直に言えば、団塊の世代の人の多くはまともに勉強する環境もないせいか知識に乏しい。その分、むしろスペクトラム的には近代化した大衆に近い。だが、そのスペクトラムの近代化方向の先に知識化人が出てきたわけでもないだろう。
 先の北田や東の言う「動物化」ではなく(東はDB化を見据えているが)、知の状況のなかで浮かんできたのは、「知識化人」ではないかと思う。それがセンター試験以降の世代に出現しやすいのだが、西尾幹二のような老人にも現れる。その出現の背景は、世界が文献の集積としての言葉に還元されてしまったからではないか。世界が断片的な言葉の集積になるとき、そこに最適な生存者として知識化人が出現するのは、おそらく不思議でもなんでもないようにも思える。

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イラク自衛隊派兵問題をどんどんやってくれたまへ

 我ながら不謹慎なことを言う。イラク自衛隊派兵問題をどんどんやってくれたまへ、だ。なんだか山本夏彦の霊が乗り移ったようだ。この議論なんて無駄だ。結論は出ているのだ。自衛隊の派兵なんてイラク国民にとって意味ないのだ。この話は11月24日の極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」に書いたが、日本の派兵はマックスで2000人だ。実質は1000人。13万人の展開でとほほになっている米軍にその百分の一を送っても効果はない。ようするにイラク派兵というのは、日本だっているんだよというシンボリックな意味しかない。ポーランドと同じようなものだ。イタリアほどの経験もない。
 日本がやるなら、民間の復興組織の防衛隊とするか、露骨にいうけど韓国と合同軍にすべきだろう。なにの文民は後回しで、空軍だけのお茶濁しになるのだ、やってくれるね小泉。
 新潮45で曾野綾子が日本人に忍者の恰好をさせるといいと書いていてそのユーモアのセンスに爆笑したが、いいんじゃないか。沖縄戦後の荒涼した風景のなか、照屋林助はさあ命のお祝いをしよう、生きていたものが生きている喜びを表さなかったら死んだ人に申し訳ない、というふうに言って、笑いを広めていた。もっともそれは小那覇舞天の思想でもあったし、沖縄の思想というものだった。
 イラクの人は日本に「おしん」がいると知っている。ヤオハンは馬鹿息子が潰してしまったが、それでも幾千のおしんはまだ日本に生きている。プロジェクトXみたいな話になってしまったが、忍者とかおしんとかを活かしたほうがなんぼかましだ。自衛隊派兵の是非なんか勝手に議論していろよと思う。

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読売さんもポチ保守のお仲間

 あれと思った。今朝になって読売新聞社説「在外米軍再編 アジアでは抑止力堅持が前提だ」として在日米軍縮小の話題に振ってきた。この件については11月28日の旧極東ブログ「経新聞さん、ポチ保守ではいられないよ2003.11.28)で扱っていたが、あのときは、産経だものな、ぽち保守だものなと思っていた。今朝の読売新聞社説を読んで、なーんだ読売も同じポチ保守かぁと笑った。問題提起するだけましなのだが。
 読売の社説ではちょっとどぎつくこう言っている。


 日本にとって深刻な脅威は、核やミサイルの開発を続ける北朝鮮だ。北朝鮮はソウルを「火の海」にする、という威嚇的態勢を緩めていない。

 修辞的な言明のようだが、これも私が以前のブログで書いたような背景があるだ。読売さんはちと舌ったらずなのだ。つまり、ソウルの米軍問題を知っていて、書いていないのだ。
 私は進歩派でも平和教でもないのだが、在外米軍の縮小のどこが悪いのだろう。ソウルが火だるまになる? ひどいことを言う。それは韓国の問題ではないか。日本にミサイルが飛ぶ?当たらないよ。工作員が大量に上陸する?日本は意外に広いよ。問題は難民くらいだ。問題は多分に韓国にあるのだ。韓国、しっかりしてくれよと思う。当面の問題はあんたがリーダーだよと思う。そして、状況に応じて日本社会は多くの難民を受け入れられる用意というか計画くらいはすべきだ。

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インドと日本は協調したほうがいい

 朝日新聞社説「中印改善――竜と象の踊りの輪に」で、インドと中国の関係が改善されることが好ましいとしていた。ほぉっていう感じだが、朝日新聞社説には左翼と反米のフィルタがかかっていることがあるからなと警戒して読む。


 底流にあるのは、経済の発展を優先したいという共通の意識だ。そのためには何より紛争を避けたい。両国はともに今世紀の半ばには経済大国になる可能性を秘めている。巨大な市場や潜在力を互いに生かし合わない手はないというわけだ。

 それはわかりやすい。そのわりに、カンクン会議の暴れん坊とアジアのFTAボスという視点がないのは変だなと思って読み続けると、ご期待どおりの左翼節が出てきました。

中国は包括的核実験禁止条約に署名したが、批准はまだだ。インドは署名さえしていない。ミサイル関連技術の輸出規制や、弾道ミサイル拡散防止の国際行動規範には両国とも未参加だ。これでは困る。

 なーんだ中国を賛美してインドの核を牽制したいというだけか。つまんないなぁである。といわけで、まじめくさったくだらない話はさておき、私は2つくだらない話を書こう。
 1つはシッキムだ。

インド側はチベット自治区を中国領と初めて文書で確認し、中国側もそれまでインド領と認めていなかったシッキム州とチベット自治区との間の貿易の再開を受け入れた。

 前段のチベットの話はむかつくのだがある意味現実的には仕方がない。でシッキムだが、紅茶で有名なダージーリンの上のほうというか北西というかあのあたりで、いい紅茶が取れる。価格が同じならダージーリンよろシッキムのほうがうまい。が、最近ダージーリンの紅茶は驚くほど進歩している。5年まえならお笑いっぽかった有機の紅茶がうまいのだ。また、製法も最新の台湾烏龍茶の影響を受けているのか、すごいのだ。この2つを合わせたプッタボンやマカイバリの紅茶は、もうそれは香水なのだ!!って言ってどうする。私はキャッスルトンとかサングマとかが好きだったが、乗り換えてしまったよ。ああ、くだらない話。
 もう一つは、朝日新聞は「さて日本だ。首脳交流さえ乏しいインドはまだまだ遠い」というが知らないんだなと思った。個人的な話になるが、今年亡くなった桜内義雄元衆議院議長はインドにだいぶ心を砕いている様子を私は知っている。ただの坊主じゃないなと思ったものだ。ああいう気骨のあるインド愛好家がいなくなってしまったなと残念に思う。日本ではインド愛好家というとすっかり変な人が多い。たしかに、現地で暮らすとああなるのだろうなとは思うが、変な感じのインドというのはなんかすごく間違っていると私は思う。カルカッタの通りでチャンドラ・ボース(Subhas Chandre Bose)の立像を私が見ていたときだが、知識人と思われるインド人が日本との友好を熱心に語ってくれた。センター試験以降の世代のみなさんは知っているかな。知っていても小熊英二みたいにひんやりした知識にしてしまうのかな。とからかってしまってはいけない(参考)。私だてチャンドラ・ボースのことを知っているが親愛を強く持っていたわけでもない。すなかったなと思って帰国してから高円寺にちと墓参りに行ったものだ。

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「三位一体の改革」というアポリア

 朝日新聞と日経新聞の社説が「三位一体の改革」の緒戦である補助金削減案を論じていた。問題提起は非常に明確だ。日経の言葉を借りると、「数字のつじつま合わせにしても、少しひどすぎないか」。確かに、ひどいもんだと思うが、予想外のことではなかった。この問題については、11月27日極東ブログ「1兆円論議はなあなあで終わり、三位一体改革は失敗するだろう」で予想した通りだ。もちろん、この手の議論は金子勝のように悪いほうに賭けたほうが勝つので無意味なゲームになりがちだ。
 朝日は「首相は早急に国と地方の役割分担を明確にし、それにふさわしい税源のあり方を示すべきだ」というが、こうした大義のレベルでは問題はすでに解決している。問題は、ようするに地方だ。朝日は次のようにまとめているが、すでに問題が内包されている。


 1兆円削減論が迷走するいま、首相は三位一体の改革の原点を見つめ直す必要がある。厚労省などの事業官庁は補助金で自治体を指図する。総務省は交付金を操る。財務省は税源を握っている。その3者の「三方一両損」が出発点だ。さらに主役の自治体が身を削る「四方一両損」によって改革は初めて動き出す。

 現実的な意味では話は逆になる。つまり地方の自治体が身を削ることが可能かという問題なのだ。もっと明確に言えば、大都市以外の地方の問題なのだ。旧極東ブログで書いたが、大都市を除く地方は高い地方公務員の給料や地方単独の公共事業を温存していたいのが本音だ。地方公務員は地方のエリート層だし、地方単独の公共事業がなくなれば、地方の産業が崩壊する。それ避けられるのはある規模を持つ自治体に限られる。とすれば、問題は地方の合併問題になる。そこがうまく論じられないのは、政治家の利益や地方報道社は実は現存の体制のほうがうまみがある。
 微妙なのは大手新聞社や大手のTV局だ。本音で言えば、地方を切り捨ててもいいし、切り捨てたいという欲望が潜んでいる。だから、そのあたりから、都市民の怨嗟のような正義が沸騰してもおかしくはない。
 いずれ是非を決せざるを得なくなるなら、合併を進めて、多くのインテリジェンスを地方に戻すことだ。私は田中康夫が好きではないが、あの長野県のモデルを実施するしかないだろうと思う。

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2003.12.03

「はてな」からココログ(TypePad)へ

 昨日、「はてなダイアリー」からこちらに引っ越しをした。ブログを開始する当初、MTにするかちと悩んでいたが、やはりブログの主流はMTになるだろうから、MTベースがいいだろうと考えていたので、早々に移転した。リファラや統計の情報は得られないが、仕事でもないしいいだろう。ちょっと残念なのは、はてなの旧「極東ブログ」でPageRankをある程度まであげ、もう一歩でフレッシュクロールかというところだったが、それが消えることだ。しかし、もとからはてなのほうはキーワードリンクが多く、Googleにひっかかりやすいリンクファームの趣が強いので、それはそれでこのあたりで引き上げておいたほうがいいのだろう。あまり有名になってもろくなことはないという感じもする。それにしても、特に意味もなく保持していたニフティの会費がこんなところで生きるとはねである。
 MT移行については、ちと「うざったいコメントが嫌になったか」とも思われたようだが、そのあたりの心情は漠としている。もともと掲示板(フォーラム)でがんがんやってきた古くさいネットワーカーなので2ちゃんねるように荒れていなければ、対話は嫌いではない。だが、どうも荒れてなくても、若い人と話が通じないなというのは多くなった。
 そういえば、はてなでは先月、東浩紀がはてなに持っていた日記がコメントで荒れたため閉鎖するという「事件」があった。閉鎖前には次のように言っていた。(参考


基本的にははてなで続けるつもりですが、別のシステムでも実験してみるべきかもしれません。結局MTを採用するような予感もします(笑)。

 MTだからってどうという違いもないだろうと思ったが、東浩紀のような有名人の場合はコメントというか掲示板的な機能がブログについているとどうしても「荒れ」対策が必要になるのかもしれない。それに対して、MTがいいソリューションなのかはよくわからないが、現状のはてなダイアリーでは特定日のコメントが長くなると話題のほうが見づらくなるという欠点は確かにある。と、書いていたら、ご本人の新規MTサイトにご本人の弁があった(参照)。ふーんという感じだ。余談だが、ちとPerlの動作がトロいような気がする。それと、誤解されるかもしれないが、私は哲学の文脈以外では東浩紀にはほとんど関心がないので、この話はこれまで。
 話を戻して、はてなとココログだが、なにかと話題の感度の高いはてなのほうでは、ココログという大衆化したMT(正式には機能限定のTypePad)をどう受け止めているかと思ってみたら、すでにキーワードが立っていた(参考)。こういうところが、はてなはすばらしいと思う。これを読んでみると、関心はあっても、私のように、さらっと移行した人はいないようだ。はてなに魅力を感じている人が多いのだろう。ざっと見ても、これだけはてなに魅力がある。(1)キーワード機能で話題が共有できる。(2)CSSのカスタマイズ性がいい。(3)Googleに強い。と、実は3つとも同じことでもあるのかもしれない。
 TypePadのほうもCSSくらいはいずれ調整できるようになるだろう。が、昨日私が始めたときは、ちと文字の小ささにまいった。私は眼がよくないので、できればでかい字がいいなとは思う。ただ、慣れはあるようだ。昔のMacのような感じもする。
 話がちと前後しかねないが、はてながちとまいったなと思うことがあった。コメントの問題ではない。もともと私のブログなどコメントはたいしてない。まいったなというのは、はてなが村化していることだ。私という人間はどこにいても一匹狼的な人間なのだが、そう言って気取っているわけではないことは、どっかおちゃらけのサービス精神のようなものがあって、他人の目が気になるのである。また、回りの環境に馴化しやすいこともある。というわけで、どうしてもはてな村の雰囲気やはてな文化に影響を受ける。これが良い面もあるが、疲れる面もある。4か月はてなでブログしてみて、そこで物を書く人間の大半がセンター試験以降の世代になったのだと知って愕然とした。おそらく面と向かえば言葉も通じないだろうと思う。反面、私が好きな出版文化のほうは、書籍的にはまだ団塊から私(46歳)の世代だが、雑誌は30歳台に移行している。それでも、その下にブログの書き手がくるようだ。もちろん、そうではない例外も、例外という以上には多い。
 恐らく、私とはてなの関係はこれから薄くなっていくようにも思うのだが、そう急いで全面的に移行するというものでもなく、旧極東ブログのアーカイブと残してきた若干の対話の場でもありつづけるだろう。
 別の面から言えば、MT化したことで、トラックバックの拠点になれたので、もう少し広い世界への対話が可能になればいいとも思っている。こういうと偉そうな言い方がだ、世の中に3人くらい話の通じる人間がいれば、私はそれでいいのだ。傲慢が過ぎるかもしれないが、以前のネットワークの活動で得た得難い知人たちには、この4か月の間のブログは秘密にしてある。我ながら矛盾しているが、Googleのフレッシュクロールくらいになったら、自然にわかるだろうとも思っていた。わかりあえる可能性のある知人をほったらかして、何を言っているかであるが、ま、少し遠いところに向けて声を出してみたいのだ。

追記12.4
リファラの情報があると参考になるので、追加した。


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ベストなドイツ人はトホホな結果

 そういえば、極東ブログの「ベストなドイツ人というトホホ」(11.11)で扱ったビルト紙とZDFテレビの共同が企画した偉大なドイツ人の結果が出た。以下の通り。



  1. コンラート・アデナウアー
  2. マルティン・ルター
  3. カール・マルクス
  4. ゾフィー・ショルとハンス・ショル
  5. ウィリー・ブラント
  6. ヨハン・セバスチャン・バッハ
  7. ゲーテ
  8. グーテンベルク
  9. オットー・フォン・ビスマルク
  10. アルベルト・アインシュタイン


 結果を見て、ちょっと言葉に詰った。そりゃないでしょっていう感じだ。なんかドイツって内部で競り合っているんだなという感じがする。
 アデナウアーは旧西ドイツということ。つまり、旧東ドイツへの面当て。ルターはプロテスタントなので、半数いるカトリックに面当て。マルクスはアデナウアーの西ドイツ勢力に対抗した東ドイツ勢。ゾフィー・ショルとハンス・ショルはユダヤ人勢力っていうことだろうか。単純にしすぎだが。
 同じドイツとはいえ、難しいものなんだというのがかいま見られて面白いと言えば面白かった。

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パソコン技術の実際上の停滞

 ラオックスに確か中古パソコン館が出来たんじゃないかと思って情報をぐぐってみて、出てこない。名前が違ったようだ。PC EXPOT(ピーシーエキスポ)というらしい。「スポット」を洒落たのだろうがセンス悪いなと思う。明日が開館。ラオックスのサイトを見ると、BOOK館を潰して買い取りセンターを格上げしたような形になる。確かにパソコン雑誌や書籍には往時の勢いがない。悪ぶっていた「ネットランナー」なども、人にもよるのだろうが、もう見る影もない。タブブラウザー特集でSleipnirを今年もベストとかやっているのは、ほとんど紅白歌合戦の世界。中華キャノンあたりが旬だった。来年は「萌え」だけか。パソコン書籍もみんなその流れだだろう。鬱。
 ラオックスの経営戦略が変更になるように、中古パソコンの売買がさらに盛んになる。デフレってやつですか。それはいいことか悪いことか、と考えて、思考が中断する。いい悪いもない。ただ現実なのだ。いまだに新型パソコンは季節ごとに出るのだが、これはもうただのタメでやっているようなものだ。DVDだのAV機能に付加価値を高めるのは、新製品という見栄と単価を高くするためだけ。なにより、もう高性能のパソコンなんて市場には要らないのだ。高性能なのが欲しい人は別のチャネルで買うか、自分でファブリケートしている。
 パッケージもののアプリケーションソフトも悲惨だ。どのくらい悲惨かというと、年末に年賀状ソフトだの、年賀状ソフト特集をする雑誌の存在でわかる。アプリケーション関連で話のネタがないということなのだ。年賀状ソフトで汚いフォントをしこたまインストールしてマシンを重くするのはやめとけとか思うのだが、そういう声も聞かない(聞きますかぁ?)。
 WindowsはInternet Explorerを使うだけでリソースががくっと食うし、すでにこれがモジュールでOSに組み込まれているわけだから、そもそもWindowsっていうのはOSなのかとも思うし、最近のパッチはぜんぜん信用できないので、私もさっさと昔の古巣であるMacintoshに戻りたいよとも思うのだが、あれやこれやでなかなかそうもいかない。
 ブロードバンドがけっこう普及したから、アプリケーションをパッケージ販売する必要もないだろう。先日Paint Shop Pro8にリニューしたら、すぐそのあとにパッチバージョンが出た。ん十メガというしろものをダウンロードしろってっさ。最初からパッケージ売りの意味ないじゃん。まっくろメディアのSTUDIO MX 2004のアップグレード版も来たので開けたら煙しか出てこないので、わたしゃ、おじいさんになってしまいましたよ……マニュアルもなし。アドビみたいに読めないマニュアル(日本語文字で書かれた日本語でない言語)なら、なしでいっしょぉ!って軽快すぎますね。鬱。
 アプリケーションの市場が行き詰まっていると、その業界の人も思っているだろうけど、なんつうか、もっとまともな日本語環境が欲しいです。簡単にできる音声読み上げとか、読み上げのMP3化ツールとか、作文添削ソフトとか。ま、現状の技術でも組み合わせればできるのだから、なんとかしてほしい。
 話が散漫になってしまったが、ラオックス中古館の話に加えて、CNET「遅々として進まないOffice 2003の導入」を読んで、そーだよな、もうOffice要らないよなと思ったのだ。記事によれば、「Microsoftの最新版Officeへの移行を来年計画しているのは全体のわずか35%程度だという。」とのこと。そうだろう。現状の機能の上になにが必要なのだろう。個人的にはもっともましな単独のVBA環境があればいいだけなのだが、他にはなにも思いつかない。Officeは私が見る限り、Windowsの上にもう一個別のOSを載っけたようになっているので、本当ならこんなソフトインストールしたくない。CNETの話は米国ベースなのだが、日本ではどうだろうか。
 マイクロソフトがこれからもドットネットとXMLを推進していくのはわかる。名前はまたころころ変えるのだろうが、技術的な動向と必然性は理解できる。だが、いちユーザーとしてみるとそんな技術になんのメリットがあるのかまるでわからない。個人ユーザーなんてXMLをパージングする必要なんてないものな。
 Windows XPのライセンス認証もうざったいので、いっそ、Lindowsにするかとも思うが、現実的にはこんなの使えるのだろうか。また話が散漫になってきたが、マシンをリニューしたところで何をやりたいかまるでわからない。夢がないよなと思う。鬱。
 あと、これを言うと、とーっても恥ずかしいのだが、日本語コードの話。いちおう実生活的にはUTF-8でしょ、やっぱり、にっこり、とかしているのだが、使いづらいったらない。あれこれ言われたけど、実際にちょこっとした文書処理するならShift_JISがいいやと思う。昔のツールはありがたいことに、SEDやAWKでSJIS処理ができる。Perlじゃダメなんだものな。
 ふと思ったが、このココログのTypePadって、ちゃーんとUTF-8なんだ。ほほぉっていう感じだ。最初にごりごりと日本文化にUTF-8という黒船を送ったのはGoogleだよ~と思うのだが、そんな話も聞かない。日本語コードについてはうざったい議論が好きな人が多いのだが、なんか現実とはまるで関係ない事態になっている。
 いや、そう言っちゃいけないのだろう。正論っていうのはそれなりに正論なのだ。スリランカにしちゃいけないってオヤジギャグ言ってどうする。ただ、技術における正論というのは本質的に空しいものだ。応用あっての技術だからだ。
 もしこの歳こいてサンタさんにクリスマスに欲しいものと言われたら何が欲しいだろう。iPodは要らない。ラジオマニアの私はトークマスターがちと欲しいが、電池の問題がめんどくさい。欲しかったヘッドフォンも買ってしまったし、注文しといた伊羅保茶碗ももうすぐ届くはず…、なので、お薄で一服…ちがう!

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Google広告の自主規制の意味

 ZDNNニュース速報からだが、以前から問題になっていた未認可薬品の広告が廃止になった。ということは、Google自体が自主規制に乗り出すということだ。
 日本では話題になっていないが、旧極東ブログにも書いたように、今年はVicodin(バイコディン)ブームだった。SPAMもVicodinだらけだし、GoogleのアドワードもなにかとVicodinが出てきた。
 ZDNNニュース速報は簡素だし、以前の問題履歴を日本語で探ってみたのだが、要領を得ない。が、ニュースの原文をあたると、やはり、大きくあつかっていた。リードはこうある。(参照


Search giant Google said it will no longer allow unlicensed pharmacies to buy advertisements on its Web site, following similar moves by rivals Microsoft and Yahoo.

 速報ではぼけていたが、マイクロソフトやヤフーに準じるという意味あいを強くしているわけだ。当面は、この問題もまたVicodin(バイコディン)の関連とも言えるだろう。こうある。

Over the last several years, scads of unlicensed pharmacies have gone into business online, selling prescription drugs such as the painkillers Vicodin and OxyContin to consumers without requiring evidence of proper medical approval.

 この動向がネットにどういう影響を与えるのか、私ははっきりとした意見があるわけではない。直感的にはあるターンニングポイントを越えたなと思う。もどかしくてうまく言えないが、Googleはサーチエンジンなのだと単純に言える時代は終わってきた。どこかのブログで「Google村八分の形」という洒落の話があったが、Googleが直接的な利益を追求するに従い、フィルタがかかることで、我々がGoogleを通してみるネットと実際のネットとの間に、奇妙なゆがみのような発生し始める。
 現状では、Vicodin(バイコディン)業者のSEOがGoogleで無効になっているわけでもないし、こうしたSEOについて現状では、Googleはジェネラルな技術で対応しているのだが、それがどこかで無理になるか、こっそりとアルゴリズムが変更されるか、ということにならないだろうか。
 現状ではGoogleは他企業に検索エンジンをライセンスする場合、フィルタ機能を重視させている。情報を企業利益に誘導するかでどうフィルタするかはすでに問われているのだ。

追記
CNETでも記事があった。
「CNET Japan - 米グーグル、無認可の薬品広告を棚上げに」

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武富士事件がピンと来ない

 今朝の新聞各紙社説はこぞって武富士事件を扱っていた。事件はすでに周知ではあるが、読売社説の記事を引用する。


同社の疑惑を追及していたフリージャーナリストの自宅の電話を盗聴したとして、すでに、元課長や元専務らが逮捕されていたが、警視庁はトップ自らが関与した組織ぐるみの事件と断定した。

 東証一部上場企業がフリージャーナリストの盗聴をしていたとはなにごとか、というのが各紙の切り出しだが、問題はこれが端緒であって、「消費者金融最大手武富士はいかん」というのが本丸だ。日経社説を引用するとこうだ。

今年7月大阪労働局は、サービス残業を指示していた同社と役員2人を労働基準法違反で書類送検した。8月には関東財務局が、違法な取り立て行為をした支店を業務停止処分にした。犯歴照会に応じてくれた謝礼などとして多くの警視庁幹部に大量のビール券を贈っていた事実も判明している。暴力団との関係も指摘されている。社会的な責任を自覚した企業とは思えない行為である。

 たしかにそりゃいかんな、ということで話が終わるのだが、どうもピンと来ない。その自分のもやもやとした感じから書いてみたい。
 まず、この事件はそんなにたいした問題のなのか?という違和感がある。違和感の大半は盗聴はよくないが、これが緒戦に過ぎないのだから、本丸をきちんと解明する、というか、そのフリージャーナリストの仕事に着目すべきなのではないか。と書いてみて、この事件の解明が既存のジャーナリズムや社会運動ではなくフリージャーナリストに任されていたのだということに気が付く。オウム真理教事件の時でもそうだが、江川紹子個人に拠っていた面が強かった。当時を思い出すに、江川の話はジャーナリズムでは「FOCUS(フォーカス)」だけが取り上げていたが、他誌は十分に扱ってこなかった。フリージャーナリストに近いFOCUSの意義は大きかったのだが、現在は事実上休刊であり、類似の写真誌はただの芸能スキャンダルみたいな話しかない。と、ようは、日本のジャーナリズムの欠陥の露呈が潜んでいるように思われる。関連して、フリージャーナリストの安否が問われる事件が最近多いのも気になる。
 盗聴事件で連想したのは、武井保雄会長の行動がどことなく麻原彰晃を連想させる。なぜなのだろうか。もっとも大手企業ではなく、たたき上げの中小企業の場合、どれも武井保雄会長のような存在がいて成り立っている。とすると、その構造自体を大手企業化したジャーナリズムが正義面で叩いても、おまえさんたちの生活感は違うよないう感じになる。
 もう一点の違和感は、日経が「かつて消費者金融は『サラ金』と呼ばれ、深刻な社会問題を引き起こした」と書くように、サラ金へのバッシングの意識が今回の問題の背景にあるだろう。だが、実際の日本社会はサラ金によって成り立っているようなものだし、深夜番組のCMはサラ金しかないような様相だ。こうした現実の日本の状況の変化に口をぬぐっているのはおかしいと思う。サラ金の反面には巨愚とも言える銀行があった。山本夏彦風に言えば、銀行もたかが金貸しである。サラ金のほうがより日本人大衆の身近にあった。好意的にいうなら、サラ金が社会化したから、この間の日本の庶民の経済が支えられていたことは間違いなと思う。
 以上、書いてみて思うのは、サラ金と武富士を叩いて正義面をする大手ジャーナリズムへの嫌悪感なのだなと思う。

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2003.12.02

朝鮮民族の起源を考える

 韓国の新聞東亜日報の社説で以前朝鮮史五千年という話がマジで語られているのに仰天したことがあるが、それ以前にそこでの朝鮮民族という概念にも驚いた。私はどう考えても、朝鮮史は新羅統一をもって始まると考えていて疑ったことがなかったのだ。盲点があった。もちろん、統一新羅以前の古朝鮮を否定するわけではないが、古朝鮮の民族的な状況についてはあまり考察したことがなかった。理由は意外に単純だ。歴史学者岡田英弘から直接、前漢時代の東ユーラシア大陸の「朝鮮」は現代の朝鮮とは違うという話を直接伺って、疑念すら持たなかった。気になって手元にある岡田の著作を読み直したが、はっきりした言明が見つからない。もしかすると私の聞き違いかもしれない。それにしても、疑念すら持たなかったのは、百済が日本と同様に越人の起源を持つだろうと思っていたからだ。つまり、統一新羅以前には朝鮮民族の単一的な起源はないだろうと単純に考えていたわけだ。
 現状でも、その考えが違っているとも思っていない。また、くわしく考察できているわけでもないのだが、メモがてらに書いておきたい。
 史記によれば周の武王が殷を滅ぼしたとき、殷の最後の王である紂王の叔父箕子は現在の朝鮮に封ぜられたとある。これがいわゆる箕子朝鮮だが、殷自体が伝説なので史的考察の対象とはなりにくい。箕子は燕下の喀喇沁のキ(己其)侯をさすと見てよいので、朝鮮半島北部は燕下にあったことだろう。
 その後漢代に、燕人満(衛満)が部下とともに東方(半島方面)に亡命し立国したた。そのおり当地の民族衣装をきて紛れたというが、これを現代韓国の史学者は朝鮮族の服(椎結蛮夷服)だと考えている(参照)。
 満は現在の平壌を都とし、当地の真番、朝鮮、臨屯を服属させた。これが衛氏朝鮮(衛満朝鮮)である。衛満は漢の外臣扱いとなったが、その孫衛右渠は漢に敵対したため、漢によって滅ぼされ、楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡が置かれることになった。完全に中国下になったわけである。これがBC108。
 四郡の位置についてだが、岡田英弘は現在の朝鮮半島を分割するように比定しているが、井上秀雄は現在の北朝鮮に比定している。岡田が正しいようにも思われるが、井上の説が正しいなら、以上の古朝鮮の歴史は現在の韓国の地域とは関係のない歴史なのかもしれない。
 韓人については、BC44に真番の原住民として現れ、後の辰につながる。


建武二十年、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。【廉斯、邑名也。[言是]音是】光武封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。 靈帝末、韓、wai[扁水旁歳]並盛、郡縣不能制。百姓苦亂、多流亡入韓者。

 高句麗が出現するのは先の井上はBC37ごろとするが、そうだろうか。いずれにせよ、後漢の衰えとともに高句麗が現れるのであって、檀君建国とはつながりようがない。また、以上の流れから見て、衛氏朝鮮をもって朝鮮民族の歴史起源とするのもやはり無理があるようには思われる。
 話は飛ぶが、現在中国域吉林省、黒龍江省、遼寧省など東北三省に二百万人の「朝鮮族」がいる。この人々の由来は現在の北朝鮮の朝鮮人と異なるものではないだろう。歴史的には10世紀に滅亡した渤海遺民かもしれない。日本の併合から逃れたとも言われているが、そう言われれば政治問題なので日本人による否定は難しいだろう。
 鴨緑河で北朝鮮の国境が引かれたのは、中ソの蜜月時代と北朝鮮がもとからソ連の傀儡国家として生まれたことによるのだろう。
 朝鮮の置かれた歴史状況に同情すると言えば、朝鮮人からは嫌がられるかもしれない。私はいずれなんらかの形で、半島に統一朝鮮が出現し、日本と並べる一億人の近代国家になるだろうと思っていた。だが、古朝鮮を巡るナショナリズムの動向を見ていると、そうならないのかもしれないとも思う。中国は現在東北工程によって中国域内の朝鮮族の中国化を進めている。そして、中国は突き詰めてしまえば、歴史的に朝鮮を独立した国家と認めているわけでもない。統一朝鮮はつねに中国と対立しつづけるだろうし、その対立は民族を分断させるだろう。

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「冥福」は祈らない

 外交官殺害事件について各種ブログをザッピングしていて、「冥福」という言葉が奇妙に心に引っかかった。なにか痛ましい事件があると、メディア、とくにTVで「ご冥福をお祈りします」と来る。いつからそういう風潮になったのだろう。自分の少年期や青年期を思い起こすのだが、よくわからない。ただ、阪神大震災あたりから「あれ?」という違和感があった。この手の問題はどうも気持ちが悪い。
 話がそれるが、最近の若い子は食事の前に「いただきます」と言って合掌をするのだが、これもどこから入ってきた風習なのだろう。育児のことを現在ではあたりまえのように「子育て」と呼ぶが私の記憶では三好京三「子育てごっこ」以降のことだ。昭和50年である。広辞苑を見ると浮世風呂に「子育て」の用例があるのでこの時期の造語ではないようだが。
 「冥福」に話を戻すと、浄土真宗つまり門徒は「冥福」という言葉を使わない。御同行御同朋使だけで使わないわけでもない。この手の話はネットにあるだろうと探すとある。「浄土真宗の弔辞の例文」にはこうある(参考)。


 仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
 既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
 つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
 亡くなられた方は、何の障害もなく、お浄土に往かれています。亡くなれば「迷う者」として、「祈る(供養)」と言うことは、果たして遺されたご家族の悲しい気持ちに対してふさわしいものでしょうか。
 浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら、「○○さんのご冥福をお祈りします」ではなく、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」と、浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。

  「浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶」と限定されているが、門徒の信仰者ならどの人にも冥福は祈らない。門徒でない人間なら冥福を祈ってもいいのだろうか?と、そんな理屈をいうまでもなく、「ご冥福をお祈りします」は礼儀を示すというだけの空文なのだろう。つまり、「私は礼儀正しい人間だ」という表明なのだ。
 たまたまテレビのニュースで井ノ上正盛書記官のご夫人の映像があった。身重の映像で痛ましかった。TVに映す必要があるのか私にはわからない。痛ましいものだった。井ノ上正盛のご冥福を祈ると私はとうてい言えない。生まれてくるお子さんには「お父様はお国のために命をかけられたご立派なかたでした」と聞いて育ってもらいたいという思いが湧く。
 近代人は脱宗教化を遂げ、死後の世界など信じない。だから、こそ冥土の幸福が祈れるのだとしたら、そうすることで大きなものを失っているとしか思えない。

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2003.12.01

私は地上デジタル放送に関心なし

 私は民放は「トリビアの泉」「あたしんち」「仮面ライダー555」くらいしか見ないって、あれ?けっこう見ているかぁ。でも、「アバレンジャー」は見てないし「グランセイザー」は見てない。実写版の「セーラームーン」だって見ていない。「ポケモン」はAGも放送局も見ていない…ま、見ていない。見ているのはNHKなのだが、これもあまり見ていない。「クローズアップ現代」と「あすを読む」くらい。テーマによって人間講座や特集を見るくらいか。「うたっておどろんぱ」もブラックオドレーヌが出ない回は見ない…いかん、さっきまでの鬱がハイに転換しているかもしれない…、三歩歩いて忘れましょう~、さておき、見るときはすべてHDレコーディングだし、番組の登録はEPGでやっている。CMは飛ばす。で、話はなにか? 私は地上デジタル放送に関心がないということだ。
 現状でのテレビ放映でなんの不満もない。これ以上見たい番組などない。ケーブルも衛星も要らない。映画は映画館かDVDを見ればいい。現状ですらイメージ映像が増えた「クローズアップ現代」をハイビジョンで見たいとも思わないし、「あすを読む」で解説員の誰がカツラか知りたいとも思わない。文字放送の情報などWebがあれば十分。インタラクティブな機能もWebやメールで十分。
 メディア関連で欲しいと思うのは、NHKの過去の番組をDB化してストリーミングできればいいことと、私はラジオが好きなので、AM波を改善して欲しい、というかストリーミングしろよと思うくらい。
 話を戻して、なんのために地上デジタル放送は必要なのか、周波数帯を広げるという以外は、まるで理解できない。野球が時間延長で見たければ、ケーブルチャネルを見ればいいだけのことではないか。
 マスメディアの地上デジタル放送騒ぎは、なんだかおかしいのではないか。もともと、こんな計画、ネットが普及する前からやっていて、ネット技術のドッグイヤーに遅れてしまっているのだ。無駄な高速道路を造る問題は批判されるのに、地上デジタル放送なんて無意味なものが推進されるのは、どう考えてもおかしいと思う。新聞社説では、毎日だけがややまともだった。

[コメント]
# morutan 『ご指摘の通り、あれ(地上波デジタル放送)は確かにおかしいです。NHKなども公器なくせに、家電と手を組んでるからしばらくの間、「デジタル放送」なイデオロギーを蔓延させるし・・基本的にチューナーみたいなの買えば家でデジタル受信できるのですが・・たぶん何かしらの差をつけてくるでしょう(クリックしてすぐに商品が買えない、など)。そして、そういうウソな流れに乗っかって金儲けしようとしてる連中とか・・ウソマーケティングをしようとしてる連中がいて・・ここからは極東blogさんに相談です。ちょっとここを見てください(お目汚しですが・・)http://blog.japan.cnet.com/mt/mt-comments.cgi?entry_id=863これは、ここの記事に対するぼくの批判なのですが(元記事はここです、http://blog.japan.cnet.com/mori/archives/000863.html)・・というのもこの記事あきらかにまちがっていて・・それがそのまま伝わるとまずいし(いちおCNETにも何人かのユーザーはいますし)、そしてこういう人たちが適当にマーケティングやって、その影響によってメディア環境が汚染されていく・・ってのは・・ちょっと耐え切れなくて・・柄にもなく批判してみたのです。で、相談なんですが・・これ以上批判を続けるべきかどうか・・?いちお、本人も反省した感じで、記事のバランスを取り戻してるみたいだし・・(ちょっと気を引き締めた?)質問項目としてはあと3つぐらいまとめてあって・・これは質問したほうが研究的には本人のためになると思われるんですが・・(申し訳ないですが、ぼくのサイトを見てください、http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=morutan)このままやるとこの人のサイト潰そうとしてる(=荒らし)ってことになるんでしょうか・・?・・・どうなんだろう?/ほんとにしょうもないお願いで恐縮なのですが・・m(_ _)m』
# morutan 『あ・・あと、ぼくも「仮面ライダー555」好きです』
# レス>morutanさん 『素朴に答えさせてください。私が注目するのは「マスメディアの状況におけるマス側のメリット」です。森祐治は、基本的にテレビ業界の儲けの構造の延命ないしリストラクチャに関心があるのだと読みました。だから、「広告が十分な効果があるかどうか?ではなく、効果をもちうるように改革せよ」と。裏返しに言えば、そこにしか関心はないだろうと思います。その前提の部分の方向性を変えて問いを成立させる、ことは難しいだろうと思います。うまく通じるかどうかわかりませんが、morutanさんの追加質問はその方向性の切り替え後に問いうるように思われます。うがったいいかたもしれませんが、森祐治のブログの読者はマス側の視点に立ってないので、そうした背景の視線を考えるとこの方向の議論は難しいと私は思います。極東ブログ的に言うと、「しかし、テレビを見ながら電話ができたり、追加情報が見れたりしたら、それなりの価値があるという声は実は大きい」わけはないと思います。また、「金融デリバティブに近い形で収益期待値に対する制作費の最適化」は無内容だと思います(制作の現場を知らなすぎ)。』
# morutan 『そうですね・・確かにあの人は短期的な儲けにしか関心がないようで・・そういう考えだと却ってユーザーは離れていく、ってことが理解できてないみたいに思えました。そして、「彼には何度言ってもそれがわからないのよ」、って友人には言われて・・確かにぼくもそんな気がしていたので、「これ以上はもうやめよう」と思ってて・・(なにしろそうとうな時間食いそうですからね。。彼にこれ以上の時間を費やすのはちょっと・・)そして、彼はデジタル化の真の意味というものが分かっていない・・(たぶんガッコでは教えてくれないですからね)それはぼく的には「コモンズ」と絡んで・・コモンズ≠マスメディア≠社会資本ってラインなんですが・・まぁ、これ以上はネタバレになりますので・・おそらくマーケティングについても、経験則しか知らない・・ブロードバンド時代のレイヤ構造を考えられない・・・っていろいろ突っ込みどころ満載なんでしょうが、もう面倒だからやめます。。(ぼくは彼のような思考停止型人間をMAGROと呼びます)ほんとに・・めんどうなことをありがとうございました m(__)m  あ、あと、極東さんのところにリンク張ってもよろしいでしょうか?』
# レス>morutan 『リンクはまったくかまいません。c-netは読んでいるのですが、森祐治(敬称略)には関心を持っていませんでした。私自身としては、TV的なメディアについては、たかがリモコンでザッピングという現象から変動が起こったように、HDレコーディングが普及するとかなり変動があるでしょう。家電業界はDVDレコーディングに流れているのですが、どこかで大きな転換点(DVD->HD)があると思います。』
# morutan 『あ・・じゃあ、リンクさせてもらいますm(_ _)m。ぼくもあの人のはたまたま今回見たんですが・・あまりにひどかったもので。。まぁ、それはいいとして・・やっぱTivoみたいなHDレコーダーってのは重要ですねぇ・・ぼくも欲しいですし・・いまのテレビ業界はビデオにとるっていう前提さえうまく活かせてないけど・・』

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アドベント(待降節)になった

 教会暦を見れば昨日は待降節第1主日だった。子供用にアドベントカレンダーをいくつか買い込んだ。ノエルとは書いてないが、輸入食品屋カルディのはフランス製が多かった。昨日はチャペルによっては五本の蝋燭が点っていたことだろう。あるいは、四本だったのか。教会にも行かなくなったのでわからない。10年前までは世俗のクリスマスが辛かったのでこっそりイブの礼拝に座っていた。今日の話は私事である。
 キリスト教も宗派によって歌う讃美歌が違うようだし、現在の讃美歌はもしかすると口語なっているかもしれない。私が歌えるのは文語だ。たいていは歌える。キャロリングのメンバーですらあったのだから。


94 降臨

  ひさしく待ちにし 主よ、とく来たりて
  み民のなわめを ときはなちたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  あしたの星なる 主よ、とく来たりて
  おぐらきこの世に み光をたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ダビデのすえなる 主よ、とく来たりて
  平和の花咲く 国をたてたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ちからの君なる 主よ、とく来たりて
  輝くみくらに とわにつきたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや


 13世紀に出来たらしいこのメロディ(*1)は美しいが、詞は率直に言うと変な感じがする。「ダビデのすえなる」とあるので出典は詩編ではなく、これも12世紀のものだが、ラテン語の詩とはけっこう違うようだ。
 讃美歌は私は文語を好むが、それでも「また合う日まで」を「またおーおーひまで」とは歌わなかったように思う。高島俊男先生の話はごもっともだが「こいすちょう流」は時の流れだ。それでもメロディは変わらない。手元のiMacのiTuneにはBGM用にしこたまクリスマスソングが入れてある。わざとノー天気なものも多いが、明るく聞こえてもカレン・カーペンターの声は辛い。好きなのは、モノラルから起こしたマリアン・アンダーソン(Marian Anderson)の讃美歌だ。崇高なものを感じる。
 日キ(日本キリスト教団)の教会では聖書も今では共同訳なのだろうか。あの聖書は私にはなじめない。戦後の口語訳のほうがいい。口語訳は随分非難を浴びたものだ。大正訳を好む人からはイエスの威厳が感じられないだの、暗唱しづらいだの言われた。私は聖書ギリシア語を学んでいたので、ひそかに大正訳はあまり正確ではないなと思っていたし、口語訳は意外に直訳に近いと思っていた。しかし、今度は口語訳が非難を浴びる順序になった。福音派(エヴァンジェリック)の系統のクリスチャンは新改訳に移行していた。エキュメニズムの影響もあって、プロテスタントとカトリックが協調して共同訳が着手され出した。
 初期の共同訳試訳では折衷で「イエスス」だった。主格だからそれでいいのかもしれない。この問題はカトリックが折れたのだったのか。小川国夫なども入ったせいか、共同訳はこなれた文章になったが、反面こなれ過ぎて解釈が入った。
 聖書の言葉はすぐにわかるほうが良い面もあるが、すぐにわからなくてもいいのではないと歳を取ると思う。口語訳では「心の貧しい人は幸いである」だった。共同訳ではたしか「ただ神により頼む人」になったか。昨今の事情はよくわからないのだが、また、「心の貧しい人」に戻るようでもある。「心の貧しい人」なんていう日本語はない。あっても、意味は、知的でない人や芸術がわからない人、教養のない人のような含みになるだろう。原語では「霊において欠乏のある人」だ。皮肉を言う。世のクリスチャンのように霊的に充足した人は幸いではないのである。
 日本では国益の関係からかニュースでしかたがないのかイスラムのラマダンの季節の話はよく出てくるが、世界のキリスト教国のアドベントはあまり聞かない。クリスマスセールの時期と同じなのだから、それはそれでいいのかもしれない。それでもスペインを含めキリスト教国ではアドベントのこの季節に国の仕事で死んだ兵士を迎えている。韓国も金大中を挙げるまでもなくキリスト教徒が多い。記憶では30%だったが、最近はもっと多いとも聞く。すでに多くの兵士をイラクに送っている。そこでも苦渋に満ちたアドベントがある。
 日本のクリスチャン人口はプロテスタントとカトリックを合わせて1%に満たない。統計を見たことはないが、多くは世襲だろう。日本人口の1%というと沖縄人と同じくらいだ。マイノリティと言っていいのかはよくわからない。以前、なにかのおりで仏壇のカタログを見ていたら、キリスト教用のがあった。冗談のようだが、それはそれでいいのかもしれないとまじめに思う。
 話が散漫になったのでおしまい。そういえば、仏教では「臘八会」(禅宗の臘八接心)である。

注記
*1:MIDIはこちら → http://www.ylw.mmtr.or.jp/~johnkoji/hymn/xmas/Veniemma.mid

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2003.11.30

奥克彦さんと井ノ上正盛さんを悼む

 うかつだった。こんな事件が起きていたことも知らなかった。イラクで日本人外交官2人殺害されていた。殺害された奥克彦さんと井ノ上正盛さんを悼む。
 奥克彦さんといえば、外務省のホームページで「イラク便り」という連載を執筆されていたかただ。日本国の立場に立つということで抑制されてはいるものの味わいの深い文章が多かった。パンの値段の話なども面白かった。戦争というとつい飢饉を連想しがちだが、食糧事情などもいきいきと伝わってきた。ドラマ「おしん」放映の話なども些事のようだが、大きな意味を持っていたことだろう。
 連載で痛切なのはデ・メロの殺害であり、また彼にとって深い意味をもっていただろうユニセフのクリス・ビークマンの死だ。


 正面玄関に出てみて、「この辺で、UNICEFのクリス・ビークマンが亡くなってしまったのか。」と思いながら敷地を出ようとした時、信じられないことに1枚の名刺が目に留まりました。クリスの名刺です。拾い上げてみると、"My Japanese friend, go straight ahead!(我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!)" と語りかけてくるようです。

 「今度は日本人がターゲットか?」じゃない。すでにターゲットなのだ。NHKのニュースによれば奥克彦さんは狙われていたようだし、待ち伏せされていたようだ。
 この事件のため、岡本行夫首相補佐官はイラク訪問を見送ったとのこと。腰抜け、と言いたいところだが、そう単純な問題でもないだろう。
 奥克彦さんの意志を汲めば、テロに屈してはいけないことになるだろう。だが、そういう意気込みだけでなんとかなるものでもない。日本を取り巻く状況は一変したのだから、それにプラクティカルに取り組む必要がある。

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特にテーマもない雑感

 私事でくたくたになった日だった。幸いということでもないのだが、新聞各紙社説のニュースに取り上げるほどのネタはない。足銀国有化やH2A失敗についても、それほど社会問題とも思えない。あるいは私にこれらの問題に単に視点がないだけかもしれない。
 昨日のブログでたまたまオントロジーの話を書いたところ、その方面からのブラウジングがあり、ある意味で意外でもあって驚いた。OWL(Web Ontology Language)の研究自体が無意味だとも思わないが、オントロジーの問題はGoogleのように実際的に進めるほうがいいだろうし、現実的にはGoogleが先行してしまうのでないかという気もする。また、生成意味論がどのような変遷を辿ったかについて、オントロジーの問題と合わせてコメントしたい気もするが、ちと荷が重い。
 このところ、このブログにポツポツとコメントが得られるようになった。自分が下品に書いているせいか、コメントも今後は私のブログに端的に否定的なものが増えてくるような気がする。また、もともと「はてな」がある一定のポピュラリティを得ると、現状のネットの動向から2ちゃんねる的な傾向にならざるを得ないだろうと思う。
 少し挑発的な言い方をすると、私自身、他者のコメントが欲しいなと思う問題意識についてのコメントはなかなか得られにくい、と感じている。逆に否定的なコメントはどうしても、些細な問題か、従来から枠組みの決まったディベートの様相を示すようだ。前者は山形が浅田のクラインの壺を扱ったような感じだ。山形はそれが本質な問題ではないことを承知で冗談のトーンでやっているが、ネットを見渡すとそういう受け止めはなく、山形的なるものと浅田的なるものフレームに簡素化されてしまいがちだ。かく言う私もその弊害を促進したきらいがあるので言えた義理ではないだろう。後者については、「従軍慰安婦」的な問題だ。最初にイデオロギーありきだ。そこに求められるのは、「極東ブログ」は戦後民主主義派かどうかの踏み絵があるばかりだ。それをきちんと体当たりしている小林よしのりはその点で偉いと思うが、私はちと退屈な気がする。
 問題は私の側にも多い。人の関心のありそうな話題につい色気を出してしまうのだ。まぁ、ある面、ブログを書くのは自分のエンタテイメントでもあるので、そう禁欲的にもなれない。
 気取った言い方もしれないが、私はあまり自嘲せず私のブログの読者を見つめるべきだろうし、ジャーナリズムとは異なる情報の提供をすべきかとも思う。リファラーを見る限り、セレブレックスなどの情報でこのブログを参照されているかたも多い。

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西尾幹二というオタク

 たまたま買った「諸君」2003.12に西尾幹二の「江戸のダイナミズム」という連載があり、読む気もなかったのだが、読んで驚いた。ひど過ぎるのである。間違い箇所を指摘するということができないほど、抜本的に間違っている。そして、この間違いかたは、自分でも意外だったのだが、センター試験以降の世代と同じに思えた。個々の知識はむしろ正しい。偏差値は高いだろうな。…もちろん、そういう言い方は杜撰すぎるのだが、なんとも奇妙な感じだ。
 西尾幹二については「国民の歴史」でずっこけてしまったことがあるので、この人はぜんぜん歴史というものがわからない人だなと思ったものだった。当然、読むのも苦痛なので読まないのだが、今回連載の一部を読んでみて、唖然としてしまった。こう言うほどたいした知識が自分にあるわけでもないだが、西尾幹二は体系性のない知識の羅列を都合よく組み立てているのだ。まるで根幹がわかっていない。儒教と儒学の差もわかっていないようだし、「義理」の「理」の意味もわかっていない。「理」という漢字の字面から「理性」の「理」と解しているようだ。なぜこんな情けないことになっているのかと考えたのだが、西尾幹二はまず易の素養がないのだろうな。易がわからなくては中華思想はわからないと断言してもいいほどなのに。
 中華思想はさておき、ほとんど腰を抜かしたのは、「葉隠」をテロリストの思想だというくだりである。


 やはりテロリストの思想というべきでしょうか。戦国時代から離れ、平和がづついてかえってこういう思想が生まれたと考えるべきでしょう。

 まいったな、とほほだな。絶句するな。しかし、物は考えようでテロリストの思想と評価されても、もし現代に山本常朝がいたならびくともしないだろう。
 そういえば、9.11について吉本隆明はあれをテロだということで単純に否定しなかった。彼は、あれが日本人なら関係ない乗客を降ろしてから実行しただろうと言っている。私などはそれだけでわかる。吉本隆明もだから根は軍国少年と言われるのだろう。とほほであるな。吉本隆明は9.11がいけないのは、つきつめれば非戦闘員を巻き込んだことだ(だから日本人被害者にも着目している)。とはいえ、非戦闘員を巻き込まないテロなどないといわれればギャフンだな。
 いずれにせよ、「テロは絶対悪である。日本軍の行動は絶対悪である。…。」これらがクレドになってしまっているのだ。西尾幹二ですらそうなのだ。
 なにも「テロだって悪ではない」とか「日本軍の行動を肯定する」ということでは全然ない。そういうことでは全然ないのだ、と言って、まったく通じない時代になったのかもしれないし、そう言うことが空しいだけで、「葉隠」の思想は生きているのかもしれない。「生きるべきか死ぬべきか」という状況が迫られたとき、あらゆる思考は「生」によってかたどられるのだから、自由は死の選択の行動にしかない…そうでなければ武士ではない。武士である必要などないが武士という生き方(倫理)はそうするしかない。確かにアナクロニズムの極みか…とほほ。
 とほほとか言ってもしかたない。また、こういうことはうまく言葉に尽くせないものかもしれない。

[コメント]
# shibu 『葉隠に関して、「閉じ込め」についてNHK教育でやってましたですね。講座名が「武士道」だったかな?確か最初の頃は「葉隠」自体についても少し解説していたような。ただ、絵柄が講義者の後ろに鎧兜なんか配してしまったりして、あらら?な雰囲気でしたが、中身はどうして極めて説得的だった記憶です。外地なので手元に何も無いのが残念ですが...』

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