« 2003年11月9日 - 2003年11月15日 | トップページ | 2003年11月23日 - 2003年11月29日 »

2003.11.22

さらに再び電子メールは憲法で保護されているか

 我ながらしつこいなと思う。別に反論があったから浮き立っているわけではないが、どうも問題意識が理解されにくいのか、いや、こんな話に興味を持つ人は日本人はいねーかもなというダブルバインドなオブセッションになってしまった。ま、いいや、また新たに、さらに書く。
 気が付くともうけっこう古い話になるのかぁなのだが、1995年のこと、あ、1996年1月か、「FLMASK事件」または「BEKKOAME事件」というのがあった。BEKKOAMEという当時格安のプロバイダーでモロ出しのモロ部にマスクかけたのをアップしていた高校生と会社員がいきなしとっつかまった。BEKKOAMEも家宅捜索。で、当局はメールサーバーを押収しようとした。ぼっちゃり顔の尾崎社長もさすがにひきつって、そりゃないっしょと抵抗したのだが、さて抵抗は通ったのだったか。いずれにせよ、メールサーバーって押収できるのか?と思って、私は当時調べた。その時の結論は、電子メールは憲法の通信に該当しないらしいということだった。まさかと思ったのだが、あれは、「信書」じゃないらしい。どうやら、憲法のいう通信は、郵政管理下のものに限定されるようだな、ということだった。それでなるほど、宅配物も手紙を入れてはいけないのかと。
 ほいで、昨日、プロバイダー規制法の流れを見て、時代が変わったな、政府も一応電子メールを信書に次ぐものぐらいに認識しているかと思った。とこで、反論もあり、その反論への応答も書いた。
 率直にいうと、なんとも腑に落ちないのだ。ので、さらに書く。すでにネット上には残っていないようだが、日経インターネット・テクノロジー小松原健記者が次のように書いていた。


 社員の電子メールのチェックは,まず日本国憲法の21条2項「検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない」に反するのでは,という疑問が出てくる。しかし,この憲法は,国や地方公共団体などの公権力と私人の間の関係を規定しているというのが一般的な理解であるという。したがって,社員と会社という私人同士の関係には,通信の秘密などは適用されない。電子メールは基本的に,会社の業務として会社の施設を使用してやりとりするため,プライバシの侵害にもあたらない。

 前半は昨日の反論と同じで、どうっていうことはない。ま、そういう思考法に流れてしまうのだろうというのはわからないではない。だが、そうすると、この後半が帰結されてしまう。つまり、社員と会社という私人同士の関係には,通信の秘密などは適用されない、ということだ。たしかに、会社業務の電子メールはそうかとも思うし、こじれた夫婦関係の電子メールチェックなどはそれでいいだろう。よかねーか。
 で、私の念頭にあったのは、メールサーバーどうなの? サーバー管理者は公権力と私人の間の関係? で、これについては、大筋で昨日の元の話のように、そりゃだめよ~んとなりそうだ。
 だがな、そうかぁ?はつきまとう。そこが腑に落ちない点だ。
 ちょっと法律議論めくのだが、電子メールっていうのは「信書」か? それなら、違反者は「信書開封罪」(刑法133条)の適用もありだ。が、信書ってのは、郵便法によると「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書をいう」で、どうも、電子メールっていのは「文書(書面)」じゃねーよってことになっているらしい。阿呆かとも思うが。

第五条 (事業の独占)
 公社以外の者は、何人も、郵便の業務を業とし、また、公社の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、公社が、契約により公社のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
 2  公社(契約により公社のため郵便の業務の一部を行う者を含む。)以外の者は、何人も、他人の信書(特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書をいう。以下同じ。)の送達を業としてはならない。二以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
 3  運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
 4  何人も、第二項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書(同項但書に掲げるものを除く。)の送達を委託してはならない

 ちと余談だが、詳細は忘れた以前猥褻画像としてハードディスクが特定されるかという問題もあり、「そりゃねーべさ、データっていうのは物じゃないからな、物だったら、おれたちわざわざラインプリンターでソースコードの納品なんてするわけねーじゃん」と昔のSEだったオレは思ったのだが、どうも判決は珍妙なことになった。
 話を戻す。信書の送達業が独占というのは宅配の問題に絡む。ま、それはさておき、いずれにせよ。電子メールは信書ではない。
 ほいで、信書ではなくても、憲法のいう「通信の秘密」は守られるかだが、くどいが守られるようだ、が昨日の話。その場合の守りは、電気通信事業法によるわけで、それが憲法に由来するということで、めでたしめでたし、かぁ?なのだが、よーするに、電子メールは「電話」と同じということなのだろう。というあたりで、どうもなんだか変だ。トリビアの泉で「電子メールは手紙ではなく電話である」と言われたとして、へぇ~ボタンを押す手が固まってしまう。
 話をわざとらに紛糾させたいわけではないが、もう一つ重要な側面がある。エッジ株式会社の「電子メール管理による防止策の提案(2003.11.13)」(参照)というコラムを読むと、何が問題かはぼわーんとわかってもらえるかもしれない。

1●メールの監視による問題の防止
 さて、電子メールによる〈問題〉の防止には、メッセージフィルタ+アーカイブツールによる監視が有効であることは前回までにご説明したとおりです。この連載の初回にご紹介したように、エアーでは、WISE Auditというメッセージのフィルタとアーカイブが同時に可能なツールを販売していますが、このようなツールを有効に利用し〈問題〉を防止するためには、運用上のいくつかのルール〈ポリシー〉を決めておく必要があります。〈ポリシー〉を持たずに電子メールの監視を行うと、無用な混乱を招く恐れがありますので注意が必要です。
 まず、定めておかなければならないことは、電子メールの監視を行うことを利用者に認めてもらうことです。一般に電気通信は法で言う「信書」の性格があるものと考えられており、電子メールの利用者もプライバシーを期待しています。しかしながら、電子メールやインターネットの構造から言って「信書」並みのプライバシーは期待できません。また、業務目的の設備であるため、会社=管理者に監督責任が存在します。しかし利用者が認めないまま監視を行うと「検閲行為」となりプライバシーの侵害等の違法行為となってしまう危険があります。

 軽く書いてあるが、「電子メールの監視を行うことを利用者に認めてもらうこと」それでいいのかぁ~!である。
 もっと重要なのは、「しかしながら、電子メールやインターネットの構造から言って『信書』並みのプライバシーは期待できません。」にある、現状の電子メールの構造の問題だ。エッジ株式会社では、信書=プライバシーとしているが、それはちょっと論点が違う。PGPとかをマストでプロトコルに組み入れればいい。むしろ、問題なのは、PGPとかをメール構造に組み入れると、「電子メールによる〈問題〉の防止には、メッセージフィルタ+アーカイブツールによる監視が」無効になってしまうことだ。
 どうする? といいつつ、現状ではSPAM Assassinとかすでに動いていて、ロボット監視になっている。ま、同意は取っているとはいえ、それいいのか?
 話が紛糾したので、まとめておこう。

  • 電子メールはメールとあるがメール(手紙)ではない
  • 手紙は日本国家が独占している
  • 「通信の秘密」は電子メールの場合、電気通信事業法によって守られるが、信書開封罪など刑罰対象にならない(やり得かも)
  • 電子メールの閲覧は会社業務という名目あれば行ってもいい
  • 「電子メールは構造的にプライバシーが組み込めないぞぉ」という風説が流れて出している
  • 電子メールにプライバシーを組み入れると、SPAM排除などなにかと困ることにもなる

 で、社会問題としてどうする? ま、どうにもならんか。従来の葉書や封書でも事実上通信は丸見えだったし、やはりそういう前提の上に通信の秘密が成り立っている。
 むしろ、電子メールは信書じゃないよ、という視点を推進して、スパム問題なども解決したほうがいいかもね(一種の「出版」概念に近づける)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イスタンブル・テロの話なのだが…失敗

 今朝は毎日新聞を除き各紙社説がトルコのテロを扱っていた。大きな事件だと言えないこともないし、社説向きの事件なのかもしれないが、あえて社説で扱うべきだったのか多少疑問が残る。各紙社説が同日横並びというのも変な感じだ。なにより内容も似たり寄ったりなので、各紙社説とも特に読むべき内容がない。あまりに単細胞なのだ。「テロだ大変だ。トルコのユダヤ教会だ。大変だ」というくらいの話に尾ひれがついたようなものだ。不思議なのだが、各紙ともにトルコについて詳しい人間はいるだろうに、なぜ社説の執筆者はそういう人の話をじっくり聞いて書くということをしないのだろうか。社内にいないのなら、外部に聞いてもいいだろう。今年の日本はトルコ年だった。そんなこともあまり知られていないような気がする。
 話は些細なことになるが、アルカイダを「アル・カーイダ」と表記する読売まで含めてイスタンブルを「イスタンブール」というように「ブ」の後に音引きを入れて表記している。表記の問題は所詮決めごとだし、日本の慣例に従うのがいいので、殊更に「間違いだ」などという気はさらさらない。だが、この表記はトルコの原音ではない。原音では音引きなしの「イスタンブル」に近い。逆に「ブール」と音引きを入れる意義と由来がはっきりしない。久保田早紀の歌「異邦人」の影響なのだろうか(庄野真代の「飛んでイスタンブール」でした)。どうでもいいがこの歌もリメークしていのを聞いて驚いた。作家池澤夏樹は昨年イスタンブルに滞在していて、現地から週刊文春の書評なども送っていた。池澤はさすがに「イスタンブル」と表記していた。署名原稿の強みだろうか。さらに些細なことかもしれないが、ギリシアではイスタンブルとは呼ばない。依然、コンスタチノープルである。個人的な話だが、サロニカに滞在していてふと国境沿いの地図を見ていて気が付いた。余所の国の代表都市名がその自国表記ではないのだ。なぜかという理由は余談が過ぎるので割愛するが、ムスタファ・ケマル・パシャ(アタチュルク)が生まれたのもサロニカだ(聖書のテサロニキである)。なお、当たり前過ぎる話だが、トルコの首都はイスタンブルではなく内陸のアンカラだ。なぜアンカラかの話も割愛する。が、こうした話は日本人の基礎教養であるべきだなとも思う。余談のような話が長くなったが、日本のトルコ情報はけっこう音引きイスタンブール的な状況だ。日本の知識人はトルコに関心がないためだろうが、この無関心さは、たぶんヨーロッパのトルコ人差別の影響があるように思われる。知識人の視点が欧米中心すぎるのだ。
 今回の自爆テロで、ブッシュは21日「トルコも新たな前線になった」とほざいている。また、毎日新聞ニュースで見かけたのだが現地トルコでは「なぜ同じイスラム教徒がテロの犠牲になったのか」との声もあるそうだ。解説してみたいのだが、どこからどう話していいのかどうも自分が混乱する。前提が膨大過ぎるようにも思えるし、端的に言えないものかも思う。
 まず、ブッシュの言明だが、毎度道化回しにして申し訳ないが田中宇的にいうと、このテロのおかげでトルコが米国陣営に着きやすくなったのだから、裏の動きは米国内部にあるのではないか…冗談である。ただ、そういう影響はある。また、トルコはイスラム教国なのだが、イスラム圏の常識でいうと「諸悪の根元はトルコ」なのだ。これが日本ではブラックジョークとして通用しないのだが、いずれにせよトルコはイスラム圏では異質に見られている。トルコの宗派は90%以上がスンニ。クルド人(クルディアン)もスンニと言っていいだろう。イラク北部のクルド人も同じだが、南部はシーア派が多い。人口比ではシーア派のほうが60%を越える。ちなみにフセインはスンニだが、イランはシーア派。というか、シーア派とはイランだといってもいいくらいだ。イランのシーア派は革命の中心でもあり、日本人の原理主義のイメージに近い。だが、トルコも民衆も90年代以降イスラム原理主義に傾いているが、この原理主義はシーア派のそれとはかなり違う。むしろ、宗教による互助会的な運動だ。いいことじゃないかとすら思えるのだが、トルコという国の中枢はケマル以降の歴史を引きずって未だに軍部が幅をきかしているし、基本的に同様にケマルの伝統から脱宗教的な建前をもっている。エリート達は実に欧米的だし、これは言うにはばかられるのだが、ツラを見てもわかるのだ。
 トルコを難しくしているのは、これにさらにクルド人問題が絡むからだ。日本の知識人はどうもなんとなくクルド人びいきなのだが、この問題は複雑怪奇になっている。どう手を付けていいのかわからない。ザザ人など端から無視される。なにより、イスタンブルの生活をかいま見れば、通常言われている以上にクルディアンが住み着いていることに気が付くはずだ。それはもう中国の盲流のようなものにも近い。統計が存在していないのだが、クルディアンの大半は実はトルコの都市部に生息しているのではないだろうか。また、イラク北部のクルディアンともすでに歴史が離れすぎて同一民族だといっても修復不可能な事態になっている。これはどう見ても、クルド人問題はクルドを突出させるよりも、トルコの民主化・近代化のながれで解消するしかないだろう。
 嗚呼。ちょっとここで書くの止める。全然まとまっていない。難しすぎるのだ。イスタンブルの旧市街の構造なども触れたほうがいいか、まさか…。なんだか偉そうな言い方になるが、この件についての欧米の言論や日本の知識人のコメントがまるでトンチキなことが多いのだ、どうも一筋縄ではいかない。
 めちゃくちゃついでに最後の余談だが、いつもくさしてごめんよの田中宇だが「イラク日記(5)シーア派の聖地」(参照)のなかのシーア派の考察はなかなかいい。彼が考え至ったのだろうか、なにかも孫引きかわからないが、シーア派分派についてはさておき、以下の指摘は基本的にいい。


ややこしい教義の話から書き出してしまい恐縮だが、私はこの日、カズミヤ廟モスクを訪れたことがきっかけで「シーア派とは何か」ということをしばらく考え続けることになった。
 私なりの答えは「シーア派の中心は、古代以来の信仰を持っていたメソポタミア文明やペルシャ帝国の人々で、彼らがイスラム教に集団改宗する過程で、昔からの宗教の教義や哲学をイスラム教の枠内で再解釈しなければならなくなり、もともとのアラビア半島のイスラム教(スンニ派)とは違う分派となった」というものだ。シーア派が多いのはイラクのほか、イラン、アゼルバイジャンなどで、いずれもイスラム教が発祥する前にメソポタミアを支配していたペルシャ帝国の諸王朝の領土だった。

 もっとも、田中宇が田中宇的な文体で言うまでもなく、そんなことは、新藤悦子の「チャドルの下から見たホメイニの国」を読めばわかることでもある。ま、読んでないのかも。とリンクを張ろうして気が付いた、これ絶版だよ! 文庫になってないのか。おーい、新潮、復刻しろ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.11.21

再考・電子メールは憲法で保護されているか」は変な議論か

 今日のブログ「電子メールは憲法で保護されているか」について、はてな内に反論があり、興味深かった。仮に「雑記さん」しておく。で、雑記さん、反論、ありがとさん、である。参照は「通信の秘密に関する疑問」(参照)だ。
 Googleなどでこのページに来られたかたは、このかたの意見も参考にして、各人が考えていただきたい。
 さて、私はその反論をどう受け止めたかというと、実は雑記さんの説明に釈然としていない。もっとも、それにさらなる反論を持っているわけでもない。「わからーん」ということを以下に書いておきたい。
 その前に、まず、ほぉなるほどなと思ったのは、雑記さんの「極東ブログの記事は憲法上の議論と法律上の議論が混乱しているように思える」ということで、その混乱は、「通常、憲法上の権利は、公権力に対する関係でのみ問題となり、私人に対する関係ではいわゆる『間接適用』が問題となるに過ぎない。」という点を私が理解していなかったという点にあるらしい。
 前回憲法前文の試訳をしたおり念頭に置いていたのが、憲法というのは、マグナカルタの歴史からもわかるように、日本国民が政府権力に歯止めをかけるためのものだ。なので、当然、憲法は公権力との関係で問題となる、というのは、わかるのだが…。
 だが、わからないなと思うのは、ブログ本文で宅配の例題問題をあげたが、雑記さんの「通信の秘密に関する疑問」で問題が解けていないのは、なぜなのだろうか。
 たぶん、「これに対して、『通信の秘密』の場合、公権力は勿論、私人であっても『通信事業者』に対しては、憲法が直接適用されるとされるのである。」という点が重要になるはずだ。ということは、結局、この問題については、実質的には憲法と諸法の区別をしたからといって、議論として有効ではない、と言えるのではないだろうか。
 加えて、この問題の解けなさかげんは、国の郵政業務の制限に関わるはずなのだが、その点への言及が、雑記さんにはない。そうではなく、私が「通信」の原義に投げかけた疑問は、雑記さんの説明では、超越的に、あたりきしゃりきの前提になっている。それでいいのだろうか。こだわるようだが、実は、今回のブログを書いていたおり、スパムメールは出版と考えられないかとも思っていたので、原義に帰らないとスパムメールなどの問題も解けなくなる。
 ちょっとくどいが、電子メールについて、雑記さんの次の解説は、そーなのかぁ?と疑問に思う。


憲法21条2項の趣旨から考えても明らかである。それこそ、明治憲法26条の「信書ノ秘密」に関する大審院判決に照らしても保護されるであろう。憲法の英文原典を持ち出すまでもない。

 私だって、「憲法21条2項の趣旨から考えても明らかである」と思いたいのだが、そうではないかもと思えたことがあったので今回書いてみたわけだ。そして、この点の理解の補助の比喩としたのが宅配の例だ。同じ事がメールサーバーになされたときどうなのか。
 話がちとくどいが、私の言う「電子メールをもし誰かが閲覧したとしても、その閲覧者は秘密を守らなくてはいけないということだ。」に対して、雑記さんは、次のように指摘される。

「誰か」というのだから、この「誰か」とは、全くの一般人を含むのであろう。そうだとすると、この議論が成り立つには、憲法21条2項が純然たる私人に適用されることを前提としなければならない。
 しかし、一般にはそのように解されていないし、そのように解するとすると、前半の宅配業者に関する議論と整合しない。やはり、この議論も、おかしいと言わざるを得ないであろう。

 素朴に疑問に思うのだが、メールサーバーの管理者と宅配業者は同位置に立たされるのではないか。とすると、この問題は、「これに対して、『通信の秘密』の場合、公権力は勿論、私人であっても『通信事業者』に対しては、憲法が直接適用されるとされるのである。」と同じ話になるのだから、やはり問題は、まるで解けてないように思える。とすれば、私の疑問は、依然、私の単なる混乱による、とも言えないのではないか。
 とま、ための反論や議論がしたいわけではまるでない。私は私で、この問題がすっきり納得できればいいなと思うだけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

南の国のシュパーゲル

南の国のシュパーゲル
 丸井の地下で白アスパラガスが売っていた。なんで?と思ってみたら、オーストラリア産である。南半球はこれから水着のサンタさんの季節なのだ。なるほどねと思って買って食ったが。それほどうまくない。今の日本の季節で食うものでもないのか。それにしても、国産の白アスパラガスもたいしてうまくない。オーストラリア産もこの程度。なのに、ドイツの直輸入ものはうまいんだよな。種類が違うのか。

地方交付税問題がわからん
 今朝の新聞各紙社説は曖昧な印象を受けた。最初からまともに社会問題を議論するのかわからんような産経や朝日はさておき、日経が取り上げていた「避けて通れない地方交付税改革」は重要な話題だ。だが、よくわからない。


だから47都道府県のうち32の県で地方税収より交付税の受取額のほうが多い。地方税の2倍、3倍を受け取っている県も珍しくない。市町村では歳入の大半が交付税という例もある。「財源が足りない」では済まされない状況である。何をもって「足りない」というかを究明すべきだろう。
 遅まきながら、財務省も歳出総額の費目別見直しに着手したようである。交付税を所管する総務省も自治体も高い次元に立って見直しに参加してほしい。

 「何をもって足りないというかを究明すべきだろう」って言ってもなぁ、おまえさんその言及だけなら床屋談義だよ。日本経済新聞なのだから、もうちょっときちんと言って欲しいものだ。
 かく言う私はこりゃ地方の問題だよと思うけど、全体のパースペクティブがわからない。

家畜に耐性菌
 NHKのニュースからだが、食肉用の家畜に耐性菌広がっているらしい。食肉用の牛や豚、鶏の79%が抗生物質が効かない耐性菌を持っているとのこと。それって直接人間に影響があるのか? それと同ニュースで気になったのだが、畜産の現場では治療や成長促進などに人間の2倍以上の抗生物質が使われているとのこと。成長促進の抗生物質ってなんだ?とも思うが、日本の畜産は問題の巣窟っぽい。それと、いずれにせよ自然界に撒かれた抗生物質は人間に跳ね返ってくるのだが…。

模造品の購入はいけない?
 NHKのニュースからだが、特許庁はブランドの模造品を買わないように、テレビ、インターネット、ポスターでも呼びかけるというのだが、なんとも不愉快。模造品がいけないのは、ブランド業者の利益を守るためで、しいては産業のルールを守ることになるのだが、一義的には消費者の問題ではない。税関できちんと取り締まればいいだけのことで、くだらん金使うなよ特許庁と思う。そうでなくても特許事務の遅れのほうをなんとかしろ。

リンボーに資金洗浄疑惑
 CNNから。これは以前のヴァイコディン話の補足だ。リンボーに資金洗浄疑惑が出ている。リンボーとかぎらずみんなやっているのだろうな。日本でも例えば、○○隊長とか。

トランス脂肪酸の話題
 ロイターヘルスにトランス脂肪酸の話題があったが、特に新しいインフォはない。ラベリングについても2006年まで。ちと気の長い話だ。それでも今回の話題では、米国油脂メーカーのシフトが理解できた。それに比べて、日本! サイテーだ。とくにサイテーなのが、「買ってはいけない」系の食品メーカーだ。トランス脂肪酸が野放しなのだ。なにがアトピー問題だよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

電子メールは憲法で保護されているか

 4日前のネタなのだが、17日のZD Net Newsの「『プロバイダ責任制限法』に残る、これだけの課題」を読みながら、以前にも疑問に思ったことを思い出した。端的に言えば、電子メールというのは通信に含まれるのだろうかということだ。が、端的過ぎて、かえって疑問がわかりにくいだろう。背景を含めると、憲法21条2項の通信の秘密が電子メールに適用されるのかということだ。
 以前調べたおりは、憲法の通信の秘密が適用されるのは当時の郵政省(現在総務省に統括)スネールメールだけだった。現状はどうだろうか。ZD Net Newsを読むと、そうでもなさそうなので、少し珍妙な思いがした。
 この問題は複雑怪奇だという印象を持っている。例えば、宅配便の規制だ。現状では、法律上は宅配物に手紙を入れてはいけない。知ってましたか?と、知っていてどうとなるものでもない話だ。仮に宅急便で送る物に封書を入れておいたとする。どうなるか? これは憲法でいう通信の秘密によって守られてはいない。じゃ、開けていいものか?と、考えれば考えるほど変な話になる。
 以前考えたのは、憲法の通信の秘密とはいつでも国家権力が秘密を破れるからこそ、建前上というか権利概念としてのみ文言となっているのではないかということだ。なにせ、ポストカード(葉書)に至っては丸見えだ。見えても「黙っていないなさい」ということだ。封書もこっそり開けたらこっそり糊で封しなさい、と。
 ちなみに、憲法を読み直す。まず英文を読まないと日本の憲法は理解しづらい。原典はこうだ。


Article 21:
(1)Freedom of assembly and association as well as speech,
press and all other forms of expression are guaranteed.
(2)No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of
any means of communication be violated.

 現状の訳文はこうだ。

第21条 【集会・結社・表現の自由、通信の秘密】
 (1) 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 (2) 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 時代もあるのかもしれないが現代なら誤訳と言っていい。pressは「出版」じゃなくて「報道」だ。同様に、communicationを通信とするのは、なんだかなであるが、いずれにせよcommunicationの原義を考えるなら、電子メールが該当しないわけはない。でもそれなら、宅急便に手紙を忍ばせてもそれを見てはならないことにならないか。まぁ、そんなこと言ってもしかたないか。
 話をZD Net News戻すのだが、今回あれれ?と思ったのは、この記事では、電子メールが特定電気通信には含まれないというのは謎だとしている。謎なのか? 記事では、総務省によるプロバイダ責任制限法の逐条解説を挙げ、第2条1号の「不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信の送信」が「多数の者に宛てて同時に送信される形態での電子メールの送信も、1対1の通信が多数集合したものにすぎず、『特定電気通信』には含まれない」 というは変だというのだ。
 そうか? もちろん、記事全体の意図がわからないわけではない。いわゆるマルチメールは通常のメールじゃないよとしたいのだろう。個人的にはあれは出版だと思うが、しかし、当面は私の疑問に戻る。つまり、一人に宛てた通常の電子メールは憲法で保護されるところの郵便(通信)に該当するのかだ。
 というわけで、その資料の原文を取り寄せてみた(参照PDF)。該当箇所はこうだ。どうでもいいが下手糞なPDFだ。総務省にはまともにAcrobatを使えるやつはいないのか。

 インターネット上のウェブページ、電子掲示板等は、電気通信の一形態ではあるが、不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信(=有線、無線その他の電磁的方式により、符号、音響又は受けること(電気通信事業法(昭和59年法律第86号)第2条第1号))の送信であることから、このような形態で送信される電気通信を通信概念から切り出し、「特定電気通信」としたものである。電子メール等の1対1の通信は、「特定電気通信」には含まれない。なお、多数の者に宛てて同時に送信される形態での電子メールの送信も、1対1の通信が多数集合したものにすぎず、「特定電気通信」には含まれない。

 なにを言っているのか今ひとつわらかんのだが、とにかく、1対1の電子メールは「特定電気通信」には含まれないことはわかる。同様にマルチメールも「特定電気通信」ではない。
 で? 要するに、電子メールは憲法による通信の秘密で守られているのか?
 どうも私の以前の憶測は間違っていたようだ。プロバイダ責任制限法についての議論を見ていると、電子メールが「特定電気通信」には含まれないために、発信者情報の開示請求ができないというは、逆に言うと通信の秘密は守られているわけだ。電子メールをもし誰かが閲覧したとしても、その閲覧者は秘密を守らなくてはいけないということだ。
 当たり前すぎてつまんねー話になってしまったが、個人的にはちと腑に落ちたので良しとしたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.11.20

サイバラ離婚、米原万里さんの病気

 雑記という分類を作った。雑記である。ブログらしいブログになるかも、ね、である。ザッパー向けでもある。ま、いいや。
 サイバラ(西原理恵子)の離婚が気になって「新潮45」を買う。離婚について触れた柳美里との対談がある。あんまし面白くないのだが、こりゃ、まぁ、アル中治せよ離婚かなと思った。男と女の別れっつうものでもないのか。ま、そのあたりの機微はわからんのだが、ネットに鴨ちゃんのサイトをめっけた。「鴨のひとりごと」だ。
 不謹慎だが、面白い。男の内側の感覚がよくわかる(セミの鳴き声2003.11.7号)。


「精神科医から聞いたの。私達は共依存なんですって。一緒にいてもだめになるばかりなの。添え木が二本よりかかり合っているだけなの」
 ひざをポンとたたき、
 「わかった。別れよう」
 そこから耳が聞こえなくなった。
 担当氏と彼女が今後の具体的な話をしているのを、他人事のように、二人の顔を交互に見つめるばかりであった。

 ああ、そういうことってある。耳が聞こえないのだ。私の経験では音は聞こえるのだがね。耳は聞こえません。
 次のシーンは切なくて目頭が熱くなる(小さくても、ジャガイモくらい一つください 2003.11.11号)。

映画が終わり、薄暗くなった早稲田の街を彼女と歩く。
 「たんたんとした、いい映画だったわね」
 彼女はつぶやき、ちらりと横目でこちらを見つめると、どんな顔をしていたのだろう、そっと手を握って来て、
 「ごはん、一緒に食べて帰りましょうね」
 と夕食にさそってくれた。
 手を引いてくれる彼女。

 話変わって、週刊文春の書評欄で米原万里さんの病気を知る。うーん、そうだったのか。1950年生まれというから、53歳か。55歳にはなっていなかったのだかぁ。とま、まだまだお元気そうだ。今のお考えでは、抗がん剤の利用は難しいのだろうな。
 そういえば、NHKの「わたしはあきらめない」の西城秀樹の話はよかった。後遺症はやはりあるのだろう。途中、西条が涙ぐんでしまうシーンがあるのだが、もしかするとあれは後遺症かもとも思った。たまにしか見ないのだが、どうもこの番組は、いままでヤナやつだなと思っていた人間を好きにさせてしまうところがある。織田裕二も嫌いではなくなった。例外は高橋惠子だろうか。なんか嘘こいているなという感じがしたのだ。

[コメント]
# rucha 『こんにちは。実は今、時間感覚を喪失しているため、挨拶が適当でなければお許し下さい。貴方がはてなダイアリーに書いていてくださることに、本当に勇気が出ます。』
# rucha 『私ははてなダイアリーで真面目に論じる勇気がありませんでした。でもがんばります。だから、貴方も適当にがんばってください。適当の意味は、あなたならわかってくれると信じます。』
# レス>ruchaさん 『なんとなく「適当」ってわかります。誤解かもしれません。私的な話のブログのなかに喉まで突き刺さってあえて書かないことがいくつかあります。でも、特定の用語だけはずして結局書いているのでわかる人にはわかる、というか、そういう理解があれば嬉しいですね。とても。』

| | コメント (1) | トラックバック (0)

トラジ、トラジ

 今週の日本版ニューズウィーク11.26のカバーは「コリアンジャパニーズ」。リードは「自然体で生きる『ニュー在日』が日本をもっとヒップにする」とある。少し期待したのだが、内容はあまり面白くなかった。この手の韓国ネタは、海外移住話と同じでニューズウィーク日本版が毎年行う吉例ネタのようだ。ルーティーンでしかたなくやっているだけの企画なのだろう。
 へぇ~ボタンを叩くような話はなにもない。が、読みながら、大筋で現在、帰化という意味合いがだいぶ変わってきたのだろうとは思う。言語や国という縛りを大げさに考えなければ、「在日」は現代日本の文化的なヴァーサティリティの一つになっていく。ヴァーサティリティって言い方はないか。
 誰が読むとわからないブログを書き続けていると、どうしても文章というものは自分の内面に向くので、あまり禁欲的にはいかなくなるのだが、在日朝鮮人のことを思いながら、では自分の文化背景はどうなのかと思った。私はという人間は、長野県の文化と沖縄の文化に強烈に影響を受けているのだが、それに加えて、父から朝鮮の文化の影響も受けてきたようだ。亡き父と自分を重ね合わせて考えられるほどの歳になってみると、彼が10歳から20歳まで過ごした朝鮮の文化は不思議と自分のなかに伝えられていることに気がつく。父は五木寛之より歳上だが同じく「引き揚げ者」だった。この言葉もおそらくセンター試験以降の世代には死語になっているだろう。現代風に言えば、彼は朝鮮文化のなかで育った帰国子女だった。私は父とそれほど話をした記憶はないし、その性格や行動のパタンは私とは違うのだが、茶碗(抹茶茶碗)の好みなど高麗や李朝ばかりだ。自分の美観はなぜかそこに行き着く。
 私という人間は受動的に長野県、沖縄、朝鮮に機縁を持たされてきた。と書きながら、「長野県」をある種のエスニシティの扱いにするのは奇妙な印象を与えるかもしれない。もちろん大阪や四国、九州や東北、こうした地方都市や地方に独特の文化性があり、「長野県」もそうした類例の一つに過ぎないということは頭ではわかる。だが実感としては「長野県」の文化は、この歳になってみると、なんとも日本のようで日本ではない不思議なカルチャーだと思えてくる。そういう思いを客観めかして主張したいという意図はさらさらない。ただ自分の実感を極言すれば、長野県、つまり信濃の国は日本の文化から離れている。沖縄も日本ではないと思うが、海のない県と海に囲まれた県に日本文化から離れる類似性もある。なぜかどちらも長寿県だなとも「うちあたい(内心納得)」する。そうした奇妙な思いをうまく表現できる自信もないのだが、ちょっと書いておきたい気がする話がある。トラジだ。
 前振り話ばかりが長くなってしまったが、そんなことを思ったのは最近トラジを買ったせいだ。コチュジャン漬けである(そういえば、私は刺身にコチュジャンを漬けて食べることも多い)。たまたま国立の紀ノ国屋に寄った際、キムチの試食を薦められた。瓶詰めものほどひどい味でもないが、それほど美味しくはない。どうでもいいキムチだなと思ったとき、ふとチャンジャに気が付いた。そういえば、最近見かけなかった。いつの間にか自分の行動パタンが変わっていきてる。歌舞伎町のハレルヤ食堂で飯をかっくらっていた自分はどこに行ってしまったのだろうか。紀ノ国屋のチャンジャの味はそれほどでもないだが、衝動買いした。チャンジャについてはここではこれ以上書かないが、チャンジャを食いながら何か心にひっかかる。トラジだ。トラジはどこで売っている? 売ってないわけはあるまいと思ったが、歌舞伎町に行くより、ネットで注文した。
 日本版ニューズウィーク11.26の「食文化 焼肉を発明した在日のソウル 1世が生み出し、3世が発展させた焼肉カルチャー」にはトラジの名前が唐突に出てくる。恵比寿の焼き肉屋の名前らしい。読んでいて、あれ?という感じがした。「トラジ」はなんの陰影もなく店舗名として書かれていたからだ。トラジといったら、その独特の響きを文章に織り込むべきじゃないのかと思った。しかし今回のカバーストーリーは書き飛ばしなのだろう。焼き肉は「食道園」が発祥であるかように曖昧に書いてあるのだが、清香園ではなかったか。
 「トラジ」と聞いてセンター試験以降の世代になにか響くものはあるだろうか。在日朝鮮人ならわかると思うが、若い二世、三世になるとキムチも食べなくなるというから、わからないこともあるかもしれない。在日朝鮮人や韓国人がキムチを食べる量が減っているとも聞く。不思議でもない。日本人など味噌汁の味噌の味すら忘れているのだから。
 トラジは桔梗のことだ。私が育った家の庭には、他の家と違って、信州の鬼百合と桔梗があった。桔梗はあの美しい花を咲かせるのに、子供の私はいたずらでその淡い色の蕾をぶしゅっとつぶしたものだ。
 トラジは民謡の題から桔梗の花を指すと言っていいのだが、私がネットで買ったのはその根だ。トラジはあく抜きによって風味が違うのだが、どれもコリっとした独自の食感があって面白い。ナムルに入れることもあるが、最近トラジ入りのナムルっていうのは見かけない。
 ネットで取り寄せたトラジをつまみながら、父を思い起こす。野山が恵む味だ。そういえば、小学生のころ父とトトキを取りに行ったことがあった。トトキは茎を折れば白い汁がでるのだと父は言った。あの時、結局トトキは見つからなかった。トトキとはどんなものだったのだろう? トラジと似たようなものだろうか。
 ぐぐってみると、興味深い話があった。滋賀県立大学鄭大聲教授のエッセイ「朝鮮の食を科学する〈20〉―山でうまいものはトドック」だ(参照)。


 日本に住む朝鮮人の中で、とりわけ1世が、故郷をなつかしみながら好んで食べる山菜にトドック(希幾=ツルニンジン)がある。
 日本人の食生活とはかかわり合いがないので、2世、3世になれば、その名前も知らない人が多い。しかし、これもトラジと同様、朝鮮の山野に多く分布し、古くから食用とされて来たし、日本にも多く自生しているので、自然から求めるという点では、トラジよりはるかにたやすい。

 そして、次の話で驚いた。

 トラジと同じ桔梗科に属する植物で、しかもよく似た草根でありながら、一方でトラジが朝鮮でも日本でも食されるのに対し、食味からいえばむしろはるかに美味なこのトドックを食べる風習がなぜか日本にはない。
 ただ信州地方に行くとトドキと呼ぶ食べ物がある。語呂から考えるとトドックの訛ったものと考えても決しておかしくない。最初このことに筆者が気づいた時には、朝鮮語のトドックをそのまま発音したものではないかとすら思った。なぜならこの食べ物がトドックと非常によく似ているからである。

 鄭教授はトドキと書かれているが、他にぐぐってみると、自分の記憶のままトトキで良さそうだ。それにしても、トトキを食べる風習は朝鮮のトドックに関連しているのだろうか。父は朝鮮でトドックを食べていたのだろうか、それとも信州の伝統食として知っていたのだろうか。死んだ父は答えてくれないのだが、父の日本人ずれした感じからすれば、朝鮮で食べていたようにも思う。
 連想ゲームのようだが、信州では蚕の繭も食べる。ポンテギと同じじゃないかと思う。偶然なのだろうか。古代史をひもとけば、天武天皇に纏わる伝説が信州に多く、あの時代の渡来人文化が信州と関係があったのかもしれない。
 食べるほうのトラジは桔梗の根だが、これは漢方薬でもある。サムゲタンに朝鮮人参を入れるように医食同源の発想によるものだ。
 桔梗根は喘息にもよい。父も祖父も老年になって喘息に悩まされたが、トラジを食べていたらよかったのかもしれない。祖父は龍角散をよく舐めていたが、この和薬はキキョウとニンジンを配合したものだ。ニンジンはたぶん竹節人参だろう。だが、最近、龍角散の処方を見るとニンジンは含まれていない。私の記憶違いだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

視聴率が問題なのではない。ザッピングが問題なのだ。

 日本テレビのプロデューサーによる視聴率操作問題を日経新聞社説を除いて各紙が扱っていたが、どうもピンとこない。以前も書いたが、そんなことがどうして問題になるのか皆目わからない。朝日新聞社説は「日テレ事件 ― 感覚がずれている」でこう言う。


テレビ局って感覚がずれてるなあ。日本テレビのプロデューサーが視聴率を買収した事件のその後を見て、そう思う。

 おい、感覚がずれているのはおまえさんだよ、とつっこみを入れてしまった。こんなことも書いている。

 くだらない番組が増えた。テレビの常識は世間の非常識。そんな批判に素直に耳を傾け、普通の感覚を取り戻すことだ。視聴者の目は厳しい。
 視聴率だけに縛られずに良い番組を作ろう。そんなかけ声で制作現場を元気づけ、広告主の支持もとりつける。日本テレビは、その先頭に立ってほしい

 「番組」を「社説」に、「テレビ」を「新聞」に、「視聴率」を「時代遅れの社会正義」に書き換えて、最後に「日本テレビ」を「朝日新聞」に書き換えたいなと思う。読売新聞なら、「視聴率」を「発行部数」にすればいい。
 それにしても、なぜ新聞はこれほどこの問題にご執心なのだろうか。そして、その論評はどれもほとんど変わりない。どれも判を押したように視聴率が問題だというのだが、そうなのだろうか。毎日新聞社説は少しひねってこう言う。

 視聴率以外の有効な質的評価基準を確立するのは、一テレビ局の取り組みだけでは不可能である。CM取引の尺度としては視聴率以外に客観性をそなえた基準がない現状で、新たな別の尺度を意味のあるものとするには民放界全体の取り組みが欠かせない。それは民放の新たなビジネスモデルの模索をも意味する。

 後半がおちゃらけているが、要するに、やっぱ視聴率以外の手はないじゃんということになる。そして、この手の議論はNHKって存在価値があるという補強にしかならない。そういえば、「あすを読む」でもこの問題を扱っていたが、新聞社説よりは面白かった。単に視聴率至上主義で片づけるのではなく、テレビ視聴率変遷を背景に捕らえていた。知らないことがいくつもあった。
 ひとつは、70年代はTBS、80年代はフジテレビ、90年代は日テレなのだ。グラフがあった。ほほぉと思った。テレ朝とテレ東か下位を粛々と進めていた。ふと、だからテレ東でイチバチの平成仮面ライダーができたのかとも思ったが、そのグラフを見ながら、自分がかつてテレビを見ていた時代の感覚にあっているとも思った。
 二つ目は、ザッピングを扱っていた。ぼんやりと聞いてたのだが、ザッピングの統計を見てはっとした。ザッピング(zapping)だが、元になるzapの意味はちょっと古い辞書には載っていない。心配になってgooの辞書を見たがあった。「素早く動く; リモコンでチャンネルをかえる, ビデオのコマーシャルを早送りする」とある。後半のほうの意味は「あすを読む」では触れていなかったし、今回の日テレ事件でも私が見た範囲では誰も話題にすらしていなかった。まるでタブーであるかのようだ。だが、コマーシャルカットは重要だと思う。話を戻して、「あすを読む」ではザッピングによって番組の固定的な視聴率が得られなくなったというグラフを表していた。テレビをじっと見ていないのである。そういえば、私が子供のころは、テレビのチャンネル回すなぁとか、兄弟でチャンネル争いということがあった。いつからかなくなった。ようするに、テレビリモコンがここまで日常生活を変えていのだ。ちょっと感動すらした。私も若干技術に関わるものなので自戒するが、技術に関わる人間は、新三種の神器みたいないつも最先端の技術に関心を奪われがちなのだが、実際に大衆の行動様式を決定的に変える技術とは、テレビリモコンだったりするのだ。
 三つ目はザッピングによって、番組制作がマーケティング主導になったようだ。いわゆる番組マーケティングだ。番組中の視聴率が分析できるので、どこが面白いということがわかる。そこで、ウケ部分が制作側にフィードバックされるのである。おかげで、番組の時間帯が奇妙に前シフトという事態にもなる。ちなみに、これも日テレが始めたこと。
 「あすを読む」では10分枠ながら他にも興味深い指摘があったが、こうして書きながら考察してみると、今回の日テレ事件のキーワードは「視聴率」ではなくて、「ザッピング」なのだ思い至った。私が念頭にあるのは、インターネットだ。ネットもまた、ザッピング文化なのだ。ヤコブ・ニールセンが情報採餌理論とか提唱しているのと関連しているかもしれないが、ネット閲覧の行動パターンはまさにザッピングだ。
 もう少し踏み込むと、ブログというのはザッピング用にできているのだ。
 そう考えると、極東ブログなど、ブログじゃねーな。ザップして、うへぇっていう印象を与えるからな。とま、つい自嘲なオチになるのは慎もう。現代人とザッピングの問題はけっこう根深い。宮台真司は経済学用語をぱくって恋愛に過剰流動性なんていうけど、流動性じゃない、ザッピングなのだ。人間の関係が情報化されたことで、ザッピングの対象となっているのだし、「出会い系」ってなものは、人間のザッピングのためのリモコンなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2003.11.19

在韓米軍基地移転の裏が読めない

 今朝は目立ったニュースはない。もちろん、考えなくてはいけないことは多いのだが、現在の日本にはある種の麻痺感が漂い、新聞各紙社説にもそれが反映する。しかたがない面はある。朝日新聞社説が取り上げていた「武富士事件 ― 本当に個人の犯罪か」は、皮相だった。もう一歩も二歩も深い問題があるだろう。銀行がマチ金化した現在、この手の問題にはタブーが多いのだろうか。市民団体も被害者救済以外には動いていないように見える。毎日新聞社説「原発コスト試算 経済的優位性には頼れない」はなさけない。もともと原発は経済性の問題ではないのだ。毎日は浅薄な反核団体だったか。日経新聞社説「特別会計の抜本改革に踏み出すとき」は日経なんだからもう少し踏み込んで欲しい。塩爺のコメントの域を脱していないじゃないか。もう一点、日経らしくもない「虐待される子を迅速に救え」は高校生の作文のような感じだ。ジャーナリズムじゃない。子供の虐待の問題は表層でも深層でも難しい問題が多い。

 さて、今日の話題は在韓米軍の問題だ。このところ気になっていたがまとまって書いてこなかった。ブログとしては「はてな村」や麻薬などのウケのいい話でウケを狙っていてもしかたない。
 冒頭に情けない告白をするのだが、私は韓国通ではないこともあって、韓国の国情がよくわからない。特にわからなくなったなと思うのは、盧武鉉が大統領に選出されてからだ。率直に言って、本気なのか君たちと思った。それまでの私の理解では、韓国は日本と同じように、表向きの言論と実際の大衆の政治的な心情は反転しているといっていいほどひっくり返っていた。だから、表向きの運動を見つつ、大衆の情感を表すディテールに目配せすれば、大筋で韓国政情を読み誤ることはなかった。日本の大衆意識だって、単純な話、建前の朝日新聞とその反転の実状があると理解すれば大筋で間違いはない。
 金大中前大統領もわかりづらい人ではない。もともと日本語も達者だし、内心では日本の良さの面もよく理解していた。近代タイプのアジア人だ。太陽政策もこの人なら独自の陰影があった。北朝鮮に渡した金だってそう非難されるだけのものでもあるまい。だが、盧武鉉大統領となるとわからない。率直にまるでわからないと言ってもいい。なにより、この人を支持した韓国の大衆意識がわからなくなってしまった。もちろん、韓国人が北朝鮮との間に強い民族同一の意識を持つのはわからないではない。北朝鮮の美女に鼻の下を伸ばすのもわからないではない。しかし、徹底的にわからないのは、金正日にある種の誇りを持つこともあるらしいということだ。どうでもいいが一太郎は「きんせいじつ」では変換しないで「きむじょんいる」で変換するのか。なんだか情けない話でもある。「りしょうばん」も「ぼくせいき」も変換しないだ。いったいどこの国の日本語変換なのやら。
 前振りが長すぎるが、端的なところ、私が知りたいのは、韓国人の在韓米軍意識だ。恐らく在沖米軍と同じような状況にあるのだろうと思っていたのだが、わからない。沖縄の場合は直接的な危機がないのに対して、韓国ではもっと差し迫ったものがあるはずなのに。
 このわからなさは、インターネットで韓国の新聞が読めるようになっても、まるで変わらない。有名紙は日本語版もあるし、NAVERを使えばたどたどしいながらも原文の論説が読める。なのにわからない。
 具体的な話に絞ろう。ラムズフェルドは17日韓国国防部曺永吉(チョ・ヨンギル)長官と第35回韓米安保定例会議(SCM)を行ったのだが、物別れになっている。中央日報によればこうだ(参照)。


今回の会議で、米側は竜山基地残留部隊の敷地として28万坪を韓国側が提供しなければ、国連司令部(UNC)と韓米連合司令部(CFC)を烏山(オサン)、平沢(ピョンテック)に移したいとの立場を繰り返し表明し、およそ10万坪の案を固守した韓国側との隔たりを狭められなかった。
 これによって両国は、当初、年内確定を目指していた「未来韓米同盟政策構想」の協議を来年まで延長することを決め、06年まで烏山・平沢に移転するとしていた竜山基地移転の推進日程がやや不確実になる見通しとなった。

 単純に読めば、米軍は竜山基地残留部隊用に広大な土地を要求したが、韓国が断ったののだから、結果として在韓米軍の縮小を意図しているかのようだ。だが、この結果、烏山・平沢に移転はちゃらになり、「未来韓米同盟政策構想」まで頓挫しかねない。
 地理感がないと、こうしたニュースはわかりづらいだろうが、竜山(ヨンサン)はソウル中心とも言えるが、烏山・平沢はソウルから55キロ南下する。その程度の距離なら南下とも言えないほどかもしれないが、戦禍が推定される非武装地帯(DMZ)からは離れる上、北朝鮮からの攻撃のタイミングによってはソウルは悲惨な事態になりうる。ソウル市民にとって、この後退ともいえる米軍のシフトが戦時にはどういう意味を持つのか、そこがよくわからない。当然推測だが、恐らくそうした事態に米軍は韓国国民を盾にして米兵を守ろうとしているのではないだろうか。DMZにいる米陸軍第二歩兵師団も南下するとの推測もある。
 烏山・平沢では移転される基地について反対運動があることは理解しやすいが、韓国国民全体がこの事態をどう考えているのかよくわからない。悪く言えば、米軍の退却とも言える南下を阻止したいのかもしれない。また、南下することで生まれるDMZ側の手薄な地域やソウルの防戦は韓国軍が当てられることになるのは疑いない。
 日本国内でも国防については大きく意見が割れる。韓国でも割れるとしても不思議はない。だが、どこかに本音があるはずだし、そのあたりを大統領たるものは熟知しているものだと、思いたい。だが、盧武鉉という人間が私にはまるでわからない。今回の信任騒ぎを見ていると、頭の中は空っぽなのではないか。
 こういう感想を言ってはいけないのかもしれないが、もはや米軍はかつての朝鮮戦争のように韓国を死守しないだろう。いずれ北朝鮮に勝ち目のある戦争は起きない。戦時は、北朝鮮の自滅を意味する。難民は日本にも流れ出るだろうが、それよりも韓国の被害は大きくなるだろう。もちろん、北朝鮮を追いつめてはいけないのだ、ということはわかる。だが、火遊びの幻想を抱かせるような威嚇は必須だ。それと同時に自暴へと追いつめないために、冷静に圧力をかけ、かつ暴発を抑える準備は必要になる。米軍なしで、それが可能なのだとは到底思えない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.11.18

再考・はてな村とくるみの木 リターンズ

 自堕落な私ではあるが、この手の話題は実は避けてきた。でも。ま、事はほぼ歴史の領域に移管されたと見ていいので、歴史家のはしくれで私としては、そのことをここに記そうと思う。っていうのは嘘です。私は歴史家じゃないです。
 話は端的なところ、hirokiazuma.com@はてなの顛末。のっけから余談だが、この日記の存在を知ったのは、はてなのMAP機能によってだ。はてなは、この日記と極東ブログの関係が深いというのだ。私はそうとは思えないんけどね。ことは、先日の大月隆寛のくさしエッセイにも出てきた東浩紀のはてな日記が、17日をもって停止となった(業界人なので敬称は省略)という話。停止の理由は、元ネタを見てもらえばわかると言いたいところだが、滅菌済み、もはや現場の状況はわからんのだ。
 私が理解する限り、当面のことの次第はこうだ。11月12日に東が「『少年深夜外出』に親への罰則規定、横浜市が提案へ」というネタを振ったところ。はてなが真似ているところのtDiaryのつっこみ機能で、みなさん、つっこむべし!つっこむべし!つっこむべし!ということになり、2ちゃんねる化してしまったのだ。祭りだ。
 ネタは、横浜市が少年深夜外出に対して親への罰則規定提案をするってんだけどそれってひどいんじゃないですかってな振り。虻がよってきそうな蜜の味だ。つい、俺っちもちっと言いたいじゃないですか、ってな気持ちにさせる。そして、率直に言えば、俺っちだってゆーめー人とタメはりたいじゃないですかってな思いも、うふふふだろう。とばっくれて書いたものの、このブログでも過去にこっそりビニールに包んでうんこ投げたのできれい事は言えない…さておき、ま、そんなところで、祭りに収拾が付かなくなる。
 で、16日「告知」(←ちょっとこの言葉のセンスはスゴイと思う)で、つっこみことコメント機能をはてなユーザーに限定。さらに17日に停止とあいなる。以下は、引用しておこう。


はてなユーザだけの書き込みに制限したのですが、面倒は続きそうです。まあ、それはそれで適当にさばいていけば何とかなるのですが、コメント欄でも指摘されたようにはてなユーザ限定の日記というのは僕が普段言っていることと矛盾する気がするし、、、、というか、さらに正確には、そんな非難もどうでもよくて、単にそういうツッコミにいちいち反応して、コメント欄をチェックしなければならない自分にウンザリしてきたので、昨日の今日の方針転換ですが、この日記への書き込みはしばらく停止します。同時にコメント欄も閉鎖します。以前のコメント欄が見れなくなるのは残念ですが、これははてなの仕様なので仕方ありません。

 ここで遠隔からうんこ投げのようなつっこみを入れるってのなぁと思うので、それは避けておく。うんこが自分に跳ね返ってくる部分もあるしね。例えば「僕が普段言っていることと矛盾する」というのは実名で書くと、そーなるよね、である。
 ただ、このブログでわざわざと取り上げたのは、「同時にコメント欄も閉鎖します。以前のコメント欄が見れなくなるのは残念ですが、これははてなの仕様なので仕方ありません。」は、そうなのかなと思う。確かに、コメント欄を放置すれば、祭りは宇宙のエントロピーが最大値になるまで続くだろうというのはわからないでもない。いずれにせよ結果的に他者の言葉はあっさりと殺戮された。こういう言い方は誤解を招きやすいのだが「人の書いたことを許可なく消すのは許せん」っていうのじゃない。それは、一種、編集権の問題だろうと思うしね。そうじゃなくて、他者の言葉への恐れのようなものについての一種の感慨だ(*1)。
 別の言い方をすると、書くという行為は自己を疎外する。外化するわけだ。それは自分自身でもコピーでもない。一種の現象だとも言える。そして、この手の祭りも同じ現象なのではないか。そういう現象の生成運動に対して、「自分」という特権をするりと出してくるという感性に、私はとても違和感を持つ。「バカは相手にしない」という問題とは別にしてだね。
 と書いても、こういう私の見解はあまり理解されないだろうし、まして、同じ問題が今日自分のブログに降りかかってこないとも限らない。具体的に、このブログで祭りが始まったらどうするのか? できるだけ自分の顔にきちんとぶち当たったうんこはぬぐわないようにしよう、そして道に落ちたうんこはぬぐおう、つまり、編集しようかなと思う。自分を守るのは極力止めようとは思う。が、祭りになっちまうとそうもいかないだろう。とりあえず、つっこみははてなユーザーに限定というあたりか。実際問題としては、今回のケースは著名人ブログ対無名人という構図はあるし、旧メディア対ブログという構図もないとは言えない。
 さて、と、もう一つ気になることがある。ブログというものをどう捕らえるかだ。もう一箇所、16日のhirokiazuma.com@はてなから引用する。

読者のみなさんも何となく気づいていたと思いますが、実はこの数週間、僕は日記の方針を変えていました。モスコミューンとか文学フリマとか、仲間内のネタ(当然自覚はありましたよ、そりゃ)を回しているあいだは居心地がよかったこの日記ですが、さて、内容が政治的になったり理論的になったりするとどうなるものなのか、いくつか観測気球を飛ばしてみたのです。結果として、込み入った議論には向かないし、荒れるときは荒れるという欠点が分かったので、今後の方向性をしばらく考えてみます。基本的にははてなで続けるつもりですが、別のシステムでも実験してみるべきかもしれません。結局MTを採用するような予感もします(笑)。

 私は何を気にしているか? tDiaryとMTって機能的にそんな差はないっすよ。PerlとRubyのくらいです、ってな技術系の話はHTMLの理解すら苦手そうな東に突っ込むのはどうかと思うが、それでも「込み入った議論には向かないし、荒れるときは荒れるという欠点が分かった」という点は、そうなんだろうかね。単純に否定しているわけではないし、否定はできないというのがむしろ前提だろう。気にしているのは「理論的」は私にはどうでもいいことだが、「政治的」な発言についだ。それがはてなに向かない、という結論は、私は当面否定したいなと思う。と、ガラにもない話題を書いたのは、政治的な発言に向かないという言葉は、汎用的に結果的におそらく私にも投げかけられているのだから、それに答えておこうと思った次第だ。私たち市民はこの日本の社会を変えて行かなくならない。その方策は言葉にしかない。その言葉の可能性はとりあえず、愚直に探求されてもいいものだろう。
 再度、顧みて思うのは、極東ブログの著者は匿名だし、無名だということの要因は大きい。課題となるなら、書かれたもの、書かれた現象、ということをどう捕らえるかになるだろう。我ながらつまんない話だな。でも、横浜市が少年深夜外出に対して親への罰則規定するってな話題は私にはつまらない。ま、そういう話題の棲み分けっつうことだけかもしれない。

注記
*1:追記11.29:既存のコメントに限ってはダウンロードでき、まったく消されたわけではないので、この指摘はあまり正確ではなかったかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

11月18日のランチ・アラカルト

 IP電話話が長かったので、小ネタのアラカルトはこちらにガーベッジコレクションしておこう。

このところの株安
 日経新聞社説「『ミニバブル』調整下の株安」では、このところの株安はそれほどどってことないと言いたいらしい。


 東京市場で17日、株安、円安が急速に進んだ。一部でイラク情勢に絡み、日本の地政学的リスクを懸念した動きとの指摘もあるが、基本はミニバブルの調整という市場の内部要因だろう。市場関係者は株価の下げを深刻には受け止めていない。

 ホントかなぁ。市場関係者って、「ガイジン」ってルビを振るのだけどね。

イラク派兵問題
 日経社説「イラク統治に苦闘するブッシュ政権」だと、派兵に賛成なのか。ほほぉ。


イラク人への円滑な主権移譲は中東の安定に寄与し、ひいては日本の国益にも通じる。そのために自衛隊派遣などを含め日本が貢献することは当然であろう。

 でも、論理が破綻しまくっている。日本の貢献=派兵かね。

年金改革
 朝日社説「厚労省の年金改革案 ― 超党派でさらなる改革を」は長いんだけど、内容はゼロ。という点で、読売、毎日、産経など他の社説も同じ。朝日が「保険料の引き上げは必要だ」としていのはマシかなくらい。ちなみに朝日の「超党派」ってなんだと思うけど、民主党に任せろっていうことだろうな。ずばり、そう言えばいいのに。「はてなダイアリー」をなにげに見ていると、共通一次試験世代以降が多いせいか、年金なんて、あの糞な団塊の世代の醜いオタオタくらいにしか見ていない。そういうことのほうが問題なと思うな。みなさんも年はとるのだよ。年金なんてカンケーないっていうのは若気の問題だと思うぜ。

臓器移植
 なぜか産経が「臓器移植 法律の早期改正が不可欠」として臓器移植問題を扱っていた。結語はトホホ。


家族はその場に立たされると、動転してパニックを起こしかねない。臓器を提供する意思がある人は、家族にその思いを伝え、意思表示カードに記入しておくことが大切である。

 トホホじゃすまされないよな。でも、どうしていいのか皆目わからない。率直いうと、私は臓器移植はイヤだ。

日本の亀の6割が外来種
 NHKのニュースから。そっかぁと思う。最近、猿沢池に行ってないがどうなっているのだろうか。外来種が増えることもだが、在来種の混血も進んでいるらしい。雑種というのはしかたがないではすまされない、というのは我々の環境変化が強いているのだから。なんか、亀には感情移入があって悲しくなります。

セルビア大統領選成立せず
 NHKニュースから。そりゃそうだろうな。セルビア人、びびっているというより、悪いことしたなんて思ってもいないものな。ビルマも民主化とかしたら同じようになるのかも。

タイム誌によれば旧フセイン勢力が組織化
 おおっつ、田中宇の奇抜なストリーが実際化しているのかぁ…なんて思いませぬように。ニュースとエンタテイメントは分けて考えませう。

台湾苗栗県の爆竹工場で爆発5人死亡
 NHKニュースから。そっかぁというか個人的には関心あるんだけどね、ブログネタ?

デジタル放送不正録画防止へ
 NHKニュースから。「テレビの地上デジタル放送では受信機に差し込んだカードで一度しか録画できないシステムを導入」のこと。デジタル放送なんて成功しないよ。頭を冷やせ。

オペラ歌手のパバロッティさん来月にも再婚へ
 ポールマッカートニーといい、男ってやつはですね。パバロッティってリゴレットの悪玉の適役ですよね。

小ウィンドウポップアップは特許違反というお笑い
 embedタグ(objectタグか?)問題がらみだかしらないけど、(有)バーセル研究所は笑える。負けるな、頑張れ、孫社長、もっと大きな笑いを取るんだ!

 でも、実際の特許を読むとなかなか含蓄が深い。例えば、以下。いったい、いつの時代の話なのでせうか。


【発明の属する技術分野】インターネットのホームページ又はwebサイトで利用する方法であって、大きな画像データを転送するために発生する待ち時間を解消するための割込みファイルwebサイトの設定方法に関する。

 特許を読むと乱数で選んだ画像がなんたらとあるが、サンプルコードは以下のごとし。

<HTML><HEAD><TITLE> </TITLE>
<SCRIPT LANGUAGE="JavaScript">
function naoW(str){
if (str!="close"){
naoWin=window.open(str,"nao","resizable=yes,scrollbars=yes,
menubar=no,status=no,directories=no,
location=yes,toolbar=no,width=400, height=300" );
}
else{ naoWin.close(); //C部分
} }
naoW("nao/nao1.htm"); //子ウィンドウの指定
if (navigator.appVersion.lastIndexOf('2.0') == -1)
naoWin.focus();
</script>
</HEAD>
<body onload="naoEnd()"> //B部分
<SCRIPT LANGUAGE="JavaScript">
naoW(); //A部分
</SCRIPT>
//ここから下に一般のHTMLを記述します。<br>
<img SRC="gazou_MAX.gif" >
</body></HTML>

 ま、スラッシュドットあたりのネタですね。私の出る幕じゃないので、おしまひ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読売新聞社説のIP電話の説明は大間違い

 今朝は、大きな話題がうっとおしいので、ブログにありがちな細かいネタのアラカルトにしようかなと思った、通常は軽い小ネタがブログなんだろうから。しかし、IP電話なんていう小ネタが実際長くなってしまったのでこれで1本まとめる。
 読売新聞社説「IP電話 通信の世代交代は止められぬが」は、おおっ柄にもないこと書いて墓穴掘るだろうなという期待を満足させていただきました。という点で、とりあえず、ごちそうさまです。


一般家庭でIP電話に加入するには、ソフトバンクBB、NTTコミュニケーションズ、KDDIといったサービス会社と契約する必要がある。
 通常は光ファイバーやADSL(非対称デジタル加入者線)の利用料、インターネット接続サービス料とのセットで、月四千円前後の固定料金がかかる。
 しかし、通話料は、同一グループのIP電話間では無料、国内の固定電話向けで三分七・五―八円、米国向け国際電話で一分二・五―九円という安さだ。

 この話、前提がとち狂っている。「一般家庭でIP電話に加入するには」って、話が逆。IP網が常接になっているから、ほいじゃ電話も統合すべぇという話なのだよ、読売さん。だから、さらに金がかかるってなご心配はご無用。
 爆笑は、「通話料は…」のくだり、IP電話は料金が安いといいたいのでしょうが、阿呆か。奥さん家計簿つけたことないのぉ、のしょぼい突っ込みを入れたくなる。「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」と味噌糞にしているが、通常の家庭の電話利用は市内が大半だ。
 なんだか、むかついてきたぞぉ。庶民を騙すんじゃねぇぞ!なのだ。平成15年10月23日(木)発表のこの資料を読んで貰いたい。「【別紙】 固定電話からIP電話(050番号)への通話サービス提供料金」。俺様が間違っているっていうご指摘は大歓迎だが、どう見たって、IP電話から一般のNTT固定電話にかけるには3分10円以上かかっている。
 読売は「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」、だから安いと言いいのだろうけど、頭を冷やせ、考えろ、読売! 逆にだね、固定電話からIP電話にかけると10円なのだよ。おまえさんら、人様に迷惑をかけるようなヤツは金輪際承知しねって教わってこなかったのか。
 それに実際の大衆の家庭で利用されている市内通話に限れば、東西NTTのマイラインプラスなら3分8.5円だし、これにエリアプラスをちと加えれば5分8.5円になるのだ。詳しい話はちゃんとデータを元にシミュレーションしなくちゃいけないが、市外通話だってマイランの各種サービスでディスカウントされるされるからその頻度で採算ラインを出せば、IP電話なんてものには魅力はないのだ。そういえば、第一、おまえさんがたマスコミはマイラインについてきちんと説明もしてこなった。
 このあたり、ちょっとルール違反だが、ビジネスマンの東山櫻を出すとだ、以上のように読売を一喝したものの、恐らく、IP電話化には、それほどデメリットはない。ビジネス感覚でいうなら、読売くらいはだませても、ビジネスマンはだませないから、現状のIP電話のコストは通常の固定電話のコストとバランスするように料金設定されているはずだし、大衆家庭ではないなら、IP電話にメリットは若干でるだろうと思う。
 だが、新聞というのは社会の公器でなくてはいけない。特に読売新聞は大衆紙ではないか。その大衆にIP電話はどういうメリットがあるのかきちんと書かなくていけない。デスクだか上部のチェックの爺にわからない話を書くなら、きちんと裏を取って書く気構えが必要だ。少なくても、IP電話は一般大衆家庭に負担を強いるシステムであることを言明しなくてはいけない。東西NTTにやつあたりしてもいいが、大衆の側に立て、新聞、特に読売新聞!
 読売新聞社説ではIP電話のありふれたデメリットにこう触れる。

 ただし、一部のサービスを除いて、110番などの緊急通報ができない。通話の安定性や音質なども、まだ固定電話に一日の長がある。

 110番ができないということは、大衆家庭にどういう意味を持つのかまるでわかっていない。コモンキャリアっていうのは、キャリアのコモン(一般性)ではなく、このコモンにはコモンウェルス(国富)の語感があるのだ。
 引用は長くなるだが、以下の結語に至る読売新聞社説の論述はサイテーだ。

 問題は、IP電話が都市部を中心に展開されており、過疎地では固定電話に依存せざるを得ない状況が続くことだ。
 NTTの東西地域会社は全国一律の電話サービスを維持する義務を負っているが、それにはIP電話は含まれない。
 IP電話と携帯電話に挟撃され、固定電話の通信量は急減している。NTT東西も設備投資の重点を、IP系のサービスに移しつつある。数年後には固定電話網の機能が大きく低下しかねない。
 どうやって固定電話からIP電話への世代交代を円滑に進めるか。官民が協力して、検討を始める時期だ。

 違うだろ。話はここでも逆だ。なんども極東ブログで扱ってきたが、今日本で問題なのは地方なのだ。日本の地方はこれからどんどん取り残されていく。IP電話なんか普及しないよという前提に立つほうがマシなのだ。少なくとも普及の予想がオンスケージュールで見えない状態でコモンキャリアを変動したら危険だ。
 最後にくどいが言う。「どうやって固定電話からIP電話への世代交代を円滑に進めるか」だとぉ、しかし、私はそれが円滑に行かないようにこうして努力しているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.11.17

「どこに日本の州兵はいるのか!」

 今朝になって読売新聞と毎日新聞が市町村合併についての社説を出していた。なーんだ結局各紙ともに扱うことになり、要するに読売と毎日が一番日和ったわけだ。社説読みの些細な面白さである。で、内容だが、日和見さんにハラが座っているわけもないで、さしてどういうことはない話だ。2紙ともに知事の機能を重視しているが、一見まっとうな議論のように見えて、逃げだ。なぜ逃げか?すでにこのブログで書いたようにこの問題の基底には日本の都市民の問題があるからだ。他、今朝も目立った話題はない。話題がないわけではないが、私の間違いかもしれないが、年金改革や道路公団問題、イラク問題、どれも思考停止的な状況になっているようだ。このブログでは露骨な意見が多いので、前段に戻ってもなぁという感じはある。

 今日は「州兵」についてメモしておきたい。なにかと他人の無知を罵倒しまくるこのブログではあるが、私は州兵について十分知識を持っていない。恥ずかしいことだと思う。が、ちとぐぐってみても、あれまというくらい州兵についての基本情報はないようだ。一太郎でも「しゅうへい」で「州兵」が変換しないので、この機に登録したほどだ。
 なぜ州兵の話題なのか? 単純である。イラクに米国州兵が投入されているからだ。で、それがなぜ話題?という背景を書くためのメモが今日のブログである。標題はたまたまぐぐって見つかった言葉だ。阪神大震災のおり、神戸在住のイギリス人ピーター・E・フィリップスさんの意見(参照)があった。彼はこう書いている。ちと長いが前段の一部も含める。


 自治体の災害対策は不合理なまでに楽観的な仮定に基づいていた。神戸市は震度5以上の地震を想定していなかったし、すべての道路、鉄道、電話が引き続き利用でき、その災害対策スタッフが全員活動できる計画しか持っていなかった。今回の地震は予想の倍もの被害を出し、ほとんどの幹部が動けなかったし、交通は寸断され、コミュニケーションはとぎれてしまった。
 (中略)
 全般的かつ継続的に印象的だったのは、民間防衛隊や軍隊が全く存在しない状況で、動揺や犯罪や暴動もなく、水や食料を何時間も整然と並んで待つ人々の冷静さであった。CNNのクルーは私に、「どこに日本の州兵はいるのか!」と、たずねた。アメリカ合衆国では災害時に、州兵(ナショナル・ガード)が、救援と治安維持のために素早く派遣される。

 阪神大震災のような自然災害のとき、米人なら「州兵はどこにいるのか!」と叫ぶのだろう。州兵とはそのような存在なのだということがよくわかる。「州兵」は英語でNational Guard。ぐぐってみると、「ナショナルガード」でとんちきな検索結果も出る。「州兵」も「ナショナルガード」も日本語ではこなれていない。直訳すれば、「国の守り」になる。歴史感覚のある日本人なら沖縄戦の響きがあるが、センター試験以降の世代には語感もないだろう。国(ネーション)なのになぜか州(ステーツ)を連想せる言葉として「州兵」と訳されているのか、訳語の歴史はわからないが、州兵は米国の各州がもつ志願制の治安維持組織だという意味を込めているのだろう。こんなところにも日本人が「国」(ネーション)と「国」(ステート)の差異を理解していないことが現れているのかもしれない。日本国憲法ですら、原語のネーションとステーツの訳分けはされておらず、私が調べたかぎりでは日本の憲法学者も不問としていた。州兵は州から出されるがその兵はネーションのために存在している。
 こうした「州兵」に相当する国家の機能を考慮すると、日本人の感覚なら「自衛隊はまだか!」となるのだろう。阪神大震災のときでも、多くの日本人がメディアを介して自衛隊はまだかと思ったに違いない。その背景で、在日米軍が支援に手を出そうしたことを知る人は少ない。やや余談めくかもしれないが、阪神大震災は天災だったが、あの時の国政はまさに天災を上回る人災だった。世間では今ですら村山富市を好好爺に見ているが私はこの爺は刑事訴追して死ぬまで豚箱に入れるべきだと思っている。国家的な犯罪人だという判断にためらいはない。保守新党は解党されたのでこのページも消えてしまうのだろうが、「新進党阪神大震災現地対策本部長」(参照)は歴史資料として保管してもらいたいと思う。新進党「国土・交通政策担当」の二階俊博の手記ともいえる。ちと長く話が散漫になるのを恐れるがこのページが消えることを懸念して引用する。

一月二十日、通常国会が招集された。二階は、衆議院本会議で新進党の代表として「兵庫県南部地震」についての緊急質疑に立った。
 二階の「地震を知ったのは、いつか」という質問に対し、村山首相が答えた。
「この地震災害の発生直後の午前六時過ぎのテレビで、まず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして、国土庁等からの情報収集を命じながら、午前七時三十分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展する可能性があるということを承りました……午前十時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりです」
 しかし、地震発生当日の午後零時五十分、村山首相は記者団に対し、「七時半に秘書官から聞いた」とコメントしている。
 二階は思った。
〈七時半に知ったのでは、都合が悪いとでも思ったのか。しかし、それにしても午前六時に知り、午前七時半に報告を受けたというなら、その一時間半、いったい何をやっていたのか。国家の最高責任者としての自覚がなさすぎる……〉
   (中略)
かれのような責任の重大さを村山首相は感じているのか。総理大臣たるもの、国民の生命、財産をおびやかす戦争や災害の発生に対する危機管理は、常に考えていなければならない。ところが、村山首相は、翌十八日の朝八時から呑気に財界人と会食している。
   (中略)
 二階のもとに、被災にあった人の友人と称する人から電話があった。その人は隣の住人と共に生き埋めにあい、懸命に「助けてくれ」と叫び続けた。だが、隣人の声は、三日目にして途絶えた。自分は幸いにして四日目に自衛隊に助け出されたが、あと一日早く救助されれば隣人の命は奪われなかったという。
 二階は地震発生当初、村山首相をはじめ政府与党がもっと機敏に迅速に対応していれば、一〇〇〇人から一五〇〇人の死者は救えたのではないかと思っている。
 しかし、村山首相は自衛隊そのものにこだわった。たしかに自衛隊法には、「自衛隊は知事からの要請がないと出動できない」と記されている。が、自衛隊の最高指揮官は首相である。必要を感じれば、災害対策基本法の百五条に基づく各種の強制的な規制など総理に権限を広く集め、効力のある「緊急災害対策本部」を早急につくれる。そうすれば蔵相の了解なしに予備費の支出もできた。とりあえず、食費などの資金的援助が迅速にできたではないか。

 州兵に話を戻す。手元の小型百科事典マイペディアを見ると、州兵について、「陸軍州兵と空軍州兵とあり,平時は州知事の指揮下に州で起こった天災の救援や暴動の鎮圧などを行なう」との記載がある。確かに州(ステート)レベルでの災害対策という認識でよいのだろうが、現在のネットの情報を見ると、陸軍州兵と空軍州兵についてもう少し詳しい解説が欲しいところだが、率直なところ私にはよくわからない。
 40代以降の人間なら、州兵がベトナム戦争に狩り出されたことを知っているはずだ。マイペディアには「米陸軍・空軍の予備役としての性格をもち,戦時には正規軍に編入され大統領の指揮に従う。」ともある。
 ふと気が付いたのだが、マイペディアでは「戦時」という言葉を使い「有事」を使っていない。私も「有事」という日本語は以前聞かなかった。なにか変だなと思うが、話を続けると、戦時には州兵が正規軍に編入されるとのことだが、このあたりの説明は間違いではないのだろうが、ちと粗雑過ぎるようだ。州によっても違うだろうが、州兵はある意味、ウィークエンドのボランティアのような様相もある。また、若者も多いのは補助金が出るからだ。今回のイラク戦争で米国内で400人近い戦死者を出している(考えてみるとすごいことだ)がそれでも徴兵の必要がないのは、米国の雇用が低迷していることがある。奨学金なども出るようだし、こうした若者が身重の恋人を残して死んでしまうこともあるようだ。ただ、ベトナム戦争を思い出すと、徴兵となれば、病気や州兵応募などは免除の対象になる。州兵として米国本土勤務となれば、海外出兵を避けられるのだが、今回は逆に州兵がイラクの危険地域にかなり投入されている。この様子は日本版ニューズウィーク11.19「ドキュメント 州兵たちを脅かす姿なき敵 泥沼のゲリラ戦に直面させられた州兵の苦労と怒り」に詳しい。州兵を通して、イラク戦争は米国の日常生活と直結しているのだ。と、ふと気が付いたのだが、9.11以降、州兵は国内の厳戒ともいるような防備にあたって組織化が進められていので、派兵も楽だったのかもしれない。
 以上話は散漫になった。州兵と市民軍(国民軍)を意味するmilitiaとの対比や、州兵の歴史的な側面などももう少し記載したほうがいいのだろうが、私自身の不勉強を痛感するので、ここまでとしよう。書いてみて思ったのだが、日本人の自衛隊への期待は本質的に間違っているようだ。むしろ日本にもきちんとしたナショナルガードが必要で、それを自衛隊と組み合わせる必要があるだろう。現在の裁判員制度改革のように、自衛隊にきっちり民間代表を送り込む構造が必要なのだろう。ま、そういう提起が日本の市民から起きることは、金輪際なしのだろうな(絶望)。

[コメント]
# masayama8 『絶望したくもなる気持ちはわかります。そしておそらく本当はまだ望みを託そうとされているのだろうということも勝手に読み取っています。』
# masayama8 『すこし引き伸ばした話をするのですが、制服の警官の方たちや、救急隊、消防隊の「組み合わせ」だけではたりないが、本格的に軍隊的要請までは不要という柔軟性を要する事態が起きる可能性は否定できないでしょう。上記にある大震災の件でもおっしゃるとおりで、日本の識者も常々懸念しておられるところだと思われます。日本に毒ガス系のテロや9.11形式のテロが起きたときには、上記お書きになっておられるような、武力をも備えた救護者が必要になるでしょうね。その方が縦割りでないし、出だしからして迅速でしょうから。スワットやら海兵隊やら州兵やらという細分化は、違憲視される自衛隊の合憲を積極的に認めたうえでの議論に見えるので、忌避されてきたのではないでしょうか・・・。』
# masayama8 『それが巡って、国民の利益を大震災での事後措置の遅さによって結局かなり失わせた。はっきり言えば死なずに済んだ人も殺したということです。このような失態の先例を作ってしまった。あれ以後、対策も練られているかのような話を聞きますが、実際のところどうなのか。今度はテロ形式で何か起きてしまってから、また問題提起ぶるのでしょうかね。そういう後手に回る事を避けるべく違憲か合憲かという話をしているわけですからね。あの大震災の措置の遅さはそれこそ、僕らのコンセンサスのなさの象徴だったとも言えると思います。』
# レス>masayama8 『そうですね、絶望じゃいけないなと思うのですが…。今回また、裏をちとあたってみて、小沢のことをいろいろ思いました。ま、うまくブログには書けないのですが、当面、民主党にちゃんとしてもらうしかないのかな、とも。』

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2003.11.16

[書評]「古の武術」に学ぶ(甲野善紀)

[歴史]「『古の武術』に学ぶ」(甲野善紀)
 まず、今朝の動向。新聞各紙では、今朝になって昨日のブログに書いた市町村合併の話題が日経と産経に見られた。日経は反対意見、産経は賛成。この件については自分の視点から贔屓するわけではないが、産経のほうがまとも。日経は例外をもって議論を進めるなど論理自体破綻している。他、GDP統計の話題はお茶を濁す程度。読売が米国牽引の回復に安住するなと井高にこいているが内容はない。あるわけもない。FTAがお先真っ暗な日本に貿易の活路はなくなっていく。国内需要については問題が錯綜してはいるが、少子化と地方の問題という大枠の構造を視野に入れない限り、新三種の神器といった阿呆な話になる。

 さて、今朝の話題もないので、書評を増やす、と思ったのだが、書評にもならないので、分類は歴史とする。
 「『古の武術』に学ぶ」はまだ正式には書籍化されていない。標題は今NHKでやっている人間講座だ(*1)。テキストはありがちなぺらっとした装丁で販売されている。いずれどっかの出版社から出るだろう。が、書籍としてはあまり面白くないだろう。面白いのは、実際の立ち回りである。とま、それが結論なのだが、その前に簡単に甲野善紀を紹介しておく必要があるか。けっこう有名人なのだが日垣隆も知らなかったみたいだ。はてなではキーワードにもなっているようだが、武術稽古研究会松聲館の主催者とあり、情報が古い(*2)。
 甲野善紀は1949年生れの武術家なのだが、「武術家」ってなんだという疑問はつきまとう。武術の研究家というほうがいいだろう。彼はそこから率直なところ珍妙な理論を作り出すが、そのわりに桑田真澄や末續慎吾(*3)の指導をしても、ちゃんと成果を出す。だもんでその理論はスゴイと思う若者が多いのだが、私はこれは理論ではなく、甲野の特異な人格の影響だ思う。
 甲野善紀については、「自分の頭と身体で考える」(養老孟司共著、PHP研究所)や「古武術に学ぶ身体操法」(岩波書店)など、物書きの世界でも有名だ。先の日垣隆も文藝春秋の記事で知ったようだ。で、私の印象なのだが、胡麻臭ぇなこのオヤジだった。この手のヤカラはいっぱい昔いたもんだよと思っていた。本物かどうかは身のこなしを見ればわかる、と思って、NHKの講座を見た。
 見て、まいりましたね。こりゃ本物だね。なにが本物だと思ったかというと、たぶん、多くの人の視点とは違うと思うのだが、本当の殺人剣を秘めていたからだ。NHKの映像だとちょっとそのあたりぼかしているけど、こりゃすげえ、です。ちゃんと人が殺せる人だなと了解。人殺しの風貌もある。そしてその上で、人を殺さない武道というふうに武道を捕らえている点では、ある意味画期的だ。
 だが、悪く言えば、この人の古武道の理解は完全に間違っているのである。じゃ、テメーの正しい古武道の理解とやらはなにか訊かせてもらおうじゃないか、となるだろう。聞かせてあげよう。本当の古武道とは卑怯の道である。およそ武術も戦術も卑怯の極みでなくてはいけない。日本の武道が孫子かと言われそうだが、兵とは詭道なり、である。


故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。

 武道というのは、まさかこんな立派なおかたが、という人がいきなりうんこを投げるのである。どうもこの手のギャグに最近嵌っているが、いずれにせよ、詭道とは卑怯の限りを尽くすことだ。
 実際私もまた甲野のように古武道の原点に関心をもって自分の感性で調べていったらそんなものだったのだ。基本は、身をかがめて足狙い。それと金玉蹴り。生きるか死ぬかっていうのは、ようするに勝ちゃいいのだ。卑怯こそ最大の戦略。そういうものが本来の武術なのである。甲野の滅菌した古武道は、そういう観点で見ると、おおっそれって卑怯な手ですなぁ、が隠れていている点は喜ばしい。
 卑怯こそ武道の原点だ。で、それからちと矛盾に陥る。武道というのは武家から出るわけだが、武家というのは一種暴力団だ(*4)。当然、組長には風格がなくてはいけない。中世までの武家はそういう暴力団と同じなので、その棟梁にはある種風格が求められてしまう。「われこそは八幡太郎なんたら…」と叫んで戦うのだから、あまり卑怯な真似はおおっぴらにはできない。それに加えて、日頃でもやくざどもを束ねる訓練ってなものもあるので、なんとなくすがすがしい武士道のようなものができる。なお、武道にはあともう一点は海賊があるのだが、これはまたの機会としよう。
 だがだ。甲野善紀も武者修行に言及しているが、いわゆる古武術になると、一人技になる。じゃ、卑怯の極みに戻るかというと、そうじゃない。このあたりだいぶ誤解があるようだが、いわゆる古武術の武道家というのは、市場の演芸人である。大道芸人なのである。宮本武蔵などいかにも武道の達人とか言われているが、大嘘である。あれも芸人。もちろん、命をかけての芸人だ。実際の戦闘には役にもたたない。NHKの講座では、手裏剣の話もよかったが、この卑怯な武具の投げ芸を、甲野はくったくなく楽しそうにやっていた。しかも彼の手裏剣のお師匠さんの話もよかった。芸は一代限りというのがよくわかる。
 考えてもみよ、壬申の乱から源平合戦、そして武田軍団までは基本的な戦闘は騎馬戦なのである(歩兵や海戦もあるがここでは論じない)。そして騎馬戦からすぐに時代は鉄砲に移行するのだ。刀なんか振り回している武士なんてものは歴史上存在しない(*5)。「葉隠」の正しい武士にとって実質の戦力は鉄砲である。最高の武士文学、隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」を読めばわかる。
 話がめちゃくちゃ。なので話を進めて古武術の現代的意義なのだが私はこれは、近代武術と対比でみるのではなく、それ自体で歴史的な終焉を迎えたと考えている。そして、いわゆる芸としての古武術を終わらせたのは、柳生石舟斎だと考える。この石舟斎最大の卑怯技が無刀取りだ。これをもって古武術は終わった。刀、つまり武具を無化するとこで古武術は完成し、終了した。無刀取りは時代劇などでは滑稽な真剣白刃取りとして描かれ、あんなのあるわけねーじゃんと思っていたが、甲野善紀を見ていると、ありうるかもしれないな、と思うようになった。現状の柳生にはもはやこの技は伝承されていないだろう。
 その他、芸事ではない体系的な組織的な古武術についてだが、恐らく最強の武術は示現流だと私は思う。現代では多くの人が本物の刀を持ったことがないので理解できないのだろうが、あのだな、刀というのは全部鉄で出来ているのである。竹刀や木刀ではないのだ。あの鉄の塊をぶん回すのは芸人でしかできない。そして芸は所詮組織的な殺戮には使えない。となると、歩兵が勝つための刀の正しい用法は、一刀に下す以外はありえない。そう考えると、示現流ほど合理的な剣道はない。

 示現流兵法心得


  1. 刀は抜くべからざるもの
  2. 一の太刀を疑わず、二の太刀は負け
  3. 刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず
  4. 人に隠れて稽古に励むこと

 示現流は完璧だ。甲野はNHKの講座で刀を鞘に収める所作の解説をしていたが、刀というものは抜いたら終わりだ。あとは相手を一刀で殺すだけ。疑ってはならない。足を切り込まれても、一刀にざくと相手の肩の骨を折ればいいのである。まして、刀で防戦などする手間はない。一刀の技はただ鍛錬あるのみ(*6)。
 余談だが。レスリングやK-1など私はまるで関心ない私だが、戦いというのもには血が騒ぐ。その感性でいうと、K-1などはでくの棒だ。実際の戦闘では強いとは思わない。じゃ、最強の武術ってなんだろうと思ったことがあった。私の結論はこうだ。多分ボクシングだ。まさか? ボクシングというと殴ることに関心が向くが、最大の利点はフットワークだ。あの足で間合いを詰められたら、飛び道具以外では勝てっこない。やくざがボクシングを重視するのは実践のせいだ。
 ボクシングより強い武術があるすれば、映像でしか見たことないし、その武術の名前は忘れたがインドの武術だった。ヨガと関係あるのかわからないが、腰巻きだけの裸の男が人間とも思えない動きをして飛ぶは蹴るは、立っていたかと見えたらすとんと180度開脚して沈むと思うやバク転するのだ。あれに刃物が付くのかと思ったら、ほんと恐怖した。あれには勝てない。あの技はもともと異教徒を殺すためのものらしい。パキスタンあたりに今でも伝承されているのではないか。そんなのお二人も従えていたら、ビンラーディンもけっこう心強いだろう。

注記
*1:(参照
*2:武術稽古研究会は先月をもって解散した。
*3:高野進コーチは甲野善紀のなんば歩きに影響を受けているようだが、直接甲野が末續を指導したということはなく、誤解を招くので削除とした。
*4:中世以降の武家は恐らく台湾の首狩りの部族と関連があるだろう。
*5:海戦では振り回すのである。
*6:と、書きながら、なぜ示現流では人に隠れて稽古するのか、突然わかった。うかつだった、そうなのだ、人に隠れてするっきゃないような稽古をするからなのだ。

[コメント]
# sayoukann 『カラリパヤットじゃないですか?>インドの武術』
# finalvent 『あ、それみたいですね。どうもです。ぐぐってみると、けっこう情報がありますね。』

| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2003年11月9日 - 2003年11月15日 | トップページ | 2003年11月23日 - 2003年11月29日 »