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2003.11.15

お菓子のような避妊薬

 極東ブログお得意のお薬ネタが最近ないので書くか…という気はないが、ぐぐってみてもどうも国内の情報がないので、ある程度公益のために書いておこう。新型オブコン35(オヴコン35:Ovcon-35)についだ。昨日RU-486について触れたが、こいつについては国内でも若干情報がある。欧州や米国の流れを見れば田中宇でも言及できる問題でもある。だが、新型オブコン35になると、ちとビミョーだ。率直なところ、私も、そりゃなんだ?と思って調べたので、メモ書きしておくというような話だ。
 ニュースはロイターヘルスからだが、チュアブルのオブコン35が解禁になったというものだ。フレーバーはスペアミントらしい……なんだそれ? オブコン35は有名な、日本でいうところのピルだが、それがチュアブルになるっていうのがなぜニュースなんだ?
 チュアブルというのは、かみ砕けるということで、ウェハタイプ(日本だとヨーグルト風味のでかい錠剤みたいなお菓子があるがあんなの)とグミタイプがある。米国ではサプリメントに多い。というのも、嚥下が難しい老人や飲料水がアベイラブルではない状況が多いためだ。あ、アベイラブルって日本語は変ですね。グミや子供向けのビタミン剤に多い。ヤミーベアってやつだ。えぐいフレバーにチアミンやリボフラビン臭のするヤツだ。子供向けにはあとバルーンガムのがあるが、ま、そんな感じだ。
 で、なんだ? ロイターヘルスのニュースはこの件について簡素すぎてなんだかわからなかったが、そう、あのヤミーベアがピルになるっていうことなのだな、要するに。
 ヤミーベアっていうことは子供向け。プレティーンの子供になんで避妊薬を? ふと思うのは、日本でも最近盛んになっているジェンダーフリー教育だが、米国だとプレティーン(10歳くらい)でがんがんやっている?ってな妄想を浮かべるのは、常識的に言って、大間違い。たいていの米国人は保守的です。特に、子供に対してはですね。じゃ、なんだ? レイプ予防? 確かに、モーニングアフターはそのように利用されている。日本はそれがないから、中絶天国が続くのだが…。
 とま、???ばっかしなので、ちと調べて、ある意味唖然とした。そうかぁである。もったいぶって申し訳ない。では解答にはならないが私の推測を言うと、ピルで女の子の性徴発現を遅延化(正規化)させているようなのだ(参照)。もっとも、初潮年齢を遅延させたり、性徴発現を抑えるわけにはいかないので、実際には初潮後にメンスを軽減させたり、コントロールするわけだ。通常の低容量ピルの使用からの推測なので間違っているかもしれないが、そうする意図はわからないでもない。
 この問題、日本でも問題になる可能性があるので、もう少し解説するけど、実は、女の子の初潮の低年齢化っていうのは、世界的な現象で、かつ大問題なのだ。環境ホルモンで女性化するなんておちゃらけじゃない。これがなぜ人類に進行しているか謎なのだが、とりあえず栄養がいいからっしょぉ、みたいな話に落ち着いているが、専門家ほど謎に苦しんでいる、はずだ。
 もしかすると、と話をぼかすまでもなく、初潮の低年齢化が各種の社会問題の根底にある可能性は高い。それについてある程度私もインサイトを持っているのだが、物騒なので控えておくとしても、だ、ジェンダーフリー教育ってなことでごちゃごちゃやっているより、実際問題の初潮の低年齢化に対応したほうがいいのだが、で、対応ってなんだ?ということになる。
 そこで保守的な米国では、社会的な文脈として性徴の発現を制御すりゃいいじゃん、となってきているのだろう。それって人権にひっかからないのかと反応してしまいそうだが、そういう反応をたたきこまれた戦後日本人の悲しさですな。
 こうした問題をフェミニズムはどう考えるか…なんて考察するだけ無駄。次、行ってみよう!というわけで、次の展開としては、性徴発現のセーヴィングというのはありとして、もう少し上のローティーンによってはこのチュアブルピルが実際にピルとして機能するわけだ。
 日米間に差があり、さらにばらつきも大きいだろうが、最低線で見て、13歳くらいでレイプや軽率な妊娠対象になる。そこでプレティーンからの性徴発現を実質的に制御するためのチュアブルピルは、そのまま避妊の用途として継続するという図ができあがる。
 実際日本ではどうなるのだろうか? 女子中高生あたりに広まるだろうか? という問いはレトリカルだ。広まらない。入手できない。機転が利くという意味で頭のいい子はいるけど、そこまで頭のいい女子中高生は日本に少ないし、また、いてもそのレベルになると、チュアブルピルを使わなくても対処できるだけのインテリジェンスはあるだろう。
 しかしなぁ。なんか、そーゆー問題じゃないなと思う。これを書くとイカンのかもしれないが、チュアブルピルはOTCなので、サプリメントと同様に入手できる。ってことは、どっかの悪オヤジとかおばさんが売りに出すっていう危険性を社会は注意したほうがいいだろう。予言しておくが、「ダイエットにもいいしぃ、胸も大きくなるし、メンスが軽くなってグッドよん」ってなことになるだろう。うへぇ~である。大人って悪いやつ多いから、若いかたがた気を付けてくださいね。つまり、必要な状況があるなら、ピルについて勉強してピルをきちんと使いなさい。さかもと未明のいうようなコンドームじゃ対処できない状況は多いし。

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再考・米国の鉄鋼輸セーフガードは新ABCD封鎖になる

 11日のブログでWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定についてこう書いたが、どうも考え方の筋が間違っていたと反省した。


日経と読売がWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定について扱っていたが別にどうという問題でもない。端的に米国が間違っているだけのことだし、この問題についてあまり日本がどうこうできることでもない。

 意見が変わったわけではない。米国が端的に間違っているだけだし、日本はなにもできない。だが、問題はそこではないと反省した。問題は、米国が本格的にWTO離れに打って出る兆候なのかもしれない、ということだ。
 メキシコ(墨)との間のFTAが豚問題でぶざまにこけてしまった状況は、ある意味日本国家の最大の弱点が米国を中心に世界各国に流布されてしまったということではないだろうか。もちろん、各国家の大衆レベルではそんなことは気にも留めないだろうが、外交レベルでは日本の秘孔バレてしまった。そう考えれば、なんとなく変だったあのメキシコの余裕の意味がわかる。WTOが機能せず、FTAが使えず、それでいて輸入に依存する日本はもうすぐ兵糧責めのような状態になるのだ。なってこった! 憂国なんてイデオロギーじゃねーぞ。
 今回の米国の鉄鋼緊急輸入制限(セーフガード)の問題では、提訴したのは日本だけではなくEUもだ。そして、EUはすでに反撃に出ている。低額だが22億ドルもの関税を農産物、繊維、機械製品にかける、というのだが、くせ者ぞろいのEUだからこのあたりの間合いの読みをとちるわけはないだろう。日本としては100億ドルのブラフをかけるようだが、端かっら腰砕けになるはずだ。あの外務省だぜ! 嘆息。日本の経済界も日経を見る限り、新三種の神器ってな阿呆なラッパ吹いているが本音は米国向け自動車から見るように米国頼りでしかない。
 11日の読売社説の結語を読み返して、再び暗澹たる気持ちになった。

 だが、EUなどが報復関税を発動すれば、影響を受ける業界が広がる恐れもある。景気の本格回復に欠かせない製造業の業績回復、雇用回復の支障となっている現状を、そのままにしていいのか。
 大統領の賢明な判断に期待したい。

 ブラックジョークなのである。あの阿呆な大統領に賢明な判断などできないというのではない。それならスマイルはタダ、みたいなもの。そうじゃない、本当に賢明な判断を下すのかもしれない。賢明とは、米国自国の利益優先だ。WTOは米国国益に反しつつある。WTOが機能しなくなるということは日本の生命線となる外交を日本は転換しないでいくわけにはいかない。
 今回の選挙で、公明のおかげでゾンビのように生き返ってしまった自民党になにかできるだろうか。

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市町村合併を推進する以外に実際には方策はない

 朝日新聞社説「市町村合併 ―『1万人』はおかしい」を読んで暗澹たる気持ちになった。率直なところ、この社説はそう悪いものではない。毎度のサヨサヨの朝日節にとれないことはないが、露骨なデマゴーグの傾向はない。むしろ、この問題をリマインドしてくれた点で評価したいくらいだ。
 まず前提となることだが、都市部、つまり東京近郊や通勤可能な周辺県に暮らしている限り、市町村合併の問題は生活の実感に上がってこないだろう。この国民間の意識のズレがある意味で深層の問題の可能性はある。日本人はなんとなく日本という国をあの弓形の国土の形状でイメージしがちだが、人口の4割は4都市ほどに集中している。そして、さらに地方についても、実は同型の入れ子のように、地方都市にその人口の4割以上が集中している。さらに、そうした地方のある種の小都市ネットワークを持つコロニーが独自の日本を形成して、都市の日本と対立している。顕著なのは、中国・四国地方で、実際のところ、政治の面ではあの部分だけ独立国のような様相を示し、そこから送り込まれるステーツメンによって国政の決定が攪乱されている。この問題はもう少し丁寧に議論しなくてはいけないので、とりあえずさておくが、いずれにせよ、都市部の日本人には、市町村合併の問題意識は少ないだろう。
 なんだかんだと言っても朝日新聞もまた都市部の新聞なので無意識にその前提が繰り込まれる。その最たる点は、地方の独自性をもって良しとする発想だ。しかたがないのだろうなとは思う。このため、地方の市町村合併を押し付けるのは悪だと単純に考えてしまう。


 政府の地方制度調査会が、分権を担う自治体のあり方を小泉首相に答申した。「おおむね1万人未満」の市町村を対象にした合併構想をつくるよう都道府県に求め、合併を促す内容だ。
 全国に1万人未満の自治体は1500余あり、約700万人が暮らしている。答申は、あなたたちにこれまでと同じ町や村を維持していく能力も資格もないと、言い切っているようなものだ。

 コーヒーでもすすりながら読めば、そーだよねとか思いそうだ。朝日新聞の言うように、「地方を切り捨てはよくないな、さて、来週は円高か…」てぐあいで別の紙面を読む。つまりその程度の話題として読まれる。書くほうもそんな気構えだ。
 丁寧に議論しないと説得力がないのは承知するが、この朝日社説の主張は間違いなのだ。ずばり言って、1万人未満の自治体にはこれまでどおりに町村を維持する能力も資格もない。実際にそのレベルの町村にかかわりを持つ人間なら、あったりきしゃりきのことだ。
 この感覚のズレをどう言ったらいいのか戸惑う。私も都市部の住人なのでセンスが分離してしまうのだが…と思いついたのだが、1万人未満の自治体の最大の産業はなにか?と問うてみるといいだろう。間違いなく、それは町村自治なのだ。役場とその関連が就職先なのである。このブログでぶちまけているお笑いじゃないのだ。
 朝日は心情的にこう言う。その心情は理解できる。

 それは分かるが、「1万人」を目安にして、それぞれの歴史や文化、郷土意識の土壌になってきた自治体を統合していこうとする答申はいかがなものか。延長する合併特例法に、こうした数値を盛り込むことは認めがたい。

 だが、それは都市部でスタバのコーヒーを飲んでいるヤツラの言い分だ。
 私は、この問題について、実際には適応が難しいだろうが、一つの解決策がある。ジョークのように思われるだろうが、町村をNPOにするのだ。ボランティア団体にするといい。実際米国の田舎町などそれで問題なく運営されているのだ。
 話がさらに飛躍して聞こえるだろうが、町村をNPO化する最大の問題は、若者だ。四方八方からうんこじゃないや石投げられそうなことをあえて言う。地方には若者がいないのだ。しかも優秀な若者がいない。優秀な若者は地方を捨てて都市部に逃げてしまう。残っている若者にはNPOのコアになれるだけの力量がない。我ながら、そこまで言うかと思う。でも、それが問題なのだ。1万人の町村に10人の知恵ある若者がいたらNPO化は可能だ。だが、それがいないのだ。
 現実に戻ろう。というのは、構造的に見れば地方にそうした期待をかけることは無意味だ。実際面では市町村合併を進めるしかない。そして、どうなる? 地方がさらに疲弊化してしまうだけだ。そのことに都市部の人間が無関心であるかぎり、そうした地方のコロニーから爺ぃのステーツメンや票田の跡取りお坊ちゃんやお嬢様が出てくるだけだ。小渕優子さんには遺伝的な政治の勘はあるだろうが、嫁にいって品川のマンションで暮らした方がいい。ま、実際にはそんなものになるだろうけどね。

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2003.11.14

はてな村とくるみの木

 カテゴリーは、「社会」としたが、以下、はてなについての感想のようなものだ(追記2004.3.18。当初、このブログは「はてな」で掲載されていた)。8月中から書き続けて3か月近くなる。我ながらこんなに続くとは思っていなかった。書いていて存外に面白いというのと、いろいろ吐き出したいことが自分に溜まっていたのかという思いがある。知人に、ブログ書いてんだけど、ってな話はしたものの、なんとなく知らせてはいない。いずれ、知らせるかもしれないと思うが、そのいずれがよくわからない。しばらく、誰でもない人に向けて書いていたい気がするのだが、それがなんなのかわからない。
 ネットの世界は匿名だとは毛頭思っていない。私のブログは放言が多いが、それでもどこかでセーブせざるを得ない。私など本質的に無名な人間だが、まったくの無名なのだろうかとも思う。明示的な自己顕示欲のようなものはないのだが、どこかで自分が誰であるか明確になるだろうなという奇妙な恐怖感のようなものもある。ばれる? ま、それほどのものでもないことは確かだなので思わせぶりな書き方はよくないだろう。私は社会的に無だ。
 ブログを書き続けながら、密かに、というほどでもないが、検索サイトがどう見ているかを気にするようになった。そこから見える世の中というものがある。例えば、岸本葉子の本について書きながら、どのように「岸本葉子」が検索されるかに関心が多少ある。このサイトには制約が多いこともあって、SEOのトリックはかましていない。いずれチープなSEOトリックなど無用だ。だが、自分のコンテンツというのがどれほどクローラーを魅了するのだろうかというのは気になる。フレッシュクロールにはなっていないものの、30日間隔、10日間隔、そして最近では5日くらいでクローラーさんが来ていることもあるようだ。
 もちろんのことだが、ログは取っていない。はてなはScript無効なので、リファラは取れないが、Web bugでも仕込んでおけばそれなりのログが取れないわけでもない。だが、そうしない。誰が読んでいるかについて追跡はしない。読者がいることに気にならないというわけでもないが、なんとなく追跡する気にはならない。それは、ある意味で、自分のオープンネスの表明のようなものかもしれない。
 話が書き出しの思いからそれてきた。当初、はてな村について書こうと思っていた。はてな村について特に解説は不要だろう。いや、単純に言えば、はてなのキーワードやコメントのリレーションでできる村みたいなものだ。はてな村は多分ポスト2ちゃんねるとして注目されるのではないかと思う。2ちゃんねるについては、以前このブログでもくさしてしまったが、現在の心境からすると、ほとんど関心がない。S/Nが高すぎて、自分の居場所などないし、居場所なくしては発言もないようなシステムだ。それがいいという意味もあるかもしれないが、そうした思考全体にもはや関心が向かない。
 はてなではシステム側からのおすすめ機能があって、その一つが日記内容から算出したMAPだ。いちおうお約束でこのページの右上に付けておいたが、開いてみて脱力するだろう。ぜんぜん機能していない。私のブログに関連があるとしているのは、なんのことはない、はてな村のコアだけなのだ。おそらく、私のブログは、はてな村では誰とも関連性を持っていないのだ。個別に見れば、話題の類似点がないわけではないし、私もちょっと色気を出してちょっかい的なキーワードをちりばめてみることはあるが、それでも、私ははてなで孤立しているのは確かだ。しかし、はてなの大半の住人は村のコアから孤立しているのだろうから、私だけの問題ではあるまい。
 MAPに現れるはてな村のコアは面白いか? 率直なところ、私にはあまり面白くない。リンクして開くと文章よりコメントが多かったりして、いかにも村になっているんだなぁという光景があるが、さーてね、なんとも言えないよ。うざったいよこれっていう感じもする。
 バカの壁ではないが、ようやく最近になって気が付いたのだが、私のブログは、難しいのかも。明確にそういうリアクションがあるわけではないが、なんとなくそう感じるようになった。「つまんねーよ、テメーの話」っていうリアクションがあっても当然だろうなとは思っていただが、私のブログが難しくてわからん、というリアクションはまるで想定しなかった。
 仕事の文章じゃないのだから、表現に制限はしない。それでも制限はあちこちに出る。わざとらに古くさい言い回しもちりばめているが、それは多分に冗談だ。しかし、そうした表層自体が難しいのか? ふと思い出すのだが、私は小林秀雄の文章を難しいと思ったことはない。難しいのは彼の複雑な意図の斟酌のほうだ。「本居宣長」のなかで触れられている上田秋成との論争など、小林ははなから秋成を滑稽に見ているが、その見識の背後にある強い思想がうまく読み取れない。復古主義だの神道だの言う馬鹿たれにはそもそもわからないだろうと思うので、私は考え続ける。…だが、そうでなければ難しいとは思わない。岩波文庫のトンチキな訳文文学など難しいが無意味な難しさだ。若い頃OEDを引いて格闘したせいか、翻訳文の難解さは無意味なものだと得心している。大塚久雄なども随分傾倒したが、先生をしても訳文はこなれていない。
 「難しい」に関連するが、自分がいつのまにか歳を取ったのだと思う。昔からいわゆる古文が嫌いではないが、最近は古文がなんの解釈なく読めて我ながら唖然とする。パソコンを見つめる時間が長いわりに、旧かな、旧字体の文章に親しみを覚える。なんなく読めてしまう。旧字体のほうが自分にしっくりしてしまう。なんてこったと思うが、日本語の1000年の呪いのようなものが自分のなかで成就しつつあるのだろう。
 話が散漫になった。こう書きながら、私の文章は、難しいというより、単にネットには合わなくなっているのだというような気がする。それはそれでいいかとも思う。多くに伝えたいとはあまり思わない。遠くに伝えたいという気はする。ある種の遠隔対象性ってなものかもしれない、私のブログは。

[コメントを書く]
# HAL 『タイトルだけ見てきちゃいました。またお邪魔します』
# masayama8 『マップ見ましたけど、すごくないですか。すごい隣接の仕方だと僕は思いましたけど。考えようだと思います。問題意識が顕在化したのがああいう分布帯だとすると、時代にはアップデートされているんじゃないでしょうか?三文誌みたいに媚び続けるという文体でもないと思います。機嫌を直してください。』
# レス>HAL 『どうぞ、また。タイトルふざけですみませんかも。』
# レス>masayama8 『なるほど、です。そういうふうにも考えられるのですね。これ書いたとき思っていたのは、ある無関係な日記(ブログ)があると自動的にはてな村コアのMAPになるのでは、と。それにしても、この話題はちと、「僕ってさびしいよ」のトーンでした。ま、実際そうでもある面もあるのですが…。』

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バカ女について、セネカ著「心の平静について」から考える

 タイトルは嘘です。ごめんなさい。今日の話は我ながらサイテーです。
 さて、たるい。それに今朝の新聞各紙社説はムゴイ。いまさら社民党ネタではないだろう。が、執筆者も爺ぃなんだろうな。党としての社民党はケンシロウのギャグで終わりだが、先日も書いたようにこれから社会に溢れてくる社民党みたいなぼよよ~ん現象のほうが問題だろう。でも2ちゃんねるとか読解できそうにない程度の新聞社説の感性ではわからんだろう。
 今朝の社説に多い日本道路公団の新総裁に近藤剛参院議員のネタは本気で惨い。この事態、なんかどっかの会社の権力闘争劇みたいだ。こういう権力闘争では、最初にわざとへなちょこ玉打つんだよね。定番です。ほいで、動揺するヤツラやこりゃあかんと決起する有能な人間を炙り出しておいて、闇からうんこを投げつける。これって社会人の常識。もともと、Aこと青木を最初に仕留めない限りなにをやっても無駄。それをわかっていて、新聞ってこういう社説を書くっていうのが大人の常識をわきまえた悪意ってヤツだ。若いかたがた、大人を舐めちゃいけません。大人がうんこ握って投げるっていう心意気を学びませう。
 たるい。西原理恵子の離婚(あるいは別居?)についてもちと書きたい気もするのだが、なんだかな。末井どんとかからんでいるわけじゃないけど、サイバラ回りにはハラの座ったおやじ多いから、なんとかなるか、というのは、この離婚で一番傷を負っているのはサイバラ本人だろう。ぼくんちじゃないけど、こういうときは笑うんだ、で、生きられるのはまだ気合いのあるうちだけ。彼女、気合いはあるけどなぁ。鴨ちゃんもなぁ。すごい人だよなと思う。文化勲章っていうのはこういう人にあげなくてはと思うが…と話にならん。ちらとぐぐってみたり2ちゃんねるを覗いても、サイバラファンは多いし、オレこそ理解者みたいな人も多いんだけど、なーんか違うと思うんだけどね、ま、私がなんか言うこっちゃないですね。ネタになりません。
 たるい。書きたいネタはあるのだが、もうちょっと裏を取ってからが、いいかとか思うので、ちょっと出し惜しんでいるのもある。たるいついで、「バカ女」っていうネタに挑戦してみよう。というのも、これって、はてなのキーワードらしい。まだこのブログを登録していないので、キーワードになるのかぁというのがワクワクものだが、どうかな。私のブログって文章が長いせいか、キーワード認識が悪いので、こけるかも。こけたほうがいいだろうけど。そのぉ、読まんでほしいです。
 で、バカ女、ですが、はてなでは「ばかおんな」とは読みません。「ばかじょ」です。だから、「ばかおんな」がキーワードになっているわけではありません。でも、「ばかじょ」はさておきです。モーニング娘の辻元清美さんですか? 若い女の子の歌い手さんのことは沖縄出身以外存じませぬので、「ばかじょ」なんて話題できません。では、バカ女の話します。
 なのですが、あのですね、私は、「このぉバカ女!」って口にしたこたぁないんですね。いろいろ考えてみるけど、ない。嘘こいてんのかオレ、とか思うけど、ない。なーぜなんでしょ。そのですね、「バカ女」っていうとき、自分とその女の距離っていふものがあるじゃないですか(←その口調やめろ)。見下すっていうのもあるだろうけど、なんつうか、それって「女」に近い感じがするのですね。つまりだ、「オレっち女には慣れているぜ」みたいな頬してないと言えない言葉だと思う。という点で、オレはそういう女との間にそういう近い距離は、ねーな。女をそういうふうに近く考えないです。遠隔対象性です。
 でも、街なか溢れる松竹梅色とりどりのおばさんを見ていても…橋田壽賀子系はバカだなと思うけど、なんつうか動物を見るようです。誤解があるといけませぬが、私は動物が好きです。3か月に一回は動物園に行きます。で、次。山本リンダとか秋吉久美子とか全共闘世代50代の女。彼女たち昔は後楽園球場で脱いだのよ系ですね、はい、パス。も、単純にパス。臭いんだもの、おばさん臭は。
 40代女、おっとぉ。こっそり言うと同世代だぞも、パス。これはちょっとマジ入るからな。次。30代、Verryとがいるわけだよな。こいつら、多いんだよな。私がなんだかんだ言っても、その手の食傾向と似ているせいか、レストランみてーなところに、昼間いるんだよね、うじゃうじゃ。で、うるさい。黙れと思う。嗚呼、そんな時でせふかふと「このバカ女」と思うことはありますね。
 20代女。パス。こいつらも臭いんだもの。10代…あああ、10代なんて女の部類じゃねーのになんだってんだ、このバカ。あ、言ってしまひました。バカとは思ふこと多し。でも、バカ女とは思わない。繰り返すが、10代なんて女じゃないよ。
 と、書いてみて、私ってひどいヤツだ。しかたないか。そうなんだから。ブログに書くかぁとは思うが、ま、たまにはね。
 で「バカ女」なのだが、そーいえば、その手の題のムックだか本があったなとちと思い出す。中村うさぎだのさかもと未明だのも載っていたか。ああいうのが「バカ女」に見えるというか、見たいっていう若オヤジは多いのだろうなと思う。オレ? 思わないっすよ。ちなみにこのお二人さん、無教養だとは思うし、バカじゃねーのと思うことはあるけど、バカ女とは思わない。それどころか、かわいいじゃんと思うね。わざわざ中村うさぎのニップやさかもと未明のヒップとか、身銭気って見ました。
 フェミ女はバカか? うーむ。わかんないな。このあたりからマジが入るのだが、フェミ女(っていう言い方はないか、あるのはフェミ男っていう表現か?)って、議論すると、その業界に引き込もうとするんだね。先日バカじゃねーのとかくさしたが小谷野敦ほど私はキモが座ってないし、フェミ業界の知識もないから、フェミ女とは議論にならない。平和だ。
 でも、他にもニューアカ以降っていうのか、はてなにもけっこううじゃっといるので、変な弾喰らわないように暈かして言うと、ハイセンスな業界のなかでしか問題が成立しない問題っていうのがみなさん好きなんだよね。クオリアとか…(そんなもの脳内にあるわけないよ)…え?クオリアってSONYのですよね。
 ほいで、わたしゃ、その点、単純な人なんで、問題とは共同体の問題であるからして、そのように問え!と思うのだ。で、そういう点からフェミニストを見ると、なんだかなです。モーニングアフターとかRU-486とか、君たちちゃーんと議論せーよ、とか思うのですがね。そのぉ、フェミニスト業界では議論しているのかもしれないし、業界の原則から日本共産党みたいに公式見解みたいのはあるのかもしれないが、それって無意味です。こういう問題は社会にむけて、社会の人が理解できるかたちで、明白に問わなくていけません。それにRU-486(参照)とか「女」に重要な問題ではありませぬか。
 てなことで、私は日本のフェミニズムって事実上、社会的には無意味だなと思うものの、バカ女め、みたいには思いません。単に無意味だし。
 さて、このくらいで止めよ。やっぱ、バカ女なんて話題はくだらない。最後にちょっとチンコ立ちにスナップが効く歳の男としていうと、バカ女はどうでもいいけど、利口な女っていうかは重要ですよ。そういうと、機転の利く女とかいう意味になっちまいがちですが、いえいえ、きちんと普通のグローバルな常識のある女という意味です。このブログではくさしちまったけど日本版ニューズウィークくらい毎週読んでいるくらいの女でないと、そのぉ、チンコが立ちませーん。ま、人にもよるのでしょうか。木村和久先生くらいの大家だと大ジョーブでしょうか。木村先生、お肉を食べた後のうんこが臭いと昔おっしゃてましたが、荒牧麻子先生のお言葉ではありませぬがそろそろ和食中心の食事を心がけるお歳、日経Healthの健康突撃隊のお話も期待しております。ご自愛くださいませ。

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2003.11.13

Googleに問え。なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか?

 なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか? その答えは、42。
 間違いない、男の厄年の話題じゃない、宇宙論的神学的な問題なのだ。Googleに訊いてみるがいい。The answer to life, the universe and everything:.....
 とま、そんなネタはもう古いよね。ちなみに、Googleあたりから検索で飛んできた人のために補足すると、この話は、SF作家ダグラス・アダムスが1991年にハイパーカード・ファイルをフロッピーディスクで出版した「銀河ヒッチハイク・ガイド」のなかにある壮大な冗談だ。ハイパーカード・ファイルのメディアといえば、日本でも高城剛がFiLoで真似っこしてこけて、フランキーオンラインでこけて…こけてこけてっていうわりに高城剛ってなんでメディアに露出しているのだろうか。って答えは単純なんですが、その業界へのイヤミにしかならないので、やめておきたいけど、うーむ、通産省じゃねーや経産省のセンター試験以降の世代のお役人さま、税金の無駄遣いはやめてくださいね。
 なんの話だっけ、あ、Google電卓だ。これが使える。もし、あなたが2+3の答えを知りたかったら、2+3=と検索欄に入力してEnterキーで答えがでる。ちなみに答えは、0b101だ。え?違う。Googleも困ったものだ。
 もうちょっとまともな話もある。例えば、光子の持つエネルギーEは振動数νに比例し、その比例定数…は、そうディラック定数だ、じゃない、プランク定数だ。GoogleだとPlanck's constantでもいいが、hだけでいい。hってのはストップワードじゃないから、加算しないこと、ってな込み入った冗談は誤解のもと。ちなみに、値は6.626068 × 10^-34 m2 kg/sだ。
 同様にジェットコースターでO型の女の子がお漏らしをしてしまうGは、あ、そのGではなく、gravitational constantのGは、6.67300 × 10^-11 m3 kg^-1 s^-2だ。Googleは大文字と小文字をセンスするんだぜ! ほいで、πはpiでわかるが、現在のお子様の知的レベルに合わせるために小数点以下をラウンディングする関数はGoogleには入っていないようだ。ある? あったら教えてください。当たり前だけど、型は使えないみたいだ。
 昔のMacでは必需品だったFinderPop、これって日本の雑誌ではフリーソフトってことになっていることが多かったが大間違いで、PintWareだった。Pintといえば、Pint of beer、原宿のThe Pintの黒ビールはうまかったが、ま、Pintだよね、とグラスを呷るのはいいのだが、EUやヴォネガットと同じくISOな日本では何リッターかというと、GoogleのpintでUS単位だがわかる。缶ビールより多い。500ml缶より少ない。っていうか、500ml缶っていうのが粋じゃない。
 沖縄に行って、丸大で、いや、かねひででもサンエーでもいいが、牛乳を1パックを買うと、こいつが1リットルじゃあない。1ガロンの四分の一なのだ。quarter gallon、つまり、946.35295 millilitersだ。テンガロンハットに入れるには、この40倍が必要
 なんか書いていてうざくなってきた。ま、その他、ハミルトン数の計算やマトリックス演算はできないけど、虚数計算や三角関数はばっちり。弧度法じゃなくて360度法でも使えるから実務的。オイラーの等式なんかもOK。おいらは意味がわかんない? うーん、これじゃ、かいけつゾロリに出てくるオヤジギャグだよな。

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メディアのマンネリ感というか循環

 死後体外授精で出産された子の父子関係が法的に認められなかったという話題以外、新聞各紙特に新しい話題はない。こうして日々それなりに社説を追っていくと、意外なほど社説執筆者というのが閉鎖されたグループなのではないかと思えてくる。
 その死後体外授精の問題だが、読売はルール作りが必要とし、毎日も法整備せよというのだが、そう結論するなら社説に書くこともないだろう。ネタだけは新しいが話は古過ぎる。ではこの問題を社会はどう考えればいいのか? 私は率直なところそんなことはまだ社会問題ではないと思う。たとえば、妻が死んだ夫の子が欲しいとして死後体外授精したとする。それで子供が生まれた。それだけでいいのではないか。それ以上に国家から父子関係を認定してもらいたいという心情を私は理解できない。
 他に話題はというと、ブログ回りではTBS系「サンデーモーニング」で、石原慎太郎都知事が韓国併合発言100%肯定しているのではないと発言したのに、その語末の音声をネグった上、逆に肯定したとするテロップを流したとして訴訟問題になるらしい。率直なところ、サヨクや報道関係は字幕ミス程度の話でおしまいとしたいところが、常識的に考えてそんなミスはありえないだろう。語末の音声処理は意図的過ぎる。ここできっちり、この手の阿呆なデマゴーギーに灸をすえたほうがいいだろう。
 話は散漫にずれるのだが、私はほとんど民放を見ない。トリビアの泉を見て、世の中をちと覗き見る程度だ。あと健康番組をたまに見るか。たまにと言えば、市川実和子の顔を見なければいけないという強迫に駆られるがNHKのドイツ語講座で事足りる。アンジュは最近どうしているだろうかとはあまり思わない…てな話は冗談であるが。いずれにせよ民放バラエティはつらい。CMがうるさいし、CMつなぎのカブリがイライラするし、なによりあの阿呆なテロップ止めろと思うのだが、あれはいったいなぜなのだろうか。老人向けなのだろうか。あるいはいユニバーサルデザインかというひねくれた皮肉は面白くはないだろう。単純に若い世代にとってああいうウケの間のインフォが欲しいためだろう。ゲバゲバ90分以降、アメリカのバラエティをまねて笑いの音声を足したのの延長だろうと、わざとらに古くさい話を書いてみる。
 デマゴーギーと言えば、「噂の真相」がもうすぐ終わりになる。身銭を切って読まなくなって何年経つだろうか、というより、読んでいたのは数年だったか。いつごろか国会で話題になるようなメジャーになってしまったのが運の尽きだったか、岡留も面白くねーなと思っていたのか。面白かったのは本多勝一との分裂であれを延々とやってもよかったのにとも思うのだが。最近では、くらたまのガセネタなんか書くから、彼女はマジこいてSPAで反論しちまったよ。くらたまなんておちょくるタマじゃないよなというあたりの目利きがボケている。日垣隆あたりを文春がらみでくさしてみても、返り討ちに会うほどの威力もない。なんだかなである。
 総じていえば、「噂の真相」の意義というものはあったのだろう。それがない日本のジャーナリズムというがますます砂漠化していくだろうなとも思う。2ちゃんねるについて、以前ここでくさしたが、今となってはくさす意味もないし、なんというかあの枯れかたはなんだろう。昔のビックリハウスみたいな感じもしないではない、とまた古くさいことを書く。
 歴史の終わり、ってなことをいうまでもないが、世の中のある変動はわからないではないが、表層に出る基本パタンの循環もまた予想可能な域に留まっている。話を無理にまとめるようだが、死後体外授精という日本社会には新しい問題があっても、婚姻の変動とは関連づけずに古い循環システムがオートマティックで答えるようになっている。新聞がまさにその機能しかしていないし、ブログを含め、ネットの雑情報もそうしたニッチを狙っているようでいながら、やはり基本的に同じパタンに収まっているとしか思えない(やや飛躍した言い方か)。じゃ、どうする? さあ。わかんないな。

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2003.11.12

[書評]永遠の吉本隆明(橋爪大三郎)

cover
永遠の吉本隆明
 駄本である。終わり。で済む程度の内容なので、それ以上の言及など不要なようだが、橋爪大三郎がこんなみっともない本を出してしまう理由もわからないではないし、橋爪本人も気が付いてもいないだろうが、この世代の老いを知るという点でも、身銭を切って買って読んでみた。
 タイトル「永遠の吉本隆明」はくだらなすぎるが橋爪が付けたものではないだろう。内容も書かれたものではなく、おしゃべりの書き起こし。新潮の「バカの壁」の影響の破壊性はこんなところまで及んだ。四時間ほどのおしゃべりと編集者がいたら新書はできる。福田和也と香山リカと並べてしゃべらせれば一冊、あがり。編集者に魂というものが無くなった。山本夏彦は、本ってなものにはいくばくか魂がくっついてくるものだと言った。だが、それをなくしたらこういう事態になった。この手の駄本をやり手婆みたいな斉藤美奈子がくさしたり、宮崎哲弥のような流しの評論家がチャートを作れけば、なんだか文壇みたいなものになるってな商売まである。とま、くさしてみるが、空しい。
 「永遠の吉本隆明」は本としては駄本だが、橋爪の限定された吉本理解は大筋では間違っていないし、共同幻想論まわりの解説は、柳田や折口の学の意義を抜きにすれば、構造主義的な文脈として悪くない。特にレヴィ・ストロースと吉本のインセストタブー論の比較は面白い。政治思想の面では、全共闘世代の陥穽をわかりやすくお笑いにしている。吉本シンパが70年代以降動けなくなってしまうというカラクリは、現象面では橋爪の説明で間違ってもいない。
 橋爪が知らないのは、彼よりもきちんと吉本を読み込む少数読者への畏怖だけだろう。吉本がボケてしまう前のこと、二番目の選集が編まれたが、そこになぜヴェーユについてのおまけがついたかなど、橋爪は考慮もしない。国家論について橋爪自身の考えを吉本に比して解説しているくだりがあるが、吉本のシモーヌ・ヴェーユ論は軽快に抜け落ちた。挙げ句、橋爪は吉本の国家論には無前提の公理があるみたいに言うが、橋爪は、歴史のなかで血を流す人間による到達、森有正のいう「経験」をまるで了解していない。思想というのものは、言語的な公理からできるものではない。歴史と経験が生み出すものなのに。
 話を戻す。この本の出だしで、ちょっと溜息をついた。

 たとえば小熊英二さんが『<民主>と<愛国>』(新曜社・二〇〇二年)という本を出しました。たいへん包括的に戦後日本の思想の図柄をデッサンしている。そこにさまざまな思想家が登場します。例えば、丸山眞男であり、竹内好であり、三島由紀夫、江藤淳、そして吉本隆明などが出てきますが、吉本さんに対する視線や扱いがややヒンヤリしていて、これまでの吉本ファンや吉本読者、崇拝者が見なかった側面を裏側から突いているところがあります。そして、ある意味では鋭い面もあり、私はなかなか興味深く読んだのです。

 この先、橋爪は小熊英二のような若い世代の感性について触れ、そこからはある種、つまらない吉本像が出てくるのはしたないといった指摘をしている。そうなのだろうと思うというのが溜息だ。
 「ヒンヤリ」という表現がうまい。若い世代の社会意識は、結局のところ、そのヒンヤリをもってして、「わたしってお利口!」という自己回帰になっているのではないか、と最近思う。センター試験の得点のように明快だからだ。プチサヨクの社会機能はプチエリート意識の保証でもあるのだろう。西尾幹二や小林よしのりが騒ぐほど、「ふふ、おばかね」とお利口さんは微笑むものなのである。ちょっと溜息が出ますね。
 オタク世代の動物化ではないが、日本の思想はニューアカ時代を経て、一種、テイスト、つまり、センター試験以降の世代がいうところのセンスになってしまったのだろう。そういう時代のなかで、なんとか吉本を解説しようとすれば、この橋爪のようになるのかというあたりこの世代の老いがあり、リキ入れて語れば語るほど滑稽になるのだ。
 団塊世代下の私も吉本は偉大だと思うが、吉本の書いたもののに価値があれば、ほっておいても人は読むのだから、いまごろ騒ぐことでもないかとも思う。内容に時代を超えたものがあれば、山本七平の著作のように死後も復活するだろう。そうならなければ、それでいいのだ。世界の人が欲することがあれば、自然と翻訳もされるだろう。なんとなくだが、吉本の価値はあと二〇年ぐらいして、日本戦後の本格的な総括を米国人学者が行うとき、辛うじて歴史として読まれるのではないか。人も思想も状況のなかで生きている。それでいいし、それでしか価値は問えない。
 橋爪は吉本の身体論について僅かに言及しているが、吉本が三木成夫に影響を受け、新興宗教みたいな言説に傾いていく晩年の部分には触れていない。避けているのではなく、読んでいないようだ。総じて、団塊の世代は晩年の吉本思想がうまく理解できていないようだ。安原顯に代表されるこの現象はなんなのだろうか。
 例えば、私は団塊の世代と共通一次試験世代の狭間にいるから、その位置がもたらす感覚からは、そのはざまの言論人の感覚がわからないでもない。例えば、思想的なスタンスは自分とはぜんぜん違う浅田彰だが、率直なところ、他の世代よりわかっていると思う部分は多い(例えば、浅田彰と高橋留美子は下の世代への影響力の面でも同質だとか)。同じことはどの世代にも言える。それはそうだ。そしてそれだけのことだ。世代のチャートからはごくくだらない話になる。だが、団塊の世代の吉本隆明というのは、あまりに小さいようにも思える。そのあたりを克服しようとした橋爪の試みだが、結局、些細な例ではあるが、シモーヌ・ヴェーユや三木成夫の見落としといいったことになる。
 失礼な言い方だが、すでに吉本隆明は言論人としては終わった。その終わりはある人間タイプの終わりのように思える。戦後の人間のひとつのタイプだ。卑近な例だが、吉本の若い頃には、一人の人間が恋愛をして挫折するという生き様の陰影があったのだ。それはどのように後の世代に重視されるだろうか。いや、うまく問えないので、もっと単純な話にしよう。団塊の世代までは、まだ男と女が生きていた。その男と女とが生きるためには、吉本隆明のように生きるだの死ぬだのの騒ぎを立てることがあった。恋愛に価値があり、恋愛から還元されるように個人が定義できた。
 80年代あたりからそれが崩壊し、恋愛はシステム的な欲望に変性した。もちろん、共通一次試験世代でも恋愛はあり、刃傷沙汰などもあるだろう。だが、その恋愛は個人を定義をしていない。ある可換な価値=欲望として描かれるだけだ。その、存在の可換性とでもいうものが絶えず知を要求する。知はそして、カタログになった。吉本をそこに並べてもなんの意味もない。あるわけもない。
 失礼な言い方になるだろうが、吉本青年が奪い取った女の昔の言葉を引けば、背中でばたばたいう悪魔の羽で飛んでいく人生も面白かったことだろう。ボーボワールがサルトルの死体と横たわるように。そこには恋愛の帰結がある。
 その響きのかけらのようなものは橋爪の本にはないが、団塊の世代の死にはこれから、たぶんいくつか、美しい恋愛の光を放つことがあるように思う。そうした兆候はどこから出てくるだろうか。

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韓国受験事情など

 今朝の新聞各紙の社説はつまらなかった。が、祭りのあとの感じから言うと、しょせんそういうものなのかもしれない。選挙の各党の動向についての議論も概ねつまらない。朝日が社民に向けて民主と合流してはどうですかと言ってあたりが微笑ましかった。政党としての左翼は本当に終わりだなという思いと、いや全然終わってないなという思いがある。小林よしのりふうにしつこく言うわけでもないが、旧左翼の社会的な影響は恐らくまるで終わっていない。それは、ちょうど自民党が山中貞則を消すことができないのと同じことだからだ。当然、これらの弊害はぼつぼつと以前より顕著に現れてくるだろう。すでにエコや戦後問題というネタは面白みもないので何が出てくるやら。ただ、一つ言えることは我々の古い倫理や戦後の理想を質にとる形で問うことは間違いない。日経と読売がWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定について扱っていたが別にどうという問題でもない。端的に米国が間違っているだけのことだし、この問題についてあまり日本がどうこうできることでもない。

 そういえば日本では選挙のお祭りで浮かれていたせいか、隣国だが韓国の話はあまり耳にしなかった。私がうといだけだろか。遅れた話になるが、11月の第一水曜日といえば、日本のセンター試験をもっと厳しくした「大学修学能力試験」通称スヌン(修能)が行われる。ある意味、英国やドイツのほどひどくはないとはいえ、スヌンの結果が大学入学に直結しており、しかも学歴社会の弊害が日本よりひどい韓国では結局スヌンで人生が決まるというくらいの切羽詰まったことになっている。事実上無試験化している日本の大学とは大きな違いだ。未だに四当五落の世界でもあるし、内申も重視されるので、かなり若い人間を精神的に追い込むことになる。自殺者が出るのは当たり前だし、日本同様、験を担ぐので奇妙な風物も街中に現れる。これを滑稽と見るほど日本は異文化でもあるまい(参照)。
 受験競争の過酷さは台湾やシンガポールでも似たようなものとも言えるが、もともとドメスティックな学問の制度の歴史が浅いこともあり、優秀な学生はそうそうに米国や最近ではオーストラリアなどに流れていく。そのまま移民というケースも多いようだ。その意味で、韓国の受験事情などもある意味相対化されていくというか、ある種大衆社会の現象とも言えるだろう。グローバルな背景をもったアジアの知識人はその国の産業界に還元されていくので、個別には日本人には歯が立たないほど優秀な人材も多い。
 こうした点では日本はかなり違う。日本の場合、大学院の知的レベルが低いのでその時点で優秀な学生が米国や欧州に流れ、そして、それらは古巣の大学に還元してしまう。悪い言い方をすれば、お嬢ちゃん、おぼっちゃんの世界だ。しかし、そんなことをくさしてもしかたがないだろう。
 日本でも例外はあった。前沖縄知事大田昌秀は米留と呼ばれるグループで学問は米国仕込みだったし、この70歳大の米留沖縄人は沖縄の中核となった。その後の世代は次第に日留の時代になるが、いわゆる団塊の世代になると途絶える。本格的な日本化が進み、共通一次世代以降は事実上沖縄人はその文化によって裏打ちされるというより、まさにポストコロニアルというかあるいは他の日本の田舎と同じく、辺境化してしまった。ま、沖縄の話が最近多いのでこれはそのくらいで終わり。
 たるい話になったが、日本は大衆レベルではどんどんグローバル化に遅れをとるものの、そうして育成された大衆はある意味、マクロ的に見れば、きちんと消費者として成熟していくのだろう。政界・経済界の爺どもの一部や、ありがちなエコノミストは内需拡大が重要とかいうのだろうが、近未来的に見れば、日本は内需が増えるのだろう。ただ、少子化と団塊世代の高齢化でそうした動向は摩滅してしまうのかもしれないのだが。

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2003.11.11

ベストなドイツ人というトホホ

 ドイツでもっとも偉大なドイツ人というのが話題になっているという話をNHKラジオで聞いた。あれ、まだやっていたのか。そういえば、ベストワンの記憶はない。どうやら今月いっぱいが追い込みのようだ。企画はビルト紙とZDFテレビの共同で、今月中には100人から10人に絞り込んで国民投票みたいなことになるらしい。
 この手の企画は数年前イギリスのテレビの真似で話題になって、日本でも早々にパクリネタで文藝春秋でやった。あれはむごい内容になっていた。
 そんなものがなぜ今頃ドイツで、とも思うが、ドイツだと東西分裂もあり、陸続きの国家でもあるので、イギリスや日本とは様相は変わってくるのが面白いところかもしれない。案の定、前段ではモーツアルトが上がるや、オーストリアからクレームがついていた。ケチがついてモーツアルトは20位。すでにこのあたりですでにおちゃらけ感が漂うが、ドイツ人としては自尊心がそそられる祭りではあるのだろう。
 この話題をざらっと日本語でぐぐってみたが、クロールのとろい日本のgoogleではあまり情報はひっかからないようだ。もっと大衆化してフジ産経あたりで企画しているとかのネタでもあれば大笑いだが…などと思っていたら、昨日日本版のCNNにニュースで上がっていた。で、日本版CNNの翻訳では「最も重要なドイツ人」になっていた。ちと訳語が変な感じがする。ドイツ語では、besten Deutschenだから、英語ではBest Germanだ。しかし、同語源の語だが、語用やコノテーションではgreatに近いのだろうか。
 アメリカはドイツ系が多く、戦中彼らもこっぴどい目にあっていることもあり、ぐぐると話題になっていることがわかる。ABCのニュースではEinstein takes early lead in 'best German' pollと無難にアインシュタインに期待をかけているようだ。
 というわけで、気になるノミネートの10人は以下。知っている人に○を付けなさい(各10点、100点満点)。


  • アルベルト・アインシュタイン
  • ヨハン・セバスチャン・バッハ
  • カール・マルクス
  • ゲーテ
  • マルティン・ルター
  • グーテンベルク
  • オットー・フォン・ビスマルク
  • コンラート・アデナウアー
  • ウィリー・ブラント
  • ゾフィー・ショルとハンス・ショル

 で、何点でしたか? 90点以下は不合格だよ。というのも、「ゾフィー・ショルとハンス・ショル」はちと日本人には難しい。白薔薇の話っていうのは、そんなにドイツ人にとって重要な話だったのだろうかと、私も首をかしげるくらいだ。
 100点満点のテストは冗談だが、このリストを見て、なんとも言っていいのか、正直なところ、苦笑するなと言ってしまっていいものか、戸惑う。個人的には、このチョイスでは大バッハで決まりだが、そんな込み入った皮肉を書いてもなぁ。
 アデナウアーとブラントのリストアップは、ドイツもまだ老人はいるのだという印象くらいで、とりあえず外してもいいだろう。こんなのがベストというのでは、手前味噌過ぎて、ドイツ人もお恥ずかしい。同じノリでさらにビスマルクは外していい。というか、ビスマルクを入れるとはジョークなのか、EUに喧嘩売っているのか。
 ゲーテとグーテンベルクはお子様枠。ドイツ人にマルクスって言われてもなぁという感じがする。ふとそのあたりで、このリストの隠れたテーマは「ユダヤ人」だということがわかる。公のメディアではなにかとユダヤ人虐殺謝罪意識が出ざるを得ないのだろう。ある意味、それで、話は全部終わりってなくらいだ。
 ドイツというのは、文化の側面でみると変な国だ。ルターがリストに上がっているように、日本人のイメージではプロテスタントなんだろう。しかし、キリスト教徒の半数はカトリックだ(ちなみにキャベツことコールはカトリック)。バッハの生涯を知っている人なら、史的に根深い奇妙な混合がわかるはずだ。実際、ドイツでは、戦前から新教と旧教の文化は二分し、その狭間にユダヤ人文化がグリューのようになって、始めて文化としてドイツ文化ができていた。その意味で、ドイツ文化の表層にはユダヤ人の文化活動が出ざるを得ない、根深い構造になっている。
 というあたりで、ドイツのカトリックというのは現在どうなっているのだろうと気になってきた。カトリックの多いザールラント(Saarland)ではbesten Deutschenはどんな響きがするのだろうか。それと、今回のこの馬鹿騒ぎ、トルコ系にはどう聞こえるのだろうか。かつてのドイツは内部の文化的な分裂とユダヤ人文化という三項だったが、現在ではその背後に押し込められたトルコ人の文化がある。それを、めいっぱい隠蔽している現在のドイツって、けっこう醜いもんだよなと思う。

[コメント]
# masayama8 『見当違いかもしれないのですが、二大政党制への布石というような世論形成との対比で、かつての日本とドイツの忌まわしい共通項へ遡った検証をも、潜在的になさっているような印象を受けました。まあ、後段は純粋にドイツの文化の検討をされただけなのだとは思うのですが(苦笑)。ただ、僕は潜在的にであっても、そういう態度は重要だと思うのです。忘却するなと言うことの裏の意味は刻印して記憶に留めるからこそ、次を繰り返さずに済むという意味が込められていると思うのです。忘却を進める人たちは、その副次的効果に全く無責任だと思う。それを考えると、今日なさっている検証と言うのは人それぞれ受け取り方は違うでしょうが、必ずニュアンスはわかってもらえるような気がします。僕がニュアンスを誤読していたら元も子もないのですが(苦笑)。』
# レス 『masayama8さんの読み、というより視点は面白いと思います。否定はまったくありません。自分では、ドイツ人にとってもドイツとは「語られたドイツ」になっていくのだと思います。ベースにあるのは世代交代なのでしょう。同じことは日本でも顕著なのです。それとこのところ、若い学者さんかぁというくらいしか自分は関心がなかった、小熊英二への、ある違和感は、語られた歴史と生きられた歴史の差異を、自分も含めどう語るのかというアポリアに根ざしていると思うようになりました。生きられた歴史というのも要するに語られるわけです。二大政党騒ぎについては日本特有の現象かなという気もします。英国ですら二大政党ではなくなっているということがあまり語られていませんね。話はそれますが、EUではない、ドイツでもないフランスでもないイギリスでもないというあたりのヨーロッパの歴史を再評価したいと思うので、この手の話はまた書きます。そういえば、日本ではポーランドのイラク派兵についての議論も見たことないですね。』

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沖縄切り捨ての読売新聞にむかつく

 開票を見ていた疲れで昨日はぼーっとしていたら、あれあれという間に加藤紘一が復党。まさかと思っていた自分が大甘でした。そして保守新党が解党。これは予想されたことだけど、早かったという感じがした。自民党やその関連の焦りのようなものが感じられる。今朝の新聞各紙社説では読売が「保守新党の合流」とかぬかして自民基盤の強化を喜んでいた。読売って憲法改正の旗を振るせいなのか、いつからこんなに露骨な新聞になったのだったのだろうかと驚いた。デマもがんがん飛ばしている。


菅代表は衆院選の最中、米海兵隊の沖縄からの移転を訴えた。北朝鮮の核やミサイルが日本の深刻な脅威となり、日本自身の安全のために、日米同盟の一層の強化が必要な時、菅氏の発言には、首をかしげざるを得ない。

 ふざんじゃないよナベツネさん、というか読売新聞。米海兵隊の実態や機能をちゃんと調べてほしい。あれは基本的に中近東向けの兵站とインテリジェンスのためのもので、揚陸艦も沖縄ベースの単独では機能しない。これ以上沖縄で問題が起こる可能性を考慮して裏でオーストラリア移転のバイパス・プログラムが動いている。「北朝鮮の核やミサイル」とか脅してデマをばらまく世界最大の新聞だよ、読売。もちろん、対中国的なシフトはある。今回の低周波ソナーだ。だが、この実態を見て嘆かない日本人はどうかしているぜ。このブログでは小林よしのりをなんどもくさしたが、彼の義憤はわかるよ。結語は悪い冗談だ。

憲法や教育基本法は、国家の基本法制だ。政治の最高指導者として、小泉首相自身が、明確な国家像、教育理念を持って主導していくべき問題だ。

 私の意見は珍妙だろうからはっきり言うけど、憲法は成文法ではない。むしろ変な成文法をリメークするより、我々の戦後史の累積の慣習法をきちんと憲法だと考えたほうがいい。国家像は重要だが、教育理念など最低の道徳の問題以上はどうでもいい。そして道徳の退廃はいまや日本人の大人の問題だ。街に溢れる自転車を見ろよ。日本人モラルが狂ってきている。そして小泉に至っては、およそ人間30年も生きてきたらあんな人間、変だと思う。変人宰相とかじゃなくて、人間として変だよ。あえて言うのだが、家庭も持てず、妻子への愛のかけらも感じられない男なんて、相手にしちゃだめだ。高橋がなりが言っていた、確かこんなひと言だったと記憶している。「オレは離婚した男を信じない。」偉いぜ。どんなにエロをばらまいても、おまえさんのほうをまともだと信じる。
 朝日新聞社説「公明党 ― 自民を支える事の意味」は歯切れが悪かった。もって回った青臭いレトリックを駆使しているが、ようするにもっと公明党を批判したいのだろう。

 首都圏では、協力の見返りに「比例は公明へ」と叫ぶ自民党候補も目立った。そんな公明党頼みに、自民党内からは「公明は麻薬と同じだ。よく効くが依存症から抜け出せなくなる」と自嘲(じちょう)の声も聞こえる。

 伝聞ぶっているが伝聞なしが本音だ。その本音をずばり言うのが言論人だと思うね。ま、朝日新聞も広告取りや発行部数の問題などもあってそうもいかないのかという点は武士の情けの部類か。
 だが、以下の言及の意味がわからん。文脈を外しているのは重々承知だ。

忘れてならないのは、創価学会が第2次大戦中に宗教弾圧を受けたことだ。細川政権の崩壊後に新進党に参加したときも、自民党が創価学会の池田大作名誉会長を参考人として国会に呼ぼうという動きさえあった。結局、大切な組織を守り拡大するには、権力の中にいて影響力を持つべきだということになったのだろう。

 これって創価学会への色目なのか。ま、そうなんだろう。それにしても、創価学会の体制の内部崩壊は秒読みになっているのに、なにをのんきなこと言っているのだろう。あるいは、のんきじゃない、別の動きを業界では察知しているということなのだろうか。
 それにしても、公明党を巡る言論のくぐもったこの状況のうっとおしい感じってなんとかならないのか。ならないのだろうな、それが民主主義のコストでもあるんだろうし。

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2003.11.10

奨学金回収不能を嘆く

 最新ではないが、NHKのニュースで日本育英会の奨学金回収不能の話があった。別に新規性はないのだが、この話は心痛む。


日本育英会が、学生などに貸し付けている奨学金のうち、1500億円余りの返済が滞っており、440億円あまりが今後も返済の見込みがないことがわかりました。会計検査院は、日本育英会に回収方法を見直すよう求めています。

 延滞債権1500億円はすでに周知のことなので、どこがニュースなのかといぶかったが、440億円の焦げ付きが正式に認められたということなのだろうか。
 ちとぐぐると、読売新聞サイトのマネーにちと古い情報がある。「フリーター返さず、9~5時 大甘取り立てで“不良債権化”」(参照)。取り立てが甘いぜということか。100人に付き13人はネグっているようだ。どういう了見なんだと記事を読むと、こうだ。

 育英会によると、失業やリストラなどが理由で返還猶予を認めたケースは、99年度が1万7000人、00年度2万1000人、そして、01年度が2万5000人と急増し続けている。卒業しても就職できず、返済猶予を求める人も少なくない。
 一方、奨学生、奨学生OBの自己破産者も増えている。年間1000人ペースで急増中で、現在、計5000人にも達している。当然だが、自己破産者への貸与分は、即焦げ付きということである。

 へぇ~57点、という気もするが、全体から見ればこの数値はたいした意味などないだろう。むしろ、へぇ~62点は、延滞債権が年々単調に増加していることだ。
 育英会は来年度廃止され、新設独立行政法人に引き継がれる。取り立ても外注化されるので、まぁ、厳しくなるのだろう。当然だなと思う。で、奨学金の制度自体はどうなるのだろうかと、ぐぐる。ほほぉという記事が出てくる。こうした点はネットは面白い。「日本育英会は廃止 銀行ローンへ」が良かった。それによると、独立行政法人移管によって、こう変化するらしい。

  1. 現行の無利子貸与は廃止。利率をあげる
  2. これまでの研究職・教職者に行っていた返還免除廃止。猶予は一切なし
  3. 民間委託などにより厳しく取り立てる

 当記事ではこうした傾向をイカンと言いたいらしいが、私は基本的にいいんじゃないかと思う。特に賛成なのは、2番だな。だいたい研究職や教職者目当てにのんびり大学院にいるやつらって、大半はけっこう裕福だった。縁故も多く職に困るふうでもない。同類だと思われるのがいやで、なんだコイツラとか思ったものだ。もうちょっというと、そうして100万円からの金を棒引きにしやがって、むかつくとも思った。ま、当然、こうした思いはやっかみである。
 1番の利率を上げるは賛成しかねる。と考えるに、ようは奨学金なんてものは銀行ローンでよく、むしろ利率部分を国なりが補助すればいいだけのことではないか。それがうまくいくなら、いっそ国がらみの奨学金は全廃していいだろう。
 あと、大学時代を思い起こすに、幾たびか学業成績を盾に奨学金を貰った。10万円単位の金額だが、ちょっとした報奨金ってなものだった。あれは愉快だった。ああいう制度が行き渡るといいだろう。米国などではそれほど珍しいものでもないのだし。
 話を戻して、自分も大学院時代の奨学金を支払っていたクチなので、滞納者の気持ちもわからないでもない。クリスマスが近くなると10万円ずつ返済した。今でいうフリーターみたいに過ごしていたこともあったので、年末の10万円はきついなと思った。
 ある年、繰り上げ返済のオファーがあったので、ええいと思ってやってしまった。思い出せないが、14年払いが12年くらいになったのだろうか。いつまにかキャンパスを離れてそんな月日が経った。大学出てから14年という歌があるが(知らない?)、25歳まで大学院でうろうろして後ろめたい思いがしていた。あのころすでに歳食ったなと思ったものだが、今では30過ぎのオヤジがナンパとかしているものな、なにかと若年化している。地方大学でちと講師をしたおりも、講堂の鍵の開け閉めや生徒の入出・退出の整理指導など見て、こいつら高校生かよと思った。昔の高校生が今の大学生くらいなのだろう。
 奨学金も完済すると寂しい思いがした。昔、大学の事務の人が、完済するとそれはそれで寂しいものですよと言ったことを思い出した。若いときは40歳過ぎてまで生き恥をさらすかよと思ったものだが、晒すものだ。完済する日はくる。完済する日は自分の青春へのちょっとした贈与の終わりであり、ちょっとこっそりと自分に祝福してあげてもいい。だから、滞納者諸君、貧乏しながらでも食を削ってもこつこつと返せよと思う。それが自分の誇りになるのだ。と、説教だ。私は焼きが回っているのである。

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2003.11.09

衆院選が終わったもののなにやら釈然としない

 衆院選挙が終わった。存外に民主党ががんばったかという思いはある。そう思いながらも、開票を見ながら、比例で民主が自民を越えていくのに、なぜこの糞自民党が崩せないのかと過剰な、無益な期待に苛立った。だから投票に行かない馬鹿たれどもにも怒りを感じた。だが、結局私も祭りに浮かれただけのことだ。社民・共産が歴史から消えていく様は小気味よかった。土井たか子が比例で復活したときは落胆したが、思えばこの復活が計算済みだったからこそ彼女は引退はできなかったのだろう。哀れみも感じる。保守新党といったナンセンスも整理された。しかし、公明党が国民の宿痾となっていく様に恐怖を覚えた。
 新聞各紙の社説を眺めたが、間違ってはいないもののなにかピントがはずれているように思えた。そういえば、結局のところ選挙前の社説もなにかピントがはずれている。一つはだれも公明党・創価学会に言及できないことだ。小選挙区では対立候補もありえない山中貞則といった現代版枢密院についても言及は無意味とされたのだろう。だが、端的な話、今日本の税制を改革したいならダメもとでも山中を狙うべきだった。
 山崎拓落選は文春によるものか。この件では文春の功績は高いが、反面、文春も政治に向けては統一的な態度を取っているわけではないようだ。人気商売だからしかたないのだろうし、新潮も含めその泥臭さは悪くはないだろう。
 山崎拓落選で、加藤紘一復党の目はなくなった(と、当初、思っいたら復党した!)。思えば若作りをしているが、小泉を含め、もうけっこうな歳になっている。安倍の後ろで院政を敷く筋書きは途絶えて、小泉はいよいよお姉さんしか仲良しはいないという奇っ怪な光景になる。奇っ怪といえば、古賀がそうそうに小泉支持を打ち出したが、大物落選の光景をみるとしばし野合が最良の策ということになるだろう。それにしても、今回の選挙は小選挙区制の良い面が目立ったが、悪い面としては自民党はさらに農村部のどぶ板に徹した強みはあった。当然その報いは農政に強い悪影響になるだろう。地方自民議員の喜びの声など聞いていると、駅前商店街の活性などというのが未だに強調されているのに驚く。なに考えてんだと思うが、しかし、農政も含め、日本とはまだそういう国であるし、実際のところ、そういう国である日本を一概に否定はできない。そう考えれば、今回の選挙の結果は難しい局面を暗示しているのだろう。つまり、改革を進めればいいというものでもないのだろう。
 もしかするとあまり注目されないのかもしれないが、沖縄の状況が興味深かった。新設四区の西銘の妾の子恒三郎の当選は人徳の勝利というところだろう。三区嘉数知賢の当選は読みどおりだが、大田時代の副知事東門美津子が僅差に迫り、しかも比例で通ったのには若干驚いた。二区出の社民疑惑の目玉だった照屋寛徳も通った。なんと、社民六人のうち、二人が日本の人口百分の一の沖縄から出ているというのは、大田時代の勢いがまだあるという意味だし、ようするに米軍駐留への反感マグマがいつ吹き出してもおかしくない状況なのだ。誇張ではない。この問題は自民党の問題というよりむしろ民主党の問題となるだろうから、民主党はもっと沖縄に目を向けていたほうがいいだろう。一区白保台一の当選は自公協調の結果なのだが、問題はそのおかげで体型からしてオレンジクジラこと下地幹郎の落選は残念な結果だった。人生の大勝負に敗したというところだろう。うちなーんちゅの心意気から野中裏切り組の先陣を切ったのだが、ツメで負けてしまった。残念なのは、彼が通れば、普天間基地問題が嘉手納統合で解決する線があったことだ。この痛手は大きい。そういえば、沖縄といえば、現代沖縄中部に再臨したイエス様こと又吉イエス光雄は今回東京一区で力戦した結果、東京人からも高い評価を得たことが香ばしい。沖縄は多様な芸人を排出するのである。

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野口晴哉

 縦横に巡らされた「はてな」のリンクを見ていたら、野口晴哉がキーワードになっていた。そういえば、筑摩文庫の影響なのか2、3年前ぐらいから野口晴哉の名前を見かけることが多くなった。奇妙な感じがする。脳足りんか如何、というくらい朗らかなる斎藤孝も野口晴哉のことをまじめくさって紹介していた。反面、筑摩文庫版についてのなにかの評で野口晴哉ってトンデモ?というのを見かけたこともある。野口晴哉の本は、ま、常識的に見ればトンデモ、で終わりなのだが、そういうのが受け入れられていく社会になってきた。不思議といえば不思議だ。
 野口晴哉についての解説は、おそらくはてなの自動リンクでできるのではないかとも思うが十分な解説ではないだろう。だが、ネットを引けば意外と情報は出てくるのではないだろうか。と、投げやりな気持ちがする。随分前のことだが、中村天風、桜沢如一、野口晴哉の3人について時代背景を含めて本でも書こうかと思って資料を集めたことがあった。やりながら、自分の頭がどうかしちまったんじゃないかという気にもなった。そうこうしていくうちに、時代は変わり、なんだかんだとこの手のことに関心を持つ人は多くなってきた。私としても、そういう人のご同列ってものな、といううちに資料を散失した。もともとたいした資料であるわけではないので、未練もない。仮に本を書いたとしてなにが言いたかったのかというと、ああいう頓珍漢な体系がなぜ生まれたのかという日本精神の裏を描いてみたかったくらいだ。もちろん、単に否定的に論じるのではなく、野口晴哉についてはフェルデン・クライスへの影響なども視野に含めたかったのだが。
 手元にある書架を見ると、今や野口晴哉の本は一冊しかない。一冊あるだけでもアレ?という感じもするが、いずれ体癖や体運動などの主著作は捨ててもいないので倉庫の奥にでもあるだろう。その手元の一冊は「治療の書」である。野口晴哉が書いたもののなかで、もっとも優れた一冊だと思って、身近に残しておいたのだ。今でも入手可能な本なのか調べると、全生社からちゃんと販売されているようだ。「碧巌ところどころ」などもある。なるほどねという感じがする。
 手元の本は再刊の昭和五十二年版だ。「治療の書」は序文に源氏鶏太に薦められて昭和四十四年に再刊したとある。このおり原稿を追加して、彼はもう治療と縁を切ることができたと言っている。野口晴哉の諸著作を読んでいる人間ならよく理解できるところだ。
 初刊はあとがきを見るに昭和二十六年。整体操法協会の機関誌「全生」発刊に続くもので、人物論的には野口晴哉前期思想の集大成とも言えそうだが、そう言うにはあまりに浅薄だろう。この時代、整体操法協会の成立と併せて、今日ドグマ化されつつある体癖論が整備されていく。そうしたドグマの根はこの時代からすでに見られる。そして、昭和30年代には操法を表面から落として整体協会とし、整体体操だの体量配分計だのができる。

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整体入門
 昭和40年代に入り、野口晴哉は安井都知事と懇意であったこともあり、駒沢体育館で三千名規模の活元運動東京大会を開くが、このころ野口晴哉自身は内心困惑も抱えていたように思われる。世の中の健康観にも付いていけなかったというか、まるで通じない世の中になっていたように見えたことだろう。健康法的な活動から育児法に傾いていくのも、その背景があるだろう。ある意味、この時代が野口晴哉がもたらす活動の全盛期で、その後はさらにエソテリックになってしまう。恐らく、この時期すでに本人自身の体調も悪かったのではないか。
 昭和51年に64歳で死去。大森英櫻が短命でしたねと皮肉るが、いろいろ野口晴哉についての伝説化が進むにしても、そういう一般的な印象は避けられないことだろう。むしろ、野口晴哉が64歳で死んだという意味をきちんと考察したほうがいいのだが、私にはそれについてまっとうに思索されたものを読んだことはない。
 話が前後するが野口晴哉は明治44年年の生まれだ。矍鑠と現役医師の活動をされる日野原重明と同じ歳の生まれだなのだ。アイロニーを弄したいのではないが、生命論だの癒しだので野口晴哉を持ち上げる人はそのことを知っているだろうか。もちろん、頭では理解できるだろう。だが、野口晴哉と日野原重明を並べたとき、大衆の目にどう見えるかを繰り込んで考えることができずに野口晴哉を評価することなどまったくのナンセンスなのだ。それがわかる人はいないのではないか。
 野口晴哉の幼年から少年の境涯は厳しいものだった。預けられた叔父が漢方医であったことから、治療師としての才能を開花させたのだろうとは思う。もともと、天才的な直感を持っていた子供であることは間違いない。後年の上ランクの弟子たちの指導記録を読むと野口晴哉の苛立ちが伺われることがある。元来、この術は習得されるかにかではなく、生得な直感を必要するとしか思えない。だが、そうした超人的な野口晴哉の能力はおそらく自身も理解していたようになにかの代償であったことだろう。
 話を「治療の書」に戻す。「治療の書」は不思議な書物だ。斎藤孝なんぞでは音読はできても理解はできのではないか。

 或人問ひて「死ぬべきに合はば治療する者如何にすべきか」と。安かに死なしむる也。

 生きるべきものは生きる。死すべきは死ぬ。死と定まったという人間はおよそ会うこともない、というふうにまで野口晴哉はいう。屁理屈つけて大げさに理解するまでもなく、死すべき人は安らかに死ね、というだけで、見捨てられている。そう言ってしまえば、野口晴哉の支持者からは誤解だと反対されることだろう。だが、そうか。私など、死ねと言われたくちだろうなと思うから、この事は深刻に考える。
 「治療の書」には描かれていないが、そして、比喩のようにしか語られていないが、晩年の野口晴哉は転生を確信していたように思われる。生きるということは快ではあり、全生をまっとうすることに意義がある、かのように「治療の書」では書かれているし、そこまで書けばいいと野口晴哉は思ったに違いない。だが、彼の内心では、生きるということ自体ある主の生命の流れの硬詰のように見なしていたのではないか。もう少し言うと、性欲の硬詰というか滞りというかエネルギーがなければ、人はさっさと冥府に帰ればよかろうと思っていたのではないか。裡の欲望が「100万回生きた猫」のように失せれば、生きている意義などなくなる。

治療といふこと、体を観ること、もとより大切也。されど人間を観ることもつと大切なり。人間を観ることその裡なる要求を知ること第一なり。人間は要求を実現する為に息している也。その要求を知り之を処理することに治療といふことある也。

 野口晴哉は愉気を提唱した。気は愉快でなくてはならない、と。だが、およそ生きているからには、その生と性のエネルギーの交換は愉悦であるのだろう。だが、生命としての存在それ自体を覆うもっと強いなにかを野口晴哉は見つめていたように思われる。単に絶望というものでもないのだろう。ダークエナジーというのは冗談だが、死を越えるなにがそこに愕然とあって、死を恐れずとし、さらに死に回帰していくものを野口晴哉は見ていたのだろうと思う。

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米海軍低周波ソナーの使用が沖縄から始まる

 選挙である。小沢が転じなければ書くこともない党名、民主党と書く。ここでごたくを並べる私の一票としては無意味だが、一市民の一票であることに違いはなく、意味がある。官僚体制をリセットして欲しいし、地位協定を改定してもらいたい。その2つの願いしかない。
 新聞各紙社説は面白くない。日経新聞社説「無手勝流で臨むSARS対策」はガラでもないこともあり、めちゃくちゃな内容だった。WHOの対応は悪くなかった、なのに「無手勝流」たぁ何様だね。しかも、SARSはまだ人類にとってわからないことばかりなのだ。朝日新聞社説「外国人拘束 ― 家を離散させるな」は日本に11年間無事に滞在したビルマ人を不法滞在で拘束し、難民認定も退けたという。この問題は根深い。だが、なんだか間抜けな文章だった。この問題はご啓蒙では解決しないのだ。
 今朝の話題は、米海軍低周波ソナーについてだ。ニュースとしては、沖縄タイムス2003.11.8「『低周波ソナー禁止を』/安保課長に要請」だ。引用としては少し長いが、本土側であまり注目されていないようなのであえて引用する。


 八月に外務省日米安保課長に就任した藤山美典氏が七日、県庁に牧野浩隆副知事を訪ね、基地問題について意見交換。牧野副知事は米海軍が対潜水艦低周波ソナー(音波探知機)を日本海周辺で使用する問題について、海生生物への悪影響を念頭に「アメリカ本国では禁止されているのに、なぜ沖縄、日本でやるのか」と反対する考えを外務省に初めて伝えた。
 牧野副知事は「沖縄側と何らかの形で話し合いができれば」と述べ、県が米側などとの協議の場に参加したいとの意向を表明。また、日米地位協定改正や基地の整理・縮小、普天間飛行場代替施設の十五年使用期限問題、米軍関係者の事件・事故防止、原子力潜水艦の事前寄港情報の公表などを要請した。
 藤山課長は「現場主義を大事にし、県民の負担軽減に努めたい」と述べる一方、地位協定問題については「機敏な運用改善に取り組みたい」と述べるなど、政府の方針に沿った考えを示した。低周波ソナー問題では、具体的な返答はなかった。

 ここで琉球銀行出の牧野浩隆が「なぜ沖縄、日本でやるのか」と沖縄に言及しているのは、低周波ソナーの実施が沖縄から始まるためだ。少し古いニュースになるが、琉球新報2003.10.16「新型ソナー 米海軍、沖縄近海で使用開始か」によれば、こうだ。

【ワシントン15日=本紙駐在・森暢平】潜水艦探知の新型低周波ソナー(音波探知機、LFA)を日本近海に限定して使用することで、米軍と環境保護団体が合意した問題で、同ソナーが搭載されているのは米海軍音響調査船「コリーシュエスト」(海上輸送部隊所属、母港・ハワイ州パールハーバー、1597トン)であることが15日、国防総省筋の話で分かった。調査船は今月8日に那覇軍港に入港、11日に出港したばかり。こうした状況から低周波ソナーは、沖縄近海で間もなく使用が始まる可能性が強い。

 低周波ソナーについては、私は日本海域全体を覆うことを知っていたが(参照)、沖縄から始まるのかという点には、ちょっとうかつで思い至らずだった。怒りのような落胆のような思いがする。端的に言って、阻止できないのか。私はグリンピースなんて大嫌いだが、もしコリーシュエストの活動を妨害するなら断固支持する。
 低周波ソナーの問題については、山形浩生=ロンボルグ的に言えば、「環境危機をあおってはいけない」のか、という悪い冗談はさておき、被害例は「カリブ海で低周波ソナーの実験中、クジラ16頭が打ち上げられた」というくらいで、科学的にはその弊害については実証されていない。低周波ソナーの基礎知識としてはAP系のワイアードのニュース「米海軍の新低周波ソナーで危惧される海洋生物への影響」が妥当なところだろう。
 それに、低周波ソナーに反対する勢力はあまりに端的に北朝鮮&中共フレンズなんで、この左翼に同調するのはどうかなとは思う。
 だが、私の考えでは、低周波ソナーは最悪だ。生命は強い存在ではあるが、敏感な存在だ。お馬鹿丸出しでいうが、なにより私はうるさいのが大嫌いだ。海も静かにしてほしい。ま、冗談はさておき、実際米国海域では使用を控えるというのは、科学的に見て妥当な判断であるのに、なぜ日本でやるのか。しかもクジラやイルカ(同義だが)の重要な生息地である沖縄から。米海軍と米環境保護団体である「天然資源保護協会」は日本近海など東アジア海域のみに使用を限定することで合意したというが、それって、レーシズムじゃねーの。
 毎日新聞ニュースからだが(参照)、防衛庁としては、他国の潜水艦が日本の領海内を通過する場合は浮上して航海しなければならないが、公海での低周波ソナーの使用は漁業に被害がでない限り制限できない。
 あのなぁ、漁業に被害が出るかどうかアセスメントしろよ。出てからじゃ遅いんだよ。
 とま、いかにも環境保護の意見に聞こえるだろうが、私はもっと頓珍漢な人間だ。危惧しているのは海人(うみんちゅう)だ。沖縄の近海には漁労民がまだいるのだ。さすがにサバニはなくなったし、破壊され尽くされた珊瑚礁のリーフにはほとんど魚はいなくなったが、それでもまだ海人はいる。
 スターリンは農民を大量に虐殺したが、共産主義の理論から間違っているわけではない。社会主義や共産主義にとって本質的な敵は農民だから。彼らを賃金労働者(奴隷)に貶めなくては革命は成功しない。そんな彼らも、不凍港なき大陸だし、海はあっても内海だから、農民よりたちの悪い海人というタイプは知らなかった。海人は自由だ。海人にとって唯一の存在は海だ。全世界は海と私、それだけだ。スターリンに向かって「ふらー、くるさりんどぉ!」といえるのは海人だけだ。
 そういう人間タイプがいて、しかもそれは日本という固有の文明から欠落してはいけない重要な要素を持っている。日本の歴史のなからおよそ人間の自由というものを善悪を越えて探すなら、海人がもっとも典型的な希望のモデルなのだ。海をこれ以上壊せば、日本は海人を失う。海人を失えば、日本という文明の根幹の一つが喪失されることになる。許せん。

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