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2003.11.08

教員の性犯罪を考える

 選挙の話やイラク自衛隊派兵については、パス。今朝の新聞各紙社説で気になったのは2点、日経の「電子政府の遅れを取り戻せ」と朝日の「教員の犯罪 ― 学校あげて病根を断て」だ。どちらもあまり面白くないと言えば面白くはない。日経の「電子政府の遅れを取り戻せ」は標題からもわかるように、日本は電子政府に立ち後れているので推進せよというのだが、なんともよくわからない。自分がどんな電子政府を求めるのかと問うてみても、はっきりとした答えがないことに気が付く。日経に言わせるとこうだ。


日本の評価が低い理由は主に2つある。1つは技術インフラはあるが双方向システムができていない、もう1つは各省庁のシステムに統一性が欠け、一方的な情報が多いという点だ。世界経済フォーラムの「世界IT(情報技術)報告」でも日本政府の電子対応は19位だが、利用度は41位となっている。

 そうなのか? 全然違うのではないか。双方向システムってなんだ? 省庁間のシステムの統一性ってそんな重要なことなのか。別に住基ネットについてがたがたいうわけではないが、日経は全然ピントの違った議論をしているような気がする。私は端的なところ、オンブズマンの仕組みが市民社会に定着するようなシステムだけが必要なのではないかと思う。この話は、別の機会に掘り下げよう。

 朝日の「教員の犯罪 ― 学校あげて病根を断て」も標題以上の内容はない。朝日新聞社説にありがちな扇動的な前口上を除けば、ポイントはこれだけ。


 これらは特殊な教員の突出した事件とは思えない。わいせつ行為で懲戒などの処分を受けた教員は01年度には全国で122人もいた。92年度の5倍近い数である。
 保護者や社会の目が厳しくなったため、事件が明るみに出やすくなった面はあるとしても、性的な事件や問題を起こす教員がこんなに多いのはどうしたことか。

 ん? 多いか? 日本全体の教員数の統計が手元にないが、122人ではどってことない数値なのではないかと思う。で、だ。でも、じゃ、騒ぐほどの問題じゃないと言いたいわけではない。話を端折っると、それっきゃ表沙汰にされてないわけ?という問題だ。
 先日たまたま大月隆寛の雑文のために買った「諸君」(2003.12)に「スクール・セクハラの赤裸々な実態 盗撮、痴漢は当り前? 親が知らない教師の姿。スクール・セクハラから我が子を守るために」との標題でジャーナリストの宮淑子と宮坂聰の対談が掲載されている。「諸君」だものなぁと思うが、このお二人さん、それなりに取材努力が伺われて面白かった。そのなかに、122人の処分についてこうある。

しかし、この数値は公表されたものだけです。数年前、北海道が全体の二割だけ公表し、残りの八割は意図的に隠していたことが報道されていますから、実態はこの数字の五倍くらいと考えたほうがいいかもしれません。

 5倍というあたりは妥当な線ではないだろうか。端的に言って痴漢教師は全国に600人程度だろうなと思う。それでも少ないという感じはする。そのあたりの自分の感覚は、おそらく「偏向」してんじゃないのと言われそうだが…。そう思うのは、以前、リリー・フランキーの「女子の生きざま」(新潮OH!文庫)を読んだとき、洒落というにはかなりひどい実態が裏にあるんじゃないかと思ったこと、それと、eggみたいな雑誌を雑見すると(するか)、けっこうひどい実態があるとしか思えない投稿がある。もちろん、ヤラセというかネタという感じもする。ついでに、自分の経験や過去になにげに聞いた話を総合しても、けっこう実態はひどそうだ。
 私は何を言いたいのか? もちろん、小中高の先生がらみで性が乱れているよ~んというのはある。ロリ化で低年齢化が進んできもちわりぃというのもある。だが、そう「諸君」したいわけではない。
 そのあたりがもどかしくうまく言えないので駄言を弄することになるのだが。そんな思いで象徴的に思い出すのだが、昔のホームドラマ、といっても肝っ玉母さん時代というか1960年代から70年代というところだろうか、しばしば家庭の風景で、旦那を「先生ぇ~」という若奥さんがいた。つまり、旦那は元教師というやつだ。あの時代、それってけっこう普通ことだった。社会もそれを普通に受け入れていた。22歳くらいの男子教師が16歳の女子高校生とけっきょく出来てしまって、24歳と18歳、あるいはその2歳上くらいでしゃんしゃんというわけだ。個人的な印象だと、この風習はけっこう田舎に残っているような気がする。もうちょっというと、これは先生に限らないのだが…さておき。
 現代は女子高校というのが減っているし、ある意味そういう結婚ターゲットの純愛みたいなものはない。だから、そういう表層的なケースは少なくなっているのかもしれない。それに、高校生女子など自立心がなくつるんでいるから、抜けて先生とつるんでいるのはダセーというかそのツルミの規制から排除されるゲというのはあるだろう。さかもと未明が高校生のころ、暗げまじめな感じでオヤジとつきあっていたみたいな話を描いてたが、ポストガングロ系というか、浜崎たぬき系といか街にたむろっている女子高校生はセンコーなんかとできてしまうというのはないだろう。痴漢先生もそそられないのではないか。いずれにせよ、宮台真司あたりがマスコミ受けで語るあたりは彼の言うところの免疫化が進んでいるだろう。
 だが、変態教師が存在するということの基本的な部分では昔も今も変わらない。学校の先生にしてみるとなんで今さらセクハラなのかと思っているだろう。先の「諸君」の対談でも、そんな様子はうかがわれる。

(富坂)非常に腹立たしかったのは、ある教育委員会を取材したとき「そうは言うけど、自分から膝に乗ってくる子供もいるんですよ」と、暗に被害を受けた子供に落ち度があるかのようなことを言うんです。だから「それが教育委員会としての公式見解でよろしいですね」と言ったら、慌てて取り消しましたけどね。

 そんなところじゃないか。だから、返ってどろっとした部分は街に露出する女子学生の陰や田舎にどろっとした温床があるかもしれない、なとも思う。無責任な推測かもしれないが、結果として性についてPTSDのようになっている女性の数はかなり大きいのではないだろうか。
 朝日社説では触れていないが「諸君」の対談にもあるが、どうも現代的な様相としては盗撮の問題が大きそうだ。

(富坂)最近目立ってきたのは、単純に体を触るというセクハラだはなく、盗撮ビデオやパソコンを使用したものです。

 このあたりの心性というのは自分と違いすぎてよくわからないのだが、れいのマーシーもそうだが、止めろといって止めになるものでもなさそうだ。なぜ、このような倒錯が多いのか、については、率直なことをいうと、現代のメディアとの関連があるような気がする。関連して「諸君」ではこうもある。

気になるのは、それらの犯人は私と同じ三十代が中心だということですね。上の世代は直接体を触るセクハラが中心だけれども、わりと若い世代は盗撮が多いんです。ただ、少し取材をしてみた印象では、生徒に人気のある教師が多かったですね。

 率直な印象をいうと、ここにもセンター試験以降の世代のなにか特有な現象が関係していると思う。大月隆寛はその上の共通一次世代の論客たちのメディアでの自己愛的な露出を指摘していたが、問題は大月が暗に問題視する自己愛というよりも、そのピヴォットにあるのは、メディアではないだろうか。
 なんかつまんねー結論になりそうだが、共通一次試験からセンター試験以降の世代へ向かう、巨大な断層というのは、メディアとリアリティの問題ではないかという気がする。そういうと単純過ぎるので、リアリティとはリビドーだと言ってもいいのだが、リビドーだのいうとフロイト批判が知的に思われている浅薄な知的状況では通じないので、端的に性的な欲望としてもいい。もっと現代にすり寄って言うなら、ジラール=ラカン系ではないが、他者の欲望はメディアの媒介とした他者であることを必然としているとなるだろうか。つまり、リアリティがあってそれがメディアを通すのではなく、メディアでスクリーニングしなければリアリティにならないのだ。そして多分、メディアはある種万能感を保証する装置でもあるのだろう。
 もうちょっと奇っ怪な指摘をすると、そこに欠落しているものは糞の臭いであり、糞の臭いへの倒錯された欲望かもしれない、と思う。あまりに唐突な言い方なので、もう少し補足しないといけないのだろうが、人間社会が避けられない糞の臭いがその社会性のなかである調和をもたらされることがなくなったので、逆に現代では単純に糞の臭いが露出している。なのに、メディアを介したリアリティには糞の臭いがないのだ。
 どうも議論を端折りすぎているようだが、このあたりでこの話は止めて、もとに戻すと、痴漢先生を社会的にどうするか? 朝日は短絡的に言う。

子どものサインを素早くつかむことも大切だ。子どもが教員の授業を評価する学校も出ているが、教員の行動についても聞くというのはどうだろう。学校に配置されているスクールカウンセラーにも協力を求め、普段から注意しておけば、危険を未然に察知できるかもしれない。
 教員同士や校長と教員との日常のコミュニケーションも大事だ。互いに授業や子どものことを話し合い、情報を交換し、指導に生かす。当然なことが、ややもするとおろそかになっているのではないか。

 そんなことで解決になるか? というか、実際にあの薄気味悪い学校という制度にいた記憶が朝日新聞社説の執筆者にはなくなっているのだろう。ずばり言う、変な先生はなんとなくわかる(ばれる)ものだ。もちろん、人気の高い先生に盗撮が多いということからすれば、外観からはわからないというのが筋が通る。でも、わかる。若い人間の感性を侮ってはいけない。少数かもしれないが、あの感性は人間の本性を洞察するに余りあるのだ。その感性をどう学校の経営に反省するかだ。端的に言うと、痴漢先生の問題は解決などできない。問題化させないように校長が学校を運営するしかない。
 とすれば、校長が、感性の強い、敏感なアンテナのような一群の子供たちと密かにコミュニケーションを取ることが解決の糸口になる。学校にスパイを撒くようで気持ちの悪い提言に聞こえるかもしれないし、そこまで腹の据わった校長などいるわけないとも言えるだろう。確かに教頭上がりの校長などにはできない。だからこそ、実社会の大人が必要になる。しかも、青年期の苦しみの感性を摩滅していない大人が必要なのだ。

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2003.11.07

再考・太田朝敷と小熊英二の議論に関連して(11.9追記)

 コメント内のレス内の太田朝敷についての言及ですが、morimori_68さん(参照)のご指摘は当然だと思います、が、私の意図は小熊英二がそうだという意味ではありませんでした。このあたり舌足らずだったかもしれないので、少し補足させてください。先のレスで、「太田朝敷なんて結局皇民化だ」というのは、沖縄の言論界でだいたい1990年くらいまでの左翼的な評価としてある程度定着している面があったのですが、彼が新報(琉球新報)の創始との関係や実際に現地ではその謦咳に接する古老も多いことから、旧来な左翼的な評価が定まりにくい傾向がありました。そうしたなか、論集の再刊などを含め、見直し的な考察やまた、左翼的な思索からもれいのポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズが出て、ちょっとイジワルな言い方をすれば、沖縄は文献が豊富なこともあり「おいしい領野」になってくるあたりで、ちょうど小熊英二が出てきて、やっぱ「東大系からはこれかよ」と思ったのです。その意味で、


「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける

 とmorimori_68さんがご指摘されるのはわかります。小熊英二についてその言及が妥当であるとも思います。ただ、私は2点の問題を感じているのです。
 1つ目は、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズにアクチュアリティがないことです。逆にそれがアクチュアリティ乃至状況への知識人の言及に適用されるとき、結局旧来の左翼思想に実質収斂してしまう。というのは、おそらくその背後に結局のところユーマニズムを内包しているからではないか。別の言い方をすれば、人間の終焉、ユマニテの生成・終焉過程としての近代化の発現として植民地化を見ていない、かつ、植民地化として現実のアクチュアリティに連結してみせるが、その支柱となるべき帝国主義論が完成していない。この点、英国のニューレフトのように帝国主義から植民地主義をマルクス的な世界史の動向の正統な一貫として捕らえることができない。これは、多分に、日本やフランスなどの知識人が、知識人階層として結局のところそのナショナルな国家システムに保護されているためだろうと思います。この点は端的に言えば、日本にはラジカリティがないのです。吉本隆明が60年代安保を支援したのは思想の内在ではなく、ラジカリティという思想だった点が日本の知識人は十分に問い直されていません。
 2点目は、「一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける」というときの論者のスタンスはどのように理論構築されているかが、曖昧だということです。この問題は、戦後のヴェーバーの社会科学論、古いところではカール・レービットなどによってかなり深化されていたはずなのですが、結局のところ、日本を含め、80年代あたりのどこかでなにかの屈曲があったように思われます。ソーカル事件でフランス現代思想が実は修辞ではなかったかというプラグマティックな批判がアメリカ思想側からでる、また実質クーンに連動したドイツのフィアーベントの科学批判などもどこかで否定のための否定となり、結果、フランス現代思想が思想による思想のシミュレーションになってしまう(例えば、コジェーヴは優秀なヘーゲル学者でもあるが、ヘーゲル=コジェーヴというのが前提となりデリダの議論が通ってしまうのはごくフランスのローカルな家のご事情)。その屈曲のなかで社会学の科学性が十分にマックス・ウェーバー時代の前提すら考慮されなくなってしまった。端的な話、我々という日本人の知識人が帝国主義者の正統嫡子であるということをポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは弁罪的な内容で隠し、その上で「客観」を仮設することになってしまう(この点で、フランスの知識人におけるアルジェリア問題など最近は日本側では考慮されていないように見えます)。乱暴な議論をすれば、本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などないというのが巧妙に「客観」に隠蔽される結果、別の「アジアなるもの」「アジア諸国なるもの」というのが日本に対立して出現してしまう。結局、日本の知の状況では、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは、そのスタンスの甘さから批判されるべき「日本のナショナリティ」が前提に回帰されてしまうのです。正確に言えば、カルチュラル・スタディーズの議論は、それを解体するはずなので、こうした私の言及がお笑いに聞こえるかもしれません。しかし、問題は、社会学理論の装置の性質ではなく、我々の思想というアクチュアリィなのです。
 小熊英二は、ちょっと皮肉な言い方をすればお利口さんなので、そのあたりの学会(業界)の動向や装置の設定、そしてアクチュアリティへの距離など実にウェルバランスに出来ています。もうちょっと皮肉な言い方をすれば、アメリカ人研究者の博士論文的なスタンスです。が、そこで欠落されるのは、国家性のない侵略という現象とでもいうべき、実際の歴史の状況です。単純な日本の戦後史観では「日本が(主語)アジアを(目的語)侵略した」という命題から日本やアジアとされる国家ないし民族が固定的に実体化されます。しかし、実際の歴史の展開は、あえていえば、アジアの部位が部分的に日本になることで日本化という現象が起こり、それが西欧の侵略の様相を呈したということです。単純な例でいえば、日本の戦犯とされた朝鮮人や台湾人(これはもっと複雑な問題がありますが)などは、侵略の主体に回されてしまいます。
 話がめんどくさくなりましたが、植民地化というのはジオポリティックな現象でなく、スポラディックな発酵的な現象だった、だからこそ、そのアクチュアリティの側面では急進的中核性が求められ、それが日本に課せられたと私は見ています。そして、その課せられるべき日本が実はオーバーロードであることから、偽装された急進的中核として石原莞爾などの満州国の理念が出てくる。
 そしてこの運動は結局のところ、日本の敗戦後も共産主義の形で歴史運動だけは継続していた。ちょっと浅薄で皮肉な言い方をしますが、アジアの赤化は、大衆の側にとって、ちょうど日本の植民地化と同じような現象として実現したのは、もともと同じ現象の一貫だったのではないかと私は考えるのです。
 単純な話にしすぎていますが、日本敗戦後のアジアの共産化の状況を日本の帝国侵略と同じなめらかな現象と見て、現代の日本アジアを位置づけるといった視点は小熊英二にはありません。もちろん、そんな議論は妄想というかもしれませんが、現象のもつ説得性があれば考慮すべきであるし、小熊英二の装置にはそうした問題を扱うシカケが存在していません。私の思索の誤りの可能性を明示化するために、逆にちょっときつい言いかたをすれば、小熊英二の議論は発展性がありません。

[コメント]
# masayama8 『べ、勉強になりました。ここ数日は特に筆致が荒々しい印象なのですが、僕の気のせいでしょうか・・・?』
# masayama8 『朝日にしても田中宇にしても、傾斜し過ぎないようにと思って目を通すようにはしているのですが、細かな整合性ってところについてはおっしゃるような検証が必要なのだろうなと思います。すべての記事に僕は目を通せるわけではないのはもちろんですが・・・態度の問題としてやはり極東ブログさんの立場って言うのは、ひとつ重要な観点を含んでいると思います。参考になりました。』
# レス 『(先日のレスでmasayama8さんとmorimori_68さんと混同してしまいましたので訂正します。)筆致が荒いのは殴り書きがけっこうあるためで、いかんなとは思うのですが、そのホットさ(感情むき出し)もありかと迷います。実際にはあまり手間が取れないことや、どれも掘り下げると深い部分があってできない面もあります。例えば、ホドルコフスキーのオヤジはユダヤ人だとか。また、morimori_68さんがご指摘された「太田朝敷」についてももっと説明する必要はあるかとは思っています。例えば、太田朝敷について典型的な批判(評価)でこんなのがよくあります。「太田朝敷は本土に向けて琉球人差別撤廃を主張したが、それはアイヌと同じするなという差別を含んでいた。太田朝敷は結局くしゃみまで本土人に真似ろという皇民化の推進者だった」、と。この手の批判はなんの意味ないと私は思います。それでは戦後の戦争反省派と同じようなものです。とま、そこを越える説明というのは難しいものです。』
# morimori_68 『はじめまして。小熊英二の太田朝敷論は「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づけるものだったように思います。ところで、ネットでの議論は必ずしも性急でなくてもいい(あとからいくらでも補足や軌道修正ができる)ので、じっくりおこなっていくのが良いのではないかと思っています。』
# レス 『morimori_68さん、コメントで突然ひっぱり出してしまっかことになってしまい、ご迷惑だったかもしれません。であれば、申し訳ありません。また、当然ながら、ネットの議論はじっくりと行うという点について異論のあるものではありません。ただ、メディアとしてのブログの位置づけについて、多少違った試行もあるかとは思います。レス内の太田朝敷と小熊英二については、補足を追記しました。』
# morimori_68 『この件に関する質問を http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしくお願いします。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらにコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、回答ありがとうございました。回答を受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしければお読みください。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらに追加のコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、再回答ありがとうございました。それを受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に描きました。よろしければお読みください。』
# finalvent 『了解しました。そちらにコメントを書きました。たぶん、これがこの件についての最後のコメントになるかと思います。』

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再考・マハティールと田中宇の言及について

 ロシア政局関係で田中宇がまたエンタテイメントを書いているんじゃないかとなと思って、サイトを覗いたら、「マハティールとユダヤ人」という記事があった。読んでみた。うーむ、さすがインターネットを駆使する国際ジャーナリストっていうのは伊達じゃないな。というか、私のほうがうかつの極みだった。せめてはてなの回答くらいにはサーチすりゃよかった。恥だったぜ。というのは、バンコクポスト掲載のマハティールインタビューはネットでちゃんと原文が読めるのだ。Mahathir: Jew comment out of contextがそれだ。
 そしてだ、今回のサーチで我恥じること多しだが、以下の言及を見たとき、やったねと思った。我ながら喝采である。


Anti-Semitic comment: Just recently in Japan the Japanese newspapers put down my talk to me being anti-Semitic. They just picked up one sentence of my speech. In my speech I condemned all violence, even the suicide bombings, and I told the Muslims that it's about time we stopped all these things, and pause and think and do something that is much more productive. That is the whole tone of my speech, but they pick up one sentence in which I said the Jews control the world.

 ちょいと訳そう。

「最近の日本でのことだが、日本の新聞各社は私の発言を反ユダヤ主義に矮小化してみせた。彼らは私の演説の一文だけ抜き出しただけなのだ。だが、私の演説では、自爆テロを含め、全ての暴力を非難している。そして、私はイスラム教徒に向けてこうしたことを止める時期だと言ったのだ。今立ち止まって、もっと前向きなことを考えべきなのだ。これが私が演説で言いたかったことだ。だが、彼らが取り上げたのは、ユダヤ人が世界を制御しているという一文だけだ」。

 ちゃんと聞けよな、日本の新聞各社の糞ったれども! 特に読売新聞!

 田中宇もこういう点は触れないんだよね。
 というあたり、若干話が雑談になるのだが、田中宇の歴史認識ってなんだろう?と変な気持ちになる。ちと長いがこういうくだりなどどう考えたらいいのか。


 これに対し、マハティールは間違っているとする欧米系の一つの論調として「近代民主主義の考え方はユダヤ人が作ったのではない」というのがある。ヨーロッパで、腐敗している教会(聖職者)が神と信者の間を仲介することを嫌うプロテスタント運動が「聖書のみが聖典であり、その解釈権は(教会ではなく)各個人にある」という考え方をとり、そこから「(神のもとでは)万人が平等だ」「(教会や王室ではなく)各個人の意志決定が集積されたもので政治が動くべきだ」という考え方に発展し、それが人権や民主主義という概念になった。(関連記事)
 だが、この歴史的な過程で私が重要だと思える2つのポイントがある。一つは、人間が主体的な選択に基づいて神との契約を結ぶという概念はユダヤ教に強く、プロテスタントの運動はユダヤ教の考え方を借りて成立したということ。
 もう一つは、プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばしたのが欧州での迫害から逃れて新大陸アメリカに入植した清教徒(ピューリタン)であり、彼らが旧大陸から新大陸に渡る際、自分たちの行動を、古代のユダヤ人がエジプトの圧政を逃れて「約束の地」(今のパレスチナ・イスラエル)へと移住する旧約聖書の「出エジプト記」の故事になぞらえたということである。

 田中宇に言わせるとこうだ。

  1. プロテスタントの運動はユダヤ教の考え方を借りて成立した
  2. プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばしたのが欧州での迫害から逃
  3. れて新大陸アメリカに入植した清教徒(ピューリタン)

 それって、トンデモだぜ。1についてだが、田中宇は、プロ倫こと「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んでいないのか? ただのおバカ? あるいは、読んでいてそう言う? 確かにヴェーバーは古代ユダヤ教のエートスを宗教社会学の基礎にすえ、その先にプロ倫を結びつけたが、プロテスタント運動については、カルバンの予定説が重要になる。そして、その予定説は、ユダヤ教とは直接は関係ない(ユダヤ人全体が選民だし)。
 2については、初期入植者が新世界をエルサレムに擬したのはたしかだし、その阿呆な名残は1ドル札のデザインにも残っているが、「プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばした」っていうのは違うぜ。伸ばしたのは、欧州のカルバン主義者のほうだ。むしろ、新世界アメリカの政治的な動向は、ジョン・スチュワート・ミルの「自由論」を読めば示唆されるように、モルモン教などに象徴される。また、そのファナティックな方向はセーラムの魔女のような事件から探ったほうがいい。まさかと思うけど、田中宇は「自由論」も読んでいない?
 なんだか田中宇くさしみたいになってしまったが、率直に言ってそうではないよ。ちゃんときちんと教養を積んでくれよと思うだけなのだ。

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ロシア政局についてまともに書けない朝日新聞

 朝日新聞社説が今朝になって、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長逮捕に端を発する一連の事件に言及しだした。あれ?という感じだ。そして期待通り、へんてこな内容だった。朝日ってなんなのだろう、不思議な新聞だなと思う。毎度ながら啓蒙しくさりのスタンスに立つので、社説「石油王逮捕 ― プーチン氏への気掛かり」はこう切り出されることになる。


ロシアはソ連型の統制国家に逆戻りを始めたのではないか。プーチン大統領は改革者というよりも強権主義者ではないのか。ロシア経済が再び大きく混乱しないか。そんな懸念が広がっている。

 確かにそーゆー問題なので、わかりやすく書いてみせるぜということだろうか。しかし、プーチンが強権主義ということと、ロシア経済の混乱の可能性をさらっと並記する神経がよーわからん。もちろん、私も現代日本に生きているからその雰囲気からしてわかりそうな気がする。だが、気がするだけだ。この2つを並記する神経はおかしい。
 以降、この社説の展開は例によってなにが言いたいのかごちゃごちゃする。デスク入りまくりじゃないのか。それでも、ちと長いが、結論らしき部分の1つはこうだ。

 過去の国有財産の不当な取得や脱税が事実としても、株式を実質的に国有化するような手段をとれば形成途上のロシアの市場経済は大混乱が避けられない。現に、ロシアの株価は下がり、外国からの投資も手控えが広がっている。財閥の資産形成に問題があったのなら、資産の没収ではなく、課税の形で過去の補償を行わせることだ。
 プーチン大統領に期待したいのは、所有権の不可侵、自由な競争といった経済原則と改革路線の堅持をあらためて行動で示すことだ。そうしないと、ロシア経済に欠かせない外資の流入が滞り、欧米との政治的な協調路線も深く傷つく。過去に後戻りすることの危険を思うべきである。

 よーするに「脱税だったら、課税すりゃいいじゃん」ということだ。朝日はもごもごしているが、「そーしないと、資本主義諸国に見放されちゃうよ~ん」というのだ。なんだかなである。朝日新聞の社説ってのは中学生レベルの知能だなと思うが、これが大学入試に使われるのは大学のレベルが落ちているからか、と、くさしはさておき、もちろん、朝日新聞社説の執筆者もそんな低レベルのはずはない様子は韜晦からちらちらとする。その当たりに朝日新聞を読む醍醐味もあるのだがというのは冗談。むしろ、問題はこっちだ。

経済的な影響も心配だ。石油・天然ガスはロシアの輸出額の半分を占める。新しい産業がなかなか育たないこの国を支えているのが、ユコスが代表する石油産業だ。

 と、ユーコスに目を向け、結語でこう受ける。引用が多くなってしまうが、元の文章が変なのだ。

 日本にとっても他人事ではない。政府は東シベリアと太平洋岸を結ぶパイプラインの建設を望んでいる。原油の中東依存を減らすうえで大事な構想だが、そのためにも、ロシアの石油産業が信頼できるものになってもらわねばならない。

 これって、高校生が読めば、そーかぁ、「ユーコスが問題を抱えると日本に向かう石油パイプライン建設の障害になるのか」と思ってしまう。どう読んでも、そうなるんじゃないか、現代国語だと。
 だが、事実は逆。ユコス社長ホドルコフスキーが進めていたのは、中国ラインのほうなのだ。つまり、話はまったく逆。今回の事件のおかげで、日本の石油政策は有利になるのである。
 そのことを知っていて、朝日さんは書けないのだ。便秘のような苦しみだろうなと察するに余りある。
 さらに、この問題の背景については、ごく一文のみ。

プーチン政権内でソ連国家保安委員会(KGB)出身者の力が強まっていることも欧米の懸念を呼んでいる。

 これじゃわからんよな。もちろん、複雑なロシア内の権力闘争を社説で論じるべきじゃないとも言えるだろうが、それにしても日経と比べれば痴呆感が漂う。
 日経の1日付け社説「ロシアの強権政治を案じる」では、欧米のジャーナリズムを踏襲して、KGB系のサンクトペテルブルク派とエリツィン派ファミリーの対立で論じている。ニューズウィークやNHK「あすを読む」でもこの構図だ。しいていうと、日経はKGB系の経済改革派も挙げているが、そのあたりは私にはよくわからない。
 ホドルコフスキーを巡る背景については、日本版ニューズウィーク11.12「ロシア 新興財閥たたきの裏にある闇 大物実業家の逮捕がさらけ出す政権内部の亀裂」のほうが詳しい。欧米のトーンでは、政治にちょっかい出すホドルコフスキーをプーチンが叩きつぶしたということだろう。だから、強権政治だと言えないこともなさそうに見える。
 だが、私は、ちと違った印象を持っている。プーチンはそんな単純なタマだとは思えないのだ。少なくとも今回の件で、欧州側の懸念によって経済的な打撃を受けているが、ロシア国内では支持されているし、日本へもウィンクを飛ばしていると見ていい。問題は米国の動向なのだが、ジャーナリズムのレベルではなく政策側でこの事態をどう見ているかが気になる。それに、今回の事件は本当にプーチン主導なのだろうか。

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2003.11.06

選挙前三日の静かで脱力な日々

 秋が深まってきたと思うが今年は例年に比べて紅葉の色が良くない。山茶花の開花も早かったように思う。近所の和菓子屋に栗羊羹を買いに行ったら、「今年の栗はあまりよくないんですよ」と店の者が恥ずかしげに言う。それを聞いて、国産の栗なんだろうなと思う。しばわんこ和の心である。かく日々が過ぎていく。選挙が週末に近づくわりに、それほど選挙の宣伝はうるさくない。小選挙区制なので勝ちが決まっている選挙区はこんなものなのだろうか。と、日記のようなことを書く。新聞各紙社説を読んでも、今日もぼんやりした感じだからだ。
 朝日新聞社説「あと3日 ― 無党派層さあどうする」を読んで、当然ながら「どうしよう」とも思わない。小沢一郎に最後の手向けの一票を送りに行くだけだ。もちろん、希望を捨てるわけではない。官僚制度を一度刷新しなくてはいけないし、地位協定を改定しなくてはいけない。私がこの選挙で思うことはそれだけになってしまった。
 朝日によれば、無党派とはこうらしい。


3年前の前回総選挙では、投票した無党派層の大半が投票日の直前か当日に投票先を決めたことも、本社調査で明らかになっている。

 朝日にしてみれば、毎度ながら啓蒙しくさってくだっているつもりだろう。私しても、自分もほぼ無党派でありながら、選挙の実態とはこんなものかと思う。そのあたりは選挙のプロが詳しいから、この数日に奇妙な花火が上がるだろう。多分、追いつめられた民主党が阿呆なことをしでかすくらいだろう。例の内閣人事案で大恥こいてまだ上塗りという次第になるだろう。嗚呼。
 もう一点朝日新聞社説の「国民審査 ― 制度を生かすには」は最高裁裁判官の国民審査のナンセンスさをテーマにしている。だが、こんなものナンセンスでいいのではないか。マルかバツを付けるということは、基本的に完璧にこいつは許せんというヤツを排除するためのシステムであり、日垣隆がいくらおちょくっても実際のところ、こいつは許せないという事態ではない。最近はとんと赤旗を見る機会がなくなったが、確か赤旗では、毎回きちんと、最高裁裁判官の国民審査のための資料を公開していた。その点はいくら偏向していても立派だ。ネットにはないのだろうか。
 脱力といえば、毎日新聞社説「軽水炉停止 再開は北朝鮮の誠意しだい」はほんと脱力。北朝鮮の代表は国連で「ジャップ」呼ばわりをしているそうだが、夜郎自大ここに極まるな。こんなやつらに「誠意」なんてものはないよ。ただ、誠意があるかのようにシミュレートする外交というのはありうるかもしれない。難しいところだ。メディアでは田中均を吊し挙げているが、なぜ彼は失脚されないのだろうか。きちんとした裏が知りたいと思うがわかるようで、わからない。
 そういえば、二週間くらい前の日本版ニューズウィークが薄気味悪いほど外務省よりだった。なぜだろう。購読者が多いのだろうか。このペラで400円だものな。私は昔から惰性でニューズウィークを読んでいるが今、どのくらいの部数が捌けているだろうか。やたらと早期教育や英才教育の特集が多いところを見ると、その手の層に色目を使わないとやっていけないラインなのだろう。経営も変わったことだし、日本版なんてやめてただの翻訳にすればいいのに。米版ザカリアはたいした玉だと思うし、R・サミュエルソンは現代の賢人だといえる。その他米系の執筆陣も悪くない。デーナ・ルイスが政治に言及するとありがちな外人さんになるが、この人のオタクのセンスはいい。総じて翻訳もいいし、文章もまあいいから、編集者としての藤田正美の采配はいいのだろうが、この人、頭良さそうに見えて、線が細過ぎるよな。意見は小賢しいだけでつまらない。
 日経新聞社説「農業開国と自給率維持の両立を目指せ」は標題どおり。曰くこうだ。

世界一の農産物純輸入国の日本が「農業鎖国」であるはずはない。熱量換算の食料自給率40%は、英国を除けば、ほぼ100%の自給率を達成している主要先進国の中にあって、際立って低い。

 私は頓珍漢なことを言おうと思う。日本は農業の自給率を100%にすることができる。ああ、気が触れたのか、井上ひさしや野坂昭如になっちまったのか。もちろん、冗談に聞こえるだろうが、日本の国土は日本の国民の飢えを満たすだけの米が今でも生産できる。それだけの米を食っていれば、生きていける。栄養不足? 大丈夫だ。タンパク質だって補給できるし、ミネラル類はその他のわずかな農産物で足りる。戦後の飢えの時代を喧伝する老人も多いのだろうが、あれは半分は本当だが半分は嘘だ。戦中ですら、戦後も日本は飢えていなかった。農産物に由来する飢えというのは、江戸時代でもそうだが、マーケットと貨幣経済の問題なのだ。そもそも日本は戦中悲惨だったとかいうが、あの時代をちゃんと調べてみれば、被爆と都市大空襲というジェノサイド的な事態を除けば、国土の大半はのんきなものだった。ここでも問題は都市部なのだ。沖縄戦のようなことは本土では無かった。
 日本はその意味で戦争も飢えも知らない。そして、本気で腹くくれば、日本人はこの島にへばりついて孤立しても生きていける。そこが日本人の原点でいいんじゃないかと思う。日本人っていうのはそういう国民だろう。とま、もちろん、これは冗談であり、暴論だ。心情的な真実をどこまで読み取るかは、ご勝手にどうぞ。

追記(11.7記)
ニューズィークのサイトに以下のお詫びが掲載されていた。


北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 会長
佐藤 勝巳様
 このたびは、弊誌ニューズウィーク日本版10月22日号の記事「『拉致』された北朝鮮報道」におきまして、拉致被害者の方々がマスコミの個別取材にいっさい応じていないにもかかわらず、当編集部の翻訳の不手際により事実とは異なる報道をいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。
(中略)
平成15年10月28日
ニューズウィーク日本版
発行人
五百井健至

 それって翻訳の不手際なのか。それと、謝罪は発行人なのか。編集権ってどこにあるのだ?

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2003.11.05

[書評]「偏差値秀才クンたちの歪みきった自画像」大月隆寛・「諸君」12

 「諸君」という雑誌はあまり買わない。理由は単純でつまらないからだ。AERAを買わない理由と同じ。機会があれば目次を立ち読みする。それに束のある雑誌はゴミになっていやだなとも思う。文藝春秋で困るのにさらにオヤジ雑誌は要らん、とキーワード「オヤジ」がいきなり出てしまったが、純正オヤジといってもいい私ではあるが、いわゆるオヤジものにはあまり関心がない。オヤジ代表の西尾幹二も好きではない。理由は小林よしのりのいうポチ保守だからではなく、処女作以来の読者だったからだ。ニーチェに挫折した若い西尾がいつからズルムケになってしまったのかなと思い起こす。この人の昭和回顧ものもつまらない。回顧なら小林信彦のほうがいい。「国民の歴史」に至っては、ほとんど盗作ではないかと思う。卑しいとすら思う。
 「諸君」を買ったのは人待ちの本屋でたまたま大月のこの記事を見たからだ。何を言っているのかざっと読んでよくわからないので買った次第。大月の文章は、啖呵よくわかりやすげな雰囲気で書いてあるが、小谷野敦ほど知性がないわけではないようなのので、言いたいことがねじくれている。そして、正直に言えば、そのねじれの奥の意図だけは理解できることもあるので、大月は多少気になる。
 この記事は、小熊英二のツラの揶揄から始まる。多分に恐らく、「諸君」の読者なら、「そーだよな、このツラじゃあね」と思うだろう、という食いつきで書かれている。
 小熊英二については、私は「『日本人』の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで」が出たとき雑読して、とってもつまらかった記憶がある。自分は台湾・沖縄に関心を持っているせいもあるが、「そんなこたぁ知っているよ、で、なんだ?」という印象だった。この人は生身の沖縄人も台湾人も知らねーなとも思った。手元にこの本もないので曖昧な記憶だが、太田朝敷(*1)の苦悩なども理解しないだろう。というか、その苦しみを我が苦しみとするが故に探求するということはないのだろう。ま、総じて岩波・朝日新聞系のスカポンな若い研究者が一人増えたかな、と思ったくらいだ。もちろん、この手のサヨ入りは沖縄でウケがいいのである。100倍優れた与那原恵の「美麗島まで」のウケが悪いのと好対照だ。このねじれが現代に至る沖縄の複雑さを物語ってもいるのだが。
 とはいえ、私には大月が小熊を吊し挙げる理由はよくわからない。田口ランディを吊し挙げた理由も私には皆目わからないので、それ以上の関心もない。だが、この記事では小熊から宮台真司や芸名香山リカなども同じく罵倒しているのだが、そのあたりの感じのほうはわからないではない。短絡した理解でいうなら、偏差値秀才クンたちは実生活に生きる年頃になっても架空世界的な優秀性を強迫的に、かつ自己愛的に主張し続けている、というわけだ。
 率直に言えば、私はその偏差値秀才クンたちの心情や行動パターンもわからないではない。自分にも思い当たる節があるからだ。なにしろ、こんな自慰的なブログを書いていることすら、同類の臭いを放っているのではないか。
 それでも、ここでブログを書き始めてから、テメーも元祖オタク系かもねだが(*2)、下の世代のあり方にかなり違和感を強めるようになった。しばしば「センター試験以降の世代」という言い方をしてしまうのもそのためだ。SPAで漫談をやっている福田和也は、相棒の坪内祐三との間にある種越えがたい世代的な溝を感じているようだが、それを感じ取れるだけ福田がマシなのかもしれない。その溝は、奇妙なほど、センター試験前身の共通一次の時代に適合する。大月に言われて、時代を思い起こす。
 共通一次試験が大学入試に具体的に導入されたのは昭和五十四年度入試からだから、生年としては昭和三十五年度生まれ以降、一九六〇年代生まれということになる。平成二年度以降はセンター試験に移行しているから、その間十年ちょっと、今、浪人や留年コミで概算した実年齢でいうと、現時点でおよそ三十代の始めから四十代の始めまでがまさにこの共通一次世代、ということになる。
 大月は触れていないが、センター試験以降の世代はもっとすごいことになる。初対面で互いに交わす言葉「ね、何点だった?」が「朝飯、食ったか?」の代わりになっているようだ。大月はそういう偏差値秀才クンが社会のエリート層になりつつあることも懸念している。くだらねーなとも思うが、たまたま自分がそういう世代でもなく、そういう世界にもいなかっただけで、実際はよくわからない。
 話を溝のこっち側(オヤジ側)にいる坪内祐三に戻すと、彼の特有な陰影は神蔵美子をめぐる、すえーどんこと末井昭との三角関係(*3)の影響もあるだろう。卑しい興味ではあるが、そうした三角関係が成立する心情を支える最後の時代だったようにも思われる。宮台真司と速水由紀子では陰影もなく洒落にしかならない。福田和也に至っては、ぶよぶよしているのは体質として仕方ないとして、娘のよきパパというくらいの恰幅過ぎておよそ色気というものがない。絞ったら水はでるけど、酒井順子の言うところの男汁は出てきそうにない。
 てな、アホーなことを書きながら、偏差値秀才クンというのはルックスはいいし、実際のところその世代か、その世代以下の女にはモテるのだろう。古今東西音楽家がモテるの同じだ。よく女たちがいう「いい男いないわね」というところの、いい男ってあんなものじゃないか。男は上淫を好み女は下淫を好む、だ。女が四十歳近くなって、若い男とつるむのはその手の理想的なのだろう。でも、だ、古典西洋的な意味では、あーんな男、ぜーんぜん、セクシーではないなぁ、という感じはする。シラクなんてでーきれーだが、あいつはセクシーだよな。
 話がずれまくってきたが、大月ががんばって鉄槌を下したいというのに、あまり自分は賛同しない。自分が間違っているのだろうなとも思うが、偏差値秀才クンを含めこの下の世代に対して、ある種の哀れみのようなものも感じるからだ。自分の優越であるとはまるで思わないのだが、彼らは真に性的な身体を獲得して生きることなどできないのではないだろうか。
 現代の若年の女性は一見性的に奔放になったかのようにも見えるが、実際の身体性としての性からは疎外されているような気がする。そのぉつまりぃ、若い男からは、なかなか男汁が出ないからではないか。それに比して、西原理恵子がつきあう中年男たちは、汁、出まくりだよな。

注記
*1:「おおたちょうふ」と読む
*2:平野文のCDを全部持っていたとか。
*3:http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0804/03.html

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今日は変な社説が多い一日

 今朝の各紙新聞社説は一瞬あれ?と思うものが多かった。なんか日付がずれているような感じだ。連休前に書きためていたのだろうか。ネタが古い。朝日、日経、産経が中国西安の大学で日本人の語学留学生の馬鹿騒ぎで起きたデモを扱っていた。産経は読む価値がない。朝日は日本人学生を責める内容だったという点で朝日らしい。リクルートによる接待旅行では無礼講などなかったのだろうな。日経の社説には呆れた。標題を見よ、「双方に反省迫る『西安事件』」。おいコラ! 西安事件はねーだろ。デスクが通ったのか? っていうか社説ってのはデスクなど複数の目が入らないのか。はっきり言うけど、こんな標題付けるようじゃ、「日本経済新聞のみなさん、歴史に無知過ぎ」。歴史に対する感性のかけらもない。学生の学力低下なんて問題じゃないよ。

 読売新聞社説の「マハティール 長期政権の終焉で迎える新時代」はちょっと驚いた。読売がここまでマハティールに悪意を持っていたとは。何故なんだ、どんな裏があるのかと思った。特に気になるのはれいの反ユダヤ発言とされるマハティール発言への言及だ。
 この経済危機への対処にも見られた反欧米主義が、マハティール氏のもう一つの顔だった。「ユダヤ人が代理人を使って世界を支配している」という、物議をかもした引退間際の発言にも、そうした一面がうかがわれる。
 ことは単純な話だ。この括弧でさも引用とされている発言は本物なのか? でなければ読売さん、デマゴーグだぜ、ということだ。

 今朝の社説のなかでよかったのは毎日新聞社説「火災警報機 義務化は価格引き下げの後で」だ。端的な話、こうだ。
問題は警報機の販売価格だ。米国では1個1000円から3000円で買えるのに、日本では6000円から8000円。設置工事費を含めると1個2万円にもつく。各階に1個が望ましいから、二階屋ではさらに負担が増す。
 ありがちなオチのようだが、結語も悪くない。


市民に負担を強いる施策を講じるなら、消防当局が天下りなども含めた関係業界の実情を見直すことが先決ではないか。

 それにしても、どうしてこういう問題がもっと社会問題にならないのだろうか。
 そうしたことで思い起こすのは、子供の安全ということが米国と比較すると日本ではまるでといってほど問題になっていないことだ。
 すごくわかりやすい単純な例でいうと、小学生のランドセルだ。欧米、オーストラリア、ニュージーランドではスクールバックがもたらす子供の身体骨格への影響など議論されているのに(参照)、日本では皆無だ。ランドセルの形状を見るに、安全性も疑問だ。確かにランドセルが原因の問題というのは、日本の社会にはないしこれまでもなかった、という意見もあるだろう。本当なのか? 電車のなかで通学する小学生を見ても、とうてそうだとは思えない。なのに、このランドセルは義務化されている。
 子供の教育がどうこういう以前に、あの愚劣なランドセルをなんとかしろよと思う。ついでに、公立中学の男子生徒の軍服もやめてもらいたいし、もともと海兵用が奇妙なファッションとして倒錯してできたセーラー服ってなものもだ。
 子供を見ていたら当たり前にわかりそうな問題が看過されているという日本の社会とその言論はなにかとてつもなく狂っていると思う。

追記
 マハティール発言について、英語圏のソースをあたってみたいが、実は杳としてわからない。というのも、いくつかバリエーションがある。

Mahathir reinforces Jew stance
AFP
28oct03
(中略)
The influential Simon Wiesenthal Centre last week called on investors and tourists to avoid Malaysia after Mahathir branded Jews "arrogant" and accused them of controlling the world by proxy.

 間接話法なのでいまひとつわからない。これがロイターだともう少しダイレクトに直接話法になっている。

UPDATE 2-Bush tells Mahathir his Jew remarks are "wrong"
20 Oct 2003 14:16
(Recasts with Bush comments)
By Darren Schuettler
BANGKOK, Oct 20 (Reuters) -
(中略)

"The Europeans killed six million Jews out of 12 million, but today the Jews rule the world by proxy," Mahathir said.

 ロイター通信がいうのだからとりあえず「事実」とする慣例からすれば、読売自前のソースじゃねーじゃんとは思うが、オメーさん、デマゴーグかもというほど責められるべきではないのかもしれない。それにしても、ロイターに依存するなら、ご覧の通り、前半部分をわざとらに編集的にオミットしているわけだ。
 当たり前のことをいうようだが、元の発言は英語ではないのだろう。proxyの原語の語感が気になる。英語の場合は「代理人」で悪くはないが、ネットの串、つまりプロクシと同じなので、背後に身を隠すような含みがある。
 いずれにせよ、このようなニュースが行き渡り、それをもとにブッシュが動いてもマハティールはそれに動じないので、この発言の流布に腹をくくっているとみてよさそうだ。
 私はこの問題への言及は控えよう。金玉縮み上がるものな。ちょっとでも言うためには、アメリカの政治におけるロビーについて、なげぇ~前口上でもしねーとな。

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2003.11.04

再考・藤井治芳解任と裁判員問題

 ブログを書いていると、この文体が自分にぴったりというわけではないが、日常、この文体は使えないことの反動である種の解放感がある。それとクサシ連発の小気味よさみたいなものがあるので、ついそうした自分の快感に堕してしまう。が、自分で提起した問題は、それぞれ自分の心に跳ね返って突き刺さることも多い。いくつか補遺がてらメモしておきたい。
 藤井治芳解任についてだが、そんなの当然だ、もっと早くすべきだったと思っていた。今でもそう思うのだが、ちと、振り回されたかなという反省もある。今週のSPAに掲載された切込隊長こと山本一郎の指摘は優れていた。道路公団はそもそも財務表など造る必要はない、また、解任を急ぐこともなかった。この2点については、そうだなと思う。山本はさらに、Aこと青木の裏をついていたが、この点についてはすでにブログでも書いたとおり。大筋で自分の見解に修正はないのだが、政治ショーにのせられた面はある。
 裁判員問題については、とにかくさっさせとやれ!というのが意見だが、正直、やけっぱちな思いがある。どうせ日本人は裁判員なんかになるまい、と。投票率を見よ、絶望的だぜ、と。しかし、それではいけないなと思う。ヤケは禁物だ。とにかく実動できる制度は模索すべきだろう。
 他、ヴァイコディン回りの話やイラク問題などにも少しぶれる思いがあるが、それはまたの機会にしよう。

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三題話、図書館・地位協定・栄養学

 今朝の新聞社説から気になった点をざらざらと書く。テーマ的には関連の薄い落語の三題話のようなものだ。

 朝日新聞社説「図書館 ― 時代に合わせて変身中」は現状の図書館が時代に適合するべく努力しているという、わずかな例を挙げて作文を書いていた。文章の顛末としてはそれでいいかもしれないが、社会問題として捕らえると数値のほうがわかりやすい。
図書館の数は毎年70館くらいずつ増えてはいるが、まだ10万人に約2館にとどまっている。英国の9館、ドイツの17館などとは大差がある。
 ただし、誰でもわかることだが、日本で館数だけ増やしても無料化貸本屋ができるだけだ。欧米の場合、国よっても違うがどちらかというと小型の公文書館的な役割があるのだろうと思う。いずれにせよ、ようは日本の地方図書館がどのように公共にサービスするのかという点だろう。現状では、生活者なら知っているが、図書館はごくわずかな人々へのサービスにしかなっていない。サービス対象者を増やせというのではなく、ルソーのいう一般意志的なありかたからなにをサービスするかが問われなくてはいけない。端的に言えば、これから市民が官僚をねじ伏せる道具が提供されなくてはならない。

 日経新聞社説「外交・安保で共通の土俵はできたが」はありがちに見えるがよく書けていた。確かに端的には「自民は米、民主は国連」である。だが、日経が些末な事項として追加している以下が決定的に重要だ。
 両党の政権公約をみると、このほかには自民党が防衛庁の「省」昇格、民主党が日米地位協定の改定を掲げているのが目立つ。
 はっきり言う、防衛庁を「省」にしてはいけないし、日米地位協定は改訂しなくてはいけない。そのためだけに、今回の選挙は民主党を支持するというのは、まっとうな日本人の選択である。あえて言う、日米地位協定とは沖縄の問題だ。これまで本土は沖縄に結局のところ金のばらまくことでこの問題に蓋をしてきた。構造的な差別である。同胞の人権すら危ぶまれているのに本土市民は動いていない。沖縄から米軍を撤退せよとまでは言わない。だが、日米地位協定は改訂されなくてはならない。

 産経新聞の「『食』教育 学校で指導すべきことか」は愉快だった。産経らしさが良く出ていた。結論は、「食育は本来、家庭の役割である」と言うのだ。だが、当然のことながら、そんなことは無理だ。実現するべき家庭がないのだ。食を維持するための家庭とは、最低でも4人の構成員が必要だ。3人暮らし以下でしかも生活時間のペースが共有されないのに食をその場で維持するのはシステム的にも無理だ。栄養が問題なら、むしろコンビニでサポートするという逆の発想が必要になるし、現実はそう動きつつある。
 もっと重要なのは、学校に食の指導を導入することで、あの古くさい女たちの栄養学が権力となってしまうことだ。今ですら、日本の栄養学の惨状は目に余る。トランス脂肪酸についての考慮すらないのだ(*1)。なのに日本の栄養学の弊害が社会的に目立たないのは、この点において米国の惨状の実態しか日本からは見えないせいもあるだろう。だが、栄養学の学としては米国はあれで先進国でもある。だから、知識をもって食の選択が可能になる。
 まだはっきりと追及しきれたわけではないが、ラジオ体操同様、日本の栄養学とは軍国主義、というか軍隊主義の名残りなのだ。それが戦後のGHQ下の統制でも、欠乏を避けるために実質延長されてしまった。もうこの手の栄養学は廃棄されてもいいくらいだ。繰り返すが、栄養学とは所詮兵站の一部なのである。臭い肉を食わせるためにカレーライスを作り、外地の水に当たらないように茶を飲ませる。牛乳で下さないようにヨーグルトを推薦したかったのだろうが、それだけの国力がなかった。それでも日本は腸内菌についてはメチニコフ学説の導入が早かったこともあり研究は先行していた。軍への適用は間に合わず、戦後に市場に出てきた。
 読売新聞社説「糖尿病 腹八分と歩く習慣が予防のカギ」という愚劣な論説も、現行の栄養学の弊害そのままでもある。自分も批判対象になることを了解していうのだが、人間の健康維持の学問に素人なやつらはつい既存の「学」の大衆向けの上水を垂れ流すだけだ。その結果が常識に合致するならがいいが、そうでもない。最新の栄養学の知見がないなら、まともな常識で考えたほうがいい。例えば、「糖尿病になるのは栄養が過多だからだ、だから食を減らせばいい、なぜなら栄養過多ではない昔は糖尿病が少なかった」という提言がある。
 常識的に考えて欲しい。端的に言ってなぜ平均寿命が延びたのか。栄養が十分になったというのが最大の要因だろう。20世紀医学の最大の敵だった結核も統計をよく見れば抗生物質の勝利ではなく栄養の勝利であることがわかる。
 「栄養のほどほどのバランス」が良いといった折衷的な意見もあるだろうが、常識的に考えれば、栄養過多というのは栄養が社会に充足することに必然的に内包される事態だ。むしろ、過食や偏食になるシステム的な要因とその要因を支える心理的な問題を社会システム的に解決したほうがいい。
 最新の栄養学の知見からすれば、グルセミックロードが問題だ。砂糖がブドウ糖果糖液に置き換わることによる果糖代謝が脂肪蓄積に関連している点も構造的な問題だろう。
 なにより、これを生活習慣病として個人に責務を追い込む厚労相の詐術に気を付けなくていけない。医学的に見れば、生活習慣病の大半は実は遺伝的な問題なのである。遺伝の問題というのは、個々人がそれを周知して管理しなくてはいけないものなのだ(*2)。

注記
*1:もちろん病人を相手にする管理栄養士には考慮する人もいないではない。例えばここ。しかし及び腰。ちなみに管理栄養士と栄養士は違う。
*2:例えば、糖尿病の人はαリポ酸のようなサプリメントを活用するのもよいと思う。これについてはドイツで成果報告が出ている。サプリメントはなんでも不要か危険かといったレベルではどーしょーもない。

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2003.11.03

試訳憲法前文、ただし直訳風

 文化の日というのは、明治節の焼き直しなのだが、サヨ全盛の戦後は、GHQがわざわざご配慮してくださった憲法公布の記念日を戴き、傷口のかさぶたのようにしている。GHQの新聞検閲は廃止されたけど、その伝統は、なーんと産経新聞にまで生きているので、今朝の新聞社説は産経新聞まで明治節を忘却し、憲法の話ばっかし。小林よしのりが言うところのポチ保守なんてこんなもの。もっとも小林よしのりの歴史観や民族なんてものも、古事記が偽書(*1)であることも認めたくない近代の偽物だなのが。
 明治節とは戦前の四大節のひとつで明治天皇の誕生日を祝ったものだ。1927年に制定され、1948年に廃止された。それにしても珍妙なのは、明治天皇が生まれた時代には日本はキリスト教国が採用するグレゴリオ暦になっていなかったのに、天皇誕生日までキリスト教風にコンバートしてしまった。
 明治天皇睦仁(むつひと)は孝明天皇の第二皇子。幼名は祐宮。「さちのみや」という。有名な童謡「さっちゃん」の原型である(大嘘)。1852年生まれ。もちろん旧暦で、9月22日。ちなみに今日は旧暦で10月10日。古来日本には西欧キリスト教徒のように誕生日を祝う悪習はないのだが、1か月もずれているぜ。
 睦仁親王は1867年に践祚。っていうことは、天皇位に付くのは満で14歳。恐らく35歳で病死とされたおとっつあんの孝明天皇は暗殺だろう。親子の情の薄い天皇家とはいえ、14歳で親が殺されるっていうのはどういう感じだろうか。というのが彼の伝記から読み取れるなら、数学的帰納法的に孝明天皇暗殺の信憑性が高まる。

 さーて、今朝の話題は…と思って、そういえば、以前なんかのおりに試訳した日本国憲法前文の原稿があったっけと思って探すとあった。今読み直すと、げっ、だ。なにがゲロゲローなのかというと、なんとか日本語にこなそうとしていたため、まるで池澤夏樹風になってしまっているのだ。

 憲法がお好きなかたかたちやそれを文学的に見る人は、きれいな訳文にしたがるようだ(*2)。だが、このゲロゲローを読み直すに私の訳文などなんの価値もないのだから、いっそ直訳にしてしまえ! というわけで、以下、私の直訳風に戻して垂れ流す。見ればわかるように、完全に直訳じゃない。
 でも、逐語訳に近いから、誤訳があれば見つけやすいだろう。
 率直なところ、日本国憲法の原文(法的には違うのだが)の英語って、ものすごく変。この変さを味わってもらいたいと思う。そのため、原語の語感を強調した。pledgeなど強調しすぎて誤訳に接近しているが、こういう語感があるのだ。
 憲法原文の変さかげんを歴史的に解明した本をついぞ読んだことがない。なにしろ英語が変なのだ。いわゆる理科系の文章のようだ。フツー、憲法にcontrolなんて使うか。米文学者にこの変な英語の由来を期待したいくらいだ。が、文学者は技術英文に弱いからなぁ、やっぱだめかも。
 特に留意してもらいたい点がある。


  • 商用取引の用語が多い。商売感覚で読むと良い。
  • 思想の根幹には「高い理想をもって人間を制御する」とある。スキナー(*3)かよ。
  • the peopleとは国民であり、これがNationに対応している。
  • 日本国憲法はNationの規定なので、Stateは別扱いになっているようだ。
  • この時点で沖縄が含まれておらず、将来的に沖縄は別ステートになる可能性があった。
  • 原文本文でもNationとStateは対立しているが訳文の現行日本国憲法からはわからない。

THE CONSTITUTION OF JAPAN
 日本の憲法
【第1文】
We, the Japanese people,
 私たち日本国民は、

acting through our duly elected representatives in the National Diet,
 正式に選挙された国会の代表の活動を媒介として、

determined that
 以下のことを決定事項とした、

we shall secure for ourselves and our posterity the fruits
 その決定事項は、私たち自身と子孫のために以下の成果を保証すべきだということだ、

of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land,
 その成果とは全国家の協調と(日本の)国土に行き渡る自由という恵みだ、

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、

do proclaim
 さらに、以下のことを宣言する、

that sovereign power resides with the people
 主権(統治権)は国民にあるのだと、

and do firmly establish this Constitution.
 だからこの憲法を固く打ち立てる。

【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

【第3文】
This is a universal principle of mankind
 以上のことは人類の普遍的な原理であり、

upon which this Constitution is founded.
 その原理の上にこの憲法が打ち立てられている。

【第4文】
We reject and revoke
 (だから)私たちは次のものを拒否し廃止にする、

all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
 (拒否し廃しにするものは)以上のことに矛盾する憲法や法律、地方条例、勅語である。

【第5文】
We, the Japanese people, desire peace for all time
 私たち日本人は常時平和を望み、

and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,
 人間関係を制御する高い理想というものを深く意識して、

and we have determined
 以下のことを決定事項とした、

to preserve our security and existence,
 私たちの安全と生存の保持は、

trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
 平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しよう、と。

【第6文】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for
 私たちは、以下の努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う、

the preservation of peace,
 (努力の目的は)平和の維持であり、

and the banishment of tyranny and slavery,
 (努力の目的は)独裁制度と奴隷制度を払拭することである、

oppression and intolerance
 また払拭する対象は圧政と異説を受け入れない態度だ、

for all time from the earth.
 こうしたことを常時この地上から払拭されるように努力する。

【第7文】
We recognize that
 私たちはこう理解している、

all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.
 世界のどの国民も平和で恐怖や貧困のない生活を過ごす権利がある、と。

【第8文】
We believe that
 私たちはこう信じている、

no nation is responsible to itself alone,
 自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在しない、と、

but that laws of political morality are universal;
 そうではなく、政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである、と。

and that obedience to such laws is incumbent upon all nations
 だからこのような規則を守ることは、どの国家にも課せられた義務である

who would sustain their own sovereignty
 その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている、

and justify their sovereign relationship with other nations.
 また、その義務は他国との関係で主権を正当化しようとする国に課せられている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

注記
*1:現代の文献学で日本書紀や万葉集などを成立史的に解析すれば、日本語の表記は疑似漢文訓読方式から仮名へと時代変化することがわかる。古事記に見られる整備された万葉仮名の成立は時代的に新しい。古事記が文献的に明らかになるのは、太安萬侶の子孫の多人長が記した弘仁私記序なので、偽作者はおそらく多人長だろう。
*2:ちなみに共同訳の聖書もそのくちなので私は大嫌いだ
*3:参照

[コメント]
# noharra 『興味深く読ませていただきました。ありがとう。』
# レス> 『なにかの参考になれば幸いです。「国民」については池澤さんなども訳に抵抗があったみたいですね。』
# shibu 『江藤淳の3部作で占領時代であることの具体的意味を考え、西修の文庫版で占領開始それも2年も経たないで着手1週間でニューディラー若手(文献集めたのは22歳タイピストのベアテ・シロタ)がデッチあげた代物であることが、やっとわかったりしました。これを採用した(せざるを得なかった)のは幣原個人の決定であるとか突き放す説もあるようです。要は、継接ぎ杜撰の見本でこそあれ検討には値しないってことでしょうか。ご提示の直訳で、手持補強w資料が増えました。』

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2003.11.02

仁科五郎盛信

 先のブログのジョークに一部の人にだけウケを狙って「信濃の国」五番をつけたものの、ふと仁科五郎盛信が気になった。センター試験以降の世代でも、多少なりと日本史を勉強した人間なら、春台太宰、象山佐久間あたりはわかるだろうが旭将軍義仲となるとちとどうかな。芭蕉好きなら名句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を思い起こせるかもしれないが、このあたりのことが日本人の常識でなくなりつつある。そんなことも知れねー知識人も多いのだろうなと思うが、一喝できるのは高島俊男くらいか。
 まして「仁科五郎信盛」となると、歴史好きにはこたえられないキャラなのだが、「知らねーのかバカ」とか言ってバカの壁を造るとこちらもちと不親切ということになる。とはいえ、この手の郷土史の話題は意外とネットに事欠くまいと思ってぐぐると、たしかに、そうだ。まったくネットってなんだろうねと思うが、これは悪いことではない。というわけで、「仁科五郎信盛」についてはぐぐればある程度わかると思う。それどころか広辞苑やハンディな日本史の辞典には仁科盛遠は載っていても、仁科五郎盛信は載っていない。
 仁科五郎盛信は名前の五郎からわかる武田信玄の五男。名歌信濃の国では「信盛」としているが歴史上は「盛信」。母親は油川氏。仁科氏を名乗るが武田信玄は仁科氏を滅亡させているので、領主として氏名を継いでいるだけで仁科氏の血統ではない。信濃の国で誇りとして歌われているのは、織田信長の長子信忠の5万もの軍に3千の軍で立ち向かい、潔く散ったことによる。長野県人は強者にも屈せず、負け戦もものともしない、と言いたいところだが、真田家の生き様など江戸時代は狂歌・狂句のお笑いネタになったものだ。
 仁科五郎盛信の妹松姫は7歳で織田信長の長男信忠と政略で婚約しているが(婚儀は盛大であった)、後、事の次第はかくなるわけで、婚約は果たなかった(恋心を抱いていたとする物語も多い)。仁科五郎盛信戦死に際して、松姫は現在の東京八王子に逃げ、本能寺の変で織田信忠の死を聞いてから、深沢山心源院で得度。22歳。ちなみにこの寺は「夕焼け小焼け」の歌の発祥地である。
 松姫はその後、現在の八王子市街の小高い丘に庵を建てこれが後の信松院になる。八王子はのちに織物を名産とするがこの起源は松姫に帰せられているようだ。私はこれは中将姫伝説の変形ではないかとも思うが、あるいは中将姫伝説がむしろ中世末の女性の原型を造ったのかもしれない。またも余談だが、中将姫は日本史上重要な意味を持つと思われるが、ついぞ研究を見たことがない。史実中心やフェミの歴史など糞喰らえである。
 松姫の逃避で一緒に連れて来た盛信の娘督姫もその後得度したが29歳で亡くなったとのこと。現在は極楽寺に改葬されている。余談もこれで終わりだが、子連れの極楽寺散策のおりは、その近くの「こども科学館」に寄るのもいいかもしれない。入場料のわりに展示はしょーもないので、イベントを目当てにするといい。浅川へと出ると、荒井呉服店の娘荒井由実の歌の光景がそこにある。

追記
 我ながらちとうかつだったが松姫の物語は、松姫に焦点を当てるより、実際はその背景ともいえる八王子千人同心が歴史的には重要になるのだった。この特異な半農・半士の武田遺臣はそのまま徳川に従属するのだが、その際、子仏峠を越えて甲州に往来しその織物を売買権する特権が与えられている。これが後に横浜・八王子を結ぶ絹の交易のベースになる。

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新聞の社説は今日もつまらない

 散漫な感じの日なので、散漫なブログを書こう。まず朝日から。「若者と雇用 ― 君の票が明日を決める」は変な話でもあるし、お得意のお説教だとも言える。手に職のない若者はどうするのだという問いかけに、論理飛躍で「その責任の一端は若い世代にもある。若者の投票率はあまりに低いのだ。」とくる。ここにバカボンのパパの挿絵を付けてもらいたい(はじめちゃんとママではダメだ)。お説教マシーン(浅田彰の真似しぃ)はこう言う。


前回の衆院選で20代前半の投票率は35%にとどまった。一方、60代は80%に届く。政治家たちが、どちらの言い分に耳を傾け、大切にするかは明らかだろう。

 そうかなぁ、と思って脱力する。違うだろぉとか言うだけの気力もない。公明党なんてしょーもない政党が国政に関与しているくらいだから、統率されて投票する集団の力ってのは大きいなとも思う。だ・が・ねぇ。私自身今回の選挙は民主党に投票するつもりだが、小選挙区の民主党の候補を見るとやはり脱力する。
 ところで朝日新聞の社説にこうあるのだが、みなさん違和感ないのでしょうかね。とま、社説の主張についてではなく、用語についてだ。

日本はどうだろう。自民党の政権公約には「実務・教育連結型人材育成システム」(日本版デュアルシステム)、「若年者のための地域ワンストップセンターやトライアル雇用」など目新しい言葉が並んでいる。これらは政府がすでに打ち出している政策だが、成果はこれからだ。

 「デュアルシステム」って、零時にメート系に切り替わるのかねとわけのわかんない突っ込みを入れよう。「ワンストップセンター」かよ。脳裏に漫談が浮かぶ。「そのぉ、なんでんな世の中便利になってきたっていいますが、わたし、先日ワンストップセンターにいってきましてな」「なんやねん、そのワンストップセンターって」「知りまんへんのかぁ」「なんやて」「犬がぎょーさんおって……」……。
 「トライアル雇用」ってさ、私はイチゴのトライアルがいいなぁ、栗もいい(駄洒落)。ってな感じ。「マニフェスト」ねぇ。ま、今回の選挙で選挙公約のありかたが変わったのでその強調というのもわからないのではないが。ちなみに、世間でマニフェストのことをマニュフェストと呼ぶ人がいて、一部の人がアホかとぐぐっているみたいですが、あのね、そんなものぐぐるなよって。ぐぐるは気を付けないと阿呆になりまっせ。ちなみに「アフェリエイト」でぐぐってごらん、「アフィリエト」が出るから。「マタイ受難曲」でひくと先日まで「タイ旅行」のアドワードが出た(今日は出ない)。
 話変わって。読売新聞社説「中国反日デモ 過剰な民族感情に益はない」によると、こうだ。

 発端は、西安の西北大学の文化祭で、三人の日本人留学生が演じた寸劇だ。三人はそれぞれ、「日本」「中国」「ハートマーク」の書かれた札をつけて、卑わいな格好で踊った。
 留学生たちは「日中友好の気持ちを示そうとしただけ」だった。だが、見ていた大学の教員や学生は、下品さが度を超しており、中国人を侮辱していると感じ踊りを中断させたという。
 中国人学生らは謝罪を求めて市内をデモし、寸劇とは無関係の二人の日本人留学生が殴られる事件も起きた。

 読売はこれに「しかし、寸劇への反発が、大規模なデモにまで発展したことには、強い違和感を覚える。」としている。ふーんという感じだ。西安はそんなに田舎でもないとも思うのだが、このレベルの低さはなんだろうか。別の裏があると思うのだが、読売はこんなふうに話をまとめて終わりかぁ。
 話変わって、毎日新聞社説「地方と財政 風に舞う大風呂敷の真贋」の冒頭で首をかしげた。

財政の視点から見ると日本には二つの政府が別個に存在するように見える。中央政府と地方政府である。

 え? 中央政府と地方政府とは別個でいいんじゃないの? とまこの先はこうだ。

だが地方政府は地方に存在するのではない。この国の地方政府は中央政府の中に「総務省」という形で同居している。中央政府の中の権力が「地方支配」の点で二重構造になっていることこそが、税財政改革を決断しようという時の大きなネックになる。

 ま、そりゃそうだ。で、結語は「地方の財政改革は交付税のシステムを抜本的に変える必要があるが、その肝心の点はどこの党も触れていない。」とするのだが、ここでまた、で? と首をかしげる。そうなのか?
 気になったのは、もちろん、交付税もだが、地方に散在する各種の団体への補助金や地方政府の長が官僚の天下りの構造のほうがベースにあるのではないか。ええい、もっとはっきり言うと、地方は今の状況で満足しているんじゃないか。もちろん、ヤッシーのような例もあるが、あれは…象山佐久間先生の長野県の人たちだから…。
 ちなみに、象山佐久間先生は「ぞうざんさくませんせー」と読む。では、五番から歌います。声に出して歌う日本語です。みなさんもご一緒に!

旭将軍義仲も仁科五郎信盛も
春台太宰先生も象山佐久間先生も
皆この国の人にして
文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ
川と流れて名は尽ず

 書いていて空しくなってきた。読まれたかたがいたら、もっとつまんねーとか思うだろうな。他にネタねーのかよとね。ま、あるにはあるんだけどね。連休だし、脱力。

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