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2003.11.01

麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想

 今朝は日経新聞社説「ロシアの強権政治を案じる」が良かった。考えようによってはなんてことない話なのかもしれないが、私はこの問題は日本の今後にも関わってくるだろうと思う。当面の事態は表面的にはウォロシン大統領府長官の解任だが、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長の逮捕に関連している。問題は背景にあるロシアの政治だ。と書きながら、この話題は今朝は割愛する。
 今朝はどうしても麻原裁判結審への言及を避けるわけにはいかない。範疇は時事を避けて歴史とした。歴史の問題ではないが、時事でも社会の問題でもないので便宜的なものだ。
 麻原裁判結審で意外にも思えたのだが、社説で扱っていたのは読売と産経だけだった。朝日と毎日は避けているという印象を受ける。当然、この問題について悪しきポピュリズムを越えられない読売と産経だから社説には読むべき内容もない。今さら麻原を悪だと言い立ててもサマにならないので、国選弁護団の姿勢を叩くということになる。おきまりってやつだ。もっとも、まだ結審の段階で判決ではないので、しかたがない面もある。
 判決は来年2月になる予定だが、おそらくその判決には新規性はないだろう。私の勘違いかもしれないが、裁判はこれで終わるわけでもないだろう。今回の結審までには256回もの公判があったものの、そこから我々の市民社会が受け取るものはほとんどゼロに等しかった。すでにこの問題は日本の社会から終わってしまったかのようだし、その気分を私も共感しないわけではない。
 結審に関係ないといえば関係ないのだが、たった一つだけ喉に引っかかった魚の小骨のような思いだけがある。些細といえば些細なことだったが、当時論壇やジャーナリズムを巻き込んで麻原を擁護した吉本隆明の主張だ。眼帯のまほこちゃんこと吉本真秀子(よしもとばなな)の家庭教師だった芹沢俊介を除けば、サリン事件以降、吉本を支持する論者はいなかった。こいつらは馬鹿かと思われるような論者やジャーナリストは一斉に吉本バッシングを始めたが、私が吉本シンパだからかもしれないが、結局吉本の強さが際だつだけだった。ちょっと知恵の回る論者なら、この問題を避けてしまった。
 実際はどれほど吉本シンパであっても吉本のこの立ち回りは理解できなかったのではないだろうか。率直に言えば私もその一人だ。もちろん、心情的には理解できる。昔吉本はこう言っていた。そのままの言葉ではないがこんなトーンだ……オレが銃をもって立ち上がろうといってついてくるヤツは四百人だろうな……、と。そう、彼が銃を取るといったら、いよいよ革命に参列するかな、と心に誓う人間がいた。それを待ち続けながら、現在、もうろくしていく吉本をじっと見ている。
 今思うと、老骨吉本は麻原擁護において60年代闘争よりも過激だった。麻原を擁護できずに日和っているヤツラへも鈍いながらも痛罵を喰らわせ続けていた。蓮実重彦がなにかの対談で、吉本に天皇制へのようなある種の怖さを感じると漏らしたことがあったと記憶しているが、吉本の怖さというものだけが奇妙な形で浮き上がってきた。ある意味、そのきつさだけを私も自分に感じている。
 言葉の上っ面では吉本の批判など簡単だ。至極簡単と言ってもいいかもしれない。だが、その簡単をそのままやるヤツは歴史から浮遊し始める。昔吉本は彼とサルトルと対決したら必然的に負けると言っていたが、そう言えるところに吉本のしぶとい強さがある。
 私の理解は間違っているかもしれないが、吉本が麻原を擁護するというのは、つまるところ2点だろう。1つは。麻原の行なった壮大な悪事を市民社会は断罪できないし、断罪するような思想は大衆の未来を閉ざすということだ。このテーマは難しい。もう1つは、麻原が歴史上比類無き宗教家だということだ。もちろん、政治的には阿呆だと吉本も付け加えているが。
 麻原は希有な宗教家だったのだろうか? そう吉本が考える理由は、1つには弟子たちの心酔のありかたであり、もう1つはその背景となる麻原の神秘体験の了解にある。だが、私は、吉本とは違い、恥ずかしいことでもあるが、すでに近代西洋のエソテリズム運動についてかなりの知識をもっている。だから、麻原の神秘体験とされた記述も一読して、ブラヴァツキーに始まる神智学の文書の亜流であることはすぐにわかった。他方、中村天風のような戦前戦後の新興宗教っぽいムーブメントや沖正弘のような間抜けなヨガなどとの関連につながるものであることもわかった。当然麻原のヨガ理解についてもこうした神秘傾向のある人々と同じく滑稽な間違いも数多く犯していたし、チベッタンシステムとインドのタントラが混同されているので、教義も混乱していた。ただ、ある意味そうした混濁もチベッタンシステムに内包されるものかもしれないのだが、この問題は今は触れない。
 ケーチャリー・ムドラーを真似して舌帯を半分ほど切ってところで日和った麻原彰晃という滑稽なヨギは結局アーサナも完成していなかった。そんなタワケが希有な宗教家なのかなど、ヨガを知る人間なら疑問にすら抱かない。だが、吉本が言いたいことは、単純に思想であり、宗教という範疇の問題なのだろう。端的に言えば、親鸞の造悪論をなにが支えるのかということだ。
 愚から悪まで押し詰めながら、吉本隆明は親鸞の造悪論の深化の一つの戯画として麻原を捕らえていたと理解してもいいだろう。だが、親鸞の造悪論自体は結局、失礼な言い方になるが吉本の今生を持ってして完成しないだろう。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、昨今の実証研究的には法然に帰属され、その思想は法然から親鸞へという流れで収められてしまった。とんでもない歪曲だぜとは思うが、この問題の歴史的側面についてもひとまず置く。
 矮小化するなら、「正義のために人を殺してよいか?」となる。戦後民主主義の嘘で演じるなら答えは単純であり、実際のリアルな政治世界ではその反対として単純な答えが導かれる。もちろん、矮小化が問題を混濁させているのだ。あるいは、「正義とは殺人を含むものなのか」と問うほうがいいのかもしれないが、その時、「正義」は循環的に無意味にされてしまう。
 このあたりでやめよう。およそブログの内容ではない。だが、恐らく、この問題は、死を実存の側から見るのではなく、実存をたらしめる根元の側から問いなおされる必要があるだろう。フロイトが晩年示唆した「死の衝動」にも関連するだろう。と、私も曖昧な言い方になる。曖昧に言わなければ、危険な言説になるからだ。その意味で、ある種の思想の深化は、麻原や吉本を頓馬な妄言者だとだけは言いづらい奇妙なアポリアに導くになる。

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2003.10.31

ありがとう、マハティール

 今朝の新聞各紙社説は散漫な印象を受けた。ので、ブログも散漫になってしまう(っていう言い訳はよくないが)。タイトルはマハティール引退に賛辞をおくりたいというだけのことで、話はあまり展開していない。ブログを読まれているかたには申し訳ない。
 今朝の社説ではさすがに日々選挙ネタでは書いているほうも無理だと思ったのだろうか。バリエーションがあってよかった。なかでも社会的なニュースとして重要なのは恐らく独禁法の改正だろう。そのわりに扱っていたのは読売新聞社説「独禁法見直し 違反防止に必要なアメとムチ」だけだ。焦点がぼけてはいるもののなかなかいい社説だった。特に結語は重要な指摘だ。


報告書は、公取委の審判制度の問題点にほとんど触れていない。判事役と検事役の大半を、公取委の職員が占めていることだ。これらのポストについては、法曹資格を持つ人材の外部登用を積極的に進めるなど、改善が必要だ。

 これはほとんど制度欠陥だろう。経済界の反発については予想どおりでもあるので、どうっていうことはないが、骨抜きの前準備は整っている。いずれにせよ、読売が指摘するように、この問題は社会認識を変える必要がある。

談合やカルテルの防止には、違反行為が割に合わない犯罪だ、との認識を企業社会が持つことが欠かせない。欧米で一般化している手法を取り入れ、独禁当局の違反への対応を国際水準に合わせることも大切だ。

 一点、気になったのは読売のこの主張では曖昧なのでなんとなく国内の公共事業関連の入札の談合が問題視されているかのようだが、今回の改正の暗黙のターゲットはマイクロソフトだろう。この点はNHKの「あすを読む」のほうが一歩踏み込んでいた。中村正三郎(同名に官僚上がりの政治家がいる)によるユーモラスなマイクロソフト叩きもすでに過去のことになった。誰かきちんとマイクロソフトに切り込めるジャーナリストはいないのだろうか。切込隊長? 頭いいからつい期待されちゃうんだろうな。でも、頭良すぎてマイクロソフトには関心なんかないか。
 今日の話題でもう一点、朝日新聞社説の「警官汚職 ― 腐ったリンゴは一つか」はほのぼのとして面白かった。

警視庁の警部が逮捕された。風俗店を経営する知人から約1千万円のわいろを受け取っていた容疑だ。

 という書き出しで、この事件自体の情報がない。社説にあるまじき悪文の極みだが、笑いネタかもしれない。事件は、千葉県柏市警視庁第9機動隊警部所属の上野教一が東京都荒川区で違法なあかすりマッサージ店の経営者石崎裕隆から各種の便宜の報酬としてワイロを受け取ったされる容疑だ。これに対して朝日はこうしたことは警察にとって日常茶飯事ではないかと糾弾する。ま、そうだろうね。これをわざわざ社説に取り上げたのはもちろん、左翼ならではの朝日新聞の面目躍如たるとろだ。

 今回、汚職警部が逮捕されたのは総選挙の公示日だった。今年7月に警視庁の幹部らが捜査情報を漏らしたとして摘発されたのは、辻元清美元衆院議員が警視庁に逮捕された日だった。

 それにしても、我々市民はどうしてこうも警官に甘いのだろう。個人的な日常のエピソードだが、先日犬に首輪を付けずに散歩する馬鹿たれが交番の前も過ぎていくので、さすがにそりゃないでしょお巡りさんと指摘したら「それは犬のサイズによるのであります」ってな答えだった。ダメだこの馬鹿。ま、馬鹿なら笑って許せるかというというと、こうした馬鹿の自己組織化が現在の警察なのだ。そしてその頂点にはセンター試験以降の世代の官僚がちょこんとのっかっている。ああ、愚劣。とくさしていないでなんとかしなければいけないと思うが、はてはて。

 話は変わる。実は今朝のブログはマハティールについて書こうと思った。せめて一社くらい社説にマハティールについて触れるだろうと思った。産経あたりだろうかと思ったが、日経だけだった。そして、つまんない社説だった。
 腰抜け、玉なし産経新聞、と怒鳴りたくなる。ま、明日を期待しよう。マハティールについては自分は高山正之以上のことは書けない。このところ話題になっている「ユダヤ人は代理人を使って世界を支配している」との発言についても、出所のバンコク・ポスト紙のインタビューを私は読んでいないので、うかつなコメントは控えたい。というのも、情報操作の臭いがするからだ。
 いずれにせよ、マハティールなかりせば…と思うと目頭が熱くなる。ありがとう、マハティール。

追記
 朝日は11月2日に「マレーシア ― ルックイースト氏の退場」を掲載。概ね好意的だったが社内の雰囲気を配慮してかくさしが入っていたりして混濁した内容だった。マハティールの反米というのが気に入っていたのかもね。

 本文と関係ない追記。しいて関連づけるとマイクロソフト絡み。たまたま「『続・憂国呆談』番外編Webスペシャル」(参照)というページに飛んだ。これって何かのジョークじゃないよね。浅田彰ってこんなことになっていたのか。


浅田彰 セキュリティ面から言っても、常時接続してりゃ、ウィルスの感染も止められない。このあいだ世界中を騒がせたコンピュータ・ウィルス「MSブラスター」には、僕のモバイル・マシーンも感染しちゃったけど(笑)。

田中康夫 ほんと?

浅田彰 すぐ駆除して、すぐパッチを入れたけど、必要なソフトをダウンロードして実行するだけでも手間がかかる。しかも、それさえできないユーザーがいるんだからね。これって早い話がマイクロソフトが欠陥商品を売ってたわけでしょ。たしかにウィルスをつくってばらまくのは悪質な犯罪だけど、データを消したりするわけじゃなく、ちゃんと「あと六〇秒」という予告まで出してシャット・ダウンするわけだから、過激な消費者運動とも言える。セキュリティに関して穴だらけの商品を売るな、と。


 ひぇ~! 浅田彰と限らないけど、IT関係の話だとなんでこう恥ずかしい言及が多いのでしょうかね。言うまでもなく、「常時接続してりゃ、ウィルスの感染も止められない。」は大間違い。それにマシンというのはそもそも常接するものだ。もちろん前提はある。常接にはファイアウォールは必須。ファイアウォール付きのルーターをかますか、串ぽいのでもかましておくこと、っていうかそうしてこそ始めて常接だと言える。それと、MSブラスターのパッチを当てていないなんて、「いろは」の「い」もわからないということなので、無知を売りにしているお笑いライターさんじゃないのだから、おおっぴらに言うのは恥ずかしいことだ。「これって早い話がマイクロソフトが欠陥商品を売ってたわけでしょ。」ってね、訴訟好きのアメリカ人かね。完全なソフトは存在せず、完全なセキュリティは存在しない。浅田彰の理想の「マシーン」(どうでもいいけど、出て来い「シャザーン」みたいだ)って、ワープロ専用機なのか。

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2003.10.30

宋美齢の静かな死

 今朝は朝日と読売が裁判員制度を扱っていた。それぞれそれりなに正論といえば正論。だがつまらない。くだくだ言うまえにとにかく制度を変えたほうがいいからだ。よく議論しなければいい制度にならないという正論もあるだろうが、もうそんな正論自体うるさい。遅延の理由にしかならない。他、日経はまたまたデジタル家電の話。なんだかなだ。物作りの日本みたいな幻想をまだ抱いているのだろうか。単なる経営の問題なのに。それと年金話はもううんざりしてきた。きれい事なんでないのだから、官僚と関連団体を整備しなおしてから増税するしかないだろう。

 というわけで新聞社説関連ではネタがない。他にネタはあるといえばある。24日以降気になって、マイルドな悪夢のようになっていたネタがある。宋美齢の死だ。ところでどうでもいいがATOKだと「宋美麗」と変換する。これで日本語に強いATOKなんだそうだ。気の利いたむかつくようなブラックジョークができるのは日本語が強いからだろうか。美麗島を乗っ取ったから宋美麗か。
 死因は老衰。105歳。この女、絶対昭和天皇より生きるだろうと思ったが、ここまで生きるとは思わなかった。20世紀を代表する女だ。ああ、むかつく。私は中国人には親近感を覚えるほうだと思うが、宋美齢の名前を見ると、平常心が保てない。もちろん、私は小林よしのりのようにシンプルな愛国主義者ではないし、時代のせいあって社会主義者くずれって言われてもしかたねーかの思想の持ち主だが、こいつだけは許せねーよなと思う。ああ、ダメだ。全然、文章にならない。
 こんなブログに書くこっちゃないのかもしれない。世の中台湾も含めてたいした話題にもならなかったのだから。そもそも、センター試験以降の世代はそもそも宋美齢を知っているのだろうか? 知らないわけはないよな。蒋介石夫人であり、映画ファンなら「宋家の3姉妹」くらいわかるよな(長姉は孔祥熙夫人宋靄齢、次姉孫文夫人宋慶齢)。と書きながら、たぶん知っているのはそのくらいだろうなとも思う。西安事件については、今の学校ではどんなふうに教えているのだろう、とぐぐると面白いものがあった。「山川出版社高等学校用世界史教科書の記述の変遷」(参照)。それによると、2000年ではこうだ。


当時、西安にいた張学良はこうした状況に動かされて、共産党軍攻撃作戦を説得にきた蒋介石を幽閉して、逆に抗日・内戦停止を説いた(西安事件)。蒋はこれをうけ釈放され、こののち国共はふたたび接近した。

 味のないマシュマロウを食っているような感じだが間違いではない。そういえば、張学良も皮肉にも100歳を越える長命だった。突然、NHKのインタビューに出てきたときは驚いたものだ。
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新「南京大虐殺」のまぼろし
 そういえば話が続くが、鈴木明が死んだのも今年のことだった。77歳。そんな歳だったのかと思った。「南京大虐殺のまぼろし」(絶版)を著して、左翼からは叩かれまくった。が、この本は南京大虐殺の史実を描いた作品ではない、と言っていいだろう。百人切り伝説の話だ。話題の中心だった本多勝一は今でも元気で、この関連で裁判沙汰になっているとも聞くが、私にはさして関心はない。むしろ、鈴木明が事実上最後に残した「新『南京大虐殺』のまぼろし」(飛鳥新社)のほうが興味深かった。この本は歴史家からはどういう評価になったのだろうか、よくわからないが、エドガー・スノーの裏はよくわかったし、宋美齢についても生々しく浮かび上がって好著だった。
 と、書きながら、この先、自分でもうまく言葉が浮かんでこない。もうすべて終わったことだ。言うだけ無駄だ。この女に日本はひどい目にあったが、もっとひどい目にあったのは台湾の人々だし、中共が生き残ることで苦しんだのは大陸の人々だろう。敗戦史観からすれば、帝国侵略した日本が悪いことになっているから、宋美齢が善になるのだろう。つまり、思考停止だ。所詮日本などこの女ひとりに負けたのだと自嘲してしまいたくなる。

[コメント]
# shibu 『このおばん、帰国子女でしょ。おねえちゃん慶齢との会話も手紙も英語だったってな話ですもんね。お説の「美齢一人にしてやられた!」ってのも同感です。対して、野村吉三郎じゃあねぇw 聞き取りも不安だったとかじゃなぁ。なんでこんとき白洲が張り合わなかったんでしょうかね。ま、野郎じゃ相手にゃならんですか。圓山飯店って台湾神社でしたっけ。あれって宋美齢の個人名義だったんですかね。それとも国民党の息のかかった会社名義でそこから上がりをいただいていたとか。96年以降台湾のイメージは様変わりです。李登輝効果でしょう。香港からの帰り、機体交換でトランジットしただけです。一度は行ってみたいですね。高雄にはいとこが葬られているようですし。』

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2003.10.29

オピオイドと腰痛についての雑談

 さて、今日のネタは…ということでこのブログを書くようになって気づいたのだが、麻薬系のネタは、肯定的にも否定的にもウケがいいみたい。ほんとみなさんお好きだねという感じだ。酒も飲まなくなってしまった私にしてみるとそのあたりのことは感性としてはわからんのだが、どうやら、麻薬好き関係にはオタクというかマニアというか、多少なりとも実践もあるのだけど、とにかく知識を誇りたい一群の人がいるようだ。70年代のドラッグカルチャーの生き残りなのかもしれない。そのあたりの知識の生息はもう少しジャーナリズムで追及されていいのではないかとも思う。すでに昔の話になりつつあるが、オウム真理教については、どうしてもサリン毒ガス殺人狂集団みたいな話で定着しつつあるが、彼らは実にドラッグな人々だった。内部で使っていたのはMDMAや2CBあたりではないかと思うが、そのあたりをきちんと調べた文書は見たことがない。警察じゃ無理なんだろうなとは思うが。
 で、話はロイターヘルスで紹介されていた'Journal of Pain and Symptom Management, October 2003.'(参照)に載るオピオイドの記事についてだ。前回ヴァイコディン(Vicodin)について書いたときも、さーてオピオイドをなんて訳すかなと思った。ある程度誤解されてもいっかぁと割り切ってあえて用語を外したのだが、そのあたりで「オメー無知」と思った人もいるだろう。そういえば字引を引き忘れたで引いてみると「オピオイド。アヘンに似た作用をもつ合成麻酔薬」とある。それで間違いないので、業界通り「オピオイド」としておくか。ちなみにオピオイドをぐぐってみると、「分娩時除痛のための筋注オピオイドの種類」(参照)てなものがひっかかった。そういえば、日本の分娩っていうのは異常だね。痛ませるし、体を切るし…これこそフェミニズムがなんとかせーよと思うのだが、日本のフェミってこうした問題は扱わないね。だもんで新興宗教のような分娩が流行る(参照)。この先まで言うとお馬鹿さんの無意味な反論を招きそうなのでやめとくけど、出産回りの知識のドツボはなんだかなだな。
 最近私のところに来るスパムもまだまだヴァイコディンが多い。チンコをでかくしよう、ガールがお待ちかね、オメーの借金棒引きにしてやるぜに並ぶ。オピオイドがブームという印象もある。さーて、当のネタはなにかというと、オピオイドの利用でも脳の機能は損なわれないという研究成果が出たのだ。それどころか、脳機能が改善しているらしい。まさかね。それじゃ困るよね、うふふ、ってなものだが、もちろん、そうした書き方はジャーナリズムであって、限定は付く。
 この手の研究にありがちなのだが、対象者は144人と少ない。患者は'chronic low back pain'。ええい「腰痛持ち」と訳してしまおう。処方はおなじみの'oxycodone plus acetaminophen or with a fentanyl patch'、前半は「ヴァイコディン」と訳そう。'fentanyl patch'はデュロテップだが、この話は割愛。それで、90日後別の処方に切り替えたて比較したが、脳機能に問題なしと出た。むしろ、切り替え後16-25%の患者は脳機能が劣化したようだ。なぜか、について、研究者は、苦痛が減ったからでしょ、としている。なるほどねであるな。そして、当然のことならが、この結果について個人差の問題を含めて、単純に扱わないように注意を促しているというわけで、私のブログなど以ての外か、ま、私もオピオイドを薦めるわけじゃないからね。
 さーて、ネタはこれで終わりなのだが、思うに、ちとヤバイ意見だが、苦痛には精神的な苦痛も含まれるのだろうから、そうした面で、オピオイドの効果というのはありそうな気がする。また、以前から言われていたことだが、今回の結果だけで言うわけではないが、「麻薬しますか人間やめますか」はジョークになっていくだろう。日本の社会もきちんと考えたほうがいい。
 もう一点は、腰痛についてだ。ぎっくり腰って言っていいだろうか。私も経験があるが、高橋源一郎ではないが、30歳そこそこでなった。一生続くぜと回りに脅かされたものだ。その年代の若い人に多いようだ。個人的な観察によれば、Webデザイナーに多いんじゃないかって気がするが、どうだろう。いずれにせよ、激痛だ。あれが慢性化するとつらいだろうなと思う。日本だと、OTCでインドメタシンの貼り薬が急速に普及しているが、無知を告白するが海外での利用は見たことがない。安全性が高いのだろうか。
 先日たままたあるある大辞典を見たら「プチヘルニア」というのをやっていた。小さなヘルニアが腰痛や足のしびれをもたらすという話だ。阿呆かとも思ったが、専門医からの苦情はないようだ。
 またしても話はまとまらないが、これで終わり、じゃなんなので、腰痛のあるかたは日本ではオピオイドが使えないので、インドメタシンの貼り薬でしょうかね。夏樹静子ではないが、腰痛は心理的な問題もからんでいるので、心の問題も重要でしょう、ってリラックスとか癒しとかじゃなくて、人生を思いっきり方向転換するっていうのが心理問題の解決ですね、大人の常識としてですね。

追記1
 同日。上記内容とまったく関係ない話だが、キルビルのGOGO夕張の話題で「似非と現実の日記」id:yasai:20031029に「アメリカでマッハGoGoGoが大々的に流行ったなんて話は聞かないし。」とあって、あれれ? Speed Racerはアメリカで大流行でしたよ。
 同日。追記を書いたせいなのか、「似非と現実の日記」に追記がありました。影響した? ま、悪く思わないでね。

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2003.10.28

[書評]がんから始まる(岸本葉子)

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がんから始まる
 選挙公示もあって新聞各紙はまいどの展開なので面白くない。ので最近読んで深く感銘した「がんから始まる」(晶文社・岸本葉子)について書く。前もってことわっておくと、今日のブログもおよそ書評にはならない。自分でも自嘲してしまいたいほど、書きたくてしかたなくて書いているだけだ。
 「がんから始まる」は著者のエッセイスト岸本葉子自身が40歳の若さで突然虫垂がんになった顛末を、自身の目でドキュメンタリーふうに描いた作品だ。彼女は40歳になった2001年にがんになった。2000年の日常を描いた「炊飯器とキーボード」には下腹の激痛の記載が三度ほどあるが、これは単なる腸炎ではないだろうと私も思っていた。とはいえ、がんだとまでも思っていなかったので、文藝春秋11月号「女ひとり、40歳でがんになる」を読んだときは驚いた。人ごとではないなという感じがした。私は岸本のエッセイの大半を読んでいるので、彼女がよく健康に気遣っている人であることを知っている。これでがんになるようでは、いわゆるがん予防の何箇条みたいのは、意味がないのだなとすら思う(*1)。
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微熱の島 台湾
 作品として見れば、イジワルな言い方だが「微熱の島 台湾」に次ぐ傑作になったと思う。しかし、そういう言い方はやはり不遜だろう。「微熱の島 台湾」は一面すでに失われた台湾の記録という意味で歴史的な価値があるから比較すべきではない。個人的な思いで言うなら、今回の本こそ傑作だし、私にとって貴重な本になった。
 この本はある面、岸本の著作の特徴である実用性の面もよく活かされている。ちょうど「マンション買って部屋づくり」が、女ひとりマンションを買って暮らす際のいい心得書になるように、今回の「がんから始まる」も、こういう言い方はいけないのかもしれないが、潜在的ながん患者である一般の市民にとって、よい指針書になっている。
 毎度ながら、文章はうまい。編集もだいぶ仕事をされている印象もあるが、ドキュメンタリー風の構成もいい。現状のがんの医療もよく描かれている。特に、がん手術後の人生という問題の提起という点で社会的な意義がある。先日読んだ絵門ゆう子の「がんと一緒にゆっくりと」もそうだが、がんと生きる人々をどう配慮するか、その視点が社会の常識として重要になるだろう。こちらの本については、いわゆる代替医療にゆらぐ心がよく描かれていて興味深かった。岸本の本でもそうだが、がんのように現代医学のある意味で限界にある場合、代替医療がどうしても重要に思えてくる。だが、残念なことにこの方面でのよい指針は日本にはほとんど存在していない。春秋社あたりから「Choices in Healing: Integrating the Best of Conventional and Complementary Approaches to Cancer」(参照)の翻訳を出してもらいたいところだが、それまでは、アンドルー・ワイルの「癒す心、治る力」にあるがんについての指針がよいだろう。なお、訳者上野圭一はこの分野の第一人者でもあるのだが、翻訳が荒いところが目立つので出版社はフォローアップの体制をしっかりとって欲しい。
 「がんから始まる」に話を戻して、私にとって特に貴重だったのは、次のように若くして死病に向き合う心のありかたの記述だった。この言葉自体は、普通はたわいなく聞こえるのかもしれないが深く共感した。

日頃の私と接する人は誰も、私がこういう、死と隣り合わせの虚無感を抱えていると、想像だにしないだろうなあ(*2)

 「死と隣り合わせの虚無感」というものは、おそらくそれがわかる人とわからない人とに決定的に分かれてしまうだろう。もちろん、岸本も、がんの経験がない人にはこの気持ちはわかるまい、というような考えはきちんと退けている。がんだからということでなくても、この生きているという実感を奪うような虚無感に浸されてしまうことがある。自分にはもう未来なんていうものはないのだという思いが、いつでも、なんどきでも、笑っていても、それはそこにある。我を忘れていても、その虚無感が私を忘れていない。目の前の現実よりも強固な感覚として、実在の感覚を消耗させ、奪っていく。それから逃れることはできない。そういうことがある。ゲド戦記のゲドと影との関係のようなものだ。それと向き合い、ひとつになるしかないなにかなのだろう。
 岸本はそうした経験の集積を「がんから始まる」とした。よく考え抜かれている。こうした死の光景のなかで、新しいなにかがはじまる。彼女は、「新しき者よ、目覚めよ!」と呼ぶが、死の光景でしかありえないなかで生きているのは、新しいなにかなのだ。
 生きていること自体が奇跡のような事実と思えるというのはなんなのだろうか。神学者パウル・ティリヒはそれをThe new beingと呼んだ。母語をドイツ語とするせいものあるのだろうが「新しき存在」とは奇妙な響きのする英語だ。彼はそれを和解と許しによって特徴づけたが、そこには単純なキリスト教の教義を越えるティリヒの深い瞑想があるのだろうとは思う。
 岸本の本の扉裏には「私を生かす未知なるものへ」とある。もちろん、がんという死の光景のなかで生き続ける「新しい者」を意図しているのだろう。だが、この祈りともいえる言葉には、こう言うことは僭越だが、岸本がこの世に生きてきた意味、さらには使命のようななにか、奇跡のような何かが隠れているように思われる。人の人生には奇跡ということが起きる。それはがんが治るといった好ましい奇跡だけではないかもしれない。たがそれは人生に決定的な意味をもたらす。岸本のこれからの人生にきっとなにかが起きるだろうという感じもする。
 今回の本では文学的な美しさも感じた。一人の娘と老いた父の関係についてだ。ユーモアを込めていうのも失礼だが、岸本のエッセイの多くには私はところどころ嘘を感じたものだ。女30歳がひとりで生きて嘘がないというものも、変なものだ。中村うさぎやさかもと未明みたいになってしまう。今回の本で描かれた父への思いには、しかし、嘘のない、とても繊細な感性が露出していた。この人が独り者の人生を選んだのは、こうした感性の帰結だったのだろうな、と思った。

注記
*1:強いていうと、食物繊維ががん予防によいかについては最近疑問が出てきている。また日本の葉野菜は硝酸塩が多すぎるので菜食にも注意が必要になる。
*2:p187

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2003.10.27

読書の秋にお薦めの悪書

 各紙社説に目を通しながら選挙やイラク復興絡みの話にうんざりしている自分に気が付く。産経新聞社説の「参院埼玉補選 実証された小泉安倍効果」は阿呆かとも思うが、フジ産経系の調査はそう実態から離れているわけでもないのだろう。
 九月下旬の本紙とFNN合同世論調査では総選挙後の望ましい政権に関しては「自民党中心」55%、「民主党中心」25%、「わからない」20%だったが、自民党への期待が強いことを改めて示している。
 この期に及んでなぜ日本国民は政権を交代させようとしないのだろうという苛立ちが自分にもあるが、そういう苛立ちは自分の思想の劣化なのかもしれない。

 今日もつまらない話題と言えばつまらない話題だ。読売新聞社説「読書週間 学校は系統的な指導に取り組め」を読んで、とほほな気分になった。最初に「とほほ」を気分を解説しておくと、「いくら若者が本を読まないからって言ったって、読書なんてものは学校で指導するこっちゃねーよな」である。
 そうは言っても、学生さん本当に本を読まないね。


全国学校図書館協議会などの昨年の調査によると、小学校六年生の男子は月平均五・三冊、女子は六・五冊の本を読んでいたが、中学一年生になると、二・五冊、三・七冊しか読んでいなかった。高校生は、一・五冊に過ぎなかった。

 小学生と中学生の読書傾向が違うのでなんだかよくわからない統計値になっているが、ようは高校生は本を読んでないわけだ。困ったなとは思う。だが、それへの対応としてこれはひどいな。

 小学校では、読むことの楽しさを分からせ、中学、高校では、名作や基礎的な専門書に親しませる。大学では、課題図書講読で単位を与える図書講座を開設する。年齢に応じた指導が必要だ。
 子供同士が課題図書について話し合ったり、読んだ本のリストを交換するなどの、取り組みの工夫も求められる。

 自分も少年から青年を経て大人になった人間だからこそ、こーゆーことは言えないねと思うのだが、いったいこの手のきれい事をいうヤツのツラが見たいね。馬鹿だろおまえって、言ってやりたい気分だ。とま、くさしても意味はないか。昔から日本の大学にはReading Assingmentなんてないしな。
 私は、小学生は面白い本を読めばいいと思う。他になにも要らない。面白い本がないという世界のほうが間違っているのだ。「かいけつゾロリ」のコミック化はやめてくださいよ、はらゆたかさん、ポプラ社さん、という感じだ。
 中学生以降は悪書を読めばいいと思う。大人に隠れて、悪い本をいっぱい読むのだ。こういう言い方も爺臭いかもしれないが、悪書っていうのが世の中から少なくなったなと思う。もちろん、エロ小説でもいいぞ。でも、エロ写真はダメだ。ホームページのエロなんて論外だ。見て反応していたらサルになっていまう。で、コミックは? ベルメールみたいに絵がよければいいんだけどね。誰か絵のうまいのいる?
 江川達也も絵が荒れたなぁ。塔山森時代は下手だっただけだが、山本直樹も絵が荒れている。石井隆の絵はなんか今だと本人のがパロディみたいだね。江口寿史? おだて過ぎたんじゃないか。
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高丘親王航海記
 エロ本のお薦めは「閨房の哲学」だ。読書指導をしてあげるが、いくら小遣いがないからって渋澤龍彦が訳した「閨房哲学」の文庫本はやめとけよ。渋澤の翻訳なんかで読んじゃだめだ(矢川澄子の翻訳みたいなもんだからね)。渋澤が読みたいなら、「高丘親王航海記」にしておけ。とはいえ、こんなエロ本じゃモエモエじゃないというなら、さっさとなかに入っている「フランス市民よ、共和主義者でありたければ、もう少しの努力だ 」だけ読んで、他を探せ。これがこの本のキモだ。この文書を読まずに社会思想や評論なんかしているヤツを信じちゃだめだ。きっと、日垣隆だって読んでないぞ(冗談ですよ、もちろん。ダンボール箱で書籍を買うほど読書家を豪語されているのですからね)。
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二千万ドルと鰯一匹
 女子高校生にお勧めの悪書は、村上春樹が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なんかじゃなくて、素九鬼子の「旅の重さ」だ。ちなみに高橋洋子が出ている映画のほうは見なくてもいい。と、本を調べると、あれ、これって絶版かよ。なんてこった。サガンの「悲しみよこんにちは」なんてお薦めしたくもないよな、文学だし。暇つぶしだったら、これも古くさいが絶版になっていないので、アルレーの「二千万ドルと鰯一匹」がお薦めだ。悪書というよりはユーモア小説なので爆笑していただきたい。ちなみに、アルレーは近年になるほど面白くない。
 本のお薦めなんかしていると、ダカーポみたいなビンボー臭い感じがするので、おしまひ。

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2003.10.26

「新三種の神器」だなんてお気の迷いでしょう

 日経を除いて、日本テレのプロデューサーが視聴率調査会社の対象世帯を買収していたという話を扱っていた(追記:日経扱いは翌日だった)。よくわからない。そんなことが問題なのか? 私が思ったことは、買収された世帯はわかっているのだから、その条件で統計値を補正すればいいだけのことではないのか、ということだ。各社説は「テレビ業界の倫理にあるまじき」というのだろうが、そうか。そもそも視聴率調査会社にそういうフィードバックが効いてなかったというだけのことではないか。なんでこの手の問題にはしゃぐのか、私にはよくわからない。
 他の話題としては、イラク復興支援の問題があるが、批判しているつもりの朝日新聞の社説が要領を得ない。この問題について明確にしなければいけないことは、明細だよ。まったくサラリーマン・ジャーナリストって人たちは会計に苦しんだことがねーのだろうか。支援額については現状の日本ではつらい額ではあるが、すでにイラクからはしぶちんの独仏への批判が起きている。日本の外交策としてはこの期に札束で独仏の面をひっぱたいておくほうがいいと思う。洒落ではない。

 今朝の話題はまたつまんねーよと言われそうだが、日経新聞社説「『デジタル家電』躍進の好機を生かせ」だ。一読してトリップしそうになってしまった。


 「新三種の神器」という言葉が電機業界で飛び交っている。売れ行き好調の薄型テレビ、DVD(デジタル多用途ディスク)レコーダー、デジタルカメラを指す。これらに代表されるデジタル家電が自動車などとともに、現在の景気回復のけん引車になっている。

 「新三種の神器」とはね、そんなしょーもないと思ったのだが、産業経済界の爺いどもは本気なのか。まいったなという感じだ。まず、そんな小物じゃ、経済効果なんかないだろうにと思うのだが。薄型テレビはサイズによって青天井だが、家庭用なら15万円くらいか。DVDレコーダーは10万円を切る。デジカメは3、4万円くらい。夢路師匠を偲んでズバリ買いましょーとしてだ、30万円というころか。ちょい前のパソコン価格だな。なんだよっていう感じだ。
 ちょっと話がねじれてしまうが、薄型テレビはまだいいとして、DVDレコーダーもデジカメもまだまだ全然家庭向きじゃない。もっと単純であるべきDVDプレーヤー自体、全然インターフェースっていうものができていない。これほどひどい商品を放置しておいて、ユニバーサルデザインがどうのこうのって言っているやつは阿呆じゃないのか。
 爺いたちがトチ狂うのは、「三種の神器」という言葉のマジックだ。

 1950年代半ば、電気冷蔵庫、洗濯機、掃除機が「三種の神器」と呼ばれ、家庭電化時代を開いた。60年代半ばには、カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)の3C時代が幕を開け、耐久消費財ブームが高度成長を加速した。今回の「新三種の神器」も、規模はまだ小さいものの大きな波の到来を予感させる。

 ロートル極まるな。どうせロートルならもっときちんと当時を思い出すといい。ドラッカーがよく引く事例だが、50年代前半だろうと思うが、当時の日本人は年収を超えるテレビ(白黒)を無理してもよく買った。それほどすごい商品だった。それがあるとないとでは家庭の絵が変わった。だが、「新三種の神器」はどうかね。それの有無でどういう生活シーンが見えるというのか。こんなトンマな社説を書いているようじゃ未来の経済紙とは言えなくなるんじゃないか。
 くさし的な話は切り上げるとして、この「新三種の神器」に欠けているはブレーンだ。マイクロソフトじゃないけど、メディアのセンターがなくては十分にデジタルメディア装置は機能しない。重要なのはメディアセンターと家庭のイマジネーションであり、その家庭の主要な構成はパラサイトと高齢者だ。
 小物についていえば、デジカメは大衆向けはケータイに統合される。だいたい家庭用に200万画素以上は要らない。DVDレコーダーは所詮テレビの付属だ。とすると、メインの録画編集の機能はHDレコーダーが装備していなくてはいけないし、HDレコーダーはEPGと連動していなければ意味がない。このあたりの全貌を理解できているのはソニーくらいだろうが、ソニーもブランドイメージのせいか、大衆市場を見据えていない。なんだか間抜けな有様だ。
 間抜けといえば、こうしたデジタルメディアの時代になっても、依然、コンテンツはテレビに依存するというのに、テレビ局たるや今でもリアルタイムの視聴率にこだわっているのだ。もう「放送」の時代じゃねーんだよ。ただ、コンテンツを送信しているだけで、再生は任意なのだ。
 誰でもいいから、このあたりで、きちんと大ラッパを吹いて、メディア環境を整備すれば、その点では日本はけっこう快適になるのだが。

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