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2003.10.11

中国が有人衛星を打ち上げる

 中国の有人衛星打ち上げの話。へぇ~40点くらいの気持ちであまり関心も向かなかったのだが、NHKの「あすを読む」を聞きながら、洒落じゃないなと思って、あとからこのニュースを読み直してみた。まとまった思いがあるわけではなく、むしろ自分の無知を晒すようなものだが、この件について意外な感じがするので記しておく。
 朝日系のニュースソースからの孫引きだが、上海「東方早報」によれば10月15日とのこと。地球を90分で周するらしい。
 「あすを読む」では、有人衛星打ち上げによって大衆に国家意識を持たせようとしていること、対外的な優位性を得ようとしていること、衛星ビジネス市場を得ようとしているという諸点をあげていた。それに間違いないだろうが、実際の担当が人民解放軍であることまで述べても、その軍事応用や米国のリアクションの想定には踏み込まなかった。問題が煩瑣になるのを避けたのかもしれない。他、話のなかでよかったことは、中国は長年この課題に取り組んできたという歴史背景を手短にわかりやすくまとめていたことだ。
 「あすを読む」の説明を含めて、今回の中国有人衛星について、私の印象はまばらのままだ。まず、そんな金があるのか、その金があったら福祉に回せよと思った。だが、社会主義国家というのはこういうことをやるものなのだ。間抜けな話だが、中国が社会主義国家であることに改めて思い至る。1960年代のソ連と同じ事をやろうとしているわけだ。そしてそれが実現すれば、またしても米国にスプートニクショクのようなものが起きるのだろうか。追いつき追い越せという意味でのショックはないだろうが、中国への警戒心は強まるだろう。他方、日本はといえば、ガチャピンに乗って貰いたいと思うくらいだろうか。
 ちと古い話だが、1999年11月21日に国産有人衛星の試験船を無人で打ち上げて、その回に成功している。このとき、江沢民はこの「長征2F型ロケット」という馬鹿馬鹿しい型名にさらに阿呆臭い名前「神舟」を付けた。当時の報道では、中国は2000年までに有人衛星を成功させたいとのことだが、そう話はうまく進まず、昨年4号までは無人衛星(有人で失敗したという噂もある)。今回の打ち上げは「神舟5号」になる。
 中国の政治というのはすべからく内部の権力闘争だから、今回の事態もその路線で考えれば、第16期中央委員会第3回総会と関連があるのだろう。胡錦涛と人民解放軍との関連が気になる。常識的に考えても、日米のミサイル防衛システムへの対抗であることは間違いない。米国防総省はすでに、今年7月の時点で「中国の軍事力に関する年次報告」を議会に出している。
 GPSについても中国は独自路線を出していくようだ。文明の衝突なんていうほどのことはないが、中国は本気で米国に衝突していくと取れないこともない。この問題には間抜けなことしか思いつかないのだが、私は、この妄想は人民解放軍の強迫によるものではないかと思う。人民解放軍の老害とその下を支える一人っ子政策時代のテクノクラートの存在は不気味だ。

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2003.10.10

国慶節に思う

 今度の選挙には新民主党を支持したいと私は思うのだが、それでも現状の党首討論にはあまり関心が向かない。各紙社説を読み飛ばす。産経新聞社説「大量破壊兵器 虚心に報告を読み返そう」は共感がもてた。メディア操作が叫ばれるが、つねに左翼的な心情をベースとしていて、実際に資料をきちんと読もうという運動にはなっていない。CIAなどはなから敵視されている。だが、元国連査察団長デビッド・ケイ証言*1は期待外れかもしれないが、それなりに重要だろうと思う。もう一点、「デジタルラジオ 安価な受信機の開発急げ」という視点も悪くなかった。だが、デジタルラジオなんてブロードバンド時代にはナンセンスなしろものだし、結局はハイビジョンと同じくNHKの受信料徴収のネタになるくらいだろう。産経の結語は「視聴者はラジオになにを求めているのか-という原点に立った取り組みがすべての関係者に求められる。」ってなクリシェで締めていたが、「おまえさん、ラジオ深夜便でも聞いてごなんさい」っていう感じだね。

 今日は社説話題をさておいて、国慶節の話だ。とネットで国慶節をひくと、先日足利義政の話のおり痛感したように、インターネットはバカの集まりだ。まともな情報は出てこない。国慶節について「1941年10月1日、毛沢東主席が天安門広場で建国宣言しました。」って書くヤツの気が知れないないね、と思う。ま、だからここで書くのだ。
 台北駐日経済文化代表處のホームページを見ると「双十国慶記念日」とあった。そういう表記もなるほどねとは思う。他では中共に配慮して双十国慶節として際だたせる表記もある(雙十節というのは10月10日だから)。でも、国慶節の本義を考えれば単に国慶節でもいいだろう。
 今年は中華民国建国九十二周年になる。常識なので言うも恥ずかしいがインターネット馬鹿曠野に戸惑うこともあるので書くと、民国建国は1912年、つまり大正元年と同じだ。今年は大正92年なのである。大正年を思えば明治は遠くなりにけりともいえるが、祖父母が明治年の生まれであることを思えば、民国成立の時代はそう遠いものでもない。夏目漱石の「心」にもまだ共感できる。現代が始まった時代だともいえる。1914年に第一次大戦が終わり、1917年に脳天気なレーニンの勘違いで始まったクーデターがひょんなことでロシア革命になった。
 民国成立について台北駐日経済文化代表處のページには、86年の李登輝の祝辞も残っていた(参照)。ちと長いが国慶節というものの説明のために引用させてもらう。


およそ一世紀前、孫中山先生は中華民国創建のため民主・自由・ 均富による発展の青写真を打ち出しました。爾来八十六年間、 わが中華民国は波濤逆巻く歴史の奔流のなかにおいて、幾度も挫折に 遭遇してまいりましたが、最後において確たる不動の立場を打ち立てることは、 民主に対する強い精神の具現であり、また歴史に対する責任でもあります。 今日ここに、われわれは誇りを持って台湾・澎湖・金門・馬祖地区における 中華民国は、すでに孫中山先生の理想を実現し、政治の民主化、社会の開放、 経済の繁栄、民生の充実といった輝かしい成果をあげ、中華民族の新たな歴史の一頁を開いたと言うことができます。
精神を継承するところに歴史的意義があり、引き続き開拓して行くところに 歴史的価値があります。われわれが獲得したすべての成果は、 無数の先覚諸烈士の犠牲的努力のたまものであり、基礎が築かれたから であります。われわれは国家発展の新たな高峰を築いた今日、 さらに努力をつづけ、民主と自由の理念を堅持し、次世代のためにさらに 安全でさらに安定し、さらに尊厳ある環境を構築し、二十一世紀の激しい 競争のなかにおける新たな挑戦を克服し、新たな局面を開拓して 行かねばなりません。

 台湾独立を明言できるようになった現在の李登輝を思えば皮肉な感じもする。また、孫文についても歴史研究が進むにつれ、虚飾がはがれていく。それでも今でも「中華民族の新たな歴史の一頁」とは民主化を意味すると考えて大過はない。ただ、「中華民族」の民主化とは、偽装された皇帝世界から各民族を解放することではなくてはならない。台湾が台湾となり、チベットがチベットなること。
 だが、そういう理想は、現代という新しい流れのなかで次第に色あせているのも現実だ。台湾は台湾になれず、チベットがチベットになることはない。ダライラマがポータラカに戻るとき実はチベットは終わっている。中共が出す民族地図を見て満人という区分がないことに呆れたことがあるが、しかし、それが新しい現代でもある。
 私事だが、李登輝の治世下民国86年の国慶節の夜、私は台北駅隣接天成ホテルにステイしていた。眼下に祭りらしい美しい夜景が見えた。だが、それを取り巻く夜景は日本の都市と本質的に変わるものでもないとも思った。柔軟な文化様式が東アジアの都市を覆いつつ、国家という虚構を薄めていくのである。

追記

 今日の余丁町散人の隠居小屋さんはブログに「10/10 Today 辛亥革命勃発 (1911.10.10)」を書いていた。それでいて国慶節への言及はない。散人先生のブログは面白いのだが、なんとも歴史感覚がずれているなとちと思うこと多し。さてもiblogなのでトラックバックもできず、こっそりと言う。

[コメント]
# shibu 『大陸(大連ですけど)の双十節って、国慶節(10月1日)連休のついでにw、休んだかな。その連休ひねり出す為かどうか、直前2週間が大変でした。職場も学校も休み無しなんですもの。小学生なんかふらふら状態ですわ。毎朝国歌演奏国旗掲揚があるんですが、最後の頃(目出度い国慶節近く)には遅刻者続出w 先生方もお疲れでしょう。国歌ならんかったり、国旗が半分しか揚がらなかったりw、ご苦労様でした。こっちは一人っ子のせいか毎朝毎夕お見送りに尾で向かえなんもんで、しっかり観察させていただきましたのでした。』
# shibu 『ああ、ついでに、日本じゃ「体育の日」って言って、東京オリンピックが開催された日なんだけどねって教えときましたけど...』

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2003.10.09

初等教育の歯止め規定廃止と幾何学随想

 朝日新聞と毎日新聞の社説が扱っていた初等教育の歯止め規定廃止が気になった。もちろん、歯止めなんて意味ないとは思うし、朝日や毎日の社説自体に特に思うこともない。
 心になにが引っかかっているか見つめているうちに、幾何学のことが気になった。現在の中学生高校生は幾何学をどんなふうに学んでいるのか。ネットを雑見したのがよくわからない。高校では幾何学はすでに解析幾何学になっているようで、その前段も早期に解析的な様相に変えられているようでもある。いわゆる初等幾何は中学で学ぶようだが、なんとなくだが、おざなりにされているような気もした。
 和田秀樹だったが数学は暗記と言っていた。基本のパターンを暗記すればいいというわけだ。東大合格やそれに類似することが目的ならそれでもいいと思う。幾何学はどうだろう? 幾何学だって解法は手順化されている。その前に、大学受験で初等幾何学は出てくるのか? 出てこないか。と、阿呆な逡巡をするのは、幾何学の面白さというのがそっくりこうした話で抜けているからだ。もちろん、代数や微積分学、論理学でも面白さはある。だが、初等幾何特有の面白さや美しさは若干違うようにも思う。
 もどかしい個人的な思いを連ねるので駄文になるが、私の中学生時代、初等数学に集合論が強く意識されていた。なんだこれという少年の思いから、無駄を覚悟で大学で畑が違いの基礎論を勉強した。ロバチェフスキー、カントール、ペアノ、ヒルベルト、デデキントそしてゲーデルというあたりのうわっつらを舐めた程度だが、集合というものが自分なりにわかった。後に柄谷行人あたりがゲーデルだの言い出して、自然数論なしで公理系云々とか言い出すあたり、本当にバカだなと思ったものだった。
 そしてある程度、集合論の背景にある公理性というものがわかったような気がした。だが、今思い返すと、ユークリッドの公理からヒルベルト風に公理性を取り出していくのではなく、原典のユークリッドの公理と幾何学の関係をおざなりに理解していたような気がする。
 中学生時代私は幾何学が好きな少年だったが、証明によく三角形の合同条件を使った。というか、そういうふうに指導されていた。ああいう幾何学は、ある種ヒルベルト風の考えだったように思う。思い起こすに、彼の「幾何学の基礎」 では5つの公理、結合、順序、合同公理、平行、連続でユークリッドを整理しなおしていた。私の時代でも、そして現代でも、おそらく初等幾何はアメリカの数学教育の影響から大衆的なヒルベルト主義になっていたのだろう。集合論と同じく、いずれ基礎論の入門という教育的な配慮があったのかもしれない。
 だが、数学としての幾何学はそれでもいいし、もちろん、幾何学の面白さや美しさが損なわれるわけではないが、もう一度、ユークリッドに立ち返ってみたい気がする。なんとなくだが、米国ではなく西欧の初等幾何学は中世以来の伝統を追っているように思うので、そちらの指導を覗いてみたい気がする。
 書きながら色々思い出す。高校の物理では物理とは名ばかりに、ニュートン力学という数学とそれにマックスウェルの法則なんぞを乗っけるのだが、中央公論だったかで出されていた訳本のプリンキピアの様相は、いわゆる教育の場のニュートン力学とはかなり違い、その後、田村二郎の解説書で得心したことがある。別段、ニュートン力学がアインシュタインの理論で置き換わったわけでもなかったし、さらに幾何学に潜む空間や運動の問題について、哲学的には未開の部分が残るとする晩年の大森荘蔵などの考えもわずかだがわかってきた。
 話が雑駁になってしまったが、ユークリッドの原論やそれにつならなるイスラムから西欧中世への学問のなかに、「幾何学をせざる者、この門を入るべからず」が残っているだろうと思う。
 生命の作り出す螺旋構造の背景にフィボナッチ数列や黄金比があると知ることは、中学生でも難しいことではない。そしてそれを知るということは、宇宙の美を味わうことにつながる。現代日本人がいう学力なぞ、所詮和田秀樹の東大入学術に過ぎない。そんなものより、この宇宙に生きていて、宇宙空間や生命体に潜む幾何学的な美を知る喜びのほうが、はるかに重要だと思う。重要ということは、美の意識によって生きて死ぬことがより充足されるということだ。

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2003.10.08

狂牛病再発の裏を少し考える

 狂牛病(BSE:牛海綿状脳症)に感染した牛が国内で発見された。今朝社説で扱っているのは朝日新聞と毎日新聞の2紙。昨日の藤井治芳解任問題と同じ構図で、読売と産経の及び腰はなぜだろう。
 今回の狂牛病再発の問題は難しい。なぜ?という疑問に答えられないからだ。私もわからないから、ろくなことが言えない。新聞の社説としても扱いづらいだろうから、畢竟、凡庸な話になる。朝日は昔ながらの社会派にして諸問題は人災的な発想なので、こうなるのはしかたがない。


 まず確かめなければならないのは、今回の牛の飼料に肉骨粉が混じった可能性があるかどうかだ。
 BSEが大量に発生した英国でも肉骨粉の使用を禁じたあとに感染が起きている。これは農家に残っていた古い肉骨粉を食べたのが原因ではないかと疑われている。

 それ自体は間違いではない。そしてそれが確認されるなら、当面の問題は終わりと言ってもいい。ま、そうは問屋が卸すまいと考えるべきだろう。毎日社説の執筆者は朝日よりもう少しインテリジェンスが高いようだ。

 問題の牛は国内で肉骨粉の使用が禁止された後に生まれた。それを考えると、原因は肉骨粉以外にある可能性が高い。
 一方で、残っていた肉骨粉を含む汚染飼料が誤って与えられていた恐れもある。いずれにしても、詳しい追跡調査が欠かせない。
 後段はデスクの付け足しではないかと思われるが、ようは、この問題の重要性は狂牛病の感染源は肉骨粉以外ではないか、という疑問だ。

 私はこれが重要だと思う。狂牛病について、ノーベル賞は付いたものの、公平に見ればプリオン説はまだ確定していない。謎を突き止めることで、プリオン説が詳細化されるか否定されるか、いずれにせよ科学知見は進歩するだろうし、日本の学者にそれを期待したい。
 ところで、なぜこの問題が今頃出てきたのか。裏はあるのか? 私にはわからないが、案外裏はないかもしれない。今回のケースでは生後23か月、つまり2歳という若年で調査しているせいもあるだろう。しいて言うなら調査員らが成果を誇りたかったのかもしれない。
 多少気になるのはタイミングだ。カナダで狂牛病が発生したことから、米国では一時期牛肉の輸入を禁止していたが、この9月1日から解禁。日本政府はこの事態を梃子に米国に向けて、米国内で処理されたことの輸出証明書を義務づけさせた。ざっくばらんに言えば巧妙な非関税障壁だ。この問題から今回の問題を読み解くことはやや難があるように思う人もいるだろうが、この読みの線がまったく外していないことは、米国時間で昨日のロイター通信の次の記事でわかる。

Japan mad cow case may affect US-Canada trade - USDA

Last Updated: 2003-10-07 10:15:17 -0400 (Reuters Health)

By Randy Fabi

WASHINGTON (Reuters) - The U.S. Agriculture Department said on Monday it was seeking more details about a new case of mad cow disease in a young animal in Japan, which could impact a USDA plan to reopen U.S. borders to shipments of live Canadian cattle that are under 30 months of age.


 この先要領の得ない記事が続く。で、要点は以下だ。

Cattle futures traded in Chicago moved sharply higher earlier in the day, in part on worry that the new Japanese case could alter the USDA's thinking on the risks posed by Canadian cattle younger than 30 months.

 2歳レベルの牛の調査体制を国際的に強いることでさらに非関税障壁を高めるという脅しになる。この方向で各種協議はわざとらに紛糾するだろう。とはいえ、だからわざわざ今回国内で狂牛病の牛を発見させたとまでは言い切れない。
 狂牛病について、今回のニュースがあったにも関わらず、私自身の庶民感覚からしてみても、日本国内ではそれほど牛肉市場には影響はでないだろう。この間抜けさ加減は朝日新聞社説からもわかる。
 とはいえ、いたずらに不安がることはない。私たちの口に入る肉や牛乳に心配はない。危ない脳や脊髄は食用から除かれている。
 確かに、朝日新聞語で言うところの「いたずらに不安がることはない」は正しいが、より緻密に言うなら、これは嘘っぱちである。とはいえ、この話をこのブログに書くべきか多少迷う。2ちゃんねるに多いDQNに引用されても困る。ので、簡単に記すにとどめるが、牛タンは感染源になりうる。詳細を知りたい人はRapid prion neuroinvasion following tongue infection.(参照)を読んでほしい。
 余談だが、朝日新聞の「牛海綿状脳症(BSE)」や毎日新聞の「BSE(牛海綿状脳症)」という但し書きで本文ではBSEと略記する表現はジャーナリズムらしくないと思う。ロイターではMad cow disease, or bovine spongiform encephalopathy (BSE) と但し書きになり、BSEの略記も使うが朝日新聞のように見出しで「BSE ― 落ち着いてナゾ究明を」とはしない。"mad cow"だ。ロイターに習えとも言わないが、「狂牛病」でいいではないか。

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2003.10.07

藤井治芳解任で良しとする小泉政権が問題なのだ

 今朝の朝日新聞社説「総裁解任 ― 政治ショーでごまかすな」は秀逸だった。毎日新聞社説「藤井総裁解任 辞表拒否の背景を見抜け」も良い。藤井治芳解任で良しとする小泉政権が問題なのだ。この問題を今朝取り上げなかったというだけで産経新聞と読売新聞は腰抜けだ。
 朝日がうまく言っている。


 しかし、「道路のドン」といわれた総裁の悪あがきを笑うだけではすむまい。更迭問題と並行して、道路4公団民営化推進委員会が出した報告書の骨抜きが、国交省の手で着々と進められているからだ。
 今回の更迭劇は、「高速道路無料化」を掲げた民主党と自由党の合併大会の当日に始まった。改革の後退を覆い隠すとともに、総選挙で国民の歓心を買おうとする一石二鳥の政治ショーではなかったのか。

 今回の解任も北朝鮮訪問の時期設定と同じく政治ショーだし、民営化推進委員会報告の骨抜きだ。死に体の日本のジャーナリズムだがここでもうひとがんばりすれば、青木幹雄が干しあがり小泉はまたさらっと豹変する。だが、そんな期待より、この愚劣な政権をいったんリセットすべきだ。朝日がいくら次のように力説しても小泉に聞こえるわけがない。

 民営化によって政治家や官僚の介入を断ち切りムダな道路を造らせない。債務の返済を最優先し国民負担を最小限にする。これが推進委が出した報告書のエキスだ。
 首相が真っ先にすべきは、これに沿った法案づくりを政権公約に書き込むことである。人事をもてあそび、人気取りを図ることではない。

 毎日がもう一歩踏み込んで言っているように、現状の利権の構造ではトップに立てる人材なんか出てこられない。

紛糾している道路公団の後任総裁を引き受ける民間人は、ほとんどいないだろう。不手際は混乱につながると予想せざるを得ない。

 辞任を蹴飛ばした藤井治芳の内心せせら笑いが聞こえるようだ。このクソジジーこの期に及んでまだなんとかなると踏んでいるし、実際青木たちはなんどかできる路線で動き始めている。
 話が散漫になるが山中貞則なんかもまとめて排除するには73歳定年制なんてあまっちょろいこと言ってないで、自民党をリセットするしかない。

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2003.10.06

住宅供給公社を潰せと煽る正義

 住宅供給公社について毎日新聞社説「取り潰しも視野に入れて」が取り上げていた。論旨は明快過ぎるほど明快で、ようは取り潰せということだ。確かにそうだろうと思う。この問題を決定的にしたのは、時価会計の適用だ。
 この問題について、私はうまく言えないある種のもどかしさを感じる。その感触の一端は、例えば、毎日新聞社説の書き出しから受ける、ある種の不快感だ。


 道頓堀の水を抜いたとしよう。ヘドロの堆積(たいせき)は言うに及ばずありとあらゆるごみが眼前に現れるだろう。まるで今回から時価会計が適用された住宅供給公社のようなものではないか。

 単なる文章術の問題かもしれないが、イメージの修辞を先にもってくるのは変だなと思う。続けてこう毎日社説は言う。

 公的な法人の中で住宅供給公社ほど多くの問題をいま露呈している組織は日本にない。思うにこの体たらくは地方自治体的な無責任、都道府県役人の天下り、地方政治と癒着した不動産業者という「腐敗の三点セット」が見事に演出したものだ。先日質流れのような安値でマンションを売って高値で買った住民を怒らせたのは東京都住宅供給公社だったが、その流れはここからきているのだ。

 確かにその腐敗の3点セットがある。だから取り潰せというのは明快だ。明快過ぎる。そして、少し考えれば、問題の時代背景となる地方住宅供給公社法は高度成長が加速する昭和40年前半の産物で、その時代には意義があったのが時代に取り残された、と言える。時代が変わったのに刷新しないから腐敗した…もちろんそうだ。だが、なにか心に引っかかる。
 先の毎日社説の引用で東京都住宅供給公社が住民を怒らせたという話は、読者が既知なものとしてさらっとふれているが、これは、八王子市多摩ニュータウンの分譲マンションの売れ残り65戸を7割引きで「たたき売り」したため、完成時に高値で買った住人が怒ったという話だろう。
 完成時に買った人にしてみれば怒るのも当然と言えそうだが、そうだろうか。公社は、周辺の中古物件の取引価格を参考にしたと言うが、そのこともそれほど誤りではない。
 値下げ幅の大きい2LDK(78平方メートル)は1995年完成時5189万円。それが、たたき売りで1312万円。90平方メートルものが1900万円。中央線沿線で立川あたりまでを視野に入れると、中古物件としても安いような印象はある。多摩ニュータウンといっても広いが交通の便は、駅に近いという意味ではそれほど悪くない。とはいえ所詮私鉄沿線なので立川レベルの街との利便性は高くはない。話が些細なことになってしまったが、お得な中古物件だと言えるし、もう少し500万円から1000万円高くてもいいようにも思える。そうだとすれば、東京都住宅供給公社は不動産屋としては、やる気がないのだ。
 多摩ニュータウンのような僻地を住宅地に一新させるだけの大プロジェクトは国ではなくてはできない。そして、これからの東京は、局所の過密を防いで全体の人口を上げざるを得ないのだから、まだそうした大プロジェクトが必要なのではないかとも思う。もしそうなら、東京都住宅供給公社をうまく経営すればいいだけのことかもしれない。
 もちろん、そんな経営者が公社なんぞにはいないのだとくさすことは簡単だ。だが、巨大な中古マンションの維持が問題になるのはむしろこれからなので、東京都住宅供給公社をたんに取り潰して無しにするより、もっと住民視点の保守体制が必要になるのではないか。そうすることで、マンションの資産価格も維持されるのだから。

[コメント]
# ただすけ 『何故、徐々に値下げを行わなかったのですかね?段階的に値下げをするのは無理だったのですかね?』

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2003.10.05

日本はいまだ国連の「敵」である

 産経新聞と日経新聞の社説は、イラク派兵に関連して国連決議を取り上げていた。産経は小林よしのりがいうところのポチ保守路線。日経の社説「今こそ『弱い国連』の安保機能見直しを」が、凡庸とも言えるが読み応えがあった。
 日本人は国連に甘い幻想を抱いているが、国連は機能しない。いろいろ問題があるが、根幹にあるのは、私は常任理事国の存在だと考える。そして少し暴論めくが、常任理事国があるというのは、国連(United Nations)というのは連合国(United Nations)だからだ。もともと日独伊の枢軸国と戦うためのリーグなのだ。洒落ではない証拠に、日本は国連の敵国だと敵国条項(国連憲章第53、107条)で定められている。
 そんな話をすれば、知識人なら鼻でせせら笑うだろう、「あれは死文であり、削除は1995年の国連総会で採択され、スケジュールに乗っている」と。確かに、数年前まではそうだった。ところが、そのスケジュールはどうなったのか?と問い返してみればいい。進歩派知識人は「死文だから気にしなくてもいい」と答えるだろうか。では、「いくら死文でも、日本の戦後の努力を踏みにじる不名誉な条項は死文であれ即刻削除されるべきではないか?」とさらに問えばいい。その先はなんにもない。ちなみに、1995年3月憲章特別委員会は旧敵国条項の削除、改正を総会に勧告、12月国連総会で国連憲章から旧敵国条項を削除する決議を行い、賛成155棄権3で採択した。この際、棄権3は朝日新聞の友好国である北朝鮮、キューバ、リビアである。
 だが、ようやく日経がその先を少し言及しだした。まずはアッパレと言っておく。


 国連改革といえば、日本にとって座視できない問題として国連憲章の中の旧敵国条項の存在がある。
 すでに死文化しているともいわれるが、この条項は連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、ほかの国は安保理の承認なしに武力行使できると規定してあり、一種の差別条項である。それが厳然として残っている。

 よく考えよう。この数年の流れを見れば、日本への敵国条項は死文ではない。連合国は先日のカンクン会議のG21のようなリーグの筆頭に日本が立てば、連合国側は日本を攻撃するだろう。妄想? もちろん、その前提に日米安保の解消がある。なにしろ、日米安保というのはこの敵国条項の安全弁のようなものだからだ。米軍が日本に駐留している理由の一つは日本を軍事的に支配下に置くことだ。首都を取り巻くように米軍が駐留している様は普通の外人ならバカでも日本が未だ占領下にあることがわかる。
 そんなことを言えば右寄り? ポチ保守賛同? なんだか現実感がないような気もする。
 国連と日本の関係を正常化させることは難しいのだろうか? 意外なソリューションを私は小沢一郎の主張から啓発された。常備の国連軍を作り、日本が兵を出せばいいのだと。なるほど。そうすれば、死文は論理矛盾から本当に死に絶えるだろう。だが、日本の平和勢力、国連主義の人たちはそれを認めるだろうか。今の日本の空気を読む限りそうはいかないだろう。衆院選挙でも、冷静に考えれば、新民主党は敗退する。
 そういう意味で現実というのは厳しいものだ。ナンセンスでない平和というものが難しいのは、血で贖うものだからだし、血で贖うためには国民のなかに国への愛がなくてはならない。この見解はウヨに聞こえるだろうか。だが、警察官だって消防士だって、死ねとは言われないものの、職務のために死なければならないことがある。その職務というものは国への愛が根幹にある。本当は官僚というものもそういう存在なのだが。

[コメント]
# shibu 『そうですか! 小沢の常備国連軍創設とそれへの参加ってそういう意味があったんですか。常備フォーラム「連合国」批判は、敵国条項非難を必ず書くけどその解決策って書いてないですよね。せいぜい執拗に主張せよwで終わり。分担金負担額と率でシノにロ、仏・英非難も尤もですが、こういう視点を積極的に表に出したほうが説得力ありますわ。』

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