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2003.09.20

韓国の日本文化開放に思う

 朝日新聞と産経新聞がそれぞれ社説で韓国の日本大衆文化開放措置について触れていた。対立した意見を期待したとこだが、どちらもふぬけた話。わからないでもない。とはいえ、朝日新聞社説「文化開放―日韓に壁はいらない」のタイトルはボケだが、冒頭の切り出しは良い。


 日本語の音楽CDや日本製ゲームソフトを解禁する。韓国がそう決めたと聞いて意外に思った人も多いだろう。日韓の間にそんな壁が残っていたのか、と。

 現状の日本人の意識からするとそんなところだろう。そのくらい日本人は韓国に関心がない。だから韓国文化の一部が切り出されて日本にエスニックとして受ける。少し前の話だが、2001年(5/16)の日本版ニューズウィーク「韓国をうらやむ日本人」は外人の目から見たトンマな特集で笑えた。
 韓国をどう考えたらいいのかという問題は難しい。韓国も日本同様東アジアで中国の影響を受けた歴史を持っているせいなのか、言葉と事実が乖離する。単純に言えば、発せられた言葉にはすべて裏があって事実を指すことができない。韓国について韓国側から語られた言葉は多いが、その裏に向かって日本人が事実を言っても、その語られたこと自体が言葉に還元して循環してしまう。
 とはいえ、隣国であり、人間の交流もある。人間と人間の交流はただの言葉ではない。戦後多くの韓国人と日本人が私的な交流を深めてきた。現実というものは厳しいものだから、全て信頼の交流とはいかない。裏切りもあるだろう。だが、深い交流であることは間違いない。映画「月はどっちに出ている」みたいなものだ。その総体が日本と韓国に何をもたらしたについてはまだ十分に語られていない。言葉の循環をさけて語るにはもっと深い交流を待つべきかもしれない。
 当たり前のことだが、と言っていいだろうが、70歳以上の韓国人は日本語がわかる。植民地下でもあり、日本人に嫌な目にあわされた人も少なくないことは間違いないが、戦前とはいえ大衆の日本人というのはそれほど善でも悪でもない。そのことを70歳以上の韓国人はきちんと知っている。だが、それを韓国の中で語ることはできない。その詳細はここでは書かない。ただ、この半世紀はそういう歴史だったのだと雑駁にまとめてもはずしてないだろう。現在の日本人もそれが理解できなくなりつつある。センター試験世代の人間に先日「李承晩」って知っているかと訊いみたが無言だった。「イ・スンマンですね」と米国帰りのとんちきな答えなども期待できない。歴史とはそんなものだ。「冬のソナタ」の登場人物も李承晩後の世代だ。日韓の歴史は喧しく論じられるが、実際の歴史とはそういうふうに扱われていく(参照)。
 と、話が散漫になるのは書くのをためらう思いがあるからなのだが、ま、冗談半分に書いておこう。名前をあえて記さないが、私が深く傾倒した歴史学者がこう言ったことがある、「韓国には文化がないのです」。そう言われれば、そんなバカなと誰もが思うだろう。現代の韓国人でも怒るよりせせら笑うだろう。だが、この指摘は碩学だけが知りえた怖いものがあると私は思った。そして、過去を知る韓国人もそれを知っているだろう。単純な話でいえば、ハングルによって覆われている漢字を復活させれば、字面の上で日本語とそっくりになってしまう。もっとも今の日本人の漢字はGHQによって破壊された奇っ怪なシロモノだが。
 あまり雑駁に言ってはいけないが、現在韓国の文化と言われてるものの大半は、清朝によって破れた漢意識の辺境的な再構築だ。実は日本の江戸の思想も類系でこれが明治維新につながる(が韓国とは違い道教化した朱子学の影響は少ない)。
 また、ハングルが元朝の遺産であることも歴史を知ればわかる。食文化などを含め、元朝の影響は大きくすでに韓国人が意識でないほどでもある。骨董好きの一部が陶磁器で李朝より高麗を好むのも、古いものを好むということもだが、どこかに国民文化の起源の美を得たいという思いがあるからだろう。「三国史記」があるとはいえ、日本のように正史として古代を伝える日本書紀という歴史書もなければ、本居宣長のように近世に国民国家の古代幻想を創作するというような民族意識もなかった。もちろん、日本が優れているということでは全然ない。深く歴史を知れば、日本書紀の大半はナンセンスな創作に過ぎないことも、宣長の古代意識もグロテスクな偽物に過ぎないこともわかる。西欧流の歴史学で見るなら、日本書紀の推古朝以前はでたらめとしか言えない。それ以降も政治的な修正でできている。また、古事記は偽書だし、漢文で書かれている。
 こうした知識がなくても、朝日新聞社説の次の指摘は皮肉な示唆に富む。

 開放の壁になっているのは、最近は反日感情よりもむしろ経済問題だ。例えばアニメ映画を解禁すると、日本の作品が最大40%のシェアを占めるというのが韓国側の試算だ。一方、この自由貿易の時代に外国商品を禁じるべきではないという意見もある。韓国も悩んでいるのだ。
 だが、この5年間を振り返ると、日本文化を受け入れたことが日韓の競争や交流を促し、韓国文化は打撃を受けるどころか、かえって元気になったのではないか。

 朝日新聞は間違ってはいない。のんきなだけだ。日本の大衆文化の威力がわかれば、もう少し踏み込んだ議論になっただろう。江戸時代から鍛えられてきたこの脱知性化の文化はハッチントンが単一の文明と勘違いできるほどに強力だ。
 それが韓国の大衆意識を席巻するのはわかりきったことだ。だから、朝日新聞がいうような経済の問題ではない。まどろこしい言い方だが、日本文化が韓国の文化をつぶすという関係ではない。日本の大衆文化は日本の国家性を越えている。むしろ韓国アニメや韓国の大衆音楽はアジアでの興隆という点で日本を抜いている。エネルギーが再注入されたかのようだ。そして、それが韓国の大衆文化だと思いこむ人もいる。もちろん、そう思って悪いわけではない。
 で、何が問題? いや、問題などない。偽悪的に言えば、日本文化のレプリカがアジア諸国で興隆し、それぞれが自身をオリジナルだと主張してなにが悪いだろう。「プッカとガル」(参照)で素直に笑っていてもいい。欧米の大衆文化すら同様に日本の大衆文化は圧倒してきたのだ。アッパレ日本と言っていいくらいだ。村上隆を超えるアーティストも韓国から出るかもしれない。
 だが、小声で空虚に向かってつぶやこう、本当は違うぞ、と。日本の大衆文化はある種の病理を含んでいる。村上隆のアートはその危機の緊張を含んでいる。深い知性ならそれを忌避して当然のなにかだ。

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2003.09.19

地価下落が問題ではない

 朝日新聞を除いて各紙社説は国土交通省が発表した7月1日時点の都道府県地価を扱っていた。いずれも地価の下落を問題にしているのだが、主張のトーンは違う。読売と産経は笑える。
 読売新聞社説はタイトル「基準地価 いまだ底なしの土地デフレ」でもわかるように、イケイケドンドンである。いしいひさいちの漫画に出てくるナベツネのような感じだ(参照)。結論は以下だが、実はこれは取って付けたようなもので論旨は微妙な部分もある。特に再来年から導入される減損会計の問題は重要な指摘だ。


 何より、政府・日銀が本格的なデフレ対策に取り組むことが肝心だ。景気刺激に重点を置いた予算を編成し、金融政策でも一定の物価上昇を目標にするなど、明確な政策転換を打ち出すことが、土地デフレに対する処方せんともなる。

 産経新聞社説「地価動向 明るい兆候育てる努力を」はもしかすると冗談かもしれない。引用冒頭の「それが続けば」という「それは」は東京の地価向上だ。これを好機と見て次のようにラッパを吹く。

 それが続けば、バブル崩壊で発生した資産デフレが是正されて、日本経済全体のデフレ傾向に歯止めがかかり、経済は好循環に入るだろう。
 この機を逃さず、さらに地価を底上げする努力をすべきだ。土地の証券化や規制緩和などのペースを速め、大型の都市再開発を実施しやすいような法整備を求めたい。

 日経新聞社説「地方都市の空洞化示す地価」が期待を裏切らずまともだ。問題は地方都市なのだ。地方都市が崩壊しているのだ。加えて、「2003年問題」も実際のところ「ねーじゃん」ということにも触れている。

 人口10万人以上の114地方都市の最高価格地の平均下落率は13.6%で、商業地の同10.5%をかなり上回っている。大型店の撤退などにより、中心部の下落率が周囲より大きいことを示している。

 毎日新聞社説「地価公示制度 土地神話時代の遺物なのだ」は奇っ怪だ。「そーきたか」という感じで、なんだかどっかのブログでも読んでいるようだ。ようは、地価公示制度自体が間違いだという、ちゃぶだいひっくり返しに出たのである。反則だよ、それ。

 関心があるのは、地価の動向ではなく、地価公示という制度そのものだ。高度経済成長からバブル経済に至るまで、日本には地価は永遠に上がり続けるという土地神話があった。土地は投機の対象になり、さまざまな規制が必要だった。このため、政府は全国の地価動向を把握しておく必要があり、地価公示制度が始まった。

 冒頭いきなり主語無し文という反則技を繰り出すのだが、本文中には「だからぁ、こんな制度やめようぜ」とは書いてない。ずるい。じゃ、どうすんだよに答えていない。「前提が間違っているからぁ」とかコクそこいらの小便小僧なら、「オメー、帰って寝ろ」だ。でも、毎日新聞社説のいうこと自体はそれで良いのか? 曰く、弊害は2点。(1)土地は収益還元の発想で、不動産市場で流動させるべきだ。(2)更地信仰を増長させているからイカン。だとさ。違うぜ。土地は通常の産業リソースじゃない。更地信仰云々は屁理屈だ。
 地価公示の制度がなければ、固定資産税はもとより、連動する路線価が決まらず相続税の算出が混乱する*3。土地というのは、国民の国土という意味で国民が生きるためのもっとも基本的な資産だ。
 と、毎日新聞社説をくさしてみたものの、現在進行している問題に応えているとは言い難い。というか、全然対応できない。つまり、日経新聞社説がいうように、問題は地方の崩壊であり、反面東京の一極集中だ。この地域に限って言うなら、毎日新聞社説の言うことは間違っていないどころか、正しいと言ってもいい。
 読売や産経の吹くラッパは冗談だとして、ではどうしたらいいのか? というか、何が問題なのか。地価が下がることが問題、だとしても、それはもうどうしようもないのではないか。
 ブログだからというわけでもないがあえて暴言でまとめる。東京都への一極集中は止まらない。住居としての土地はしだいに無意味になっていく。居住なら東京内のマンションのほうが住みやすいからだ。日本人はもはや地面の上のマッチ箱に子供と暮らすということはやめてしまった。もともと江戸時代の都市化をみても、そういう生活はしていない、という意味で、きちんと伝統に回帰している。そして地方都市はさびれる。しかたないのだ。資産デフレは止まらない。でも、そうなるしかない。地価で資産デフレを回復する機会など来ることはない。
 この日本の巨大な構造変化を押しとどめるのは、地震くらいしかない。でも近々予定されていた地震は来なかったね。みみずくんはご機嫌なのだ。

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2003.09.18

名古屋立てこもり事件とは何だったのか

 産経新聞社説が名古屋の立てこもり爆破事件を扱っていたが、これが奇っ怪なシロモノだった。以下引用の内容は完璧にゼロだが、「ガソリン」にまつわる醜い修辞に注意してもらいたい。


 爆発原因はまだ、明らかでないが、揮発性の強いガソリンのようなものをまいたため、密封された部屋にガスが充満、何らかの原因で引火し爆発、炎上したらしい。
 事件後、警察当局は爆発は想定外の出来事だった、としている。確かに人質をとり、ガソリンのような油をまいたことで、警察官の強行突入は、困難を極めた。しかし、防ぐ手段はなかったのだろうか。
 犯人がビルに侵入してから、爆発、炎上までに約三時間あった。警察は、犯人を説得しながら、突入の機会をうかがっていたが、ガソリンのようなものを床にまいたうえに、「近付いたら火をつける」などと脅したため、強行突入は危険な状況だったという。

 なんだこれ。執筆時点で「ガソリン」と断定できないから「ガソリンのようなもの」になったのだろうが、バカみたいだな。と、またバカの壁現る。というわけで執筆者を思いやってみても、なんだかなぁである。バカでなければ文章が抜本的に下手くそということか。常識的に考えれば、ガソリン以外の類推は成り立たないのだから、もう少し踏み込んで書いてもいいはずだが、それができなかった産経新聞の体制は大丈夫か。
 ただ、この「ガソリンのようなもの」は産経新聞をコケにして済む問題ではなく、今回の警察の対処も似たようなものだったのかもしれない。すでに爆破後に「ガソリンのようなもの」とする産経新聞はさておき、爆破前の警察としては「まさかガソリンじゃねーべさ」と思っていたのだろうか。日本のガソリンのハイオクタンはヨーロッパ高級車向けに出来ているほど危険。質の悪いアメリカのガソリンですら、「ガススタンドで携帯電話をすると爆破する」ってな都市伝説(参照)がまかりとおるほどだ。これらは携帯電話の注意事項からでっちあげられたホラなホラーだが、危険認識として誤っているわけではない。
 実際のところ、今回の「名古屋立てこもり事件とは何だったのか」と再度問いを出してみると、世間は犯人像や爆破映像に関心を持っているようだが、事件の本質は警察のガソリン認識と対処のミステークっていうことになる。
 事件を伝える17日の読売新聞のニュースでは見出しに「揮発性油は想定外、特殊部隊投入できず…ビル放火」とあり、警察がガソリンを想定できなかったかのような印象を与えているが、ニュース内で言及されているのは次のとおりなので、見出しのボケだ。

揮発性の高い油をまかれたため、爆発につながる特殊せん光弾を使った強行突入ができないという想定外の事情も影響したとみられるが、警察幹部たちはショックを隠せない。

 警察はガソリンと認識していたけど、「特殊せん光弾が使えないのかつまらーん」とか思案していただけだったということになる。と書きながら、この手の短絡的なアホーな思考はセンター試験以降の世代に多いんだよなと、密かに思う。こいつらが根本的にわかってないのは、現場というのは最善のソリューションなんか求めていないっていうことだ。求められているのはソリューションだけで、それに修飾語はいらない。テメーの体を張って問題をとにかく解決する能力が実務家には必要なのだ。という能力が警察に欠落してきているのだ。
 今回のニュース報道をみるかぎり、そうした問題(つまり、被害を出した原因は警察だぜ)ということが薄められていくあたりも、ジャーナリズムもセンター試験以降の世代に溢れているのだろう。と、世代論に話を堕すと時事ならぬじじい臭い暴論になるが、でもよ、現場たたき上げの中高年よ、がんばれ。

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2003.09.17

社会が自殺を強いるシステムになっていないか

 地震は来ない。今日も新聞各紙社説はつまらない。日朝問題は深刻だが、だからといって一周年記念というだけで社説を書く神経がわからん。阪神優勝も社説ネタではないだろう。というわけで、気になっていることを書く。自殺の話だ。
 昨日夜7時ごろ池袋の駅が異常に混雑をしているのでなにかと思ったら、西武池袋線が不通になっているとのこと。それだけでのこの群衆かよ。いったい地震が発生したらどんなことになるのか。まったく迷惑な人身事故だよな、と思ったが、人身事故ではなかった。主観的な印象に過ぎないが、西武線に人身事故は少ないような気がする。事はとんまなトラックが電車に接触してプチ脱線。けが人はなし。今朝のニュースを見ると、22万人に影響が出たとのことだが群衆に迷惑している私などはその影響には含まれていない。
 とっさに人身事故だと思ったのは鉄道のトラブルといえば人身事故だからだ。中央線に多い。ふと、ネットを調べたら、「2003年JR中央線人身事故情報」(参照)という情報があった。不謹慎だが面白い。新聞だけの追跡なので、実際にはもう少し多いと思うが、それでもある傾向はつかめる。自殺しやすそうな駅は、東小金井、三鷹、信濃町だ。思い当たる。東小金井と三鷹の西には電車の車庫というのかがあって、乗り換えになることが多いが、あの乗り換えがイカンのではないか。あの空白な時間はふっと自殺したくなる。信濃町はよくわからない(ことにしておこう)。反面、国立、吉祥寺、高円寺では自殺者が少ない。ある程度、所得層のある人の活気があるからなのか。駅間では武蔵小金井を挟んでが多いが、これは構造的な問題もあり、やがて高架になれば減るだろう。ついでに、「鉄道自殺/人身事故路線別ランキング2003」(参照)を見ると、「ついにJR東海道線が首位に! どうした中央線??」とあるが、東海道線に自殺者が増えているのはなぜだろう。新規の住宅が増えているからなのか。ところで、このホームページはなんなの?と思ってみると、太宰治を意識しているようだ。太宰治は自殺ということになっているが、たぶん事故だろう。ついでに、ドナルドキーンが20年くらい前だったか、日本の近代文学で残るのは夏目漱石と太宰治でしょうと言ってたが、あたり。しかも彼は太宰治の文学は西洋人にわかりやすいとも言っていた。そのわりに翻訳は出ない。ねじれたキリスト教観がかえって西洋人にわかりづらいのかもしれない。
 話がおちゃらけてきたが、自殺の問題はわかりそうでわからない。調べるほどにわからなくなる。その最たる例は自殺の各国比較とかでよく見かける統計があるが、あれはなんの意味もないのだ。特に米国の場合、自殺とは「オレは自殺するぜ」みたいな遺書が自殺認定の条件になるのだ。条件が違うのだから、各国比較などできるわけがない。

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自殺論
 自殺が社会学的な話題になるのはデュルケムのおかげで、ついその路線で考えがちだ。と書いて、ふとデュルケムを思い起こすに、宿命的、自己本位的、集団本位的、アノミー的。小室直樹を持ち出すまでもなく、現代はアノミー的と論じたくなるのだが、現在の日本の状況はアノミーではなく、むしろ集団本位的なのではないか。下品な言い方をすれば、詰め腹っていうやつだ。そして、詰め腹を強いるのはたぶん家族や愛の幻想だろう。
 無連帯だから死ぬというより、システムが「死ね、死ね、死ね」というわけだ。2ちゃんねるも実に日本のシステムだから、「氏ね」「逝ってよし」とかメカニカルに言いまくる(参照)。そこまでして、日本人はシステム的に自己抹殺を薦めているわけだ。
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ぐれる!
 冗談だか議論だかわからなくなってしまったが、現代的な相貌としては、「リタリン」など向精神薬の影響があるだろう。それが原因だからやめろという短絡な話ではないが、「鬱病は心の風邪です。お薬で治しましょう」みたいなのがいつのまにか、科学的に社会的に正しい言説になってしまった。
 実際に鬱病になると、自分でもわからず「死にたくなる」という現象になる。だが、その自分でもわからない無意識を自我から乖離させずに、意識して悩むということや苦しむことに人生の意味もあるのだ、とわりきるというのはどうだろうか。なんだか、中島義道みたいになってきたが、敵は詰め腹を強いる日本の社会システムかもしれない。とすれば、それに戦うということは苦しみを伴う思想的な営為を必要としている。

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2003.09.16

幼い子供のいる家庭に必須のアセトアミノフェン

 今日は新聞休刊日。毒づくネタもなく、地震もまだなので平穏だ。書くこともなにもない…では面白くないですね。といってさして面白いネタがあるわけでもないが、最近になって漫画『ブラックジャックによろしく』をはじめて読んだので、その関連で思ったことをちょっと書いておこう。

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神罰
  知り合いの自称漫画評論家に「今一番面白い漫画は?」と訊いたら答えは『ブラックジャックによろしく』だった。『神罰』(田中圭一)ではないようだ。ま、そうかな、というわけで、評論家の蛭子能収、もとい漫画家の立花隆も薦めているので(あ、逆か)、6巻まとめて買って読んでみた。面白いと言えば面白かった。どこが一番面白かったかというと6巻目で主人公が看護婦と70年代の青春みたいな性交をしているシーン、というわけでもない。
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ブラックジャックによろしく
 『ブラックジャックによろしく』はよくできた漫画だなと思うが、率直なところ意外な事実というのもあまりなかった。「けっこうフツーで、学習漫画みたいだな」とも思った。特に批判もないが、どうせなら、ドラマティックな効果よりも、悲劇をできるだけ回避できるための、ちょっとした知恵のような話を盛り込んだらよかったのに。
 気になったのは小児科医療の話のところで、夜間に駆け込む子供の話だ。実態が、あーであることは知っているが、それにしても、なぜ日本の家庭にはアセアミノフェン100mgがないのだろうか。
 アセトアミノフェンときいてぴんと来こない人もいるかもしれない。欧米では標準的な解熱鎮痛剤だ。が、日本人はほんとこれを使ってないね。アスピリンもそれほど使わない。代わりにけっこう変なといっては語弊があるが鎮痛剤のOTCを飲んでいる。家庭の常備薬っていうのは昭和40年代からあまり変わっていないのではないか。しかも、家庭の文化で定着しているようでもある。ま、薬などあまり使わないに超したことはないのだが、有効性のあるものを選んで常備しておけば、いざというときの助けにはなる。特に、アセトアミノフェンだ。子供のいる家庭なら座薬タイプ100mgが2つあればいい。大人向けの沈痛解熱用には、別に宣伝するわけでもないが、タイレノールがスタンダード。でも、やや量が多めなので、アスピリンを含まないアセトアミノフェン成分の小児用バッファリンを大人が多めに飲んでいいだろう(くれぐれも成分を確認のこと)。
 とま、アセトアミノフェンについてこれ以上、こんな不正確な情報提供のブログに書くべき内容でもないので、小さい子供のいる人はこちらの「解熱剤とひきつけ止めの使い方」(参照)をご覧下さい。というか、大人というのは子供を守るべき存在なので、誰でもこのことは常識で知っておいて欲しい。米国の育児書などには記載されている(日本の育児書や妊婦向けの書物は実用的ではない)。こうした知識で子供の夜間の救急患者が救えるというものではない(参照)。が、緊急の状況によっては役立つこともあるはずだ。
 ついでに『ブラックジャックによろしく』でも小児科医療の問題が取り上げられていたが、問題は構造的だ。医者の卵の負担を重くするのは必ずしもいいとはいえないが、WHOでは小児学科の学習時間は300時間が提唱されているのに、日本の現状はその半分。日本の医学は小児科を重視していない。それを放置している日本の構造自体、実は子供を大切なんかしていないという証拠でもある。

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2003.09.15

スウェーデンはユーロを拒否

 休日。老人の日らしい。労働日数を欧米並にして、しかも個人の選択を奪うという目的で、日本のカレンダーはボコボコに休日が多い。新聞各紙の社説は今日もつまらない。WHOの混乱などなにがニュースなのだ。というわけで、気になったニュースとして、スウェーデンが国民投票でユーロ導入を否決した話を書く。別にこの問題に斬新な知見があるわけではないが、気になるからというだけのことだ。
 今回の国民投票の動向は予想がつかなかった。11日にユーロ導入賛成陣営筆頭のリンド外相が刺殺されたため、その反動の同情票が増えるという予測もあった。フランスのル・ペン登場みたいに、大衆レベルでは右派が多いくせに、一時期の現象で世論の流れが一気に変わるということがある。だが、結果は、反対56%、賛成42%。世論を分けたとは言えるが、投票率が81%とであることを考えに入れると僅差とは言えない。むしろ、同情票の上乗せがあってもこの程度だったということだ。
 これをもって「なるほどスウェーデンは反ユーロなのか」という結論になるだろうか。雑駁な言い方だが、国民の動向が割れているのだろう。推進派はエリクソンなど国際企業やIT関連ではないかと思われる。EUが発展すればスウェーデン国内への投資は減るだろう。とはいえ、これもものは考えようで、エリクソンなどさっさと経営の形態上スウェーデンを離れればいい。ソニーと同じだ。ソニーはもはや日本の企業とは言えない。
 そう考えると、スウェーデンの国民、というか国家の幻想性を支える大衆の意識は反ユーロなのだろう。もともと王国の伝統を持つ国なので、バイキングの歴史や前近代時代の血なまぐささはあるものの、近代化に伴い、市民が荒れ狂うフランスやドイツみたいな歴史の国とはなじまないのかもしれない。私自身の印象でもフランスっていう国は未だにボナパルト幻想を持っているのだという感じがする。
 加えて、スウェーデンでは国の福祉行政がそれなりに国民から支持を受けているのだろう。国民経済がそこそこに行けば、税法式による現状の高齢者福祉に問題はない(参照)。少子化については一時期2.0を越えたものの長期には減少気味に見える。だが、先進国には珍しい回復事例は興味深い(参照)。
 スウェーデンの人口は800万人ほど。東京都より少ないが、小国でもない。すでにデンマークはユーロから離反しているし、もはやイギリスもユーロ参入の目は当分はないと見ていい。これだけでもユーロの初期の幻想は終わったと結論していいだろう。ヨーロッパなどというやっかいな概念を持ち出さずにギリシアも入れたのだから(という言い方は嫌われるだろうが)、トルコも入れればいい。トルコをうまく取り入れれば対米戦略もばっちりだ、というのは、ちと放言過ぎるか。
 スイスの国民投票は2008年だったかと記憶している。そのころまでに、EUの動向は変わるかもしれないが、これから小国化していく日本も含めて世界経済のなかに平和に静かに沈没していく国が増えるのは悪くないように思える。

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2003.09.14

コーラン(クルアーン)の背景を考える

 今週のニューズウィーク日本語版「神の啓示につけた疑問符」関連を書く。
 ニューズウィークは所詮米国系の雑誌なのであおりは「殉教者に与えられるのは『美女』ではなく『ブドウ』、コーランの誤りを大胆に指摘した新著が呼ぶ波紋」ということになる。著書は"Die Syro- Aramaeische Lesart des Koran. Ein Beitrag zur Entschluesselung der Koransprache(Christoph Luxenberg)"である。記事のオリジナルタイトルはこうだ。


"Challenging the Qur'an: A German scholar contends that the Islamic text has been mistranscribed and promises raisins, not virgins"

 というわけで、「コーランの誤り」というのは日本語版ニューズウィークの物騒なタイトルは悪意ある誤訳なのか、編集者の見識が低いのか。もともと英文のほうは、7月28日の掲載だったので、日本版ではもう掲載されないのかと思っていたが、今頃出てきた。なぜだろう。ただのボケ?
 話は、現在のコーラン(クルアーン)は、マホメット(ムハンマド)死後150年後に編纂されたもので、元になった資料はアラム語で書かれていたとするドイツ人学者クリストフ・ルクセンブルグ(Christoph Luxenberg)が5月にドイツで出した新著を、「だからぁコーランは誤訳だよ」というトリビアの泉的なおちゃらけにしている。とはいえ、コーランの起源がキリスト教であるという指摘は見落としていないので、ま、よく書けた記事だろう。
 この話題、日本人にはどう受け止められているだろうか? 「52へぇ~」くらいだろうか。日本人の他宗教への意識を考えればその程度だろう。反面、日本は反欧米意識からイスラムに荷担する知識人が多いから、この手の話題は無視を決め込むだろうか。そんなあたりが日本人らしい奥ゆかしさかもしれない。
 多少キリスト教の見識のある人なら、イエス・キリスト(ナザレのイエス)が話していた言葉がアラム語であることを知っているはずだ。というあたりで、中近東の文化だなぁっていうくらいの感慨は持つかもしれない。だが、少し推論してもわかるはずだが、新約聖書やギリシア語で書かれている。だが、このギリシア語はコイネー・グリークと呼ばれるギリシア語なのでプラトンなどの古典ギリシア語とは多少(あるいはかなり)違う。ヘレニズム側ではパウロ(タルソのサウロ)の拠点だったアナトリア側はコイネー・グリーク圏なのだが、アラビア半島側はアラマイック(アラム語)圏だった。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 新約聖書の共観福音書には聖書学仮説で通称Qという原資料があるとされ、これはアラム語だろうということは定説になっている。そのわりに、Qを完全にアラマイックに復元する作業はなぜか聖書学的には中断されているようだが、それでもかなりの知見はヨアヒム・イェレミアスによって明らかにされているが、彼のアラム語研究に比して神学がけっこうポンコツなので今日あまり顧みられていない。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 いずれにせよ、アラビア半島側ではその後もキリスト教は生き延びるわけで、そうした一旦は現在のエジプトのコプト教会(コプティック)5に残っている。現在のなぁなぁ的なエキュメニズム*6がキリスト教を覆った現在では、東方教会にも分類されない部分は事実上無視されているが、こうした性格を持つ初期教会の一つネストウリウス派はアラム語をベースにペルシア側に拠点を置き、チンギス・ハーン時代にはユーラシア全域を覆っているのだから、歴史学的にはアラム語ベースのキリスト教はかなり大きな意味を持つ。ちなみに、チンギス・ハーン本人もキリスト教徒であると強弁してもそれほどトンデモ説にはならない。彼の主君オン・ハーンは明白にキリスト教徒だったし、チンギスの「天」意識はこのタイプのキリスト教と同系かもしれない。ちなみに、フビライ・ハーンの母ソルカクタニ・ベギはオン・ハーンの姪でキリスト教徒である。
 ムハンマドも非ヨーロッパ・キリスト教でかつ非ユダヤ教的なアラム語圏のキリスト教の流れに位置していたのだろう。非イスラム教徒は「アラーの神」という言い方をするが、これは誤解に近く、単にアラマイックの神呼称だ。ナザレのイエスの神も「アラー」でもあったわけだ。
 さて、興味の尽きない話題だが、こうした歴史の議論はイスラム教徒には受け入れられないことだろう。
 宗教の問題は難しいものだ。争いのネタになる。日本人は、「各宗教がそれぞれを尊重し合って仲良くするのがよい」という他の宗教者が受け入れられない聖徳太子憲法的な絶対的な宗教観をのんきに普遍だと思っている。日本人は1991年、『悪魔の詩』の邦訳者筑波大学五十嵐一助教授が大学構内で惨殺されたことの意味も考えないし、もう済んだことになっている。というふうに日本人の宗教観に毒づいても「しかたがない」と思う私もただの日本人でしかない。

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