« 2003年8月31日 - 2003年9月6日 | トップページ | 2003年9月14日 - 2003年9月20日 »

2003.09.13

国体からクレアチンを排除すべきだ

 今朝の新聞各社の社説も概ね退屈だった。朝日新聞社説の「石原知事 ― テロ容認そのものだ」の執拗さは醜悪を通り過ぎて酸鼻。今回の石原都知事発言の是非は高校生でもわかる。それに、これだけ報道されているわりに話の前後がわからない。いずれにせよ話題とするような内容じゃない。
 そんななか、今朝の読売新聞社説「ドーピング 静岡国体を排除の契機にしたい」 は、着想だけは悪くなかった。しかし、新聞記者っていうのはこうも無知なのか。知っていて書かないのか。問題の切り出しはこうだ。
 十三日開幕する静岡国体からドーピング検査が、国体としては初めて実施される。これを、外国での話、と考えがちな日本のスポーツ界の意識を改める契機にしたい。
 今まで検査していなかったのが非常識だし、今回の検査もどのレベルなのか疑われる。ただ、高校の体育の顧問レベルではそれほど医学・薬学の知識はないのでそれほど厳密な検査の必要はないかもしれない。
 読売新聞社説のまとめは素朴なものだ。
 一般のスポーツ愛好者への広がりも懸念されている。体格改造効果をうたったサプリメント(栄養補助食品)の宣伝がインターネットや雑誌に氾濫(はんらん)し、安易に手を出して副作用に苦しむ例もある。
 「正しい食事があればサプリメントは不要」という戦後の栄養学が女の権力よる蛸壺になっているから、日本に事実上栄養学はないに等しい。現状ですら、栄養士はビタミンB6の計算すらしていない。この問題は今回はさておくとして、サプリメントは不要、インターネットは害、といった思い込みで大衆に通じると思うあたりが読売新聞らしいところだ。
 前振りが長かったが、問題はクレアチンだ。国体選手を含め、多くの高校生アスリートがクレアチンを摂らされている。なのに、その実態が知られていない。
 クレアチンについては簡単に説明したほうがいいだろう。クレアチンは、アミノ酸の一種で筋肉(随意筋)内にクレアチン燐酸の形態として存在し、運動の際にATP(アデノシン三燐酸)と反応してエネルギーを放出する。まさに、スポーツサプリメントの面目躍如というところだが、機序はわかっているものの、実際的な効果についてはそれほど明確になっていない。
 クレアチンは米国のスポーツサプリメントでBCAAと並んで定番商品になっている。FDA(日本の厚労省の医薬局に相当)が認可しているように、食品として有毒性もない(ADI未設定)。短期の服用では問題ないことがわかっているが、長期服用の安全性については疑問の声もある。
 クレアチンは概ね安全な物質だが、摂取によっては、発汗や水分代謝の機序に関わるため、脱水やそれに伴う心筋梗塞を起こす危険性がある。腎臓にも負担がかかる。製造品質の基準もないので、安価な製品には汚染の問題も潜む。日本人は日本が引き超したトリプトファン事件(参照)に無関心だが、総じてアミノ酸サプリメントには潜在的な危険性伴う。
 クレアチンは、日本では1998年、法的根拠を持たない通達によって、食品区分となった。日本でもあちこちで販売されている。先進国中では、フランスが規制している。フランス食物安全局はクレアチンの長期服用に発癌の恐れがあるとして、スポーツでの使用を1999年に禁止した。
 日本の国体選手の大半はクレアチンを服用しているはずだ。しかもそれは体育の教官から指導されてだ。曖昧なソースでそんなことを言うんじゃないよと批判されそうだが、現場をのぞき見た感じからこのことは確信できる。
 クレアチンはアナボリックステロイドのようなドーピングには相当しない。教官達もそんな意識はもっていない。フランスの例を無視するとして、短期使用なら健康に害はなそうだ。何が問題なのか?
 問題は、「クレアチンの利用はスポーツなのか?」ということだ。スポーツというものはルールに則って行うことに意味がある。健康な人間が競うというのがアマチュアスポーツ理念ではないか。それがなによりも前提となるルールであるはずだ。プロレスや野球のような興行ではない。そう考えてみれば、一般人に身体改造的なクレアチンの摂取させることは即刻やめさせるべきだ。特に高校生への適用は禁止すべきだ。
 BCAA(分岐鎖アミノ酸)の利用も、同じ理屈でやめさせたほうがいい。BCAAも有害ではないが、その一時的な摂取は血中のセロトニンの代謝を変えてしまう。興奮剤とまではいかないものの、身体な自然なセロトニンサイクルを人為的に変更する作用があるのだ。
 日本の子供の学力低下も問題だが、体力も問題だ。日本では、子供の身体の畸形化まで教育に組み込まれてしまっている。

資料
フランス食品衛生安全庁(AFSSA)による栄養関連意見書2件(参照
資料日付 2005(平成17)年5月11日

[諮問番号] 第2004-SA-0173号
[諮問機関] 競争消費不正抑止総局
[案件]特にスポーツをする人に向けた過度の筋肉疲労者用食品に関する指令案評価
[概要]本指令案は、欧州委員会が基本指令89/398/CEEに基づき作成したもので、過度の筋肉消耗者用食品を4つのカテゴリー(①エネルギーを豊富に含む糖質供給食品、②糖質及び電解質の溶液、③濃縮たん白、④たん白質強化食品)に分類している。AFSSAは、これらの食品の詳細な規定、当該カテゴリー及びクレアチンについて意見を求められた。糖質の最小含有量が製品のカロリー供給量の75%とする案については、65%にするのが望ましいとする(カテゴリー①)など、いくつか見解が出された。クレアチンについては本指令案で1日3g程度の使用が定められているが、当該物質は肉などの食品から摂取されており、また摂取リスクが十分に評価されていないことなどから、当該物質の記載は正当化されないとする。
 
 

| | コメント (16) | トラックバック (1)

2003.09.12

地震が来るのか?

 今日も新聞各紙の社説はつまらないので、ちょっとどうかとは思うが、地震の噂について書く。自分なりの結論を先に言うと、まるでわからない。ナンセンスなことを書きそうだが、この問題に関心がないわけでもないので書き散らしてみる。
 ことの発端については、民営の八ヶ岳南麓天文台の民間研究者串田嘉男による発表だ。社会的な影響の発端はこれをネタにした週刊朝日(2003年9月19日号)。一部、ネタの出所が2ちゃんねるとの噂もあるようで、案外週刊朝日が2ちぇねんるからネタをめっけたのかもしれない。
 社会的な影響も目に付くようになってきた。アシストのビルトッテン社長はまともに受け止めている(参照)。そういうのもありだろう。株などにも影響があるようだ。この動向は16日までピークがくるだろう。多少冗談を込めて言えば、株には人間の集合的な直感の予知能力が表出するから、休み明け16日の株価の状況を眺めてみたいものだと思う。出だしに騒ぎがあるかもしれないが、昼にどたばたのゲームが終われば、地震の目は少ないのではないか。余談だが、阪神大震災のおり、国内の報道機関が腰抜けでまともな取材をしていないように思えたので海外の特派員記事をよく読んだものだが、彼らは関東大震災の可能性についても言及していた。日本の証券市場は時事上外人の場だから、今回の噂がからどのくらい影響が出るのかも、ちょっとした見ものだ。
 正直なところ気にはなるので、元になる串田嘉男の発表を雑見してみた。率直な印象として、こうした騒ぎにありがちなエキセントリックなものではなかった。現在この分野の主流の学者の研究傾向とは当然違うのだが、だからといってそれが非科学というわけでもない。ばっくれて言えば、今回の予想が外れることで、串田嘉男の研究の社会的な評価が決まってしまうことだろう。
 当の震災予想だが、東京を含む南関東で9月16日、17日の(プラスマイナス2日)とのことだが、14日から19日ということだろうか。発表によると発生の確率は60%。皮肉な言い方をすれが、ビミョーにハズレが織り込まれているのが面白い。
 私自身はこの問題はどう思うか。正直、内心は来るんじゃないかとおびえている。そのことがブログ的に面白いなと思っている。予想が外れてあとから今回の事態をくさして恰好付けるよりは、今の自分の状態を記しておこう。
 予想の時間帯、私は都心中心にいるので、巻き込まれて死ぬという幻想も浮かぶ。恐怖とともに甘美な思いがあるが、いずれ誰も人間は死ぬのだが、死についてはどうしても幻想が伴ってしまう。哲学者大森荘蔵は死についての言及を人間に避けられない比喩として議論していたが、分析的哲学的に考えても、我意識というのもはそういう死の比喩の言語ゲームで成り立っているのだろう。
 生きていたら、今日のブログに愉快な追記ができそうだ。

追記
 追記は9月25日にまとめた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2003.09.11

麻薬問題は思考停止では解決できない

 今日は9.11。日経新聞を除き新聞各紙、お約束ということで無意味な社説を掲げていた。あとは話題にする価値のない総裁選。朝日新聞が石原都知事発言をネタに息巻いていたが醜い。というわけで、ネタのない平和な一日だ。私にとってニュースはない…と思っていたら意外なところにあった。
 Wired(日本語)で「ドラッグ『エクスタシー』が脳損傷を引き起こすという研究結果は間違いと判明」(参照)というニュースが上がっていた。やっぱしなという思いと、MDMAについて複雑な印象を覚えた。
 日本でも麻薬扱いになっている「エクスタシー」、つまりMDMAについて、今さら基本的な説明が必要だろうか。通称「エクスタシー」は、日本の警察ではMDMA成分を含まない錠剤も雑駁にMDMA等錠剤型麻薬としている。2CBなどもごちゃまぜになっているようだ。それでも、その名称は、一応社会に広く知られてはいるのだろう。先日のクローズアップ現代(参照)では、「若者をむしばむ新型麻薬」として扱われていた。映像はベタに蝕まれていく若者の一例を挙げていたが、あの所見は医学的に間違いではないかという印象を持った。
 Wiredのニュースの事実関係はこうだ。


 科学雑誌『サイエンス』の2002年9月27日号で発表された研究では、娯楽目的で使う場合の1回分の通常投薬量でも、MDMAが重度の脳の損傷を引き起こす恐れがあるとされていた。米国の科学界は研究を称賛し、エクスタシーに手を出さないよう若者に警告した。だが今回、リコート教授は薬瓶の中身が違っていたことを明らかにした。

 Wiredはちゃんと笑いのツボもある程度抑えていて、「ヒロポン」みたいなルビは振らない。歴史を考えてもしかたないということかもしれないが。

 研究を行なったジョンズ・ホプキンズ大学医学部のジョージ・リコート教授は、実験で霊長類の動物に投与されたのはエクスタシーではなく『メタンフェタミン』だったと述べた。

 やはりお約束で、そんなの間違えるわけねーだろ、と突っ込みを入れておくのが礼儀だろう。こんなボケをサイエンスに載せるあたり、サイエンスの一流科学誌ならではのユーモアを感じさせる。経口薬として非合法に流通している薬物に対して注射の実験というのも「いかがなものか」的だ。
 ことはお笑いではすまない。サイエンスもフライングしてしまうほど、我々の社会は麻薬をとにかく科学的・医学的に葬りたいわけだ。日本の場合は「麻薬」というだけで、キョンシーの額に貼るお札(比喩が古すぎ)のようになる。
 面白いことに日本では麻薬は、マックス・ウェーバーの目的合理性の議論のようだが、非合理的には流通しない。システマティックになっている。そしてそのブラックマーケットのシステムは依然スピードしか流していない。暴力団自体が厚労省の外郭団体であるかのようだ。これは流通としてみれば他の流通システムの老骨化と同じだ。警察も昔のままでいられるわけだ。
 MDMAが問題なのは、先日のクローズアップ現代にあったように、その流通が従来の麻薬と違うことだろう。これは、どこかでブラックマーケットに収斂されるのか、そのまま警察の現状のままで撲滅できるのか。はっきりとはわからないが、どこかで入力側の物量が増せば警察側の対応は破綻するだろう。副次的に暴力団関係のブラックマーケットも破綻するかもしれない。SFチックだが不思議な光景が出現する可能性もある。
 現状の社会問題としては、「麻薬は悪い、悪いものは悪い」でとりあえず収まっている。芸能人の大麻狩りなどその業界の提供するエンタテイメントと見る方がましだろう。
 その意味で、現状の日本には麻薬問題はないといってもいい。あるとしてもその業界の55年体制が正常に運行しているだけだ。しかし、それが破綻したとき、麻薬に対して社会はどう取り組むのだろうか。
 麻薬の社会浸透は欧米がその先端を行っているともいえるが(規制の方向はヨーロッパと米国では違うが)、そういう事態に日本もなるだろうか。直感的にいうのだが、直接的な麻薬問題より、それを宗教的に忌避するために、日本社会に根の深い強烈な差別意識のようなものが突然惹起してしまうのではないか。
 その可能性があるなら、現状の麻薬患者をどう現在の社会と接合させるかという新しい社会のビジョンが必要になる。「更正」というような理念はたぶん、ダメだろう。

追記
 再考するに、「麻薬患者が」というより、日本の場合、アルコール依存症なども同類。アルコール依存症が現状日本社会にある程度受容されているような具合になるのかもしれない。
 自分では大麻には関心ないし吸ったこともないが、大麻についてはもはや麻薬ではないというのがEUの認識のようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.09.10

裁判員は多いほうがいい

 今朝は朝日新聞を除いてみなブリヂストン工場の火災を扱っていたが、つまらない内容だった。新聞社なのだから本質を現場で探ってから書けよ。その点、朝日新聞の「裁判員――お飾りにしてはならぬ」は重要な問題提起だ。
 司法制度改革の検討会で裁判員制度の集中審議が始まるにあたり、市民による裁判員の参加の比率をどうするかという問題だ。朝日新聞社説は、下手くそな文章でこう書いている。


 自民党内でも論議が活発だが、ここでは有力な意見として、裁判官2、3人、裁判員6人程度の案が出ている。
 このくらいの組み合わせが、市民にとっては気後れしないで論議しやすいのかもしれない。政府の検討会では、こうした案を軸に議論を進めてはどうか。

 私もこのくらいの構成がいいのではないかと思う。ただし、朝日新聞の次の意見は気にくわない。

 一方で、裁判員はただ多ければいい、というわけでもあるまい。大切なのは、プロと実のある対話ができるかどうかだ。

cover
逆転
 あえて粗暴に言いたい。裁判官というプロと実のある対話ではなく、裁判官という非常識な人たちに真正面からぶつかる気構えのある市民が重要なのだ。その意味では、市民の数が多いほうがいいと思う。だが、伊佐千尋『逆転』を読んで感動を覚えた者として言うのだが、本来なら市民は数が問題ではない。プロと張り合う市民でもない。たった一人の良心だけでもいいのだ。その意味で、市民の良心ができるだけ発現できる環境になればなんでもいい。
 くさすわけではないが、朝日新聞の人道ぶった基本認識は間違っている。

 狭い司法の世界に、市民参加という風を吹き込み、より信頼できるものに変えるのが改革の狙いだ。人の命運を分ける決定に責任を持ってかかわる。お上依存の社会を変えていく起爆剤にもなる。

 日本の場合陪審員制度にはならないが、裁判員は陪審員に近い。陪審員というのは、旧約聖書にあるように共同体の構成員が一人一人石を手にして、仲間を撲殺する責務を負うと言うことだ。私たちが自らの手で特定の人間を殺すという決意を表している。そういう基本的な正義と責務の感覚を養うための起爆剤でなくてはならない。
 話が散漫になるが、裁判員の問題は、朝日新聞社説があえて看過しているのかもしれないが、現状の日本社会ではたぶん無意味になるだろうと予想する。金にもならない裁判員に市民が嫌々気分なしに参加するだろうか(参照)。しないと思う。
 我ながらそう考えていやになるが、実際は、裁判員は2名程度。日本の裁判制度は対して変わらないというオチになるのだろう(ああ、憂鬱になる)。

追記

憂鬱になっていてもしかたない。とにかく実質的に機能できる制度ができれば、あとは裁判員を支援する各種の団体の活動に期待するしかないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.09.09

パレスチナ自治政府アッバス首相辞任はしかたがない

 今朝の朝日新聞社説と読売新聞社説はどちらも、総裁選と、イラク復興へ他国貢献を呼びかけるブッシュ演説を扱っていた。バカみたいだなと思う。また、バカの壁だ。なぜ2紙はこんなつまらないテーマなのかと思う自分を反省すべきなのだが、捨て置く。日経新聞社説と毎日新聞社説はパレスチナ自治政府アッバス首相辞任を扱っていた。こちらのほうが問題だ。
 アッバス首相辞任経緯についての解説は省略する*1。日経新聞社説も毎日新聞社説も和平の雲行きを怪しくする今回の事態を問題視し、なんとか和平を求めるという立場をとっている。2紙ではトーンが少し違う。毎日新聞社説「パレスチナ 和平の枠組みをこわすな」ではようするに米国がイスラエルに圧力を掛けろということだ。


 中東和平においてイスラエル、パレスチナ双方に影響力を行使できるのは米国だけである。しかし、シャロン政権の過剰すぎる程の軍事攻撃やイスラエルによる分離壁建設問題などでブッシュ政権はイスラエルの行動を黙認した。このことがアッバス首相を窮地に追い込んだことは否定できない。和平を結実させるために米国がもっとイスラエルに自制を迫ることはできなかったのか。

 日経新聞社説では米国によるイスラエルの圧力もだが、もう一歩踏み出して、アラファト側のクレイを見直せとしている。ようするに、米国のロードマップを再建したいというわけだ。

 だが、イスラエルとパレスチナの暴力の連鎖の再開を避けるには、クレイ首相の指名見直しは不可欠だ。今こそアラファト議長の平和への意思が問われている。

 私の考えはまるで違う。私の考えは正しくないのかもしれないと思うが、こうだ。そもそも米国側がアッバスを立てたのが間違いだったし、パレスチナを舐めてかかったバチだろう、と。アラファトの実権が戻ることを前提に今後の事態を考えるべきだ。
 露骨な言い方になるが、表層的な「和平」を目先の目標にしてもこの泥沼はどうしようもないのではないか。フセイン下のイラクがイスラエルを刺激するという最悪の想定が消えた今、殺戮の悲惨は悲惨だが、つまるところ当事者の問題だ。イスラエルが和平に目を覚ます可能性は少ない。狡猾なアラファトが平和を求めることはない。とすれば、アラファトがもうろくして自滅するか、寿命がきてパレスチナが音を上げるころ、国際社会がアッバスのような人材を引き立てるしかないだろう。
 時を待つべきでろう。その時がくるまでじっと悲惨に耐えられる平和の人材を国際社会は密かに育てていくべきだろう(若いパレスチナ人を亡命させるべきだ)。

追記:

朝日新聞は翌日の社説でこの問題を扱っていた。主張は、総選挙をしたらどうかというものだ。ウマイ!笑いのツボをおさえている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2003.09.08

子供の性教育をどう考えるか

 産経新聞社説は「過激な性教育 調査と是正指導の徹底を」として、またまた性教育問題についてイデオロギーと古色蒼然の道徳を書き散らしていた。産経新聞の読者層がこういう話を好むのだから、エンタテイメントでいいじゃないか、と言えないことはない。それにこの手の話は床屋談義の最たるもので、口を突っ込むとろくなことがない。とはいえ、この機に少し書いておこう。
 産経新聞の問題意識は性教育を借りた左翼イデオロギーへの反発だ。そのこと自体はそれほど的が外れてはないのではないかと思う。すでに右より雑誌でネタにされているが、その実態はもっと暴露されていいだろう。


過激な性教育は特定の思想をもった教師が行っている疑いがあり、校長らの監視も必要である。

 左翼思想と性教育の問題についてはここでは扱わない。もともと左翼が性解放の先陣を切っていたことは各国共産党の初期の歴史を見ればわかるだろう。
 性教育について思想問題など、どうでもいいことだ。実際のところ、そうした思想背景をもった性教育であれ、社会的な結果がそれに準じてもたらされるわけではない。それよりも現状の日本社会の性教育の必要性を大人たちが認識すべきだろう。
 まず正確な知識が必要になるのだが、産経新聞のこのようなお粗末な説明では困る。

避妊教育についても、正確な知識を教えるべきだ。コンドームは性感染症の予防と避妊に有効とされ、ピルはコンドームよりも避妊効果があるとされる。だが、どちらも万全な避妊具や避妊薬ではない。ピルには、副作用の報告もある。

 だからどーなんだと突っ込みを入れても産経新聞社説にはこの先の展開はない。確かにピルもコンドームも万全な避妊具ではない。だが、使い方を正確に知れば、かなり万全に近い。ピルには副作用もあるが、その副作用を喧伝するのは、医学的な無知を表明しているようなものだ。すでに欧米ではモーニングアフター(事後避妊薬)(参照)すらOTC(市販薬扱い)になってきている。こうした情報を正確に与えないから、少女達は口コミルートで情報を得ることになる。ついでの話になるが、小学生対象にしたプチなレディコミについて大人の社会はなにも問題視しないのだろうか。
 性教育についての意見を大上段に振りかざすことは愚かしいがおそらく、現状の最大の混乱原因は、性というものを教育の場できちんと「快楽」として捕らえていないことだろう。「快楽」を「愛情」と関連付けることが教育だとする強迫自体が問題だ。現実は、性は愛情でもあり快楽でもある。そして大人は愛情という点で見れば、性について倫理的に行動はしていない。
 「こうあるべきだ」という倫理ではなく、大人達の現実を認識させるべきだろう。具体的には、現実の大人の性の問題をケーススタディとした教科書を作ればどうだろうか。だが、そうした教科書を結局活かせるのは、性についてある程度覚悟のできた大人の教師でなくてはならない。
 話をちゃらにしてしまいそうだが、性教育の問題は性的に未熟な大人たちが担いがちという点にあるのかもしれない。学校という場より別の場所で、快楽という点を熟知している大人が必要になるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2003.09.07

沖縄航空自衛隊員の事故死を悼む

 この問題はあまり触れたくない。だが、触れたくないことだからこそ、少し触れておこうかと思う。産経新聞社説で「空自隊員爆死 個人の武器市場の壊滅を」としてこの問題を扱っていた。


 平成七年のオウム事件では、陸上自衛隊第一空挺(くうてい)団のオウム隊員が、空挺団長誘拐を計画していたが、自衛隊は警察から通知されるまでまったく知らなかった。その時の教訓が生かされていなかったことになる。納税者はモラルも緊張感も高い自衛隊を求めている。自衛隊は事件を機にこの点を再度確認してもらいたい。

 というふうに右よりな道徳論だけで、沖縄という背景をすっぱりと切り落としていた。産経新聞が無知なのか、そこに触れるのをびびったのか。おそらく無知なのだろう。当の問題の背景には、沖縄の問題が潜んでいる。
 ある程度沖縄に詳しくなった人間なら誰でも知っていると思うのだが、沖縄では米軍の流出品は街中でも路上でも売られている。つい最近までひめゆりの塔の前の店ですら販売されていて、さすがにそりゃないだろうということで自粛の対象になった。のんきな話でもある。建前と本音(実態)の分離の激しい沖縄だが、こういうことは日常に組み込まれていて、もはやどっていうことでもないのだ。この「どってことない」という奇妙な生活感はわからりづらいかもしれない。沖縄では「しっちゅう」街中で不発弾処理を今でもやっていることすら知らない人は多い。米軍の演習場もけっこう簡単に出入りできる。
 個人的な話だが、私はほとんどの軍事品には関心はないが、米兵の携帯食(参照)には関心があった。なかなかのものである。まずいという人もいるし、お世辞にもうまくはないが、誰も一度はあれを食ってみるべきだろう。と、つい余談が多くなってしまったが、この手のものを販売している店のなかで、彼のお店はあれだったかなと思い巡らした。国道沿いの小さなポンコツ品マーケット。もっとも、そんなものはたくさんある。誤解ないように強調すれば、このような危険物が販売されていることは例外だ。店頭に銃弾が飾ってあっても誰もそこに爆薬が入っているとは思っていない。
 現状まだ十分に調べが進んでいるわけではないので、奇っ怪な背後関係が出てくる可能性はある。だが、航空自衛隊那覇基地所属の田村多喜男空曹長(享年53歳)にしてみれば、退職後を意識した金儲けがメインだろうが、けっこう楽しみのコレクションでもあったことだろう。彼がコレクションを開始したのは20年も前になるという。すでにその楽しみが日常になっていた。なにより、北海道出身の彼はこの20年を沖縄で過ごしていたわけだ。沖縄が気に入っていたのだろう。あるいは沖縄から出られなくなっていたかもしれない。仲間とのつながりもその兵器だったようだ。自衛隊にいられる期間はもう長くはないだろうし、実際帰るべき故郷ももうなくなっていたことだろう。
 勝手な思い込みで同情しても始まらないと批判されそうだが、私は田村多喜男空曹長の運命を残念に思う。その人生は、我々が本当は理解しなくてはいけない日本の戦後史でもあるはずだからだ。

追記

翌日朝日新聞社説は「武器隠匿――米軍ルートの徹底解明を」はこの問題を扱っていた。内容は、ようは規制を強化することと米軍非難。朝日新聞は欺瞞で狡猾だ。沖縄の米軍問題とは沖縄の問題でありその根は本土(日本国)の問題である。そこを避けるために沖縄だけではないというようなことを言う。朝日新聞は沖縄との関わりが深く、その内実に実は詳しい。ちゃんと自前で調査した内容を書け、と言いたい。

最初「アパート暮らしということだから、独り者だったのかもしれない。」と書いたが、家族はいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本は自由貿易協定(FTA)を推進できないだろう

 今朝の朝日新聞の社説は少し意外な感じがした。「新ラウンドとFTA――戦略なき漂流を憂える」というタイトルで、日本が自由貿易協定(FTA)を推進するようにけしかけているのだが、なぜ朝日新聞がという思いと、なぜ今頃かという思いが交錯する。反米ならなんでもありの朝日新聞という冗談でもないようだ。朝日新聞の思想的な偏向は経済面では単に旧来の左翼という枠から抜けて、なにか奇妙なものになりつつある。


 世界貿易機関(WTO)の多角的貿易自由化交渉(新ラウンド)は、10日からメキシコ・カンクンで閣僚会議を開く。05年初めの交渉期限までに完了できるかどうかを左右する重要な会議である。
 日本とメキシコの自由貿易協定(FTA)の交渉も、10月半ばの合意をめざして詰めの協議に入る。日本がWTO重視からFTAも推進する方針に転換したのは90年代の終わりだ。欧米に比べ周回遅れである。中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)もFTA交渉を進めている。このままでは、日本は置き去りにされかねない

 すらっと読むとあまりに古くさい日本孤児論の焼き直しに過ぎないのだが、背景はもう少し複雑だ。まず、中国の世界経済戦略としてのFTAに朝日新聞は対抗しようとしているか、それとも中国の戦略に乗っかれというのか、よくわらない。恐らく、そういう単純な政治的な読みの問題だけでもなさそうだ。
 すでに日経新聞では8月25日に「『FTA大競争』に後れをとるな」として、経済界サイドからの推進を主張している。社説としては、朝日新聞より明快だし、結論も単純だ(参照)。

 東南アジア諸国は先進技術を持つ日本企業の誘致も念頭に日本との協定を強く望んでいるといわれる。日本にとってそれは景気回復や国際競争を通じた構造改革に役立つだけでなくアジアでの発言力向上にもつながる。ひと握りの人々を手厚く守るため国益を犠牲にしてはならない。

 これに比べると、朝日新聞の結論は高校生の作文でしかない。

 日本にとっては願ってもないチャンスなのだ。内にこもるだけの姿勢から脱し、自由化によって新たな市場を獲得するとともに、それを国内改革にも結びつける。海外からの直接投資を増やし、雇用の増加やデフレ不況の克服にも役立てる。
 そうした構想力に裏打ちされた通商戦略が、いま求められている。

 だが、日本社会の現状から考えて、朝日新聞の意図とは違うが、実はこのFTAがもたらす「国内改革」が問題になるだろう。というのも、東アジアにおけるFTAの影響は、経済活性・雇用増加・デフレ克服といった脳天気なことではない。なお、ここでは、日本の農業の問題については触れない。表面的に愚劣極まるということもあるが、子細に考えると難し過ぎるからだ。
 FTAを日本は推進すべきだろうか? 思想的に考えていけば、あるいは世界の情勢を見ていけば、推進以外の答えはない。だが、そのときの日本の光景が見えてこない。
 すでに日本ではシンガポールとの間でFTAを締結している。そのサービスの貿易についての子細な内容はなかなかの代物だ(参照)。大学の間で単位交換を認めることや医療の看護業務の認可なども含まれている。本当かと思うような内容だ。
 その「本当か?」と感じる自分の日本人の感性がまさに問題なのだ。現状では国民の少ないシンガポールが対象だが、これがフィリピンに拡大されれば、福祉関連で多くのフィリピン人の受け入れが可能になる(余談だがフィリピン人の大学教育の普及率は高い)。そういう社会を我々はすんなりと受け入れているのだろうか。
 もちろん、良い悪いといった問題ではない。古くさい日本の国際化議論だの、海外労働者の認可という3K的なイメージの問題でもない。我々の社会において、特定の技能を必要とするサービスをアジアの人に向けて、さらっと開放できるのか、という問題だ。
 理詰めで考えればできそうなものだが、そういう状況を我々は受け入れるのだろうか。すでに日本の国際結婚は22組に1組、東京都では10組に1組になっている。我々の身近に国際結婚の家族が数字の上では露出しているのだが、それをおそらく我々は実感していない。奇妙な形で不可視にしているのだ。差別といった単純な問題ですらない。
 日本は日本社会の感性に受け入れられない物を暗黙に不可視にしてしまう。この奇妙な力が日本のFTAもまた不可視に追い込んでいるのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2003年8月31日 - 2003年9月6日 | トップページ | 2003年9月14日 - 2003年9月20日 »