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2003.08.30

6か国協議のポイントは中国の動向だ

 北朝鮮の核開発問題をめぐる6か国協議が終わった。各紙社説がこぞってこれをとりあげるのはしかたがないが、予想外の展開はなかったため、各紙とも毎度ながらの路線で書き飛ばしただけだった。
 もううんざりという気分もあるが、北朝鮮関連の朝日新聞の社説には開いた口がふさがらない。冗談として笑い飛ばすにはあまりにひどすぎる。朝日新聞社説の話の展開はこうだ。


  1. 日本は北朝鮮への経済援助国でもあり米国ともつながりが深い。
  2. だから、米朝関係の改善を助けることができる。
  3. 米朝関係が改善すれば核問題は解決する。
  4. 改善の障害になっているのは拉致問題だ。
  5. 拉致問題の解決には限界がある。
  6. 拉致問題に手間取っていると核問題が深刻になる。

 ようするに、この展開では拉致問題は後回しにしろということになる。しかし、この後にこう続く。

これを打破し、日本が主張するような核と拉致の包括的な解決に向けて日本自身が役割を果たすには、結局、拉致問題打開の糸口を一日も早くつかむことしかあるまい。まず被害者の家族の帰国を実現させ、それを手がかりに日朝の対話を開くことに、政府は全力をあげてもらいたい。核問題と拉致問題が絡み合った知恵の輪を解くには、確固とした外交戦略とそれに対する国民の理解を得る努力が要る。

 この結論だけみればまっとうなのだが、全体は支離滅裂。ようするに朝日新聞社社内で意見が割れたためにこんなキメラができたのだろう。好意的に見るなら、「被害者の家族の帰国を実現」でお茶をにごそうとする田中均の路線の補強だが、冗談ではない。表面的な「被害者の家族の」の裏には膨大な拉致問題が隠れているのだ。朝日新聞のこの問題についての論説は愚劣極まる。
 各紙社説のなかで今回は日経だけが、中国の動向に僅かにふれていた。

中国は議長国として冷静に振る舞ったが、北朝鮮の言動へのいら立ちが漏れ伝わってきた。日米の強固な姿勢にもかかわらず北朝鮮が協議をボイコットしなかったのも、一段の孤立を恐れたからとみられる。

 この点が重要だ。おそらく、当初の北朝鮮の夜郎自大な態度を抑えさせたのは中国だ。背景は2つ考えられる。中国の対日政策の一環、それと、北朝鮮と中国の問題だ。
 なぜか日本のジャーナリズムでは言及されていないが、北朝鮮国境地帯の中国での治安の悪化はかなりのもののようだ。国境を接しているがゆえにうける中国の被害がある限界を超える可能性もある。このあたりの情勢が、実は、全体の構図を変える要因になりうる。
 たわいない余談を付け加えたい。歴史に悪名高い随の煬帝だが、その帝国の統治が悪かったわけではない。その滅亡原因は高句麗攻めの失敗だった。古代史においては、高句麗の背景に突厥が潜んでいるのだが、いずれにせよ、北朝鮮の地は中国の統治を揺るがす呪いが感じられる。

[コメント]
# 鴨緑亭 『今回は中国・ロシアはメンツ潰されたんじゃないですかね。』

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2003.08.29

池田小事件をどう考えるか

 新聞社説は今朝もこぞって同じだった。テーマは池田小事件である。日経までこのテーマを扱う理由もわからない。社説ごとの主張の違いはほぼない。微細な違いはあるのかもしれないし、行間にくぐもる思いのようなものや、継ぎ接ぎした編集の後が見えないでもない。だが、それらは読み込むほどの意味もない。
 私がまず疑問に思ったことであり、新聞社説が触れなくてはならないはずだと思ったのは、「死刑」の妥当性と死刑制度への表明だ。産経は当然としているが、朝日も「争点だった被告の責任能力が認められた以上、死刑以外に選択の余地はなかった。 結果の重大さを見れば、死刑であっても、とうてい罪を償えるものではない。」としていた。おい、どうした朝日新聞、という感じだ。ここで死刑廃止を縷説してみせてこそ、朝日新聞ではないのか。皮肉ではない。朝日新聞に期待するのはそれだ。日本の社会の、こうした状況だからこそ、死刑廃止の提起が求められる。
 次に疑問に思ったのは、各紙ともに、惨事を避けられなかったのか、という修辞的な疑問を投げかけているが、実際的にこの疑問は問えないものなのだろうか。率直に思うのだが、命をはった先生が少なかった(かろうじて一人だろうか)。子供の命のために殉職するのが先生ではないか。そう問うべきではないのかもしれない。だが、警察官や消防士もその使命のために殉死することがありうる職業だ。人の命を預かる先生となる以上、同じ覚悟をもつべきではないか。
 社説への疑問から離れて、今回の最終の裁判で私が思ったことがある。宅間守被告は「最後に言わせろ。どうせ死刑なんやから」と言って裁判長から退廷を命ぜられた。当然、法廷では適切ではないのだが、その最後の言葉は聞いてみたい。不謹慎のように思われるかもしれない。だが、それを表面的に避けてよしとするのは偽善だ。宅間守被告の声は我々の内面にくすぶる悪魔的な心の声の代弁だろう。我々の心の悪魔的な一面は彼に共感している。そのことは、彼に向ける社会の関心から伺える。我々はこうした悪魔的な心から離れている存在ではない。国立付属に通うエリート小学生が象徴する社会のありかた、それをねたむ気持ちは多数が持っている。もちろん、その気持ちを今回の事件のように出していいわけではない。人はその暗黒の思いをどうにか緩和して生きる知恵と社会的な装置を必要とするものだ。
 その装置の具体的な実現に向けては、池田小を含むコミュニティの社会学的な解析がまず必要なのではないか。

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2003.08.28

冷夏でうまい米が急騰する

 産経新聞社説「冷夏の影響 便乗値上げに監視の目を」のテーマはよかった。今年は冷夏のため、いわく「十五年度産の早場米の入札取引では、コメの価格は、二-四割以上高騰している銘柄もある。」とのこと。
 生活者の実感としてもこの問題の深刻さが感じられるようになってきている。現状、報道機関からの詳細なニュースを聞いたことはないのだが、大手卸業者は個別に農家をしらみつぶしに回ってうまい米の買いあさりをやっているようだ。
 問題を少し整理しておくと、ようは冷夏で米不足になる、ということではない。不作は不作だが、十年前のコメの不作と違い、ゲロまずい政府備蓄米が年間消費量の二割もある。だから米がなくなることはない。食料不足に悩む世界の大半の状況を思えば、米なんか食えりゃいいだろうとなるのかもしれない。問題は、銘柄米の急騰だ。
 産経新聞の結論はというと、ポイントがずれている。


政府がやるべきことは、まず、コメの買い占めや便乗値上げに目を光らせることだ。こういうときこそ九千人近くもいる食糧事務所員を、実需でないコメの値上がりの監視に投入すべきだろう。

 産経新聞社説は勘違いしているようだが、銘柄米の急騰自体は便乗値上げとは違う。正常の市場メカニズムの一端だ。
 こう考えるべきかもしれない。うまい米を食いたいと思えば、高くてもしかたがない、と。通販生活やスキップなどうまい米を市場価格より高く売る通販業が人気だ。農業というのも才覚さえあれば、けっこういい商売になってきているとも言える。
 それはそれでしかたないのだろう。ただ、すでに旧来の意味での農業政策は転換したほうがいいようにも思える。それでも、実際国家が米の備蓄を減らせば、日本人はまたパニックになってしまうという国民なのだ。

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2003.08.27

憲法改正は無意味

 日経を除いて大手新聞の社説が今朝はこぞって自民党の憲法改正案の動向を扱っていた。産経は右よりというだけで内容はない。朝日は「首相自身の過去の発言や最近の自民党の動きを見れば、主眼が9条の改正に置かれていることがはっきり見える。 」と悪文の上、またこの話かよ、だ。読売はナベツネの意向で大はしゃぎが醜悪。毎日は「経済打開が最大課題の時に、国論を二分するような論議に首をかしげる人々も多いことを、首相は直視しなくてはいけない。」というが、そのあたりが一般の人の感覚だろう。

cover
痛快!憲法学
 日本の憲法は小室直樹の考えをうのみにするわけではないが、成文法としてみれば「死んでいる」。そもそも憲法は成文法だけをさすわけではない。憲法は本質的には慣習法であり、実際戦後の歴史で解釈改憲を行っているので、いまさら成文法に手を付けるとすれば、解釈改憲の歴史推移を明文化するしかない。しかし、その必要すらない。解釈推移の便覧があればこと足りる。
 憲法の問題といえば、朝日が条件反射するように戦争放棄だと九条だのということになるが、この手の条文はオセアニアの島々の小国なら盛り込まれている。もともと米国は日本をオセアニアの小国のようにおとしめたかったのだろう。
 国家と市民は本質的に対立するのだが、その際、国家から市民を守るための装置が憲法だ。国際平和などは二次的な意味しかない。日本における憲法の問題は、その装置が明確に機能できないことだ。さらに、日本の憲法は最初から国民的な統合ができないようにしくまれている。例えば、大統領制度と国民投票は事実上不可能だ。いかんともしがたい。現状の日本国憲法は日本国民の意思を明確にさせない装置であり、その運用の歴史を見れば国民はそれを是認している。日本人は国家としての意思はもたないというのが憲法以前の原則であり、実状でもある。
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うるさい日本の私
 否定的に響くだろうが、この状況で日本国だの国家だのという問題は考えるだけナンセンスだ。具体的な日本の市民社会を充実するための、小さな装置を作っていくほうがいいだろう。他国の憲法を見ればわかるように、憲法は市民生活に密着した規則の根拠となる原則だ。市民の健康なども重視されている。本来憲法とはそういうものであって、理念だの平和だのといった抽象的な問題ではない。日本では、そうした本来の憲法が機能できないのだから、機能的に等価な疑似システムを作り、市民社会の質を高めるしかない。
 単純な例でいえば、中島義道がいうように、うるさい日本を静かにすべきだし、公共の空間に美的な秩序を求めることだ。自転車の放置やその無法な運転(軽車両が歩道を走るなよ)といった具体的な問題を解決する装置を作り出すことが、生活に密着しているという点で本来の憲法の代替たりうる。

追記:日経は翌日このテーマを扱っていたが、つまらなかった。

[コメントを書く]
# shibu 『そうですよね。なんも最高裁判所の判例がどうたら議論する以前に、行政の単なる一部門の内閣法制”局”なんてところが勝手なこと言ってるだけなんで、見の程知ってねと首相が「はい!今日からこれこれでいきます。」ってなことで、あんたの役目はこの方針を格好よく飾り立てることですからね、できないなら他の人にやらせます、でいいんじゃないですかね。それについても「国会の承認を得たい」なんて安倍さんいってるようですけど、不要でしょう。』

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2003.08.26

照射食品導入には食品ラベル明記を

 読売新聞社説「食品と放射線 タブー視せずに議論を始めよう」の内容な陳腐なものだったが、この問題を広く社会問うという意味では有意義なものだった。主張は簡単だ。現在日本ではじゃがいもの発芽抑制を除いて照射食品は禁止されているが、これを緩和せよということだ。


照射食品の導入に慎重な日本とは対照的に、国際的には照射食品の規格をさらに緩和する動きもある。日本だけがタブー視して済む問題ではない。

 照射食品がタブー視されるのは、食品の安全性として問題点をあげつらう団体が多いからだ。だが、その批判点は大半が「買ってはいけない」レベルの低次元なものであることは、照射食品がWHOで認可されていることでわかる。きちんとしたルールで実施するなら、食品の安全性にはまったく問題がない。
 では諸手をあげて賛成するべきだろうか。私はそうは思わない。また本当の食の可能性が奪われる機会を増やしたくはないからだ。食は人間が生きる上で必要であるとともに、芸術的な感動をもたらす喜びの源泉でもある。飢えを満たすのでなければ、そこには繊細さが求められる可能性を残しておくべきだ。照射食品が一律に認可され、食品ラベルに明記されなければ、その繊細さを求めることはまた一層困難なことになってしまう。
 照射食品におけるビタミンB1の破壊など、冷蔵によるビタミンCの減少と変わらないとするような、食を餌と見る視点こそ拒絶したい。
 特に照射食品推進派の語りで気にくわないのは、読売新聞社説の修辞的な誘導だ。

香辛料の産地は衛生管理が不十分な途上国が多い。付着している多数の微生物を除去するのに放射線は効果的だ。一方、日本では加熱処理が続けられている。これでも殺菌・殺虫はできるが、香辛料の香りや色は劣化してしまう。

 こうした修辞にだまされてはいけない。香辛料は大量に人間が摂取する可能性は少ないのだから、照射食品とする適正が高い。だが、この例だけから他の食品も右にならえ、とはいえない。
 求められるのは、照射食品の段階的な解禁と食品ラベルの詳細化だ。

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2003.08.25

教員の高齢化は止まるのか

 読売新聞社説「教員採用増 世代交代を人事に生かす好機だ」は奇妙な感じがした。


(前略)教員採用者数は二〇〇〇年度を底に、全国的に増えつつある。とくに今年は、採用枠の拡大傾向が顕著だ。

 端から間違っているんじゃないかと疑念を挟むことは控えたいのだが、読売新聞社説を読むかぎり、数値の裏がなかった。よくこんなものが社説になるなとも思う。読売新聞社説の理屈はこうだ。

第二次ベビーブーム世代が学齢期を迎えるのに備え、一九七〇年代に大量採用された教員が、退職の時期を迎えつつある。文部科学省が掲げる少人数教育実現のためにも、教員が必要となった。

 だが、実際どの程度増えるのかわからない。増やすというだけの側面を見るなら、実際はどういう意味があるのかも漠然としている。
 文部科学省発表「平成13年度学校教員統計調査中間報告」によれば、小学校教員は40代以上が66%、高校教員では63%とのこと。誰も学生生活の経験があるのだから、そんな職員室の扉を開けたところを想像してみるといい。村役場という感じだろうか。ただし、半数以上が女性だ。
 教育現場で事件が起こると、関係者の談話のようなものがニュースに出るが、どれも判で押したようなくだらない内容なのは、こうした現場を想像するとわからないでもない。
 ついで話になりそうだが、知らなかったのだが、同社説に興味深い事実があった。

硬直した人事構成は、採用数で、正規の教員より常勤講師などの『臨時教員』の方が多いという状況も生んできた。

 現状では生徒の授業をしている先生はバイトの講師だというのだ。間違いでもないだろう。学校は今どうなっているのだろうか。教育面ですでに民間の塾との違いはないようだ。
 こうした問題はよくわからない。読売新聞が期待するように、若い優秀な先生が学校に増えることで問題は解決なだろうか。とうていそうは思えない。

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2003.08.24

国立大学法人化は当然のことだ

 毎日新聞社説「国立大学法人 力尽くして『良き法人』に」は、なんだか間抜けなトーンが漂っていた。


大学関係者は力を尽くしてほしい。文科省には自制を求めたい。

 呆れて脱力するしかない。制度と運用の違いがまるでわかっていない。問題は制度であって、運用で改善するということではない。
 国立大学法人化について簡単に触れておきたい。ちょっと変わった意見に聞こえるかもしれないが、まず重要なことは、国立大学法人化が日本の市民社会にとってはまるで問題になっていないということだ。騒いでいるのは関係者たちだけ。つまり、国立大学関係の人たちだけだ。ちょっと下品な言い方をすれば、「そーゆーあんたらが問題なんだよ」ということだ。
 なぜ日本人は大学制度に関心をもたないのか。そういうと嘘のように聞こえるかもしれないが、日本人は、大学名で識別され社会グループを形成するための学歴だけにしか関心を持っていない。社会が脱知性化されているという特殊な社会だからもしれない。実際のところ、現状、これだけ大学制度が機能していないのに、社会に弊害はなく大半の市民も知性のありかたになんの関心をもっていない。
 大学関係者たちが一番知っているはずだが、現在の大学生の知的レベルは低い。もっとも、まともな知的教育を受けていない全共闘世代が社会の中心的な位置を占めている現在、問題にならないのも当然なのだろう。あまり高踏的に言うのもよくないのかもしれないが、国際社会である程度の知的レベルが必要とされる場を覗いた人間なら日本の大学教育が知的な人間を育成するという点でまったく意味をなしていないことを痛感しているはずだ。単純な話、日本の大学では国際的にある大学との単位の交換すらできない。最近民族系の大学の入試資格がさも問題になったが、実態はくだらないイデオロギー闘争だった。誰もSATやACTについて触れていないことからでもわかる。
 言いづらいことだが、現在の大学の経営が教授会によっている現体制には大きな問題がある。その点だけでも、今回の国立大学法人化には意味がある。
 日本はこれから少子化に向かう。すでに現状の日本では多くの私大の大学入試は実質廃棄されている。そんなものが大学なんだろうかという惨状だ。
 エリート教育という意味ではないが、国際的に意味のある知的な層を作り出す社会システムは社会にとっても必要だ。国立大学にその可能性を与える契機として国立大学法人化は悪くない。
 さらに言えば、本来は歴史的に見れば大学とは私学であるべきだ。諸外国の現状ではアメリカですら私学は少ないという意見もあるが、知的なレベルで大学を見ていないからだ。私学こそが知的な独立の伝統をもちえている。

[コメント]
# shibu 『実学って分類がいいのかは知りませんが、例えば経営の経験ない人が経営学教えるとか、刑務の実際知らない人が刑事政策教えたりはまずいでしょ。同じく軍事や外交の知識の無い人が憲法論じちゃったんで変なことになっている。やっぱり実業界との人事交流(行き来)がないとダメだし、一旦教授になっても10年同じノート読んで時間潰してんじゃねぇ。』

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