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2003.12.04

「センター試験以降の世代」という壁と知識化人

 草莽堂さんのココログ@ニフティから興味深い指摘を受けて、実はこのことを考えていたこともあって、ちょっと書いてみたい。ただ、話はかなり難しくなってしまうだろうと思う。まず、草莽堂さんの日記からの引用。


外から「センター試験以降世代」と規定されちゃうと、規定されちゃった人はどうしようもない(規定された側はどうしたらそうした規定の外に出られるのか分からない。出たつもりでいても、判定者が「出てない」と言えば、そうなのかと頷かざるを得ない)という側面があって、その点少し引っかかるのだが、極東ブログさんが「人間」に寄せる思いは少し分かる気がする。

 それはわかる気がする。バカの壁ではないが、センター試験以降の世代の壁みたいなものを自分が作り出しているなという反省は、多々ある。というのは、自分もかつて若い世代だったし、団塊の世代のちょうど下にいたので、かつて私も団塊さんとかに理屈をこくと単純に「本音を言えよぉ」とか殴られそうになったものだ。うわぁ通じないよぉとも思った。「戦争を知らない子供たちぃさぁ~」と手をつないだ歌えって言われても、お姉さんたちブスいじゃないないですかぁ、っていう感じだ(たぶん私はかつて美少年だった、照笑)。それがついに自分にも回ってきたなと。
 これっていうのは自分の思惟が若い世代から突き上げられているというか、自分より若い思想をはっきりと認めるようになったという点はある。例えば、「北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を」(参考)。

ニューアカに惹かれつつ、でも終わってるんだよなとか思いながら、受容していたような感じがします。柄谷行人が好きな人もそこそこいましたし。そこには、独特の世代的な共有体験はあるのかもしれない。多分、ニューアカをバサっと斬り捨てられない、なんか影響受けちゃったんだよなっていう感覚というか。

 ふーんという感じだ。そこに北田のように思索する新しい世代があるのだと思う。私などは柄谷行人と聞くと、「あ、三馬鹿トリオのブントさんだね、奥さん大変でしたね」とか思うし、柄谷ってアカデミックなレベルだと文献の読みがずさんすぎて投げ出したくなる。ま、しかし、それはどうっていうことじゃない。
 北田暁大インタビューの引用を続ける。とても示唆に満ちている。

でも、四年ほど前に大学で教えるようになってから、そういう背伸びの感覚が学生からまったく感じられない。だから、昔のニューアカ的な語り――フランス現代思想の言葉をおりまぜて世の中を分析する語り――というのが、もはや通じません。東さんのいう動物を生きている人たちに届ける言葉というのは、別の回路が必要なんじゃないかと。

 私からすると、ここでトゥーフォールド(二折り)なってしまう。すごく単純化すると、共通一次世代とセンター試験世代がいる。私は随分老いてしまったと思う。引用が多くて申し訳ないのだが、北田暁大が秀逸なのは次のような指摘だ。

「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。「歴史意識」の回復を説くだけでは、もう言葉が届かない時代になっている。ぼくは全然実践できてませんが(笑)。

 私などうまく批評射程で射止められたなと思うのは、歴史意識の回復を説くだけではもう言葉が届かないという点だ。もうちょっと言うと、そういう世界になってしまったからこそ、(なんだか昨今批判ばかりしているように見えるのだろうが)小熊英二が作り出すような既存文献集約的な歴史像が歴史代替の言葉として出てきてしまう。そこには、ひどい言い方だが、言葉しかないのだ。フーコーがかつて歴史を言説の考古学として見せたことに世界の知性は驚きを感じたが、それはまだどこかで社会学的な方法論であった。しかし、現在は生きられた空間が生きられた歴史性を失い、すべてフラットな言葉(文献)に埋められてしまっている。私がこだわっているのは歴史になるのだが、私の歴史語りは言葉であって、つまるところ、トリビアの泉だ。
 私の内面では今にして思うと小林秀雄に没頭したことが恵みであったようにも思われるのだが、小林は歴史を死んだ子の歳を数えるようなものと言っていた。小林らしい気のきいた表現として看過されてしまうが、そこにある、人の思いが理想に届かない痛切さや悲劇性を彼が歴史の本質としていることがよくわかる。
 こういう言い方自体なんか年寄りの説教のようだが、歴史は絶対に戻らない。だがそういう思いは通じない。最近でも痛切に思う例がある。名前を出すのは失礼かもと思いひかえるが「はてな」で(たぶん)若い人から質問を受けた。そのなかに私の考えの一部がドグマだというのだ。そこでドグマとはと問い返すと、反証可能ではないと答える。反証可能性とはポパーの科学論であって社会学的な命題には適さない、ポパーを学んだ人間ならこの文脈で反証可能性など言い出すわけもない。ポパーなら批判的合理性が問題とされるのだ。だが、「社会学的な命題に反証可能性はないですよ」と再回答しても彼は受け入れない。私は溜息をつく。私が彼の教官なら、ポパーとウェーバーの訳本でも貸して2000字くらいのレポートを書いてきないさい、と言うところだ。だが、たとえそうしても、問題の本質は伝わらないだろう。社会にも歴史にも反証可能性などないのだ。そもそも生きられた人間社会に再現可能な実験を施しうる者は誰か?それがいるなら、私は思想の矢を放たなくてはならない。矢はドグマか?そんな問題ではない。私が友愛だけを信じて戦いをいどむだけなのだ。もちろん、私は隠者だ。そういう思想の矢を表で投げることはない。だが、その友愛のメッセージがあれば、私のできることはわずかでもそのわずかなことをする。
 話がそれてしまったが、こういう話がそもそも通じないのだ。いや、もう少し言うと、私の文章からは以上のようなパセティックな心情だけが通じるだろうと思う。そしてそれが危険なのだという批判は正鵠でもあるだろう。
 話を方向を変える。最近西尾幹二の最近のエッセイを読んで、彼は私より遙かに爺なのに、私は彼にセンター試験以降の世代と同じものを感じた。羅列した知識の断片はどれも正解なのに全体像が間違っているのだ。この現象はなんだろう。簡単に言えば、私はつい、センター試験以降の世代というふうに世代論めかしてしまったが、そうではなく、ある種の人間の思考タイプの問題なのかもしれない。
 吉本隆明は社会思想の原点に「大衆の原像」という概念を置いた。あえて概念として私はとらえる。それは吉本は嫌うだろうが、モデル化が可能ではないかと思うが、「大衆の原像」は団塊の世代より上では解釈というか吉本教の教義化してしまった。いずれにせよ、普遍的な「大衆の原像」があれば、センター試験以降の世代もそのなかにモデル化できるはずだ。だが、そうではない。
 まったくテンポラルな思考実験なのだが、すでに世界は(日本の知の状況は)、知識人+大衆+知識化人の三局化したのではないか。言葉の遊びのようだが、知識化人とは、DB化される知識をもって大衆と区別される存在だ。その欲望が、大衆のような肉体的なものにならないのは、上位の「知識」というものにエロス的なカラクリが存在するのではないかとも思う(ロリは現象ではなく本質だろう。知識化人とエロスの問題は別の機会に考えたい)。
 いずれにせよ、私や団塊の世代より上は、知識人+大衆という二局のスキームのなかにいた。率直に言えば、団塊の世代の人の多くはまともに勉強する環境もないせいか知識に乏しい。その分、むしろスペクトラム的には近代化した大衆に近い。だが、そのスペクトラムの近代化方向の先に知識化人が出てきたわけでもないだろう。
 先の北田や東の言う「動物化」ではなく(東はDB化を見据えているが)、知の状況のなかで浮かんできたのは、「知識化人」ではないかと思う。それがセンター試験以降の世代に出現しやすいのだが、西尾幹二のような老人にも現れる。その出現の背景は、世界が文献の集積としての言葉に還元されてしまったからではないか。世界が断片的な言葉の集積になるとき、そこに最適な生存者として知識化人が出現するのは、おそらく不思議でもなんでもないようにも思える。

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コメント

・・たびたびすみません

ちょっと気になったとこがあったもので。。


> その出現の背景は、世界が文献の集積としての言葉に還元されてしまったからではないか。世界が断片的な言葉の集積になるとき、そこに最適な生存者として知識化人が出現するのは、おそらく不思議でもなんでもないようにも思える。

ってのはやはり・・文献バカとかってキケンなんですね?
ちょっと気になってることがありまして・・


投稿: m_um_u | 2003.12.04 14:13

ども。文献バカがキケンか?というと、ちょっと即断は難しいです。文献は貴重ではあるのですが、もともと文献というのは、なにかについての文献というリアルへの指向性があるというのが古典的な世界だったのですが、最近はリアルが文献になったなという感じがします。

投稿: finalvent | 2003.12.04 15:59

あぁ・・jargonバカですね?
それは前にウチの先生も気にしてました。
なるほど・・・・
では、やはり情況を捉えている、と思われる文献を中心に考えを構成していけばいい、ということ・・・・かな

投稿: m_um_u | 2003.12.04 17:18

そして、そこから得た知見を絶えず情況と照らして修正していくという・・・

投稿: m_um_u | 2003.12.04 17:19

反論というわけじゃないけど、「やはり情況を捉えている、と思われる文献を中心」っていうのは落とし穴ですよ、きっと。テレビの視聴率問題でも意外に重要なのはリモコンというとほほなものだったりします。むしろ、文献の弊害に対処するなら、やっぱオヤジ入るけど、現場主義ってやつです。

投稿: finalvent | 2003.12.04 17:59

あ・・なるほど!
そういうのは欲しいです
CNETのときもそういうのが欲しかったんですが・・・
どうも・・・誤解されたまま終わったみたいで・・・
ちょっと残念です

投稿: m_um_u | 2003.12.04 18:20

やっぱ情況理解って大切ですよね・・・
というのも、最近またちょっと暴走してしまって・・
(前にもちょっとご相談したんですが)

こんどは身近な友人で
ちょっと言い過ぎてしまったのです・・・

で、
やっぱ情況理解ってのは相手の心とかも察しないとだめだな、って思いました

投稿: m_um_u | 2003.12.04 18:24

ウェーバーとポパーをあらためて勉強し直すつもりです。何という本を調べたらいいでしょうか。よろしければ教えてくださいませ。

投稿: morimori_68 | 2003.12.04 18:25

あ、それで、
つながりとしては、そのひとがメディア業界関係に就職する予定だったのに・・・・

そこの会社状況にうんこ投げしてしまったのです。。。。。

投稿: m_um_u | 2003.12.04 18:25

で、
情況をもうちょっと理解してれば、そういうのももっとゆるめ・・というか別のことも考慮しつつ言えたんじゃないか・・と思って・・

投稿: m_um_u | 2003.12.04 18:26

morimori_68さんへ。
 ウェーバーの社会科学論で私が読んで面白かったものは、「ウェーバーとマルクス」カール・レヴィット (著), 柴田 治三郎 (翻訳)未来社 ; ISBN: 462401006X ; (2000) です。問題意識がもっとも明確になっているためです。他、古典なので既読かもしれませんが2点。「理解社会学のカテゴリー」 岩波文庫 白 209-1 マックス・ウェーバー (著), 林 道義 (翻訳)岩波書店 ; ISBN: 4003420918 ; (1968/01) は社会科学専攻なら必読ですが、レヴィットより問題意識が古い点で難しいかもしれません。国内では、「社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス 岩波新書 大塚 久雄 (著)出版社: 岩波書店 ; ISBN: 4004110629 ; (1966/09) 。ヴェーバーは日本ではよく研究されているので図書館にいけばもっと読み進めることができます。こういうと傲慢に聞こえるかもしれませんが、ヴェーバーの神髄は宗教社会学の全貌が見渡せるときです。ヴェーバーは学べば学ぶだけ、学問の喜びがあります。
 ポパーについては、「ポパーの科学論と社会論」関 雅美 (著)勁草書房 ; ISBN: 4326152389 ; (1990/08) が全体像とらえるうえで簡素に読みやすくまとまっています。他、「科学的発見の論理」「歴史主義の貧困」「開かれた社会とその敵」が古典です。図書館にいけばあるでしょう。が、最近魅力的な本も各種出版されているのでそちらからアプローチしてもいいのかもしれません。
 この二人は自伝的な著作も面白いものです。ポパーなら「果てしなき探求―知的自伝」、ヴェーバーのほうは自伝はないので評伝のようなものになるでしょうか。

 

投稿: finalvent | 2003.12.04 21:17

どうもありがとうございました。

投稿: morimori_68 | 2003.12.04 22:07

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