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2003.12.29

日本語の数詞に潜む謎

 愚考だが、ときおり考えては解けない日本語の数詞に潜む謎について少し書いてみようという気になったので書く。誰かこれを見て、謎が解けたら教えてほしいものだ、とも率直に思う。
 日本語の起源は喧しく議論されているが、要領を得ない。大野晋など岩波などにおだてられて快進撃を続けている。白川静といい、こうした「と」な老人をなんとかしろよと思うが、ほっとけか。
 日本語は、比較言語学的には朝鮮語との対応がある程度システマティックに見られる。文法構造に至っては日本語と朝鮮語はほぼ同じだ。というあたりまではわかる。また、スワディッシュの法螺話を応用して、日本語と琉球語の分裂年代という議論もある。これは端的に間違いなのだが、日本史学と同様国語学は手がつけられない。ほっとけである。
 とりあえず、文法構造的には朝鮮語と同型で、それに音韻の構造からみてポリネシア系の単語が加わったのが日本語になるということは言える。ここでいつも思うのだが、ここから導かれる結論はたった一つしかない。日本語は人工言語だということだ。
 現代インドネシア語を少しでも知っている人ならわかってもらえると思うが、インドネシア語はマレー系の現地語の単語を英語の文法構造に押し込んでできた人工言語だ。分化したコミュニティを国家的に言語統一するとなると、支配者の知的な層の言語構造に民族アイデンティティを示す語を押し込むことになるのは必定だ。そんな簡単なこともわからないで日本語の起源とか議論している学者が多いのには呆れる。いずれにせよ、文法構造のほうは疑問の余地がないのだが、問題は単語の起源のほうだ。いったい日本語の単語はどこから来たのか?というのが仮の日本語起源の問題になる。
 スワディッシュの理論はふざけたしろものというか、閉鎖モデルでしかないので日本語には原理的に適用できないのだが、それでも、比較言語理論の基礎として基本語彙というのが設定されている。結論から言うと、私はこの基本語彙というのが間違いのもとだと思う。
 基本語彙にはいくつか特徴があるが、身体語と数詞というのがある。もともと比較言語学は西欧語の起源論から出来たもので、あいつらの言語の場合、特に数詞はわかりやすい。もともと算術に弱いのだ、あいつらはね。だが、日本人の祖先たちは、縄文時代から海洋交易が盛んなので、数詞は山羊を数えるといったものではなく、即マーケットニーズに結びつく。だから、本質的にポリネシアや沿岸地域のリンガフランカはマーケット性の人工言語という相貌になる。このあたりの説明はどうも話を端折りすぎて難しいかもしれないのだが。
 つまり、数詞について、言語起源論的に基本語彙に持って行くのは間違いだと私は言いたい。逆にこの日本語の数詞というのは、古代のどのようなマーケットを反映しているのか気になる。というのは、私の直感にすぎないのだが、日本語の数詞というは言語アバカスだと思うのである。言語アバカスというのは私の造語だ。算術用言語ということだ。もう少し直感をくだいてみせよう。ある程度話は雑駁になる。
 日本語の1つは、pitotuである。2つはputatuである。tuは個数につく添え語のようなものだ。語幹をpitoとするか、ひーふーみーよーというようにpiで切ってtoを構成語にするかはよくわからない。仮に1をpiとするとこの倍がpuである。同じ構造が3と6にある。3がmiであり6がmuだ。これだけなら偶然かもしれないが、4がyoで8がyaだ。こういう構造がある。

1系   pi  pu
3系   mi  mu
4系   yo  ya

 yoとyaは構造的には、yiとyuになればきちんと整合するが、この流音yは口蓋に近い母音と分化しにくいので、あとに両唇に近い母音で分化されたのかもしれない。

   yi+a→yia→yoa→yo
   yu+a→yua→ya

 この変化はこじつけ過ぎるかもしれない。
 5と10では、itutuとtoで一見すると構造が見られない。だが、itutuのtuは個数の添え語とするとituで、iの前のなにかがドロップしたとすると、構造は予感される。

5系   xi  to

 xはt音かもしれない。
 さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍数から残された7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。
 以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍数の計算原理がこの数詞に潜んでいることは間違いないということだ。
 だから、その倍数構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみたいのだ。
 この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それは、どういう算術なのだろうか。倍数を原理とした商用計算はどのように可能だろうか。
 もう一点の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに残っているかだ。これがわからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(参考)をときたま眺めるのだが、類似の数詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の数詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちになる。
 古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支)によって成り立っているので、倍数原理がこのバランスのために利用されていたと思われるのだが、わからない。
 身体語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそうだが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニティに富を蓄え国家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬまでにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。

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コメント

誰の説だったか(私かも)失念しましたが、左右の指名説ってのはどうなんでしょ。指折り数え歌とか。左hidari、右migiにもhito、miが隠れているようですし。

投稿: a watcher | 2003.12.30 09:02

おおっ、左(hidari)右(migi)はうかつでした。数学の基本構造には対象性があるので、それはかなりアリ臭いです。a watcherさんと隠れておられるけど、この直感はなにもかですね。

投稿: finalvent | 2003.12.30 11:31

数詞の母音の変化が倍加する(していた)名残りというのは、ポリネシア周辺に限らず、モンゴロイド全体の傾向だという話を見た覚えがありました。
モンゴル語や、マヤ語や北米インディアンの言語にも、日本語と同様の特徴があるみたいですよ。

投稿: chuzo | 2004.01.09 18:18

chuzoさん、どもです。ええ、そういう話は聞いたことがあるのですが、記事中の参照を見ても、見つからないのですよ、実例が。なにかあればいいのですが。

投稿: finalvent | 2004.01.10 09:00

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