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2003.12.29

ブログ雑感、年末風

 社説関連で気になることはない。極東ブログを続けていて、もう少し踏み込んで考えようとしたテーマはいくつかある。また、ネタらしいものを書けないこともないような気もする…と鬱。なので今日は休載、ともしない。そういう自分のブログとの関係をぼんやりと思う。雑談を書く。
 「はてな」でtDiary系のブログを8月半ばに「極東ブログ」として書き始めた。最初は「はてな」についてただの人気のある無料サービスかくらいに考えていたが、参加するにつれ、「はてな」の持つコミュニティ的な影響力が怖くなった。また、当初よりMTへの移行は懸案でもあり、TypePadのココログに移行した。そのおりは、Googleの動向が気になった。傲慢な話だが、ある程度のクオリティのある文章を書いていけば、Googleは食いつくだろうという思いと、「極東ブログ」の場合、日々の記録というよりデータベース的な知の蓄積に貢献したい思いがあった。つまり、「極東ブログ」はGoogleから読んでもらえばいい、と。
 ところが、実際にココログに移行してみると、その当初は「はてな」の影響がかえって自分に強く出た。そういう文化的なコミュニティへの希求があるのだろう。もう一つは、センター試験以降の世代との自分の距離、いや、自分の存在誇示のような希求だ。さすがに、おじさんだって若い人の感性はわかるよ、みたいにロートル化はしていないが、どっかに教育熱のようなものがあって、知性というものはこうあるべきだよと若い人にタレたい思いはある。
 12月に入り、それもだいぶ抜けてきた、じゃない、板についてきた、か。Googleでのヒキはけっこうかたよりがある。また、端的に「はてな」は遠くなった。もちろん、リファラを時折みると「はてな」アンテナが多いなと思う。「はてな」はダイアリーサーバがd、アンテナのサーバがaというわかりやすい構成なので、aをdに変えてトレースしてみるが、大半はdが存在しないか、プライベートになっている。「はてな」自体が変容し、すでに情報受容中心の人が多いのだ。そんなあたりまえのことに今さら気が付くのだが、自分ではブログ的な世界に参加する人はある種、ネタのキャッチボールをしているのだと思っていた。
 もちろん、日本のブログでも可視化しつつある階層、グループ、いや、カーストやセクトに近いものができつつあるのだが、それはむしろ今後強くなるだろう。ちょうど、ココログが出来たとき、「はてな」に対応するようなココログ文化みたいなものが期待されたようにだ。ココログはニフティベースなので、かつてのフォーラムへの追悼のような思いも人によってはあるだろうと思う。私にもある。が、私はフォーラム時代のことは書かない。それは終わったことだ。
 「はてな」と自分の距離については、ある程度取れてきたように思う。なんとなくアンテナは使う。pingの対応というのもわかるが、総じてこんなものWWWCでもよさそうな気もするが、なんとなく使っている。それだけ優れているのだろう。「ボイン事件」以降、「はてな」の意識的なコミュニティも変容しているようだが、くどいが自分は遠い。もちろん、「はてな」をサービスとして利用しつつそのコミュニティと距離を取ることは原理的には可能だし、むしろマジョリティは無意識にそうかもしれない。その他、スラッシュドットなどのカーストにはあまり関心がない。偉そうな言い方なのだが、技術系のブログを読んでいると、仕様書なのか感想なのか、あるいは技術力が甘い馬鹿なのか、おまえら結論を出す前に考えろよ的に不愉快になることが多い。
 「はてな」のシステムはメルマのほうでも採用になった。tDiary系のブログシステムはMTやWikiより日本的なものなのだろう、と言ってみて、そう当たりの感じもしない。tDiaryのメリットとデメリットはすでに原理的には飽和しているようにも思える。
 2004年はネット系はもう少しブログが浮上するのだろうが、LivedoorあたりはMTにブレ過ぎているし楽天などの日記系は、率直に言って、参加者の層、カーストに新味がない。つまらないことを書き付けているようだが、新味のなさ、つまらなさという点ではすでに自分のなかで2ちゃんねるは昔話に見える。
 だが、今年のキーワードが依然「2ちゃんねる」であったり、ブログブームや受容専門のマスの増加は、別の質的な変化をもたらすだろう。まさに、量的な変化が起こり、それが消費経済側に文化的な影響力としてフィードバックされてくるだろうと思う。極東ブログでの僅かなエフェクトでも意外に「上湯麺」のリファラからうかがえた。上湯麺について補足がてらに言うなら、すでにコンビニから消えた。文春系のオヤジ雑誌に復活をかけた宣伝攻勢が見られるが、たぶんダメだろう。上湯麺のシカケがどこの広告屋なのか忘れたが、このハズシはある意味象徴的なものになるだろう。どのようなインスタントラーメンでもできるという技術的な奢りと、マーケティングにはソリューションがあるはずだという奢りがくじけた。本質的な蹉跌なのだが、シカケ側の人間は理解していないのだろう。阿呆よのうと思うが利口ならさっさとそのフレームワークに疑問を持つはずだ。マスの欲望に身を投じるという主体的な気概、カリスマ性が必要になるのだ。消費動向はエリートと羊の群れを志向していない。
 逆に、早晩、「はてな」的な感性が消費社会に影響を起こすだろうと思う。れいのタランティーノの冗談映画にしても、それを蓮実ばりの映画批評的に見るなら無だし、より大衆的な映画評としてもなにを言っていいかわからないしろものだったが、「はてな」のヒキはよかった。すでにそうしたマーケィングのネタ自体、「はてな」の売りになってきている(「はてな」は情報を売っている)。だが、すでに主客は逆で、その情報をマーケティングに活かすという構図はできなくなる、と思う。
 話が散漫になった。もう少しこの問題をまとめたほうがいいなとも思う。売文なら、ここでお蔵に入れるところだが、ブログではこのまま出す。自分の感性だが、それはそれでいいと感じている。文章の完成度は問題ではない。情報提供だからというわけでもない。
 極東ブログでは、ある程度そのマスと距離を置きたいと思う。最近の象徴的な傾向だが、例えばイラク派兵問題では、各種ブログによってはかなり熱をいれているものの、その左右の熱自体がすでに、ブログのコアのカーストからずっこけていると感じられる。私は、そのカーストに所属する意義を感じない。イラク派兵などどうでもいい問題という感性のマスに向けて、なるほどどうでもいいなと論理で若干共振するかもしれないというだけだ。私には世相に同化する感性はないが、自分のある種の感性をうたがったことはない。恐らく、誰かに伝わることにまだ意義を覚えているし、それは売文でもないのだから、細い線でいいだろう。

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コメント

はじめまして。まだ、ココログ初心者なのですが、ココログルという検索サイトで自分の興味を持っているキーワードを探しているうちに、極東ブロブさんのサイトに行き着きました。「ラテン語」とか、「白川静」とか、です。

ブロブのコミュニティー性というのも、まだ私はぜんぜん感じていませんし分かってもいませんが、大変興味を持っております。ブロブのコミュニティー性とか相互参照性の密度が、日本人の間である程度イデオロギー的な分化のきっかけになるとおもしろいと思います。「隠れ左」とか多すぎるくせに、あまりイデオロギー的な対立がないじゃないですか、今の日本って。んなことを、つらつら感じております。

ちなみに「と」ってなんですか?

投稿: ひでき | 2004.01.24 21:07

ひできさん、初めまして。ブログ拝見しました。ラテン語、勉強されているのですね。今度、なにかラテン語ネタでトラックバックをお送りしたいなと思います。
 ブログのコミュニティ性についていえば、旧極東ブログのいた「はてなダイアリー」が非常に興味深いです。結局、私もなんだかんだ、「はてな」から抜けられません、どころか、この夏くらいに「はてな」に舞い戻りかもです。
 イデオロギーの対立問題ですが、最近思うのは、大きな対立点は、リフレかそれ以外か、かなという感じがします。マクロ経済に問題の主軸が移っているなという実感です。
 「と」は、「とんでもない」です。白川静を持ち上げる人が多いのですが、私は、ここの爺ぃ、とんでもね嘘こいていると言っているわけです。ああ、礼儀に欠きますよね。でも、白川静なんか大間違いだぜというのは、ちょっとした今後のテーマです。私のほうが「と」かもしれないのですが。
 と、ブログってそんな感じで書いています。そのうち、小谷野敦から、謝罪しろ、削除しろって言われるかもしれません(もちろん、ジョークです)。

投稿: finalvent | 2004.01.24 21:18

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