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2003.12.27

「学力重視」の退屈さなど

 年末である。今日から日本の都市部に出稼ぎに来ていた日本人が本来の日本に帰るのである。もちろん、多少の悪意ある皮肉だ。私は東京で生まれ育ち、どこにも帰る日本はないはずだが、それでも父母の故郷長野県に帰りたいような奇妙な錯覚を僅かに持つ。
 今朝の新聞各紙社説はそれほど面白くはない。毎日は「藤井総裁の反乱 道路ではなく権力のために」で、藤井総裁の動向をネタに多少ヒネリを効かせたエッセイを書いて見せたつもりなのだろうが、話が腰折れしていた。読みながら、これはたぶん社説に書く話ではなく、ブログのネタなのだろうと思った。毎日新聞の社説のブレはある種、脱新聞の兆候を示しているのだろう。
 社説ネタとしては、朝日の足利銀行、読売の石原銀行(皮肉である)など、極東ブログで触れたほうがいいのかもしれないとも思うが、さして新規視点はない。先日の為替問題でもそうだが、私自身、新しい世界の経済動向を勉強しなおしたほうがよさそうだなと思う。これには二つの含みがある。一つはそのまま単純に「勉強しよう」ということ。もう一つはリフレ論の背後に共通一次試験世代の影がちらつくことの意味を正確に理解できるようになろう、ということ。端的に言って、ある種の知的なサブカルの風景のなかで山形浩生がこんなに巨人だったのかと最近ようやくわかって呆れた。もちろん、彼がかつての浅田彰などのようにアイドル的な中心というわけでもない。この問題は語ると長くなりそうだが、団塊世代の知が瓦解していく前に、その下の空白の世代の一人として少し知識を補強をしておこうと思うのだ。
 社説ネタで多少気になったのは、「学習指導要領の一部を改訂」の問題だ。読売、日経、産経が扱っていた。どれも話はつまらない。読売に至っては、お笑いである。


 今、脳科学の立場から、小学校では基礎、基本を中心にする授業が望ましいとの指摘がされている。文化審議会国語分科会が、小学校の国語の授業時間を大幅に増やすことを提言もしている。

 おまえ、馬鹿だろ、といきなり言いたくなるようなこと書くなよと思う。産経もお笑いを外さない。

 日本人は本来、学問が好きな国民である。江戸時代には藩校や寺子屋が普及し、武士から庶民まで読み書き算盤(そろばん)を習った。明治五(一八七二)年に学制が公布され、義務教育(当時は小学校)が急速に普及したのは、江戸時代からの寺子屋教育が基礎になったからだといわれる。これが日本の近代化の原動力にもなった。

 なんだかなである。学問というものの意味がわかってないよ。それを言うなら近江聖人の話でもしろよと思う。産経のようなポチ保守が日本の文化を理解していないだ。
 こんな馬鹿な爺ぃが教育をテーマにしている醜態な日本の現在なのだ。と、言うものの、そういう自分はどうかと顧みて、この話題にあまり首を突っ込むのも下品だなと恥じる。
 テーマの扱いとしては、日経は多少ましだ。

その一方で、教科ごとに教える内容の上限を定めた「歯止め規定」については、中央教育審議会から見直しの提言を受けながら、従来のままとされた。教科書ではすでに制限を超えた教科内容がコラムなどの形で採用されており、指導要領の「基準性」の解釈を巡る行政と学校現場のギャップは放置された格好だ。

 ふーんという感じがする。教育の行政などどうでもいいじゃないかと言いたくなる。米国に文部省はない。要らないからだ。なにも米国にならえというわけじゃないが、文部省は自由主義国家に不要だ。あ、現在は文部科学省か。科学かぁ。
 科学はつねに最先端が面白い。ダークエナジーなど小学生高学年に話してやれるだけの器量のある啓蒙家はいるのだろうか。知は一面楽しむためにある。人生は知がなければ退屈なものだ。センター試験以降の世代にとって知とは己の値札になっているようにも見える。蓮実重彦が言うような、知の放蕩という感覚は知の基本になるのだろう、と思う。

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