道路公団民営化法案の明暗
今朝のこの話題はどうしても避けるわけにはいかないだろう。道路関係四公団の民営化について政府与党協議会が決定した法案化の枠組みについてだ。昨日ニュースをザップしたときの私の印象から書いておきたい。率直なところ、「これはそれほど悪くはないんじゃないか」、という印象だった。そして、次に思ったことは、「仕上げは自民党を潰すことだ」、と。自民党さえ潰せばこの枠組みでもなんとかなると希望を持った。
ニュース映像では笑みをこらえられないやくざのような古賀誠が出てきた。猪瀬直樹も出てきて、優良可不可で言えば可か良かというところだと運命を知らぬ豚のように言っていた。この猪瀬をどう評価したらいいのだろうか、とも考えあぐねた。そのあたりにも今回の問題の複雑さがある。猪瀬は政治家になってしまい、石原伸晃と組むことにした。少しでも実を取るというのなら、あの状況下ではそれしかないと判断したのだろう。だが、それで猪瀬を肯定できるかどうか、私にはわからない。正直なところ、今回の問題には膨大にテクニカルな議論が必要になりその迷路のそここにゲリラのように多数の猪瀬アバターが潜むだろう。戦いというのもは不思議なもので、いつか己を敵と同型にしてしまう。猪瀬は官僚との戦いでその身を官僚と同型にしたように見える。もちろん、国家とはそのような官僚がなくては機能しない。
だが、と逡巡するのを避け、端的に言う。前回の衆院選で口数は少なかったものの猪瀬は自民党側に回っていたのを忘れてはいけない。彼は結果的にこの衆院選で自民に誘導した。この衆院選はいつか歴史を振り返れば日本歴史の汚点になるだろう。
このブログではおちゃらけでイラク派兵なんかどうでもいいと言ったものの、できれば、自民政権を打ち倒して、派兵問題に筋を通すべきだった。日本のジャーナリズムは事実上無視しているが、韓国の派兵はこの間、四千人近くなる。その端的な意味を自民党政権は国民に伝えてない。
話がずれてしまったようだが、国民の政治とは大枠をきちんと簡素に提示しなくてはいけないものだ。なのに、そこを結果的に猪瀬は避けたのだ。そうとしか思えない。大著に縷説したと彼は言うかもしれない。そしてその結論は不可避だったと正当化するかもしれない。だが、そうではないのだ、今回の法案化は自民党を前提にしているのだ。だからこそ、日本国民はこの政権を廃棄できるという希望を持つべきだ。そのとき、その光景からきちんと官僚を動かすビジョンを提示すべきだった。その意味で今回の法案化は愉快なジョークでもある。
気になる新聞各紙社説をザップしていこう。朝日がまいどの口調であるが、こうした問題には小気味よかった。
この政府案は、民営化のあり方を審議してきた民営化推進委員会の主張とは、おおきな隔たりがある。
その最たるものは、通行料金を借金返済に回すか、新規建設に役立てるか、の相違だった。推進委員会の多数意見はあっさり退けられてしまった。
多数意見云々の下りはさして意味はない。今回の法制化の問題は、朝日が言うように「借金返済」に筋が通らない点だ。いくらテクニカルに、そして微細な点で論理的であろうと、歴史の大きな変動を知るものなら、小賢しい知恵は歴史に耐えないという前提を知るべきだ。私たちの世代は後の世代の日本国民に向けて、強いメッセージを投げることができなかった。この点で朝日の見解は正しい。多少余談めくが、朝日の口調は激しているかのようだが社説のスペースは西村真悟問題に割いている。日経を除いて、他紙も同じだ。つまり、実は、新聞社説は今回の問題を重視していないのだという点を覚えておきたい。
産経の次の社説は本音が出ていて面白い。
建設予定額を削減したといっても、新会社には建設費が割り当てられている。新会社に拒否権があるといっても、国土交通省の意向に逆らうことができるか。また、A社が拒否したらB社に頼むという方式をとっている。
つまり、制度的な抜け穴があり、日本の政治風土では運用上無意味になると予想している。それは庶民の実感に近い。この点、読売は表向きの制度の建前を述べているだけで社説のレベルが低すぎる。
社説中一番バランスが取れていて私の考えに近いのは、意外にも毎日新聞社説「道路公団民営化 不合格だが0点でもない」だった。きれいに書かれているので、長めだが引用しよう。
小泉純一郎首相の、推進委の意見書を「基本的に尊重」という意味が明らかになった。民営化、地域分割、機構と新会社の上下分離という枠組みは実現する。しかし、族議員の要望を入れていくつもの抜け道を用意するという意味だった。構造改革の柱の一つとして、合格点はとても与えられない。推進委の一部委員が辞意を表明したことも理解できる。
しかし、道路公団の分割民営化などありえないという出発点から考えれば、不十分ながらも民営化の枠組みまではたどりついた。9342キロの整備計画には国と地方の負担による新直轄方式が組み込まれ、変質した。新会社の道路建設費も6.5兆円削減された。0点でもない。不合格だが0点でもない、今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない。
これなら猪瀬もにんまりするだろうと皮肉を投げてみたいが、ようはこういうことだと思う。繰り返す、「今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない」は正しい。これに自民党政権転覆を付け足せば申し分ない。
日経の社説は、この問題を前面で扱っていて、内容的にも良い意味で日経らしさが出ていた。道路族への歯止め案についての日経のコメントは産経の論調に近いがより的確になっている。
そうした実情を知りながら、コスト削減策こそが改革の主題だとして「歯止め」の効果を力説するのは、企業経営と市場経済についてよほど無知なのか、あるいは意図的に国民をだます狙いとしか考えられない。もともと、このような人為的な歯止めの方策は、政治的な決定である。それが45年もの間、保証になるという主張自体に無理がある。
確かにそうなのだ。意図的に国民を騙す狙いがある…それは今回のブログの頭で触れたように猪瀬の、国民から乖離したスタンスそのものである。だが、そこから日経はこう結論づける。
改革の実現には国民の信頼が何より重要だ。首相は国民に対し率直に道路公団改革の失敗を認めたうえで、改めて出直す政治的決意を示してほしい。それが首相の責任である。
一見正しいように見えるがこの結語は錯乱である。国民は衆院選の結果を見ても、道路族に利する行動を取った。仮想の国民を政治議論で立てはいけない。また、問題は首相の責任でもない。日本には大統領はいない。首相は調停役でしかなく、今回の小泉のありかたはずる賢くはあるが、首相つまり、prime ministerの語源となるラテン語の語感「召使い」らしさを出しているだけだ。
さて、話も散漫になったのでこのブログもオチとしたいところだが、今回の法案化で私の脳裡に浮かんだ、ある地方の新しい道路がある。
具体的には書かないが、その道路の距離は短いにも関わらず無茶な土地取得に手間取ったり地域の労働者吸収を兼ねたりもして完成までに何年もかけていた。私は何年もそれを見ていた。その道路は、自然破壊の最たるものだというくらい崖をくりぬいて、その先に高架を作った。できあがって、車で通ると高架から数分ほど絶景が見える。だがそのために道路を造ったわけでもない。それによって住民の都市部へのアクセスがよくなったわけではない。現状から考えれば、無駄な道路だ。なのになぜこんなものを作ったのか。
道路族の思惑を除けば、理由は私の推測では2つあった。一つは、その道路によって地方に配属されている官僚の住まいの交通の便が良くなること。官僚の多くは実際には地方巡業の苦難の日々を送っているのだ。もう一つは、もしその地域に災害があったときにバイパスに成りうることだ。地方の既存の道路というのは歴史を負っているため、近代化に適していない。国家に意思があれば、この道路はその体現でもあるのだろうと思った。
無駄に見える道路も子細にみると、それほど無駄でもないし、まだ道路を造るべきところは地方に多いのは確かだ。このブログでは日本の地方を重視してきたが、もう道路を造らなくてもいいという発想はすでに大都市民の発想でもある。
私が朝日や日経のように端的に今回の決定に否定的でないのは、あの道路の光景かもしれない。
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