年金問題の基礎に隠されている問題
今朝の朝日新聞社説「年金改革――やはり大手術しかない」は、まず標題からしてげっそりしてしまうのだが、半ば義務のように目を通す。面白くもなんともない。年金問題など、あたりまえの理性とスェーデン改革でも参考すれば、最善とはいわなくても次善の解決案は出る。なにをぐだぐだやっているのだと思う。毎度ながら朝日新聞的社説の愚劣さは「朝日新聞的社説(自動生成)」(参照)を使っているのではないだろうかと疑うほどだ。ちなみに、このソフトは「朝日新聞社説」という固定観念でできているが、実際の朝日新聞社説はもっと表層的にはやわらかく主婦を見下すような語り口になっている。これにオントロジー上位のサヨク・反米文脈ルーチンを追加すれば、本物の朝日新聞社説になるという冗談を書いている場合ではない。ざっと読みながら、「次」とつぶやくその瞬間に脳のなかのクオリアが凍り付く(いかん、どうも冗談モードから抜けられん)。しばし瞑目して思い当たることがあった。ミダス王の指のような文章がこの社説のケツにあったのだ。
「団塊の世代」が年金の受給者に回るのはあと数年である。改革のために残された時間はわずかだ。
あっ、と次の瞬間うかつに声が出てしまい候(←冗談よせ)。そうなのだ、これまでもわかってはいたのだが、年金改革とは団塊の世代の問題なのだ。あいつら、70年代に懲りたかと思ったら、こんなところで、でっかいうんちをしているのだ。思わず「あいつら」とか呟いてしまったぜ。
「国の年金問題」じゃない、「団塊の世代の年金問題」が年金問題なのだ。そしてそのことはすでに私より下の世代共通一次世代やセンター試験以降の世代の大衆意識にすでに折り込み済みなのだ。彼らは「自分たちの年金であるわけがない」という前提で行動している。もちろん、それはアイディオロジカルな命題ではない。もっと社会の消費構造的に年金が選択されないような社会を作り上げていることの社会学的なモデルだ。
あえていうとすれば、現在の若者の消費社会を作っているのは、電通の東大出のグループがビデオリサーチを一社に限定するっていうような陰謀じゃなくて、「キミたちの欲望の正当な反映」なのだ。もちろん、責めているわけではない。大衆の無意識を責めても意味はない。端的な話、月額1万3千円が払えない若者は、ほぼインポだ不感症だと70年代用語を書いてもしかたがないが、それだけの余剰を常識で考えれば働き出せないわけはないのに、社会構造的にできないのだ。誰だったが、松下幸之助だったか経営者の爺がたんまり税金を払うことに「お国のためですから」と言っていたが、月額1万3千円の労働が「お国のためですから」にならない消費社会の構造ができあがっているのだ。
この「あいつら」の感じはどっかで最近読んだよなと思って、記憶を探るに、「はてな」のhazuma(名前はあえて書かない)の日記にあった(参照)。子供の夜間徘徊(←ちなみにこれ沖縄用語)の規制についての文脈だが。
しかし、この条例改正の動きが具体的に何を背景にしているのか知らないけど、一般的にこの国の世論は、年少世代を叩きすぎだと思う。普通に考えて、この国がいまメチャクチャなのはバブル期にいい気になっていた年長世代(世代名を出すのは控えよう)が原因なのであって、10代や20代のせいじゃない。僕だってもう30代だし、あまり若者の味方をする気もないけど、そういう過去の愚行を棚に上げて、プロジェクトXとか60年代小説とかに涙しながら、未来の話といえば年金をいかに確保するかばかり、あとは生活の漠たる不安から目を逸らすために少年少女と外国人をスケープゴートにして満足している連中が一掃されないかぎり、日本に未来はないと思うよ、マジで。扇情的なマスコミの責任も重い。
後段についても思うことがあるというか、それは違うよと思うのだが、さておき、この世代的な敵視の感覚が重要だと思って記憶にひっかかっていた。
もちろん、いつの時代もどの世代も上の世代を敵視するものだが、日本についてはそんなクリシェでまとまるわけではない。端的に言うのだが、日本の社会では世代間が人間として正常な軋轢を産む場は私企業内でしかない。それも、なくなっている。世代間の正常な軋轢を団塊さんも共通一次さんも避けているというか、避けることが可能な社会構造を、結果的に平和に作り出してしまったのだ。
なにも私のことを強調したいわけではないが、私のような昭和32年生まれなど、団塊さんと共通一次さんの狭間に落っこちて、概ねそのスペクトラムのなでグラデがかかるような位置づけにされている世代だ(私自身がオタクの走りでもあるし)、というか、サブカル以外に共通の世代間などないのだが、その空白におかれた私にしてみると、なんとも奇妙な図だ。
話が散漫になったが、冒頭、あれっと思ったのは、この世代間の問題だけではない。結果的にそれにつながるのだが、もう少しマジな部分がある。「モデル家族(モデル世帯)」だ。
単純に言えば、日本の年金制度は、「妻は専業主婦、稼ぎ頭は夫」という理想(マックス・ヴェーバーのいう「理想」)モデルからできている。この「モデル家族」は日本のふにゃけた知の風土ではしばしばフェミニズムから議論されがちだが、批判覚悟で言えばそんな問題はそれほど重要ではない、問題なのは、このモデル家族が実際上、団塊の世代より上の世代から団塊世代までのモデルになっているということで、実は、団塊世代をプロテクトするような機能がイデオロギー的に埋め込まれている点だ。ちょっと飛躍するが、このモデルは公務員が楽園になるモデルでもある。現実の公務員を見れば、庶民なら誰でも知っているが夫婦とも公務員で楽々な暮らしをしているケースが目につくのだが(これには言葉では批判はあるだろうが事実だということを譲る気はない)。
話が混濁してきたが、ようは、年金問題の基底にある「モデル家族」の方法論に、団塊の世代を守るためのシカケがしてあり、朝日新聞もすでにそれが当たり前の方向だとして啓蒙しくさっているのが問題なのだ。そこを言語で議論可能な、かつ単純な問題にしないかぎり、共通一次世代以下が「あいつら」意識で社会の消費構造を攪乱することは止まらない。
だからといって、その攪乱的なハイパーシミュレーションの上澄みとしての消費税で問題を解決するのは本質的な倒錯だ。と、やや論理が飛躍しているが、私はこれまで、「消費税はがんがんあげろぉ」と思っていた。しかし、考えを変える。消費税はやもうえないのかもしれないが、消費税を国庫とする思考法は、この国の根幹のゆがみ(団塊の世代をきちんと新しい国のビジョンに位置づける)の妨げになるのだ。
だから、朝日新聞社説は根幹で間違っているのだ。
世代によって払う保険料ともらう年金が違う「世代間の不公平」、自営業者らが加入する国民年金の保険料を払わない人が急増している「年金の空洞化」……。現行の仕組みをそのままに、表面を手直ししただけの今回の案では、年金が抱える病気を根本的に治療できず、制度は安定しない。
違う。その不公平は是正できない。また、「自営業者ら」としてそこをスケープゴートにすれば、実際には現在の若い世代が将来的に潜在的な自営業者になることを閉ざしてしまう。むしろ逆なのだ。その不公平は治らない、自営業をさらに優遇するという方向で考えなくてはいけいないのだ。
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