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2003.12.13

死ぬことは怖いなあという話

 46歳のオヤジが言うことじゃないが、世界も宇宙も私という人間の知覚の幻なのではないかと思うことがある。私が死ねば、その意識とともにそれらはすべて崩壊するのではないかと。「我が死後に洪水あれ」と思えるほど、私はこの世界も宇宙も信頼していない。私の死後には世界も宇宙もなくなるのではないだろうか。もちろん、そんなことは常識的にはないのだが、この問題を少年期から今に至るまで問いつめて、そして哲学を学んだ。それでも常識を裏付けることはできなかった。哲学者大森荘蔵のように、世界は宇宙はただひとつだけ存在し私も私という意識も存在しないのだと言ってみたいし、実感してみたい。と、書いてみて、私がそもそも存在せず私の意識とはそのままにして世界であるなら、私の死というものは結局世界の崩壊と同義になる。それでいいのでないか。大森はそう考えていたのだろうか。彼は流れゆく時間もないと言った。つねに意識の今があるばかりと。道元と同じだ。薪は灰にはならない。私は死ぬことがない。それをもって仏教の不老不死と言われても、私は得心しない。悟ってはいない。私はただ迷うだけだ。幸い、私のような馬鹿者が私一人でないことは中島義道を見ればわかる。彼も死が怖いということを一生考え続けている。その気持ち、その行動は理解できる。彼が哲学をするしかないと大森に問い、死について語ったとき、大森は「あのドーンという感じですね」と答えたという。そうだ、死についての思考がもたらすあのドーンという感じだ。あれはうまく人には伝わらない。もっとも、中島は著作では死の恐怖とか言っていても、すでにそれを乗り越えているのだろう。死は眠りとなにも違いはない。
 私はそこまで乗り越えたか。そうもいかないようだ。あれはなんなのだろう。胸が胃がドーンと打たれたようになる。酷いときは真夜中に絶叫する。恥ずかしい話だが、本当に絶叫するのだ。今でも年に二、三度絶叫する。ぅおおお~という感じだ。そのままオルフェノクに変身しそうだ。
 あのドーンというとき、世界は真夜中で薄暗いにもかかわらず、あちこちがギラッギラッと輝く。あれはなんなのだろう。私は頭痛持ちではないが、頭痛持ちの頭痛前兆の脳の生理と似ているのかもしれないとも思う。ああいう感じもまた、人には伝えられない。私は死に直面しているのがつらいから、ネットをザップしている。くだらない情報が欲しいのだ。頽落していたい。ネットにはくだないものがいっぱいあって、私の死を覆う。例えば、ZD Net News「統合失調症の幻覚を疑似体験 ヤンセンファーマが日本版装置を開発」(参照)がくだらない。統合失調症の幻覚を疑似体験できる装置を装着すると、CGとステレオ音声で幻覚を疑似体験できるというのだ。これって、誰が、「OK、これでばっちぐぅ~よぉ」と承認したのだろう。哲学を学んだものなら知っていることだが、幻覚と知覚に差はない。「世界にはこんなことがあるわけがない」という確固たる信念が知覚をフィルタしているだけなのだ。
 私は幻覚と知覚に差がないということを徹底的に理解しようと思った。雨夜を歩いているとむこうに幽霊が立っている。そういう光景をよく見かける。世人も見ているはずなのに知覚をごまかしているのだ。幽霊?そんなものいるわけないじゃないか?そして、不審な思いがつのれば近づいてみて、「なーなんだビニールの切れ端か」と言う。冗談じゃない。大きな間違いだ。時刻t1の認識は時刻t2の認識によって訂正されるわけがない。t1時点の認識ときに、即、あなたの人生は終わるとする。t2によって訂正することはできない。実は、我々の知覚はすべてそういう構造をしているのだ。もちろん、そうしたt2の先のt∞とは、死なのだが。
 そうして世界を眺めると、世界とはなんと豊かなものだろうと思う。天使が舞い、2ちゃんねるには小悪魔が踊る。世界とは、おそらく、死の光でその実相を明らかにする。と、言ってみたものの、あまりいいジョークではない。フィリピンで終戦を迎えた評論家山本七平は、戦時に、ああ、もうオレは死ぬのだなという時、世界がクリアに見えたという。その話を彼が同僚にしたとき、ああ、あんたもそうかね、と答えた。たぶん、人間の知覚には、「ああオレは死ぬのだ」というリアリティが押し迫るとき、世界はクリアにカピーンと見えてくるのだ。意識があれば、そうして死ぬだろう。銃弾に打たれ、その刹那うっ痛ってててくぅーという瞬間はどうだろうか。それだけの知覚の間は取れるだろうか。
 幻聴という経験は私にはほとんどない。恐らくそのあたりの指標で私は精神分裂じゃあないんだろう。統合失調症?どうでもいいけど。ただ、一度、奈良の寺でそれに似た経験をした。一種の神秘体験のようなものだが、歴史のある人物が自分の感情となった。ほほぉ、生まれ変わりの確信というのはこういうものかと思った。彼が私なのか。くだらない話に聞こえるだろうが、誰も自分の意識の起源を知ることはできない。現代の認知心理学の一派ではないが、心それ自体はソサエティのようになっているとすれば、意識の出現にはある情念を伴った知識の集積が必要になると思われるが、そうした知識の断片が多数刷り込まれるとその調停として自我意識が出てくるはずだ、と主張して、それほど科学的に違和感はない。が、なーに、言っていることは、情念知識=霊とすれば、なんのとこはない、それこそ、生まれ変わり説でもあるのだ。人の意識は情報を媒介にして生まれ変わると現代心理学でも言っているようなものなのだ。
 私の言っていることは多分に狂気だろう。そのことくらいわかる。私は自身が狂人かもしれないと若い頃思ったことがある(20年くらい前まで、たいてい青春っていうのはそういうものだったのだが)。狂人(どうでもいいがATOKは「きょうじん」を変換しないので登録した)かもしれないと疑った人もいた。私の行動はいたってまともだから、私を理解しようとさえ思わなければ、私を誰も狂人だとは思うことはない。私はぐっと抑制して生きている。だが、そうもいかなくなり、様々に人生も破綻し、精神医学者木村敏の本に出てくる症例のように離人症的な感覚になり、苦痛のない苦悶感から、大学のカウンセリングに通った。カウンセリングというのは一様ではない。結論から言えば、理論など糞でいい。カウンセラーがすべてだ。W先生はただ静かに私の込み入った思考を聞いてくれた。ただ、一度、専門医に診てもいましょうということで診療ではないが、カウンセリングの一貫で診て貰ったことがある。精神分析医なのだろうか。タイプ煙草を吹かしながら、質問をしつつ奇異な目で私を見ていた。診断は…もちろん、異常ではなかった。いい時代だった。薬がまだなかったのだ。今思うと、あの医者のほうが変だった。カウンセリングはなんとなく終わった。離人症的な症状は消えた。あれから人の失恋談を聞くと、かなりの数の女性が激しい失恋時に離人症的な状況になっていることを知った。女の心っていうものはなんなのだろうと思う。好きでもない人としかたなくセックスをすることもあるようだが、好きと決めた男は変わらないようでもある。そうした心の基礎構造と失恋の離人症的な状況には存在論的な意味がありそうだが、そこまで透徹した女性の哲学者を知らない。そもそも女性の哲学者というのがシモーヌ・ヴェイユ以外あまり思い浮かばない。ローザ? あれは哲学じゃないしね。
 カウンセリングの際の自分の心を思い出すに、この人は私を理解できるだろうかというな猜疑の意識がある。それは、実際にはある種の悪意に近い。人の善性を引きづり降ろそうとするような意識でもある。小林秀雄が短いエッセイで、多くの狂人と向き合って生きてきた経験からすると狂人にはある種の悪意のようなものがあると書いていた。そうだろうと思う。これは精神医学的には言ってはいけないのだが、狂気にはなにかしら悪意のようなものがある。もちろん、健常な人間から悪意に見えるだけだという反論はうざったい。
 私が死ねば、宇宙も世界も日本も崩壊すると考えて、私には不都合はない。が、そうもいかない。死は、病気や戦争などがなくても、自然に授与されるものだ。「戦艦大和の最期」を著さずにいられなかった吉田満は、「戦中派の死生観」などで、戦後日本の問題を座視していてはいけないとぬかしていたが、死ぬ前に言っても、遅せーよ。司馬遼太郎もそうだ。遅すぎる。梶山静六もあっけなく死んでしまった。東海村の事件がプルトニウムであることがバレなくてよかっただけ悶死でもあるまいというのは冗談だ。60歳越えて憂国の念に駆られても遅すぎるよ、と思う。
 という文脈で、私の死は私の国への思いとつながっていることがわかる。私というのは、国への思いのなかで死の恐怖を解消しているのだ。ヘーゲルみたいだな。照れちゃうじゃないか。せめて、コジェーヴにしとかないと、おっしゃれじゃないよね。

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コメント

こんばんわです m(_ _)m

で、「私が死ねば世界は終わる・・」、ですが・・

これってけっこういる・・みたいですよ

ぼくの読みだと保坂和志もそうだし・・(子供っぽいって言いつつも気にしてるみたいでした)
http://www.kanshin.com/index.php3?mode=keyword&id=380697

なんか、前に永井均も言ってた・・ような気がするし・・
もちろん中島義道もそうだし・・

(まぁ、ぼくもそうなんですが・・(^^;)


そんな感じで・・そういう人間たちが集まるとどうなるんですかねぇ。。。?


あ、あんまり関係ないけど
極東さんって、「広末涼子できちゃった婚」ってどう思います?


投稿: m_um_u | 2003.12.14 03:29

ども。「中島義道」的人間は増えるでしょうね。これってそう表層的な人間タイプではなさそう。ところで、ちと悩んだが、広末涼子できちゃった婚について書いてみました。昨晩の時点で自分からも書こうかどうか悩んでたので…。

投稿: finalvent | 2003.12.14 11:03

この文章、以前との関連もあって強く心に残りました。 それにしても、最近ますます筆が走っていますね。一応毎日読んでいますので。

投稿: Junky(tokyocat) | 2003.12.17 13:27

あ、どもです。困ったことに基本的に本業のツラでなく書いているせいか、自己吐露みたいなものに禁欲たりえませんね。恥ずかしいといえば恥ずかしいのですが。あと、自分ではブログをある意味Googleで検索される際の情報なり意見の提供でもとも思っているので、適当にお読み下さい。(たぶん、「極東ブログ」の問題は早晩、ココログの30MBで熱死することでしょうね。困った。)

投稿: finalvent | 2003.12.17 19:09

死ねば世界は終わる、保坂和志はそんなこと言ってないと思いますよ。死んでも世界は動いている、そのことに恐怖を感じるのだと。私の死と関係なく世界は動いているのだと。
死んだら世界は終わり、という人はたくさんいますが、そういう人って自己中心的な考えなのでしょうね。もちろん誰でもそういう面をもっているのでしょうが。

投稿: (anonymous) | 2005.03.29 06:20

Junkyさん同様、私も、強烈に感じるものありです。

投稿: むぎ | 2005.05.07 04:26

まぁ…近いけど。
死ぬのは怖くない。

石垣りんの「この世の中にある」という、詩を読んでください。
彼女が詩の寸前に、NHKコンクールの主題歌と決まった曲の…
歌詞です…。

なにか、勘づるものがあるはずですから。

因みに私は生身の人間です。(苦笑)
いまや、グーグル検索で簡単に引っかかるほどのしんりの世界の有名人(←ややうぬぼれ)…なのかもしれません。(←捏造疑惑有り 爆笑)

投稿: 那縷縷 | 2007.06.13 17:37

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