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2003.12.31

セルビアはどこに行くのか

 朝日新聞社説「セルビア――極右を躍進させたのは」はつまらぬ話だった。理由は簡単で、またまたサヨク・反米というマシンの出力というだけ。啓蒙にして意図が韜晦なまいどの朝日さんが言いたいことは、「極右を躍進させたのは米国」というトリビアの泉みたいなネタだ。へぇ~、マイナス50点だな。


 国際社会も考え直す時ではないか。北大西洋条約機構軍の空爆で大きな打撃を受けたセルビアには、国際的な支援が欠かせない。だが、米政府は国際法廷への戦犯引き渡しを支援の条件としている。それが国民の民族的な誇りを傷つけ、結果的に極右への共感を広げさせている。民主派を支えるには柔軟で手厚い支援が要る。

 だからなんだというのをぼかしているのだが、この話は、ようするに「米政府が国際法廷への戦犯引き渡しを支援の条件とするのをやめろ」としか読めない。それが「民主派を支えるには柔軟で手厚い支援が要る」となるのか論理は不明。どうせ朝日新聞のことだ。結語もひどい。

数十万という人々が命を失ったユーゴ紛争は「軍事力による人道的な介入」の必要性を国際社会に問いかけた。国の再建や民主化は容易な課題ではないが、それをやり遂げないことには、介入の正当性も揺らぐ。セルビアでの失敗は許されない。

 朝日新聞は皮肉書いているのか。つまり、人道的介入は無意味だったから、それをやり遂げる意味などない、よって「国の再建や民主化」なんてほっておけ、と。ブラックですな。
 朝日はなにが言いたいのだろうかと再び考えて、さして考察なく書いた文章なのだろうなと思う。ふと、「国の再建や民主化」というけど、その「国」ってなんだと疑問に思って、思い当たるのはチトーだ。懐メロなのだな。
 朝日の酔筆を素面で追うこともあるまいが、とうの問題であるミロシェビッチ支持、極右躍進をどう考えるべきか。朝日は「紛争で疲弊した経済」と「大セルビア主義」と言う。脱力するなぁ。経済の疲弊には紛争が原因ということもあるが、そもそも紛争の根幹にもあったのだ。そのあたりの歴史を書くのもうっとおしいし、大セルビア主義を解説する気力もない。というか、ちとセルビア史のサマリーを書いてみたのだが、さすがにボツにした。極東ブログは読者数など気にしないが、歴史マニアも多いネットの情報をかき集めればわかることをまとめても意味ない。基本事項は多岐にわたるし、きちんとその歴史を追うことも基本だ。大セルビア主義は簡単には解説できっこない。
 が、大セルビア主義がわからなくてはとうの問題はわからないのか。80%はそうだろうなと思うが、よくわからないなと思うこともある。ちと批判を喰らう覚悟をして言ってみるかな。まず朝日にほざかせるとこうだ。

 クロアチアにあるセルビア人居住地区をセルビアに組み入れる。国連の暫定統治の下にあるコソボ自治州にセルビアの軍や警察を戻す。国際法廷への協力をやめる。急進党はそう主張する。
 ほぼ10年におよんだユーゴ紛争は、コソボを最後にやっと落ち着いた。急進党の主張は、これまで積み上げられてきた和平努力を根底から覆しかねないものだ。

 私は小声で言ってみよう、「それがどうした」。もっとピアニッシモを効かせて言ってみよう、「それが悪いのか?」 セルビア人の立場に立ってみろよ、当然のことじゃないか。それ以外にセルビア人に選択があるのか。それを実現することが平和努力とやらを覆すことになるのか。少し声を高めれば、それを選択しても民主派の生きる道はあるんじゃないか。
 ことの発端をどう見るかは難しい。チトー後、ミロシェヴィッチはセルビア民族主義を煽り、1989年コソボ自治州で多数派のアルバニア系住民の自治権を奪う。ろくでもねぇなとは言える。が、もともとコソボはセルビア共和国の自治州だった。歴史を振り返れば、12世紀にセルビア王国がここで成立した。
 事件としては、1991年6月のクロアチアとスロヴェニアの独立宣言だ。この時点のクロアチア内にいたセルビア人に身を置いてみるといい。えれーことになってしまった。市民を社会から守るのは国家だが、社会が国家化したようなものなので、国家たるべき連邦が動かざるをえない。理の当然である。
 91年11月マケドニア独立宣言。翌年3月ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言。そこで、セルビア共和国がボスニア・ヘルツェゴビナ共和国を侵略開始、なのか? というのはボスニアに進行したのは連邦軍だ。連邦軍を事実的に組織していのがセルビア人だったとは言えるが、建前としてはユーゴスラビアといいう国の内部の問題であり、そもそも連邦軍が存在すること自体、こうした内戦に備えるものだった。連邦軍自体も連邦軍の論理で動いていた、とまで言い切ることもできないが、大筋で逸するものではない。
 何が歯車を狂わせたか。もちろん、難しいのだが、外国が勝手に独立を認可するというどたばたも良くないのは確かだが、それに加えて、大セルビア主義という歴史物語があるせいかセルビアという単一の悪玉をユーゴスラビア連邦から純化した要因も大きい。悪玉ができれば話は早い。さあ、みんなでセルビアをやっつけろ。
 と書くといかにもセルビアを援護しているかのようだが、そういう意図はない。その後の展開は明らかにセルビアは責められるべきだと思う。
 私の結論はない。ここで朝日を道化にして叩いてもしかたがないが、問題は朝日新聞が考えているほどのんきなものでもない。そういえば、コソボ紛争のおりもチョムスキーは空爆反対だったが、日本では注目されなかった。私も表明のメールをもらったけど無くした。私信でもないので、どっかに掲載されているのだろう。

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世田谷一家殺害事件を思う

 新聞各紙社説を見ながら、各話題はそれほどつまらないでもないと思ったが、結果としてひどく落胆した。あえて昨日書かなかった。今日まで待った。一紙でもいい、世田谷一家殺害事件をテーマにせよ。心から祈るような思いだ。だが、今朝に至り、一紙も触れていない。てめーら本当に社会の公器なのか。落胆と絶望感をごまかすために、そう息巻いてみたい気もする。かつてTBSで筑紫哲也は「今日テレビは死んだ」とかぬかしたが、その後ものうのうとゾンビになっているように、今日、新聞はゾンビになったかと思う。誰か、額にお札を貼れよと思う。ああ、オレがそうしよう。
 Yahoo!のニュースを覗く。特集がある。「世田谷一家殺害事件」(参照)だ。昨日の午後に共同で「犯人は生活臭ある若い男 世田谷の一家殺害から3年」というニュースが入っているものの、3年という以外にニュース性はなく、つまり、メディアの用はない。社説もネタに困るし、修辞に慣れた爺ぃどもが嘘くさい正義の言辞を振り回すのも醜悪なので、自己規制したのかもしれないと皮肉も言いたくなる。もちろん、それは八つ当たりだ。
 Yahoo!の編集上の問題かもしれないのだが、読売と毎日の特集へのリンクがある。開いてみて、また落胆するのは、それが去年のままだからだ。他のニュースのリンクを開いても、はっとするようなことはなにもない。毎日新聞系のニュースではこうある。


東京都世田谷区の会社員、宮沢みきおさん一家4人殺害事件から3年がたつのを前に、宮沢さんの父良行さんが23日、埼玉県にある一家の墓を訪れ、冥福を祈った。

 おいまた「冥福」かよという思いの前に、親たるものが今、なんの社会的な解決も見ずに冥福など祈れるものだろうか。記者は親の思いを多少なりおもんばかってこの文章をなしたのか。新聞記事の常套のレトリックなのではないか。怒る気にもなれない。新聞記者などにはおよそ文章は書けないのだなと皮肉を追記しておこう。
 関連の遺族・支援者のHPを開いて、自分の無力さにさらに落胆する。言葉もない。週刊新潮がこの問題にしつこくガセのような記事を書いているが、あえて言う、ガセでもいいからこの問題を忘れてはいけないのだと思う。
 こうした無気力感をさらにひどくしているのは、坂本堤弁護士一家殺害事件の記憶だ。随分昔の気がするが、1989年のことだ。年が明ければ15年になるのか。昔と言ってもいいのかもしれない。今の20代の人には、この事件とその後の社会とメディアの臭いはわからないだろう。私は忘れない。当初多く騒がれて、そして解決の糸口もなく社会は無気力になっていった。この事件は解決しないのではないかという思いが社会を覆っていた。しかし、解決したのである。その時点からこの事件を見てはいけないと私は思う。あの無気力な絶望感からこの事件を見るべきだ。
 坂本堤弁護士一家殺害事件もひどい事件だった。今にしてみれば悪いやつはオウム真理教ということになる。そう言えば、アレフの人々は今でも理屈をこねるだろう。裁判ですら、正当な法を遵守して麻原彰晃を罪することができるかわからないとも言える。言えば言える。だが、本当に悪いのは、神奈川県警本部である。もっと言う。大悪人は、当時の刑事部長、古賀光彦、オメーだ。そしてこんな恥知らずを栄転させていった警察庁は最低だ。恥を知れと言いたいところだが、私にはそれほどの倫理はない。つまらぬ余談をするが、若い女が援交といって売春をする。水商売で金を稼ぐ。なにが悪いとほざく。私は密かに思う、「恥」。警察官も同じだといえば、地面を這うような現場につばを吐くことになるなとも思う。
 小林よしのりについて、多くの人がなんだかんだという。私も彼とは思想が違う。だが、一点彼を理解すると極東ブログで書いた。もう一つ忘れていた。彼は、この迷宮化した当時、堂々とオウム真理教を糾弾して見せた。まだ江川紹子をフォーカス(これも新潮だったな)がときおり支援する以外、私が知る限り、メディアで堂々とあの事件の糾弾に乗り出した人は小林よしのり以外いなかった。立派だと思う。
 そう書きながら、自分が世田谷一家殺害事件への無力さに修辞で逃げているなという思いがする。だが、忘れてはいけないのは、それが正義への希求であり、なにより今の日本の社会の根幹となるべき正義への希求だからだ。青年が正義を疑うのはいい、社会が正義を信じているうちは。社会の側は正義を希求しなければならない。およそ、社会と言葉で向き合うものは、正義を忘れてはならないと思う。社説執筆者たちよ、恥よ。

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2003.12.30

原子力発電削減の問題について

 晦日になった。新聞各紙社説もスペフィックな話題は少ない。自分にはっきりとした意見があるわけではないが、原子力発電について読売新聞社説「原発建設中止 将来の原油高騰を招く『総崩れ』」が気になった。社説の趣旨としては、原子力発電所の建設中止が相次ぎ、このままでは将来、原油・天然ガスの価格高騰を招くから問題だというのである。それに、ジョークのような結語が付く。


二酸化炭素(CO2)の排出量削減を世界に約束した京都議定書の達成も、原発の新設なしには不可能だ。建設の必要性を粘り強く地元に訴えるべきだ。

 いずれ京都議定書はナンセンスなので見直しになるだろうと思うので、この観点は事実上無視していい。ついでにいうと、代替エネルギーの議論も現実的には無意味だと思う。すると、読売の線で考えた場合、当面の問題は、将来の原油高騰を招くのは本当か、ということになる。この議論について読売のサポートはこうだ。

石油や天然ガスには価格高騰のリスクがつきまとう。中国の石油消費量は日本を超え、米国の天然ガスは発電用の需要増で記録的な高値をつけている。
 石油危機後の長期にわたる石油、ガスの価格安定は、世界的な原発増設でもたらされたことを忘れてはなるまい。

 説得力があるだろうか? 率直なところ、私は罵倒するだけの知識はない。まず、価格高騰のリスクについてだが、絶対的な枯渇や中国の石油消費が日本の存立を脅かすまでになるかについてはわからないし、読売も言及していない。しかし、むしろ問題は今後の中国の石油戦略自体が危機をはらむ可能性だ。というのは、中国は世界の資本主義のルールに対して新参者だし、対外事情を国内問題にしてしまう抜群の外交センスの悪さがある。
 こうしたことをとりあえず置くとすれば、価格高騰というのは、単にマーケットの機能の一部ではないかと思う。もちろん、その時点になって日本人がパニックを起こす可能性はあるが、日本人とはそういう民族ではないか。この議論については、日本国としては原子力発電の問題というより、より視野の広いエネルギー政策の問題だろう。端的には天然ガスの問題であるように思われる。
 関連して、読売の指摘である「石油危機後の長期にわたる石油、ガスの価格安定は、世界的な原発増設でもたらされた」については、端的にそうなのか? 違うのではないかと思う。読売の論法を見ても、なんだか嘘くさい感じが漂う。
 こうして議論すると読売の批判のようだが、実は私は、原子力発電は国家の問題として大きく考えなくてはいけないのではないかと思っている。理由は単純でフランスの現状を見ると、まともな民族国家の指導者ならこう考えるのだろうというのが見てとれるからだ。つまり、フランスは原子力発電を大きく推進しているのである。少し古い資料だが「フランスの原子力発電開発の状況 (14-05-02-02)」(参照)によるとこうだ。

 天然資源に乏しいフランスは、1973年の第一次石油危機を契機に原子力開発を加速した。2001年12月末現在、運転中の原子力発電所は57基、6,292万kWに達した。総発電電力量に占める原子力シェアも例年75%を越え、世界的にも1、2位と高い。炉型は加圧水型軽水炉(PWR)に一本化された上、標準化が進んでいるため、発電コストは安く、余剰電力は欧州近隣各国に輸出している。

 もっとも、これはフランスという国の特殊なお国柄と言えないこともないのは、ヨーロッパの他の国と比較してみるとわかる(EU内での力関係もあるだろう)。これには「主要国の一次エネルギー供給量とエネルギー源別構成比」(参照)が参考になる。見てわかるように、日本という国の動向はアメリカとフランスを足して2で割ったような感じなっている。国力、人口、文化水準などを見ても、日本がそういう位置づけで妥当なところではあるのだろう。
 気になることはある。まず、石油依存度がイタリアを除けば他の主要国より大きい。そして、それに対して石油の専門家からよく指摘されることだが天然ガスの利用が低い。イタリアの石油依存度の高さは天然ガスによって補われているので、実は、石油依存度の問題は主要国のなかでは日本が突出している。天然ガスについては、欧州独自の背景もあるのだが、それでもエネルギー政策の視点から見れば問題は問題である。ふと気になるのは、石炭の問題だ。こいつこそ環境破壊の悪玉なのだが、あまり議論されていない。
 話を少し戻す。読売社説の議論は今回の特定な社説としてはふにゃけたものだし、短絡的に原子力に結びつけるのもすっとこどっこい的ではあるのだが、日本のエネルギー政策への警笛としては十分に意味があるだろう。実際の問題として、近未来的には原子力発電をある程度維持する以外の国策はないように思われるのだが、日本国民はまったくその意識がないようだ。
 もちろん、原子力を選択しないということもありうる。であれば、具体的なエネルギー政策を出さなくてはいけないのだが、どうもエコ系の人はファンタジーになっているような気がする。
 蛇足ながら、個人的な思い出であるが、私には原子力アレルギーはない。多くの人は忘れているのだろうか、「鉄腕アトム」の「アトム」は、原子力の平和利用への期待が込められていたのだ。私たちの世代はまさに、ららら科学の子として育った。浅田彰がオウム真理教や超能力に傾倒する若い世代に対して、うんざりとした侮蔑の言葉を投げかけるが、その感覚はよくわかる。

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2003.12.29

日本語の数詞に潜む謎

 愚考だが、ときおり考えては解けない日本語の数詞に潜む謎について少し書いてみようという気になったので書く。誰かこれを見て、謎が解けたら教えてほしいものだ、とも率直に思う。
 日本語の起源は喧しく議論されているが、要領を得ない。大野晋など岩波などにおだてられて快進撃を続けている。白川静といい、こうした「と」な老人をなんとかしろよと思うが、ほっとけか。
 日本語は、比較言語学的には朝鮮語との対応がある程度システマティックに見られる。文法構造に至っては日本語と朝鮮語はほぼ同じだ。というあたりまではわかる。また、スワディッシュの法螺話を応用して、日本語と琉球語の分裂年代という議論もある。これは端的に間違いなのだが、日本史学と同様国語学は手がつけられない。ほっとけである。
 とりあえず、文法構造的には朝鮮語と同型で、それに音韻の構造からみてポリネシア系の単語が加わったのが日本語になるということは言える。ここでいつも思うのだが、ここから導かれる結論はたった一つしかない。日本語は人工言語だということだ。
 現代インドネシア語を少しでも知っている人ならわかってもらえると思うが、インドネシア語はマレー系の現地語の単語を英語の文法構造に押し込んでできた人工言語だ。分化したコミュニティを国家的に言語統一するとなると、支配者の知的な層の言語構造に民族アイデンティティを示す語を押し込むことになるのは必定だ。そんな簡単なこともわからないで日本語の起源とか議論している学者が多いのには呆れる。いずれにせよ、文法構造のほうは疑問の余地がないのだが、問題は単語の起源のほうだ。いったい日本語の単語はどこから来たのか?というのが仮の日本語起源の問題になる。
 スワディッシュの理論はふざけたしろものというか、閉鎖モデルでしかないので日本語には原理的に適用できないのだが、それでも、比較言語理論の基礎として基本語彙というのが設定されている。結論から言うと、私はこの基本語彙というのが間違いのもとだと思う。
 基本語彙にはいくつか特徴があるが、身体語と数詞というのがある。もともと比較言語学は西欧語の起源論から出来たもので、あいつらの言語の場合、特に数詞はわかりやすい。もともと算術に弱いのだ、あいつらはね。だが、日本人の祖先たちは、縄文時代から海洋交易が盛んなので、数詞は山羊を数えるといったものではなく、即マーケットニーズに結びつく。だから、本質的にポリネシアや沿岸地域のリンガフランカはマーケット性の人工言語という相貌になる。このあたりの説明はどうも話を端折りすぎて難しいかもしれないのだが。
 つまり、数詞について、言語起源論的に基本語彙に持って行くのは間違いだと私は言いたい。逆にこの日本語の数詞というのは、古代のどのようなマーケットを反映しているのか気になる。というのは、私の直感にすぎないのだが、日本語の数詞というは言語アバカスだと思うのである。言語アバカスというのは私の造語だ。算術用言語ということだ。もう少し直感をくだいてみせよう。ある程度話は雑駁になる。
 日本語の1つは、pitotuである。2つはputatuである。tuは個数につく添え語のようなものだ。語幹をpitoとするか、ひーふーみーよーというようにpiで切ってtoを構成語にするかはよくわからない。仮に1をpiとするとこの倍がpuである。同じ構造が3と6にある。3がmiであり6がmuだ。これだけなら偶然かもしれないが、4がyoで8がyaだ。こういう構造がある。

1系   pi  pu
3系   mi  mu
4系   yo  ya

 yoとyaは構造的には、yiとyuになればきちんと整合するが、この流音yは口蓋に近い母音と分化しにくいので、あとに両唇に近い母音で分化されたのかもしれない。

   yi+a→yia→yoa→yo
   yu+a→yua→ya

 この変化はこじつけ過ぎるかもしれない。
 5と10では、itutuとtoで一見すると構造が見られない。だが、itutuのtuは個数の添え語とするとituで、iの前のなにかがドロップしたとすると、構造は予感される。

5系   xi  to

 xはt音かもしれない。
 さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍数から残された7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。
 以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍数の計算原理がこの数詞に潜んでいることは間違いないということだ。
 だから、その倍数構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみたいのだ。
 この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それは、どういう算術なのだろうか。倍数を原理とした商用計算はどのように可能だろうか。
 もう一点の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに残っているかだ。これがわからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(参考)をときたま眺めるのだが、類似の数詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の数詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちになる。
 古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支)によって成り立っているので、倍数原理がこのバランスのために利用されていたと思われるのだが、わからない。
 身体語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそうだが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニティに富を蓄え国家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬまでにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。

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ブログ雑感、年末風

 社説関連で気になることはない。極東ブログを続けていて、もう少し踏み込んで考えようとしたテーマはいくつかある。また、ネタらしいものを書けないこともないような気もする…と鬱。なので今日は休載、ともしない。そういう自分のブログとの関係をぼんやりと思う。雑談を書く。
 「はてな」でtDiary系のブログを8月半ばに「極東ブログ」として書き始めた。最初は「はてな」についてただの人気のある無料サービスかくらいに考えていたが、参加するにつれ、「はてな」の持つコミュニティ的な影響力が怖くなった。また、当初よりMTへの移行は懸案でもあり、TypePadのココログに移行した。そのおりは、Googleの動向が気になった。傲慢な話だが、ある程度のクオリティのある文章を書いていけば、Googleは食いつくだろうという思いと、「極東ブログ」の場合、日々の記録というよりデータベース的な知の蓄積に貢献したい思いがあった。つまり、「極東ブログ」はGoogleから読んでもらえばいい、と。
 ところが、実際にココログに移行してみると、その当初は「はてな」の影響がかえって自分に強く出た。そういう文化的なコミュニティへの希求があるのだろう。もう一つは、センター試験以降の世代との自分の距離、いや、自分の存在誇示のような希求だ。さすがに、おじさんだって若い人の感性はわかるよ、みたいにロートル化はしていないが、どっかに教育熱のようなものがあって、知性というものはこうあるべきだよと若い人にタレたい思いはある。
 12月に入り、それもだいぶ抜けてきた、じゃない、板についてきた、か。Googleでのヒキはけっこうかたよりがある。また、端的に「はてな」は遠くなった。もちろん、リファラを時折みると「はてな」アンテナが多いなと思う。「はてな」はダイアリーサーバがd、アンテナのサーバがaというわかりやすい構成なので、aをdに変えてトレースしてみるが、大半はdが存在しないか、プライベートになっている。「はてな」自体が変容し、すでに情報受容中心の人が多いのだ。そんなあたりまえのことに今さら気が付くのだが、自分ではブログ的な世界に参加する人はある種、ネタのキャッチボールをしているのだと思っていた。
 もちろん、日本のブログでも可視化しつつある階層、グループ、いや、カーストやセクトに近いものができつつあるのだが、それはむしろ今後強くなるだろう。ちょうど、ココログが出来たとき、「はてな」に対応するようなココログ文化みたいなものが期待されたようにだ。ココログはニフティベースなので、かつてのフォーラムへの追悼のような思いも人によってはあるだろうと思う。私にもある。が、私はフォーラム時代のことは書かない。それは終わったことだ。
 「はてな」と自分の距離については、ある程度取れてきたように思う。なんとなくアンテナは使う。pingの対応というのもわかるが、総じてこんなものWWWCでもよさそうな気もするが、なんとなく使っている。それだけ優れているのだろう。「ボイン事件」以降、「はてな」の意識的なコミュニティも変容しているようだが、くどいが自分は遠い。もちろん、「はてな」をサービスとして利用しつつそのコミュニティと距離を取ることは原理的には可能だし、むしろマジョリティは無意識にそうかもしれない。その他、スラッシュドットなどのカーストにはあまり関心がない。偉そうな言い方なのだが、技術系のブログを読んでいると、仕様書なのか感想なのか、あるいは技術力が甘い馬鹿なのか、おまえら結論を出す前に考えろよ的に不愉快になることが多い。
 「はてな」のシステムはメルマのほうでも採用になった。tDiary系のブログシステムはMTやWikiより日本的なものなのだろう、と言ってみて、そう当たりの感じもしない。tDiaryのメリットとデメリットはすでに原理的には飽和しているようにも思える。
 2004年はネット系はもう少しブログが浮上するのだろうが、LivedoorあたりはMTにブレ過ぎているし楽天などの日記系は、率直に言って、参加者の層、カーストに新味がない。つまらないことを書き付けているようだが、新味のなさ、つまらなさという点ではすでに自分のなかで2ちゃんねるは昔話に見える。
 だが、今年のキーワードが依然「2ちゃんねる」であったり、ブログブームや受容専門のマスの増加は、別の質的な変化をもたらすだろう。まさに、量的な変化が起こり、それが消費経済側に文化的な影響力としてフィードバックされてくるだろうと思う。極東ブログでの僅かなエフェクトでも意外に「上湯麺」のリファラからうかがえた。上湯麺について補足がてらに言うなら、すでにコンビニから消えた。文春系のオヤジ雑誌に復活をかけた宣伝攻勢が見られるが、たぶんダメだろう。上湯麺のシカケがどこの広告屋なのか忘れたが、このハズシはある意味象徴的なものになるだろう。どのようなインスタントラーメンでもできるという技術的な奢りと、マーケティングにはソリューションがあるはずだという奢りがくじけた。本質的な蹉跌なのだが、シカケ側の人間は理解していないのだろう。阿呆よのうと思うが利口ならさっさとそのフレームワークに疑問を持つはずだ。マスの欲望に身を投じるという主体的な気概、カリスマ性が必要になるのだ。消費動向はエリートと羊の群れを志向していない。
 逆に、早晩、「はてな」的な感性が消費社会に影響を起こすだろうと思う。れいのタランティーノの冗談映画にしても、それを蓮実ばりの映画批評的に見るなら無だし、より大衆的な映画評としてもなにを言っていいかわからないしろものだったが、「はてな」のヒキはよかった。すでにそうしたマーケィングのネタ自体、「はてな」の売りになってきている(「はてな」は情報を売っている)。だが、すでに主客は逆で、その情報をマーケティングに活かすという構図はできなくなる、と思う。
 話が散漫になった。もう少しこの問題をまとめたほうがいいなとも思う。売文なら、ここでお蔵に入れるところだが、ブログではこのまま出す。自分の感性だが、それはそれでいいと感じている。文章の完成度は問題ではない。情報提供だからというわけでもない。
 極東ブログでは、ある程度そのマスと距離を置きたいと思う。最近の象徴的な傾向だが、例えばイラク派兵問題では、各種ブログによってはかなり熱をいれているものの、その左右の熱自体がすでに、ブログのコアのカーストからずっこけていると感じられる。私は、そのカーストに所属する意義を感じない。イラク派兵などどうでもいい問題という感性のマスに向けて、なるほどどうでもいいなと論理で若干共振するかもしれないというだけだ。私には世相に同化する感性はないが、自分のある種の感性をうたがったことはない。恐らく、誰かに伝わることにまだ意義を覚えているし、それは売文でもないのだから、細い線でいいだろう。

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2003.12.28

イラン地震、痛ましい

 イラン南東部ケルマン州で発生した地震が痛ましい。科学的な推定以外(参照)、正確な情報はまだほとんど入らないせいか、1997年東部ホラサン州の地震のときのように死者の推定数が一人歩きしている。このおりは、最高で死者4000人と出た。実際は1568人。少ないに越したことはない。今回もそうであって欲しい。
 地震の場合、初動の48時間が決め手になる。極東ブログ「どこに日本の州兵はいるのか!」(2003.11.17)で触れた日本とは違い、イランには国民を見殺しにした元村山首相のようなトップはいない。震災地の建造物は脆弱なので被害を多くしたというのも真実だが、近代建築ではない分、救助しやすいのではないかと期待したい。恐らく現状の問題はロジスティックスだろう。
 国内ニュースが一概にまずいわけでもないが、こうした国際ニュースについて私はVOAを参照することにしている。阪神大震災のときはVOAは香港から神戸に記者を派遣したせいか、報道が的確だった。むしろ日本国内ニュースの規制が感じられた。今回の地震について、ざっとVOAの記事を読んでみたが驚くような事実はない。ロシアの救援や救援犬の情報がやや多い。大国を志向するロシアの活動は注目していいだろう。VOAによれば、今回の地震規模は6.7。関連情報として、最近のイランの目立った地震は2002年のイラン北部の地震は規模6.3だが死者は220人。被害が大きなものとしては、1990年イラン北西部で発生した地震がマグニチュード7.7、死者は35000人とのこと。なお、VOAはイラン「東北部」とあったが間違いだ。
 イランも日本同様地震国なので、伝統的にある程度地震に慣れているのかと思いがちだが、そうでもない。こんな家だとつぶれるなと不安を感じている人が多い。1998年、占いからテヘランに大地震が起きるという噂が広がり、大騒動になったことがある。わかっていて対応ができないのは、近代化の遅れであり、その背景はあえて書くまでもないだろう。
 今朝の新聞社説では、朝日と産経がイランの地震について触れていたが、不快なしろものだった。朝日新聞社説「イラン地震――国際的な救援の先頭に」は標題からすれば、日本が援助せよということだろうが、州兵たるべき自衛隊には言及がなかった。朝日はなにを援助と考えているのだろう。そして、結語が呆れた。


 イランの地震はひとごとではない。大地震の際の死者を一人でも減らすためには、建物の耐震構造を高める努力を続けていくことが必要だ。

 産経の社説「イラン大地震 引きつづき迅速な救援を」の結語も同じだ。

 我が国も東海、東南海、南海地震に備え、揺れにもろい老朽化した木造家屋の耐震性を強化することが急務である。耐震強化で、死者は半減できると、専門家は指摘している。

 私はこういう社説を書く無神経な人が理解できないし、したくもない。なお、休暇中の小泉だが、国際緊急援助隊派遣法に基づき自衛隊派遣を検討するよう、外務省・防衛庁に指示したという(参照)。遅いよ。政府専用機を飛ばせ。

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2003.12.27

「学力重視」の退屈さなど

 年末である。今日から日本の都市部に出稼ぎに来ていた日本人が本来の日本に帰るのである。もちろん、多少の悪意ある皮肉だ。私は東京で生まれ育ち、どこにも帰る日本はないはずだが、それでも父母の故郷長野県に帰りたいような奇妙な錯覚を僅かに持つ。
 今朝の新聞各紙社説はそれほど面白くはない。毎日は「藤井総裁の反乱 道路ではなく権力のために」で、藤井総裁の動向をネタに多少ヒネリを効かせたエッセイを書いて見せたつもりなのだろうが、話が腰折れしていた。読みながら、これはたぶん社説に書く話ではなく、ブログのネタなのだろうと思った。毎日新聞の社説のブレはある種、脱新聞の兆候を示しているのだろう。
 社説ネタとしては、朝日の足利銀行、読売の石原銀行(皮肉である)など、極東ブログで触れたほうがいいのかもしれないとも思うが、さして新規視点はない。先日の為替問題でもそうだが、私自身、新しい世界の経済動向を勉強しなおしたほうがよさそうだなと思う。これには二つの含みがある。一つはそのまま単純に「勉強しよう」ということ。もう一つはリフレ論の背後に共通一次試験世代の影がちらつくことの意味を正確に理解できるようになろう、ということ。端的に言って、ある種の知的なサブカルの風景のなかで山形浩生がこんなに巨人だったのかと最近ようやくわかって呆れた。もちろん、彼がかつての浅田彰などのようにアイドル的な中心というわけでもない。この問題は語ると長くなりそうだが、団塊世代の知が瓦解していく前に、その下の空白の世代の一人として少し知識を補強をしておこうと思うのだ。
 社説ネタで多少気になったのは、「学習指導要領の一部を改訂」の問題だ。読売、日経、産経が扱っていた。どれも話はつまらない。読売に至っては、お笑いである。


 今、脳科学の立場から、小学校では基礎、基本を中心にする授業が望ましいとの指摘がされている。文化審議会国語分科会が、小学校の国語の授業時間を大幅に増やすことを提言もしている。

 おまえ、馬鹿だろ、といきなり言いたくなるようなこと書くなよと思う。産経もお笑いを外さない。

 日本人は本来、学問が好きな国民である。江戸時代には藩校や寺子屋が普及し、武士から庶民まで読み書き算盤(そろばん)を習った。明治五(一八七二)年に学制が公布され、義務教育(当時は小学校)が急速に普及したのは、江戸時代からの寺子屋教育が基礎になったからだといわれる。これが日本の近代化の原動力にもなった。

 なんだかなである。学問というものの意味がわかってないよ。それを言うなら近江聖人の話でもしろよと思う。産経のようなポチ保守が日本の文化を理解していないだ。
 こんな馬鹿な爺ぃが教育をテーマにしている醜態な日本の現在なのだ。と、言うものの、そういう自分はどうかと顧みて、この話題にあまり首を突っ込むのも下品だなと恥じる。
 テーマの扱いとしては、日経は多少ましだ。

その一方で、教科ごとに教える内容の上限を定めた「歯止め規定」については、中央教育審議会から見直しの提言を受けながら、従来のままとされた。教科書ではすでに制限を超えた教科内容がコラムなどの形で採用されており、指導要領の「基準性」の解釈を巡る行政と学校現場のギャップは放置された格好だ。

 ふーんという感じがする。教育の行政などどうでもいいじゃないかと言いたくなる。米国に文部省はない。要らないからだ。なにも米国にならえというわけじゃないが、文部省は自由主義国家に不要だ。あ、現在は文部科学省か。科学かぁ。
 科学はつねに最先端が面白い。ダークエナジーなど小学生高学年に話してやれるだけの器量のある啓蒙家はいるのだろうか。知は一面楽しむためにある。人生は知がなければ退屈なものだ。センター試験以降の世代にとって知とは己の値札になっているようにも見える。蓮実重彦が言うような、知の放蕩という感覚は知の基本になるのだろう、と思う。

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2003.12.26

The Big Read、BBCの読書人気投票

 今朝の新聞各紙社説を見てちと唖然とした狂牛病の騒ぎ一色である。で、しかもつまらないときている。昨日のブログを書きながら気になったのは、日本の狂牛病研究はかなり進んでいるのではないかということだが、社説ではないが産経の記事「8頭目BSE「希有な例」の可能性 自然発症型か遺伝性」(参照)が参考になった。
 社説ネタで今日の話題はない。ブログのネタがないわけでもないが、分野によっては気が重い。RFIDについても阿呆な意見が散見されるようになったので技術的な面から、てめーら馬鹿だよと書いてみたい気もするが、この手の話はリキ入れないと自分のほうが阿呆だし、リキ入れると難しいには難しい。薬学系のネタもある。セレブレックスはどうも関節炎の緩和だけではなく治療効果があるらしいなど不用意に書いてもいかんし(苦しまれているかたが多いのだから解禁しろよ厚労省)。読売新聞系の「抗うつ剤で副作用か、3女性がやけどの症状」(参照)にもあきれた。そう来たか。「スティーブンス・ジョンソン症候群」がやけどの症状かぁ。絶句。ただ、この話題も今日は書かない。
 で、書評だ。といって、具体的な本の話でもない。タイトルどおりThe Big Readだ。なんて訳そうか迷ったが、単語は簡単なのでそのままにした。それにしても、こういう言い方は英国っぽいなと思うし、由来がありそうなのだがわからない(誰か教えてくれというと教えてくれるかな)。話は、BBCの企画The Big Readだ(参照)。年内廃刊の噂に持ちこたえた「ダカーポ」のような野暮な特集でもあるのだが、往々にして欧米というのは現代日本人から見ると野暮なものだ。大衆文化は日本が上位であり、そこに我々は無意識に浸っている。
 リストはすでに出ているので、それを掲載しようというのが今日の極東ブログのネタである。どっかで似たようなことやったよね。
 以下、21位までだ。なんで20位じゃないかについては、英国のエレベーターシステムを考えるとよい(冗談)。それぞれ標題を訳してもいいのだが、記憶を辿って記すと国内での訳本の名称と合わないといった批判がでそうなので、ふける。どっかで、「はてな」とかの読書マニアのかたに日本対応のきちっとしたリストをお願いしたい、っつかそのリストは日本人の読書家に役立つだろう。あるいは、すでにこのネタをきれいに解説したブログはあるのか。
 私は適当なコメントを気まぐれに付けることにする。

  1. The Lord of the Rings, JRR Tolkien
  2. Pride and Prejudice, Jane Austen
  3. His Dark Materials, Philip Pullman
  4. The Hitchhiker's Guide to the Galaxy, Douglas Adams
  5. Harry Potter and the Goblet of Fire, JK Rowling
  6. To Kill a Mockingbird, Harper Lee
  7. Winnie the Pooh, AA Milne
  8. Nineteen Eighty-Four, George Orwell
  9. The Lion, the Witch and the Wardrobe, CS Lewis
  10. Jane Eyre, Charlotte Bronte
  11. Catch-22, Joseph Heller
  12. Wuthering Heights, Emily Bronte
  13. Birdsong, Sebastian Faulks
  14. Rebecca, Daphne du Maurier
  15. The Catcher in the Rye, JD Salinger
  16. The Wind in the Willows, Kenneth Grahame
  17. Great Expectations, Charles Dickens
  18. Little Women, Louisa May Alcott
  19. Captain Corelli's Mandolin, Louis de Bernieres
  20. War and Peace, Leo Tolstoy
  21. Gone with the Wind, Margaret Mitchell

 1位の「指輪物語」はしかたがない。それにしてもこのブームかよと思う。私のいた大学にはこのファンが多くて閉口した。昔ディズニーで変なアニメになったっけな。最近は岩波のお子様向け「ホビットの冒険」はどうなっているのだろう(こちらは25位に入っている)。ちなみに、トールキンは日本民俗学に造詣が深く「ホビット」という名称の由来は「コビト」からできている(大嘘)。
 2位のオースチンのは、ま、そうだ。1位もそうだが、文学っつうより映像だろアホとか言いくさりたくなる。テスがリストが21位までにないのだからね(26位)。でも、テスもナスターシャ・キンスキーで映画だな。とほほ。
 3位の暗黒物質だが、これは日本人にはちと意外? 「黄金の羅針盤」のシリーズ名だ。BBCラジオで人気だった。映画化されるという。新潮から訳本が文庫になっている。日本でもブームになるのか。
 4位ダグラス・アダムスはGoogleにも影響を与えている。旧極東ブログ「Googleに問え。なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか?」(11.13)。
 5位、パス。
 6位、「アラバマ物語」、これについては私は無知。なんでこんな古いものが…。
 7位、プーである。おカマのロビンである。っていきなりディープな話をしてどうする。私はこれが好きなのであえてこれ以上語らない。イッシュー、いけねぇ、くしゃみをしてしまった。
 8位、「1984」!!、これを私に語らせても止まらない。ので、省略。とはいえ、みんな誤読しているぞ、この本はラブ・ストリーなのである!
 9位、「ライオンと魔女」。私は「ナルニア国ものがたり」を確か全部読んだ。忘れた。別人だが、C.D.ルイスもよく読んだ。忘れた。
 10位、「Jane Eyre」、新訳はあるのだろうか。
 11位、「Catch-22」については、大学でうんざり、しかも英語で読まされた。しかたがない。時代なのだ。アイビー出の講師たちはなんらかでベトナム戦争を背負っていたのだ。これがThe Big Readに入っているのは昨今の世相もあるのだろう。
 12位、「嵐が丘」、面白い小説です。宝塚版はないのか。
 13位、「よみがえる鳥の歌」 恥ずかしながら未読。扶桑社って文庫あったっけ。
 14位、レベッカ。「コレリ大尉のマンドリン」と同じ路線か。ちなみに、聖書では「リベカ」だ。
 15位、おなじみのThe Catcher in the Ryeだ。私はこいつを米国版と英国版で読んだ(読まされた)。英米で編集が違っていた。現在はどうなんだろう。
 16位、ボート好きのミズネズミさんがかつての親友モグラくんと東京の地下で大格闘する物語である。もちろん、そうではない。日本では読まれているのだろうか。
 17位、これも映画の影響でしょうね。ふと、「風と共に去りぬ」で心配の夜にディケンズを朗読するというシーンを思い出すが、ディケンズというのは朗読向けのエンタテイメントという意味で現代のメディア志向なのだろう。日本で言ったら、橋田壽賀子か(外しすぎ?)。
 18位、「小さな女性」、そうマニア向け、違う! 「若草物語」である。クリスマス向けだな。
 19位、「コレリ大尉のマンドリン」、日本で言ったら「君の名は」でせふか。なんでこんなの入るのでしょうかね。
 20位、「戦争と平和」です。自慢ですが、私はこれを全部読みました。若気の至りつうか、若いってすごいことです。いまでも、冷えたゆでじゃが芋を食うたびにピエールを思い出します。
 21位、「風と共に去りぬ」。ちなみに、この標題は誤訳。淀川さんが原因らしい。Gone with the Windのwithは「共に」ではないので、センター試験前の諸君勉強せーよ。って、ふと思ったのだが、昔は18、19歳でこの原書を読む学生がごろごろいたものだが。

 ああ、なんか、読書って、こっぱずかしかしいですね。リストを舐めながら、森瑤子のことを思ってちと胸が痛くなる。彼女が生きていたらなんと言うだろう。生きていたら、すてきな婆さんになっていただろう。泣ける。それと、100位までのリストをざっと見ると、古典という意味でイギリスの作家は、大衆向けのディケンズを除けば、ハーディなんだなと思う。予備校時代なぜかハーディの研究家の授業を好んで取っていた。ハーディの文章は難解だが美しかった。先生の名前は講師としてのペンネームではなかったか。「君たち歳をとったらハーディを読みなさい」と言っていた。変な予備校だった。ヘンリー・ジェームスの研究家もいた。そういえば、The Big Readとか言っても、ヘンリー・ジェームスがないのは、英国だからなのか。のわりには、スタインベックなんかも入っているから、こうした大衆的なリストにすると本格的な読書家は消えてしまうのだろう。ちなみに、ジョイスは78位にユリシーズだけ。抹殺されるよりまし。モームは自分で予言したとおり消えた。ヴァージニア・ウルフは昨今入りそうなものだが無かった。ロレンスは一作だけ残る。
 この手のリストを見ていると、自分の脳も回想モードに入ってしまう。私は20歳ころ英文学に関心があったが、英文学なんか勉強する気は毛頭なかった。トリニティ出のクイーンズ・イングリッシュなM先生が「君は英文学に進むのではないのか」と真剣に問いかけたとき、20歳の私ははぐらかした。先生は忘れているだろう。私もそれが後悔になっているわけではない。ただ、これも少し胸に残る痛みである。

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2003.12.25

米国狂牛病の騒ぎの裏

 メリー・クリスマス。でも、クリスマスの話題は書かない。読者よ、私にキリスト教の蘊蓄話を許してはいけない。新聞社説は今日も各紙つまらない。奥菜恵の旦那の事業もブログかよ、しかも「はてな」てなネット系の話題も避けよう。元教師俵万智(40)が私生児を産んだ話題は、ちょっと気を引かれるが、それこそ儀礼的無関心でいるべきだろう。子供に祝福あれ。
 かくしてしょーもない雑談レベルの話を垂れ流す。本来なら、米国で狂牛病がようやく発生した話題をきちんと極東ブログ流に切ってみたいのだが、どうも米国の情報の流れが変だ。ロイターヘルスからは専門向けの詳細な情報も未だに出ない。グーグルニュースはこうした事件では面白い効果を出すものだとも思ったが、一般ニュースでは今一つ実態が掴めない。私には田中宇のような空想を操る能力がないのでどうにも話がつながらない。ま、いいか。
 それにしても、今回の米国狂牛病の事態を眺めながら、この夏カナダの狂牛病騒ぎとそれに続く日本での騒ぎの、あのうさん臭さはこれだったのかと思う。いいタイミングだとはいえ、なぜこのタイミングだったのだろうか。意外にさらっと日本人は忘れているのかもしれないが、この夏日本で出た狂牛病のケースは、ある意味、スクリーニングのアヤでもあった。生後23か月という早い時期の検査によるという検査のタメという側面もあったわけだ。もっとも科学的にはこの日本の態度は正しいは思うのだが。で、この結果をすぐに日本は米国に突きつけている。おい、それって非関税障壁の脅しじゃないかというストリーで書いたのが旧極東ブログ「狂牛病再発の裏を少し考える」(参照)だ。このストーリーはそれほどはずしているとも思わないのだが、今にしてみると、予想される米国からの牛肉輸入禁止のための予備ステップでもあったのだろう。日本って礼儀の国だよなと思う。日米の関係者の裏では、日本側から「おい、アメリカさん、もうゲロしろよ、いるんだろ、スカ脳牛」ということもあったのではないか。この先の裏も想像が付くがぶっそうで書けない(カナダ関連)。
 今回の事態で日本のニュースでは外食産業に打撃とか言っているが、情報操作臭い。このリーディングタイムを見ると、すでに日本国側の対応のメドはたっているはずだ。おそらく庶民レベルではオージービーフでなんとかなり、外食産業に圧力をかけるのだろうが、それって、産業のある種の淘汰を目的とした行政なのではないだろうか。だんだん読みがうさん臭くなるが、国内農家保護もあるだろう。
 どうも田中宇ばりにうさん臭い話がしたくなる。日本はこれまで狂牛病を出している国からの輸入拒否はやってこ大きな問題にならなかった。端的に言えば、今回の米国の事態に比べれば規模が違いすぎる、ということで、問題は規模だとしていいのだが、今回の米国の感染牛が乳牛であることで、どうもひっかかることがある。成長ホルモンの問題(BST,rBST,rGBH)だ。
 この問題をどこまで詳細に書いていいかわからないが、読みやすい情報はレイチェル・ウイークリー「乳ガン、牛成長ホルモン、そして牛乳」(参照)にある。なお、レイチェル・ウイークリーはポリ塩化ビニールの話などを見ても「と」臭がきついので注意して読むこと。ついでに情報は古いが「BSTの安全性に関する報告を発表(FAO/WHO)」(参照)も目を通しておくといい。なお、rBGHはrBSTと同じ。BSTの一種だ。
 EUはこの米国のrBGHの対応に怒り、rBGHを使った牛の乳製品や食肉の輸入を禁止している。今回の米国狂牛病の騒ぎはEUにとっては恰好の材料だし、日本もしゃーしゃーとEU側のようなそぶりを見せていくことだろう。なお、日本では天然ホルモンの使用は認可されているし、すでにrBGH適用の米国品も国内に出回っている。
 こうした筋で見ていくと、安全問題より、対米摩擦や国内農家の保護の問題であるように思われる。外交というのは汚い手を出しまくるのが正攻法だが、この問題はもうちょっと高い視点(食の危険とか騒ぐのではなくという意味)で日本国民の食の流通と質の選択という視点で見るべきではないだろうか。なお、余談程度の話だが、「BSE問題は外交問題でも経済問題でもない。純粋に食品安全の問題だ。」という毎日新聞社説はただの阿呆なのか裏があるのか。

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2003.12.24

たばこという社会福祉(もちろん皮肉)

 各紙社説からはとくに取り上げるべき話題はない。ふと思ったのだが社説というのはなにかを取り上げないための饒舌なのかもしれない。社説ネタではないが気になっていた、たばこ税のことで雑文を書いてみたい。
 ニュースにならなかったわけではないのだが、どうもマスメディアの問題の扱いが軽いように思えるのはJTがCMに影響力を持ちすぎているからなのだろうか。喫煙反対の市民運動も多いはずなのだが、たばこの税の問題には沈黙しているように思える。私の感性がずれているのかもしれない。、
 話は15日のことだ。国と地方の税財政改革、通称三位一体改革で、首相諮問機関である政府税制調査会は「2004年度の税制改正に関する答申」をまとめ、この15日に小泉首相に提出した。答申では、個人住民税が応益性や自主性の要請に最も合致しているとしたものの、委譲は2006年度とし、その間の暫定措置としては、次年度のたばこ税の移譲が現実的だとした。そんなところだろう。ところが、翌日16日に、政府税制調査会の答申したたばこ税は、所得譲与税に切り替えられた。なんだそれ。これが民主政治なのか。自民党税調なんてものは、国の機関じゃない。自民党の党組織上の、政務調査会の一つの調査会に過ぎないはずだ。
 その晩にミステリーがあったわけではない。読売系の「『たばこ税』一夜で葬られ『所得譲与税』」(参照)では次の軽くまとめている。


関係者によると、政府税調が小泉首相に「たばこ税」を答申した15日夕、すでに自民党税調はたばこ税の不採用を決め、16日昼に幹部が「不採用談話」を発表する段取りまで整えていた。政府税調がこれを知ったのは答申直後で、答申はすでに小泉首相の手に渡っていた。

 本当か? もちろん、このストーリーに嘘があると言いたいわけではない。この文章からでは、ちょっとスケジュールミスっていうトーンになっているのだが、それは本当かと疑いたいのだ。なにしろこの読売系の話には山中貞則の「や」も出てこない。現代版枢密院自民党税調とナベツネの結託は恐ろしいものがある。産経は、「理念より参院選意識 首相の指導力不足指摘も」(参照)もう少し掘り下げている。

 この日の党税調で所得税への移譲を提案したのは片山虎之助前総務相だったが、税源移譲問題は最後まで迷走した。
 「かつてたばこ税導入を苦労してまとめ上げたのは山中(貞則・自民党税制調査会最高顧問)さんだぞ。そのたばこ税を『つなぎ財源として地方に譲ります』と誰が山中さんに言うのか」
 十二月初旬、財務省幹部とひそかに会談した麻生太郎総務相は、自民党税調の“ドン”と呼ばれ、財務省にも強い影響力を持った山中氏の名前を出して、基幹税の地方への移譲を迫った。

 誰が猫の首に鈴を付けるのか、大の大人が爆チュー問題やってんじゃないよと笑いたいところだが、その醜態に泣けてくる。なんなんだよ、山中貞則って爺ぃは。
 山中の思惑もわからないではない、おそらく内心、「馬鹿ども」と思ったことだろう。たばこ税がねらい打ちされたのは、税収の偏在が少ないうえ納税者全体への影響が少なく、しかも手続きが楽だからだ。要するに弱い者いじめである。酒税だとめんどくさいし、納税者に負担が大きい。産経の記事にあるように、もともと地方からの反発も強い。そしてなにより、「馬鹿ども」の思惑は、税を小手先でいじる政府税制調査会の態度だったことだろう。そう思うと、山中貞則は国の税の根幹と地方を守っている守護神ようなものか。
 今回のスラップスティックはいただけないが、たばこ税だけの問題に絞れば、私は原則は山中が正しいように思う。だが、たばこ税自体は上げてもいいのではないかとも思っていた(過去形)。理由は簡単でニューヨーク右にならえである。ニューヨークのたばこは高い。1箱7.5ドルだよ。800円くらいだ。20年くらい前、発展途上国に行くときは、ボールペン、100円ライターなどにならんでたばこをお土産にするといいと言われたものだが、今やカートン必須はニューヨークである。そして、今やたばこ増税は健康面でも良い効果を出している。ファイザーの調査では、7月1日のタバコの増税をきっかけにした禁煙は効果が高いとしている(参照)。調査項目を見るとこうだ。

禁煙を始めた理由として、「健康のため」が50.0%と、「小遣い節約のため」(33.6%)という増税による金銭的負担を上回りました。タバコの増税による金銭的負担がきっかけでも禁煙挑戦者の健康に対する意識の高さが伺えます。また禁煙して良かったことは、「小遣いが節約できたこと」(28.8%)が最も多く、「体調が良くなった」(21.4%)、「家族に喜ばれた」(17.7%)、「食事がおいしくなった」(14.9%)と続きました。

 これも泣けてくる。小遣い節約か。マイルドセブン一箱270円。一日一箱吸うか。二日に一箱くらいか。月額で4000円くらい。たしかに、小遣い節約という線だ。それにしても、この小遣い額で「家族に喜ばれた」のだから、きっと純正オヤジからSPA世代の若オヤジども、みんな便器に座って小便をしていることだろう。という話を書いていると、むかつくので路上でほかほかと湯気たてて立ち小便でもしたくなるな、というのは冗談、としておこう。
 以前は、宮内庁では皇居を清掃する勤労奉仕団(あれはなんの宗教だろう)への恩賜たばこ支給していた。止めて久しいから、ヤフオクで高値が付くが、出品できない。今では菊の紋章を焼き付けたお菓子になったらしい。時代だ。それでも、感謝の意はたばこだったのである。たばこというのは、日本の社会制度的にみれば、一種の福祉なのだろう。これ以上、増税して庶民を苦しめるものではないなとも考えをあたらためる。が、かく言う私は、街中の喫煙者をどなりちらすオヤジでもあるのだが。

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2003.12.23

毎日新聞曰わく、溝口財務官は狂気の沙汰

 日々之社説というわけで社説を読むだけのマシンと化した極東ブログが、ふっと我に返る瞬間は少ないのだが、今朝の毎日新聞社説「溝口財務官の介入 究極の円高政策だった?」は久々のクリーンヒットで目が覚めた。素直に言うのだが、私がいかに経済に無知であるかということの告白にもなる。ちなみに基礎知識はこちら
 問題は、覆面介入こと溝口善兵衛財務官が円高阻止のため自国通貨売りを続けてきた問題だ。毎日新聞社説の言葉を借りるとまさに「狂気の沙汰」だ。先日もふっと1兆円である(参照)。しかし、そんなことに驚いていたわけではない。やられたなと思ったのは、結語だ。


 米国の「双子の赤字」に不安が高まっている状況下では、ドル買い・円売り介入を続けても、ドル安傾向に変化はない。いくらでも介入するとの決意は、ドル売りに安心感を与える。介入が膨らめば外為特会のドル資産も増える。その資産は円高では目減りする。
 何のことはない、溝口財務官の選択は究極の円高政策、海外資産目減り政策だったのではないか。

 なかなか秀逸なブラックジョークだなと微笑んだものの、顔が引きつってしまった。それってジョークじゃないのかもしれないという思いが脳裡をよぎったからだ。そんなことアリなのだろうか。なんちゅう国策なんだろう。と思うものの、それもアリかもと悪魔のささやきがこだまする。
 昔の人の言葉で来年のことを言えば鬼が笑うというのがあるが、次年度の市場介入調達枠は60兆拡大(参照)。そこまでするのか。健康のためなら死んでもいい健康マニアみたいだなとも思うが、率直に言って、国家と経済のなにか根幹が私はわからなくなってきている。

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道路公団民営化法案の明暗

 今朝のこの話題はどうしても避けるわけにはいかないだろう。道路関係四公団の民営化について政府与党協議会が決定した法案化の枠組みについてだ。昨日ニュースをザップしたときの私の印象から書いておきたい。率直なところ、「これはそれほど悪くはないんじゃないか」、という印象だった。そして、次に思ったことは、「仕上げは自民党を潰すことだ」、と。自民党さえ潰せばこの枠組みでもなんとかなると希望を持った。
 ニュース映像では笑みをこらえられないやくざのような古賀誠が出てきた。猪瀬直樹も出てきて、優良可不可で言えば可か良かというところだと運命を知らぬ豚のように言っていた。この猪瀬をどう評価したらいいのだろうか、とも考えあぐねた。そのあたりにも今回の問題の複雑さがある。猪瀬は政治家になってしまい、石原伸晃と組むことにした。少しでも実を取るというのなら、あの状況下ではそれしかないと判断したのだろう。だが、それで猪瀬を肯定できるかどうか、私にはわからない。正直なところ、今回の問題には膨大にテクニカルな議論が必要になりその迷路のそここにゲリラのように多数の猪瀬アバターが潜むだろう。戦いというのもは不思議なもので、いつか己を敵と同型にしてしまう。猪瀬は官僚との戦いでその身を官僚と同型にしたように見える。もちろん、国家とはそのような官僚がなくては機能しない。
 だが、と逡巡するのを避け、端的に言う。前回の衆院選で口数は少なかったものの猪瀬は自民党側に回っていたのを忘れてはいけない。彼は結果的にこの衆院選で自民に誘導した。この衆院選はいつか歴史を振り返れば日本歴史の汚点になるだろう。
 このブログではおちゃらけでイラク派兵なんかどうでもいいと言ったものの、できれば、自民政権を打ち倒して、派兵問題に筋を通すべきだった。日本のジャーナリズムは事実上無視しているが、韓国の派兵はこの間、四千人近くなる。その端的な意味を自民党政権は国民に伝えてない。
 話がずれてしまったようだが、国民の政治とは大枠をきちんと簡素に提示しなくてはいけないものだ。なのに、そこを結果的に猪瀬は避けたのだ。そうとしか思えない。大著に縷説したと彼は言うかもしれない。そしてその結論は不可避だったと正当化するかもしれない。だが、そうではないのだ、今回の法案化は自民党を前提にしているのだ。だからこそ、日本国民はこの政権を廃棄できるという希望を持つべきだ。そのとき、その光景からきちんと官僚を動かすビジョンを提示すべきだった。その意味で今回の法案化は愉快なジョークでもある。
 気になる新聞各紙社説をザップしていこう。朝日がまいどの口調であるが、こうした問題には小気味よかった。


この政府案は、民営化のあり方を審議してきた民営化推進委員会の主張とは、おおきな隔たりがある。
 その最たるものは、通行料金を借金返済に回すか、新規建設に役立てるか、の相違だった。推進委員会の多数意見はあっさり退けられてしまった。

 多数意見云々の下りはさして意味はない。今回の法制化の問題は、朝日が言うように「借金返済」に筋が通らない点だ。いくらテクニカルに、そして微細な点で論理的であろうと、歴史の大きな変動を知るものなら、小賢しい知恵は歴史に耐えないという前提を知るべきだ。私たちの世代は後の世代の日本国民に向けて、強いメッセージを投げることができなかった。この点で朝日の見解は正しい。多少余談めくが、朝日の口調は激しているかのようだが社説のスペースは西村真悟問題に割いている。日経を除いて、他紙も同じだ。つまり、実は、新聞社説は今回の問題を重視していないのだという点を覚えておきたい。
 産経の次の社説は本音が出ていて面白い。

 建設予定額を削減したといっても、新会社には建設費が割り当てられている。新会社に拒否権があるといっても、国土交通省の意向に逆らうことができるか。また、A社が拒否したらB社に頼むという方式をとっている。

 つまり、制度的な抜け穴があり、日本の政治風土では運用上無意味になると予想している。それは庶民の実感に近い。この点、読売は表向きの制度の建前を述べているだけで社説のレベルが低すぎる。
 社説中一番バランスが取れていて私の考えに近いのは、意外にも毎日新聞社説「道路公団民営化 不合格だが0点でもない」だった。きれいに書かれているので、長めだが引用しよう。

 小泉純一郎首相の、推進委の意見書を「基本的に尊重」という意味が明らかになった。民営化、地域分割、機構と新会社の上下分離という枠組みは実現する。しかし、族議員の要望を入れていくつもの抜け道を用意するという意味だった。構造改革の柱の一つとして、合格点はとても与えられない。推進委の一部委員が辞意を表明したことも理解できる。
 しかし、道路公団の分割民営化などありえないという出発点から考えれば、不十分ながらも民営化の枠組みまではたどりついた。9342キロの整備計画には国と地方の負担による新直轄方式が組み込まれ、変質した。新会社の道路建設費も6.5兆円削減された。0点でもない。不合格だが0点でもない、今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない。

 これなら猪瀬もにんまりするだろうと皮肉を投げてみたいが、ようはこういうことだと思う。繰り返す、「今後の運用を厳しく監視する必要があるというのが小泉改革の本質と理解するしかない」は正しい。これに自民党政権転覆を付け足せば申し分ない。
 日経の社説は、この問題を前面で扱っていて、内容的にも良い意味で日経らしさが出ていた。道路族への歯止め案についての日経のコメントは産経の論調に近いがより的確になっている。

 そうした実情を知りながら、コスト削減策こそが改革の主題だとして「歯止め」の効果を力説するのは、企業経営と市場経済についてよほど無知なのか、あるいは意図的に国民をだます狙いとしか考えられない。もともと、このような人為的な歯止めの方策は、政治的な決定である。それが45年もの間、保証になるという主張自体に無理がある。

 確かにそうなのだ。意図的に国民を騙す狙いがある…それは今回のブログの頭で触れたように猪瀬の、国民から乖離したスタンスそのものである。だが、そこから日経はこう結論づける。

 改革の実現には国民の信頼が何より重要だ。首相は国民に対し率直に道路公団改革の失敗を認めたうえで、改めて出直す政治的決意を示してほしい。それが首相の責任である。

 一見正しいように見えるがこの結語は錯乱である。国民は衆院選の結果を見ても、道路族に利する行動を取った。仮想の国民を政治議論で立てはいけない。また、問題は首相の責任でもない。日本には大統領はいない。首相は調停役でしかなく、今回の小泉のありかたはずる賢くはあるが、首相つまり、prime ministerの語源となるラテン語の語感「召使い」らしさを出しているだけだ。
 さて、話も散漫になったのでこのブログもオチとしたいところだが、今回の法案化で私の脳裡に浮かんだ、ある地方の新しい道路がある。
 具体的には書かないが、その道路の距離は短いにも関わらず無茶な土地取得に手間取ったり地域の労働者吸収を兼ねたりもして完成までに何年もかけていた。私は何年もそれを見ていた。その道路は、自然破壊の最たるものだというくらい崖をくりぬいて、その先に高架を作った。できあがって、車で通ると高架から数分ほど絶景が見える。だがそのために道路を造ったわけでもない。それによって住民の都市部へのアクセスがよくなったわけではない。現状から考えれば、無駄な道路だ。なのになぜこんなものを作ったのか。
 道路族の思惑を除けば、理由は私の推測では2つあった。一つは、その道路によって地方に配属されている官僚の住まいの交通の便が良くなること。官僚の多くは実際には地方巡業の苦難の日々を送っているのだ。もう一つは、もしその地域に災害があったときにバイパスに成りうることだ。地方の既存の道路というのは歴史を負っているため、近代化に適していない。国家に意思があれば、この道路はその体現でもあるのだろうと思った。
 無駄に見える道路も子細にみると、それほど無駄でもないし、まだ道路を造るべきところは地方に多いのは確かだ。このブログでは日本の地方を重視してきたが、もう道路を造らなくてもいいという発想はすでに大都市民の発想でもある。
 私が朝日や日経のように端的に今回の決定に否定的でないのは、あの道路の光景かもしれない。

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2003.12.22

サンタクロース雑談

 今朝の新聞各紙社説はあらためて見るべきことはなにもなかった。本当にこれが今朝の社説なのかとも思うが、新聞社も年末進行で社説に手間をかけていられないか、新聞社のサラリーマン諸君は年末で押せ押せになっているのだろう。
 社説系のネタはない。時事・社会問題はなんとなく気が重い。奥菜恵の結婚話も関心ないし、ネット系のネタに振ると極東ブログらしくなくなる(冗談)。ので、歴史の雑談を書く。さしてまとまった話でもない。サンタクロース雑談である。
 サンタクロースことセント・ニコラスは、ご存じのとおり、と念を押すが、トルコの生まれだ。出生地主義でいうなら、サンタクロースはトルコ人なのである。といっても古代の話なのでトルコ人というのもなんだかなというのが常識だろうが、朝鮮史に檀君建国や日本史に卑弥呼が登場するようでは、お笑いとも言えない。ようするに、古代史というのは近代国家が作り出したものにすぎない。
 サンタクロースの話の起源や近代都市神話の話は、インターネットに五万とある。本当に5万かもしれない。そうでなくても、ネットの情報はコピペでダブリばかりなので、極東ブログで書くことはないだろう。と言って以下の話もさして新味があるわけでもない。サンタクロースについてのおおざっぱな情報は英語版のWikiPediaを読むといいだろう(参照)。なお、日本語版はゴミなので読む意味はない。
 ニコラスの生没年は諸説があるが、概ね4世紀の人と見てよい。出生と活躍した地域は現在のトルコのミラ(Myra)である。と言ったが、間違ったかもしれない。ミラは古代の都市名で現代のトルコではデムレだろうか。地図を見るとMyraは掲載されているので、その辺りだろうとは思う。ちなみに、イズミル近くの古代遺跡エペソまたは聖書でいうエペソスは、現代ではエフェスである。現地のようすは高橋のぶ子「エフェソス白恋」に詳しい、というか、つまらん小説ではあるが、当地の光景が子細に描かれていて懐かしい思いにかられる。トルコの地名は難しい。もともと日本人の知識人は西欧化された世界史観でしかトルコに関心がないので、とりあえずアナトリアと呼び直す(「小アジア」は下の下)が、そうすることで現代のトルコとのつながりを見失って架空の世界に漂うことになる。
 ミラは地中海沿いだが、エジプトに向き合った側にある。近辺のダルヤナーズ(アンドリアス)もリゾート地ではあるが、日本人のお上りさんとしては都市アンタルヤのリゾート地がいいだろう。のんびりと滞在して、ついでタルソまで足を伸ばしてみたいとも思うが、また旅に出られる日はいつになるだろうか。
 ミラは古代にはリュキア文明が栄えたところだ。ちなみに、リュキアは英語ではLyciaと綴る。リュキアの研究は多分に漏れずイギリス人考古学者であったことから、リュキアについての基礎文献はこの英語のキーワードで英文献を辿ることになる。遺跡の現状だが、たしか世界遺産になっていると思うのだが、誰か確認してくれ。なお、リュキアについての話は「リュキア建築紀行」(参照)が面白い。
 リュキア文明は古代文明ということでヒッタイトに通じる紀元前というイメージがある。だが、リュキア王国が栄えたのは紀元前4世紀あたりであり、いわば古典ギリシアの世界と通底する。その後、ヘレニズム時代を迎えるのだが、多様性を残すヘレニズムはリュキアの土俗的な文化も残していたようだ。その文化はニコラスの時代を覆い、6世紀くらいにまで及んでいたらしい。
 西欧化された日本の知識人はキリスト教を西欧の文脈で捕らえがちだが、イスラム圏が拡大し、カトリック教皇が西欧に力を及ぼす以前は、キリスト教というのは極めてアジア的な宗教である。というか、ヘレニズムそのものであり、つまり、ペルシャ的な宗教なのであるが、と雑駁に書くとスキだらけだが、いずれにせよ、ニコラス時代、リュキア文明と当時キリスト教とは多少の反目あっても、ある種の調和を見せていただろうと考えてよい。
 その調和のイメージに私は感心を持つのだが、奇妙なことにふと気が付く。そういえばと思ってギリシア神話をぐぐってみて思い出す。アポロはレトの息子(レトイデス:Letoides)ということから母名を継いでいる。福音書のイエスや当時のユダヤ人(あるいはスラブ人)のように父名を継いでいるわけではない。母系である。リュキア人も母系だったようでもあるし、アポロン信仰はリュキアで興隆していた(参考)。
 私は何を言いたいのか。そう、ニコラスの伝説は多分にリュキア人のアポロ信仰の焼き直しではないかと思うのだ。ただ、アポロ信仰自体は、地中海を通じて西欧世界へ伝搬されるのだが、カトリック地域ではローマとナポリの中間に5世紀モンテ・カッシーノにアポロ神殿があった。これを聖ベネディクトは異教として打ち壊すのだが、文化現象としては事態は逆で、ベネディクトにアポロ信仰が継承されたのだろう。もっとも、そんな説はこの聖者の名前を引く団体からは嫌がられるだろうが。
 聖ベネディクトに比べれば、ニコラスの伝承は遅れた。骨マニアのカトリックのことだ、その遺骨は1087年にイタリアのバーリに移した。ここが西欧でのニコラス信仰の伝搬拠点となる。聖人の日としては12月6日である。これがおそらく海洋の守護神としてオランダに伝承され、そこからアメリカへ移り、現代の伝説ができあがるのだろうが、6日から冬至の祭りであるクリスマスへの習合はルター派によってなされたようだ。福を授ける者をイエスに集約したいのだろう。だが、そのわりに、現代ドイツでも依然、ニコラスの日として子供にプレゼントを与える日は6日のままであり(現代ドイツではクリスマスにも与えるようだ)、その意味でもドイツというのは土俗信仰の強いところだということがわかる。
 ところで、クリスマスを冬至の祭りと書いたが、その起源はミトラ教のようだ。いずれにせよ異教である。西欧のキリスト教というのはとてもローカルな宗教なのである。

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2003.12.21

同性愛が理由の難民について

 こんな話題に鼻をつっこむのもどうかなとは思うし、特に自分になにか決まった考えがあるわけでもないのだが、無意識にひっかかる感じがするので書いてみよう。話題は、同性愛が処罰となる国から逃れることは難民かということだ。もちろん、難民だという判決がこの9日オーストラリアの連邦高等裁判所で出た。認定されたのは、バングラデシュ出身のゲイのカップルだ。バングラデシュでは同性愛は犯罪とされるらしい。毎日新聞によると、「9年前から交際している2人は警察ややじ馬に殴られ、仕事をクビになるなどして、99年に豪州に移住した。」(参照)とのこと。
 些細なことだが今から9年前ということなのだろうか。この4年はするとオージーたちとハッピーに暮らしていてそこで権利意識というか、政治意識を高めたのだろうか、とも思うがわからない。記事を書いたシドニーの山本紀子記者は「シドニーでは同性愛者の全世界的な祭典『マルディグラ』が毎年開かれ、豪州は同性愛に寛容な地とみられている。」というが、祭典はいいとして、この推定もそれでいいのか、どうも判断に苦しむ。
 裁判では、国連の難民条約にある難民の定義「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員で、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがある者」にこのような同性愛者が該当するのだと判断したわけだが、判決は4対3と僅差だったようだ。毎日新聞の記事には書かれていないが、確か、この裁判の判事自身がゲイであることをカミングアウトしている人だったはずだ。もちろん、それが判決に直接影響するわけではないが、多少驚きの感はある。関連して気になるのは、オーストラリアはコモンウェルスなので、確か法体系もそれに従っているはずなのだが、そのあたりの波及的な影響はどうなっているのだろうか。
 この問題は、現在社会の文脈では、イスラム圏諸国の同性愛者を難民と認定すべきかとなるだろう。ふーんと言ってはいけない。日本でもイラン人のゲイであるシェイダさんを難民と認定すべきかが目下争われ、近く結審する。この話題については「チームS・シェイダさん救援グループ」(参照)に詳しい。特に、「彼をイランへの強制送還から救うには、日本の多くのレズビアン・ゲイの力が必要です。シェイダさんに暖かいサポートをお願いします。」ということだそうだ。
 私はこの問題をどう考えるか? 実はよくわからない。なにか無意識に錯綜している感じがしてもどかしい。一般論的に言うなら、そういう特殊ケースより日本はもっと広義の難民をなんとかしろよとも思うし、このようなケースを突破口に全体の改革を求めるべきだというのもわからないでもない。
 話の文脈がずっこける。私は若い頃、ゲイに襲われかけたことがある。こりゃやばいぜという窮地に陥ったこともある。飲んでいて、相手にカミングアウトされたころもある。と書くと苦笑するなぁとごまかしたくなるが、一面ではけっこう真剣な問題でもあるはずだ。というのは、それぞれの局面で結果としてその愛に応えない私は彼らの内面を傷つけたようでもあるし、彼らはそういう傷に慣れながら活きているのだろうなというつらさはわからないでもない。そのつらさを切なく描いたマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」は美しい小説だった。映画のほうはちと趣向が違うが美しい映像だった。
 話を少し戻す。もちろん、同性愛者の難民問題はそういう私的な経験の問題じゃないだろというのは理屈ではわかるし、すっかりオヤジの自分に迫るゲイは、たぶん、もう、いないだろうからのんきでもいられる。また、一般的なマイノリティの問題でいうなら、ここには書かないがもっと深刻な問題のほうが自分に近い。
 マイノリティであるというのは、その内側に運命付けられてみると、どうも世界はしっくりとこないのだが、「さあ、各種のマイノリティ同士が連携し、多様な世界を求めましょうとされても」、それもなんだか違うような気がする。というのは、社会とはそういう差異をある程度捨象して成り立っているように思うからだ……「私」の本質的なことは「あなた」はわからない。あなたの社会で「私」は苦しみ傷つけられているのだが、「私」はそれを隠して活きている……その隠蔽力のありかたが社会の水準だろうとは思う。
 別の言い方をすれば、そうした他者の苦悩への「察し」が社会にこもるなら、基本的には制度だけの問題になるだろうし、そうなれば、イラン人同性愛者も基本的に同性愛者であるがゆえの問題ではなく、その特定の人の政治状況によって制度的に解決されるものではないかと思う。

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財務省原案から思う日本の問題

 今朝の新聞各紙はこぞって、次度政府予算の財務省原案をテーマにしていた。わからないではない。深刻な問題だからだ。だが、どの社説もぱっとしなかった。改革を進めよだの、小泉しっかりしろだの、官僚は無駄遣いを止めろだの、どれも正論だが、問題に噛み合っていないか、あるいは的を射ていないように思われる。では、毒舌極東ブログはどうかというと、実はなにも提言はない。だったら、そんなブログを書くなよであるが、書いてみる。
 まず、問題はこうだ。いつになく朝日がわかりやすい。


 来年度予算の財務省原案が内示された。一般会計の総額は約82兆円で、税収は約42兆円。歳出の半分しか税収でまかなえていない。36兆円を超す国債発行で問題を先送りしているが、こんな状態が長続きするはずはない。

 経済学者はよく国家経済を家庭の経済になぞらえるが、こりゃ、400万円の支出を必要とする家庭が破産してパラサイトのOLさんの給料200万円でやっているようなものだと、時代ボケした比喩でも使いたくなる。だが、学者が常套で使うこうした比喩が問題を本当にわかりやすくしているのかは疑問がある。
 問題の別の局面は、ようするに増税だ。この話も朝日がわかりやすい。

 来年度末には国と地方を合わせた借金が720兆円、国内総生産(GDP)の144%に達する。先進国でこれほど財政が悪化している国はない。この比率をいま以上に上昇させないためだけでも、大幅な歳出削減や大規模な増税が必要になる。

 一読すれば大変だと思う。だが、そうなのだろうか。もちろん、大変は大変だが、一見わかりやすいこの説明に詐術はないだろうか。もちろん、間違っているというのではない。また、エコノミストたちの詭弁を真似てみたいわけではない。率直にいうと、日本という先進国ならこのくらいは大丈夫なのではないか。もちろん、根拠はないがそういう感覚が自分にもあり、それがおそらく他の日本人にもなんとなく無意識的にあるのではないか。
 近い将来増税は必要になるし、増税のことを日本人は頭では理解していても、まだ実感が伴わない。だが、その日は確実にくるし、歴史は常に教師になる。
 現代の日本人の多くは戦前は日本の軍国主義が台頭してひどいことになったと思っているが、歴史を子細に見ればあのときの問題は政治側の混乱だった。国民が政治に絶望しているときに軍事が台頭した。こうした流れは後のアジアの近代化の流れから見れば、別に不思議でもないことではある。だが政府に意志がないという混乱が悲劇をもたらしたことは確かだ。日本人の多くはサヨクのご尽力で政府が強力になることが軍事の台頭をもたらすと刷り込みされているが、事態は逆で政府なら民衆がコントロールできるのだ。イラク派兵がいけないなら、国民はこれを止めることができる。だが、衆院選挙の結果でも国民はそう考えていない。もう一歩進めて、今の日本に大切なのは、小泉のリーダシップよりその前提となる意思統一のできる政府だ。筆がすべるついで言えば、公明党を政権から排除することが先決なのだ。
 増税が決まれば国民にじわじわと動揺が走るだろうし、世相も変えていくだろう。こうしたときこそ、政府が強くなくてはいけない。国民が政府に力を託さなくてはいけない。つまらない結論かもしれないのだが、つまらない面白いということもでない、というのがそもそもつまらないのだが。
 増税はしかたがないが、国民はまだ感覚として捕らえていない。これがまず問題の一端にあるが、もう一端は朝日も引用箇所以外で触れているのだが、景気の向上だ。景気が向上すれば財政は潤う。ではどうすれば景気が向上するか。と問われてたいした答えがあるわけでもない。日本の経済は内需向上の兆しが見えるといえ、依然米国主導だ。そして、日経までも新三種の神器といった間抜けなことを言い出して自動車産業との比率を隠蔽するようでは脱力するしかない。事実を見れば日本経済は米国様のなりゆきまかせであることがわかる。
 そしてその米国には現在明るい兆しがある。陰謀論好きのバカはさておくとして、米国の好景気への道筋は今週のニューズウィークの最新号のサミュエルソンがいうように、単なるオールド・エコノミーの成果だ。正当な資本主義なら景気は循環するのだ。米国がまっとうであれば日本社会は皮一枚を残して首がつながるということになる。もちろん、皮肉だ。
 私たち日本人の社会の経済動向は米国から脱却できないのか? 簡単な答えではない。たぶん答えはアジアにある。そこを戦略的に問わないかぎり、国家経済の問題はつねに米国のケツを舐めろとの匕首しかならない。

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2003.12.20

ミサイル防衛システム自体は無駄

 今朝の社説では、朝日、読売、産経が、日本のミサイル防衛システムを取り上げていた。結論は各紙のラベルどおりで読む気も失せるような内容なのだが、特に読売がひどい。結語が自衛隊法改正になっているあたり、ナベツネ本人がボケ頭で書いているのかといぶかしく思える。朝日は、昨今の世相に押されてサヨクづらをぐっと潜め、ミサイル防衛システムはコストに見合わないよ、と大阪商人のようなことを言う。産経も、ミサイル防衛システム肯定的な立場でありながら、コスト面について疑念のトーンを出している。
 この問題について私といえば、みなさんおかど違いだ、と思う。自分の感性が間違っているのではないかとも思うので少し書いてみたい。
 まず、ミサイル防衛システムだが、読売の基本解説がわかりやすい。引用中、MDはミサイル防衛システムの略語である。こんな略語を使う意味が私にはまるで理解できない。まして社説に使うべきではないとも思う。


 MDは、米国が開発し、一部配備中のシステムだ。まず海上のイージス艦に搭載されたスタンダード・ミサイル3(SM3)が大気圏外で迎え撃つ。的を外したら、地上に配備されたパトリオット3(PAC3)が撃墜する仕組みだ。

 私は技術志向の人間なせいか、その仕組み自体は無理ではないだろうと思う。問題は、コストより時間の問題だ。その技術はいつまでに完成するのか。そのスケジュールと国策の摺り合わせが必要になるのではないか。しかし、そうした問題は基本的にテクニカルな問題に過ぎない。
 私が新聞各紙社説に違和感を持ったのは、どれもすでに露骨に北朝鮮を明記しているのだから、その状況をもっと踏まえ、先制攻撃について触れるべきだという点だ。「先制攻撃」とは、専守防衛主義の日本に合わないという政治的な見解は多いと思う。それはわからないではない。私もそれを知らないわけではない。
 私が言いたいのは、敵国の弾道ミサイルが固定式の場合は、先制攻撃を第一義に考えるべきではないかということだ。不思議だと思うのは、そんなことは軍事的な常識からすれば、当たり前のことではないのか? そのほうがコストは安いし、防衛率も高い。まして、相手は上空から裸同然の北朝鮮なのである。
 2点批判点があるだろう。先制攻撃などもってほかというわけだ。これについては、日本は堂々と「以下の政治状況下にあっては、日本は自国防衛のために、貴国の××固定ミサイルを破壊する」と通知しておけばいいのではないか。もちろん、それでも「専守防衛」への神学論争は続くだろうというのはわからないではない。だが、軍事的な問題で軍事的な常識を欠落させてどうするというのだ。平和志向が軍事の常識の欠落であってはならない。しかし、現実の日本人にはそう言うのも空しい。とすれば、こっそりとしか言えないのだが、日本国はピンポイント攻撃兵器を開発すべきだろう。最初の一撃は食らっても、その瞬間に、北朝鮮の固定基地を破壊できるようにするのが、実はもっとも平和的な解決になる。
 もう一点の批判点は、ミサイルが移動式になる可能性だろう。このあたりは、正直なところ私もよくわからない。弾道ミサイルレベルで移動式にさせる技術は中国ですらもってないのではないかと思う。GPSを含めた総合的な技術が必要になるからだ(だから中国の宇宙開発は怖いのだが)。ただ、こうした事は私の話は失笑レベルなのかもしれない。いずれにせよ、その事態であれば、まるで様相は変わる。
 ミサイル防衛システムの軍事的な問題を除いても、あと二点、別の観点から各紙社説に違和感をもった。一つ目は、各紙とも韓国との連携が触れられていないことだ。北朝鮮はソウルを攻撃せずに日本だけ攻撃するとでも思っているのだろうか。もう一点はミサイル防衛システムは純粋に米国経済との関連の経済問題なのではないか。極東ブログとしては、むしろこの点を掘り下げるべきなんだろが、今回は見送りたい。

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2003.12.19

マリ共和国のコレラ死亡者106名(12月17日時点)

 台湾のSARS状況を知るためにWHOの疫病発生情報(Disease Outbreak News)を見ていてマリ共和国でのコレラの発生情報に目を奪われた。WHOの情報をトレースすると、11月25日の報告で55人死亡(8月11日から10月9日)。そして、12月4日の報告で78人死亡。17日には106人になった。流行が食い止められている地域もあるが、まだ制御できない地域もあるとのこと。
 外務省の情報は遅れていて、「厚生労働省検疫所」(参照)では11日の情報として死者78人をWHOから転載している。確かに、日本の渡航者への情報ニーズは高くないから、のんびりしていてもいいのだろう。
 私はマリのことはほとんど何も知らない。今回のコレラの流行は異常な事態なのかもよくわからない。少しぐぐってみると、こういうことはマリではよくあることのようでもある。今回のコレラの流行もある程度すると収まるだろうなと思う。SARSとは違い、人類に未知な病気ではない。
 そこで、私は「ふーん」と言っていいものだろうか。悲惨な話ではある。だが、あまり強く関心に上ってこない。イラクで死んだ2人の外交官の死には「ふーん」ではなかった。もちろん、そういうヒューマニズムを装った問いかけがされても、それはいつも何かしらトラップなので、こりごりした思いがある。
 外務省のコレラの情報を見ていると、南アフリカで2000年8月から始まったコレラの流行では2001年4月までに181名の死亡したとある。それも知らなかったか、あるいは知っていても記憶から失せている。菌については、こう記載されている(参照)。


 現在のコレラはエルトールコレラと呼ばれるもので、1961年頃からアジア地域で発生し、感染力が強いためにクラシカルコレラに替わって瞬く間に世界中に広がりました。幸いなことにクラシカルコレラに比べ病原性が弱く、死亡率も2%程度といわれています。栄養状態の良い日本人の場合は胃腸の弱い人、老人、乳幼児を除けば死亡することはほとんどありませんが、感染力は強いため油断はできません。

 また、うかつにも「ふーん」と言いそうになる。WHOの情報に戻ると、菌は「Vibrio cholerae El Tor」とある。なるほど、エルトールコレラか。エルトールコレラは1961年にインドネシアのセレベス島(現スラウェシ島)に発生したものだ。これがアフリカで多くの人を殺している。
 エルトールコレラといえば、以前日本人バリ島旅行者がコレラにかかる事件があった。1995年のことだ。患者278人+保菌者18人という規模だったが、なぜ日本人旅行客にだけかかるのか不思議な思いがしたものだった。が、その「なぜ」という思いも忘れてしまった。
 その数年前私も知人の外人たちとバリに行っていたのだが、彼らは、「暑くても氷に気をつけろ」と私を諭した。市場の裏をうろつきながら、なるほどねと思ったものだ。
 話にオチはない。たぶん、日本のジャーナリズムではマリ共和国のコレラの話には触れないだろうなとは思うけど。

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学校の生徒を守るのはまず先生だ

 朝日新聞社説「宇治小事件――教訓は生かされたか」を読んでにぶい倦怠感のようなものを感じた。極東ブログお得意、朝日新聞社説おちょくりではない。これがこうした問題についての日本人の感覚の代表なのだろうと思う。そのことに倦怠感を覚えたのだ。
 事件は、昨日正午過ぎ、京都府宇治市の宇治小学校に包丁を持った男が侵入し小学一年生を斬りつけたことだ。幸い、担任が児童を避難させ、別の先生が男を取り押さえたので、それ以上の事なきを得た。男は精神科に入退院を繰り返していたので、ことなきを得た結果、こいつはまた、日垣隆の言うように、いずれ野に放たれことになる。
 この事件について朝日は「今回、付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか」と批判的に問いかける。この問いかけの思考のあり方に私は強く違和感を持つのだが、それはひとまず置くとして、朝日の論調は奇妙にねじくれている。


  1. 付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか。
  2. 宇治小は地域の結びつきを重んじ「開いて守る」を基本方針にしていた。
  3. 門扉は施錠されていないが、センサーや監視カメラがあった。
  4. 不審者を阻止できる態勢が必要だ。
  5. とはいえ、学校という性格から、不審者をすべて閉め出すのは難しい。
  6. しかたない、効果のありそうな対策をできるだけ採用していくことが大切だ。
  7. 気持ちを引き締めて対策を尽くせ。

 私の言葉でまとめたがいずれにせよ朝日の論旨はこうだ。なにが言いたいのだ、この文章? と批判しながら、私は朝日の思いがわからないではない。最初の問いかけがフェイクなんだと割り切ればわかりやすい。ずばり言えば、構造的に学校を取り締まるのではなく、関係者の努力を期待したいということなのだ。
 私は、その朝日の主張は正しいと思う。この事件で、ニュースの流れは、不審者が校門を通過したことを知らせる警報音のスイッチが当日切られていたことをもって、管理体制がずさんだったとして、小松美恵子校長を責めていく。
 ひどい話だ。ひどい話なのは、そういうふうに校長をつるし上げてよしとする世相だ。私は少ない情報しかないが、小松美恵子校長はよい校長なのではないかと思う。よい校長をつるし上げていけば、刑務所のような小学校ができあがる。責任の方向を取り違えた校長がのさばることになる。
 今回の事件と池田小事件の違いはなにか。端的に、児童の死者が出なかったことだ。そしてそれが出なかった最大の理由は、対応がよかったことだ。先生がちゃんと身をはって、包丁を持つ男を取り押さえたからだ。それが可能だったのは、校長の功績なのだ。
 話を少し戻す。こうした事件のとき、「付属池田小学校の教訓は生かされたのだろうか」というクリシェな問いかけが出るのはしかたがない。だが、この悲惨な事件についての、私たち日本社会の教訓はなんだっただろうか。
 この問題の一端については、極東ブログ「池田小事件をどう考えるか」(8.29)で扱った。私は「宅間守被告の声は我々の内面にくすぶる悪魔的な心の声の代弁だろう。」と書いた。その悪魔の声は社会の無意識を通して精神疾患者に現れる。社会が受けるべき教訓があるとすれば、その問題ではないか。我々日本社会は宅間守を理解しようとせず殺すことに決めた。だが、悪魔の声を殺すことはできない。
 我々はこの悪魔の声に向き合うべきなのではないか。少なくとも知識人はそれを理解しようと努力すべきだろう。
 そして、端的に言うのだが、私たちの社会は、精神疾患者と犯罪という構造的な問題に取り組むべきだろう。

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2003.12.18

年金問題をさらに取り上げる

 昨日朝日新聞社説の年金問題を取り上げ批判した。年金問題とは団塊の世代の問題ではないか。なのに、それを結果的に温存するさせるような仕組みの社説に違和感を覚えた。それにしてもなぜこれを論じたのが朝日一社だけだったのか、不審な感じがした。が今朝になって、大手他紙が横並びに年金問題を扱っていたのを見て落胆と安堵を覚えた。安堵というのは、どれも朝日よりはまともな話になっていたことだ。団塊の世代をという隠れたキーワードは出さないものの、世代間の問題に意識が向くようにも書かれていたからである。
 各社説のうち、毎日と読売は文章がぼやけていた。読売のぼやけは小泉のロビー気取りでいるからしかたがないが、消費税アップについては明確に書いているので、苦笑する。毎日の論旨がぼやけているのは朝日寄りというか、プチサヨクの正体見たり団塊さん、ということだ。話のオチを小泉のリーダシップ欠落にもってくるようでは床屋談義だ。
 残る日経と産経は手短に逃げているものの悪くない。これを台にしてもう少し掘り下げてみよう。日経の出だしはよい意味で社説のお手本のようだ。


 自民、公明両党がお互いのメンツを大事にしながら、一方でぎりぎりの妥協も重ねた結果の数字。来年度の年金改革に関する与党の案は、そんな印象を強く与える内容となった。日本の社会の中で年金制度をどのように位置づけるのかという強いメッセージは伝わってこない。これでは年金離れが進んでいるとされる若い世代が、ますます遠ざかっていくのではないか。

 当面の問題として、明確に公明連立と若年層年金離れとしている点はよいだろう。ただ、話の内容は結局、公明連立の問題に終始し、年金問題についてはごく結語で触れているだけになった。

 つまり将来の年金の姿を考えるときには、少子化や雇用対策など他の政策をどのようにするかも同時に論じその道筋も合わせて示さなければならない。また医療や介護といった他の社会保障の仕組みによっても、年金水準のあり方は異なってくる。そうした全体像を見ようとしないで、年金だけの世界で数字のつじつま合わせをしているようでは、国民に訴える力は生まれてこない。

 概論としては確かにその通りで、一つの社説でそこまで掘り下げることはできない。私も、問題の複雑さに溜息が出そうだ。年金問題とは、個別にテクニカルな意味での年金問題の裏に、日本の社会構造の問題の2つが隠れているのだからしかたがない。
 新聞各紙はその社会構造を人口構成的に見ているが、極東ブログとしては、2点、(1)これは団塊の世代の問題である、(1)共通一次試験以降の世代の消費行動の問題である、として今後も考えてみたい。
 産経の次の視点は、すでになんども言われていることではあるが、わかりやすい。

 しかし、負担が五割も重くなる経済界や若い世代の反発が強いため、政府・与党案は上限を二十九年度の18・35%に圧縮した。その結果、給付水準(現在59・4%)は現役世代収入の50・1%程度まで低下する。若手の負担を緩和しつつ、中高年にも配慮した結果だが、まだ世代間格差は大きい。
 たとえば、昭和三十年生まれ(現在四十八歳)は、上限20%なら保険料(自己負担分)の三・五倍支給されるが、18%なら三・二倍に低下する。昭和五十年生まれ(二十八歳)は、20%なら二・五倍、18%で二・四倍だ。

 ようするに今回の改革は団塊の世代対応だと読める。また世代を下るにつれ、ふざけんな的になるのも数字で見える。当然、この数字はさらに低くなる。
 産経はオヤジ極まるのでその面で良いことも言う。

 若い世代もいずれは受給者になるので給付水準低下の影響を受ける。それでも全世代で給付総額が使用者負担を含む保険料より多いのだから、年金が「払い損」になることはない。

 ここを強調したい気になるのは私もオヤジだなと思うが、国というのはそういう存在なのだ。思わず、若年層に向けて「若者たち、君たちはマジで日本が破綻すると思うか? そうなることを見越して社会参加するのか? そうでなければ、年金は払うほうが得だよ」と言いたくなる。そしてそれはおそらく正論なのだが、若年層が説得されるわけでもなく、単純に若年層バカだというわけでもない。若年層の未払い問題は彼らの消費活動の自然な帰結であるとともに、その総体として、団塊世代より上の国家運営に「否」を投げかけているのだ。
 オヤジに説得されて年金を払うやつのほうがずる賢いのであって(団塊の世代のようにローンを背負って銀行の金利に目をまちくりさせた経験がないとわからないだろう)、年金なんかまじめに払えば現体制を温存させるだけじゃないか、もっと現在の生活の強度(快楽)を優先するということで、彼らは結果的にこの体制の変容を求めているのだ。繰り返すが、超資本主義にあっては消費の世代的パターンは明確な政治力なのだ。
 そう書き進めてみて、私は、若年層の消費行動にもっと目を向けるべきではないかと思う。モデル家族(世帯)についても論じたいが、別の機会にしよう。

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2003.12.17

薬販売の規制緩和はさして問題でもない

 日経新聞社説「これだけなのか薬販売の規制緩和」は悪くないのだが、少し言及しておきたいと思う。まず、最初に言うが、日本人と薬剤の問題の根幹はジェネリック薬だ。この問題は極東ブログで扱ったのでその論点は触れない(2003.8.23)。
 まず、日経社説で違和感を覚えたのは、結語だ。


 専門家の検討結果を軽々に扱ってはならないが、これでは消費者の深夜の苦痛が解消しないのも事実だ。

 それは「大義」にならないと私は思う。ちょっと私の意見はピントがずれているかもしれないが、鎮痛剤でなんとかなる問題なら、深夜でもお隣さんを起こしてわけてもらえよ。なにも昭和レトロで言うのじゃない。お隣さんというのはそういうためにあるのだ。3件も回れば、市販薬の鎮痛剤くらいあるよ。子供のひきつけでもそうだが、同じ年代の子供をもつご近所さんと面識くらいもっていろよと思う。お隣さんよりコンビニというのは社会の流れかもしれないが、そのくらい大衆の常識として覚えておけよ、日経さんと思う。
 それと簡素に述べるが、日経の次の文章はタメで書いているだけだ。

 厚生労働省の依頼を受け、薬剤師のいない一般小売店で売れる薬の範囲を検討してきた作業グループは16日、下剤や消化薬、体に塗り風邪の症状を和らげる薬など15製品群、350品目が「安全上、特に問題ない」とする報告をまとめた。厚労省はそれらの医薬品を「医薬部外品」に変更し一般小売店で売るのを認める方針だ。しかし、この程度なのかと思う向きも多いだろう。

 それ以上に増やしてもOTC(市販薬)なんて効かない。だったら、ちゃんとした医療の対象にしたほうがいい。コンビニに置く程度の薬は家庭の薬箱に入れておけよとも思う。
 あとは余談だ。市販の風邪薬はほぼ無意味だという話はさておき、ちょっと気になることがある。

 どうもすっきりしない。離島や辺地には薬剤師を置かずに幅広く薬を売れる「特例販売業」が約4700店ある。また厚労省の昨年度の調査では一般薬店の2割強が調査時に薬剤師が不在で、この割合は高まる傾向にある。そうした店が大きな問題を起こした話はあまり聞かない。

 こんなことを書いてはいけないのかもしれないが以前それなりに調査してわからなかったので、もしかするとブログに書くことでたれ込みであるといいなと思う反面、書いていいのか悩むのだが、書く。詳しく書くと問題があるのだが、離島や辺地の薬剤店には、都会とは違った「家庭計画」薬がおかれているとしか思えないのだ。この歴史的な背景はなにか、どうなっているのだ?

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年金問題の基礎に隠されている問題

 今朝の朝日新聞社説「年金改革――やはり大手術しかない」は、まず標題からしてげっそりしてしまうのだが、半ば義務のように目を通す。面白くもなんともない。年金問題など、あたりまえの理性とスェーデン改革でも参考すれば、最善とはいわなくても次善の解決案は出る。なにをぐだぐだやっているのだと思う。毎度ながら朝日新聞的社説の愚劣さは「朝日新聞的社説(自動生成)」(参照)を使っているのではないだろうかと疑うほどだ。ちなみに、このソフトは「朝日新聞社説」という固定観念でできているが、実際の朝日新聞社説はもっと表層的にはやわらかく主婦を見下すような語り口になっている。これにオントロジー上位のサヨク・反米文脈ルーチンを追加すれば、本物の朝日新聞社説になるという冗談を書いている場合ではない。ざっと読みながら、「次」とつぶやくその瞬間に脳のなかのクオリアが凍り付く(いかん、どうも冗談モードから抜けられん)。しばし瞑目して思い当たることがあった。ミダス王の指のような文章がこの社説のケツにあったのだ。


 「団塊の世代」が年金の受給者に回るのはあと数年である。改革のために残された時間はわずかだ。

 あっ、と次の瞬間うかつに声が出てしまい候(←冗談よせ)。そうなのだ、これまでもわかってはいたのだが、年金改革とは団塊の世代の問題なのだ。あいつら、70年代に懲りたかと思ったら、こんなところで、でっかいうんちをしているのだ。思わず「あいつら」とか呟いてしまったぜ。
 「国の年金問題」じゃない、「団塊の世代の年金問題」が年金問題なのだ。そしてそのことはすでに私より下の世代共通一次世代やセンター試験以降の世代の大衆意識にすでに折り込み済みなのだ。彼らは「自分たちの年金であるわけがない」という前提で行動している。もちろん、それはアイディオロジカルな命題ではない。もっと社会の消費構造的に年金が選択されないような社会を作り上げていることの社会学的なモデルだ。
 あえていうとすれば、現在の若者の消費社会を作っているのは、電通の東大出のグループがビデオリサーチを一社に限定するっていうような陰謀じゃなくて、「キミたちの欲望の正当な反映」なのだ。もちろん、責めているわけではない。大衆の無意識を責めても意味はない。端的な話、月額1万3千円が払えない若者は、ほぼインポだ不感症だと70年代用語を書いてもしかたがないが、それだけの余剰を常識で考えれば働き出せないわけはないのに、社会構造的にできないのだ。誰だったが、松下幸之助だったか経営者の爺がたんまり税金を払うことに「お国のためですから」と言っていたが、月額1万3千円の労働が「お国のためですから」にならない消費社会の構造ができあがっているのだ。
 この「あいつら」の感じはどっかで最近読んだよなと思って、記憶を探るに、「はてな」のhazuma(名前はあえて書かない)の日記にあった(参照)。子供の夜間徘徊(←ちなみにこれ沖縄用語)の規制についての文脈だが。

しかし、この条例改正の動きが具体的に何を背景にしているのか知らないけど、一般的にこの国の世論は、年少世代を叩きすぎだと思う。普通に考えて、この国がいまメチャクチャなのはバブル期にいい気になっていた年長世代(世代名を出すのは控えよう)が原因なのであって、10代や20代のせいじゃない。僕だってもう30代だし、あまり若者の味方をする気もないけど、そういう過去の愚行を棚に上げて、プロジェクトXとか60年代小説とかに涙しながら、未来の話といえば年金をいかに確保するかばかり、あとは生活の漠たる不安から目を逸らすために少年少女と外国人をスケープゴートにして満足している連中が一掃されないかぎり、日本に未来はないと思うよ、マジで。扇情的なマスコミの責任も重い。

 後段についても思うことがあるというか、それは違うよと思うのだが、さておき、この世代的な敵視の感覚が重要だと思って記憶にひっかかっていた。
 もちろん、いつの時代もどの世代も上の世代を敵視するものだが、日本についてはそんなクリシェでまとまるわけではない。端的に言うのだが、日本の社会では世代間が人間として正常な軋轢を産む場は私企業内でしかない。それも、なくなっている。世代間の正常な軋轢を団塊さんも共通一次さんも避けているというか、避けることが可能な社会構造を、結果的に平和に作り出してしまったのだ。
 なにも私のことを強調したいわけではないが、私のような昭和32年生まれなど、団塊さんと共通一次さんの狭間に落っこちて、概ねそのスペクトラムのなでグラデがかかるような位置づけにされている世代だ(私自身がオタクの走りでもあるし)、というか、サブカル以外に共通の世代間などないのだが、その空白におかれた私にしてみると、なんとも奇妙な図だ。
 話が散漫になったが、冒頭、あれっと思ったのは、この世代間の問題だけではない。結果的にそれにつながるのだが、もう少しマジな部分がある。「モデル家族(モデル世帯)」だ。
 単純に言えば、日本の年金制度は、「妻は専業主婦、稼ぎ頭は夫」という理想(マックス・ヴェーバーのいう「理想」)モデルからできている。この「モデル家族」は日本のふにゃけた知の風土ではしばしばフェミニズムから議論されがちだが、批判覚悟で言えばそんな問題はそれほど重要ではない、問題なのは、このモデル家族が実際上、団塊の世代より上の世代から団塊世代までのモデルになっているということで、実は、団塊世代をプロテクトするような機能がイデオロギー的に埋め込まれている点だ。ちょっと飛躍するが、このモデルは公務員が楽園になるモデルでもある。現実の公務員を見れば、庶民なら誰でも知っているが夫婦とも公務員で楽々な暮らしをしているケースが目につくのだが(これには言葉では批判はあるだろうが事実だということを譲る気はない)。
 話が混濁してきたが、ようは、年金問題の基底にある「モデル家族」の方法論に、団塊の世代を守るためのシカケがしてあり、朝日新聞もすでにそれが当たり前の方向だとして啓蒙しくさっているのが問題なのだ。そこを言語で議論可能な、かつ単純な問題にしないかぎり、共通一次世代以下が「あいつら」意識で社会の消費構造を攪乱することは止まらない。
 だからといって、その攪乱的なハイパーシミュレーションの上澄みとしての消費税で問題を解決するのは本質的な倒錯だ。と、やや論理が飛躍しているが、私はこれまで、「消費税はがんがんあげろぉ」と思っていた。しかし、考えを変える。消費税はやもうえないのかもしれないが、消費税を国庫とする思考法は、この国の根幹のゆがみ(団塊の世代をきちんと新しい国のビジョンに位置づける)の妨げになるのだ。
 だから、朝日新聞社説は根幹で間違っているのだ。

 世代によって払う保険料ともらう年金が違う「世代間の不公平」、自営業者らが加入する国民年金の保険料を払わない人が急増している「年金の空洞化」……。現行の仕組みをそのままに、表面を手直ししただけの今回の案では、年金が抱える病気を根本的に治療できず、制度は安定しない。

 違う。その不公平は是正できない。また、「自営業者ら」としてそこをスケープゴートにすれば、実際には現在の若い世代が将来的に潜在的な自営業者になることを閉ざしてしまう。むしろ逆なのだ。その不公平は治らない、自営業をさらに優遇するという方向で考えなくてはいけいないのだ。

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2003.12.16

ボイン・ボイン

 「ボイン」が「はてな」で話題である。ん? そうか。そう、「ボイン」だ。「母音」でも「拇印」でもない。「ボイン」だ。あと数日の、期限付きの話題だ。ところで「はてな」ってなんだ? ぁぁそれを言っちゃ話にならないなっと。で「はてな」の日記では分野を特定すれば、勝手に書いた日記からキーワードが自動的にリンクになる。「バカ女(ばかじょ)」とかいう言葉を日記を書いていて、「これを私はキーワードにしたい」と思ったら登録すればいい。登録は簡単。「はてな」の会員なら誰でもできる。ちなみに「はてな」で「胡錦涛」をキーワードに登録したのは私だ。こうしておけば、他の人の日記に胡錦涛が登場したとき、それがリンクなるから、「ほほぉ、極東ブログ以外に胡錦涛に関心をもっている人がいるのか」とわかる。みんな今の胡錦涛をどう思う? どうどう? ちなみに、1万人を越えると言われる「はてな」の日記で胡錦涛と書いたのは、私ともう一人だけ。しかも、もう一人のかたはニュースのコピペだった。なーんだ胡錦涛って「はてな」に情報はないのかぁ。もしかして「はてな」って、もしかして、そこに集まっている人って、もしかして……なーんて考えてはいけない。考えるべきは「ボイン」だ。そうだ。ボイン。ボインは有意義なキーワードなのか。もちろん、工学的に考えれば、GoogleのPageRankが参考になる。そう考えると「ボイン」は有意義なキーワードに違いない。「胡錦涛」よりましだ。で、なんで「ボイン」なんだ。そりゃ、当然当然、ボインといえば月亭可朝師匠(65)でしょ。そりゃ、当然(参照)。月亭可朝師匠と言えば、自由連合でしょうな。ハレンチ学園の身体検査の巻(映画)の高松しげおのヒゲとボイン、じゃないヒゲゴジラはこの際、お呼びじゃないでしょう。やっぱ、お父さんがインド人のマリアンでしょうね。フランスのニース生まれでDOSユーザーとして有名だったクロード・チアリ(参照)の娘さんでなぜか英語を教えているクリステル・チアリさんみたいなものですな。ああ、話がそれてしまひました。問題は……ボインだ。ボインといえばナインという言葉もありました。ナインももしかしてこっそり「はてな」のキーワードになっているかと見ると、ちゃいました。あるのは「ナインストーリーズ」です。ちなみに、そのキーワード解説のページを見ると、「作者:J.D.サリンジャー」はいいとして「作者:野崎孝(訳)」ですかぁ。時代ですなぁ。野崎孝は訳者として悪くはないし、今回の春樹のキャッチャー騒ぎでは野崎孝訳のほうがええとか抜かす団塊さんとかいて醜いのだけど、あの訳はあんまりよくないです。文庫では、他に集英社の中川敏訳と講談社の沼澤洽治(聖心女子大学教授)訳のほうがだんぜんいいです。っていうか、原文読むのでなければ、野崎孝訳のナインストリーズなんか読んでも文学的な意味なんかないですってそこまで言うか。ましかし、もうそんな訳本は入手不能。時代だからな、世の中変わるのだ。変わらないのはボインだ。違うか。ナインか。そうナインだ。ナインといえば、小鹿ミキだ。ちょっとだけよぉだ。荒野の干し葡萄だ。そうスタインベックだ。違う。小鹿ミキといえば大阪の女(アクセントはお「ん」な)。ああ、知らないですか。現代でいったら池脇千鶴ですかね。おせいさんの最高傑作短編「ジョゼと虎と魚」の映画化でナインを堪能したかたも多いはず。やっぱツウはナインです。舶来ならシャーロット・ランプリング、ま、違うという意見もありましょうが。

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Google爆弾が可能なのはGoogleがアホだから

 昨日は新聞休刊日だった。一昨日フセインが捕獲された。当然、今朝の社説はそればっかのハズである。当たり。そして壊滅的につまらなかった。どれも単につまらないのである。天声人語はまたシェークスピアだった。もうそれやめとけ。
 今朝のネタは、どうしようかなと思ったのだが、Google bomb(グーグル・ボム)の話。英語版のGoogleで"miserable failure(目も当てられない失敗)」を検索すると「Biography of President George W. Bush(ブッシュ大統領の履歴)」(参照)が検索される。まぁ、ちょっとした洒落というか悪意だというふうに解釈されてブログのネタになる。ああ、極東ブログもそのネタかよって、そんなつまらない話はしない。というか、こんな話だけではボツネタだ。
 日本でのこのネタの出所を探ってみる。どうやら極東ブログがよく参照する韓国紙中央日報の日本語版の記事「グーグル『惨めな失敗』でホワイトハウスホームページにリンク」だ(参照)。そう疑わせるのは「惨めな失敗」という訳語。これをキーワードにして日本語版手抜きGoogleを検索するとブログで使い回している今回のネタが出てくるが、「悲惨な失敗」など他の訳語では出てこない。つまり中央日報の孫引きでBBCからのネタではない(BBCの話はこちらを参照)。Newsdayはそれより早く6日(参照)だが、BBC同様、Googleのトリックの解説に終始して浅薄な記事で終わっている。ABCでは米国時間で8日このネタを「Bush Whacked Online Search Engine Trick Lists President as‘Miserable Failure」で扱っている(参照)が、さすがにこちらの記事を読むとこのイタズラの背景がわかる。日本のブログの扱いは? なんつうか、浅薄だなぁという感じがする。
 ちなみにこのイタズラはしょーもないSEOテクニックなのだが、SEOを関しているサイトには薄い話しか掲載されていない。ちなみに、SEOがなんだかわからない人はこれを参照するといい。この記事中「それとも、何らかの見えない『力』がブッシュ大統領への怒りを表す為に Google を利用しているのだろうか。。。」というのはちょっと脱力。意図的なものです。その勢力もはっきりしています。
 それにしても今回の話はネタ的には古過ぎた。"weapons of mass destruction"でもうお腹いっぱいです(参照)。なのに出てきたのは亜流だからだ。
 今回の背景は、どっちかというとABCは火消し側に回っているが、端的な話、これは大統領選のための民主党ゲッパート陣営の選挙工作(参照)と見るべきだ。


"This is not a political statement from Google, but rather a reflection of a recent Web phenomenon," says a spokesman for Google in Mountain View, Calif. "In this case, a select group of Web masters used the words [miserable failure] to describe and link to George Bush's Web site."

 もちろん、Google側の政治的な声明であるわけはないが、単なるWebの現象というわけにもいかないのは、それを画策した集団がいたからだ。
 ちなみに同じようなことは日本でもこそっと「ゲーム脳」というキーワードでも行われている。「ゲーム脳」をキーワードに日本版Googleを引くと、ゲーム脳を批判している「斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖」ページが出てくる。これは意図的になされたものだ。この上位ランクのページはサイトがwww.tv-game.comでわかるようにゲームっていいじゃぁんのサイトだ。確かに、『ゲーム脳の恐怖』(森昭雄/NHK出版)はと学会レベルで批判できるような内容なのだが、これは結果として1兆円産業となったゲーム業界の政治な運動だと見ていいだろう。というのも、なにも「と」に目くじら立てて正論はこうだ!なんてやるのは「と」の楽しみに反するじゃないか。
 さて、この話の締めだが…この手のネタは「お腹いっぱい」のころになって大衆的に広がるから、今後も話題になるのだろう。なんかそれってムゴスギとか思うがしかたない。大衆文化とはそういうものだ。問題はGoogleにもあるんじゃないか? という議論はネット擁護派にバカにされるだろうか。だとすると、バカ返しだな。私はGoogleの技術がはやりまだレベルが低いのだろうと考えるからだ。前回、W3Cのオントロジーの取り組みをくさしたが「オントロジーのW3C規格化は無駄」(2003.11.2)、確かにW3Cが規格化というシマを作る必要もないものの、ネットの社会にはいずれそのレベルの技術が必要になるだろうと考える。「あ、おバカな人たちがおバカことやっているな」と意味を理解するお利口なGoogleが必要になるのだ。

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2003.12.15

フセイン捕獲は吉兆だろう

 サダム(サダーム)・フセインが捕まった。私は、昨日、10時少し前、HDDレコーディングが終わっているだろうNHKのスペシャル番組「文明の道」がこのニュースで飛ばされていてむっとした。そのくらい、フセインの逮捕には最初関心がなかった。私にはモンゴルの歴史の話のほうが重要なのだ。
 時間ズレした「文明の道」を録画しなおして、それから深夜NHKのニュースを呆然と見ていた。特に、関心がわき起こるわけでもなかった。ブッシュが画面にどんと出てくると、センター試験以降の世代は知らないだろうお囃子「よっ、大統領」と思い出した。思い起こせば、この戦争はフセインをとっ捕まえる戦争だったのだ。「そんなの意味のない大義さ」という人も多いだろうが、開戦時、フセインが亡命すれば戦争は回避できた。そのことを私はふと忘れていたことに気がつく。
 それからざっとブログだのネットを見回した。面白い見解はなかった。いや、面白い見解しかなかった。ブログとはそういうものなのだ。それでも、日本から「独裁者」というものの感触が消えているのではないかと訝しく思った。そんなもの戦中から存在しなかったともいえるかもしれない。現在の日本のあちこちにプチ独裁者はいるが、それはあくまで比喩に過ぎない。戦時の日本は、象徴的な独裁者(天皇)のもと、独裁政治があった。そういえば、英語に「dictatorship」という言葉がある。「独裁政治」と訳されるが、ニュアンスはやや違うようにも感じる。そのニュアンスを日本人は失っているのだ。「よっ、大統領」やそのもとにあるアメリカ人がFree!というときの感覚も実はdictatorshipの感性がなければそもそも通じないものかもしれない。
 フセインの捕獲に銃撃戦もなかったという。映像にはハリーポッターにでも出てきそうなぬぼっとした顔面髭の濃い男が出てきた。まったりとしている。映像を見ながら、そんなものかと思ったものの、違和感はある。これもまたセンター試験以降の世代は知らないだろうが、横井庄一さんや小野田寛郎さんが発見されたときのイメージを、私はつい持ってしまう。だが、彼らは兵卒だったからなのかもしれない。
 フセイン捕獲の状況についてはメディアからはある程度わかりある程度わからない。情報は限られている。イラクでは祝砲が鳴り渡るようでもある。それも事実は事実だ。その少ない事実から即座に様々な解釈の言葉が溢れ出す。面白い世界だ。
 日本では、概ね「これで終わりではない」というのがウケがよさそうだ。たしかに、フセインがほぼ無防備で穴に潜んでいたというのでは、これまでのテロが彼の直接指示だったとは考えにくい。すでにフセインなきテロは続いていたともいえる。
 だが、私はイラク治安の混乱は概ね、局在化していると見ている(でなければ農産物ができるわけがない)。フセイン体制が温存されなかったことへの反感が旧体制側の人民にあり、それをベースにアルカイダなどの外国勢力が乗っているのだろう、と私はシンプルに見る。だとすれば、その反抗勢力にはアノミーが起こるだろう。
 イラク国民の大半にしてみれば、早くまともな国の体制になって欲しいというのが本音だろう。反米の意識もあるだろうが(それは間違いない)、大衆は反米などというイデオロギーが行動の一義にはならない。ここでふと、8日極東ブログに書いた太宰治の「十二月八日」を思い出す。開戦に酔うファナティックな主婦の意識の裏には普通の生活が滑稽でもあり淡々でもあり描かれていた。イラクも同じだろう。大衆は生活が優先されるし、私は市場のようすから察するのだが、各地域的にはその地域社会には決定的なアノミーが起きているわけでもない(だからこそ分割が必要かもしれないのだが)。
 日本を含め、アジア(ちなみにアジアとは古典的にはトルコを指す)には反米の思いが強い。だが、その思いをイラクの混乱に仮託することは知性のある人間のすることではないと思う……と、休刊日のうちに明日の朝日新聞社説に投げかけておこうかな。

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2003.12.14

祝ご懐妊、広末涼子

 広末涼子のできちゃった婚は世間の読み通りで、できちゃったあたりが話題か。私も、なにかアレっと心にひっかかったことがある。なんなのかよくわからない。些細なことには違いないし、どうも下品なひっかかりっぽいので、書かないほうがいいだろうとも思う。でも、だったら逆に書いてみるか。そんなのアリかよと思うが、無意識の吐露みたいなものだ。やっちゃえ。
 ちなみに、私は広末涼子というのをスチル以外で見たことがない。Yahoo BBとかの広告で認識できる程度。演技力がどんなものかまるでわからない。また、あの面だが、私は好きではない。美人じゃないよねとは思う(室町時代的美人か)。じゃあ、まったく無関心かというと、2つの点で関心を持っている。1つめはたぶん、大衆レベルなのだが、なんかあの清楚っぽい感じがいやらしさを誘うじゃないですか。今回も「ご懐妊」でせう。つうことはその前に23歳ぴちぴちでおセックスをばこばこやっていたわけじゃないですか(とか言うけど、自分の過去を思うと23歳はいいかげんすれた大人だな)。旦那さんも面も身体もいいじゃないですか。ちょっと、そのおセックスって、きれいっぽいじゃないですか…あとはチンコの硬度だけが問題でしょう…という感じだ。私はわけあってロリでもペドでもないのだが、そういうシーンがあったらちょっと見たいなとは思う。少なくとも奥菜恵のバコバコ動画があったとしても、広末のほうが見たいかも。うーん、先日のananの表紙の裸のねーさん27歳(おっと、ふでになめー忘れているよ、おれ)みたいな感じじゃない。広末ってプロポーションが田舎っぽい感じがするし、大腿しまってなさそうだし、でも、あの顔でおセックスのくぅ~っていうのあったら、(;´Д`)ハァハァ ですよね。ああ、えげつない。といっても、その手の清純っていうのは昔もあったのでそれほど実はどってことない。すげー古いところでは吉永小百合あたりか、でも、吉永小百合は美人だったなぁ。今でも美人だけど。広末涼子の面はたぶん歳ともにただのおばさん面になると思う。
 もう一つは、茶目。私は、茶目の人間にいよーに関心を持つのだ。理由は簡単で、私が茶目だから。なんでわてらは茶目なんでしょう、ってたんに遺伝的な問題なんだが、この遺伝子は多様な日本民族にどうばらまかれているのでそう。その遺伝子には、なにか連動する性格的な因子はないのでせふかと思うが、ま、フツーの人には伝わらないくだらない関心ですね。でも、もし、このお下劣文を読まれているかたのパートナーが茶目だったら、たぶん、あんたも茶目に惹かれてるわけですよ。茶目は怖いんですよ。蛇のにらみみたいな怖さじゃないけど、茶目は幻惑的なんですよ。ま、わてみたいな歳になるとあかんのですわって方言みたいに言うなよ、おれ。
 できちゃった婚については、ふーんという感じ。元国土交通相大臣元保守党元アイドルの扇千景(本名林寛子でもクロパンの元かみさんではない)もできちゃった婚なんだし、別にどってことない。できちゃった婚でもプチ右翼になって大臣にだってなれるのだから、どっていう問題でもない。

cover
百年の恋
 で、このあたり、アレっていう感じで心に引っかかったのは、子供って生まれるんですよ、すると赤ちゃんなんですよ。あかちゃんというのは、あばあばあばれんじゃぁですよ。本気で取り組まないと人生破綻する。テキトーにこなすと、14年後にあばあばあばれんじゃ~になる。ジャンジャック・ルソーの理想じゃないけど(駄洒落不発)、子供なんて社会化されない革命の原動力たる人間なんだから怖いものなのだ。で、女が仕事もっていたら「百年の恋」(篠田節子)になる、必至。アムロが離婚はしたけど、育児がなんとかできそうなのは元旦那が一応オヤジだったし実家に金があったからなんだけど、広末涼子はアイテムがなさすぎ。たぶん、なにかとダメになるに、5万点、自動落札5万4千点ですね。
 少子化で悩むご世間様も、広末涼子祝ご懐妊には、なんとなくシラーっとしているのは、そのあたりを読んでいるからだ。大衆を馬鹿にしちゃいけませんな。育児もまとにできないゲーノー人より、世間知はあるんですから、あ、そりゃだめだわ、と思う。どだい40歳くらいまで生きてみると、見渡すとダメばっかだものね。育児っていうのは人生の主要な課題だ。戦場だ。
 とはいえ、世の中、人生いろいろなんで、うまくいけたらいいとは思う。生まれてくる子供に祝福あれ! 
 とかヌカして、ふと思うのは、両親美形でもなんだかなの子供が生まれるんですよね。そのぉ、両親美形といってもクセのある美形はだめみたいですね。かわりに両親ともに美形とはいえないけど面に独自クセあがあると、とんでもない美人の子供ができることがあります。

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地球温暖化防止会議は政治に使うっきゃないでしょ

 ひどい話をのっけから書く。地球温暖化防止会議に本来の機能推進の意味はもうない。だったら、これって政治的に使うっきゃないでしょ、と。さあ、貧乏諸国のみなさん、日本の音頭で、アメリカ、ロシア、中国にいっせいにうんこをなげませう!という道具にするのだ。
 私は、環境問題を愚弄しているのか。だが、日経新聞社説「後戻りできない温暖化対策」はすでにあっちの側に飛んでいる。


 世界中の科学者が集まった気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の3次にわたる報告で、科学的な根拠に疑問の余地はもはやない。競争力についても、排出削減の努力をした企業が、むしろ市場での競争力を増すとされる。1990年比で6%という日本の削減義務は、森林の吸収分を差し引けば実質2.1%。欧州に比べ過大とは言い難い。

 日経がそんなことを言っているようじゃ、日本経済の未来はねーなとも思う。が、「排出削減の努力をした企業」のくだりは、そういうストーリーでみなければ、別の意味で真実も含まれている。ニューズウィークでも扱っていたが、それができる企業は優良だし、また、全体コストからみれば、おそらくペイするような状況に変化してきている、と思われるからだ。
 その意味で、私は、テメーのどす黒い裏腹を隠せば、地球温暖化防止推進!、排出削減の努力をした企業頑張れである。まったく人の裏腹なんてものはこんなものだ。
 その意味で、日経のような旗を振るのも、うふふって微笑む。

 気になるのは、発効への足踏み状態を見て、京都議定書そのものを反故(ほご)にしてしまおうという日本国内での動きである。論旨は6年前の京都会議で、さんざん聞かされたのと全く変わっていない。地球温暖化の科学的根拠への疑問、排出削減義務による国際競争力の低下、そして国家間での不平等性などだ。

 だからさぁ、山形浩生はインテリやくざにしとかなちゃっなである、と書いてセンター試験以降の世代にはこうしたビミョーな皮肉が通じないかもしれないな。

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児童養護施設をどうしたらいいのだろう

 率直な話、児童養護施設をどうしたらいいのだろうか、私にはわからない。頭の痛い問題だ。朝日新聞社説「養護施設――地域とつながる好機に」は、その視点を投げかける点で評価したい。最近の社会問題としての背景はこうだ。


 社会保障審議会の「社会的養護のあり方に関する専門委員会」の報告を受けて、厚生労働省が大規模な施設から、子ども6人程度のグループホームや里親など家庭的な養育に転換する方針を打ち出した。
 欧米先進国ではすでに大規模施設ではなく、里親やグループホームが主流になっている。これらの国々から20年以上も遅れたとはいえ、子どもの人権という視点に立って、戦後半世紀ぶりに施設が生まれ変わることを歓迎したい。

 朝日の言い分を聞いていると、ほほぉ、いいじゃないかと思えてくる。もちろん、些細なことを別にすれば悪いわけでもない。
 ただ、朝日も記しているが、この問題はそういう視点から見えないのだ。というのは、問題化されているスコープがわざとらに小さいのだ。現在日本では、約3万人の子供たちが550の児童養護施設で暮らしている。1施設60人になる。
 60人はなんだかなと思うが、問題は3万人のほうだ。これが上限なら、朝日のような美談調の説教もいいだろう。だが、社会を見渡せばわかるように、本当は家庭から引きはしたほうがいい子供の潜在的な数はこの何倍もあるだろう。「引き離したほうがいい」などと軽く書いたが、単純にはそうもいかないし、現実的には現体制ではは無理だ。
 と、書いて、ここで始めて気が付いた。私はうかつだった。社会保障審議会の真意はそこにあるのか。つまり、今後家庭から放逐される子供の組織的な受け皿を作る試みなのか。
 私はひそかに高齢化社会も悪くないなと思っている。その一つは、現在のマスメディアのイメージだと、老後の暮らしが心配だわという貧困のイメージで捕らえているが、金持ちの老人がこれからわさわさ増える。それほど長く生きられもしないのに、そんな金握ってどうするかといえば、子供を金でふん縛るとか、子供をアッパーな階級に送る算段でもする。愚かだ。だが、歳を取った人間はそれなりに愚かでない者もちゃんといる。私はその存在をある社会的パワーとして信じている。彼らが、家を開放するのではないかと期待している。子供や青年や外人を受け入れる家がその内増えてくるのではないだろうか。いつも、絶望で締める極東ブログだが、金子勝のような芸風ではない。希望も書いておくのだ。

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農業の所得の直接補償はばらまきでいいじゃないか

 朝日新聞社説「FTA――農業で身を切る覚悟を」はやや意外だった。かなり意外だったというほどでもないのは、標題が明確なのに内容はぼよ~んとしているからだ。朝日お得意のサヨク・反米の文法で読み取るのが難儀な文章だが、深読みはこの際どうでもいいだろう。
 意外なのは、朝日が農業を切るだけの腹をくくったかということだ。そうではないことは、文章のぼよよんでわかる。しかし、本音はそうだ。


総選挙ではどの政党も、高関税や補助金で農家を守ってきたこれまでの保護政策から、所得の直接補償に切り替えていくと公約した。世界貿易機関(WTO)が認めるやり方に変えていこうというのだ。
 問題は、それが自民党の農水族議員らの横車で従来型のばらまきと変わらないものに終わる懸念が強いことだ。

 率直に言って問題の根が深すぎて、簡単にコメントできそうにない。後段、農水族議員云々の話はどうでもいい。所得の直接補償がばらまきを意味するのは現実を知る人間ならわかる。私が何を逡巡しているかというと、日本の地方をどう守るかだ。FTAは日本の存続の要になる。だが、日本の地方をこのまま崩壊させれば、日本がなくなる。妥当なところとしては、地方には税を優遇し、ある程度金をばらまいてもいいのではないかとすら思う。
 朝日の次の言い分はおためごかしだ。

 意欲と能力に満ち、みずからリスクをとる農家に耕作地を集中させる。企業の農業参入も促進する。農産品の流通の大部分をおさえ、補助金の受け皿にもなっている農協の改革を早急に行う。

 これがオヤジの言うことかね。こんなことを言う青年を殴ってやるのがオヤジの役目ではないか。嫌われ覚悟で端的に言う、農家はリスクが取れないのだ。そのインテリジェンスがない。馬鹿な理想をこているんじゃない。足下を見ろ。朝日新聞の社員を下放したほうがいい。
 嗚呼。嘆息するなぁ。サヨクっていうのは、どうしてここまで農民の実態がわからないのか。もちろん、現在の日本に農家など実際にはいない。だが、農民はいる。農民というのは階級なのだ。この階級という言葉が、長いことマルクス主義者に完璧に誤解されてきた。
 階級というのは、クラスだ。そしてそのクラスというのは、Javaのクラスと同じなのだ。けっして貧困層でもなければ、労働者でもない。そう、労働者ではない。労働者とは生産のリソースを持たないクラスを指すのだ。Javaを囓った人間ならクラスの意味がわかるだろう。クラスが定義されてインスタンスができる。個々の農民というのは、インスタンスなのだ。
 マルクスの資本論は本当に左翼に読まれてきたのか? レーニンのようなお銚子者の実務家というのは歴史には必要だが、彼はけして理論家ではない。エンゲルスは解説者であってマルクスの思想を知っているわけでもない。マルクスは生産のリソースを持たない労働者というクラスを社会主義革命の起点とした。だから、敵は資本家だけではなく、生産リソースを持つ農家も含まれるのだ。農奴なんておためごかしの概念を出すんじゃない。その点、スターリンは農民が敵だという単純な骨太は理解している。だから、農民を虐殺したのだ。そんなことが社会主義の理想とどうつながるかなどわかってもいなかったが、レーニンのクーデターが社会主義革命だと思いこめば、その理想に実態を合わせようとしただだけだ。ま、そんな背景話もどうでもいい。
 農民というのはクラスだ。だが、日本という超資本主義の世界ではそれらはもはや階級闘争的な問題ではない。もちろん、それではナショナルな問題はどうするのかという問いはあるだろうが、ああ、ややこしいが、農民を滅ぼせば日本を失う。

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2003.12.13

死ぬことは怖いなあという話

 46歳のオヤジが言うことじゃないが、世界も宇宙も私という人間の知覚の幻なのではないかと思うことがある。私が死ねば、その意識とともにそれらはすべて崩壊するのではないかと。「我が死後に洪水あれ」と思えるほど、私はこの世界も宇宙も信頼していない。私の死後には世界も宇宙もなくなるのではないだろうか。もちろん、そんなことは常識的にはないのだが、この問題を少年期から今に至るまで問いつめて、そして哲学を学んだ。それでも常識を裏付けることはできなかった。哲学者大森荘蔵のように、世界は宇宙はただひとつだけ存在し私も私という意識も存在しないのだと言ってみたいし、実感してみたい。と、書いてみて、私がそもそも存在せず私の意識とはそのままにして世界であるなら、私の死というものは結局世界の崩壊と同義になる。それでいいのでないか。大森はそう考えていたのだろうか。彼は流れゆく時間もないと言った。つねに意識の今があるばかりと。道元と同じだ。薪は灰にはならない。私は死ぬことがない。それをもって仏教の不老不死と言われても、私は得心しない。悟ってはいない。私はただ迷うだけだ。幸い、私のような馬鹿者が私一人でないことは中島義道を見ればわかる。彼も死が怖いということを一生考え続けている。その気持ち、その行動は理解できる。彼が哲学をするしかないと大森に問い、死について語ったとき、大森は「あのドーンという感じですね」と答えたという。そうだ、死についての思考がもたらすあのドーンという感じだ。あれはうまく人には伝わらない。もっとも、中島は著作では死の恐怖とか言っていても、すでにそれを乗り越えているのだろう。死は眠りとなにも違いはない。
 私はそこまで乗り越えたか。そうもいかないようだ。あれはなんなのだろう。胸が胃がドーンと打たれたようになる。酷いときは真夜中に絶叫する。恥ずかしい話だが、本当に絶叫するのだ。今でも年に二、三度絶叫する。ぅおおお~という感じだ。そのままオルフェノクに変身しそうだ。
 あのドーンというとき、世界は真夜中で薄暗いにもかかわらず、あちこちがギラッギラッと輝く。あれはなんなのだろう。私は頭痛持ちではないが、頭痛持ちの頭痛前兆の脳の生理と似ているのかもしれないとも思う。ああいう感じもまた、人には伝えられない。私は死に直面しているのがつらいから、ネットをザップしている。くだらない情報が欲しいのだ。頽落していたい。ネットにはくだないものがいっぱいあって、私の死を覆う。例えば、ZD Net News「統合失調症の幻覚を疑似体験 ヤンセンファーマが日本版装置を開発」(参照)がくだらない。統合失調症の幻覚を疑似体験できる装置を装着すると、CGとステレオ音声で幻覚を疑似体験できるというのだ。これって、誰が、「OK、これでばっちぐぅ~よぉ」と承認したのだろう。哲学を学んだものなら知っていることだが、幻覚と知覚に差はない。「世界にはこんなことがあるわけがない」という確固たる信念が知覚をフィルタしているだけなのだ。
 私は幻覚と知覚に差がないということを徹底的に理解しようと思った。雨夜を歩いているとむこうに幽霊が立っている。そういう光景をよく見かける。世人も見ているはずなのに知覚をごまかしているのだ。幽霊?そんなものいるわけないじゃないか?そして、不審な思いがつのれば近づいてみて、「なーなんだビニールの切れ端か」と言う。冗談じゃない。大きな間違いだ。時刻t1の認識は時刻t2の認識によって訂正されるわけがない。t1時点の認識ときに、即、あなたの人生は終わるとする。t2によって訂正することはできない。実は、我々の知覚はすべてそういう構造をしているのだ。もちろん、そうしたt2の先のt∞とは、死なのだが。
 そうして世界を眺めると、世界とはなんと豊かなものだろうと思う。天使が舞い、2ちゃんねるには小悪魔が踊る。世界とは、おそらく、死の光でその実相を明らかにする。と、言ってみたものの、あまりいいジョークではない。フィリピンで終戦を迎えた評論家山本七平は、戦時に、ああ、もうオレは死ぬのだなという時、世界がクリアに見えたという。その話を彼が同僚にしたとき、ああ、あんたもそうかね、と答えた。たぶん、人間の知覚には、「ああオレは死ぬのだ」というリアリティが押し迫るとき、世界はクリアにカピーンと見えてくるのだ。意識があれば、そうして死ぬだろう。銃弾に打たれ、その刹那うっ痛ってててくぅーという瞬間はどうだろうか。それだけの知覚の間は取れるだろうか。
 幻聴という経験は私にはほとんどない。恐らくそのあたりの指標で私は精神分裂じゃあないんだろう。統合失調症?どうでもいいけど。ただ、一度、奈良の寺でそれに似た経験をした。一種の神秘体験のようなものだが、歴史のある人物が自分の感情となった。ほほぉ、生まれ変わりの確信というのはこういうものかと思った。彼が私なのか。くだらない話に聞こえるだろうが、誰も自分の意識の起源を知ることはできない。現代の認知心理学の一派ではないが、心それ自体はソサエティのようになっているとすれば、意識の出現にはある情念を伴った知識の集積が必要になると思われるが、そうした知識の断片が多数刷り込まれるとその調停として自我意識が出てくるはずだ、と主張して、それほど科学的に違和感はない。が、なーに、言っていることは、情念知識=霊とすれば、なんのとこはない、それこそ、生まれ変わり説でもあるのだ。人の意識は情報を媒介にして生まれ変わると現代心理学でも言っているようなものなのだ。
 私の言っていることは多分に狂気だろう。そのことくらいわかる。私は自身が狂人かもしれないと若い頃思ったことがある(20年くらい前まで、たいてい青春っていうのはそういうものだったのだが)。狂人(どうでもいいがATOKは「きょうじん」を変換しないので登録した)かもしれないと疑った人もいた。私の行動はいたってまともだから、私を理解しようとさえ思わなければ、私を誰も狂人だとは思うことはない。私はぐっと抑制して生きている。だが、そうもいかなくなり、様々に人生も破綻し、精神医学者木村敏の本に出てくる症例のように離人症的な感覚になり、苦痛のない苦悶感から、大学のカウンセリングに通った。カウンセリングというのは一様ではない。結論から言えば、理論など糞でいい。カウンセラーがすべてだ。W先生はただ静かに私の込み入った思考を聞いてくれた。ただ、一度、専門医に診てもいましょうということで診療ではないが、カウンセリングの一貫で診て貰ったことがある。精神分析医なのだろうか。タイプ煙草を吹かしながら、質問をしつつ奇異な目で私を見ていた。診断は…もちろん、異常ではなかった。いい時代だった。薬がまだなかったのだ。今思うと、あの医者のほうが変だった。カウンセリングはなんとなく終わった。離人症的な症状は消えた。あれから人の失恋談を聞くと、かなりの数の女性が激しい失恋時に離人症的な状況になっていることを知った。女の心っていうものはなんなのだろうと思う。好きでもない人としかたなくセックスをすることもあるようだが、好きと決めた男は変わらないようでもある。そうした心の基礎構造と失恋の離人症的な状況には存在論的な意味がありそうだが、そこまで透徹した女性の哲学者を知らない。そもそも女性の哲学者というのがシモーヌ・ヴェイユ以外あまり思い浮かばない。ローザ? あれは哲学じゃないしね。
 カウンセリングの際の自分の心を思い出すに、この人は私を理解できるだろうかというな猜疑の意識がある。それは、実際にはある種の悪意に近い。人の善性を引きづり降ろそうとするような意識でもある。小林秀雄が短いエッセイで、多くの狂人と向き合って生きてきた経験からすると狂人にはある種の悪意のようなものがあると書いていた。そうだろうと思う。これは精神医学的には言ってはいけないのだが、狂気にはなにかしら悪意のようなものがある。もちろん、健常な人間から悪意に見えるだけだという反論はうざったい。
 私が死ねば、宇宙も世界も日本も崩壊すると考えて、私には不都合はない。が、そうもいかない。死は、病気や戦争などがなくても、自然に授与されるものだ。「戦艦大和の最期」を著さずにいられなかった吉田満は、「戦中派の死生観」などで、戦後日本の問題を座視していてはいけないとぬかしていたが、死ぬ前に言っても、遅せーよ。司馬遼太郎もそうだ。遅すぎる。梶山静六もあっけなく死んでしまった。東海村の事件がプルトニウムであることがバレなくてよかっただけ悶死でもあるまいというのは冗談だ。60歳越えて憂国の念に駆られても遅すぎるよ、と思う。
 という文脈で、私の死は私の国への思いとつながっていることがわかる。私というのは、国への思いのなかで死の恐怖を解消しているのだ。ヘーゲルみたいだな。照れちゃうじゃないか。せめて、コジェーヴにしとかないと、おっしゃれじゃないよね。

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世界のデジタル・バイドなど

 新聞各紙社説をざっと見渡して、さして取り上げるべき話題もないと思う。が、考え直すと、少しずつ言及したほうがいいようにも思う。そんなわけで、特にまとまったテーマはないが、ザッピング的にいくつかまとめよう。

道路改革
 朝日新聞社説「道路改革―おねだりが民主主義か」は自民党のいわゆる道路族議員らが高速道路建設続行を主張する案を批判したもの。確かにこれは朝日の言うのが正論なのだが、そういう正論を言っても実質の改善にはならない。猪瀬直樹があれだけジャーナリズム的に追いつめておきながら、事態は完全にふいという目が出そうだ。そのことを猪瀬も懸念しているのだ。私はこの問題では猪瀬を支持するのだが、前回の衆院で彼は民主党批判に回ったのは政治センスの欠落だったと思う。彼の気持ちもわからないではないが、些細なこだわりで大局を失った。もっとも彼の影響とまでいうわけではないが、衆院選は未だに自民党にぶれてしまった。道路改革の頓挫はこの選択をした国民にあると私は思う。
 だが、実際に日本国民というとき、すでに極東ブログでも何度も書いてきたが、都市市民と田舎民に分化されている。だから、次のように朝日が主張しても空しい。


 地方の首長も考え直してもらいたい。国がただで造ってくれる高速道路をあてにするよりは、限られた財源で地域の道路整備をどう進めるか。その知恵を絞るのが、自立した地方の姿だろう。

 そこが進まないところに、根幹の問題があるのだ。

イラク情勢
 私は現在のイラク情勢についてはっきりとした視点を持っているわけではない。メディアと若干違う視点を固持するとすれば、シーアとスンニの対立を中心に見ている点くらいだろう。と、言ったものの、まだそれがはっきりとはしてこない。
 それとは別に今朝の朝日新聞社説「イラク復興―利権争いの場にするな」はまたまた愚劣な反米ラッパだった。むかつくなというより、これってお笑いでやっているのか。


 フセイン政権が倒れたのはいいが、戦争の災禍に苦しみ、占領で誇りを傷つけられたままのイラクの人々から見れば、この事態は米国が仕掛けた復興の利権争いにしか映らないだろう。民衆の生活の安定と自立への支援という原点を忘れては、占領への反発はさらに深まりかねない。

 端的に言って事実認識はそれでいいのか? トリックは「イラクの人々」にある。フセインが倒れたということは、そのイラクの人々がバラバラになることを意味しているのではないか。というのも、私はイラクは分割統治するしかないのではないかという考えに傾いてきている。
 余談だが、朝日のこの文章だが、フセインを大日本帝国とし、イラクを日本、復興を冷戦に置き換えて読むのが正しいようにも思える。

少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ
 読売新聞社説「少年事件 公開捜査が必要な場合もある」はつまらなかった。この問題が、つまらないでいいのだろうかとも思う。読売のネタは、凶悪事件でも少年についても公開捜査するという通達を警察が出したという話だ。国民の普通の感覚からすれば、なにを今さらだ。
 少年事件と呼ばれる少年の問題は、この10年間さまざまに議論された。私は全然その議論は的を得ていないと思う。そう思うのは、酒鬼薔薇事件が十分に問われていないと思うからだ。私は彼の書いた神曲を引用する脅迫宣言は天才の筆になると読んだ。その文学的な闇がなぜ問われないのかと思う。大人は左右陣営とも、はなから彼を子供として見ているが、君たちより優れた文学者がそこにいたのだ。文学とはそこまで狂気と暴力を内包していることを社会は忘れていると、というか、現代に悪霊が書けるほど強い文学者がいないのだ。

東南アジア友好協力条約(TAC)
 東南アジア友好協力条約の問題はかなり大きいのかもしれない。昨日、Googleニューズをザップしていたら、これにけっこう各国がぴりぴりしている様子がうかがえた。問題の根幹にあるのは、中国だ。中国は今や夜郎自大にふんぞり返っているいるのかと思ったが、そうでもないような印象すら受けた。もっとも、今回締結したのは中国のお目こぼしかもしれない。

FTAに前進はあるのか
 日経新聞「FTA成功へ国内調整急げ」は、あっけらかんとして良かった。ある意味、私はこの問題を考えるのが嫌になっていた。しかし、事は分解してテクニカルに見ていくなら、さして問題があるわけではない。もっとも、そうできないのが致命的な問題なのだが。


 看護師の受け入れでは、日本語の資格試験をパスしても4年間しか働けないという制約があり、まずはこの大幅な延長が必要だ。また英語の資格試験合格者でも、在日外国人患者の看護などニーズは多いはず。介護士やマッサージ師の受け入れも柔軟に考えてよいのではないか。

 ふーんという感じだ。実際、日本社会がそれを受け入れるのかよくわかんないなと思う。そこら辺の30近いフリターのお兄さんがフリピーナの看護婦のドライバーでもする光景を見るのも悪くない。

世界情報社会サミットはジョーク
 産経新聞社説が世界情報社会サミットを扱っていたが、この分野までポチ保守かよという腰砕けで笑えた。このサミットで問題になったのは、インターネットの米国支配の問題だ。もっとも産経は米国という禁忌を避けているものの、世界情報社会サミットは阿呆臭いという主張は出ていている。他紙はこの問題にまともに取り組んでいるとも思えないのはなぜだろう。
 この問題について読み応えがあるのはAP通信だ「『米国によるネット支配』を論じる世界情報社会サミット」(参照)。


 大きな論点になっているのは、誰がインターネットを統治するかということだ。中国、南アフリカ、インド、ブラジルなど一部の発展途上国は、米国が選んだ私的機関の手からインターネットを取り戻し、国連の管轄下に設置した国際機関にゆだねたいと考えている。

 インターネット技術の実態と歴史を知っている人間なら、そりゃ、ジョークだと思う。爆笑してしまうのだが、さて説明となると面倒臭い。AP通信も結局、礼儀として途上国側に配慮した記事になっている。この問題ではそのうち誰も本音が言えないPCの領域になるのだろう。
 それにしても、これはないだろうというのが以下だ。

 また発展途上国は、早くからインターネットに接続した西側諸国が、コンピューターの接続に必要な有効なアドレスのほとんどを使ってしまい、発展途上国が利用できるアドレスが限られてしまうことも心配している。

 おい、その途上国から留学生を日本に送れよと思う。SFCももっと途上国から留学生を受け入れたほうがいい。
 記事中にはブラックジョークもある。

 アルファベット以外の文字のドメインネームをもっと迅速に承認してほしいという要望も出ている。現に中国は数年前、国内のインターネットを2つに分割し、中国語による独自のドメインネーム・システムを構築することをほのめかした。

 Googleにフィルタとかかける国だぜ、中国。勝手にしろよと思うが、中国っていうのは文革みたいなことを世界規模でやるかもしれない。余談だが、みなさん、JWORDこと中国語キーワード、もとい、日本語キーワード、インストールしちゃいましたか。あの、アドレス欄で日本語検索ができて便利というヤツです。もし、そうなら、あなたはデジタル・バイドの下層階級です。はい。

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2003.12.12

なんとなく思う脳機能のこと

 日付上は昨日になるが、11(木)ラジオ深夜便午前1時「人権週間インタビューシリーズ『本当の自分を生きたい』」で埋橋里衣さんが話された「"覚えられない私"を知って!」が興味深かった。外観からは普通に見えるのだが、高次脳機能障害を負って生きる話がたんたんとしているものの痛切に感じられた。
 私は高次脳機能障害の定義がよくわからない。手元のメルクマニュアルを引いても載っていなかった。メルクはあまりこういうシーンで役に立たないことが多い。ぐぐると、毎日新聞のサイトの「ことば」にあった(参照)。


高次脳機能障害
病気や事故などの外傷で脳が複雑なダメージを受けた結果、脳の高次機能である言語・記憶・感情等の機能に生ずる障害のこと。脳神経のつながりが絶たれるなどして、記憶力や注意力が低下したり、感情がコントロールできなくなったりする。従来救命が難しかった症例でも医学の進歩で意識回復できるようになったために、生まれた「新しい障害」とされる。

 最後の文章が間違っているようにも思う。だが、今回はそれは問題としない。気になるのは、言語の障害が筆頭になっていることだ。これには、「日本失語症学会」が「日本高次脳機能障害学会」と改名したことの影響があるのだろう。国内におけるST(言語聴覚士)との対応も気になるが、今一つよくわからない。ただ、率直な印象だと、現在の日本社会における高次脳機能障害の問題は、言語治療とは一線を画すだろう。現状のままでよいのだろうか。
 社会的には高齢者の脳卒中の後遺症のように思われているふしがあるが、交通事故などが原因で若い人にもある。支援団体「高次脳機能障害若者の会『ハイリハ東京』の主張」(参照)は参考になる。

中でも、自分の人生をこれから築くという時期にある、「若い世代の高次脳機能障害者」は、多くの障害に取り囲まれています。

 こうした問題をどう社会的に考えていけばよいのかよくわからない。
 話がかなり脱線する。こういう脱線はよくないのかもしれないが、自分も30代から40代後半に差し掛かり、若い時とは脳の働きが違うなと思うことがある。よく言われる記憶力の低下や集中力の低下もある。それは日常に支障を来すわけでもないし、健全な老化の一端と言えないこともない。むしろ、私などは、若いときはこういうのは恥ずかしいことなのだが、強い感受性で苦しんだので、老化による鈍化でちょうどいい。気になるのは、そうした一般的な話ではなく、なんというか、物の考え方や関心の脳処理が、もどかしくうまく言えないのだが、歳とともに変わってくる感じなのだだ。多分に脳の劣化なのだが、たんに劣化なのかもよくわからない。
 先日三島由紀夫が自分の歳に自殺したことに気が付き、ああ、この歳だったのかとも思うのだが、歳とともに、自分の、魂とでもいうのかなにかが変成してくる。魂というより、端的に脳機能だろう。日常の些細なこと、記憶の遠近感が狂う。10年昔と20年昔がきちんと遠近法的に記憶されていない。なぜ生きているのかといったなんとも根元的な悩みが、常時きつく脳に負荷をかけているようだ。もっと端的な話、なぜこんなブログを書き始めたのかも、脳の問題が関係しているような気がする。
 4か月ほどブログを続けて思うのは、一面ではある苦しみから解放されたことだ。脳がすっきりというのではないが、それなりに世界に向き合ってその不正の怒りを言葉にして確認しないでいることが実存的な苦痛だったと気が付いた。
 もう一点は、自分の多面性を表現せずにいられない。そんな多面的な人間でもないと思うだが、自分の内部の人格とまでもいかないまでも、知的な志向を、ある意味、野放図に開いてみたいとも思っていたようだ。ブログとの関連はそのくらいだろう。
 しかたがないなというレベルの脳機能の微細な変化もだが、もっと危険な変化を内包しているような恐怖も感じている。うまく言えないのだが、人生の過程でおそらく誰でも、ある程度、人間というのは孤独なものだと胸にひりつくように得心するものだが、それがそれで終わらない。精神的に苦しい。もちろん、社会関係や各種の直接的な愛情のつながりのようなものが私にもある、というかそれをよすがに生きているのだが、どうも、その孤独は脳のなかで現実の知覚や処理に悪い影響を与えているような気がするのだ。
 高次脳機能障害の話の文脈にまぜるような述懐でもないのだが、高次脳機能障害者の問題の話を聞いていると、それとは違うがそれに似たなにかが自分に、いつも、思い当たる。

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記者クラブがお笑いを一席

 今朝の新聞各紙の社説に見るべき内容はない。FTAについても日墨問題を看過してうまくいくわけもないだろうと思うし、あるいはそうではない秘策でもあるなら、きちんと論じてもらいたいが、そういう話でもない。くだらない。補助金削減についても、いまさら言ってもしかたないし、地方の問題を掘り下げるわけではない。危機感を装うその日その日のパフォーマンスが社説であっては困るなと思う。
 そんななか、世にも愚劣なニュース入ってきて心が浮き立つ。EUがかねてより、日本の記者クラブ制度の廃止を提言してきたこと(参考)に対して、10日、日本新聞協会は「歴史的背景から生まれた記者クラブ制度は、現在も『知る権利』の代行機関として十分に機能しており、廃止する必要は全くない」との見解を公表した(参照)。あーあ。サイテーです。
 いや、サイテーでもないか。爆笑できるからな。いわく。


 EUの優先提案は
A 外国報道機関特派員に発行されている外務省記者証を、日本の公的機関が主催する報道行事への参加認可証として認め、国内記者と平等の立場でのアクセスを可能にすること。
B 記者クラブ制度を廃止することにより、情報の自由貿易にかかわる制限を取り除くこと。
 の2点です。
 Aは日本政府に対する要望であり、日本新聞協会は異論を差し挟む立場にありません。しかし、Bの「記者クラブ制度の廃止」は日本の報道機関の役割に密接にかかわることであり、無視できない問題です。

 Bについてはサイテーです、で終わり。Aについては、笑った、そう来たか。馬鹿だなぁの笑いが取れる。Bが実現すればAが実現するじゃん、という話はさておかないと笑い話にならない。でだ、ほほぉ、それって日本政府の問題なのかぁ。そりゃそりゃって感じだ。民主党が政権を取ったらヤッシーを要職に据えようっていうジョークでタメ張りたいものだ。ま、冗談はさておき、「外務省記者証」ですかぁという感じだね。ちなみに、EUの文書はIn their annual wish list of regulatory reforms(参照PDFファイル)だ。
 ちなみに、穏和に書かれているがこの手の問題の参考として、Japan Media Reviewの記事EU Pressures Japan to End Closed-Door Press Practices(参照)にはこうある。

 Japanese government officials replied that they actually don't control the kisha clubs -- they come under the authority of The Japanese Newspaper Publishers & Editors Association -- known also as Nihon Shinbun Kyokai, or NSK.
 The NSK writes the recommendations for kisha club behavior, but says it doesn't actually control the system -- the individual kisha clubs are responsible for membership selection.

 つまり、政府側としては事実上、記者クラブを統制していないというのだ。ま、アンオフィシャルにだろうけど。で、ちと頭を冷やして考えてみると、確かに個々の記者クラブを日本新聞協会が統制しているわけでもないか。しかし、このあたりもヤッシーおお暴れの結果、裏のカラクリは炙り出ている。こうしてみると、ヤッシーもたいしたものなのか。いずれにせよ、日本の新聞がまさに日本的な権力として言論を弾圧している、つまり、不可視で狡猾な手法を使っているわけだ。
 恐らく現実的にはこの問題は日本の内部から崩すことは難しいだろう。日本の新聞自体が日本のジャーナリズムの主要な問題なのだというのは、わかりづらい。日本がある程度国際世界から注目される存在を維持するなら、そう遠くなくこの問題は国際問題になるだろう。
 ふと思ったのだが、日本の難民の扱いすら大きな問題になっていないのはなぜなのだろう。なぜ、こんなにも日本は甘やかされているのだろう。米国の保護なのか。

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2003.12.11

シュレディンガーの猫を巡る愚考

 れいの儀礼的無関心という話題の派生なのだろうが、「圏外からのひとこと」の「波動関数的な欲望」(参考)にシュレディンガーの猫の話が出てきて、些細なことなのだけど、あれ?とか思って、ドツボってしまった。こういう話だ。


「見せたい」と「見せたくない」という矛盾する二つの状態が同時に両立する、という問題も現代物理学に似たような問題があって、シュレーディンガーの猫と言います。これは、空想の話ではなくて、まさにこの世界の話、この物質の話です。この猫は、生きてると同時に死んでいる、両方の可能性がこの世に同時に存在しています。
(中略)
 シュレーディンガーがそういうことを言っても信じない人がいて、サイクロトロンという直径何キロメートルもあるでかいメガネを使って見てきたそうですが、物質というものは矛盾する複数の状態が重ねあわされて存在していて、「観測」するとそのうちのひとつに心を決めるわけです。リンクされないサイトも「見せたい」と「見せたくない」が両方重なった波動関数的な欲望の元に存在していて、ヲチスレからのリンク等の「観測」という事象によって、その欲望の形が決定されるわけです。その結果、一定の確率でサイトが閉鎖されます。

 シュレディンガーの猫はあくまで話の例えとして出てくるので、「波動関数的な欲望」という話題の論旨とは関係ない。なんというか、山形浩生が浅田彰のクラインの壺にツッコミ入れるような話なのだが、私の場合はさらに、批判的な意図などまるでないです。
 シュレディンガーの猫がなにかと説明するのは面倒くさいので割愛なのだが、この話、つまり、量子力学の観測問題っていうのは、観測というイベントで波動関数が収束するっていう話だったっけかな、あれれ? つまり、観測者が収束の原因になるのか? もちろん、その手の理解はあるけど、それって、けっこう初歩的な誤解じゃなかったか。つまりつまり、観測によって波動関数が収束が起こったという話は典型的な誤解だったように思うのだが。つうか、波動関数がいつ収束するかではなく、観測は常に収束の状態ということではなかったか。つまりつまりつまり、「波動関数がいつかの時点で収束する」っていうことのパラドックスだったのでは?
 と、あれれの心持ちでぐぐっみると、なんだか観測原因説みたいのもぞろぞろ出てきて、ちょっと泡吹いちゃいました。ぶくぶくぶくぅ。書架を一別するとそんなときに限って町田茂の「量子力学の反乱」があって、めくったけど、確か町田茂は並木美喜雄の一派で、なんだかなぁの人たちだったのだっけか。
 ぐぐったついでに、けっこう多世界解釈がネットで幅をきかせる時代になっているのを発見して、驚き(参考)。多世界解釈というと、ほとんどバシャールの世界で、なんか冗談とユーモアの心の広さが必要になるような気がするが、ま、いいや。
 で、結局最初のあれ?はどうなったかというとどうにもならない。じゃ、話にもなんにもならないので、「圏外からのひとこと」の「波動関数的な欲望」について考えてみたが、これも、わからん。
 私の欲望は確率的に存在しているのか。たとえば、お茶碗が欲しいな(私はお茶が趣味なのである)と思ってヤフオクを見ている。おお、いろいろ茶碗がある。どれでも所定金額以内なら選べるぞぉ=波動関数的な欲望。で、粉引茶碗1000円を落とす、というところで、私の波動関数的な欲望は収束したのか? つうか、結果からみれば、それが欲しかったことになるから、よって、それを決める前には欲望があったということか。うーむ。なんだか違うような気がするなぁ。って、反論ではないが。欲望とその指向性はそういうのじゃないような気がする。
 と気がするばかりで、まるでわからん。例えば、私はある種の粉引茶碗が欲しい。だから、ヤフオクのチョイスをその欲望の系列で見ていく。その系列に散在する個々の欲望はどれでも、むしろ、欲望を確率にした存在だ。この茶碗2000円なら40%の満足っていう感じだ。そういう多数の系が、波動関数的に存在する、ということはありうる。で、実際になにかを買う、というのは、収束なのか? 単なる最適化じゃないのかな。物理学的なモデルではなく、経済学的なモデルのほうが、欲望には合いそうだな。

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韓国世論にはついていけないなぁ

 韓国の新聞から見る世論にはついていけないなと思うことが多い。日本人にはマジかよと思うがそういう思いも通じないだろう。中央日報社説「鬱陵島は日本領土、韓国は中国領土、海外サイトの韓国情報デタラメ」はまさに標題の通りだ。鬱陵島とは日本名の竹島だ。


 世界地図のサイト「djuga.net」は、独島(ドクト、日本名・竹島)はもちろん鬱陵島を日本の領土に含ませていたが、広報処の要求で、最近是正した。とくに、韓国歴史についての無知から始まった誤入力が多かった。英国の世界歴史情報サイト「spartacus.schoolnet.co.uk」は「韓国は1637年、中国の一部に併合され、1895年まで独立できなかった」とし、韓国を中国の属国に表現した。

 竹島については、あれが韓国領土だと海域の問題が面倒になるので、話し合ってどちらの国でもないということにすればよさそうなものだが、ダメなのだろう。日本側でもダメだと言い張る人がでくるだろうし。
 「日本海」に至ってはそこまで問題にするかと思う。これについては率直に言ってまるで議論の余地もないのだろう(参考)。

とりわけ、今回見つかった誤った情報のうち70%にあたる約1300件は、東海(トンへ、日本名・日本海)を日本海(Sea of Japan)に表記したけースだった。はなはだしきは、国連傘下の技術協力機関のサイトである「intracen.org」も、東海を日本海に表記、政府レベルの広報が急がれていることが分かった。

 「日本海」の呼称については、それほど韓国がこだわるなら、日韓で妥当な名前を考案すればいいだろうと思う。その場合でも、東海(トンへ)はいただけない。理由は簡単で、中国も「日本海(Ribenhai)」と呼んでいるうえに、「東海(Donghai)」は「東シナ海(East China Sea)」を意味している。そんなまどろっこしい名称にすべきではない。仮にあれが「トン海」というように漢字を意識しないというなら、アジアの漢字文化の否定になる。それはあまりに愚劣だ。くどいが、韓国が問題視する理由もわからないではないのだから、そうした背景を含めて新提案すればいいではないかと思うが、現実にはダメなのだろう。
 なんだかなぁという話の連想だが、朝鮮日報社説「ついには情報化でも追い抜かれたか」も変な後味が残る。いわく、日本に情報化で負けるなというのである。

 しかし日本が「自宅まで光通信を」といった“野心に満ちた”計画を実行に移し、インターネット普及率が激増している。総加入者数ではすでに韓国を抜いた。韓国はまだ手始めの段階にある。

 なんと言っていいか言葉につまる。日本は日本の都合でやっているだけで、韓国との問題ではない。韓国も別に日本の情報化など気にすることはないのではないか、と思うが、そうもいかないのかもしれない。
 以上、なんとなく、日本人として優越感のような響きがしたら、いかんなとは自戒するし、そういう気は毛頭ない。ただ、日本人としては、こういう文脈では絶句してしまうなという感じがするのだが、その点はどうしても伝わないのだろう。歴史的に交流の深い隣国ですらそうなのだ。

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台湾独立、そりゃ当然の話だが

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魔法のラーメン発明物語
 先日、チキンラーメンを作った安藤百福の本(日経「私の履歴書」の書籍化)「魔法のラーメン 発明物語」を読んだ。面白いと言えば面白かった。知らなかったのだが、安藤百福をモデルにした人物がNHKの朝ドラに出ていたのだな。この百福さんが育ったのは、台南である。そっかぁ、邱と子供時代の故郷が同じなのか。あの風景を見て育ったのか、そういう思いでつながっているところがあるのか、と思った。その他、連載じゃなくて、本で通し読みしてみるといろいろ思うことがあったが、それはまた。  私は邱永漢と同世代の台南生まれのかたと一緒に台南に行ったことがある。それは思いがけない体験になった。詳しく書くと差し障りがあるかもしれないが、2.28の生き証人と本省人の内側を見る機会になった。まさに、リップンチェンシンである。今の日本人は日本精神が欠けているとなんどか言われた。そうだと思う。その後、小林よしのりの「台湾論」が出た。読んでみた。意外に悪くない。ただ、彼が台湾で得たインパクトはあれで伝わっているのだろうか。台湾について語ると長くなる。  だが、正直、本当の意味で私は台湾通ではないと思う。というのは、昨今の台湾の動向が今ひとつ理解できない。この話題は、まいどのことながら、日本のメディアではあまり取り上げられないのだが、今朝の日経の社説「台湾独立に反対した米国」が扱っていた。ことは日経を引用するほうがわかりやすいだろう。こうだ。
 ブッシュ米大統領が9日、中国の温家宝首相との会談で、「中国と台湾のいずれであれ、現状を変える一方的な決定に反対する」と述べ、中台双方の自制を求めた。同大統領は特に陳水扁台湾総統の一連の言動を批判し、台湾独立への反対姿勢を初めて明確にした。
 もちろん、米国はおもてに立って台湾独立支持はしない。もうけっこう昔のことになるのか、私がコンピュサーブを使っているとき、台湾関連で、Province of Chainaという表記を見たとき、なんとも胃が苦くなるような思いがした。中共側を考慮しているともいえるし、国民党の大法螺というジョークにもなるのかもしれない。いずれにせよ、ひどい話だ。  話がちんたらするが、その後、1996年、中共側人民解放軍がトチ狂って、与那国沖にミサイルをぶち込むことがあった。そう、あれは台湾というより、日本の国境に近かったのだが日本のメディアは馬鹿の極みだった。あのときの米軍の動きを見ると、いざというときは米軍は動くと思った。そうしたことを考えに入れると、米国が台湾を見捨てることは金輪際ないと思われるのだが、そういう原則でだけでは今回の事態はよくわからない点がある。  日経の次の指摘は、昨今の状況を手際よくまとめていて、悪くはない。
 台湾経済の低迷などで支持率を落とした陳水扁民進党政権は、一時は野党の連戦・国民党主席、宋楚瑜・親民党主席の総統、副総統候補に20%近くもリードされる苦境に陥った。そこで陳総統は、争点を中国との統一か独立かを巡る問題に集中し、人口の8割以上を占める、中国との統一を望まない本省人(台湾出身者)の台湾ナショナリズムに訴える作戦に出た。
 そのように理解してもいいのだろうとは思う。というか、その当たりで、どうも陳水扁に盧武鉉のような知恵不足というか歴史経験の甘さを感じる。とはいっても、李登輝も死力を尽くしてこれに荷担しているようでもあるので、本気かという感じもする。李登輝が動けば、まさにリップンチェンシンである。そう思うと日経の結語は、合理的ではあるのだが、なんとも苦い思いがする。
 強大化する中国にのみ込まれることを懸念する台湾住民の気持ちは十分に理解できるが、台湾独立を阻止しようとの中国の決意も固い。ブッシュ発言を機に双方が冷静さを取り戻すべきだし、日本もそのための働きかけを始めるべきである。
 リップンチェンシンとなれば、これはもう、「わかりました、大和を出しましょう」の世界になってしまうのだが、現実的にはそうも行かない。朝日新聞みたいに中共に足蹴にされて快感を覚えるほど変態にはなれない、となると、なんとか外交を動かすしかないのだが、外交かぁ。あの馬鹿どもかぁ。
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1984年
 中共側の中国人という言い方も変だが、台湾人は中国人ではない。で、中国人というのは、本音というのはない人間なのだ。常に状況と権力に最適化されているだけなのだ。ジョージ・オーウェルが「1984」で提出した秀逸なブラックジョーク、ダブルシンクのまま生きていける人々だ。とはいえ、日本人の本音のように実は利で動くという単純なモデルはない。いずれにせよ、中共側の面子を潰さないのは前提だろう。だが、面子にこだわっていると地歩は失われるばかりだ。ここは一発、中共の面子を保たせながらも、台湾と日本と米国のロビーが組んで、嫌な思いを一発かましてやるべきだと思う。どっかにそういう弱点はないか…、わからん。難しいなぁ。

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2003.12.10

ごく個人的な述懐

 以下、つまらぬオヤジ(私)の述懐である。説教ではないがつまらなさの点で説教に匹敵するのが述懐というものである。と、冒頭に謝辞を書く。さぁ、センター試験以降の世代のみなさん、ここでバックせよ。
 述懐の内容はというと、岩月謙司の「女は男のどこを見ているか」(筑摩書房)だったかに、「男は歳を取るにつれ魂が清められていく」というのがあったが、そういう話だ。もちろん、魂が清められるとか言われたら爆笑してもいいだろうと思うし、岩月謙司とか中谷彰宏とか読むなんて知性が疑われるぜというのも当たりだろう。ま、しかし、この手の読書も一種の愚行権の行使のようなものだ。
 ただ、たぶん、それでも、42歳の厄年を過ぎた男なら、「男は歳を取るにつれ魂が清められていくものだ」と言われて、心のどこかで、そうかぁと思う部分があるだろう。もちろん、単純に肯定するわけじゃない。肯定なんかできっこねーよというくらい世事に汚れて生きていたなと思うものだ。が、そういう汚れたなという思いの後ろのほうに、どっかしら「魂」みたいなものが生きている。「男なんてものはしょーもない、いつまでたっても子供だなと同じ」くらいに女は思うのだろうが、そう思われたって、どうしようもない。
 週刊朝日のくらたまのエッセイに、30過ぎの女の目として、子供と遊んでいる父親の男っていうのも悪くないなぁみたいな話があった。彼女に言わせると、10代、20代にはわかんなかったよなということらしい。日本の世の中はこぞってお子ちゃま志向だから、女も男も若いのがいいのかもしれない。特に男なんか老けた女なんか嫌だと思う人も表向き多い。実際は人間の魅力というのは複雑なものだ。誰だったか女のエッセイで、よーするにチンコが合わないとどうしもようないというのがあったが、そういう人間観だってある。
 で、なんの話だっけ、そう中年男の魂ってやつだ。普通は仕事で磨かれるとか思うかもしれないが、多分に、子供や女との関わりで磨かれてくるものじゃないかと思う。そうかよと突っ込まれるとそれほど説得力もないのだが、で、それがうまくいかないというのは、生きてみて思うのは、端的に言って、酒と権力だなと思う。
 権力のほうは、金と地位に分けてもいい。酒と権力のなかに溺れて、男は魂を失っていくのだ。なんて甘っちょろいことを言っているのだ、俺はとも思うが、しかし、酒を止めて2年以上経つ。そして、回りにぼろぼろと酒という戦場で崩れていく男たちを見ると、そう思う。男が酒で死ぬっていうのは、とてもまっとうな死に様なんだろうなとも思う。
 権力は複雑だ。もともと男は権力がなくては生きられないのだ。というか、そう思い切ることが青春との別れのような気がする。すでにそれを吹っ切った人間はいくら実際の歳が若くても、オヤジの相貌になってしまう。権力の怖さはそれに麻痺していくことだ。もちろん、自分が行使する権力もだが、実際の社会の権力は自分に根ざしていないから権力の網になる。つまり、自分も権力下に置かれるということだ。そこにある種の快感を持つあたりで、男は壊れていく。
 俺はそういう権力から逃げた。そして、逃げたことにすごい罪責感がある。その罪責感は権力の毒と同じだ。でなければ、こんな述懐は書かない。

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暗室
 ところで、女というものは難しい。女は常に両義的んだ。女につぶされていく男もいる。女の怖さというのは、そら恐ろしいものだと書いてみて全然表現にならない。吉行淳之介のように、古今東西女は怖い、東西南北女は怖い、春夏秋冬女は怖いと念仏をしても、まさに吉行のように撃沈されるのだ。この歳になってみると、若いころは、なーんてエロと思った小説、「暗室」「砂の上の植物群」「夕暮まで」なども、エロではなく、女に滅んでいく男の姿なのだ。噂の真相に池澤夏樹に愛人というのがあったが、ガセでもそう書かれて、そーかもぉと思えるあたり作家というのはすごい。なに、渡辺淳一先生はもっとすごいか。
 栗本慎一郎が昔、「女は個別のトランザクションである」と言っていた。なんとも謎めいていて意味不明に近いが、男のトランザクションはルールであったり原則だったりするのだが、女のトランザクションはその場その場なのだ。で、トランザクションってなんだ?なのだが、この文脈では男女の交渉といってもいいだろう。不思議なことに、変わった男というのはどこから見ても変わった男なのだが、変わった女というのは必ずしもそうではない。女に個性なんかあるのかよと男は思いがちだが、誰も理解できないような孤立した男を女は個別にこっそりと理解する。男も女も性をタイプで見てしまいがちだ。「こういうタイプがいい」とかいうわけだ。だが、女はこっそり抜け駆けをする。原則がない。男は原則に拘束されてしまう。ロリコンというのもどういう心情なのか私にはよくわからないが、そこに男の性を拘束するようなものとして存在しているのだろうなという直感は働く。萌え萌えによって、実は、自己を拘束しているのだ。もっとも、女も似たようなものでもある。酒井順子がいまさら結婚するなら、ロイヤルストレートな男でなくちゃいやだとか言う。ま、彼女の商売らしい物の見方だと思う。だが、実際にはそういう理想は現実には存在しない。理想はただ自分を拘束するだけだ。
 で、話はどうなるのか。もう終わりだ。オチもない。魂の浄化はどうなったか。ま、いいじゃないか。どうでもいいが、鴨ちゃんの「南の島で」に泣けるなぁ。

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フツー、「火力」って言うかぁ?

 NHKのニュースを見ていたらイラク派兵の際の兵器の性能について「火力」という言葉で言及していた。おい、よせよと思った。「火力」っていうのは、日本人が日常使う言葉じゃねーぞと思う。もちろん、NHKのことだから、内部で用語の調整はしているはずだ。いちいち「大地震」を「おおじしん」と統一して読ませているくらいだから。とすれば、「火力」はOKなのか。もっとも、この傾向はNHKに限らない。他のメディアも「火力」という言葉を垂れ流している。「火力」という言葉はいちおう国語事典レベルでは軍事用語とはされていないが、元来は"firepower"の訳語だろう。そこで原語を三省堂の辞書を引いてみればわかるように、ちゃんと軍事用語となっている(参考)。
 みんなどうかしてんじゃないか。軍事用語だからいけないとはいわない。そんな軍事用語が必要なのかと私は言いたいのだ。
 なんとなく、このブログもプチウヨにも思われているきらいがあるが、私はなによりこうした軍事用語が嫌いだ。軍事というのは、基本的に政治で制御しなければならないものだ。そのためには、政治で制御するために社会に開かれた言葉を使わなくてはいけない。物事を性格に表現するために専門用語があるのは了解するが、「火力」なんていう言葉が必要なのか。必要ないだろう。
 「火力」がもし事態を専門的に説明するために必要な言葉だというなら、その工学的な定義が存在するはずだが、ざっと見た限りない。もちろん、常識人として「火力」という言葉は知っているべきだとは思う。だが、私は、「火力」という言葉は昨今の事態のレベルでは必要ないと思う。そういう言葉を垂れ流すメディアは、てめーらおかしいよ、馬鹿だよと言いたい。兵器の「威力」で十分ではないか。
 こういう言葉が流布されているときは、なにかが隠蔽されている。なにが隠蔽されているのか。「威力」がいけないのか。そのあたりがわからない。
 余談になるが、「拉致」のときも変だと思った。NHKの週間子供ニュースですら「拉致」のままだった。「誘拐」でなぜいけないのか。もちろん、金大中拉致事件以来、この手の文脈で「拉致」や「ら致」が使われてしまったという経緯を知らないわけではない。だが、最近では普通の誘拐事件でも「拉致」と使っている。
 些細なことのようだが、こういう違和感については、きちんと変だよと言っておきたい。

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「コレステロール」にご注意

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私は薬に殺される
 駅前の本屋にぶらっと寄ったら「私は薬に殺される」(幻冬舎・福田実)が平積みだった。話は、医師に処方された中性脂肪・コレステロール降下剤の副作用で横紋筋融解症(参考)となり、骨格筋細胞の融解・壊死が進行した人の話だ。もちろん、話の仕立ては生活の苦しさや裁判などが盛り込まれている。売れているのだろうか。幻冬舎なのである程度の市場の読みがあるだろうが。ちなみにアマゾンには読者の評として「安直なFUD(fear, uncertainty, doubt)的企画本」というのがあって批判的だった。
医療に対する不安感をFUD的手法をもってあおるのは簡単だろうが、~~現実に苦しんでいる患者の役に立つとはとても思えない本である。一般読者には本書より、むしろNHK出版「今日の健康」を購読するなどして積極的な情報を収集するほうが良いのではないだろうか?~
 世の中いろんな見方をする人がいるなと思う。それと、「今日の健康」というのはそれほど有益なものだろうか。  話を被害者に戻す。問題を起こした処方(ジェネリック)を見ると、当初「ペザフィブラート」で、それに「プラバスタチンナトリウム」を追加したようだ。それを見て私は、あれ?という感じがした。  最初の処方時の状況を見直すと、コレステロール値は257とたいしたことないが、中性脂肪は651と高い。ペザフィブラートの処方はそこに着目したためだろう。ただ、フィブラート系で長年利用されてきたし海外評価も高いクロフィブラート(1965年認可)ではなくベザフィブラート(1991年認可)が選ばれているのはなぜだろうか疑問がある。それと、中性脂肪は一日の内でも変化しやすいので、再検査する気はなかったのだろうか。だが、それらの疑問はあれ?というほどでもない。  あれ?の最大の理由は、フィブラート系とスタチン系の併用についてだ。この併用は薬剤師なら誰でも知っている禁忌なのに、なぜそんな処方がされていたのだろうか。そんな馬鹿なという感じすらする。  この禁忌の情報は比較的最近に出たものだったっけかなと、ちょっと調べなおすとそうでもない。ちなみに、この副作用を扱った「医薬品副作用情報 No.112」(参考)の発表年は1992年。ベザフィブラート認可の翌年だ。被害に遭われた福田さんが処方されたのは7年前というからすでに、禁忌情報は行き渡っていていいはずだ。初歩的なミスだと言っていいだろう。  スタチン系の薬が追加されている点にも時代的なものを感じる。「プラバスタチンナトリウム」つまりメバロチンは1989年に発売、1993年には国内医療用医薬品として初めて年間売上1000億円を越えた。もともと日本が開発した薬ということもあって当時の厚生省も随分がんばった。動脈硬化学会もメバロチンの発売に合わせてそれまでコレステロールの正常値250を220まで下げたので、日本国中高脂血症患者ができた。  薬学的に気にかかるのは、横紋筋融解症の副作用は当面の問題としては、フィブラート系とスタチン系の併用なのだが、どちらにより問題があるかといえば、すでに一昨年のセリバスタチン(バイエル)の回収からもわかるように、スタチン系にその薬理が潜んでいそうだ。スタチン系薬剤による横紋筋融解症の発現頻度は0.5%以下と言われているが、潜在的な危険性は高いののではないだろうか。薬理学会に北海道薬大・薬理・市原和夫氏による「スタチンと心疾患予防 」(参考)と題する興味深い話題が掲載されていた。
 生体細胞内でメバロン酸経路は,その細胞の生命維持や機能発現に重要な係わりを持つ多くの物質を産生する.コレステロールでさえ,生体に必須な物質である.スタチンは,メバロン酸経路の律速酵素であるHMG-CoA 還元酵素を強力に阻害する.したがって,薬理学をかじった者であればその当初からスタチンの多面的作用に気付く.筆者は,水溶性スタチンと脂溶性スタチンの相違について1993年に第1報を報告した(J Cardiovasc Pharmacol 22, 852-856).  同年,スタチンによる動脈硬化改善を観察した最初の臨床試験が報告された(Ann Intern Med 119, 969-976; Circulation 89, 959-968).肝臓細胞膜に存在する有機アニオン輸送担体にその細胞内移行を頼らざるを得ない水溶性スタチンと異なり,細胞膜透過性に勝る脂溶性スタチンはあらゆる臓器・組織の細胞内へ移行し得る.
 現在スタチン系の薬剤はアスピリンとならんで各種の効果の研究が進んでいるがそれだけ、身体全体に関わる効能を持っていると見ていいだろう。当面の問題としては確かにセリバスタチンのような脂溶性のスタチンの危険性は高そうだ(メバロチンは水溶性)。  いずれにせよ、スタチン系薬剤の副作用が現在考えられているより高いかもしれないとすれば、できるだけその潜在的な被害を減らすべきだし、端的に言って、コレステロールの基準値はもとの250に戻すべきだろう。  たまたま今週の「週刊朝日」を買ったら、「医学界の「タブー」徹底検証 脂質栄養学の専門家が問題提起 コレステロール『高い方がいい』の衝撃」があって読んだ。なにが徹底検証だよというお粗末な内容。徹底検証ならもっと検証しろよと思う。いずれにせよ、特に高齢者の場合、220を基準にコレステロールを下げることは危険だし、リノール酸も問題。記者は賛否両論併記のつもりだろうが、そうすることで、脂質栄養学会の成果に実質無視しているに等しい。なんでこんなつなんない記事になるのか呆れるが、リノール酸やトランス脂肪酸の問題など、おまえさんたちメディアがタブーを作っているのだと思う。呆れたことに、ついでだが「買ってはいけない」系の人々はまるで脂肪酸についての理解がない。「安全な食品」を標榜してマーガリンを入れるのかよっていう感じだ。

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イラク派兵を扱う社説にオヤジ入り過ぎ

 今朝の新聞各紙社説を読んで呆れた。イラク派兵問題である。どいつもこいつもオヤジ剥きだしっていう感じだなと思った。ついてけないよなぁと思った。そう思う自分がどうかしているのか、「はてな」村滞在が長くなっていて、結局なんだかんだセンター試験以降の世代の影響受けすぎたのか、それともポプラ社のブンブンを読み過ぎて完全に幼稚化したか。どうでもいいや。社説の筆者さんたち、君たちみんな変だよ。と思う。もちろん、そういう言う刀で私が罵倒される覚悟はしておこうとは思う。それにしても、昨日ためらいながらも「イラク派兵、どっちでもええやん」(参考)を書いておいてよかったなと思う。自画自賛である。わっはっはというのは冗談だ。でも、冗談と思い詰めないことが今必要だと思う。マジ入ったおちゃらけじゃなくて、どっちでもええやんと誰かが言っておかなくちゃいけないと思う。たとえ、読む人の少ないブログであってもだ。
 昨日、「クローズアップ現代」の録画をHDDレコーダーで見ようとしたらこのニュースで飛ばされていた。なんだかな。ほいで、適当に他のニュースもザップした。ある自衛官の覆面インタビューだったが、不安はありますかと訊かれて、派遣への不安はあまりないが、国民のみなさんの支持が30%とだという不安はありますと答えていた。そりゃ、そうだよな。サマワは合理的に考えれば安全じゃんとか私も思うが、生死を賭ける危険性がないわけではない。その危険性は国内の、州兵代わりの任務ですら発生する。国民の信頼に応えて生死を賭けている自衛官の任務が支持されないというのはつらいだろう。もっとも、派兵反対は自衛官の命を守るためですと言う人もいるのだろう。ひどいもんだよな。オランダ兵の命なんかどうでもいいのだ。
 朝日新聞「日本の道を誤らせるな」は歴史に残る惨い社説だった。日本の道を誤らせるなというなら、村山内閣が戦後始めて自衛隊を憲法に位置づけたときのことをお忘れなくだ。どうでもいいが、どうしてイラク問題でいちいち「石油」が出てくるのだろう。


 いわく、このままではイラクがテロ国家になってしまう。日本は復興支援に力を入れ、治安対策に追われる米英軍を助けなければいけない。石油に恵まれたイラクの安定は日本の国益にもかなう。憶病に振るまえば、米国や世界からの信頼を失ってしまう――。

 として朝日は反論の形式を取るのだが、その先がボロボロ。なにより石油を出しておきながら、「いや石油というのは流動性の高い商品から、重要なのは世界の市場の安定性であり…」と続くわけでもないのだ。だいたい、この戦争で石油とか言い出すヤツラはインリンなみの低脳だな。
 毎日の社説はよくわからない。本音はどっちでもええやんなのだろうか。標題の「自衛隊派遣 あくまで復興支援のために」を見るに、反対というわけでもないだろう。社説中、次の指摘は重要だ。

 テロ組織が日本を標的にすることは十分警戒しなければならない。アルカイダの犯行による米同時多発テロで米国人だけでなく日本人24人が犠牲になったことを忘れてはならない。

 日本人がテロの対象になったらどうすると言う人がいる。24人は米人カウントなのだろう。
 日経もぼよ~んとしているが毎日より派兵に傾いている。読売と産経は朝日の裏返しだ。言っていることだ見れば、読売がまともだ。産経はなんだか文章が濁っていて脱力する。いずれにせよ、なんだか新聞の社説が変だなというか、ほんと、読むの嫌になる話ばっかだった。そのほうがなんぼか日本が変になっている証左だと思う。

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2003.12.09

外交官遺体写真掲載問題について

 ちょうどmuse-A-museさんからもご質問があったが、外交官遺体写真の掲載問題について触れておきたい。最初に結論を言うと非難を浴びるかもしれないのでぼやかしたい気持ちもあるが、それでも私の考えを先に言うと「掲載するなとは言えない」となる。なぜか。
 それは、ロイターやAPが、世界の報道レベルで流しているものは、それに著作権の問題があるとはいえ、事実上、すでにニュースバリューとして意味があるからだ。すでにニュースとされているものを、「アレはなかったことにしてね」と言っても始まらないと考えるからだ。
 では、そうしたロイターやAPの態度をどう考えるか。これもズバリ言っておこう。日本人への人種差別が潜んでいるし、そうでなくても人種差別を助長するメッセージになることへの配慮がない。なぜそう考えるか。理由は簡単で、あの写真は、日本の勇気ある外交官を、フセインの息子のウダイやクサイと同じレベルに貶めるものだからだ。
 だだ、ここが難しいところだが、もし米国の高官が同じように殺されたらどうなるだろうか。もし、そこにジャーナリスト(フォトジャーナリスト)がいたなら、是非は問わず撮るだろう。それが事実だからだ。そして撮ることはより大きな含みを持つ。今回の例でも、週刊現代や掲示板転載の馬鹿者たちの意図を越えて、その写真はディテールにおいて複雑な意味を将来に持つ可能性がある(死因の真相を語るかもしれない)。繰り返すが、なぜならそれが事実だからだ。同じように、それがもし、米国の高官であっても、写真にされ、ロイターやAPが垂れ流すかもしれない。
 すでに外務省から抗議を受けた週刊現代の態度だが、もともとこの雑誌はポストにためはってちょっとサヨが入っている。サヨたちは恐怖をもって大衆を恫喝するものなのだ。私としては、週刊現代のプチサヨがやっているなという感じがする。ただ、気になるのは、この写真は正式にAPなどから銭を払って転載しているかだ。
 以上の流れからわかるように、週刊現代の意図は見え透いているが、それに抗議をする外務省は問題の目をむしろ、ロイターやAPに向けるべきだろう。と、いう点で外務省は、なるほど、抗議はしているようだ。朝日新聞のニュースではこうだ(参考)。


 外務省によると、同省に数多くの抗議が寄せられ、遺族感情も考慮して在外公館を通じて配信した各社に異例の抗議をした。「今後は配信をしない」と答えた社もあったという。また、同省は写真を掲載した夕刊紙や週刊誌にも抗議した。

 率直に言えば、この手ぬるさはなんだろう。もっと怒りをあらわにすべきだ。そうできない裏がなにかあるのだろうと思う。恐らく、報道社の力学やネットワークの問題だろう。
 この手の掲載者の小物としては、ネットの掲示板などに転載されているケースだが、なんというか、ただの愉快犯のようなものだろうと思う。そうすることで自分の誇り(decency)を失うのだという感覚が無くなっているのだ。哀れよのぉ。
 最後にmuse-A-museさんの質問の文脈になる。つまり、遺体写真をことさらに転載する人間について、「こういうのやる人間の精神構造」だ。muse-A-museさんはこう項目分けする。

(1)弱さを克服できないのを自己肯定するために、そういった連中が傷の舐めあいっていうか・・くっついていってる
(2)匿名性をかさに来て、親族への遠隔攻撃を狙っている(匿名性だけを理由とするギロンってのは好きじゃないんですが・・)
(3)いろいろな理由で暗いところを好むようになった人間が、そういう情報を欲したり、発することを好むようになっている

 率直な意見を言うと、私は、そういうふうに見てもしかたがないんじゃないかと思う。もうちょっと言うと、muse-A-museさんの立場はわかるし、自分もそれに近い。だが、そういう立場で彼らに向き合ってもただの、ありがちな枠にはまるだけだし、さらに言えば、その枠のなかでは、彼らのほうが強い、ある意味、正義なのだ。なんでそんなのが正義かよと思う人もいるかもしれないが、実際にその枠のなかで熱くならずに議論していけば、彼らのある正義が見えるだろう(例えば、我々に潜む偽善が露呈するかもしれない)。
 ちょっとうがった言い方だが、それが2ちゃんねるというものの強みだし、すでにそれを日本のネット社会と限らず、社会が必要としてしまっている現状がある。
 それを打開するなら、きちんと自分の意見として拠点をもって提示できるMTベースのブログの連携が必要になる。それができれば、その枠を越えていくことだろう。2チャンネルを以前、単純にくさしたが、総合としてみれば巨大な知でもあることは確かだ。
 単純な話、ネットをザップする人がその掲示板より、私のブログに目を留めるようなるか、ということが、具体的な側面では問われている、と私は考えている。といって、自分を尊大にしたいわけではない。その価値をオープンにネット社会に開こうと思うだけだ。その結果、オヤジ説教たれまくるじゃんかとなれば、それだけのことだ。

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さらにPSX、で売れないと思う

 前回PSXの話を書いた(参考)。ぼよ~んとした話になった。今回も似たような話なので、最初にごめんなさいである。
 あれから、PSXの仕様や評判などを読みつつ、うかつだったなと思ったことがある。暗黙のキマリがあるのだ。つまり、「現状のアナログテレビレベルの低解像度映像をさらに圧縮で劣化した映像品質なら別にDVDに焼いてもいいよ~ん」ということだ。裏返しに言えば、それ以上の画質はだめよ~んというわけなのだな。ちょうど、CDからMDにATRACで劣化させるならOKざんす、というソニー的な解決なわけだ。というわりにPSXはATRACとは関係なさそうだし、MP3もできない。音楽関係はナーバスということか。
 DVD+RW非対応については、特に政治的(企業戦略的)な問題でもなさそうだ。今後の対応になるらしい。もちろん、DVD-RAMに対応しないのは当たり前といえば当たり前だが、このあたりのDVDの再書き込みメディアの規格はどういうふうに統合されるのだろうか。いずれWindows XPの世界と整合を取らなくてならないはずなのだが。
 うかつだったぜ話のついでだが、私はClip-onユーザーなので、後継のCocoonには関心をもっていたが「スゴ録」にはあまり関心がなかった。どうやら「スゴ録」ならテレビ番組からHDDプール、そしてDVDメディア出力がそれなりにうまく行くようだ。とすれば社会的なニーズとしてはこれで終わりだと思うのだが、いまいち売れてなげだったのは、価格設定の問題だろうか。安いが一番でっせの東芝だの松下(パナソニック)だのが売れていたようだし。しかし、これらの機種は、どっちかというとVHSからDVDへのツナギっていう位置づけの機種だろうがと思う。こんな機械じゃ、EPG→HDDのテレビ視聴ノンリアルタイムでCMかっ飛ばしという世界の変貌は見えてこない。
 てな、流れでPSXを見ると、PSXっていうのは、つまり、

     PSX=(PS2+スゴ録)×0.6

という感じなのだろう。
 だとすると、すでにPS2を持っているユーザーには不要。これからPS2を買う人にも値段のハードルが高い。それと「スゴ録」の売れが頭打ちを破るほどの価格かというとちと、なんとかクリアかもしれないが、東芝や松下製品と比べて性格付けが曖昧、っていうことは市場はどこだ。ない。ということになるんじゃないか。つまり、売れないんじゃないのぉ。
 ついでに知ったのだが、Cocoonにしてもスゴ録にしても、EPGに広告が付くのだな。それはちょっと惨いなという感じがする。低機能だがClip-onにはEPGに広告は付かない。それなりに編集機能すらある。Clip-onをリニューする気にはなれないな。
 以上、またもぼよんとした話だが、どうして、Clip-onの廉価版が出せないのだろう。というか、それが出れば、リモコンによるザッピング革命に継ぐ、CMカットのノンリアルタイム視聴という革命になるのに。そうなれば、視聴率が無意味になるのだ。面白い世界になるぜ、わはは、とか思うのだが、もちろん、多分に冗談だ。
 そういう世界をソニーを含め、デジタル家電の業界は恐れているのだろうというのが現状なのだろう。
 長期のパースペクティブで見るなら、現状のCMベースのテレビ放送というのはこのまま低迷し、迷走し、ディグレードしまっくて、お下劣の均衡状態になるのだろう。というか、なっているか。で、そんなもの見る意味ないから、結局、ペイに意味のあるクオリティメディアが必要になる、と言いたいのだが、そうなるにはNHK規模でないとダメだし、WOW WOWも綱渡りというか、映画などの再放送に特化しているだけで、展望はない。結局、意外に現状はだらだらと続くのだろうが、知性を満足させるようなものを見たいというなら、映画になるか、NHKになるか、DVDを買うかという選択だけになるのだろう。DVDを買うという目が一番伸びてほしいとは思う。

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イラク派兵、どっちでもええやん

 左右から、うんこ投げられそうな話を書く。とはいえなにも人の関心を得たいがために奇矯な意見を書きたいわけではない。いろいろ考えてみるに、「イラク派兵、どっちでもええやん」と思うのだ。
 あれ? 旧極東ブログは派兵反対ではなかったのか?と言われると、そう。じゃ、意見を変えたのかと言われれば、そうでもない。前回の結論は、各国の派兵を比較して、恐らく日本の派兵は1000人規模だろう。そんなものが10万を超える米英兵に混じっても、実際的な意味はないという話だった。


 いずれにせよ、こうして見ると日本が派兵しても、実際のところ、米英に比べれば、言っちゃ悪いけど、おみそである。実践的な意味あいなどない。こりゃ、ここは派兵をどたきゃんして後で金を積んだらゴメンネーで済む話のようだ。
 ……なんだかそれでもいいように思えてきたぞ。

 つまり、派兵したところで、イラクという国全体の治安やイラクという国の復興に寄与するところは、かなり少ない。それでも派兵するというのは、米国に尻尾を振るという意味しかない。
 ところが、どうも外交官殺害以降、昨今の雰囲気が気にくわない。「ほらみたことかイラクは危ないじゃん。イラク全土が戦闘地域…」といった論調だ。そりゃ全然話が違うよと思う。派兵が予定されているサマワは現在推定される限り安全だ(参考)。そりゃ、日本の兵士が投入されればそれによって危険がもたらされるかもしれないということはある。でも、私はそれはまともな判断じゃないと思うのだ。つまり、危険というのは有るか無いかという問題じゃなくて、どの程度危険なのかという度合いの問題だ。そしてその度合いは現状、低いと判断することは合理的だ。なにより、以前のダイオキシンの馬鹿騒ぎじゃないが、危険ということに浮き立つサヨだの進歩派だの非合理性が私は大嫌いだ。恐怖で大衆を操作しようとする心根も卑しいと思う。
 というわけで、サマワに1000人というのは、別に現地での危険性がそれほど高いわけでもないんだから、悪くないじゃんと思う。そんなことして東京がテロにあったら…というのは、話が別だ。
 以上をもって、私の意見は「イラク派兵、どっちでもええやん」である。

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小規模市町村の税率は低いままで良い

 読売新聞社説「住民税均等割 『地域の会費』の見直しを急げ」がおかしな内容だった。基本的に税制の問題は改革しなければいけいないのだが、均等割に目をつけて小規模市町村の税率を上げろというのは、違うんなじゃいか。まず、山中貞則を引退させろ、だが、とりあえずそれに触れないとしてだ、読売の議論は間違っていると思う。
 まず、読売に沿って簡単におさらいをしておけば、住民税というのは、所得に応じて課税される所得割と、一定額を課税の均等割で構成される。


 都道府県税の均等割(標準税率)は年間千円で全国一律だ。しかし、市町村税は人口の規模によって異なり、五十万人以上の市が三千円、五万―五十万人未満の市が二千五百円、町村と五万人未満の市が二千円と格差が設けられている。

 読売はこの格差は無意味だというのだ。その議論はこうだ。

 かつて小規模市町村の行政サービスは大都市に劣った。しかし、例えば中学校の木造校舎の面積比率は大規模市の0・2%に対し3%、ごみ処理実施率も100%に対し97%と、ほとんど遜色(そんしょく)がない水準に追い付いている。
 小規模市町村の税率を低くすることの根拠はもう失われた。人口規模別の格差は撤廃すべきである。

 読売をここで罵倒しまくりたいところだが、単純な例で反論したい。デジタルバイドはどうなんだよ。端的に言って、ブロードバンド状況はどうか。もう一点加えたい、公共無料貸本業こと図書館の整備はどうか。おまけにもう一点加えるなら、行政機関(例えば裁判所)アクセスのための都市部への交通サービス(時間と金額)はどうか。地方で暮らした人間なら知っている。改善なんてほど遠い。とんでもない格差があるのだ。
 所得の伸びが止っている現状、地方が国から税源移譲されれば、さらに地方は苦しい状況になる。地方の独自の税制が必要になるが、それにはインテリジェンスも必要になる。だが、それが地方にはない。そうした足下を見るように、読売の誘導は狡猾だ。

 高知県は「水源税」として、均等割を五百円割り増し徴収している。各自治体がそれぞれの状況に応じて税率を決めるのが理想だが、単独での引き上げは政治的に難しい。次善の策として、国が標準税率を引き上げる手もある。

 ようするに国主導にしろということか。読売新聞ことナベツネは小泉内閣のロビーになろうとしているのだろうか。
 税制の強化のために地方の合併は必要だが、どのように合併してもある種の僻地はできる。その人々を厚く保護する税制は日本を維持する上に不可欠なのだ。

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2003.12.08

外交官殺害関連の誤報について思う

 今朝の日経新聞のコラム「春秋」が在イラク米軍の誤報に触れていた。最初に断っておくが、私がこの件でわかることはなにもない。有益な情報はゼロだ。


 どうもふに落ちない。現地の米軍は、なんであんな間違いを公表したのだろうか。奥大使と井ノ上書記官は、飲み物や食べ物を買うため、車を降りて売店に向かう途中で銃撃されたと――。日本への通報だけでなく、海外のメディアにも、公式に伝えていた。

 そう、確かに腑に落ちない。腑に落ちないといえば、事件当初テロか物取りかという議論を延々とする人々がいたことも腑に落ちない。まあ、そうやっていけばキリがない。当面の腑に落ちないは米軍の誤報についてだ。
 日経としては、「不用心な行動でもの盗りに襲われた、などという誤った印象を世界に与えかねない」と米軍を叱るのだが、日経と限らず日本のジャーナリズムにその資格はないだろう。また、発表の訂正が遅かったとしても、そこに意図があると分析できているわけでもない。6日の日経新聞によると、こうだ。

奥克彦大使と井ノ上正盛一等書記官が襲撃された状況をめぐって、米軍は事件発生後、2人が食料などを購入するために車両を降りた際に銃撃されたと発表、同省にも伝達していた。
 しかし、目撃情報や車体の左側に弾痕が集中している状況などを踏まえ米軍が再調査した結果(1)車は道路脇のくぼみで発見され、近くに売店はなかった(2)2人が売店で襲撃されたとの報告は、地元住民による誤った情報に基づくものだった――ことが判明したという。

 当たり前のことだが、ことは日本の問題なのだから日本の責任ではっきりさせなくてはいけないので、日経のように米軍に八つ当たりするのはフェアではない。で、問題は、どうやら素直に取る限り、米軍は地元市民から話を聞いて垂れ流した、そしてそれ以上の責任なんかないよというわけだ。
 田中宇のように深読みする問題でもないのだろうし、こうした米軍情報のあり方自体を非難してもしかたないだろう。日経コラムではこの話に「大量破壊兵器」の情報もいいかげんだったじゃないか、とつなぐのだが、坊主憎けりゃといったたぐいだ。
 ニュースの考古学的な考察としては、1日の読売ニュースが参考になる(参考)。
 さて、ちょっと話の向きが変わる。気になる話がある。事実だというわけでもない。30日の産経新聞だ。

 警察官は「奥参事官は頭部と顔面に被弾しており、左の脇腹にも弾痕があったが、現場に着いたときにはまだ生きていた。井ノ上書記官と運転手は既に絶命し、手の施しようがなかった」と言って天を仰いだ後、「現場に薬きょうが落ちていなかったのは腑に落ちない」と首をかしげた。

 もしそれが事実ならなにを暗示しているのだろう。両氏は解剖され、5日の毎日新聞にはこうある。

 警視庁が5日、イラクで殺害された奥克彦大使と井ノ上正盛1等書記官の遺体を大学病院2カ所で司法解剖した結果、奥大使は左側射創による頭がい内損傷、井ノ上書記官は左胸を撃たれ、動脈を損傷したことによる失血死だったことが分かった。警視庁は弾が体内に残っていたかどうかについて「コメントできない」としている。

 弾丸の有無はどういう意味を持つのだろうか。恐らく、兵器の特定ができ、背後組織がわかるはずなのだがそこを避ける理由があるのだろうか。5日のTBSニュースでは銃弾は体内に残っていたとしている(参考)。

銃弾が体内にそのままとどまっていたことから、警視庁は、車の防弾ガラスで銃弾の速度が落ち、2人の体を貫通しなかったと見ています。

 冒頭に引いた日経のコラムでは「現実には、犯人たちは車で、高速走行中の車に並びかけ、強力な自動小銃を撃ちまくった」と書くのだが、確定されているのだろうか。同じく、TBSニュースにはこうあった(参考)。

車を追い抜きざま、瞬時に自動小銃およそ30発を正確に命中させるという手口。これが、ムハバラートの教本の内容と一致しているとも指摘されています。

 読みづらい文章になって申し訳ないが、そのあたりが現状わかる限界なのだろうか。と、書いてみて、ようするに私はある種の物語をそこに読み取ろうとしているし、その割に物語を裏付ける事実はそれほど確かではないことに気が付く。
 物語が無意味だとは思わない。むしろ、この問題は天災でもなく、「イラクは危険よのぉ」で終わる話ではないのだ。犯人は絶対にいるのであり、その犯人を捕まえてふん縛って日本の裁判にかけたるわいというのが物語のオチでなくてはならない。
 だが、なんとなくだが、すでにそういうオチは回避されている気がする。なぜそんな雰囲気が漂うのだろうか。その雰囲気とメディアと事実と報道の関連がありそうだと思うのだが、何かがわからない。その何かがとても気になる。
 情報操作といえば話は単純だし、外務省がなにか隠蔽しているのだと考えても単純だ。だが、そういうことなのだろうか。少なくとも、物語は完結していないぞという視点だけは誇示して各種の情報の流れを見ていたいと思う。

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ネットピープルたぁ俺のことか

 ネットの人々を分類した「ネットピープル分類学 その傾向と対策」(参考)が面白い。私はどの分類か。全部あてはまるような気がする。 自分がそういうネットピープルの典型、というか、ずばりそのもんかぁ。「とにかく貴様らシュッ・シュッのヤバさをもっと知るべきだと思います」ですね。


蘊蓄系
たしかに私は蘊蓄系の話が多く居丈高、偏屈、嫌み、尊大。みなさん、おいしい知識だけザップしてくださいませ。
昔話系
「当然edでしょう」そりゃedに決まってまんがな。私はMASMでedコンパチのラインエディタ全部組んだことあるものね。みなさん、歴史の話は読まないように。
軽薄系
「あの高林さん」「今話題の全文検索システムNamazu」とかね。この手のカルチャーにはまらないように。
謎めき系
自分を謎めかして書く(だってバレると自由がないんだもの)。ほのめかして書く(ずばりかくと四方八方からうんこが飛んでくるんだもの)。深読みしないでね。
粘着系、説教系、電波系、複合系など
「癲癇系」はないの? ないのかぁ。クレチマーの話と違う?

 というわけで、オヤジに合ったら、さっさとこのように分類して自分の回りにバリアを張ってしまいましょう…ってマジに取るなよ、こんな糞ジョーク(←説教系)

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iTunesとキャット・スティーブンス

 ネットを見回していて、iTunesの話題が多いな、やはりWindows対応のせいか、タダモノは強いなと思っていた。私はiMacも持っていて、アドベントになればiTunesでクリスマスソングを流すのだが、XPのほうにインストールする気はなかった。どうせQTのエンジンとの関連をこっそりドライバレベルで入れるだろうし、RealOneなどともタメ張ってるだろうから、スパイウェアみたいなものもこっそり入れられるのだろう。たまったもんじゃない。Windows版のQTにもなにかとひどい目にもあっている(のわりにちゃんとレジストしているがね)。というのが実感なのだが、世の趨勢である。山本夏彦も言っていたように流行には乗るものだ。
 で、入れてみた。糞と思うことは二、三あったが、それほどはひどくはない。ライブラリのフォルダも謙虚にWindowsの指針に従ってマイフォルダの下にある。標準のエンコーディング形式がm4aというのも、いろいろ裏も知っているので理解できないことはない。が、早々にmp3に設定を変える。
 mp3のエンコーダーはなんだろと手元の簡単な解析ツールEncSpotで覗くと、FhG。ホントかよ。このツールはけっこう阿呆なのでもっとマジこいて調べなくちゃなと思うが、うっとおしい。しかし、ディフォルトでビットレート160kbpsなんだからこれに耐えられるのはFhGしかないだろう。それにしても、160kbpsかよ、と思う。ハードディスク食うなぁと思う。iMacのほうはもう家電用に使っているからいいけど、XPのほうで音楽のプールはしたくない。
 それにしてもXP公開時のときは、未公開版にFraunhofer IISのタダモノを付けておきながら、公開時には56kbpsという「使えねー」にしてくれたが、あの時はライセンスがたがたでどうしようもなかった。Appleは解決しているのだろうか。とま、この間、日本では「午後」を正義のネットワーカーさんたちがバトルを繰り広げてくださったけっか、結果はなんだかなになってしまったが、欧米ではLame標準だし、ま、それほど悪くはないということになった。ふと思うのだが、日本人ていうのは自分たちの乱れで制限を作るのが好きですなぁ。
 iTunes自体はすでに使っていたので、どってことない。ラジオはLive365歩のマーチだ。PeerCastとか使いやすいWinAmp2.91のほうが「良い」のだが、まぁ、これもどうでもいいだろう。総じてどってことないなと思ったのだが、うかつでした。私っていうのは、うかつだ。人にそう指摘されたくはないけど(←ユーモアです)。
 ミュージックストアがスゴイのだ。って、日本人は購入できないのにスゴイっていうのはなんだが、試聴できるだけで、こりゃ極楽ですね。私みたいに60年代から90年代までのポップソングが脳のなかで腐りまくっている人間にとっては最高のデータベースだ。チャイニーズ系のポップスに対応していないのはしかたないとして、この試聴は嬉しい。試聴すると、つい買いたくなるじゃないですかぁ。っていうところにジョッブス様のありがたさが身にしみますな。日本の糞な音楽業界はどうなるのだろう。これが解禁になれば、お陀仏だろうなと思う。が、うーむ。若者は現実には貧乏だし、iPodは買えないというか、iPodを使うには母艦が必要なのにそれを持つことが日本の若者の大半は無理無理無理。って若者に奮起を促したいが、現実は変わらないだろう。ケータイにさらっと落として使うというマーケットがあればいいのだが、日本はダメだろうなぁ。
 ジョブスはそう、スティーブン・ジョブズ。スティーブンといえば、キャット・スティーブンス(Cat Stevens)という阿呆な引っ張りでiTunesのストアを検索するとありますね。ユスフ・イスラム(Yusuf Islam)のアルバムではなく、キャット・スティーブンスこそ欧米の音楽界では、もはや、彼が昔好きだったブッダにちなんで、お陀仏と相成っているのだが、懐メロの星として、ミュージックストアを見ると燦然と輝いているっていうほどではないが、きちんと殿堂入り。で、今一番売れているキャット・スティーブンスの曲は…おい、まじかよ…「Father and son」、うううぅぅ泣けるじゃないですか、この詩がさ。口ずさんじゃいますよ。
 …息子よ、今はまだ変革の時じゃないんだ、まぁ、座れ、慌てるんじゃない、おまえさんはまだ若い、若いっていうことが欠点になるんだよ、もっと経験しなきゃいけないことがいっぱいある、そうだな好きな女の子でも探して、家を持つんだ、結婚も悪くない、わたしを見なさい、老いたがこうして幸せでいられる…
 泣ける。なにが泣けるか。かつてそうした息子であった自分がオヤジの側になってこの心情のほうに揺れてしまう。ってゆーか、こんな曲がキャット・スティーブンスのベストになっているのだ、おい、老けたな、ベイビーブーマーズ。
 ちとトリビア的な話で終わりたい。キャット・スティーブンスの本名はStephen Demetre Georgiou。ロンドン生まれ。名前でギリシア人とわかるが父親はキプロス人(母はスェーデン人)。亡命だろうか。1971年あのMorning Has Broken…が世界的なヒット。トルコ人を恨むこと宿命として育ったことで、逆の思想を辿る。1968年過労から結核。長期入院生活語、翌年トルコ女性と結婚し、イスラム教に改宗。名前をユスフ・イスラムとする。ちと変な名前だなという感じもするが、イスラムの布教を生涯の仕事にしたのだ。音楽活動で得た金でロンドンのイスラム教徒の学校を援助している。以前は「悪魔の詩」の作者ラシディに死んじまえとか言い出して物議をかますが、9.11以降はイスラム原理主義とは違いった視点のイスラム信仰の代表者として平和主義の立場に立つ。だもんで、坂本龍一とかのカモになって「非戦」なんかにも出てくる。
 今でもイスフは公式サイトを見るとわかるように政治的な活動している(参照)。岡林信彦とは違って、請われれば昔の唄も歌っているようだ。井筒俊彦とか読み過ぎると、日本人もイスラム改宗者が出そうなものですが、若い世代はおフランスのデリダ様から動物と言われてわいわいするのが好きでも井筒とかは読まねーんでしょうね。うー、なんて荒っぽい世界(Wild World)なんだろう。

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スプーンの話

 新聞各紙の話題は私にしてみると蒸し返しばかりだ。ニュースでは予想していたがメキシコのFTAが年内締結が困難という話題に落胆した。今日がどんな日かという話題も昨日書いた。というわけで、スプーンの話を書く。そう、食器のスプーンである。
 邱永漢「もしもしQさんQさんよ」の「食器にお金をかけています」という話が面白かった(参考)。と、のっけから余談になるが、そろそろネットでも「邱(きゅう)」という漢字を使うことにする。古いパソコン機種では第二水準までに含まれていないが、こうした制限に固執する時代でもないだろう。
 話は題名のとおり、家の新築の話の流れで食器にも金をかけているということだ。簡単に言ってしまえば、金持ちの話なので庶民にはピンとこないのだが、邱さんの金持ちレベルになるとそこいらの金持ちではないので、ここまで抜け切ると話は面白い。


 私の家で紙コップを使ったりすることは先ずありません。ナイフやフォークや箸や器が立派なものでないと、折角、心をこめてつくった料理の味が冴えなくなってしまうからです。
 私の家ではナイフやフォークは、ジョージ・ジャンセンとクリフトフルともう1つ、イタリア製の純銀の物を使っています。

 私は金持ちではない。多分、人生の落伍者でもあり金には縁がないだろう。だから、食器に金をかけることはできないし、一点豪華主義も趣味ではないのだが、量は食わないが味にうるさい食いしん坊なので、その延長で食器に気を遣うことはある。特にナイフとフォーク、そしてスプーン、つまりカトラリーだ。これが日本ではとても困る。銀製のものはレストランや金持ちのニーズもあるせいか、ある程度金を出せば買えるのだが、私は別に銀製のものがいいとは思わない。むしろ持ち手のところが金属というのが好きではない。困るのは、いい重量感ときちんとした面取りの仕事がされているカトラリーが少ないことだ。見てくれはどうでもいい。機能性を重視するのだ。
 いろいろ意見もあるだろうが、カトラリーにはある程度重量感がないと所作に落ち着きがでないし、その落ち着きがないと食事自体がうまくないのだ。なにも重ければいいというのではない、もった時や動作している時の重心の位置も問題になる。ある意味、靴と同じで重くてかつ重心のバランスを取りやすいほうがいい。
 重さの次に気になるのが、スプーンで口にあたる部分の面取りの作業がきちんとされているかということだ。これがしっかりできてないとスープがうまくない。実感としてはスプーンの違いでスープの味が変わる。
 とま、こう書いていて実に自分が細かいことが気になる嫌ヤツだと思うのだが、毎食イライラしているより、いいカトラリーを見つけたほうがいい。同じような悩みを持っている人もいるかもしれないので、私の場合の解決を簡単に書いておくと、結局アメリカ製品を購入した。やはり使い込まれた文化のものがいいようだ。
 食事用のある程度まともなスプーンもだが、ティースプーンもけっこう大変だ。100円ショップのせいか、コスト減が進むのでこの手の小物が手作りではなくなってきている。高価な品物はくだらない装飾が多い。困ったことだなと思う。ティースプーンと限らないが、気のせいか東急ハンズでもなかなか気の利いた小物が手に入らないと思うことが多い。となるとネットということになる。こうした傾向はしかたがないのだが、これもなかなか面倒なものだ。
 食器については一点一点はどうということはないが収納の問題があってまともに揃えることはできない。さすがに紅茶カップと抹茶茶碗はある程度まともなものにしないと茶を飲んだ気にならない…と、その手の話はうざったいので切り上げよう。この手の問題になると多分に趣味の問題になる。
 ついでに調理器具の話…というのもまたの機会としたいが、ついでなので人に勧めたいのは分厚いフライパンだ。中華鍋とは別に底板の厚いフラットなフライパンがあると、目玉焼きが格段にうまくなる。大げさに言うと朝食が愕然と変わる。その他、簡単なソテーでもかなり味が変わる。この手のフライパンは2万円くらいとお高いのだが、それだけの価値がある。一つ買えば一生物なのになと、他人の台所や料理を見ながらいつも思う(もちろん、黙っているけどね)。

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2003.12.07

明日は12月8日

 明日は12月8日。釈迦が悟りを開いたとされる臘八会だ、っていう話はボケ。対米英開戦の記念日、と書いてそれでいいのか。あの馬鹿なWikipediaはなんと呼んでいるのかなと見ると、太平洋戦争勃発とある。ふーん、というしかないな。いわく「日本軍、ハワイの真珠湾を奇襲(真珠湾攻撃)」、これも、ふーん、というしかない。英語の翻訳かと思い英語版を見ると、こうある(参考)。


1941 - The United States Congress passes a declaration of war on Japan, bringing the United States of America officially into World War II. Hitler's Germany declares war on the United States. Congresswoman Jeannette Rankin casts the only "no" vote. First use of Gas Vans on the Jewish by Hitler's Germany occured at the Chelmno camp, near Lodz.

 ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin http://www.rankinfoundation.org/)に言及するあたりに、ちとエスプリがある。よく読むと、真珠湾奇襲みたいなことを素で書いてないなというあたりにも歴史家のセンスがある。
 1941年というのは、自分が生まれる随分前のことなのだが、思い起こすと小学生のころの教員には復員兵もいて、この日に限らず戦争の話をいろいろ聞いた。こういうといけないのかもしれないし、教員の個性にもよるのだが、復員兵の教員がする戦争の話は面白かった。そういうとドンパチのどこが面白いのかと詰問されそうだが、ようするに春風亭柳昇と同じようなものだ。春風亭柳昇も今年亡くなった。
 予備校時代、私はそこで講義を持っている数学のW先生に傾倒した。べたべたと先生の回りにまとわりついたわけではないが、彼の講義は欠かさず聴いた。ひどいずんずう弁だったが、講義は面白かった。数学の教え方もとびきりうまかった。教師という点であれほど優れた人はいないだろうと思う。彼は、私の記憶違いかもしれないが、中国で諜報員の活動もしていた。中国語が出来たためだろうとも思うし、単なる諜報だけではなかったのかもしれない。ある講義の途中で、「僕はあの戦争を一生懸命やった」と語った。単純な戦争肯定ということではなかった。面白い話だったが、ようは、中国人捕虜を見殺しにして撤退しろという命令に背いて、捕虜の延命・解放をしたということらしい。そのことを人道的に誇っているというわけでもなかった。如何に上司が理不尽であったかに激怒して死ぬ気だったようだ。先生はそういうことをなんどもやっていたらしく、死地に放り出されたこともあったようだ。そうそうに中国人のような身なりで逃げ出したなど…。まさに物語だった。
 あの戦争を実体験のレベルで感受できるのは私が最後の世代になるのかもしれない。そのあたりはよくわからない。自分より上の団塊の世代のほうが遙かに戦後民主主義的だった。むしろ、私の世代は戦後民主主義に最初にねじれた世代だったのかもしれない。高橋留美子のマンガもそういう世代背景があるだろう。
 「十二月八日」というとこの日付を題にしてあの日に書かれた太宰治の小説がある。当然、恰好の批評のテーマにされるのだが、これがなんとも奇っ怪な作品なのである。新潮文庫の「ろまん燈籠」にも入っているが、現在ではネットでも読める(参考)。

 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

 話はその主婦の目で開戦に喝采しつつ、それとはまったく同じ次元で、赤ん坊を銭湯に連れて行く。まるで開戦とは関係のない日常をその主婦の行動から浮き立たせる。太宰一流の皮肉としてしまうこともできないだろう。

ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。

 引用だけにすればこんな奇妙な話もある。

台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。

 私はこれにユーモアを感じる。女と限定せず、日本人などそういう状況下に置かれれば依然そんなものではないかという点で可笑しさを感じる。それを戦後は理屈で押し込めていった。だが、必要なのは、平和だのの理屈ではなく、ユーモアではないだろうか。小林よしのりのまじめくさった戦争論にも似たようなユーモアを感じる。笑いのめすというような面倒くさいことではない。
 そういうユーモアが大切だと言いたいわけではない。むしろ、言えることは理念を先行にしても感性は変わらないということだ。
 ところで、衆知のことをあらためて書くことになるのだが、先に銭湯におんぶしてつれて行かれた園子は実名で津島園子だ。旦那は衆議院議員津島雄。オフィシャルサイトがある(参考)。津島姓なのは養子だからだ。
 特に話がまとまらない。12月8日についてまとまる話など書きたくもないのだが。

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アスピリンとCOX-2阻害薬

 新装開店極東ブログになってからお約束の薬学系の話がないので、ちと追加する。
 先日なにげなくNHKの「今日の健康」というような番組を見た。健康番組はあまり見ないのだが、テーマがアスピリンの新しい効能といったようなものだったので、ちょっと気になった。話は3点だった。1つ目は従来からの鎮痛作用。2つ目は血小板凝集の抑制で血栓の再発を予防する話。3つ目はCOX-2を阻害することによる大腸癌予防だった。この分野をワッチし続けている私としては特にどってことない話だし、それ以上のことをNHKに期待するわけでもない。ただ、細部で変な印象を受けた。
 まず血小板凝集の抑制による血栓再発予防だが、これに少量アスピリンが処方されるようになったのは一部の有能で良心のある医者以外はごく最近のことだ。なにしろ、この用途には薬価が決められていない。つまり表向き処方できないのだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるなと思ったものだ。さすがにこの事態は改善された。余談だが、小渕総理が卒中でなくなったおりtPAではなくウロキナーゼなど使っているのを見て、ぎょっとしたというか、悪い意味で日本の医療は公平なものだと理解した。私は自分自身を冷静に見ると卒中で死ぬ確率も高いので人ごとではない。そういえば栗本慎一郎もその点ではうかつだった。彼の40代くらいの著作に自分の血は濃いのだみたいなことを自慢げに語っていたが、やばいよと私は思っていた。その通りになってしまった。彼も当時は少量アスピリンについては知らなかったようだった。
 欧米ではこの用途にバイエルの腸溶81mgを利用する。ジェネリックも多数で出ているし、歴史的経緯からアスピリンはOTCの代名詞のようでもあるので入手しやすい。日本ではどうなのだろうか。ざっとOTCを見渡してもよくわからない。詳しく調べてないので、ブログならではの放言になってしまうかもしれないが、OTCには存在していないのではないか。なお、ご存じだと思うが、小児用バッファリンはアセトアミノフェンであって、期待される効果はない。余談ついでだが、先週のSPAによくきくOTCの特集のようなものがり、薬剤師の監修が入っていたが、ちょっとこれはないなと思った。日本のOTCの状況はSJS(スティーブンス・ジョンソン症候群)問題がより健在化するのではないだろうか。といって、ようやく解禁になるドンキホーテでのTV電話による夜間OTC販売やコンビニでのOTC販売を止めろという意図ではない。
 NHKの話でも腸溶の少量アスピリンは処方薬扱いのようでもあり、人によっては安易に利用しないようにとも言うところを見るとOTCのようでもあり、判然としなかった。変な印象の一つはこれだ。
 もう一点は大腸癌予防だ。欧米ではすでに常識であり、その用途に一部サプリメント化している実態もある。NHKはそれを想定しての話なのかよくわからなかった。ただ、「そういう機能が見つかりました。その背景はCOX-2阻害です」というさらったした感じだった。そんなことだけのためにNHKで放送する意味があるのだろうか?
 話が前後するが欧米では腸溶の少量アスピリンがサプリメント化しつつあるが、卒中の再発予防よりも最初の発作の予防という用途も見られる。まして、大腸癌予防効果もある。さらにごく最近の研究成果だが胃癌予防の効果も期待できそうだ(Journal of the National Cancer Institute, December 3, 2003.)。薬学的な課題としては、これらの主要な機能はCOX-2阻害だけに由来するのかはまだはっきりとはわかっていない。
 とはいえ、ある程度COX-2阻害をうまく誘導できれば、これらのベネフィットが得られる可能性も高い。幸いにしてというか最低にしてというか、国内に存在するCOX-2阻害剤の効き目はあまりシャープではないようだ。だが、セレブレックスがOTCで解禁されれば、こうした用途に目をつける人は出てくるだろう。
 すでに厚労省側ではそうした読みもあるのかもしれない。当面は、セレブレックスは鎮痛剤だし、これを先の用途で少量利用するノウハウは確立されていない。
 と、ここで戸惑う。こんな考えようによってはヤバイ話をブログに書いていいのか? と書いているじゃないかとツコッミされるかもしれないし、あえて荒く書いたのでなんのことやらかもしれない。ただ書いているのは、これらはうまく統制すれば、国民の健康にベネフィットになることはかなり確かだと思うからだ。
 現在の、がんの健康食品の大半はアジュバントを使っているが、これと緩和なCOX-2制御を加えてはどうなのだろうか。「免疫力」(安保徹)がベストセラー快進撃だが、その結論がストレスを減らすでは「脳内革命」の二の舞だし、刺絡療法だけに絞られるのもなんだかなという感じがする。現状の医学は抗がん剤治療を志向していてアジュバントはお笑いのようでもあるのだが、まったく希望がゼロというわけでもない。
 たいした展望はないのかもしれないのが、希望がゼロというわけでもないのだ。

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日本人の姓というもの

 新聞社説関連ではとくに目新しい主張はないようだ。テレビで外交官追悼は見ない。痛ましい事件だが、この美談をもってして外務省の評価を変える気はない。そう思いながら、なにか重要な問題を見落としているなと思う。イラク派兵問題や道路公団問題など構図が単純すぎる。こうしたことでなにかが隠蔽されているという直感があるが、よくわからない。足利銀行の破綻についても、当初、「ふーん」という感じだったが、根は深そうだ。週刊誌は北朝鮮絡みにひっかけるがそういうことでもあるまい。「あすを読む」ではこの問題について、突然なぜ?という疑問を投げかけていたが、修辞に過ぎない。ただ、この問題はテクニカルな要素が強すぎて簡単には書けそうにはない。そうそうイラクについてだが、これまで書き落としてきたが、派遣予定地サマワはかなり安全だと見てよさそうだ。もちろん、これにも異論があるだろうが、逆に1000人気規模の友好団を送るのは悪くなさそうだし、オランダ軍とも連携できそうだ。自衛官がマリファナでも楽しんでくるかもしれないという不謹慎な冗談はさておき、派兵を選んでも、実は大きな差がないとも言えそうだ。
 いきおい雑談になる。日本人の「姓」についてだ。「性」の誤記ではない。以前、たまたまmsnジャーナルだったかで見たと思うのだが、日本から中国に留学している学生が教室で中国の少数民族の子に「ねぇねぇあなたどこの民族?」と問われたという話だ。そうだろうなと思う。中国人の場合、姓はたいてい一文字だ。二文字のこともあるが、それはたいてい少数民族か本来なら中国に内包されるべきではない異文化の地域の民族だ。日本人が好きな諸葛孔明こと諸葛亮の姓は二文字だ。異民族の含みがある。さらに異民族性が高まるのだが「愛新覚羅」のように二文字以上のこともある。
 日本人の姓の大半は二文字以上でもあるし、地理的にもは中国からは中原につながらない。だから異民族鬼子として「東洋鬼」になる。日本人はあまり知らないようだが、「東洋」という言葉は中国では日本を指す。ちと広辞苑を引いてみたら、ちゃんとその意味が載っていたので、教養人なら常識だよと言っていいだろう。いずれにせよ、日本人の名前はその名前からして、中国ではない異民族に見える。その点、朝鮮は早々に中華化してしまった。彼らは日本の奈良朝くらいまでは別の姓を持っていたようだし、金春秋の例のようにすでに中国的な姓を持っていた人もいる。
 実は日本人の姓というのは「姓」ではない。このことが痛切にわかる例は沖縄(琉球)だ。沖縄の場合、久米姓などはちゃんと姓をもっているが、その姓が現在につながるのは尚家くらいのもので、たいていは家系図には姓を記載しても、「氏」を姓名としている。もっとも、琉球の場合島津の政策の影響なのか、擬似的な氏銘に変更されている。我如古は金子ではないだろうか。また、明治にかなり氏名を日本化した。私の知人に嘉納さんという人がいるが、嘉納治五郎のような嘉納ではなく、「嘉手納」の「手」を抜いたのだ。池宮さんは池宮城だったりする。読みだけの変化もあるエッセイストの与那原恵(よなはらけい)の氏名は沖縄では「よなばる」である。歴史をもっと深くみていくと、こうした明治期の姓名の変成は日本本土にも見られる。だが、私の知る限り、この問題はあまり日本史で扱われていないようだ。代わりに韓国の改姓が話題になり、日本の侵略といったイデオロギーの問題に変換される。挙げ句は日本という実体が韓国や沖縄という実体と向き合うような近代史像を造り出し、文献を整理して歴史書のようなものを分厚く書き上げる。
 先に金春秋の例を挙げたが、こうしたことは日本でも奈良朝から平安時代に見られる。日本の教育では教えていないだろうが、紀貫之など「きのつらゆき」と読ませるから日本風なのだが、はっきりとした読みはわからないが、東アジアの文脈では姓が「紀」の「キカンシ」のように読んでいいはずだ。いずれにせよ、中国文化の姓名なのである。
 このことを愕然と思い知らされたのは光明子のことを調べていたおり、正倉院宝物にある彼女の自筆署名に「藤三娘」としてあるのを見たときだ。これは「とうさんじょう」と読む。「三娘」は名前ではなく、「藤」家の三娘だろう。インドネシアのワヤンさんのようなものだ。いずれにせよ、彼女は姓を明確に意識しており、それが「藤原」ではなく「藤」であった。しかも、皇后位についてもこの姓を維持していたことは、婚姻の制度が中華的であったことを示している。こんなことあたりまえ過ぎる話なので書くも恥ずかしいことかもしれない。
 啓蒙は嫌いだが、もともと藤原と佐藤、伊藤、加藤などはすべて同じだ。元になる「藤原」はおそらく「藤」の「原」という氏名(うじめい)だろう。姓は「藤」である。そして、西行の名である佐藤義清の佐藤は、異説も多いが、平安中期藤原北家秀郷流の公清が左衛門尉を名乗ったことによる役職名に由来するのだろう。いずれにせよ、姓として「藤」であることは間違いない。荻生徂徠など、自らを物徂徠と称するほどだ。さすがにこれは日本人として恥ずかしいなとは思う。
 いずれにせよ。日本人でも姓はある程度意識されているのに、日本では同姓の結婚が許されている、どころか日本人はまるでその禁忌の意識はない。「本貫」はないのだ。この話を知らない人もいると思うので、すこし解説したほうがいいのかもしれないが、割愛する。いずれにせよ、現実の日本社会の実態上は姓の意識はない。中華世界から見れば乱交の異族に見えてもしかがたない。
 些細な、つまらない話のようだが、こうした事は陰画的に中国には恋愛から婚姻という経路が原理的に存在しないことを示すし、日本には血統意識がないことも示している。文化人類学的に見るなら、ファミリーシステムが中国とはまったく異なるので、日本人は中国人とはまったく異なると文化(または文明)と結論してもいいだろう。日本を中国とは分離した文明としてみるハンチントンがまるで見当違いをしているわけではない。
 特に話のオチはない。知識をひけらかしたいわけではない。それどころか、こうした記述のディテールに間違いも多いだろう。ただ、私としてはこうしたことは日本人の常識でなくてはならないとは思う。

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2003.12.06

PSXがわからない

 いよいよ12月13日にソニーのPSXが発売ということになる。CMも明日あたりからがんがん打つらしく、一部はソニーのサイトでストリーミングで見ることができる。で、私の話は、PSXがわからないということだ。もちろん、私は仕様が読めるので仕様レベルはわかる(発売直前の仕様変更でけっこうお馬鹿になっている)。わらかないのはそんなことじゃない。
 なにがわからないのか? 私の関心事から言うと、テレビのハードディスク(HDD)レコーディングの機能が現行のCocoonと比べてどうなのかということだ。もちろん、すでにスペック比較の情報も見ているから、PSXには自動録画ないというのは知っている。疑問は、違いってそれだけなのか? だとすれば、PSXというマシンは、この値段なのだから、いよいよ本格的に格安の家庭用HDDレコーダーになる。そういう話なのか、ということだ。
 私の疑問はわかりづらいかもしれない。前提があるのだ。私は2年前からソニーのHDDレコーダーの先行機種であるClip-onを使っている。その他、I-Oデータ型の小物をWindows XPに接続できるので、やる気になればテレビ番組をDVDに落とすこともできる。だがあまりやらない。やらないのは手間が食うしめんどくさいからだ。ずばり言って、2度見る番組は少ない。あるいは、2度みたらもう「お腹いっぱい」なのである。だから、Clip-onでまるで問題ない。
 Clip-on以前もVHSなどに録画していた。私という人間の癖のようなものかもしれないが、私は衣服以外の物を身につけたくないし、時間に拘束されたくない。午後9時にテレビの前に座れと言われるがとても嫌だ。食事の時はメディアをオフにしたい。テレビは私にとってむかつくような存在でもある。が、番組自体を見るのが嫌でもない。仮面ライダーのファンでもあるくらいだ(とほほ)。
 Clip-onを使いだしてから、テレビ嫌いに拍車がかかり、あっという間にリアルタイムでテレビを見ることはなくなった。ほぼ皆無だ。見たいときに見る。そして、自分の行動パタンに決定的な変化があったのは、率直に言うと、CMを見ないことだ。端からNHKしか見ない人間なのだが、それでも「トリビアの泉」のような番組は嫌いではない。世の中の話題でもあるし、唐沢商店も儲けているなとも思うし、ま、見るのだが、CMは飛ばす。率直に言うとタモリを見るのがむかつくので出てくると飛ばす。HDDレコーダーはCMを飛ばすが実に楽だし、慣れてくると、操作は非常に簡単なのだ。おまけに民放はCMの前後にご親切にかぶりを作っているから飛ばしミス5秒くらいはなんとかなる。そう、私はCMをまるで見ない。
 CMを見ない生き方をしていると、さらにCMを見なくなる。なんか自分が時代を先取りしているかのような傲慢をかましたいわけではない。自分の変化に自分自身が驚いているのだ。CM自体が不快なのだ。さらに言おう、テレビのCMが嫌いになると同時にWebの広告も嫌いになった。詳細に書かないが、私はIEに小細工をしてCMをカットしている。もっともCMという存在自体すべてが不快というわけではない。これだけ叩かれても宅配の朝日新聞を読んでいるのは新聞の広告を見るためだ。もっとも、新聞とは実は広告媒体なのだが、その話も割愛する。
 なにが言いたいか。私は、私に起こったような変化がみなさんにも起こる、と言いたいのだ。PSXでなくてもかまわない。EPGとテレビHDDレコーディングに家電並みのインタフェースが装備されれば、世界が変わる。大げさなことを言うようだが、テレビのリモコンによってザッピングが可能なることで視聴率の意味が大きく変わったように、HDDレコーダーの普及で視聴率自体が無意味になる。テレビの視聴率がじり貧に下がっているがなんとか打つべき手があるとか考えている人間が無意味になるのだ。
 もちろん、私は困らない。私は快適だ。だが、それは陥穽だ。私はCMだの視聴率だのを含めたメディアの世界を先行してザップすることで満足しているのだが、その世界の側が変われば反射するように私は変わらざるをえないだろうと思う。どう変わるのかわからないが。
 PSXがわからないのは、それだけの起爆剤となるだけのインタフェースを持っているかに尽きる。技術だのスペック的な機能などどうでもいい。「あたしンち」のおかあさんレベルが理解し使えるか、それだけが問題なのだ。
 もう一点、PSXについてわからないのは、結局コンテンツの入り口であるテレビとそのアウトプットであるHDDとDVDの関係だ。単純に考えれば、テレビ番組をHDDにプールして、簡単にCMカットのエディットを施し、DVDに焼き込むとなるだろう。だが、そうじゃないはずだ。まず、エディットはできないだろう。映像については、現行のアナログは見逃しとなるだろうが、それ以上のクオリティにはごちゃごちゃした規制が加わるはずだ。すでに音楽はDVD焼きはできないはずだ。
 でだ、そんなものが意味あるのか? HDDからDVDに出てこないということを大衆が納得するだろうか? 恐らく作り手の側は、作り手の都合を大衆に理解させようとするだろう。私は思う、甘いんじゃないか。大衆はもっと素直に欲望を剥くと思う。そして、剥かれた欲望を止めることができないというのが、DVDの暗号化の歴史じゃないか。
 ようするにPSXが大衆に納得されるマシンなのかということだ。納得されるというのは、単純なテレビHDDレコーダーであり、かつ、DVD出力が可能かということだ。ゲーム機なんかどうでもよろしい。
 私の疑問はあと数ヶ月で当面の結論は出るだろうと思う。この手の話題に敏感な「はてな」でPSXのキーワードを繰ってみたが、ぼよよ~んとしていた。みなさん、テレビのHDDレコーディングすらまだ日常化していないようなのだ。この人々にメディアの革命が起きるのだろうか。見ものだ。

追記
PSXの仕様変更情報 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031205-00000205-reu-bus_all


  1. HDDからDVDへのダビング速度が最大約24倍から12倍速に変わった
  2. DVD+RWの再生ができない
  3. CD─Rの再生ができない
  4. 音楽機能でMP3が再生できない
  5. ソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」から動画の取り込みができない
  6. 静止画で取り込める種類が減った
  7. 一部のネットワークサービス機能が利用できない

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冬の沖縄

 沖縄に数年暮らしていた。沖縄は多くの本土人のイメージだと熱帯なのだろう。正確には亜熱帯。同じく亜熱帯とされる台北のほうが冬は寒く、夏は暑い。熱帯の雰囲気が知りたいなら、台北から台南まで自強号で降り、鄭成功の館でぼんやりと檳榔でも噛むといい。あの熱帯に比べれば、沖縄本島は小さい島なので、気温も32度を超えることはない。嘘でしょと思う人もいるかもしれないが、気象観測の状況ではそうなる。気温が40度近くまで上がる沖縄の都市部が変なのだ。コンクリ作りの家々にアスファルト道路、そしてエアコンの外気を吹き出すからなのだ。それは沖縄の自然とはかけはなれたものだ。
 沖縄には四季がないと思う本土人も多い。四季は温帯だけだと思っているのか、亜熱帯の気候への感受性がないのか。沖縄にも四季がある。秋の紅葉はないがトックリキワタの花が咲けば秋が深まったことがわかる。沖縄の四季の情感が見えてこなければ、沖縄が生み出す美というものもただのエキゾチシズムにしかならないだろうとも思う。
 沖縄の冬の風景に欠かせないのはばポインセチアだ。庭木に植えている人が多く、けっこう巨木になる。本土ではクリスマスのイメージでしか見ないから北の地方の植物くらいに思われているのだろうが原産はメキシコ。沖縄に近い風土なのだ。鉢植えは本土にも出荷される。仏壇用の黄菊なども本土向けだ。沖縄の人は普通仏壇に黄菊は飾らない。
 もう一つ沖縄の冬の風物詩といえば夜のライトアップだろう。東京の街のように計画された美しさも彩りもないのだが、普通の民家にまるでやけくそのように無数の電球が輝く。不思議な華やかさだし、それにつられて夜遊びをする沖縄の人の光景も面白い。そうそう、沖縄の夜は寒いのだ。沖縄本島には気象データ上は雪が降ったことがないというが、嘘。小雨の来そうな一番寒い晩に久茂地にぱらぱらと雪が降ることもある。
 風物詩ではないがちょうど今なら沖縄でちょっと変な光景を見ることができる。道路脇にやたらと数字が並ぶのだ。82、79、76。ガソリンの安売り看板だ。本土人ならそれがガソリンの価格だと信じられないかもしれない。リッター72円なんてね。年に一度か二度、ふとしたきっかけで、こうしたガソリンの安売り合戦がまるで疫病のように広がる。利用者としては嬉しいので、ちょっとしたお祭り騒ぎになったり、「今どこが安いか」というのが話題になる。この祭りは1つガススタンドがつぶれると終わる。
 ところでなぜ、沖縄のガソリンが安いかって? 米軍と関係ある? その話にはちょっとした歴史を知らなくてはいけないし、まず、屋良朝苗を知っていなくては話にならない。センター試験には屋良朝苗が出題されたことがあっただろうか。

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パトカー追跡事故の真相はどうなんだ

 毎日新聞社説「パトカー追跡事故 逃げ得許さぬ態勢作りが先決」が面白いというか腹立たしいというか不快な話ではあったが、重要な問題提起でもあった。問題は、パトカーや白バイが不審車や交通違反車を追跡中に起こす事故の続発だ。毎日の言い分は、警察の威信を高め、さらに追跡の体制を万全にせよというのだ。
 そうなのか。違うんじゃないか。そう思うのは、庶民感覚として思うことだが、最近と限らないが、警察官が変だ。警察官に意外なほど年配が多く無気力なオーラをかましているし、若い警察官はなんだかオズの魔法使いのブリキのロボットのような感じがする反面、なんか感情制御ができてない。もちろん、こういう話をブログのようなうんこ投げまくりのメディアで言うのは危険なのだが、それでも自分の庶民感覚が起点になる。ついでにいうと、毎日新聞の社説が他紙にくらべていつも暴走するのはなぜなのだろうか。
 ブログとはいえ話の筋立てとしては、この問題を警察官にもセンター試験以降の世代が多いからねといって笑いをとってもしかたがない。警察官側に大きな問題があることは、他の不祥事でも明らかだし、神奈川県警を見ても組織的な問題だろうとも思う。
 気になるのはそれではない。毎日の指摘を引こう。


事故が目立つようになったのは一昨年からだ。パトカー側が起こす事故もないわけではないが、ほとんどは追われた車が対向車などと衝突したり、自損するケースだ。追跡を振り切ろうとスピードを出して無謀運転するからだ。

 なぜ一昨年からなのか。こうした問題には3つの視点が成り立つと思う。1つはこの年に社会の構造変化をもたらすなにかが発生した(もちろん、数年のディレイもあるだろう)。2つめはすでに変化の圧力はあり、一昨年前に顕在化した。3つめは事故を浮き出す警察側になにか構造変化あった。
 そのどれなのだろうか。毎日も思慮しないように、通常はこの手の問題は潜在的な問題が顕在化すると考えていい。だが、私の直感にすぎないが、違うだろう。個々の事例の背後からなにか構造が引き出せると思うのだが、わからない。
 この手の問題こそ、社会派のブログとしては、ツッコミレベルではないトラックバックが欲しいところですね。

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補助金というシャブ

 朝日新聞社説「公共事業――撤退できる仕組みを」(12.6)がよかっと言っていいだろう。あまり斬新な視点でもないのだが、この問題は口酸っぱく説いたほうがい。他紙は時事ということもあり、米国の鉄鋼セーフガード(緊急輸入制限)の即時撤廃をテーマにしていたが、呆れるほど読むべき内容がない。こんな内容なら社説に書く必要はない。こんな話には慌てるから日本の対抗措置撤回もまともに議論されていない。問題はWTOじゃないだろ。FTAだよ。
 さて、朝日が取り上げていた公共事業撤退についての問題だが、これはヤッシーこと田中康夫のおかげで周知となったことなのだが、ようは国庫から補助を受けた公共事業を途中で撤退すると、それまでに受けた補助金を返さなけれならないから止められないという問題だ。
 朝日の提言はプラクティカルだ。


補助金適正化法や政府が昨年12月に定めた方針によると、自治体が公共事業の再評価の手続きをきちんと踏んだうえで中止した場合、補助金の返還は求めないことになっている。つまり、正当な理由があれば補助金は返さなくてもいいのだ。

 朝日はだが問題はこの方針の基準がないため、実施されにくいと言う。反面、朝日の啓蒙節なのだが、自治体に向けてはきちんと公共事業の再評価をしろも言う。いずれも正論だ。
 そんな正論は空しいと切り捨てたら未来はなくなる。かといって、実際上、これを実施できるタマはまたもヤッシーくらいしかいないだろう。ヤッシーについては私は評価相半ばという感じなのだが、とにかくこの問題の切り込み隊になってもらうしかない。一度できれば、あとは右にならえでなんとかなる。
 もちろん、問題は複雑だ。この点については朝日はさらりと身をかわす。黙ってないだけましだ。

 事業の中止には、ほかにも多くの問題が伴う。いったん決めた都市計画決定をどうやって取り消すのか。請負業者への違約金の支払いをどうするか。こんなことにも、しっかりとした備えが要る。
 公共事業の恩恵と負担を住民が自分のこととして考える。そうした社会に近づけるためにも、補助金をなくし、地方への税源移譲を急ぐ改革が欠かせない。

 もちろん、そううまくいかない。この文脈を高校生的に読めば、請負業者への違約金は税源移譲でなんとかせいとなる。あれ、これってジョークだったのという結語なのだ。はっきり言う。円満な解決策なんかない。あるのは一種の惨事だ。まず、極東ブログとしては、嫌われるのを覚悟で言う。地方は統合を進めるしかない。知恵者を都市部に逃がさないようにしなければならない。

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2003.12.05

米国のブロガー調査を小説風に

 「ところでファイブ」彼は僕のことをそう呼ぶ、「君は、どうしてアメリカ人の僕がブログを書いているか知りたいって、パーティのときに訊いてたよね。」
 「そうだったっけ。忘れたな。でも、それは確かに知りたいね。」
 「模範解答みたいに答えてみよう。まず、ブログなんて日記さと思っている人が多い。毎日1度書いて終わり。でも4人に1人は1日に何度も書いている。仕事場でも書いているからね。それと、アメリカ人のブロガーっていうのはブログを複数もっている人が少なくない。君が日本語を試していたブロガー・コムだって、ブログが複数できる。MTだってTypePadだってそういう仕様だしね。」
 「そこをもう少し訊きたいんだけど、アメリカのブロガーってMTなのか?」
 「MTは少数派だよ。TypePadはさらに少ない。半数近くがブロガー・コムのユーザーさ。でなけりゃGoogleが買収しないよ。」
 「アメリカ人ってAOLとか使っているものな」、僕が苦笑する。
 「AOLもブログだ」、彼も苦笑する。
 「ブログのネタはやっぱりニュースにコメントっていう形式なのか?」
 「そうだとも言えるし、そうでもないとも言える。ネタのソースは一つとは限らないが、半数近くのブロガーは既存のメディアからネタを取ってくる。でも、半数はブロガーは他のブログからネタを取ってきているんだ。」
 「それって循環にならないのか?」
 「ファイブ、そうだよ。循環だ。ブログの話は信頼性なんて関係ない。」
 「友達とのだべりみたいものか?」
 「そうかもしれない。チャットの延長。ブログ仲間っていう感じがいいのかな。ブログなんて趣味というわけさ。でも、ニュース系が濃いヤツラは一種の正義感みたいなのを世界に向けて言いたいものなんだよ」、君がそうなんだろと言いたかったが、それは彼を傷つけるかもしれない。
 「サカイ・タナカみたいなんだな。」
 「サカイ、誰?」彼は少し驚いた。
 「日本にいる国際的ジャーナリスト。」
 「国際ジャーナリストってなんだ? ジョーク?」
 「もちろん。彼のジョークは面白い。イラクでアメリカが苦戦している理由はなんだと思う。」
 「興味ないね。もうブログの質問は終わりか?」
 「失礼。ちょっと仕事がらみの質問もしていいかな?」
 「かまわないよ。」
 「ブログが話題になっているのは、ようするにビジネスになるかていうことだよね。企業がどう先行的な人間を囲い込むかって話だ。となるとアマゾンで始まったアソシエイトとブログの関係っていうことになるのか?」
 「アソシエイトはアマゾン用語。アフィリエイト。ま、同じだけど。一般のブログではそれほど普及していない。というか、そんなの嫌だというブロガーのほうが多いのさ。」
 「ブログはマーケティングにも使えるとかほざくやつがいるけど、どうよ?」
 「企業側にそういう色気はあるみたいだが、まだ実態はそれほどでもない。ただ、こういう製品ができたんだけどと訊かれたら答えるというブロガーは多い。自分のテイストを主張したいのだろうね。」

Blogging Survey Results(参考
1 更新頻度
  Once a Day 28.9%
  More than once in a day 23.9%
  2-4 Times a Week 33.6%
  Once a Week 8%
  Less than Weekly 5.6%
2 ブログを書いている場所
  At work 4.8%
  At home or at leisure 47%
  At both home and work 48.2%
3 もってるブログ数
  One blog 56.2%
  Two blogs 22.8%
  Three blogs 11.3%
  Four blogs 5.1%
  Five or more 4.6%
4 ブログにアフィリエイト広告を付けているか。
  Yes 13.4%
  No 86.6%
5 ブログに広告を付けてないのはなぜ?
  I want to, but I do not know how 15.7%
  My free blog host does not allow it 10.1%
  Do not want to 43.5%
  Blogs and advertising do not mix 15%
  Other reason 15.7%
6 商品リサーチのコメントを求められたことがあるか?
  Yes 9.3%
  No 90.7%
7 商品リサーチをメールで求められたらブログに書く?
  Yes I would 5.2%
  Yes, if the product or organization was
   relevant to my blog content 26.9%
  I would review their organization or product and
   blog my thoughts on them, good or bad 41.8%
  No, I do not blog about companies that email
   or contact me 26.1%
8 使っているシステムは?
  Movable Type Hosted on own domain 15.4%
  WordPress hosted on own domain 4.1%
  PMachine hosted on own domain 2.5%
  Blogger hosted on own domain 12.8%
  Blogger Blogspot hosted blog 39.5%
  Blog-City hosted blog 4.4%
  TBlog hosted blog 3.9%
  Typepad/Blogs.com 4.9%
  Other 29.3%
9 ネタはどっから?
  Sites that I check regularly 68.5%
  Other blogs 58.9%
  Friends 54.3%
  News Sites and Online News Papers 47.7%
  Google News 33.8%
  Online Forums 25.6%
  Email News Alerts 22.8%
  Weird News Sites 20.8%
  Yahoo News 19%
  RSS News Aggregators 17.5%
  Moreover News 5.1%
  MSN Newsbot 0.7%
  Other 20.8%
10 ブログする理由は?
  For fun 73.6%
  To write 66.6%
  To reach out to the world 55.9%
  To cope 23.4%
  For work 12.6%
  For money 7%
  Other 20.8%

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武富士事件の山岡俊介って山ちゃんじゃないか

 武富士事件のジャーナリスト山岡俊介の写真を見たら、あれ、これって山ちゃんじゃないか、そうだったのか。ちとうかつでした。とま、なれなれしく「山ちゃん」とか、こいていますが、面識があるわけではないのですが、山岡俊介の本はほとんど読んでいたし、私生活の話「ぼくの嫁さんは異星人―日本♂×中国♀との世にもおかしな国際結婚」(参考)は傑作でした。この話、ちょっと他人事じゃなあないぞぉ、みたいな思いで読みました(意味不明)。
 と、この本って今品切れなんですね。山ちゃん記念に増刷すればいいのに。話は、奥さんは水商売の中国人っていう話です。客観的に見ると騙されてんじゃんというのが絶妙です。とはいえ、あっぱれな態度。中村うさぎといい、日本人の鏡だ。
ま、そんだけ。以下は、ちょと山ちゃんリスト。


山岡俊介著作
http://www5e.biglobe.ne.jp/~apple-co/lineup2.htm
「東京アウトローズ」山岡俊介編集長を誣告罪で刑事告訴
http://www.takefuji.co.jp/corp/news/030530.shtml
メルマガ「東京アウトローズ」 - 「東京アウトローズ」NO38
http://www.melma.com/mag/17/m00057117/a00000039.html
焼糞日記2003年5月
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ko-tu-ihan/DIARY/2003/2003-05.htm

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ようこそ、Googleクローラーさん

 新・極東ブログにGoogleのクローラー(スパイダー)さんが来るのは、以前の旧極東ブログ感じだと、だいたい5日から10日後くらい。だから今回もそのくらいでリンク辿って来るだろと思った。来週かなぁ、と。でも、ココログのトップは早々に来ていらっしゃるだろうと、そのキャッシュ状況を見た(もちろん来ている)。そのついてで、このサイトのキャッシュ状況を見たら、げっすでにこちらもキャッシュされているぜ。昨日来たようだ。やるなぁ、Google。早いなぁ。日本語用になんかチューンしているのだろうか。
 「はてな」は、ま、率直にいうと事実上リンクファームなんであっという間にPageRankがそこそこに上がる(といっても3から4)。クローラーも早く来る。有名どころはすでにフレッシュクロールだものなと思うのだが、の、わりに、はてなの情報が薄い(読ませという点ではね)。もちろん、はてなだって書き手によりけりなんだが、総じてうすーいとは言えるだろう。もっとも、旧極東ブログみたいに1ページあたりのキーワード情報が多いと、けっこうむちゃくちゃで当たる。検索している人にしてみると、いずれにせよそれも薄いの部類だ(ごめんな)。そのあたり、Googleがなんらかの補正を始めるかなとも思うのだが、よくわからない。やりそうだなという感じはする。
 それにしてもGoogleっていうのはクローリングにどういうアルゴリズムを使っているのか。クローリングに選択・戦略がかかっているような気がするのだ。SEOなんかでもPageRankを重視するのは確かにもう古いっていう感じはあるな。
 極東ブログについていえば、できるだけ日々の更新と行きたいのだが、米国流の薄いザッパ用のブログにする気はないし、SEO狙う気もないので、あまりGoogleにへいこらしたくはないなと思うが、うーむ、ちょっと言葉につまる。こういう技術が面白いとは思うし、ちとちょっかい出していたい気はする。SEOの基礎はわかるので、やってみたい気もする。が、SEOってやるだけ阿呆なんだよな、やっぱし文字コンテンツだよな。
 ココログのほうも、クイック投稿はできるし、またMTならではトラックバックもできるのだが、なんつうか、あまりザップな情報をトラックバックしてもなぁ、私ぁ、こういうザップな世界はつらいんですよね。
 といいつつ、こんな雑文ってザップ用だよな。2行で十分。嗚呼。

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儀礼的無関心という話題

 ブログって面白いなと思うケースでもあるのだが、一部で儀礼的無関心というのが話題になっている(参考)。話は、ま、どってことないというか、面白いページがあってもリンクなんかしないでおきませう、っていうようなことだ。
 でだ、私は、この話題自体、まるで面白くもなんともない。リンクを繰っていろいろ読んでみるのが、なぜそれが話題になっているのかまるで理解できない。と、言っておきながら、冒頭で「面白い」と言ったじゃないか。そうそう。
 面白いのは、こういう、つまんねぇ話題が祭りになる、と書いて、「つまんねぇ」は余計だなというのはわかる。ま、いいじゃないですか。ようは、ブログを持っていたら、つい言いたい話題ですね。
 リンクについては、我らが山形浩生が(「我らが」というのは冗談ですよ)「リンクするなら黙ってやれ!」(参考)が面白い。だが、面白けど、なんか、あれ?こういう考えも古いなと思う。
 やっぱし、儀礼的無関心っていうのでわいわいするのがブログなんでしょうね。少なくとも古いっていう感じはしねーし。
 ついでに、「ブログ用語集(政治的)」(参考)も面白かった。とはいえ、こういうタクソノミックなギークな傾倒っていうのはアメリカ臭くてたまりませんな。
 話がずっこけるが、「生産性は計測不能」(参考)という話題も実は、話としてはよくわかるのだが、こういう話題っていうのがブログ的なんじゃないだろうか。もっとも、儀礼的無関心のような祭りにはならいだろう。
 なんとなくだが、たしかに2ちゃんねるは終わったなという感じがする。山崎渉は寝ているのがいいのだろう、って書いてても、はてなじゃないから、キーワードの自動リンクはないか。「はてな」だとつい、書くときキーワードに色気が出ますね。ま、ポスト2ちゃんねるは「はてな」。そして、わいわいブログっていう構図ですかぁ。
 ついでに、平成サブカルチャー年表をめっけ。これは、おおおおぉぉっ!ものですね。平成サブカルチャー年表(参考)。なんか、これを話題にしたらとまらないでせふ。
 と思ったけど、やめ。それにしてもサブカルチャーっていつからTVや出版になってしまったのだろう。それ以外は風俗? インターネット以前のネット系や技術系もサプカルだったし、ニューアカもサブカルだったが、ま、どうなんでしょうね。
 

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仏独を押さえ込む外交が必要だ

 「極東ブログ」の移転に伴う試運転や外務官殺害など目をひく話題に気を取られて、世界の動きを追うのが少しおろそかになっていたが、この間、日本の大手新聞各紙も社説レベルでは似たようなものだった。日本の新聞は発行部数が異常に大きく、読者層は大衆になる。そのため、大衆に迎合するか啓蒙するかというスタンスになりがちで、従来は読売は迎合路線だったのに、昨今では朝日とともに啓蒙路線が露骨になって嫌な気分になる。新聞の話は長くなるのでさておき、今朝の各紙社説では日経の「財政規律問題で揺れる欧州」(参考)が重要だった。日経は一応経済新聞なので、こういう切り出しになるのはしかたがない。


ユーロ参加国の財政赤字問題をめぐって欧州が揺れている。財政赤字を国内総生産(GDP)の3%以内に抑えるという約束を守れなかった独仏への制裁手続きが停止されたことが原因だ。ほかの参加国や欧州中央銀行(ECB)がこの決定に強く反発しており、ユーロの信認だけでなく、欧州統合の行方にも影響を及ぼしかねない状況になっている。

 むしろ当面の問題は後者、つまり欧州統合の行方にある。問題の根幹にあるのは端的にいってドイツとフランスの強権を他のヨーロッパ諸国が恐れていることにある。日本人の感覚からすると、歴史を顧みてもドイツの強権というのは怖いという印象があるが、フランスの強権への脅威の感性は鈍いように思われる。背景にあるのは日本の初等教育における歴史教育が近代化を進めた明治以来本質的な変更がないためで、近代化の各国史、もっと露骨にいえば、帝国主義列強史になっていてそこから世界を眺めてしまうためだ。だが、現実にはフランスという国は歴史的に見てその内部の地域の独立性がかなり強い(もともと別の国の集まりとも言える)。なのに、これを強権で抑えているのであり、その最悪たるのが言語政策だ。日本の知識人は「おフランス」な趣味が強いわりに、こうした実態にそしらぬふりをしているように見える。
 日本ではイラク問題が、悪の米国に対して理性の仏独といったフレームで捕らえられることが多い。浅薄だ。ポーランドやスペインがどれだけこれに抵抗しているがゆえに、米国との関係に苦慮しているかがあまり顧みられていない。もともとイラク戦争の問題の背景にあったのは、フランスやロシアなどがイラクと石油市場の流動性を愚弄するような態度を取ったり、兵器輸出をしていることにもあり、その意味では、世界問題の極はフランスにあるとも言える。ル・モンドの主張などに尻馬にのって喝采をしている日本の知識人は…ま、なんというかねである。
 今後の動向としては、独仏への圧力が強まれば、トルコを独仏側に引き込むという荒手の技も出てくるかもしれない。トルコ一国でヨーロッパの数カ国分の票が潰せるし、米国にも強いにらみを効かせることができる。ああ、政治なんてものは汚いかぎりだ。
 日経社説に話を戻すと、独仏の赤字問題に着目している。EUはユーロの安定のために参加各国の財政赤字をGDP3%以内に抑えることが義務となっている。だが、独仏の財政赤字は2004年まで3年連続でこの水準を超える。そこで「俺たちがルールだぁ」と言い出したのだ。冗談じゃない。もっとも、独仏にしても他に策などはない。グローバルな景気の低迷やその対応として歳出抑制をしなければならない。と、書いてもみて、ふと変な感じがする。もともと歳出抑制の発想は国家経済の発想だが、EUはこれを全体で調和する方向にもっていくのが筋ではないか。とすれば、フランスは自国からEU大統領を出して、ゴリっとやるつもりなのではないか。背筋が凍るな。
 こうした中、コウモリのようなイギリスやIT分野に強い北欧がどう動くのか、もちろん、背景には米国があるし、日本も侮れないカードなのだ。むしろ日本はそこに突破口を見つけるために、ポーランドやスペインに友好を示すべきなのではないか。

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問題は診療報酬ではない薬価だ

 昨日の毎日新聞社説だが、「診療報酬改定 引き上げ理由が見当たらぬ」に奇異な感じがした。医師に支払う診療報酬を引き上げる改定はよろしくない、というのだ。あれ?という感じたのは、そういう言い分は大衆迎合として心地よいものだ。


 医療法人などの病院長の給与は2年前の報酬引き下げで下がったとはいえ、平均給与は235万円(今年6月、同省調査)だ。医療側には、医療保険制度の現状を冷静にみてもらいたい。「診療報酬の引き下げにより、医療の安全性を損ないかねない事態が懸念される」などという主張は、医道の尊厳を自ら否定するものだ。患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか。

 こういう文章を私もつい書いてしまいがちなのだが、これは悪いレトリックだと思う。まず、「患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか」という煽りは実は無意味だ。医師の使命があれば報酬はなしでいいというわけにはいかない。病院長の給与がいくら高かろうが、その病院の経営の問題にすぎない。
 「患者の健康」といったうすら寒い大義を除けば、ようは、支払い側の健康保険組合が「これ以上金は出したくないのぉ」ということだ。それは理解できる。健康保険組合がつぶれたら元も子もないということになる。
 私は端的に現行の医療費とは結局薬価ではないかと思う。8月23日の旧極東ブログ「薬剤師の社会的な重要性は市販薬についてではない(2003.8.23)に書いたように、ジェネリック薬に切り替えていけば、問題は大きく改善するはずだ。代替調剤制度(参考)を大きく進めるべきだ。
 と書きながら、毎日新聞社説でもこの問題が隠蔽されているように、実は代替調剤制度は日本の薬剤メーカーに大きな問題となる。なぜ日本の薬剤メーカーが社会問題にならないのか。問題というのは端的に資本力と開発力だ。銀行統合より先に、日本の薬剤メーカーを統合しなくてはいけなかったはずだ。識者はなぜ黙っているのか。

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自転車に課税しろ

 読売新聞社説「放置自転車税 鉄道に負担を課すのは筋違い」が、面白いといえば面白かった。放置自転車の対策費を得るために、豊島区が鉄道会社に課税する法定外目的税創設の条例案をいかんというのだ。確かに、駅前放置自転車の責任を鉄道会社に帰すというのは、変な話だなとは思う。読売も大衆迎合のいいところに目を付けた。
 とはいえ、問題の放置自転車の対策はどうなるのか。読売はこう怒鳴る。


問題の責任は、放置者にある。撤去作業の回数を増やすなど、放置しにくくすることが、最も効果的ではないか。

 なんだかなである。放置者ってみなさんのことですよ。みんなそろってアモラル(不道徳)なことやっているのだ。現代日本人のプチアモラルの代表ともいえるのが自転車だ。歩行者に警告音を出して歩道を走る(これは違法です)、二人乗り、携帯電話しながら走行、喫煙走行、こういうのを見ながら、私は中島義道のように、「おめーらみんな叩き切ってやる」とどなりまくってきたが、疲れた。
 だいたい、なんで自転車なんか乗るのだ? 自転車の必要性っていうのはなんだ? 馬鹿なことを問うんじゃないと言われそうだが、駅やスーパーまで歩いて20分だったら、歩けよ。もっとも、そんなこと言っても通じないのだ。
 どうしてこんなことになったのか。日本の歴史を見ると大衆はけっこうプチ・アモラルなので、実際にはそれほど責めても意味がないし、そういう大衆の性質というのは自然なものでもある。とはいえ、事態はひどすぎる。
 端的に言う。自転車が安すぎるのがいけないと思う。映画自転車泥棒ではないが、自転車が盗まれることは生活の資が断たれるような時代があったのだ。自転車を放置するっていうのは、自転車を愛していない証拠ではないか。だから、課税しろ、と思う。
 自転車にがんがん課税しろ! それに尽きる。

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2003.12.04

お気の毒に、雅子さま

 「雅子さま帯状疱疹」というニュースがなんか心にひっかかる。どってことない話じゃんかとも思うだが、これまで身の回りの帯状疱疹の人を見ていると、どれもみんなすごいストレス下にあったものだから、雅子皇太子妃もそうだったんじゃないかと思う。共同によれば、こうだ。


「雅子さまは11月23日、のどの痛みやせき、微熱を訴え、風邪と診断されていた。愛子さま2歳の誕生日だった今月1日は、ご一家で皇居・御所に天皇、皇后両陛下を訪問。側近は「この時は元気な様子だった」としている。

 私は経験ないが回りを見ていても、すごく痛そうだった。子供との接触も避けるようだ。かわいそうだなと思う。彼女が結婚したころだったが、身近な女性に、どう思うと聞いたら、好きでもない人と結婚するのっていやと答えた。そうかぁと思った。人間なんて大半は好きでもない人と結婚しているものじゃんかとも思った。彼女はそれでもナルタンが熱愛だったのだから、ましではないか。結局その知性とキャリアをそのままの形で活かすことはできなくなったのだが。
 彼女はこの9日が誕生日で40歳になるとのこと。すでに一子は産んでいるけど、第二子は難しい年頃になるのだろうなと思う。天皇もすでに高齢なのでそろそろ皇室典範を変える時期なのだろう。
 天皇家については、それだけでなにかといろいろごちゃごちゃした話がつきまとうが、当の天皇家はよくやっていると思う。特に美智子皇后はいろいろな面で尽力されているのだろう。そうした陰に神谷美恵子の影響も思う。
 神谷美恵子の著作や翻訳はいろいろ読んだ。フーコーとバージニアウルフ、マルクスアウレリウス…こんな本が訳せる人間はただものではない。著作は感動的ではあるのだが、それでも、なにかわからないなという思いがいつもあった。著作集の最終の月報のようなものに夫の神谷宣郎がたしか、美恵子には著作からはわからないところがあるというなんとも謎めいたものが書かれていて気になった。スキャンダラスなことをほのめかしたいわけではないが、シモーヌ・ヴェイユのような人だったのではないかとも思う。
 話が散漫になったのだが、美智子皇后には歴史家の興味をそそるなにか謎があるような気がする。たぶん、アレだなと思うが、あまり直裁に書くと問題なので書かないでおく。

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「センター試験以降の世代」という壁と知識化人

 草莽堂さんのココログ@ニフティから興味深い指摘を受けて、実はこのことを考えていたこともあって、ちょっと書いてみたい。ただ、話はかなり難しくなってしまうだろうと思う。まず、草莽堂さんの日記からの引用。


外から「センター試験以降世代」と規定されちゃうと、規定されちゃった人はどうしようもない(規定された側はどうしたらそうした規定の外に出られるのか分からない。出たつもりでいても、判定者が「出てない」と言えば、そうなのかと頷かざるを得ない)という側面があって、その点少し引っかかるのだが、極東ブログさんが「人間」に寄せる思いは少し分かる気がする。

 それはわかる気がする。バカの壁ではないが、センター試験以降の世代の壁みたいなものを自分が作り出しているなという反省は、多々ある。というのは、自分もかつて若い世代だったし、団塊の世代のちょうど下にいたので、かつて私も団塊さんとかに理屈をこくと単純に「本音を言えよぉ」とか殴られそうになったものだ。うわぁ通じないよぉとも思った。「戦争を知らない子供たちぃさぁ~」と手をつないだ歌えって言われても、お姉さんたちブスいじゃないないですかぁ、っていう感じだ(たぶん私はかつて美少年だった、照笑)。それがついに自分にも回ってきたなと。
 これっていうのは自分の思惟が若い世代から突き上げられているというか、自分より若い思想をはっきりと認めるようになったという点はある。例えば、「北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を」(参考)。

ニューアカに惹かれつつ、でも終わってるんだよなとか思いながら、受容していたような感じがします。柄谷行人が好きな人もそこそこいましたし。そこには、独特の世代的な共有体験はあるのかもしれない。多分、ニューアカをバサっと斬り捨てられない、なんか影響受けちゃったんだよなっていう感覚というか。

 ふーんという感じだ。そこに北田のように思索する新しい世代があるのだと思う。私などは柄谷行人と聞くと、「あ、三馬鹿トリオのブントさんだね、奥さん大変でしたね」とか思うし、柄谷ってアカデミックなレベルだと文献の読みがずさんすぎて投げ出したくなる。ま、しかし、それはどうっていうことじゃない。
 北田暁大インタビューの引用を続ける。とても示唆に満ちている。

でも、四年ほど前に大学で教えるようになってから、そういう背伸びの感覚が学生からまったく感じられない。だから、昔のニューアカ的な語り――フランス現代思想の言葉をおりまぜて世の中を分析する語り――というのが、もはや通じません。東さんのいう動物を生きている人たちに届ける言葉というのは、別の回路が必要なんじゃないかと。

 私からすると、ここでトゥーフォールド(二折り)なってしまう。すごく単純化すると、共通一次世代とセンター試験世代がいる。私は随分老いてしまったと思う。引用が多くて申し訳ないのだが、北田暁大が秀逸なのは次のような指摘だ。

「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。「歴史意識」の回復を説くだけでは、もう言葉が届かない時代になっている。ぼくは全然実践できてませんが(笑)。

 私などうまく批評射程で射止められたなと思うのは、歴史意識の回復を説くだけではもう言葉が届かないという点だ。もうちょっと言うと、そういう世界になってしまったからこそ、(なんだか昨今批判ばかりしているように見えるのだろうが)小熊英二が作り出すような既存文献集約的な歴史像が歴史代替の言葉として出てきてしまう。そこには、ひどい言い方だが、言葉しかないのだ。フーコーがかつて歴史を言説の考古学として見せたことに世界の知性は驚きを感じたが、それはまだどこかで社会学的な方法論であった。しかし、現在は生きられた空間が生きられた歴史性を失い、すべてフラットな言葉(文献)に埋められてしまっている。私がこだわっているのは歴史になるのだが、私の歴史語りは言葉であって、つまるところ、トリビアの泉だ。
 私の内面では今にして思うと小林秀雄に没頭したことが恵みであったようにも思われるのだが、小林は歴史を死んだ子の歳を数えるようなものと言っていた。小林らしい気のきいた表現として看過されてしまうが、そこにある、人の思いが理想に届かない痛切さや悲劇性を彼が歴史の本質としていることがよくわかる。
 こういう言い方自体なんか年寄りの説教のようだが、歴史は絶対に戻らない。だがそういう思いは通じない。最近でも痛切に思う例がある。名前を出すのは失礼かもと思いひかえるが「はてな」で(たぶん)若い人から質問を受けた。そのなかに私の考えの一部がドグマだというのだ。そこでドグマとはと問い返すと、反証可能ではないと答える。反証可能性とはポパーの科学論であって社会学的な命題には適さない、ポパーを学んだ人間ならこの文脈で反証可能性など言い出すわけもない。ポパーなら批判的合理性が問題とされるのだ。だが、「社会学的な命題に反証可能性はないですよ」と再回答しても彼は受け入れない。私は溜息をつく。私が彼の教官なら、ポパーとウェーバーの訳本でも貸して2000字くらいのレポートを書いてきないさい、と言うところだ。だが、たとえそうしても、問題の本質は伝わらないだろう。社会にも歴史にも反証可能性などないのだ。そもそも生きられた人間社会に再現可能な実験を施しうる者は誰か?それがいるなら、私は思想の矢を放たなくてはならない。矢はドグマか?そんな問題ではない。私が友愛だけを信じて戦いをいどむだけなのだ。もちろん、私は隠者だ。そういう思想の矢を表で投げることはない。だが、その友愛のメッセージがあれば、私のできることはわずかでもそのわずかなことをする。
 話がそれてしまったが、こういう話がそもそも通じないのだ。いや、もう少し言うと、私の文章からは以上のようなパセティックな心情だけが通じるだろうと思う。そしてそれが危険なのだという批判は正鵠でもあるだろう。
 話を方向を変える。最近西尾幹二の最近のエッセイを読んで、彼は私より遙かに爺なのに、私は彼にセンター試験以降の世代と同じものを感じた。羅列した知識の断片はどれも正解なのに全体像が間違っているのだ。この現象はなんだろう。簡単に言えば、私はつい、センター試験以降の世代というふうに世代論めかしてしまったが、そうではなく、ある種の人間の思考タイプの問題なのかもしれない。
 吉本隆明は社会思想の原点に「大衆の原像」という概念を置いた。あえて概念として私はとらえる。それは吉本は嫌うだろうが、モデル化が可能ではないかと思うが、「大衆の原像」は団塊の世代より上では解釈というか吉本教の教義化してしまった。いずれにせよ、普遍的な「大衆の原像」があれば、センター試験以降の世代もそのなかにモデル化できるはずだ。だが、そうではない。
 まったくテンポラルな思考実験なのだが、すでに世界は(日本の知の状況は)、知識人+大衆+知識化人の三局化したのではないか。言葉の遊びのようだが、知識化人とは、DB化される知識をもって大衆と区別される存在だ。その欲望が、大衆のような肉体的なものにならないのは、上位の「知識」というものにエロス的なカラクリが存在するのではないかとも思う(ロリは現象ではなく本質だろう。知識化人とエロスの問題は別の機会に考えたい)。
 いずれにせよ、私や団塊の世代より上は、知識人+大衆という二局のスキームのなかにいた。率直に言えば、団塊の世代の人の多くはまともに勉強する環境もないせいか知識に乏しい。その分、むしろスペクトラム的には近代化した大衆に近い。だが、そのスペクトラムの近代化方向の先に知識化人が出てきたわけでもないだろう。
 先の北田や東の言う「動物化」ではなく(東はDB化を見据えているが)、知の状況のなかで浮かんできたのは、「知識化人」ではないかと思う。それがセンター試験以降の世代に出現しやすいのだが、西尾幹二のような老人にも現れる。その出現の背景は、世界が文献の集積としての言葉に還元されてしまったからではないか。世界が断片的な言葉の集積になるとき、そこに最適な生存者として知識化人が出現するのは、おそらく不思議でもなんでもないようにも思える。

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イラク自衛隊派兵問題をどんどんやってくれたまへ

 我ながら不謹慎なことを言う。イラク自衛隊派兵問題をどんどんやってくれたまへ、だ。なんだか山本夏彦の霊が乗り移ったようだ。この議論なんて無駄だ。結論は出ているのだ。自衛隊の派兵なんてイラク国民にとって意味ないのだ。この話は11月24日の極東ブログ「イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない」に書いたが、日本の派兵はマックスで2000人だ。実質は1000人。13万人の展開でとほほになっている米軍にその百分の一を送っても効果はない。ようするにイラク派兵というのは、日本だっているんだよというシンボリックな意味しかない。ポーランドと同じようなものだ。イタリアほどの経験もない。
 日本がやるなら、民間の復興組織の防衛隊とするか、露骨にいうけど韓国と合同軍にすべきだろう。なにの文民は後回しで、空軍だけのお茶濁しになるのだ、やってくれるね小泉。
 新潮45で曾野綾子が日本人に忍者の恰好をさせるといいと書いていてそのユーモアのセンスに爆笑したが、いいんじゃないか。沖縄戦後の荒涼した風景のなか、照屋林助はさあ命のお祝いをしよう、生きていたものが生きている喜びを表さなかったら死んだ人に申し訳ない、というふうに言って、笑いを広めていた。もっともそれは小那覇舞天の思想でもあったし、沖縄の思想というものだった。
 イラクの人は日本に「おしん」がいると知っている。ヤオハンは馬鹿息子が潰してしまったが、それでも幾千のおしんはまだ日本に生きている。プロジェクトXみたいな話になってしまったが、忍者とかおしんとかを活かしたほうがなんぼかましだ。自衛隊派兵の是非なんか勝手に議論していろよと思う。

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読売さんもポチ保守のお仲間

 あれと思った。今朝になって読売新聞社説「在外米軍再編 アジアでは抑止力堅持が前提だ」として在日米軍縮小の話題に振ってきた。この件については11月28日の旧極東ブログ「経新聞さん、ポチ保守ではいられないよ2003.11.28)で扱っていたが、あのときは、産経だものな、ぽち保守だものなと思っていた。今朝の読売新聞社説を読んで、なーんだ読売も同じポチ保守かぁと笑った。問題提起するだけましなのだが。
 読売の社説ではちょっとどぎつくこう言っている。


 日本にとって深刻な脅威は、核やミサイルの開発を続ける北朝鮮だ。北朝鮮はソウルを「火の海」にする、という威嚇的態勢を緩めていない。

 修辞的な言明のようだが、これも私が以前のブログで書いたような背景があるだ。読売さんはちと舌ったらずなのだ。つまり、ソウルの米軍問題を知っていて、書いていないのだ。
 私は進歩派でも平和教でもないのだが、在外米軍の縮小のどこが悪いのだろう。ソウルが火だるまになる? ひどいことを言う。それは韓国の問題ではないか。日本にミサイルが飛ぶ?当たらないよ。工作員が大量に上陸する?日本は意外に広いよ。問題は難民くらいだ。問題は多分に韓国にあるのだ。韓国、しっかりしてくれよと思う。当面の問題はあんたがリーダーだよと思う。そして、状況に応じて日本社会は多くの難民を受け入れられる用意というか計画くらいはすべきだ。

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インドと日本は協調したほうがいい

 朝日新聞社説「中印改善――竜と象の踊りの輪に」で、インドと中国の関係が改善されることが好ましいとしていた。ほぉっていう感じだが、朝日新聞社説には左翼と反米のフィルタがかかっていることがあるからなと警戒して読む。


 底流にあるのは、経済の発展を優先したいという共通の意識だ。そのためには何より紛争を避けたい。両国はともに今世紀の半ばには経済大国になる可能性を秘めている。巨大な市場や潜在力を互いに生かし合わない手はないというわけだ。

 それはわかりやすい。そのわりに、カンクン会議の暴れん坊とアジアのFTAボスという視点がないのは変だなと思って読み続けると、ご期待どおりの左翼節が出てきました。

中国は包括的核実験禁止条約に署名したが、批准はまだだ。インドは署名さえしていない。ミサイル関連技術の輸出規制や、弾道ミサイル拡散防止の国際行動規範には両国とも未参加だ。これでは困る。

 なーんだ中国を賛美してインドの核を牽制したいというだけか。つまんないなぁである。といわけで、まじめくさったくだらない話はさておき、私は2つくだらない話を書こう。
 1つはシッキムだ。

インド側はチベット自治区を中国領と初めて文書で確認し、中国側もそれまでインド領と認めていなかったシッキム州とチベット自治区との間の貿易の再開を受け入れた。

 前段のチベットの話はむかつくのだがある意味現実的には仕方がない。でシッキムだが、紅茶で有名なダージーリンの上のほうというか北西というかあのあたりで、いい紅茶が取れる。価格が同じならダージーリンよろシッキムのほうがうまい。が、最近ダージーリンの紅茶は驚くほど進歩している。5年まえならお笑いっぽかった有機の紅茶がうまいのだ。また、製法も最新の台湾烏龍茶の影響を受けているのか、すごいのだ。この2つを合わせたプッタボンやマカイバリの紅茶は、もうそれは香水なのだ!!って言ってどうする。私はキャッスルトンとかサングマとかが好きだったが、乗り換えてしまったよ。ああ、くだらない話。
 もう一つは、朝日新聞は「さて日本だ。首脳交流さえ乏しいインドはまだまだ遠い」というが知らないんだなと思った。個人的な話になるが、今年亡くなった桜内義雄元衆議院議長はインドにだいぶ心を砕いている様子を私は知っている。ただの坊主じゃないなと思ったものだ。ああいう気骨のあるインド愛好家がいなくなってしまったなと残念に思う。日本ではインド愛好家というとすっかり変な人が多い。たしかに、現地で暮らすとああなるのだろうなとは思うが、変な感じのインドというのはなんかすごく間違っていると私は思う。カルカッタの通りでチャンドラ・ボース(Subhas Chandre Bose)の立像を私が見ていたときだが、知識人と思われるインド人が日本との友好を熱心に語ってくれた。センター試験以降の世代のみなさんは知っているかな。知っていても小熊英二みたいにひんやりした知識にしてしまうのかな。とからかってしまってはいけない(参考)。私だてチャンドラ・ボースのことを知っているが親愛を強く持っていたわけでもない。すなかったなと思って帰国してから高円寺にちと墓参りに行ったものだ。

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「三位一体の改革」というアポリア

 朝日新聞と日経新聞の社説が「三位一体の改革」の緒戦である補助金削減案を論じていた。問題提起は非常に明確だ。日経の言葉を借りると、「数字のつじつま合わせにしても、少しひどすぎないか」。確かに、ひどいもんだと思うが、予想外のことではなかった。この問題については、11月27日極東ブログ「1兆円論議はなあなあで終わり、三位一体改革は失敗するだろう」で予想した通りだ。もちろん、この手の議論は金子勝のように悪いほうに賭けたほうが勝つので無意味なゲームになりがちだ。
 朝日は「首相は早急に国と地方の役割分担を明確にし、それにふさわしい税源のあり方を示すべきだ」というが、こうした大義のレベルでは問題はすでに解決している。問題は、ようするに地方だ。朝日は次のようにまとめているが、すでに問題が内包されている。


 1兆円削減論が迷走するいま、首相は三位一体の改革の原点を見つめ直す必要がある。厚労省などの事業官庁は補助金で自治体を指図する。総務省は交付金を操る。財務省は税源を握っている。その3者の「三方一両損」が出発点だ。さらに主役の自治体が身を削る「四方一両損」によって改革は初めて動き出す。

 現実的な意味では話は逆になる。つまり地方の自治体が身を削ることが可能かという問題なのだ。もっと明確に言えば、大都市以外の地方の問題なのだ。旧極東ブログで書いたが、大都市を除く地方は高い地方公務員の給料や地方単独の公共事業を温存していたいのが本音だ。地方公務員は地方のエリート層だし、地方単独の公共事業がなくなれば、地方の産業が崩壊する。それ避けられるのはある規模を持つ自治体に限られる。とすれば、問題は地方の合併問題になる。そこがうまく論じられないのは、政治家の利益や地方報道社は実は現存の体制のほうがうまみがある。
 微妙なのは大手新聞社や大手のTV局だ。本音で言えば、地方を切り捨ててもいいし、切り捨てたいという欲望が潜んでいる。だから、そのあたりから、都市民の怨嗟のような正義が沸騰してもおかしくはない。
 いずれ是非を決せざるを得なくなるなら、合併を進めて、多くのインテリジェンスを地方に戻すことだ。私は田中康夫が好きではないが、あの長野県のモデルを実施するしかないだろうと思う。

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2003.12.03

「はてな」からココログ(TypePad)へ

 昨日、「はてなダイアリー」からこちらに引っ越しをした。ブログを開始する当初、MTにするかちと悩んでいたが、やはりブログの主流はMTになるだろうから、MTベースがいいだろうと考えていたので、早々に移転した。リファラや統計の情報は得られないが、仕事でもないしいいだろう。ちょっと残念なのは、はてなの旧「極東ブログ」でPageRankをある程度まであげ、もう一歩でフレッシュクロールかというところだったが、それが消えることだ。しかし、もとからはてなのほうはキーワードリンクが多く、Googleにひっかかりやすいリンクファームの趣が強いので、それはそれでこのあたりで引き上げておいたほうがいいのだろう。あまり有名になってもろくなことはないという感じもする。それにしても、特に意味もなく保持していたニフティの会費がこんなところで生きるとはねである。
 MT移行については、ちと「うざったいコメントが嫌になったか」とも思われたようだが、そのあたりの心情は漠としている。もともと掲示板(フォーラム)でがんがんやってきた古くさいネットワーカーなので2ちゃんねるように荒れていなければ、対話は嫌いではない。だが、どうも荒れてなくても、若い人と話が通じないなというのは多くなった。
 そういえば、はてなでは先月、東浩紀がはてなに持っていた日記がコメントで荒れたため閉鎖するという「事件」があった。閉鎖前には次のように言っていた。(参考


基本的にははてなで続けるつもりですが、別のシステムでも実験してみるべきかもしれません。結局MTを採用するような予感もします(笑)。

 MTだからってどうという違いもないだろうと思ったが、東浩紀のような有名人の場合はコメントというか掲示板的な機能がブログについているとどうしても「荒れ」対策が必要になるのかもしれない。それに対して、MTがいいソリューションなのかはよくわからないが、現状のはてなダイアリーでは特定日のコメントが長くなると話題のほうが見づらくなるという欠点は確かにある。と、書いていたら、ご本人の新規MTサイトにご本人の弁があった(参照)。ふーんという感じだ。余談だが、ちとPerlの動作がトロいような気がする。それと、誤解されるかもしれないが、私は哲学の文脈以外では東浩紀にはほとんど関心がないので、この話はこれまで。
 話を戻して、はてなとココログだが、なにかと話題の感度の高いはてなのほうでは、ココログという大衆化したMT(正式には機能限定のTypePad)をどう受け止めているかと思ってみたら、すでにキーワードが立っていた(参考)。こういうところが、はてなはすばらしいと思う。これを読んでみると、関心はあっても、私のように、さらっと移行した人はいないようだ。はてなに魅力を感じている人が多いのだろう。ざっと見ても、これだけはてなに魅力がある。(1)キーワード機能で話題が共有できる。(2)CSSのカスタマイズ性がいい。(3)Googleに強い。と、実は3つとも同じことでもあるのかもしれない。
 TypePadのほうもCSSくらいはいずれ調整できるようになるだろう。が、昨日私が始めたときは、ちと文字の小ささにまいった。私は眼がよくないので、できればでかい字がいいなとは思う。ただ、慣れはあるようだ。昔のMacのような感じもする。
 話がちと前後しかねないが、はてながちとまいったなと思うことがあった。コメントの問題ではない。もともと私のブログなどコメントはたいしてない。まいったなというのは、はてなが村化していることだ。私という人間はどこにいても一匹狼的な人間なのだが、そう言って気取っているわけではないことは、どっかおちゃらけのサービス精神のようなものがあって、他人の目が気になるのである。また、回りの環境に馴化しやすいこともある。というわけで、どうしてもはてな村の雰囲気やはてな文化に影響を受ける。これが良い面もあるが、疲れる面もある。4か月はてなでブログしてみて、そこで物を書く人間の大半がセンター試験以降の世代になったのだと知って愕然とした。おそらく面と向かえば言葉も通じないだろうと思う。反面、私が好きな出版文化のほうは、書籍的にはまだ団塊から私(46歳)の世代だが、雑誌は30歳台に移行している。それでも、その下にブログの書き手がくるようだ。もちろん、そうではない例外も、例外という以上には多い。
 恐らく、私とはてなの関係はこれから薄くなっていくようにも思うのだが、そう急いで全面的に移行するというものでもなく、旧極東ブログのアーカイブと残してきた若干の対話の場でもありつづけるだろう。
 別の面から言えば、MT化したことで、トラックバックの拠点になれたので、もう少し広い世界への対話が可能になればいいとも思っている。こういうと偉そうな言い方がだ、世の中に3人くらい話の通じる人間がいれば、私はそれでいいのだ。傲慢が過ぎるかもしれないが、以前のネットワークの活動で得た得難い知人たちには、この4か月の間のブログは秘密にしてある。我ながら矛盾しているが、Googleのフレッシュクロールくらいになったら、自然にわかるだろうとも思っていた。わかりあえる可能性のある知人をほったらかして、何を言っているかであるが、ま、少し遠いところに向けて声を出してみたいのだ。

追記12.4
リファラの情報があると参考になるので、追加した。


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ベストなドイツ人はトホホな結果

 そういえば、極東ブログの「ベストなドイツ人というトホホ」(11.11)で扱ったビルト紙とZDFテレビの共同が企画した偉大なドイツ人の結果が出た。以下の通り。



  1. コンラート・アデナウアー
  2. マルティン・ルター
  3. カール・マルクス
  4. ゾフィー・ショルとハンス・ショル
  5. ウィリー・ブラント
  6. ヨハン・セバスチャン・バッハ
  7. ゲーテ
  8. グーテンベルク
  9. オットー・フォン・ビスマルク
  10. アルベルト・アインシュタイン


 結果を見て、ちょっと言葉に詰った。そりゃないでしょっていう感じだ。なんかドイツって内部で競り合っているんだなという感じがする。
 アデナウアーは旧西ドイツということ。つまり、旧東ドイツへの面当て。ルターはプロテスタントなので、半数いるカトリックに面当て。マルクスはアデナウアーの西ドイツ勢力に対抗した東ドイツ勢。ゾフィー・ショルとハンス・ショルはユダヤ人勢力っていうことだろうか。単純にしすぎだが。
 同じドイツとはいえ、難しいものなんだというのがかいま見られて面白いと言えば面白かった。

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パソコン技術の実際上の停滞

 ラオックスに確か中古パソコン館が出来たんじゃないかと思って情報をぐぐってみて、出てこない。名前が違ったようだ。PC EXPOT(ピーシーエキスポ)というらしい。「スポット」を洒落たのだろうがセンス悪いなと思う。明日が開館。ラオックスのサイトを見ると、BOOK館を潰して買い取りセンターを格上げしたような形になる。確かにパソコン雑誌や書籍には往時の勢いがない。悪ぶっていた「ネットランナー」なども、人にもよるのだろうが、もう見る影もない。タブブラウザー特集でSleipnirを今年もベストとかやっているのは、ほとんど紅白歌合戦の世界。中華キャノンあたりが旬だった。来年は「萌え」だけか。パソコン書籍もみんなその流れだだろう。鬱。
 ラオックスの経営戦略が変更になるように、中古パソコンの売買がさらに盛んになる。デフレってやつですか。それはいいことか悪いことか、と考えて、思考が中断する。いい悪いもない。ただ現実なのだ。いまだに新型パソコンは季節ごとに出るのだが、これはもうただのタメでやっているようなものだ。DVDだのAV機能に付加価値を高めるのは、新製品という見栄と単価を高くするためだけ。なにより、もう高性能のパソコンなんて市場には要らないのだ。高性能なのが欲しい人は別のチャネルで買うか、自分でファブリケートしている。
 パッケージもののアプリケーションソフトも悲惨だ。どのくらい悲惨かというと、年末に年賀状ソフトだの、年賀状ソフト特集をする雑誌の存在でわかる。アプリケーション関連で話のネタがないということなのだ。年賀状ソフトで汚いフォントをしこたまインストールしてマシンを重くするのはやめとけとか思うのだが、そういう声も聞かない(聞きますかぁ?)。
 WindowsはInternet Explorerを使うだけでリソースががくっと食うし、すでにこれがモジュールでOSに組み込まれているわけだから、そもそもWindowsっていうのはOSなのかとも思うし、最近のパッチはぜんぜん信用できないので、私もさっさと昔の古巣であるMacintoshに戻りたいよとも思うのだが、あれやこれやでなかなかそうもいかない。
 ブロードバンドがけっこう普及したから、アプリケーションをパッケージ販売する必要もないだろう。先日Paint Shop Pro8にリニューしたら、すぐそのあとにパッチバージョンが出た。ん十メガというしろものをダウンロードしろってっさ。最初からパッケージ売りの意味ないじゃん。まっくろメディアのSTUDIO MX 2004のアップグレード版も来たので開けたら煙しか出てこないので、わたしゃ、おじいさんになってしまいましたよ……マニュアルもなし。アドビみたいに読めないマニュアル(日本語文字で書かれた日本語でない言語)なら、なしでいっしょぉ!って軽快すぎますね。鬱。
 アプリケーションの市場が行き詰まっていると、その業界の人も思っているだろうけど、なんつうか、もっとまともな日本語環境が欲しいです。簡単にできる音声読み上げとか、読み上げのMP3化ツールとか、作文添削ソフトとか。ま、現状の技術でも組み合わせればできるのだから、なんとかしてほしい。
 話が散漫になってしまったが、ラオックス中古館の話に加えて、CNET「遅々として進まないOffice 2003の導入」を読んで、そーだよな、もうOffice要らないよなと思ったのだ。記事によれば、「Microsoftの最新版Officeへの移行を来年計画しているのは全体のわずか35%程度だという。」とのこと。そうだろう。現状の機能の上になにが必要なのだろう。個人的にはもっともましな単独のVBA環境があればいいだけなのだが、他にはなにも思いつかない。Officeは私が見る限り、Windowsの上にもう一個別のOSを載っけたようになっているので、本当ならこんなソフトインストールしたくない。CNETの話は米国ベースなのだが、日本ではどうだろうか。
 マイクロソフトがこれからもドットネットとXMLを推進していくのはわかる。名前はまたころころ変えるのだろうが、技術的な動向と必然性は理解できる。だが、いちユーザーとしてみるとそんな技術になんのメリットがあるのかまるでわからない。個人ユーザーなんてXMLをパージングする必要なんてないものな。
 Windows XPのライセンス認証もうざったいので、いっそ、Lindowsにするかとも思うが、現実的にはこんなの使えるのだろうか。また話が散漫になってきたが、マシンをリニューしたところで何をやりたいかまるでわからない。夢がないよなと思う。鬱。
 あと、これを言うと、とーっても恥ずかしいのだが、日本語コードの話。いちおう実生活的にはUTF-8でしょ、やっぱり、にっこり、とかしているのだが、使いづらいったらない。あれこれ言われたけど、実際にちょこっとした文書処理するならShift_JISがいいやと思う。昔のツールはありがたいことに、SEDやAWKでSJIS処理ができる。Perlじゃダメなんだものな。
 ふと思ったが、このココログのTypePadって、ちゃーんとUTF-8なんだ。ほほぉっていう感じだ。最初にごりごりと日本文化にUTF-8という黒船を送ったのはGoogleだよ~と思うのだが、そんな話も聞かない。日本語コードについてはうざったい議論が好きな人が多いのだが、なんか現実とはまるで関係ない事態になっている。
 いや、そう言っちゃいけないのだろう。正論っていうのはそれなりに正論なのだ。スリランカにしちゃいけないってオヤジギャグ言ってどうする。ただ、技術における正論というのは本質的に空しいものだ。応用あっての技術だからだ。
 もしこの歳こいてサンタさんにクリスマスに欲しいものと言われたら何が欲しいだろう。iPodは要らない。ラジオマニアの私はトークマスターがちと欲しいが、電池の問題がめんどくさい。欲しかったヘッドフォンも買ってしまったし、注文しといた伊羅保茶碗ももうすぐ届くはず…、なので、お薄で一服…ちがう!

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Google広告の自主規制の意味

 ZDNNニュース速報からだが、以前から問題になっていた未認可薬品の広告が廃止になった。ということは、Google自体が自主規制に乗り出すということだ。
 日本では話題になっていないが、旧極東ブログにも書いたように、今年はVicodin(バイコディン)ブームだった。SPAMもVicodinだらけだし、GoogleのアドワードもなにかとVicodinが出てきた。
 ZDNNニュース速報は簡素だし、以前の問題履歴を日本語で探ってみたのだが、要領を得ない。が、ニュースの原文をあたると、やはり、大きくあつかっていた。リードはこうある。(参照


Search giant Google said it will no longer allow unlicensed pharmacies to buy advertisements on its Web site, following similar moves by rivals Microsoft and Yahoo.

 速報ではぼけていたが、マイクロソフトやヤフーに準じるという意味あいを強くしているわけだ。当面は、この問題もまたVicodin(バイコディン)の関連とも言えるだろう。こうある。

Over the last several years, scads of unlicensed pharmacies have gone into business online, selling prescription drugs such as the painkillers Vicodin and OxyContin to consumers without requiring evidence of proper medical approval.

 この動向がネットにどういう影響を与えるのか、私ははっきりとした意見があるわけではない。直感的にはあるターンニングポイントを越えたなと思う。もどかしくてうまく言えないが、Googleはサーチエンジンなのだと単純に言える時代は終わってきた。どこかのブログで「Google村八分の形」という洒落の話があったが、Googleが直接的な利益を追求するに従い、フィルタがかかることで、我々がGoogleを通してみるネットと実際のネットとの間に、奇妙なゆがみのような発生し始める。
 現状では、Vicodin(バイコディン)業者のSEOがGoogleで無効になっているわけでもないし、こうしたSEOについて現状では、Googleはジェネラルな技術で対応しているのだが、それがどこかで無理になるか、こっそりとアルゴリズムが変更されるか、ということにならないだろうか。
 現状ではGoogleは他企業に検索エンジンをライセンスする場合、フィルタ機能を重視させている。情報を企業利益に誘導するかでどうフィルタするかはすでに問われているのだ。

追記
CNETでも記事があった。
「CNET Japan - 米グーグル、無認可の薬品広告を棚上げに」

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武富士事件がピンと来ない

 今朝の新聞各紙社説はこぞって武富士事件を扱っていた。事件はすでに周知ではあるが、読売社説の記事を引用する。


同社の疑惑を追及していたフリージャーナリストの自宅の電話を盗聴したとして、すでに、元課長や元専務らが逮捕されていたが、警視庁はトップ自らが関与した組織ぐるみの事件と断定した。

 東証一部上場企業がフリージャーナリストの盗聴をしていたとはなにごとか、というのが各紙の切り出しだが、問題はこれが端緒であって、「消費者金融最大手武富士はいかん」というのが本丸だ。日経社説を引用するとこうだ。

今年7月大阪労働局は、サービス残業を指示していた同社と役員2人を労働基準法違反で書類送検した。8月には関東財務局が、違法な取り立て行為をした支店を業務停止処分にした。犯歴照会に応じてくれた謝礼などとして多くの警視庁幹部に大量のビール券を贈っていた事実も判明している。暴力団との関係も指摘されている。社会的な責任を自覚した企業とは思えない行為である。

 たしかにそりゃいかんな、ということで話が終わるのだが、どうもピンと来ない。その自分のもやもやとした感じから書いてみたい。
 まず、この事件はそんなにたいした問題のなのか?という違和感がある。違和感の大半は盗聴はよくないが、これが緒戦に過ぎないのだから、本丸をきちんと解明する、というか、そのフリージャーナリストの仕事に着目すべきなのではないか。と書いてみて、この事件の解明が既存のジャーナリズムや社会運動ではなくフリージャーナリストに任されていたのだということに気が付く。オウム真理教事件の時でもそうだが、江川紹子個人に拠っていた面が強かった。当時を思い出すに、江川の話はジャーナリズムでは「FOCUS(フォーカス)」だけが取り上げていたが、他誌は十分に扱ってこなかった。フリージャーナリストに近いFOCUSの意義は大きかったのだが、現在は事実上休刊であり、類似の写真誌はただの芸能スキャンダルみたいな話しかない。と、ようは、日本のジャーナリズムの欠陥の露呈が潜んでいるように思われる。関連して、フリージャーナリストの安否が問われる事件が最近多いのも気になる。
 盗聴事件で連想したのは、武井保雄会長の行動がどことなく麻原彰晃を連想させる。なぜなのだろうか。もっとも大手企業ではなく、たたき上げの中小企業の場合、どれも武井保雄会長のような存在がいて成り立っている。とすると、その構造自体を大手企業化したジャーナリズムが正義面で叩いても、おまえさんたちの生活感は違うよないう感じになる。
 もう一点の違和感は、日経が「かつて消費者金融は『サラ金』と呼ばれ、深刻な社会問題を引き起こした」と書くように、サラ金へのバッシングの意識が今回の問題の背景にあるだろう。だが、実際の日本社会はサラ金によって成り立っているようなものだし、深夜番組のCMはサラ金しかないような様相だ。こうした現実の日本の状況の変化に口をぬぐっているのはおかしいと思う。サラ金の反面には巨愚とも言える銀行があった。山本夏彦風に言えば、銀行もたかが金貸しである。サラ金のほうがより日本人大衆の身近にあった。好意的にいうなら、サラ金が社会化したから、この間の日本の庶民の経済が支えられていたことは間違いなと思う。
 以上、書いてみて思うのは、サラ金と武富士を叩いて正義面をする大手ジャーナリズムへの嫌悪感なのだなと思う。

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2003.12.02

朝鮮民族の起源を考える

 韓国の新聞東亜日報の社説で以前朝鮮史五千年という話がマジで語られているのに仰天したことがあるが、それ以前にそこでの朝鮮民族という概念にも驚いた。私はどう考えても、朝鮮史は新羅統一をもって始まると考えていて疑ったことがなかったのだ。盲点があった。もちろん、統一新羅以前の古朝鮮を否定するわけではないが、古朝鮮の民族的な状況についてはあまり考察したことがなかった。理由は意外に単純だ。歴史学者岡田英弘から直接、前漢時代の東ユーラシア大陸の「朝鮮」は現代の朝鮮とは違うという話を直接伺って、疑念すら持たなかった。気になって手元にある岡田の著作を読み直したが、はっきりした言明が見つからない。もしかすると私の聞き違いかもしれない。それにしても、疑念すら持たなかったのは、百済が日本と同様に越人の起源を持つだろうと思っていたからだ。つまり、統一新羅以前には朝鮮民族の単一的な起源はないだろうと単純に考えていたわけだ。
 現状でも、その考えが違っているとも思っていない。また、くわしく考察できているわけでもないのだが、メモがてらに書いておきたい。
 史記によれば周の武王が殷を滅ぼしたとき、殷の最後の王である紂王の叔父箕子は現在の朝鮮に封ぜられたとある。これがいわゆる箕子朝鮮だが、殷自体が伝説なので史的考察の対象とはなりにくい。箕子は燕下の喀喇沁のキ(己其)侯をさすと見てよいので、朝鮮半島北部は燕下にあったことだろう。
 その後漢代に、燕人満(衛満)が部下とともに東方(半島方面)に亡命し立国したた。そのおり当地の民族衣装をきて紛れたというが、これを現代韓国の史学者は朝鮮族の服(椎結蛮夷服)だと考えている(参照)。
 満は現在の平壌を都とし、当地の真番、朝鮮、臨屯を服属させた。これが衛氏朝鮮(衛満朝鮮)である。衛満は漢の外臣扱いとなったが、その孫衛右渠は漢に敵対したため、漢によって滅ぼされ、楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡が置かれることになった。完全に中国下になったわけである。これがBC108。
 四郡の位置についてだが、岡田英弘は現在の朝鮮半島を分割するように比定しているが、井上秀雄は現在の北朝鮮に比定している。岡田が正しいようにも思われるが、井上の説が正しいなら、以上の古朝鮮の歴史は現在の韓国の地域とは関係のない歴史なのかもしれない。
 韓人については、BC44に真番の原住民として現れ、後の辰につながる。


建武二十年、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。【廉斯、邑名也。[言是]音是】光武封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。 靈帝末、韓、wai[扁水旁歳]並盛、郡縣不能制。百姓苦亂、多流亡入韓者。

 高句麗が出現するのは先の井上はBC37ごろとするが、そうだろうか。いずれにせよ、後漢の衰えとともに高句麗が現れるのであって、檀君建国とはつながりようがない。また、以上の流れから見て、衛氏朝鮮をもって朝鮮民族の歴史起源とするのもやはり無理があるようには思われる。
 話は飛ぶが、現在中国域吉林省、黒龍江省、遼寧省など東北三省に二百万人の「朝鮮族」がいる。この人々の由来は現在の北朝鮮の朝鮮人と異なるものではないだろう。歴史的には10世紀に滅亡した渤海遺民かもしれない。日本の併合から逃れたとも言われているが、そう言われれば政治問題なので日本人による否定は難しいだろう。
 鴨緑河で北朝鮮の国境が引かれたのは、中ソの蜜月時代と北朝鮮がもとからソ連の傀儡国家として生まれたことによるのだろう。
 朝鮮の置かれた歴史状況に同情すると言えば、朝鮮人からは嫌がられるかもしれない。私はいずれなんらかの形で、半島に統一朝鮮が出現し、日本と並べる一億人の近代国家になるだろうと思っていた。だが、古朝鮮を巡るナショナリズムの動向を見ていると、そうならないのかもしれないとも思う。中国は現在東北工程によって中国域内の朝鮮族の中国化を進めている。そして、中国は突き詰めてしまえば、歴史的に朝鮮を独立した国家と認めているわけでもない。統一朝鮮はつねに中国と対立しつづけるだろうし、その対立は民族を分断させるだろう。

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「冥福」は祈らない

 外交官殺害事件について各種ブログをザッピングしていて、「冥福」という言葉が奇妙に心に引っかかった。なにか痛ましい事件があると、メディア、とくにTVで「ご冥福をお祈りします」と来る。いつからそういう風潮になったのだろう。自分の少年期や青年期を思い起こすのだが、よくわからない。ただ、阪神大震災あたりから「あれ?」という違和感があった。この手の問題はどうも気持ちが悪い。
 話がそれるが、最近の若い子は食事の前に「いただきます」と言って合掌をするのだが、これもどこから入ってきた風習なのだろう。育児のことを現在ではあたりまえのように「子育て」と呼ぶが私の記憶では三好京三「子育てごっこ」以降のことだ。昭和50年である。広辞苑を見ると浮世風呂に「子育て」の用例があるのでこの時期の造語ではないようだが。
 「冥福」に話を戻すと、浄土真宗つまり門徒は「冥福」という言葉を使わない。御同行御同朋使だけで使わないわけでもない。この手の話はネットにあるだろうと探すとある。「浄土真宗の弔辞の例文」にはこうある(参考)。


 仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
 既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
 つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
 亡くなられた方は、何の障害もなく、お浄土に往かれています。亡くなれば「迷う者」として、「祈る(供養)」と言うことは、果たして遺されたご家族の悲しい気持ちに対してふさわしいものでしょうか。
 浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら、「○○さんのご冥福をお祈りします」ではなく、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」と、浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。

  「浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶」と限定されているが、門徒の信仰者ならどの人にも冥福は祈らない。門徒でない人間なら冥福を祈ってもいいのだろうか?と、そんな理屈をいうまでもなく、「ご冥福をお祈りします」は礼儀を示すというだけの空文なのだろう。つまり、「私は礼儀正しい人間だ」という表明なのだ。
 たまたまテレビのニュースで井ノ上正盛書記官のご夫人の映像があった。身重の映像で痛ましかった。TVに映す必要があるのか私にはわからない。痛ましいものだった。井ノ上正盛のご冥福を祈ると私はとうてい言えない。生まれてくるお子さんには「お父様はお国のために命をかけられたご立派なかたでした」と聞いて育ってもらいたいという思いが湧く。
 近代人は脱宗教化を遂げ、死後の世界など信じない。だから、こそ冥土の幸福が祈れるのだとしたら、そうすることで大きなものを失っているとしか思えない。

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2003.12.01

私は地上デジタル放送に関心なし

 私は民放は「トリビアの泉」「あたしんち」「仮面ライダー555」くらいしか見ないって、あれ?けっこう見ているかぁ。でも、「アバレンジャー」は見てないし「グランセイザー」は見てない。実写版の「セーラームーン」だって見ていない。「ポケモン」はAGも放送局も見ていない…ま、見ていない。見ているのはNHKなのだが、これもあまり見ていない。「クローズアップ現代」と「あすを読む」くらい。テーマによって人間講座や特集を見るくらいか。「うたっておどろんぱ」もブラックオドレーヌが出ない回は見ない…いかん、さっきまでの鬱がハイに転換しているかもしれない…、三歩歩いて忘れましょう~、さておき、見るときはすべてHDレコーディングだし、番組の登録はEPGでやっている。CMは飛ばす。で、話はなにか? 私は地上デジタル放送に関心がないということだ。
 現状でのテレビ放映でなんの不満もない。これ以上見たい番組などない。ケーブルも衛星も要らない。映画は映画館かDVDを見ればいい。現状ですらイメージ映像が増えた「クローズアップ現代」をハイビジョンで見たいとも思わないし、「あすを読む」で解説員の誰がカツラか知りたいとも思わない。文字放送の情報などWebがあれば十分。インタラクティブな機能もWebやメールで十分。
 メディア関連で欲しいと思うのは、NHKの過去の番組をDB化してストリーミングできればいいことと、私はラジオが好きなので、AM波を改善して欲しい、というかストリーミングしろよと思うくらい。
 話を戻して、なんのために地上デジタル放送は必要なのか、周波数帯を広げるという以外は、まるで理解できない。野球が時間延長で見たければ、ケーブルチャネルを見ればいいだけのことではないか。
 マスメディアの地上デジタル放送騒ぎは、なんだかおかしいのではないか。もともと、こんな計画、ネットが普及する前からやっていて、ネット技術のドッグイヤーに遅れてしまっているのだ。無駄な高速道路を造る問題は批判されるのに、地上デジタル放送なんて無意味なものが推進されるのは、どう考えてもおかしいと思う。新聞社説では、毎日だけがややまともだった。

[コメント]
# morutan 『ご指摘の通り、あれ(地上波デジタル放送)は確かにおかしいです。NHKなども公器なくせに、家電と手を組んでるからしばらくの間、「デジタル放送」なイデオロギーを蔓延させるし・・基本的にチューナーみたいなの買えば家でデジタル受信できるのですが・・たぶん何かしらの差をつけてくるでしょう(クリックしてすぐに商品が買えない、など)。そして、そういうウソな流れに乗っかって金儲けしようとしてる連中とか・・ウソマーケティングをしようとしてる連中がいて・・ここからは極東blogさんに相談です。ちょっとここを見てください(お目汚しですが・・)http://blog.japan.cnet.com/mt/mt-comments.cgi?entry_id=863これは、ここの記事に対するぼくの批判なのですが(元記事はここです、http://blog.japan.cnet.com/mori/archives/000863.html)・・というのもこの記事あきらかにまちがっていて・・それがそのまま伝わるとまずいし(いちおCNETにも何人かのユーザーはいますし)、そしてこういう人たちが適当にマーケティングやって、その影響によってメディア環境が汚染されていく・・ってのは・・ちょっと耐え切れなくて・・柄にもなく批判してみたのです。で、相談なんですが・・これ以上批判を続けるべきかどうか・・?いちお、本人も反省した感じで、記事のバランスを取り戻してるみたいだし・・(ちょっと気を引き締めた?)質問項目としてはあと3つぐらいまとめてあって・・これは質問したほうが研究的には本人のためになると思われるんですが・・(申し訳ないですが、ぼくのサイトを見てください、http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=morutan)このままやるとこの人のサイト潰そうとしてる(=荒らし)ってことになるんでしょうか・・?・・・どうなんだろう?/ほんとにしょうもないお願いで恐縮なのですが・・m(_ _)m』
# morutan 『あ・・あと、ぼくも「仮面ライダー555」好きです』
# レス>morutanさん 『素朴に答えさせてください。私が注目するのは「マスメディアの状況におけるマス側のメリット」です。森祐治は、基本的にテレビ業界の儲けの構造の延命ないしリストラクチャに関心があるのだと読みました。だから、「広告が十分な効果があるかどうか?ではなく、効果をもちうるように改革せよ」と。裏返しに言えば、そこにしか関心はないだろうと思います。その前提の部分の方向性を変えて問いを成立させる、ことは難しいだろうと思います。うまく通じるかどうかわかりませんが、morutanさんの追加質問はその方向性の切り替え後に問いうるように思われます。うがったいいかたもしれませんが、森祐治のブログの読者はマス側の視点に立ってないので、そうした背景の視線を考えるとこの方向の議論は難しいと私は思います。極東ブログ的に言うと、「しかし、テレビを見ながら電話ができたり、追加情報が見れたりしたら、それなりの価値があるという声は実は大きい」わけはないと思います。また、「金融デリバティブに近い形で収益期待値に対する制作費の最適化」は無内容だと思います(制作の現場を知らなすぎ)。』
# morutan 『そうですね・・確かにあの人は短期的な儲けにしか関心がないようで・・そういう考えだと却ってユーザーは離れていく、ってことが理解できてないみたいに思えました。そして、「彼には何度言ってもそれがわからないのよ」、って友人には言われて・・確かにぼくもそんな気がしていたので、「これ以上はもうやめよう」と思ってて・・(なにしろそうとうな時間食いそうですからね。。彼にこれ以上の時間を費やすのはちょっと・・)そして、彼はデジタル化の真の意味というものが分かっていない・・(たぶんガッコでは教えてくれないですからね)それはぼく的には「コモンズ」と絡んで・・コモンズ≠マスメディア≠社会資本ってラインなんですが・・まぁ、これ以上はネタバレになりますので・・おそらくマーケティングについても、経験則しか知らない・・ブロードバンド時代のレイヤ構造を考えられない・・・っていろいろ突っ込みどころ満載なんでしょうが、もう面倒だからやめます。。(ぼくは彼のような思考停止型人間をMAGROと呼びます)ほんとに・・めんどうなことをありがとうございました m(__)m  あ、あと、極東さんのところにリンク張ってもよろしいでしょうか?』
# レス>morutan 『リンクはまったくかまいません。c-netは読んでいるのですが、森祐治(敬称略)には関心を持っていませんでした。私自身としては、TV的なメディアについては、たかがリモコンでザッピングという現象から変動が起こったように、HDレコーディングが普及するとかなり変動があるでしょう。家電業界はDVDレコーディングに流れているのですが、どこかで大きな転換点(DVD->HD)があると思います。』
# morutan 『あ・・じゃあ、リンクさせてもらいますm(_ _)m。ぼくもあの人のはたまたま今回見たんですが・・あまりにひどかったもので。。まぁ、それはいいとして・・やっぱTivoみたいなHDレコーダーってのは重要ですねぇ・・ぼくも欲しいですし・・いまのテレビ業界はビデオにとるっていう前提さえうまく活かせてないけど・・』

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アドベント(待降節)になった

 教会暦を見れば昨日は待降節第1主日だった。子供用にアドベントカレンダーをいくつか買い込んだ。ノエルとは書いてないが、輸入食品屋カルディのはフランス製が多かった。昨日はチャペルによっては五本の蝋燭が点っていたことだろう。あるいは、四本だったのか。教会にも行かなくなったのでわからない。10年前までは世俗のクリスマスが辛かったのでこっそりイブの礼拝に座っていた。今日の話は私事である。
 キリスト教も宗派によって歌う讃美歌が違うようだし、現在の讃美歌はもしかすると口語なっているかもしれない。私が歌えるのは文語だ。たいていは歌える。キャロリングのメンバーですらあったのだから。


94 降臨

  ひさしく待ちにし 主よ、とく来たりて
  み民のなわめを ときはなちたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  あしたの星なる 主よ、とく来たりて
  おぐらきこの世に み光をたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ダビデのすえなる 主よ、とく来たりて
  平和の花咲く 国をたてたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ちからの君なる 主よ、とく来たりて
  輝くみくらに とわにつきたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや


 13世紀に出来たらしいこのメロディ(*1)は美しいが、詞は率直に言うと変な感じがする。「ダビデのすえなる」とあるので出典は詩編ではなく、これも12世紀のものだが、ラテン語の詩とはけっこう違うようだ。
 讃美歌は私は文語を好むが、それでも「また合う日まで」を「またおーおーひまで」とは歌わなかったように思う。高島俊男先生の話はごもっともだが「こいすちょう流」は時の流れだ。それでもメロディは変わらない。手元のiMacのiTuneにはBGM用にしこたまクリスマスソングが入れてある。わざとノー天気なものも多いが、明るく聞こえてもカレン・カーペンターの声は辛い。好きなのは、モノラルから起こしたマリアン・アンダーソン(Marian Anderson)の讃美歌だ。崇高なものを感じる。
 日キ(日本キリスト教団)の教会では聖書も今では共同訳なのだろうか。あの聖書は私にはなじめない。戦後の口語訳のほうがいい。口語訳は随分非難を浴びたものだ。大正訳を好む人からはイエスの威厳が感じられないだの、暗唱しづらいだの言われた。私は聖書ギリシア語を学んでいたので、ひそかに大正訳はあまり正確ではないなと思っていたし、口語訳は意外に直訳に近いと思っていた。しかし、今度は口語訳が非難を浴びる順序になった。福音派(エヴァンジェリック)の系統のクリスチャンは新改訳に移行していた。エキュメニズムの影響もあって、プロテスタントとカトリックが協調して共同訳が着手され出した。
 初期の共同訳試訳では折衷で「イエスス」だった。主格だからそれでいいのかもしれない。この問題はカトリックが折れたのだったのか。小川国夫なども入ったせいか、共同訳はこなれた文章になったが、反面こなれ過ぎて解釈が入った。
 聖書の言葉はすぐにわかるほうが良い面もあるが、すぐにわからなくてもいいのではないと歳を取ると思う。口語訳では「心の貧しい人は幸いである」だった。共同訳ではたしか「ただ神により頼む人」になったか。昨今の事情はよくわからないのだが、また、「心の貧しい人」に戻るようでもある。「心の貧しい人」なんていう日本語はない。あっても、意味は、知的でない人や芸術がわからない人、教養のない人のような含みになるだろう。原語では「霊において欠乏のある人」だ。皮肉を言う。世のクリスチャンのように霊的に充足した人は幸いではないのである。
 日本では国益の関係からかニュースでしかたがないのかイスラムのラマダンの季節の話はよく出てくるが、世界のキリスト教国のアドベントはあまり聞かない。クリスマスセールの時期と同じなのだから、それはそれでいいのかもしれない。それでもスペインを含めキリスト教国ではアドベントのこの季節に国の仕事で死んだ兵士を迎えている。韓国も金大中を挙げるまでもなくキリスト教徒が多い。記憶では30%だったが、最近はもっと多いとも聞く。すでに多くの兵士をイラクに送っている。そこでも苦渋に満ちたアドベントがある。
 日本のクリスチャン人口はプロテスタントとカトリックを合わせて1%に満たない。統計を見たことはないが、多くは世襲だろう。日本人口の1%というと沖縄人と同じくらいだ。マイノリティと言っていいのかはよくわからない。以前、なにかのおりで仏壇のカタログを見ていたら、キリスト教用のがあった。冗談のようだが、それはそれでいいのかもしれないとまじめに思う。
 話が散漫になったのでおしまい。そういえば、仏教では「臘八会」(禅宗の臘八接心)である。

注記
*1:MIDIはこちら → http://www.ylw.mmtr.or.jp/~johnkoji/hymn/xmas/Veniemma.mid

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