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2003.11.30

西尾幹二というオタク

 たまたま買った「諸君」2003.12に西尾幹二の「江戸のダイナミズム」という連載があり、読む気もなかったのだが、読んで驚いた。ひど過ぎるのである。間違い箇所を指摘するということができないほど、抜本的に間違っている。そして、この間違いかたは、自分でも意外だったのだが、センター試験以降の世代と同じに思えた。個々の知識はむしろ正しい。偏差値は高いだろうな。…もちろん、そういう言い方は杜撰すぎるのだが、なんとも奇妙な感じだ。
 西尾幹二については「国民の歴史」でずっこけてしまったことがあるので、この人はぜんぜん歴史というものがわからない人だなと思ったものだった。当然、読むのも苦痛なので読まないのだが、今回連載の一部を読んでみて、唖然としてしまった。こう言うほどたいした知識が自分にあるわけでもないだが、西尾幹二は体系性のない知識の羅列を都合よく組み立てているのだ。まるで根幹がわかっていない。儒教と儒学の差もわかっていないようだし、「義理」の「理」の意味もわかっていない。「理」という漢字の字面から「理性」の「理」と解しているようだ。なぜこんな情けないことになっているのかと考えたのだが、西尾幹二はまず易の素養がないのだろうな。易がわからなくては中華思想はわからないと断言してもいいほどなのに。
 中華思想はさておき、ほとんど腰を抜かしたのは、「葉隠」をテロリストの思想だというくだりである。


 やはりテロリストの思想というべきでしょうか。戦国時代から離れ、平和がづついてかえってこういう思想が生まれたと考えるべきでしょう。

 まいったな、とほほだな。絶句するな。しかし、物は考えようでテロリストの思想と評価されても、もし現代に山本常朝がいたならびくともしないだろう。
 そういえば、9.11について吉本隆明はあれをテロだということで単純に否定しなかった。彼は、あれが日本人なら関係ない乗客を降ろしてから実行しただろうと言っている。私などはそれだけでわかる。吉本隆明もだから根は軍国少年と言われるのだろう。とほほであるな。吉本隆明は9.11がいけないのは、つきつめれば非戦闘員を巻き込んだことだ(だから日本人被害者にも着目している)。とはいえ、非戦闘員を巻き込まないテロなどないといわれればギャフンだな。
 いずれにせよ、「テロは絶対悪である。日本軍の行動は絶対悪である。…。」これらがクレドになってしまっているのだ。西尾幹二ですらそうなのだ。
 なにも「テロだって悪ではない」とか「日本軍の行動を肯定する」ということでは全然ない。そういうことでは全然ないのだ、と言って、まったく通じない時代になったのかもしれないし、そう言うことが空しいだけで、「葉隠」の思想は生きているのかもしれない。「生きるべきか死ぬべきか」という状況が迫られたとき、あらゆる思考は「生」によってかたどられるのだから、自由は死の選択の行動にしかない…そうでなければ武士ではない。武士である必要などないが武士という生き方(倫理)はそうするしかない。確かにアナクロニズムの極みか…とほほ。
 とほほとか言ってもしかたない。また、こういうことはうまく言葉に尽くせないものかもしれない。

[コメント]
# shibu 『葉隠に関して、「閉じ込め」についてNHK教育でやってましたですね。講座名が「武士道」だったかな?確か最初の頃は「葉隠」自体についても少し解説していたような。ただ、絵柄が講義者の後ろに鎧兜なんか配してしまったりして、あらら?な雰囲気でしたが、中身はどうして極めて説得的だった記憶です。外地なので手元に何も無いのが残念ですが...』

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「歴史」カテゴリの記事

コメント

今、本田済先生の程氏易伝の解説書を読んでいるところです。易がわからないと中華思想はわからないというのは確かであろうと思われます。ただ、易の思想も後の解釈では、天台宗の考え方も取り入れられていると思われますので、天台大師の著作も読むように心がけているしだいです。

投稿: ありがとうございます | 2007.06.07 17:11

西尾先生だけでなく、呉智英「夫子」も易の知識については軽視しているみたいです。白川静先生が研究してらっしゃった甲骨文字は占いの記録が主であったにもかかわらずです。こういう方も「論語」と白川先生について解説ができるのが今の世の中のようです。仕方ないですね、みんながみんなそうなんだから。呉「夫子」がさかんにプロバガンダを行った中島みゆきさんの「旅人のうた」というのは、あれは、易の「火山旅」の思想を作品化したもののように思えて仕方ありません。一度どこかの出版社が呉「夫子」と中島さんに「論語」と宋学について対談させてほしいと思っています。教える側が案外中島さんであったりするかもしれません。

投稿: 弥生朔三(やよいはつみ) | 2007.07.09 12:59

鈴木大拙禅師は、柳生新陰流も、鹿島新当流も武人たちの系譜などほとんど知らなかったのであろうと思われました。また、宋元明清それぞれの時代の磁器の諸様式などもほとんど洞察を欠いていたと思われました。西尾先生は、伊藤仁斎、新井白石、荻生徂徠らの儒学が蘭学の成立に大きな影響を与えていることと江戸時代の臨済宗には盤珪、白隠といった高僧が出現していて江戸時代の仏教も決して眠りこけていたわけではないことを見落としているように思われます。自分の関心の点からしか物事は見ることができないものであるけれど、どういう著作の仕方をするのであれ、知識は極力トータルに有していたいものだと考えます。禅だけしか方向がないとか、文献学しか方向がないとかいった著作には、どうしてもとんでもない偏りが生ずるものだと感想を持ちました。

投稿: 追加 | 2007.08.02 15:05

鈴木禅師も西尾先生も議論が逆転しているのだと思います。日本の武術も、茶の湯も、別に禅仏教がなくとも様式はできていて、その中の変わり者の人たちが武術や茶の湯に哲学的思想的背景を求めて、その思想が、上級武士層の信仰があった禅であったということで、別に、禅仏教が日本に武士道や茶道を成立させたわけではないのだと思っています。また、伊藤仁斎は程伊川に対して忠実であろうとし、荻生徂徠も明の古文辞学派に対して忠実であろうとしただけだと考えます。後の時代になって、その実証性が評価されて、日本の古典文献学の開祖たち継承者たちということになったわけで、別に伊藤仁斎も荻生徂徠も古典文献学者として評価される一家をなそうなどとは考えていなかったと思います。貝原益軒も、本草学でも、日本語(やまとことば)の語源学でも、きわめて実証的な研究成果を残しているけれど、朱子学者だったことで、その実証的研究は、儒教古典の研究を実証的に行った仁斎、徂徠ほどは目立った扱いはしてもらえません。熊沢蕃山も、財政学や生態学の先駆的研究をしているけれど、仁斎、徂徠ほどの扱いはしてもらっていません。朱子学の考え方である、「窮理」が、仁斎、益軒、蕃山、杉田玄白などで、いろいろ方向が変わったということなのだろうと思っています。これは国学でも同様であろうと考えています。

投稿: 追加2 | 2007.08.03 15:58

西尾先生のご専門はニーチェです。ニーチェの出発点はギリシャ古典文献学です。それで、西尾先生はドイツのギリシャ古典文献学には詳しいのです。だから、西尾先生には先にドイツのギリシャ古典文献学の図式が用意されていて、その図式にうまく当てはまりそうな江戸時代の儒学者と国学者を集めて並べるという考えが出てくるのだと思います。どんな人でも自分になじみのある考えかたしかできないもののようです。

投稿: わかった!のかも? | 2007.08.05 03:56

私は西尾先生の「国民の歴史」は事典としては好書だと考えていて、好きな本なのですが、この本を読み返してみて、西尾先生をメナンドロス王に、finalvent先生をナーガセーナ長老に戯画化したら両方に対して失礼なのかなと考えました。
たとえ、ヴィトゲンシュタインやホワイトヘッドやゲーデルのようなギリシャ的、西欧的、北米的な論理学の論師がやってきても、わが国には、龍樹菩薩や世親菩薩の教えをサンスクリット、チベット訳、漢籍すべてで拳拳服膺して体得している論師たちが何人もいらっしゃるから、基本的なところでは、わが国の知的健全性は安泰であろうと楽観しています。
無相大師関山禅師が開山となられた妙心寺も中国人の禅僧にのっとられずにすんだ歴史の前例もありますし、わが国の知性は、遣唐使僧道昭以来きわめて強靭だろうと考えています。
「ミリンダ王の問い」などは前哨戦で、これからがギリシャ的知性とインド的知性の全面対決となるのかとも考えています。
そして、現在チベットで暴動が起きています。ゲバルトの行使というのはインド的ではないと思うのですが、スバス・チャンドラ・ボースの前例を考えても致し方ないことかとも思っています。
遠くない先日、靖国神社で、パール判事の顕彰碑に合掌してきたばかりです。

投稿: ミリンダ王の問い | 2008.03.23 16:56

カンボジアの仏教教団なんていうのは、話半分に聞いてもひどいものだなあと思っていたのですが、それでもカンボジアの人々が自分たちの仏教にこだわり、しがみついていたのは、単に人間は基本的に保守的であるからとか、ほかに選択肢がなかったからとか、それだけではなく、きっと、インドかどこかから仏教僧たちがやって来てカンボジアで苦労して布教してくれてカンボジアを仏教国にしてくれると、仏教国化したカンボジアは、仏教国になる前に比べたら、はるかに人間らしいましな生活のできる社会になったという、自分たちの先祖たちの記憶がそれほど失われていなかったのだろうと思っています。今はそう考えています。
延暦寺にしても、僧兵たちは強訴するし、商人たちには高い通行税を吹っかけるしで、ずいぶん権力を悪用していた時代も長かったようですが、それでも、多くの人々がずっと延暦寺の権威に服従していたのは、桓武天皇の勅許で開宗がなされたという政治的理由だけではなく、おそらく、伝教大師が現れて下さる前の社会に比べたら、比叡山が南都仏教と並ぶ権威になったあとの社会は、多くの人々にとってずっとましな社会になったということがそれほどは忘れられていなかったということなのだろうと思っています。今はそう考えています。
ただ、この考えは間違っているかもしれません。留保もしておきます。

投稿: 昔の記憶 | 2008.04.22 16:41

ギリシャ的とインド的という表現を安易に使ってしまったけれど、これは正確ではないなあ。
より正しくは、アリストテレス的とゴータマ・ブッダ的だろうし、もっとコントラストをくっきりさせると、ユークリッド的とナーガールジュナ的になるのでしょう。
イメージがわきやすいのは、アレキサンダー大王的とアショーカ王的になるのだろうなあ。
まあ、感覚世界の強者と意識世界の強者の対照です。

投稿: ギリシャ的とインド的 | 2008.04.23 16:23

「テーラーガーター」とうる覚えで書いてしまいましたが、例として取り上げさせていただいた「尼僧の告白」は、正しくは「テーリーガーター」でした。訂正します。また、「仏弟子の告白」は、かな表記では、「テーラガーター」となっておりました。申し添えさせていただきます。
法相宗薬師寺の高田好胤先生の「「観音経」法話」が復刻されましたが、拝読したところ、高田先生も阿含経を引用されておりました。報告させていただきます。

投稿: 「野蛮性」の訂正 | 2008.04.24 16:58

このエントリーにコメントを入れると、西尾先生を責めたり、いじめたりすることが自己目的化しているような感もあるので、気が重いのですが、とりあえず、このエントリーにコメントを入れます。
新書版のゲルマン諸語の一括概説書については、渡部先生でも、西尾先生でも、ほかの方でも、自分で執筆口述するのが大変なら、大学院生や技官にチームを作らせて、責任者が監修者か編著者になるという形を取れば解決できないことでもないと考えます。
こういうものが、ある程度の部数を売りさばける著作者名義で出てこないと、ロマンス諸語やスラブ諸語やインド・イラニアン諸語やウラル・アルタイ諸語やシナ・チベット諸語で似たような試みをする後に続く人たちなど出ようがないのです。さらに、マレー語とインドネシア語とフィリピノ語の比較研究やベトナム語とカンボジア語の比較研究などは、新書版で著作化される可能性さえ生まれないと思います。
そのようなわけで、ご一考いただければ幸いです。
柳美里先生の「仮面の国」に少し触れると、私は、あの連載当時、柳先生の考えていることも、問題意識も、まったく理解できなかったし、また、柳先生を非難している人たちも何を考えているのかほとんどわからなかったのだけれど、今になって、「仮面」を単なる時代錯誤、「欺瞞」を単なる愚鈍、回復可能なのは「共同体」ではなく、もはやせいぜい連帯感に過ぎないと考えてみると、あの当時、言い当てることはできなかったし、適切な表現もできなかったけれど、柳先生が捉えていたことが何だったかはわかったつもりになれています。
ここまで言えばわかる人たちは、もう何も言わなくてもわかっている人たちで、ここまで言ってもわからない人たちにもっと説明するにはあと5年くらいは必要かなと考えています。わたしにしても、10年以上たって読み返して、「ああそうだったのか」と思っているわけだし、おそらく、柳先生ご自身も、「事態がここまで展開すればこういう表現もできたのに」とお考えのことだろうと考えます。
「新しい試み」に、リーダーシップを発揮できる人たちに取り組んでいただきたいものだと思っております。

投稿: 新しい試み | 2008.05.22 10:01

中国、韓国を嫌いな人たちが嫌いなのはこれは仕方がない。そう思います。私にしたって、なら台湾と北朝鮮にはどうするのだと問われれば、うまい対応案や解決策など持ち合わせていません。
でも、それなら、中国、韓国と断交できるのかと考えれば、自分たちにそれが可能な条件を整えられても、世界中がそんなことを許さないだろうと思います。
これまでの自分たちの歴史を振り返ってみると、聖徳太子の時代以来、はたして、自分たちが自前の考えで民族と社会の絆を作り出し、自前の考えで民族と社会の基本倫理を確立できたためしなど合ったのだろうか?と考えるのです。上手に選択し、編集こそしたけれど、素材はいつもほとんど中国製だったのではないのかと思います。
明治に入って、神官と国学者を登用して、神道を普及させたけれど、その神道は、中国朝鮮仏教的要素や儒教的要素を多分に含んでいて、漢字渡来以前の素朴なシャーマニズムとアニミズムの原始宗教とは似ても似つかない、「神学」と「聖典」とさえ言えるものさえ備えた洗練された「汎神論」宗教になっていたのではないのかと思います。一部には神がかりや太占や神代文字の再生みたいな話もありましたが。でも、それはほぼ例外的といってもよいことだと思われます。
戦後だって、アメリカ様のご機嫌はいつも伺ってきたけれど、自分たちなりの「儒教」倫理で生きてきたのだろうし、外国人たちもおそらく日本人の基本倫理は、ユーラシア大陸のものとは異質だけれど、「儒教」が支えていると思っているだろうし、口には出さなくても、中国人も韓国人も、日本人のほうがある面では自分たちよりよっぽど「儒教」的だと思うことさえあるかもしれません。最後の点はわかりませんが。
私自身は、今の激変期もわが国の優れた先人たちに習って、自前の頭を使おうともがくより、素直にかつての中国の賢人たちに学ぶほうが賢明だと考えています。でも、そのかつての中国の賢人たちの装いは、今の時代とこれからの時代に合わせられるように改めるべきだと考えている訳です。今となっては、欧米の影響を退ける反動はナンセンスだし、今後は、今まで影響をほとんど受けてこなかったような外国のエスニックな影響にも対応できなければならないだろうからです。
もともとあったものとよそから取り入れたものをもっとよいものに改良していくという作業は、日本人は昔から得意だったと思っています。
儒教そのものが悪いのではなく、問題があるとすれば、儒教が時代に合わせて装いを改められないことに問題があるのだろうと思います。
もし、中国と朝鮮が停滞していたのだとすれば、問題は、儒教そのものにあるのではなく、それらの地で、儒教が時代に合わせて装いを改められなかったことにあるのではないのかと考えるのです。

投稿: 新しい装い | 2008.05.22 10:54

「聖徳太子の時代以来」としましたが、聖徳太子の時代以前はどうだったのかはわかりません。無文字時代に聖徳太子よりはるかに優れた政治家がいた可能性は否定できないけれど、そういう可能性もあるにせよ、そういう話を可能性だけで持ち出すことに大きな意味があるとは思いません。聖徳太子の時代以前は、天津神、国津神、八百万の神々の時代があったのだから、からごころに染まる前の時代のほうが優れた時代であった、という議論もできないことはないのだけれど、とりあえず、検証の難しいはるかな過去ではなく、これからをどうするかという点に絞って、そのために有効な議論をしたいと考えます。こういう話は正直なところ蛇足に過ぎませんが。

投稿: 「新しい装い」の補足 | 2008.05.22 11:14

古藤(ことう)友子先生は、1986年11月25日第1刷発行の「漢字音」(朝日出版社)で「藤井友子」先生の名義を使用され、1992年(平成4年)9月30日初版の「周易本義」(明徳出版社:共著)で「古藤友子」先生の名義を使用されていたことを確認しました。苗字についてどちらが旧姓で、どちらがご結婚された後かについて勘違いしていたようです。お詫びしてこの点を明らかにさせていただきます。

投稿: 「提案!」の再確認 | 2008.05.23 10:54

柳美里先生の「仮面の国」についての自分の読解内容については、当分明らかにしないつもりでした。おそらく、柳美里先生にさえ(だから?)同意してもらえないだろうと思ったし、事態がもっと展開すれば、なにも、私が余計な話をする必然性も必要性もなかろうと思っていたからです。
でも、先日秋葉原で起きた通り魔事件を知って、こんな話でも、今のうちに意見を出しておいたほうが何かの拍子に少しは世の中のお役に立てるのかなとも考え直して、私なりの、初出10年後の「仮面の国」の読解試案を意見提出させていただくことにしました。
まず、この本を読んで気づいたことですが、その当時(1997~1998年)でさえ、日本は、おそらく韓国も、国家の実態は共同体ではなく機能集団となっていたということです。そして、多くの人がそこに気づいていなかったと考えました。そのころでさえ、もはや、国民は、運命も利害も共有してなどいなかったのです。
そして、社会は機能に基づいて多元化しているのに、まだ一枚岩だと勘違いしていた人が多かったということです。
さらに、その当時でさえ、個人も集団も存在理由は健全な機能であったということです。にもかかわらず、地位、権力、権威などを存在理由と勘違いしている人たちが多かったということです。
そして、民族と国家において共有される神話は確かに存在します。でも、それは多義的で象徴的なものであり、時期により、立場により、さまざまな解釈の余地を許すはずのものなのです。なのに、その一義的解釈権を所有していると考えている人が多かったのです。そして、その一義的解釈も手前勝手で利己的な解釈ばかりがまかり通っていたのです。
わたしは、柳美里先生は、「仮面の国」で適切には表現できなかったと思うのだけれど、あの時点で、以上の諸点には気づかれていたと考えています。
そして、脱線の多い「仮面の国」だったけれど、決して的ははずしておらず、繰り返しますが、あの当時「仮面」だと思われたことは時代錯誤に過ぎず、単に現状認識に疎かっただけであり、「欺瞞」だと思われたことは単に愚鈍だっただけであり、あけすけに言ってしまうとひどく冷淡で残忍な趣もあるけれど、先に進んでしまっていた人たちはとっくに先に進んでしまっていて、取り残された人たちが落ちこぼれていただけだということになります。その当時でさえそうだったのだという話です。当然私も落ちこぼれ組の一員です。
いまさらこんな話をして何になるのかといわれればそれまでですが、こんな意見でも、役立ててくださる方は役立ててくださるし、不快感を催すだけの方も多かろうし、無視する方も多かろうと思っています。それだけですが、それでも、秋葉原で起きた通り魔事件の報道を知って、事態がさらに展開するまで何も言わないでいるわけにもいくまいと考えたというただそれだけのことです。

投稿: 「仮面の国」読解試論 | 2008.06.10 07:47

西尾がおかしいと言うなら、
このサイト主催者はもっとおかしい。
柳美里を先生と呼ぶ「仮面の国」読解試論も弩阿呆。

投稿: 東尾葉二 | 2008.07.27 00:42

このエントリーにまたコメント入れるのすごく苦痛なのだけれど、話の流れから、まあここ。ブログの管理人様がコメントを承認しなかったら、それだけのこと。

柳美里女史を「先生」と敬称を付すかどうかは、自分に役に立つことを教えてくれた人には原則「先生」とするということです。本当なら、増田悦佐氏や桜井章一プロこそ自分にとっては大先生なのだけれど、超一流の証券アナリストや雀士に対して、直伝者でもないのに「先生」と言う呼称を用いるとかえっていやらしいと思われたので、この方々は特別。

柳美里先生が「仮面の国」で、「共同体の回復」という話をしていたのだけれど、そもそもコミュニティ(共同体)の性質とは、故ピーター・ドラッカークレアモント大学院教授によれば次のようなもの。

「建設的な目的を持つコミュニティが存在しないとき、破滅的で残酷なコミュニティが生まれる。・・・そこでは無法が幅をきかす。」(「ネクスト・ソサエティ」 第4章 NPOが都市コミュニティをもたらす)

人間が必ず共同体(運命と利害が一致した、そうであるがゆえに連帯感を共有できる集団)を必要とするか、共同体を再生させられるか、という問題はいったん回答の対象にしないことにするけれど、なんであれ、共同体であれ、機能集団であれ、「建設的な目的」を喪失したら、それは、破滅的で、残忍で、無法が幅を利かす人間集団となるということは、私も社会人生活をして自分で経験することができました。

そんなわけで、建設的な目的をなにか作らないといけません。世界的に。先進国主導で。できれば政治主導で。

奈良時代なら、銅で大仏を作ることを建設的な目的にできました。あの世で救われる、といえば説得できたから。でも、現代人は、今生きているこの生涯で報われ、救済されることを願うから、今生きているこの世をなんとかしないといけない。

うるさい話の超伝導産業という「お題目」は、実は、自前の発想ではなくて、小室直樹先生が20年近く以前に提示された発想だったんです。そのころの小室先生の卓見は、その後、世間ではお蔵入りしてしまったのだけれど、IT革命の時代になったから、また、お披露目してもいいかなと思って出させていただいたんです。これは、本来なら小室先生の知的業績です。私は、盗人です。

核化学工業という発想は、カール・グスタフ・ユングの「錬金術」が着想のヒント。このアイデアにはもう一人きっかけを作ってくださった物理化学者がいらっしゃるのだけれど、今明らかにしたらご迷惑をおかけするので、明かしません。その方は、正統の有機物理化学の分子化学者で、核化学者でも、原子核物理学者でもありません。

核融合発電は、超伝導と核化学をつなぐために挿入しました。いまのところ、実用化されている原子力発電は、すべて核分裂型なので、核融合の話は話だけでも消さないほうがよいと思います。

核化学というのは、既存の化学だけれど、基本的に原子核物理学者や素粒子物理学者の研究分野で、既存の工業化学は分子化学がほとんどです。核化学は、産業上は、核分裂原子力発電以外まず見つからないので、工業核化学というのは、化学としては、これまでの工業化学の次元に新しい種類が加わるのではなく、まったく異質な工業化学が出現する真のイノベーション(革新)です。実現するかどうかはわかりませんが。

「建設的な目的」が、単に、売り手の言い値の商売のできる可能性が高い、利幅の大きい商品を生み出せそうな新規産業についての取らぬ狸の皮算用なのも情けないけれど、社会的に雇用と所得の安定は重大問題だから、アイデアだけしつこく出しておきます。

燃料電池とか、再生医療とか、介護産業の生産性向上で、社会再生が可能な大産業ができればそれに越したことはないけれど、そんな話こそ期待するほうが馬鹿らしいような気がします。量子力学と相対性理論をともに用いることを必要とする産業のほうが大きなイノベーションの機会があるような気がします。

投稿: 建設的な目的 | 2009.01.23 14:16

西尾幹二という人間を週刊誌に書いた彼の記事(週刊新潮 平成24年2月23日号)で知りました。経歴を調べてみると、私より数歳若い人物、東大で博士課程まで済ませた、いわゆる世間的な秀才みたいだけど、かなり変な説を唱えていてびっくり。いまどきどうして天皇制みたいなものにしがみつきたいのかな。私なら、日本なんて国もほとんどどうでもいい。アメリカに35年も済んでしまったからといって、アメリカ人になりたいとは思わなかったし、ロシア、中国、韓国も遊びに行って、もし向こうが誘ってくれたら、どこでも住んでもいいと思っています。いずれ人類全体が消滅するかもしれないのに、どこまで部落民でいたいんだろうね、西尾は!せっかくドイツに留学しても何にもならなかったみたいね。呆れてものも言えないよ。

投稿: 望月 稔 | 2012.02.17 14:21

かつて西尾幹二のストーカーをやってた
怪人Gori並みの、支離滅裂で空疎な記事に泣けてきた。
けっきょく何が言いたいのやら。

虚構新聞を盲信する知能だから、
しょせんこんな珍ブログのお綴りしか
垂れ流せないんだろうな。おめでとう

>投稿: 望月 稔 | 2012.02.17 14:21
 ↑
この種の奇々怪々コメントはホイホイ載せても、
「極東ブログの作者は毛が三本足りないのではないか?」との
お褒めコメントは、100%掲載しないんだろうねw おめでとう

投稿: おさるのあたまなで係 | 2012.05.26 10:50

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