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2003.11.26

小熊英二に寄せる脱力

 たまたま「小熊英二さんに聞く 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、『これが戦後思想だな』と思った」(参照)をざっと読んで、脱力した。最初に断っておくが、小熊英二を批判したりくさしたいわけでは毛頭ない。と、うんこ投げの防御を張っておく。
 まず、このインタビューなんだろ?と思ったらブントなわけね。もうそれだけで、脱力する。が、ま、読んでみるかぁ。と読んで、さらに脱力。よくわかんないですぅ。
 私は「〈日本人〉の境界」はざっと読んだが、「〈民主〉と〈愛国〉」は読んでいない。大池文雄とかに触れているのだろうか?だったら、ちと読んでみたい気もするけど、「〈日本人〉の境界」の感じだったら、なんか読むだけ無駄だなという印象がある。
 インタビューを読んでさらに、小林よしのりに対抗している部分があるらしいと知ってさらに関心を失う。
 意外に吉本隆明への言及が多いのに不自然というか変な感じもした。ちと引用も長くなるが、こんな感じ。


 吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
 ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
 私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。

 ふーんというか、橋爪が「ひんやり」というのはわからないではないなと思う。くさしみたいに聞こえてはいけないが、「理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。」という論理破綻した独白の本音が面白いといえば面白い。理解することと好きっていうことは違うでしょと、ちとツッコミを入れたくなるが、小熊英二という人は理解する=好きになるというのがけっこう前提なのだろう。それと、ようするにここで彼が独白していることは、「理解できなかった」ということだ。不思議なのだが、理解できなければ、理解できないとしておく、ということはできなかったのだろうか。皮肉を言いたいのではなく、そういうところに小林秀雄流の批判精神はないだろうし、彼がひんやりと扱っている吉本隆明だが、むしろ彼は表層的にパセティックに見えながら、理解できない点を強引にまとめることには禁欲的だ(ま、これには異論は多いか)。
 ちとうかつだったのだが、橋爪大三郎が小熊英二をさらっと引き合いにしている背景は、小熊英二が吉本の「共同幻想論」など主要著作について「まるで読めてないよ、おまえさん」、という諭しの意味合いがあったのだろう。考えてみると、「共同幻想論」を抜きにして語れてしまう吉本隆明ってなんなのだろうという気はする。だが、当時の吉本に思いをいたすと、いずれ70年代安保には関心なかったし、あのトンマな状況に対峙するには、もっと原理的なものへの追及が必要だと感じていたのだ。吉本すらこの状況がトンマなものだ(昼寝していろと言っていた)と理解していたのだから、そういう状況性だけを小熊英二に取り上がられると、往年の吉本ならなんというだろうか。にっこり笑うだけだったりして。
 こうしてみると、小熊英二が捕らえたのは吉本隆明ではなく、「60年代の吉本さんの影響のあり方」という現象なのだろう。だから、それは「吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果」と同義なのだが、そういう認識ができるのは、ある種社会学的な装置の結果でしかなく、装置によってアウトプットは変わるのだから、その装置、つまり方法論をきちんと突っつくと小熊英二の言説というのは意外なほど簡単に壊れるのではないかという印象を持つ。
 と言いつつ、そうした批判にはそれほど関心はない。また、小熊英二のこのまとめ方が妥当でないとも思わない。小林秀雄風に「青年は深く隠れる」と言ってもお笑いにしかならないだろう。
 だから、次の小熊英二の言い方は、明白なパラドックスなのだ。ちと長いが引用する。

 ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
 そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
 だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。

 「吉本さんの文章」とは吉本隆明という存在を意味する、あたりまえだが。それでその存在が誤読されたというのは、装置として矛盾していて、なにも小熊英二の解読が正しいわけではない。もって回ったことを言ったが、ようするに小熊英二が理解できない余剰の部分へのある種の配慮にバイアスがかかっているだけだ。ただ、ちょっとやり口が汚いなと思うのは、「あくまで文学的な次元の話です」とするあたりだ。小熊英二はもしかすると知らないのかもしれないが、昭和天皇が訪米したころのことだ。昭和天皇が戦争責任についてマスコミで問われたことがあった。あのときの天皇の回答を想起すればいいだろう。それに「文学的な次元」こそが政治であったことなど、同じくブントの柄谷行人などが口酸っぱくなるほど言っていたではないか。と、皮肉っぽくなったか、こういう切り口はダメなんだよというのこそ、戦後思想の一つの帰結なのだ。
 とはいえ、話が循環するが、小熊英二の総括がそれほど、社会思想史として間違っているわけでもない。ただ、そのありかたは、彼には意外だろうが、小林よしのりの「戦争論」がそれほど間違っているわけでもないというのと同じことだ。どちらも、超時代的な装置のアウトプットに過ぎないからであり、そこに生きられた歴史存在としての自己が組み込まれていないのだ。
 話は私事になる。私が吉本隆明から人生を変えるほどの影響を受けたことがたった一つある。シモーヌ・ヴェイユを論じる際、彼女の工場日記に触れたところで、吉本はこんなふうなコメントを付けた。知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られるがそれは間違っている。私が27歳の時だ。インテル80186の直接メモリー転送のコードを書いている時のことだ。私は私の知識の滅却にかかっていた。私は人生に失敗したし、無となった。完全に無となるのがいいのだ。生きていても死んでいても大差がなく、あとはただ宮台真司が後にいうような強度だけがあった。とはいえ、私が特別でもなんでもない。多かれ少なかれ人間なんてそんなものだ。
 私はとりあえず自分の知を滅ぼすことを止めることにした。だからといって社会になんの影響があるわけでもない。だが、そうしたときから、社会は私の知の抹殺に刃をむき出したように感じた。そういえば、吉本はこうも言った。人がその存在をかけて生きるなら、たった一本の道しか残されていない。それはほとんど神学だろう。吉本隆明は私の司祭でもあったのだろう。だが、それを信仰と呼ぶにせよ、他に道がなかった。
 政治思想というものがなんであるかはよくわからない。ただ、吉本に支えられて生きてきた人間たちの総括をするには、歴史はまだ成熟していないようにも思う。

[コメント]
# masayama8 『僕は吉本さんを部分的にしか知りません。しかし、かつて親鸞を解読しようとしたり最近では引きこもれと言ってみたり、僕があの人に魅力を感じるとしたら・・・以下のような点です。つまり、人間がきれいなもんであって欲しいが実際はそうじゃない、とすると、あきらめるべきかと自問自答して、あきらめをすぐ近くに発見してしまうのだけど、他の人のようにはあきらめないところ。そういう逆境を踏まえて、あきらめないで議論を進めるべきだと言う立場・眼差しを、かつてのように有力視されるかは別としても、独自に持っているところです。間接的にではありますが今日も勉強になりました。』
# レス>masayama8さん 『masayama8さんの吉本理解に共感する点があります。私の勘違いなのかもしれませんが、「あきらめないで議論を進めるべきだ」という点です。それだけ言ってしまえばひどく単純なのですが、それを吉本や良く語ったと思います。一つは、彼はどのような状況でも語ると言ったことです。彼自身戦中、彼が心酔する人がどのように語るのかと戦後まで傾聴していたと言い、そして、どんな状況でもそういう人に語ってほしいと思ったといいます。その原則を語る側に回った吉本は忠実に実践しています。おそらくそれが知識人の最後の砦なのかもしれないと思います。吉本は昔の話ですが、知識人というのはやめることができるない、止めるなら知識人ではない、知識人はそのまま生きていくしかないというふうに言っていました。私がさまざまな状況で沈黙を強いられるとき、私ももし語れるなら語るべきだろうと思うようになりました。他者が私を知識人として見るかということは、意外に些細な問題です。吉本が最晩年に至り、言い方は悪いのですが、本当にボケてしまいました。そして、恐るべきことにボケながらでも語り続けています。私を含めて我々はそれをつい嘲笑してしまいます。しかし、それを嘲笑するなら、江藤淳のような死しかありません。ボケながら語るなかでしかし吉本は彼がアフリカ的とでもいうようにシンプルに語り出してもいます。神話の領域とボケが混沌としています。冗談のようですが、知識人はあのように神話性のなかに自己解体と遂げるのが自然性なのかとも思います。それは恐ろしいとまで思います。』
# morutan 『極東の人へ/いつも楽しく拝見させてもらってます。/いろいろと学べることが多くて・・ここを見つけられたことのは幸いは、最近の中での「感謝」のひとつとなっています/ところで、少し質問があるのですが・・/いまさら感はあるかもしれませんが・・「知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られる」という箇所についてもうちょっと詳しく教えていただけませんか?/これは、「たとえば単純な肉体労働のようなものをしたくなるときがある」ということでしょうか?それとも、「自分の知識で人が傷つくの嫌になって知を封印したくなる」、というようなことでしょうか?/というのも、最近ぼくもちょっと悩んでることがあって・・/たぶん、知識人とかのレベルでもないのでしょうけど・・』
# レス>moutan 『「知識ゆえの自己滅却」の話を少し補足します。うまく言えないかもしれませんし、この話は悪しき傲慢さが入りがちなので怖いのですが、自分には深刻な問題でした。60年代から70年代までにあった「知識人」という言葉は80年代のニューアカ以降なくなりましたが、あの時代までは端的に言えば「左翼」を意味していました、が、戦後の左翼史が錯綜するなかで複雑な過程を辿りました。ただし、単純に「左翼」とのみいうものではなく、自分などもそうなのですが、高度な教育を受け知識を蓄えたのに、回りの人間(大衆)と齟齬を来たし、それでいてその知識をもって社会に活かすこともできず、また社会に自分の知識を活かすことが悪しき権力への従順に思える苛立ち。大衆の心性のほうに自分よりも優れたものを感じる(特に非知的に純粋な恋愛はきついものです)のに、なぜ自分はそうした良き大衆の一人ではありえないのか?それが自責になって、自己滅却的な行動を取ることがあります。今にして見ればそれは感受性の高い青年にありがちな典型的なパターンで、日本でも非政治的には太宰治や宮澤賢治などがそうですし、70年台以前の左翼的な青年にも多くありました(柴田翔「されど われらが日々」)。自分が強い影響を受けたのはシモーヌ・ヴェイユです。自分を徹底的に隷属的な労働者に改造し、知識の片鱗すらなくなるまでの状況に追い込み、彼女のいう「真空」になれば、この自責から救済される(恩寵)、そうでなければ、世間的な悪や魂の鈍化(彼女のいう「重力」)に落ちるだろう。今思うと、自分では知識と思っていても、単に世をすね、知において成功した人たちへの嫉妬もあっただろうと思います。自分が知識人でしかありえないことは、しかし、そうした自己滅却ではどうしようもないし、気が付くと大衆への敵意の心理もあるのです。私など、恥ずかしい話ですが、世俗的な大衆的な享楽にはほとんど関心がありません。それはある意味でただ、そういう人間なのだというだけなので、ようはただ孤独に生きるという意味で自己を肯定するしかないと思います。歳を取るとすべての面で劣化が進み、世の中とも適当に折り合いをつけるようになりますが。』
# morutan 『極東の人へ/少し、私的な話をして恐縮なのですが、すこし思い出したことがあるので記しておきます/以前、ぼくも徹底的に肉体労働した経験があり(それは金銭的理由だったのですが・・)結果として「言葉を失った」というか・・脳みそが働かなくなって・・実存・・というか自分の生きてる価値を見失いそうになったことがあります。そして・・そのことへの苛立ちが結果的に大切な友人を切り捨てる選択に結びついて・・/だからぼくはせめて言葉を取り戻そうと・・その友人に申し訳が立つぐらいには世界を理解できるようになろうと努めてきたつもりなのですが・・/それも空回りして、最近まで鬱屈した状態が続いていたのです/しかし、いまはなんとか「世界」に還れた気がしています。それは比喩的表現で言えば「一度死ぬ」ってことをやれたからではないかと思ってて・・/前に養老孟司がウチのガッコに来て話していた内容で印象に残ったものとして「人間は学問において、何度か殺される」ってのがあって・・/それは、「それまでの方法を否定した上で乗り越え幅を広げる」とか、そういうやり方で限界を超える、ってことなんだといまでは解釈してるんですが・・とりあえずそういう形でもう一度「世界」に還ってこれたので、世の中を楽しむ・・というか、もう一度「世界」の中で考えていくことに決めました。/自分の知識が少しでも多くの人の役に立てたらと・・いまでは思っています/真摯な対応、ありがとうございました』

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コメント

小熊に対する批判――「小熊は何様のつもりだ、オレの大事な隆明を軽く扱いやがって」――はまあわかる(好きではないが理解できる)んだけど(注1)、この記事を読んだ人が「小熊を読む必要はない」と思わないことをねがう。

投稿: (ぼー) | 2004.04.25 03:35

吉例でanonymousとしようとしたところ、URIから日記が辿れたので、そのタイトルである「ぼー」をお借りして、投稿者名としました。

というわけで、短コメントの続きも読ませていただきました。

誤解とも思わないのですが、「小熊は何様のつもりだ、オレの大事な隆明を軽く扱いやがって」というのは、私の心情にはあまり当たらないです。

小熊はコロンビア大あたりの俊英レベルの学者という感じはしますが、そのレベルの凡庸さも感じます。個別で気になるのは、沖縄とかハンガリー事件とかの手つきの、フラットさです。が、そのあたりを言えば、私がウェットということになるのでしょうね。

ぼーさんは、
「戦争が遺したもの」(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊 英二)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788508877/fareasetblog-22/
は読まれましたか。

この本のなかの吉本の章で、上野と小熊の差異、鶴見と小熊の差異、そして、鶴見によせる上野の視線の機微をどう読まれましたか。そして、吉本が鶴見をどう見ているかということがわかると、この差異と理解のなかに、戦後史の、難しい、大切な機微が見えてくるのではないかと思います。ただ、それは多分に歴史感覚というべきもので、鶴見はもちろん、上野も小熊を諭そうはしていません。それでいいのかもという印象を持ちました。

鶴見の吉本の評価はなかなかいいです。この吉本がどんな恋愛沙汰をやったか、という点で、吉本が夏目漱石をどうして歴史・文化の枠組みで見るかのヒントが見えてきます。そしてなぜそれが近代史の問題なのかも。

小熊の世代になると、そういう恋愛沙汰が、すっきりとプライベートの領域になるのでしょう、という印象ももちました。

投稿: finalvent | 2004.04.25 07:13

(ぼー)です。懇切なコメントをいただき、恐縮です。/引用していただいた部分のあと、「よしりんと小熊を同列視してたが、やはり資料収集と文章の組み立てという点からみれば歴然たる質的差があると思う。」「ある者は、「これだから吉本ファンはウェットで困るんだ」と言うかもしれない。」「小熊は自覚的に内在的分析を放棄して、(擬似)心理分析的・社会学的視点に立っているのだから、極東ブログ子の批判は(正当ではあるが)的を外しているのではないかという気がする。内在的分析と社会学的分析はトレードオフなのではないだろうか。」と書いておりましたが、読み直してこれらの私のコメントは不適当だと思いましたので削除しました。/稲葉振一郎氏「インタラクティヴ読書ノート・別館」(03年5月6日分と04年1月13日分)での小熊英二の吉本・江藤評価についてのコメントを読んで以来、この問題には引っかかっていましたので、finalventさんの列挙していただいた注意点にしたがって『戦後…』を読もうと思います。ご教示ありがとうございました。

投稿: (ぼー) | 2004.04.25 09:41

ぼーさん、と仮にお呼びします。いえいろいろな考えがあってしかるべきだと思います、という意味で、削除されずによかったのではないでしょうか。この分野に小熊のような研究者があと数名いたらもう少し多面性として論じられるような気もします。

こう言うから批判ぽく聞こえるのでしょうが、小熊の場合、歴史として書かれたエクリチュールと歴史の感触がフラットな感じがするのです。それと、個別に言えば、小熊の論点は、実際には、「ベ平連」的なものが踏み絵のように若い世代に再生産的に機能している象徴のようにも見えるのですが…。

というか、昨今の日本でのチョムスキー評価なんかもその文脈ですね。しかし、沖縄レイプ事件のおりでも、私なども彼の声明のメールをいただきました(本人からというわけではないですが)。コソボ問題でもそうです。それがなぜか、日本だと9.11で突然着目されていくわけです。ちょっと変な感じはします。

投稿: finalvent | 2004.04.25 15:51

はじめまして!杉矢です。「民主」と「愛国」を買ったけど全部読めませんでした。少しお話したいと思います。
自分は、こんな難しい本はじめて読みました。でも、友達に話しても相手にされず一人でがんばって
読むしかなかったんですが・・・。
さて、小熊ファンとして、この文の最初のところにはうなずきました!そー、です、漫画に対抗しようとしている時点でもう、脱力です。
これはおそらく漫画という形で戦争認識がひろまってしまうことのおそれだと思いますが、それにしたって漫画は漫画。ツッコミをいれたところで、虚しいだけ・・・。
しかたなしに戦争論2などゴーマニズム宣言をかってみたんですが、どうやら小熊先生は、キーワードをここから入手しているのではないかという考えにたどりつきました。
タイトル「愛国」だとか「個人主義」だとか「民主・公」などなど。さらに、「戦争が遺したもの」をみていると、「ガキデカ」を引き合いにだしてるんですね。まじめに漫画を議論してしまう小熊英二さんが笑えます。おもしろいです。サイコーッ。

たぶん、小熊さんも知識人をばかにされて怒ったんですよきっと。
で、いつも読んでいる(?)たとえば、図書館で借りてきたような本からいろいろエピソードを集めてまとめてみたとか。学生さんの協力もあるかもしれませんが、本人もまとめられたことを驚いているようです。まさか、本になるとはおもってもみなかったのではないでしょうか。また、日ごろから本+資料好きということでその知識量には驚かされるものがあります。が、「民主」と「愛国」はそういった本や資料の紹介文のようです。親にきいてみたところ「まぁ、参考書にはなるかもね。」といっていました。
すこしがっかりです。なんかすごそうな本だったのに・・・。

さて、「民主」と「愛国」を読んでわかったことの感想ですが、
結局、ひとそれぞれ意見は違うということでした。
右派・左派ではわけられない人々の意見。それが、無理やりまとめられようとしている。そういったことに危機感を感じ、立ち上がっていった人の物語なのかなと思いました。でも、小熊先生自身、資料での戦後や差別しかしらないようです。
そこはまぁぼんやりとした現代だかららなのでしょうか。生活体験が足りないということは小熊先生のひとつの弱点となっているようです。知識が足元につかないのもそのためといえるでしょう。

しかし、こういったことをまじめにまとめてくれる人がいないのも現状です。
貴重な人材ではあると思います。吉本さんは大変ですね。もっとちゃんとした理解者
が書かないと、誤解される可能性はあります。

今、人気の作家さんに吉本ばななさんがいます。その方を知っている人なら吉本さんも理解されるのではないでしょうか。小熊先生は非常に冷めた見方をします。
それはときに、人と人をつなぐ大切な事をないがしろにしてしまうと思います。
本を読んだはいいけれど、なんだか納得できない。それは、一番大切なことを忘れてしまった現代からきていると思います。

鶴見さんのおっしゃられていた「あいまいなもの」それは、人の心、つまり精神をあらわしているのだと思います。小熊先生も早くそちらのことに気づいてほしいなと思いつつ、ホームページをみさせていただきました。

いきなりの長文失礼しました。

投稿: 杉矢 | 2005.04.21 14:27

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