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2003.11.25

幼児虐待には男が問われる

 このところ、ブームのように幼児虐待報道が続いているようだ。「ようだ」というのは、賢い生命体の比喩ではなく、私自身が詳細にニュースを読みたくないからだ。むごくてたまらない。大きな問題なので社会の問題とすべきだとは思う。それゆえ、朝日新聞社説「児童虐待 ― 危険信号を見落とすな」で、この問題を社会制度の側に押し返そうとすることは理解できないことでもない。このところの悲惨な四事件について朝日新聞社説はこう切り込む。


四つの事件のうち三つは虐待の事実を知った児童相談所の職員が家庭訪問をしたり、子どもを一時保護したりしていた。専門機関がかかわっていながら死なせてしまったことが返す返すも残念でならない。

 つまり、虐待事実は専門機関側でもわかっていたのにというわけである。ただ、これが機能しないことを単純には責められないとして次のように展開する。

とはいえ、虐待への対応の中心になる児童相談所の働きは限界に達している。00年に児童虐待防止法が施行されたあと通報がふえ、02年度の虐待相談の処理件数は2万4千件と、5年前の3倍になっている。
 警察庁のまとめでは、今年6月までの半年間で24人の命が児童虐待によって奪われた。県と政令指定都市が設ける児童相談所は全国に182カ所ある。その仕事の内容や態勢の抜本的な見直しが欠かせない。

 つまり、現状では件数が大きすぎるし、制度も十分に機能できないのが問題だとするのである。そして、解決は次のようになる。

 自信をもって親子の間に割って入り、援助できるような専門職員を増やし、職員一人ひとりが能力を発揮できるような人員の配置を考えなくてはならない。児童相談所の権限強化や司法のいっそうの関与も検討しなければならないだろう。

 私はそれでは解決しないと思う。こう言いながら自分のいつもの主張と矛盾しているとも思う。私は、社会問題は倫理・道徳に還元するのではなく構造的に対応せよ、というのが私の基調だ。その線なら朝日新聞と同じだ。なにも毎回朝日新聞をくさしたいと思うわけではない。
 解決しないだろうなと思うのは、この件について、一生活者の実感があるからだ。まず、ひどいことをあえて言う、公務員は無責任なのだ。そういう職員ではこれほどの難問は解決できない。もっとひどい事を言う。公務員は優遇されていて、いわば日本のエリート層だ。社会の底辺の実態とかけはなれすぎていて対処の感性がない。もちろん、専門職員は公務員に限るものではない。この問題は、情熱のある人材を中心としたNPOに期待をかけることを先決に考えたほうがいい。
 もう一つの問題は、構造的な対処ではだめだろうという直感だ。つまらない言い方だが人間の生き方がもろに問われているのである。
 率直に言うと、幼児虐待とは女が子供を虐待しているということだ。なぜ女が自分の子供を虐待するのか?この問題になぜだろう?と考え込むような人は人生経験が足りなすぎる。女というのは子供をもてば虐待するものなのだ。まさかぁといったきれい事はやめて欲しい。もちろん、例外はある。だが、現実が重視されなくてはいけない。
 以下、トンデモ説に聞こえるだろうと思う。が、書く。女は自傷を外化したかたちで自分の子供を虐待するものなのだ。それが基礎にあるのだ。
 冗談のように聞こえるかもしれないが、女はつねにある種の直接的な性的な権力構造のなかに置かれている。そうした権力を必要としているからでもある。端的な話、つねに社会的な美醜概念を性的な権力への接合としてリフレクトしている。その戦略に失敗すれば自滅してしまう(それがこの権力のオートマティズムである)。あるいは、その直接的な権力構造を緩和することができなくても、自滅する。新しい権力の構図を求めて過去である自分の子供をまさにそれが過去であるかのように消去することもある。
 冗談に聞こえるだろうが、この性的な権力の安定構造は、「父に愛される娘であること」→「男に愛される女であること」→「子供に愛される母であること」という展開になる。どの遷移でも「愛されること」という性的な権力の充足が必要になる。それぞれにおいて、その失敗の像があるが、これらの権力のいわば暴走に対しては、性的な外部からのインターヴェンションが必要になる。難しくいうよだが、幼児虐待のケースでは、端的に男が「やめろ!」ということだ。そして、それの「やめろ!」に必要なのは、男の配慮でも単純な暴力でもなく、女の性的な権力を停止させるだけの男性の性的なメッセージが含まれなくてはいけない。「父性」や「子供への責任」ということではない。男が、まさに男の性として露出することが女の自傷や幼児虐待を止める。
 単なるエロ話のようなことを難しく書いているように聞こえるかもしれない。とんでも説のようにも聞こえるだろうし、あまりこうしたことを書きたいわけでもない。だが、成人の男女なら、難しい性的な権力の構造に巻き込まれるという生活実感はもつべきであり、その生活実感からしても、以上のことはそう理解しづらいとは思えない。
 岩月謙司のことを知識人は馬鹿にするか、香山リカのように困惑するかもしれないが、私は岩月に同意するものではないが、あのような視点はあながち知的に解体はされない。以上の議論にラカンのファルス(phallus)を読み込む人もいるかもしれない。だが、ラカンのファルスの問題は現代の日本の知的な風土ではただ知的な言説のゲームにしかなっていない。現在の一種のラカンブームは、ラカンの提出した問題を若い日の佐々木孝次のように自分の現実に引き寄せては考察されていない。ラカンがフランスの知識人に問題となるのは、知的だからではなく、現実の問題だからだ。
 もちろん、私の論はラカンに依存しているわけでもない。だが、論などどうでもいい。男が問われている、というだけでもいい。
 女は問われないのか。いや、問われているだろう。しいていえば、女の前段である少女が喪失の内在を抱え込み過ぎていることだ。以前、I塾というフランチャイズの塾の社長(女性)が、たしかこういうことを言った…女の人は大切なものを失い過ぎている、それでは子供が愛せない…。そうだと私は思う。宮台真司などは、現在の若い人の恋愛の過剰流動性ということをいうが、その前段には価値の可換性がある。すべての価値が可換になることで、自己を失っているといえば、アナクロニズムかもしれないが、女性の内在側の問題はそこだと思う。自分が本当に大切だったもの(おそらくファルス)が、可換性によって再び手に入るということに駆られているのだ。だが、本当に大切だったものの消失は可換性によっては取り戻せない。それは悲劇であるが、その悲劇を生きるしかないだろう。

[コメント]
# junsaito 『はじめまして。女は夫に放置されることによって、男は社会に放置されることによって虐待に走りやすくなるように思います。』

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コメント

虐待が女性だけと思っている時点でバカ丸出し。
そんな人の持論に賛成できるはずがない。

投稿: アポロン | 2009.07.09 01:15

・・・その通りです。そして、「女が子供を虐待する」時、「その妻を愛している」夫の存在は、最悪です。(もはや、それは「父」ではなく、ただ「女の伴侶」としか、私は呼べません。)真実って辛いけど、そのようなものです。・・・なんかとても苦いので、ここまでしか書けません。

投稿: ジュリア | 2009.12.27 12:06

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