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2003.11.23

浅田彰・山形浩生論争?

 ブログを回っていて浅田彰の「山形浩生の批判に答えて」(参照)を見つけた。この項目にはアンカーでname属性の指定がないのでURIの指定が正確にいかないが、「週刊ダイヤモンド/続・憂国呆談」の第十六回のぺージの下のほうにある。ネタの元になる山形浩生の直接的な話のリンクはないが、この話はネットで話題でもあり私もなんとなく読んでいた。ので、浅田の言い部分も読んでみた。
 率直な感想を言えば、浅田の答えは、つまらん。どうして、こんなにつまらないのだろうと、いぶかしい思いすらした。ゲスの勘ぐりの部類だが、浅田彰は山形浩生を相手にしたくない(無視したい)のだろうけど、時代潮流やネットの変化で無視ともいかないか、というところだろうか。
 ネットで有名になっている「クラインの壺」話でも危うく浅田彰ってバカじゃんとなりそうな勢いなので、なんか珍妙な加勢が出てきた。結果、理論的には浅田彰は間違ってないというオチになったようだが、ま、それはそうかなとも思うし、もともと山形浩生も面白いところ突くものだとも思った。この一連は、総じて見れば、山形浩生が面白いと言うなぁということには変わりない。蓮実重彦が「『知』的放蕩論序説」で渡部直己などを前にして、吉本隆明について、なんだかんだといっても吉本は面白いのに、君たちのは面白くないよ、ってなこと言っていたが、その「面白い」というのが重要なのだ。なにもエンタテイメントの意味ではない。蓮実を真似ると、知的な放蕩性を言いたいのだ。その意味で、浅田彰と山形浩生を比べれば、断然山形のほうが面白いし、知的な放蕩性がある。
 なので、山形の知的な放蕩性に浅田が「インテリやくざを気取って」と言ってみても空しいだけだし、その空しく響いている、というあたりの反響を感じ取る感性をもやは浅田は欠いているのだろう。田中康夫も浅田彰も結局のところ、新しい世代の知性からすれば、もはや「オヤジ」としてプカーンと浮いているのだ。些細な存在だが私などもその世代としてオヤジとして浮いているのだろうなとは思う。誤解されるといけないが、単純に浅田をくさしたいわけでもない。
 浅田の回答を読みながら、少し考えさせられた。例えば、冒頭などについてだ。


まず些細な点から。山形浩生はこの発言を「かれ[浅田]が長野県知事とやっている放談シリーズの中でのせりふ」としているが、正しくは「放談」ではなく「呆談」である。

 これは端的に浅田が全然回答になっていない。日本語の字引を引いてみるといいが、「呆談」という言葉は載っていない。田中との対談を「呆談」と称するのは構わないが、それが一般世界に反響するときは、「呆談」なんていう日本語はないのだから、「放談」としてよい。もちろん、「続・憂国呆談」を「続・憂国放談」と書いたら間違いだが、そういう話ではない。
 こんな些細なことで浅田をくさしたいわけではなく、そうではなく、浅田彰というのは、こういうことにこだわる人なのだなとあらためて思った。他、回答を読んでも、浅田自身の過去の発言は正確にはこうなのだからこう正確に読め、という感じだ。実社会の経験のない人なのかもしれないが、他者というのは正確には読まないものなのだ。
 ただ、こうしたところに浅田彰は、世界や他者をできるだけ正確に読もうとしている人なだろうなという印象は受ける。福田和也が浅田彰を評して、とても公平な人だと言ってたと記憶しているが、そういう議論のフェアネスの感性を持っていることはわかる。ある意味、そのあたりが日本人的ではない。
 「地球温暖化をめぐる議論」については、そういう意味で浅田の回答は間違っていない。典型的なパターンの例はこれだ。

 田中康夫と私もこの問題を何度も議論してきたが、そこでもこの論点を「見落として」はいない。今ごろ山形浩生に「地球温暖化をめぐる後悔」について解説してもらわずとも、『憂国呆談』(幻冬舎)に収録された1997年10月の対談の「ノー・リグレットのふたつの意味」というセクション(p.304~305:セクション・タイトルは編集部による)で、私はまさにそのことを問題にしている──

 話は重複するのだが、1997年時点で浅田がそう言ったという意義と、山形がロンボルグの本を翻訳して世に問うたという意義は、まるでバランスしない。しかも浅田は戦略的な「呆談」なのだというのでは最初から反論の意義は薄い。もちろん、浅田が誤解されていると思う気持ちはわかるし、実際に誤解だというのも正しい。だが、社会的な影響の文脈では山形の言っていることで概ね間違いはない。むしろ、概ね間違いない端的な議論が社会に必要なのであり、浅田のようなポストモダン的な話はあまり意味がない、のに、正しい意見者であるようにメディアで存在することに対しては、うんこ投げでもしてみてもいい、だろうと思う。
 やや変な言い方だが、浅田の次の意見は実は戦略的に間違いなのだと言ってもいいだろう。なぜなら、この言明は結局のところ修辞(レトリック)に過ぎず、修辞はまさに社会的な効果において評価されなくてはならないからだ。それゆえ、以下の修辞は空しい。

相手を(自分並みに?)極端に矮小化してとらえ、それを得々として批判してみたところで、相手を撃ったことにはならないのだ。
 (中略)
 この道場主は他流試合を挑むのなら試合(論争)というものの最低限のルールから習得し直す必要があるようだ。

 こうした言明は浅田らしく禁欲すべきだったと思われる。
 あと、地球温暖化について焦点を当てるなら、大筋で浅田の考え、つまりヨーロッパに立つは間違っていると私は思う。私は彼のいうアメリカに立つわけなので。だが、それはまた別の話だ。
 浅田の山形への回答というか反論のなかで一番熱がこもり、外野としても興味惹かれるのは、1989年3月21日にNHKで放送された「事故の博物館」を巡るやりとりだろう。だが結論めいたところから言えば、1989年という年代を提示されたあたりでずっこけてしまってもいい。率直な話、もうそういう時代は終わったのだ。百歩譲って浅田の反論が正当であるとして、だからなんだということになる。つまり、その反論が正当であること自体がこの15年近い世界に継続的に有効であるということを暗に含んでいるのだ。だが、そんなことはない。世界は決定的に変わってしまった。
 そう考えれば、次の言明は浅田の本心であるがゆえにこそ、滑稽味を帯びてしまう。

必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。

 皮肉な言い方をすれば、そのような立場を一貫して維持するべきではなかった。表層的に一貫性のなさそうなボケ老人吉本隆明のこの15年の言説のほうが蓮実のいうように、面白かった。もう少し真面目にいうなら、人文学的な思考の基本は本質において変わらないとしても、1989年における工学的な思考は変わってしまった。浅田がオウム真理教について馬鹿だという以外関心をもたないのは、1989年の工学的な思考からの当然の帰結にすぎない。そこで、彼は止まっていた。先日、このブログで浅田のWindows批判にちょっとうんこを投げつけてしまったが、実は、東浩紀がHTMLのことをまるで理解していないのと同じで、浅田は単にWindowsのこと知らないだけ…というのではなく、工学的な思考の現代的な意味合いにおいて、ずっこけてしまっていた。その落差が山形浩生の言説という「現象」で露出してしまったのだ。
 少し長い引用だが、浅田の結語は、皮肉な陰影に富むことになる。

そして、それが最初に示唆するのは、地球環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。

 括弧が多く、しかもねじれた文章なので読みづらいが、ようは、「地球環境問題は文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だ」ということらしい。しかし、もう一度、この言明を読み直してほしい。それは単なるトートロジーではないか。
 地球環境問題とはいうのは、ヒューマニズムのふりをしたゴーレムでしかない。「風の谷のナウシカ」ではないが地球環境が腐海になれば王蟲が出る。地球環境問題として二酸化炭素排出取り上げられるが、もともと地球に酸素が存在していること自体、生命活動の余剰にすぎない。現状の地球環境問題とはヒューマニズム(人間至上主義)なのだ。だから、思想的・政治的・社会的な問題としてリフレクトされるし、そのリフレクションの機能はまさにヒューマニズムが倫理を迂回して人間を拘束するように、政治的な機能を持つ。もちろん、そんなこと、浅田自身がよく知っていることだ。
 人類が二酸化炭素を排出することでその環境を変化させるとしても、それもまたただの変化でしかない。人間が滅び、なにかが生きるだろう。それだけのことだ。ホモサピエンスに至る過程でネアンデルタール人などが滅んだと同じで、この種が滅びるだけだ。それだけのことなのだ。この問題は、「それだけのこと」として割り切って、だから、よりプラクティカルに問わなくてはならない。
 地球環境問題とは、一種のゲームなのだ。その目的は人類の存続だ。そのゲームの戦略としてのみ思考は存在するのであって、思想的・政治的・社会的な問題より、より効果が評価できる戦略をとらなくてはならない。その意味で、浅田彰は根幹で間違っていると私は思うが、そう言いつつ山形をダシにして浅田彰を批判したいわけではない。
 心情としては、こう書きながら、浅田彰という現象が回顧の領域に移行していることに気が付き、自分もまた年老いてしまったことに唖然としていると言っていいだろう。浅田彰の専門は数理経済学だったと記憶しているが、この先の老いの世界にあっては、森嶋通夫のようにその分野で世界的な業績を積み上げていくことを期待したい。

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コメント

いつもブログを見て不思議に思うのですが、あなたの意見をいったい誰に伝えたいのですか?
自分の情報をネットで公開する価値があると思いますか?

投稿: | 2006.03.18 04:08

浅田さんよ、おれ『構造と力』読んだけど、あれじゃあ。まだ比叡山で修行して大僧正になりたがっている学僧という枠組みを出られてやしない。それにもっといけないところは、逃げること、変幻自在なこと、軽みを説いているようにみえて、ほんとはまだ「隠れ構造派」の尻尾が切れてないじゃないか。

投稿: 吉本隆明 | 2006.07.08 17:04

・・・ええと、お邪魔します・・・

ええと、ええと、スミマセン!ネット上の環境論をフラフラとさまよっておるうちに、こちらのBLOGに上がり込んでもうたQKという者です。こんにちは!

・・・という行き当たりばったりの状況で、finalventさんのエッセイをアホのぼくなりに理解しようと頑張ってみたんですが、なんだか読んでて、うれしくなりました。
○浅田氏の返答が、どうして「つまらない」のか
○山形氏の意見が、どうして「面白い」のか
この二点から『論争?』をサクッと説明するこのエッセイは、非常に納得のいくものでした。それに安易に「このヒトの勝ち~!」と書き殴らないfinalventさんの書き方は、読んどって気持ちがよかったです。

・・・ええと、ただ思うたんですけど、エコな考えちゅうのは、前世紀にウンザリするほどあった近代へのカウンター攻撃やないでしょうか?せやから、「環境問題」ゲームの目的は、人類の存続ではなく、「経済発展」へのカウンターパンチやと思います。で、山形さんがナイスなんは、『経済発展がないと環境も良くできないんだよ!』ってクロスカウンターを打ち返した点や思います。そしてぼくは、このクロスカウンター、「思想的・政治的・社会的」な戦略がこもってるからこそ、メッチャ強いパンチや思うんです・・・

・・・うわ、えらそうなこと言って、スミマセン!
ゆるしてください。呪わないで下さい。BLOG頑張って下さい!

投稿: QK | 2006.07.15 04:01

はじめまして
貴ブログのこの記事が、livedoor Blog「馬場健太の思想心理学」の
2008年06月23日付けの記事で、そのまま使われています。
アドレスを貼ろうとしたのですが、上手く行きませんでした。
お手数ですが、検索のうえご確認ください。
他にもあるかも知れませんが、確認はしていません。
馬場健太氏のブログは、拙ブログからもかなりの記事をコピペしています。
貴ブログも抗議された方が、良いかと思います。
突然の不躾なコメントお許しください。

投稿: lapis | 2008.09.01 16:02

浅田は旧い。
山形は新しい。
私もそう思っています。
ブログ著者と私は同じ観点だと思うんですが、
まったく逆の感想をもちました。

ハイカルチャー / 人文知 に立脚する浅田は
年を経た遺跡のように頼もしい。

サブカルチャー / 工学知 を養護する山形は
新しくはあるが危なっかしい。

浅田はあの訳の分からない POMO の言説を、
分かる言葉に翻訳し、説明することのできる
稀有な存在でした。

しかし、POMO がハイテクとサブカルに
呑み込まれてしまった今となっては、
あまりにも旗色の悪い浅田に軍配を上げたくなってしまうのです。
ただの判官びいきなのかもしれませんが。

投稿: 通りすがり | 2009.12.21 00:09

 山形先生の批判は、科学の引用批判としてある、構造主義批判の系譜で読むのが、正しいけど、山形自身の批判だって、構造主義批判の系譜に入り切るのかも分からない。それを、浅田彰に相手しろというのも、無理な話しだと思うけど。
 構造主義批判の科学引用批判は、結局、思想の正統性を主張する西洋哲学に繋がることを批判したいのか、どうか。それとも、正統性の主張の虚ろさが問題視されているのか。山形の批判は、後者か。
 思想の現場に立つ浅田にとっては、山形の論がどれだけできがいいか、悪いか分からないけど、やっぱり、相手にできないのではないか。
 不毛な論争であることは、はっきりしている。

投稿: 吉川由香里 | 2010.01.07 21:07

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» 「構造と力」をめぐる山形浩生 [浅田彰はこう語った?]
山形浩生は浅田彰を高く評価していたようだ。1997年の訳書で、平和の危険性と戦争の効用についてのアメリカの民間有識者からなる委員会の報告書とされるレナード・リュイン「アイアンマウンテン報告」の訳者あとがきでは、日本版の委員会に選出されるべきメンバーとして浅田彰の名前を挙げ... [続きを読む]

受信: 2005.06.22 01:08

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