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2003.11.14

はてな村とくるみの木

 カテゴリーは、「社会」としたが、以下、はてなについての感想のようなものだ(追記2004.3.18。当初、このブログは「はてな」で掲載されていた)。8月中から書き続けて3か月近くなる。我ながらこんなに続くとは思っていなかった。書いていて存外に面白いというのと、いろいろ吐き出したいことが自分に溜まっていたのかという思いがある。知人に、ブログ書いてんだけど、ってな話はしたものの、なんとなく知らせてはいない。いずれ、知らせるかもしれないと思うが、そのいずれがよくわからない。しばらく、誰でもない人に向けて書いていたい気がするのだが、それがなんなのかわからない。
 ネットの世界は匿名だとは毛頭思っていない。私のブログは放言が多いが、それでもどこかでセーブせざるを得ない。私など本質的に無名な人間だが、まったくの無名なのだろうかとも思う。明示的な自己顕示欲のようなものはないのだが、どこかで自分が誰であるか明確になるだろうなという奇妙な恐怖感のようなものもある。ばれる? ま、それほどのものでもないことは確かだなので思わせぶりな書き方はよくないだろう。私は社会的に無だ。
 ブログを書き続けながら、密かに、というほどでもないが、検索サイトがどう見ているかを気にするようになった。そこから見える世の中というものがある。例えば、岸本葉子の本について書きながら、どのように「岸本葉子」が検索されるかに関心が多少ある。このサイトには制約が多いこともあって、SEOのトリックはかましていない。いずれチープなSEOトリックなど無用だ。だが、自分のコンテンツというのがどれほどクローラーを魅了するのだろうかというのは気になる。フレッシュクロールにはなっていないものの、30日間隔、10日間隔、そして最近では5日くらいでクローラーさんが来ていることもあるようだ。
 もちろんのことだが、ログは取っていない。はてなはScript無効なので、リファラは取れないが、Web bugでも仕込んでおけばそれなりのログが取れないわけでもない。だが、そうしない。誰が読んでいるかについて追跡はしない。読者がいることに気にならないというわけでもないが、なんとなく追跡する気にはならない。それは、ある意味で、自分のオープンネスの表明のようなものかもしれない。
 話が書き出しの思いからそれてきた。当初、はてな村について書こうと思っていた。はてな村について特に解説は不要だろう。いや、単純に言えば、はてなのキーワードやコメントのリレーションでできる村みたいなものだ。はてな村は多分ポスト2ちゃんねるとして注目されるのではないかと思う。2ちゃんねるについては、以前このブログでもくさしてしまったが、現在の心境からすると、ほとんど関心がない。S/Nが高すぎて、自分の居場所などないし、居場所なくしては発言もないようなシステムだ。それがいいという意味もあるかもしれないが、そうした思考全体にもはや関心が向かない。
 はてなではシステム側からのおすすめ機能があって、その一つが日記内容から算出したMAPだ。いちおうお約束でこのページの右上に付けておいたが、開いてみて脱力するだろう。ぜんぜん機能していない。私のブログに関連があるとしているのは、なんのことはない、はてな村のコアだけなのだ。おそらく、私のブログは、はてな村では誰とも関連性を持っていないのだ。個別に見れば、話題の類似点がないわけではないし、私もちょっと色気を出してちょっかい的なキーワードをちりばめてみることはあるが、それでも、私ははてなで孤立しているのは確かだ。しかし、はてなの大半の住人は村のコアから孤立しているのだろうから、私だけの問題ではあるまい。
 MAPに現れるはてな村のコアは面白いか? 率直なところ、私にはあまり面白くない。リンクして開くと文章よりコメントが多かったりして、いかにも村になっているんだなぁという光景があるが、さーてね、なんとも言えないよ。うざったいよこれっていう感じもする。
 バカの壁ではないが、ようやく最近になって気が付いたのだが、私のブログは、難しいのかも。明確にそういうリアクションがあるわけではないが、なんとなくそう感じるようになった。「つまんねーよ、テメーの話」っていうリアクションがあっても当然だろうなとは思っていただが、私のブログが難しくてわからん、というリアクションはまるで想定しなかった。
 仕事の文章じゃないのだから、表現に制限はしない。それでも制限はあちこちに出る。わざとらに古くさい言い回しもちりばめているが、それは多分に冗談だ。しかし、そうした表層自体が難しいのか? ふと思い出すのだが、私は小林秀雄の文章を難しいと思ったことはない。難しいのは彼の複雑な意図の斟酌のほうだ。「本居宣長」のなかで触れられている上田秋成との論争など、小林ははなから秋成を滑稽に見ているが、その見識の背後にある強い思想がうまく読み取れない。復古主義だの神道だの言う馬鹿たれにはそもそもわからないだろうと思うので、私は考え続ける。…だが、そうでなければ難しいとは思わない。岩波文庫のトンチキな訳文文学など難しいが無意味な難しさだ。若い頃OEDを引いて格闘したせいか、翻訳文の難解さは無意味なものだと得心している。大塚久雄なども随分傾倒したが、先生をしても訳文はこなれていない。
 「難しい」に関連するが、自分がいつのまにか歳を取ったのだと思う。昔からいわゆる古文が嫌いではないが、最近は古文がなんの解釈なく読めて我ながら唖然とする。パソコンを見つめる時間が長いわりに、旧かな、旧字体の文章に親しみを覚える。なんなく読めてしまう。旧字体のほうが自分にしっくりしてしまう。なんてこったと思うが、日本語の1000年の呪いのようなものが自分のなかで成就しつつあるのだろう。
 話が散漫になった。こう書きながら、私の文章は、難しいというより、単にネットには合わなくなっているのだというような気がする。それはそれでいいかとも思う。多くに伝えたいとはあまり思わない。遠くに伝えたいという気はする。ある種の遠隔対象性ってなものかもしれない、私のブログは。

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# HAL 『タイトルだけ見てきちゃいました。またお邪魔します』
# masayama8 『マップ見ましたけど、すごくないですか。すごい隣接の仕方だと僕は思いましたけど。考えようだと思います。問題意識が顕在化したのがああいう分布帯だとすると、時代にはアップデートされているんじゃないでしょうか?三文誌みたいに媚び続けるという文体でもないと思います。機嫌を直してください。』
# レス>HAL 『どうぞ、また。タイトルふざけですみませんかも。』
# レス>masayama8 『なるほど、です。そういうふうにも考えられるのですね。これ書いたとき思っていたのは、ある無関係な日記(ブログ)があると自動的にはてな村コアのMAPになるのでは、と。それにしても、この話題はちと、「僕ってさびしいよ」のトーンでした。ま、実際そうでもある面もあるのですが…。』

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受信: 2007.11.18 16:44

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