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2003.11.02

仁科五郎盛信

 先のブログのジョークに一部の人にだけウケを狙って「信濃の国」五番をつけたものの、ふと仁科五郎盛信が気になった。センター試験以降の世代でも、多少なりと日本史を勉強した人間なら、春台太宰、象山佐久間あたりはわかるだろうが旭将軍義仲となるとちとどうかな。芭蕉好きなら名句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を思い起こせるかもしれないが、このあたりのことが日本人の常識でなくなりつつある。そんなことも知れねー知識人も多いのだろうなと思うが、一喝できるのは高島俊男くらいか。
 まして「仁科五郎信盛」となると、歴史好きにはこたえられないキャラなのだが、「知らねーのかバカ」とか言ってバカの壁を造るとこちらもちと不親切ということになる。とはいえ、この手の郷土史の話題は意外とネットに事欠くまいと思ってぐぐると、たしかに、そうだ。まったくネットってなんだろうねと思うが、これは悪いことではない。というわけで、「仁科五郎信盛」についてはぐぐればある程度わかると思う。それどころか広辞苑やハンディな日本史の辞典には仁科盛遠は載っていても、仁科五郎盛信は載っていない。
 仁科五郎盛信は名前の五郎からわかる武田信玄の五男。名歌信濃の国では「信盛」としているが歴史上は「盛信」。母親は油川氏。仁科氏を名乗るが武田信玄は仁科氏を滅亡させているので、領主として氏名を継いでいるだけで仁科氏の血統ではない。信濃の国で誇りとして歌われているのは、織田信長の長子信忠の5万もの軍に3千の軍で立ち向かい、潔く散ったことによる。長野県人は強者にも屈せず、負け戦もものともしない、と言いたいところだが、真田家の生き様など江戸時代は狂歌・狂句のお笑いネタになったものだ。
 仁科五郎盛信の妹松姫は7歳で織田信長の長男信忠と政略で婚約しているが(婚儀は盛大であった)、後、事の次第はかくなるわけで、婚約は果たなかった(恋心を抱いていたとする物語も多い)。仁科五郎盛信戦死に際して、松姫は現在の東京八王子に逃げ、本能寺の変で織田信忠の死を聞いてから、深沢山心源院で得度。22歳。ちなみにこの寺は「夕焼け小焼け」の歌の発祥地である。
 松姫はその後、現在の八王子市街の小高い丘に庵を建てこれが後の信松院になる。八王子はのちに織物を名産とするがこの起源は松姫に帰せられているようだ。私はこれは中将姫伝説の変形ではないかとも思うが、あるいは中将姫伝説がむしろ中世末の女性の原型を造ったのかもしれない。またも余談だが、中将姫は日本史上重要な意味を持つと思われるが、ついぞ研究を見たことがない。史実中心やフェミの歴史など糞喰らえである。
 松姫の逃避で一緒に連れて来た盛信の娘督姫もその後得度したが29歳で亡くなったとのこと。現在は極楽寺に改葬されている。余談もこれで終わりだが、子連れの極楽寺散策のおりは、その近くの「こども科学館」に寄るのもいいかもしれない。入場料のわりに展示はしょーもないので、イベントを目当てにするといい。浅川へと出ると、荒井呉服店の娘荒井由実の歌の光景がそこにある。

追記
 我ながらちとうかつだったが松姫の物語は、松姫に焦点を当てるより、実際はその背景ともいえる八王子千人同心が歴史的には重要になるのだった。この特異な半農・半士の武田遺臣はそのまま徳川に従属するのだが、その際、子仏峠を越えて甲州に往来しその織物を売買権する特権が与えられている。これが後に横浜・八王子を結ぶ絹の交易のベースになる。

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