« 韓国受験事情など | トップページ | メディアのマンネリ感というか循環 »

2003.11.12

[書評]永遠の吉本隆明(橋爪大三郎)

cover
永遠の吉本隆明
 駄本である。終わり。で済む程度の内容なので、それ以上の言及など不要なようだが、橋爪大三郎がこんなみっともない本を出してしまう理由もわからないではないし、橋爪本人も気が付いてもいないだろうが、この世代の老いを知るという点でも、身銭を切って買って読んでみた。
 タイトル「永遠の吉本隆明」はくだらなすぎるが橋爪が付けたものではないだろう。内容も書かれたものではなく、おしゃべりの書き起こし。新潮の「バカの壁」の影響の破壊性はこんなところまで及んだ。四時間ほどのおしゃべりと編集者がいたら新書はできる。福田和也と香山リカと並べてしゃべらせれば一冊、あがり。編集者に魂というものが無くなった。山本夏彦は、本ってなものにはいくばくか魂がくっついてくるものだと言った。だが、それをなくしたらこういう事態になった。この手の駄本をやり手婆みたいな斉藤美奈子がくさしたり、宮崎哲弥のような流しの評論家がチャートを作れけば、なんだか文壇みたいなものになるってな商売まである。とま、くさしてみるが、空しい。
 「永遠の吉本隆明」は本としては駄本だが、橋爪の限定された吉本理解は大筋では間違っていないし、共同幻想論まわりの解説は、柳田や折口の学の意義を抜きにすれば、構造主義的な文脈として悪くない。特にレヴィ・ストロースと吉本のインセストタブー論の比較は面白い。政治思想の面では、全共闘世代の陥穽をわかりやすくお笑いにしている。吉本シンパが70年代以降動けなくなってしまうというカラクリは、現象面では橋爪の説明で間違ってもいない。
 橋爪が知らないのは、彼よりもきちんと吉本を読み込む少数読者への畏怖だけだろう。吉本がボケてしまう前のこと、二番目の選集が編まれたが、そこになぜヴェーユについてのおまけがついたかなど、橋爪は考慮もしない。国家論について橋爪自身の考えを吉本に比して解説しているくだりがあるが、吉本のシモーヌ・ヴェーユ論は軽快に抜け落ちた。挙げ句、橋爪は吉本の国家論には無前提の公理があるみたいに言うが、橋爪は、歴史のなかで血を流す人間による到達、森有正のいう「経験」をまるで了解していない。思想というのものは、言語的な公理からできるものではない。歴史と経験が生み出すものなのに。
 話を戻す。この本の出だしで、ちょっと溜息をついた。

 たとえば小熊英二さんが『<民主>と<愛国>』(新曜社・二〇〇二年)という本を出しました。たいへん包括的に戦後日本の思想の図柄をデッサンしている。そこにさまざまな思想家が登場します。例えば、丸山眞男であり、竹内好であり、三島由紀夫、江藤淳、そして吉本隆明などが出てきますが、吉本さんに対する視線や扱いがややヒンヤリしていて、これまでの吉本ファンや吉本読者、崇拝者が見なかった側面を裏側から突いているところがあります。そして、ある意味では鋭い面もあり、私はなかなか興味深く読んだのです。

 この先、橋爪は小熊英二のような若い世代の感性について触れ、そこからはある種、つまらない吉本像が出てくるのはしたないといった指摘をしている。そうなのだろうと思うというのが溜息だ。
 「ヒンヤリ」という表現がうまい。若い世代の社会意識は、結局のところ、そのヒンヤリをもってして、「わたしってお利口!」という自己回帰になっているのではないか、と最近思う。センター試験の得点のように明快だからだ。プチサヨクの社会機能はプチエリート意識の保証でもあるのだろう。西尾幹二や小林よしのりが騒ぐほど、「ふふ、おばかね」とお利口さんは微笑むものなのである。ちょっと溜息が出ますね。
 オタク世代の動物化ではないが、日本の思想はニューアカ時代を経て、一種、テイスト、つまり、センター試験以降の世代がいうところのセンスになってしまったのだろう。そういう時代のなかで、なんとか吉本を解説しようとすれば、この橋爪のようになるのかというあたりこの世代の老いがあり、リキ入れて語れば語るほど滑稽になるのだ。
 団塊世代下の私も吉本は偉大だと思うが、吉本の書いたもののに価値があれば、ほっておいても人は読むのだから、いまごろ騒ぐことでもないかとも思う。内容に時代を超えたものがあれば、山本七平の著作のように死後も復活するだろう。そうならなければ、それでいいのだ。世界の人が欲することがあれば、自然と翻訳もされるだろう。なんとなくだが、吉本の価値はあと二〇年ぐらいして、日本戦後の本格的な総括を米国人学者が行うとき、辛うじて歴史として読まれるのではないか。人も思想も状況のなかで生きている。それでいいし、それでしか価値は問えない。
 橋爪は吉本の身体論について僅かに言及しているが、吉本が三木成夫に影響を受け、新興宗教みたいな言説に傾いていく晩年の部分には触れていない。避けているのではなく、読んでいないようだ。総じて、団塊の世代は晩年の吉本思想がうまく理解できていないようだ。安原顯に代表されるこの現象はなんなのだろうか。
 例えば、私は団塊の世代と共通一次試験世代の狭間にいるから、その位置がもたらす感覚からは、そのはざまの言論人の感覚がわからないでもない。例えば、思想的なスタンスは自分とはぜんぜん違う浅田彰だが、率直なところ、他の世代よりわかっていると思う部分は多い(例えば、浅田彰と高橋留美子は下の世代への影響力の面でも同質だとか)。同じことはどの世代にも言える。それはそうだ。そしてそれだけのことだ。世代のチャートからはごくくだらない話になる。だが、団塊の世代の吉本隆明というのは、あまりに小さいようにも思える。そのあたりを克服しようとした橋爪の試みだが、結局、些細な例ではあるが、シモーヌ・ヴェーユや三木成夫の見落としといいったことになる。
 失礼な言い方だが、すでに吉本隆明は言論人としては終わった。その終わりはある人間タイプの終わりのように思える。戦後の人間のひとつのタイプだ。卑近な例だが、吉本の若い頃には、一人の人間が恋愛をして挫折するという生き様の陰影があったのだ。それはどのように後の世代に重視されるだろうか。いや、うまく問えないので、もっと単純な話にしよう。団塊の世代までは、まだ男と女が生きていた。その男と女とが生きるためには、吉本隆明のように生きるだの死ぬだのの騒ぎを立てることがあった。恋愛に価値があり、恋愛から還元されるように個人が定義できた。
 80年代あたりからそれが崩壊し、恋愛はシステム的な欲望に変性した。もちろん、共通一次試験世代でも恋愛はあり、刃傷沙汰などもあるだろう。だが、その恋愛は個人を定義をしていない。ある可換な価値=欲望として描かれるだけだ。その、存在の可換性とでもいうものが絶えず知を要求する。知はそして、カタログになった。吉本をそこに並べてもなんの意味もない。あるわけもない。
 失礼な言い方になるだろうが、吉本青年が奪い取った女の昔の言葉を引けば、背中でばたばたいう悪魔の羽で飛んでいく人生も面白かったことだろう。ボーボワールがサルトルの死体と横たわるように。そこには恋愛の帰結がある。
 その響きのかけらのようなものは橋爪の本にはないが、団塊の世代の死にはこれから、たぶんいくつか、美しい恋愛の光を放つことがあるように思う。そうした兆候はどこから出てくるだろうか。

|

« 韓国受験事情など | トップページ | メディアのマンネリ感というか循環 »

「書評」カテゴリの記事

コメント

駄本ならば取り上げなければいいのに?

橋爪が言っていることはいいから、あなたが橋爪を唾棄する迫力をあなたのどこかで示してよ。

投稿: apple | 2008.07.20 13:27

「恋愛はシステム的な欲望に変性した。もちろん、共通一次試験世代でも恋愛はあり、刃傷沙汰などもあるだろう。だが、その恋愛は個人を定義をしていない。ある可換な価値=欲望として描かれるだけだ。その、存在の可換性とでもいうものが絶えず知を要求する。知はそして、カタログになった。・・・・」

団塊世代の数年後世代ですが、ここのところ同感できる部分があります。そしてこの変性をトータルに捉えようと、吉本さんはマス・イメージ論やハイ・イメージ論他で再度の三部作として挑んだように思えるのですが。つまり吉本さん的な女性、恋愛、人生観は限定的なものに急速に変わっていっても、思想として、言論の人としては残らざるを得ないものを我々においていったのではないでしょうか。

投稿: shige | 2013.06.05 15:28

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]永遠の吉本隆明(橋爪大三郎):

« 韓国受験事情など | トップページ | メディアのマンネリ感というか循環 »