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2003.11.09

野口晴哉

 縦横に巡らされた「はてな」のリンクを見ていたら、野口晴哉がキーワードになっていた。そういえば、筑摩文庫の影響なのか2、3年前ぐらいから野口晴哉の名前を見かけることが多くなった。奇妙な感じがする。脳足りんか如何、というくらい朗らかなる斎藤孝も野口晴哉のことをまじめくさって紹介していた。反面、筑摩文庫版についてのなにかの評で野口晴哉ってトンデモ?というのを見かけたこともある。野口晴哉の本は、ま、常識的に見ればトンデモ、で終わりなのだが、そういうのが受け入れられていく社会になってきた。不思議といえば不思議だ。
 野口晴哉についての解説は、おそらくはてなの自動リンクでできるのではないかとも思うが十分な解説ではないだろう。だが、ネットを引けば意外と情報は出てくるのではないだろうか。と、投げやりな気持ちがする。随分前のことだが、中村天風、桜沢如一、野口晴哉の3人について時代背景を含めて本でも書こうかと思って資料を集めたことがあった。やりながら、自分の頭がどうかしちまったんじゃないかという気にもなった。そうこうしていくうちに、時代は変わり、なんだかんだとこの手のことに関心を持つ人は多くなってきた。私としても、そういう人のご同列ってものな、といううちに資料を散失した。もともとたいした資料であるわけではないので、未練もない。仮に本を書いたとしてなにが言いたかったのかというと、ああいう頓珍漢な体系がなぜ生まれたのかという日本精神の裏を描いてみたかったくらいだ。もちろん、単に否定的に論じるのではなく、野口晴哉についてはフェルデン・クライスへの影響なども視野に含めたかったのだが。
 手元にある書架を見ると、今や野口晴哉の本は一冊しかない。一冊あるだけでもアレ?という感じもするが、いずれ体癖や体運動などの主著作は捨ててもいないので倉庫の奥にでもあるだろう。その手元の一冊は「治療の書」である。野口晴哉が書いたもののなかで、もっとも優れた一冊だと思って、身近に残しておいたのだ。今でも入手可能な本なのか調べると、全生社からちゃんと販売されているようだ。「碧巌ところどころ」などもある。なるほどねという感じがする。
 手元の本は再刊の昭和五十二年版だ。「治療の書」は序文に源氏鶏太に薦められて昭和四十四年に再刊したとある。このおり原稿を追加して、彼はもう治療と縁を切ることができたと言っている。野口晴哉の諸著作を読んでいる人間ならよく理解できるところだ。
 初刊はあとがきを見るに昭和二十六年。整体操法協会の機関誌「全生」発刊に続くもので、人物論的には野口晴哉前期思想の集大成とも言えそうだが、そう言うにはあまりに浅薄だろう。この時代、整体操法協会の成立と併せて、今日ドグマ化されつつある体癖論が整備されていく。そうしたドグマの根はこの時代からすでに見られる。そして、昭和30年代には操法を表面から落として整体協会とし、整体体操だの体量配分計だのができる。

cover
整体入門
 昭和40年代に入り、野口晴哉は安井都知事と懇意であったこともあり、駒沢体育館で三千名規模の活元運動東京大会を開くが、このころ野口晴哉自身は内心困惑も抱えていたように思われる。世の中の健康観にも付いていけなかったというか、まるで通じない世の中になっていたように見えたことだろう。健康法的な活動から育児法に傾いていくのも、その背景があるだろう。ある意味、この時代が野口晴哉がもたらす活動の全盛期で、その後はさらにエソテリックになってしまう。恐らく、この時期すでに本人自身の体調も悪かったのではないか。
 昭和51年に64歳で死去。大森英櫻が短命でしたねと皮肉るが、いろいろ野口晴哉についての伝説化が進むにしても、そういう一般的な印象は避けられないことだろう。むしろ、野口晴哉が64歳で死んだという意味をきちんと考察したほうがいいのだが、私にはそれについてまっとうに思索されたものを読んだことはない。
 話が前後するが野口晴哉は明治44年年の生まれだ。矍鑠と現役医師の活動をされる日野原重明と同じ歳の生まれだなのだ。アイロニーを弄したいのではないが、生命論だの癒しだので野口晴哉を持ち上げる人はそのことを知っているだろうか。もちろん、頭では理解できるだろう。だが、野口晴哉と日野原重明を並べたとき、大衆の目にどう見えるかを繰り込んで考えることができずに野口晴哉を評価することなどまったくのナンセンスなのだ。それがわかる人はいないのではないか。
 野口晴哉の幼年から少年の境涯は厳しいものだった。預けられた叔父が漢方医であったことから、治療師としての才能を開花させたのだろうとは思う。もともと、天才的な直感を持っていた子供であることは間違いない。後年の上ランクの弟子たちの指導記録を読むと野口晴哉の苛立ちが伺われることがある。元来、この術は習得されるかにかではなく、生得な直感を必要するとしか思えない。だが、そうした超人的な野口晴哉の能力はおそらく自身も理解していたようになにかの代償であったことだろう。
 話を「治療の書」に戻す。「治療の書」は不思議な書物だ。斎藤孝なんぞでは音読はできても理解はできのではないか。

 或人問ひて「死ぬべきに合はば治療する者如何にすべきか」と。安かに死なしむる也。

 生きるべきものは生きる。死すべきは死ぬ。死と定まったという人間はおよそ会うこともない、というふうにまで野口晴哉はいう。屁理屈つけて大げさに理解するまでもなく、死すべき人は安らかに死ね、というだけで、見捨てられている。そう言ってしまえば、野口晴哉の支持者からは誤解だと反対されることだろう。だが、そうか。私など、死ねと言われたくちだろうなと思うから、この事は深刻に考える。
 「治療の書」には描かれていないが、そして、比喩のようにしか語られていないが、晩年の野口晴哉は転生を確信していたように思われる。生きるということは快ではあり、全生をまっとうすることに意義がある、かのように「治療の書」では書かれているし、そこまで書けばいいと野口晴哉は思ったに違いない。だが、彼の内心では、生きるということ自体ある主の生命の流れの硬詰のように見なしていたのではないか。もう少し言うと、性欲の硬詰というか滞りというかエネルギーがなければ、人はさっさと冥府に帰ればよかろうと思っていたのではないか。裡の欲望が「100万回生きた猫」のように失せれば、生きている意義などなくなる。

治療といふこと、体を観ること、もとより大切也。されど人間を観ることもつと大切なり。人間を観ることその裡なる要求を知ること第一なり。人間は要求を実現する為に息している也。その要求を知り之を処理することに治療といふことある也。

 野口晴哉は愉気を提唱した。気は愉快でなくてはならない、と。だが、およそ生きているからには、その生と性のエネルギーの交換は愉悦であるのだろう。だが、生命としての存在それ自体を覆うもっと強いなにかを野口晴哉は見つめていたように思われる。単に絶望というものでもないのだろう。ダークエナジーというのは冗談だが、死を越えるなにがそこに愕然とあって、死を恐れずとし、さらに死に回帰していくものを野口晴哉は見ていたのだろうと思う。

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コメント

>元来、この術は習得されるかにかではなく、生得な直感を必要するとしか思えない。

私もそれを感じます。TBした記事に出てくる内弟子の方は、おそらく少なくともそれに近い資質を持っていた人でしたが、もう亡くなってしまいました。その人が亡くなった時、他の「そういう」人間の死からそう経っていなかったこともあり、「彼らのような人間がいない世の中になど、生きる場所など見出せない」と思いました。実際、今もそれは変わりませんが(苦笑)
「生きる」、少なくとも「生きようとする」事など必要ないことだろう、そういう風に思います。

私は晴哉氏本人に会ったことはありませんが、こうやって彼の残したものも、失われていくんだろうなとは感じます。

以前活元会に参加したことがありますが、そこにあったものは、本質からあまりにかけ離れているように感じました。私があまりに傲慢な人間だからそう感じるのかもしれませんが。
後遺症があるので私は彼の著作をあまり読んでいないし、整体協会できちんと勉強したわけでもありませんが、感覚として彼の言うことに、わかるところはあります。しかしこのことを言葉にし切ることはおそらくできないし、この場はそれを語るに適切な場ではないでしょうから、書くことはやめておきますが。

おそらく彼が短命であったことは、「あげつらわれるべき問題」ではないのでしょう。最初からこの世で「野口晴哉」に与えられた「年月」はあの長さであり、彼はただ「ここ」での天命(それをそう呼べるならの話ですが)を受け取ることしかしなかったのだろう、そう思います。

投稿: とんぼがえりベイビー | 2005.10.05 09:54

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» 近衛文麿の自決と、野口晴哉との関わりについて [人生とんぼ返り]
少し前に整体協会の野口晴哉の話を出したが、細川護貞氏死去のニュースを見て思い立って検索したところ、ネット上にはどこにも見当たらなかったので書く。 まず野口晴哉と近衛家とのかかわりを軽く。 晴哉は文麿の娘・昭子と結婚しているが、彼女はそれ以前島津家に一度嫁に行っている。それは死別などということでもなく、婚家先との不仲に拠ったもののようである。しかし当時近衛のお姫様と晴哉との身分違いの恋が許されるわけもなく、二人は駆け落ちを遂げている。 その後だいぶたってから、必ずしもその件についてだけの... [続きを読む]

受信: 2005.10.05 08:31

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