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2003.11.01

麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想

 今朝は日経新聞社説「ロシアの強権政治を案じる」が良かった。考えようによってはなんてことない話なのかもしれないが、私はこの問題は日本の今後にも関わってくるだろうと思う。当面の事態は表面的にはウォロシン大統領府長官の解任だが、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長の逮捕に関連している。問題は背景にあるロシアの政治だ。と書きながら、この話題は今朝は割愛する。
 今朝はどうしても麻原裁判結審への言及を避けるわけにはいかない。範疇は時事を避けて歴史とした。歴史の問題ではないが、時事でも社会の問題でもないので便宜的なものだ。
 麻原裁判結審で意外にも思えたのだが、社説で扱っていたのは読売と産経だけだった。朝日と毎日は避けているという印象を受ける。当然、この問題について悪しきポピュリズムを越えられない読売と産経だから社説には読むべき内容もない。今さら麻原を悪だと言い立ててもサマにならないので、国選弁護団の姿勢を叩くということになる。おきまりってやつだ。もっとも、まだ結審の段階で判決ではないので、しかたがない面もある。
 判決は来年2月になる予定だが、おそらくその判決には新規性はないだろう。私の勘違いかもしれないが、裁判はこれで終わるわけでもないだろう。今回の結審までには256回もの公判があったものの、そこから我々の市民社会が受け取るものはほとんどゼロに等しかった。すでにこの問題は日本の社会から終わってしまったかのようだし、その気分を私も共感しないわけではない。
 結審に関係ないといえば関係ないのだが、たった一つだけ喉に引っかかった魚の小骨のような思いだけがある。些細といえば些細なことだったが、当時論壇やジャーナリズムを巻き込んで麻原を擁護した吉本隆明の主張だ。眼帯のまほこちゃんこと吉本真秀子(よしもとばなな)の家庭教師だった芹沢俊介を除けば、サリン事件以降、吉本を支持する論者はいなかった。こいつらは馬鹿かと思われるような論者やジャーナリストは一斉に吉本バッシングを始めたが、私が吉本シンパだからかもしれないが、結局吉本の強さが際だつだけだった。ちょっと知恵の回る論者なら、この問題を避けてしまった。
 実際はどれほど吉本シンパであっても吉本のこの立ち回りは理解できなかったのではないだろうか。率直に言えば私もその一人だ。もちろん、心情的には理解できる。昔吉本はこう言っていた。そのままの言葉ではないがこんなトーンだ……オレが銃をもって立ち上がろうといってついてくるヤツは四百人だろうな……、と。そう、彼が銃を取るといったら、いよいよ革命に参列するかな、と心に誓う人間がいた。それを待ち続けながら、現在、もうろくしていく吉本をじっと見ている。
 今思うと、老骨吉本は麻原擁護において60年代闘争よりも過激だった。麻原を擁護できずに日和っているヤツラへも鈍いながらも痛罵を喰らわせ続けていた。蓮実重彦がなにかの対談で、吉本に天皇制へのようなある種の怖さを感じると漏らしたことがあったと記憶しているが、吉本の怖さというものだけが奇妙な形で浮き上がってきた。ある意味、そのきつさだけを私も自分に感じている。
 言葉の上っ面では吉本の批判など簡単だ。至極簡単と言ってもいいかもしれない。だが、その簡単をそのままやるヤツは歴史から浮遊し始める。昔吉本は彼とサルトルと対決したら必然的に負けると言っていたが、そう言えるところに吉本のしぶとい強さがある。
 私の理解は間違っているかもしれないが、吉本が麻原を擁護するというのは、つまるところ2点だろう。1つは。麻原の行なった壮大な悪事を市民社会は断罪できないし、断罪するような思想は大衆の未来を閉ざすということだ。このテーマは難しい。もう1つは、麻原が歴史上比類無き宗教家だということだ。もちろん、政治的には阿呆だと吉本も付け加えているが。
 麻原は希有な宗教家だったのだろうか? そう吉本が考える理由は、1つには弟子たちの心酔のありかたであり、もう1つはその背景となる麻原の神秘体験の了解にある。だが、私は、吉本とは違い、恥ずかしいことでもあるが、すでに近代西洋のエソテリズム運動についてかなりの知識をもっている。だから、麻原の神秘体験とされた記述も一読して、ブラヴァツキーに始まる神智学の文書の亜流であることはすぐにわかった。他方、中村天風のような戦前戦後の新興宗教っぽいムーブメントや沖正弘のような間抜けなヨガなどとの関連につながるものであることもわかった。当然麻原のヨガ理解についてもこうした神秘傾向のある人々と同じく滑稽な間違いも数多く犯していたし、チベッタンシステムとインドのタントラが混同されているので、教義も混乱していた。ただ、ある意味そうした混濁もチベッタンシステムに内包されるものかもしれないのだが、この問題は今は触れない。
 ケーチャリー・ムドラーを真似して舌帯を半分ほど切ってところで日和った麻原彰晃という滑稽なヨギは結局アーサナも完成していなかった。そんなタワケが希有な宗教家なのかなど、ヨガを知る人間なら疑問にすら抱かない。だが、吉本が言いたいことは、単純に思想であり、宗教という範疇の問題なのだろう。端的に言えば、親鸞の造悪論をなにが支えるのかということだ。
 愚から悪まで押し詰めながら、吉本隆明は親鸞の造悪論の深化の一つの戯画として麻原を捕らえていたと理解してもいいだろう。だが、親鸞の造悪論自体は結局、失礼な言い方になるが吉本の今生を持ってして完成しないだろう。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、昨今の実証研究的には法然に帰属され、その思想は法然から親鸞へという流れで収められてしまった。とんでもない歪曲だぜとは思うが、この問題の歴史的側面についてもひとまず置く。
 矮小化するなら、「正義のために人を殺してよいか?」となる。戦後民主主義の嘘で演じるなら答えは単純であり、実際のリアルな政治世界ではその反対として単純な答えが導かれる。もちろん、矮小化が問題を混濁させているのだ。あるいは、「正義とは殺人を含むものなのか」と問うほうがいいのかもしれないが、その時、「正義」は循環的に無意味にされてしまう。
 このあたりでやめよう。およそブログの内容ではない。だが、恐らく、この問題は、死を実存の側から見るのではなく、実存をたらしめる根元の側から問いなおされる必要があるだろう。フロイトが晩年示唆した「死の衝動」にも関連するだろう。と、私も曖昧な言い方になる。曖昧に言わなければ、危険な言説になるからだ。その意味で、ある種の思想の深化は、麻原や吉本を頓馬な妄言者だとだけは言いづらい奇妙なアポリアに導くになる。

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