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2003.11.30

奥克彦さんと井ノ上正盛さんを悼む

 うかつだった。こんな事件が起きていたことも知らなかった。イラクで日本人外交官2人殺害されていた。殺害された奥克彦さんと井ノ上正盛さんを悼む。
 奥克彦さんといえば、外務省のホームページで「イラク便り」という連載を執筆されていたかただ。日本国の立場に立つということで抑制されてはいるものの味わいの深い文章が多かった。パンの値段の話なども面白かった。戦争というとつい飢饉を連想しがちだが、食糧事情などもいきいきと伝わってきた。ドラマ「おしん」放映の話なども些事のようだが、大きな意味を持っていたことだろう。
 連載で痛切なのはデ・メロの殺害であり、また彼にとって深い意味をもっていただろうユニセフのクリス・ビークマンの死だ。


 正面玄関に出てみて、「この辺で、UNICEFのクリス・ビークマンが亡くなってしまったのか。」と思いながら敷地を出ようとした時、信じられないことに1枚の名刺が目に留まりました。クリスの名刺です。拾い上げてみると、"My Japanese friend, go straight ahead!(我が日本の友人よ、まっすぐ前に向かって行け!)" と語りかけてくるようです。

 「今度は日本人がターゲットか?」じゃない。すでにターゲットなのだ。NHKのニュースによれば奥克彦さんは狙われていたようだし、待ち伏せされていたようだ。
 この事件のため、岡本行夫首相補佐官はイラク訪問を見送ったとのこと。腰抜け、と言いたいところだが、そう単純な問題でもないだろう。
 奥克彦さんの意志を汲めば、テロに屈してはいけないことになるだろう。だが、そういう意気込みだけでなんとかなるものでもない。日本を取り巻く状況は一変したのだから、それにプラクティカルに取り組む必要がある。

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特にテーマもない雑感

 私事でくたくたになった日だった。幸いということでもないのだが、新聞各紙社説のニュースに取り上げるほどのネタはない。足銀国有化やH2A失敗についても、それほど社会問題とも思えない。あるいは私にこれらの問題に単に視点がないだけかもしれない。
 昨日のブログでたまたまオントロジーの話を書いたところ、その方面からのブラウジングがあり、ある意味で意外でもあって驚いた。OWL(Web Ontology Language)の研究自体が無意味だとも思わないが、オントロジーの問題はGoogleのように実際的に進めるほうがいいだろうし、現実的にはGoogleが先行してしまうのでないかという気もする。また、生成意味論がどのような変遷を辿ったかについて、オントロジーの問題と合わせてコメントしたい気もするが、ちと荷が重い。
 このところ、このブログにポツポツとコメントが得られるようになった。自分が下品に書いているせいか、コメントも今後は私のブログに端的に否定的なものが増えてくるような気がする。また、もともと「はてな」がある一定のポピュラリティを得ると、現状のネットの動向から2ちゃんねる的な傾向にならざるを得ないだろうと思う。
 少し挑発的な言い方をすると、私自身、他者のコメントが欲しいなと思う問題意識についてのコメントはなかなか得られにくい、と感じている。逆に否定的なコメントはどうしても、些細な問題か、従来から枠組みの決まったディベートの様相を示すようだ。前者は山形が浅田のクラインの壺を扱ったような感じだ。山形はそれが本質な問題ではないことを承知で冗談のトーンでやっているが、ネットを見渡すとそういう受け止めはなく、山形的なるものと浅田的なるものフレームに簡素化されてしまいがちだ。かく言う私もその弊害を促進したきらいがあるので言えた義理ではないだろう。後者については、「従軍慰安婦」的な問題だ。最初にイデオロギーありきだ。そこに求められるのは、「極東ブログ」は戦後民主主義派かどうかの踏み絵があるばかりだ。それをきちんと体当たりしている小林よしのりはその点で偉いと思うが、私はちと退屈な気がする。
 問題は私の側にも多い。人の関心のありそうな話題につい色気を出してしまうのだ。まぁ、ある面、ブログを書くのは自分のエンタテイメントでもあるので、そう禁欲的にもなれない。
 気取った言い方もしれないが、私はあまり自嘲せず私のブログの読者を見つめるべきだろうし、ジャーナリズムとは異なる情報の提供をすべきかとも思う。リファラーを見る限り、セレブレックスなどの情報でこのブログを参照されているかたも多い。

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西尾幹二というオタク

 たまたま買った「諸君」2003.12に西尾幹二の「江戸のダイナミズム」という連載があり、読む気もなかったのだが、読んで驚いた。ひど過ぎるのである。間違い箇所を指摘するということができないほど、抜本的に間違っている。そして、この間違いかたは、自分でも意外だったのだが、センター試験以降の世代と同じに思えた。個々の知識はむしろ正しい。偏差値は高いだろうな。…もちろん、そういう言い方は杜撰すぎるのだが、なんとも奇妙な感じだ。
 西尾幹二については「国民の歴史」でずっこけてしまったことがあるので、この人はぜんぜん歴史というものがわからない人だなと思ったものだった。当然、読むのも苦痛なので読まないのだが、今回連載の一部を読んでみて、唖然としてしまった。こう言うほどたいした知識が自分にあるわけでもないだが、西尾幹二は体系性のない知識の羅列を都合よく組み立てているのだ。まるで根幹がわかっていない。儒教と儒学の差もわかっていないようだし、「義理」の「理」の意味もわかっていない。「理」という漢字の字面から「理性」の「理」と解しているようだ。なぜこんな情けないことになっているのかと考えたのだが、西尾幹二はまず易の素養がないのだろうな。易がわからなくては中華思想はわからないと断言してもいいほどなのに。
 中華思想はさておき、ほとんど腰を抜かしたのは、「葉隠」をテロリストの思想だというくだりである。


 やはりテロリストの思想というべきでしょうか。戦国時代から離れ、平和がづついてかえってこういう思想が生まれたと考えるべきでしょう。

 まいったな、とほほだな。絶句するな。しかし、物は考えようでテロリストの思想と評価されても、もし現代に山本常朝がいたならびくともしないだろう。
 そういえば、9.11について吉本隆明はあれをテロだということで単純に否定しなかった。彼は、あれが日本人なら関係ない乗客を降ろしてから実行しただろうと言っている。私などはそれだけでわかる。吉本隆明もだから根は軍国少年と言われるのだろう。とほほであるな。吉本隆明は9.11がいけないのは、つきつめれば非戦闘員を巻き込んだことだ(だから日本人被害者にも着目している)。とはいえ、非戦闘員を巻き込まないテロなどないといわれればギャフンだな。
 いずれにせよ、「テロは絶対悪である。日本軍の行動は絶対悪である。…。」これらがクレドになってしまっているのだ。西尾幹二ですらそうなのだ。
 なにも「テロだって悪ではない」とか「日本軍の行動を肯定する」ということでは全然ない。そういうことでは全然ないのだ、と言って、まったく通じない時代になったのかもしれないし、そう言うことが空しいだけで、「葉隠」の思想は生きているのかもしれない。「生きるべきか死ぬべきか」という状況が迫られたとき、あらゆる思考は「生」によってかたどられるのだから、自由は死の選択の行動にしかない…そうでなければ武士ではない。武士である必要などないが武士という生き方(倫理)はそうするしかない。確かにアナクロニズムの極みか…とほほ。
 とほほとか言ってもしかたない。また、こういうことはうまく言葉に尽くせないものかもしれない。

[コメント]
# shibu 『葉隠に関して、「閉じ込め」についてNHK教育でやってましたですね。講座名が「武士道」だったかな?確か最初の頃は「葉隠」自体についても少し解説していたような。ただ、絵柄が講義者の後ろに鎧兜なんか配してしまったりして、あらら?な雰囲気でしたが、中身はどうして極めて説得的だった記憶です。外地なので手元に何も無いのが残念ですが...』

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2003.11.29

オントロジーのW3C規格化は無駄

 新しく取り上げるほどの社会的な話題はない。歴史的な話題にしてもいいのだが、趣向を変えてオントロジーの話を書く。とはいえ、この話題を書くのはためらうものがある。自分がこの分野にすでにロートルなので、たいした情報が提供できるわけではないからだ。が、どうせ私的なブログなのでメモがてらに書いてみよう。社会問題の話題を期待している読者がいたら、申し訳ない。一回休みである。
 W3Cに祀り上げらたティム・バーナーズ・リー(Timothy John Berners-Lee)だが、最近RDFを深化させた形でセマンティックWebを提唱している。ようは、RDF(Resource Description Framework )の上にオントロジーを載っけるのだ。ほぉ、そう来たかという感じもした。
 はてなさえブログブームに推されてRSSを付加するようになったので、RSSについては一般認知度が上がった。とはいえ、RSS標準化はなんだかな状態になっているので略語の解説すらできない。が、現状はとくにRSSのサマリー機能などが生きているわけでもないでこんなものだろう。
 技術的にはRSSのベースになるRDFが重要だが、ちとWeb上の用語事典をひいても要領を得ない。用語の直訳に肉付けて「提供する情報についてのメタデータ表現方法の枠組み」ということくらいか。ま、そんなところ。
 バーナーズリーがNeXTファンから出てきたように、RDFも歴史的にはApple由来なので(*1)、このあたりの80年代テクノロジーは歴史的に整理されたほうがいいが、オントロジーを含め、山形浩生にはできても浅田彰では無理だろう、ってな冗談をさておき、山形もチョムスキーのことなどまるで知らなかったようなので、言語学や言語哲学的な素養はなさそうだ。なんとなくだが山形はよしもとばななようにバロウズ(William S. Burroughs)に傾倒するからというわけではないが文系的な人なのだろう。センター試験以降の世代の文系/理系の対立はどうも表出差だけのようは文系のような気がするがと余談が長すぎ。それにしてもなぜ「バローズ」じゃないのだろうか。
 RDFのApple起源だが、MCF(Meta Content Framework)になる。日本ではどのように解説しているかこれもWeb上の用語事典をひいて要領を得ない。なんだ? それに奇っ怪なのだが、どの解説もcontentをcontentsとしているなぜなんだろう?って疑問に思うまでもなく孫引きのようだ。Webの情報というのは、てめーのことを棚に上げて言うと孫引きばっかでそれが実体化するというオントロジーがありそうだ、というのは話が端折りすぎ。MCFについては、An MCF Tutorialに詳しいが、こんなうち捨てられた技術に関心を持つのは私のような歴史家だけである(嘘)。MCFはNetscape Communicationsが買い取り、その後HTML同様XML化されて1999年2月にW3C勧告となった(*2)のだが、今の時点で振り返ると、HTMLは出来そこないのSGMLから出来たみたいなものだが、Netscape CommunicationsはMCFベースのHTMLを考案していたのではないだろうか。Webの歴史の定説はただ孫引きの実体化では?とも思うが、いずれにせよ、RDFがHTMLを食い破って復活しそうというわけだ。
 RDFはデータベース的に見て便利だが、さて、オントロジーとなると、そんなもの要るのか疑問な感じがする。悪態をたれると、あの馬鹿な認知心理学者や人工知能学者がマシンベースで博士論文でもふかそうっていうことかトホホ、君たち懲りないねという感じだが、それでもシソーラス程度のオントロジーの仕組みはWebに欲しいというのはわからないではない。
 と急いだが、オントロジーとはふざけた命名だが、提唱者っぽいTom Gruberは"Short answer: An ontology is a specification of a conceptualization. "と簡素に言っているので、意味はわかりやすい。概念の定式化とでも訳そうか。なぜ、「オントロジー」かという由来はよくわからん。


The word "ontology" seems to generate a lot of controversy in discussions about AI. It has a long history in philosophy, in which it refers to the subject of existence. It is also often confused with epistemology, which is about knowledge and knowing.
 In the context of knowledge sharing, I use the term ontology to mean a specification of a conceptualization. That is, an ontology is a description (like a formal specification of a program) of the concepts and relationships that can exist for an agent or a community of agents. This definition is consistent with the usage of ontology as set-of-concept-definitions, but more general. And it is certainly a different sense of the word than its use in philosophy.

 ま、哲学も知らない馬鹿が洒落で付けたということのようだが、"the subject of existence"という西洋人の発想に起点がある。これについては、私はうんざりするほど解説できるのだが、うざいのでパス。ただ、ちと関連で言うと、最近流行の「クオリア」についても結局は存在論に還元され、言語哲学的にナンセンスになるだろうと私は考えている。「りんごのクオリア」というとき、「りんご」という名辞を超越的に(外在・実在的に)措定できる阿呆でなければ、「りんご」の意味の充足はまさにその「クオリア」の集合にならざるをえず、なのにクオリアというのは個人の命名しがたい感触にして脳内のネットワークという洒落なので、結局独我論的な閉鎖でしかない。そこからは他者に通じる名辞としての「りんご」はどこからも発生しない。結局この問題はクオリアというのは「りんご」による言語ゲームの表出の一つであり、ま、こうしたネタで哲学的なエッセーを書くというライターの飯の種でしかない。と、くさし。
 「オントロジー」という洒落はどうでもよいが、分野としては、認知心理学者や人工知能学者の残党などに継承されているのか、工学的にはそう無意味でないツラはしている。わかりやすそうな「オントロジー工学:チュートリアル」を読むと、懐かしくてサイモンとガーファンクルじゃねーや、カッツとフォーダー(Katz&Fodor)(*3)でも歌ってしまいそうだ。"The structure of a semantic theory"(1964) 。古いなぁ。東京オリンピックだ。1957年以降の生成文法史の学習なんて知的廃棄物の山なんで、若い人たぁ、こんなもの系統だって勉強する必要はねーよとこれまで私的に言ってきたものだが、どうも了見が違うな。この廃棄物の山に埋もれて死んだ私のような屍を見せておかないと、つい装いを変えて再利用ってなことになりかねない。環境保護のリサイクルはいいけど、古典に裏付けのない工学的な知識の再利用は虻みたいなのが集まるだけだよ、とくさしだか嘆きだか自嘲だか。
 「オントロジー」なんて、なあんてことない生成意味論をマシンインプルメントに焼き直しているだけじゃんか。くだらないもほどがあるぜ、と思うけど、認知心理学者や人工知能学者の馬鹿たれどもはGB理論時代にprologでrewriting grammarのインプルメントをやっていたから、ま、理系っていうのはそんなものかと、くさす。が、なんとも荒涼とした風景だな。20年後にはミニマル主義理論の格整合性フィルタリングとかがインプルメントされるのだろう。とほほ。音声認識や自動翻訳すらできないのにタメのモデルはできるのだ。
 話をティム・バーナーズ・リー提唱のセマンティックWebに戻すと、ここでは、"Ontology vocabulary"とヘンテコな英語だが、それでも謙虚に「語彙」に着目していることがわかる。「オントロジー語彙」ということで、ようはシソーラスに徹していくわけなんだろうが…その先がちとわからん。
 「オントロジー語彙」になぜOWL(Web Ontology Language)(*4)が必要なのだろうか?という疑問を投げかけると、先日の電子メールは手紙かのように、法学の考え方が理解されていないってなことになるのだろうか。もちろん、オントロジーの定義通り、a specification of a conceptualizationなのだから、そのspecificationに言語が必要なのはわかる。わからないのは、実際論だ。たとえば、サンプルコードをみるほうが理解しやすいので、こうだ。

<owl:Class rdf:ID="Pasta">
<rdfs:subClassOf rdf:resource="#EdibleThing"/>
<owl:disjointWith rdf:resource="#Dessert"/>
<owl:disjointWith rdf:resource="#Fruit"/>
</owl:Class>

 Pasta(パスタ)クラスは#EdibleThing(食べ物)サブクラスで、#Dessert(デザート)まは#Fruit(フルーツ)とは異なる、というのだが、おまえ、阿呆? もちろん、サンプルなのはわかる。だが、こんな話ではディオゲネスは樽の中でいびきをかいているだけだ。私の疑問は、これっていうのは、現在のRSSがマシン出力であるように、OWLもマシン内部の問題ではないか。たとえば、_| ̄|○でぐぐるとヴィルヘルム・レームブルックの彫像が出てくるように、シソーラスはマシン内で勝手にやればいいのではないか。繰り返すが、Googleのように現実のマテリアルを使って、ディスクリプティブなシソーラスを作り上げるアルゴリズムを開発すればいいだけではないのか。
 ティム・バーナーズ・リーのモデルだと、未仕様とはいえ、「オントロジー語彙」の上に、Login、Proof、Trustと載せているが、このあたりは、悪しきチョムスキー主義者たちの弊害のような気がする。といっても、反米テロを支持するわけじゃないがってな洒落はさておき、実際のところチョムスキーのSyntaxとはモンタギュー文法(*5)の命題の記述、つまりLogicとほぼ等価だ(違うって言われそうだがね)。Proofはようするに真理値(またはmodal)になるだろう。Trustに来て世界知識となるのかもしれない。ま、空想めくが、それでもこのスキームに潜む真理探究の臭いがれいのユニーバーサリズムと同様に宗教臭くてたまらない。ゲド戦記の世界にはドラゴンが存在する。それをOWLで記述されてはたまらない。人間は死後復活することすらできなるではないか。
 もちろん、そんなことは言いがかりだ。冗談である。冗談でない点だけ言って終わりにすれば、シソーラスなどは特定の企業の情報サービス出力のリソースでいい。W3CがOASISにタメはるのはいいとして(ご勝手にどうぞである)、この手の研究に国が金を注ぎ込むのは無駄だと思う。

注記
*1:エージェントの開発にリキ入れていたビルアトキンソンBill Atkinsonがかんでいたか。
*2:http://www.w3.org/TR/NOTE-MCF-XML-970624/
*3:Katz, Jerrold J. and Jerry A. Fodor
*4:http://www.kanzaki.com/docs/sw/webont-owl.html
*5:http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~tonoike/semantics.html

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2003.11.28

韓国の歴史は五千年かぁ(嘆息)

 昨日の東亜日報の社説を見ていたら「高句麗が消えた」(参照)とあり、「高句麗」という呼び名は変だなと思って読んでみた。変だなというのは、高句麗という呼称は日本史の用語ではないかと思っていたからだ。もちろん、翻訳の彩かもしれないのだが。
 話を読んで、正直なところぶったまげた。うっ、これがマジなのかぁという感じだ。ことの説明は私がヘンテコにまとめるより引用から進めよう。


世界の有名インターネットサイトが、韓国の歴史の起源を、新羅が三国を統一した時点にあたる、西暦668年として紹介しているというニュースだ。民族的な憤りとともに恥ずかしさを覚えずにはいられない。檀君王倹(タングンワンゴム)から始まった5000年の歴史が、僅かに1300年あまりに縮小され、歴史上、我が民族の最も誇らしい国家だった高句麗が、一瞬にして「消え去った王国」となったわけだ。

 率直にいってそのサイトがどこなのか知らない。しかし、韓国の歴史の起源を新羅による統一とすることはそれほど間違った見解だとは私は思わない。ただ、そういうためには、日本の起源を近江朝に置くとしなければフェアではないが。と、いいつつ余談だが昭和天皇は天皇家の成立を七世紀と認識していたし、今上天皇も同じように考えているようだ。天皇家に「と」が入っていないというのは国民として助かりますですぅ。
 ぶったまげたのは「檀君王倹五千年」である。え?マジ?東亜日報って北朝鮮の報道機関? それって確かに「紀元は二千六百年(歌ってしまいそ)」より古いですなぁ、って洒落にもならん。なんか、そんな話を新聞社説に載せるようだと、およそ対話の前提もありません。すごすごと引き下がる耳(のみ)っていう感じだ。まぁ、韓国の国定教科書にも檀君が歴史のように記載されているのは知っているのだが、それってマジとは思ってなかったのですがねぇ。
 というわけで、檀君に至っては議論の余地もないのだが、話は別展開で面白い。

中国は最近、高句麗史を中国史の一部に編入するため「東北工程」というプロジェクトを進めている。5年間莫大な予算をかけて、高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中原の政府に代ってその地域を委譲、統治した割拠政権であったということを立証するというのだ。中国は、昨年ユネスコが北朝鮮の高句麗古墳を世界文化遺産に指定するのを妨害し、高句麗が満州一円を掌握したことを立証する決め手となる「物証」の、広開土王(好太王)碑と、集安一円の高句麗古墳に対する大掛かりな整備に乗り出したのも、この事と無関係ではないだろう。

 ほほぉっていう感じだ。「高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権」のどこがいけないのだとかツッコミそうなるが、ヤバイのだろうか。って、ヤバイってことになったら学問の自由は無いぜ。中国側の歴史解釈なんか別にほっとけばいいじゃないかと思うが、檀君が許さないのか。高句麗史を明確にすることは中国に恥かかせることなんで、そのあたりにキリ入れたほうがいいと思うのだが…。
 他にも知らなかったことがある。

学界もまた、この20年間1000本を超える論文を通じて高麗と渤海史を中国史と主張してきた中国に対応して、十分な史料の発掘と対応論理の開発を急がなければならない。

 そりゃ中国がむちゃくちゃ。
 古代史なんて日本だと「と」と無能な学者のたまり場だと思ったけど、いやぁ日本ばかりじゃありませんねぇとくさしてどうする。
 それにしても参ったなぁという感じだ。政治的に見れば、この動向は「太陽政策」の一貫というか、北朝鮮との民族同一化の布石なんだろう。なんであれ、こいうこう国政を反映する歴史観はいただけませんな。済州島の歴史なんかも実質見向きもされていないのではないか。私も一度きちんと古朝鮮についてまとめたものを書いておいたほうがいいかもしれない。

[コメント]
# shibu 『「私も一度きちんと古朝鮮についてまとめたものを書いて」』
# shibu 『上記、是非、お願い申し上げます。散見しますに、擦り寄ったのしか見かけませんのでw』
# shibu 『金泳三かな、ニヤついた地場お面おやぢ。次ぎが遺物的大中。シノ雑貨屋がおんなじ屋号だね。挙句に投票直前のネット効果だとか言われて、ジャガイモのむひょぉ~。民主化の結果なんかじゃなくって、両班党争先祖帰りだ!ってな解説みました。直後の朝ナマで、貧相正直もんの山本一太が「全然予想外でした!」ったら、例のキモイ生姜東大政治学きょうじゅ殿が、ニヤリと予想通りですとかほざいたのには呆れ返りました。東大政治って、そんなもんだったっすか~w』
# shibu 『高句麗・渤海VS小国家群・三韓のようで、大陸に属する半島根元と所謂半島は根本的に違うのではないでしょうか。現金王朝だって始祖は擬似チャイナでシナ語で教育受けて育ってるし、二代目は極東ロシアで生れて育ってますものね。親父はチャイナ訪問時が寛いでるみたいだし、息子はチャイナじゃむっつりロシア行ったらニコニコしちゃってるじゃないですか。あれって言葉のせいでしょうね。育ちは偽れませんですね。つまり両人とも白唐辛子wというか「同一民族」なんかじゃ決してないんで、「ソウルを火の海?まぁさかぁ~」ってな韓国側の勝手な思い込みは相当危険水域でしょう。間合いを取った在韓米軍はそんな勝手な思い込みに冷水を浴びせたのでしょうね。瀋陽軍区は緊張してるはずです。大連上空は毎朝昼戦闘機が低空飛行しておりますね。外地暮らしはその意味でもいい経験です。』

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韓国のトホホに同情する

 ちと古くなったが26日の朝鮮日報社説「国がここまで上手くいかないなんて…」が不謹慎ながら面白かった。
大統領が自分の側近不正を捜査する特別検事制法案を拒否したことで、野党代表が抗議の断食に突入し、国会が全面麻痺状態に陥った。そうでなくとも生活の苦しい国民としては、「国家がここまで上手くいかないなんて…」との嘆きが自ずとわき上がるほかない状況だ。
 最近の大韓民国は本当に「めちゃくちゃ」としか言いようがない。
 として次の諸点を挙げている。


  • 在韓米軍問題
  • イラク派兵
  • 労使間葛藤
  • 自由貿易協定(FTA)と農民問題
  • セマングム
  • 京釜(キョンブ)高速鉄道の金井(クムジョン)山区間
  • 北漢(プクハン)山トンネル
  • 行政首都移転問題
  • スクリーン・クォータ制度
  • 扶安(プアン)問題
  • 大学入試の公信力をめぐる危機

 こうした問題のいくつかは私はわからない。しかし、かなりわかるなぁという感じがする。むしろ、これらを問題として国民が困惑しているようすはそれほど悪いものではない。もっとも、朝鮮日報が韓国大衆の思いを反映しているとも思わないが、それでも問題の提起の仕方は、国内問題ばかりにスキャンダラスに見つめている日本よりましな気がする。次のような日本観は日本人には意外だ。

 国だけがこうであって、世界の事情は全く違う。米国は第3四半期の成長率が1984年以来最高を記録し、日本は10年続いた不況を抜け出した。中国は成長率が極めて高く、縮小発表したとの疑惑まで取り沙汰されている。

 日本は不況を抜け出したと聞いて、驚く。統計的な指標からはそう対外的に見えるのかとも思うし、日本の台所までよく知っている韓国ならそう言うはずもないのにとも思う。
 いずれにせよ、こうした問題の多くを朝鮮日報は国政の問題としてる。

本当にもどかしいのはこれら問題のうち、そのほとんどは政府の不手際によるものだという事実だ。

 そういう面もあるかもしれないし、そのトホホ感は日本も同じなので同情するしかない。だが、大枠では世界状況の反映と見ていいので、そうした点について韓国は国政に目を向けすぎてもしかたないだろう。日韓で協調しあえる部分を強化しつつFTAなどの問題に取り組めないかとも思う。

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産経新聞さん、ポチ保守ではいられないよ

 産経新聞を読んでいると小林よしのりが「ポチ保守」といったことがよくわかるなと思う。それでも曾野綾子と高山正之の話が読めているうちはよかったが、合理化やデジタル化を進めていくうちに、あれ?内容も劣化しているじゃんかと思った。台北でも読める日本の新聞だったが、なんだかなこりゃダメだなと思った。
 のっけから脇道にそれる。多くの知識人は小林よしのりを右傾化を甘く見つもって馬鹿にした。が、ざっとみても全滅だった。かく言う私も、小林よしのりに傾倒はしない。批判的立場かというと、どっちかというとそうなる。なにせ、彼の歴史認識、特に日本の国家起源の神話解釈は大間違いでその上に国家観が成りっているという古色蒼然には辟易とする。彼の愛する「日本」イメージは近代化の疑似物に過ぎない。だがそれでも、白黒つけてくれと言われたら、私は小林に与しよう。それに加えて、最近の「ゴーマニズム宣言SPECIALよしりん戦記」を見ても、特にどういう印象もないが、冒頭の小児喘息の話だけは深く共感している。私事だが私もそうだったからだ。私については彼ほど元気に生き延びた感じもしないが、とにかく生きてきた。この思いは率直に言って同じ経験者でないとわからない、という意味で小林よしのりを深く支持するだけだ。もちろん、そんなことは言うべきことじゃあない。なのにそう言ってしまう私は孤立して暴走しているのであり、小林もそうなのだろうなと思う。
 話をポチ保守に戻す。今朝の産経新聞社説「駐留米軍再編 抑止力への悪影響避けよ」はポチ保守のトホホが極まった。端的に言って、「在日米軍さん縮小しないでね、お願いだから、うふっ」というのだ。もちろん、この在日米軍縮小という大問題を社説で取り上げたという点は評価したい。日本人が在日米軍を無視して生きていること自体問題だからだ。
 在日米軍は日本を未だ占領下におくためのものだ。今でも白人は日本人を怖いと思っているから、そうじゃないと日本の首に匕首を突きつけてくださっているのだ。もっとも、それがなければどうなっていたかという話もあるし、ポチ保守が現実主義なのだというのもわからないではない。また、小林よしのりはアイビー出の本格的な米国のインテリを知らないから米国の真の怖さを知らない面もある。もっとも知って田中宇みたいになってしまうのもなんだかなだけど。あいつらの頭の良さに向き合うなら二歳から千字文を書き、四歳で四書五経を読み、六歳で「葉隠」を読むという素養が必要だろう。話がいつのまにか冗談になってしまった。
 問題はこうだ。問題を明確に書くという点で産経新聞は朝日新聞より明確に優れている。


 ブッシュ米大統領が世界に駐留する米軍の配置見直し協議に着手するとの声明を発表した。対テロ戦争に迅速かつ柔軟に対処するため、在外の米軍兵力を変革・再編すると同時に同盟国の役割の拡大などを求める内容になるとみられ、日本の安全保障にも大きな影響を与えるのは必至である。

 これは事実と正当な推測だ。だが、その先、その編成変更に日本が及ばないと主張しているのは変だ。以下の話は、表層的にも変だ。

 約四万人の在日米軍の中核は、沖縄に駐留する約二万人の第三海兵遠征軍など、機動性に富むため、在韓米軍見直しとは一線を画すとみられる。
 だが、国防総省が駐沖縄海兵隊を豪州に移す案を検討と米紙が報じている。一方的な米軍の抑止力低下は日本の安全保障の根幹を揺るがしかねない。北朝鮮の弾道ミサイルなどの脅威に対し、在日米軍は、自衛隊が持たない「矛」の役割を担っているだけになおさらだ。沖縄の負担軽減とのバランスをいかに取るかである。

 率直に言う。「在韓米軍見直しとは一線を画す」のはソウルが火だるまになったとき、米兵を巻き込まないためだ。そして、在沖米軍を含め今回の東アジアの戦力見直しは、冷戦終了時に既決の事項だった。ぐずついたのは、北朝鮮問題と将来的な中国との問題(つまり台湾問題)が背景にあり、そんなおり沖縄が暴走したのでさらにぐずったというだけだ。北朝鮮の現状は大きな問題だが、米国が死守するほどの意味はないと判断されている。戦争になっても北朝鮮の勝ち目はない。問題はソウル市民が大量に殺戮され、中国と日本に大量の難民が流れ込むことだが、このあたりで米国は困るか。困らないんじゃないのぉという冷酷な判断なのだ。
 台湾問題は大きいし、日本をあまり痛い目に遭わせると、経済的に米国への貢ぎ君の機能がへたるのでそのあたりのバランスは難しい、というのが米国の本音。
 現実をどう日本の国益に利益誘導するかは、端的に言って日本側の軍事の問題じゃない。軍事オタクは要らん。日本の自衛隊は所詮戦時に米軍の末端でしか機能しない。米軍下に組み入れらるのだから、日本が軍事面で議論することは畢竟末端の戦略にしかならない。
 問題は日本の政治だ。このあたりの問題を直感的に把握して大局でさばけるのは小沢しかいないと思うし、小沢には最後に泥をかぶってお国への勤めをしてもらうしかないだろう。国難を円満に解決することなど不可能だということをハラから認識している政治家でなくてはダメだ。
 日本を守るのは、日本の経済力だし、それを眺望的な国家戦略で動かせるのは政治であって軍事ではない。今、政治的なメッセージを国外に向けるよう示唆することが本来の産経新聞の社説でなくてはならなかったはずだ。

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ブラジルとFTAを結べば道が開ける

 今朝の朝日新聞社説「米貿易政策 ― 保護主義が忍び寄る」はまたまた変な内容だった。なにも端からくさしたいとは思わないし、なにより、相手が何を言っているのかくみとらないことには話にもならないのだが、どうも朝日新聞の社説は表面的な言葉遣いの印象とは異なり、韜晦極まる。なにが言いたいのだ、という感じだ。
 とりあえず理解の基本は、朝日新聞っていうのは左翼と反米という筋を抑えておくと八割がたその誘導なので、読み取ってもとほほになる。が、そうでもないことも最近はある。この社説でも基本は反米のようだが、まず、保護主義はいけないとしているのは確かだ。


米政府内では、こんどは来年秋の大統領選をにらんで、WTOの決定を無視してセーフガードを継続する案や、ダンピング(不当廉売)に切り替えて高関税を維持するべきだといった主張があるようだ。
 ここは輸入制限を撤廃し、米国がいつも主張しているように競争力のない企業は市場から退場させるか、国際的なルールにそった再生の道を模索すべきである。

 しかし、そんなお説教をたれても米国は聞かないよ。朝日新聞はいつまでも何様のつもりでいてもその議論は無意味だ(ま、他人事じゃぁないけどね)。ようは、米国がWTOを無視する政策転換を始めたという現実があるだけだ。
 米国のFTA、FTAAについても同様。

米国が、自由貿易協定(FTA)を都合よく使うことで、特定の国や特定の製品についてだけ「自由貿易」を進めようとしていることも、憂慮すべき動きである。
 先頃開かれた米州自由貿易地域(FTAA)を設けるための会議でも、米国は農業保護などが続けられるような枠組みで妥協し、「一品料理だけを選ぶアラカルト政策」と批判された。

 それもただ現実なのだ。ご意見無用。事実を認識したい。だが、この社説は以上の流れとは唐突な結語になる。

メキシコとのFTA交渉が日本側の農産物保護でこじれているなど、「忍び寄る保護主義」は米国に限った話ではない。
 しかし、米国が進める対テロ戦争の鍵を握るのは、テロ組織の土壌となりがちな途上国を味方につけることである。米国がいまのような貿易政策を続けるなら、外交・安保でもますます孤立し、国際社会が求めているテロの封じ込めという目標は遠のいていくだろう。

 あれ? 朝日新聞は日本の農産物保護には否定の立場なのか。それまで米国を非難していた話の筋はどこに行ったか。ま、いいや、とにかるグローバルに保護主義はいけないという建前のお作文なのだ。でだ、なぜここにテロが出てくる? 落語の三題噺かよ。のわりには話がひどい。どうして、現状の米国貿易政策が途上国を離反させ米国の孤立を招くのか? 前回のカンクン会議の悪玉はインドとブラジルだろう。米国は悪玉というよりフカシ決めていただけだし、NTFTAからFTAAという孤立を避ける道に進んでいるではないか。とま、こんなこと言うだけ無駄だろう。
 そもそも朝日新聞のように天から振ったような正義のWTOをかかげても意味ないという状況になったことを日本は認識したほうがいい。
 というわけで、このところFTA問題について考えることが多い。日本はどうなるのかと心配だからだ。以下はちょっと別の話なのだが、ここにくっつける。
 そうしたなか、今週の日本版ニューズウィーク12.3「国際経済 9年たっても不自由貿易」を読みながら、別の視点に気が付いた。これまでなんでこんなことに気が付かなかったのだろう。ブラジルである。
 同記事はべたな翻訳なので日本のことは書かれていない。日本版の編集はへなちょこなのでこの問題と日本についての関連コラムなどはない。記事の要点は、FTAAがうまくいかないというだけだ。
 FTAA(米州自由貿易圏)については基本的な解説をすべきかもしれないが省略する。ようはFTAAはNTFTA(北米自由貿易協定)を南米にまで拡張したものだ。NTFTAの米加墨3国を南米にまで拡張し、EUや中国に対抗する一種のブロック経済構想と言ってもいいかもしれない。
 FTAAがうまくいかない理由を同記事では、ブラジルのせいにしている。そう、言うまでもなくカンクン会議をぶちこわしたブラジルである。つい、以前カンクン会議について触れたときはブラジルを夜郎自大に見てしまったが、このつっぱりはいいのではないか。つまり、日本は裏でできるだけブラジルに接近しておいて、FTAAをひっくり返してやるという国策は可能なのではないか。うまく行けば、FTAAのメキシコを動揺させることもできるので、その間にメキシコとのFTAを進め、さらに南米へと展開すれば面白い…というのは空想が過ぎるだろうか。
 南米というと遠いが、とにかく日本を孤立させないようにすることが先決だ。しかもこれからの日本は米中間で賢く立ち回らなくていけないのだから、できるだけ反米・反中国の芽を密かに育てていく必要があるだろう。
 アジア域でインドとマレーシアを取り込めば、単に日伯の2国FTAということではなく、もっと広がりの可能性もでるだろう。これをうまく育てれば太平洋をまたいだマハティール構想を復活させることもできるかもしれない。
 と、どうも空想が暴走するが、いずれにせよ、ブラジルが日本にとってキーになりうるという認識はそれほど空想ではあるまい。
 もっと日系人に日本での活躍の場を与え、ブラジルと日本の絆を深めていったらどうだろうか。そう思ってネットを見るとあながち空想とも思えない情報もあった(参照)。

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2003.11.27

2003年問題、井上和香、SHIHOなど。

2003年問題はどうなったのか?
 2003年問題というのが昨年騒がれていた。2003年にオフィスビルが多数完成しオフィス面積の供給量が増えるが、需要は増えないので、オフィスの空室率が上昇し大問題になる、というのだ、さて、2003年は終わらんとしているのでどうなったのか。どうも話題が立ち消えになっているようなので調べてみて落胆。糞ぉ、そんな問題始めっから無かったんじゃんか。「2003年問題 読売@マネー」が参考になった。

井上和香って誰?
 どうも最近、あちことで見かけるCGのような女性がある。最初はCGだと思っていたが人間らしいので、調べたら井上和香というらしい。「いのうえかずか」と読んでいたら、笑われた。しかし、一文字変えると神田外語大学名誉教授の「井上和子」になるのに。

SHIHO
 ananの表紙にオールヌードが掲載されていた、どっかで見た顔だな、誰だろ?なんだろ?という感じがしたので、文春・新潮と合わせて買う。SHIHOというらしい。調べてみた。1976年生まれっていうと27歳。え?これが27歳。身近の女性に何歳くらいに見えると聞いたら、26歳と言っていた。女の目っていうのはすごいものだ。ついでに村上春樹の連載がなくなってからのananはどうなっているのかとめくってみると、パソみつのみっちゃん、マガジンハウスお得のしりあがり、まついなつき先生とそうそうたる古色蒼然、くらたまもいる。なんだこれ?と思ったが、編集者がけっこう歳食っていて、読者層も30歳台に接しているということかも。

ブスのくせに
 週刊文春のうさぎさんのエッセイが最近になく良し。もうこれ打ち切ったらと持ったのだが、面白かった。中村うさぎの言うように「ブスのくせに」っていう非難はすごいものがあるよな。こういうあたりまえの真実をずばっと言う人がうさぎさんしかいませんね。

こいすちょう流
 文春ネタ。毎回楽しみの高島先生(高島俊男)のこいすちょう流が爆笑だった。高島先生、世の中に「声に出して読む日本語」なんて本があるのは知らないでしょうね。ひどいもんですよ。

ラフマニノフ・メモリーズ
 BSでやっていたもの。ラフマニノフの音楽から伝わってくる感じがよく表現されていた。色々思うことが多かったのだが、簡単には書けそうにない。

在韓米軍は縮小
 中央日報「『在韓米軍は縮小、韓米首脳がすでに議論』米国」が興味深かった。


これに伴い、在韓米軍3万7000人を含め、日本・グアムなどに配置された北東アジア地域駐留米軍およそ10万人と、ヨーロッパ・中東の15万人(イラク、アフガニスタン配置兵力は除く)など海外駐留米軍25万人に対し、大規模な改編が行われることが予想される。

 在沖米軍も編成が変わるはずだが、国内ではほとんど話題にならない。

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「1兆円論議」はなあなあで終わり、三位一体改革は失敗するだろう

 朝日新聞社説「国と地方 ― 1兆円は初めの一歩だ」で三位一体改革の一貫として小泉首相が地方向けの補助金を1兆円削減せよと指示したことを扱っていた。社説というのはある程度割り切って書かなくては話にならない。そこで、朝日は話の仕立て上、霞ヶ関を悪玉としてみたという趣向なのだが、話はそううまくいくわけもない。結語はうまく締めくくられているかのようだが、よく読めば支離滅裂だ。


地方交付税の特別会計は48兆円の借金を抱え、返すあてもない状況だ。国の税収が歳出の半分しかない時代に、これまでの仕組みは続けられまい。自立を果たすには、地方も痛みを避けて通れないのだ。
 いまの「1兆円論議」で、三つの課題をきちんと実行できてこそ、三位一体の改革は最初の一歩を踏み出せる。その先に、補助金や交付税で霞が関の官僚と地方自治体がもたれ合っている現状から脱する道が見えるはずだ。

 くさしてもいても仕方がないので支離滅裂さを明示しよう。

  1. 地方交付税の特別会計は事実上破綻している
  2. ので現状の地方交付税の特別会計の仕組みは継続できない
  3. ので地方交付税の特別会計を改革しなくてはいけない
  4. 改革とは自立である
  5. 自立には地方の痛みがともなう
  6. 国の補助金(税金)を狙って官僚と地方自治体がもたれ合っている現状がある
  7. もたれ合いを脱しなければいけない。
  8. もたれ合い脱すれば三位一体の改革は最初の一歩を踏み出せる
  9. だが、それ以前に今の「1兆円論議」で三つの課題をきちんと実行しろ

 冗談を書いているのではない。もともと朝日の主張が支離滅裂なのだ。
 と、言う前に「三つの課題」がなにを指しているのかが朝日の社説では明示的ではない。たぶん、三位一体の改革の同義のようだ。それではさらに話が支離滅裂になるのだが、三位一体の改革の基本説明にもなるので朝日新聞風にまとめるとこうだ。

  1. 政府が地方自治体をがんじがらめに縛ってきた補助金を減らす。(補助金削減
  2. 行政サービスの地域差を埋めるための地方交付税交付金も見直す。(地方交付税見直し
  3. その代わり地方に税源を移して、自由に使える財源を増やす。(税源移譲

 さて、朝日新聞の社説はなにが言いたいのだろう? できるだけ好意的にまとめるとこうなる。

  • 地方には痛みが伴うということを朝日新聞はずばり言いたくない
  • 官僚と地方自治のもたれ合いはいけない
  • 「1兆円論議」を三位一体の改革のひな型にせよ

 くどようだが「官僚と地方自治のもたれ合いはいけない」というのは地方が自立せよというのと同義だ。
 「1兆円論議」とは、「小泉首相が各省庁に削減の数値目標を割り当て、地方向けの補助金を1兆円削減せよ」ということだ。
 もちろんのこと、「1兆円論議」は三位一体の改革の緒戦でしかない。全体はこうだ。改革の総額は20兆円。2006年度までに補助金4兆円を削減。義務教育費などの義務的経費にちては全額、その他経費については8割を地方に税源移譲する。
 朝日新聞の言いたいことをさらにまとめると、こうなるだろう。1兆円論議で官僚は地方に出す金を減らす。そしてその結果地方は苦しくなるががまんして自立しろ。そうずばり言えないのは、官僚に厳しく言えても地方に厳しく言えないからだ。
 なぜ地方に厳しく言えないのかというと、おそらく、そんなこと地方が実現できないからだ。地方の自立というと聞こえはいいが私は無理だと思うし、朝日新聞も無理だろうと踏んでいるからこんな奇っ怪な社説が出てくる。
 朝日は地方交付税交付金の削減にさらっとこう書き入れている。

高い地方公務員の給料や地方単独の公共事業などが十分チェックされにくい仕組みだからだ。

 だが、地方はこの問題でチェックなんかされたくないのだ。地方公務員は地方のエリート層だ。地方単独の公共事業がなくなれば、地方の産業が崩壊する。
 この激震に耐えられるのは財政規模とインテリジェンスをもった大型の地方都市だけだ。その意味で、これを実践すれば、石原都知事はちょっとした国の大統領より強化される。だが、それよりも、現状の多くの弱小の地方は実践できない((http://www.sanin-chuo.co.jp/column/meisou/2003/06/18.html))。だから、合併せよとなっている。
 つまり、三位一体の改革の前提は地方の合併にあるのだ。だが、そうした地方は合併なんかしたくないし、都市民は地方の合併なんか問題にもしていない。
 結局、緒戦の「1兆円論議」でこけるか、これだけクリアしてなあなあで終わるか。私はなあなあで終わると思う。この問題は解決しないだろう。つまり、三位一体の改革は名目は成功して実質は成功しない。そのことは前回の衆院選挙が暗示しているし、結局、回り回って国民の暗黙の合意だからだ。

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2003.11.26

小熊英二に寄せる脱力

 たまたま「小熊英二さんに聞く 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、『これが戦後思想だな』と思った」(参照)をざっと読んで、脱力した。最初に断っておくが、小熊英二を批判したりくさしたいわけでは毛頭ない。と、うんこ投げの防御を張っておく。
 まず、このインタビューなんだろ?と思ったらブントなわけね。もうそれだけで、脱力する。が、ま、読んでみるかぁ。と読んで、さらに脱力。よくわかんないですぅ。
 私は「〈日本人〉の境界」はざっと読んだが、「〈民主〉と〈愛国〉」は読んでいない。大池文雄とかに触れているのだろうか?だったら、ちと読んでみたい気もするけど、「〈日本人〉の境界」の感じだったら、なんか読むだけ無駄だなという印象がある。
 インタビューを読んでさらに、小林よしのりに対抗している部分があるらしいと知ってさらに関心を失う。
 意外に吉本隆明への言及が多いのに不自然というか変な感じもした。ちと引用も長くなるが、こんな感じ。


 吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
 ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
 私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。

 ふーんというか、橋爪が「ひんやり」というのはわからないではないなと思う。くさしみたいに聞こえてはいけないが、「理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。」という論理破綻した独白の本音が面白いといえば面白い。理解することと好きっていうことは違うでしょと、ちとツッコミを入れたくなるが、小熊英二という人は理解する=好きになるというのがけっこう前提なのだろう。それと、ようするにここで彼が独白していることは、「理解できなかった」ということだ。不思議なのだが、理解できなければ、理解できないとしておく、ということはできなかったのだろうか。皮肉を言いたいのではなく、そういうところに小林秀雄流の批判精神はないだろうし、彼がひんやりと扱っている吉本隆明だが、むしろ彼は表層的にパセティックに見えながら、理解できない点を強引にまとめることには禁欲的だ(ま、これには異論は多いか)。
 ちとうかつだったのだが、橋爪大三郎が小熊英二をさらっと引き合いにしている背景は、小熊英二が吉本の「共同幻想論」など主要著作について「まるで読めてないよ、おまえさん」、という諭しの意味合いがあったのだろう。考えてみると、「共同幻想論」を抜きにして語れてしまう吉本隆明ってなんなのだろうという気はする。だが、当時の吉本に思いをいたすと、いずれ70年代安保には関心なかったし、あのトンマな状況に対峙するには、もっと原理的なものへの追及が必要だと感じていたのだ。吉本すらこの状況がトンマなものだ(昼寝していろと言っていた)と理解していたのだから、そういう状況性だけを小熊英二に取り上がられると、往年の吉本ならなんというだろうか。にっこり笑うだけだったりして。
 こうしてみると、小熊英二が捕らえたのは吉本隆明ではなく、「60年代の吉本さんの影響のあり方」という現象なのだろう。だから、それは「吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果」と同義なのだが、そういう認識ができるのは、ある種社会学的な装置の結果でしかなく、装置によってアウトプットは変わるのだから、その装置、つまり方法論をきちんと突っつくと小熊英二の言説というのは意外なほど簡単に壊れるのではないかという印象を持つ。
 と言いつつ、そうした批判にはそれほど関心はない。また、小熊英二のこのまとめ方が妥当でないとも思わない。小林秀雄風に「青年は深く隠れる」と言ってもお笑いにしかならないだろう。
 だから、次の小熊英二の言い方は、明白なパラドックスなのだ。ちと長いが引用する。

 ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
 そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
 だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。

 「吉本さんの文章」とは吉本隆明という存在を意味する、あたりまえだが。それでその存在が誤読されたというのは、装置として矛盾していて、なにも小熊英二の解読が正しいわけではない。もって回ったことを言ったが、ようするに小熊英二が理解できない余剰の部分へのある種の配慮にバイアスがかかっているだけだ。ただ、ちょっとやり口が汚いなと思うのは、「あくまで文学的な次元の話です」とするあたりだ。小熊英二はもしかすると知らないのかもしれないが、昭和天皇が訪米したころのことだ。昭和天皇が戦争責任についてマスコミで問われたことがあった。あのときの天皇の回答を想起すればいいだろう。それに「文学的な次元」こそが政治であったことなど、同じくブントの柄谷行人などが口酸っぱくなるほど言っていたではないか。と、皮肉っぽくなったか、こういう切り口はダメなんだよというのこそ、戦後思想の一つの帰結なのだ。
 とはいえ、話が循環するが、小熊英二の総括がそれほど、社会思想史として間違っているわけでもない。ただ、そのありかたは、彼には意外だろうが、小林よしのりの「戦争論」がそれほど間違っているわけでもないというのと同じことだ。どちらも、超時代的な装置のアウトプットに過ぎないからであり、そこに生きられた歴史存在としての自己が組み込まれていないのだ。
 話は私事になる。私が吉本隆明から人生を変えるほどの影響を受けたことがたった一つある。シモーヌ・ヴェイユを論じる際、彼女の工場日記に触れたところで、吉本はこんなふうなコメントを付けた。知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られるがそれは間違っている。私が27歳の時だ。インテル80186の直接メモリー転送のコードを書いている時のことだ。私は私の知識の滅却にかかっていた。私は人生に失敗したし、無となった。完全に無となるのがいいのだ。生きていても死んでいても大差がなく、あとはただ宮台真司が後にいうような強度だけがあった。とはいえ、私が特別でもなんでもない。多かれ少なかれ人間なんてそんなものだ。
 私はとりあえず自分の知を滅ぼすことを止めることにした。だからといって社会になんの影響があるわけでもない。だが、そうしたときから、社会は私の知の抹殺に刃をむき出したように感じた。そういえば、吉本はこうも言った。人がその存在をかけて生きるなら、たった一本の道しか残されていない。それはほとんど神学だろう。吉本隆明は私の司祭でもあったのだろう。だが、それを信仰と呼ぶにせよ、他に道がなかった。
 政治思想というものがなんであるかはよくわからない。ただ、吉本に支えられて生きてきた人間たちの総括をするには、歴史はまだ成熟していないようにも思う。

[コメント]
# masayama8 『僕は吉本さんを部分的にしか知りません。しかし、かつて親鸞を解読しようとしたり最近では引きこもれと言ってみたり、僕があの人に魅力を感じるとしたら・・・以下のような点です。つまり、人間がきれいなもんであって欲しいが実際はそうじゃない、とすると、あきらめるべきかと自問自答して、あきらめをすぐ近くに発見してしまうのだけど、他の人のようにはあきらめないところ。そういう逆境を踏まえて、あきらめないで議論を進めるべきだと言う立場・眼差しを、かつてのように有力視されるかは別としても、独自に持っているところです。間接的にではありますが今日も勉強になりました。』
# レス>masayama8さん 『masayama8さんの吉本理解に共感する点があります。私の勘違いなのかもしれませんが、「あきらめないで議論を進めるべきだ」という点です。それだけ言ってしまえばひどく単純なのですが、それを吉本や良く語ったと思います。一つは、彼はどのような状況でも語ると言ったことです。彼自身戦中、彼が心酔する人がどのように語るのかと戦後まで傾聴していたと言い、そして、どんな状況でもそういう人に語ってほしいと思ったといいます。その原則を語る側に回った吉本は忠実に実践しています。おそらくそれが知識人の最後の砦なのかもしれないと思います。吉本は昔の話ですが、知識人というのはやめることができるない、止めるなら知識人ではない、知識人はそのまま生きていくしかないというふうに言っていました。私がさまざまな状況で沈黙を強いられるとき、私ももし語れるなら語るべきだろうと思うようになりました。他者が私を知識人として見るかということは、意外に些細な問題です。吉本が最晩年に至り、言い方は悪いのですが、本当にボケてしまいました。そして、恐るべきことにボケながらでも語り続けています。私を含めて我々はそれをつい嘲笑してしまいます。しかし、それを嘲笑するなら、江藤淳のような死しかありません。ボケながら語るなかでしかし吉本は彼がアフリカ的とでもいうようにシンプルに語り出してもいます。神話の領域とボケが混沌としています。冗談のようですが、知識人はあのように神話性のなかに自己解体と遂げるのが自然性なのかとも思います。それは恐ろしいとまで思います。』
# morutan 『極東の人へ/いつも楽しく拝見させてもらってます。/いろいろと学べることが多くて・・ここを見つけられたことのは幸いは、最近の中での「感謝」のひとつとなっています/ところで、少し質問があるのですが・・/いまさら感はあるかもしれませんが・・「知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られる」という箇所についてもうちょっと詳しく教えていただけませんか?/これは、「たとえば単純な肉体労働のようなものをしたくなるときがある」ということでしょうか?それとも、「自分の知識で人が傷つくの嫌になって知を封印したくなる」、というようなことでしょうか?/というのも、最近ぼくもちょっと悩んでることがあって・・/たぶん、知識人とかのレベルでもないのでしょうけど・・』
# レス>moutan 『「知識ゆえの自己滅却」の話を少し補足します。うまく言えないかもしれませんし、この話は悪しき傲慢さが入りがちなので怖いのですが、自分には深刻な問題でした。60年代から70年代までにあった「知識人」という言葉は80年代のニューアカ以降なくなりましたが、あの時代までは端的に言えば「左翼」を意味していました、が、戦後の左翼史が錯綜するなかで複雑な過程を辿りました。ただし、単純に「左翼」とのみいうものではなく、自分などもそうなのですが、高度な教育を受け知識を蓄えたのに、回りの人間(大衆)と齟齬を来たし、それでいてその知識をもって社会に活かすこともできず、また社会に自分の知識を活かすことが悪しき権力への従順に思える苛立ち。大衆の心性のほうに自分よりも優れたものを感じる(特に非知的に純粋な恋愛はきついものです)のに、なぜ自分はそうした良き大衆の一人ではありえないのか?それが自責になって、自己滅却的な行動を取ることがあります。今にして見ればそれは感受性の高い青年にありがちな典型的なパターンで、日本でも非政治的には太宰治や宮澤賢治などがそうですし、70年台以前の左翼的な青年にも多くありました(柴田翔「されど われらが日々」)。自分が強い影響を受けたのはシモーヌ・ヴェイユです。自分を徹底的に隷属的な労働者に改造し、知識の片鱗すらなくなるまでの状況に追い込み、彼女のいう「真空」になれば、この自責から救済される(恩寵)、そうでなければ、世間的な悪や魂の鈍化(彼女のいう「重力」)に落ちるだろう。今思うと、自分では知識と思っていても、単に世をすね、知において成功した人たちへの嫉妬もあっただろうと思います。自分が知識人でしかありえないことは、しかし、そうした自己滅却ではどうしようもないし、気が付くと大衆への敵意の心理もあるのです。私など、恥ずかしい話ですが、世俗的な大衆的な享楽にはほとんど関心がありません。それはある意味でただ、そういう人間なのだというだけなので、ようはただ孤独に生きるという意味で自己を肯定するしかないと思います。歳を取るとすべての面で劣化が進み、世の中とも適当に折り合いをつけるようになりますが。』
# morutan 『極東の人へ/少し、私的な話をして恐縮なのですが、すこし思い出したことがあるので記しておきます/以前、ぼくも徹底的に肉体労働した経験があり(それは金銭的理由だったのですが・・)結果として「言葉を失った」というか・・脳みそが働かなくなって・・実存・・というか自分の生きてる価値を見失いそうになったことがあります。そして・・そのことへの苛立ちが結果的に大切な友人を切り捨てる選択に結びついて・・/だからぼくはせめて言葉を取り戻そうと・・その友人に申し訳が立つぐらいには世界を理解できるようになろうと努めてきたつもりなのですが・・/それも空回りして、最近まで鬱屈した状態が続いていたのです/しかし、いまはなんとか「世界」に還れた気がしています。それは比喩的表現で言えば「一度死ぬ」ってことをやれたからではないかと思ってて・・/前に養老孟司がウチのガッコに来て話していた内容で印象に残ったものとして「人間は学問において、何度か殺される」ってのがあって・・/それは、「それまでの方法を否定した上で乗り越え幅を広げる」とか、そういうやり方で限界を超える、ってことなんだといまでは解釈してるんですが・・とりあえずそういう形でもう一度「世界」に還ってこれたので、世の中を楽しむ・・というか、もう一度「世界」の中で考えていくことに決めました。/自分の知識が少しでも多くの人の役に立てたらと・・いまでは思っています/真摯な対応、ありがとうございました』

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[書評]「文明共存の道を求めて」(高山博)

 先日の甲野善紀の講座と同様、これもNHK人間講座だ。昨日で放映は終わった。テキストはよく書けているのでいずれ新書化されるだろうが、この分野に関心のない人にはあまり面白くはないだろう。NHK放映の講座のほうも、講義メモを読み下すという、ありがちな大学の講義風なので、テレビゆえの面白さもない。
 書籍としてみると、標題のように現代社会の文明共存の可能性を歴史に見るといった趣旨ではあるあのだが、視点はよりグローバリゼーションに置かれいる。それゆえ。ハンチントンの「文明の衝突」も意識はされているものの、文脈が違う。個人的な評価から言えば、ハンチントンの見解は浅薄すぎる。
 あまり肯定的な印象を与えないような話から書き出したが、この分野、特にノルマン・シチリア王国に関心を持つものにとってみると、今回の講座の前半はたまらない面白さだった。シチリア王国は歴史が生み出した奇跡のようでもある。表層的に見ても、ラテン、ギリシア、イスラムの文化の美しい調和が見られる。しいていえば、これは広義のイスラムと見てよさそうにも思うのだ。
 シチリア王国の魅力を象徴する人物はフレデリクス2世だ。現代イタリア語読みならフェデリーコ2世、そして近代西洋史にやられている高校生の世界史的に言えば、フリードリヒ2世となるのだが、これじゃプロイセン王フリードリヒ2世とごちゃごちゃになる。NHK「文明の道」第7集「エルサレム 和平・若き皇帝の決断」では高山の協力を仰ぎながらも、フリードリヒ2世、いや、フリードリッヒ2世で通していた。
 話が横にそれるが、こちらの番組、文明の道7集は、なんつうか、よくできてはいるので矛盾してこう言うに憚られるのだが、まぁ、ひどいシロモノでもあった。話は、「十字軍を批判しイスラム文化を受け入れようとした神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の半生」ということで、武力ではなく交渉によってエルサレムを奪還したのは偉い!というのである。ディレクター岡和子の話がNHKのサイトにあるので引用しよう(参照)。


十字軍の時代、キリスト教の指導者、ローマ教皇は負けても負けても執拗にイスラムに戦いを挑み続けました。片やイスラムの指導者たちは、戦いに明け暮れ、国作りもままならないことに辟易としていました。その時、和平を提案したのがフリードリッヒ2世だったのです。彼の優れていた点は、相手のことをきちんと認めている点にあります。当時の十字軍の兵士はイスラム教のことを何も知らないまま戦っていました。情報がなかったこともありますが、文化も習慣もわかろうともしていませんでした。

 よく言うよと思う。エルサレムが舞台になっているからっつうことで、現代のイスラエルとパレスチナの状況を賢者めかして皮肉っているつもりなのだ。また、ブッシュが9.11のおり「十字軍」ってな阿呆なことを言ったことも皮肉っているのだろう。だが、あのなぁ、歴史ってものはそんな浅薄なものじゃあないよと思う。フレデリクス2世はイスラムを尊重はしたが、シチリア島内で反抗するイスラム教徒など強制移住とかさせているし、ローマとの関係も修復はできなかった。単純に他文化や敵対者を理解すれば、世の中はよくなるのです、ってなわけにはいかない。その点、高山の講義は、抑制が効きながらもところどころ、はっとするような指摘があった。例えば、シチリア王国を考察しそこから文明の共存の条件として(1)人為的になされたこと、(2)強力な権力が存在したこと、(3)人々がそれを欲したこと、としていた。これは何故かテキストにはない。また、最終回でも、国家を越える枠組みについて、さらっとした指摘ではあるが、軍隊の存在を暗示させていた。
 文明の道7集をくさしたとはいえ、確かにフレデリクス2世ほどの叡智が米国にあれば、現代の紛争はと思わずにはいられない。ブッシュではなくゴアが大統領だったら、ちっとはましな世界になったことだろう。だが、そうならないことをフレデリクス2世の叡智に合わせて受け止めることが歴史というものの理解なのだ。中小企業や官僚の人情話をプロジェクトXにするのはいいし、松平定知引退の花道「その時歴史は動いた」も漫談だからいいが、スペシャルでこんな押し付けは話はやめてほしい。
 話を「文明共存の道を求めて」に戻せば、この講座で有名なフレデリクス2世の背景がより重層的にわかるように思えた。特にロゲリウス2世の話は興味深かった。とロゲリウス2世の話は…テキストを読んで貰えばいいか。
 毎度ながら、話がおちゃらけになってしまったが、こう書きながら、ふと悪夢のようなことを思う。フレデリクス2世は教皇権を背景にもっと悪辣に立ち回ることはできなかったのだろうか? やればできたようにも思うが、ある種自分の美学から、そんなことはやりたくもなかったのではないか。空想していくと、足利義政とは違うが、別の意味でフレデリクス2世は美を求めていた不思議な人物にも思えてくる。もともとアイユーブ朝とことを構える気などなかったのではないか。というあたりで、アル・カーミルについてもちと触れておきたいが、このあたりの歴史をもう少し勉強してからにしよう。
 私事だが、10年前だったが、海路でシチリアに渡ろうとしたときちょうど海が荒れていて断念した。いつかシチリア巡りはしてみたいものだ。

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2003.11.25

1970年11月25日三島由紀夫自殺

 11月25日といえば、三島由紀夫が自殺した日だ。そう言ってみて、自分でもふと戸惑うのだが、「自決」とも「割腹」とも言いづらい。確かに思想的に見れば、「自決」だろう。世の中、三島の死に「自決」を冠するのは思想的な意味合いを見ているからに違いない。あの日、佐藤栄作はたしか「気違い」と言っていた(ATOKは「気違い」を変換しないので登録した)。それからしばらくして、そのことを誰だったか、小林秀雄にご注進したやつがいたらしい。その気持ちはわからないでもない。小林ならなんというか聞きたかったのだろう。小林は簡素だが、三島に非礼なき返答したと記憶している。このことは、江藤淳もひかかっていたらしく、のちに対談で小林に問うている(「歴史について」S46.7「諸君」)。


小林 (前略)宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によくにた気象をもった人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしか起きえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないんですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃなんですか。老年といってあたらなければ、一種の病気でしょう。
小林 あなたは病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

 福田和也が師匠と仰ぐ江藤淳の馬鹿さ加減はここに極まれりといったところだ。江藤の若気の至りで済むものでもない。小林は怒りより呆れているのだ。なんだこの馬鹿と思うと同時にある種の滑稽な絶望も感じていたに違いない。江藤のいう「病気」とは気違いということだ。
 もちろん、江藤にしてみれば、なぜ三島の自殺が日本の歴史になってしまうのか理解も及ばなかったに違いない。
 もう少しこの先を引用しよう。

小林 いやァ、そんなことを言うけどな、それなら吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件したってそうです。

 小林秀雄はその死の意義をよく理解しながら、若い日の中原中也の死に向けるのと同様、それ以上三島由紀夫については語っていない(と思う)。かわりに、きちんと本居宣長について残しておいた。それが読み解ければ、三島由紀夫もわかる。気違いでもなんでもない。外国人にはわかるまい。あれが日本の歴史というものであり、思想家の徹底性と純粋性の帰結なのだ、と。
 日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある。もちろん、必ずそう帰結するわけではない。三島が大塩平八郎を読解しながら、どこかで「豊饒の海」のような神秘思想を得ていたのは間違いない。11月25日に死んだのも、小室直樹が解読したように、彼の生年である1月14日を49日とする再生への期待だった。こうしたことはもちろん、狂気に見える。気違いと言うにふさわしく見える。だが、小林は「日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ」と言った。私もそう思う。日本というものが深く私に問いかけてきている。
 私はこの夏46歳になった。うかつにも歳のことはよく忘れる。三島の自殺した日のことはよく覚えているというのに、自分の身体の老いを思えば、三島は50歳を越えられなかったと思い、どこか自分より遠く年上に思えている。太宰治についてもそうだ。彼は39歳で死んだのだ。私は彼らより生きている。
 自分の思考の未熟さも思うが、私の老いは着実に三島の文学や思想を若いものとして反映させている。そう、三島に未熟さすら見るようになった。生きて、老いていくということはどういうことなのだろうか。
 あの日、私は中学1年生だった。友人のOがわざわざ遊びに来た。玄関に出た私は「大変なことになっているんだ」と言った。Oにはわからなかっただろう。次の日の朝刊だったか、読売の一面に司馬遼太郎の解説のようなものが載っていた。思想というのは虚構において純粋になるといった戯けた内容だった。不思議なものだ、日本の歴史の本質も理解しえない大衆作家である司馬遼太郎がいつから憂国の賢人扱いされてしまったのだろう。
 司馬の見解のくだらなさに確実に目を留めた一人の人がいた。イザヤ・ベン・ダサンだ。その「日本教について」で彼は、三島が狂気ではありえないことをきちんと書いてみせた。イザヤ・ベン・ダサンは山本七平だというのが通説になったが、そうだろうか。山本はそれをきちんと共同執筆の名称として自身に著作権がないと言明している。ブルバギ将軍は存在しないと言ったらお笑いなのに、イザヤ・ベン・ダサン=山本七平はまかり通っている。とはいえ、山本にもイザヤ・ベン・ダサンとして書かれたその思いは共通だったはずだ。三島は狂気なのではない。山本もまたそれ以上、三島由紀夫について書いていない。書くにつらかったのではないか。山本が後年、執念をかけて追いつめた崎門は彼が戦地で見た日本教聖人をも生み出した。そう、三島もまた聖人であった。三島が自身を陽明学に位置づけたものを、山本は静かに崎門に押し返し、鎮魂したのだ。余談だが、山本は洪思翊をも鎮魂した。山本良樹は父七平に戦地に神はいたかと訊いた。七平はいたとだけ答えたという。間違いない、彼の魂のなかに神がいなければどうしてこのような奇跡の鎮魂が可能だっただろうか。
 1970年11月25日。あれから何年たっただろう。32年。自殺の衝動すらかかえていた中学生が三島の死の歳を越えるまで生きているとは思いもよらないことだ。
 村上春樹「羊を巡る冒険」はこの日のICUのD館の風景で始まる。同じ日、大森荘蔵の講義に遅刻し、教室に入るや三島事件のこと語った中島義道に大森は、わかりましたとのみ言って哲学の講義を続けた。あの日に生きていた人は、三島の思想とかかりなくではありながら、まさにあの日を生きていた。
 あの日にはあの日にしかない陰影と日本があった。いや、なにかが決定的に壊れていく大きなにぶい音のようなものが日本を覆っていた。

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# junsaito 『教えてください。三島の「死の意義」ってなんでしょうか。「日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある」とのことですが、私(1976年生まれ)にはわかったようなわからないような、です。』
# レス>junsaitoさん 『三島の「死の意義」についてですが、彼自身は、たしかこう言っていました「君たちに命以上の価値を見せてあげよう」と。死を越える価値を示すことにあったようです。また小林秀雄が言う、日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性についてですが、とりあえず、「この国を愛するということに私信無きが故に死を厭わない」としていいかと思います。このことは若いかたにはわからないと言ってしまいそうですが、そうではなく、わかるだろうと思います。簡略した言い方で誤解を招きかねないのですが、「お国のためです、死んでいただけますか」と誠意をもって問われとき、多くの青年が死地に赴きました。悩みもありましたし、理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。こういう話をすると、小熊英二に馬鹿にされそうんですが(冗談)、誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう。怖いことでもあるのですが、美しいことでもあります。「女」については、例えば私は男なので私の「女」を放置してはいけないわけですよ。これは冗談っぽいですが、人はかならずむき出しの男女の関係で生きるのですから、真摯な問題です。』
# junsaito 『解説ありがとうございます。死を超える価値ですか・・・ううむ。  「誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう」とありますが、そういう「日本」が自分には/私には全くないとは証明できないので、その言い方は少しずるいと思いました。「国のため」を、「自分の子供のため」、「難病で苦しんでいる少女のため」と置き換えると少しピクッとしますが。 それと、江藤淳の晩年の『南洲残影』などは、finalventさんの言う『日本』を感じさせますが、どうでしょうか。晩年の江藤淳は三島の評価を変えたと考えていいのでしょうか。』
# レス>junsaitoさん 『「少しずるい」というお答えはその感性の鋭さにびくっとしました。たしかにずるい回答でした。弁解させてください。junsaitoさんのその問いかけに逃げるレトリックをできるだけ弄さないとすれば、こう言うしかないかと考えた結果でした。もう一点、「国」ではなく「子孫」「愛する人」というようにまるでさだまさしの歌のように畳みかけるように「国」を言い換えていくことは可能です。ここで気を付けなくていけないのは、「国」があってそれから子孫なり愛する人、日本の山河、文化あるという発想は逆で、そうした我々が日常愛することを禁じ得ない究極に「国」があるのか?あるいは、そうした愛の究極に「国」を措定することは誤りではないか?junsaitoさんにはピントこないかもしれませんが、この問題は私が悩んだ問題なのでその文脈で考えると、「国」というものが先行的にあるのではないかと。そして、その「国」というのは、「死んでください」と語る人の「誠意」のなか、つまり連帯=愛に現れるだろうと思うのです。立場は逆に私が誰かに「お国のためです。死んでください」と言えるかどうか。小林秀雄が三島はわかりやすいとつい言ってしまったのは、そのあたりをシンプルに理解しているからだろうと思います。晩年の江藤については、私は実は悩んでいます。確かに彼の愛国と歴史への傾倒は素直にいうと傾聴すべき点はあります。ブログではくさしてしまいましたが、司馬についてもそういう点はあります。江藤については、あの死が自分に納得できないというところで、どうしても感性的に受け入れられない。そのことは表向き、彼の仕事とは別なのですが、私は評論家ではなく彼の読者なのでまだ考えつめたいと思っています。そこが自分で腑に落ちなければ、彼の言葉をうまく聞き取れないように思うのです。つまり、わからないという感じです。』
# noharra 『「理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。」そうでしょうか?日本人には徹底性と純粋性があって、911事件の犯人たちにはそれがそれほどないのでしょうか。それに「お国のためです、死んでいただけますか」と言われて中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。』
# レス>noharraさん 『端的に9.11事件の犯人たちの「誠」については知らないので、この点のコメントは控えます。日本軍の行動について「中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。」というときの「無意味に」という評価を私は共有しません。私は日本軍の行動を肯定しているわけではありません。ただ、兵卒というものは命令に従う存在です。人家を焼くこともあります。しかし、そのことは個々の虐殺を肯定するものではありません。基本的に軍規は虐殺を肯定しません。また、虐殺が可能な状況ですら、そこには個人の倫理や良心が問われうる余地が残ることがあります。むしろ、そいう余地を問わずして、兵卒の存在を頭から全否定するなら、結局は人間の倫理と良心の可能性を否定するということになるがゆえに、私はその考えは間違っていると思います。我々もまた国から一兵卒になれと命令される日が来るかもしれません(来るべきではありませんが)。そうなったとき(多くの国ではそれが現実なのですが)、我々はどのように自分の死の可能性を受容できるでしょうか。「お国のためという大義に誠意を見る」以外に、兵卒としての自分の死を了解できるでしょうか。私はそれしかないなと思うのです。また、もとはといえば、こうした議論を三島事件の文脈で語りたかったわけではありません。おそらくnoharraさんは私の発言のなかに危険な軍国主義の臭いを嗅ぎ取られ、それをその危険性ゆえに否定したいのだろうと思われます。』

追記(2004.11.27
年代に間違いがあったので修正しました。ケアレスだったので明示的には修正を加えていません。

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幼児虐待には男が問われる

 このところ、ブームのように幼児虐待報道が続いているようだ。「ようだ」というのは、賢い生命体の比喩ではなく、私自身が詳細にニュースを読みたくないからだ。むごくてたまらない。大きな問題なので社会の問題とすべきだとは思う。それゆえ、朝日新聞社説「児童虐待 ― 危険信号を見落とすな」で、この問題を社会制度の側に押し返そうとすることは理解できないことでもない。このところの悲惨な四事件について朝日新聞社説はこう切り込む。


四つの事件のうち三つは虐待の事実を知った児童相談所の職員が家庭訪問をしたり、子どもを一時保護したりしていた。専門機関がかかわっていながら死なせてしまったことが返す返すも残念でならない。

 つまり、虐待事実は専門機関側でもわかっていたのにというわけである。ただ、これが機能しないことを単純には責められないとして次のように展開する。

とはいえ、虐待への対応の中心になる児童相談所の働きは限界に達している。00年に児童虐待防止法が施行されたあと通報がふえ、02年度の虐待相談の処理件数は2万4千件と、5年前の3倍になっている。
 警察庁のまとめでは、今年6月までの半年間で24人の命が児童虐待によって奪われた。県と政令指定都市が設ける児童相談所は全国に182カ所ある。その仕事の内容や態勢の抜本的な見直しが欠かせない。

 つまり、現状では件数が大きすぎるし、制度も十分に機能できないのが問題だとするのである。そして、解決は次のようになる。

 自信をもって親子の間に割って入り、援助できるような専門職員を増やし、職員一人ひとりが能力を発揮できるような人員の配置を考えなくてはならない。児童相談所の権限強化や司法のいっそうの関与も検討しなければならないだろう。

 私はそれでは解決しないと思う。こう言いながら自分のいつもの主張と矛盾しているとも思う。私は、社会問題は倫理・道徳に還元するのではなく構造的に対応せよ、というのが私の基調だ。その線なら朝日新聞と同じだ。なにも毎回朝日新聞をくさしたいと思うわけではない。
 解決しないだろうなと思うのは、この件について、一生活者の実感があるからだ。まず、ひどいことをあえて言う、公務員は無責任なのだ。そういう職員ではこれほどの難問は解決できない。もっとひどい事を言う。公務員は優遇されていて、いわば日本のエリート層だ。社会の底辺の実態とかけはなれすぎていて対処の感性がない。もちろん、専門職員は公務員に限るものではない。この問題は、情熱のある人材を中心としたNPOに期待をかけることを先決に考えたほうがいい。
 もう一つの問題は、構造的な対処ではだめだろうという直感だ。つまらない言い方だが人間の生き方がもろに問われているのである。
 率直に言うと、幼児虐待とは女が子供を虐待しているということだ。なぜ女が自分の子供を虐待するのか?この問題になぜだろう?と考え込むような人は人生経験が足りなすぎる。女というのは子供をもてば虐待するものなのだ。まさかぁといったきれい事はやめて欲しい。もちろん、例外はある。だが、現実が重視されなくてはいけない。
 以下、トンデモ説に聞こえるだろうと思う。が、書く。女は自傷を外化したかたちで自分の子供を虐待するものなのだ。それが基礎にあるのだ。
 冗談のように聞こえるかもしれないが、女はつねにある種の直接的な性的な権力構造のなかに置かれている。そうした権力を必要としているからでもある。端的な話、つねに社会的な美醜概念を性的な権力への接合としてリフレクトしている。その戦略に失敗すれば自滅してしまう(それがこの権力のオートマティズムである)。あるいは、その直接的な権力構造を緩和することができなくても、自滅する。新しい権力の構図を求めて過去である自分の子供をまさにそれが過去であるかのように消去することもある。
 冗談に聞こえるだろうが、この性的な権力の安定構造は、「父に愛される娘であること」→「男に愛される女であること」→「子供に愛される母であること」という展開になる。どの遷移でも「愛されること」という性的な権力の充足が必要になる。それぞれにおいて、その失敗の像があるが、これらの権力のいわば暴走に対しては、性的な外部からのインターヴェンションが必要になる。難しくいうよだが、幼児虐待のケースでは、端的に男が「やめろ!」ということだ。そして、それの「やめろ!」に必要なのは、男の配慮でも単純な暴力でもなく、女の性的な権力を停止させるだけの男性の性的なメッセージが含まれなくてはいけない。「父性」や「子供への責任」ということではない。男が、まさに男の性として露出することが女の自傷や幼児虐待を止める。
 単なるエロ話のようなことを難しく書いているように聞こえるかもしれない。とんでも説のようにも聞こえるだろうし、あまりこうしたことを書きたいわけでもない。だが、成人の男女なら、難しい性的な権力の構造に巻き込まれるという生活実感はもつべきであり、その生活実感からしても、以上のことはそう理解しづらいとは思えない。
 岩月謙司のことを知識人は馬鹿にするか、香山リカのように困惑するかもしれないが、私は岩月に同意するものではないが、あのような視点はあながち知的に解体はされない。以上の議論にラカンのファルス(phallus)を読み込む人もいるかもしれない。だが、ラカンのファルスの問題は現代の日本の知的な風土ではただ知的な言説のゲームにしかなっていない。現在の一種のラカンブームは、ラカンの提出した問題を若い日の佐々木孝次のように自分の現実に引き寄せては考察されていない。ラカンがフランスの知識人に問題となるのは、知的だからではなく、現実の問題だからだ。
 もちろん、私の論はラカンに依存しているわけでもない。だが、論などどうでもいい。男が問われている、というだけでもいい。
 女は問われないのか。いや、問われているだろう。しいていえば、女の前段である少女が喪失の内在を抱え込み過ぎていることだ。以前、I塾というフランチャイズの塾の社長(女性)が、たしかこういうことを言った…女の人は大切なものを失い過ぎている、それでは子供が愛せない…。そうだと私は思う。宮台真司などは、現在の若い人の恋愛の過剰流動性ということをいうが、その前段には価値の可換性がある。すべての価値が可換になることで、自己を失っているといえば、アナクロニズムかもしれないが、女性の内在側の問題はそこだと思う。自分が本当に大切だったもの(おそらくファルス)が、可換性によって再び手に入るということに駆られているのだ。だが、本当に大切だったものの消失は可換性によっては取り戻せない。それは悲劇であるが、その悲劇を生きるしかないだろう。

[コメント]
# junsaito 『はじめまして。女は夫に放置されることによって、男は社会に放置されることによって虐待に走りやすくなるように思います。』

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2003.11.24

気になるがまとまらないことなど

シュワルナゼ大統領が辞任表明 グルジア
 シュワルナゼは懐かしい名前だと、つい思ってしまう。今回の問題では流血は避けられたようだが、事態の今後の推移はわからない。つい「石油」と考えがちだが、もっと複眼的な思考が必要になるだろう。と、いって、なにかまとまって文を起こせるほどの考えもない。

官房副長官補をメキシコへFTA派遣
 なんか「そもさん、せっぱ」だな。日本は追いつめられているなと思う。メキシコに足下を見られているかぁ。日本国民はこの問題にほとんど危機感持っていない。なぜだぁ。

ノモンハン事件の遺骨収集許可が出る
 そうだったのかとうかつ。3500人の日本兵の遺骨が残っているらしい。ひどいものだ。とも思うが、沖縄戦ですら、実はまだまだ遺骨は収集されていない。ただ、忘れられているのだ。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋社)を残した若泉敬も晩年は狂ったように遺骨収集に当たっていた。狂ったのかもしれない。狂っているのは他の日本人なのに。

デジタル放送
 この話をブログに書こうかちと悩む。馬鹿馬鹿しい話題だよな。

韓国扶安(プアン)のデモ
 これも気にはなるがどう書いていいのかちと迷っている。難しい。

KBS(韓国放送公社)とSBS(ソウル放送)がフジテレビの真似
 中央日報(参照)より。


特定番組に対するひょう窃の是非を抜きにしても、両国の放送の慣行上、初めてこのような事件が起こった事実は注目に値する。 70~80年代の放送業界では、日本の番組をまねるため「釜山(プサン)に出張する」という言葉が公然と知られていた。 こうした風土のもとで育ってきた放送業界の従事者に、日本の番組を模倣することに対する無神経さが、知らず知らずのうちに広まっていることを否認するのは困難だ。

 そういうことなのだ。ちなみに、パクリの代表は「トリビアの泉」らしい。へぇ~62点。
 しかし、こうした現象はなにも韓国だけではない。米国も似たようなものだ。つい、私なども日本の民放娯楽はくだらね~とかぬかすが、実際はほぼ無敵だ。日本は「お馬鹿」において、英米に劣らない「お馬鹿」文化国なのだ。
 朝日新聞など今朝の社説でデジタル放送にからんでこういう。

 番組がつまらない。テレビ局は不祥事続きで信用できない。そんな声も高まるなかでのデジタル化はテレビ離れにつながる恐れもある。視聴者の理解を得ながら課題を一つ一つ解決していってほしい。

 よく言うよな、朝日新聞。

アマゾンを支えるのはロリコン
 他ブログからパクリネタ。ブログ名を書くとかえってご迷惑かもなので、ぼかしておきます。アマゾンの売れ筋情報*2。現在。


1.萌える英単語もえたん
2.週刊わたしのおにいちゃん 第3号
3.週刊わたしのおにいちゃん 第1号
4.週刊わたしのおにいちゃん 第4号
5.週刊わたしのおにいちゃん 第2号
6.週刊わたしのおにいちゃん 第5号
7.加護亜依写真集
8.はじめよう! プチ起業 DO BOOKS
9.バカの壁
10.今日の5の2
11.アミターバ―無量光明
12.得する生活―お金持ちになる人の考え方
13.ブラックジャックによろしく 7 がん医療編 3 (7)

 世も末ってやつだね。もっとも末法は平安時代からだが。
 それにしてもロリだな。パソコン雑誌ネットランナーとかもそっちに走り出したし、パソコン本みたいなものも来年はロリ路線だろうな。
 この手の話題で「旦那はロリコン?」(参照)が面白い。だんなロリコンだったという話、とまとめてはつまらないのだが。源氏物語の世界から日本は一貫してロリコンかも。
 この現象、いろいろ理屈はつくのだろうが、事態は変わらないだろう。

[コメント]
# rucha 『はじめまして。イラク派兵について色々と考えて考えて、やっと出た私の結論を、ものすごくあっさり出されていて、素直に尊敬してしまいました。それと、我が家は左寄りではあるので、朝日新聞を取ってますが、やはり新聞は全国誌と地方誌の両方を読みたいですね。』
# k.n. 『メキシコとのFTAについて私も気になってます。なんで日本はこんなに弱腰外交なんでしょうか。メキシコごときとの交渉にてこずるようでは先が思いやられる。』
# rucha 『弱腰なのが日本の利点です。まあ、ぶっちゃけ、今後、世界は日本的価値観とアメリカ的価値観の融合により、よりあやふやな世界になっていくだろうと楽観しています。』
# レス>ruchaさん 『自分もそうだけど日本人は世界平和を議論するのが好き。だけど、イラク派兵はどうころんでも日本はおミソ(余計)なんだと実感しました。そして世界の国も実際はおミソなんですね。ただ、今後の世界は戦争もハイテクになるので、技術者数がものを言うかもしれません。話変わって、ruchaさんの日記拝見しました。沖縄には大学は、琉大、沖縄大、名桜大、沖国、キリ短(四大化予定)、沖縄女子短、県立芸大、看護大と8つもあります。琉大が国立でないちゃー(本土人)率は50%くらい。へぇ~?』
# レス>k.nさん 『反論というわけではないのですが、恐らく「メキシコごとき」ではない事態なのだと思います。日本はほとんど封鎖状態なので、メキシコは余裕であたりまえのようです。メキシコの後ろに韓国やマレーシアなど多数控えています。軍事では日本はアメリカ寄りとか議論になりますが、もっと重要なのはWHO頼みだともうすぐ日本は干上がってしまいます(というかアメリカの属国化がさらに進む)。むしろ、うまくメキシコをさばいて他の国とうまくFTAをつなげないと、と思います。』
# rucha 『FTAというふうに記号化してしまうと、日本人が得意な「あいまいさ」が加速してしまい、議論するのではなく怒鳴りあいになってしまいます。まず、なにを持ってFTAと言うのか、私に教えてもらえませんか?』
# レス>ruchaさん 『了解しました。ただ、「教える」というほどの知識はありません。次のように私は了解しています。勘違い、間違いなどありましたら、ご指摘ください。FTA:自由貿易協定。特定の国同士や国境を越えた地域の中で関税や輸入制限を原則として撤廃する取り決め。世界貿易機関に報告されているFTAは155個。EUが多い。北米自由貿易協定NAFTAは3か国。私は日本の場合のFTAは暗黙に2国間としています。なお、11.15のブログもご参照ください。』
# k.n. 『日本のおかれている状況が厳しいというのは分かりました。しかし「駄々をこねれば日本は妥協してくる」という前例を作ってしまうと、他国との交渉がもっと厳しい状況になってしまうので、日本にはもっと毅然とした態度をとってほしいです。メキシコとの交渉を打ち切って韓国などとのFTA締結を優先するという選択肢はないんでしょうか。』
# レス>k.n.さん 『いったんメキシコとの交渉を打ち切るという策はありうるだろうと思います。また、親日国家とFTAの既存事実を積み重ねるという方策もあるでしょう。ただ、その場合でもよほどうまくやらないとその結果でさらに足下を見られて悪循環ということになるでしょう。メキシコとのFTAの最大の障害は豚肉でした。それほど豚肉の輸入が国内的に難しいとは私はとうてい思えないのは国内世論の弱さがあるだろとは思います。随分昔の話ですが、石油ショックのような事態にならないとFTA問題は国民的には理解されないかもしれません。』
# wakamurasaki 『源氏物語をロリコンと主張されるのは、それなりの根拠を持って言っておられるのですかね。』
# レス>wakamurasakiさん 『wakamurasakiさんは紫の上や女三宮の話をご存じのうえでレトリカルに問われているのではないかと思いました。「ロリコン」という言葉に定義がない以上、その発言は本質的に厳密なものにはなりえません。その意味で、「それなりの根拠」の必要もなく書いていた面はあります。もう一点、源氏物語を我々近代人は近代小説的に近代的な人物の描写としてみてしまいがちですし、また源氏物語の文学性にはそういう解釈を誘うほど優れた側面があります。しかし、これは基本的に古代の物語であり、伊勢物語における業平に近代的な人物が描けないように、源氏もまた、これは「色好み」を語るというエクリチュールで捕らえるべきかと思います。その点では、他文化には見られない幼女愛が嗜好として語られていると見てよいかと思います。』
# wakamurasaki 『いえ、当該記述の簡潔さに、一般人の安易なイメージに阿っているような雰囲気を感じてしまったので、ちょっとつついてみたくなっただけです。失礼しました。』
# wakamurasaki 『私としては、日本的な「色好み」において(これで一括りにしてしまうのも嫌なのですが)、いわゆる「幼児性」が独自の要素と言えるか疑問を感じます。むしろ、単に「それが幼女であっても敢えて厭わない」という方向性のような気がします。まあ、コメント欄(しかも、一週間近く前の)で論ずるような話題ではありませんでしたね。お邪魔しました。』

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イラク派兵はしなくてもいいのかもしれない

 このブログでは日本のイラク派兵問題について扱ってこなかった。理由は、あまり関心が向かったこともあるし、率直のところ、この問題がわからないという理由もある。極東ブログ開始以前の話ではあるが、私はイラク戦争賛成の立場を取った。その認識は、今にしてみると多くの間違いを含んでいた。そんな私に、それ以上の考えを表明する資格があるだろうか。
 くだくだと言えないこともない。だが、現時点で考えなおして、イラク戦争に反対すべきだったと言えるか。これも率直に言うとノーだ。大量破壊兵器の認識において私は間違っていたが、フセインがイスラエルを突く可能性と独仏露の悪事(兵器輸出や裏の石油取引)を放置しておくわけにはいかない。結局、今でもあの戦争を肯定している。糞、馬鹿野郎、ラムズフェルドとも言いたいところだが、そこまでの資格はないだろう。
 イラク派兵についてどう考えればいいのだろう。賛成または反対? 率直に言うと、反対ということはありえないんじゃないかと思っていた。イラク戦争の賛否に関わらず、過去には戻れない。事実は日本は米国の属国のように参戦したということだ。そして国としてその責務というものがある。むしろ、どのように派兵するかというプラクティカルな問題になるのはしかたがない。政府はどう派兵するかと考えていることだろう。特に、岡本行夫とか。
 現状の日本の政府を見ていると、小泉は日和まくっている。ここで派兵して死者が一人でもでようものなら、政権が一気に沈没という目を読んでいるからだ。しかも、その読みは間違いない。こんなやつが総理なのか。一端政権を民主党に移して、小沢に仕切り治しさせればよかったなぁ、にっぽん、と思うが、空しい。
 別の可能性も考えよう。派兵反対の理由はどうか。率直な話、私でも思考が止まる。呪縛だ。日本は戦争をしてはいけないとまず考える。ま、それ自体は間違いはない。
 というわけで、話がサマにならないこと限りない。
 そんななか、先日NHKの「あすを読む」を見ていて、各国の派兵の状況を解説した地図を見ていろいな思いが去来した。たしか、全世界で35か国がイラクへ派兵していた。おやっ、そんなにも派兵しているのか?と思った。
 そういえば、イタリア兵士の殺害の際、イタリアが三千人規模で派兵していると聞いて、思わず、へぇとか言いそうになってしまった。ポーランドの派兵についてはEUとロシアとの関係でワッチしていたので知っていたが、イタリアについては関心を払ってこなかった。己の頭をポカポカ叩きたくなるほどの無知丸出しである。「あすを読む」でウクライナが千五百人ちかくも派兵しているを見て、これもへぇとか言ってしまった。無知ここに極まれりである。
 他に、トルコ、韓国、オーストラリア、スペインあたりは、だいたい目配せしていたので、びっくりもへぇもなかったが、イタリアとウクライナはなぜなのかわからなかった。そして、残りの30か国近い国っていうのも、どこなんだと考え込んでしまった。
 いろいろと想像はつく。イタリアは派兵が多いが、あの国はもとからそーゆー国なのだ。枢軸をさっさと抜けてしまって国連の敵国にもなっていない。やるよな、アミーゴ。ウクライナのほうは、あれはカトリックの国で、もともとソ連にいるべき国じゃない。ロシアともうまく行くわけない。となるとポーランドのように他方のパワーである米国につかないといけない。
 30か国近くの派遣国ってどこだ? というわけで、ぐぐってみたのだが、意外に情報がない。が、かなり古い赤旗に載っていた。なんだかとほほである。標題もとほほだ。「イラク派兵は世界の少数派」(参照)。そりゃ、言い分は表向き間違っているわけでもない。


イラクに派兵している国はイラク戦争に参戦した米英、オーストラリア、ポーランド以外では三十二カ国にすぎません(別表)。米国が要請した約七十カ国の半分以下です。百九十一カ国を数える国連加盟国で少数です。しかも、派遣軍の役割は圧倒的な兵員を擁する米占領軍の補助です。
 千人以上の兵員を派遣している国は、米国と、一万三千人の英国を除いて六カ国。七日やっと議会の承認を得たトルコを入れても七カ国にすぎません。残りの多くは、米国の要求を拒否しきれず派兵したものの、その実態は象徴的派兵。

 しかし、そう言うかぁフツー? ま、たしかにその実態は「象徴的派兵」というのはそうだろうとは思う。と、同ページに派兵国の一覧があった。あえて、20位から引用する。

 20 ノルウェー    179
 21 モンゴル     160
 22 アゼルバイジャン 150
 23 ポルトガル    120
 24 ニカラグア    113
 25 リトアニア    100
 26 フィリピン     80
 27 スロバキア     80
 28 アルバニア     70
 29 グルジア      70
 30 ニュージーランド  61
 31 クロアチア     60
 32 リトアニア     50
 33 モルドバ      50
 34 エストニア     43
 35 マケドニア     37
 36 カザフスタン    25

 ふーんという感じだ。見ていて、こーゆーのは悪くないじゃんと思った。ちなみに韓国はこの時点では675人。もちろん、増員は求められている。オーストラリアが1000人。とすると、日本は金も出すのだから、1000人派兵というのはけっこう妥当な線だ。イタリアのように人は出すけど金は出さないという国もあり、日本のように金は出すけど人は出さないという国も…恥ずかしいがあっても不思議ではない。
 いずれにせよ、こうして見ると日本が派兵しても、実際のところ、米英に比べれば、言っちゃ悪いけど、おみそである。実践的な意味あいなどない。こりゃ、ここは派兵をどたきゃんして後で金を積んだらゴメンネーで済む話のようだ。
 ……なんだかそれでもいいように思えてきたぞ。
 それと、小沢のいうような国連常接軍の設置というのは、このおみそクラブをかき集めることになるので、そう考えると非現実的かも……いやいや、かき集めればせいぜい5万人くらいにはなりそうだ。それだけ束ねれば、米国からも10万は引き出せるから、国連常接軍というのは夢ではないかもしれない。

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2003.11.23

田中康夫・浅田彰呆談の小感想

 先ほど浅田・山形の話を書いて、それ以上に田中康夫・浅田彰呆談には関心がないのだが、ついで読んでみた。「呆談」とはよく言ったもので、大上段に批判するような内容ではないだが、田中康夫の次の発言に多少ひっかかった。


朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もあるというのに、日本人は蔑視するんだね。

 うっ、それって「と」でしょ? 公人がいきなり「と」かよ。確かにそういう説はあるし、私などもそうした説に近いのだけど、(1)公人が言うこっちゃない、(2)「呆談」でも抑制して語るべき、だと思う。桓武天皇の母高野新笠が百済系だという話が「美味しんぼ」でへぇ~ネタでずっこけたことがあったが、そんなの誰でも知っているって。そして、それをもって皇室の起源とはいえない。そういえば、昔、浅田も似たようなことを言っていた、が、今回はそのフォローはしてない。
 ついでに浅田の次の発言も、ずっこけた。

チベットに対して中国がやってることなんて、パレスチナに対してイスラエルがやってることとあんまり変わらないよ。それについては石原も言ってるけど。

 間違いではないけどねぇ。違うよ、すごーく。ディテールを指摘するのはメンドイけど、知識人だったらもう少し正確に言わないと…。
 さらについでに。浅田の発言。

あるいは、ミャンマー(ビルマをミャンマーと呼ぶべきだっていう軍事政権の主張を安易に認めたのは問題なんだけど)の軍事政権がアウン・サン・スー・チーに対してやってることはいいのか、と。日本は、あの国に対する最大のODA供与国なんだから、もっと圧力をかけるべきだよ。

 これも間違いではないけど、浅薄だなぁ。英国統治下で印僑・華僑を入れてめちゃくちゃにされたビルマ族の苦しみっていうのも考えないと…。
 細かく指摘するといろいろ言えるんだけど、「呆談」だものなぁ。でも、こんな「呆談」ありがたがっちゃう人っているのでしょうか。
 それにしても、ヤッシーは「と」かぁ。

追記11.29
 天皇家の起源について2点コメントを戴いた。概ね論点は、「朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もある」という田中康夫の発言を私が「と」つまり、トンデモ説とした点にある。再考して思うのだが、この田中康夫の発言は史学的に確立していないし、外交や政治がからみがちな問題を公人は放談で言うべきではないという点に変更はない。だが、「トンデモ」とまでは言えないかもしれないと譲歩してもいいかもしれない。というのは、これがトンデモなら、江上波夫著『騎馬民族国家』中公新書147もトンデモということになるからだ。江上学説は事実上、日本史学では無視されているので、その意味では、すでにトンデモという評価があるとも言えるのだが、テーマを除けばいわゆるトンデモ説の度合いは少なく、日本史学自体が非常に問題が多いので、史学の定説が常識的に見てあまりはっきりしたものではない。特に推古朝の扱いでタリシヒコの存在を無視しているあたり、日本古代史はまともではない。

[コメント]
# 通りすがり 『新聞とろうね。http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/108.html』
# レス>通りすがりさん 『どうもです。さて、新聞とろうねとのご意見ですが、ペーパーのもちゃんとちなみに取ってますよ。意外に思われるかもしれませんが朝日新聞です。ただ、ご意図とされたことはそういうことではないのだろうと思って、ご指摘の阿修羅さんのサイトを見ました。私の誤解かもしれませんが、このページで赤くなっている部分を通りすがりさんも強調されているのでしょうか。しかし、この産経新聞の無断引用を読む限り、皇室の起源が朝鮮半島にあるとは書かれていませんし、ヤッシーやはり「と」です。私のブログをよろしければご再読ください。高野新笠についてもしご存じなく、そこで誤解されているでしたら、また書き込みしてくだされば追記しましょう。』
# noharra 『田中康夫の皇室発言の趣旨は日本人の蔑視を揶揄することにあるようだ。とすると、それに対し、「(1)公人が言うこっちゃない、(2)「呆談」でも抑制して語るべき、だと思う。」と言われていることの趣旨がよく分かりません。古事記などでいう天孫族はおおむね朝鮮半島から来たというのは正しいのでしょう?』
# レス>noharraさん 『「田中康夫の皇室発言の趣旨は日本人の蔑視を揶揄することにあるようだ。」とする点は理解できます。しかし、その発言の戦略が正しいかというと私は違うのではないかと思います。これは、hoharraさんのご理解いただけなかった点とも関連するですが、前回「通りすがり 」さんが阿修羅さんのページに無断転載された産経新聞の記事の参照を挙げていますが、この時の天皇の発言はけっこう物議をもたらしました。なぜ物議かというと、天皇家が朝鮮出目話がタブーであり、天皇ご自身でこのタブーを破られたからです。関連して朝鮮では日本の天皇を見下すさんがためにその出目を朝鮮とする考えもあります。こうしたタブーに纏わることを根拠もなしに知事という公人は語るできではないと思われます。ただ、私が今「根拠もなしに」と言ったもののnoharraさんはご理解いただけないのではないかとも思います。「古事記などでいう天孫族はおおむね朝鮮半島から来たというのは正しいのでしょう?」という点です。これについてなのですが、率直なところ、正しくはないというのが定説だと私は判断しています。つまり、田中康夫が「朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もある」という主張は古事記は典拠にならないだろうと思われます。くどいようですが、「天孫族はおおむね朝鮮半島から来た」とは言えないと考えます。いかがでしょうか。決めつけているわけではありません。また、史学の原則でもあるのですが、古事記は基本的に神話であって日本史や皇室の起源を考える上で歴史資料とはなりません。』
# noharra 『 丁寧な応答ありがとうございます。ただいまいち論点がはっきりしませんね。えーと、明仁さんの発言に対し、「天皇家が朝鮮出目話がタブーであり、天皇ご自身でこのタブーを破られたからです。」というのはタブーを感じているひと(新聞関係者?)においてだけタブーであるだけで、一般市民は何も感じていないからです。戦前は同祖論は大日本帝国イデオロギーの一部に組み込まれていました。戦後は国民の自覚無しに、USAの力によって朝鮮と日本は切り離され、4つの島を中心に古代から日本という国がずっと続いているというフィクションが深く浸透しました。桓武天皇から3~4百年ほど前、天皇家の先祖が1)天皇と言ってもおかしくないほどかなりの勢力をもった王であり2)コリア海峡のこちら側にいた、という歴史的事実があるのでしょうか?そう言い切れないのなら、そうであることを前提にしたイデオロギーを揶揄することに何の遠慮も要らないと思います。(失礼しました)』
# shibu 『高野新笠のことは続日本紀ですよね。7・8世紀の話であって国家とか国境なんてない時代の話ですし、ただそのような昔から行き来があってその代表例として平成天皇は挙げたのでしょう。渡来して住みついた(=帰化)氏族出身の高野新笠という女性と白壁王との子供の山部親王のことが古来の書物に書いてありますね、ということだけでしょう。移民二世でも生れ育った環境が同じで日常使う言葉も同じであれば、ご近所意識(同胞意識)持ってしまいますしね。これはニューカマーであって、もともとが半島から稲を持って大挙してやって来たオールドカマーの大将が娶ったんだってなことを天を横にして半島を指すとか騎馬民族が支配したのだとか言いたいのかもしれないが、以下省略の「と」だね。だって半島自体が通過点=通り道であって、そこから湧き出たwもんじゃないでしょ。寒冷適応の北方系(新)モンゴロイドは、もっと北のほうから南下して来たのでしょうから。ところで江上説は丸っきりの「と」説でもないのでしょうか?』
# shibu 『それからお礼です。ニューアカとかは全然興味なかったのですが、こちらで初めて「山形浩生」知りましたw。お蔭様で、外地暮らしゆえ本に飢えてたのですが、彼のHPにはいっぱい本文が載っておりましてジックリ読ませていただいております。』

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浅田彰・山形浩生論争?

 ブログを回っていて浅田彰の「山形浩生の批判に答えて」(参照)を見つけた。この項目にはアンカーでname属性の指定がないのでURIの指定が正確にいかないが、「週刊ダイヤモンド/続・憂国呆談」の第十六回のぺージの下のほうにある。ネタの元になる山形浩生の直接的な話のリンクはないが、この話はネットで話題でもあり私もなんとなく読んでいた。ので、浅田の言い部分も読んでみた。
 率直な感想を言えば、浅田の答えは、つまらん。どうして、こんなにつまらないのだろうと、いぶかしい思いすらした。ゲスの勘ぐりの部類だが、浅田彰は山形浩生を相手にしたくない(無視したい)のだろうけど、時代潮流やネットの変化で無視ともいかないか、というところだろうか。
 ネットで有名になっている「クラインの壺」話でも危うく浅田彰ってバカじゃんとなりそうな勢いなので、なんか珍妙な加勢が出てきた。結果、理論的には浅田彰は間違ってないというオチになったようだが、ま、それはそうかなとも思うし、もともと山形浩生も面白いところ突くものだとも思った。この一連は、総じて見れば、山形浩生が面白いと言うなぁということには変わりない。蓮実重彦が「『知』的放蕩論序説」で渡部直己などを前にして、吉本隆明について、なんだかんだといっても吉本は面白いのに、君たちのは面白くないよ、ってなこと言っていたが、その「面白い」というのが重要なのだ。なにもエンタテイメントの意味ではない。蓮実を真似ると、知的な放蕩性を言いたいのだ。その意味で、浅田彰と山形浩生を比べれば、断然山形のほうが面白いし、知的な放蕩性がある。
 なので、山形の知的な放蕩性に浅田が「インテリやくざを気取って」と言ってみても空しいだけだし、その空しく響いている、というあたりの反響を感じ取る感性をもやは浅田は欠いているのだろう。田中康夫も浅田彰も結局のところ、新しい世代の知性からすれば、もはや「オヤジ」としてプカーンと浮いているのだ。些細な存在だが私などもその世代としてオヤジとして浮いているのだろうなとは思う。誤解されるといけないが、単純に浅田をくさしたいわけでもない。
 浅田の回答を読みながら、少し考えさせられた。例えば、冒頭などについてだ。


まず些細な点から。山形浩生はこの発言を「かれ[浅田]が長野県知事とやっている放談シリーズの中でのせりふ」としているが、正しくは「放談」ではなく「呆談」である。

 これは端的に浅田が全然回答になっていない。日本語の字引を引いてみるといいが、「呆談」という言葉は載っていない。田中との対談を「呆談」と称するのは構わないが、それが一般世界に反響するときは、「呆談」なんていう日本語はないのだから、「放談」としてよい。もちろん、「続・憂国呆談」を「続・憂国放談」と書いたら間違いだが、そういう話ではない。
 こんな些細なことで浅田をくさしたいわけではなく、そうではなく、浅田彰というのは、こういうことにこだわる人なのだなとあらためて思った。他、回答を読んでも、浅田自身の過去の発言は正確にはこうなのだからこう正確に読め、という感じだ。実社会の経験のない人なのかもしれないが、他者というのは正確には読まないものなのだ。
 ただ、こうしたところに浅田彰は、世界や他者をできるだけ正確に読もうとしている人なだろうなという印象は受ける。福田和也が浅田彰を評して、とても公平な人だと言ってたと記憶しているが、そういう議論のフェアネスの感性を持っていることはわかる。ある意味、そのあたりが日本人的ではない。
 「地球温暖化をめぐる議論」については、そういう意味で浅田の回答は間違っていない。典型的なパターンの例はこれだ。

 田中康夫と私もこの問題を何度も議論してきたが、そこでもこの論点を「見落として」はいない。今ごろ山形浩生に「地球温暖化をめぐる後悔」について解説してもらわずとも、『憂国呆談』(幻冬舎)に収録された1997年10月の対談の「ノー・リグレットのふたつの意味」というセクション(p.304~305:セクション・タイトルは編集部による)で、私はまさにそのことを問題にしている──

 話は重複するのだが、1997年時点で浅田がそう言ったという意義と、山形がロンボルグの本を翻訳して世に問うたという意義は、まるでバランスしない。しかも浅田は戦略的な「呆談」なのだというのでは最初から反論の意義は薄い。もちろん、浅田が誤解されていると思う気持ちはわかるし、実際に誤解だというのも正しい。だが、社会的な影響の文脈では山形の言っていることで概ね間違いはない。むしろ、概ね間違いない端的な議論が社会に必要なのであり、浅田のようなポストモダン的な話はあまり意味がない、のに、正しい意見者であるようにメディアで存在することに対しては、うんこ投げでもしてみてもいい、だろうと思う。
 やや変な言い方だが、浅田の次の意見は実は戦略的に間違いなのだと言ってもいいだろう。なぜなら、この言明は結局のところ修辞(レトリック)に過ぎず、修辞はまさに社会的な効果において評価されなくてはならないからだ。それゆえ、以下の修辞は空しい。

相手を(自分並みに?)極端に矮小化してとらえ、それを得々として批判してみたところで、相手を撃ったことにはならないのだ。
 (中略)
 この道場主は他流試合を挑むのなら試合(論争)というものの最低限のルールから習得し直す必要があるようだ。

 こうした言明は浅田らしく禁欲すべきだったと思われる。
 あと、地球温暖化について焦点を当てるなら、大筋で浅田の考え、つまりヨーロッパに立つは間違っていると私は思う。私は彼のいうアメリカに立つわけなので。だが、それはまた別の話だ。
 浅田の山形への回答というか反論のなかで一番熱がこもり、外野としても興味惹かれるのは、1989年3月21日にNHKで放送された「事故の博物館」を巡るやりとりだろう。だが結論めいたところから言えば、1989年という年代を提示されたあたりでずっこけてしまってもいい。率直な話、もうそういう時代は終わったのだ。百歩譲って浅田の反論が正当であるとして、だからなんだということになる。つまり、その反論が正当であること自体がこの15年近い世界に継続的に有効であるということを暗に含んでいるのだ。だが、そんなことはない。世界は決定的に変わってしまった。
 そう考えれば、次の言明は浅田の本心であるがゆえにこそ、滑稽味を帯びてしまう。

必要なのは、すべてを工学的思考に還元することではなく、人文学的なものを工学的に思考すると同時に工学的なものを人文学的に思考することなのだ。私は「事故の博物館」の頃から(いや、もっと以前から)現在にいたるまで、そのような立場を一貫して維持してきたつもりである。

 皮肉な言い方をすれば、そのような立場を一貫して維持するべきではなかった。表層的に一貫性のなさそうなボケ老人吉本隆明のこの15年の言説のほうが蓮実のいうように、面白かった。もう少し真面目にいうなら、人文学的な思考の基本は本質において変わらないとしても、1989年における工学的な思考は変わってしまった。浅田がオウム真理教について馬鹿だという以外関心をもたないのは、1989年の工学的な思考からの当然の帰結にすぎない。そこで、彼は止まっていた。先日、このブログで浅田のWindows批判にちょっとうんこを投げつけてしまったが、実は、東浩紀がHTMLのことをまるで理解していないのと同じで、浅田は単にWindowsのこと知らないだけ…というのではなく、工学的な思考の現代的な意味合いにおいて、ずっこけてしまっていた。その落差が山形浩生の言説という「現象」で露出してしまったのだ。
 少し長い引用だが、浅田の結語は、皮肉な陰影に富むことになる。

そして、それが最初に示唆するのは、地球環境問題が、もとより主観的な良心の問題(「やるだけやったし、まいっか」)ではないと同時に、客観的な工学の問題に尽きるものでもなく(現在をはるかに凌ぐ計算力をもったシミュレータが出現しても、最終的にすべてを明確な因果関係によって把握することはできないだろうが、問題は、むしろ、そうした不完全情報の下でいかに判断するかということなのだ)、文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だということなのである。

 括弧が多く、しかもねじれた文章なので読みづらいが、ようは、「地球環境問題は文明のあり方そのものにかかわる思想的・政治的・社会的な問題だ」ということらしい。しかし、もう一度、この言明を読み直してほしい。それは単なるトートロジーではないか。
 地球環境問題とはいうのは、ヒューマニズムのふりをしたゴーレムでしかない。「風の谷のナウシカ」ではないが地球環境が腐海になれば王蟲が出る。地球環境問題として二酸化炭素排出取り上げられるが、もともと地球に酸素が存在していること自体、生命活動の余剰にすぎない。現状の地球環境問題とはヒューマニズム(人間至上主義)なのだ。だから、思想的・政治的・社会的な問題としてリフレクトされるし、そのリフレクションの機能はまさにヒューマニズムが倫理を迂回して人間を拘束するように、政治的な機能を持つ。もちろん、そんなこと、浅田自身がよく知っていることだ。
 人類が二酸化炭素を排出することでその環境を変化させるとしても、それもまたただの変化でしかない。人間が滅び、なにかが生きるだろう。それだけのことだ。ホモサピエンスに至る過程でネアンデルタール人などが滅んだと同じで、この種が滅びるだけだ。それだけのことなのだ。この問題は、「それだけのこと」として割り切って、だから、よりプラクティカルに問わなくてはならない。
 地球環境問題とは、一種のゲームなのだ。その目的は人類の存続だ。そのゲームの戦略としてのみ思考は存在するのであって、思想的・政治的・社会的な問題より、より効果が評価できる戦略をとらなくてはならない。その意味で、浅田彰は根幹で間違っていると私は思うが、そう言いつつ山形をダシにして浅田彰を批判したいわけではない。
 心情としては、こう書きながら、浅田彰という現象が回顧の領域に移行していることに気が付き、自分もまた年老いてしまったことに唖然としていると言っていいだろう。浅田彰の専門は数理経済学だったと記憶しているが、この先の老いの世界にあっては、森嶋通夫のようにその分野で世界的な業績を積み上げていくことを期待したい。

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KEDO業務停止とパラドックス

 朝日新聞社説と日経新聞社説がKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)事業停止を話題にしていた。北朝鮮のお友達朝日新聞がどんな面白いこと言い出すかエンタテイメントである。この手の朝日の口調は最近は古典芸能のようになってきていて、前半で北朝鮮に厳しいフリをして後半に中国をダシにして日本国民に北朝鮮歩み寄りを迫る…というパターンだ。と思って読むと、まさにその通り。芸がないというか芸が完成の域に達したのか。というわけで、くさすのも阿呆くさい。
 爆笑のポイントはここだ。


しかし、事ここに至っては仕切り直すしかない。核問題を解決するための、より実効ある枠組みづくりを急ぐことだ。
 幸いなことに、中国を仲介役に米朝と日韓ロが集う6者協議の場ができている。

 朝日新聞ってなに考えてんだか、以下の奥歯にものが挟まったような結語を読みながら、ちと別のことに思い至った。

 ブッシュ政権は、北朝鮮に見返りを与えようとしたKEDOにはもともと否定的だった。だが、いずれにせよ北朝鮮の脅威を外交で封じ込めていく考えだ。北朝鮮は次回の6者協議を軽んずべきではない。

 朝日新聞はここに至って米国の封鎖政策を単に批判できなくなってしまたのだろう。もう策は尽きているのだよと北朝鮮にメッセージを送っているのか…いや、そういうそぶりをして日本国民にどんなメッセージを送っているのだろうか。よくわからない。
 朝日の真意を考えながら、ふと思ったのだが、実は、すでに北朝鮮は崩壊のスケジュールに入ったのではないだろうか。この思いはちと錯綜する。
 先週の日本語版ニューズウィーク11.19に北朝鮮の経済が持ちかえしているいる記事「北の経済が上向いた?」があったが、昨年7月の経済改革の目が出始めているようなのだ。どうも屋台なども復活しているようだ。ドイモイみたいなことになるのだろうか。この事態は韓国や日本の支援も大きいし、裏で中国が指導していると見てもいいだろう。
 つまらない推測ではあるだが、圧政にあるほど北朝鮮は安定していたのだから、それが緩和される兆しとは体制の崩壊を胚胎しつつあるのではないか? もちろん、アジアの民衆には西欧型の革命はできない。それでも、ある種、政権内の体制変化はないのだろうか。クーデターの可能性はないとも言えないが低いだろう。
 可能性としては、経済体制を背景にした権力の複数グループが成立するかもしれないと見るべきだろう。いずれにせよ、権力がバランスするようになれば、旧体制型の金正日は生き延びることはできない。実質の北朝鮮の問題は金正日ただ一人だし、イラク攻撃の際、金正日は逃げ回っていたことも考えれば、彼もその事態を認識していないわけでもない。
 朝日新聞の社説は所詮お笑いだが、日経のほうはきちんと数字を挙げている。

 だがブッシュ政権は仮に北朝鮮核廃棄の合意が成立した場合でも、軽水炉の建設再開には応じない考えを表明している。これまでに韓国は10億ドル、日本は4億ドルを事業につぎ込んでいる。北朝鮮の違約によって両国国民の血税が空費されかねない。北朝鮮はKEDOが搬入した資機材を押さえて補償を要求しているが、相手にすべきではない。

 「血税」と短絡すべきではないように思うが、事態を直線的に見れば無駄な金だし、今後はこの継続はできない。だが、その金は微量ながらも賄賂などで北朝鮮経済に循環し、循環することで今日の事態になったのなら、ブラックジョークのようなパラドックスだが、北朝鮮に食糧支援するよりも無駄金をつぎ込むほうがいいのかもしれない。北朝鮮内で私服を肥やせるやつを増やせば増やすほど、北朝鮮の圧政は構造的に安定的に崩壊していくだろう。核やミサイル開発なんて中央集中する物騒なものではなく、もっと地方勢力が私服を肥やせるように実弾(銭)をぶち込んでやるといいのではないか。

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2003.11.22

さらに再び電子メールは憲法で保護されているか

 我ながらしつこいなと思う。別に反論があったから浮き立っているわけではないが、どうも問題意識が理解されにくいのか、いや、こんな話に興味を持つ人は日本人はいねーかもなというダブルバインドなオブセッションになってしまった。ま、いいや、また新たに、さらに書く。
 気が付くともうけっこう古い話になるのかぁなのだが、1995年のこと、あ、1996年1月か、「FLMASK事件」または「BEKKOAME事件」というのがあった。BEKKOAMEという当時格安のプロバイダーでモロ出しのモロ部にマスクかけたのをアップしていた高校生と会社員がいきなしとっつかまった。BEKKOAMEも家宅捜索。で、当局はメールサーバーを押収しようとした。ぼっちゃり顔の尾崎社長もさすがにひきつって、そりゃないっしょと抵抗したのだが、さて抵抗は通ったのだったか。いずれにせよ、メールサーバーって押収できるのか?と思って、私は当時調べた。その時の結論は、電子メールは憲法の通信に該当しないらしいということだった。まさかと思ったのだが、あれは、「信書」じゃないらしい。どうやら、憲法のいう通信は、郵政管理下のものに限定されるようだな、ということだった。それでなるほど、宅配物も手紙を入れてはいけないのかと。
 ほいで、昨日、プロバイダー規制法の流れを見て、時代が変わったな、政府も一応電子メールを信書に次ぐものぐらいに認識しているかと思った。とこで、反論もあり、その反論への応答も書いた。
 率直にいうと、なんとも腑に落ちないのだ。ので、さらに書く。すでにネット上には残っていないようだが、日経インターネット・テクノロジー小松原健記者が次のように書いていた。


 社員の電子メールのチェックは,まず日本国憲法の21条2項「検閲はこれをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない」に反するのでは,という疑問が出てくる。しかし,この憲法は,国や地方公共団体などの公権力と私人の間の関係を規定しているというのが一般的な理解であるという。したがって,社員と会社という私人同士の関係には,通信の秘密などは適用されない。電子メールは基本的に,会社の業務として会社の施設を使用してやりとりするため,プライバシの侵害にもあたらない。

 前半は昨日の反論と同じで、どうっていうことはない。ま、そういう思考法に流れてしまうのだろうというのはわからないではない。だが、そうすると、この後半が帰結されてしまう。つまり、社員と会社という私人同士の関係には,通信の秘密などは適用されない、ということだ。たしかに、会社業務の電子メールはそうかとも思うし、こじれた夫婦関係の電子メールチェックなどはそれでいいだろう。よかねーか。
 で、私の念頭にあったのは、メールサーバーどうなの? サーバー管理者は公権力と私人の間の関係? で、これについては、大筋で昨日の元の話のように、そりゃだめよ~んとなりそうだ。
 だがな、そうかぁ?はつきまとう。そこが腑に落ちない点だ。
 ちょっと法律議論めくのだが、電子メールっていうのは「信書」か? それなら、違反者は「信書開封罪」(刑法133条)の適用もありだ。が、信書ってのは、郵便法によると「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書をいう」で、どうも、電子メールっていのは「文書(書面)」じゃねーよってことになっているらしい。阿呆かとも思うが。

第五条 (事業の独占)
 公社以外の者は、何人も、郵便の業務を業とし、また、公社の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、公社が、契約により公社のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
 2  公社(契約により公社のため郵便の業務の一部を行う者を含む。)以外の者は、何人も、他人の信書(特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書をいう。以下同じ。)の送達を業としてはならない。二以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
 3  運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
 4  何人も、第二項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書(同項但書に掲げるものを除く。)の送達を委託してはならない

 ちと余談だが、詳細は忘れた以前猥褻画像としてハードディスクが特定されるかという問題もあり、「そりゃねーべさ、データっていうのは物じゃないからな、物だったら、おれたちわざわざラインプリンターでソースコードの納品なんてするわけねーじゃん」と昔のSEだったオレは思ったのだが、どうも判決は珍妙なことになった。
 話を戻す。信書の送達業が独占というのは宅配の問題に絡む。ま、それはさておき、いずれにせよ。電子メールは信書ではない。
 ほいで、信書ではなくても、憲法のいう「通信の秘密」は守られるかだが、くどいが守られるようだ、が昨日の話。その場合の守りは、電気通信事業法によるわけで、それが憲法に由来するということで、めでたしめでたし、かぁ?なのだが、よーするに、電子メールは「電話」と同じということなのだろう。というあたりで、どうもなんだか変だ。トリビアの泉で「電子メールは手紙ではなく電話である」と言われたとして、へぇ~ボタンを押す手が固まってしまう。
 話をわざとらに紛糾させたいわけではないが、もう一つ重要な側面がある。エッジ株式会社の「電子メール管理による防止策の提案(2003.11.13)」(参照)というコラムを読むと、何が問題かはぼわーんとわかってもらえるかもしれない。

1●メールの監視による問題の防止
 さて、電子メールによる〈問題〉の防止には、メッセージフィルタ+アーカイブツールによる監視が有効であることは前回までにご説明したとおりです。この連載の初回にご紹介したように、エアーでは、WISE Auditというメッセージのフィルタとアーカイブが同時に可能なツールを販売していますが、このようなツールを有効に利用し〈問題〉を防止するためには、運用上のいくつかのルール〈ポリシー〉を決めておく必要があります。〈ポリシー〉を持たずに電子メールの監視を行うと、無用な混乱を招く恐れがありますので注意が必要です。
 まず、定めておかなければならないことは、電子メールの監視を行うことを利用者に認めてもらうことです。一般に電気通信は法で言う「信書」の性格があるものと考えられており、電子メールの利用者もプライバシーを期待しています。しかしながら、電子メールやインターネットの構造から言って「信書」並みのプライバシーは期待できません。また、業務目的の設備であるため、会社=管理者に監督責任が存在します。しかし利用者が認めないまま監視を行うと「検閲行為」となりプライバシーの侵害等の違法行為となってしまう危険があります。

 軽く書いてあるが、「電子メールの監視を行うことを利用者に認めてもらうこと」それでいいのかぁ~!である。
 もっと重要なのは、「しかしながら、電子メールやインターネットの構造から言って『信書』並みのプライバシーは期待できません。」にある、現状の電子メールの構造の問題だ。エッジ株式会社では、信書=プライバシーとしているが、それはちょっと論点が違う。PGPとかをマストでプロトコルに組み入れればいい。むしろ、問題なのは、PGPとかをメール構造に組み入れると、「電子メールによる〈問題〉の防止には、メッセージフィルタ+アーカイブツールによる監視が」無効になってしまうことだ。
 どうする? といいつつ、現状ではSPAM Assassinとかすでに動いていて、ロボット監視になっている。ま、同意は取っているとはいえ、それいいのか?
 話が紛糾したので、まとめておこう。

  • 電子メールはメールとあるがメール(手紙)ではない
  • 手紙は日本国家が独占している
  • 「通信の秘密」は電子メールの場合、電気通信事業法によって守られるが、信書開封罪など刑罰対象にならない(やり得かも)
  • 電子メールの閲覧は会社業務という名目あれば行ってもいい
  • 「電子メールは構造的にプライバシーが組み込めないぞぉ」という風説が流れて出している
  • 電子メールにプライバシーを組み入れると、SPAM排除などなにかと困ることにもなる

 で、社会問題としてどうする? ま、どうにもならんか。従来の葉書や封書でも事実上通信は丸見えだったし、やはりそういう前提の上に通信の秘密が成り立っている。
 むしろ、電子メールは信書じゃないよ、という視点を推進して、スパム問題なども解決したほうがいいかもね(一種の「出版」概念に近づける)。

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イスタンブル・テロの話なのだが…失敗

 今朝は毎日新聞を除き各紙社説がトルコのテロを扱っていた。大きな事件だと言えないこともないし、社説向きの事件なのかもしれないが、あえて社説で扱うべきだったのか多少疑問が残る。各紙社説が同日横並びというのも変な感じだ。なにより内容も似たり寄ったりなので、各紙社説とも特に読むべき内容がない。あまりに単細胞なのだ。「テロだ大変だ。トルコのユダヤ教会だ。大変だ」というくらいの話に尾ひれがついたようなものだ。不思議なのだが、各紙ともにトルコについて詳しい人間はいるだろうに、なぜ社説の執筆者はそういう人の話をじっくり聞いて書くということをしないのだろうか。社内にいないのなら、外部に聞いてもいいだろう。今年の日本はトルコ年だった。そんなこともあまり知られていないような気がする。
 話は些細なことになるが、アルカイダを「アル・カーイダ」と表記する読売まで含めてイスタンブルを「イスタンブール」というように「ブ」の後に音引きを入れて表記している。表記の問題は所詮決めごとだし、日本の慣例に従うのがいいので、殊更に「間違いだ」などという気はさらさらない。だが、この表記はトルコの原音ではない。原音では音引きなしの「イスタンブル」に近い。逆に「ブール」と音引きを入れる意義と由来がはっきりしない。久保田早紀の歌「異邦人」の影響なのだろうか(庄野真代の「飛んでイスタンブール」でした)。どうでもいいがこの歌もリメークしていのを聞いて驚いた。作家池澤夏樹は昨年イスタンブルに滞在していて、現地から週刊文春の書評なども送っていた。池澤はさすがに「イスタンブル」と表記していた。署名原稿の強みだろうか。さらに些細なことかもしれないが、ギリシアではイスタンブルとは呼ばない。依然、コンスタチノープルである。個人的な話だが、サロニカに滞在していてふと国境沿いの地図を見ていて気が付いた。余所の国の代表都市名がその自国表記ではないのだ。なぜかという理由は余談が過ぎるので割愛するが、ムスタファ・ケマル・パシャ(アタチュルク)が生まれたのもサロニカだ(聖書のテサロニキである)。なお、当たり前過ぎる話だが、トルコの首都はイスタンブルではなく内陸のアンカラだ。なぜアンカラかの話も割愛する。が、こうした話は日本人の基礎教養であるべきだなとも思う。余談のような話が長くなったが、日本のトルコ情報はけっこう音引きイスタンブール的な状況だ。日本の知識人はトルコに関心がないためだろうが、この無関心さは、たぶんヨーロッパのトルコ人差別の影響があるように思われる。知識人の視点が欧米中心すぎるのだ。
 今回の自爆テロで、ブッシュは21日「トルコも新たな前線になった」とほざいている。また、毎日新聞ニュースで見かけたのだが現地トルコでは「なぜ同じイスラム教徒がテロの犠牲になったのか」との声もあるそうだ。解説してみたいのだが、どこからどう話していいのかどうも自分が混乱する。前提が膨大過ぎるようにも思えるし、端的に言えないものかも思う。
 まず、ブッシュの言明だが、毎度道化回しにして申し訳ないが田中宇的にいうと、このテロのおかげでトルコが米国陣営に着きやすくなったのだから、裏の動きは米国内部にあるのではないか…冗談である。ただ、そういう影響はある。また、トルコはイスラム教国なのだが、イスラム圏の常識でいうと「諸悪の根元はトルコ」なのだ。これが日本ではブラックジョークとして通用しないのだが、いずれにせよトルコはイスラム圏では異質に見られている。トルコの宗派は90%以上がスンニ。クルド人(クルディアン)もスンニと言っていいだろう。イラク北部のクルド人も同じだが、南部はシーア派が多い。人口比ではシーア派のほうが60%を越える。ちなみにフセインはスンニだが、イランはシーア派。というか、シーア派とはイランだといってもいいくらいだ。イランのシーア派は革命の中心でもあり、日本人の原理主義のイメージに近い。だが、トルコも民衆も90年代以降イスラム原理主義に傾いているが、この原理主義はシーア派のそれとはかなり違う。むしろ、宗教による互助会的な運動だ。いいことじゃないかとすら思えるのだが、トルコという国の中枢はケマル以降の歴史を引きずって未だに軍部が幅をきかしているし、基本的に同様にケマルの伝統から脱宗教的な建前をもっている。エリート達は実に欧米的だし、これは言うにはばかられるのだが、ツラを見てもわかるのだ。
 トルコを難しくしているのは、これにさらにクルド人問題が絡むからだ。日本の知識人はどうもなんとなくクルド人びいきなのだが、この問題は複雑怪奇になっている。どう手を付けていいのかわからない。ザザ人など端から無視される。なにより、イスタンブルの生活をかいま見れば、通常言われている以上にクルディアンが住み着いていることに気が付くはずだ。それはもう中国の盲流のようなものにも近い。統計が存在していないのだが、クルディアンの大半は実はトルコの都市部に生息しているのではないだろうか。また、イラク北部のクルディアンともすでに歴史が離れすぎて同一民族だといっても修復不可能な事態になっている。これはどう見ても、クルド人問題はクルドを突出させるよりも、トルコの民主化・近代化のながれで解消するしかないだろう。
 嗚呼。ちょっとここで書くの止める。全然まとまっていない。難しすぎるのだ。イスタンブルの旧市街の構造なども触れたほうがいいか、まさか…。なんだか偉そうな言い方になるが、この件についての欧米の言論や日本の知識人のコメントがまるでトンチキなことが多いのだ、どうも一筋縄ではいかない。
 めちゃくちゃついでに最後の余談だが、いつもくさしてごめんよの田中宇だが「イラク日記(5)シーア派の聖地」(参照)のなかのシーア派の考察はなかなかいい。彼が考え至ったのだろうか、なにかも孫引きかわからないが、シーア派分派についてはさておき、以下の指摘は基本的にいい。


ややこしい教義の話から書き出してしまい恐縮だが、私はこの日、カズミヤ廟モスクを訪れたことがきっかけで「シーア派とは何か」ということをしばらく考え続けることになった。
 私なりの答えは「シーア派の中心は、古代以来の信仰を持っていたメソポタミア文明やペルシャ帝国の人々で、彼らがイスラム教に集団改宗する過程で、昔からの宗教の教義や哲学をイスラム教の枠内で再解釈しなければならなくなり、もともとのアラビア半島のイスラム教(スンニ派)とは違う分派となった」というものだ。シーア派が多いのはイラクのほか、イラン、アゼルバイジャンなどで、いずれもイスラム教が発祥する前にメソポタミアを支配していたペルシャ帝国の諸王朝の領土だった。

 もっとも、田中宇が田中宇的な文体で言うまでもなく、そんなことは、新藤悦子の「チャドルの下から見たホメイニの国」を読めばわかることでもある。ま、読んでないのかも。とリンクを張ろうして気が付いた、これ絶版だよ! 文庫になってないのか。おーい、新潮、復刻しろ。

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2003.11.21

再考・電子メールは憲法で保護されているか」は変な議論か

 今日のブログ「電子メールは憲法で保護されているか」について、はてな内に反論があり、興味深かった。仮に「雑記さん」しておく。で、雑記さん、反論、ありがとさん、である。参照は「通信の秘密に関する疑問」(参照)だ。
 Googleなどでこのページに来られたかたは、このかたの意見も参考にして、各人が考えていただきたい。
 さて、私はその反論をどう受け止めたかというと、実は雑記さんの説明に釈然としていない。もっとも、それにさらなる反論を持っているわけでもない。「わからーん」ということを以下に書いておきたい。
 その前に、まず、ほぉなるほどなと思ったのは、雑記さんの「極東ブログの記事は憲法上の議論と法律上の議論が混乱しているように思える」ということで、その混乱は、「通常、憲法上の権利は、公権力に対する関係でのみ問題となり、私人に対する関係ではいわゆる『間接適用』が問題となるに過ぎない。」という点を私が理解していなかったという点にあるらしい。
 前回憲法前文の試訳をしたおり念頭に置いていたのが、憲法というのは、マグナカルタの歴史からもわかるように、日本国民が政府権力に歯止めをかけるためのものだ。なので、当然、憲法は公権力との関係で問題となる、というのは、わかるのだが…。
 だが、わからないなと思うのは、ブログ本文で宅配の例題問題をあげたが、雑記さんの「通信の秘密に関する疑問」で問題が解けていないのは、なぜなのだろうか。
 たぶん、「これに対して、『通信の秘密』の場合、公権力は勿論、私人であっても『通信事業者』に対しては、憲法が直接適用されるとされるのである。」という点が重要になるはずだ。ということは、結局、この問題については、実質的には憲法と諸法の区別をしたからといって、議論として有効ではない、と言えるのではないだろうか。
 加えて、この問題の解けなさかげんは、国の郵政業務の制限に関わるはずなのだが、その点への言及が、雑記さんにはない。そうではなく、私が「通信」の原義に投げかけた疑問は、雑記さんの説明では、超越的に、あたりきしゃりきの前提になっている。それでいいのだろうか。こだわるようだが、実は、今回のブログを書いていたおり、スパムメールは出版と考えられないかとも思っていたので、原義に帰らないとスパムメールなどの問題も解けなくなる。
 ちょっとくどいが、電子メールについて、雑記さんの次の解説は、そーなのかぁ?と疑問に思う。


憲法21条2項の趣旨から考えても明らかである。それこそ、明治憲法26条の「信書ノ秘密」に関する大審院判決に照らしても保護されるであろう。憲法の英文原典を持ち出すまでもない。

 私だって、「憲法21条2項の趣旨から考えても明らかである」と思いたいのだが、そうではないかもと思えたことがあったので今回書いてみたわけだ。そして、この点の理解の補助の比喩としたのが宅配の例だ。同じ事がメールサーバーになされたときどうなのか。
 話がちとくどいが、私の言う「電子メールをもし誰かが閲覧したとしても、その閲覧者は秘密を守らなくてはいけないということだ。」に対して、雑記さんは、次のように指摘される。

「誰か」というのだから、この「誰か」とは、全くの一般人を含むのであろう。そうだとすると、この議論が成り立つには、憲法21条2項が純然たる私人に適用されることを前提としなければならない。
 しかし、一般にはそのように解されていないし、そのように解するとすると、前半の宅配業者に関する議論と整合しない。やはり、この議論も、おかしいと言わざるを得ないであろう。

 素朴に疑問に思うのだが、メールサーバーの管理者と宅配業者は同位置に立たされるのではないか。とすると、この問題は、「これに対して、『通信の秘密』の場合、公権力は勿論、私人であっても『通信事業者』に対しては、憲法が直接適用されるとされるのである。」と同じ話になるのだから、やはり問題は、まるで解けてないように思える。とすれば、私の疑問は、依然、私の単なる混乱による、とも言えないのではないか。
 とま、ための反論や議論がしたいわけではまるでない。私は私で、この問題がすっきり納得できればいいなと思うだけだ。

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南の国のシュパーゲル

南の国のシュパーゲル
 丸井の地下で白アスパラガスが売っていた。なんで?と思ってみたら、オーストラリア産である。南半球はこれから水着のサンタさんの季節なのだ。なるほどねと思って買って食ったが。それほどうまくない。今の日本の季節で食うものでもないのか。それにしても、国産の白アスパラガスもたいしてうまくない。オーストラリア産もこの程度。なのに、ドイツの直輸入ものはうまいんだよな。種類が違うのか。

地方交付税問題がわからん
 今朝の新聞各紙社説は曖昧な印象を受けた。最初からまともに社会問題を議論するのかわからんような産経や朝日はさておき、日経が取り上げていた「避けて通れない地方交付税改革」は重要な話題だ。だが、よくわからない。


だから47都道府県のうち32の県で地方税収より交付税の受取額のほうが多い。地方税の2倍、3倍を受け取っている県も珍しくない。市町村では歳入の大半が交付税という例もある。「財源が足りない」では済まされない状況である。何をもって「足りない」というかを究明すべきだろう。
 遅まきながら、財務省も歳出総額の費目別見直しに着手したようである。交付税を所管する総務省も自治体も高い次元に立って見直しに参加してほしい。

 「何をもって足りないというかを究明すべきだろう」って言ってもなぁ、おまえさんその言及だけなら床屋談義だよ。日本経済新聞なのだから、もうちょっときちんと言って欲しいものだ。
 かく言う私はこりゃ地方の問題だよと思うけど、全体のパースペクティブがわからない。

家畜に耐性菌
 NHKのニュースからだが、食肉用の家畜に耐性菌広がっているらしい。食肉用の牛や豚、鶏の79%が抗生物質が効かない耐性菌を持っているとのこと。それって直接人間に影響があるのか? それと同ニュースで気になったのだが、畜産の現場では治療や成長促進などに人間の2倍以上の抗生物質が使われているとのこと。成長促進の抗生物質ってなんだ?とも思うが、日本の畜産は問題の巣窟っぽい。それと、いずれにせよ自然界に撒かれた抗生物質は人間に跳ね返ってくるのだが…。

模造品の購入はいけない?
 NHKのニュースからだが、特許庁はブランドの模造品を買わないように、テレビ、インターネット、ポスターでも呼びかけるというのだが、なんとも不愉快。模造品がいけないのは、ブランド業者の利益を守るためで、しいては産業のルールを守ることになるのだが、一義的には消費者の問題ではない。税関できちんと取り締まればいいだけのことで、くだらん金使うなよ特許庁と思う。そうでなくても特許事務の遅れのほうをなんとかしろ。

リンボーに資金洗浄疑惑
 CNNから。これは以前のヴァイコディン話の補足だ。リンボーに資金洗浄疑惑が出ている。リンボーとかぎらずみんなやっているのだろうな。日本でも例えば、○○隊長とか。

トランス脂肪酸の話題
 ロイターヘルスにトランス脂肪酸の話題があったが、特に新しいインフォはない。ラベリングについても2006年まで。ちと気の長い話だ。それでも今回の話題では、米国油脂メーカーのシフトが理解できた。それに比べて、日本! サイテーだ。とくにサイテーなのが、「買ってはいけない」系の食品メーカーだ。トランス脂肪酸が野放しなのだ。なにがアトピー問題だよ。

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電子メールは憲法で保護されているか

 4日前のネタなのだが、17日のZD Net Newsの「『プロバイダ責任制限法』に残る、これだけの課題」を読みながら、以前にも疑問に思ったことを思い出した。端的に言えば、電子メールというのは通信に含まれるのだろうかということだ。が、端的過ぎて、かえって疑問がわかりにくいだろう。背景を含めると、憲法21条2項の通信の秘密が電子メールに適用されるのかということだ。
 以前調べたおりは、憲法の通信の秘密が適用されるのは当時の郵政省(現在総務省に統括)スネールメールだけだった。現状はどうだろうか。ZD Net Newsを読むと、そうでもなさそうなので、少し珍妙な思いがした。
 この問題は複雑怪奇だという印象を持っている。例えば、宅配便の規制だ。現状では、法律上は宅配物に手紙を入れてはいけない。知ってましたか?と、知っていてどうとなるものでもない話だ。仮に宅急便で送る物に封書を入れておいたとする。どうなるか? これは憲法でいう通信の秘密によって守られてはいない。じゃ、開けていいものか?と、考えれば考えるほど変な話になる。
 以前考えたのは、憲法の通信の秘密とはいつでも国家権力が秘密を破れるからこそ、建前上というか権利概念としてのみ文言となっているのではないかということだ。なにせ、ポストカード(葉書)に至っては丸見えだ。見えても「黙っていないなさい」ということだ。封書もこっそり開けたらこっそり糊で封しなさい、と。
 ちなみに、憲法を読み直す。まず英文を読まないと日本の憲法は理解しづらい。原典はこうだ。


Article 21:
(1)Freedom of assembly and association as well as speech,
press and all other forms of expression are guaranteed.
(2)No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of
any means of communication be violated.

 現状の訳文はこうだ。

第21条 【集会・結社・表現の自由、通信の秘密】
 (1) 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 (2) 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 時代もあるのかもしれないが現代なら誤訳と言っていい。pressは「出版」じゃなくて「報道」だ。同様に、communicationを通信とするのは、なんだかなであるが、いずれにせよcommunicationの原義を考えるなら、電子メールが該当しないわけはない。でもそれなら、宅急便に手紙を忍ばせてもそれを見てはならないことにならないか。まぁ、そんなこと言ってもしかたないか。
 話をZD Net News戻すのだが、今回あれれ?と思ったのは、この記事では、電子メールが特定電気通信には含まれないというのは謎だとしている。謎なのか? 記事では、総務省によるプロバイダ責任制限法の逐条解説を挙げ、第2条1号の「不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信の送信」が「多数の者に宛てて同時に送信される形態での電子メールの送信も、1対1の通信が多数集合したものにすぎず、『特定電気通信』には含まれない」 というは変だというのだ。
 そうか? もちろん、記事全体の意図がわからないわけではない。いわゆるマルチメールは通常のメールじゃないよとしたいのだろう。個人的にはあれは出版だと思うが、しかし、当面は私の疑問に戻る。つまり、一人に宛てた通常の電子メールは憲法で保護されるところの郵便(通信)に該当するのかだ。
 というわけで、その資料の原文を取り寄せてみた(参照PDF)。該当箇所はこうだ。どうでもいいが下手糞なPDFだ。総務省にはまともにAcrobatを使えるやつはいないのか。

 インターネット上のウェブページ、電子掲示板等は、電気通信の一形態ではあるが、不特定の者によって受信されることを目的とする電気通信(=有線、無線その他の電磁的方式により、符号、音響又は受けること(電気通信事業法(昭和59年法律第86号)第2条第1号))の送信であることから、このような形態で送信される電気通信を通信概念から切り出し、「特定電気通信」としたものである。電子メール等の1対1の通信は、「特定電気通信」には含まれない。なお、多数の者に宛てて同時に送信される形態での電子メールの送信も、1対1の通信が多数集合したものにすぎず、「特定電気通信」には含まれない。

 なにを言っているのか今ひとつわらかんのだが、とにかく、1対1の電子メールは「特定電気通信」には含まれないことはわかる。同様にマルチメールも「特定電気通信」ではない。
 で? 要するに、電子メールは憲法による通信の秘密で守られているのか?
 どうも私の以前の憶測は間違っていたようだ。プロバイダ責任制限法についての議論を見ていると、電子メールが「特定電気通信」には含まれないために、発信者情報の開示請求ができないというは、逆に言うと通信の秘密は守られているわけだ。電子メールをもし誰かが閲覧したとしても、その閲覧者は秘密を守らなくてはいけないということだ。
 当たり前すぎてつまんねー話になってしまったが、個人的にはちと腑に落ちたので良しとしたい。

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2003.11.20

サイバラ離婚、米原万里さんの病気

 雑記という分類を作った。雑記である。ブログらしいブログになるかも、ね、である。ザッパー向けでもある。ま、いいや。
 サイバラ(西原理恵子)の離婚が気になって「新潮45」を買う。離婚について触れた柳美里との対談がある。あんまし面白くないのだが、こりゃ、まぁ、アル中治せよ離婚かなと思った。男と女の別れっつうものでもないのか。ま、そのあたりの機微はわからんのだが、ネットに鴨ちゃんのサイトをめっけた。「鴨のひとりごと」だ。
 不謹慎だが、面白い。男の内側の感覚がよくわかる(セミの鳴き声2003.11.7号)。


「精神科医から聞いたの。私達は共依存なんですって。一緒にいてもだめになるばかりなの。添え木が二本よりかかり合っているだけなの」
 ひざをポンとたたき、
 「わかった。別れよう」
 そこから耳が聞こえなくなった。
 担当氏と彼女が今後の具体的な話をしているのを、他人事のように、二人の顔を交互に見つめるばかりであった。

 ああ、そういうことってある。耳が聞こえないのだ。私の経験では音は聞こえるのだがね。耳は聞こえません。
 次のシーンは切なくて目頭が熱くなる(小さくても、ジャガイモくらい一つください 2003.11.11号)。

映画が終わり、薄暗くなった早稲田の街を彼女と歩く。
 「たんたんとした、いい映画だったわね」
 彼女はつぶやき、ちらりと横目でこちらを見つめると、どんな顔をしていたのだろう、そっと手を握って来て、
 「ごはん、一緒に食べて帰りましょうね」
 と夕食にさそってくれた。
 手を引いてくれる彼女。

 話変わって、週刊文春の書評欄で米原万里さんの病気を知る。うーん、そうだったのか。1950年生まれというから、53歳か。55歳にはなっていなかったのだかぁ。とま、まだまだお元気そうだ。今のお考えでは、抗がん剤の利用は難しいのだろうな。
 そういえば、NHKの「わたしはあきらめない」の西城秀樹の話はよかった。後遺症はやはりあるのだろう。途中、西条が涙ぐんでしまうシーンがあるのだが、もしかするとあれは後遺症かもとも思った。たまにしか見ないのだが、どうもこの番組は、いままでヤナやつだなと思っていた人間を好きにさせてしまうところがある。織田裕二も嫌いではなくなった。例外は高橋惠子だろうか。なんか嘘こいているなという感じがしたのだ。

[コメント]
# rucha 『こんにちは。実は今、時間感覚を喪失しているため、挨拶が適当でなければお許し下さい。貴方がはてなダイアリーに書いていてくださることに、本当に勇気が出ます。』
# rucha 『私ははてなダイアリーで真面目に論じる勇気がありませんでした。でもがんばります。だから、貴方も適当にがんばってください。適当の意味は、あなたならわかってくれると信じます。』
# レス>ruchaさん 『なんとなく「適当」ってわかります。誤解かもしれません。私的な話のブログのなかに喉まで突き刺さってあえて書かないことがいくつかあります。でも、特定の用語だけはずして結局書いているのでわかる人にはわかる、というか、そういう理解があれば嬉しいですね。とても。』

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トラジ、トラジ

 今週の日本版ニューズウィーク11.26のカバーは「コリアンジャパニーズ」。リードは「自然体で生きる『ニュー在日』が日本をもっとヒップにする」とある。少し期待したのだが、内容はあまり面白くなかった。この手の韓国ネタは、海外移住話と同じでニューズウィーク日本版が毎年行う吉例ネタのようだ。ルーティーンでしかたなくやっているだけの企画なのだろう。
 へぇ~ボタンを叩くような話はなにもない。が、読みながら、大筋で現在、帰化という意味合いがだいぶ変わってきたのだろうとは思う。言語や国という縛りを大げさに考えなければ、「在日」は現代日本の文化的なヴァーサティリティの一つになっていく。ヴァーサティリティって言い方はないか。
 誰が読むとわからないブログを書き続けていると、どうしても文章というものは自分の内面に向くので、あまり禁欲的にはいかなくなるのだが、在日朝鮮人のことを思いながら、では自分の文化背景はどうなのかと思った。私はという人間は、長野県の文化と沖縄の文化に強烈に影響を受けているのだが、それに加えて、父から朝鮮の文化の影響も受けてきたようだ。亡き父と自分を重ね合わせて考えられるほどの歳になってみると、彼が10歳から20歳まで過ごした朝鮮の文化は不思議と自分のなかに伝えられていることに気がつく。父は五木寛之より歳上だが同じく「引き揚げ者」だった。この言葉もおそらくセンター試験以降の世代には死語になっているだろう。現代風に言えば、彼は朝鮮文化のなかで育った帰国子女だった。私は父とそれほど話をした記憶はないし、その性格や行動のパタンは私とは違うのだが、茶碗(抹茶茶碗)の好みなど高麗や李朝ばかりだ。自分の美観はなぜかそこに行き着く。
 私という人間は受動的に長野県、沖縄、朝鮮に機縁を持たされてきた。と書きながら、「長野県」をある種のエスニシティの扱いにするのは奇妙な印象を与えるかもしれない。もちろん大阪や四国、九州や東北、こうした地方都市や地方に独特の文化性があり、「長野県」もそうした類例の一つに過ぎないということは頭ではわかる。だが実感としては「長野県」の文化は、この歳になってみると、なんとも日本のようで日本ではない不思議なカルチャーだと思えてくる。そういう思いを客観めかして主張したいという意図はさらさらない。ただ自分の実感を極言すれば、長野県、つまり信濃の国は日本の文化から離れている。沖縄も日本ではないと思うが、海のない県と海に囲まれた県に日本文化から離れる類似性もある。なぜかどちらも長寿県だなとも「うちあたい(内心納得)」する。そうした奇妙な思いをうまく表現できる自信もないのだが、ちょっと書いておきたい気がする話がある。トラジだ。
 前振り話ばかりが長くなってしまったが、そんなことを思ったのは最近トラジを買ったせいだ。コチュジャン漬けである(そういえば、私は刺身にコチュジャンを漬けて食べることも多い)。たまたま国立の紀ノ国屋に寄った際、キムチの試食を薦められた。瓶詰めものほどひどい味でもないが、それほど美味しくはない。どうでもいいキムチだなと思ったとき、ふとチャンジャに気が付いた。そういえば、最近見かけなかった。いつの間にか自分の行動パタンが変わっていきてる。歌舞伎町のハレルヤ食堂で飯をかっくらっていた自分はどこに行ってしまったのだろうか。紀ノ国屋のチャンジャの味はそれほどでもないだが、衝動買いした。チャンジャについてはここではこれ以上書かないが、チャンジャを食いながら何か心にひっかかる。トラジだ。トラジはどこで売っている? 売ってないわけはあるまいと思ったが、歌舞伎町に行くより、ネットで注文した。
 日本版ニューズウィーク11.26の「食文化 焼肉を発明した在日のソウル 1世が生み出し、3世が発展させた焼肉カルチャー」にはトラジの名前が唐突に出てくる。恵比寿の焼き肉屋の名前らしい。読んでいて、あれ?という感じがした。「トラジ」はなんの陰影もなく店舗名として書かれていたからだ。トラジといったら、その独特の響きを文章に織り込むべきじゃないのかと思った。しかし今回のカバーストーリーは書き飛ばしなのだろう。焼き肉は「食道園」が発祥であるかように曖昧に書いてあるのだが、清香園ではなかったか。
 「トラジ」と聞いてセンター試験以降の世代になにか響くものはあるだろうか。在日朝鮮人ならわかると思うが、若い二世、三世になるとキムチも食べなくなるというから、わからないこともあるかもしれない。在日朝鮮人や韓国人がキムチを食べる量が減っているとも聞く。不思議でもない。日本人など味噌汁の味噌の味すら忘れているのだから。
 トラジは桔梗のことだ。私が育った家の庭には、他の家と違って、信州の鬼百合と桔梗があった。桔梗はあの美しい花を咲かせるのに、子供の私はいたずらでその淡い色の蕾をぶしゅっとつぶしたものだ。
 トラジは民謡の題から桔梗の花を指すと言っていいのだが、私がネットで買ったのはその根だ。トラジはあく抜きによって風味が違うのだが、どれもコリっとした独自の食感があって面白い。ナムルに入れることもあるが、最近トラジ入りのナムルっていうのは見かけない。
 ネットで取り寄せたトラジをつまみながら、父を思い起こす。野山が恵む味だ。そういえば、小学生のころ父とトトキを取りに行ったことがあった。トトキは茎を折れば白い汁がでるのだと父は言った。あの時、結局トトキは見つからなかった。トトキとはどんなものだったのだろう? トラジと似たようなものだろうか。
 ぐぐってみると、興味深い話があった。滋賀県立大学鄭大聲教授のエッセイ「朝鮮の食を科学する〈20〉―山でうまいものはトドック」だ(参照)。


 日本に住む朝鮮人の中で、とりわけ1世が、故郷をなつかしみながら好んで食べる山菜にトドック(希幾=ツルニンジン)がある。
 日本人の食生活とはかかわり合いがないので、2世、3世になれば、その名前も知らない人が多い。しかし、これもトラジと同様、朝鮮の山野に多く分布し、古くから食用とされて来たし、日本にも多く自生しているので、自然から求めるという点では、トラジよりはるかにたやすい。

 そして、次の話で驚いた。

 トラジと同じ桔梗科に属する植物で、しかもよく似た草根でありながら、一方でトラジが朝鮮でも日本でも食されるのに対し、食味からいえばむしろはるかに美味なこのトドックを食べる風習がなぜか日本にはない。
 ただ信州地方に行くとトドキと呼ぶ食べ物がある。語呂から考えるとトドックの訛ったものと考えても決しておかしくない。最初このことに筆者が気づいた時には、朝鮮語のトドックをそのまま発音したものではないかとすら思った。なぜならこの食べ物がトドックと非常によく似ているからである。

 鄭教授はトドキと書かれているが、他にぐぐってみると、自分の記憶のままトトキで良さそうだ。それにしても、トトキを食べる風習は朝鮮のトドックに関連しているのだろうか。父は朝鮮でトドックを食べていたのだろうか、それとも信州の伝統食として知っていたのだろうか。死んだ父は答えてくれないのだが、父の日本人ずれした感じからすれば、朝鮮で食べていたようにも思う。
 連想ゲームのようだが、信州では蚕の繭も食べる。ポンテギと同じじゃないかと思う。偶然なのだろうか。古代史をひもとけば、天武天皇に纏わる伝説が信州に多く、あの時代の渡来人文化が信州と関係があったのかもしれない。
 食べるほうのトラジは桔梗の根だが、これは漢方薬でもある。サムゲタンに朝鮮人参を入れるように医食同源の発想によるものだ。
 桔梗根は喘息にもよい。父も祖父も老年になって喘息に悩まされたが、トラジを食べていたらよかったのかもしれない。祖父は龍角散をよく舐めていたが、この和薬はキキョウとニンジンを配合したものだ。ニンジンはたぶん竹節人参だろう。だが、最近、龍角散の処方を見るとニンジンは含まれていない。私の記憶違いだろうか。

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視聴率が問題なのではない。ザッピングが問題なのだ。

 日本テレビのプロデューサーによる視聴率操作問題を日経新聞社説を除いて各紙が扱っていたが、どうもピンとこない。以前も書いたが、そんなことがどうして問題になるのか皆目わからない。朝日新聞社説は「日テレ事件 ― 感覚がずれている」でこう言う。


テレビ局って感覚がずれてるなあ。日本テレビのプロデューサーが視聴率を買収した事件のその後を見て、そう思う。

 おい、感覚がずれているのはおまえさんだよ、とつっこみを入れてしまった。こんなことも書いている。

 くだらない番組が増えた。テレビの常識は世間の非常識。そんな批判に素直に耳を傾け、普通の感覚を取り戻すことだ。視聴者の目は厳しい。
 視聴率だけに縛られずに良い番組を作ろう。そんなかけ声で制作現場を元気づけ、広告主の支持もとりつける。日本テレビは、その先頭に立ってほしい

 「番組」を「社説」に、「テレビ」を「新聞」に、「視聴率」を「時代遅れの社会正義」に書き換えて、最後に「日本テレビ」を「朝日新聞」に書き換えたいなと思う。読売新聞なら、「視聴率」を「発行部数」にすればいい。
 それにしても、なぜ新聞はこれほどこの問題にご執心なのだろうか。そして、その論評はどれもほとんど変わりない。どれも判を押したように視聴率が問題だというのだが、そうなのだろうか。毎日新聞社説は少しひねってこう言う。

 視聴率以外の有効な質的評価基準を確立するのは、一テレビ局の取り組みだけでは不可能である。CM取引の尺度としては視聴率以外に客観性をそなえた基準がない現状で、新たな別の尺度を意味のあるものとするには民放界全体の取り組みが欠かせない。それは民放の新たなビジネスモデルの模索をも意味する。

 後半がおちゃらけているが、要するに、やっぱ視聴率以外の手はないじゃんということになる。そして、この手の議論はNHKって存在価値があるという補強にしかならない。そういえば、「あすを読む」でもこの問題を扱っていたが、新聞社説よりは面白かった。単に視聴率至上主義で片づけるのではなく、テレビ視聴率変遷を背景に捕らえていた。知らないことがいくつもあった。
 ひとつは、70年代はTBS、80年代はフジテレビ、90年代は日テレなのだ。グラフがあった。ほほぉと思った。テレ朝とテレ東か下位を粛々と進めていた。ふと、だからテレ東でイチバチの平成仮面ライダーができたのかとも思ったが、そのグラフを見ながら、自分がかつてテレビを見ていた時代の感覚にあっているとも思った。
 二つ目は、ザッピングを扱っていた。ぼんやりと聞いてたのだが、ザッピングの統計を見てはっとした。ザッピング(zapping)だが、元になるzapの意味はちょっと古い辞書には載っていない。心配になってgooの辞書を見たがあった。「素早く動く; リモコンでチャンネルをかえる, ビデオのコマーシャルを早送りする」とある。後半のほうの意味は「あすを読む」では触れていなかったし、今回の日テレ事件でも私が見た範囲では誰も話題にすらしていなかった。まるでタブーであるかのようだ。だが、コマーシャルカットは重要だと思う。話を戻して、「あすを読む」ではザッピングによって番組の固定的な視聴率が得られなくなったというグラフを表していた。テレビをじっと見ていないのである。そういえば、私が子供のころは、テレビのチャンネル回すなぁとか、兄弟でチャンネル争いということがあった。いつからかなくなった。ようするに、テレビリモコンがここまで日常生活を変えていのだ。ちょっと感動すらした。私も若干技術に関わるものなので自戒するが、技術に関わる人間は、新三種の神器みたいないつも最先端の技術に関心を奪われがちなのだが、実際に大衆の行動様式を決定的に変える技術とは、テレビリモコンだったりするのだ。
 三つ目はザッピングによって、番組制作がマーケティング主導になったようだ。いわゆる番組マーケティングだ。番組中の視聴率が分析できるので、どこが面白いということがわかる。そこで、ウケ部分が制作側にフィードバックされるのである。おかげで、番組の時間帯が奇妙に前シフトという事態にもなる。ちなみに、これも日テレが始めたこと。
 「あすを読む」では10分枠ながら他にも興味深い指摘があったが、こうして書きながら考察してみると、今回の日テレ事件のキーワードは「視聴率」ではなくて、「ザッピング」なのだ思い至った。私が念頭にあるのは、インターネットだ。ネットもまた、ザッピング文化なのだ。ヤコブ・ニールセンが情報採餌理論とか提唱しているのと関連しているかもしれないが、ネット閲覧の行動パターンはまさにザッピングだ。
 もう少し踏み込むと、ブログというのはザッピング用にできているのだ。
 そう考えると、極東ブログなど、ブログじゃねーな。ザップして、うへぇっていう印象を与えるからな。とま、つい自嘲なオチになるのは慎もう。現代人とザッピングの問題はけっこう根深い。宮台真司は経済学用語をぱくって恋愛に過剰流動性なんていうけど、流動性じゃない、ザッピングなのだ。人間の関係が情報化されたことで、ザッピングの対象となっているのだし、「出会い系」ってなものは、人間のザッピングのためのリモコンなのだ。

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2003.11.19

在韓米軍基地移転の裏が読めない

 今朝は目立ったニュースはない。もちろん、考えなくてはいけないことは多いのだが、現在の日本にはある種の麻痺感が漂い、新聞各紙社説にもそれが反映する。しかたがない面はある。朝日新聞社説が取り上げていた「武富士事件 ― 本当に個人の犯罪か」は、皮相だった。もう一歩も二歩も深い問題があるだろう。銀行がマチ金化した現在、この手の問題にはタブーが多いのだろうか。市民団体も被害者救済以外には動いていないように見える。毎日新聞社説「原発コスト試算 経済的優位性には頼れない」はなさけない。もともと原発は経済性の問題ではないのだ。毎日は浅薄な反核団体だったか。日経新聞社説「特別会計の抜本改革に踏み出すとき」は日経なんだからもう少し踏み込んで欲しい。塩爺のコメントの域を脱していないじゃないか。もう一点、日経らしくもない「虐待される子を迅速に救え」は高校生の作文のような感じだ。ジャーナリズムじゃない。子供の虐待の問題は表層でも深層でも難しい問題が多い。

 さて、今日の話題は在韓米軍の問題だ。このところ気になっていたがまとまって書いてこなかった。ブログとしては「はてな村」や麻薬などのウケのいい話でウケを狙っていてもしかたない。
 冒頭に情けない告白をするのだが、私は韓国通ではないこともあって、韓国の国情がよくわからない。特にわからなくなったなと思うのは、盧武鉉が大統領に選出されてからだ。率直に言って、本気なのか君たちと思った。それまでの私の理解では、韓国は日本と同じように、表向きの言論と実際の大衆の政治的な心情は反転しているといっていいほどひっくり返っていた。だから、表向きの運動を見つつ、大衆の情感を表すディテールに目配せすれば、大筋で韓国政情を読み誤ることはなかった。日本の大衆意識だって、単純な話、建前の朝日新聞とその反転の実状があると理解すれば大筋で間違いはない。
 金大中前大統領もわかりづらい人ではない。もともと日本語も達者だし、内心では日本の良さの面もよく理解していた。近代タイプのアジア人だ。太陽政策もこの人なら独自の陰影があった。北朝鮮に渡した金だってそう非難されるだけのものでもあるまい。だが、盧武鉉大統領となるとわからない。率直にまるでわからないと言ってもいい。なにより、この人を支持した韓国の大衆意識がわからなくなってしまった。もちろん、韓国人が北朝鮮との間に強い民族同一の意識を持つのはわからないではない。北朝鮮の美女に鼻の下を伸ばすのもわからないではない。しかし、徹底的にわからないのは、金正日にある種の誇りを持つこともあるらしいということだ。どうでもいいが一太郎は「きんせいじつ」では変換しないで「きむじょんいる」で変換するのか。なんだか情けない話でもある。「りしょうばん」も「ぼくせいき」も変換しないだ。いったいどこの国の日本語変換なのやら。
 前振りが長すぎるが、端的なところ、私が知りたいのは、韓国人の在韓米軍意識だ。恐らく在沖米軍と同じような状況にあるのだろうと思っていたのだが、わからない。沖縄の場合は直接的な危機がないのに対して、韓国ではもっと差し迫ったものがあるはずなのに。
 このわからなさは、インターネットで韓国の新聞が読めるようになっても、まるで変わらない。有名紙は日本語版もあるし、NAVERを使えばたどたどしいながらも原文の論説が読める。なのにわからない。
 具体的な話に絞ろう。ラムズフェルドは17日韓国国防部曺永吉(チョ・ヨンギル)長官と第35回韓米安保定例会議(SCM)を行ったのだが、物別れになっている。中央日報によればこうだ(参照)。


今回の会議で、米側は竜山基地残留部隊の敷地として28万坪を韓国側が提供しなければ、国連司令部(UNC)と韓米連合司令部(CFC)を烏山(オサン)、平沢(ピョンテック)に移したいとの立場を繰り返し表明し、およそ10万坪の案を固守した韓国側との隔たりを狭められなかった。
 これによって両国は、当初、年内確定を目指していた「未来韓米同盟政策構想」の協議を来年まで延長することを決め、06年まで烏山・平沢に移転するとしていた竜山基地移転の推進日程がやや不確実になる見通しとなった。

 単純に読めば、米軍は竜山基地残留部隊用に広大な土地を要求したが、韓国が断ったののだから、結果として在韓米軍の縮小を意図しているかのようだ。だが、この結果、烏山・平沢に移転はちゃらになり、「未来韓米同盟政策構想」まで頓挫しかねない。
 地理感がないと、こうしたニュースはわかりづらいだろうが、竜山(ヨンサン)はソウル中心とも言えるが、烏山・平沢はソウルから55キロ南下する。その程度の距離なら南下とも言えないほどかもしれないが、戦禍が推定される非武装地帯(DMZ)からは離れる上、北朝鮮からの攻撃のタイミングによってはソウルは悲惨な事態になりうる。ソウル市民にとって、この後退ともいえる米軍のシフトが戦時にはどういう意味を持つのか、そこがよくわからない。当然推測だが、恐らくそうした事態に米軍は韓国国民を盾にして米兵を守ろうとしているのではないだろうか。DMZにいる米陸軍第二歩兵師団も南下するとの推測もある。
 烏山・平沢では移転される基地について反対運動があることは理解しやすいが、韓国国民全体がこの事態をどう考えているのかよくわからない。悪く言えば、米軍の退却とも言える南下を阻止したいのかもしれない。また、南下することで生まれるDMZ側の手薄な地域やソウルの防戦は韓国軍が当てられることになるのは疑いない。
 日本国内でも国防については大きく意見が割れる。韓国でも割れるとしても不思議はない。だが、どこかに本音があるはずだし、そのあたりを大統領たるものは熟知しているものだと、思いたい。だが、盧武鉉という人間が私にはまるでわからない。今回の信任騒ぎを見ていると、頭の中は空っぽなのではないか。
 こういう感想を言ってはいけないのかもしれないが、もはや米軍はかつての朝鮮戦争のように韓国を死守しないだろう。いずれ北朝鮮に勝ち目のある戦争は起きない。戦時は、北朝鮮の自滅を意味する。難民は日本にも流れ出るだろうが、それよりも韓国の被害は大きくなるだろう。もちろん、北朝鮮を追いつめてはいけないのだ、ということはわかる。だが、火遊びの幻想を抱かせるような威嚇は必須だ。それと同時に自暴へと追いつめないために、冷静に圧力をかけ、かつ暴発を抑える準備は必要になる。米軍なしで、それが可能なのだとは到底思えない。

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2003.11.18

再考・はてな村とくるみの木 リターンズ

 自堕落な私ではあるが、この手の話題は実は避けてきた。でも。ま、事はほぼ歴史の領域に移管されたと見ていいので、歴史家のはしくれで私としては、そのことをここに記そうと思う。っていうのは嘘です。私は歴史家じゃないです。
 話は端的なところ、hirokiazuma.com@はてなの顛末。のっけから余談だが、この日記の存在を知ったのは、はてなのMAP機能によってだ。はてなは、この日記と極東ブログの関係が深いというのだ。私はそうとは思えないんけどね。ことは、先日の大月隆寛のくさしエッセイにも出てきた東浩紀のはてな日記が、17日をもって停止となった(業界人なので敬称は省略)という話。停止の理由は、元ネタを見てもらえばわかると言いたいところだが、滅菌済み、もはや現場の状況はわからんのだ。
 私が理解する限り、当面のことの次第はこうだ。11月12日に東が「『少年深夜外出』に親への罰則規定、横浜市が提案へ」というネタを振ったところ。はてなが真似ているところのtDiaryのつっこみ機能で、みなさん、つっこむべし!つっこむべし!つっこむべし!ということになり、2ちゃんねる化してしまったのだ。祭りだ。
 ネタは、横浜市が少年深夜外出に対して親への罰則規定提案をするってんだけどそれってひどいんじゃないですかってな振り。虻がよってきそうな蜜の味だ。つい、俺っちもちっと言いたいじゃないですか、ってな気持ちにさせる。そして、率直に言えば、俺っちだってゆーめー人とタメはりたいじゃないですかってな思いも、うふふふだろう。とばっくれて書いたものの、このブログでも過去にこっそりビニールに包んでうんこ投げたのできれい事は言えない…さておき、ま、そんなところで、祭りに収拾が付かなくなる。
 で、16日「告知」(←ちょっとこの言葉のセンスはスゴイと思う)で、つっこみことコメント機能をはてなユーザーに限定。さらに17日に停止とあいなる。以下は、引用しておこう。


はてなユーザだけの書き込みに制限したのですが、面倒は続きそうです。まあ、それはそれで適当にさばいていけば何とかなるのですが、コメント欄でも指摘されたようにはてなユーザ限定の日記というのは僕が普段言っていることと矛盾する気がするし、、、、というか、さらに正確には、そんな非難もどうでもよくて、単にそういうツッコミにいちいち反応して、コメント欄をチェックしなければならない自分にウンザリしてきたので、昨日の今日の方針転換ですが、この日記への書き込みはしばらく停止します。同時にコメント欄も閉鎖します。以前のコメント欄が見れなくなるのは残念ですが、これははてなの仕様なので仕方ありません。

 ここで遠隔からうんこ投げのようなつっこみを入れるってのなぁと思うので、それは避けておく。うんこが自分に跳ね返ってくる部分もあるしね。例えば「僕が普段言っていることと矛盾する」というのは実名で書くと、そーなるよね、である。
 ただ、このブログでわざわざと取り上げたのは、「同時にコメント欄も閉鎖します。以前のコメント欄が見れなくなるのは残念ですが、これははてなの仕様なので仕方ありません。」は、そうなのかなと思う。確かに、コメント欄を放置すれば、祭りは宇宙のエントロピーが最大値になるまで続くだろうというのはわからないでもない。いずれにせよ結果的に他者の言葉はあっさりと殺戮された。こういう言い方は誤解を招きやすいのだが「人の書いたことを許可なく消すのは許せん」っていうのじゃない。それは、一種、編集権の問題だろうと思うしね。そうじゃなくて、他者の言葉への恐れのようなものについての一種の感慨だ(*1)。
 別の言い方をすると、書くという行為は自己を疎外する。外化するわけだ。それは自分自身でもコピーでもない。一種の現象だとも言える。そして、この手の祭りも同じ現象なのではないか。そういう現象の生成運動に対して、「自分」という特権をするりと出してくるという感性に、私はとても違和感を持つ。「バカは相手にしない」という問題とは別にしてだね。
 と書いても、こういう私の見解はあまり理解されないだろうし、まして、同じ問題が今日自分のブログに降りかかってこないとも限らない。具体的に、このブログで祭りが始まったらどうするのか? できるだけ自分の顔にきちんとぶち当たったうんこはぬぐわないようにしよう、そして道に落ちたうんこはぬぐおう、つまり、編集しようかなと思う。自分を守るのは極力止めようとは思う。が、祭りになっちまうとそうもいかないだろう。とりあえず、つっこみははてなユーザーに限定というあたりか。実際問題としては、今回のケースは著名人ブログ対無名人という構図はあるし、旧メディア対ブログという構図もないとは言えない。
 さて、と、もう一つ気になることがある。ブログというものをどう捕らえるかだ。もう一箇所、16日のhirokiazuma.com@はてなから引用する。

読者のみなさんも何となく気づいていたと思いますが、実はこの数週間、僕は日記の方針を変えていました。モスコミューンとか文学フリマとか、仲間内のネタ(当然自覚はありましたよ、そりゃ)を回しているあいだは居心地がよかったこの日記ですが、さて、内容が政治的になったり理論的になったりするとどうなるものなのか、いくつか観測気球を飛ばしてみたのです。結果として、込み入った議論には向かないし、荒れるときは荒れるという欠点が分かったので、今後の方向性をしばらく考えてみます。基本的にははてなで続けるつもりですが、別のシステムでも実験してみるべきかもしれません。結局MTを採用するような予感もします(笑)。

 私は何を気にしているか? tDiaryとMTって機能的にそんな差はないっすよ。PerlとRubyのくらいです、ってな技術系の話はHTMLの理解すら苦手そうな東に突っ込むのはどうかと思うが、それでも「込み入った議論には向かないし、荒れるときは荒れるという欠点が分かった」という点は、そうなんだろうかね。単純に否定しているわけではないし、否定はできないというのがむしろ前提だろう。気にしているのは「理論的」は私にはどうでもいいことだが、「政治的」な発言についだ。それがはてなに向かない、という結論は、私は当面否定したいなと思う。と、ガラにもない話題を書いたのは、政治的な発言に向かないという言葉は、汎用的に結果的におそらく私にも投げかけられているのだから、それに答えておこうと思った次第だ。私たち市民はこの日本の社会を変えて行かなくならない。その方策は言葉にしかない。その言葉の可能性はとりあえず、愚直に探求されてもいいものだろう。
 再度、顧みて思うのは、極東ブログの著者は匿名だし、無名だということの要因は大きい。課題となるなら、書かれたもの、書かれた現象、ということをどう捕らえるかになるだろう。我ながらつまんない話だな。でも、横浜市が少年深夜外出に対して親への罰則規定するってな話題は私にはつまらない。ま、そういう話題の棲み分けっつうことだけかもしれない。

注記
*1:追記11.29:既存のコメントに限ってはダウンロードでき、まったく消されたわけではないので、この指摘はあまり正確ではなかったかと思う。

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11月18日のランチ・アラカルト

 IP電話話が長かったので、小ネタのアラカルトはこちらにガーベッジコレクションしておこう。

このところの株安
 日経新聞社説「『ミニバブル』調整下の株安」では、このところの株安はそれほどどってことないと言いたいらしい。


 東京市場で17日、株安、円安が急速に進んだ。一部でイラク情勢に絡み、日本の地政学的リスクを懸念した動きとの指摘もあるが、基本はミニバブルの調整という市場の内部要因だろう。市場関係者は株価の下げを深刻には受け止めていない。

 ホントかなぁ。市場関係者って、「ガイジン」ってルビを振るのだけどね。

イラク派兵問題
 日経社説「イラク統治に苦闘するブッシュ政権」だと、派兵に賛成なのか。ほほぉ。


イラク人への円滑な主権移譲は中東の安定に寄与し、ひいては日本の国益にも通じる。そのために自衛隊派遣などを含め日本が貢献することは当然であろう。

 でも、論理が破綻しまくっている。日本の貢献=派兵かね。

年金改革
 朝日社説「厚労省の年金改革案 ― 超党派でさらなる改革を」は長いんだけど、内容はゼロ。という点で、読売、毎日、産経など他の社説も同じ。朝日が「保険料の引き上げは必要だ」としていのはマシかなくらい。ちなみに朝日の「超党派」ってなんだと思うけど、民主党に任せろっていうことだろうな。ずばり、そう言えばいいのに。「はてなダイアリー」をなにげに見ていると、共通一次試験世代以降が多いせいか、年金なんて、あの糞な団塊の世代の醜いオタオタくらいにしか見ていない。そういうことのほうが問題なと思うな。みなさんも年はとるのだよ。年金なんてカンケーないっていうのは若気の問題だと思うぜ。

臓器移植
 なぜか産経が「臓器移植 法律の早期改正が不可欠」として臓器移植問題を扱っていた。結語はトホホ。


家族はその場に立たされると、動転してパニックを起こしかねない。臓器を提供する意思がある人は、家族にその思いを伝え、意思表示カードに記入しておくことが大切である。

 トホホじゃすまされないよな。でも、どうしていいのか皆目わからない。率直いうと、私は臓器移植はイヤだ。

日本の亀の6割が外来種
 NHKのニュースから。そっかぁと思う。最近、猿沢池に行ってないがどうなっているのだろうか。外来種が増えることもだが、在来種の混血も進んでいるらしい。雑種というのはしかたがないではすまされない、というのは我々の環境変化が強いているのだから。なんか、亀には感情移入があって悲しくなります。

セルビア大統領選成立せず
 NHKニュースから。そりゃそうだろうな。セルビア人、びびっているというより、悪いことしたなんて思ってもいないものな。ビルマも民主化とかしたら同じようになるのかも。

タイム誌によれば旧フセイン勢力が組織化
 おおっつ、田中宇の奇抜なストリーが実際化しているのかぁ…なんて思いませぬように。ニュースとエンタテイメントは分けて考えませう。

台湾苗栗県の爆竹工場で爆発5人死亡
 NHKニュースから。そっかぁというか個人的には関心あるんだけどね、ブログネタ?

デジタル放送不正録画防止へ
 NHKニュースから。「テレビの地上デジタル放送では受信機に差し込んだカードで一度しか録画できないシステムを導入」のこと。デジタル放送なんて成功しないよ。頭を冷やせ。

オペラ歌手のパバロッティさん来月にも再婚へ
 ポールマッカートニーといい、男ってやつはですね。パバロッティってリゴレットの悪玉の適役ですよね。

小ウィンドウポップアップは特許違反というお笑い
 embedタグ(objectタグか?)問題がらみだかしらないけど、(有)バーセル研究所は笑える。負けるな、頑張れ、孫社長、もっと大きな笑いを取るんだ!

 でも、実際の特許を読むとなかなか含蓄が深い。例えば、以下。いったい、いつの時代の話なのでせうか。


【発明の属する技術分野】インターネットのホームページ又はwebサイトで利用する方法であって、大きな画像データを転送するために発生する待ち時間を解消するための割込みファイルwebサイトの設定方法に関する。

 特許を読むと乱数で選んだ画像がなんたらとあるが、サンプルコードは以下のごとし。

<HTML><HEAD><TITLE> </TITLE>
<SCRIPT LANGUAGE="JavaScript">
function naoW(str){
if (str!="close"){
naoWin=window.open(str,"nao","resizable=yes,scrollbars=yes,
menubar=no,status=no,directories=no,
location=yes,toolbar=no,width=400, height=300" );
}
else{ naoWin.close(); //C部分
} }
naoW("nao/nao1.htm"); //子ウィンドウの指定
if (navigator.appVersion.lastIndexOf('2.0') == -1)
naoWin.focus();
</script>
</HEAD>
<body onload="naoEnd()"> //B部分
<SCRIPT LANGUAGE="JavaScript">
naoW(); //A部分
</SCRIPT>
//ここから下に一般のHTMLを記述します。<br>
<img SRC="gazou_MAX.gif" >
</body></HTML>

 ま、スラッシュドットあたりのネタですね。私の出る幕じゃないので、おしまひ。

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読売新聞社説のIP電話の説明は大間違い

 今朝は、大きな話題がうっとおしいので、ブログにありがちな細かいネタのアラカルトにしようかなと思った、通常は軽い小ネタがブログなんだろうから。しかし、IP電話なんていう小ネタが実際長くなってしまったのでこれで1本まとめる。
 読売新聞社説「IP電話 通信の世代交代は止められぬが」は、おおっ柄にもないこと書いて墓穴掘るだろうなという期待を満足させていただきました。という点で、とりあえず、ごちそうさまです。


一般家庭でIP電話に加入するには、ソフトバンクBB、NTTコミュニケーションズ、KDDIといったサービス会社と契約する必要がある。
 通常は光ファイバーやADSL(非対称デジタル加入者線)の利用料、インターネット接続サービス料とのセットで、月四千円前後の固定料金がかかる。
 しかし、通話料は、同一グループのIP電話間では無料、国内の固定電話向けで三分七・五―八円、米国向け国際電話で一分二・五―九円という安さだ。

 この話、前提がとち狂っている。「一般家庭でIP電話に加入するには」って、話が逆。IP網が常接になっているから、ほいじゃ電話も統合すべぇという話なのだよ、読売さん。だから、さらに金がかかるってなご心配はご無用。
 爆笑は、「通話料は…」のくだり、IP電話は料金が安いといいたいのでしょうが、阿呆か。奥さん家計簿つけたことないのぉ、のしょぼい突っ込みを入れたくなる。「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」と味噌糞にしているが、通常の家庭の電話利用は市内が大半だ。
 なんだか、むかついてきたぞぉ。庶民を騙すんじゃねぇぞ!なのだ。平成15年10月23日(木)発表のこの資料を読んで貰いたい。「【別紙】 固定電話からIP電話(050番号)への通話サービス提供料金」。俺様が間違っているっていうご指摘は大歓迎だが、どう見たって、IP電話から一般のNTT固定電話にかけるには3分10円以上かかっている。
 読売は「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」、だから安いと言いいのだろうけど、頭を冷やせ、考えろ、読売! 逆にだね、固定電話からIP電話にかけると10円なのだよ。おまえさんら、人様に迷惑をかけるようなヤツは金輪際承知しねって教わってこなかったのか。
 それに実際の大衆の家庭で利用されている市内通話に限れば、東西NTTのマイラインプラスなら3分8.5円だし、これにエリアプラスをちと加えれば5分8.5円になるのだ。詳しい話はちゃんとデータを元にシミュレーションしなくちゃいけないが、市外通話だってマイランの各種サービスでディスカウントされるされるからその頻度で採算ラインを出せば、IP電話なんてものには魅力はないのだ。そういえば、第一、おまえさんがたマスコミはマイラインについてきちんと説明もしてこなった。
 このあたり、ちょっとルール違反だが、ビジネスマンの東山櫻を出すとだ、以上のように読売を一喝したものの、恐らく、IP電話化には、それほどデメリットはない。ビジネス感覚でいうなら、読売くらいはだませても、ビジネスマンはだませないから、現状のIP電話のコストは通常の固定電話のコストとバランスするように料金設定されているはずだし、大衆家庭ではないなら、IP電話にメリットは若干でるだろうと思う。
 だが、新聞というのは社会の公器でなくてはいけない。特に読売新聞は大衆紙ではないか。その大衆にIP電話はどういうメリットがあるのかきちんと書かなくていけない。デスクだか上部のチェックの爺にわからない話を書くなら、きちんと裏を取って書く気構えが必要だ。少なくても、IP電話は一般大衆家庭に負担を強いるシステムであることを言明しなくてはいけない。東西NTTにやつあたりしてもいいが、大衆の側に立て、新聞、特に読売新聞!
 読売新聞社説ではIP電話のありふれたデメリットにこう触れる。

 ただし、一部のサービスを除いて、110番などの緊急通報ができない。通話の安定性や音質なども、まだ固定電話に一日の長がある。

 110番ができないということは、大衆家庭にどういう意味を持つのかまるでわかっていない。コモンキャリアっていうのは、キャリアのコモン(一般性)ではなく、このコモンにはコモンウェルス(国富)の語感があるのだ。
 引用は長くなるだが、以下の結語に至る読売新聞社説の論述はサイテーだ。

 問題は、IP電話が都市部を中心に展開されており、過疎地では固定電話に依存せざるを得ない状況が続くことだ。
 NTTの東西地域会社は全国一律の電話サービスを維持する義務を負っているが、それにはIP電話は含まれない。
 IP電話と携帯電話に挟撃され、固定電話の通信量は急減している。NTT東西も設備投資の重点を、IP系のサービスに移しつつある。数年後には固定電話網の機能が大きく低下しかねない。
 どうやって固定電話からIP電話への世代交代を円滑に進めるか。官民が協力して、検討を始める時期だ。

 違うだろ。話はここでも逆だ。なんども極東ブログで扱ってきたが、今日本で問題なのは地方なのだ。日本の地方はこれからどんどん取り残されていく。IP電話なんか普及しないよという前提に立つほうがマシなのだ。少なくとも普及の予想がオンスケージュールで見えない状態でコモンキャリアを変動したら危険だ。
 最後にくどいが言う。「どうやって固定電話からIP電話への世代交代を円滑に進めるか」だとぉ、しかし、私はそれが円滑に行かないようにこうして努力しているのだ。

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2003.11.17

「どこに日本の州兵はいるのか!」

 今朝になって読売新聞と毎日新聞が市町村合併についての社説を出していた。なーんだ結局各紙ともに扱うことになり、要するに読売と毎日が一番日和ったわけだ。社説読みの些細な面白さである。で、内容だが、日和見さんにハラが座っているわけもないで、さしてどういうことはない話だ。2紙ともに知事の機能を重視しているが、一見まっとうな議論のように見えて、逃げだ。なぜ逃げか?すでにこのブログで書いたようにこの問題の基底には日本の都市民の問題があるからだ。他、今朝も目立った話題はない。話題がないわけではないが、私の間違いかもしれないが、年金改革や道路公団問題、イラク問題、どれも思考停止的な状況になっているようだ。このブログでは露骨な意見が多いので、前段に戻ってもなぁという感じはある。

 今日は「州兵」についてメモしておきたい。なにかと他人の無知を罵倒しまくるこのブログではあるが、私は州兵について十分知識を持っていない。恥ずかしいことだと思う。が、ちとぐぐってみても、あれまというくらい州兵についての基本情報はないようだ。一太郎でも「しゅうへい」で「州兵」が変換しないので、この機に登録したほどだ。
 なぜ州兵の話題なのか? 単純である。イラクに米国州兵が投入されているからだ。で、それがなぜ話題?という背景を書くためのメモが今日のブログである。標題はたまたまぐぐって見つかった言葉だ。阪神大震災のおり、神戸在住のイギリス人ピーター・E・フィリップスさんの意見(参照)があった。彼はこう書いている。ちと長いが前段の一部も含める。


 自治体の災害対策は不合理なまでに楽観的な仮定に基づいていた。神戸市は震度5以上の地震を想定していなかったし、すべての道路、鉄道、電話が引き続き利用でき、その災害対策スタッフが全員活動できる計画しか持っていなかった。今回の地震は予想の倍もの被害を出し、ほとんどの幹部が動けなかったし、交通は寸断され、コミュニケーションはとぎれてしまった。
 (中略)
 全般的かつ継続的に印象的だったのは、民間防衛隊や軍隊が全く存在しない状況で、動揺や犯罪や暴動もなく、水や食料を何時間も整然と並んで待つ人々の冷静さであった。CNNのクルーは私に、「どこに日本の州兵はいるのか!」と、たずねた。アメリカ合衆国では災害時に、州兵(ナショナル・ガード)が、救援と治安維持のために素早く派遣される。

 阪神大震災のような自然災害のとき、米人なら「州兵はどこにいるのか!」と叫ぶのだろう。州兵とはそのような存在なのだということがよくわかる。「州兵」は英語でNational Guard。ぐぐってみると、「ナショナルガード」でとんちきな検索結果も出る。「州兵」も「ナショナルガード」も日本語ではこなれていない。直訳すれば、「国の守り」になる。歴史感覚のある日本人なら沖縄戦の響きがあるが、センター試験以降の世代には語感もないだろう。国(ネーション)なのになぜか州(ステーツ)を連想せる言葉として「州兵」と訳されているのか、訳語の歴史はわからないが、州兵は米国の各州がもつ志願制の治安維持組織だという意味を込めているのだろう。こんなところにも日本人が「国」(ネーション)と「国」(ステート)の差異を理解していないことが現れているのかもしれない。日本国憲法ですら、原語のネーションとステーツの訳分けはされておらず、私が調べたかぎりでは日本の憲法学者も不問としていた。州兵は州から出されるがその兵はネーションのために存在している。
 こうした「州兵」に相当する国家の機能を考慮すると、日本人の感覚なら「自衛隊はまだか!」となるのだろう。阪神大震災のときでも、多くの日本人がメディアを介して自衛隊はまだかと思ったに違いない。その背景で、在日米軍が支援に手を出そうしたことを知る人は少ない。やや余談めくかもしれないが、阪神大震災は天災だったが、あの時の国政はまさに天災を上回る人災だった。世間では今ですら村山富市を好好爺に見ているが私はこの爺は刑事訴追して死ぬまで豚箱に入れるべきだと思っている。国家的な犯罪人だという判断にためらいはない。保守新党は解党されたのでこのページも消えてしまうのだろうが、「新進党阪神大震災現地対策本部長」(参照)は歴史資料として保管してもらいたいと思う。新進党「国土・交通政策担当」の二階俊博の手記ともいえる。ちと長く話が散漫になるのを恐れるがこのページが消えることを懸念して引用する。

一月二十日、通常国会が招集された。二階は、衆議院本会議で新進党の代表として「兵庫県南部地震」についての緊急質疑に立った。
 二階の「地震を知ったのは、いつか」という質問に対し、村山首相が答えた。
「この地震災害の発生直後の午前六時過ぎのテレビで、まず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして、国土庁等からの情報収集を命じながら、午前七時三十分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展する可能性があるということを承りました……午前十時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりです」
 しかし、地震発生当日の午後零時五十分、村山首相は記者団に対し、「七時半に秘書官から聞いた」とコメントしている。
 二階は思った。
〈七時半に知ったのでは、都合が悪いとでも思ったのか。しかし、それにしても午前六時に知り、午前七時半に報告を受けたというなら、その一時間半、いったい何をやっていたのか。国家の最高責任者としての自覚がなさすぎる……〉
   (中略)
かれのような責任の重大さを村山首相は感じているのか。総理大臣たるもの、国民の生命、財産をおびやかす戦争や災害の発生に対する危機管理は、常に考えていなければならない。ところが、村山首相は、翌十八日の朝八時から呑気に財界人と会食している。
   (中略)
 二階のもとに、被災にあった人の友人と称する人から電話があった。その人は隣の住人と共に生き埋めにあい、懸命に「助けてくれ」と叫び続けた。だが、隣人の声は、三日目にして途絶えた。自分は幸いにして四日目に自衛隊に助け出されたが、あと一日早く救助されれば隣人の命は奪われなかったという。
 二階は地震発生当初、村山首相をはじめ政府与党がもっと機敏に迅速に対応していれば、一〇〇〇人から一五〇〇人の死者は救えたのではないかと思っている。
 しかし、村山首相は自衛隊そのものにこだわった。たしかに自衛隊法には、「自衛隊は知事からの要請がないと出動できない」と記されている。が、自衛隊の最高指揮官は首相である。必要を感じれば、災害対策基本法の百五条に基づく各種の強制的な規制など総理に権限を広く集め、効力のある「緊急災害対策本部」を早急につくれる。そうすれば蔵相の了解なしに予備費の支出もできた。とりあえず、食費などの資金的援助が迅速にできたではないか。

 州兵に話を戻す。手元の小型百科事典マイペディアを見ると、州兵について、「陸軍州兵と空軍州兵とあり,平時は州知事の指揮下に州で起こった天災の救援や暴動の鎮圧などを行なう」との記載がある。確かに州(ステート)レベルでの災害対策という認識でよいのだろうが、現在のネットの情報を見ると、陸軍州兵と空軍州兵についてもう少し詳しい解説が欲しいところだが、率直なところ私にはよくわからない。
 40代以降の人間なら、州兵がベトナム戦争に狩り出されたことを知っているはずだ。マイペディアには「米陸軍・空軍の予備役としての性格をもち,戦時には正規軍に編入され大統領の指揮に従う。」ともある。
 ふと気が付いたのだが、マイペディアでは「戦時」という言葉を使い「有事」を使っていない。私も「有事」という日本語は以前聞かなかった。なにか変だなと思うが、話を続けると、戦時には州兵が正規軍に編入されるとのことだが、このあたりの説明は間違いではないのだろうが、ちと粗雑過ぎるようだ。州によっても違うだろうが、州兵はある意味、ウィークエンドのボランティアのような様相もある。また、若者も多いのは補助金が出るからだ。今回のイラク戦争で米国内で400人近い戦死者を出している(考えてみるとすごいことだ)がそれでも徴兵の必要がないのは、米国の雇用が低迷していることがある。奨学金なども出るようだし、こうした若者が身重の恋人を残して死んでしまうこともあるようだ。ただ、ベトナム戦争を思い出すと、徴兵となれば、病気や州兵応募などは免除の対象になる。州兵として米国本土勤務となれば、海外出兵を避けられるのだが、今回は逆に州兵がイラクの危険地域にかなり投入されている。この様子は日本版ニューズウィーク11.19「ドキュメント 州兵たちを脅かす姿なき敵 泥沼のゲリラ戦に直面させられた州兵の苦労と怒り」に詳しい。州兵を通して、イラク戦争は米国の日常生活と直結しているのだ。と、ふと気が付いたのだが、9.11以降、州兵は国内の厳戒ともいるような防備にあたって組織化が進められていので、派兵も楽だったのかもしれない。
 以上話は散漫になった。州兵と市民軍(国民軍)を意味するmilitiaとの対比や、州兵の歴史的な側面などももう少し記載したほうがいいのだろうが、私自身の不勉強を痛感するので、ここまでとしよう。書いてみて思ったのだが、日本人の自衛隊への期待は本質的に間違っているようだ。むしろ日本にもきちんとしたナショナルガードが必要で、それを自衛隊と組み合わせる必要があるだろう。現在の裁判員制度改革のように、自衛隊にきっちり民間代表を送り込む構造が必要なのだろう。ま、そういう提起が日本の市民から起きることは、金輪際なしのだろうな(絶望)。

[コメント]
# masayama8 『絶望したくもなる気持ちはわかります。そしておそらく本当はまだ望みを託そうとされているのだろうということも勝手に読み取っています。』
# masayama8 『すこし引き伸ばした話をするのですが、制服の警官の方たちや、救急隊、消防隊の「組み合わせ」だけではたりないが、本格的に軍隊的要請までは不要という柔軟性を要する事態が起きる可能性は否定できないでしょう。上記にある大震災の件でもおっしゃるとおりで、日本の識者も常々懸念しておられるところだと思われます。日本に毒ガス系のテロや9.11形式のテロが起きたときには、上記お書きになっておられるような、武力をも備えた救護者が必要になるでしょうね。その方が縦割りでないし、出だしからして迅速でしょうから。スワットやら海兵隊やら州兵やらという細分化は、違憲視される自衛隊の合憲を積極的に認めたうえでの議論に見えるので、忌避されてきたのではないでしょうか・・・。』
# masayama8 『それが巡って、国民の利益を大震災での事後措置の遅さによって結局かなり失わせた。はっきり言えば死なずに済んだ人も殺したということです。このような失態の先例を作ってしまった。あれ以後、対策も練られているかのような話を聞きますが、実際のところどうなのか。今度はテロ形式で何か起きてしまってから、また問題提起ぶるのでしょうかね。そういう後手に回る事を避けるべく違憲か合憲かという話をしているわけですからね。あの大震災の措置の遅さはそれこそ、僕らのコンセンサスのなさの象徴だったとも言えると思います。』
# レス>masayama8 『そうですね、絶望じゃいけないなと思うのですが…。今回また、裏をちとあたってみて、小沢のことをいろいろ思いました。ま、うまくブログには書けないのですが、当面、民主党にちゃんとしてもらうしかないのかな、とも。』

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2003.11.16

[書評]「古の武術」に学ぶ(甲野善紀)

[歴史]「『古の武術』に学ぶ」(甲野善紀)
 まず、今朝の動向。新聞各紙では、今朝になって昨日のブログに書いた市町村合併の話題が日経と産経に見られた。日経は反対意見、産経は賛成。この件については自分の視点から贔屓するわけではないが、産経のほうがまとも。日経は例外をもって議論を進めるなど論理自体破綻している。他、GDP統計の話題はお茶を濁す程度。読売が米国牽引の回復に安住するなと井高にこいているが内容はない。あるわけもない。FTAがお先真っ暗な日本に貿易の活路はなくなっていく。国内需要については問題が錯綜してはいるが、少子化と地方の問題という大枠の構造を視野に入れない限り、新三種の神器といった阿呆な話になる。

 さて、今朝の話題もないので、書評を増やす、と思ったのだが、書評にもならないので、分類は歴史とする。
 「『古の武術』に学ぶ」はまだ正式には書籍化されていない。標題は今NHKでやっている人間講座だ(*1)。テキストはありがちなぺらっとした装丁で販売されている。いずれどっかの出版社から出るだろう。が、書籍としてはあまり面白くないだろう。面白いのは、実際の立ち回りである。とま、それが結論なのだが、その前に簡単に甲野善紀を紹介しておく必要があるか。けっこう有名人なのだが日垣隆も知らなかったみたいだ。はてなではキーワードにもなっているようだが、武術稽古研究会松聲館の主催者とあり、情報が古い(*2)。
 甲野善紀は1949年生れの武術家なのだが、「武術家」ってなんだという疑問はつきまとう。武術の研究家というほうがいいだろう。彼はそこから率直なところ珍妙な理論を作り出すが、そのわりに桑田真澄や末續慎吾(*3)の指導をしても、ちゃんと成果を出す。だもんでその理論はスゴイと思う若者が多いのだが、私はこれは理論ではなく、甲野の特異な人格の影響だ思う。
 甲野善紀については、「自分の頭と身体で考える」(養老孟司共著、PHP研究所)や「古武術に学ぶ身体操法」(岩波書店)など、物書きの世界でも有名だ。先の日垣隆も文藝春秋の記事で知ったようだ。で、私の印象なのだが、胡麻臭ぇなこのオヤジだった。この手のヤカラはいっぱい昔いたもんだよと思っていた。本物かどうかは身のこなしを見ればわかる、と思って、NHKの講座を見た。
 見て、まいりましたね。こりゃ本物だね。なにが本物だと思ったかというと、たぶん、多くの人の視点とは違うと思うのだが、本当の殺人剣を秘めていたからだ。NHKの映像だとちょっとそのあたりぼかしているけど、こりゃすげえ、です。ちゃんと人が殺せる人だなと了解。人殺しの風貌もある。そしてその上で、人を殺さない武道というふうに武道を捕らえている点では、ある意味画期的だ。
 だが、悪く言えば、この人の古武道の理解は完全に間違っているのである。じゃ、テメーの正しい古武道の理解とやらはなにか訊かせてもらおうじゃないか、となるだろう。聞かせてあげよう。本当の古武道とは卑怯の道である。およそ武術も戦術も卑怯の極みでなくてはいけない。日本の武道が孫子かと言われそうだが、兵とは詭道なり、である。


故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。

 武道というのは、まさかこんな立派なおかたが、という人がいきなりうんこを投げるのである。どうもこの手のギャグに最近嵌っているが、いずれにせよ、詭道とは卑怯の限りを尽くすことだ。
 実際私もまた甲野のように古武道の原点に関心をもって自分の感性で調べていったらそんなものだったのだ。基本は、身をかがめて足狙い。それと金玉蹴り。生きるか死ぬかっていうのは、ようするに勝ちゃいいのだ。卑怯こそ最大の戦略。そういうものが本来の武術なのである。甲野の滅菌した古武道は、そういう観点で見ると、おおっそれって卑怯な手ですなぁ、が隠れていている点は喜ばしい。
 卑怯こそ武道の原点だ。で、それからちと矛盾に陥る。武道というのは武家から出るわけだが、武家というのは一種暴力団だ(*4)。当然、組長には風格がなくてはいけない。中世までの武家はそういう暴力団と同じなので、その棟梁にはある種風格が求められてしまう。「われこそは八幡太郎なんたら…」と叫んで戦うのだから、あまり卑怯な真似はおおっぴらにはできない。それに加えて、日頃でもやくざどもを束ねる訓練ってなものもあるので、なんとなくすがすがしい武士道のようなものができる。なお、武道にはあともう一点は海賊があるのだが、これはまたの機会としよう。
 だがだ。甲野善紀も武者修行に言及しているが、いわゆる古武術になると、一人技になる。じゃ、卑怯の極みに戻るかというと、そうじゃない。このあたりだいぶ誤解があるようだが、いわゆる古武術の武道家というのは、市場の演芸人である。大道芸人なのである。宮本武蔵などいかにも武道の達人とか言われているが、大嘘である。あれも芸人。もちろん、命をかけての芸人だ。実際の戦闘には役にもたたない。NHKの講座では、手裏剣の話もよかったが、この卑怯な武具の投げ芸を、甲野はくったくなく楽しそうにやっていた。しかも彼の手裏剣のお師匠さんの話もよかった。芸は一代限りというのがよくわかる。
 考えてもみよ、壬申の乱から源平合戦、そして武田軍団までは基本的な戦闘は騎馬戦なのである(歩兵や海戦もあるがここでは論じない)。そして騎馬戦からすぐに時代は鉄砲に移行するのだ。刀なんか振り回している武士なんてものは歴史上存在しない(*5)。「葉隠」の正しい武士にとって実質の戦力は鉄砲である。最高の武士文学、隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」を読めばわかる。
 話がめちゃくちゃ。なので話を進めて古武術の現代的意義なのだが私はこれは、近代武術と対比でみるのではなく、それ自体で歴史的な終焉を迎えたと考えている。そして、いわゆる芸としての古武術を終わらせたのは、柳生石舟斎だと考える。この石舟斎最大の卑怯技が無刀取りだ。これをもって古武術は終わった。刀、つまり武具を無化するとこで古武術は完成し、終了した。無刀取りは時代劇などでは滑稽な真剣白刃取りとして描かれ、あんなのあるわけねーじゃんと思っていたが、甲野善紀を見ていると、ありうるかもしれないな、と思うようになった。現状の柳生にはもはやこの技は伝承されていないだろう。
 その他、芸事ではない体系的な組織的な古武術についてだが、恐らく最強の武術は示現流だと私は思う。現代では多くの人が本物の刀を持ったことがないので理解できないのだろうが、あのだな、刀というのは全部鉄で出来ているのである。竹刀や木刀ではないのだ。あの鉄の塊をぶん回すのは芸人でしかできない。そして芸は所詮組織的な殺戮には使えない。となると、歩兵が勝つための刀の正しい用法は、一刀に下す以外はありえない。そう考えると、示現流ほど合理的な剣道はない。

 示現流兵法心得


  1. 刀は抜くべからざるもの
  2. 一の太刀を疑わず、二の太刀は負け
  3. 刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず
  4. 人に隠れて稽古に励むこと

 示現流は完璧だ。甲野はNHKの講座で刀を鞘に収める所作の解説をしていたが、刀というものは抜いたら終わりだ。あとは相手を一刀で殺すだけ。疑ってはならない。足を切り込まれても、一刀にざくと相手の肩の骨を折ればいいのである。まして、刀で防戦などする手間はない。一刀の技はただ鍛錬あるのみ(*6)。
 余談だが。レスリングやK-1など私はまるで関心ない私だが、戦いというのもには血が騒ぐ。その感性でいうと、K-1などはでくの棒だ。実際の戦闘では強いとは思わない。じゃ、最強の武術ってなんだろうと思ったことがあった。私の結論はこうだ。多分ボクシングだ。まさか? ボクシングというと殴ることに関心が向くが、最大の利点はフットワークだ。あの足で間合いを詰められたら、飛び道具以外では勝てっこない。やくざがボクシングを重視するのは実践のせいだ。
 ボクシングより強い武術があるすれば、映像でしか見たことないし、その武術の名前は忘れたがインドの武術だった。ヨガと関係あるのかわからないが、腰巻きだけの裸の男が人間とも思えない動きをして飛ぶは蹴るは、立っていたかと見えたらすとんと180度開脚して沈むと思うやバク転するのだ。あれに刃物が付くのかと思ったら、ほんと恐怖した。あれには勝てない。あの技はもともと異教徒を殺すためのものらしい。パキスタンあたりに今でも伝承されているのではないか。そんなのお二人も従えていたら、ビンラーディンもけっこう心強いだろう。

注記
*1:(参照
*2:武術稽古研究会は先月をもって解散した。
*3:高野進コーチは甲野善紀のなんば歩きに影響を受けているようだが、直接甲野が末續を指導したということはなく、誤解を招くので削除とした。
*4:中世以降の武家は恐らく台湾の首狩りの部族と関連があるだろう。
*5:海戦では振り回すのである。
*6:と、書きながら、なぜ示現流では人に隠れて稽古するのか、突然わかった。うかつだった、そうなのだ、人に隠れてするっきゃないような稽古をするからなのだ。

[コメント]
# sayoukann 『カラリパヤットじゃないですか?>インドの武術』
# finalvent 『あ、それみたいですね。どうもです。ぐぐってみると、けっこう情報がありますね。』

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2003.11.15

お菓子のような避妊薬

 極東ブログお得意のお薬ネタが最近ないので書くか…という気はないが、ぐぐってみてもどうも国内の情報がないので、ある程度公益のために書いておこう。新型オブコン35(オヴコン35:Ovcon-35)についだ。昨日RU-486について触れたが、こいつについては国内でも若干情報がある。欧州や米国の流れを見れば田中宇でも言及できる問題でもある。だが、新型オブコン35になると、ちとビミョーだ。率直なところ、私も、そりゃなんだ?と思って調べたので、メモ書きしておくというような話だ。
 ニュースはロイターヘルスからだが、チュアブルのオブコン35が解禁になったというものだ。フレーバーはスペアミントらしい……なんだそれ? オブコン35は有名な、日本でいうところのピルだが、それがチュアブルになるっていうのがなぜニュースなんだ?
 チュアブルというのは、かみ砕けるということで、ウェハタイプ(日本だとヨーグルト風味のでかい錠剤みたいなお菓子があるがあんなの)とグミタイプがある。米国ではサプリメントに多い。というのも、嚥下が難しい老人や飲料水がアベイラブルではない状況が多いためだ。あ、アベイラブルって日本語は変ですね。グミや子供向けのビタミン剤に多い。ヤミーベアってやつだ。えぐいフレバーにチアミンやリボフラビン臭のするヤツだ。子供向けにはあとバルーンガムのがあるが、ま、そんな感じだ。
 で、なんだ? ロイターヘルスのニュースはこの件について簡素すぎてなんだかわからなかったが、そう、あのヤミーベアがピルになるっていうことなのだな、要するに。
 ヤミーベアっていうことは子供向け。プレティーンの子供になんで避妊薬を? ふと思うのは、日本でも最近盛んになっているジェンダーフリー教育だが、米国だとプレティーン(10歳くらい)でがんがんやっている?ってな妄想を浮かべるのは、常識的に言って、大間違い。たいていの米国人は保守的です。特に、子供に対してはですね。じゃ、なんだ? レイプ予防? 確かに、モーニングアフターはそのように利用されている。日本はそれがないから、中絶天国が続くのだが…。
 とま、???ばっかしなので、ちと調べて、ある意味唖然とした。そうかぁである。もったいぶって申し訳ない。では解答にはならないが私の推測を言うと、ピルで女の子の性徴発現を遅延化(正規化)させているようなのだ(参照)。もっとも、初潮年齢を遅延させたり、性徴発現を抑えるわけにはいかないので、実際には初潮後にメンスを軽減させたり、コントロールするわけだ。通常の低容量ピルの使用からの推測なので間違っているかもしれないが、そうする意図はわからないでもない。
 この問題、日本でも問題になる可能性があるので、もう少し解説するけど、実は、女の子の初潮の低年齢化っていうのは、世界的な現象で、かつ大問題なのだ。環境ホルモンで女性化するなんておちゃらけじゃない。これがなぜ人類に進行しているか謎なのだが、とりあえず栄養がいいからっしょぉ、みたいな話に落ち着いているが、専門家ほど謎に苦しんでいる、はずだ。
 もしかすると、と話をぼかすまでもなく、初潮の低年齢化が各種の社会問題の根底にある可能性は高い。それについてある程度私もインサイトを持っているのだが、物騒なので控えておくとしても、だ、ジェンダーフリー教育ってなことでごちゃごちゃやっているより、実際問題の初潮の低年齢化に対応したほうがいいのだが、で、対応ってなんだ?ということになる。
 そこで保守的な米国では、社会的な文脈として性徴の発現を制御すりゃいいじゃん、となってきているのだろう。それって人権にひっかからないのかと反応してしまいそうだが、そういう反応をたたきこまれた戦後日本人の悲しさですな。
 こうした問題をフェミニズムはどう考えるか…なんて考察するだけ無駄。次、行ってみよう!というわけで、次の展開としては、性徴発現のセーヴィングというのはありとして、もう少し上のローティーンによってはこのチュアブルピルが実際にピルとして機能するわけだ。
 日米間に差があり、さらにばらつきも大きいだろうが、最低線で見て、13歳くらいでレイプや軽率な妊娠対象になる。そこでプレティーンからの性徴発現を実質的に制御するためのチュアブルピルは、そのまま避妊の用途として継続するという図ができあがる。
 実際日本ではどうなるのだろうか? 女子中高生あたりに広まるだろうか? という問いはレトリカルだ。広まらない。入手できない。機転が利くという意味で頭のいい子はいるけど、そこまで頭のいい女子中高生は日本に少ないし、また、いてもそのレベルになると、チュアブルピルを使わなくても対処できるだけのインテリジェンスはあるだろう。
 しかしなぁ。なんか、そーゆー問題じゃないなと思う。これを書くとイカンのかもしれないが、チュアブルピルはOTCなので、サプリメントと同様に入手できる。ってことは、どっかの悪オヤジとかおばさんが売りに出すっていう危険性を社会は注意したほうがいいだろう。予言しておくが、「ダイエットにもいいしぃ、胸も大きくなるし、メンスが軽くなってグッドよん」ってなことになるだろう。うへぇ~である。大人って悪いやつ多いから、若いかたがた気を付けてくださいね。つまり、必要な状況があるなら、ピルについて勉強してピルをきちんと使いなさい。さかもと未明のいうようなコンドームじゃ対処できない状況は多いし。

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再考・米国の鉄鋼輸セーフガードは新ABCD封鎖になる

 11日のブログでWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定についてこう書いたが、どうも考え方の筋が間違っていたと反省した。


日経と読売がWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定について扱っていたが別にどうという問題でもない。端的に米国が間違っているだけのことだし、この問題についてあまり日本がどうこうできることでもない。

 意見が変わったわけではない。米国が端的に間違っているだけだし、日本はなにもできない。だが、問題はそこではないと反省した。問題は、米国が本格的にWTO離れに打って出る兆候なのかもしれない、ということだ。
 メキシコ(墨)との間のFTAが豚問題でぶざまにこけてしまった状況は、ある意味日本国家の最大の弱点が米国を中心に世界各国に流布されてしまったということではないだろうか。もちろん、各国家の大衆レベルではそんなことは気にも留めないだろうが、外交レベルでは日本の秘孔バレてしまった。そう考えれば、なんとなく変だったあのメキシコの余裕の意味がわかる。WTOが機能せず、FTAが使えず、それでいて輸入に依存する日本はもうすぐ兵糧責めのような状態になるのだ。なってこった! 憂国なんてイデオロギーじゃねーぞ。
 今回の米国の鉄鋼緊急輸入制限(セーフガード)の問題では、提訴したのは日本だけではなくEUもだ。そして、EUはすでに反撃に出ている。低額だが22億ドルもの関税を農産物、繊維、機械製品にかける、というのだが、くせ者ぞろいのEUだからこのあたりの間合いの読みをとちるわけはないだろう。日本としては100億ドルのブラフをかけるようだが、端かっら腰砕けになるはずだ。あの外務省だぜ! 嘆息。日本の経済界も日経を見る限り、新三種の神器ってな阿呆なラッパ吹いているが本音は米国向け自動車から見るように米国頼りでしかない。
 11日の読売社説の結語を読み返して、再び暗澹たる気持ちになった。

 だが、EUなどが報復関税を発動すれば、影響を受ける業界が広がる恐れもある。景気の本格回復に欠かせない製造業の業績回復、雇用回復の支障となっている現状を、そのままにしていいのか。
 大統領の賢明な判断に期待したい。

 ブラックジョークなのである。あの阿呆な大統領に賢明な判断などできないというのではない。それならスマイルはタダ、みたいなもの。そうじゃない、本当に賢明な判断を下すのかもしれない。賢明とは、米国自国の利益優先だ。WTOは米国国益に反しつつある。WTOが機能しなくなるということは日本の生命線となる外交を日本は転換しないでいくわけにはいかない。
 今回の選挙で、公明のおかげでゾンビのように生き返ってしまった自民党になにかできるだろうか。

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市町村合併を推進する以外に実際には方策はない

 朝日新聞社説「市町村合併 ―『1万人』はおかしい」を読んで暗澹たる気持ちになった。率直なところ、この社説はそう悪いものではない。毎度のサヨサヨの朝日節にとれないことはないが、露骨なデマゴーグの傾向はない。むしろ、この問題をリマインドしてくれた点で評価したいくらいだ。
 まず前提となることだが、都市部、つまり東京近郊や通勤可能な周辺県に暮らしている限り、市町村合併の問題は生活の実感に上がってこないだろう。この国民間の意識のズレがある意味で深層の問題の可能性はある。日本人はなんとなく日本という国をあの弓形の国土の形状でイメージしがちだが、人口の4割は4都市ほどに集中している。そして、さらに地方についても、実は同型の入れ子のように、地方都市にその人口の4割以上が集中している。さらに、そうした地方のある種の小都市ネットワークを持つコロニーが独自の日本を形成して、都市の日本と対立している。顕著なのは、中国・四国地方で、実際のところ、政治の面ではあの部分だけ独立国のような様相を示し、そこから送り込まれるステーツメンによって国政の決定が攪乱されている。この問題はもう少し丁寧に議論しなくてはいけないので、とりあえずさておくが、いずれにせよ、都市部の日本人には、市町村合併の問題意識は少ないだろう。
 なんだかんだと言っても朝日新聞もまた都市部の新聞なので無意識にその前提が繰り込まれる。その最たる点は、地方の独自性をもって良しとする発想だ。しかたがないのだろうなとは思う。このため、地方の市町村合併を押し付けるのは悪だと単純に考えてしまう。


 政府の地方制度調査会が、分権を担う自治体のあり方を小泉首相に答申した。「おおむね1万人未満」の市町村を対象にした合併構想をつくるよう都道府県に求め、合併を促す内容だ。
 全国に1万人未満の自治体は1500余あり、約700万人が暮らしている。答申は、あなたたちにこれまでと同じ町や村を維持していく能力も資格もないと、言い切っているようなものだ。

 コーヒーでもすすりながら読めば、そーだよねとか思いそうだ。朝日新聞の言うように、「地方を切り捨てはよくないな、さて、来週は円高か…」てぐあいで別の紙面を読む。つまりその程度の話題として読まれる。書くほうもそんな気構えだ。
 丁寧に議論しないと説得力がないのは承知するが、この朝日社説の主張は間違いなのだ。ずばり言って、1万人未満の自治体にはこれまでどおりに町村を維持する能力も資格もない。実際にそのレベルの町村にかかわりを持つ人間なら、あったりきしゃりきのことだ。
 この感覚のズレをどう言ったらいいのか戸惑う。私も都市部の住人なのでセンスが分離してしまうのだが…と思いついたのだが、1万人未満の自治体の最大の産業はなにか?と問うてみるといいだろう。間違いなく、それは町村自治なのだ。役場とその関連が就職先なのである。このブログでぶちまけているお笑いじゃないのだ。
 朝日は心情的にこう言う。その心情は理解できる。

 それは分かるが、「1万人」を目安にして、それぞれの歴史や文化、郷土意識の土壌になってきた自治体を統合していこうとする答申はいかがなものか。延長する合併特例法に、こうした数値を盛り込むことは認めがたい。

 だが、それは都市部でスタバのコーヒーを飲んでいるヤツラの言い分だ。
 私は、この問題について、実際には適応が難しいだろうが、一つの解決策がある。ジョークのように思われるだろうが、町村をNPOにするのだ。ボランティア団体にするといい。実際米国の田舎町などそれで問題なく運営されているのだ。
 話がさらに飛躍して聞こえるだろうが、町村をNPO化する最大の問題は、若者だ。四方八方からうんこじゃないや石投げられそうなことをあえて言う。地方には若者がいないのだ。しかも優秀な若者がいない。優秀な若者は地方を捨てて都市部に逃げてしまう。残っている若者にはNPOのコアになれるだけの力量がない。我ながら、そこまで言うかと思う。でも、それが問題なのだ。1万人の町村に10人の知恵ある若者がいたらNPO化は可能だ。だが、それがいないのだ。
 現実に戻ろう。というのは、構造的に見れば地方にそうした期待をかけることは無意味だ。実際面では市町村合併を進めるしかない。そして、どうなる? 地方がさらに疲弊化してしまうだけだ。そのことに都市部の人間が無関心であるかぎり、そうした地方のコロニーから爺ぃのステーツメンや票田の跡取りお坊ちゃんやお嬢様が出てくるだけだ。小渕優子さんには遺伝的な政治の勘はあるだろうが、嫁にいって品川のマンションで暮らした方がいい。ま、実際にはそんなものになるだろうけどね。

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2003.11.14

はてな村とくるみの木

 カテゴリーは、「社会」としたが、以下、はてなについての感想のようなものだ(追記2004.3.18。当初、このブログは「はてな」で掲載されていた)。8月中から書き続けて3か月近くなる。我ながらこんなに続くとは思っていなかった。書いていて存外に面白いというのと、いろいろ吐き出したいことが自分に溜まっていたのかという思いがある。知人に、ブログ書いてんだけど、ってな話はしたものの、なんとなく知らせてはいない。いずれ、知らせるかもしれないと思うが、そのいずれがよくわからない。しばらく、誰でもない人に向けて書いていたい気がするのだが、それがなんなのかわからない。
 ネットの世界は匿名だとは毛頭思っていない。私のブログは放言が多いが、それでもどこかでセーブせざるを得ない。私など本質的に無名な人間だが、まったくの無名なのだろうかとも思う。明示的な自己顕示欲のようなものはないのだが、どこかで自分が誰であるか明確になるだろうなという奇妙な恐怖感のようなものもある。ばれる? ま、それほどのものでもないことは確かだなので思わせぶりな書き方はよくないだろう。私は社会的に無だ。
 ブログを書き続けながら、密かに、というほどでもないが、検索サイトがどう見ているかを気にするようになった。そこから見える世の中というものがある。例えば、岸本葉子の本について書きながら、どのように「岸本葉子」が検索されるかに関心が多少ある。このサイトには制約が多いこともあって、SEOのトリックはかましていない。いずれチープなSEOトリックなど無用だ。だが、自分のコンテンツというのがどれほどクローラーを魅了するのだろうかというのは気になる。フレッシュクロールにはなっていないものの、30日間隔、10日間隔、そして最近では5日くらいでクローラーさんが来ていることもあるようだ。
 もちろんのことだが、ログは取っていない。はてなはScript無効なので、リファラは取れないが、Web bugでも仕込んでおけばそれなりのログが取れないわけでもない。だが、そうしない。誰が読んでいるかについて追跡はしない。読者がいることに気にならないというわけでもないが、なんとなく追跡する気にはならない。それは、ある意味で、自分のオープンネスの表明のようなものかもしれない。
 話が書き出しの思いからそれてきた。当初、はてな村について書こうと思っていた。はてな村について特に解説は不要だろう。いや、単純に言えば、はてなのキーワードやコメントのリレーションでできる村みたいなものだ。はてな村は多分ポスト2ちゃんねるとして注目されるのではないかと思う。2ちゃんねるについては、以前このブログでもくさしてしまったが、現在の心境からすると、ほとんど関心がない。S/Nが高すぎて、自分の居場所などないし、居場所なくしては発言もないようなシステムだ。それがいいという意味もあるかもしれないが、そうした思考全体にもはや関心が向かない。
 はてなではシステム側からのおすすめ機能があって、その一つが日記内容から算出したMAPだ。いちおうお約束でこのページの右上に付けておいたが、開いてみて脱力するだろう。ぜんぜん機能していない。私のブログに関連があるとしているのは、なんのことはない、はてな村のコアだけなのだ。おそらく、私のブログは、はてな村では誰とも関連性を持っていないのだ。個別に見れば、話題の類似点がないわけではないし、私もちょっと色気を出してちょっかい的なキーワードをちりばめてみることはあるが、それでも、私ははてなで孤立しているのは確かだ。しかし、はてなの大半の住人は村のコアから孤立しているのだろうから、私だけの問題ではあるまい。
 MAPに現れるはてな村のコアは面白いか? 率直なところ、私にはあまり面白くない。リンクして開くと文章よりコメントが多かったりして、いかにも村になっているんだなぁという光景があるが、さーてね、なんとも言えないよ。うざったいよこれっていう感じもする。
 バカの壁ではないが、ようやく最近になって気が付いたのだが、私のブログは、難しいのかも。明確にそういうリアクションがあるわけではないが、なんとなくそう感じるようになった。「つまんねーよ、テメーの話」っていうリアクションがあっても当然だろうなとは思っていただが、私のブログが難しくてわからん、というリアクションはまるで想定しなかった。
 仕事の文章じゃないのだから、表現に制限はしない。それでも制限はあちこちに出る。わざとらに古くさい言い回しもちりばめているが、それは多分に冗談だ。しかし、そうした表層自体が難しいのか? ふと思い出すのだが、私は小林秀雄の文章を難しいと思ったことはない。難しいのは彼の複雑な意図の斟酌のほうだ。「本居宣長」のなかで触れられている上田秋成との論争など、小林ははなから秋成を滑稽に見ているが、その見識の背後にある強い思想がうまく読み取れない。復古主義だの神道だの言う馬鹿たれにはそもそもわからないだろうと思うので、私は考え続ける。…だが、そうでなければ難しいとは思わない。岩波文庫のトンチキな訳文文学など難しいが無意味な難しさだ。若い頃OEDを引いて格闘したせいか、翻訳文の難解さは無意味なものだと得心している。大塚久雄なども随分傾倒したが、先生をしても訳文はこなれていない。
 「難しい」に関連するが、自分がいつのまにか歳を取ったのだと思う。昔からいわゆる古文が嫌いではないが、最近は古文がなんの解釈なく読めて我ながら唖然とする。パソコンを見つめる時間が長いわりに、旧かな、旧字体の文章に親しみを覚える。なんなく読めてしまう。旧字体のほうが自分にしっくりしてしまう。なんてこったと思うが、日本語の1000年の呪いのようなものが自分のなかで成就しつつあるのだろう。
 話が散漫になった。こう書きながら、私の文章は、難しいというより、単にネットには合わなくなっているのだというような気がする。それはそれでいいかとも思う。多くに伝えたいとはあまり思わない。遠くに伝えたいという気はする。ある種の遠隔対象性ってなものかもしれない、私のブログは。

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# HAL 『タイトルだけ見てきちゃいました。またお邪魔します』
# masayama8 『マップ見ましたけど、すごくないですか。すごい隣接の仕方だと僕は思いましたけど。考えようだと思います。問題意識が顕在化したのがああいう分布帯だとすると、時代にはアップデートされているんじゃないでしょうか?三文誌みたいに媚び続けるという文体でもないと思います。機嫌を直してください。』
# レス>HAL 『どうぞ、また。タイトルふざけですみませんかも。』
# レス>masayama8 『なるほど、です。そういうふうにも考えられるのですね。これ書いたとき思っていたのは、ある無関係な日記(ブログ)があると自動的にはてな村コアのMAPになるのでは、と。それにしても、この話題はちと、「僕ってさびしいよ」のトーンでした。ま、実際そうでもある面もあるのですが…。』

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バカ女について、セネカ著「心の平静について」から考える

 タイトルは嘘です。ごめんなさい。今日の話は我ながらサイテーです。
 さて、たるい。それに今朝の新聞各紙社説はムゴイ。いまさら社民党ネタではないだろう。が、執筆者も爺ぃなんだろうな。党としての社民党はケンシロウのギャグで終わりだが、先日も書いたようにこれから社会に溢れてくる社民党みたいなぼよよ~ん現象のほうが問題だろう。でも2ちゃんねるとか読解できそうにない程度の新聞社説の感性ではわからんだろう。
 今朝の社説に多い日本道路公団の新総裁に近藤剛参院議員のネタは本気で惨い。この事態、なんかどっかの会社の権力闘争劇みたいだ。こういう権力闘争では、最初にわざとへなちょこ玉打つんだよね。定番です。ほいで、動揺するヤツラやこりゃあかんと決起する有能な人間を炙り出しておいて、闇からうんこを投げつける。これって社会人の常識。もともと、Aこと青木を最初に仕留めない限りなにをやっても無駄。それをわかっていて、新聞ってこういう社説を書くっていうのが大人の常識をわきまえた悪意ってヤツだ。若いかたがた、大人を舐めちゃいけません。大人がうんこ握って投げるっていう心意気を学びませう。
 たるい。西原理恵子の離婚(あるいは別居?)についてもちと書きたい気もするのだが、なんだかな。末井どんとかからんでいるわけじゃないけど、サイバラ回りにはハラの座ったおやじ多いから、なんとかなるか、というのは、この離婚で一番傷を負っているのはサイバラ本人だろう。ぼくんちじゃないけど、こういうときは笑うんだ、で、生きられるのはまだ気合いのあるうちだけ。彼女、気合いはあるけどなぁ。鴨ちゃんもなぁ。すごい人だよなと思う。文化勲章っていうのはこういう人にあげなくてはと思うが…と話にならん。ちらとぐぐってみたり2ちゃんねるを覗いても、サイバラファンは多いし、オレこそ理解者みたいな人も多いんだけど、なーんか違うと思うんだけどね、ま、私がなんか言うこっちゃないですね。ネタになりません。
 たるい。書きたいネタはあるのだが、もうちょっと裏を取ってからが、いいかとか思うので、ちょっと出し惜しんでいるのもある。たるいついで、「バカ女」っていうネタに挑戦してみよう。というのも、これって、はてなのキーワードらしい。まだこのブログを登録していないので、キーワードになるのかぁというのがワクワクものだが、どうかな。私のブログって文章が長いせいか、キーワード認識が悪いので、こけるかも。こけたほうがいいだろうけど。そのぉ、読まんでほしいです。
 で、バカ女、ですが、はてなでは「ばかおんな」とは読みません。「ばかじょ」です。だから、「ばかおんな」がキーワードになっているわけではありません。でも、「ばかじょ」はさておきです。モーニング娘の辻元清美さんですか? 若い女の子の歌い手さんのことは沖縄出身以外存じませぬので、「ばかじょ」なんて話題できません。では、バカ女の話します。
 なのですが、あのですね、私は、「このぉバカ女!」って口にしたこたぁないんですね。いろいろ考えてみるけど、ない。嘘こいてんのかオレ、とか思うけど、ない。なーぜなんでしょ。そのですね、「バカ女」っていうとき、自分とその女の距離っていふものがあるじゃないですか(←その口調やめろ)。見下すっていうのもあるだろうけど、なんつうか、それって「女」に近い感じがするのですね。つまりだ、「オレっち女には慣れているぜ」みたいな頬してないと言えない言葉だと思う。という点で、オレはそういう女との間にそういう近い距離は、ねーな。女をそういうふうに近く考えないです。遠隔対象性です。
 でも、街なか溢れる松竹梅色とりどりのおばさんを見ていても…橋田壽賀子系はバカだなと思うけど、なんつうか動物を見るようです。誤解があるといけませぬが、私は動物が好きです。3か月に一回は動物園に行きます。で、次。山本リンダとか秋吉久美子とか全共闘世代50代の女。彼女たち昔は後楽園球場で脱いだのよ系ですね、はい、パス。も、単純にパス。臭いんだもの、おばさん臭は。
 40代女、おっとぉ。こっそり言うと同世代だぞも、パス。これはちょっとマジ入るからな。次。30代、Verryとがいるわけだよな。こいつら、多いんだよな。私がなんだかんだ言っても、その手の食傾向と似ているせいか、レストランみてーなところに、昼間いるんだよね、うじゃうじゃ。で、うるさい。黙れと思う。嗚呼、そんな時でせふかふと「このバカ女」と思うことはありますね。
 20代女。パス。こいつらも臭いんだもの。10代…あああ、10代なんて女の部類じゃねーのになんだってんだ、このバカ。あ、言ってしまひました。バカとは思ふこと多し。でも、バカ女とは思わない。繰り返すが、10代なんて女じゃないよ。
 と、書いてみて、私ってひどいヤツだ。しかたないか。そうなんだから。ブログに書くかぁとは思うが、ま、たまにはね。
 で「バカ女」なのだが、そーいえば、その手の題のムックだか本があったなとちと思い出す。中村うさぎだのさかもと未明だのも載っていたか。ああいうのが「バカ女」に見えるというか、見たいっていう若オヤジは多いのだろうなと思う。オレ? 思わないっすよ。ちなみにこのお二人さん、無教養だとは思うし、バカじゃねーのと思うことはあるけど、バカ女とは思わない。それどころか、かわいいじゃんと思うね。わざわざ中村うさぎのニップやさかもと未明のヒップとか、身銭気って見ました。
 フェミ女はバカか? うーむ。わかんないな。このあたりからマジが入るのだが、フェミ女(っていう言い方はないか、あるのはフェミ男っていう表現か?)って、議論すると、その業界に引き込もうとするんだね。先日バカじゃねーのとかくさしたが小谷野敦ほど私はキモが座ってないし、フェミ業界の知識もないから、フェミ女とは議論にならない。平和だ。
 でも、他にもニューアカ以降っていうのか、はてなにもけっこううじゃっといるので、変な弾喰らわないように暈かして言うと、ハイセンスな業界のなかでしか問題が成立しない問題っていうのがみなさん好きなんだよね。クオリアとか…(そんなもの脳内にあるわけないよ)…え?クオリアってSONYのですよね。
 ほいで、わたしゃ、その点、単純な人なんで、問題とは共同体の問題であるからして、そのように問え!と思うのだ。で、そういう点からフェミニストを見ると、なんだかなです。モーニングアフターとかRU-486とか、君たちちゃーんと議論せーよ、とか思うのですがね。そのぉ、フェミニスト業界では議論しているのかもしれないし、業界の原則から日本共産党みたいに公式見解みたいのはあるのかもしれないが、それって無意味です。こういう問題は社会にむけて、社会の人が理解できるかたちで、明白に問わなくていけません。それにRU-486(参照)とか「女」に重要な問題ではありませぬか。
 てなことで、私は日本のフェミニズムって事実上、社会的には無意味だなと思うものの、バカ女め、みたいには思いません。単に無意味だし。
 さて、このくらいで止めよ。やっぱ、バカ女なんて話題はくだらない。最後にちょっとチンコ立ちにスナップが効く歳の男としていうと、バカ女はどうでもいいけど、利口な女っていうかは重要ですよ。そういうと、機転の利く女とかいう意味になっちまいがちですが、いえいえ、きちんと普通のグローバルな常識のある女という意味です。このブログではくさしちまったけど日本版ニューズウィークくらい毎週読んでいるくらいの女でないと、そのぉ、チンコが立ちませーん。ま、人にもよるのでしょうか。木村和久先生くらいの大家だと大ジョーブでしょうか。木村先生、お肉を食べた後のうんこが臭いと昔おっしゃてましたが、荒牧麻子先生のお言葉ではありませぬがそろそろ和食中心の食事を心がけるお歳、日経Healthの健康突撃隊のお話も期待しております。ご自愛くださいませ。

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2003.11.13

Googleに問え。なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか?

 なぜ宇宙は存在し、生命は存在するのか? その答えは、42。
 間違いない、男の厄年の話題じゃない、宇宙論的神学的な問題なのだ。Googleに訊いてみるがいい。The answer to life, the universe and everything:.....
 とま、そんなネタはもう古いよね。ちなみに、Googleあたりから検索で飛んできた人のために補足すると、この話は、SF作家ダグラス・アダムスが1991年にハイパーカード・ファイルをフロッピーディスクで出版した「銀河ヒッチハイク・ガイド」のなかにある壮大な冗談だ。ハイパーカード・ファイルのメディアといえば、日本でも高城剛がFiLoで真似っこしてこけて、フランキーオンラインでこけて…こけてこけてっていうわりに高城剛ってなんでメディアに露出しているのだろうか。って答えは単純なんですが、その業界へのイヤミにしかならないので、やめておきたいけど、うーむ、通産省じゃねーや経産省のセンター試験以降の世代のお役人さま、税金の無駄遣いはやめてくださいね。
 なんの話だっけ、あ、Google電卓だ。これが使える。もし、あなたが2+3の答えを知りたかったら、2+3=と検索欄に入力してEnterキーで答えがでる。ちなみに答えは、0b101だ。え?違う。Googleも困ったものだ。
 もうちょっとまともな話もある。例えば、光子の持つエネルギーEは振動数νに比例し、その比例定数…は、そうディラック定数だ、じゃない、プランク定数だ。GoogleだとPlanck's constantでもいいが、hだけでいい。hってのはストップワードじゃないから、加算しないこと、ってな込み入った冗談は誤解のもと。ちなみに、値は6.626068 × 10^-34 m2 kg/sだ。
 同様にジェットコースターでO型の女の子がお漏らしをしてしまうGは、あ、そのGではなく、gravitational constantのGは、6.67300 × 10^-11 m3 kg^-1 s^-2だ。Googleは大文字と小文字をセンスするんだぜ! ほいで、πはpiでわかるが、現在のお子様の知的レベルに合わせるために小数点以下をラウンディングする関数はGoogleには入っていないようだ。ある? あったら教えてください。当たり前だけど、型は使えないみたいだ。
 昔のMacでは必需品だったFinderPop、これって日本の雑誌ではフリーソフトってことになっていることが多かったが大間違いで、PintWareだった。Pintといえば、Pint of beer、原宿のThe Pintの黒ビールはうまかったが、ま、Pintだよね、とグラスを呷るのはいいのだが、EUやヴォネガットと同じくISOな日本では何リッターかというと、GoogleのpintでUS単位だがわかる。缶ビールより多い。500ml缶より少ない。っていうか、500ml缶っていうのが粋じゃない。
 沖縄に行って、丸大で、いや、かねひででもサンエーでもいいが、牛乳を1パックを買うと、こいつが1リットルじゃあない。1ガロンの四分の一なのだ。quarter gallon、つまり、946.35295 millilitersだ。テンガロンハットに入れるには、この40倍が必要
 なんか書いていてうざくなってきた。ま、その他、ハミルトン数の計算やマトリックス演算はできないけど、虚数計算や三角関数はばっちり。弧度法じゃなくて360度法でも使えるから実務的。オイラーの等式なんかもOK。おいらは意味がわかんない? うーん、これじゃ、かいけつゾロリに出てくるオヤジギャグだよな。

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メディアのマンネリ感というか循環

 死後体外授精で出産された子の父子関係が法的に認められなかったという話題以外、新聞各紙特に新しい話題はない。こうして日々それなりに社説を追っていくと、意外なほど社説執筆者というのが閉鎖されたグループなのではないかと思えてくる。
 その死後体外授精の問題だが、読売はルール作りが必要とし、毎日も法整備せよというのだが、そう結論するなら社説に書くこともないだろう。ネタだけは新しいが話は古過ぎる。ではこの問題を社会はどう考えればいいのか? 私は率直なところそんなことはまだ社会問題ではないと思う。たとえば、妻が死んだ夫の子が欲しいとして死後体外授精したとする。それで子供が生まれた。それだけでいいのではないか。それ以上に国家から父子関係を認定してもらいたいという心情を私は理解できない。
 他に話題はというと、ブログ回りではTBS系「サンデーモーニング」で、石原慎太郎都知事が韓国併合発言100%肯定しているのではないと発言したのに、その語末の音声をネグった上、逆に肯定したとするテロップを流したとして訴訟問題になるらしい。率直なところ、サヨクや報道関係は字幕ミス程度の話でおしまいとしたいところが、常識的に考えてそんなミスはありえないだろう。語末の音声処理は意図的過ぎる。ここできっちり、この手の阿呆なデマゴーギーに灸をすえたほうがいいだろう。
 話は散漫にずれるのだが、私はほとんど民放を見ない。トリビアの泉を見て、世の中をちと覗き見る程度だ。あと健康番組をたまに見るか。たまにと言えば、市川実和子の顔を見なければいけないという強迫に駆られるがNHKのドイツ語講座で事足りる。アンジュは最近どうしているだろうかとはあまり思わない…てな話は冗談であるが。いずれにせよ民放バラエティはつらい。CMがうるさいし、CMつなぎのカブリがイライラするし、なによりあの阿呆なテロップ止めろと思うのだが、あれはいったいなぜなのだろうか。老人向けなのだろうか。あるいはいユニバーサルデザインかというひねくれた皮肉は面白くはないだろう。単純に若い世代にとってああいうウケの間のインフォが欲しいためだろう。ゲバゲバ90分以降、アメリカのバラエティをまねて笑いの音声を足したのの延長だろうと、わざとらに古くさい話を書いてみる。
 デマゴーギーと言えば、「噂の真相」がもうすぐ終わりになる。身銭を切って読まなくなって何年経つだろうか、というより、読んでいたのは数年だったか。いつごろか国会で話題になるようなメジャーになってしまったのが運の尽きだったか、岡留も面白くねーなと思っていたのか。面白かったのは本多勝一との分裂であれを延々とやってもよかったのにとも思うのだが。最近では、くらたまのガセネタなんか書くから、彼女はマジこいてSPAで反論しちまったよ。くらたまなんておちょくるタマじゃないよなというあたりの目利きがボケている。日垣隆あたりを文春がらみでくさしてみても、返り討ちに会うほどの威力もない。なんだかなである。
 総じていえば、「噂の真相」の意義というものはあったのだろう。それがない日本のジャーナリズムというがますます砂漠化していくだろうなとも思う。2ちゃんねるについて、以前ここでくさしたが、今となってはくさす意味もないし、なんというかあの枯れかたはなんだろう。昔のビックリハウスみたいな感じもしないではない、とまた古くさいことを書く。
 歴史の終わり、ってなことをいうまでもないが、世の中のある変動はわからないではないが、表層に出る基本パタンの循環もまた予想可能な域に留まっている。話を無理にまとめるようだが、死後体外授精という日本社会には新しい問題があっても、婚姻の変動とは関連づけずに古い循環システムがオートマティックで答えるようになっている。新聞がまさにその機能しかしていないし、ブログを含め、ネットの雑情報もそうしたニッチを狙っているようでいながら、やはり基本的に同じパタンに収まっているとしか思えない(やや飛躍した言い方か)。じゃ、どうする? さあ。わかんないな。

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2003.11.12

[書評]永遠の吉本隆明(橋爪大三郎)

cover
永遠の吉本隆明
 駄本である。終わり。で済む程度の内容なので、それ以上の言及など不要なようだが、橋爪大三郎がこんなみっともない本を出してしまう理由もわからないではないし、橋爪本人も気が付いてもいないだろうが、この世代の老いを知るという点でも、身銭を切って買って読んでみた。
 タイトル「永遠の吉本隆明」はくだらなすぎるが橋爪が付けたものではないだろう。内容も書かれたものではなく、おしゃべりの書き起こし。新潮の「バカの壁」の影響の破壊性はこんなところまで及んだ。四時間ほどのおしゃべりと編集者がいたら新書はできる。福田和也と香山リカと並べてしゃべらせれば一冊、あがり。編集者に魂というものが無くなった。山本夏彦は、本ってなものにはいくばくか魂がくっついてくるものだと言った。だが、それをなくしたらこういう事態になった。この手の駄本をやり手婆みたいな斉藤美奈子がくさしたり、宮崎哲弥のような流しの評論家がチャートを作れけば、なんだか文壇みたいなものになるってな商売まである。とま、くさしてみるが、空しい。
 「永遠の吉本隆明」は本としては駄本だが、橋爪の限定された吉本理解は大筋では間違っていないし、共同幻想論まわりの解説は、柳田や折口の学の意義を抜きにすれば、構造主義的な文脈として悪くない。特にレヴィ・ストロースと吉本のインセストタブー論の比較は面白い。政治思想の面では、全共闘世代の陥穽をわかりやすくお笑いにしている。吉本シンパが70年代以降動けなくなってしまうというカラクリは、現象面では橋爪の説明で間違ってもいない。
 橋爪が知らないのは、彼よりもきちんと吉本を読み込む少数読者への畏怖だけだろう。吉本がボケてしまう前のこと、二番目の選集が編まれたが、そこになぜヴェーユについてのおまけがついたかなど、橋爪は考慮もしない。国家論について橋爪自身の考えを吉本に比して解説しているくだりがあるが、吉本のシモーヌ・ヴェーユ論は軽快に抜け落ちた。挙げ句、橋爪は吉本の国家論には無前提の公理があるみたいに言うが、橋爪は、歴史のなかで血を流す人間による到達、森有正のいう「経験」をまるで了解していない。思想というのものは、言語的な公理からできるものではない。歴史と経験が生み出すものなのに。
 話を戻す。この本の出だしで、ちょっと溜息をついた。

 たとえば小熊英二さんが『<民主>と<愛国>』(新曜社・二〇〇二年)という本を出しました。たいへん包括的に戦後日本の思想の図柄をデッサンしている。そこにさまざまな思想家が登場します。例えば、丸山眞男であり、竹内好であり、三島由紀夫、江藤淳、そして吉本隆明などが出てきますが、吉本さんに対する視線や扱いがややヒンヤリしていて、これまでの吉本ファンや吉本読者、崇拝者が見なかった側面を裏側から突いているところがあります。そして、ある意味では鋭い面もあり、私はなかなか興味深く読んだのです。

 この先、橋爪は小熊英二のような若い世代の感性について触れ、そこからはある種、つまらない吉本像が出てくるのはしたないといった指摘をしている。そうなのだろうと思うというのが溜息だ。
 「ヒンヤリ」という表現がうまい。若い世代の社会意識は、結局のところ、そのヒンヤリをもってして、「わたしってお利口!」という自己回帰になっているのではないか、と最近思う。センター試験の得点のように明快だからだ。プチサヨクの社会機能はプチエリート意識の保証でもあるのだろう。西尾幹二や小林よしのりが騒ぐほど、「ふふ、おばかね」とお利口さんは微笑むものなのである。ちょっと溜息が出ますね。
 オタク世代の動物化ではないが、日本の思想はニューアカ時代を経て、一種、テイスト、つまり、センター試験以降の世代がいうところのセンスになってしまったのだろう。そういう時代のなかで、なんとか吉本を解説しようとすれば、この橋爪のようになるのかというあたりこの世代の老いがあり、リキ入れて語れば語るほど滑稽になるのだ。
 団塊世代下の私も吉本は偉大だと思うが、吉本の書いたもののに価値があれば、ほっておいても人は読むのだから、いまごろ騒ぐことでもないかとも思う。内容に時代を超えたものがあれば、山本七平の著作のように死後も復活するだろう。そうならなければ、それでいいのだ。世界の人が欲することがあれば、自然と翻訳もされるだろう。なんとなくだが、吉本の価値はあと二〇年ぐらいして、日本戦後の本格的な総括を米国人学者が行うとき、辛うじて歴史として読まれるのではないか。人も思想も状況のなかで生きている。それでいいし、それでしか価値は問えない。
 橋爪は吉本の身体論について僅かに言及しているが、吉本が三木成夫に影響を受け、新興宗教みたいな言説に傾いていく晩年の部分には触れていない。避けているのではなく、読んでいないようだ。総じて、団塊の世代は晩年の吉本思想がうまく理解できていないようだ。安原顯に代表されるこの現象はなんなのだろうか。
 例えば、私は団塊の世代と共通一次試験世代の狭間にいるから、その位置がもたらす感覚からは、そのはざまの言論人の感覚がわからないでもない。例えば、思想的なスタンスは自分とはぜんぜん違う浅田彰だが、率直なところ、他の世代よりわかっていると思う部分は多い(例えば、浅田彰と高橋留美子は下の世代への影響力の面でも同質だとか)。同じことはどの世代にも言える。それはそうだ。そしてそれだけのことだ。世代のチャートからはごくくだらない話になる。だが、団塊の世代の吉本隆明というのは、あまりに小さいようにも思える。そのあたりを克服しようとした橋爪の試みだが、結局、些細な例ではあるが、シモーヌ・ヴェーユや三木成夫の見落としといいったことになる。
 失礼な言い方だが、すでに吉本隆明は言論人としては終わった。その終わりはある人間タイプの終わりのように思える。戦後の人間のひとつのタイプだ。卑近な例だが、吉本の若い頃には、一人の人間が恋愛をして挫折するという生き様の陰影があったのだ。それはどのように後の世代に重視されるだろうか。いや、うまく問えないので、もっと単純な話にしよう。団塊の世代までは、まだ男と女が生きていた。その男と女とが生きるためには、吉本隆明のように生きるだの死ぬだのの騒ぎを立てることがあった。恋愛に価値があり、恋愛から還元されるように個人が定義できた。
 80年代あたりからそれが崩壊し、恋愛はシステム的な欲望に変性した。もちろん、共通一次試験世代でも恋愛はあり、刃傷沙汰などもあるだろう。だが、その恋愛は個人を定義をしていない。ある可換な価値=欲望として描かれるだけだ。その、存在の可換性とでもいうものが絶えず知を要求する。知はそして、カタログになった。吉本をそこに並べてもなんの意味もない。あるわけもない。
 失礼な言い方になるだろうが、吉本青年が奪い取った女の昔の言葉を引けば、背中でばたばたいう悪魔の羽で飛んでいく人生も面白かったことだろう。ボーボワールがサルトルの死体と横たわるように。そこには恋愛の帰結がある。
 その響きのかけらのようなものは橋爪の本にはないが、団塊の世代の死にはこれから、たぶんいくつか、美しい恋愛の光を放つことがあるように思う。そうした兆候はどこから出てくるだろうか。

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韓国受験事情など

 今朝の新聞各紙の社説はつまらなかった。が、祭りのあとの感じから言うと、しょせんそういうものなのかもしれない。選挙の各党の動向についての議論も概ねつまらない。朝日が社民に向けて民主と合流してはどうですかと言ってあたりが微笑ましかった。政党としての左翼は本当に終わりだなという思いと、いや全然終わってないなという思いがある。小林よしのりふうにしつこく言うわけでもないが、旧左翼の社会的な影響は恐らくまるで終わっていない。それは、ちょうど自民党が山中貞則を消すことができないのと同じことだからだ。当然、これらの弊害はぼつぼつと以前より顕著に現れてくるだろう。すでにエコや戦後問題というネタは面白みもないので何が出てくるやら。ただ、一つ言えることは我々の古い倫理や戦後の理想を質にとる形で問うことは間違いない。日経と読売がWTOによる米国の鉄鋼輸入制限クロ裁定について扱っていたが別にどうという問題でもない。端的に米国が間違っているだけのことだし、この問題についてあまり日本がどうこうできることでもない。

 そういえば日本では選挙のお祭りで浮かれていたせいか、隣国だが韓国の話はあまり耳にしなかった。私がうといだけだろか。遅れた話になるが、11月の第一水曜日といえば、日本のセンター試験をもっと厳しくした「大学修学能力試験」通称スヌン(修能)が行われる。ある意味、英国やドイツのほどひどくはないとはいえ、スヌンの結果が大学入学に直結しており、しかも学歴社会の弊害が日本よりひどい韓国では結局スヌンで人生が決まるというくらいの切羽詰まったことになっている。事実上無試験化している日本の大学とは大きな違いだ。未だに四当五落の世界でもあるし、内申も重視されるので、かなり若い人間を精神的に追い込むことになる。自殺者が出るのは当たり前だし、日本同様、験を担ぐので奇妙な風物も街中に現れる。これを滑稽と見るほど日本は異文化でもあるまい(参照)。
 受験競争の過酷さは台湾やシンガポールでも似たようなものとも言えるが、もともとドメスティックな学問の制度の歴史が浅いこともあり、優秀な学生はそうそうに米国や最近ではオーストラリアなどに流れていく。そのまま移民というケースも多いようだ。その意味で、韓国の受験事情などもある意味相対化されていくというか、ある種大衆社会の現象とも言えるだろう。グローバルな背景をもったアジアの知識人はその国の産業界に還元されていくので、個別には日本人には歯が立たないほど優秀な人材も多い。
 こうした点では日本はかなり違う。日本の場合、大学院の知的レベルが低いのでその時点で優秀な学生が米国や欧州に流れ、そして、それらは古巣の大学に還元してしまう。悪い言い方をすれば、お嬢ちゃん、おぼっちゃんの世界だ。しかし、そんなことをくさしてもしかたがないだろう。
 日本でも例外はあった。前沖縄知事大田昌秀は米留と呼ばれるグループで学問は米国仕込みだったし、この70歳大の米留沖縄人は沖縄の中核となった。その後の世代は次第に日留の時代になるが、いわゆる団塊の世代になると途絶える。本格的な日本化が進み、共通一次世代以降は事実上沖縄人はその文化によって裏打ちされるというより、まさにポストコロニアルというかあるいは他の日本の田舎と同じく、辺境化してしまった。ま、沖縄の話が最近多いのでこれはそのくらいで終わり。
 たるい話になったが、日本は大衆レベルではどんどんグローバル化に遅れをとるものの、そうして育成された大衆はある意味、マクロ的に見れば、きちんと消費者として成熟していくのだろう。政界・経済界の爺どもの一部や、ありがちなエコノミストは内需拡大が重要とかいうのだろうが、近未来的に見れば、日本は内需が増えるのだろう。ただ、少子化と団塊世代の高齢化でそうした動向は摩滅してしまうのかもしれないのだが。

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2003.11.11

ベストなドイツ人というトホホ

 ドイツでもっとも偉大なドイツ人というのが話題になっているという話をNHKラジオで聞いた。あれ、まだやっていたのか。そういえば、ベストワンの記憶はない。どうやら今月いっぱいが追い込みのようだ。企画はビルト紙とZDFテレビの共同で、今月中には100人から10人に絞り込んで国民投票みたいなことになるらしい。
 この手の企画は数年前イギリスのテレビの真似で話題になって、日本でも早々にパクリネタで文藝春秋でやった。あれはむごい内容になっていた。
 そんなものがなぜ今頃ドイツで、とも思うが、ドイツだと東西分裂もあり、陸続きの国家でもあるので、イギリスや日本とは様相は変わってくるのが面白いところかもしれない。案の定、前段ではモーツアルトが上がるや、オーストリアからクレームがついていた。ケチがついてモーツアルトは20位。すでにこのあたりですでにおちゃらけ感が漂うが、ドイツ人としては自尊心がそそられる祭りではあるのだろう。
 この話題をざらっと日本語でぐぐってみたが、クロールのとろい日本のgoogleではあまり情報はひっかからないようだ。もっと大衆化してフジ産経あたりで企画しているとかのネタでもあれば大笑いだが…などと思っていたら、昨日日本版のCNNにニュースで上がっていた。で、日本版CNNの翻訳では「最も重要なドイツ人」になっていた。ちと訳語が変な感じがする。ドイツ語では、besten Deutschenだから、英語ではBest Germanだ。しかし、同語源の語だが、語用やコノテーションではgreatに近いのだろうか。
 アメリカはドイツ系が多く、戦中彼らもこっぴどい目にあっていることもあり、ぐぐると話題になっていることがわかる。ABCのニュースではEinstein takes early lead in 'best German' pollと無難にアインシュタインに期待をかけているようだ。
 というわけで、気になるノミネートの10人は以下。知っている人に○を付けなさい(各10点、100点満点)。


  • アルベルト・アインシュタイン
  • ヨハン・セバスチャン・バッハ
  • カール・マルクス
  • ゲーテ
  • マルティン・ルター
  • グーテンベルク
  • オットー・フォン・ビスマルク
  • コンラート・アデナウアー
  • ウィリー・ブラント
  • ゾフィー・ショルとハンス・ショル

 で、何点でしたか? 90点以下は不合格だよ。というのも、「ゾフィー・ショルとハンス・ショル」はちと日本人には難しい。白薔薇の話っていうのは、そんなにドイツ人にとって重要な話だったのだろうかと、私も首をかしげるくらいだ。
 100点満点のテストは冗談だが、このリストを見て、なんとも言っていいのか、正直なところ、苦笑するなと言ってしまっていいものか、戸惑う。個人的には、このチョイスでは大バッハで決まりだが、そんな込み入った皮肉を書いてもなぁ。
 アデナウアーとブラントのリストアップは、ドイツもまだ老人はいるのだという印象くらいで、とりあえず外してもいいだろう。こんなのがベストというのでは、手前味噌過ぎて、ドイツ人もお恥ずかしい。同じノリでさらにビスマルクは外していい。というか、ビスマルクを入れるとはジョークなのか、EUに喧嘩売っているのか。
 ゲーテとグーテンベルクはお子様枠。ドイツ人にマルクスって言われてもなぁという感じがする。ふとそのあたりで、このリストの隠れたテーマは「ユダヤ人」だということがわかる。公のメディアではなにかとユダヤ人虐殺謝罪意識が出ざるを得ないのだろう。ある意味、それで、話は全部終わりってなくらいだ。
 ドイツというのは、文化の側面でみると変な国だ。ルターがリストに上がっているように、日本人のイメージではプロテスタントなんだろう。しかし、キリスト教徒の半数はカトリックだ(ちなみにキャベツことコールはカトリック)。バッハの生涯を知っている人なら、史的に根深い奇妙な混合がわかるはずだ。実際、ドイツでは、戦前から新教と旧教の文化は二分し、その狭間にユダヤ人文化がグリューのようになって、始めて文化としてドイツ文化ができていた。その意味で、ドイツ文化の表層にはユダヤ人の文化活動が出ざるを得ない、根深い構造になっている。
 というあたりで、ドイツのカトリックというのは現在どうなっているのだろうと気になってきた。カトリックの多いザールラント(Saarland)ではbesten Deutschenはどんな響きがするのだろうか。それと、今回のこの馬鹿騒ぎ、トルコ系にはどう聞こえるのだろうか。かつてのドイツは内部の文化的な分裂とユダヤ人文化という三項だったが、現在ではその背後に押し込められたトルコ人の文化がある。それを、めいっぱい隠蔽している現在のドイツって、けっこう醜いもんだよなと思う。

[コメント]
# masayama8 『見当違いかもしれないのですが、二大政党制への布石というような世論形成との対比で、かつての日本とドイツの忌まわしい共通項へ遡った検証をも、潜在的になさっているような印象を受けました。まあ、後段は純粋にドイツの文化の検討をされただけなのだとは思うのですが(苦笑)。ただ、僕は潜在的にであっても、そういう態度は重要だと思うのです。忘却するなと言うことの裏の意味は刻印して記憶に留めるからこそ、次を繰り返さずに済むという意味が込められていると思うのです。忘却を進める人たちは、その副次的効果に全く無責任だと思う。それを考えると、今日なさっている検証と言うのは人それぞれ受け取り方は違うでしょうが、必ずニュアンスはわかってもらえるような気がします。僕がニュアンスを誤読していたら元も子もないのですが(苦笑)。』
# レス 『masayama8さんの読み、というより視点は面白いと思います。否定はまったくありません。自分では、ドイツ人にとってもドイツとは「語られたドイツ」になっていくのだと思います。ベースにあるのは世代交代なのでしょう。同じことは日本でも顕著なのです。それとこのところ、若い学者さんかぁというくらいしか自分は関心がなかった、小熊英二への、ある違和感は、語られた歴史と生きられた歴史の差異を、自分も含めどう語るのかというアポリアに根ざしていると思うようになりました。生きられた歴史というのも要するに語られるわけです。二大政党騒ぎについては日本特有の現象かなという気もします。英国ですら二大政党ではなくなっているということがあまり語られていませんね。話はそれますが、EUではない、ドイツでもないフランスでもないイギリスでもないというあたりのヨーロッパの歴史を再評価したいと思うので、この手の話はまた書きます。そういえば、日本ではポーランドのイラク派兵についての議論も見たことないですね。』

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沖縄切り捨ての読売新聞にむかつく

 開票を見ていた疲れで昨日はぼーっとしていたら、あれあれという間に加藤紘一が復党。まさかと思っていた自分が大甘でした。そして保守新党が解党。これは予想されたことだけど、早かったという感じがした。自民党やその関連の焦りのようなものが感じられる。今朝の新聞各紙社説では読売が「保守新党の合流」とかぬかして自民基盤の強化を喜んでいた。読売って憲法改正の旗を振るせいなのか、いつからこんなに露骨な新聞になったのだったのだろうかと驚いた。デマもがんがん飛ばしている。


菅代表は衆院選の最中、米海兵隊の沖縄からの移転を訴えた。北朝鮮の核やミサイルが日本の深刻な脅威となり、日本自身の安全のために、日米同盟の一層の強化が必要な時、菅氏の発言には、首をかしげざるを得ない。

 ふざんじゃないよナベツネさん、というか読売新聞。米海兵隊の実態や機能をちゃんと調べてほしい。あれは基本的に中近東向けの兵站とインテリジェンスのためのもので、揚陸艦も沖縄ベースの単独では機能しない。これ以上沖縄で問題が起こる可能性を考慮して裏でオーストラリア移転のバイパス・プログラムが動いている。「北朝鮮の核やミサイル」とか脅してデマをばらまく世界最大の新聞だよ、読売。もちろん、対中国的なシフトはある。今回の低周波ソナーだ。だが、この実態を見て嘆かない日本人はどうかしているぜ。このブログでは小林よしのりをなんどもくさしたが、彼の義憤はわかるよ。結語は悪い冗談だ。

憲法や教育基本法は、国家の基本法制だ。政治の最高指導者として、小泉首相自身が、明確な国家像、教育理念を持って主導していくべき問題だ。

 私の意見は珍妙だろうからはっきり言うけど、憲法は成文法ではない。むしろ変な成文法をリメークするより、我々の戦後史の累積の慣習法をきちんと憲法だと考えたほうがいい。国家像は重要だが、教育理念など最低の道徳の問題以上はどうでもいい。そして道徳の退廃はいまや日本人の大人の問題だ。街に溢れる自転車を見ろよ。日本人モラルが狂ってきている。そして小泉に至っては、およそ人間30年も生きてきたらあんな人間、変だと思う。変人宰相とかじゃなくて、人間として変だよ。あえて言うのだが、家庭も持てず、妻子への愛のかけらも感じられない男なんて、相手にしちゃだめだ。高橋がなりが言っていた、確かこんなひと言だったと記憶している。「オレは離婚した男を信じない。」偉いぜ。どんなにエロをばらまいても、おまえさんのほうをまともだと信じる。
 朝日新聞社説「公明党 ― 自民を支える事の意味」は歯切れが悪かった。もって回った青臭いレトリックを駆使しているが、ようするにもっと公明党を批判したいのだろう。

 首都圏では、協力の見返りに「比例は公明へ」と叫ぶ自民党候補も目立った。そんな公明党頼みに、自民党内からは「公明は麻薬と同じだ。よく効くが依存症から抜け出せなくなる」と自嘲(じちょう)の声も聞こえる。

 伝聞ぶっているが伝聞なしが本音だ。その本音をずばり言うのが言論人だと思うね。ま、朝日新聞も広告取りや発行部数の問題などもあってそうもいかないのかという点は武士の情けの部類か。
 だが、以下の言及の意味がわからん。文脈を外しているのは重々承知だ。

忘れてならないのは、創価学会が第2次大戦中に宗教弾圧を受けたことだ。細川政権の崩壊後に新進党に参加したときも、自民党が創価学会の池田大作名誉会長を参考人として国会に呼ぼうという動きさえあった。結局、大切な組織を守り拡大するには、権力の中にいて影響力を持つべきだということになったのだろう。

 これって創価学会への色目なのか。ま、そうなんだろう。それにしても、創価学会の体制の内部崩壊は秒読みになっているのに、なにをのんきなこと言っているのだろう。あるいは、のんきじゃない、別の動きを業界では察知しているということなのだろうか。
 それにしても、公明党を巡る言論のくぐもったこの状況のうっとおしい感じってなんとかならないのか。ならないのだろうな、それが民主主義のコストでもあるんだろうし。

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2003.11.10

奨学金回収不能を嘆く

 最新ではないが、NHKのニュースで日本育英会の奨学金回収不能の話があった。別に新規性はないのだが、この話は心痛む。


日本育英会が、学生などに貸し付けている奨学金のうち、1500億円余りの返済が滞っており、440億円あまりが今後も返済の見込みがないことがわかりました。会計検査院は、日本育英会に回収方法を見直すよう求めています。

 延滞債権1500億円はすでに周知のことなので、どこがニュースなのかといぶかったが、440億円の焦げ付きが正式に認められたということなのだろうか。
 ちとぐぐると、読売新聞サイトのマネーにちと古い情報がある。「フリーター返さず、9~5時 大甘取り立てで“不良債権化”」(参照)。取り立てが甘いぜということか。100人に付き13人はネグっているようだ。どういう了見なんだと記事を読むと、こうだ。

 育英会によると、失業やリストラなどが理由で返還猶予を認めたケースは、99年度が1万7000人、00年度2万1000人、そして、01年度が2万5000人と急増し続けている。卒業しても就職できず、返済猶予を求める人も少なくない。
 一方、奨学生、奨学生OBの自己破産者も増えている。年間1000人ペースで急増中で、現在、計5000人にも達している。当然だが、自己破産者への貸与分は、即焦げ付きということである。

 へぇ~57点、という気もするが、全体から見ればこの数値はたいした意味などないだろう。むしろ、へぇ~62点は、延滞債権が年々単調に増加していることだ。
 育英会は来年度廃止され、新設独立行政法人に引き継がれる。取り立ても外注化されるので、まぁ、厳しくなるのだろう。当然だなと思う。で、奨学金の制度自体はどうなるのだろうかと、ぐぐる。ほほぉという記事が出てくる。こうした点はネットは面白い。「日本育英会は廃止 銀行ローンへ」が良かった。それによると、独立行政法人移管によって、こう変化するらしい。

  1. 現行の無利子貸与は廃止。利率をあげる
  2. これまでの研究職・教職者に行っていた返還免除廃止。猶予は一切なし
  3. 民間委託などにより厳しく取り立てる

 当記事ではこうした傾向をイカンと言いたいらしいが、私は基本的にいいんじゃないかと思う。特に賛成なのは、2番だな。だいたい研究職や教職者目当てにのんびり大学院にいるやつらって、大半はけっこう裕福だった。縁故も多く職に困るふうでもない。同類だと思われるのがいやで、なんだコイツラとか思ったものだ。もうちょっというと、そうして100万円からの金を棒引きにしやがって、むかつくとも思った。ま、当然、こうした思いはやっかみである。
 1番の利率を上げるは賛成しかねる。と考えるに、ようは奨学金なんてものは銀行ローンでよく、むしろ利率部分を国なりが補助すればいいだけのことではないか。それがうまくいくなら、いっそ国がらみの奨学金は全廃していいだろう。
 あと、大学時代を思い起こすに、幾たびか学業成績を盾に奨学金を貰った。10万円単位の金額だが、ちょっとした報奨金ってなものだった。あれは愉快だった。ああいう制度が行き渡るといいだろう。米国などではそれほど珍しいものでもないのだし。
 話を戻して、自分も大学院時代の奨学金を支払っていたクチなので、滞納者の気持ちもわからないでもない。クリスマスが近くなると10万円ずつ返済した。今でいうフリーターみたいに過ごしていたこともあったので、年末の10万円はきついなと思った。
 ある年、繰り上げ返済のオファーがあったので、ええいと思ってやってしまった。思い出せないが、14年払いが12年くらいになったのだろうか。いつまにかキャンパスを離れてそんな月日が経った。大学出てから14年という歌があるが(知らない?)、25歳まで大学院でうろうろして後ろめたい思いがしていた。あのころすでに歳食ったなと思ったものだが、今では30過ぎのオヤジがナンパとかしているものな、なにかと若年化している。地方大学でちと講師をしたおりも、講堂の鍵の開け閉めや生徒の入出・退出の整理指導など見て、こいつら高校生かよと思った。昔の高校生が今の大学生くらいなのだろう。
 奨学金も完済すると寂しい思いがした。昔、大学の事務の人が、完済するとそれはそれで寂しいものですよと言ったことを思い出した。若いときは40歳過ぎてまで生き恥をさらすかよと思ったものだが、晒すものだ。完済する日はくる。完済する日は自分の青春へのちょっとした贈与の終わりであり、ちょっとこっそりと自分に祝福してあげてもいい。だから、滞納者諸君、貧乏しながらでも食を削ってもこつこつと返せよと思う。それが自分の誇りになるのだ。と、説教だ。私は焼きが回っているのである。

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2003.11.09

衆院選が終わったもののなにやら釈然としない

 衆院選挙が終わった。存外に民主党ががんばったかという思いはある。そう思いながらも、開票を見ながら、比例で民主が自民を越えていくのに、なぜこの糞自民党が崩せないのかと過剰な、無益な期待に苛立った。だから投票に行かない馬鹿たれどもにも怒りを感じた。だが、結局私も祭りに浮かれただけのことだ。社民・共産が歴史から消えていく様は小気味よかった。土井たか子が比例で復活したときは落胆したが、思えばこの復活が計算済みだったからこそ彼女は引退はできなかったのだろう。哀れみも感じる。保守新党といったナンセンスも整理された。しかし、公明党が国民の宿痾となっていく様に恐怖を覚えた。
 新聞各紙の社説を眺めたが、間違ってはいないもののなにかピントがはずれているように思えた。そういえば、結局のところ選挙前の社説もなにかピントがはずれている。一つはだれも公明党・創価学会に言及できないことだ。小選挙区では対立候補もありえない山中貞則といった現代版枢密院についても言及は無意味とされたのだろう。だが、端的な話、今日本の税制を改革したいならダメもとでも山中を狙うべきだった。
 山崎拓落選は文春によるものか。この件では文春の功績は高いが、反面、文春も政治に向けては統一的な態度を取っているわけではないようだ。人気商売だからしかたないのだろうし、新潮も含めその泥臭さは悪くはないだろう。
 山崎拓落選で、加藤紘一復党の目はなくなった(と、当初、思っいたら復党した!)。思えば若作りをしているが、小泉を含め、もうけっこうな歳になっている。安倍の後ろで院政を敷く筋書きは途絶えて、小泉はいよいよお姉さんしか仲良しはいないという奇っ怪な光景になる。奇っ怪といえば、古賀がそうそうに小泉支持を打ち出したが、大物落選の光景をみるとしばし野合が最良の策ということになるだろう。それにしても、今回の選挙は小選挙区制の良い面が目立ったが、悪い面としては自民党はさらに農村部のどぶ板に徹した強みはあった。当然その報いは農政に強い悪影響になるだろう。地方自民議員の喜びの声など聞いていると、駅前商店街の活性などというのが未だに強調されているのに驚く。なに考えてんだと思うが、しかし、農政も含め、日本とはまだそういう国であるし、実際のところ、そういう国である日本を一概に否定はできない。そう考えれば、今回の選挙の結果は難しい局面を暗示しているのだろう。つまり、改革を進めればいいというものでもないのだろう。
 もしかするとあまり注目されないのかもしれないが、沖縄の状況が興味深かった。新設四区の西銘の妾の子恒三郎の当選は人徳の勝利というところだろう。三区嘉数知賢の当選は読みどおりだが、大田時代の副知事東門美津子が僅差に迫り、しかも比例で通ったのには若干驚いた。二区出の社民疑惑の目玉だった照屋寛徳も通った。なんと、社民六人のうち、二人が日本の人口百分の一の沖縄から出ているというのは、大田時代の勢いがまだあるという意味だし、ようするに米軍駐留への反感マグマがいつ吹き出してもおかしくない状況なのだ。誇張ではない。この問題は自民党の問題というよりむしろ民主党の問題となるだろうから、民主党はもっと沖縄に目を向けていたほうがいいだろう。一区白保台一の当選は自公協調の結果なのだが、問題はそのおかげで体型からしてオレンジクジラこと下地幹郎の落選は残念な結果だった。人生の大勝負に敗したというところだろう。うちなーんちゅの心意気から野中裏切り組の先陣を切ったのだが、ツメで負けてしまった。残念なのは、彼が通れば、普天間基地問題が嘉手納統合で解決する線があったことだ。この痛手は大きい。そういえば、沖縄といえば、現代沖縄中部に再臨したイエス様こと又吉イエス光雄は今回東京一区で力戦した結果、東京人からも高い評価を得たことが香ばしい。沖縄は多様な芸人を排出するのである。

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野口晴哉

 縦横に巡らされた「はてな」のリンクを見ていたら、野口晴哉がキーワードになっていた。そういえば、筑摩文庫の影響なのか2、3年前ぐらいから野口晴哉の名前を見かけることが多くなった。奇妙な感じがする。脳足りんか如何、というくらい朗らかなる斎藤孝も野口晴哉のことをまじめくさって紹介していた。反面、筑摩文庫版についてのなにかの評で野口晴哉ってトンデモ?というのを見かけたこともある。野口晴哉の本は、ま、常識的に見ればトンデモ、で終わりなのだが、そういうのが受け入れられていく社会になってきた。不思議といえば不思議だ。
 野口晴哉についての解説は、おそらくはてなの自動リンクでできるのではないかとも思うが十分な解説ではないだろう。だが、ネットを引けば意外と情報は出てくるのではないだろうか。と、投げやりな気持ちがする。随分前のことだが、中村天風、桜沢如一、野口晴哉の3人について時代背景を含めて本でも書こうかと思って資料を集めたことがあった。やりながら、自分の頭がどうかしちまったんじゃないかという気にもなった。そうこうしていくうちに、時代は変わり、なんだかんだとこの手のことに関心を持つ人は多くなってきた。私としても、そういう人のご同列ってものな、といううちに資料を散失した。もともとたいした資料であるわけではないので、未練もない。仮に本を書いたとしてなにが言いたかったのかというと、ああいう頓珍漢な体系がなぜ生まれたのかという日本精神の裏を描いてみたかったくらいだ。もちろん、単に否定的に論じるのではなく、野口晴哉についてはフェルデン・クライスへの影響なども視野に含めたかったのだが。
 手元にある書架を見ると、今や野口晴哉の本は一冊しかない。一冊あるだけでもアレ?という感じもするが、いずれ体癖や体運動などの主著作は捨ててもいないので倉庫の奥にでもあるだろう。その手元の一冊は「治療の書」である。野口晴哉が書いたもののなかで、もっとも優れた一冊だと思って、身近に残しておいたのだ。今でも入手可能な本なのか調べると、全生社からちゃんと販売されているようだ。「碧巌ところどころ」などもある。なるほどねという感じがする。
 手元の本は再刊の昭和五十二年版だ。「治療の書」は序文に源氏鶏太に薦められて昭和四十四年に再刊したとある。このおり原稿を追加して、彼はもう治療と縁を切ることができたと言っている。野口晴哉の諸著作を読んでいる人間ならよく理解できるところだ。
 初刊はあとがきを見るに昭和二十六年。整体操法協会の機関誌「全生」発刊に続くもので、人物論的には野口晴哉前期思想の集大成とも言えそうだが、そう言うにはあまりに浅薄だろう。この時代、整体操法協会の成立と併せて、今日ドグマ化されつつある体癖論が整備されていく。そうしたドグマの根はこの時代からすでに見られる。そして、昭和30年代には操法を表面から落として整体協会とし、整体体操だの体量配分計だのができる。

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整体入門
 昭和40年代に入り、野口晴哉は安井都知事と懇意であったこともあり、駒沢体育館で三千名規模の活元運動東京大会を開くが、このころ野口晴哉自身は内心困惑も抱えていたように思われる。世の中の健康観にも付いていけなかったというか、まるで通じない世の中になっていたように見えたことだろう。健康法的な活動から育児法に傾いていくのも、その背景があるだろう。ある意味、この時代が野口晴哉がもたらす活動の全盛期で、その後はさらにエソテリックになってしまう。恐らく、この時期すでに本人自身の体調も悪かったのではないか。
 昭和51年に64歳で死去。大森英櫻が短命でしたねと皮肉るが、いろいろ野口晴哉についての伝説化が進むにしても、そういう一般的な印象は避けられないことだろう。むしろ、野口晴哉が64歳で死んだという意味をきちんと考察したほうがいいのだが、私にはそれについてまっとうに思索されたものを読んだことはない。
 話が前後するが野口晴哉は明治44年年の生まれだ。矍鑠と現役医師の活動をされる日野原重明と同じ歳の生まれだなのだ。アイロニーを弄したいのではないが、生命論だの癒しだので野口晴哉を持ち上げる人はそのことを知っているだろうか。もちろん、頭では理解できるだろう。だが、野口晴哉と日野原重明を並べたとき、大衆の目にどう見えるかを繰り込んで考えることができずに野口晴哉を評価することなどまったくのナンセンスなのだ。それがわかる人はいないのではないか。
 野口晴哉の幼年から少年の境涯は厳しいものだった。預けられた叔父が漢方医であったことから、治療師としての才能を開花させたのだろうとは思う。もともと、天才的な直感を持っていた子供であることは間違いない。後年の上ランクの弟子たちの指導記録を読むと野口晴哉の苛立ちが伺われることがある。元来、この術は習得されるかにかではなく、生得な直感を必要するとしか思えない。だが、そうした超人的な野口晴哉の能力はおそらく自身も理解していたようになにかの代償であったことだろう。
 話を「治療の書」に戻す。「治療の書」は不思議な書物だ。斎藤孝なんぞでは音読はできても理解はできのではないか。

 或人問ひて「死ぬべきに合はば治療する者如何にすべきか」と。安かに死なしむる也。

 生きるべきものは生きる。死すべきは死ぬ。死と定まったという人間はおよそ会うこともない、というふうにまで野口晴哉はいう。屁理屈つけて大げさに理解するまでもなく、死すべき人は安らかに死ね、というだけで、見捨てられている。そう言ってしまえば、野口晴哉の支持者からは誤解だと反対されることだろう。だが、そうか。私など、死ねと言われたくちだろうなと思うから、この事は深刻に考える。
 「治療の書」には描かれていないが、そして、比喩のようにしか語られていないが、晩年の野口晴哉は転生を確信していたように思われる。生きるということは快ではあり、全生をまっとうすることに意義がある、かのように「治療の書」では書かれているし、そこまで書けばいいと野口晴哉は思ったに違いない。だが、彼の内心では、生きるということ自体ある主の生命の流れの硬詰のように見なしていたのではないか。もう少し言うと、性欲の硬詰というか滞りというかエネルギーがなければ、人はさっさと冥府に帰ればよかろうと思っていたのではないか。裡の欲望が「100万回生きた猫」のように失せれば、生きている意義などなくなる。

治療といふこと、体を観ること、もとより大切也。されど人間を観ることもつと大切なり。人間を観ることその裡なる要求を知ること第一なり。人間は要求を実現する為に息している也。その要求を知り之を処理することに治療といふことある也。

 野口晴哉は愉気を提唱した。気は愉快でなくてはならない、と。だが、およそ生きているからには、その生と性のエネルギーの交換は愉悦であるのだろう。だが、生命としての存在それ自体を覆うもっと強いなにかを野口晴哉は見つめていたように思われる。単に絶望というものでもないのだろう。ダークエナジーというのは冗談だが、死を越えるなにがそこに愕然とあって、死を恐れずとし、さらに死に回帰していくものを野口晴哉は見ていたのだろうと思う。

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米海軍低周波ソナーの使用が沖縄から始まる

 選挙である。小沢が転じなければ書くこともない党名、民主党と書く。ここでごたくを並べる私の一票としては無意味だが、一市民の一票であることに違いはなく、意味がある。官僚体制をリセットして欲しいし、地位協定を改定してもらいたい。その2つの願いしかない。
 新聞各紙社説は面白くない。日経新聞社説「無手勝流で臨むSARS対策」はガラでもないこともあり、めちゃくちゃな内容だった。WHOの対応は悪くなかった、なのに「無手勝流」たぁ何様だね。しかも、SARSはまだ人類にとってわからないことばかりなのだ。朝日新聞社説「外国人拘束 ― 家を離散させるな」は日本に11年間無事に滞在したビルマ人を不法滞在で拘束し、難民認定も退けたという。この問題は根深い。だが、なんだか間抜けな文章だった。この問題はご啓蒙では解決しないのだ。
 今朝の話題は、米海軍低周波ソナーについてだ。ニュースとしては、沖縄タイムス2003.11.8「『低周波ソナー禁止を』/安保課長に要請」だ。引用としては少し長いが、本土側であまり注目されていないようなのであえて引用する。


 八月に外務省日米安保課長に就任した藤山美典氏が七日、県庁に牧野浩隆副知事を訪ね、基地問題について意見交換。牧野副知事は米海軍が対潜水艦低周波ソナー(音波探知機)を日本海周辺で使用する問題について、海生生物への悪影響を念頭に「アメリカ本国では禁止されているのに、なぜ沖縄、日本でやるのか」と反対する考えを外務省に初めて伝えた。
 牧野副知事は「沖縄側と何らかの形で話し合いができれば」と述べ、県が米側などとの協議の場に参加したいとの意向を表明。また、日米地位協定改正や基地の整理・縮小、普天間飛行場代替施設の十五年使用期限問題、米軍関係者の事件・事故防止、原子力潜水艦の事前寄港情報の公表などを要請した。
 藤山課長は「現場主義を大事にし、県民の負担軽減に努めたい」と述べる一方、地位協定問題については「機敏な運用改善に取り組みたい」と述べるなど、政府の方針に沿った考えを示した。低周波ソナー問題では、具体的な返答はなかった。

 ここで琉球銀行出の牧野浩隆が「なぜ沖縄、日本でやるのか」と沖縄に言及しているのは、低周波ソナーの実施が沖縄から始まるためだ。少し古いニュースになるが、琉球新報2003.10.16「新型ソナー 米海軍、沖縄近海で使用開始か」によれば、こうだ。

【ワシントン15日=本紙駐在・森暢平】潜水艦探知の新型低周波ソナー(音波探知機、LFA)を日本近海に限定して使用することで、米軍と環境保護団体が合意した問題で、同ソナーが搭載されているのは米海軍音響調査船「コリーシュエスト」(海上輸送部隊所属、母港・ハワイ州パールハーバー、1597トン)であることが15日、国防総省筋の話で分かった。調査船は今月8日に那覇軍港に入港、11日に出港したばかり。こうした状況から低周波ソナーは、沖縄近海で間もなく使用が始まる可能性が強い。

 低周波ソナーについては、私は日本海域全体を覆うことを知っていたが(参照)、沖縄から始まるのかという点には、ちょっとうかつで思い至らずだった。怒りのような落胆のような思いがする。端的に言って、阻止できないのか。私はグリンピースなんて大嫌いだが、もしコリーシュエストの活動を妨害するなら断固支持する。
 低周波ソナーの問題については、山形浩生=ロンボルグ的に言えば、「環境危機をあおってはいけない」のか、という悪い冗談はさておき、被害例は「カリブ海で低周波ソナーの実験中、クジラ16頭が打ち上げられた」というくらいで、科学的にはその弊害については実証されていない。低周波ソナーの基礎知識としてはAP系のワイアードのニュース「米海軍の新低周波ソナーで危惧される海洋生物への影響」が妥当なところだろう。
 それに、低周波ソナーに反対する勢力はあまりに端的に北朝鮮&中共フレンズなんで、この左翼に同調するのはどうかなとは思う。
 だが、私の考えでは、低周波ソナーは最悪だ。生命は強い存在ではあるが、敏感な存在だ。お馬鹿丸出しでいうが、なにより私はうるさいのが大嫌いだ。海も静かにしてほしい。ま、冗談はさておき、実際米国海域では使用を控えるというのは、科学的に見て妥当な判断であるのに、なぜ日本でやるのか。しかもクジラやイルカ(同義だが)の重要な生息地である沖縄から。米海軍と米環境保護団体である「天然資源保護協会」は日本近海など東アジア海域のみに使用を限定することで合意したというが、それって、レーシズムじゃねーの。
 毎日新聞ニュースからだが(参照)、防衛庁としては、他国の潜水艦が日本の領海内を通過する場合は浮上して航海しなければならないが、公海での低周波ソナーの使用は漁業に被害がでない限り制限できない。
 あのなぁ、漁業に被害が出るかどうかアセスメントしろよ。出てからじゃ遅いんだよ。
 とま、いかにも環境保護の意見に聞こえるだろうが、私はもっと頓珍漢な人間だ。危惧しているのは海人(うみんちゅう)だ。沖縄の近海には漁労民がまだいるのだ。さすがにサバニはなくなったし、破壊され尽くされた珊瑚礁のリーフにはほとんど魚はいなくなったが、それでもまだ海人はいる。
 スターリンは農民を大量に虐殺したが、共産主義の理論から間違っているわけではない。社会主義や共産主義にとって本質的な敵は農民だから。彼らを賃金労働者(奴隷)に貶めなくては革命は成功しない。そんな彼らも、不凍港なき大陸だし、海はあっても内海だから、農民よりたちの悪い海人というタイプは知らなかった。海人は自由だ。海人にとって唯一の存在は海だ。全世界は海と私、それだけだ。スターリンに向かって「ふらー、くるさりんどぉ!」といえるのは海人だけだ。
 そういう人間タイプがいて、しかもそれは日本という固有の文明から欠落してはいけない重要な要素を持っている。日本の歴史のなからおよそ人間の自由というものを善悪を越えて探すなら、海人がもっとも典型的な希望のモデルなのだ。海をこれ以上壊せば、日本は海人を失う。海人を失えば、日本という文明の根幹の一つが喪失されることになる。許せん。

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2003.11.08

教員の性犯罪を考える

 選挙の話やイラク自衛隊派兵については、パス。今朝の新聞各紙社説で気になったのは2点、日経の「電子政府の遅れを取り戻せ」と朝日の「教員の犯罪 ― 学校あげて病根を断て」だ。どちらもあまり面白くないと言えば面白くはない。日経の「電子政府の遅れを取り戻せ」は標題からもわかるように、日本は電子政府に立ち後れているので推進せよというのだが、なんともよくわからない。自分がどんな電子政府を求めるのかと問うてみても、はっきりとした答えがないことに気が付く。日経に言わせるとこうだ。


日本の評価が低い理由は主に2つある。1つは技術インフラはあるが双方向システムができていない、もう1つは各省庁のシステムに統一性が欠け、一方的な情報が多いという点だ。世界経済フォーラムの「世界IT(情報技術)報告」でも日本政府の電子対応は19位だが、利用度は41位となっている。

 そうなのか? 全然違うのではないか。双方向システムってなんだ? 省庁間のシステムの統一性ってそんな重要なことなのか。別に住基ネットについてがたがたいうわけではないが、日経は全然ピントの違った議論をしているような気がする。私は端的なところ、オンブズマンの仕組みが市民社会に定着するようなシステムだけが必要なのではないかと思う。この話は、別の機会に掘り下げよう。

 朝日の「教員の犯罪 ― 学校あげて病根を断て」も標題以上の内容はない。朝日新聞社説にありがちな扇動的な前口上を除けば、ポイントはこれだけ。


 これらは特殊な教員の突出した事件とは思えない。わいせつ行為で懲戒などの処分を受けた教員は01年度には全国で122人もいた。92年度の5倍近い数である。
 保護者や社会の目が厳しくなったため、事件が明るみに出やすくなった面はあるとしても、性的な事件や問題を起こす教員がこんなに多いのはどうしたことか。

 ん? 多いか? 日本全体の教員数の統計が手元にないが、122人ではどってことない数値なのではないかと思う。で、だ。でも、じゃ、騒ぐほどの問題じゃないと言いたいわけではない。話を端折っると、それっきゃ表沙汰にされてないわけ?という問題だ。
 先日たまたま大月隆寛の雑文のために買った「諸君」(2003.12)に「スクール・セクハラの赤裸々な実態 盗撮、痴漢は当り前? 親が知らない教師の姿。スクール・セクハラから我が子を守るために」との標題でジャーナリストの宮淑子と宮坂聰の対談が掲載されている。「諸君」だものなぁと思うが、このお二人さん、それなりに取材努力が伺われて面白かった。そのなかに、122人の処分についてこうある。

しかし、この数値は公表されたものだけです。数年前、北海道が全体の二割だけ公表し、残りの八割は意図的に隠していたことが報道されていますから、実態はこの数字の五倍くらいと考えたほうがいいかもしれません。

 5倍というあたりは妥当な線ではないだろうか。端的に言って痴漢教師は全国に600人程度だろうなと思う。それでも少ないという感じはする。そのあたりの自分の感覚は、おそらく「偏向」してんじゃないのと言われそうだが…。そう思うのは、以前、リリー・フランキーの「女子の生きざま」(新潮OH!文庫)を読んだとき、洒落というにはかなりひどい実態が裏にあるんじゃないかと思ったこと、それと、eggみたいな雑誌を雑見すると(するか)、けっこうひどい実態があるとしか思えない投稿がある。もちろん、ヤラセというかネタという感じもする。ついでに、自分の経験や過去になにげに聞いた話を総合しても、けっこう実態はひどそうだ。
 私は何を言いたいのか? もちろん、小中高の先生がらみで性が乱れているよ~んというのはある。ロリ化で低年齢化が進んできもちわりぃというのもある。だが、そう「諸君」したいわけではない。
 そのあたりがもどかしくうまく言えないので駄言を弄することになるのだが。そんな思いで象徴的に思い出すのだが、昔のホームドラマ、といっても肝っ玉母さん時代というか1960年代から70年代というところだろうか、しばしば家庭の風景で、旦那を「先生ぇ~」という若奥さんがいた。つまり、旦那は元教師というやつだ。あの時代、それってけっこう普通ことだった。社会もそれを普通に受け入れていた。22歳くらいの男子教師が16歳の女子高校生とけっきょく出来てしまって、24歳と18歳、あるいはその2歳上くらいでしゃんしゃんというわけだ。個人的な印象だと、この風習はけっこう田舎に残っているような気がする。もうちょっというと、これは先生に限らないのだが…さておき。
 現代は女子高校というのが減っているし、ある意味そういう結婚ターゲットの純愛みたいなものはない。だから、そういう表層的なケースは少なくなっているのかもしれない。それに、高校生女子など自立心がなくつるんでいるから、抜けて先生とつるんでいるのはダセーというかそのツルミの規制から排除されるゲというのはあるだろう。さかもと未明が高校生のころ、暗げまじめな感じでオヤジとつきあっていたみたいな話を描いてたが、ポストガングロ系というか、浜崎たぬき系といか街にたむろっている女子高校生はセンコーなんかとできてしまうというのはないだろう。痴漢先生もそそられないのではないか。いずれにせよ、宮台真司あたりがマスコミ受けで語るあたりは彼の言うところの免疫化が進んでいるだろう。
 だが、変態教師が存在するということの基本的な部分では昔も今も変わらない。学校の先生にしてみるとなんで今さらセクハラなのかと思っているだろう。先の「諸君」の対談でも、そんな様子はうかがわれる。

(富坂)非常に腹立たしかったのは、ある教育委員会を取材したとき「そうは言うけど、自分から膝に乗ってくる子供もいるんですよ」と、暗に被害を受けた子供に落ち度があるかのようなことを言うんです。だから「それが教育委員会としての公式見解でよろしいですね」と言ったら、慌てて取り消しましたけどね。

 そんなところじゃないか。だから、返ってどろっとした部分は街に露出する女子学生の陰や田舎にどろっとした温床があるかもしれない、なとも思う。無責任な推測かもしれないが、結果として性についてPTSDのようになっている女性の数はかなり大きいのではないだろうか。
 朝日社説では触れていないが「諸君」の対談にもあるが、どうも現代的な様相としては盗撮の問題が大きそうだ。

(富坂)最近目立ってきたのは、単純に体を触るというセクハラだはなく、盗撮ビデオやパソコンを使用したものです。

 このあたりの心性というのは自分と違いすぎてよくわからないのだが、れいのマーシーもそうだが、止めろといって止めになるものでもなさそうだ。なぜ、このような倒錯が多いのか、については、率直なことをいうと、現代のメディアとの関連があるような気がする。関連して「諸君」ではこうもある。

気になるのは、それらの犯人は私と同じ三十代が中心だということですね。上の世代は直接体を触るセクハラが中心だけれども、わりと若い世代は盗撮が多いんです。ただ、少し取材をしてみた印象では、生徒に人気のある教師が多かったですね。

 率直な印象をいうと、ここにもセンター試験以降の世代のなにか特有な現象が関係していると思う。大月隆寛はその上の共通一次世代の論客たちのメディアでの自己愛的な露出を指摘していたが、問題は大月が暗に問題視する自己愛というよりも、そのピヴォットにあるのは、メディアではないだろうか。
 なんかつまんねー結論になりそうだが、共通一次試験からセンター試験以降の世代へ向かう、巨大な断層というのは、メディアとリアリティの問題ではないかという気がする。そういうと単純過ぎるので、リアリティとはリビドーだと言ってもいいのだが、リビドーだのいうとフロイト批判が知的に思われている浅薄な知的状況では通じないので、端的に性的な欲望としてもいい。もっと現代にすり寄って言うなら、ジラール=ラカン系ではないが、他者の欲望はメディアの媒介とした他者であることを必然としているとなるだろうか。つまり、リアリティがあってそれがメディアを通すのではなく、メディアでスクリーニングしなければリアリティにならないのだ。そして多分、メディアはある種万能感を保証する装置でもあるのだろう。
 もうちょっと奇っ怪な指摘をすると、そこに欠落しているものは糞の臭いであり、糞の臭いへの倒錯された欲望かもしれない、と思う。あまりに唐突な言い方なので、もう少し補足しないといけないのだろうが、人間社会が避けられない糞の臭いがその社会性のなかである調和をもたらされることがなくなったので、逆に現代では単純に糞の臭いが露出している。なのに、メディアを介したリアリティには糞の臭いがないのだ。
 どうも議論を端折りすぎているようだが、このあたりでこの話は止めて、もとに戻すと、痴漢先生を社会的にどうするか? 朝日は短絡的に言う。

子どものサインを素早くつかむことも大切だ。子どもが教員の授業を評価する学校も出ているが、教員の行動についても聞くというのはどうだろう。学校に配置されているスクールカウンセラーにも協力を求め、普段から注意しておけば、危険を未然に察知できるかもしれない。
 教員同士や校長と教員との日常のコミュニケーションも大事だ。互いに授業や子どものことを話し合い、情報を交換し、指導に生かす。当然なことが、ややもするとおろそかになっているのではないか。

 そんなことで解決になるか? というか、実際にあの薄気味悪い学校という制度にいた記憶が朝日新聞社説の執筆者にはなくなっているのだろう。ずばり言う、変な先生はなんとなくわかる(ばれる)ものだ。もちろん、人気の高い先生に盗撮が多いということからすれば、外観からはわからないというのが筋が通る。でも、わかる。若い人間の感性を侮ってはいけない。少数かもしれないが、あの感性は人間の本性を洞察するに余りあるのだ。その感性をどう学校の経営に反省するかだ。端的に言うと、痴漢先生の問題は解決などできない。問題化させないように校長が学校を運営するしかない。
 とすれば、校長が、感性の強い、敏感なアンテナのような一群の子供たちと密かにコミュニケーションを取ることが解決の糸口になる。学校にスパイを撒くようで気持ちの悪い提言に聞こえるかもしれないし、そこまで腹の据わった校長などいるわけないとも言えるだろう。確かに教頭上がりの校長などにはできない。だからこそ、実社会の大人が必要になる。しかも、青年期の苦しみの感性を摩滅していない大人が必要なのだ。

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2003.11.07

再考・太田朝敷と小熊英二の議論に関連して(11.9追記)

 コメント内のレス内の太田朝敷についての言及ですが、morimori_68さん(参照)のご指摘は当然だと思います、が、私の意図は小熊英二がそうだという意味ではありませんでした。このあたり舌足らずだったかもしれないので、少し補足させてください。先のレスで、「太田朝敷なんて結局皇民化だ」というのは、沖縄の言論界でだいたい1990年くらいまでの左翼的な評価としてある程度定着している面があったのですが、彼が新報(琉球新報)の創始との関係や実際に現地ではその謦咳に接する古老も多いことから、旧来な左翼的な評価が定まりにくい傾向がありました。そうしたなか、論集の再刊などを含め、見直し的な考察やまた、左翼的な思索からもれいのポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズが出て、ちょっとイジワルな言い方をすれば、沖縄は文献が豊富なこともあり「おいしい領野」になってくるあたりで、ちょうど小熊英二が出てきて、やっぱ「東大系からはこれかよ」と思ったのです。その意味で、


「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける

 とmorimori_68さんがご指摘されるのはわかります。小熊英二についてその言及が妥当であるとも思います。ただ、私は2点の問題を感じているのです。
 1つ目は、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズにアクチュアリティがないことです。逆にそれがアクチュアリティ乃至状況への知識人の言及に適用されるとき、結局旧来の左翼思想に実質収斂してしまう。というのは、おそらくその背後に結局のところユーマニズムを内包しているからではないか。別の言い方をすれば、人間の終焉、ユマニテの生成・終焉過程としての近代化の発現として植民地化を見ていない、かつ、植民地化として現実のアクチュアリティに連結してみせるが、その支柱となるべき帝国主義論が完成していない。この点、英国のニューレフトのように帝国主義から植民地主義をマルクス的な世界史の動向の正統な一貫として捕らえることができない。これは、多分に、日本やフランスなどの知識人が、知識人階層として結局のところそのナショナルな国家システムに保護されているためだろうと思います。この点は端的に言えば、日本にはラジカリティがないのです。吉本隆明が60年代安保を支援したのは思想の内在ではなく、ラジカリティという思想だった点が日本の知識人は十分に問い直されていません。
 2点目は、「一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける」というときの論者のスタンスはどのように理論構築されているかが、曖昧だということです。この問題は、戦後のヴェーバーの社会科学論、古いところではカール・レービットなどによってかなり深化されていたはずなのですが、結局のところ、日本を含め、80年代あたりのどこかでなにかの屈曲があったように思われます。ソーカル事件でフランス現代思想が実は修辞ではなかったかというプラグマティックな批判がアメリカ思想側からでる、また実質クーンに連動したドイツのフィアーベントの科学批判などもどこかで否定のための否定となり、結果、フランス現代思想が思想による思想のシミュレーションになってしまう(例えば、コジェーヴは優秀なヘーゲル学者でもあるが、ヘーゲル=コジェーヴというのが前提となりデリダの議論が通ってしまうのはごくフランスのローカルな家のご事情)。その屈曲のなかで社会学の科学性が十分にマックス・ウェーバー時代の前提すら考慮されなくなってしまった。端的な話、我々という日本人の知識人が帝国主義者の正統嫡子であるということをポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは弁罪的な内容で隠し、その上で「客観」を仮設することになってしまう(この点で、フランスの知識人におけるアルジェリア問題など最近は日本側では考慮されていないように見えます)。乱暴な議論をすれば、本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などないというのが巧妙に「客観」に隠蔽される結果、別の「アジアなるもの」「アジア諸国なるもの」というのが日本に対立して出現してしまう。結局、日本の知の状況では、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは、そのスタンスの甘さから批判されるべき「日本のナショナリティ」が前提に回帰されてしまうのです。正確に言えば、カルチュラル・スタディーズの議論は、それを解体するはずなので、こうした私の言及がお笑いに聞こえるかもしれません。しかし、問題は、社会学理論の装置の性質ではなく、我々の思想というアクチュアリィなのです。
 小熊英二は、ちょっと皮肉な言い方をすればお利口さんなので、そのあたりの学会(業界)の動向や装置の設定、そしてアクチュアリティへの距離など実にウェルバランスに出来ています。もうちょっと皮肉な言い方をすれば、アメリカ人研究者の博士論文的なスタンスです。が、そこで欠落されるのは、国家性のない侵略という現象とでもいうべき、実際の歴史の状況です。単純な日本の戦後史観では「日本が(主語)アジアを(目的語)侵略した」という命題から日本やアジアとされる国家ないし民族が固定的に実体化されます。しかし、実際の歴史の展開は、あえていえば、アジアの部位が部分的に日本になることで日本化という現象が起こり、それが西欧の侵略の様相を呈したということです。単純な例でいえば、日本の戦犯とされた朝鮮人や台湾人(これはもっと複雑な問題がありますが)などは、侵略の主体に回されてしまいます。
 話がめんどくさくなりましたが、植民地化というのはジオポリティックな現象でなく、スポラディックな発酵的な現象だった、だからこそ、そのアクチュアリティの側面では急進的中核性が求められ、それが日本に課せられたと私は見ています。そして、その課せられるべき日本が実はオーバーロードであることから、偽装された急進的中核として石原莞爾などの満州国の理念が出てくる。
 そしてこの運動は結局のところ、日本の敗戦後も共産主義の形で歴史運動だけは継続していた。ちょっと浅薄で皮肉な言い方をしますが、アジアの赤化は、大衆の側にとって、ちょうど日本の植民地化と同じような現象として実現したのは、もともと同じ現象の一貫だったのではないかと私は考えるのです。
 単純な話にしすぎていますが、日本敗戦後のアジアの共産化の状況を日本の帝国侵略と同じなめらかな現象と見て、現代の日本アジアを位置づけるといった視点は小熊英二にはありません。もちろん、そんな議論は妄想というかもしれませんが、現象のもつ説得性があれば考慮すべきであるし、小熊英二の装置にはそうした問題を扱うシカケが存在していません。私の思索の誤りの可能性を明示化するために、逆にちょっときつい言いかたをすれば、小熊英二の議論は発展性がありません。

[コメント]
# masayama8 『べ、勉強になりました。ここ数日は特に筆致が荒々しい印象なのですが、僕の気のせいでしょうか・・・?』
# masayama8 『朝日にしても田中宇にしても、傾斜し過ぎないようにと思って目を通すようにはしているのですが、細かな整合性ってところについてはおっしゃるような検証が必要なのだろうなと思います。すべての記事に僕は目を通せるわけではないのはもちろんですが・・・態度の問題としてやはり極東ブログさんの立場って言うのは、ひとつ重要な観点を含んでいると思います。参考になりました。』
# レス 『(先日のレスでmasayama8さんとmorimori_68さんと混同してしまいましたので訂正します。)筆致が荒いのは殴り書きがけっこうあるためで、いかんなとは思うのですが、そのホットさ(感情むき出し)もありかと迷います。実際にはあまり手間が取れないことや、どれも掘り下げると深い部分があってできない面もあります。例えば、ホドルコフスキーのオヤジはユダヤ人だとか。また、morimori_68さんがご指摘された「太田朝敷」についてももっと説明する必要はあるかとは思っています。例えば、太田朝敷について典型的な批判(評価)でこんなのがよくあります。「太田朝敷は本土に向けて琉球人差別撤廃を主張したが、それはアイヌと同じするなという差別を含んでいた。太田朝敷は結局くしゃみまで本土人に真似ろという皇民化の推進者だった」、と。この手の批判はなんの意味ないと私は思います。それでは戦後の戦争反省派と同じようなものです。とま、そこを越える説明というのは難しいものです。』
# morimori_68 『はじめまして。小熊英二の太田朝敷論は「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づけるものだったように思います。ところで、ネットでの議論は必ずしも性急でなくてもいい(あとからいくらでも補足や軌道修正ができる)ので、じっくりおこなっていくのが良いのではないかと思っています。』
# レス 『morimori_68さん、コメントで突然ひっぱり出してしまっかことになってしまい、ご迷惑だったかもしれません。であれば、申し訳ありません。また、当然ながら、ネットの議論はじっくりと行うという点について異論のあるものではありません。ただ、メディアとしてのブログの位置づけについて、多少違った試行もあるかとは思います。レス内の太田朝敷と小熊英二については、補足を追記しました。』
# morimori_68 『この件に関する質問を http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしくお願いします。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらにコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、回答ありがとうございました。回答を受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしければお読みください。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらに追加のコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、再回答ありがとうございました。それを受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に描きました。よろしければお読みください。』
# finalvent 『了解しました。そちらにコメントを書きました。たぶん、これがこの件についての最後のコメントになるかと思います。』

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再考・マハティールと田中宇の言及について

 ロシア政局関係で田中宇がまたエンタテイメントを書いているんじゃないかとなと思って、サイトを覗いたら、「マハティールとユダヤ人」という記事があった。読んでみた。うーむ、さすがインターネットを駆使する国際ジャーナリストっていうのは伊達じゃないな。というか、私のほうがうかつの極みだった。せめてはてなの回答くらいにはサーチすりゃよかった。恥だったぜ。というのは、バンコクポスト掲載のマハティールインタビューはネットでちゃんと原文が読めるのだ。Mahathir: Jew comment out of contextがそれだ。
 そしてだ、今回のサーチで我恥じること多しだが、以下の言及を見たとき、やったねと思った。我ながら喝采である。


Anti-Semitic comment: Just recently in Japan the Japanese newspapers put down my talk to me being anti-Semitic. They just picked up one sentence of my speech. In my speech I condemned all violence, even the suicide bombings, and I told the Muslims that it's about time we stopped all these things, and pause and think and do something that is much more productive. That is the whole tone of my speech, but they pick up one sentence in which I said the Jews control the world.

 ちょいと訳そう。

「最近の日本でのことだが、日本の新聞各社は私の発言を反ユダヤ主義に矮小化してみせた。彼らは私の演説の一文だけ抜き出しただけなのだ。だが、私の演説では、自爆テロを含め、全ての暴力を非難している。そして、私はイスラム教徒に向けてこうしたことを止める時期だと言ったのだ。今立ち止まって、もっと前向きなことを考えべきなのだ。これが私が演説で言いたかったことだ。だが、彼らが取り上げたのは、ユダヤ人が世界を制御しているという一文だけだ」。

 ちゃんと聞けよな、日本の新聞各社の糞ったれども! 特に読売新聞!

 田中宇もこういう点は触れないんだよね。
 というあたり、若干話が雑談になるのだが、田中宇の歴史認識ってなんだろう?と変な気持ちになる。ちと長いがこういうくだりなどどう考えたらいいのか。


 これに対し、マハティールは間違っているとする欧米系の一つの論調として「近代民主主義の考え方はユダヤ人が作ったのではない」というのがある。ヨーロッパで、腐敗している教会(聖職者)が神と信者の間を仲介することを嫌うプロテスタント運動が「聖書のみが聖典であり、その解釈権は(教会ではなく)各個人にある」という考え方をとり、そこから「(神のもとでは)万人が平等だ」「(教会や王室ではなく)各個人の意志決定が集積されたもので政治が動くべきだ」という考え方に発展し、それが人権や民主主義という概念になった。(関連記事)
 だが、この歴史的な過程で私が重要だと思える2つのポイントがある。一つは、人間が主体的な選択に基づいて神との契約を結ぶという概念はユダヤ教に強く、プロテスタントの運動はユダヤ教の考え方を借りて成立したということ。
 もう一つは、プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばしたのが欧州での迫害から逃れて新大陸アメリカに入植した清教徒(ピューリタン)であり、彼らが旧大陸から新大陸に渡る際、自分たちの行動を、古代のユダヤ人がエジプトの圧政を逃れて「約束の地」(今のパレスチナ・イスラエル)へと移住する旧約聖書の「出エジプト記」の故事になぞらえたということである。

 田中宇に言わせるとこうだ。

  1. プロテスタントの運動はユダヤ教の考え方を借りて成立した
  2. プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばしたのが欧州での迫害から逃
  3. れて新大陸アメリカに入植した清教徒(ピューリタン)

 それって、トンデモだぜ。1についてだが、田中宇は、プロ倫こと「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んでいないのか? ただのおバカ? あるいは、読んでいてそう言う? 確かにヴェーバーは古代ユダヤ教のエートスを宗教社会学の基礎にすえ、その先にプロ倫を結びつけたが、プロテスタント運動については、カルバンの予定説が重要になる。そして、その予定説は、ユダヤ教とは直接は関係ない(ユダヤ人全体が選民だし)。
 2については、初期入植者が新世界をエルサレムに擬したのはたしかだし、その阿呆な名残は1ドル札のデザインにも残っているが、「プロテスタント運動の中で最も強く政治的な方向性を伸ばした」っていうのは違うぜ。伸ばしたのは、欧州のカルバン主義者のほうだ。むしろ、新世界アメリカの政治的な動向は、ジョン・スチュワート・ミルの「自由論」を読めば示唆されるように、モルモン教などに象徴される。また、そのファナティックな方向はセーラムの魔女のような事件から探ったほうがいい。まさかと思うけど、田中宇は「自由論」も読んでいない?
 なんだか田中宇くさしみたいになってしまったが、率直に言ってそうではないよ。ちゃんときちんと教養を積んでくれよと思うだけなのだ。

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ロシア政局についてまともに書けない朝日新聞

 朝日新聞社説が今朝になって、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長逮捕に端を発する一連の事件に言及しだした。あれ?という感じだ。そして期待通り、へんてこな内容だった。朝日ってなんなのだろう、不思議な新聞だなと思う。毎度ながら啓蒙しくさりのスタンスに立つので、社説「石油王逮捕 ― プーチン氏への気掛かり」はこう切り出されることになる。


ロシアはソ連型の統制国家に逆戻りを始めたのではないか。プーチン大統領は改革者というよりも強権主義者ではないのか。ロシア経済が再び大きく混乱しないか。そんな懸念が広がっている。

 確かにそーゆー問題なので、わかりやすく書いてみせるぜということだろうか。しかし、プーチンが強権主義ということと、ロシア経済の混乱の可能性をさらっと並記する神経がよーわからん。もちろん、私も現代日本に生きているからその雰囲気からしてわかりそうな気がする。だが、気がするだけだ。この2つを並記する神経はおかしい。
 以降、この社説の展開は例によってなにが言いたいのかごちゃごちゃする。デスク入りまくりじゃないのか。それでも、ちと長いが、結論らしき部分の1つはこうだ。

 過去の国有財産の不当な取得や脱税が事実としても、株式を実質的に国有化するような手段をとれば形成途上のロシアの市場経済は大混乱が避けられない。現に、ロシアの株価は下がり、外国からの投資も手控えが広がっている。財閥の資産形成に問題があったのなら、資産の没収ではなく、課税の形で過去の補償を行わせることだ。
 プーチン大統領に期待したいのは、所有権の不可侵、自由な競争といった経済原則と改革路線の堅持をあらためて行動で示すことだ。そうしないと、ロシア経済に欠かせない外資の流入が滞り、欧米との政治的な協調路線も深く傷つく。過去に後戻りすることの危険を思うべきである。

 よーするに「脱税だったら、課税すりゃいいじゃん」ということだ。朝日はもごもごしているが、「そーしないと、資本主義諸国に見放されちゃうよ~ん」というのだ。なんだかなである。朝日新聞の社説ってのは中学生レベルの知能だなと思うが、これが大学入試に使われるのは大学のレベルが落ちているからか、と、くさしはさておき、もちろん、朝日新聞社説の執筆者もそんな低レベルのはずはない様子は韜晦からちらちらとする。その当たりに朝日新聞を読む醍醐味もあるのだがというのは冗談。むしろ、問題はこっちだ。

経済的な影響も心配だ。石油・天然ガスはロシアの輸出額の半分を占める。新しい産業がなかなか育たないこの国を支えているのが、ユコスが代表する石油産業だ。

 と、ユーコスに目を向け、結語でこう受ける。引用が多くなってしまうが、元の文章が変なのだ。

 日本にとっても他人事ではない。政府は東シベリアと太平洋岸を結ぶパイプラインの建設を望んでいる。原油の中東依存を減らすうえで大事な構想だが、そのためにも、ロシアの石油産業が信頼できるものになってもらわねばならない。

 これって、高校生が読めば、そーかぁ、「ユーコスが問題を抱えると日本に向かう石油パイプライン建設の障害になるのか」と思ってしまう。どう読んでも、そうなるんじゃないか、現代国語だと。
 だが、事実は逆。ユコス社長ホドルコフスキーが進めていたのは、中国ラインのほうなのだ。つまり、話はまったく逆。今回の事件のおかげで、日本の石油政策は有利になるのである。
 そのことを知っていて、朝日さんは書けないのだ。便秘のような苦しみだろうなと察するに余りある。
 さらに、この問題の背景については、ごく一文のみ。

プーチン政権内でソ連国家保安委員会(KGB)出身者の力が強まっていることも欧米の懸念を呼んでいる。

 これじゃわからんよな。もちろん、複雑なロシア内の権力闘争を社説で論じるべきじゃないとも言えるだろうが、それにしても日経と比べれば痴呆感が漂う。
 日経の1日付け社説「ロシアの強権政治を案じる」では、欧米のジャーナリズムを踏襲して、KGB系のサンクトペテルブルク派とエリツィン派ファミリーの対立で論じている。ニューズウィークやNHK「あすを読む」でもこの構図だ。しいていうと、日経はKGB系の経済改革派も挙げているが、そのあたりは私にはよくわからない。
 ホドルコフスキーを巡る背景については、日本版ニューズウィーク11.12「ロシア 新興財閥たたきの裏にある闇 大物実業家の逮捕がさらけ出す政権内部の亀裂」のほうが詳しい。欧米のトーンでは、政治にちょっかい出すホドルコフスキーをプーチンが叩きつぶしたということだろう。だから、強権政治だと言えないこともなさそうに見える。
 だが、私は、ちと違った印象を持っている。プーチンはそんな単純なタマだとは思えないのだ。少なくとも今回の件で、欧州側の懸念によって経済的な打撃を受けているが、ロシア国内では支持されているし、日本へもウィンクを飛ばしていると見ていい。問題は米国の動向なのだが、ジャーナリズムのレベルではなく政策側でこの事態をどう見ているかが気になる。それに、今回の事件は本当にプーチン主導なのだろうか。

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2003.11.06

選挙前三日の静かで脱力な日々

 秋が深まってきたと思うが今年は例年に比べて紅葉の色が良くない。山茶花の開花も早かったように思う。近所の和菓子屋に栗羊羹を買いに行ったら、「今年の栗はあまりよくないんですよ」と店の者が恥ずかしげに言う。それを聞いて、国産の栗なんだろうなと思う。しばわんこ和の心である。かく日々が過ぎていく。選挙が週末に近づくわりに、それほど選挙の宣伝はうるさくない。小選挙区制なので勝ちが決まっている選挙区はこんなものなのだろうか。と、日記のようなことを書く。新聞各紙社説を読んでも、今日もぼんやりした感じだからだ。
 朝日新聞社説「あと3日 ― 無党派層さあどうする」を読んで、当然ながら「どうしよう」とも思わない。小沢一郎に最後の手向けの一票を送りに行くだけだ。もちろん、希望を捨てるわけではない。官僚制度を一度刷新しなくてはいけないし、地位協定を改定しなくてはいけない。私がこの選挙で思うことはそれだけになってしまった。
 朝日によれば、無党派とはこうらしい。


3年前の前回総選挙では、投票した無党派層の大半が投票日の直前か当日に投票先を決めたことも、本社調査で明らかになっている。

 朝日にしてみれば、毎度ながら啓蒙しくさってくだっているつもりだろう。私しても、自分もほぼ無党派でありながら、選挙の実態とはこんなものかと思う。そのあたりは選挙のプロが詳しいから、この数日に奇妙な花火が上がるだろう。多分、追いつめられた民主党が阿呆なことをしでかすくらいだろう。例の内閣人事案で大恥こいてまだ上塗りという次第になるだろう。嗚呼。
 もう一点朝日新聞社説の「国民審査 ― 制度を生かすには」は最高裁裁判官の国民審査のナンセンスさをテーマにしている。だが、こんなものナンセンスでいいのではないか。マルかバツを付けるということは、基本的に完璧にこいつは許せんというヤツを排除するためのシステムであり、日垣隆がいくらおちょくっても実際のところ、こいつは許せないという事態ではない。最近はとんと赤旗を見る機会がなくなったが、確か赤旗では、毎回きちんと、最高裁裁判官の国民審査のための資料を公開していた。その点はいくら偏向していても立派だ。ネットにはないのだろうか。
 脱力といえば、毎日新聞社説「軽水炉停止 再開は北朝鮮の誠意しだい」はほんと脱力。北朝鮮の代表は国連で「ジャップ」呼ばわりをしているそうだが、夜郎自大ここに極まるな。こんなやつらに「誠意」なんてものはないよ。ただ、誠意があるかのようにシミュレートする外交というのはありうるかもしれない。難しいところだ。メディアでは田中均を吊し挙げているが、なぜ彼は失脚されないのだろうか。きちんとした裏が知りたいと思うがわかるようで、わからない。
 そういえば、二週間くらい前の日本版ニューズウィークが薄気味悪いほど外務省よりだった。なぜだろう。購読者が多いのだろうか。このペラで400円だものな。私は昔から惰性でニューズウィークを読んでいるが今、どのくらいの部数が捌けているだろうか。やたらと早期教育や英才教育の特集が多いところを見ると、その手の層に色目を使わないとやっていけないラインなのだろう。経営も変わったことだし、日本版なんてやめてただの翻訳にすればいいのに。米版ザカリアはたいした玉だと思うし、R・サミュエルソンは現代の賢人だといえる。その他米系の執筆陣も悪くない。デーナ・ルイスが政治に言及するとありがちな外人さんになるが、この人のオタクのセンスはいい。総じて翻訳もいいし、文章もまあいいから、編集者としての藤田正美の采配はいいのだろうが、この人、頭良さそうに見えて、線が細過ぎるよな。意見は小賢しいだけでつまらない。
 日経新聞社説「農業開国と自給率維持の両立を目指せ」は標題どおり。曰くこうだ。

世界一の農産物純輸入国の日本が「農業鎖国」であるはずはない。熱量換算の食料自給率40%は、英国を除けば、ほぼ100%の自給率を達成している主要先進国の中にあって、際立って低い。

 私は頓珍漢なことを言おうと思う。日本は農業の自給率を100%にすることができる。ああ、気が触れたのか、井上ひさしや野坂昭如になっちまったのか。もちろん、冗談に聞こえるだろうが、日本の国土は日本の国民の飢えを満たすだけの米が今でも生産できる。それだけの米を食っていれば、生きていける。栄養不足? 大丈夫だ。タンパク質だって補給できるし、ミネラル類はその他のわずかな農産物で足りる。戦後の飢えの時代を喧伝する老人も多いのだろうが、あれは半分は本当だが半分は嘘だ。戦中ですら、戦後も日本は飢えていなかった。農産物に由来する飢えというのは、江戸時代でもそうだが、マーケットと貨幣経済の問題なのだ。そもそも日本は戦中悲惨だったとかいうが、あの時代をちゃんと調べてみれば、被爆と都市大空襲というジェノサイド的な事態を除けば、国土の大半はのんきなものだった。ここでも問題は都市部なのだ。沖縄戦のようなことは本土では無かった。
 日本はその意味で戦争も飢えも知らない。そして、本気で腹くくれば、日本人はこの島にへばりついて孤立しても生きていける。そこが日本人の原点でいいんじゃないかと思う。日本人っていうのはそういう国民だろう。とま、もちろん、これは冗談であり、暴論だ。心情的な真実をどこまで読み取るかは、ご勝手にどうぞ。

追記(11.7記)
ニューズィークのサイトに以下のお詫びが掲載されていた。


北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 会長
佐藤 勝巳様
 このたびは、弊誌ニューズウィーク日本版10月22日号の記事「『拉致』された北朝鮮報道」におきまして、拉致被害者の方々がマスコミの個別取材にいっさい応じていないにもかかわらず、当編集部の翻訳の不手際により事実とは異なる報道をいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。
(中略)
平成15年10月28日
ニューズウィーク日本版
発行人
五百井健至

 それって翻訳の不手際なのか。それと、謝罪は発行人なのか。編集権ってどこにあるのだ?

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2003.11.05

[書評]「偏差値秀才クンたちの歪みきった自画像」大月隆寛・「諸君」12

 「諸君」という雑誌はあまり買わない。理由は単純でつまらないからだ。AERAを買わない理由と同じ。機会があれば目次を立ち読みする。それに束のある雑誌はゴミになっていやだなとも思う。文藝春秋で困るのにさらにオヤジ雑誌は要らん、とキーワード「オヤジ」がいきなり出てしまったが、純正オヤジといってもいい私ではあるが、いわゆるオヤジものにはあまり関心がない。オヤジ代表の西尾幹二も好きではない。理由は小林よしのりのいうポチ保守だからではなく、処女作以来の読者だったからだ。ニーチェに挫折した若い西尾がいつからズルムケになってしまったのかなと思い起こす。この人の昭和回顧ものもつまらない。回顧なら小林信彦のほうがいい。「国民の歴史」に至っては、ほとんど盗作ではないかと思う。卑しいとすら思う。
 「諸君」を買ったのは人待ちの本屋でたまたま大月のこの記事を見たからだ。何を言っているのかざっと読んでよくわからないので買った次第。大月の文章は、啖呵よくわかりやすげな雰囲気で書いてあるが、小谷野敦ほど知性がないわけではないようなのので、言いたいことがねじくれている。そして、正直に言えば、そのねじれの奥の意図だけは理解できることもあるので、大月は多少気になる。
 この記事は、小熊英二のツラの揶揄から始まる。多分に恐らく、「諸君」の読者なら、「そーだよな、このツラじゃあね」と思うだろう、という食いつきで書かれている。
 小熊英二については、私は「『日本人』の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで」が出たとき雑読して、とってもつまらかった記憶がある。自分は台湾・沖縄に関心を持っているせいもあるが、「そんなこたぁ知っているよ、で、なんだ?」という印象だった。この人は生身の沖縄人も台湾人も知らねーなとも思った。手元にこの本もないので曖昧な記憶だが、太田朝敷(*1)の苦悩なども理解しないだろう。というか、その苦しみを我が苦しみとするが故に探求するということはないのだろう。ま、総じて岩波・朝日新聞系のスカポンな若い研究者が一人増えたかな、と思ったくらいだ。もちろん、この手のサヨ入りは沖縄でウケがいいのである。100倍優れた与那原恵の「美麗島まで」のウケが悪いのと好対照だ。このねじれが現代に至る沖縄の複雑さを物語ってもいるのだが。
 とはいえ、私には大月が小熊を吊し挙げる理由はよくわからない。田口ランディを吊し挙げた理由も私には皆目わからないので、それ以上の関心もない。だが、この記事では小熊から宮台真司や芸名香山リカなども同じく罵倒しているのだが、そのあたりの感じのほうはわからないではない。短絡した理解でいうなら、偏差値秀才クンたちは実生活に生きる年頃になっても架空世界的な優秀性を強迫的に、かつ自己愛的に主張し続けている、というわけだ。
 率直に言えば、私はその偏差値秀才クンたちの心情や行動パターンもわからないではない。自分にも思い当たる節があるからだ。なにしろ、こんな自慰的なブログを書いていることすら、同類の臭いを放っているのではないか。
 それでも、ここでブログを書き始めてから、テメーも元祖オタク系かもねだが(*2)、下の世代のあり方にかなり違和感を強めるようになった。しばしば「センター試験以降の世代」という言い方をしてしまうのもそのためだ。SPAで漫談をやっている福田和也は、相棒の坪内祐三との間にある種越えがたい世代的な溝を感じているようだが、それを感じ取れるだけ福田がマシなのかもしれない。その溝は、奇妙なほど、センター試験前身の共通一次の時代に適合する。大月に言われて、時代を思い起こす。
 共通一次試験が大学入試に具体的に導入されたのは昭和五十四年度入試からだから、生年としては昭和三十五年度生まれ以降、一九六〇年代生まれということになる。平成二年度以降はセンター試験に移行しているから、その間十年ちょっと、今、浪人や留年コミで概算した実年齢でいうと、現時点でおよそ三十代の始めから四十代の始めまでがまさにこの共通一次世代、ということになる。
 大月は触れていないが、センター試験以降の世代はもっとすごいことになる。初対面で互いに交わす言葉「ね、何点だった?」が「朝飯、食ったか?」の代わりになっているようだ。大月はそういう偏差値秀才クンが社会のエリート層になりつつあることも懸念している。くだらねーなとも思うが、たまたま自分がそういう世代でもなく、そういう世界にもいなかっただけで、実際はよくわからない。
 話を溝のこっち側(オヤジ側)にいる坪内祐三に戻すと、彼の特有な陰影は神蔵美子をめぐる、すえーどんこと末井昭との三角関係(*3)の影響もあるだろう。卑しい興味ではあるが、そうした三角関係が成立する心情を支える最後の時代だったようにも思われる。宮台真司と速水由紀子では陰影もなく洒落にしかならない。福田和也に至っては、ぶよぶよしているのは体質として仕方ないとして、娘のよきパパというくらいの恰幅過ぎておよそ色気というものがない。絞ったら水はでるけど、酒井順子の言うところの男汁は出てきそうにない。
 てな、アホーなことを書きながら、偏差値秀才クンというのはルックスはいいし、実際のところその世代か、その世代以下の女にはモテるのだろう。古今東西音楽家がモテるの同じだ。よく女たちがいう「いい男いないわね」というところの、いい男ってあんなものじゃないか。男は上淫を好み女は下淫を好む、だ。女が四十歳近くなって、若い男とつるむのはその手の理想的なのだろう。でも、だ、古典西洋的な意味では、あーんな男、ぜーんぜん、セクシーではないなぁ、という感じはする。シラクなんてでーきれーだが、あいつはセクシーだよな。
 話がずれまくってきたが、大月ががんばって鉄槌を下したいというのに、あまり自分は賛同しない。自分が間違っているのだろうなとも思うが、偏差値秀才クンを含めこの下の世代に対して、ある種の哀れみのようなものも感じるからだ。自分の優越であるとはまるで思わないのだが、彼らは真に性的な身体を獲得して生きることなどできないのではないだろうか。
 現代の若年の女性は一見性的に奔放になったかのようにも見えるが、実際の身体性としての性からは疎外されているような気がする。そのぉつまりぃ、若い男からは、なかなか男汁が出ないからではないか。それに比して、西原理恵子がつきあう中年男たちは、汁、出まくりだよな。

注記
*1:「おおたちょうふ」と読む
*2:平野文のCDを全部持っていたとか。
*3:http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0804/03.html

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今日は変な社説が多い一日

 今朝の各紙新聞社説は一瞬あれ?と思うものが多かった。なんか日付がずれているような感じだ。連休前に書きためていたのだろうか。ネタが古い。朝日、日経、産経が中国西安の大学で日本人の語学留学生の馬鹿騒ぎで起きたデモを扱っていた。産経は読む価値がない。朝日は日本人学生を責める内容だったという点で朝日らしい。リクルートによる接待旅行では無礼講などなかったのだろうな。日経の社説には呆れた。標題を見よ、「双方に反省迫る『西安事件』」。おいコラ! 西安事件はねーだろ。デスクが通ったのか? っていうか社説ってのはデスクなど複数の目が入らないのか。はっきり言うけど、こんな標題付けるようじゃ、「日本経済新聞のみなさん、歴史に無知過ぎ」。歴史に対する感性のかけらもない。学生の学力低下なんて問題じゃないよ。

 読売新聞社説の「マハティール 長期政権の終焉で迎える新時代」はちょっと驚いた。読売がここまでマハティールに悪意を持っていたとは。何故なんだ、どんな裏があるのかと思った。特に気になるのはれいの反ユダヤ発言とされるマハティール発言への言及だ。
 この経済危機への対処にも見られた反欧米主義が、マハティール氏のもう一つの顔だった。「ユダヤ人が代理人を使って世界を支配している」という、物議をかもした引退間際の発言にも、そうした一面がうかがわれる。
 ことは単純な話だ。この括弧でさも引用とされている発言は本物なのか? でなければ読売さん、デマゴーグだぜ、ということだ。

 今朝の社説のなかでよかったのは毎日新聞社説「火災警報機 義務化は価格引き下げの後で」だ。端的な話、こうだ。
問題は警報機の販売価格だ。米国では1個1000円から3000円で買えるのに、日本では6000円から8000円。設置工事費を含めると1個2万円にもつく。各階に1個が望ましいから、二階屋ではさらに負担が増す。
 ありがちなオチのようだが、結語も悪くない。


市民に負担を強いる施策を講じるなら、消防当局が天下りなども含めた関係業界の実情を見直すことが先決ではないか。

 それにしても、どうしてこういう問題がもっと社会問題にならないのだろうか。
 そうしたことで思い起こすのは、子供の安全ということが米国と比較すると日本ではまるでといってほど問題になっていないことだ。
 すごくわかりやすい単純な例でいうと、小学生のランドセルだ。欧米、オーストラリア、ニュージーランドではスクールバックがもたらす子供の身体骨格への影響など議論されているのに(参照)、日本では皆無だ。ランドセルの形状を見るに、安全性も疑問だ。確かにランドセルが原因の問題というのは、日本の社会にはないしこれまでもなかった、という意見もあるだろう。本当なのか? 電車のなかで通学する小学生を見ても、とうてそうだとは思えない。なのに、このランドセルは義務化されている。
 子供の教育がどうこういう以前に、あの愚劣なランドセルをなんとかしろよと思う。ついでに、公立中学の男子生徒の軍服もやめてもらいたいし、もともと海兵用が奇妙なファッションとして倒錯してできたセーラー服ってなものもだ。
 子供を見ていたら当たり前にわかりそうな問題が看過されているという日本の社会とその言論はなにかとてつもなく狂っていると思う。

追記
 マハティール発言について、英語圏のソースをあたってみたいが、実は杳としてわからない。というのも、いくつかバリエーションがある。

Mahathir reinforces Jew stance
AFP
28oct03
(中略)
The influential Simon Wiesenthal Centre last week called on investors and tourists to avoid Malaysia after Mahathir branded Jews "arrogant" and accused them of controlling the world by proxy.

 間接話法なのでいまひとつわからない。これがロイターだともう少しダイレクトに直接話法になっている。

UPDATE 2-Bush tells Mahathir his Jew remarks are "wrong"
20 Oct 2003 14:16
(Recasts with Bush comments)
By Darren Schuettler
BANGKOK, Oct 20 (Reuters) -
(中略)

"The Europeans killed six million Jews out of 12 million, but today the Jews rule the world by proxy," Mahathir said.

 ロイター通信がいうのだからとりあえず「事実」とする慣例からすれば、読売自前のソースじゃねーじゃんとは思うが、オメーさん、デマゴーグかもというほど責められるべきではないのかもしれない。それにしても、ロイターに依存するなら、ご覧の通り、前半部分をわざとらに編集的にオミットしているわけだ。
 当たり前のことをいうようだが、元の発言は英語ではないのだろう。proxyの原語の語感が気になる。英語の場合は「代理人」で悪くはないが、ネットの串、つまりプロクシと同じなので、背後に身を隠すような含みがある。
 いずれにせよ、このようなニュースが行き渡り、それをもとにブッシュが動いてもマハティールはそれに動じないので、この発言の流布に腹をくくっているとみてよさそうだ。
 私はこの問題への言及は控えよう。金玉縮み上がるものな。ちょっとでも言うためには、アメリカの政治におけるロビーについて、なげぇ~前口上でもしねーとな。

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2003.11.04

再考・藤井治芳解任と裁判員問題

 ブログを書いていると、この文体が自分にぴったりというわけではないが、日常、この文体は使えないことの反動である種の解放感がある。それとクサシ連発の小気味よさみたいなものがあるので、ついそうした自分の快感に堕してしまう。が、自分で提起した問題は、それぞれ自分の心に跳ね返って突き刺さることも多い。いくつか補遺がてらメモしておきたい。
 藤井治芳解任についてだが、そんなの当然だ、もっと早くすべきだったと思っていた。今でもそう思うのだが、ちと、振り回されたかなという反省もある。今週のSPAに掲載された切込隊長こと山本一郎の指摘は優れていた。道路公団はそもそも財務表など造る必要はない、また、解任を急ぐこともなかった。この2点については、そうだなと思う。山本はさらに、Aこと青木の裏をついていたが、この点についてはすでにブログでも書いたとおり。大筋で自分の見解に修正はないのだが、政治ショーにのせられた面はある。
 裁判員問題については、とにかくさっさせとやれ!というのが意見だが、正直、やけっぱちな思いがある。どうせ日本人は裁判員なんかになるまい、と。投票率を見よ、絶望的だぜ、と。しかし、それではいけないなと思う。ヤケは禁物だ。とにかく実動できる制度は模索すべきだろう。
 他、ヴァイコディン回りの話やイラク問題などにも少しぶれる思いがあるが、それはまたの機会にしよう。

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三題話、図書館・地位協定・栄養学

 今朝の新聞社説から気になった点をざらざらと書く。テーマ的には関連の薄い落語の三題話のようなものだ。

 朝日新聞社説「図書館 ― 時代に合わせて変身中」は現状の図書館が時代に適合するべく努力しているという、わずかな例を挙げて作文を書いていた。文章の顛末としてはそれでいいかもしれないが、社会問題として捕らえると数値のほうがわかりやすい。
図書館の数は毎年70館くらいずつ増えてはいるが、まだ10万人に約2館にとどまっている。英国の9館、ドイツの17館などとは大差がある。
 ただし、誰でもわかることだが、日本で館数だけ増やしても無料化貸本屋ができるだけだ。欧米の場合、国よっても違うがどちらかというと小型の公文書館的な役割があるのだろうと思う。いずれにせよ、ようは日本の地方図書館がどのように公共にサービスするのかという点だろう。現状では、生活者なら知っているが、図書館はごくわずかな人々へのサービスにしかなっていない。サービス対象者を増やせというのではなく、ルソーのいう一般意志的なありかたからなにをサービスするかが問われなくてはいけない。端的に言えば、これから市民が官僚をねじ伏せる道具が提供されなくてはならない。

 日経新聞社説「外交・安保で共通の土俵はできたが」はありがちに見えるがよく書けていた。確かに端的には「自民は米、民主は国連」である。だが、日経が些末な事項として追加している以下が決定的に重要だ。
 両党の政権公約をみると、このほかには自民党が防衛庁の「省」昇格、民主党が日米地位協定の改定を掲げているのが目立つ。
 はっきり言う、防衛庁を「省」にしてはいけないし、日米地位協定は改訂しなくてはいけない。そのためだけに、今回の選挙は民主党を支持するというのは、まっとうな日本人の選択である。あえて言う、日米地位協定とは沖縄の問題だ。これまで本土は沖縄に結局のところ金のばらまくことでこの問題に蓋をしてきた。構造的な差別である。同胞の人権すら危ぶまれているのに本土市民は動いていない。沖縄から米軍を撤退せよとまでは言わない。だが、日米地位協定は改訂されなくてはならない。

 産経新聞の「『食』教育 学校で指導すべきことか」は愉快だった。産経らしさが良く出ていた。結論は、「食育は本来、家庭の役割である」と言うのだ。だが、当然のことながら、そんなことは無理だ。実現するべき家庭がないのだ。食を維持するための家庭とは、最低でも4人の構成員が必要だ。3人暮らし以下でしかも生活時間のペースが共有されないのに食をその場で維持するのはシステム的にも無理だ。栄養が問題なら、むしろコンビニでサポートするという逆の発想が必要になるし、現実はそう動きつつある。
 もっと重要なのは、学校に食の指導を導入することで、あの古くさい女たちの栄養学が権力となってしまうことだ。今ですら、日本の栄養学の惨状は目に余る。トランス脂肪酸についての考慮すらないのだ(*1)。なのに日本の栄養学の弊害が社会的に目立たないのは、この点において米国の惨状の実態しか日本からは見えないせいもあるだろう。だが、栄養学の学としては米国はあれで先進国でもある。だから、知識をもって食の選択が可能になる。
 まだはっきりと追及しきれたわけではないが、ラジオ体操同様、日本の栄養学とは軍国主義、というか軍隊主義の名残りなのだ。それが戦後のGHQ下の統制でも、欠乏を避けるために実質延長されてしまった。もうこの手の栄養学は廃棄されてもいいくらいだ。繰り返すが、栄養学とは所詮兵站の一部なのである。臭い肉を食わせるためにカレーライスを作り、外地の水に当たらないように茶を飲ませる。牛乳で下さないようにヨーグルトを推薦したかったのだろうが、それだけの国力がなかった。それでも日本は腸内菌についてはメチニコフ学説の導入が早かったこともあり研究は先行していた。軍への適用は間に合わず、戦後に市場に出てきた。
 読売新聞社説「糖尿病 腹八分と歩く習慣が予防のカギ」という愚劣な論説も、現行の栄養学の弊害そのままでもある。自分も批判対象になることを了解していうのだが、人間の健康維持の学問に素人なやつらはつい既存の「学」の大衆向けの上水を垂れ流すだけだ。その結果が常識に合致するならがいいが、そうでもない。最新の栄養学の知見がないなら、まともな常識で考えたほうがいい。例えば、「糖尿病になるのは栄養が過多だからだ、だから食を減らせばいい、なぜなら栄養過多ではない昔は糖尿病が少なかった」という提言がある。
 常識的に考えて欲しい。端的に言ってなぜ平均寿命が延びたのか。栄養が十分になったというのが最大の要因だろう。20世紀医学の最大の敵だった結核も統計をよく見れば抗生物質の勝利ではなく栄養の勝利であることがわかる。
 「栄養のほどほどのバランス」が良いといった折衷的な意見もあるだろうが、常識的に考えれば、栄養過多というのは栄養が社会に充足することに必然的に内包される事態だ。むしろ、過食や偏食になるシステム的な要因とその要因を支える心理的な問題を社会システム的に解決したほうがいい。
 最新の栄養学の知見からすれば、グルセミックロードが問題だ。砂糖がブドウ糖果糖液に置き換わることによる果糖代謝が脂肪蓄積に関連している点も構造的な問題だろう。
 なにより、これを生活習慣病として個人に責務を追い込む厚労相の詐術に気を付けなくていけない。医学的に見れば、生活習慣病の大半は実は遺伝的な問題なのである。遺伝の問題というのは、個々人がそれを周知して管理しなくてはいけないものなのだ(*2)。

注記
*1:もちろん病人を相手にする管理栄養士には考慮する人もいないではない。例えばここ。しかし及び腰。ちなみに管理栄養士と栄養士は違う。
*2:例えば、糖尿病の人はαリポ酸のようなサプリメントを活用するのもよいと思う。これについてはドイツで成果報告が出ている。サプリメントはなんでも不要か危険かといったレベルではどーしょーもない。

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2003.11.03

試訳憲法前文、ただし直訳風

 文化の日というのは、明治節の焼き直しなのだが、サヨ全盛の戦後は、GHQがわざわざご配慮してくださった憲法公布の記念日を戴き、傷口のかさぶたのようにしている。GHQの新聞検閲は廃止されたけど、その伝統は、なーんと産経新聞にまで生きているので、今朝の新聞社説は産経新聞まで明治節を忘却し、憲法の話ばっかし。小林よしのりが言うところのポチ保守なんてこんなもの。もっとも小林よしのりの歴史観や民族なんてものも、古事記が偽書(*1)であることも認めたくない近代の偽物だなのが。
 明治節とは戦前の四大節のひとつで明治天皇の誕生日を祝ったものだ。1927年に制定され、1948年に廃止された。それにしても珍妙なのは、明治天皇が生まれた時代には日本はキリスト教国が採用するグレゴリオ暦になっていなかったのに、天皇誕生日までキリスト教風にコンバートしてしまった。
 明治天皇睦仁(むつひと)は孝明天皇の第二皇子。幼名は祐宮。「さちのみや」という。有名な童謡「さっちゃん」の原型である(大嘘)。1852年生まれ。もちろん旧暦で、9月22日。ちなみに今日は旧暦で10月10日。古来日本には西欧キリスト教徒のように誕生日を祝う悪習はないのだが、1か月もずれているぜ。
 睦仁親王は1867年に践祚。っていうことは、天皇位に付くのは満で14歳。恐らく35歳で病死とされたおとっつあんの孝明天皇は暗殺だろう。親子の情の薄い天皇家とはいえ、14歳で親が殺されるっていうのはどういう感じだろうか。というのが彼の伝記から読み取れるなら、数学的帰納法的に孝明天皇暗殺の信憑性が高まる。

 さーて、今朝の話題は…と思って、そういえば、以前なんかのおりに試訳した日本国憲法前文の原稿があったっけと思って探すとあった。今読み直すと、げっ、だ。なにがゲロゲローなのかというと、なんとか日本語にこなそうとしていたため、まるで池澤夏樹風になってしまっているのだ。

 憲法がお好きなかたかたちやそれを文学的に見る人は、きれいな訳文にしたがるようだ(*2)。だが、このゲロゲローを読み直すに私の訳文などなんの価値もないのだから、いっそ直訳にしてしまえ! というわけで、以下、私の直訳風に戻して垂れ流す。見ればわかるように、完全に直訳じゃない。
 でも、逐語訳に近いから、誤訳があれば見つけやすいだろう。
 率直なところ、日本国憲法の原文(法的には違うのだが)の英語って、ものすごく変。この変さを味わってもらいたいと思う。そのため、原語の語感を強調した。pledgeなど強調しすぎて誤訳に接近しているが、こういう語感があるのだ。
 憲法原文の変さかげんを歴史的に解明した本をついぞ読んだことがない。なにしろ英語が変なのだ。いわゆる理科系の文章のようだ。フツー、憲法にcontrolなんて使うか。米文学者にこの変な英語の由来を期待したいくらいだ。が、文学者は技術英文に弱いからなぁ、やっぱだめかも。
 特に留意してもらいたい点がある。


  • 商用取引の用語が多い。商売感覚で読むと良い。
  • 思想の根幹には「高い理想をもって人間を制御する」とある。スキナー(*3)かよ。
  • the peopleとは国民であり、これがNationに対応している。
  • 日本国憲法はNationの規定なので、Stateは別扱いになっているようだ。
  • この時点で沖縄が含まれておらず、将来的に沖縄は別ステートになる可能性があった。
  • 原文本文でもNationとStateは対立しているが訳文の現行日本国憲法からはわからない。

THE CONSTITUTION OF JAPAN
 日本の憲法
【第1文】
We, the Japanese people,
 私たち日本国民は、

acting through our duly elected representatives in the National Diet,
 正式に選挙された国会の代表の活動を媒介として、

determined that
 以下のことを決定事項とした、

we shall secure for ourselves and our posterity the fruits
 その決定事項は、私たち自身と子孫のために以下の成果を保証すべきだということだ、

of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land,
 その成果とは全国家の協調と(日本の)国土に行き渡る自由という恵みだ、

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、

do proclaim
 さらに、以下のことを宣言する、

that sovereign power resides with the people
 主権(統治権)は国民にあるのだと、

and do firmly establish this Constitution.
 だからこの憲法を固く打ち立てる。

【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

【第3文】
This is a universal principle of mankind
 以上のことは人類の普遍的な原理であり、

upon which this Constitution is founded.
 その原理の上にこの憲法が打ち立てられている。

【第4文】
We reject and revoke
 (だから)私たちは次のものを拒否し廃止にする、

all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
 (拒否し廃しにするものは)以上のことに矛盾する憲法や法律、地方条例、勅語である。

【第5文】
We, the Japanese people, desire peace for all time
 私たち日本人は常時平和を望み、

and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,
 人間関係を制御する高い理想というものを深く意識して、

and we have determined
 以下のことを決定事項とした、

to preserve our security and existence,
 私たちの安全と生存の保持は、

trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
 平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しよう、と。

【第6文】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for
 私たちは、以下の努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う、

the preservation of peace,
 (努力の目的は)平和の維持であり、

and the banishment of tyranny and slavery,
 (努力の目的は)独裁制度と奴隷制度を払拭することである、

oppression and intolerance
 また払拭する対象は圧政と異説を受け入れない態度だ、

for all time from the earth.
 こうしたことを常時この地上から払拭されるように努力する。

【第7文】
We recognize that
 私たちはこう理解している、

all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.
 世界のどの国民も平和で恐怖や貧困のない生活を過ごす権利がある、と。

【第8文】
We believe that
 私たちはこう信じている、

no nation is responsible to itself alone,
 自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在しない、と、

but that laws of political morality are universal;
 そうではなく、政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである、と。

and that obedience to such laws is incumbent upon all nations
 だからこのような規則を守ることは、どの国家にも課せられた義務である

who would sustain their own sovereignty
 その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている、

and justify their sovereign relationship with other nations.
 また、その義務は他国との関係で主権を正当化しようとする国に課せられている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

注記
*1:現代の文献学で日本書紀や万葉集などを成立史的に解析すれば、日本語の表記は疑似漢文訓読方式から仮名へと時代変化することがわかる。古事記に見られる整備された万葉仮名の成立は時代的に新しい。古事記が文献的に明らかになるのは、太安萬侶の子孫の多人長が記した弘仁私記序なので、偽作者はおそらく多人長だろう。
*2:ちなみに共同訳の聖書もそのくちなので私は大嫌いだ
*3:参照

[コメント]
# noharra 『興味深く読ませていただきました。ありがとう。』
# レス> 『なにかの参考になれば幸いです。「国民」については池澤さんなども訳に抵抗があったみたいですね。』
# shibu 『江藤淳の3部作で占領時代であることの具体的意味を考え、西修の文庫版で占領開始それも2年も経たないで着手1週間でニューディラー若手(文献集めたのは22歳タイピストのベアテ・シロタ)がデッチあげた代物であることが、やっとわかったりしました。これを採用した(せざるを得なかった)のは幣原個人の決定であるとか突き放す説もあるようです。要は、継接ぎ杜撰の見本でこそあれ検討には値しないってことでしょうか。ご提示の直訳で、手持補強w資料が増えました。』

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2003.11.02

仁科五郎盛信

 先のブログのジョークに一部の人にだけウケを狙って「信濃の国」五番をつけたものの、ふと仁科五郎盛信が気になった。センター試験以降の世代でも、多少なりと日本史を勉強した人間なら、春台太宰、象山佐久間あたりはわかるだろうが旭将軍義仲となるとちとどうかな。芭蕉好きなら名句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を思い起こせるかもしれないが、このあたりのことが日本人の常識でなくなりつつある。そんなことも知れねー知識人も多いのだろうなと思うが、一喝できるのは高島俊男くらいか。
 まして「仁科五郎信盛」となると、歴史好きにはこたえられないキャラなのだが、「知らねーのかバカ」とか言ってバカの壁を造るとこちらもちと不親切ということになる。とはいえ、この手の郷土史の話題は意外とネットに事欠くまいと思ってぐぐると、たしかに、そうだ。まったくネットってなんだろうねと思うが、これは悪いことではない。というわけで、「仁科五郎信盛」についてはぐぐればある程度わかると思う。それどころか広辞苑やハンディな日本史の辞典には仁科盛遠は載っていても、仁科五郎盛信は載っていない。
 仁科五郎盛信は名前の五郎からわかる武田信玄の五男。名歌信濃の国では「信盛」としているが歴史上は「盛信」。母親は油川氏。仁科氏を名乗るが武田信玄は仁科氏を滅亡させているので、領主として氏名を継いでいるだけで仁科氏の血統ではない。信濃の国で誇りとして歌われているのは、織田信長の長子信忠の5万もの軍に3千の軍で立ち向かい、潔く散ったことによる。長野県人は強者にも屈せず、負け戦もものともしない、と言いたいところだが、真田家の生き様など江戸時代は狂歌・狂句のお笑いネタになったものだ。
 仁科五郎盛信の妹松姫は7歳で織田信長の長男信忠と政略で婚約しているが(婚儀は盛大であった)、後、事の次第はかくなるわけで、婚約は果たなかった(恋心を抱いていたとする物語も多い)。仁科五郎盛信戦死に際して、松姫は現在の東京八王子に逃げ、本能寺の変で織田信忠の死を聞いてから、深沢山心源院で得度。22歳。ちなみにこの寺は「夕焼け小焼け」の歌の発祥地である。
 松姫はその後、現在の八王子市街の小高い丘に庵を建てこれが後の信松院になる。八王子はのちに織物を名産とするがこの起源は松姫に帰せられているようだ。私はこれは中将姫伝説の変形ではないかとも思うが、あるいは中将姫伝説がむしろ中世末の女性の原型を造ったのかもしれない。またも余談だが、中将姫は日本史上重要な意味を持つと思われるが、ついぞ研究を見たことがない。史実中心やフェミの歴史など糞喰らえである。
 松姫の逃避で一緒に連れて来た盛信の娘督姫もその後得度したが29歳で亡くなったとのこと。現在は極楽寺に改葬されている。余談もこれで終わりだが、子連れの極楽寺散策のおりは、その近くの「こども科学館」に寄るのもいいかもしれない。入場料のわりに展示はしょーもないので、イベントを目当てにするといい。浅川へと出ると、荒井呉服店の娘荒井由実の歌の光景がそこにある。

追記
 我ながらちとうかつだったが松姫の物語は、松姫に焦点を当てるより、実際はその背景ともいえる八王子千人同心が歴史的には重要になるのだった。この特異な半農・半士の武田遺臣はそのまま徳川に従属するのだが、その際、子仏峠を越えて甲州に往来しその織物を売買権する特権が与えられている。これが後に横浜・八王子を結ぶ絹の交易のベースになる。

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新聞の社説は今日もつまらない

 散漫な感じの日なので、散漫なブログを書こう。まず朝日から。「若者と雇用 ― 君の票が明日を決める」は変な話でもあるし、お得意のお説教だとも言える。手に職のない若者はどうするのだという問いかけに、論理飛躍で「その責任の一端は若い世代にもある。若者の投票率はあまりに低いのだ。」とくる。ここにバカボンのパパの挿絵を付けてもらいたい(はじめちゃんとママではダメだ)。お説教マシーン(浅田彰の真似しぃ)はこう言う。


前回の衆院選で20代前半の投票率は35%にとどまった。一方、60代は80%に届く。政治家たちが、どちらの言い分に耳を傾け、大切にするかは明らかだろう。

 そうかなぁ、と思って脱力する。違うだろぉとか言うだけの気力もない。公明党なんてしょーもない政党が国政に関与しているくらいだから、統率されて投票する集団の力ってのは大きいなとも思う。だ・が・ねぇ。私自身今回の選挙は民主党に投票するつもりだが、小選挙区の民主党の候補を見るとやはり脱力する。
 ところで朝日新聞の社説にこうあるのだが、みなさん違和感ないのでしょうかね。とま、社説の主張についてではなく、用語についてだ。

日本はどうだろう。自民党の政権公約には「実務・教育連結型人材育成システム」(日本版デュアルシステム)、「若年者のための地域ワンストップセンターやトライアル雇用」など目新しい言葉が並んでいる。これらは政府がすでに打ち出している政策だが、成果はこれからだ。

 「デュアルシステム」って、零時にメート系に切り替わるのかねとわけのわかんない突っ込みを入れよう。「ワンストップセンター」かよ。脳裏に漫談が浮かぶ。「そのぉ、なんでんな世の中便利になってきたっていいますが、わたし、先日ワンストップセンターにいってきましてな」「なんやねん、そのワンストップセンターって」「知りまんへんのかぁ」「なんやて」「犬がぎょーさんおって……」……。
 「トライアル雇用」ってさ、私はイチゴのトライアルがいいなぁ、栗もいい(駄洒落)。ってな感じ。「マニフェスト」ねぇ。ま、今回の選挙で選挙公約のありかたが変わったのでその強調というのもわからないのではないが。ちなみに、世間でマニフェストのことをマニュフェストと呼ぶ人がいて、一部の人がアホかとぐぐっているみたいですが、あのね、そんなものぐぐるなよって。ぐぐるは気を付けないと阿呆になりまっせ。ちなみに「アフェリエイト」でぐぐってごらん、「アフィリエト」が出るから。「マタイ受難曲」でひくと先日まで「タイ旅行」のアドワードが出た(今日は出ない)。
 話変わって。読売新聞社説「中国反日デモ 過剰な民族感情に益はない」によると、こうだ。

 発端は、西安の西北大学の文化祭で、三人の日本人留学生が演じた寸劇だ。三人はそれぞれ、「日本」「中国」「ハートマーク」の書かれた札をつけて、卑わいな格好で踊った。
 留学生たちは「日中友好の気持ちを示そうとしただけ」だった。だが、見ていた大学の教員や学生は、下品さが度を超しており、中国人を侮辱していると感じ踊りを中断させたという。
 中国人学生らは謝罪を求めて市内をデモし、寸劇とは無関係の二人の日本人留学生が殴られる事件も起きた。

 読売はこれに「しかし、寸劇への反発が、大規模なデモにまで発展したことには、強い違和感を覚える。」としている。ふーんという感じだ。西安はそんなに田舎でもないとも思うのだが、このレベルの低さはなんだろうか。別の裏があると思うのだが、読売はこんなふうに話をまとめて終わりかぁ。
 話変わって、毎日新聞社説「地方と財政 風に舞う大風呂敷の真贋」の冒頭で首をかしげた。

財政の視点から見ると日本には二つの政府が別個に存在するように見える。中央政府と地方政府である。

 え? 中央政府と地方政府とは別個でいいんじゃないの? とまこの先はこうだ。

だが地方政府は地方に存在するのではない。この国の地方政府は中央政府の中に「総務省」という形で同居している。中央政府の中の権力が「地方支配」の点で二重構造になっていることこそが、税財政改革を決断しようという時の大きなネックになる。

 ま、そりゃそうだ。で、結語は「地方の財政改革は交付税のシステムを抜本的に変える必要があるが、その肝心の点はどこの党も触れていない。」とするのだが、ここでまた、で? と首をかしげる。そうなのか?
 気になったのは、もちろん、交付税もだが、地方に散在する各種の団体への補助金や地方政府の長が官僚の天下りの構造のほうがベースにあるのではないか。ええい、もっとはっきり言うと、地方は今の状況で満足しているんじゃないか。もちろん、ヤッシーのような例もあるが、あれは…象山佐久間先生の長野県の人たちだから…。
 ちなみに、象山佐久間先生は「ぞうざんさくませんせー」と読む。では、五番から歌います。声に出して歌う日本語です。みなさんもご一緒に!

旭将軍義仲も仁科五郎信盛も
春台太宰先生も象山佐久間先生も
皆この国の人にして
文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ
川と流れて名は尽ず

 書いていて空しくなってきた。読まれたかたがいたら、もっとつまんねーとか思うだろうな。他にネタねーのかよとね。ま、あるにはあるんだけどね。連休だし、脱力。

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2003.11.01

麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想

 今朝は日経新聞社説「ロシアの強権政治を案じる」が良かった。考えようによってはなんてことない話なのかもしれないが、私はこの問題は日本の今後にも関わってくるだろうと思う。当面の事態は表面的にはウォロシン大統領府長官の解任だが、ロシア最大の石油会社ユーコスのホドルコフスキー社長の逮捕に関連している。問題は背景にあるロシアの政治だ。と書きながら、この話題は今朝は割愛する。
 今朝はどうしても麻原裁判結審への言及を避けるわけにはいかない。範疇は時事を避けて歴史とした。歴史の問題ではないが、時事でも社会の問題でもないので便宜的なものだ。
 麻原裁判結審で意外にも思えたのだが、社説で扱っていたのは読売と産経だけだった。朝日と毎日は避けているという印象を受ける。当然、この問題について悪しきポピュリズムを越えられない読売と産経だから社説には読むべき内容もない。今さら麻原を悪だと言い立ててもサマにならないので、国選弁護団の姿勢を叩くということになる。おきまりってやつだ。もっとも、まだ結審の段階で判決ではないので、しかたがない面もある。
 判決は来年2月になる予定だが、おそらくその判決には新規性はないだろう。私の勘違いかもしれないが、裁判はこれで終わるわけでもないだろう。今回の結審までには256回もの公判があったものの、そこから我々の市民社会が受け取るものはほとんどゼロに等しかった。すでにこの問題は日本の社会から終わってしまったかのようだし、その気分を私も共感しないわけではない。
 結審に関係ないといえば関係ないのだが、たった一つだけ喉に引っかかった魚の小骨のような思いだけがある。些細といえば些細なことだったが、当時論壇やジャーナリズムを巻き込んで麻原を擁護した吉本隆明の主張だ。眼帯のまほこちゃんこと吉本真秀子(よしもとばなな)の家庭教師だった芹沢俊介を除けば、サリン事件以降、吉本を支持する論者はいなかった。こいつらは馬鹿かと思われるような論者やジャーナリストは一斉に吉本バッシングを始めたが、私が吉本シンパだからかもしれないが、結局吉本の強さが際だつだけだった。ちょっと知恵の回る論者なら、この問題を避けてしまった。
 実際はどれほど吉本シンパであっても吉本のこの立ち回りは理解できなかったのではないだろうか。率直に言えば私もその一人だ。もちろん、心情的には理解できる。昔吉本はこう言っていた。そのままの言葉ではないがこんなトーンだ……オレが銃をもって立ち上がろうといってついてくるヤツは四百人だろうな……、と。そう、彼が銃を取るといったら、いよいよ革命に参列するかな、と心に誓う人間がいた。それを待ち続けながら、現在、もうろくしていく吉本をじっと見ている。
 今思うと、老骨吉本は麻原擁護において60年代闘争よりも過激だった。麻原を擁護できずに日和っているヤツラへも鈍いながらも痛罵を喰らわせ続けていた。蓮実重彦がなにかの対談で、吉本に天皇制へのようなある種の怖さを感じると漏らしたことがあったと記憶しているが、吉本の怖さというものだけが奇妙な形で浮き上がってきた。ある意味、そのきつさだけを私も自分に感じている。
 言葉の上っ面では吉本の批判など簡単だ。至極簡単と言ってもいいかもしれない。だが、その簡単をそのままやるヤツは歴史から浮遊し始める。昔吉本は彼とサルトルと対決したら必然的に負けると言っていたが、そう言えるところに吉本のしぶとい強さがある。
 私の理解は間違っているかもしれないが、吉本が麻原を擁護するというのは、つまるところ2点だろう。1つは。麻原の行なった壮大な悪事を市民社会は断罪できないし、断罪するような思想は大衆の未来を閉ざすということだ。このテーマは難しい。もう1つは、麻原が歴史上比類無き宗教家だということだ。もちろん、政治的には阿呆だと吉本も付け加えているが。
 麻原は希有な宗教家だったのだろうか? そう吉本が考える理由は、1つには弟子たちの心酔のありかたであり、もう1つはその背景となる麻原の神秘体験の了解にある。だが、私は、吉本とは違い、恥ずかしいことでもあるが、すでに近代西洋のエソテリズム運動についてかなりの知識をもっている。だから、麻原の神秘体験とされた記述も一読して、ブラヴァツキーに始まる神智学の文書の亜流であることはすぐにわかった。他方、中村天風のような戦前戦後の新興宗教っぽいムーブメントや沖正弘のような間抜けなヨガなどとの関連につながるものであることもわかった。当然麻原のヨガ理解についてもこうした神秘傾向のある人々と同じく滑稽な間違いも数多く犯していたし、チベッタンシステムとインドのタントラが混同されているので、教義も混乱していた。ただ、ある意味そうした混濁もチベッタンシステムに内包されるものかもしれないのだが、この問題は今は触れない。
 ケーチャリー・ムドラーを真似して舌帯を半分ほど切ってところで日和った麻原彰晃という滑稽なヨギは結局アーサナも完成していなかった。そんなタワケが希有な宗教家なのかなど、ヨガを知る人間なら疑問にすら抱かない。だが、吉本が言いたいことは、単純に思想であり、宗教という範疇の問題なのだろう。端的に言えば、親鸞の造悪論をなにが支えるのかということだ。
 愚から悪まで押し詰めながら、吉本隆明は親鸞の造悪論の深化の一つの戯画として麻原を捕らえていたと理解してもいいだろう。だが、親鸞の造悪論自体は結局、失礼な言い方になるが吉本の今生を持ってして完成しないだろう。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、昨今の実証研究的には法然に帰属され、その思想は法然から親鸞へという流れで収められてしまった。とんでもない歪曲だぜとは思うが、この問題の歴史的側面についてもひとまず置く。
 矮小化するなら、「正義のために人を殺してよいか?」となる。戦後民主主義の嘘で演じるなら答えは単純であり、実際のリアルな政治世界ではその反対として単純な答えが導かれる。もちろん、矮小化が問題を混濁させているのだ。あるいは、「正義とは殺人を含むものなのか」と問うほうがいいのかもしれないが、その時、「正義」は循環的に無意味にされてしまう。
 このあたりでやめよう。およそブログの内容ではない。だが、恐らく、この問題は、死を実存の側から見るのではなく、実存をたらしめる根元の側から問いなおされる必要があるだろう。フロイトが晩年示唆した「死の衝動」にも関連するだろう。と、私も曖昧な言い方になる。曖昧に言わなければ、危険な言説になるからだ。その意味で、ある種の思想の深化は、麻原や吉本を頓馬な妄言者だとだけは言いづらい奇妙なアポリアに導くになる。

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