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2003.11.25

1970年11月25日三島由紀夫自殺

 11月25日といえば、三島由紀夫が自殺した日だ。そう言ってみて、自分でもふと戸惑うのだが、「自決」とも「割腹」とも言いづらい。確かに思想的に見れば、「自決」だろう。世の中、三島の死に「自決」を冠するのは思想的な意味合いを見ているからに違いない。あの日、佐藤栄作はたしか「気違い」と言っていた(ATOKは「気違い」を変換しないので登録した)。それからしばらくして、そのことを誰だったか、小林秀雄にご注進したやつがいたらしい。その気持ちはわからないでもない。小林ならなんというか聞きたかったのだろう。小林は簡素だが、三島に非礼なき返答したと記憶している。このことは、江藤淳もひかかっていたらしく、のちに対談で小林に問うている(「歴史について」S46.7「諸君」)。


小林 (前略)宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によくにた気象をもった人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしか起きえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないんですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃなんですか。老年といってあたらなければ、一種の病気でしょう。
小林 あなたは病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

 福田和也が師匠と仰ぐ江藤淳の馬鹿さ加減はここに極まれりといったところだ。江藤の若気の至りで済むものでもない。小林は怒りより呆れているのだ。なんだこの馬鹿と思うと同時にある種の滑稽な絶望も感じていたに違いない。江藤のいう「病気」とは気違いということだ。
 もちろん、江藤にしてみれば、なぜ三島の自殺が日本の歴史になってしまうのか理解も及ばなかったに違いない。
 もう少しこの先を引用しよう。

小林 いやァ、そんなことを言うけどな、それなら吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件したってそうです。

 小林秀雄はその死の意義をよく理解しながら、若い日の中原中也の死に向けるのと同様、それ以上三島由紀夫については語っていない(と思う)。かわりに、きちんと本居宣長について残しておいた。それが読み解ければ、三島由紀夫もわかる。気違いでもなんでもない。外国人にはわかるまい。あれが日本の歴史というものであり、思想家の徹底性と純粋性の帰結なのだ、と。
 日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある。もちろん、必ずそう帰結するわけではない。三島が大塩平八郎を読解しながら、どこかで「豊饒の海」のような神秘思想を得ていたのは間違いない。11月25日に死んだのも、小室直樹が解読したように、彼の生年である1月14日を49日とする再生への期待だった。こうしたことはもちろん、狂気に見える。気違いと言うにふさわしく見える。だが、小林は「日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ」と言った。私もそう思う。日本というものが深く私に問いかけてきている。
 私はこの夏46歳になった。うかつにも歳のことはよく忘れる。三島の自殺した日のことはよく覚えているというのに、自分の身体の老いを思えば、三島は50歳を越えられなかったと思い、どこか自分より遠く年上に思えている。太宰治についてもそうだ。彼は39歳で死んだのだ。私は彼らより生きている。
 自分の思考の未熟さも思うが、私の老いは着実に三島の文学や思想を若いものとして反映させている。そう、三島に未熟さすら見るようになった。生きて、老いていくということはどういうことなのだろうか。
 あの日、私は中学1年生だった。友人のOがわざわざ遊びに来た。玄関に出た私は「大変なことになっているんだ」と言った。Oにはわからなかっただろう。次の日の朝刊だったか、読売の一面に司馬遼太郎の解説のようなものが載っていた。思想というのは虚構において純粋になるといった戯けた内容だった。不思議なものだ、日本の歴史の本質も理解しえない大衆作家である司馬遼太郎がいつから憂国の賢人扱いされてしまったのだろう。
 司馬の見解のくだらなさに確実に目を留めた一人の人がいた。イザヤ・ベン・ダサンだ。その「日本教について」で彼は、三島が狂気ではありえないことをきちんと書いてみせた。イザヤ・ベン・ダサンは山本七平だというのが通説になったが、そうだろうか。山本はそれをきちんと共同執筆の名称として自身に著作権がないと言明している。ブルバギ将軍は存在しないと言ったらお笑いなのに、イザヤ・ベン・ダサン=山本七平はまかり通っている。とはいえ、山本にもイザヤ・ベン・ダサンとして書かれたその思いは共通だったはずだ。三島は狂気なのではない。山本もまたそれ以上、三島由紀夫について書いていない。書くにつらかったのではないか。山本が後年、執念をかけて追いつめた崎門は彼が戦地で見た日本教聖人をも生み出した。そう、三島もまた聖人であった。三島が自身を陽明学に位置づけたものを、山本は静かに崎門に押し返し、鎮魂したのだ。余談だが、山本は洪思翊をも鎮魂した。山本良樹は父七平に戦地に神はいたかと訊いた。七平はいたとだけ答えたという。間違いない、彼の魂のなかに神がいなければどうしてこのような奇跡の鎮魂が可能だっただろうか。
 1970年11月25日。あれから何年たっただろう。32年。自殺の衝動すらかかえていた中学生が三島の死の歳を越えるまで生きているとは思いもよらないことだ。
 村上春樹「羊を巡る冒険」はこの日のICUのD館の風景で始まる。同じ日、大森荘蔵の講義に遅刻し、教室に入るや三島事件のこと語った中島義道に大森は、わかりましたとのみ言って哲学の講義を続けた。あの日に生きていた人は、三島の思想とかかりなくではありながら、まさにあの日を生きていた。
 あの日にはあの日にしかない陰影と日本があった。いや、なにかが決定的に壊れていく大きなにぶい音のようなものが日本を覆っていた。

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# junsaito 『教えてください。三島の「死の意義」ってなんでしょうか。「日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある」とのことですが、私(1976年生まれ)にはわかったようなわからないような、です。』
# レス>junsaitoさん 『三島の「死の意義」についてですが、彼自身は、たしかこう言っていました「君たちに命以上の価値を見せてあげよう」と。死を越える価値を示すことにあったようです。また小林秀雄が言う、日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性についてですが、とりあえず、「この国を愛するということに私信無きが故に死を厭わない」としていいかと思います。このことは若いかたにはわからないと言ってしまいそうですが、そうではなく、わかるだろうと思います。簡略した言い方で誤解を招きかねないのですが、「お国のためです、死んでいただけますか」と誠意をもって問われとき、多くの青年が死地に赴きました。悩みもありましたし、理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。こういう話をすると、小熊英二に馬鹿にされそうんですが(冗談)、誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう。怖いことでもあるのですが、美しいことでもあります。「女」については、例えば私は男なので私の「女」を放置してはいけないわけですよ。これは冗談っぽいですが、人はかならずむき出しの男女の関係で生きるのですから、真摯な問題です。』
# junsaito 『解説ありがとうございます。死を超える価値ですか・・・ううむ。  「誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう」とありますが、そういう「日本」が自分には/私には全くないとは証明できないので、その言い方は少しずるいと思いました。「国のため」を、「自分の子供のため」、「難病で苦しんでいる少女のため」と置き換えると少しピクッとしますが。 それと、江藤淳の晩年の『南洲残影』などは、finalventさんの言う『日本』を感じさせますが、どうでしょうか。晩年の江藤淳は三島の評価を変えたと考えていいのでしょうか。』
# レス>junsaitoさん 『「少しずるい」というお答えはその感性の鋭さにびくっとしました。たしかにずるい回答でした。弁解させてください。junsaitoさんのその問いかけに逃げるレトリックをできるだけ弄さないとすれば、こう言うしかないかと考えた結果でした。もう一点、「国」ではなく「子孫」「愛する人」というようにまるでさだまさしの歌のように畳みかけるように「国」を言い換えていくことは可能です。ここで気を付けなくていけないのは、「国」があってそれから子孫なり愛する人、日本の山河、文化あるという発想は逆で、そうした我々が日常愛することを禁じ得ない究極に「国」があるのか?あるいは、そうした愛の究極に「国」を措定することは誤りではないか?junsaitoさんにはピントこないかもしれませんが、この問題は私が悩んだ問題なのでその文脈で考えると、「国」というものが先行的にあるのではないかと。そして、その「国」というのは、「死んでください」と語る人の「誠意」のなか、つまり連帯=愛に現れるだろうと思うのです。立場は逆に私が誰かに「お国のためです。死んでください」と言えるかどうか。小林秀雄が三島はわかりやすいとつい言ってしまったのは、そのあたりをシンプルに理解しているからだろうと思います。晩年の江藤については、私は実は悩んでいます。確かに彼の愛国と歴史への傾倒は素直にいうと傾聴すべき点はあります。ブログではくさしてしまいましたが、司馬についてもそういう点はあります。江藤については、あの死が自分に納得できないというところで、どうしても感性的に受け入れられない。そのことは表向き、彼の仕事とは別なのですが、私は評論家ではなく彼の読者なのでまだ考えつめたいと思っています。そこが自分で腑に落ちなければ、彼の言葉をうまく聞き取れないように思うのです。つまり、わからないという感じです。』
# noharra 『「理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。」そうでしょうか?日本人には徹底性と純粋性があって、911事件の犯人たちにはそれがそれほどないのでしょうか。それに「お国のためです、死んでいただけますか」と言われて中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。』
# レス>noharraさん 『端的に9.11事件の犯人たちの「誠」については知らないので、この点のコメントは控えます。日本軍の行動について「中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。」というときの「無意味に」という評価を私は共有しません。私は日本軍の行動を肯定しているわけではありません。ただ、兵卒というものは命令に従う存在です。人家を焼くこともあります。しかし、そのことは個々の虐殺を肯定するものではありません。基本的に軍規は虐殺を肯定しません。また、虐殺が可能な状況ですら、そこには個人の倫理や良心が問われうる余地が残ることがあります。むしろ、そいう余地を問わずして、兵卒の存在を頭から全否定するなら、結局は人間の倫理と良心の可能性を否定するということになるがゆえに、私はその考えは間違っていると思います。我々もまた国から一兵卒になれと命令される日が来るかもしれません(来るべきではありませんが)。そうなったとき(多くの国ではそれが現実なのですが)、我々はどのように自分の死の可能性を受容できるでしょうか。「お国のためという大義に誠意を見る」以外に、兵卒としての自分の死を了解できるでしょうか。私はそれしかないなと思うのです。また、もとはといえば、こうした議論を三島事件の文脈で語りたかったわけではありません。おそらくnoharraさんは私の発言のなかに危険な軍国主義の臭いを嗅ぎ取られ、それをその危険性ゆえに否定したいのだろうと思われます。』

追記(2004.11.27
年代に間違いがあったので修正しました。ケアレスだったので明示的には修正を加えていません。

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コメント

1971年は1970年の誤りですね。

投稿: 本筋とは外れますが | 2004.11.27 18:43

本筋とは外れますが、さん、ご指摘ありがとうございます。訂正を入れました。del-insタグは使っていませんが、修正についての追記を残しました。

投稿: finalvent | 2004.11.27 19:01

ねこ仏万年少年です。年がばれる話で申し訳ないんですが、私もミシマ自殺時は中学生でした。
ミシマ本は文庫は全部読んでいたんで、あの日の午後は学校の図書館に直行。『豊穣の海』全部借りて読み出したもののコリャワカランと投げ出しました。

個人的にはミシマの死も太宰の死もあくまで個人的なものだったと解釈しています。

ミシマは醜くなることへの恐怖から愛人森田と心中したんだと思う。
これもまたいかにも日本的な死に方ではあります。

個人の生もひとつの作品とすれば、優れた小説が幾通りもの解釈を許すように、一人の人間の死も(おまけにそれが自ら選択されたものであればなおさら)幾通りもの読み方が可能であると思い、自分の考えを書きました。

これはつけたしですが、一時フランス邦人の間で、ミシマの祖父は部落出身者であって、そのために彼は猛烈な劣等感に苦しんだ、、、という話が流れていました。自分は単に聞き流していましたが。
ミシマ伝説のひとつなんでしょうか。

(ここでは昔から三島由紀夫はひどくポピュラーです。三島>漱石です。この頃の若い人は村上両氏に流れてますけど。
で、自分にとっては三島でなくあくまで世界のミシマなんです、御理解の程)

投稿: ねこ仏少年 | 2004.11.28 02:50

どうもトラバいただきまして。こんなに濃密に書き込まれた記事からTBしていただくのは、何か恥ずかしいように思います。しかし三島由紀夫に関する世間的な関心というのはもはやあまりないのですかね。なんとなくですが、特に若年層の無関心のようなものを感じます。あるいは、どう接したらいいかわからないという雰囲気かな。もっとも、関心があり過ぎたら過ぎたでそれもまた心配になるわけですが。

投稿: BigBang | 2006.10.05 15:22

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